織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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003小田井の神童

天文十九年、尾張の春は、まだ少し肌寒かった。

 

川面を渡る風には冬の名残があって、庄内川の石は朝のうち冷たく、裸足で近づけばすぐに足先がじんとする。

それでも子供というのはそういうことをいちいち気にしない。いや、気にしても、面白いことがあるなら忘れる。

 

その日も、川原には三人いた。

 

又八郎。

市之助。

そして、まだ小さい又六郎。

 

年の同じ又八郎と市之助が先に石を拾い、平たいのを選び、指先に唾をつけては真剣な顔で川面を睨んでいる。

その後ろを、少しだけ背丈の足りぬ又六郎が、必死に同じような石を探してついて回る。

 

「それはちと厚い」

 

と、市之助が言った。

 

「え?」

 

石を握った又六郎が顔を上げる。

 

「厚いと、ぼちゃんだ」

「ぼちゃんでもいいよ」

「よくない。水切りは切って何回跳ねるかだ」

「市之助兄上も、前に二回でぼちゃんした」

「それは風が悪かったんだ」

「風なんてなかった」

「うるさい、見ておれ」

 

市之助は、くっと顎を引いて石を投げた。

 

ひゅっ、と低く飛んだ石が、

ち、ち、ち、と三つ跳ね、

四つ目で沈む。

 

「ほらな」

 

得意そうに言う。

又六郎は、すごいのかどうかよく分からない顔をした。

その横で、又八郎が妙に真顔で頷く。

 

「今日はいいな、市之助」

「今日は、とは何だ今日はとは」

「昨日は二回だった」

「昨日のことを持ち出すな」

「記録は大事だろ」

「おぬしはそういうところが嫌らしい」

 

そう言いながらも、市之助は笑っていた。

 

この二人は、会ったばかりだというのに妙に噛み合っていた。

守山の孫三郎信光の嫡男、市之助。

小田井の左衛門佐信張の長子、又八郎。

 

家の位置も、将来背負うものも、それぞれ軽くはない。

だが子供同士にそんなことは関係がなかった。

気が合う。

面白い。

相手が少しだけ変だ。

だから、もう十分だった。

 

発端は一月ほど前に遡る。

 

守山城で、市之助の妹が生まれた。

晴と名付けられたその赤子の誕生をきっかけに、信光が那古野や小田井へ顔を出す機会が増え、その折に連れられてきた市之助と、又八郎が顔を合わせたのが最初だった。

いや、多分顔合わせはしていたはずだが、お互いの意識の端に登ったのがこの時だったということだろう。

 

最初の印象を、後に互いが語ることはあまりなかったが、どちらも内心ではこう思ったに違いない。

 

――何だこいつ。

 

又八郎は、市之助の目が妙にきらきらしているのに驚いた。

ただ明るいのではない。

向こうから面白いものへ噛みつきに来る犬みたいな目だ。

 

市之助は市之助で、又八郎の落ち着きが妙に不気味だった。

同じ年頃のくせに、目だけは時々、大人みたいに何かを値踏みしている。

なのに次の瞬間には、平気で泥の中へでも飛び込む。

 

変だ。

だが、その変さが嫌ではない。

 

そうして二人は、三度目に会った時にはもう一緒に庭を走り回り、五度目には木剣で打ち合い、七度目には「悪ガキ同盟」と、本人たちしか意味の分からぬ名で自分たちを呼び始めていた。

 

その頃、小田井では又八郎と又六郎の妹も生まれた。

 

糸姫。

 

信張と正室の間に生まれた、待望の娘だった。

赤子の名が決まった時、又八郎は本気で大喜びした。

 

「妹だ!」

 

その一声で、家中の女房たちが笑ったほどだ。

 

「可愛い!」

「まだ産着に包まれておるだけでしょうに」

「もう可愛い!」

 

乳母が呆れ、母が少し疲れた顔で笑い、父の信張まで苦笑した。

だが、又八郎の熱は本物だった。

 

小さい。

柔らかい。

泣いている。

顔なんてくしゃくしゃなのに、なぜかものすごく可愛い。

 

又八郎は、毎日のように乳母へ「ちょっとだけ抱いていい?」と聞き、毎日のように「ちょっとだけですよ」と釘を刺され、それでも抱ければ本気で嬉しそうな顔をした。

 

一方で、その様子を見ていた又六郎と、市之助の感想はかなり違った。

 

「泣くとうるさいよ」

と又六郎。

 

「わかるぞ」

と市之助。

 

「母上が妹ばっかり見る」

「わかる」

「この前まで、俺が一番だった」

「わかる」

 

川原でその話になると、二人は妙に意気投合した。

 

「市之助兄上のとこも?」

「そうだ。晴が生まれてから、母上があれこれと」

「わかる……」

「しかも、泣く」

「わかる……」

 

