織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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029北勢攻略開始

左近将監が「会わせられます」と言った時点で、半分は腹が決まっていた。

 

北伊勢で欲しいのは、派手な勝ちではない。

一気に敵を倒すことでもない。

今の織田に要るのは、長島本願寺、桑名、北畠、長野工藤家、関家ら周辺国人が、こちらへの警戒だけで一つにまとまるのを防ぐことだった。

 

そのための相手が、反北畠系の旧長野工藤家勢だというのなら、会わぬ理由はない。

 

密談の場は、尾張と伊勢の境寄り、いかにも何かありそうな場所ではなく、むしろ何もなさそうな屋敷に設けた。

左近将監が選んだ時点で文句はない。あの男は、伊勢筋で人に会う時の距離の取り方をよく知っている。

 

相手は二人だった。

どちらも年かさで、武辺というより、家中で顔を繋ぎながら生き残ってきた種類の男に見える。名乗りはしたが、ここでいちいち書き立てる意味はない。大事なのは、彼らが「反北畠系」と見てよい立ち位置であり、それでもまだ北畠と完全に手を切り捨ててはいないことだった。

 

座に着いてしばらくは、互いに余計なことは言わなかった。

 

先に口を開いたのは、相手方の年長の方だった。

 

「治部大輔殿。此度のこと、北畠を討ってくれ、という話ではござらぬ」

「承知している」

 

俺は短く返した。

 

「では、何を求める」

 

男は一瞬だけ、隣を見た。それから、腹を決めたように言った。

 

「長野工藤家の内にて、領地の争いが続いております。このままでは、いずれ具教卿の手が、争いを裁く名目で家の奥まで入って来ましょう」

「それが嫌か」

「嫌、にございます」

 

その言い方は率直だった。

建前をいくらでも重ねられる場で、そこを濁さないのは悪くない。

 

「北畠に裁かれることが、か」

「裁かれることそのものではござらぬ」

 

今度はもう一人が口を開いた。

 

「裁かれた後に残る形にございます。此度の争いに乗じて、こちらの家中が具教卿の息のかかった者ばかりになれば、長野工藤の名が残っても中身は別物になる」

 

そこまで聞けば十分だった。

つまり彼らは、北畠へ飲み込まれるぐらいなら、外から織田を引いて均しに使いたいのだ。

 

「で、織田に何をさせたい」

「裁断にございます」

「裁断」

「はい。勝手な取り合いを止め、境を定め、私闘を止める。その名目で入っていただきたい」

 

十兵衛が、そこで初めて口を開いた。

 

「それは、織田に“後ろ盾”まで求めておられるということですな」

 

相手方は、少しだけ間を置いた。

 

「……否定はいたしませぬ」

「領地争いを裁つだけなら、家中の重しでも足りましょう。そこへ織田を呼ぶのは、その後ろに織田の兵と名を置きたいからだ」

「左様にございます」

 

十兵衛はそれ以上責めず、黙った。

問い詰めるためではない。こちらも分かったうえで話していると示すための言葉だった。

 

俺は、そこでようやく本題を返した。

 

「よい。では交換に何を出す」

 

年長の男は少し顎を引いた。

 

「長島本願寺にございます」

 

左近将監の目が、わずかに細くなる。

 

「ほう」と俺は言った。

 

「我らの縁は、北畠だけではござらぬ。長島の一向衆とも、全く口が利かぬわけではない」

「そこで仲介に立つ、と」

「はい」

 

男はまっすぐ言った。

 

「織田が此度、長野工藤の内紛へ“裁断”の名目で入るなら、その見返りとして、少なくとも当面、北伊勢筋において長島本願寺と織田方が争わぬよう、話を持ってまいります」

 

半兵衛が、そこで初めて明確に顔を上げた。

 

「当面、というのは」

 

相手方は、そこも濁さなかった。

 

「永き約ではござらぬ。されど、今この整理の間に限り、互いに兵を向けぬ、門徒を煽らぬ、商路や渡しを荒らさぬ、その程度までは取れる見込みがございます」

「その程度、か」

「その程度にございます」

 

俺はむしろ、その答えの方を信用した。

 

ここで「長く争わぬ」「未来永劫手を結ぶ」と大きく出るようなら、かえって嘘臭い。

だが、北伊勢整理の間に限って、互いに手を出さぬ。そのくらいなら、長島本願寺の側も損ではない。こちらがすぐに自分たちを討たぬなら、その間に周辺を見て構えを整えられるからだ。

 

「桑名はどうなる」と左近将監が言った。

 

相手方は少しだけ苦い顔をした。

 

「桑名の商人どもは、長島とも北畠とも、そして自分ら同士でも繋がっております。されど、あれらはまず商いの損得を見る。長島と織田がこの件で正面から噛み合わぬなら、桑名もすぐには騒ぎませぬ」

 

左近将監は頷いた。

 

「少なくとも、“織田が伊勢へ押し込んできた”と吹き上がる口実は減る、か」

「はい」

 

俺はそこで指先を組んだ。

 

話としては、かなり良い。

長野工藤家の反北畠系旧勢力は、こちらの後ろ盾を欲しがる。

その見返りとして、長島本願寺との緩衝に立つ。

長島本願寺は、当面の不介入を飲む。

桑名商人は、商路と津が荒れぬならすぐには騒がぬ。

その間に織田は、長野工藤家の争いへ「私闘停止」「裁断」の名目で入る。

 

一色に敵を作らずに済む。

 

「半兵衛」と俺は言った。

 

「はい」

「どう見る」

 

半兵衛は即答しなかった。

少し考えてから、静かに言った。

 

「使える話にございます。ですが、信用しすぎる話ではございませぬ」

「理由は」

「長島本願寺の側は、こちらを討たぬ代わりにこちらからも討たれぬ、それだけで利がある。よって、当面の不介入には乗るでしょう。ですが、形勢が変われば、約などすぐ軽くなります」

「だろうな」

「ゆえに、こちらも“永く争わぬ”とは受け取らぬことです。今の整理が済むまで、互いに手を出さぬ。その程度に留めてこそ、むしろ使えます」

 

十兵衛も続けた。

 

「表向きには、この約は出さぬ方がよろしいでしょう」

「理由は分かる」

「はい。表では、あくまで長野工藤家の領地争いを裁ち、私闘を止めるために織田が入る、で通す。長島本願寺との話は、裏で抱えるに留めるべきかと」

 

それも当然だった。

 

