織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
真理姫の輿入れと田代の城中がひとまず落ち着きを見せ始めた頃、俺は前から腹の内で温めていた話を、上総介兄上へ出すことにした。
椎茸だけで終わる気は、最初からなかった。
食い物は大事だ。
腹へ入るものは、人の暮らしに毎日触れる。
だから金にもなるし、根づけば強い。
だが、毎日人の手へ触れるものは、何も食い物だけではない。
器もまたそうだ。
しかも尾張には、瀬戸がある。
土があり、火があり、職人がいる。
そこへ少しだけ違う目を入れれば、ただの焼き物ではなく、京や堺へ売り込める“趣向の品”に変えられる。
そう思っていた。
上総介兄上へ願い出たのは、小田井でのことだった。
ただし今回は、俺一人では行かなかった。
「何だ、治部」
上総介兄上が、俺の後ろを見て口元を動かす。
「また妙な顔ぶれを連れてきたな」
俺の後ろにいるのは、慶次郎だった。
当人は、悪びれるどころか妙に落ち着いている。
だが、こういう“何を面白いと思うか”を言葉にする時のこいつは、槍を持つ時と別の意味で強い。
「慶次郎を?」
勘十郎兄上も、少しだけ面白がる目になる。
「はい」
「何のために」
「話が早いからです」
上総介兄上が喉で笑った。
「お前一人では遅いのか」
「某が理で申すより、この男に一言言わせた方が、たぶん兄上には早いかと」
「言うようになったな」
「兄上相手ゆえにございます」
そこまで置いて、俺は本題に入った。
「瀬戸に、登り窯を築きたく」
上総介兄上の目が、少しだけ細くなる。
「ほう」
「ただの器焼きではございませぬ」
「うむ」
「京や堺へ売れる茶器を作ります」
勘十郎兄上が、そこで静かに口を開いた。
「茶器、か」
「はい」
「椎茸の次は器か」
「食い物の次は器です」
上総介兄上は、もう少し面白がっている顔だった。
「お前は本当に、食うことと口へ入るもののまわりを離れぬな」
「口へ入るものと、手へ触れるものは、人が毎日使います」
「うむ」
「ゆえに、一度流行れば金も名も毎日入る」
そこまでは理だ。
問題は、その先だった。
「だが」と兄上。
「瀬戸焼は今さら珍しかろう」
「普通に焼けば珍しくはありませぬ」
「では?」
そこで俺は、少しだけ身体を引いて慶次郎へ視線をやった。
「慶次郎」
「はい」
「申せ」
上総介兄上が、初めてまっすぐ慶次郎を見る。
勘十郎兄上もだ。
慶次郎は、ひどく自然な調子で口を開いた。
「上総介様」
「何だ」
「上手い茶碗など、世の中にいくらでもあります」
兄上の目が少しだけ動く。
「ほう」
「だが、手に取った時、離したくなくなる茶碗は少ない」
上総介兄上の口元が、そこでほんの少しだけ上がる。
「続けよ」
「土がよい、焼きがよい、釉がよい。それだけでは足りません」
「何が足りぬ」
「座です」
勘十郎兄上が、少しだけ目を細めた。
「座」
「その茶碗を、誰が持つか」
慶次郎は、指先で空中に形をなぞるように言う。
「坊主が持つのか。商人が持つのか。武家が持つのか。京で使うのか、堺で使うのか」
「うむ」
「渋いだけでも足りない。派手なだけでも足りない」
上総介兄上は、もう黙って聞いている。
だいぶ入っている。
「見た瞬間に“おっ”と思う」
「うむ」
「だが、飽きない」
「うむ」
「手に持つと軽すぎず、口をつけた時に邪魔をせず、置いた時の姿に気が残る」
勘十郎兄上が、そこで静かに言う。
「ずいぶん注文が多い」
慶次郎は平然としていた。
「売るなら、それくらいは要ります」
そこへ俺が足す。
「瀬戸の職人には技があります」
「うむ」
「だが、“何が京や堺で面白がられるか”は、職人の腕だけでは決まらぬ」
上総介兄上が、慶次郎を顎でしゃくる。
「で、それを見る目がこいつにある、と」
「はい」
慶次郎は少しだけ笑った。
「ないとは申しません」
「言うな」
「あるから連れてこられたのでしょう」
その言い草に、上総介兄上がとうとう声を立てて笑った。
「違いない」
勘十郎兄上まで、わずかに笑う。
俺は続ける。
「登り窯を築きます」
「なぜ登り窯だ」
「安定して焼きの幅を作るためです。量も質も取れる」
「ほう」
「そのうえで、瀬戸の職人に今までの“よい器”を焼かせるのではなく」
「うむ」
「京や堺の数寄者が、思わず手に取る器を焼かせる」
「……数寄者、か」
「はい」
「兄上」
「何だ」
「唐物ばかりがありがたがられるなら、こちらは土物で割って入ればよい」
その一言に、上総介兄上の目が変わった。
そこだ、と思った。
珍しい。
新しい。
しかも既存の価値へ喧嘩を売れる。
兄上はそういう話を嫌わない。
慶次郎も、そこへ乗る。
「名物だ何だと、皆似たようなものを追っている」
「うむ」
「なら、“尾張の土で、こんなものが出た”と言わせればよい」
「えらく簡単に言うな」
「簡単ではありません」
そこで、少しだけ真面目な顔になる。
「だからこそ、俺が見ます」
その言い方で十分だった。
ただの武辺ではない。
こいつは本当に、この手のものを“見る”気でいる。
そのことが、上総介兄上にも伝わったのだろう。
「慶次郎」
「はい」
兄上が、少しだけ低い声で問う。
「お前は、何を焼かせたい」
慶次郎は一拍だけ置いて答えた。
「綺麗すぎるものはいりません」
「ほう」
「だが、汚いだけのものも駄目です」
「うむ」
「手に取った時、“何だこれは”と思わせる」
「うむ」
「そのくせ、二度、三度と見ると、だんだん手放しにくくなる」
勘十郎兄上が、静かに息をついた。
「面白い」
「そうでしょう」
「しかも」と俺がさらに足す。
「それを京へ、堺へ売り込む」
「誰がだ」と上総介兄上。
「最初の見立ては慶次郎」
「うむ」
「流通と誼は久助を使います」
「なるほど」
「そこへ評が立てば、古田勘阿弥や、いずれ津田宗及らとも繋がれましょう」
その名に、勘十郎兄上の目が少しだけ鋭くなった。
「茶器を売るだけではない、と」
「はい」
「京と堺の情報筋に楔を打ちます」
そこまで言えば、もう十分だった。
器を焼く。
それ自体が目的ではない。
産業。
金。
流通。
京堺との情報線。
文化の場での顔。
全部がつながっている。
上総介兄上は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙の間に、たぶんもう腹は決まっている。
兄上は、面白くない時ほどすぐ切る。
黙っている時は、だいたい面白がっている。
やがて、口を開いた。
「治部」
「は」
「また妙なことを考えたな」
「ありがたきお言葉」
「褒めておるのだ」
「分かっております」
「分かって言うな」
そこは少し笑いが落ちる。
兄上は、そのまま慶次郎を見る。
「慶次郎」
「はい」
「この窯場、お前が見ろ」
慶次郎の目が、少しだけ細くなる。
「よろしいので」
