織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
田代でお市と真理姫へ話を通した以上、本家にも早めに伝えておくべきだった。
こういうことは、後から耳へ入る方が面倒になる。
しかも今回の話は、ただの閨の都合ではない。治部家の子の時期であり、武田から来た真理姫の扱いでもあり、下手をすれば家中の女房衆まで余計な口を挟みかねぬ話だ。
だから俺は、稲葉山で上総介兄上と勘十郎兄上へ、少し時間を頂きたいと願い出た。
幸い、二人ともすぐ応じてくれた。
政の場というほどではない、だが軽くもない部屋で向かい合う。
「して、治部」
上総介兄上が先に口を開いた。
「何だ。北伊勢か、浅井か」
「いえ。今日は家の話にございます」
その一言で、勘十郎兄上が少しだけ眉を上げた。
上総介兄上も、面白がるような目つきではなくなった。
「お市と真理姫のことか」
「はい」
そこまで分かれば早い。
「先に申します。お市とは、近く子作りに励みます」
勘十郎兄上が頷く。
「それはよかろう」
「はい。ただし真理姫については、来年以降にしたく」
そう言ったところで、二人の様子を見た。
だが、意外そうな顔はどちらにもなかった。
むしろ上総介兄上は、当たり前のように聞き返した。
「治部がそう決めた理由を申せ」
「年です」
俺はすぐ答えた。
「真理姫は数えで十二。まだ若すぎます。田代の暮らしにも慣れ始めたばかり。食も眠りも、身体つきも、もう一年は見たい」
勘十郎兄上が腕を組んだ。
「お市はよいのか」
「お市は数えで十五。しかも幼い頃から肉、鶏卵、煮沸した牛乳を入れ、日にも当て、身体も動かさせてきました。身丈もある。真理姫よりは遥かに安心です」
「なるほどな」
勘十郎兄上はそこであっさり頷いた。
上総介兄上も、反対する気配はない。
「それで、治部」
上総介兄上が言う。
「そなたは、それを真理姫のためだけに申しておるのか。それとも家のためでもあるのか」
「両方にございます」
俺は答えた。
「若すぎる身に子を宿させ、母子ともに危うくなれば、家にとっても損です。子ができた、臨月だ、だが死にました、では何の意味もない」
「うむ」
「お市とは近く励みます。ならば治部家の先が全く見えぬわけでもない。であれば真理姫だけ急かす理由はございません」
そこまで言うと、勘十郎兄上が先に口を開いた。
「それなら問題あるまい。お前がそこまで考えたうえで申すなら、俺から異論はない」
上総介兄上も頷いた。
「わしも同じだ」
思ったより早かった。
いや、早いというより、二人とも最初からこちらの考えを聞いて見定めようとしていたのだろう。
「もっとも」と上総介兄上が少し口元を歪めた。
「家中には、若ければ若いほどよいと思う馬鹿もおろうな」
「おりますな」
俺はため息を飲み込みながら言った。
「だが、あれは馬鹿の考えです」
勘十郎兄上が少し笑った。
「言い切るなあ」
「言い切ります。又左殿のところのまつ殿は、奇跡の産物に近いのです」
そこで、二人の目が少し揃った。
言い過ぎではある。だが、ここで曖昧にすると通じない。
「女は我が子に血肉を与えて産んでくれるんです」と俺は続けた。
「子供にさせることではありません。特に武家の姫などは普段から労働をしないので筋力も育たず、本来は十四才などでもまだ子供です」
部屋が少し静かになった。
上総介兄上は、その静けさの中で面白そうに俺を見た。
「治部」
「はい」
「そこまで申すなら、そなたのところだけの話にするな」
嫌な予感がした。
「……と、申しますと」
「指南書にして配れ」
やっぱり来た。
勘十郎兄上が横で吹き出しかけるのを堪えている。
「上総介兄上」
「何だ」
「これは、そこまで軽々しく広めて、すぐ皆が真似できる類のものでは」
「真似できぬ者はおろう。だが、知っておるのと知らぬのでは違う」
反論しづらいところを突いてくる。
「肉、卵、煮沸した牛乳、日を浴びること、身体を動かすこと、女の年と身体を見ること。そなたはもう実際に結果を出しておるのであろう」
「……はい」
健康改変の積み重ねが家中へ波及し、出産安定にも繋がっているのは、もう現に起きている。
「ならば配れ」と上総介兄上は言った。
「無論、読めぬ者にも分かるように工夫しろ。女房衆にも、乳母どもにも、年寄にも伝わるようにだ」
勘十郎兄上がそこで口を挟んだ。
「よいことではあるぞ、治部。お前のところだけが丈夫な子を得て、本家や一門が勝手に弱っていくのも困る」
「それは……まあ、そうですが」
「それに」と勘十郎兄上は続けた。
