織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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027瀬戸の残り火

真理姫の輿入れと田代の城中がひとまず落ち着きを見せ始めた頃、俺は前から腹の内で温めていた話を、上総介兄上へ出すことにした。

 

椎茸だけで終わる気は、最初からなかった。

 

食い物は大事だ。

腹へ入るものは、人の暮らしに毎日触れる。

だから金にもなるし、根づけば強い。

 

だが、毎日人の手へ触れるものは、何も食い物だけではない。

器もまたそうだ。

 

しかも尾張には、瀬戸がある。

 

土があり、火があり、職人がいる。

そこへ少しだけ違う目を入れれば、ただの焼き物ではなく、京や堺へ売り込める“趣向の品”に変えられる。

 

そう思っていた。

 

上総介兄上へ願い出たのは、小田井でのことだった。

ただし今回は、俺一人では行かなかった。

 

「何だ、治部」

 

上総介兄上が、俺の後ろを見て口元を動かす。

 

「また妙な顔ぶれを連れてきたな」

 

俺の後ろにいるのは、慶次郎だった。

 

当人は、悪びれるどころか妙に落ち着いている。

だが、こういう“何を面白いと思うか”を言葉にする時のこいつは、槍を持つ時と別の意味で強い。

 

「慶次郎を?」

 

勘十郎兄上も、少しだけ面白がる目になる。

 

「はい」

「何のために」

「話が早いからです」

 

上総介兄上が喉で笑った。

 

「お前一人では遅いのか」

「某が理で申すより、この男に一言言わせた方が、たぶん兄上には早いかと」

「言うようになったな」

「兄上相手ゆえにございます」

 

そこまで置いて、俺は本題に入った。

 

「瀬戸に、登り窯を築きたく」

 

上総介兄上の目が、少しだけ細くなる。

 

「ほう」

「ただの器焼きではございませぬ」

「うむ」

「京や堺へ売れる茶器を作ります」

 

勘十郎兄上が、そこで静かに口を開いた。

 

「茶器、か」

「はい」

「椎茸の次は器か」

「食い物の次は器です」

 

上総介兄上は、もう少し面白がっている顔だった。

 

「お前は本当に、食うことと口へ入るもののまわりを離れぬな」

「口へ入るものと、手へ触れるものは、人が毎日使います」

「うむ」

「ゆえに、一度流行れば金も名も毎日入る」

 

そこまでは理だ。

問題は、その先だった。

 

「だが」と兄上。

「瀬戸焼は今さら珍しかろう」

 

「普通に焼けば珍しくはありませぬ」

「では?」

 

そこで俺は、少しだけ身体を引いて慶次郎へ視線をやった。

 

「慶次郎」

「はい」

「申せ」

 

上総介兄上が、初めてまっすぐ慶次郎を見る。

勘十郎兄上もだ。

 

慶次郎は、ひどく自然な調子で口を開いた。

 

「上総介様」

「何だ」

「上手い茶碗など、世の中にいくらでもあります」

 

兄上の目が少しだけ動く。

 

「ほう」

「だが、手に取った時、離したくなくなる茶碗は少ない」

 

上総介兄上の口元が、そこでほんの少しだけ上がる。

 

「続けよ」

「土がよい、焼きがよい、釉がよい。それだけでは足りません」

「何が足りぬ」

「座です」

 

勘十郎兄上が、少しだけ目を細めた。

 

「座」

「その茶碗を、誰が持つか」

 

慶次郎は、指先で空中に形をなぞるように言う。

 

「坊主が持つのか。商人が持つのか。武家が持つのか。京で使うのか、堺で使うのか」

「うむ」

「渋いだけでも足りない。派手なだけでも足りない」

 

上総介兄上は、もう黙って聞いている。

だいぶ入っている。

 

「見た瞬間に“おっ”と思う」

「うむ」

「だが、飽きない」

「うむ」

「手に持つと軽すぎず、口をつけた時に邪魔をせず、置いた時の姿に気が残る」

 

勘十郎兄上が、そこで静かに言う。

 

「ずいぶん注文が多い」

 

慶次郎は平然としていた。

 

「売るなら、それくらいは要ります」

 

そこへ俺が足す。

 

「瀬戸の職人には技があります」

「うむ」

「だが、“何が京や堺で面白がられるか”は、職人の腕だけでは決まらぬ」

 

上総介兄上が、慶次郎を顎でしゃくる。

 

「で、それを見る目がこいつにある、と」

「はい」

 

慶次郎は少しだけ笑った。

 

「ないとは申しません」

「言うな」

「あるから連れてこられたのでしょう」

 

その言い草に、上総介兄上がとうとう声を立てて笑った。

 

「違いない」

 

勘十郎兄上まで、わずかに笑う。

 

俺は続ける。

 

「登り窯を築きます」

「なぜ登り窯だ」

「安定して焼きの幅を作るためです。量も質も取れる」

「ほう」

「そのうえで、瀬戸の職人に今までの“よい器”を焼かせるのではなく」

「うむ」

「京や堺の数寄者が、思わず手に取る器を焼かせる」

「……数寄者、か」

「はい」

「兄上」

「何だ」

「唐物ばかりがありがたがられるなら、こちらは土物で割って入ればよい」

 

その一言に、上総介兄上の目が変わった。

 

そこだ、と思った。

珍しい。

新しい。

しかも既存の価値へ喧嘩を売れる。

兄上はそういう話を嫌わない。

 

慶次郎も、そこへ乗る。

 

「名物だ何だと、皆似たようなものを追っている」

「うむ」

「なら、“尾張の土で、こんなものが出た”と言わせればよい」

「えらく簡単に言うな」

「簡単ではありません」

 

そこで、少しだけ真面目な顔になる。

 

「だからこそ、俺が見ます」

 

その言い方で十分だった。

 

ただの武辺ではない。

こいつは本当に、この手のものを“見る”気でいる。

そのことが、上総介兄上にも伝わったのだろう。

 

「慶次郎」

「はい」

 

兄上が、少しだけ低い声で問う。

 

「お前は、何を焼かせたい」

 

慶次郎は一拍だけ置いて答えた。

 

「綺麗すぎるものはいりません」

「ほう」

「だが、汚いだけのものも駄目です」

「うむ」

「手に取った時、“何だこれは”と思わせる」

「うむ」

「そのくせ、二度、三度と見ると、だんだん手放しにくくなる」

 

勘十郎兄上が、静かに息をついた。

 

「面白い」

「そうでしょう」

 

「しかも」と俺がさらに足す。

「それを京へ、堺へ売り込む」

 

「誰がだ」と上総介兄上。

 

「最初の見立ては慶次郎」

「うむ」

「流通と誼は久助を使います」

「なるほど」

「そこへ評が立てば、古田勘阿弥や、いずれ津田宗及らとも繋がれましょう」

 

その名に、勘十郎兄上の目が少しだけ鋭くなった。

 

「茶器を売るだけではない、と」

「はい」

「京と堺の情報筋に楔を打ちます」

 

そこまで言えば、もう十分だった。

 

器を焼く。

それ自体が目的ではない。

産業。

金。

流通。

京堺との情報線。

文化の場での顔。

全部がつながっている。

 

上総介兄上は、しばらく何も言わなかった。

 

その沈黙の間に、たぶんもう腹は決まっている。

兄上は、面白くない時ほどすぐ切る。

黙っている時は、だいたい面白がっている。

 

やがて、口を開いた。

 

「治部」

「は」

「また妙なことを考えたな」

「ありがたきお言葉」

「褒めておるのだ」

「分かっております」

「分かって言うな」

 

そこは少し笑いが落ちる。

 

兄上は、そのまま慶次郎を見る。

 

「慶次郎」

「はい」

「この窯場、お前が見ろ」

 

慶次郎の目が、少しだけ細くなる。

 