「お前が“つまらん”と思うものは京へ出すな」
「……ずいぶん重い」
「重くするためにお前へ渡す」
その返しに、慶次郎が口元を上げた。
「面白い役です」
「職人の技は職人のものだ。奪うな」
「承知しています」
「代わりに、“何が光るか”をお前が見ろ」
「最後の見立ては、俺が引き受けます」
兄上は今度は俺へ向き直る。
「登り窯、許す」
「はっ」
「だが、金を食うだけで終われば承知せぬ」
「承知しております」
「京で評を立てろ」
「は」
「堺へ流せ」
「は」
「そして、尾張の名にしろ」
そこまで言われると、胸の内が熱くなる。
「ありがたき幸せ」
勘十郎兄上が、そこで静かに締めた。
「では」
「うむ」
「瀬戸の職人衆、慶次郎、久助、半兵衛、助右衛門まで含め、治部家の事業として動かす形に致します」
「そのように」
上総介兄上が、最後にもう一度だけ笑う。
「椎茸の次は茶器か」
「はい」
「次は何だ」
そこは、俺も少しだけ笑った。
「食い物か、器か、金になるものにございます」
「お前らしい」
それで話は決まった。
登り窯を築く。
瀬戸の職人に茶器を焼かせる。
慶次郎が最後の見立てをする。
それを京と堺へ売り込む。
ただの思いつきではない。
治部家の色になる事業だ。
そういう形で、ようやく兄上の前でも立ったのだと思えた。
♢
窯は、嘘をつかない。
どれほど口で立派なことを言っても、火へ入れれば土は割れ、釉は濁り、形は歪む。だからこそ、そこを抜けて出てきたものには価値がある。
瀬戸の職人どもに加え、京を通じて渡来人の家筋から窯の扱いに長けた者を呼び寄せた時、周りは少し首を傾げていた。そこまでして何を焼くのか、と。
だが、ただの茶碗では意味がない。登り窯を築き、火の回りを変え、釉の掛け方も変え、土の調合もいじる。そこまでやって初めて、今までの瀬戸では出ぬ顔が見える。
その日、窯出しに立ち会った慶次郎が、途中でぴたりと黙った。
「どうした」
俺がそう聞くと、慶次郎は返事をせず、一つの椀を手に取った。
まだ熱の名残がある。
だが、見た瞬間に分かった。いつもの黄や灰や黒とは違う。火の当たりと釉の流れが、胴の土と噛み合ったのだろう。口縁から胴へかけて、深く沈んだ赤が立っている。派手な紅ではない。だが、見た者の目を一度止める赤だった。
「これか」
慶次郎はようやく、低く言った。
「実にいい色ですな、治部殿」
「出たな」
「偶然で済ませるには惜しい」
俺は椀を受け取って光へ傾けた。
釉の溜まったところは暗く、薄いところは熱を残したように赤い。焼き上がった器の表で、火がまだ生きているように見える。
「茶席で使えば、皆一度は手を止める」と慶次郎が言った。
「しかも、下品じゃない。珍しがらせるだけの赤じゃなく、見立てる側が言葉を足したくなる赤だ」
「そうか」
「そうです」
慶次郎は、こういう時だけ妙に静かになる。
派手に褒め立てず、価値があると見たものだけを短く押す。それがあいつの良いところだ。
窯場の職人頭が、おそるおそる近寄ってきた。
「治部様……これは」
「最上だ」
俺は即座に答えた。
「上総介兄上へ回す」
職人頭の顔が強ばる。
誉れと重さが一緒に来たのだろう。信長へ献ずるとなれば、褒美の可能性もあるが、次からは同じかそれ以上を求められる。
「慌てるな」と俺は言った。
「毎回これを出せとは言わん。だが、何でこの顔になったかは洗うぞ」
そこで半兵衛が、後ろから静かに口を挟んだ。
「土、火、釉、窯の位置、薪の加減、掛けた順、その全てを記しておかねばなりませぬな」
「そのために呼んだ」
半兵衛はすでに手元の板へ控えを取らせている。
こういう時に、感心して見ているだけで終わらせないのが半兵衛だ。
一方で、窯場の隅には山のように“それ以外”が積まれていた。
釉が流れすぎたもの、色が鈍いもの、口縁が少し歪んだもの、火が入りすぎたもの。まったく使えぬ割れもあるが、全部が砕いて終わりというわけでもない。
そこへ左近将監がやってきて、山を一瞥してから言った。
「で、こっちはどうします」
「全部捨てるには惜しいな」
「でしょうね」
左近将監はしゃがみ込み、いくつかを手に取った。
「見た目は外したが、水は漏らぬ。茶でも酒でも使えはする。そういうのが結構ございます」
「売れるか」
「売り方次第です」
俺はそこでようやく、窯場の熱気とは別の方へ頭を切り替えた。
最上は信長へ献ずる。
だが、商いは最上だけでは回らない。むしろ“見本”として人の手へ渡る中ほどの器こそ、次の口を開く。
「津島へ回すか」と俺は言った。
左近将監がにやりとする。
「それがよろしいでしょう。津島の連中は、新しいものを見ればまず手に取る。しかも、良い意味でも悪い意味でも、黙ってはおりませぬ」
「商人同士で勝手に話が回る」
「はい。こちらから桑名や安濃津へ押し売るより、津島から『こんなものが出た』と流れた方が、向こうも身構えにくい」
左近将監なら伊勢筋の顔を読むが、左近将監は商いの顔を読む。
この手の話では、そちらの方が早い。
「安価に出す」
「どの程度まで」
「見本だ。儲けは後だ」
左近将監は頷いた。
「では、完全な失敗は弾く。実用に耐えるものだけ選り分けて、まずは津島の物見高いところへ。桑名や安濃津へは、津島商人同士の口から自然に乗せます」
慶次郎が、まだ赤椀から目を離さぬまま言った。
「その時、ただ安いだけの雑器に見せるなよ」
「分かってる」と左近将監は返した。
「『新しく焼けたものの見本』として流す。安いのは、広めるためだと分かるようにする」
「そこを間違えると、出来損ないを押し付けたように見える」
「だから、津島だ。あいつらなら、その辺の匂いをかぎ分ける」
俺は頷いた。
話はもう見えた。
信長へは、治部家が新たに掴んだ“赤”を献ずる。
商流には、失敗作のうち実用に足るものを、見本として安く流す。
最上品で権威を押さえ、中ほどで市場を揺らす。やり方としては悪くない。
半兵衛が控えを書き終えて顔を上げた。
「ただ、登り窯は手間が増えますぞ」
「分かってる」
「薪も食う。火の見も長い。職人の癖も出る。今までの窯より、人も銭も要ります」
「その代わり、今までの窯では出ぬものが出た」
半兵衛は、そこで小さく頷いた。
「それなら計算は立ちますな」
俺は赤椀をもう一度見た。
この一つで、いきなり京堺がこちらを向くわけではない。
桑名や安濃津の商人どもが、明日から織田へ靡くわけでもない。
だが、兵の前に品が入る。品の前に噂が走る。商いの地は、その順で揺れることがある。
「慶次郎」
「はい」
「お前、この色をどう呼ぶ」
慶次郎は少しだけ考えた。
「まだ名を決めるには早いでしょう。だが」
「だが?」
「人が見て、『あの赤いのはどこのだ』と聞くようになった時、その時に名を付ければよろしい」
「欲張りだな」
「治部殿ほどでは」
それには、少し笑うしかなかった。