「お前が言えば、少なくとも『若いほどよい』とだけ思い込んでる手合いの口は、少しは塞げる」
上総介兄上が笑う。
「そなた、今まさにそういう顔をしておったぞ」
「しておりませぬ」
「しておる」
二人そろって言われると分が悪い。
俺は小さく息をついた。
「分かりました。まとめます」
「うむ」
「ただし、いきなり医書のようにしても読まれますまい。食のこと、身の回りのこと、産の前後に気をつけること、そういうふうに分けます」
「それでよい」
「あと、若すぎる懐妊についても、はっきり書きます」
「書け」
上総介兄上の返しは早かった。
「そこを濁すから、皆なんとなくで済ませる。治部が申したのであろう。十四ぐらいははまだ子供だと」
「申しました」
「ならば書け」
もう逃げられない。
勘十郎兄上は、そこで少しだけ優しい声音になった。
「だが、真理姫の件はこれでよい。お前の名で『来年以降』と通す。余計な口が出れば、俺の方でも抑える」
「ありがとうございます」
「お市とは近く励むのであろう」
「はい」
「なら、それで十分だ」
上総介兄上も頷いた。
「治部家の先が全く見えぬわけではない。ならば真理姫を急かす必要はない。武田の姫であろうと、いまは治部家の妻だ」
その言葉で、胸の内が少し軽くなった。
田代で真理姫へ言ったことを、本家の側も同じように受けている。ならば余計な圧はかなり減る。
「では、そのように」
俺が頭を下げると、上総介兄上は満足そうに頷いた。
「うむ。まずは指南書だな」
そこへ戻るのか。
勘十郎兄上が、今度はとうとう笑った。
「諦めろ、治部。言い出したのはお前だ」
「分かっております」
「まつ殿が奇跡の産物、はさすがにそのまま書くなよ」
「それぐらいは分かっております」
そう返すと、上総介兄上まで声を立てて笑った。
部屋を辞したあと、俺は廊を歩きながら頭を抱えたくなった。
真理姫は来年以降。
それ自体は、思った以上にすんなり通った。
だが、その代わりに家中向けの指南書という面倒が増えた。
もっとも、必要なことではある。
若い娘にばかり無理を押しつけ、死んだら死んだで運が悪いで済ませるようなやり方を、少しでも減らせるなら意味はある。
「仕方ないか」
小さく呟く。
治部家だけが分かっていても、周りが同じ失敗を繰り返せば、結局こちらへも返ってくる。
ならば、書くしかないのだろう。
まずは女房衆にも読める形にする。
年寄にも、乳母にも、若い嫁にも届くようにする。
医の理ばかり並べず、日々の暮らしの中で守れることから書く。
そこまで考えて、ふと苦笑が漏れた。
北伊勢だの浅井だのと並べて、今度はお産の手引きである。
戦国の武家当主というのは、つくづく忙しい。
♢
手引きの下書きを整えたあと、俺はそれを持って再び稲葉山へ上がった。
上総介兄上と勘十郎兄上に目を通していただく以上、書きぶりだけでなく、どう配るかまで詰めておいた方がよい。
左近将監、十兵衛、半兵衛、お市、真理姫の目を入れたことで、中身はだいぶ落ち着いた。あとは本家の裁可だ。
部屋へ入ると、上総介兄上はすでに機嫌がよさそうだった。
面倒を持ち込んだつもりなのに、こういう時の兄上は、むしろ面白がる。
「できたか、治部」
「はい。まずは下書きにございます」
「見せよ」
差し出すと、上総介兄上は最初の数枚を流し読みし、すぐに勘十郎兄上へ渡した。
二人とも、思ったより真面目に読んでいる。
「ふむ」と上総介兄上が言った。
「食い物、眠り、日向、女の身体の巡り、産の後の休ませ方。思ったより広いな」
「若い妻の懐妊だけを書いても意味がありませぬ。そこへ至るまでの暮らしが悪ければ、結局は母子ともに弱ります」
勘十郎兄上が紙を追いながら言う。
「この『この日ならば必ず子はできぬと決めつけるな』は、入れて正解だな」
「悪用する者が出ますから」
「出るだろうな」
勘十郎兄上は苦笑した。
「都合のよいところだけ覚える手合いは、どこの家にもおる」
上総介兄上も、そこで声を上げて笑った。
「おるな。しかも、そういう手合いほど、分かった顔をする」
「ゆえに書きました。女の巡りには幅がある。人によって違う。自分に都合よく決めつけるな、と」
「よい」
上総介兄上はあっさり頷いた。
「産後すぐは論外、も入れました」
「そこもよい」と勘十郎兄上が言う。
「産んだのだからもうよかろう、などと考える馬鹿は実際おる」
「見た目が戻っても、内は傷んでおります」
「それも分かりやすい」
そこまでは、ほぼ想定通りだった。
だが、次に上総介兄上が紙を机へ置いた時の顔は、少し違っていた。内容の良し悪しではなく、どう使うかを考える顔だ。