「よろしいので」

「お前が“つまらん”と思うものは京へ出すな」

「……ずいぶん重い」

「重くするためにお前へ渡す」

 

その返しに、慶次郎が口元を上げた。

 

「面白い役です」

「職人の技は職人のものだ。奪うな」

「承知しています」

「代わりに、“何が光るか”をお前が見ろ」

「最後の見立ては、俺が引き受けます」

 

兄上は今度は俺へ向き直る。

 

「登り窯、許す」

「はっ」

「だが、金を食うだけで終われば承知せぬ」

「承知しております」

「京で評を立てろ」

「は」

「堺へ流せ」

「は」

「そして、尾張の名にしろ」

 

そこまで言われると、胸の内が熱くなる。

 

「ありがたき幸せ」

 

勘十郎兄上が、そこで静かに締めた。

 

「では」

「うむ」

「瀬戸の職人衆、慶次郎、久助、半兵衛、助右衛門まで含め、治部家の事業として動かす形に致します」

「そのように」

 

上総介兄上が、最後にもう一度だけ笑う。

 

「椎茸の次は茶器か」

「はい」

「次は何だ」

 

そこは、俺も少しだけ笑った。

 

「食い物か、器か、金になるものにございます」

「お前らしい」

 

それで話は決まった。

 

登り窯を築く。

瀬戸の職人に茶器を焼かせる。

慶次郎が最後の見立てをする。

それを京と堺へ売り込む。

 

ただの思いつきではない。

治部家の色になる事業だ。

 

そういう形で、ようやく兄上の前でも立ったのだと思えた。

 

 

窯は、嘘をつかない。

 

どれほど口で立派なことを言っても、火へ入れれば土は割れ、釉は濁り、形は歪む。だからこそ、そこを抜けて出てきたものには価値がある。

 

瀬戸の職人どもに加え、京を通じて渡来人の家筋から窯の扱いに長けた者を呼び寄せた時、周りは少し首を傾げていた。そこまでして何を焼くのか、と。

だが、ただの茶碗では意味がない。登り窯を築き、火の回りを変え、釉の掛け方も変え、土の調合もいじる。そこまでやって初めて、今までの瀬戸では出ぬ顔が見える。

 

その日、窯出しに立ち会った慶次郎が、途中でぴたりと黙った。

 

「どうした」

 

俺がそう聞くと、慶次郎は返事をせず、一つの椀を手に取った。

 

まだ熱の名残がある。

だが、見た瞬間に分かった。いつもの黄や灰や黒とは違う。火の当たりと釉の流れが、胴の土と噛み合ったのだろう。口縁から胴へかけて、深く沈んだ赤が立っている。派手な紅ではない。だが、見た者の目を一度止める赤だった。

 

「これか」

 

慶次郎はようやく、低く言った。

 

「実にいい色ですな、治部殿」

「出たな」

「偶然で済ませるには惜しい」

 

俺は椀を受け取って光へ傾けた。

釉の溜まったところは暗く、薄いところは熱を残したように赤い。焼き上がった器の表で、火がまだ生きているように見える。

 

「茶席で使えば、皆一度は手を止める」と慶次郎が言った。

「しかも、下品じゃない。珍しがらせるだけの赤じゃなく、見立てる側が言葉を足したくなる赤だ」

 

「そうか」

「そうです」

 

慶次郎は、こういう時だけ妙に静かになる。

派手に褒め立てず、価値があると見たものだけを短く押す。それがあいつの良いところだ。

 

窯場の職人頭が、おそるおそる近寄ってきた。

 

「治部様……これは」

「最上だ」

 

俺は即座に答えた。

 

「上総介兄上へ回す」

 

職人頭の顔が強ばる。

誉れと重さが一緒に来たのだろう。信長へ献ずるとなれば、褒美の可能性もあるが、次からは同じかそれ以上を求められる。

 

「慌てるな」と俺は言った。

「毎回これを出せとは言わん。だが、何でこの顔になったかは洗うぞ」

 

そこで半兵衛が、後ろから静かに口を挟んだ。

 

「土、火、釉、窯の位置、薪の加減、掛けた順、その全てを記しておかねばなりませぬな」

「そのために呼んだ」

 

半兵衛はすでに手元の板へ控えを取らせている。

こういう時に、感心して見ているだけで終わらせないのが半兵衛だ。

 

一方で、窯場の隅には山のように“それ以外”が積まれていた。

釉が流れすぎたもの、色が鈍いもの、口縁が少し歪んだもの、火が入りすぎたもの。まったく使えぬ割れもあるが、全部が砕いて終わりというわけでもない。

 

そこへ左近将監がやってきて、山を一瞥してから言った。

 

「で、こっちはどうします」

「全部捨てるには惜しいな」

「でしょうね」

 

左近将監はしゃがみ込み、いくつかを手に取った。

 

「見た目は外したが、水は漏らぬ。茶でも酒でも使えはする。そういうのが結構ございます」

「売れるか」

「売り方次第です」

 

俺はそこでようやく、窯場の熱気とは別の方へ頭を切り替えた。

 

最上は信長へ献ずる。

だが、商いは最上だけでは回らない。むしろ“見本”として人の手へ渡る中ほどの器こそ、次の口を開く。

 

「津島へ回すか」と俺は言った。

 

左近将監がにやりとする。

 

「それがよろしいでしょう。津島の連中は、新しいものを見ればまず手に取る。しかも、良い意味でも悪い意味でも、黙ってはおりませぬ」

「商人同士で勝手に話が回る」

「はい。こちらから桑名や安濃津へ押し売るより、津島から『こんなものが出た』と流れた方が、向こうも身構えにくい」

 

左近将監なら伊勢筋の顔を読むが、左近将監は商いの顔を読む。

この手の話では、そちらの方が早い。

 

「安価に出す」

「どの程度まで」

「見本だ。儲けは後だ」

 

左近将監は頷いた。

 

「では、完全な失敗は弾く。実用に耐えるものだけ選り分けて、まずは津島の物見高いところへ。桑名や安濃津へは、津島商人同士の口から自然に乗せます」

 

慶次郎が、まだ赤椀から目を離さぬまま言った。

 

「その時、ただ安いだけの雑器に見せるなよ」

 

「分かってる」と左近将監は返した。

「『新しく焼けたものの見本』として流す。安いのは、広めるためだと分かるようにする」

 

「そこを間違えると、出来損ないを押し付けたように見える」

「だから、津島だ。あいつらなら、その辺の匂いをかぎ分ける」

 

俺は頷いた。

 

話はもう見えた。

信長へは、治部家が新たに掴んだ“赤”を献ずる。

商流には、失敗作のうち実用に足るものを、見本として安く流す。

最上品で権威を押さえ、中ほどで市場を揺らす。やり方としては悪くない。

 

半兵衛が控えを書き終えて顔を上げた。

 

「ただ、登り窯は手間が増えますぞ」

「分かってる」

「薪も食う。火の見も長い。職人の癖も出る。今までの窯より、人も銭も要ります」

「その代わり、今までの窯では出ぬものが出た」

 

半兵衛は、そこで小さく頷いた。

 

「それなら計算は立ちますな」

 

俺は赤椀をもう一度見た。

 

この一つで、いきなり京堺がこちらを向くわけではない。

桑名や安濃津の商人どもが、明日から織田へ靡くわけでもない。

だが、兵の前に品が入る。品の前に噂が走る。商いの地は、その順で揺れることがある。

 

「慶次郎」

「はい」

「お前、この色をどう呼ぶ」

 

慶次郎は少しだけ考えた。

 

「まだ名を決めるには早いでしょう。だが」

「だが?」

「人が見て、『あの赤いのはどこのだ』と聞くようになった時、その時に名を付ければよろしい」

「欲張りだな」

「治部殿ほどでは」

 

それには、少し笑うしかなかった。

 