感情の重みとしては、又六郎の方が大きかった。

一歳違いとはいえ、又六郎はまだ本当に小さい。

母が自分を見てくれる時間が、目に見えて減る寂しさは、理屈より先に胸へ来る。

 

市之助は、その点では少し年上の兄貴分らしい顔をした。

 

「まあ、でも、死ぬほどずっと泣いてるわけじゃない」

「でも泣く」

「泣く」

「うるさい」

「うるさい」

 

そこへ、石を投げ終えた又八郎が振り向いた。

 

「何言ってんだ、お前ら」

「妹の話だ」

と市之助。

「可愛いじゃん」

と又八郎。

「可愛くないとは言ってない」

と又六郎。

「いや可愛いだろ」

「泣く」

「泣くのも可愛い」

「母上が取られる」

「取られないだろ」

「取られる」

「取られる」

「お前ら、心狭いな」

 

その瞬間、市之助と又六郎の視線が揃った。

 

「おぬし/兄上が広すぎるだけだ!」

 

三人で笑う。

川風が吹く。

春の川原は、そういうくだらないやり取りをするにはちょうどよかった。

 

又八郎は、そこでまた石を拾いながら言った。

 

「でも、糸は本当に可愛い」

「まだ名前呼んでる」

と市之助。

「妹だぞ」

「晴も妹だ」

「うん」

「だが泣く」

「泣く」

「だから何だよ。赤子なんだから泣くだろ」

「母上を奪う」

「奪う」

「……お前ら、ほんとに妹のどこ見てるんだ」

 

市之助は肩を竦めた。

 

「又八郎はどこ見てる」

「顔、小さい手」

「俺らも顔は見る」

「顔可愛いだろ」

「可愛い」

「可愛い」

「ならいいじゃん」

「だがうるさい」

「母上があちらへ行く」

「わかる」

 

又八郎は、うーんと少しだけ考えた。

本気で考えたらしい。

 

「じゃあ、母上が妹抱いてる時に、自分もくっつけばいいだろ」

「は?」

と又六郎。

「横に行って、俺もここってやれば」

「それでどうなる」

「俺はちょっと頭撫でてもらえた」

「……」

「父上は“狭い”って言ってたけど」

「それ、兄上だからでは」

と又六郎。

「そうか?」

「おぬしは何か、そういうところがある」

と市之助。

 

又八郎は、その言葉の意味が半分分からない顔をした。

 

市之助から見ると、又八郎は妙に人の懐へ入る。

計算高く立ち回るのではない。

むしろ、変に理屈を抜かしているくせに、最後は当たり前みたいな顔で人のすぐ隣へ行く。

それで嫌われない。

いや、時々は嫌がられるのだろうが、根本では拒まれにくい。

 

変だ。

だが、それが又八郎だった。

 

又六郎もまだ言葉に出来ぬまま、似たようなことを感じていた。

 

兄は、少し変だ。

変なのだが、母にも父にも女房たちにも、どこかで許されている。

たぶん、又八郎自身に悪気がないからだろう。

悪気なく人の懐へ飛び込んで、悪気なく一緒に笑って、悪気なく妹まで可愛い可愛い言う。

 

又六郎から見ると、兄は時々ものすごく分からない。

 

その分からなさを埋めてくれるのが、市之助だった。

 

市之助は、兄貴分としてはわりと常識が通じる。

 

妹が泣けばうるさいと言うし、母上が妹へつきっきりになれば寂しいとも言う。

魚を手掴みで取りに行って泥だらけになるが、それがどう考えても無茶だという理屈は一応分かっている。

又六郎からすれば、兄より話が通じる気がした。

 

――兄上より、市之助兄上の方が常識が通じる、かも。

 

そんなふうに思うこともあった。

 

だが、その認識は長くは保たない。

 

「又六郎」

と、市之助が川原で言った。

「何だ」

「向こう岸まで泳げると思うか」

「無理だよ」

「だよな」

「うん」

「でも途中の浅いところまでなら行けるかもしれない」

「行かない方がいい」

「そうだな。石を積んで飛び石を作るか」

「もっと駄目だ」

「なぜ」

「流れる」

「じゃあ流れぬよう大きい石を」

「それをどうやって運ぶ」

「……確かに」

 

一見、理屈は通っている。

だが、理屈の通った狂い方というだけで、狂っていないわけではない。

 

あるいは木へ登って柿を取ろうとした時もそうだ。

 

又八郎は最初から上へ行く。

危なげなく行く。

だからまだよい。

 

市之助は、市之助で途中まで普通に登ったあと、わざわざ細い枝の方へ体重を移して「こっちの方が早い」と言い出す。

下から見ていた又六郎は本気で青くなった。

 

「市之助兄上! そこ折れる!」

「折れる前に取れば」

「そういう話じゃない!」

「又六郎、おぬし案外心配性だな」

「兄上よりはな!」

 