「治部」
「はい」
「このまま配っても、読む者は読むが、読まぬ者は読まぬ」
来たな、と思った。
「その恐れはございます」
「堅い文だけでは足りん」
「と、申しますと」
そこへ、勘十郎兄上が横から口を挟んだ。
「実例が欲しいな」
俺は少し嫌な顔をしたのだろう。
勘十郎兄上がすぐに笑う。
「そんな顔をするな。お前の言っておることはもっともだ。だが、家中には『なるほど、ではどこの家で効いたのだ』と聞きたがる者もおる」
上総介兄上が頷く。
「理だけでは腹へ落ちぬ者が多い。治部のところで皆が元気になった、と言っても、そなたはもともと変わり者と思われておるところもある」
「褒めておられますか、それは」
「半分はな」
ろくでもない。
だが、言いたいことは分かる。
理屈が正しくても、実例がないと読まれぬ。しかも家中向けに回すなら、誰もが知る名の方がよい。
そこへ、勘十郎兄上が面白そうに言った。
「木下藤吉郎はどうだ」
「……藤吉郎ですか」
「うむ。あやつなら喜んでしゃべるぞ。しかも、お前に相談して子を授かった、という話なら、得意顔でいくらでも語ろう」
俺は額を押さえたくなった。
たしかに、あいつなら言う。
しかも、こちらが頼む前に余計な一言まで付けかねない。
上総介兄上は、すでに乗っていた。
「よいではないか。『木下藤吉郎、治部様に相談して夫婦の暮らしを整え、子を得ました』とでも載せれば、読まぬ者も目を通す」
「兄上、それは手引きというより瓦版に近うございます」
「読ませるには、それでよい」
勘十郎兄上まで頷く。
「実際、悪くない。堅い文のあとに、短く実例を添える。『このようにして夫婦の暮らしを改め、子を授かった者もいる』とあれば、若い衆も年寄も印象に残る」
俺はしばらく黙った。
嫌な予感しかしない。
だが、効果はある。しかも、藤吉郎夫妻は実際にこちらの暮らし方の影響を受けている。嘘ではない。誇張は入るかもしれんが、あいつにそこを削れと言っても無駄だろう。
「……載せるにしても、あくまで短くです」
「よし」
上総介兄上が即答した。
もう決まった。
「藤吉郎に、何をどう訊くかはこちらで絞ります。勝手に喋らせると話が膨れます」
勘十郎兄上が吹き出した。
「それはそうだ」
「寧々殿の顔も立てねばなりませぬし、下品な話にしたくはございません」
「そこは治部に任せる」
「任されても困る」
「困ると言いながら、どうせきれいに整えるのであろう」
本当にこの兄は、こういう時だけ弟への信頼が雑だ。
上総介兄上は、そこで最後の紙を机へ戻し、きっぱり言った。
「では、こうせよ。手引きの後に、藤吉郎の短い話を添える」
「はい……」
「題は分かりやすくせよ」
「題、にございますか」
「そうだ」
兄上は、実に楽しそうだった。
「たとえば――『木下藤吉郎、治部様に相談して子を授かる』」
「そのまま過ぎませぬか」
「それでよい。読めば分かるものが一番強い」
勘十郎兄上が追い打ちをかける。
「それに最後へ、兄上の一言を添えれば締まる」
「……何と」
上総介兄上は、少しも迷わなかった。
「『織田上総介信長――みなこれを守るように』だ」
俺はとうとう顔を覆いたくなった。
やっていることは、もはや家中通達というより宣伝に近い。
だが、上総介兄上の名で結ぶとなれば、読む方の姿勢は確かに変わる。
しかもこの人は、こういう時の勘だけは恐ろしく当たる。
「治部」
「はい」
「嫌そうな顔をするな」
「嫌ではございませぬ。ただ、だいぶ思っていた形と違うだけにございます」
「よい方へ違えるなら、それでよい」
上総介兄上は笑った。
「役に立つものは、役に立つ形で広める。そなたが中身を作った。わしが読ませる形にする。それだけのことだ」
そこまで言われると、返しづらい。
勘十郎兄上も、今度は真面目な声で言った。
「治部。これはよい。お前の書いたことは、若い妻やその家だけを守る話ではない。家中全体の損を減らす話だ。ならば、広く読ませてこそ意味がある」
そこまで言われれば、頷くしかなかった。
「……承知しました。藤吉郎の件は、短く整えます」
「うむ」
「ただし、『治部様にご相談して子を授かりました』ぐらいで止めます。それ以上は削ります」
「そのくらいは許す」
「十分過ぎるほどでございます」
上総介兄上が笑い、勘十郎兄上もつられて笑った。
結局、手引きはただの手引きではなくなった。
女の身体と産の話を書き、その後ろへ藤吉郎の短い実例を付け、最後に上総介兄上の言葉で締める。
だが、たぶんその方が読まれるのだろう。
理を書くだけでは届かぬ者がいる。