「よし」と俺は言った。

「最上は稲葉山へ持つ。左近将監、見本を選べ。津島へ流す先も絞れ。半兵衛、窯と材料の再現条件をまとめろ。職人頭には次の焼きを急がせるな。同じことを繰り返せる形にするのが先だ」

 

三人とも短く応じた。

 

窯場の外では、夕方の光が少し赤かった。

その色が、さっきの椀の縁へ残った火とどこか似て見える。

 

兵を出す前に、物を出す。

名を通す前に、目を引く。

桑名も安濃津も、まずは商いの手触りでこちらを知ることになるだろう。

 

それでよかった。

伊勢へ入る道は、一つではない。

茶器一つで城が落ちるわけではないが、商人の舌と目が先に動けば、土地の空気は変わる。

 

その最初の赤が、今、俺の手の中にあった。

 

 

赤椀を持って稲葉山へ上がる道すがら、俺は布包みを二度確かめた。

 

落とすつもりはない。

ないが、こういう時は手元にあると分かっていても確かめたくなる。窯から出たばかりの時には、ただ「出た」と思った。だが、慶次郎が黙り込み、半兵衛が控えを取り始め、左近将監が商いの顔をし始めたあたりで、これはただの出来の良い茶碗では済まぬと腹へ落ちた。

 

最上の一つは、上総介兄上へ回す。

そこまでは最初から決めていた。

 

案内されて通された部屋は、評定の張り詰めた空気ではなかった。

だが、だからといって軽い場でもない。信長兄上は、こういう時の方がむしろよく見る。

 

「治部」

 

兄上は俺の手元を見て、すぐに笑った。

 

「今度は何だ。また食い物か」

「食い物なら、その方が早う食べていただけたのですが」

「なら違うな」

「はい。器にございます」

「ほう」

 

その一声で、兄上の興味はもうこちらへ寄った。

こういうところは本当に早い。

 

「瀬戸か」

「瀬戸にございます。正確には、瀬戸の職人に、京を通じて呼んだ者を合わせ、登り窯で試したものの最上です」

「見せよ」

 

俺は布包みをほどき、椀を差し出した。

 

兄上はすぐには言葉を出さず、まず手に取った。

軽さを見る。高台を指で撫でる。口縁から胴へ目を流す。

 

部屋の光の中で、その赤はさっき窯場で見た時より少し沈んで見えた。

だが、沈んだから弱いのではない。むしろ、光の当たり方で熱が内から滲むように変わる。その移ろいが、ただの派手さで終わらせない。

 

「……赤か」

 

兄上は低く言った。

 

「はい」

「いや、赤と言い切るには妙だな」

 

そこで、控えめに一歩下がっていた慶次郎が口を開いた。

 

「火の残り香が、器の肌へ染みたような赤にございます」

 

兄上の目が、少しだけ慶次郎へ向く。

 

「お前がそう言うか」

「ただ珍しい色、ではございませぬ。手に取った者が、もう一度見たくなる色です」

 

兄上は、それには答えず、もう一度椀へ目を戻した。

こういう時の沈黙は、悪くない。興味が切れた時は、もっと早く言葉が出る。

 

やがて兄上は、椀を少し傾けた。

 

「土と火が喧嘩せず、むしろ片方が片方を食ったように見える」

 

「ええ」と俺は答えた。

「まだ再現の率は高くありませぬ。ですが、出る時は出ます。だから、何がこの顔を作ったかは、今、半兵衛に控えを取らせております」

 

「よい」

 

兄上は短く言った。

 

「一つ出たなら、二つ目を狙える」

「そのために窯も職人も残します」

「それもよい」

 

兄上はそこで、ようやく口元を少し上げた。

 

「治部、お前はこういう時、だいたい面白いものを持ってくるな」

「役に立たぬものを、わざわざ兄上へ持っては参りませぬ」

「分かっておる」

 

その返しは軽かったが、目はまだ椀の上にあった。

 

しばらくして、兄上は不意に言った。

 

「これ、名はあるのか」

 

俺は首を振った。

 

「まだ。慶次郎とも、そこは決めておりませぬ」

「決めておらぬのか」

「人が見て、『あの赤いのはどこのだ』と聞くようになった時が頃合いかと」

 

そう答えると、兄上は小さく笑った。

 

「欲張りだな」

「慶次郎がそう申しました」

「なるほど、あいつらしい」

 

兄上は椀を手の中で回し、少しだけ考えた。

 

部屋は静かだった。

慶次郎も、俺も、余計な言葉は差し挟まない。こういう時は、名を付ける側の気分が最も大事だ。

 

やがて兄上は、赤い胴のあたりへ目を落としたまま言った。

 

「瀬戸の赤――では弱いな」

 

誰へともなく呟くような声音だった。

 

「火赤も、そのままだ」

 

もう一度、椀の縁へ指が触れる。

 

「夕焼けでもない。紅でもない。もっと、焼けた後に残る熱に近い」

 

そこで兄上は顔を上げた。

 

「治部」

「はい」

「これは“残火”と呼べ」

 

思わず、俺は椀を見た。

残り火。なるほどと思った。燃え盛る最中の色ではない。焼き切った後に、なお器の内へ残っている熱。あの赤には、たしかにそれがある。

 

慶次郎が、ゆっくり頷いた。

 

「よい名にございます」

 

兄上は笑う。

 

「お前がそう申すなら、外してはおらぬだろう」

「外しておりませぬ」

 

俺も頭を下げた。

 

「では、以後この赤は、残火と」

「ああ。瀬戸の残火だ」

 

その言葉が出た瞬間、椀はもうただの試作ではなくなった。

名が付くと、人は語りやすくなる。語りやすくなると、品は広がる。ただ赤い器ではなく、「残火」という顔を持った器になる。

 

兄上はそこで、ようやく椀を俺へ返した。

 

「最上はこれでよい。次も持て」

「はい」

「ただし、残火の名を安くするな」

「承知しております」

「全部へ付けるな。これは選べ。外れまで一緒くたにすると、名が死ぬ」

 

そこは当然だった。

 

「最上は献上と贈答へ。中ほどは見本として流します」

「どこへ」

「まず津島。そこから桑名と安濃津へ、商人同士の口で回る形を狙います」

 

兄上の目が少し鋭くなった。

 

「伊勢か」

「はい。兵より先に、品と噂を入れます」

 

兄上は、それを聞いてから、満足げに頷いた。

 

「よい。商いの地は、その方が効くこともある」

「最初から織田の押し売りに見せぬためでもあります」

「うむ。治部らしい」

 

そこまで言ってから、兄上は少し悪い顔になった。

 

「ただし、津島の連中が『残火』の名を勝手に面白おかしく使い始めたら、面倒だぞ」

「その辺は左近将監に締めさせます」

「ならよい」

 

話はそこで一区切りついた。

 

だが、俺は椀を包み直しながら、内心ではもう次を見ていた。

残火。

名が付いた以上、次からはただ“よく焼けた赤”では済まない。その名に値する顔を揃えねばならぬし、崩れたものまで同じように流せば、せっかく立った価値が鈍る。

 

それでも、名があるのは強い。

贈る時にも、売る時にも、商人が噂する時にも、「あの赤い椀」では弱い。「残火」は、それだけで一度耳に残る。

 

「上総介兄上」

「何だ」

「よい名を頂きました」

 

兄上は鼻で笑った。

 

「名はただの札だ。札に負けるなよ」

「心得ております」

「ならよい。次は、その残火で誰の目を止めるか考えろ」

 

それには、少し笑ってしまった。

 

「もう考えております」

「だろうな」

 

部屋を辞したあと、廊を歩きながら布包みを抱え直す。

 

瀬戸の残火。

それが、まず信長兄上の口から出た。

次は津島商人の口へ乗り、やがて桑名や安濃津の商人どもの耳にも入るだろう。

 