「左近将監」

「はっ」

「お前はどうだ」

「まとまれば、伊勢はだいぶ楽になります」

 

左近将監の返しは率直だった。

 

「北畠、長野工藤家、長島本願寺、桑名、関家。こやつらが“織田が来た”の一言でまとまるのが最悪にございます。今の話なら、それを崩せる」

「一方で」

「ええ。反北畠系の旧長野工藤家勢を使う以上、こちらも使われます。そこは承知の上で乗るべきでしょうな」

 

相手方の男が、そこで初めて口を挟んだ。

 

「その通りにございます。我らも織田を使いたい。されど、織田もまた我らを使えばよろしい」

 

そこまで言うなら、むしろ話はしやすい。

 

俺は、少しだけ口元を上げた。

 

「嫌いではない言い方だ」

「ごまかしても仕方ございませぬゆえ」

「よい。ではこうしよう」

 

座の空気が少し固くなる。

ここから先が、本当の条件だった。

 

「織田は、長野工藤家の領地争いへ“裁断”の名目で入る。私闘を止め、勝手な兵の動きを禁じ、境を定める。だが、今この場で長野工藤家を丸ごと抱えるとは言わぬ」

 

相手方は黙って聞いている。

 

「その代わり、お前たちは長島本願寺との仲介に立て。少なくともこの整理の間、北伊勢筋で互いに兵を向けぬ、門徒煽動で介入せぬ、商路と渡しを荒らさぬ。そこまでの約を取ってこい」

 

年長の男が深く頷いた。

 

「承りましょう」

「取れなければ」

 

そこで俺は一度言葉を切った。

 

「この話は先へ進めぬ」

「当然にございます」

「また、約が取れたとしても、それで長島本願寺を味方と見なすつもりはない」

「それも、当然にございます」

 

半兵衛がそこで、ようやく少しだけ表情を緩めた。

 

「それで十分かと」

 

十兵衛も頷く。

 

「表の文は、私闘停止と裁断だけで整えましょう。裏の話は、ここにいる者だけで抱える」

 

左近将監が、相手方を見据えた。

 

「関家や周辺国人へは、どこまで話が漏れる」

 

「長島との話は漏らしませぬ」と男は答えた。

「ですが、織田が内紛を裁ちに入ること自体は、いずれ知れましょう」

 

「ならばよい。隠しきれぬことまで隠す必要はない」

 

話は、そこでようやくまとまった。

 

相手方が去ったあと、しばらく誰も口を開かなかった。

密約とはそういうものだ。まとまった後の方が、かえって重い。

 

やがて左近将監が低く言った。

 

「治部様、これで一息つけるかもしれませぬな」

「一息、か」

「長島がすぐには噛みつかぬ。桑名も商いの方を先に見る。北畠も、こちらが長野工藤家の争いを収める名目で入る以上、露骨には動きづらい」

「その間に、こちらは足を掛ける」

「はい」

 

俺は小さく頷いた。

 

これで伊勢が取れたわけではない。

だが、伊勢を一度に敵で塗らずに済む。

それだけで大きい。

 

長野工藤家の内紛。

反北畠系旧勢力。

長島本願寺との当面の不介入。

桑名商人層の様子見。

北畠の出方。

 

全部が噛み合っているわけではない。

だが、だからこそ、噛み合わせて使う価値がある。

 

「よし」と俺は言った。

 

「まずは長島への仲介を待つ。それが動いたら、裁断の文を起こせ。兵は出すが、出しすぎるな。あくまで“争いを止めに来た”形を崩すな」

 

十兵衛、半兵衛、左近将監の三人が、それぞれ短く応じた。

 

伊勢はまだ遠い。

だが、道が一本できたのは確かだった。

正面から全部を叩き潰すのではなく、相手同士の間へ楔を入れながら進む。伊勢では、たぶんその方が早い。

 

 

長島との約を取りに行くとなれば、あまり人数を出す話ではない。

 

大きく動けば、それだけで「織田が長島へ何か仕掛ける」と吹かれる。桑名の商人どもも耳が早い。北畠の側へも、話はあっという間に流れるだろう。

だから出すのは、必要最小限だった。

 

俺に、左近将監。

表の文言を抑えるために十兵衛。

そして仲介役として、反北畠系の旧長野工藤家勢から二人。

 

半兵衛は連れていかない。

あいつはむしろ、こちらに残して、約が成った後にどこまで信用してよいかを冷やして見せる役に回した方がよかった。

 

場は、長島そのものではなかった。

長島へ近すぎれば、こちらが出向いた形になる。遠すぎれば、向こうが出てくる理が立たぬ。

結局、川と渡しの扱いに口を利ける寺外の小さな屋敷が選ばれた。表向きは、商いの中継と寺領の運上を話し合うための場。そこへ、こちらが別口で顔を出す。

 

左近将監が、その場所へ着く前に低く言った。

 

「治部様、ここで欲張りすぎぬことにございます」

「分かってる」

「こちらが欲しいのは、長島を味方にすることではございませぬ」

「今この件で噛みつかせぬことだ」

「はい」

 

そこへ十兵衛が続けた。

 

「文言も同じにございます。『和睦』では強すぎます。『当面、互いに手を出さぬ』程度で留めるのがよろしいかと」

「『不干渉』も少し硬いな」

「されば『この件に限り』『勝手に兵を差し向けぬ』『門徒煽動をもって領地争いへ介入せぬ』、その辺りを並べるのが穏当かと」

「よし」

 

仲介役の男は、こちらの会話を黙って聞いていた。

やがて一人が言う。

 

「長島は、こちらを友と呼ぶことはありますまい」

「分かっておる」

「されど、今すぐ織田を敵と決める理もまた薄い」

「それで足りる」

 

男はそれで頷いた。

 

屋敷の中へ通されると、待っていたのは長島方の僧二人と、実務を預かる年嵩の男だった。武辺というより、寺内の銭と人の流れを見ている種類の顔つきだ。

ああいう手合いは、兵の数より、何がどれだけ流れ続けるかを見る。

 

挨拶は短かった。

互いに、ここで旧知のように振る舞う気はない。

 

先に切り出したのは、長島方だった。

 

「織田は北伊勢へ手を伸ばすつもりか」

 

「伸ばす、では荒うございますな」と十兵衛が受けた。

「勝手な争いが続けば、周りまで乱れる。そこを収める話にございます」

 

「長野工藤の内輪揉めを、織田が裁くと」

「私闘を止める、と言い換えていただいてもよい」

 