実例があって、当主の言葉があって、ようやく目を通す者もいる。
そういうものだと割り切るしかない。
「では、清書に回します」
俺がそう言うと、上総介兄上は最後に、いかにも楽しそうな顔で言った。
「うむ。皆これを守るように、だ」
その一言を聞きながら、俺は内心でひとつだけ決めた。
藤吉郎には、絶対に好き放題しゃべらせない。
あいつの口を放てば、手引きより本人の話の方が長くなるに決まっている。
♢
上総介兄上に「実例を付けろ」と言われた以上、やるしかなかった。
手引きだけを配っても、読む者は読むが、読まぬ者は読まぬ。そこへ、木下藤吉郎のような分かりやすい実例を添えれば、少なくとも紙を開く理由にはなる。理屈としては分かる。分かるのだが、相手が藤吉郎なのが面倒だった。
「あやつは絶対に喋りすぎる」
そう思いながら呼びつけたのだが、案の定だった。
「治部様!」
部屋へ入るなり、藤吉郎はやたらと顔を輝かせていた。嫌な予感しかしない。
「お呼びとあらば即参上、木下藤吉郎にございます! いやはや、ついに拙者と寧々の睦まじき――」
「そこまででいい」
座る前から止める羽目になった。
藤吉郎はぴたりと口を閉じたが、目だけはまるで閉じていない。まだいくらでも喋れる顔だ。
「よいか、藤吉郎。今日は取材だ」
「しゅざい」
「家中へ配る手引きの後ろに、お前の話を短く載せる」
「おお!」
嫌な方向に当たりが強くなった。
「治部様にご相談して子を授かりました、の件でございますな!」
「だから、そこまででいいと言っている」
藤吉郎は感極まったように何度も頷いた。
「まこと、まことに! 拙者、これまでの無知蒙昧を恥じ入りましてございます! 治部様に、食う物を改めよ、寝る時は寝よ、女房をこき使いすぎるな、腹を冷やすな、日に当たれ、などなど、夫婦の暮らしの基本をみっちりと」
「みっちり、も要らん」
「要りませぬか」
「要らん」
俺は机の紙へ筆を置きながら、短く息をついた。
「載せたいのは三つだ。食い物を改めたこと。休み方を改めたこと。寧々殿に無理をさせすぎなかったこと。そこだけだ」
「なるほど!」
なるほど、ではない。最初からその形に寄せろ。
「いいか、藤吉郎。読むのはお前だけではない。年寄も読む。若い衆も読む。女房衆も見る」
「ははあ」
「だから、夫婦の話を面白おかしくするな。これは見世物ではなく、家中へ通す文だ」
そこまで言って、ようやく藤吉郎の顔から少しだけふざけが抜けた。
「承知いたしました」
「では改めて聞く。お前、何を変えた」
藤吉郎は今度こそ真面目に考え、それから答えた。
「まず、飯にございます」
「うむ」
「治部様に言われまして、肉も卵も、食える時にはきちんと食うようになりました。寧々にも、腹が減っておるのに遠慮して控えるな、と申しました」
それなら使える。
「次」
「夜更かしを減らしました。拙者、ついちまちまと考えごとをして眠らぬことがございましたが、それでは身体が弱ると」
「それも入れる」
「あと、寧々が月のものや、身体の重い時に無理をしておる時は、働きすぎるなと申しました」
そこは少し意外だった。
「言えたのか、お前」
藤吉郎は、そこで少しだけ胸を張った。
「最初は叱られました」
「だろうな」
「ですが、治部様から『女房の顔色も見られぬ男では話にならぬ』と申されまして」
そんな言い方をした覚えは薄いが、趣旨は間違っていない。
「で、どうなった」
「寧々も最初は『あんたが言うと胡散臭い』と申しましたが」
「寧々殿は強いな」
「まことに」
藤吉郎は深く頷いた。そこは即答だった。
「されど、食う物を改め、無理を減らし、休む時は休むようにいたしましたところ、だんだん身体の具合もよくなりまして」
「うむ」
「そのうえで、拙者も焦って押すのでなく、女房の様子を見て過ごすようにいたしました」
俺はそこで、初めて少しだけ感心した。
藤吉郎は口が回る。だが、口が回るだけではない。こういう話でも、相手に届く形へ少しずつ学んでいる。
「そこだな」
「はい?」
「今のところが要る。焦って押さず、寧々の様子を見て過ごすようにした、だ」
藤吉郎はぱっと顔を明るくした。
「では、そこへ『治部様の御指南により』を」
「付けすぎだ」
「ええー」
ええー、ではない。
「お前はどこまで行ってもお前だな」
「恐れ入ります!」
恐れ入る気があるなら少し黙れ。
俺は紙へ書きつけながら言った。
「こうだ。『木下藤吉郎、治部様に相談し、食事と休み方を改め、夫婦ともに無理を減らしたところ、子を授かった』」
藤吉郎が目を見開く。
「おお……」
「どうだ」