「よし」と俺は言った。
「最上は稲葉山へ持つ。左近将監、見本を選べ。津島へ流す先も絞れ。半兵衛、窯と材料の再現条件をまとめろ。職人頭には次の焼きを急がせるな。同じことを繰り返せる形にするのが先だ」
三人とも短く応じた。
窯場の外では、夕方の光が少し赤かった。
その色が、さっきの椀の縁へ残った火とどこか似て見える。
兵を出す前に、物を出す。
名を通す前に、目を引く。
桑名も安濃津も、まずは商いの手触りでこちらを知ることになるだろう。
それでよかった。
伊勢へ入る道は、一つではない。
茶器一つで城が落ちるわけではないが、商人の舌と目が先に動けば、土地の空気は変わる。
その最初の赤が、今、俺の手の中にあった。
♢
赤椀を持って稲葉山へ上がる道すがら、俺は布包みを二度確かめた。
落とすつもりはない。
ないが、こういう時は手元にあると分かっていても確かめたくなる。窯から出たばかりの時には、ただ「出た」と思った。だが、慶次郎が黙り込み、半兵衛が控えを取り始め、左近将監が商いの顔をし始めたあたりで、これはただの出来の良い茶碗では済まぬと腹へ落ちた。
最上の一つは、上総介兄上へ回す。
そこまでは最初から決めていた。
案内されて通された部屋は、評定の張り詰めた空気ではなかった。
だが、だからといって軽い場でもない。信長兄上は、こういう時の方がむしろよく見る。
「治部」
兄上は俺の手元を見て、すぐに笑った。
「今度は何だ。また食い物か」
「食い物なら、その方が早う食べていただけたのですが」
「なら違うな」
「はい。器にございます」
「ほう」
その一声で、兄上の興味はもうこちらへ寄った。
こういうところは本当に早い。
「瀬戸か」
「瀬戸にございます。正確には、瀬戸の職人に、京を通じて呼んだ者を合わせ、登り窯で試したものの最上です」
「見せよ」
俺は布包みをほどき、椀を差し出した。
兄上はすぐには言葉を出さず、まず手に取った。
軽さを見る。高台を指で撫でる。口縁から胴へ目を流す。
部屋の光の中で、その赤はさっき窯場で見た時より少し沈んで見えた。
だが、沈んだから弱いのではない。むしろ、光の当たり方で熱が内から滲むように変わる。その移ろいが、ただの派手さで終わらせない。
「……赤か」
兄上は低く言った。
「はい」
「いや、赤と言い切るには妙だな」
そこで、控えめに一歩下がっていた慶次郎が口を開いた。
「火の残り香が、器の肌へ染みたような赤にございます」
兄上の目が、少しだけ慶次郎へ向く。
「お前がそう言うか」
「ただ珍しい色、ではございませぬ。手に取った者が、もう一度見たくなる色です」
兄上は、それには答えず、もう一度椀へ目を戻した。
こういう時の沈黙は、悪くない。興味が切れた時は、もっと早く言葉が出る。
やがて兄上は、椀を少し傾けた。
「土と火が喧嘩せず、むしろ片方が片方を食ったように見える」
「ええ」と俺は答えた。
「まだ再現の率は高くありませぬ。ですが、出る時は出ます。だから、何がこの顔を作ったかは、今、半兵衛に控えを取らせております」
「よい」
兄上は短く言った。
「一つ出たなら、二つ目を狙える」
「そのために窯も職人も残します」
「それもよい」
兄上はそこで、ようやく口元を少し上げた。
「治部、お前はこういう時、だいたい面白いものを持ってくるな」
「役に立たぬものを、わざわざ兄上へ持っては参りませぬ」
「分かっておる」
その返しは軽かったが、目はまだ椀の上にあった。
しばらくして、兄上は不意に言った。
「これ、名はあるのか」
俺は首を振った。
「まだ。慶次郎とも、そこは決めておりませぬ」
「決めておらぬのか」
「人が見て、『あの赤いのはどこのだ』と聞くようになった時が頃合いかと」
そう答えると、兄上は小さく笑った。
「欲張りだな」
「慶次郎がそう申しました」
「なるほど、あいつらしい」
兄上は椀を手の中で回し、少しだけ考えた。
部屋は静かだった。
慶次郎も、俺も、余計な言葉は差し挟まない。こういう時は、名を付ける側の気分が最も大事だ。
やがて兄上は、赤い胴のあたりへ目を落としたまま言った。
「瀬戸の赤――では弱いな」
誰へともなく呟くような声音だった。
「火赤も、そのままだ」
もう一度、椀の縁へ指が触れる。
「夕焼けでもない。紅でもない。もっと、焼けた後に残る熱に近い」
そこで兄上は顔を上げた。
「治部」
「はい」
「これは“残火”と呼べ」
思わず、俺は椀を見た。
残り火。なるほどと思った。燃え盛る最中の色ではない。焼き切った後に、なお器の内へ残っている熱。あの赤には、たしかにそれがある。
慶次郎が、ゆっくり頷いた。
「よい名にございます」
兄上は笑う。
「お前がそう申すなら、外してはおらぬだろう」
「外しておりませぬ」
俺も頭を下げた。
「では、以後この赤は、残火と」
「ああ。瀬戸の残火だ」
その言葉が出た瞬間、椀はもうただの試作ではなくなった。
名が付くと、人は語りやすくなる。語りやすくなると、品は広がる。ただ赤い器ではなく、「残火」という顔を持った器になる。
兄上はそこで、ようやく椀を俺へ返した。
「最上はこれでよい。次も持て」
「はい」
「ただし、残火の名を安くするな」
「承知しております」
「全部へ付けるな。これは選べ。外れまで一緒くたにすると、名が死ぬ」
そこは当然だった。
「最上は献上と贈答へ。中ほどは見本として流します」
「どこへ」
「まず津島。そこから桑名と安濃津へ、商人同士の口で回る形を狙います」
兄上の目が少し鋭くなった。
「伊勢か」
「はい。兵より先に、品と噂を入れます」
兄上は、それを聞いてから、満足げに頷いた。
「よい。商いの地は、その方が効くこともある」
「最初から織田の押し売りに見せぬためでもあります」
「うむ。治部らしい」
そこまで言ってから、兄上は少し悪い顔になった。
「ただし、津島の連中が『残火』の名を勝手に面白おかしく使い始めたら、面倒だぞ」
「その辺は左近将監に締めさせます」
「ならよい」
話はそこで一区切りついた。
だが、俺は椀を包み直しながら、内心ではもう次を見ていた。
残火。
名が付いた以上、次からはただ“よく焼けた赤”では済まない。その名に値する顔を揃えねばならぬし、崩れたものまで同じように流せば、せっかく立った価値が鈍る。
それでも、名があるのは強い。
贈る時にも、売る時にも、商人が噂する時にも、「あの赤い椀」では弱い。「残火」は、それだけで一度耳に残る。
「上総介兄上」
「何だ」
「よい名を頂きました」
兄上は鼻で笑った。
「名はただの札だ。札に負けるなよ」
「心得ております」
「ならよい。次は、その残火で誰の目を止めるか考えろ」
それには、少し笑ってしまった。
「もう考えております」
「だろうな」
部屋を辞したあと、廊を歩きながら布包みを抱え直す。
瀬戸の残火。
それが、まず信長兄上の口から出た。