長島方の僧が、そこで鼻で笑う。

 

「言い換えはいくらでも利く」

 

「利かぬ方がよろしければ、もっと露骨にも申せます」と十兵衛は静かに返した。

「ですが、今日はそういう場ではございませぬ」

 

その一言で、場の空気が少しだけ締まった。

 

俺はそこで初めて口を開いた。

 

「単刀直入に申そう。此度の長野工藤の争いに限り、こちらは長島と争う気がない」

 

僧の目が少し細くなる。

 

「ほう」

「そちらもまた、今この件に門徒を煽って介入する気はあるまい」

「どうしてそう思う」

「得にならんからだ」

 

その返しに、寺内実務の男が初めてこちらを正面から見た。

 

「申してみよ」

「長野工藤の争いへ長島が深く手を入れれば、北畠は警戒する。桑名の商人どもも、津や渡しが乱れるのを嫌う。門徒を動かして得るものより、失うものの方が多い」

 

少し間があく。

 

「こちらも同じだ。今ここで長島へ兵を向ければ、北伊勢の話は全部崩れる。得にならん」

 

僧は黙ったままだったが、もう一人の年嵩の男が言った。

 

「つまり」

「此度に限っては、互いに余計な火を増やすな、という話だ」

 

仲介役の旧長野工藤家勢が、そこで口を挟んだ。

 

「こちらの家の争いを口実に、長島と織田が噛み合えば、得をするのは結局ほかの者どもです」

 

長島方の男が、その言葉には頷いた。

 

「それはある」

「ならば」

 

俺は一つずつ言葉を置いた。

 

「織田は、長野工藤の争いを収めるために兵を出す。だが、長島へ向けては出さぬ。そちらも、この件に門徒を煽って介入せず、渡しと商路を荒らさぬ。それでどうだ」

「いつまでだ」

「長野工藤の争いが裁ち切れるまで」

「曖昧だな」

「曖昧でよい」

 

そこで左近将監が初めて口を開いた。

 

「永き約など、そちらも欲しておられまい。こちらも同じです。今この火を、互いに大火へせぬ。その程度で十分にございましょう」

 

長島方の僧は、そこでようやく笑った。

好意の笑いではない。だが、あからさまな拒絶でもない。

 

「織田にしては、欲の少ないことを申す」

 

「少ないように見せているだけかもしれませぬな」と左近将監は平然と返した。

「ただ、今はそれで足りる、という話にございます」

 

俺はその横顔を見て、さすがだと思った。

隠しすぎても怪しい。少しだけ本音を覗かせる方が、むしろ座は動く。

 

長島方の男が言った。

 

「門徒を煽って長野工藤へ介入せぬ、はよい。渡しと商路も、この件で止めぬ。だが織田も、長島の外縁へ兵を寄せるな」

 

「北伊勢の整理に必要な範囲で動く」と俺は答えた。

「わざわざ長島を刺激する置き方はせぬ」

 

「『わざわざ』か」

「そちらも同じ言葉を使えばよい」

 

少しだけ、沈黙が落ちた。

 

その沈黙の間に、互いが計っていた。

どこまでなら飲めるか。

どこから先は、飲んだふりだけで済ませるか。

 

やがて、年嵩の男が言った。

 

「よかろう」

 

僧は何も言わない。

だが、止めもしなかった。

 

「この件に限り、長野工藤の争いへは深く入らぬ。門徒を煽って兵を動かすこともせぬ。渡しと商路も荒らさぬ」

「こちらも同じだ」

 

「ただし」と男は言う。

「北畠まで一息に押す気なら、話は別だ」

 

「今はそこまで広げぬ」

 

これは本当だった。少なくとも今は。

 

「ならばよい」

 

約は、それで成った。

 

和睦ではない。

同盟でもない。

ただ、今この件で互いに手を広げぬというだけの、短い約だ。

 

だが、それで十分だった。

 

屋敷を辞したあと、外の風は少し冷たかった。

左近将監が、歩きながら小さく息を吐く。

 

「成りましたな」

「ああ」

「信用はしすぎぬ方がよろしいですが」

「分かってる」

 

十兵衛も続けた。

 

「表へ出す文は、なおさら整えておくべきにございます。裏で長島と手を打ったからといって、表の裁断文が荒ければ意味がございませぬ」

「分かっておる」

 

仲介役の男は、そこで初めて少し力を抜いた顔をした。

 

「これで、少なくとも北畠が長島を当てにしてこちらを押す形は、一度崩せます」

「そうなれば十分だ」

 

俺はそう答えながら、内心では盤面を並べ直していた。

 

長野工藤家の内紛へは、裁断の名目で入る。

長島本願寺は、当面の不介入。

桑名商人は、商路が荒れぬなら静観しやすい。

北畠は、長野工藤と長島が同時に動かぬなら、露骨に押し返しづらい。

関家ら周辺国人も、様子見の時間を取るだろう。

 

これで、北伊勢は少し細くなった。

敵が消えたのではない。だが、まとまる前に切れ目が入った。

 

それでよかった。

 

桃巌様御存命の今の織田は、史実ほどの血腥い悪名をまだ負っていない。

上総介兄上も勘十郎兄上も、話の通る相手として見られやすい。

そこへ俺や十兵衛、半兵衛、左近将監といった顔が並べば、「北畠よりはまし」と見る者が出てくるのも不思議ではない。

 

それが甘い期待かどうかは、いずれ分かる。

だが、今はその見え方を使う時だった。

 

「よし」と俺は言った。

「次は裁断文だ。兵も動かすが、見せるだけで足りるように整えろ」

 

三人が短く応じる。

 

伊勢を取るのは、まだ先だ。

だが、伊勢を一色に敵で塗らずに済んだ。

それだけで、今日は十分だった。

 

 

裏で手を打った後ほど、表の言葉は慎重に選ばねばならない。

 

長島本願寺との約が成ったからといって、それを頼みに荒い文を出せば意味がない。

北畠に「やはり裏で組んでいたか」と思わせるのもまずいし、長野工藤家に「結局は飲み込みに来た」と見せるのも早すぎる。

だから表へ出す文は、あくまで私闘停止、境目裁断、商路と渡しの保全、その三つへ寄せる必要があった。

 

十兵衛、半兵衛、左近将監を前に座らせ、俺は最初にそう言った。

 

「裏の話は裏の話だ。文には出すな」

 

十兵衛が頷く。

 