「素晴らしゅうございます! 拙者の申したいことが、ちゃんと拙者より上手くまとまっております!」
「当たり前だ」
「ではそこへ、『女房の顔色を見て』も」
「それは入れる」
「入れてくださるのですか!」
「大事だからな」
藤吉郎はもう、今にも拝みそうな顔をしていた。
「治部様……!」
「だがそれ以上は削る」
「なぜでございましょう!」
「長いからだ」
「まことにごもっとも!」
勢いよく引き下がるのも腹立たしい。
「あと、お前の話だけでは弱い」と俺は言った。
「最後は上総介兄上の言葉で締める」
藤吉郎が身を乗り出す。
「何と」
「『織田上総介信長、みなこれを守るように』だ」
藤吉郎は一瞬、ぽかんとしてから、両手を打った。
「強い!」
「強い、ではない」
「いや、強いにございますよ、治部様! 拙者の話があり、最後に上総介様のお言葉があれば、若い衆も年寄も、読まぬわけにはまいりませぬ!」
それはそうだ。悔しいが、その通りだ。
「だからその形にする」
「では、拙者は何を申せば」
「今まとめた通りだ。食い物を改めた。休み方を改めた。女房に無理をさせすぎぬようにした。焦って押さず、様子を見た。そこまでだ」
「承知いたしました!」
藤吉郎は勢いよく頷いたが、そこで少しだけ真顔になった。
「……治部様」
「何だ」
「冗談抜きで、拙者は救われました」
その一言だけは、軽くなかった。
「寧々が元気になり、家の中の空気も変わりました。子を得られたことももちろん嬉しゅうございますが、それだけではなく、夫婦で暮らすことそのものが、前よりずっと楽になりました」
俺は、筆を置いて藤吉郎を見た。
ああ、そうだろうなと思った。
子ができるかどうかだけの話ではない。食い物と眠りと休み方を変えれば、家の中の空気そのものが変わる。そこまで含めて、実例として使える。
「なら、その一言も入れるか」
「よろしいので?」
「ただし、短くだ」
藤吉郎は嬉しそうに頷いた。
「『夫婦の暮らしが前より楽になりました』ぐらいなら、角も立つまい」
「まこと、その通りにございます!」
俺は最後の一文を書き足した。
これでよいだろう。
食と休みと無理のさせ方を変えた。焦らなかった。子を得た。夫婦の暮らしもよくなった。
そこへ上総介兄上の一言が乗る。読ませる形としては、十分すぎる。
「よし、これで持っていく」
「拙者の名、載りますか」
「載る」
「木下藤吉郎、と」
「載る」
「寧々も見ますか」
「見せる」
「叱られますかね」
「たぶん少しはな」
藤吉郎は、そこでなぜか嬉しそうに笑った。
「それなら安心にございます」
何が安心なのかは分からんが、もう聞かないことにした。
「よいか、藤吉郎。余計なことは足すな」
「承知!」
「盛るな」
「承知!」
「その場で思いついて喋るな」
「…………善処いたします!」
「駄目だな」
俺が即座にそう言うと、藤吉郎はとうとう声を立てて笑った。
まあいい。
喋らせすぎず、文はこちらで握っておけば何とかなる。
実例は整った。
あとはこれを本家へ戻し、上総介兄上の一言を添えて家中へ回すだけだ。
たぶん、あの固い手引きだけよりは、よほど読まれる。
そう思うと、藤吉郎を使うのも悪くはないのかもしれなかった。
♢
手引きが家中へ回り始めたと聞いた時、俺は半分だけ安心し、半分は面倒が増えるなと思った。
内容そのものには自信がある。
だが、良いものを作れば、そのまま良い形で伝わるとは限らない。読む者によって引っかかるところは違うし、都合の良いところだけ拾う者も必ずいる。
もっとも、今回はその「とりあえず紙を開かせる」仕掛けまで付いていた。
――木下藤吉郎、治部様に相談し、食事と休み方を改め、夫婦ともに無理を減らしたところ、子を授かった。夫婦の暮らしも前より楽になった。
その短い実例の下へ、最後に、
――織田上総介信長。みなこれを守るように。
まで載っている。
読まぬ方が難しい。
最初に反応が返ってきたのは、案の定、若い衆の方だった。
「治部様、若い者どもが、まず藤吉郎殿のところを読んでおりました」
そう報せてきたのは左近将監だった。
口元が少し笑っている。たぶん、最初の騒ぎを見てきたのだろう。
「だろうな」
「『やはり木下殿はこういう話にも抜かりがない』だの、『いや、そこではないだろう』だの、いろいろ言っておりました」
「そこは想像がつく」
「ただ、その後に上総介様のお言葉が出てきた途端、急に皆、声を潜めたとか」
俺は小さく息をついた。
「それも想像がつく」
結局のところ、あの一文は強い。
藤吉郎の実例で手を止めさせ、上総介兄上の言葉で読み流しを許さない。上手いやり方ではあった。
