織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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028布団と畳制作

朝の霧が、まだ低いまま残っていた。

 

足を踏み入れた瞬間、草履の縁から泥が噛みついてきた。脛の下まで柔らかい。抜こうとすると、ぶ、と鈍い音がして、濁った水が輪になって広がる。鼻の奥へ入ってくるのは、腐りかけた草の匂いと、昨夜の冷えをまだ抱えた水の匂いだった。田にするには厄介だ。苗を入れても、年によって根が負ける。水が引くのが遅い。晴れが続けば表だけ乾いて、下はいつまでもぬるい。こういう土地は、村ではだいたい「どうにもならぬ端」として扱われる。

 

俺はしゃがみ込み、泥へ指を差し入れた。

 

表面だけを見ると、ただ黒い。だが少し掘ると色が変わる。上は重い黒、下は青みのある灰色だ。指先で擦ると細かい。砂っぽくはない。まとわりつく。水を抱き込む泥だ。稲にはきつい。けれど、前世の知識が頭の奥で引っかかった。この感じなら、い草は違う。水を嫌わない。むしろ、こういう湿りが揃って残る場所の方が、葉の太り方が素直になるはずだった。

 

「治部様」

 

畦に立っていた百姓が、心配そうに声を掛けてきた。

 

「そこ、深うございます」

「うん、分かってる」

 

手を抜く。爪の中まで泥が入った。冷たいのに、しばらくすると指先がじんわり温かくなる。水が多い土地の土は、そういう感じがある。底が生きている。

 

俺はその手を見ながら言った。

 

「ここ、稲にしても毎年文句が出るだろう」

「……出ます」

「水が残る」

「残ります」

「晴れが続いても、下が乾き切らない」

「はい」

「なら、稲以外で使うとしよう」

 

百姓はすぐには返事をしなかった。そういう顔になるのも分かる。田は田だ。たとえ出来の悪い田でも、米を外す話は腹へ落ちにくい。

 

俺は立ち上がって、周りを見た。

 

低い。風が抜けにくい。朝霧が居つきやすい。水は上から流れ込むより、この辺りで溜まる。畦の際に生えている野草まで、葉先だけがやけにみずみずしい。

野生のい草も混じっていた。細く、まばらで、背は揃っていない。だが根元の色だけは悪くない。これを見つけた時点で、半分は決まっていた。

 

いや、半分という言い方も違うな。ここからが面倒なのだ。

土地が向いているのと、物になるのは別だ。

 

「野生のままじゃ細い」

 

そう口に出すと、横にいた爺が頷いた。

 

「筵に混ぜるくらいには使えますが、畳表にするには弱うございます」

「分かってる。だから育てる」

 

俺は畦へ上がり、草履の泥を落とした。ぺたり、と重い音が続く。

後ろでは、知多から呼んだ男どもが俵を下ろしていた。魚粉だ。俵の口が少し開いていて、干した魚の腹の匂いがもう漏れている。

生臭い。鼻の奥へ脂っぽさが残る。田畑へ入れる肥やしとしては珍しくないものもあるが、慣れぬ者にはきつい匂いだ。

 

「開けてみろ」

 

男が俵の口をほどく。淡い黄土色の粉が見えた。粒は揃っていない。細かいのもあれば、少し大きい欠片も混じる。指で摘むと、ざらつく。乾いているはずなのに、爪で押すとわずかに脂が滲む感じがあった。

 

俺は鼻へ近づけた。

 

塩。魚。乾いた骨。日の下で干した網。そういう匂いが全部一緒に来る。嫌なだけの匂いじゃない。効く肥やしは、だいたい鼻につく。けれど、やりすぎれば焼ける。草が負ける。そこが難しい。

 

「これを、そのまま入れるんですか」

 

百姓の一人が顔をしかめた。

 

「そのままじゃない」

「混ぜるんで」

「量を区切る。場所も区切る」

 

俺は木杭を持たせ、低い土地を四つに割らせた。広げない。最初から面でやると失敗した時に全部死ぬ。狭く切って、土と水の違いを見た方が早い。一本の畦を境に、魚粉を入れない区画。少しだけ入れる区画。もう少し入れる区画。そこへさらに、炭を入れる場所と入れない場所を分ける。

 

「炭もですか」

 

今度は爺の方が眉を寄せた。

 

「土へ入れる」

「木炭を、ですか」

「細かくしたやつをな」

 

持ってこさせた炭は、普通の燃し残りではない。前から試していたものを、さらに砕き、ふるいに掛けた。指で押すと軽いのに、細かい穴が多い。水を吸い、匂いも抱く。前世の知識をそのまま喋る気はない。そんなことを言っても、この場では怪しまれるだけだ。俺に必要なのは、効いたか効かなかったかだけだ。

 

泥へ炭を落としてみる。

 

黒はすぐには消えない。薄い水の上で浮き、やがて沈む。木杓子で混ぜると、表の色が少しだけ鈍くなる。指を入れてみると、さっきより泥のまとわりつきが軽い。気のせいかもしれない。だが、こういう小さな違いを拾わないと後で分からなくなる。

 

「酸が強すぎる場所がある」

 

俺がそう言うと、百姓たちは顔を見合わせた。「酸」と言っても、この時代の農民へ通じる言葉じゃない。だから俺はしゃがみ込み、泥を二つの手で擦り比べて見せた。

 

「こっちは草の根が痩せる。こっちはまだ持つ」

「……土の当たりが違う、と」

「そうだ。きつい場所を少し和らげたい」

 

爺が、なるほどという顔をした。そこまで落とせば伝わる。

 

最初の植え付けは、気が遠くなるほど地味だった。

 

野生のい草から、比較的太いものだけを拾う。根を洗う。傷んだ部分を落とす。短く切り揃え、区画ごとに深さを変えて植える。水を残しすぎる場所は、畦へ細い逃げを掘る。流しすぎる場所は泥を寄せる。日が差す角度まで見て、隣の木を一本切らせた。午前しか日が入らない場所では葉が細る。だが照りつけすぎると表が乾きすぎる。だから全部を明るくすればいいわけでもない。

 

昼には汗が背中へ回った。

 

足袋はもう諦めた。裸足で泥へ入った方が早い。泥の冷たさと、底の柔らかさが足裏へ直接来る。深い場所は、足首の周りだけひやりとして、指を動かすと下がぬるい。浅い場所は、すぐに熱を持つ。人の手で均しているつもりでも、土地はなかなか揃わない。

 

「治部様、昼を」

 

呼ばれても、すぐには上がれなかった。魚粉を入れた区画の一つで、泥の色がもう違っていたからだ。さっきまで黒かったところへ、油を薄く落としたみたいな鈍い艶が出ている。悪い艶ではない。手で掬うと、指先の離れが少し遅い。餌が入った土の顔になる。

 

匂いも変わる。

 

ただ腐っただけの匂いではなく、魚の腹を刻んだ後のまな板みたいな、重い生臭さがある。それを嫌がる者は多い。だが、草は人間の鼻で育つわけじゃない。

 

「少ないな」

 

俺は俵からもう一掴みだけ足した。

 

「入れすぎますと」

「ここだけだ」

 

区画は狭い。だからこそ、やりすぎを一つは作る価値がある。焼けるか、持つか、葉がどう変わるか。目で見たい。

 

几帳面に量を帳面に記す。些細な違いも、記録から掘り起こせば差異が見える。

 

数日では、何も起こらない。

 

その何も起こらない時間が一番長い。朝に見に行く。霧が残る。泥の色を見る。葉先の張りを見る。昼に見る。日を食った葉の艶を見る。夕方に見る。水が戻る速さを見る。毎日同じようで、少しずつ違う。

 

十日過ぎたあたりで、最初の差が出た。

 

魚粉を入れない区画は、野生の延長みたいな伸び方だった。細い。悪くはない。だが束ねた時に畳表としては弱い。

 