「承知しております。表に出る文は、長野工藤家の内争を止めるための裁断文に留めます」

 

「北畠はどう見る」と左近将監が言った。

 

「文の中では、あえて触れぬ」

俺は答えた。

「長野工藤家の争いが、伊勢の内を乱し、商路や渡しにも響く。織田はそこを収めるために入る。それで足りる」

 

半兵衛が手元の控えへ目を落とした。

 

「足りる、と申しますと、兵の出し方もその文に合わせるべきですな」

「そうだ。勝ち戦の構えにはするな」

「ですが、軽ければ舐められます」

「分かってる」

 

半兵衛は、そこで淡々と続けた。

 

「少なすぎれば『お願い』に見えます。多すぎれば『討ち入り』に見えます。今回は、止めに来たと分かる数、されど逆らえば面倒だと思わせる数にございます」

 

「お前、毎回そこを言うな」

「毎回そこが肝ですので」

 

その通りだから困る。

 

十兵衛はすでに文案の骨子を起こし始めていた。

あいつの文は、最初から完成形ではない。だが、余計な言葉を足さず、要るものだけを置いていく。

 

「治部様」

「何だ」

「冒頭ですが、長野工藤家の内にて私闘止まず、近辺の村里・渡し・往来にまで難儀が及ぶ、から入れてよろしいかと」

「よい」

「そのうえで、織田は隣国としてこれを見過ごさず、争いを止め、境を定め、往来を安んずるために兵を進める、と続けます」

 

左近将監がすぐ口を挟んだ。

 

「“隣国として”は良いにございますな。伊勢を頭越しに裁く顔ではなくなります」

 

「そうだ」と十兵衛が言う。

「上から『裁いてやる』では、相手が意地を張ります」

 

俺は頷いた。

 

「長野工藤家の顔は立てたい。だが、織田がわざわざ兵を動かす以上、こちらの面目も立てねばならん。その間だ」

「では『相隣る国の乱れは、やがて双方の難儀となるゆえ』などは」

 

「少し堅いが悪くない」と俺は言った。

「文らしくはある」

 

半兵衛がそこへ別の紙を差し出した。

 

「渡しと商路のくだりは、もう少し強く書いてもよろしいかと」

「理由は」

「桑名や関家、周辺国人に響きます。戦そのものよりも、流れが詰まることを嫌う連中ですので」

 

左近将監も同意した。

 

「はい。『商いの道を塞ぐな』『渡しを押さえて利を貪るな』あたりは、読む者を選ばず効きます」

 

俺は少し考えた。

 

確かに、長野工藤家だけに向けた文で終われば、周りはただの内紛裁断として見る。

それでもよいが、せっかくなら「織田が入ることで、少なくとも商路は安定する」と外へも匂わせた方が得だ。

 

「入れよう」と俺は言った。

「ただし、説教臭くはするな。『往来の者と商いの道を損なうこと、以後これを許さず』くらいでよい」

 

十兵衛がすぐに書き留める。

 

「よろしいかと」

 

「それと」と俺は続けた。

「境目の裁断は、一度こちらへ出頭させる形にする。現地任せにするな」

 

左近将監が頷いた。

 

「伊勢の内で済ませれば、必ず『どちらの顔を立てた』が付きまといます」

「だから一度、こちらへ寄せる」

 

「稲葉山ですか」と半兵衛。

 

「いや、そこまで大仰にせずともよい。尾張寄りでよい。だが、織田の場でやる。そうすれば、長野工藤家の内争でありながら、裁定は織田の手にあると分かる」

 

十兵衛がそこで顔を上げた。

 

「その一段は効きますな」

「効かせるためにやる」

 

しばらく、文を削ったり足したりする時間が続いた。

 

「争いを止めよ」では弱い。

「従え」では強すぎる。

「裁つ」は冷たい。

「収める」は柔らかすぎる。

 

十兵衛が一つの案を出した。

 

「“弓箭を収め、境目のこと、双方より申立てさせ、織田がこれを定む”」

 

「悪くない」と俺は言った。

「誰が何をするか、はっきりしている」

 

左近将監が言う。

 

「その後ろへ、『勝手に兵を動かす者は、伊勢の静まりを乱す者として扱う』と添えれば、周辺国人にも釘になります」

 

「少し強いか」と半兵衛。

 

「強くてよい部分も要る」と左近将監は返した。

「全部を柔らかくすれば、関家あたりは『では様子を見て抜け道を探そう』となります」

 

そこは確かにそうだった。

 

「よし、その一文は残す」と俺は決めた。

「ただし、『討つ』とは書くな。“乱す者として扱う”で止める」

 

十兵衛が静かに笑った。

 

「そこは治部様らしゅうございます」

「何だ、その言い方は」

「いえ。刃を見せるが、抜き切らぬところが」

「まだ抜く段じゃないだけだ」

 

そう言うと、三人とも少しだけ表情を緩めた。

 

文の形は、そこでようやく整った。

 

長野工藤家の内争は、すでに近辺へ難儀を及ぼしている。

相隣る国として、織田はこれを見過ごさぬ。

私闘を止め、境目を定め、往来と商いの道を安んずるため、兵を進める。

双方は出頭し、言い分を申立てよ。

勝手に兵を動かし、渡しや往来を損ねる者は、伊勢の静まりを乱す者として扱う。

 

裏を知らぬ者が読めば、なるほど裁断文だと思うだろう。

裏を知る者が読めば、だからこそこれで十分だと分かる。

 

「これなら」と半兵衛が言った。

「兵の数も決めやすうございます」

 

「どれほどだ」

「大軍ではなく、裁断の後ろに立つ数。ですが、逆らえば痛いと分かる程度」

 

左近将監が補う。

 

「伊勢筋へは、その方がようございます。大軍だと、長島も桑名も北畠も、皆いっぺんに構えます」

「分かった」

 

俺は最後に文へ目を通した。

 

これで伊勢が取れるわけではない。

だが、最初の一歩としては悪くない。

表では私闘を止める。裏では敵同士を切り離す。そうやって少しずつ足場を作るしかないのだ。

 

「これを勘十郎兄上へ上げる」と俺は言った。

「上総介兄上の目も通していただく。そこを越えたら、兵を動かす」

 

十兵衛、半兵衛、左近将監が、それぞれ頷く。

 

障子の外は、もうだいぶ暗かった。

だが、北伊勢へ入る道は、少しだけ形になった。

 