兵はまだ出さぬ。

だが、名の付いた品は、先に土地へ入っていく。

商いの地を揺らすのは、案外そういうものだ。

 

赤は、ただ焼けたのではない。

これでようやく、戦国の品になったのだと思えた。

 

 

窯の前には、まだ火の名残があった。

 

焼き上がった器を運び出した後の、土と灰と、湿った薪の匂いが混ざる熱である。

赤が出た日のような騒ぎはない。

だが静かなぶんだけ、窯場にいる全員の目が、今どこへ向いているかはよく分かった。

 

俺は、手の中で三つの欠片を見比べていた。

 

残火。

灰。

飴。

 

残火は、名を得た。

あれでようやく、ただの赤い椀ではなくなった。上総介兄上の口から「残火」と出た時点で、器はもう単なる試作を越えている。

 

だが、名が立てば、それで終わりではない。

むしろそこから先、何を足せば残火がただの一発で終わらぬかを考えねばならない。

 

慶次郎が、少し離れたところから俺の手元を見ていた。

 

「治部様、今日は破片ばかりで遊んでおられますな」

「遊びならよいんだがな」

「よくないので?」

「たぶん、よくない」

 

そう答えると、慶次郎は少し笑った。

 

職人頭が、箱を一つ抱えて寄ってきた。

中には、割れや欠けで外した片がいくつも入っている。

残火の赤。

灰の落ち着き。

飴の深い艶。

どれも器としては落ちたものだが、色だけ見れば、むしろその方がよく分かる。

 

「治部様」と職人頭が言う。

「金で留めるのは、もう見慣れて参りました」

 

「金継ぎか」

「はい。欠けを繕い、割れを止める。あれは誰が見ても分かる。分かるから、喜ぶ者もおります」

「だが」

 

慶次郎がそこで受けた。

 

「それだけでは、数寄者はそのうち慣れますな」

 

職人頭も頷く。

 

「驚きは長く続きませぬ。継いだことが見えて、面白い。そこまでは皆、同じ目で見ます」

 

俺は手の中の残火片を光へかざした。

欠けた縁の方が、かえって赤の熱を強く見せる。

 

「金継ぎだけでは、さびはあっても侘びはない」

 

その一言で、窯場の空気が少し止まった。

 

誰もすぐには口を挟まない。

慶次郎も、職人頭も、若い衆も、まずいま言われたことを腹へ落としている顔だった。

 

俺は続けた。

 

「金で留めるだけなら、割れを直した話で終わる。だが、数寄者が欲しがるのは、その先だろう」

 

「その先」と慶次郎が低く繰り返す。

 

「残火を元にして、飴と灰を最初から継ぐ形で最後の物を創り出す。そういうことはできないか」

 

職人頭が思わず顔を上げた。

 

「最初から、継ぐ……?」

「そうだ」

 

「それは」

職人頭は少しだけ言葉を探した。

「最初から完成品を壊し、そしてさらなる完成品を目指す、ということにございますか」

 

「そうだ」

 

今度は、はっきり答えた。

 

「火と灰、そして闇夜のような飴色。一枚の絵になるようじゃないか」

 

慶次郎の顔から、いつもの薄い笑みが少し消えた。

あいつが本当に考え始める時の顔だ。

 

「……なるほど」

 

その声は低かった。

 

「壊れたから繕うのではない。繕いを見せるためでもない。最初の一器を下絵にして、その先にだけある完成を作る、と」

「そこまで言ってくれると助かる」

 

職人頭が箱の中の破片へ手を差し入れた。

残火の赤を一つ。

灰を一つ。

飴を一つ。

並べては離し、また近づける。

 

若い職人の一人が、半ば呆れたように言う。

 

「そんなこと、考えたこともありませなんだ。器は焼き上がったら、それで終いかと」

 

「普通はそうだろうな」と俺は言った。

「だが、残火は焼き上がった後に名を得た。なら、その次は、焼き上がった後にしか行けぬ景色を作ればよい」

 

慶次郎が、そこで初めてはっきり頷いた。

 

「新たな技法、などと今は騒がせるほどでもありますまいな」

「まだ早いな」

「はい。今のところは、窯場の奇妙な工夫に過ぎませぬ」

 

そこが大事だった。

技法として定着しているのではない。

まだ名前も定まらず、やって見せれば皆が唸る、そういう手前の段階である。

 

職人頭が唸るように笑う。

 

「だが、もしそれが本当に一つの景色として立つなら。これはもう、壊れ物の細工では済みませぬ」

「済ませぬためにやる」

 

俺は、灰の欠片を指先で返した。

鈍く、だが死んではいない。

光を吸って、少しだけ戻す。

 

「灰はただの灰では弱いな」

 

慶次郎がこちらを見る。

 

「では」

「芭蕉銀鼠」

「……芭蕉銀鼠」

「芭蕉の葉裏みたいに、光を静かに返す。鼠だが、冷えすぎてはいない」

 

職人頭が小さく二度頷いた。

 

「悪くありませぬ。茶人は好みましょう」

 

次に、飴の片を光へ寄せる。

茶というには深すぎる。黒というには柔らかい。

夜の中で、どこか高いところに灯りを受けているような色だ。

 

「これは瑠璃天蓋だな」

 

慶次郎が眉をわずかに動かす。

 

「天蓋、でございますか」

「空そのものではない。空を覆うものだ。暗いが、ただ沈むのではなく、上にある」

 

慶次郎はしばらく黙っていたが、やがて少し笑った。

 

「芭蕉銀鼠に、瑠璃天蓋。残火の脇へ置くなら、そのくらいの格は要りますな」

 

「残火だけは別だ」と俺は言った。

「名はもう兄上から出た。これを安く広げるわけにはいかん」

 

上総介兄上自身も、残火は全部へ付けるな、名を増やすと鈍る、と裁いている。だから中心は残火のままでよい。

慶次郎がそこで話をまとめるように言った。

 

「では、こう致しましょう。残火を核にする。その上で、残火へ寄せる灰は芭蕉銀鼠、飴は瑠璃天蓋として色を立てる。ただし、それぞれ単体で騒がせず、最後の一器で本領を見せる」

「そうだ」

 

職人頭が箱の中の破片を見下ろしながら、ぽつりと言った。

 

「最初からそう焼くのではなく。最初の器をいったん終わらせて、その先の完成を別に立てる。これは……職人の癖が変わりますぞ」

「変えろ」

「は」

「残火が立った以上、次は残火を越えねばならん。ただし、残火の名を潰さずにな」

 

若い衆の顔つきが変わる。

ようやく皆、ただの相談ではなく、次の窯の話だと腹へ落ちたらしい。

 

慶次郎が最後に、残火の欠片をそっと箱へ戻した。

 

「治部様」

「何だ」

「今の話、上総介様へすぐ持って上げますか」

「いや、まだだ」

「ほう」

「今のままでは、まだ理屈だ。上総介兄上へ出すなら、形になってからにする。言葉だけ持っていっても、あの方は面白がって終わる」

 

それには、窯場のあちこちで小さく笑いが起きた。

 

「違いありませぬ」と慶次郎。

 

「分かっているなら、手を動かせ」

「承知」

 

窯の前には、まだ熱が残っていた。

 

残火。

芭蕉銀鼠。

瑠璃天蓋。

 

まだ誰も知らぬ。

技法の名すら立っていない。

だが、壊れを直す話ではなく、その先にだけある一器を狙うという発想だけは、もうここに生まれていた。

 

 

稲葉山城へ上がる道すがら、俺は布包みを抱え直した。

 

軽い。

だが、今日は妙に重く感じる。

 

残火を持って上がった時は、まだ「よく焼けた赤を見ていただく」という筋があった。

兄上の口から名を頂き、その後に継ぎの残火を見ていただいた時も、「この先へ行けるか」を試す気持ちの方が強かった。

 