魚粉を控えめに入れた区画は、根元の色が濃い。葉が太り始めている。風が当たると、揺れ方が違う。細い草はさらさら揺れる。太り始めた草は、少し遅れて戻る。そこに弾き返す感じがある。

 

炭を混ぜた区画は、もっと分かりにくい。最初は大差ない。けれど雨の後、泥の表情が違った。べたりと光るのではなく、細かく水を抱えたまま落ち着いている。葉の色も、魚粉だけの区画より、ほんの少し青が澄んで見えた。

 

俺は一本抜いた。

 

根を洗う。白い。途中で腐っていない。指で葉をしごく。繊維が通っている。まだ荒いが、手応えがある。畳表にした時、途中で痩せない葉の感じだ。

 

「見ろ」

 

爺へ渡すと、しばらく指で撫でていた。

 

「……太うございますな」

「こっちは」

「強いです」

 

その一言で十分だった。

 

だが、全部がうまく行ったわけじゃない。魚粉を多く入れた区画の一つは焼けた。根元が茶色くなり、葉先がすぐ傷んだ。匂いもきつすぎた。朝に近づくだけで、鼻の奥へ腐った脂みたいな重さが残る。あれは駄目だ。効くからといって、足せばいいものじゃない。

 

炭も、細かすぎた区画は泥が締まりすぎた。表は落ち着くが、根の伸びが鈍い。逆に粗すぎた区画は、ただ黒い粒が残るだけで、違いが弱い。砕き方一つでこうも変わるのかと、自分で試しながらうんざりした。

 

それでも、当たりは見えた。

 

魚粉は少なめに、切って入れる。炭は細かすぎず、粗すぎず。水は残すが、停めすぎない。根元だけを冷やし、葉先へは朝の光を通す。

 

そこまで揃った時、景色が変わった。

 

朝靄の中で、育った区画だけが青く立って見える。従来の野生のい草は、色がばらける。細い葉、途中で折れた葉、背の足りぬ葉が混じる。だが出来の良い区画は違った。高さが揃う。葉が太い。風が抜けても倒れきらず、押し返す。青も鈍くない。水を抱いた朝の青だ。濃いのに重く見えない。

 

俺は畦へ立って、それをしばらく見ていた。

 

一面、というほどまだ広くはない。狭い。試しの区画だ。けれど、その狭い中だけ、野に勝っていた。人の手で揃えた草が、初めて目へ見える形でそこにあった。

 

「織田のい草だな」

 

誰に聞かせるでもなく、そう口をついた。

 

自分で言って、少しだけ可笑しかった。大層な名だ。まだ畳表になってもいないのに。だが、野に生えた草とはもう違う。太さが違う。張りが違う。束ねた時の重さが違う。手で撫でた時、葉がただ寝るのでなく、少し跳ね返る。

 

爺が横へ来て、同じように見た。

 

「田を潰した甲斐は、ありそうにございますな」

 

俺は頷いた。

 

米が取りにくいからといって、負けた土地とは限らない。人間が負け方に慣れていただけだ。水が残る。泥が重い。臭う。だから駄目だと捨ててきた。その顔つきのまま、草を変え、肥を変え、土の当たりを変えれば、違うものが生える。

 

泥で汚れた足を畦で洗う。水は濁る。指の間に冷えが残る。

 

その冷えの向こうで、青々としたい草が揃って立っていた。あの青は、野の気まぐれじゃない。こちらが泥と匂いに付き合って、何度も外して、ようやく寄せた青だ。

 

俺はもう一度、その中の一本を抜いた。

 

葉を裂く。繊維が真っ直ぐ通る。途中で弱らない。指先へ返るしなりも悪くない。

 

これなら行ける。

 

そう思った時、胸の中へ先に来たのは喜びより、ようやくだ、という疲れだった。ここまで泥を踏んで、魚の臭いに付き合って、炭の砕き方に何度も首を捻った。その全部が、ようやく一本の葉の中へ収まった感じがした。

 

風が吹く。

 

揃った青が、一斉にわずかだけ傾いて、すぐ戻る。

 

その戻り方を見て、俺はようやく笑った。

 

 

潮の匂いが、風の底に薄く混じっていた。

 

西三河の沿岸は、尾張側から渡ってくると、まず土の色が違う。知多の砂混じりの畑とも、尾張の重い田土とも違う。踏むと軽く沈むのに、足裏へ返る感じは乾いている。表だけが日に焼け、少し掘れば細かな湿りが残る。綿の株は、その痩せた土へしがみつくみたいに立っていた。

 

俺はしゃがみ込み、一本の枝を指でつまんだ。

 

葉は広い。だが色が濃すぎない。艶がある。枝の分かれ方は細かく、無駄に上へ突っ張っていない。茎の節ごとに実の跡が残っていた。弾け終えた殻の中に、白い繊維がまだ少し引っかかっている。

 

悪くない。

 

悪くないどころか、この時代の西三河で、こんなふうに綿を立たせているのは大したものだと思う。だからこそ、外へは漏らしたくないのだろう。

 

俺の後ろで、久助が鼻を鳴らした。

 

「見た目は、ただの畑ですな」

「商人の目だとそうか」

「治部さんの目だと違うんで?」

 

俺は返事の代わりに、もう一本、別の株の脇へ手を入れた。根元の土を少し掘り、指先で崩す。乾きすぎていない。だが水を抱え込みすぎてもいない。砂が混じり、風が抜け、余計な湿りが残らない。西三河の沿岸部らしい土だ。

 

「綿は、こっちの方が立つ」

「知多より?」

「今のままならな」

 

久助が、へえ、と短く言った。

 

こいつは津島の商人だ。独立している。治部家の家人ではない。だが人と物の匂いを嗅ぎ分ける鼻だけは信用している。俺一人が三河へ顔を出しても、よそ者として警戒されて終わる。津島の商人筋から手を回し、塩や干物や木綿の小口取引の話に紛れさせて、ようやくこうして畑の際まで来られた。

 

もっとも、来られたからと言って、中身まで見せてもらえるわけじゃない。

 

畑の向こうでは、三河の男たちがまだこっちを見ている。露骨には寄ってこない。だが目が離れない。潮風と日焼けで色の濃くなった顔に、歓迎の色はなかった。

 

久助が肩をすくめる。

 

「嫌われてますねえ」

「そりゃそうだろう」

「他国の侍と津島の商人が、綿の畑を眺めてりゃ」

「津島の商人が混じってる分だけ、まだましだ」

「それは光栄で」

 

ふざけた口を利くが、久助自身も少しずつ声を落としている。ここで気安く喋れば、それだけで向こうの警戒が増す。

 

俺は立ち上がり、畑の端の用水を見た。海が近い。潮が上がる日は、空気だけでなく水の顔まで変わるだろう。だがそこを見越して畝が切られている。高くしすぎず、低くしすぎず。風の抜ける向きも考えてある。誰かが経験で積んだものだ。

 

「いるな」

「何がです」

「ただ作ってるだけじゃない奴が。見て、直して、また立ててる」

 

その手合いを連れて帰れれば早い。

 

種だけ奪っても駄目だ。土の見方、水の切り方、枝の扱い、収穫の時期、干し方、打ち方、全部が絡む。綿は、ただ白い繊維が取れれば終わりじゃない。寝具にするならなおさらだ。中綿の弾力、戻り、湿りの抜け方まで先で効く。

 

だから人がいる。

 

人を押さえないと話にならない。

 

畑の向こうから、一人の男が歩いてきた。年の頃は四十手前か。日に焼けているが、腕の太さは百姓のそれだけじゃない。畑仕事だけでなく、運びや水仕事もしている体だ。目が細い。笑っていない。

 

「津島の久助殿やな」

 

「お久しう」と久助が頭を下げる。

「こちらは?」

「尾張の方で、新しい作をよう見とるお人でして」

 