表に出るのは一枚の裁断文にすぎない。

それでも、その一枚で誰が動き、誰が止まり、誰が様子を見るかが変わる。

伊勢では、まずそれが大事だった。

 

 

裁断文がまとまったところで、そのまま十兵衛に清書へ回させる気にはなれなかった。

 

北伊勢へ入る最初の文だ。

しかも、表ではただの私闘停止と境目裁断に見せながら、裏では長島本願寺、桑名、北畠、長野工藤家、関家ら周辺国人の動きをずらすための札でもある。

一文字軽ければ舐められるし、一文字強ければ余計な火を呼ぶ。

 

だから俺は、その文を持って勘十郎兄上のところへ上がった。

案の定というべきか、上総介兄上も同席していた。

 

「来たか、治部」

 

上総介兄上はそう言って、俺の手元を見た。

 

「それが伊勢へ出す文だな」

「はい」

「見せよ」

 

差し出すと、兄上は途中まで一人で追い、それから勘十郎兄上へ回した。

二人とも黙って読んでいる。こういう時の沈黙は嫌いではない。すぐ口を挟まれるより、最後まで目を通してもらった方がいい。

 

先に口を開いたのは勘十郎兄上だった。

 

「思ったより柔らかいな」

「表向きは、あくまで私闘停止と境目裁断にございます」

「分かる」

 

兄上は紙へ目を落としたまま続けた。

 

「だが、柔らかいだけでもない。『勝手に兵を動かし、渡しや往来を損ねる者は、伊勢の静まりを乱す者として扱う』――ここでちゃんと締まる」

「そこは残しました」

「残してよい」

 

上総介兄上も頷いた。

 

「全部を丸くすると、かえって弱く見える。これくらいは要る」

 

俺は少しだけ肩の力を抜いた。

少なくとも、文の芯は外していないらしい。

 

「北畠にはどう映ると思う」と上総介兄上が言った。

 

「露骨な喧嘩は売っておりませぬ」と俺は答えた。

「長野工藤家の内争が、近辺の村里、渡し、商いへまで響いておる。それを止める、としか書いておりませぬ」

 

「だが、長野工藤家の裁断へ織田が入ること自体は、北畠の腹を冷やす」

「はい」

「それでよい」

 

兄上の返しは早かった。

 

「北畠が『なるほど、秩序のために』と素直に頷く必要はない。だが、いきなり『討ちに来た』とは言いにくい。その程度で足りる」

 

そこはまさに、その通りだった。

 

勘十郎兄上が別の箇所を指で押さえる。

 

「“相隣る国の乱れは、やがて双方の難儀となるゆえ”――この言い方はいいな」

「荒いですか」

「いや、むしろよい。伊勢を頭越しに裁く顔ではなくなる」

「十兵衛の案です」

「だろうな」

 

兄上は少し笑った。

 

「お前一人なら、もう少し刃が見える文になった」

「そんなことは」

「ある」

 

上総介兄上までそう言う。

二人揃って言われると分が悪い。

 

「されど」と勘十郎兄上は続けた。

「この文なら、長野工藤家の側も『いきなり家を奪われる』とは読みづらい。まずは出頭して言い分を述べよ、で止まっておるからな」

 

「そこは大事かと」

「大事だ」

 

兄上ははっきり言った。

 

「相手を動かす時、最初から“もうお前のものではない”と思わせるのは下策だ。呼べる者まで逃がす」

 

そこへ上総介兄上が口を挟んだ。

 

「兵はどうする」

 

「大軍は出しませぬ」と俺は答えた。

「裁断の後ろに立つだけの数にございます。されど、逆らえば面倒だと思わせる程度には」

 

「半兵衛がそう言ったか」

「はい」

「ならよい」

 

上総介兄上は紙を机へ置いた。

 

「北伊勢へ入る最初の兵だ。勝つための数ではなく、止めるための数にしろ。その方が伊勢の連中にも言い訳が立つ」

「長島や桑名も、すぐには構えませぬでしょう」

 

俺がそう言うと、勘十郎兄上がちらとこちらを見た。

 

「そこまで見ておるか」

「はい。少なくとも、私闘停止と境目裁断の形なら、商いの地へいきなり刃を向けたとは見えにくい」

「うむ」

 

兄上は頷いた。

 

「桑名の連中は、戦そのものよりも、流れが詰まる方を嫌う。そこを文へ入れたのも悪くない」

「渡しと往来を損ねるな、の一段にございます」

「効く」

 

そこまで言ってから、上総介兄上は紙をもう一度手に取り、今度は少し細かく目を走らせた。

こういう時の兄上は、勢いだけではない。見ているところは案外細い。

 

「治部」

「はい」

「一つだけ直せ」

「どこを」

「“兵を進める”の前に、“人数を率いて”と読める匂いが少しある」

 

俺も紙へ目を落とした。

たしかに、書きぶり次第では、こちらがすでに軍をもって押し入る段に見えなくもない。

 

「“人数”を消す」

「いや、消すだけでは弱くなる」

 

兄上は指で一行上を叩いた。

 

「ここだ。『まず使者を立て、従わぬ時は兵を進める』に変えろ」

 

勘十郎兄上もすぐ頷く。

 

「それがよい。最初から兵ではなく、まずは言葉を立てた、と残る」

 

俺は思わず少し笑った。

 

「兄上方、さすがに細かい」

 

「細かくて悪いか」と上総介兄上。

 

「いえ。助かります」

「助かるなら使え」

「もちろんにございます」

 

十兵衛なら、この修正を嫌がらず入れるだろう。

むしろ、そこまで整ってこそ文になる。

 

勘十郎兄上は、そこで少しだけ体を引いた。

 

「で、治部。お前自身はどう見る」

「何を、にございますか」

「この文で、長野工藤家は動くか」

 

俺は少し考えた。

 

「動きます」

「理由は」

「北畠に全部呑まれるよりは、まだ織田の裁断へ出た方がましだと思っておるからです」

 

上総介兄上が口元だけで笑う。

 

「言い切るな」

「言い切ります」

 

俺はそのまま続けた。

 

「長野工藤家が北畠を嫌うのは、昨日今日の話ではありませぬ。仇敵に敗れ、その次男具藤殿を当主に頂いておる。そこへ今の織田が出るなら、少なくとも“話は通る方”に賭けたいと思う者が出るのは自然です」

 

勘十郎兄上が、静かに頷いた。

 