だが、今日は違う。

 

今日持っているのは、最初から最後の一器として設計したものだ。

壊れたから継いだのではない。

継ぐために、最初の一器を越えさせた。

 

残火。

芭蕉銀鼠。

瑠璃天蓋。

 

火と灰と夜を、一つの景色へ閉じ込める。

そう言い切ってしまえば簡単だが、窯場では誰も最初からその顔を信じてはいなかった。

慶次郎ですら、最後に立ち上がった一碗を見た時には、しばらく声を失っていた。

 

あれを兄上へ持っていく。

ここで刺さらなければ、ただの思いつきだ。

だが刺されば、残火の次ではない。

治部家の窯そのものが、別のところへ行く。

 

「治部」

 

案内の先で、上総介兄上はいつものように俺の手元を見て笑った。

 

「今日は顔が違うな」

「そう見えますか」

「見える。面白いものを持ってきた顔だ。しかも、持ってきた本人が、半分はまだその威力を疑っておる顔だ」

 

その見立ては、妙に腹が立つほど当たっていた。

 

「上総介兄上にだけは、嘘がつけませぬな」

「他にはつけるような言い方だな」

「そこは言い回しにございます」

「よい。で、何だ」

 

俺は、いつものように前置きをしなかった。

今日は言葉を足すほど、かえって軽くなる気がした。

 

「新しい継ぎにございます」

「ほう」

「ただし、前のように割れた後を継いだものではありませぬ。最初から、この一器を最後の形として狙いました」

 

兄上の目が、わずかに細くなる。

 

「なるほど。ようやく、そこへ行ったか」

 

そこで初めて、少し背筋が冷えた。

この人は、俺たちが窯場で何を越えようとしたかを、説明抜きで半分くらい分かっている。

 

「見せよ」

 

布をほどく。

 

部屋の光の中へ出した瞬間、空気が一段沈んだ気がした。

 

器の胴には、残火の赤が立っている。

だが、前の残火のようにそれだけが押し出してくるのではない。

口縁には、芭蕉銀鼠が冷えた光を薄く返し、胴の一方には瑠璃天蓋が、夜の奥行きみたいに沈んでいる。

継ぎ目の金は騒がない。

騒がぬくせに、残火と銀鼠と瑠璃天蓋の境を、まるで最初からそこへ置くために引かれていた線のように見せる。

 

兄上は、すぐには手を出さなかった。

 

まず、見た。

 

見るというより、器の中へ目が入っていく。

 

「……」

 

無言のまま、兄上はそれを手に取った。

高台を見る。

指で口縁を撫でる。

残火から銀鼠へ、銀鼠から瑠璃天蓋へ、そしてまた残火へ、目が行って戻る。

 

部屋が静かだった。

慶次郎も、左近将監も、今日は一言も差し挟まない。

こういう時は、誰かの解説など邪魔だ。

 

上総介兄上は、器を少し傾けた。

 

残火が、光を受けて一度だけ熱を返す。

だがその熱は、すぐ銀鼠に吸われる。

吸われたかと思えば、瑠璃天蓋の奥から、深い闇の艶がそれを抱える。

赤が燃えるのでなく、消え切らぬ。

消え切らぬものを、灰と夜が両側から抱いている。

 

上総介兄上の指が、ぴたりと止まった。

 

「治部」

「はい」

「これは……」

 

そこで上総介兄上は言葉を切った。

 

この人が、目の前の品に対して言葉を切ることは珍しい。

まして、見た瞬間に良し悪しを切ってしまう人が、そこで止まるのはなおさらだった。

 

「前の残火でもないな」

「はい」

「継ぎとも、もう言い切りにくい」

「そうかもしれませぬ」

「いや」

 

上総介兄上は小さく首を振る。

 

「もう“壊れを継いだもの”ではない。最初からこうであった器が、後から見つかったようだ」

 

その一言で、職人頭が息を呑んだ。

 

そこだ。

まさに、そこを狙っていた。

継いだことが分かるのに、継いだからこうなったのではなく、最初からそういう景色としてこの世にあったように見えること。

それを兄上は、一目で言い当てた。

 

慶次郎が低く言う。

 

「お見事にございます」

 

兄上は答えない。

まだ器から目を離さない。

 

「残火は、火の名だった」

 

ぽつりと、兄上が言った。

 

「はい」

「だがこれは、火だけではない。火があり、灰があり、その上に夜がある。それなのに、どれも負けておらぬ」

 

兄上はそこで、ようやく器を両手に持ち直した。

 

「治部。お前、どこまで行くつもりだ」

 

笑っていた。

だが、笑っているだけではない声音だった。

 

「兄上の目が止まるところまで」

「止まらぬと知っておって申すか」

「だから困っております」

 

その返しに、兄上は小さく笑った。

だが、すぐまた真顔に戻る。

 

「これは、よい。いや、よいでは足りぬな」

 

そこで兄上は、珍しくはっきりと息を吸った。

 

「俺は、これほど見事に“残ったもの”を器にされたのを知らぬ」

 

部屋が、また静かになる。

 

兄上はもう一度、残火の赤へ目を落とした。

 

「燃え盛る火なら、人は誰でも見る。だが、燃えた後に残る熱は、見ようとせねば見えぬ。灰もそうだ。夜もそうだ。見えぬものばかり拾って、ここまで一つへ納めたか」

 

それは、今までの兄上の褒め方と違った。

良い、面白い、売れる、欲しい、そういう言い方ではない。

もっと深いところで、まっすぐ届いている声だった。

 

兄上は、そこでふいに笑みを消した。

 

「……まいったな」

 

その一言に、俺は思わず顔を上げた。

 

兄上の目元が、ほんの少しだけ濡れて見えた。

泣いている、と言うほどではない。

だが、あの兄上の目に、ほんのわずかでも熱が浮くところなど、そうそう見られるものではない。

 

「上総介兄上」

「黙れ」

 

声は低い。

だが怒ってはいない。

 

「こういう時に余計なことを言うな」

「……はい」

 

俺は素直に口を閉じた。

 

兄上は器を見たまま、少しだけ目を細める。

 

「よいものは、よいで済む。面白いものは、面白いで済む。だがこれは、その二つでは済まぬ」

 

そして、兄上はゆっくり顔を上げた。

 

「治部よ。これは見事だ」

 

その“見事”は、軽くなかった。

 

「見事にございます、と誰かへ返すための見事ではない。俺が今ここで、そうとしか言えぬほど見事だ」

 

言い切ってから、兄上は少しだけ笑った。

 

「器を褒めておるのか、お前を褒めておるのか、分からぬな」

「両方で頂ければ助かります」

「欲張りめ」

 

だが、その声も柔らかい。

 

兄上は、また器へ目を落とした。

 

「残火は俺が名を付けた。だが、これはもう、名を付けた俺の手を離れたな。お前の窯が、俺の思うより先へ行った」

 

その言葉は、俺には思った以上に重かった。

名を頂いたことより重いかもしれぬ。

兄上が、自分の名付けたものの先へ行ったと認める。

それは、なかなか出る言葉ではない。

 

慶次郎が、珍しく少しだけ前へ出た。

 

「上総介様」

「何だ」

「いまの一言だけで、窯はあと三年走れます」

 

兄上は鼻で笑った。

 

「三年で足りるか。十年走らせよ」

「承知しました」

 

そのやり取りで、部屋にようやく息が戻った。

 

だが、兄上の目はまだ器の上にある。

 

「これは市へは出すな」

「はい」

「贈る相手も選べ。銭になるからといって、分からぬ者へ渡すな。欲しがる口は多かろうが、この最初の一器は、俺が預かる」

 

それは命令だった。

だが、半分は奪うような言い方ではない。

自分の手元で抱えて見ていたい、そういう欲の声だった。

 

「ありがたく」

「礼はまだ早い。これは俺が貰う」

「承知しました」

 