濁した言い方だ。

 

俺も名乗りを急がない。相手が測ってくる間は、こっちも測る。

 

男は俺の足元を見た。畑の土が草履へ付いている。見物だけの侍ではないと分かったのか、目つきが少しだけ変わった。

 

「新しい作をよう見るお人が、綿に何の用で」

「見に来た」

 

俺はそう言って、さっき摘んだ殻を開いて見せた。

 

「西三河で、これだけ立てるとは思わなかった」

「褒めても何も出えへんで」

「別に媚びてるわけじゃない」

 

言葉が少し硬くなったが、まあいい。ここで愛想を振りまく方が嘘くさい。

 

男は鼻で笑うでもなく、ただじっとこっちを見た。

 

「尾張へ持って帰る気か」

「気はある」

「種を」

「種だけなら意味がない」

「……ほう」

 

その一声で、相手の重みが少し変わった。

 

ただの綿作りではない。少なくとも、種だけ盗まれても同じ物は立たぬと分かっている。その分、自分たちの腕の値打ちも知っている。

 

「人も要る」

 

俺がそう言うと、久助が横で小さく息を止めた気配がした。もう少し回すと思っていたのかもしれない。だがここは回しても仕方がない。こういう相手には、腹の芯だけは見せた方が早い。

 

「尾張へ来い」

「は」

 

後ろで見ていた他の男たちが、わずかにざわついた。

 

「今さら何を言うとる」

「綿を立てる人間ごと欲しい」

「他国の侍は、ようそんなことを言う」

 

声が低くなった。怒っているわけではない。だが試されている。

 

俺は畑へ目を落とした。

 

「ここで立ててるのは分かる。だが、広げるには限りがある」

「……」

「土が合う場所を探し、肥を変え、水を変え、種を選り、収穫を揃えれば、もっと取れる」

「どこの口が」

「俺の口だ」

 

そこで、ようやく俺は男の目をまっすぐ見た。

 

「その代わり、ただ雇う気はない」

「何が違う」

「働かせるだけなら、どこでもやれる」

「……」

「織田の保護下へ入れ。家ごとだ。畑ごと全部は無理でも、腕の立つ者、見れる者、種を選れる者を寄越せ。土も用意する。住まいも用意する。作が立てば取り分も増やす」

 

風が吹いて、綿の葉が一斉に返った。

 

三河の男は答えない。だが、無視でもなかった。後ろの連中が顔を見合わせている。家ごと、という言い方が効いたのだろう。

 

この時代、腕だけ抜かれるのは怖い。男一人が引き抜かれれば、残るのは女房子と痩せた畑だ。だから動かない。なら最初から、丸ごと面倒を見る形へ寄せるしかない。

 

久助が、ここでようやく口を挟んだ。

 

「こっちは、ただの思いつきで言うてるんやないですよ」

 

あ、こいつ今ちょっと寄せたな、と思ったが、相手が商人の言葉を欲しそうだったので止めない。

 

「治部さんは、今も尾張で変なことをようやっとる。炭やら魚の肥やしやら、普通ならやらんことも試して、それでちゃんと物にしよる。寝具でも畳でも、使う身になって考える」

「寝具?」

「そっちはそっちで別口ですわ」

 

久助はへらりと笑ったが、目は笑っていない。

 

「要は、腕を使い潰されへん場所を作る気がある、いうことです」

 

三河の男は、そこで初めて久助を見た。

 

「津島がそこまで言うんか」

「銭の匂いもしますんで」

「正直やな」

「商人ですから」

 

少しだけ空気が緩んだ。

 

だが、それで決まるほど甘くはない。

 

男は畑の真ん中へ戻り、一本の株を指で示した。

 

「これ、何でよう育っとるか分かるか」

 

試してきたか。

 

俺はしゃがみ込み、株の周りを見た。枝の張り。土の乾き。少しだけ盛った畝。用水の位置。根元の色。風の当たり。全部見る。

 

「水が残りすぎない」

「それだけか」

「根を冷やし切らない」

「まだある」

「肥が効きすぎてない」

「何で分かる」

「葉が焼けてない」

「……」

 

男は黙った。否定しないなら、外してはいない。

 

俺は指で土を崩した。

 

「砂が混じる分、軽い。だがそれだけじゃない。お前ら、土を替えてるな」

「替えてる、とは」

「客土してる」

 

後ろの何人かが動いた。

 

当たりだった。

 

潮に近い沿岸の土だけでは弱い。少し内の重い土を足している。全部じゃない。根元だけ、あるいは畝だけ。そうやって保たせている。

 

男はようやく、少し笑った。

 

「やっぱり、ただ見に来たんやないな」

「最初からそう言ってる」

「……何が欲しい」

「種だけじゃなく、お前らのやり方が欲しい」

「簡単に渡せる思うか」

「思ってない」

 

俺は立ち上がった。

 

「だから人ごと来いと言ってる」

 

その日、その場では決まらなかった。

 

当然だ。

 

だが津島の宿へ戻った夜、久助が障子を細く開けて入ってきた時の顔で、半分は読めた。

 

「来ますよ」

「誰が」

「さっきの男の縁の者が、まず見に」

「本人じゃないのか」

「本人はまだ動かんでしょう。そらそうです」

 

久助は灯のそばへ座る。

 

「でも、向こうも分かってます。綿を守るだけならまだしも、広げて太くしたいなら、三河の内だけじゃ息が詰まる。尾張に食い込めるなら悪うない」

「銭か」

「銭だけやないです。保護ですな」

 

そこで久助が少し真面目な顔になった。

 

「今はどこの百姓も、腕があっても、地侍やら在地の顔色やら、いろんなもん見ながら縮んでます。そこを越えられるなら動く」

「織田の名で」

「織田の名で」

 

名は重い。重いが、使い方を間違えれば脅しになる。

 

俺は灯の火を見ながら言った。

 

「押しつけるなよ」

「分かってます」

「来たいと思わせろ」

「それも分かってます」

 

分かっている、と言う時の久助は、本当に分かっている時と、半分だけしか分かっていない時がある。今回の顔は前者だった。

 

三日後、来たのは男ではなく一家だった。

 

爺が一人、その息子夫婦、子が二人。さらに若い男が一人ついてきた。道具は多くない。だが手入れの行き届いた籠と、種を入れた小袋だけは抱え込むように持っている。あれが腕の根だ。

 

「ここで話すんか」

 

俺が聞くと、爺は頷いた。

 

「全部出す気はない」

「全部要らん」

「嘘つけ」

「最初から全部出されたら、こっちが捌けん」

「……」

 

その返しに、爺は少しだけ目を細めた。

 

この手合いには、見栄で広げすぎない方がいい。

 

俺は先に条件を出した。

 

知多に土地を切る。最初は試しで狭く。客土はこっち持ち。魚粉や炭の類いもこっちで出す。住まいも用意する。作が立った分の取り分は約す。逃げ道も残す。三年見て合わなければ、戻るのも止めない。

 

「三年」

 

爺が繰り返した。

 

「短いようで長いな」

「綿は一年で答えが出る。だが土を読むには一年じゃ足りん」

「侍がようそんなことを言う」

「侍だからだ」

「何が違う」

「立たなきゃ次がない」

 

しばらくして、爺が小さく息を吐いた。

 

「行くか」

「親父」

 

息子が声を上げる。女房が子を抱いたまま黙っている。若い男は最初から行く気だった顔だ。

 

爺は、その全員を見てから、俺へ向き直った。

 

「一つだけ」

「何だ」

「綿を、ただ上へ吸われるだけの作にするな」

「しない」

「作る者の腹が膨れん綿は、長持ちせん」

「分かってる」

 

そこで、ようやく決まった。

 

知多へ連れてきた初日、三河の連中は畑を見て、露骨に嫌な顔をした。

 