「まあ、今のところ織田は、降りかかる火の粉を払ってきたにすぎんからな」

「はい」

 

俺も頷く。

 

「少なくとも伊勢から見れば、こちらは好き好んであちこちへ押し広げて回った家には見えますまい。美濃を呑んだのとて、一色左京大夫が兵を率いて尾張へ攻め入って来たがため。こちらとしては、その火の粉を払った先で、美濃まで抱え込むことになったにすぎませぬ。そう見える分、北畠よりはまだ話の通る相手と思われやすいのでしょう」

 

上総介兄上が、そこで鼻で笑った。

 

「それは褒めておるのか」

「少なくとも、伊勢では使える見え方にございます」

「ならよい」

 

軽いようで、実際そうだった。

 

この世界線の織田は、まだ“話の通る大名家”に見える。

少なくとも、北畠に比べればそうだ。

そこへ俺や十兵衛、半兵衛、左近将監のような顔が並べば、なおさら「いきなり潰しに来るわけではない」と思われやすい。

 

もちろん、必要とあらば切る。

だが今はまだ、その刃を見せる段ではない。

 

「よし」と上総介兄上が言った。

 

「この文でいけ」

「では、清書へ回します」

「回せ。勘十郎」

「はい」

「兵の見せ方はお前が詰めろ」

「承知いたしました」

「治部」

「はい」

「長野工藤家へは、裁断に来た顔で行け。だが、裁断を拒めばどうなるかも、相手にはきちんと見せろ」

「心得ております」

 

兄上はそこで、ようやく満足げに頷いた。

 

「ならよい。北伊勢へ入る最初の文としては、悪くない」

 

それは、かなり重い許しだった。

 

文を受け取って部屋を辞したあと、俺は廊を歩きながら一つ息をついた。

これでようやく、表へ出してよい札になった。

 

裏では長島本願寺と短い約がある。

だが、表に出るのはただの裁断文だ。

それでいい。むしろ、それがいい。

 

長野工藤家の争いを止める。

境目を定める。

渡しと商いの道を守る。

 

その名目で入る限り、北伊勢はまだ一色に敵ではない。

伊勢で欲しいのは、そういう薄い切れ目だった。

 

 

裁断文が座へ置かれた時、部屋の空気はそれだけで一段冷えた。

 

まだ兵が門前に並んだわけではない。

槍が庭先へ立ったわけでもない。

 

それでも、織田の文が一枚置かれただけで、誰もが「もう内輪の争いでは済まぬ」と知った。

 

長野工藤家の評定の間、上座には次郎具藤殿がいた。

 

まだ幼い。

 

当主としてそこへ座してはいても、この場を回す年ではない。肩の線も、顔に浮いた張りも、懸命に“当主らしく”あろうとしている幼君のそれにすぎない。

 

だからこそ、かえって座の者たちの腹は重かった。

 

その具藤殿の後ろに、後見役が控えていた。

 

北畠との縁を背に、家中実務と評定を実際に回している男である。年は壮年、声は抑え気味だが、抑えているぶんだけ鼻につくところがある。

 

文はすでに読み上げられていた。

私闘を止めよ。

境目のこと、双方より申立てよ。

往来と渡しを損ねることを許さぬ。

従わぬ時は、織田が兵を進める。

 

乱暴に「降れ」とは書いていない。

 

だが、だからこそ逃げ場も狭い。これは脅しではなく裁断だ、と言われた方が、かえって家中の首は締まる。

 

最初に口を開いたのは、その後見役だった。

 

「長野工藤家の内に争いが続き、近辺へ難儀が及んでおる。そこをまず収めねばならぬ、との趣意にございます」

 

それだけで、座の古参どもは顔をしかめた。

“工藤家の評定”であるはずの場に、北畠の息が混じっていると、誰の耳にも分かる物言いだったからだ。

 

「趣意、か」

 

年嵩の老臣が低く言った。

 

「ずいぶん他人事のように申される」

 

後見役は目を細める。

 

「他人事ではござらぬ。今この家のことを申しておる」

「その口でか」

「何を仰せか」

 

老臣は、一歩も引かなかった。

 

「北畠の倅を上へ据え、その後ろから家のことを申すその口で、工藤家のことを分かったように言うな、と申しておる」

 

座が少し揺れた。

 

言葉がきつい。だが、それを諫める者はいない。皆、口へ出すか出さぬかの違いだけで、似たものを腹に抱えていた。

 

後見役の声が少しだけ硬くなる。

 

「次郎殿は、今や長野工藤家の当主にございます」

「当主と申し、後ろから北畠の裁きを流し込む」

 

別の旧臣がそこで続いた。

 

「戦で負け、具教卿の御次男を頂く。そこまでは呑みました。家を残すためと言われれば、呑まぬわけには参りませぬ。されど、その上なお、人の置き方も、物の流し方も、裁きの一つ一つまで北畠へ寄せられては、何のために工藤家の名を残したのか分からぬ」

「言い過ぎである」

 

後見役がそう返すと、今度は中堅どころの家臣が口を開いた。

 

「言い過ぎではございませぬ。皆、前から思うておったことにございます」

 

その声は老臣より静かだった。

だが、その分だけ座へ深く入った。

 

「次郎殿を頂いたこと、そのものが腹に痛いのではない。今や家の内の息まで北畠へ寄せられておる。そこが堪えかねるのです」

「堪えかねる、か」

「はい」

 

中堅の家臣は、次郎殿の方を見なかった。あくまで後見役へ向けて言っている。

 

「人の差配、蔵の動かし方、境目の扱い、ことごとく“北畠ならどう見るか”で決まる。工藤家が工藤家として立つより、北畠の外へ張り出した手足に見えてきておる」

後見役の目つきが変わる。

「それは家のためだ」

「誰の家のためです」

 

その一言で、また沈黙が落ちた。

 

次郎殿は、上座でじっとしていた。

 

何をどこまで分かっているのかは知れない。だが、今この場が、自分を巡って割れていることだけは嫌でも分かったろう。小さく座り直した肩に、その緊張が出ていた。

 

今度は慎重派が口を開いた。帳面と蔵を預かる男で、古傷より明日の損を先に見る顔つきだった。

 

「北畠が嫌いなのは分かる」

 

老臣がすぐ睨む。

 

「分かるなら黙っておれ」

「黙って済む話ではござらぬ」

 

慎重派は顔色ひとつ変えなかった。

 