「女房衆の方はどうだ」
「そちらは、むしろ静かに読まれております」
「静かに、か」
「はい。『月のものの前後に無理をさせるな』『産の後は見た目が戻っても内は傷んでいる』、あの辺りで、年嵩の者が若いのへ説明しておりました」
それを聞いて、ようやく少し肩の力が抜けた。
笑い話で終わらぬなら、それでいい。
誰か一人でも「そういうものなのか」と思い直し、誰か一人でも若い嫁を早々に追い立てるのをやめるなら、書いた甲斐はある。
「お市は何か言っていたか」
「はい」と左近将監は頷いた。
「『女の側から読んでも、恥をかかされる文ではないのがよい』と」
「それはありがたいな」
「真理姫様も、『難しい話ではなく、今日どう過ごせばよいかが分かる』と仰っていたそうです」
そこまで届いたなら十分だろう。
あれは医書ではない。日々の暮らしの中で、何を気をつけるかの手引きだ。読んだ者が、その日の飯、その夜の休み方、その月の体調の見方へ落とせなければ意味がない。
だが、面白いのはその次だった。
十兵衛が後から持ってきた話では、年寄どもの反応も割れていたという。
「素直に感心する者と、最初は渋い顔をする者と、半々ほどにございました」
「渋い顔をする方は、どこだ」
「『昔はそんなことを言わずとも産んだ』のあたりでございます」
「だろうな」
「ただ」
十兵衛はそこで、一枚の紙を俺へ差し出した。手引きの写しだ。何ヶ所か折り目がついている。
「その者らも、『産後まもなく床入りを迫るのは愚か』の一段で黙ったそうにございます」
「ほう」
「乳母や年寄女房どもが、そこを読んで頷いたとか。実際、産後に無理をして母体を悪くした例は、皆、何人も見ておりますゆえ」
それは大きかった。
古い考えを持つ者でも、目の前で何度も見てきたことまでは否定しきれない。
産の後に女が弱ることも、戻ったように見えて戻りきっていないことも、本当は知っている。知っていながら、「女とはそういうものだ」で押し切ってきただけだ。
そこへ、「それをさせるのは愚かだ」と文字で出される。しかも上総介兄上の名で守れとある。なら、少なくとも黙殺はしにくい。
半兵衛からの話は、さらに現実的だった。
「若い衆より、実は中年どもに効いておりますな」
「どの辺だ」
「『この日ならば必ず子はできぬと決めつけるな』でございます」
俺は思わず顔をしかめた。
「ああ、そこか」
「はい。女の巡りに幅があることを知らず、妙な言い伝えを都合よく使っていた者は、あの一段でだいぶ居心地が悪うございましょう」
「悪くなってくれた方がいい」
半兵衛は薄く笑った。
「まことに」
「何だ」
「いえ。治部様があの一段を外さず、左近将監殿の進言も容れたのは正解だった、という話にございます」
それには同意するしかない。
人は、役に立つ知識だけをきれいに使うとは限らない。
都合の良いところだけ抜いて、自分の欲を正当化する者もいる。だからこそ、先にその逃げ道を塞いでおく必要があった。
左近将監が持ってきた反応は、さらに生々しかった。
「国人衆の奥向きへも、いずれ似たものが回りましょうな」
「もうそこまで見ているのか」
「あの手の書付は、家中だけで止まりませぬ。面白く、しかも役に立つとなれば、写してでも広がります」
「藤吉郎のところが効いたか」
左近将監は苦笑した。
「効きましたな。あれがなければ、『また治部殿の理屈か』で終わった者もおりましょう」
「上総介兄上の言葉もある」
「はい。あれで逃げ道がなくなりました」
俺は机へ肘をついて、しばらく考えた。
全部が一度で変わるとは思っていない。
昨日まで若い娘へ無理をさせていた者が、今日から急に聖人になるわけでもない。
それでも、これで少なくとも「知らなかった」は言いにくくなる。
女の身体には波がある。
若すぎる懐妊は危うい。
産後まもなくは論外だ。
都合のよい迷信へ逃げるな。
無理をさせるのは男として恥だ。
そこまで文字になって家中へ回った。
なら、次に無茶をやる者は、無知ではなく、分かったうえで踏みにじる者だ。こちらも対処しやすい。
「治部様」
左近将監が少しだけ声を和らげた。
「何だ」
「若い女房衆の中には、あの書付を見て泣いた者もおるそうです」
俺は顔を上げた。
「泣いた?」
「はい。『休めと書いてある』『痛い時は無理をするなと書いてある』と、その辺りで」
言葉がすぐには出なかった。
書いた時は、そこまで考えていたわけではない。
いや、考えてはいたが、実際にそこへ引っかかる者がいると聞くと、少し話は違って見える。