兄上はそこで、ようやく少し悪い顔をした。

 

「治部」

「はい」

「次も作れ」

「それは、もちろん」

「同じものを、ではないぞ」

「分かっております」

「俺を二度泣かせる気で持って来い」

 

その言葉には、思わず笑いそうになった。

だが、笑うのも違う気がして、結局ただ深く頭を下げた。

 

「心得ました」

 

兄上は最後に、もう一度だけ器を見た。

 

「よいものを持ってきた。いや、違うな」

 

少しだけ間がある。

 

「お前は今日、よい器ではなく、よい景色を持ってきた」

 

それが、たぶん今まででいちばん、手放しの誉め言葉だった。

 

 

部屋を辞して、廊へ出る。

 

布包みはもう空いている。

手元から離れたのに、不思議と軽くはなかった。

 

慶次郎が、しばらく黙ったまま歩いていた。

やがて、ぽつりと言う。

 

「治部様」

「何だ」

「今のは、もう褒めたを通り越しておりましたな」

「そうだな」

「上総介様、少し泣きそうでございました」

「見たか」

「見ました。拙者も、少し危ううございました」

 

それには少し笑った。

 

「お前でもか」

「拙者だからこそ、でございましょう。作る理屈を知っていて、なおあれです」

 

廊の先の風が少し冷たい。

だが胸の内は、まだ窯の前みたいに熱を持っていた。

 

兄上が泣きそうになるほど刺さった。

しかも、器が良いではなく、景色を持ってきたと言った。

 

そこまで行けば、もう“よく焼けた”“うまく継いだ”の先だ。

治部の窯は、ようやくそこへ手をかけたのだと思えた。

 

「慶次郎」

「はい」

「次はもっと面倒だぞ」

「でしょうな」

「兄上が俺を二度泣かせる気で持って来いと仰った」

 

慶次郎は、そこで珍しく声を立てずに笑った。

 

「無茶を仰る」

「いつものことだ」

「違いありませぬ」

 

だが、足は軽かった。

 

空の布包みを抱え直しながら、俺は一つだけ思った。

 

残火は、これで本当に戦国の品になった。

そして今日のあれで、たぶんもう、ただの商いの札でもなくなった。

兄上の胸へ刺さった以上、あれは織田の景色の一つになってしまったのだ。

 

 

稲葉山から戻った足で、俺はそのまま窯場へ入った。

 

まだ日が高い。

だが、ここの光はいつでも少し遅れている。

屋根の下に熱がこもり、土と灰と湿った薪の匂いが混ざると、外とは違う時間が流れ始める。

 

半兵衛が、入口の影からこちらを見た。

 

「兄上様のお気に召しましたか」

「気に入るどころではなかった」

「ほう」

「『俺を二度泣かせる気で持って来い』だ」

 

半兵衛の顔から、薄い笑いが一度消えた。

あいつの中で、その言葉の重みを測っているのだろう。

 

「それはまた、えらく大きく出られましたな」

「出たんじゃない。出されたんだ」

 

そう言ってから、俺は少しだけ息を吐いた。

 

継ぎの残火は刺さった。

あれで終わりでもよかったのかもしれない。

普通の商いなら、十分すぎる。

名も立った。最上も取れた。兄上の手元へ残る一器にもなった。

 

だが、兄上がああ言った以上、終わりではなくなった。

 

二度泣かせる。

それは、同じものをもう一つ持っていけばよいという意味ではない。

残火を上手くしただけでも駄目だ。

継ぎを精妙にしただけでも足りない。

 

あの人はたぶん、もう「器の出来」そのものでは泣かない。

次に要るのは、**器の出来を越えて、茶の席そのものを変えてしまう一碗**だ。

 

「治部様」

 

職人頭が寄ってきた。

手には、昨日の試しに焼いた椀がいくつか載っている。

芭蕉銀鼠主体のもの。瑠璃天蓋を多く立てたもの。どれも悪くない。いや、十分よい。

だが、兄上のあの一言のあとで見ると、どれも“まだここまで”に見えた。

 

「これではございませぬか」

「違う」

 

俺は即座に首を振った。

 

「悪くない。むしろ立っている」

「だが、これを持っていけば、兄上は『よく仕上げた』とは仰るだろう」

「だが、それで終わる」

 

慶次郎が静かに問う。

 

「何が要ります」

 

俺は、そのまま答えず、窯場の隅に置かれていた箱を開けた。

中には、残火の片。芭蕉銀鼠の片。瑠璃天蓋の片。

焼けたが、欠けたもの。景色はあるが、器としては落としたもの。

だが、こういう時に本当に要るのは、むしろこっちだ。

 

残火の破片を一つ拾う。

次に、銀鼠。

最後に、飴。

 

三つを掌に並べる。

 

赤は、やはり強い。

ただ置くだけで、そこへ目が行く。

だからそのまま見せれば、勝ってしまう。

勝つからこそ、次には使えない。

 

「慶次郎」

「はい」

「兄上は、継ぎの残火を見て何に打たれたと思う」

 

慶次郎は少し考えた。

 

「壊れを越えた後の景色、でございましょう」

「半分はそうだ。だが、もう半分ある」

「申してみて下さい」

「見えぬものだ」

 

慶次郎の目が、わずかに細くなる。

 

「見えぬもの」

「兄上は仰った。燃え盛る火は誰でも見る。だが、燃えた後に残る熱は、見ようとせねば見えぬ、と」

 

窯場が静まる。

 

職人頭も、若い衆も、口を挟まない。

今は言葉の意味を一度腹へ落とす時だ。

 

「残火は、もう見せた。継いだ残火も見せた。なら次は、火を見せてはいかん」

 

職人頭が思わず眉を寄せた。

 

「残火を、見せぬ」

「そうだ」

 

俺は、手の中の銀鼠を先に置いた。

 

「芭蕉銀鼠で外を静める」

 

次に、瑠璃天蓋を置く。

 

「瑠璃天蓋で夜を張る」

 

最後に、残火を指先でつまむ。

 

「残火は、底へ沈める」

 

慶次郎が、ごく低く復唱した。

 

「底へ」

「見込みの奥だ。手に持った時には見えすぎない。置いた時にも騒がない。だが、茶を点て、口を寄せ、飲み下してゆくうちに、最後にだけ火が立つ」

 

そこで、若い職人の一人が息を呑んだ。

 

「それは……。茶を飲みきる頃に、景色が変わるのでございますか」

「そうだ」

 

職人頭が、ほとんど唸るように言った。

 

「最初から最後まで一つの顔ではない。一服の中で、夜から火へ移るのか」

「そういうことだ」

 

慶次郎が、ここでようやく笑った。

いつもの笑いではない。

完全に腹へ落ちた時の顔だった。

 

「なるほど。兄上様を二度泣かせるなら、そこまでやらねばなりませぬな」

「そうだ。継ぎの残火は、見れば刺さる。だが今度は、使って初めて刺さる。そこまで行けば、ただの器ではない」

 

慶次郎は頷く。

 

「茶の席の中で、最後にだけ火を出す。それはたしかに、いままでにはございませぬ」

 

職人頭が、箱の中の椀を取り出した。

やや深めで、見込みがよく沈む形のものだ。

 

「形は、これに寄せましょう」

「深めだな」

「はい。浅いと底が見えすぎます。見えすぎれば、最初から種が割れる。少しだけ覗き込ませるようにし、飲み進めて、ようやく最後に残火が立つようにしたい」

「口縁は」

「わずかにすぼめます。ただし、利きすぎると野暮になる。覗けば底へ視線が落ちる、そのぎりぎりで」

 

慶次郎が受ける。

 

「外は銀鼠を多く。天蓋はただの飴に戻さず、夜を張る程度に。残火は見込みの一点でなく、少し崩して沈める。底に火が残っているように」

 