次は津島商人の口へ乗り、やがて桑名や安濃津の商人どもの耳にも入るだろう。
兵はまだ出さぬ。
だが、名の付いた品は、先に土地へ入っていく。
商いの地を揺らすのは、案外そういうものだ。
赤は、ただ焼けたのではない。
これでようやく、戦国の品になったのだと思えた。
♢
窯の前には、まだ火の名残があった。
焼き上がった器を運び出した後の、土と灰と、湿った薪の匂いが混ざる熱である。
赤が出た日のような騒ぎはない。
だが静かなぶんだけ、窯場にいる全員の目が、今どこへ向いているかはよく分かった。
俺は、手の中で三つの欠片を見比べていた。
残火。
灰。
飴。
残火は、名を得た。
あれでようやく、ただの赤い椀ではなくなった。上総介兄上の口から「残火」と出た時点で、器はもう単なる試作を越えている。
だが、名が立てば、それで終わりではない。
むしろそこから先、何を足せば残火がただの一発で終わらぬかを考えねばならない。
慶次郎が、少し離れたところから俺の手元を見ていた。
「治部様、今日は破片ばかりで遊んでおられますな」
「遊びならよいんだがな」
「よくないので?」
「たぶん、よくない」
そう答えると、慶次郎は少し笑った。
職人頭が、箱を一つ抱えて寄ってきた。
中には、割れや欠けで外した片がいくつも入っている。
残火の赤。
灰の落ち着き。
飴の深い艶。
どれも器としては落ちたものだが、色だけ見れば、むしろその方がよく分かる。
「治部様」と職人頭が言う。
「金で留めるのは、もう見慣れて参りました」
「金継ぎか」
「はい。欠けを繕い、割れを止める。あれは誰が見ても分かる。分かるから、喜ぶ者もおります」
「だが」
慶次郎がそこで受けた。
「それだけでは、数寄者はそのうち慣れますな」
職人頭も頷く。
「驚きは長く続きませぬ。継いだことが見えて、面白い。そこまでは皆、同じ目で見ます」
俺は手の中の残火片を光へかざした。
欠けた縁の方が、かえって赤の熱を強く見せる。
「金継ぎだけでは、さびはあっても侘びはない」
その一言で、窯場の空気が少し止まった。
誰もすぐには口を挟まない。
慶次郎も、職人頭も、若い衆も、まずいま言われたことを腹へ落としている顔だった。
俺は続けた。
「金で留めるだけなら、割れを直した話で終わる。だが、数寄者が欲しがるのは、その先だろう」
「その先」と慶次郎が低く繰り返す。
「残火を元にして、飴と灰を最初から継ぐ形で最後の物を創り出す。そういうことはできないか」
職人頭が思わず顔を上げた。
「最初から、継ぐ……?」
「そうだ」
「それは」
職人頭は少しだけ言葉を探した。
「最初から完成品を壊し、そしてさらなる完成品を目指す、ということにございますか」
「そうだ」
今度は、はっきり答えた。
「火と灰、そして闇夜のような飴色。一枚の絵になるようじゃないか」
慶次郎の顔から、いつもの薄い笑みが少し消えた。
あいつが本当に考え始める時の顔だ。
「……なるほど」
その声は低かった。
「壊れたから繕うのではない。繕いを見せるためでもない。最初の一器を下絵にして、その先にだけある完成を作る、と」
「そこまで言ってくれると助かる」
職人頭が箱の中の破片へ手を差し入れた。
残火の赤を一つ。
灰を一つ。
飴を一つ。
並べては離し、また近づける。
若い職人の一人が、半ば呆れたように言う。
「そんなこと、考えたこともありませなんだ。器は焼き上がったら、それで終いかと」
「普通はそうだろうな」と俺は言った。
「だが、残火は焼き上がった後に名を得た。なら、その次は、焼き上がった後にしか行けぬ景色を作ればよい」
慶次郎が、そこで初めてはっきり頷いた。
「新たな技法、などと今は騒がせるほどでもありますまいな」
「まだ早いな」
「はい。今のところは、窯場の奇妙な工夫に過ぎませぬ」
そこが大事だった。
技法として定着しているのではない。
まだ名前も定まらず、やって見せれば皆が唸る、そういう手前の段階である。
職人頭が唸るように笑う。
「だが、もしそれが本当に一つの景色として立つなら。これはもう、壊れ物の細工では済みませぬ」
「済ませぬためにやる」
俺は、灰の欠片を指先で返した。
鈍く、だが死んではいない。
光を吸って、少しだけ戻す。
「灰はただの灰では弱いな」
慶次郎がこちらを見る。
「では」
「芭蕉銀鼠」
「……芭蕉銀鼠」
「芭蕉の葉裏みたいに、光を静かに返す。鼠だが、冷えすぎてはいない」
職人頭が小さく二度頷いた。
「悪くありませぬ。茶人は好みましょう」
次に、飴の片を光へ寄せる。
茶というには深すぎる。黒というには柔らかい。
夜の中で、どこか高いところに灯りを受けているような色だ。
「これは瑠璃天蓋だな」
慶次郎が眉をわずかに動かす。
「天蓋、でございますか」
「空そのものではない。空を覆うものだ。暗いが、ただ沈むのではなく、上にある」
慶次郎はしばらく黙っていたが、やがて少し笑った。
「芭蕉銀鼠に、瑠璃天蓋。残火の脇へ置くなら、そのくらいの格は要りますな」
「残火だけは別だ」と俺は言った。
「名はもう兄上から出た。これを安く広げるわけにはいかん」
上総介兄上自身も、残火は全部へ付けるな、名を増やすと鈍る、と裁いている。だから中心は残火のままでよい。
慶次郎がそこで話をまとめるように言った。
「では、こう致しましょう。残火を核にする。その上で、残火へ寄せる灰は芭蕉銀鼠、飴は瑠璃天蓋として色を立てる。ただし、それぞれ単体で騒がせず、最後の一器で本領を見せる」
「そうだ」
職人頭が箱の中の破片を見下ろしながら、ぽつりと言った。
「最初からそう焼くのではなく。最初の器をいったん終わらせて、その先の完成を別に立てる。これは……職人の癖が変わりますぞ」
「変えろ」
「は」
「残火が立った以上、次は残火を越えねばならん。ただし、残火の名を潰さずにな」
若い衆の顔つきが変わる。
ようやく皆、ただの相談ではなく、次の窯の話だと腹へ落ちたらしい。
慶次郎が最後に、残火の欠片をそっと箱へ戻した。
「治部様」
「何だ」
「今の話、上総介様へすぐ持って上げますか」
「いや、まだだ」
「ほう」
「今のままでは、まだ理屈だ。上総介兄上へ出すなら、形になってからにする。言葉だけ持っていっても、あの方は面白がって終わる」
それには、窯場のあちこちで小さく笑いが起きた。
「違いありませぬ」と慶次郎。
「分かっているなら、手を動かせ」
「承知」
窯の前には、まだ熱が残っていた。
残火。
芭蕉銀鼠。
瑠璃天蓋。
まだ誰も知らぬ。
技法の名すら立っていない。
だが、壊れを直す話ではなく、その先にだけある一器を狙うという発想だけは、もうここに生まれていた。
♢
稲葉山城へ上がる道すがら、俺は布包みを抱え直した。
軽い。
だが、今日は妙に重く感じる。
残火を持って上がった時は、まだ「よく焼けた赤を見ていただく」という筋があった。
兄上の口から名を頂き、その後に継ぎの残火を見ていただいた時も、「この先へ行けるか」を試す気持ちの方が強かった。