「北畠が仇敵筋なのは今さら申すまでもない。されど、だからといって織田を入れてよいとも限らぬ」

「今のままでよいと?」

「誰もそうは申しておらぬ」

 

男はきっぱり言った。

 

「ただ、ここで織田の裁断へ出れば、今度は家そのものが尾張者どもの秤へ載る。北畠が嫌だからといって、次の大身へ身を差し出すような真似が利口かどうか、そこは別にございます」

「では、このまま北畠の色に染まれと」

「そこも違う」

 

慎重派は、ようやくわずかに眉を動かした。

 

「だからこそ、皆、苦しいのでしょうが」

 

その一言は、場の空気を少しだけ落ち着かせた。

 

怒鳴るだけなら簡単だ。だが、ここにいる者は皆、違う恐れを抱えながら、それぞれ別のものを守ろうとしている。

 

老臣は工藤家の体面を守りたい。

後見役は今の家の形を崩したくない。

慎重派は家ごと呑まれるのを避けたい。

 

そして上座には、その全ての理由にされている幼い当主がいる。

 

「ではどうする」と後見役が言った。

「織田の文を破り捨てるか」

「それも出来まい」と慎重派。

「ならば頭を下げるか」と老臣。

「降るとは誰も申しておらぬ」と後見役。

「だが出れば、あちらの場だ」と老臣は返した。

「織田の席へ出た時点で、裁きの手は向こうへ渡る」

「出ずに済めばよい」と後見役は言った。

「済まぬからこうしておる!」と老臣が吠えた。

 

今度は止める者がいなかった。

 

「北畠の倅を戴いて、これ以上何を呑めと言う!

 

工藤家の名を残したとて、中身まで北畠になれば終わりではないか!」

 

「控えよ」と後見役が低く言う。

「控えませぬ! ここで控えて何が残る!」

 

別の旧臣も乗った。

 

「織田が怖いのは分かる。尾張者を家へ入れるのも面白くない。だが、今のままではどうせ北畠に溶ける。ならばまだ、外から来た者に一度裁かせた方がましだ!」

「それは織田に好意があるからか」と後見役。

「あるものか」

 

老臣は吐き捨てるように言った。

 

「ただ、今よりはまだ値切れる」

 

その言い方に、座の何人かが目を伏せた。

 

情ではない。忠でもない。だが、それが一番本当のところだった。

 

北畠の血が家の真ん中に居座るより、まだ外から来た織田相手に、どこまで家名と所領を残せるかを量る方がまし。

 

それが今の長野工藤家だった。

 

しばらく誰も口を開かない時間が続いた。

やがて、古参の実務家が言った。

 

「……出るほかありますまい」

 

皆の目が集まる。

 

「織田が怖い。北畠も嫌だ。どちらも本音にございましょう。されど、私闘を続けておれば、どちらへ転んでも家は保たぬ」

 

老臣が苦く言う。

 

「では尾張者の前へ出ろと」

「出るのです。言い分を述べるのです。境目のこと、家の由緒、こちらの理をきちんと申す。それすらせず拒めば、今度こそ“乱れた家”として処される」

 

慎重派も、今度は反論しなかった。

出るのは怖い。だが、出ぬ方がなお悪い。そこだけは、皆、薄々分かっていた。

 

後見役は、そこで初めて次郎殿の方を見た。

 

評定の最中、次郎殿はほとんど口を開かなかった。

 

開かせなかったのか、開けなかったのか、その両方か。

だが、ここで何も言わぬまま終われば、それこそただの看板だ。

 

次郎殿は、小さく息を吸った。

 

「……私は」

 

幼い声だった。

だが、それだけに、かえって座が静まった。

 

「私は、この家の当主としてここにおる」

 

後見役が教えた言葉かもしれない。

前もって仕込んだ一言かもしれない。

 

それでも、その一言を言わせねばならぬほど、今のこの家は危うい。

 

老臣は目を閉じた。

 

慎重派は、わずかに視線を落とした。

 

誰も納得はしていない。だが、そこでようやく評定の帰る先が見えた。

後見役が言う。

 

「次郎殿がそう仰せである。ならば」

 

老臣が、低く返した。

 

「出るほかありますまいな」

 

それは賛成ではない。

諦めであり、苦い承認だった。

慎重派も続く。

 

「出るだけは出る。そこで降るかどうかは、また別にございます」

「当然だ」と老臣。

「そこを違えてはならぬ」と後見役。

 

三つの立場が、三つとも嫌々ながら同じ方向を向いた。

それで十分だった。

 

具藤殿はなおも上座にいた。

当主として。

 

だが、その幼い肩へ何が載っているか、ここにいる者は皆知っていた。

北畠の血。

工藤家の名。

 

そして、織田の裁断の場へ出ねばならぬ現実。

どれ一つとして、子が背負うには軽くない。

 

評定はそれで終わった。

何も解けてはいない。

 

ただ、家中は割れたまま、それでも織田の場へ出ることだけは決めた。

今の長野工藤家にできるのは、そこまでだった。

 

 

同じ家から出た申立てとは、思えぬほどだった。

 

三日内に揃えさせた書付を前に、俺は思わずそう口にしかけて、やめた。

言わずとも、座の三人とも同じ顔をしていたからだ。

 

十兵衛が一通目を読み終え、紙を置く。

半兵衛は二通目を開いたまま眉を寄せ、左近将監はまだ読みもしないうちから封と紙質を見ていた。

 

「どうだ」と俺が聞く。

 

十兵衛が、まず静かに答えた。

 

「同じ家の申立てとは申せませぬな」

「そこまでか」

「はい。表向きは同じ事を申しております。私闘はやむを得ず起き、境目は古来の由緒が錯綜し、早急な裁定を願う、と。ですが、文の力の入れどころがまるで違います」

「読ませろ」

 

十兵衛が差し出した一通目は、後見役の側から出たものだった。

整っている。乱れがない。余計な感情もない。その代わり、妙に“今の形”を守ろうとする匂いがある。

 

「ここにございます」と十兵衛が指で示す。

「『次郎殿御代において、諸事静謐ならしむるため』――こう置いております。幼い当主の名を立てつつ、今の運用を正統に見せたいのです」

「北畠寄り、とまでは書かぬが、今の形を崩されたくはない、か」

「はい。しかも争いの責を“古来の境目の混乱”へ逃がしておる。人の置き方や裁きの偏りへ話が行かぬよう、かなり意識してあります」

「筆は」

「後見役その人か、その近くにございますな」

 