俺は頷いた。

 

「綺麗すぎるな。もっと、最後の最後にようやく見つかる火でよい」

 

職人頭が、小さく笑った。

 

「治部様」

「何だ」

「だんだん器の話ではなく、夜の話をしておられますぞ」

「夜の話で器が立つなら、その方がよい」

 

それには窯場のあちこちで、小さく笑いが起きた。

だが、手はもう止まらない。

皆、頭の中でその一碗を見始めている。

 

慶次郎が、少しだけ真面目な声で言った。

 

「治部様」

「何だ」

「これは、もう残火そのものを超えますな」

「超えさせる」

「名は」

「増やさぬ」

 

そこは即答した。

 

「残火は残火だ。兄上の口から出た名を、むやみに増やすわけにはいかん。今回は、残火の次ではあるが、残火の外へは出ぬ」

 

慶次郎が満足げに頷く。

 

「よろしい。兄上様が前に仰った『名を増やすと鈍る』を、ちゃんと踏まえておられる」

「増やすのは名ではない。使い方だ」

 

そう言うと、職人頭がほとんど呻くように息を吐いた。

 

「使い方、か」

「そうだ。継ぎで驚かせるのではない。最後の一口まで飲ませて、そこで景色を完成させる」

 

若い職人が、ぽつりと言った。

 

「それでは、器は半分で出して、客に残り半分を作らせるようなものでございますな」

「上出来だ」

 

俺はその若い衆を見た。

 

「それが分かったなら、もう半分できてる」

 

慶次郎が笑う。

 

「では、やりましょう。継ぎの残火で終わるなら、それは一発の名物にございます。だが今の話まで行けば、治部様の窯は、器そのものでなく、席の景色を売れる」

 

そこまで言われると、少しだけ可笑しくなる。

 

「お前、商いの顔になったな」

「最初からにございます」

「違いない」

 

職人頭が、深めの椀を一つ、両手で持ち上げた。

 

「これを下絵に致します。外は静かに。中は最後にだけ火が立つように。茶を飲み干すまで、景色を隠す」

「それでいい」

 

慶次郎が最後に、静かに言う。

 

「治部様」

「何だ」

「今度こそ、本当に兄上様を泣かせるやもしれませぬな」

 

俺は、掌の中の残火片をもう一度見た。

 

見せれば勝つ火だ。

だが次は、勝たせるために隠す。

隠して、最後にだけ立たせる。

 

「泣かせるために作るわけじゃない」

「ですが」

「分かってる」

 

俺は、ようやく少しだけ笑った。

 

「兄上が『二度泣かせろ』と仰ったんだ。なら、そのつもりで作るしかないだろう」

 

それで決まった。

 

窯の前には、まだ熱が残っていた。

継ぎの残火の次。

見込みの底に火を沈め、使うことでしか完成しない一碗。

 

ようやく、二度目へ手がかかった気がした。

 

 

完成した一碗を布へ包みながら、俺は一度だけ手を止めた。

 

前の継ぎの残火を持って上がった時も、胸は鳴っていた。

だがあの時は、まだ見た目の勝負だった。

見れば刺さる。手に取れば分かる。兄上の目が止まれば、それで半分は決まる。

 

今回は違う。

 

今回は、見ただけでは終わらない。

いや、終わってはならない。

 

外は芭蕉銀鼠と瑠璃天蓋で静めた。

残火は見込みの底へ沈めた。

覗けば、ある。だが、まだ弱い。

本当に火が立つのは、茶を受け、口を寄せ、飲み下してゆく、その最後のところだ。

 

慶次郎が、俺の手元を見ていた。

 

「迷っておられますな」

「少しな」

「今さら、でございます」

「今さらだからだ」

 

そう言うと、慶次郎は小さく笑った。

 

「兄上様は、前の継ぎで『俺を二度泣かせる気で持って来い』と仰いました。ならば、今度は本当に泣かせるしかありますまい」

「他人事みたいに言うな」

「半分は他人事にございます。残り半分は、私も巻き込まれております」

 

それには少しだけ笑った。

だが、笑ったところで手の重さは変わらない。

 

職人頭が、少し離れたところから口を出す。

 

「治部様」

「何だ」

「今度のは、見て頂くだけでは足りますまい」

「分かってる」

「お使い頂かねば」

「それも分かってる」

 

そこがいちばん難しい。

兄上は茶の人だ。

使えば分かる。使ってこそ分かる。そこまでは間違いない。

だが、ただ器を見せるのでなく、実際に一服進めてもらうとなれば、もう品の話だけではない。席の取り回しまでこちらの仕事になる。

 

「慶次郎」

「はい」

「薄茶でいく。濃くすると、最初から底が沈みすぎる」

「はい」

「最初の一服は、兄上お一人だ。人前では駄目だ。途中で誰かが言葉を挟むと景色が割れる」

 

慶次郎は、そこで顔を少しだけ引き締めた。

 

「そこまで読むのでございますか」

「読まないと持っていく意味がない」

 

前の残火は、見た瞬間に景色が立った。

だから部屋に他人がいてもよかった。

だが今度は違う。

最初は静かで、飲み進めるうちにだけ火が立つ。

その移りを見てもらうには、余計な音があってはならない。

 

「行くぞ」

 

短くそう言って、俺は布包みを抱えた。

 

 

稲葉山の部屋は、いつもより少し暗くしてあった。

 

兄上の好みというより、今日はこちらがそう頼んだ。

明るすぎると、銀鼠も天蓋も先に騒ぎすぎる。

静かなところから始めたい。

 

兄上は、その部屋へ入った時点で少し面白そうな顔をした。

 

「治部、今度は、随分と仰々しいな」

「今日は、見て頂くだけでは済みませぬ。一服までお願い致します」

「ほう。そこまで言うか」

「そこまででなければ、意味がございませぬ」

 

兄上はしばらく俺を見ていたが、やがて口元を少し上げた。

 

「よい。そこまで言うなら乗ってやる」

「ありがたく」

 

部屋には、俺と兄上と慶次郎だけを残した。

左近将監も外した。

あいつは目利きだが、今日ばかりは余計な顔が一つでもあると駄目だと思った。

 

俺は、静かに布をほどいた。

 

茶碗を置く。

 

兄上は、まず見た。

 

芭蕉銀鼠が外を静めている。

瑠璃天蓋が、夜のように深く添う。

残火はまだ出すぎない。

見込みの底に、火の気配だけを沈めている。

 

兄上は手を伸ばし、器を取った。

 

「……静かだな」

「はい」

「前の残火より、よほど静かだ。だが、静かなだけではあるまい」

「ございます」

 

それ以上は言わない。

今日は説明が多いほど負ける。

 

兄上は高台を見、口縁を見、見込みを覗いた。

 

「底か」

「はい」

「隠したな」

「沈めました」

 

兄上は、それを聞いてわずかに笑った。

 

「なるほど。見せれば勝つ火を、あえて沈めたか」

 

さすがに早い。

だが、そこが分かるだけではまだ半分だ。

 

「一服を」

「うむ」

 

慶次郎が茶を点てる。

音が小さい。

茶筅の立つ音まで、今日は妙に耳へ入る。

 

兄上は茶碗を受けた。

 

最初の角度では、まだ銀鼠と天蓋が立つ。

残火は、底の暗がりに沈んだままだ。

 

兄上が少しだけ首を傾けた。

 

「……なるほどな」

 

その低い声に、俺は呼吸を浅くした。

 

兄上は、すぐには飲まない。

まず見ている。

手の中で少しだけ回し、光を探る。

だが今日の景色は、見ただけでは終わらない。

 

やがて、兄上は口を寄せた。

 

一口。

 

茶が減る。

 

見込みの底の暗がりが、ほんの少しだけ浅くなる。

その奥で、残火がまだ立たないまま熱だけを返す。

 

兄上の指が、ほんのわずかに止まった。

 