だが、今日は違う。
今日持っているのは、最初から最後の一器として設計したものだ。
壊れたから継いだのではない。
継ぐために、最初の一器を越えさせた。
残火。
芭蕉銀鼠。
瑠璃天蓋。
火と灰と夜を、一つの景色へ閉じ込める。
そう言い切ってしまえば簡単だが、窯場では誰も最初からその顔を信じてはいなかった。
慶次郎ですら、最後に立ち上がった一碗を見た時には、しばらく声を失っていた。
あれを兄上へ持っていく。
ここで刺さらなければ、ただの思いつきだ。
だが刺されば、残火の次ではない。
治部家の窯そのものが、別のところへ行く。
「治部」
案内の先で、上総介兄上はいつものように俺の手元を見て笑った。
「今日は顔が違うな」
「そう見えますか」
「見える。面白いものを持ってきた顔だ。しかも、持ってきた本人が、半分はまだその威力を疑っておる顔だ」
その見立ては、妙に腹が立つほど当たっていた。
「上総介兄上にだけは、嘘がつけませぬな」
「他にはつけるような言い方だな」
「そこは言い回しにございます」
「よい。で、何だ」
俺は、いつものように前置きをしなかった。
今日は言葉を足すほど、かえって軽くなる気がした。
「新しい継ぎにございます」
「ほう」
「ただし、前のように割れた後を継いだものではありませぬ。最初から、この一器を最後の形として狙いました」
兄上の目が、わずかに細くなる。
「なるほど。ようやく、そこへ行ったか」
そこで初めて、少し背筋が冷えた。
この人は、俺たちが窯場で何を越えようとしたかを、説明抜きで半分くらい分かっている。
「見せよ」
布をほどく。
部屋の光の中へ出した瞬間、空気が一段沈んだ気がした。
器の胴には、残火の赤が立っている。
だが、前の残火のようにそれだけが押し出してくるのではない。
口縁には、芭蕉銀鼠が冷えた光を薄く返し、胴の一方には瑠璃天蓋が、夜の奥行きみたいに沈んでいる。
継ぎ目の金は騒がない。
騒がぬくせに、残火と銀鼠と瑠璃天蓋の境を、まるで最初からそこへ置くために引かれていた線のように見せる。
兄上は、すぐには手を出さなかった。
まず、見た。
見るというより、器の中へ目が入っていく。
「……」
無言のまま、兄上はそれを手に取った。
高台を見る。
指で口縁を撫でる。
残火から銀鼠へ、銀鼠から瑠璃天蓋へ、そしてまた残火へ、目が行って戻る。
部屋が静かだった。
慶次郎も、左近将監も、今日は一言も差し挟まない。
こういう時は、誰かの解説など邪魔だ。
上総介兄上は、器を少し傾けた。
残火が、光を受けて一度だけ熱を返す。
だがその熱は、すぐ銀鼠に吸われる。
吸われたかと思えば、瑠璃天蓋の奥から、深い闇の艶がそれを抱える。
赤が燃えるのでなく、消え切らぬ。
消え切らぬものを、灰と夜が両側から抱いている。
上総介兄上の指が、ぴたりと止まった。
「治部」
「はい」
「これは……」
そこで上総介兄上は言葉を切った。
この人が、目の前の品に対して言葉を切ることは珍しい。
まして、見た瞬間に良し悪しを切ってしまう人が、そこで止まるのはなおさらだった。
「前の残火でもないな」
「はい」
「継ぎとも、もう言い切りにくい」
「そうかもしれませぬ」
「いや」
上総介兄上は小さく首を振る。
「もう“壊れを継いだもの”ではない。最初からこうであった器が、後から見つかったようだ」
その一言で、職人頭が息を呑んだ。
そこだ。
まさに、そこを狙っていた。
継いだことが分かるのに、継いだからこうなったのではなく、最初からそういう景色としてこの世にあったように見えること。
それを兄上は、一目で言い当てた。
慶次郎が低く言う。
「お見事にございます」
兄上は答えない。
まだ器から目を離さない。
「残火は、火の名だった」
ぽつりと、兄上が言った。
「はい」
「だがこれは、火だけではない。火があり、灰があり、その上に夜がある。それなのに、どれも負けておらぬ」
兄上はそこで、ようやく器を両手に持ち直した。
「治部。お前、どこまで行くつもりだ」
笑っていた。
だが、笑っているだけではない声音だった。
「兄上の目が止まるところまで」
「止まらぬと知っておって申すか」
「だから困っております」
その返しに、兄上は小さく笑った。
だが、すぐまた真顔に戻る。
「これは、よい。いや、よいでは足りぬな」
そこで兄上は、珍しくはっきりと息を吸った。
「俺は、これほど見事に“残ったもの”を器にされたのを知らぬ」
部屋が、また静かになる。
兄上はもう一度、残火の赤へ目を落とした。
「燃え盛る火なら、人は誰でも見る。だが、燃えた後に残る熱は、見ようとせねば見えぬ。灰もそうだ。夜もそうだ。見えぬものばかり拾って、ここまで一つへ納めたか」
それは、今までの兄上の褒め方と違った。
良い、面白い、売れる、欲しい、そういう言い方ではない。
もっと深いところで、まっすぐ届いている声だった。
兄上は、そこでふいに笑みを消した。
「……まいったな」
その一言に、俺は思わず顔を上げた。
兄上の目元が、ほんの少しだけ濡れて見えた。
泣いている、と言うほどではない。
だが、あの兄上の目に、ほんのわずかでも熱が浮くところなど、そうそう見られるものではない。
「上総介兄上」
「黙れ」
声は低い。
だが怒ってはいない。
「こういう時に余計なことを言うな」
「……はい」
俺は素直に口を閉じた。
兄上は器を見たまま、少しだけ目を細める。
「よいものは、よいで済む。面白いものは、面白いで済む。だがこれは、その二つでは済まぬ」
そして、兄上はゆっくり顔を上げた。
「治部よ。これは見事だ」
その“見事”は、軽くなかった。
「見事にございます、と誰かへ返すための見事ではない。俺が今ここで、そうとしか言えぬほど見事だ」
言い切ってから、兄上は少しだけ笑った。
「器を褒めておるのか、お前を褒めておるのか、分からぬな」
「両方で頂ければ助かります」
「欲張りめ」
だが、その声も柔らかい。
兄上は、また器へ目を落とした。
「残火は俺が名を付けた。だが、これはもう、名を付けた俺の手を離れたな。お前の窯が、俺の思うより先へ行った」
その言葉は、俺には思った以上に重かった。
名を頂いたことより重いかもしれぬ。
兄上が、自分の名付けたものの先へ行ったと認める。
それは、なかなか出る言葉ではない。
慶次郎が、珍しく少しだけ前へ出た。
「上総介様」
「何だ」
「いまの一言だけで、窯はあと三年走れます」
兄上は鼻で笑った。
「三年で足りるか。十年走らせよ」
「承知しました」
そのやり取りで、部屋にようやく息が戻った。
だが、兄上の目はまだ器の上にある。
「これは市へは出すな」
「はい」
「贈る相手も選べ。銭になるからといって、分からぬ者へ渡すな。欲しがる口は多かろうが、この最初の一器は、俺が預かる」
それは命令だった。