海から吹きつける風が違う。砂が多い。土が軽い。踏んだ時の沈み方が違う。水の残り方も違う。三河の沿岸で覚えた感触と、知多は似ているようで違う。

 

若い男が、土を握ってすぐに首を振った。

 

「駄目です」

「早いな」

「早いも何も、これでは綿が細る」

「どこが」

「軽すぎる。風に負ける。水も抜ける」

「下は」

「下も浅い。根が落ちきらん」

 

その言い方は容赦がなかった。わざわざ来た土地を、着いて半刻で駄目と言う。普通なら腹も立つ。だが、そう言えるぐらい見えている方が使える。

 

爺も土を割って見ていたが、やがて同じように首を振った。

 

「ここの土では、そのままでは立たん」

 

その一言で、知多側の百姓がむっとした。

 

「土が悪い言うんか」

「悪い」

「おい」

「だが、綿には悪い」

 

俺はその間へ入った。

 

「そのままでは、だろう」

「……そうや」

「なら変える」

 

三河の若い男が笑った。

 

「何を」

「土だ」

「侍が」

「侍でも土は触れる」

 

俺は畑の端へ歩き、前に掘らせておいた土を見せた。知多の砂混じりの表土。そこへ、少し内から運ばせた重い土を混ぜた山。さらに、炭を砕いたものを別に置いてある。

 

爺が眉を寄せた。

 

「黒いな」

「炭だ」

「畑へ入れるんか」

「入れる」

「気が違う」

 

知多の百姓が後ろで笑いかけたが、俺は無視した。

 

炭を土へ混ぜる。砂だけだと抜けすぎる。重い土だけだと締まる。なら中間を作る。水を抱きすぎず、逃がしすぎず。前世の理屈をそのまま喋っても仕方がない。だから手でやる。

 

俺は三河の若い男へ鍬を渡した。

 

「掘れ」

「……」

「嫌なら見てろ」

「やりますよ」

 

鍬が入る。砂が混じる軽い音。そこへ重い客土を落とすと、音が変わる。さらに炭を撒く。黒が風で浮き、鼻の奥へ乾いた匂いが入る。

 

「多すぎると締まりが変わる」

「知ってる」

「知ってて入れるんか」

「見たいからだ」

 

若い男が舌打ちしそうな顔をした。

 

そこへ魚粉の俵が来た。

 

口を開いた瞬間、三河の連中が一斉に顔をしかめる。そりゃそうだ。強い。乾いた魚の腹、骨、脂、塩、網の匂いがまとめて来る。

 

「これも入れる」

「正気か」

「綿は肥を吸う」

「吸うからって、こんな」

「多いのも試す」

 

爺が、そこで初めて俺の顔をまじまじと見た。

 

「お主、どこまでやる気や」

「立つまでだ」

「焼けるぞ」

「焼ける量も見たい」

「……」

 

職人芸は、だいたい嫌がる。失敗が見えていることをわざわざやるからだ。だが、理屈だけの人間も駄目だ。見ないで引く。俺はどちらでもないつもりだった。失敗する区画をわざと作る。焼けるなら、その量を知る。立つなら、その境目を見る。

 

そこから先は、土との喧嘩だった。

 

客土を混ぜる比率を変える。炭の粒の細かさを変える。魚粉の量を切る。撒く場所をずらす。風の当たりを見て畝の向きを変える。水の引けを見て逃がしを掘る。毎日、朝と昼と夕方で土の顔が違う。

 

三河の若い男は、最初の三日はずっと不機嫌だった。

 

「だから言ったでしょう」

「まだだ」

「この色、根が落ちません」

「まだだ」

「侍は待つのが好きですね」

「結果が出る前に諦めるのはもっと嫌いだ」

 

五日目、爺が何も言わなくなった。

 

黙って土を握り、昨日と今日の違いを見ている。悪い兆しだけでなく、持ち直す兆しも拾っている顔だ。

 

十日目、ようやく草の色が変わった。

 

何も入れない区画は、頼りない。やはり細い。客土だけの区画は少しまし。炭を少し入れた区画は、朝の水の持ち方が違う。魚粉を切って入れた区画は、葉の開きが大きい。入れすぎた区画は、見事に焼けた。葉先が痛み、色が鈍る。

 

「駄目なものは駄目やな」

 

若い男がようやく笑った。

 

「当たり前だ」

「でも、こっちは」

「立つ」

 

爺が一本、株を抜いた。根の白さを見る。繊維を裂く。指で茎をしごく。

 

「……まだ荒い」

「知ってる」

「だが」

「だが?」

「死んどらん」

 

その一言は重かった。

 

そこから先は、種だ。

 

三河から持ってきた小袋を広げ、勢いの強いものだけを残す。小さく痩せた種を外す。殻の色、丸み、詰まり具合。手のひらの上で転がすと違いが分かる。

 

若い男が言った。

 

「こっち」

「何で」

「勢いがあります」

「何で分かる」

「重い」

 

指で弾く。ころりと転がる。たしかに違う。そこで俺も選り分けに加わった。

 

魚粉はさらに強くした。

 

綿は吸う。食う。だから入れる。だがただ撒けばいいわけじゃない。火薬の配合みたいに、とは口には出さなかったが、頭の中ではそれに近かった。量を切る。区画を切る。どこへ、いつ、どれだけ入れたかを残す。俺は板へ炭で印を書き、畑ごとの施肥量と客土の比率、炭の粒の粗さまで控えさせた。

 

若い男が呆れた。

 

「そんなもん、いちいち書くんですか」

「書かないと忘れる」

「手が覚えます」

「お前の手はな。他の手は?」

「……」

「誰がやっても同じところまで持っていけるようにする」

 

爺が、その時だけは静かに頷いた。

 

摘心を始めたのは、その後だった。

 

ただ上へ伸ばすと、見た目は立派だが実が散る。先を止める。枝を張らせる。実を横へ寄せる。三河では口で伝わっていたことを、一つずつ止めて確かめる。

 

若い男が芽先を摘みながら言う。

 

「ここ」

「そこか」

「これ以上行かせると、上へ逃げます」

「横へ張らせる」

「そうです」

 

俺はそれをそのまま板へ描かせた。棒のような主茎、そこから出る枝、摘む位置、残す節。絵は下手でいい。分かればいい。次の年、別の畑で、別の人間が見ても同じところを摘めるようにする。

 

「そんなもん残して、どうするんで」

 

若い男の問いに、俺は枝の先を指で折りながら答えた。

 

「お前がいなくても回るようにする」

「ひどい話や」

「だからお前の値も上がる」

「……」

「お前しか出来ない、で止まると広がらん。お前が教えて回せる、まで行くと太くなる」

 

久助がそれを聞いて、後ろで一人だけ笑っていた。

 

夏を越える頃には、畑の顔が変わった。

 

知多の風を受けても倒れきらない。枝が横へ張る。実が散らばらず、集まってつく。葉の色も薄くない。触ると、茎にまだ力が残っている。

 

そして秋、朝の畑が白くなった。

 

最初に見た時、一瞬だけ本当に雪かと思った。知多の風の中で、弾けた綿が一斉に白を見せる。葉の緑はまだ残っているのに、その間から白だけが浮いている。まだらではない。畝ごとに、白が続く。

 

若い男が、声を失っていた。

 

爺はしゃがみ込み、そっと一つ摘んだ。掌で転がし、指で押す。弾力がある。指を離すと戻る。白も濁っていない。

 

俺も一つ取った。

 

軽い。だが軽いだけじゃない。中に空気がある。ふわりとして、それでいてだらけていない。活性炭と合わせた時、どう動くかが頭に浮かんだ。寝具にした時、兵の背中をどう受けるか。冷えた夜、どこまで熱を抱くか。京の公家が指でつまんだ時、どう驚くか。

 

そこまで一気に見えた。

 