二口目。

 

そこで初めて、底の残火が茶の奥から浮き始めた。

銀鼠の冷えと、天蓋の夜の中に、消え切らぬ火が現れる。

前の継ぎの残火のように、最初から言い切る火ではない。

見ようとして、ようやく見つかる火だ。

 

兄上の目が、そこで変わった。

 

三口目。

 

茶はさらに下がる。

残火が、今度ははっきり見える。

だが強すぎない。

最後まで静かで、静かなまま底に残る。

 

兄上は、そのまましばらく動かなかった。

 

茶碗を手にしたまま、底の残火を見ている。

 

部屋が、しんと静まる。

慶次郎も動かない。

俺も息を殺している。

 

やがて、兄上がごく低く言った。

 

「……そう来たか」

 

それだけだった。

だが、その一言で、半分は勝ったと分かった。

 

兄上は茶碗をもう一度覗いた。

 

「最初は夜だ。銀鼠が冷やし、天蓋が覆う。だが、飲み進めると底から火が出る」

「はい」

「火を見せるのではなく、最後にだけ見つけさせる」

「はい」

 

兄上は、そこでようやく顔を上げた。

だが、目はまだ完全にはこちらへ戻っていない。

半分はまだ器の中だ。

 

「治部、これは卑怯だな」

 

思わず、俺は少しだけ目を瞬いた。

 

「卑怯、にございますか」

「ああ。最初に見せぬからだ。見せぬくせに、最後にだけ置いていく」

 

その言い方に、慶次郎がかすかに笑いを呑んだのが分かった。

だが兄上は続ける。

 

「前の残火は、見た瞬間に胸へ入った。だが今度のは違う。飲ませた後で残る」

 

そこで、兄上はまた黙った。

 

茶碗を持つ手が、ほんの少しだけ強くなる。

 

「……まいった」

 

前にも聞いた一言だった。

だが、今度はもっと静かで、もっと深い。

 

兄上は器を膝の上へ置いた。

そして、しばらく何も言わなかった。

 

俺は、あえて一言も足さない。

ここで理屈を挟めば、全部が軽くなる。

 

兄上は、やがてぽつりと言った。

 

「前の時は、お前がよい景色を持ってきたと思った。だが、今度のは景色ですらないな」

 

俺は黙って聞く。

 

「これは、時だ」

 

その一言で、胸の奥が鳴った。

 

「夜があって、熱があって、最後にだけ火が残る。茶を飲む時の中に、時が封じてある」

 

兄上の声は低い。

低いが、今までにないほど真っ直ぐだった。

 

「俺は、こういうものを知らぬ。知らぬくせに、見た瞬間に分かる。よいものを越えておる」

 

そのまま、兄上は茶碗を見た。

 

「治部、お前は、とうとう器で茶の席をいじり始めたな」

「そのつもりでございました」

「だろうな」

 

兄上は小さく笑った。

笑ったが、目元はまだ熱を引いていない。

 

「継ぎで驚かせるだけなら、いずれ慣れる。色で押すだけでも、いずれ飽きる。だが、これは使うた者の中に残る」

 

その一言一言が重かった。

前の継ぎの残火の時も強く褒められた。だが、今回は質が違う。

品の出来ではない。

品が席に何を起こすかまで見て、そこを褒めている。

 

「上総介兄上」

「黙れ。こういう時に、お前は余計なことを申す」

「……はい」

 

俺は素直に引っ込む。

 

兄上は、器を見込みの底から外へ返し、また底へ戻した。

 

「最初の一服は静かだ。二服目で底が気になる。最後に、火が残る。人はそこで、飲み終わったあとにもう一度覗く」

 

そこで、ようやく兄上は俺を見た。

 

「この一碗は、人に茶を飲ませたあとで、もう一度手を止めさせる」

 

それが、兄上の中でいちばん高い評価の一つだと分かった。

戦国の忙しい人間に、飲み終えた後でなお、もう一度器を覗かせる。

それは、ただ珍しいでは届かない。

 

「見事だ」

 

今度の“見事”は、前よりなお重かった。

 

「前の残火にも打たれた。だが今回は、打たれたあとで黙るしかない」

 

兄上は、そこで少し笑った。

 

「お前、俺を二度泣かせる気で持って来いどころか、今度は、泣いたあとで黙らせる気で持ってきたな」

 

その言葉に、さすがに少し笑ってしまいそうになった。

だが、堪えた。

 

「心得違いでなければ、幸いにございます」

「心得違いではない」

 

兄上ははっきりと言った。

 

「治部、これはもう、ただの名物ではない。お前の窯が、一つ茶の道へ口を出した」

 

その一言は、前の「よい景色を持ってきた」よりさらに重かった。

 

慶次郎が、そこでようやく深く頭を下げた。

 

「それ以上のお言葉はございませぬ」

 

兄上は、ゆっくり息を吐いた。

 

「ある」

 

その声に、俺も慶次郎も顔を上げる。

 

兄上は、茶碗を両手に持ったまま言った。

 

「俺は、これが欲しい」

 

短い。

だが、その短さが何より強い。

 

「銭の話ではない。珍しいからでもない。俺がこの時を、手元へ置いておきたい」

 

部屋が静まり返る。

 

信長が、ここまでまっすぐ欲を言うのは珍しい。

しかも器そのものを欲しいのではない。

器の中に封じられた時を欲しいと言った。

 

俺は、深く頭を下げた。

 

「ありがたく」

「礼はまだ早い。これは俺が預かる」

「承知しました」

 

兄上はそこで、ようやく少し悪い顔へ戻った。

 

「だが治部、次も作れ」

「もちろん」

「同じものを、ではないぞ」

「分かっております」

「今度は、俺が黙ったあとで、何を言うか考えさせるものを持って来い」

 

それには、さすがに少しだけ笑ってしまった。

 

「無茶を仰る」

「お前にだけは言われたくない」

 

兄上の目元には、まだ少しだけ熱が残っていた。

泣く、とまでは言わぬ。

だが、あの兄上がここまで言葉を失い、ここまで欲を見せる。

それで十分だった。

 

「よいものを持ってきた。いや、違うな」

 

少しだけ間がある。

 

「お前は今日、器の中へ“時”を閉じ込めて持ってきた」

 

それが、前の「よい景色を持ってきた」をさらに越える、今までにない誉め言葉だった。

 

 

部屋を辞して、廊へ出る。

 

布包みは空いている。

だが、前よりもさらに軽くはなかった。

 

慶次郎が、しばらく何も言わずに歩いていた。

やがて、ようやく口を開く。

 

「治部様」

「何だ」

「今のは、もう褒めたを越えておりましたな」

「そうだな」

「兄上様、最初の二口目で、もう目が違っておりました」

「見たか」

「見ました。最後は、少し危ううございました」

 

それには、小さく息を吐くしかない。

 

「俺も危うかった」

「でしょうな。ですが、勝ちました」

 

勝ちました、か。

商いならそうだろう。

だが今日は、勝ったというより、届いたの方が近い。

 

廊の先から風が入る。

冷たいのに、胸の中はまだ熱い。

 

「慶次郎」

「はい」

「次はもっと面倒だぞ」

「兄上様が、もうそう仰ったので?」

「仰った。今度は、黙ったあとで何を言うか考えさせるものを持って来い、だと」

 

慶次郎はそこで、声を立てずに笑った。

 

「終わりがありませぬな」

「最初から分かってたろう」

「違いありませぬ」

 

だが、足は軽かった。

 

継ぎの残火で、兄上を一度泣かせる。

その次で、兄上を絶句させる。

しかも、器の中へ封じた時を欲しいとまで言わせる。

 

そこまで行けば、もうただの瀬戸物ではない。

戦国の数寄の中へ、治部の窯が一本、確かに道を通したのだと思えた。

 

 

 

 

 

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