だが、半分は奪うような言い方ではない。
自分の手元で抱えて見ていたい、そういう欲の声だった。
「ありがたく」
「礼はまだ早い。これは俺が貰う」
「承知しました」
兄上はそこで、ようやく少し悪い顔をした。
「治部」
「はい」
「次も作れ」
「それは、もちろん」
「同じものを、ではないぞ」
「分かっております」
「俺を二度泣かせる気で持って来い」
その言葉には、思わず笑いそうになった。
だが、笑うのも違う気がして、結局ただ深く頭を下げた。
「心得ました」
兄上は最後に、もう一度だけ器を見た。
「よいものを持ってきた。いや、違うな」
少しだけ間がある。
「お前は今日、よい器ではなく、よい景色を持ってきた」
それが、たぶん今まででいちばん、手放しの誉め言葉だった。
♢
部屋を辞して、廊へ出る。
布包みはもう空いている。
手元から離れたのに、不思議と軽くはなかった。
慶次郎が、しばらく黙ったまま歩いていた。
やがて、ぽつりと言う。
「治部様」
「何だ」
「今のは、もう褒めたを通り越しておりましたな」
「そうだな」
「上総介様、少し泣きそうでございました」
「見たか」
「見ました。拙者も、少し危ううございました」
それには少し笑った。
「お前でもか」
「拙者だからこそ、でございましょう。作る理屈を知っていて、なおあれです」
廊の先の風が少し冷たい。
だが胸の内は、まだ窯の前みたいに熱を持っていた。
兄上が泣きそうになるほど刺さった。
しかも、器が良いではなく、景色を持ってきたと言った。
そこまで行けば、もう“よく焼けた”“うまく継いだ”の先だ。
治部の窯は、ようやくそこへ手をかけたのだと思えた。
「慶次郎」
「はい」
「次はもっと面倒だぞ」
「でしょうな」
「兄上が俺を二度泣かせる気で持って来いと仰った」
慶次郎は、そこで珍しく声を立てずに笑った。
「無茶を仰る」
「いつものことだ」
「違いありませぬ」
だが、足は軽かった。
空の布包みを抱え直しながら、俺は一つだけ思った。
残火は、これで本当に戦国の品になった。
そして今日のあれで、たぶんもう、ただの商いの札でもなくなった。
兄上の胸へ刺さった以上、あれは織田の景色の一つになってしまったのだ。
♢
稲葉山から戻った足で、俺はそのまま窯場へ入った。
まだ日が高い。
だが、ここの光はいつでも少し遅れている。
屋根の下に熱がこもり、土と灰と湿った薪の匂いが混ざると、外とは違う時間が流れ始める。
半兵衛が、入口の影からこちらを見た。
「兄上様のお気に召しましたか」
「気に入るどころではなかった」
「ほう」
「『俺を二度泣かせる気で持って来い』だ」
半兵衛の顔から、薄い笑いが一度消えた。
あいつの中で、その言葉の重みを測っているのだろう。
「それはまた、えらく大きく出られましたな」
「出たんじゃない。出されたんだ」
そう言ってから、俺は少しだけ息を吐いた。
継ぎの残火は刺さった。
あれで終わりでもよかったのかもしれない。
普通の商いなら、十分すぎる。
名も立った。最上も取れた。兄上の手元へ残る一器にもなった。
だが、兄上がああ言った以上、終わりではなくなった。
二度泣かせる。
それは、同じものをもう一つ持っていけばよいという意味ではない。
残火を上手くしただけでも駄目だ。
継ぎを精妙にしただけでも足りない。
あの人はたぶん、もう「器の出来」そのものでは泣かない。
次に要るのは、**器の出来を越えて、茶の席そのものを変えてしまう一碗**だ。
「治部様」
職人頭が寄ってきた。
手には、昨日の試しに焼いた椀がいくつか載っている。
芭蕉銀鼠主体のもの。瑠璃天蓋を多く立てたもの。どれも悪くない。いや、十分よい。
だが、兄上のあの一言のあとで見ると、どれも“まだここまで”に見えた。
「これではございませぬか」
「違う」
俺は即座に首を振った。
「悪くない。むしろ立っている」
「だが、これを持っていけば、兄上は『よく仕上げた』とは仰るだろう」
「だが、それで終わる」
慶次郎が静かに問う。
「何が要ります」
俺は、そのまま答えず、窯場の隅に置かれていた箱を開けた。
中には、残火の片。芭蕉銀鼠の片。瑠璃天蓋の片。
焼けたが、欠けたもの。景色はあるが、器としては落としたもの。
だが、こういう時に本当に要るのは、むしろこっちだ。
残火の破片を一つ拾う。
次に、銀鼠。
最後に、飴。
三つを掌に並べる。
赤は、やはり強い。
ただ置くだけで、そこへ目が行く。
だからそのまま見せれば、勝ってしまう。
勝つからこそ、次には使えない。
「慶次郎」
「はい」
「兄上は、継ぎの残火を見て何に打たれたと思う」
慶次郎は少し考えた。
「壊れを越えた後の景色、でございましょう」
「半分はそうだ。だが、もう半分ある」
「申してみて下さい」
「見えぬものだ」
慶次郎の目が、わずかに細くなる。
「見えぬもの」
「兄上は仰った。燃え盛る火は誰でも見る。だが、燃えた後に残る熱は、見ようとせねば見えぬ、と」
窯場が静まる。
職人頭も、若い衆も、口を挟まない。
今は言葉の意味を一度腹へ落とす時だ。
「残火は、もう見せた。継いだ残火も見せた。なら次は、火を見せてはいかん」
職人頭が思わず眉を寄せた。
「残火を、見せぬ」
「そうだ」
俺は、手の中の銀鼠を先に置いた。
「芭蕉銀鼠で外を静める」
次に、瑠璃天蓋を置く。
「瑠璃天蓋で夜を張る」
最後に、残火を指先でつまむ。
「残火は、底へ沈める」
慶次郎が、ごく低く復唱した。
「底へ」
「見込みの奥だ。手に持った時には見えすぎない。置いた時にも騒がない。だが、茶を点て、口を寄せ、飲み下してゆくうちに、最後にだけ火が立つ」
そこで、若い職人の一人が息を呑んだ。
「それは……。茶を飲みきる頃に、景色が変わるのでございますか」
「そうだ」
職人頭が、ほとんど唸るように言った。
「最初から最後まで一つの顔ではない。一服の中で、夜から火へ移るのか」
「そういうことだ」
慶次郎が、ここでようやく笑った。
いつもの笑いではない。
完全に腹へ落ちた時の顔だった。
「なるほど。兄上様を二度泣かせるなら、そこまでやらねばなりませぬな」
「そうだ。継ぎの残火は、見れば刺さる。だが今度は、使って初めて刺さる。そこまで行けば、ただの器ではない」
慶次郎は頷く。
「茶の席の中で、最後にだけ火を出す。それはたしかに、いままでにはございませぬ」
職人頭が、箱の中の椀を取り出した。
やや深めで、見込みがよく沈む形のものだ。
「形は、これに寄せましょう」
「深めだな」
「はい。浅いと底が見えすぎます。見えすぎれば、最初から種が割れる。少しだけ覗き込ませるようにし、飲み進めて、ようやく最後に残火が立つようにしたい」
「口縁は」
「わずかにすぼめます。ただし、利きすぎると野暮になる。覗けば底へ視線が落ちる、そのぎりぎりで」
慶次郎が受ける。