だが、その未来を誰かへ喋る気はなかった。今ここにあるのは、ただの綿だ。けれど、ただの綿ではない。

 

三河の腕と、知多の土と、魚の臭いと、炭の黒と、俺のしつこさで立てた綿だ。

 

爺が静かに言った。

 

「これなら、向こうでも売れる」

「まずこっちだ」

「欲張りやな」

「綿を立てるには、そのくらいでいい」

 

俺は掌の中の白を見た。

 

石高だけで人は縛れない。土地を切るだけでは、いつか詰まる。だが、こうして土から別の価値を立てられるなら、話は変わる。兵を温める。女や子を冷えから守る。商人を寄せる。遠い都の寝所へまで入り込む。

 

白いだけの綿が、そこまで行く。

 

風が吹き、開いた綿が揺れた。白がざわめく。まるで畑一面に、音のない波が立つみたいだった。

 

俺はその中へ足を踏み入れ、もう一つ摘んだ。

 

柔らかい。だが芯がある。

 

それで十分だった。次へ進める。

 

 

窯口の熱が、顔の皮をそのまま剥がしにくるみたいだった。

 

頬へまともに当たる前に、俺は袖で口元を押さえた。熱いだけじゃない。煤と、焼けた木の油と、まだ抜けきらない生臭い匂いが混じっている。炭焼き場の空気は、ただ暑いのではなく、重い。息を吸うたび、喉の奥へ黒い膜が一枚ずつ貼りつく感じがした。

 

「治部様、近い」

 

窯場の親父が怒鳴る。

 

「近づきすぎると眉がなくなりますぞ」

「眉だけで済むなら安い」

 

俺はそう返しながら、竹筒の先を窯の脇へ差し込ませた。中では、一度焼き上がった炭をさらに火へ戻している。普通の炭焼きなら、ここで終わりだ。火を落とし、冷まし、割れを見て、良し悪しを決める。だが今日は違う。俺が欲しいのは、ただ火付きの良い炭でも、長持ちする炭でもない。

 

臭いを抱え込み、湿りを吸い、空気の澱みまで喰う炭だ。

 

そんなものを、この時代の窯でどう作るか。そこから始めている。

 

「水を」

 

声を掛けると、若い衆が甕を抱えて走ってきた。竹筒へ少しずつ注ぐ。中でじゅっと鳴った。竹の内側を滑った水が熱で一気に蒸気へ変わり、窯の脇から白く吹き返す。ふいごが同時に入る。火が唸る。窯口の赤が一段深くなる。

 

炭焼きの親父が、顔をしかめた。

 

「そんなことして、炭が持つんですか」

「持たせる」

「割れますぞ」

「割れたら、割れたで見る」

 

親父はあからさまに不服そうだった。そりゃそうだ。ようやく焼いた炭へ、わざわざ蒸気を寄せ、さらに火を入れる。炭焼きにとっては、正気を疑うやり方だろう。

 

だが、前世の記憶ではここを越えないと駄目だった。高い熱へ、水蒸気と空気を当てる。目には見えない穴を増やす。臭いも湿りも、その穴へ引き込ませる。ただ黒い木ではなく、喰う炭に変える。

 

もちろん、そんな理屈をこの場でそのまま喋っても誰もついてこない。

 

だから、俺は結果で見せることにしていた。

 

「もう少し寄せる」

「まだやるんですか」

「まだ足りん」

 

窯の中で炭が鳴く。ぱき、ぱき、と乾いた音がした後で、もっと細い、ひびの走るような音へ変わっていく。火が木を食っている音じゃない。中身の締まり方が変わっている音だ。

 

俺はその音を聞きながら、頭の中で別の計算も回していた。

 

これが物になれば、畳に入る。布団に入る。兵舎へ入る。寺へ入る。船へも入る。湿りを吸い、臭いを減らし、虫を寄せにくくする。それだけで兵の寝起きが変わる。寝起きが変われば、行軍も変わる。病も減る。城でも寺でも、使い始めたら手放しにくい。

 

しかも、炭そのものは捨てずに済む。回収して焼き直せば、また使える。

 

売って終わりの品じゃない。

 

何年かごとに表替え、打ち直し、炭の入れ替えで、必ずこっちへ戻ってくる。縁を切らせない商いになる。

 

「治部さん」

 

後ろから久助の声がした。

 

振り向くと、津島の商人らしく涼しい顔をして立っている。顔は涼しいが、鼻の頭に煤がついていた。炭焼き場で涼しい顔をしても、そこまでは隠せない。

 

「寺でも売る気ですか」

「寺だけじゃ足りん」

「武家」

「武家、寺、船持ち、あとは金のある町人」

 

久助が笑う。

 

「欲張りですなあ」

 

「欲張らんと、この熱を焚く意味がない」

俺は窯へ目を戻した。

「ただの炭より手間がかかる。手間がかかる物は、高く売るしかない」

 

「で、高いまま終わらせず、手入れでまた戻ってくる形にする」

「分かってるじゃないか」

「商人ですから」

 

竹筒の先から、また蒸気が噴いた。白い。だが長くは出ない。すぐに消える。その一瞬を何度も重ねる。熱を入れ、蒸気を喰わせ、空気も入れる。炭焼き親父は首を振っていたが、やがて何も言わなくなった。言っても止まらないと分かったのだろう。

 

半刻ほどそうしてから、ようやく俺は手を上げた。

 

「落とせ」

 

窯口を絞る。火が低くなる。白い息が細くなり、やがて止まる。熱だけが残る。

 

「これで炭が変わったんですか」

 

若い衆が不思議そうに聞く。

 

「変わってなきゃ困る」

 

言いながらも、まだ断言はしない。断言するのは、水へ落とした後だ。

 

冷ました炭を一つ、桶へ投げ込んだ。

 

ぼこっ、と鈍い音がして、次の瞬間、炭の表から細かい泡がぶわっと噴き出した。大きな泡じゃない。小さな泡が次から次へと表へ湧く。水の中で、炭が息をしているみたいに見えた。

 

若い衆が思わず身を引く。

 

「うわ」

「何だこれ」

「炭が泡を吹いたぞ」

 

炭焼き親父まで桶へ身を乗り出した。

 

「生きておる……」

 

その言い方が、一番しっくりきた。

 

俺は水の中の炭を指で押さえた。手触りが違う。表が少し軽い。だが脆くはなっていない。割ってみると、中まで黒いのに、ただの炭より少し肌理が荒い。狙いどおりだ。

 

「これが、汚れを喰う炭だ」

 

そう言うと、親父が眉を寄せた。

 

「汚れを」

「臭いも、湿りも、籠った空気もだ。喰わせる」

「そんな馬鹿な」

「馬鹿かどうかは使って決めろ」

 

桶から引き上げた炭を布へ置く。水を吸っても、べしゃりとはしていない。ここから先は、割る。

 

ただ割ればいいわけじゃない。粒の大きさで使い道が変わる。畳床へ入れるなら、粉すぎると漏れる。布団の中へ入れるなら、粗いと当たる。早合へ入れるなら、湿りを吸っても散りにくい粒が要る。

 

知多の作業場へ運び込んだ頃には、夕方の光が斜めに差していた。

 

砕き始めると、あっという間に場が黒くなる。木槌が落ちるたび、ぱき、ぱき、と乾いた音がして、次いで黒い粉が舞う。篩へ移す。粗いものが残る。細かいものが落ちる。さらに細かく砕く。炭の粉は遠慮がない。袖へ、頬へ、髪へ、鼻の下へ、すぐに乗る。

 

「治部様、顔が」

 

半兵衛が珍しく口元を緩めた。

 

俺は袖で頬を拭いたが、余計に黒くなるだけだった。

 

「笑うな」

「いえ、近うございます」

「何が」

「未来の工房の顔に」

 

意味深なことを言うが、こいつはこいつで、黒粉が眉の際まで乗っている。

 