お市が、夜にその話を聞いて静かに言った。
「当たり前のことほど、言葉にされぬのかもしれませんね」
「そうかもな」
「食べよ、休め、無理をするな。女には、それを言ってもらうだけでも違うことがございます」
真理姫も、小さく頷いた。
「私も、あの書付を最初に見た時、少し驚きました。子を得るための話なのに、先に『壊すな』と書いてありましたから」
俺は苦笑した。
「そっちの方が先だろう」
「はい。ですが、そうは書かれぬことも多うございます」
それを聞くと、やはり書いてよかったのだろうと思う。
勝つための兵、家を繋ぐ子、そういう大きな話はいくらでもするくせに、その前にある身体のことは案外ぞんざいにされる。
ならば、誰かが書くしかない。たまたまそれが俺だっただけだ。
もっとも、藤吉郎は藤吉郎で、別の意味で波を起こしていたらしい。
「木下殿、若い衆に囲まれておりましたよ」
と左近将監が面白そうに言った。
「何と」
「『本当に治部様に相談したんですか』『何を食ったんですか』『寧々殿に怒られませんでしたか』と」
「……で、あいつは」
「たいへん得意げに、『まず飯でござる! あとは女房の顔色でござる!』と」
俺は思わず顔を覆いたくなった。
「まあ、そこまでなら許すか」
「治部様がきっちり絞った甲斐がございましたな」
左近将監まで笑っている。
面倒だが、確かに藤吉郎を使ったのは正解だったのだろう。
紙は読まれた。
中身も、少なくとも少しは届いた。
それなら、この一手は悪くなかった。
俺は机の上の控えを見下ろしながら、小さく息をついた。
これで終わりではない。
読まれた後、誰が守るか。誰がまだ無視するか。そこから先も見ていかねばならない。
だが少なくとも、家中に一本の線は引けた。
若い娘へ無理をさせるな。
女の身体を都合よく使うな。
産の後は休ませろ。
子を望むなら、まず母になる身体を守れ。
そこまでが、ようやく織田家の言葉になったのだ。
♢
寧々がその手引きを読んだのは、夕餉の片付けが済んで、ようやく一息ついた後だった。
木下家の灯は、織田家中の中では決して派手な方ではない。
だが、だからこそ、日々の飯と寝床と、夫婦の息の合い方がそのまま家の空気になる。
寧々は灯の近くへ紙を寄せ、最初は少し訝しげに眉を寄せていた。
治部大輔が書いた、女の身体と産についての手引き。しかも上総介信長の一言まで付いている。そんなものが本当に回ってくるとは、思っていなかったのだろう。
向かいで藤吉郎が、落ち着かぬ様子でそわそわしている。
「……何なのよ、その顔は」
寧々が紙から目を上げずに言った。
「いや、別に何もない」
「別に何もって顔じゃないでしょ。あんた、また何か余計なこと喋ったんじゃないでしょうね」
藤吉郎がぶんぶんと首を振る。
「余計なことではない! ちゃんと短く、ちゃんと品よく――」
そこで寧々が顔を上げた。
「あんた、喋ったのね」
「……少しだけじゃ」
「少し、で済む顔じゃないのよ」
藤吉郎は、そこでようやく肩をすぼめた。
だが、叱られているのに、どこか嬉しそうでもある。
寧々はため息をつきながら、また紙へ目を落とした。
「でもまあ……思ったより、ちゃんとしてるわね」
「じゃろ?」
「まだ褒めてない」
すぐに叩き落とされて、藤吉郎はしょんぼりする。
その様子に、寧々の口元が少しだけ緩んだ。
紙には、難しいことはあまり書いていない。
何を食べるとよいか。どう休むか。女の月のものには人ごとの差があること。痛む時に無理をさせるなということ。産の後は見た目が戻ってもすぐではないこと。
そして、最後の方にこうある。
――木下藤吉郎、治部様に相談し、食事と休み方を改め、夫婦ともに無理を減らしたところ、子を授かった。夫婦の暮らしも前より楽になった。
寧々はそこをもう一度読んで、紙を少し膝へ下ろした。
「……あんた、ほんとにこんなこと言ったの」
「うむ」
「そこ、そんな素直に返すところ?」
藤吉郎は胸を張る。
「だって本当のことじゃて」
寧々は、それにはすぐ返さなかった。
嘘ではない。
最初は半信半疑だった。肉を食え、卵を食え、寝ろ、日に当たれ、冷やすな、顔色を見ろ。そんなことで何が変わるのかと、正直思わなかったわけではない。
だが、実際に変わった。
飯の質が変わり、身体が少し楽になった。
藤吉郎も、前よりはちゃんと寝るようになった。
何より、月のものの時に無理をするのが当たり前ではなくなった。
「あんた」と寧々が静かに言う。
「何だ」
「前は、私がしんどそうにしてても、口では気をつけろって言うくせに、結局そわそわして落ち着かなかったじゃない」