「外は銀鼠を多く。天蓋はただの飴に戻さず、夜を張る程度に。残火は見込みの一点でなく、少し崩して沈める。底に火が残っているように」
俺は頷いた。
「綺麗すぎるな。もっと、最後の最後にようやく見つかる火でよい」
職人頭が、小さく笑った。
「治部様」
「何だ」
「だんだん器の話ではなく、夜の話をしておられますぞ」
「夜の話で器が立つなら、その方がよい」
それには窯場のあちこちで、小さく笑いが起きた。
だが、手はもう止まらない。
皆、頭の中でその一碗を見始めている。
慶次郎が、少しだけ真面目な声で言った。
「治部様」
「何だ」
「これは、もう残火そのものを超えますな」
「超えさせる」
「名は」
「増やさぬ」
そこは即答した。
「残火は残火だ。兄上の口から出た名を、むやみに増やすわけにはいかん。今回は、残火の次ではあるが、残火の外へは出ぬ」
慶次郎が満足げに頷く。
「よろしい。兄上様が前に仰った『名を増やすと鈍る』を、ちゃんと踏まえておられる」
「増やすのは名ではない。使い方だ」
そう言うと、職人頭がほとんど呻くように息を吐いた。
「使い方、か」
「そうだ。継ぎで驚かせるのではない。最後の一口まで飲ませて、そこで景色を完成させる」
若い職人が、ぽつりと言った。
「それでは、器は半分で出して、客に残り半分を作らせるようなものでございますな」
「上出来だ」
俺はその若い衆を見た。
「それが分かったなら、もう半分できてる」
慶次郎が笑う。
「では、やりましょう。継ぎの残火で終わるなら、それは一発の名物にございます。だが今の話まで行けば、治部様の窯は、器そのものでなく、席の景色を売れる」
そこまで言われると、少しだけ可笑しくなる。
「お前、商いの顔になったな」
「最初からにございます」
「違いない」
職人頭が、深めの椀を一つ、両手で持ち上げた。
「これを下絵に致します。外は静かに。中は最後にだけ火が立つように。茶を飲み干すまで、景色を隠す」
「それでいい」
慶次郎が最後に、静かに言う。
「治部様」
「何だ」
「今度こそ、本当に兄上様を泣かせるやもしれませぬな」
俺は、掌の中の残火片をもう一度見た。
見せれば勝つ火だ。
だが次は、勝たせるために隠す。
隠して、最後にだけ立たせる。
「泣かせるために作るわけじゃない」
「ですが」
「分かってる」
俺は、ようやく少しだけ笑った。
「兄上が『二度泣かせろ』と仰ったんだ。なら、そのつもりで作るしかないだろう」
それで決まった。
窯の前には、まだ熱が残っていた。
継ぎの残火の次。
見込みの底に火を沈め、使うことでしか完成しない一碗。
ようやく、二度目へ手がかかった気がした。
♢
完成した一碗を布へ包みながら、俺は一度だけ手を止めた。
前の継ぎの残火を持って上がった時も、胸は鳴っていた。
だがあの時は、まだ見た目の勝負だった。
見れば刺さる。手に取れば分かる。兄上の目が止まれば、それで半分は決まる。
今回は違う。
今回は、見ただけでは終わらない。
いや、終わってはならない。
外は芭蕉銀鼠と瑠璃天蓋で静めた。
残火は見込みの底へ沈めた。
覗けば、ある。だが、まだ弱い。
本当に火が立つのは、茶を受け、口を寄せ、飲み下してゆく、その最後のところだ。
慶次郎が、俺の手元を見ていた。
「迷っておられますな」
「少しな」
「今さら、でございます」
「今さらだからだ」
そう言うと、慶次郎は小さく笑った。
「兄上様は、前の継ぎで『俺を二度泣かせる気で持って来い』と仰いました。ならば、今度は本当に泣かせるしかありますまい」
「他人事みたいに言うな」
「半分は他人事にございます。残り半分は、私も巻き込まれております」
それには少しだけ笑った。
だが、笑ったところで手の重さは変わらない。
職人頭が、少し離れたところから口を出す。
「治部様」
「何だ」
「今度のは、見て頂くだけでは足りますまい」
「分かってる」
「お使い頂かねば」
「それも分かってる」
そこがいちばん難しい。
兄上は茶の人だ。
使えば分かる。使ってこそ分かる。そこまでは間違いない。
だが、ただ器を見せるのでなく、実際に一服進めてもらうとなれば、もう品の話だけではない。席の取り回しまでこちらの仕事になる。
「慶次郎」
「はい」
「薄茶でいく。濃くすると、最初から底が沈みすぎる」
「はい」
「最初の一服は、兄上お一人だ。人前では駄目だ。途中で誰かが言葉を挟むと景色が割れる」
慶次郎は、そこで顔を少しだけ引き締めた。
「そこまで読むのでございますか」
「読まないと持っていく意味がない」
前の残火は、見た瞬間に景色が立った。
だから部屋に他人がいてもよかった。
だが今度は違う。
最初は静かで、飲み進めるうちにだけ火が立つ。
その移りを見てもらうには、余計な音があってはならない。
「行くぞ」
短くそう言って、俺は布包みを抱えた。
♢
稲葉山の部屋は、いつもより少し暗くしてあった。
兄上の好みというより、今日はこちらがそう頼んだ。
明るすぎると、銀鼠も天蓋も先に騒ぎすぎる。
静かなところから始めたい。
兄上は、その部屋へ入った時点で少し面白そうな顔をした。
「治部、今度は、随分と仰々しいな」
「今日は、見て頂くだけでは済みませぬ。一服までお願い致します」
「ほう。そこまで言うか」
「そこまででなければ、意味がございませぬ」
兄上はしばらく俺を見ていたが、やがて口元を少し上げた。
「よい。そこまで言うなら乗ってやる」
「ありがたく」
部屋には、俺と兄上と慶次郎だけを残した。
左近将監も外した。
あいつは目利きだが、今日ばかりは余計な顔が一つでもあると駄目だと思った。
俺は、静かに布をほどいた。
茶碗を置く。
兄上は、まず見た。
芭蕉銀鼠が外を静めている。
瑠璃天蓋が、夜のように深く添う。
残火はまだ出すぎない。
見込みの底に、火の気配だけを沈めている。
兄上は手を伸ばし、器を取った。
「……静かだな」
「はい」
「前の残火より、よほど静かだ。だが、静かなだけではあるまい」
「ございます」
それ以上は言わない。
今日は説明が多いほど負ける。
兄上は高台を見、口縁を見、見込みを覗いた。
「底か」
「はい」
「隠したな」
「沈めました」
兄上は、それを聞いてわずかに笑った。
「なるほど。見せれば勝つ火を、あえて沈めたか」
さすがに早い。
だが、そこが分かるだけではまだ半分だ。
「一服を」
「うむ」
慶次郎が茶を点てる。
音が小さい。
茶筅の立つ音まで、今日は妙に耳へ入る。
兄上は茶碗を受けた。
最初の角度では、まだ銀鼠と天蓋が立つ。
残火は、底の暗がりに沈んだままだ。
兄上が少しだけ首を傾けた。
「……なるほどな」
その低い声に、俺は呼吸を浅くした。
兄上は、すぐには飲まない。
まず見ている。
手の中で少しだけ回し、光を探る。
だが今日の景色は、見ただけでは終わらない。
やがて、兄上は口を寄せた。
一口。
茶が減る。
見込みの底の暗がりが、ほんの少しだけ浅くなる。