久助が後ろで吹き出した。

 

「二人して真っ黒ですな」

「お前もだ」

「俺は商人ですから、黒い顔のまま表へは出ませんよ」

「なら手伝え」

「それは職人の仕事でしょう」

 

言いながらも、久助は篩の横へしゃがみ込んだ。指で粒を拾う。目が変わる。商人の目だ。

 

「粗いのは畳」

「そうだ」

「細かいのは布団」

「そうだ」

「この中ぐらいは」

「早合と箱物だ」

 

半兵衛が頷く。

 

「湿りを嫌うもの全般に回せますな」

「まずは家中だけだ。外へは急がん」

 

俺は板を持ってきて、炭で印を書いた。大。中。小。用途ごとに分ける。誰が見ても分かるようにする。口伝だけでは広がらない。人が変わっても同じ仕事ができるようにしなければ、事業にならない。

 

「厳しいですなあ」

 

久助が粒を指先で転がしながら言う。

 

「商いってのは、緩い方が回ることも多いんですが」

「緩いまま広げると、どこかで粗悪品が混じる」

「それを嫌われますか」

「寝具と畳だぞ。毎日身体へ触る」

「だから、ですか」

 

そうだ。口に入る物と、寝る物はごまかせない。一度嫌われたら終わる。

 

だが、ここで次の問題が出た。

 

粉が漏れる。

 

布団へ混ぜるにしろ、畳へ積むにしろ、このままでは使えない。ただ布へ包めばいい、ではなかった。通気がなければ炭が死ぬ。通しすぎれば粉が出る。白い寝具へ黒い粉が移った時点で、その品は終わりだ。

 

最初に試した麻布は、見事に漏れた。

 

粗めの織りは通気はいいが、粉が逃げる。少し叩いただけで黒が舞う。次に和紙を重ねた。今度は粉は減るが、空気が抜けない。湿りを吸う前に、袋の中で籠る。さらに厚い紙は擦れに弱い。曲げたところからすぐ傷む。

 

「駄目だな」

 

俺は白い布へ試しの袋を擦りつけた。ひと撫でしただけで、薄く黒がつく。

 

畳刺しの親父がしかめ面をした。

 

「こんなもん入れたら、客に殴られますぜ」

「分かってる」

「分かってて持ってくるからたちが悪い」

 

だが、この親父の腕は要る。古い形の中へ新しい物を入れる時、最後に物へしてしまうのはこういう職人だ。

 

「墨壺はどうなんだ」

 

俺が言うと、親父が眉を上げた。

 

「墨壺?」

「墨を含ませて、すぐ漏れるか」

「漏れませんな」

「何でだ」

「綿を詰めて、糸にだけ移すからで」

「その考え方だ」

 

親父はしばらく黙って、それから紙を何枚か取り寄せた。薄い和紙。少し厚い和紙。楮の繊維が立つもの。混ぜ物の多いもの。麻布も数種。織りの細かいものと粗いもの。そこから先は、ほとんど意地だった。

 

紙だけでは弱い。布だけでは漏れる。紙を内、布を外。逆も試す。糊を利かせる。利かせすぎると呼吸が死ぬ。縫い目を詰める。詰めすぎると硬くなる。少し折り返しを増やす。角だけを補う。白い着物の端切れへ何度も擦りつけ、叩き、捻る。

 

黒がつく。

 

また失敗だ。

 

日が傾く頃には、作業場の空気まで黒くなっていた。紙漉きの女が指先で紙の目を見せ、麻織りの女が織りの詰め方を変える。畳刺しの親父は文句を言いながら、針の運びだけは止めない。半兵衛は横で使った枚数と失敗の形を控える。久助は、売り物になるまでの手間賃を勝手に計算して、時々嫌な顔をする。

 

「高うつきますよ」

「高く売る」

「高いだけだと寺も渋る」

「だから持ちを出す」

「何年」

「そこを見てる」

「まだ見てないのに言う」

「言いながら作るしかない」

 

炭の袋を一つ、もう一度白い着物へ擦る。

 

今度はつかない。

もう一度、強く擦る。叩く。捻る。角を押す。

 

それでも、ほとんど黒が出ない。

俺はそこで、ようやく息を吐いた。

 

「これだ」

 

紙を内に、細かく織った麻を外にした。内の紙は粉を留め、外の麻が擦れを受ける。紙だけでは弱いが、布が抱えると持つ。布だけでは漏れるが、紙が一枚入ると止まる。そのぎりぎりだった。

 

畳刺しの親父が受け取り、指で折った。

 

「……薄いな」

「当たるか」

「これならまだ、芯へ沈められる」

「通るか」

「通させるのが俺の仕事だ」

 

そこで初めて、親父が少しだけ笑った。

 

知多の工房で、畳床が組まれる。

 

乾いた藁の匂い。新しいい草の青い匂い。その間へ、黒い袋が差し込まれる。妙な光景だった。畳を作るというより、何かの祈祷に見える。古い形の中へ、見たことのない物を沈めていく。親父は無駄口を叩かず、針を動かした。黒い袋が中へ入るたび、畳の重みが少し変わる。

 

「呼吸する畳、か」

 

久助がぼそりと言う。

 

「言い方は悪くない」

「売る時に使います?」

「まだ早い」

「でも覚えときますわ」

 

布団も同じだ。

 

三河綿の白の間へ、薄い黒の袋が挟まる。白と黒が交互に積む。見た目は妙だ。だが外からは分からない。触ると、ただの綿より少し締まりがある。沈みすぎない。湿りを抱え込みすぎない。

 

俺は試しに一晩使わせた。翌朝、汗の残り方が違う。鼻にこもる匂いも少し軽い。完璧ではない。だが、先へ進むには十分だった。

 

ここで終わらせる気は最初からなかった。

 

俺は使い終わった試し袋を一つ持ち上げ、窯場へ戻した。

 

「また焼くんですか」

 

若い衆が目を丸くする。

 

「また焼く」

「捨てんので」

「捨てるのは損だ」

「でも一回汚れを吸うたら、終わりでしょう」

「終わりなら、毎回作り直しだ」

「そうなります」

「そうすると、客は途切れる」

「は?」

 

俺は袋を指でつまんだ。

 

「畳は表替えがある。布団は打ち直しがある。その時に中を戻させる」

「戻す」

「回収する。焼き直す。また入れる」

「……」

 

半兵衛が先に意味を取った。

 

「売って終わりではなく」

「戻ってくる」

「数年ごとに」

「そうだ」

 

久助が、そこでにやりとした。

 

「それは、えげつないですな」

「商人が言うか」

 

「商人やから分かるんです」

久助は袋を受け取り、指で重みを量る。

「畳替え、布団打ち直し、そのたびに炭も戻る。戻ったらまた窯へ入る。窯場も畳刺しも寝具屋も、全部こっちへ繋がったままになる」

 

「そういうことだ」

「寺は逃げられませんな」

「武家もだ」

 

これが欲しかった。

 

一回売って終わる品は、次で切れる。だが手入れと再生が要る品は、切れない。しかもこちらは、ただ銭を取るだけじゃない。戻ってきた時に、傷みも、使い方も、その家の暮らしぶりも見える。畳がどう汚れたか、布団がどう湿ったか、どの部屋が冷えるか。全部、次の改良へ繋がる。

 

炭は汚れを喰う。

 

だが本当に欲しいのは、汚れを喰った後に戻ってくる道の方だった。

 

窯場の外では、夕方の風が少しだけ涼しくなっていた。熱を抱えたままの窯が、赤い口を鈍く開けている。袋に封じられた黒が、その熱へまた戻る日を、俺はもう計算に入れていた。

 

畳刺し、寝具屋、炭焼き、紙漉き、麻織り、津島の商人。

 

一つずつでは弱い。だが繋がれば、切れにくい。

 