藤吉郎が気まずそうに目を逸らす。
「それは……まあ……」
「でも最近は、ほんとに休めって言うようになったわね」
「治部様が、女房の顔色も見られない男じゃ話にならないって」
「また治部様、治部様だ」
呆れたように言いながらも、寧々の声はきつくなかった。
藤吉郎はそこで、少しだけ真面目な顔になる。
「でも、寧々」
「何よ」
「俺、あれを読んで、改めて思ったんじゃ」
「何を」
「前の俺は、だいぶ浅かったな、と」
寧々は瞬きをした。
藤吉郎は、調子の良いことをいくらでも言う。
だが、たまにこうして、すとんと真ん中へ落ちることがある。
「子が欲しい、家を大きくしたい、そういうことばかり先に見てた。けど、治部様の言う通り、女房が弱ってたら何にもならない」
寧々は、紙の上へ指を置いた。
「……この、『無理をさせるのは男として恥である』ってところ」
「うん」
「ここ、あんたに効いたんでしょ」
藤吉郎は一瞬黙って、それからこくりと頷いた。
「効いた」
寧々は、そこでようやく声を立てずに笑った。
「でしょうね」
「だって、恥は嫌だしの」
「そこは正直なのね」
「正直だ」
「でも、嫌だからで始まっても、ちゃんと変わったならいいわ」
その言い方に、藤吉郎は少し目を丸くした。
「寧々」
「何よ」
「いま、少し褒めてくれた?」
「さあ」
「褒めてくれたな!」
「うるさい」
ぽかりと小さく額を叩かれて、藤吉郎は嬉しそうに笑った。
寧々は、紙をたたんで机へ置いた。
「でも、これ」
「うん」
「若い子には助かるでしょうね」
「そう思う」
「だって、こういうことって、女同士でも案外きちんとは言葉にしないもの。痛いとか、重いとか、休みたいとか、言っていいんだって書いてあるだけでも違うわ」
藤吉郎は真面目に頷いた。
「たしかにのう」
「それに、産んだ後すぐは駄目だって、ああして文字になってるのも大きいわね」
「そこも治部様が」
「だから全部そこへ戻さないの」
寧々はそう言ってから、少しだけ目を細めた。
「でも、まあ……治部様には、ほんとに礼を言わなきゃね」
「うん」
「はい、じゃないのよ。あんたも一緒に言うの」
「言うよ!」
そこは妙に頼もしい。
寧々は手引きの最後をもう一度見た。
そこには、信長の一文がある。
――織田上総介信長。みなこれを守るように。
「これも強いわね」
「殿のお言葉じゃからな」
「うん。これがあると、男どもも読み飛ばしにくい」
「若い衆もざわついてた」
「何て?」
藤吉郎は、そこでちょっと得意げな顔になった。
「『やはり木下殿は違う』と」
「絶対、そこだけじゃないでしょ」
「『飯か』『寝るのか』『女房の顔色か』とも」
寧々はとうとう吹き出した。
「馬鹿ねえ」
「ほんにの」
「でも、その馬鹿どもに少しでも届くなら、いいのかもね」
藤吉郎は、しみじみと頷いた。
「うむ。届けばいい」
少し間があいた。
灯の火が揺れる。
外は静かで、もう人の声も遠い。
寧々は、その静けさの中でぽつりと言った。
「ねえ、藤吉郎」
「何じゃ」
「私、前より楽よ」
藤吉郎の目が、やわらかく開く。
「飯のことも、休むことも、前はどこか後ろめたかったの。そんなことを言っていたら家が立たない、みたいな気がして」
「うん……」
「でも、こうして『休め』『無理をするな』って書いてあって、しかも上総介様まで守れって言ってると、なんだか、私が怠けてるわけじゃないんだって思える」
藤吉郎は、すぐには返さなかった。
そして、静かに言った。
「怠けじゃない」
「うん」
「俺も、ようやくそれが分かってきた」
寧々は、そこでようやく、ほんとうに安堵したように笑った。
「なら、よかった」
藤吉郎も頷く。
「よかった」
また少し沈黙が落ちたが、今度のそれは重くなかった。
やがて寧々が、何でもないように言った。
「ところで」
「何だ」
「あんた、ほんとにあの文章だけしか喋ってないでしょうね」
藤吉郎の肩がびくりと揺れる。
「……善処はした」
「やっぱり余計なこと喋ったのね」
「いや、その、治部様が大変にありがたく――」
「明日、治部様に会ったら私が謝るわ」
「勘弁してくれ!」
その慌てぶりに、寧々はまた笑った。
夜は更けていく。
だが、その夜の木下家には、以前より少しだけやわらかい空気が流れていた。
子を授かったことは大きい。
けれど、それだけではない。
夫婦でどう暮らすか、その形そのものが少しずつ整ってきた。寧々には、それがちゃんと分かっていた。
そして藤吉郎にも、たぶん分かってきている。
それなら、この手引きは、紙の上だけのものでは終わらないのかもしれなかった。