そこへ半兵衛が、別の一通を軽く振った。

 

「こちらは逆です」

「旧臣側か」

「ええ。『工藤家代々の知行』『古例』『家名の面目』が妙に多い。しかも、争いの元を境目そのものではなく、“近ごろの差配の偏り”へ寄せようとしております」

「露骨だな」

「露骨にせねば、収まらぬのでしょう」

 

半兵衛の返しは乾いていたが、情がないわけではない。

 

「面白いのは」とあいつは続けた。

「北畠の名をあからさまには悪く書いておりませぬ。ですが、『古来より家中に預け置かれたものまで、近ごろ一方へ寄る』だの、『旧例に違う』だの、読む者が読めば後見役の運用を刺していると分かる」

 

「真正面から次郎殿や北畠を叩いてはおらぬわけだ」

「はい。そこまで書けば、自分らの首も危ういので」

 

左近将監が、ようやく口を開いた。

 

「こっちは、実際に地を踏んでおる者の文にございます」

 

俺と十兵衛がそちらを見る。

左近将監が持っていたのは、三通目だった。慎重派の実務家筋から出たものだろう。

 

「どこで分かる」

「境目の書き方です。後見役側の文は、古図と由緒を並べておりますが、渡しの使い方が甘い。旧臣側の文は、家名の話が前へ出すぎて、実際にどの村がどこへ水を引いておるかが薄い。ですがこれだけは、村と渡しと荷の流れがきちんと繋がっております」

「現場を知っておる」

「はい。しかも、どちらへも寄り切っておりませぬ」

 

左近将監は紙を机へ置いた。

 

「面白いのはここにございます。『家名を損なわず、かつ近辺の難儀を止めるため、境目のことは一度外の裁きへ付すほかなし』――こう来ております」

 

「なるほどな」と俺は言った。

「北畠も嫌だ、織田も怖い、だがこのままはもっと悪い、という顔か」

 

「まさしく」

 

十兵衛が小さく頷いた。

 

「文も、その顔にございます。もっとも整っておる。へりくだりすぎず、かといって意地を張りすぎてもいない」

「一番使えるのはそこだな」

「はい。家を動かすなら」

 

少しの間、四人とも黙って紙を見ていた。

 

同じ家から出た文だ。

だが中身は、もう家中の割れそのものだった。

 

後見役は、今の形を正統として守りたい。

旧臣側は、工藤家の名と面目を北畠色から引き剥がしたい。

慎重派は、どちらへも全部は渡さず、家名と所領だけは残したい。

 

「次郎殿ご自身の文はないのか」と俺が言う。

 

十兵衛が首を振る。

 

「当主名義は上の一通に被っております。あれで十分と見たのでしょう」

「当然か」

 

幼い次郎殿に、自筆で何かを言わせる段ではない。

むしろ今の家中では、誰がその名を使って語るかの方が重い。

 

半兵衛が別の紙を引き寄せた。

 

「境目線の食い違いもございます」

「どこだ」

「ここです。後見役側は、争いの起点を古い由緒へ戻そうとしております。旧臣側は、近年の差配変更を原因にしたがる。慎重派は、由緒と近年運用の両方を書いております」

「つまり」

「今ここで、どちらが悪いと決め打ってしまうと、片側が必ず反織田で固まります」

 

それは読めていた。

だが、こうして文へ出ると改めて重い。

 

「兵の運用もまだ危ないな」と俺は言った。

 

左近将監が頷く。

 

「はい。渡しの数の書き方にも違いがございます。後見役側は少なく見せております。旧臣側は多く書いております。慎重派の数が、おそらく一番近い」

「ごまかし合っているわけだ」

「家中で誰がどこを押さえているか、それすらまだ定まり切っておりませぬので」

 

十兵衛が、そこで紙を重ね直した。

 

「治部様、順を違えぬ方がよろしいかと」

「言ってみろ」

「今ここで、後見役が悪い、旧臣が正しい、あるいはその逆と裁いてはなりませぬ。まずは私闘停止を、誰が見ても違えられぬ形で命ずる。次に、渡しと往来へ勝手な手を出した者は、家中の理屈にかかわらず咎める。境目の本裁定は、その後にございます」

 

半兵衛もすぐに乗る。

 

「そうでなければ、裁いた先から現地でまた兵が動きます。家中が割れておる家に、いきなり最後の答えを落としても、その通りには動きませぬ」

 

左近将監が、最後に土地勘の話へ戻した。

 

「伊勢の者は、言い負かされても従いませぬ。ですが、渡しと往来を押さえられれば、嫌でも止まります。まずはそこを織田の名で縛るのがよろしいかと」

 

俺は紙の山へ目を落とした。

 

家をどう切るか。

誰を立て、誰を外すか。

そこまで見えぬわけではない。だが、まだ早い。

 

今欲しいのは、長野工藤家を“裁断される家”として座へ縛り付けることだ。

勝手な兵を止める。

渡しを止めさせない。

村と荷の流れを、織田の名で押さえる。

その先で、ようやく家の中身へ入れる。

 

「よし」と俺は言った。

 

三人が顔を上げる。

 

「今はまだ斬らぬ」

 

十兵衛が、わずかに目を細めた。

 

「はい」

「後見役を切れば、北畠寄りが露骨に騒ぐ。旧臣だけを立てれば、今度は家中が割れすぎる。まずはどちらも動けぬように縛る」

 

「私闘停止と、渡し・往来の押さえでございますな」と半兵衛。

 

「そうだ。境目の本裁定は、その後だ」

 

左近将監が少しだけ息を吐いた。

 

「順当でございます。伊勢では、その方がよろしい」

 

「次郎殿の名義はどうしますか」と十兵衛が問う。

 

「今は残す」

 

即答した。

 

「幼い当主の名までいきなり外せば、“尾張者が家を奪いに来た”になる。まだそこではない」

「承知」

 

十兵衛はすでに次の文面を頭で組み始めている顔だった。

 

半兵衛は兵と渡しの控えを寄せ、左近将監は現地で誰へ何を伝えるかを考えている。

その空気を見て、ようやく一つ息が抜けた。

 

長野工藤家は割れている。

だから使える。

だが、割れているからこそ、急げば壊れる。

 

北畠を残せるなら残す。

使えるなら使う。

使えぬなら斬る。

長野工藤家も、今はまだその手前だった。

 

まず縛る。

まだ呑まぬ。

北伊勢は、その順で進めるほかなかった。

 

 

 

 

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