俺は黒い袋を一つ持ち上げ、指で軽く叩いた。中の炭が、ごく細かく鳴る。湿りも臭いも、こいつが喰う。喰わせて終わりではない。喰った後に戻し、また使う。そこまで含めて、ようやく品になる。

 

「よし」

 

口に出してから、今日はそれで良かったと思った。

 

久助が横で笑う。

 

「売り文句、もう決まりました?」

「まだだ」

「俺ならこう言いますよ。湿りと臭いに困るなら、治部の黒を入れろ」

「下品だな」

「耳には残ります」

「寺には使うなよ」

「寺向けはもう少し上品にします」

 

窯の熱はまだ強い。作業場は黒い。白い着物へ炭を擦りつけた跡は、床の隅にまだ転がっている。失敗した袋も山ほどある。

 

だが、失敗の山がそのまま次の段の値になる。

 

俺は窯場の赤を見ながら、次に回す順を頭の中で並べた。畳を先にするか、寝具を先にするか。寺へ行くか、家中へ留めるか。早合の防湿をどこまで広げるか。

 

全部一度にはやらない。

 

だが、もう止まる気もなかった。

 

 

最初に外へ売る気はなかった。

 

あれを売り物にするなら、まず織田の中で通さなければならない。

上総介兄上と勘十郎兄上、この二人が「使う価値がある」と認めぬ物を、俺は京にも堺にも持って行かない。

 

寝具の話は、贅沢の話に見えて、実は違う。

 

戦国の当主は、床へ入っても休めない。

刀を枕元へ置き、襖の向こうに近習を立たせ、夜半に目が覚めればまず音を聞く。風の音か。足音か。火事か。刃か。寝所とは本来、身を解く場所のはずだが、この時代の大名にはそうではない。眠りは、気を解いた分だけ命を削る。

 

だからこそ、逆に言えば、深く眠れる寝具は武の道具になる。

 

上総介兄上の前へ出した時、俺は最初から「高級です」とは言わなかった。

そんな言い方では通らない。兄上が欲しがるのは、珍しい物でも、見た目の派手さでもない。役に立つかどうかだ。

 

「夜の湿りを減らし、朝の頭を軽くする布団にございます」

 

上総介兄上は、絹の手触りを確かめるより先に、薄い炭袋を仕込んだ中身の方を見た。

どういう理屈だ、と問われたので、俺は「湿りと臭いを布団の中で抱え込ませます」と答えた。

喰う、という言い方も頭をよぎったが、あの場では少し荒い。まずは理に聞こえる言葉を選ぶ。

 

勘十郎兄上は逆だった。

まず目を引かれたのは、絹の光り方と仕立ての良さだ。包みを開いた瞬間の見栄え、縫い目の細かさ、表地と裏地の合わせ方、寝返りを打った時に擦れの少ないこと。兄上は、そういう「上等の顔」を見抜く。

 

「これは、また随分と金が掛かっていそうだな」

「掛かっております。ただし、高いだけで終わらせる気はありません」

 

そう返すと、勘十郎兄上は笑った。

笑ったが、軽んじた笑いではなかった。値が張る物を出す時に、こちらが最初からそこを隠さぬのを、むしろ面白がった顔だった。

 

二人とも、その夜は別々に使った。

 

翌朝、先に口を開いたのは上総介兄上だった。

 

「……軽いな」

 

それだけだ。

だが、その一言で十分だった。身体が軽い、ではない。夜のあいだに頭の奥へ貼りつく重さが、いつもより薄い、という意味だと分かる。

 

勘十郎兄上はもう少し分かりやすい。

 

「なるほど。これは腹が立つな」

「腹、ですか」

「高い。だが、高いだけではない。そういう物を出されると、欲しがる者は多いぞ」

 

兄上は、使い手であると同時に、物の見せ方を知っている。

戦支度も、衣も、贈答も、結局は「どう受け取られるか」で価値が変わる。勘十郎兄上はそこを見る。

 

上総介兄上は少し考えてから、布団へもう一度手を置いた。

 

「兵の寝所へそのまま入れるには、まだ高い」

「はい」

「だが、決める側の寝所には入れる価値がある」

「そう見て頂けるなら」

「見ている。深く眠れれば、朝の裁断が違う。朝の裁断が違えば、一日の打ち手が違う。寝具ごときと笑う者はいるだろうが、そういう者は放っておけ」

 

そこまで言われれば十分だった。

俺が説明しきる前に、兄上の側でこの布団の価値が「覇道に資する道具」へ言い換えられたからだ。

 

この段階で大事なのは、俺が兄二人を説き伏せることじゃない。

兄二人が、それぞれ自分の言葉でこの品の価値を言い当てることだった。

 

上総介兄上は合理で認める。

勘十郎兄上は高級感と見栄えの側から入り、商いへ繋がる顔を見抜く。

同じ寝具を前にして、二人が別の入口から同じ場所へ着く。

 

そこで初めて、これは織田の中で通る。

ただの信繁の思いつきではなく、織田家の中で共通の言語になる。

 

 

次に俺がやったのは、売り先を広げることではなかった。

むしろ逆だ。絞った。

 

津島には商人が多い。

鼻の利く者も多い。だが、鼻が利くのと、長く付き合わせられるかは別だ。

 

粗悪品を混ぜる者。

似た物を別口で流す者。

最初の儲けだけ見て、手入れの面倒を嫌がる者。

そういう連中に渡した瞬間、この品は壊れる。

 

だから、堺と京に太い線を持ち、しかも納めた後まで責を負える者に限る。

蔵と船と人足をまとめて動かせる家。代金の回収だけでなく、使った先の不満まで拾える家。そうなると、自ずと顔ぶれは狭まる。

 

久助は、その選別の段から使った。

あいつは津島商人として独立している。俺の家人ではない。だが、人と物と利の匂いに関しては信用している。

 

「この家は駄目です」

「早いな」

「早いですよ。目先の銭で横流しします」

「こっちは」

「悪くない。けど京へ細い」

「堺へは」

「通ります。ただし、吹っ掛けます」

 

こういう物言いをする。

情ではなく、利で切る。だから使いやすい。

 

選んだ商人たちとの席で、俺はまず夢を語らなかった。

堺で評判になるとか、京で名が立つとか、そんな話を先に出せば、商人は逆に身構える。

だから、最初に置くのは勘定だ。

 

絹の原価。

三河綿の値。

炭袋の制作に掛かる手間。

畳床を改める分の賃。

運送中の傷み。

湿りの多い季節に包みを替える費え。

どこまでこちら持ちで、どこから先をそちらの取り分にするか。

 

商人の一人が、途中で苦笑した。

 

「治部様は、侍というより帳場の親父でございますな」

「侍だからこそだ。銭が合わぬ物を広げれば、最後に家の顔へ泥が塗られる」

 

そこで久助が横から噛んだ。

 

「しかも、これは売って終わりやない」

 

その言い方に、何人かが顔を上げた。

 

俺はそこで初めて、次の札を切る。

 

「畳には表替えがある。布団には打ち直しがある。その時、炭も回収して焼き直せる」

「……また使えると?」

「使える。むろん傷みは見る。全部が全部ではない。だが、作り直しだけではないということだ」

 

商人たちの目の色が変わったのはそこだった。

一度納めて終わりなら、利は単発だ。

だが、数年ごとに手入れで戻ってくるなら、商いの形が変わる。

 

「手入れまで請け負えるなら、他家の似物は怖くない」

「そういうことだ」

「しかも納めた先の部屋数、家族数、使い方まで見える」

「見えるな」

 

俺が言う前に、相手の側がそこへ辿り着くのが大事だった。

こちらが諜報だ何だと口にすれば下品になる。

だが、商人は手入れの名目で家へ入れる価値を、自分で分かる。

 

久助が笑う。

 