その奥で、残火がまだ立たないまま熱だけを返す。
兄上の指が、ほんのわずかに止まった。
二口目。
そこで初めて、底の残火が茶の奥から浮き始めた。
銀鼠の冷えと、天蓋の夜の中に、消え切らぬ火が現れる。
前の継ぎの残火のように、最初から言い切る火ではない。
見ようとして、ようやく見つかる火だ。
兄上の目が、そこで変わった。
三口目。
茶はさらに下がる。
残火が、今度ははっきり見える。
だが強すぎない。
最後まで静かで、静かなまま底に残る。
兄上は、そのまましばらく動かなかった。
茶碗を手にしたまま、底の残火を見ている。
部屋が、しんと静まる。
慶次郎も動かない。
俺も息を殺している。
やがて、兄上がごく低く言った。
「……そう来たか」
それだけだった。
だが、その一言で、半分は勝ったと分かった。
兄上は茶碗をもう一度覗いた。
「最初は夜だ。銀鼠が冷やし、天蓋が覆う。だが、飲み進めると底から火が出る」
「はい」
「火を見せるのではなく、最後にだけ見つけさせる」
「はい」
兄上は、そこでようやく顔を上げた。
だが、目はまだ完全にはこちらへ戻っていない。
半分はまだ器の中だ。
「治部、これは卑怯だな」
思わず、俺は少しだけ目を瞬いた。
「卑怯、にございますか」
「ああ。最初に見せぬからだ。見せぬくせに、最後にだけ置いていく」
その言い方に、慶次郎がかすかに笑いを呑んだのが分かった。
だが兄上は続ける。
「前の残火は、見た瞬間に胸へ入った。だが今度のは違う。飲ませた後で残る」
そこで、兄上はまた黙った。
茶碗を持つ手が、ほんの少しだけ強くなる。
「……まいった」
前にも聞いた一言だった。
だが、今度はもっと静かで、もっと深い。
兄上は器を膝の上へ置いた。
そして、しばらく何も言わなかった。
俺は、あえて一言も足さない。
ここで理屈を挟めば、全部が軽くなる。
兄上は、やがてぽつりと言った。
「前の時は、お前がよい景色を持ってきたと思った。だが、今度のは景色ですらないな」
俺は黙って聞く。
「これは、時だ」
その一言で、胸の奥が鳴った。
「夜があって、熱があって、最後にだけ火が残る。茶を飲む時の中に、時が封じてある」
兄上の声は低い。
低いが、今までにないほど真っ直ぐだった。
「俺は、こういうものを知らぬ。知らぬくせに、見た瞬間に分かる。よいものを越えておる」
そのまま、兄上は茶碗を見た。
「治部、お前は、とうとう器で茶の席をいじり始めたな」
「そのつもりでございました」
「だろうな」
兄上は小さく笑った。
笑ったが、目元はまだ熱を引いていない。
「継ぎで驚かせるだけなら、いずれ慣れる。色で押すだけでも、いずれ飽きる。だが、これは使うた者の中に残る」
その一言一言が重かった。
前の継ぎの残火の時も強く褒められた。だが、今回は質が違う。
品の出来ではない。
品が席に何を起こすかまで見て、そこを褒めている。
「上総介兄上」
「黙れ。こういう時に、お前は余計なことを申す」
「……はい」
俺は素直に引っ込む。
兄上は、器を見込みの底から外へ返し、また底へ戻した。
「最初の一服は静かだ。二服目で底が気になる。最後に、火が残る。人はそこで、飲み終わったあとにもう一度覗く」
そこで、ようやく兄上は俺を見た。
「この一碗は、人に茶を飲ませたあとで、もう一度手を止めさせる」
それが、兄上の中でいちばん高い評価の一つだと分かった。
戦国の忙しい人間に、飲み終えた後でなお、もう一度器を覗かせる。
それは、ただ珍しいでは届かない。
「見事だ」
今度の“見事”は、前よりなお重かった。
「前の残火にも打たれた。だが今回は、打たれたあとで黙るしかない」
兄上は、そこで少し笑った。
「お前、俺を二度泣かせる気で持って来いどころか、今度は、泣いたあとで黙らせる気で持ってきたな」
その言葉に、さすがに少し笑ってしまいそうになった。
だが、堪えた。
「心得違いでなければ、幸いにございます」
「心得違いではない」
兄上ははっきりと言った。
「治部、これはもう、ただの名物ではない。お前の窯が、一つ茶の道へ口を出した」
その一言は、前の「よい景色を持ってきた」よりさらに重かった。
慶次郎が、そこでようやく深く頭を下げた。
「それ以上のお言葉はございませぬ」
兄上は、ゆっくり息を吐いた。
「ある」
その声に、俺も慶次郎も顔を上げる。
兄上は、茶碗を両手に持ったまま言った。
「俺は、これが欲しい」
短い。
だが、その短さが何より強い。
「銭の話ではない。珍しいからでもない。俺がこの時を、手元へ置いておきたい」
部屋が静まり返る。
信長が、ここまでまっすぐ欲を言うのは珍しい。
しかも器そのものを欲しいのではない。
器の中に封じられた時を欲しいと言った。
俺は、深く頭を下げた。
「ありがたく」
「礼はまだ早い。これは俺が預かる」
「承知しました」
兄上はそこで、ようやく少し悪い顔へ戻った。
「だが治部、次も作れ」
「もちろん」
「同じものを、ではないぞ」
「分かっております」
「今度は、俺が黙ったあとで、何を言うか考えさせるものを持って来い」
それには、さすがに少しだけ笑ってしまった。
「無茶を仰る」
「お前にだけは言われたくない」
兄上の目元には、まだ少しだけ熱が残っていた。
泣く、とまでは言わぬ。
だが、あの兄上がここまで言葉を失い、ここまで欲を見せる。
それで十分だった。
「よいものを持ってきた。いや、違うな」
少しだけ間がある。
「お前は今日、器の中へ“時”を閉じ込めて持ってきた」
それが、前の「よい景色を持ってきた」をさらに越える、今までにない誉め言葉だった。
♢
部屋を辞して、廊へ出る。
布包みは空いている。
だが、前よりもさらに軽くはなかった。
慶次郎が、しばらく何も言わずに歩いていた。
やがて、ようやく口を開く。
「治部様」
「何だ」
「今のは、もう褒めたを越えておりましたな」
「そうだな」
「兄上様、最初の二口目で、もう目が違っておりました」
「見たか」
「見ました。最後は、少し危ううございました」
それには、小さく息を吐くしかない。
「俺も危うかった」
「でしょうな。ですが、勝ちました」
勝ちました、か。
商いならそうだろう。
だが今日は、勝ったというより、届いたの方が近い。
廊の先から風が入る。
冷たいのに、胸の中はまだ熱い。
「慶次郎」
「はい」
「次はもっと面倒だぞ」
「兄上様が、もうそう仰ったので?」
「仰った。今度は、黙ったあとで何を言うか考えさせるものを持って来い、だと」
慶次郎はそこで、声を立てずに笑った。
「終わりがありませぬな」
「最初から分かってたろう」
「違いありませぬ」
だが、足は軽かった。
継ぎの残火で、兄上を一度泣かせる。
その次で、兄上を絶句させる。
しかも、器の中へ封じた時を欲しいとまで言わせる。
そこまで行けば、もうただの瀬戸物ではない。
戦国の数寄の中へ、治部の窯が一本、確かに道を通したのだと思えた。