「売り物を納めるだけやない。次の商いの種まで、向こうの屋敷で育つっちゅうわけです」

「言い方が生々しい」

「商人ですから」

 

ここでも、俺一人が押し切ったわけじゃない。

俺は形を出した。

だが、それが商いとして成立するかどうかを詰めたのは、津島側の目利きだった。

あいつらが利を見いださなければ、この先へは進まない。

 

 

堺では、理屈だけでは売れない。

 

あの町は金で動くが、金だけでは驚かない。

珍しい物も、派手な物も、見慣れている。

だから必要なのは、その場で身体が違いを知ることだった。

 

魚。潮。干物。

倉の湿り。人の汗。

堺の空気には、いつも何かが混じっている。誰もがそれを当たり前としている。

だからこそ、そこから一歩だけ外した時、敏い者ほどすぐ気づく。

 

会合衆が集まる茶の席で、俺は一室だけに活性炭畳を入れた。

新しい畳だから青い、というだけではない。戸を開けた瞬間、鼻につくはずの匂いが一段薄い。消えたのではない。下がっている。その分、湯の匂い、茶葉の青さ、香の残りが前へ出る。

 

最初に気づいたのは茶人の一人だった。

 

「……妙だな」

「何がにございます」

「部屋が軽い」

 

言い得て妙だと思った。

無臭、と言ってしまうと違う。何もないわけではない。

余計なものだけが引き、その結果、本来あるべき香りが立つ。だから軽い。

 

別の者は、畳へ手をついた。

 

「新しいからだけではないな」

「はい」

「潮気が薄い」

 

ここで俺は大げさな実演はしない。

水をこぼしてみせるとか、香を焚き比べるとか、あまりやりすぎると見世物になる。

そうではなく、座っているうちに分かる差へ持ち込む。

 

茶を点てる。

湯気が立つ。

その匂いが、他の部屋より濁らず上がる。

 

「茶の香りが際立つな」

 

会合衆の一人がそう言った。

俺が欲しかったのは、その言葉だった。

 

「臭いを消す炭、と申すより」

「……」

「香りを守る炭、と申した方が近いかもしれませぬ」

 

そう置くと、茶人たちの顔が変わった。

 

衛生の理屈だけでは、堺の上等へは届きにくい。

だが、香りを守るための工夫、と言えば話が違う。

茶の湯は、ただ飲むだけではない。場を整え、客の鼻と舌をどう導くかまで含めて趣向になる。そこへ繋がるなら、この畳は単なる便利な品ではなく、茶の場を格上げする道具になる。

 

もちろん、その価値を決めたのは俺ではない。

俺は部屋を用意しただけだ。

価値を言葉にしたのは、堺の側だった。

 

「あれは置けるな」

「寺にも向く」

「蔵でも試したい」

「茶室だけに閉じるには惜しい」

 

そう広がっていく。

堺では、売る側が言い切るより、使う側が言い出す方が強い。

俺はそこを外さない。

 

 

京へ入れる段になると、品そのものと同じだけ、言い方が大事になる。

 

ただ珍しい。

ただ上等。

それだけでは、公家社会では弱い。

粗野に見えれば、どれほど理にかなっていても、田舎武家の工夫で終わる。

 

ここで勘十郎兄上の感覚が効く。

 

「治部、品は良い。だが、そのままだと“気の利いた寝具”で終わる」

「兄上のお考えは」

「願いを載せろ。健康でも長寿でもいい。使う理由に、雅な顔をつけろ」

 

なるほどと思った。

実用だけで押すのではなく、贈る意味を先に立てる。そうすれば京での受けが変わる。

 

津島と堺の商人筋も、そこは抜け目がない。

 

「将軍家なら、夜の労を和らげる品」

「公家衆なら、長く座しても気を損ねぬ品」

「寺なら、湿りと籠りを避けて身を整える敷具」

 

相手ごとに、言葉を少しずつ変える。

同じ品でも、誰へ渡すかで顔を変える。そこを整えた上で、ようやく京へ流す。

 

包みも荒くしない。

外から奇異に見せぬ。

開いて初めて、仕立ての良さと内部の工夫が分かるようにする。

 

京では、物はそのまま歩かない。

噂として歩く。

誰が受けたか。

何と評したか。

どこが面白いと言われたか。

それが品の格になる。

 

「織田は荒いだけの家ではないらしい」

「雅も理も分かるそうだ」

 

そういう噂が立ち始めれば、もう半ば勝ちだ。

信繁がどう言うかではない。京の側がどう言い換えるか。それが重要だった。

 

天皇家への献上まで見据えるなら、最初からその流れを整えねばならない。

俺一人の思いつきで通せる話ではない。

織田本家の名、勘十郎兄上の言葉、津島と堺の商人筋の取り回し、その全部が噛んで初めて、品は京で「織田の格」になる。

 

 

最後に起きるのは、こちらから売り込む形ではない。

 

向こうから欲しがる形だ。

 

将軍家へ入り、京で名が立ち、堺で評判になり、織田家中で当たり前になる。

そこまで行くと、他国の大名たちは理屈だけではなく、体面で欲しがる。

 

「あれを入れている」

その事実そのものが格になるからだ。

 

注文の書付が積み上がる。

だが、ここでようやく受け身の局面が来る。

欲しがられる数に対して、品はまだ足りない。職人も足りない。炭袋の再生窯も、畳刺しも、寝具の打ち直しも、一度に広げれば粗くなる。

 

久助が帳面を前に言う。

 

「全部は捌けませんよ」

「分かってる」

「どこを先に切ります」

「切るんじゃない。選ぶ」

「同じことです」

「違う。切るだと、ただ断るだけだ。選ぶなら、次の手まで含む」

 

どの家へ、何組回すか。

どの城へ、誰を手入れ役として入れるか。

ここで初めて、寝具と畳が別の顔を見せる。

 

表替え。

打ち直し。

炭袋の回収。

その名目で城の中へ入れば、自然に見えるものが増える。

 

寝所の湿り。

廊の傷み。

近習の足音。

客の多い部屋。

奥向きの空気。

誰が眠れておらず、誰が過剰に気を張っているか。

 

戦場で城を落とさずとも、手入れの名目で奥へ入れば、読めるものがある。

 

もちろん、それを決めるのも俺一人ではない。

上総介兄上は、家格と遠近を見て「ここは厚く返せ」「ここはまだ早い」と裁く。

勘十郎兄上は、「ここへ先に回せば噂が立つ」「ここへ入れると見栄えが効く」と整える。

久助は、「ここは代が危ういから支払いが遅れる」「ここは逆に今入れば次の蔵まで繋がる」と利を見切る。

その上で、最後に俺が決める。

 

寝具は、人を眠らせる。

だが同時に、その家の最も気の緩む場所へ入る。

 

表向きは安眠のための品だ。

だが裏から見れば、城の奥へ静かに根を張る手でもある。

 

積み上がった注文帳を見ながら、俺はそこを考える。

どの家へ、どの順で、どこまで入れるか。

戦だけで天下を取るのではない。

床と布団と、毎夜の疲れと、毎朝の目覚めまで握ってこそ、織田の基準は国中へ広がる。

 

そうなれば、もはや「あれを譲ってほしい」と頭を下げに来る時点で、半分はこっちの勝ちだ。

相手は寝具を欲しがっているつもりでも、実際には織田の手入れと、織田のやり方と、織田の目を屋敷へ入れる許しを求めている。

 

俺は帳面を閉じた。

 

まだ足りない。

だが、足りないままでいい。

足りないからこそ、選べる。

選べるからこそ、価値になる。

 

そして価値になった時、織田の黒は、畳と布団の中に潜んだまま、国中の城へ入っていく。

 

恐らく、武田信玄や北条氏康、毛利元就などには通用しないかもしれない。だが、その辺りに注意を払わない他の大名や武将であれば、充分食い込めるはずだ。

 

 

 

 

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