川原でも木の上でも、又六郎はだんだん学んでいった。

 

兄上は変だ。

市之助兄上も大概変だ。

ただ、変の種類が少し違う。

 

又八郎は、何か思いつく前に、まず目をきらっとさせる。

市之助は、思いついたことを一度口に出して、自分で「それは無茶か」と言う。

だから、ある程度育った又六郎から見ると、市之助の方がまだ筋が見えやすい。

 

だが結局のところ、二人とも悪ガキ同盟なのである。

 

その日、庄内川では夕方近くまで石切りが続いた。

 

途中から又六郎も、ようやく二回、三回と跳ねさせられるようになってきた。

そのたびに、市之助は大げさに褒める。

 

「よし、今のは良い」

「ほんと?」

「うむ。兄上より筋がいい」

「えっ」

「嘘つくなよ」

と又八郎。

「今のはうまかった」

と市之助。

「でも兄上も今日四回いった」

と又六郎。

「そうだぞ」

「だが、又六郎はまだ小さい」

「市之助兄上、今ちょっと贔屓した」

「兄貴分だからな」

「そういうのありかよ」

 

夕日が川へ細く差し、石が赤く光り始めた頃、市之助がふいに言った。

 

「又八郎」

「何だ」

「妹が出来て嬉しいか」

「嬉しい」

「そんなにか」

「そんなに」

「何でだ」

「何でって……」

 

又八郎は少し首を傾げ、それから当たり前みたいに答えた。

 

「家が増える感じがする」

 

市之助と又六郎が、同時に黙った。

 

又八郎は、その沈黙に気づかぬまま続ける。

 

「父上と母上がいて、俺と又六郎がいて、そこへ糸が入って」

「うん」

「何か、ちゃんと増えた感じがして、いい」

「……」

「可愛いし」

「それはさっき聞いた」

「だから守りたいなって思う」

 

夕日の中で、それを平気な顔で言う。

又八郎にとっては、たぶんそれが本音なのだ。

 

市之助は、その横顔を見て少しだけ笑った。

 

「おぬし、やっぱり変だな」

「何で」

「いや、妹が増えて“守りたい”が最初に来るのは、なかなかおらん」

「そうか?」

「そうだ」

「でも、市之助も晴姫が泣くと見に行くって言ってた」

「……あれは、うるさいからだ」

「ほんとか?」

「ほんとだ」

「怪しい」

「怪しくない」

 

又六郎が、そこでぽつりと言った。

 

「俺も」

「うん?」

「糸が泣くと、ちょっと見に行く」

「だろ?」

と又八郎。

「うるさいから」

と又六郎。

「はいはい」

と市之助。

 

三人でまた笑った。

 

この頃には、もう同盟は成立していたのだと思う。

誓紙もなければ、大人の証人もいない。

ただ、同じ川原で石を切り、妹の泣き声に文句を言い、母の気を引きたいだの、いや妹は可愛いだのと、どうでもいいことを本気で言い合った。

 

その積み重ねだけで十分だった。

 

やがて日は落ち、家の者が迎えに来る声が遠くから飛ぶ。

 

「又八郎様ー!」

「又六郎様ー!」

「市之助様!」

 

三人は顔を見合わせた。

 

「帰るか」

と市之助。

「帰る」

と又八郎。

「明日も来る?」

と又六郎。

「来る」

と又八郎。

「来る」

と市之助。

 

そうして、川原から駆け出す。

 

後にそれぞれが家を背負い、政と戦の中で重くなり、諱や官途で呼ばれるようになっても、あの頃の川原の記憶だけはどこかに残り続ける。

 

妹が生まれた。

可愛い。

泣くとうるさい。

母上が取られる。

でもやっぱり気になる。

 

そんな、天下にも家中にも何の役にも立たぬ話を、尾張の春風の中で本気でしていた日々が。

 

そして、又六郎は少し成長した後になって、織田家の中で重責を担うようになって、何度目かの溜息とともにこう思うようになるのだった。

 

――兄上より市之助兄上の方が、まだ常識が通じる、かもしれない。

 

だが、その直後に大抵こう続く。

 

――いやいや、市之助兄上も大概変だ。

 

その認識だけは、生涯あまり間違っていなかった。

 

 

塩水を使った籾選りのことは、さすがに父上も隠せなかった。

 

いや、隠さなかったと言うべきか。

 

一枚二枚だけと区切って試したはずの田で、穂の揃いも実入りも目に見えて違ったとなれば、そりゃ上へ返さぬわけにはいかない。

田は家の力そのものだ。

そこで出た差は、単なる百姓の小手先では済まない。

 

だから、その秋の終わり、俺はまた父上に連れられて那古野へ上がった。

 

もう慣れた、と言いたいところだが、慣れるものではない。

備後守様と三郎殿の前へ出るのは、毎度腹が冷える。

 

ただ、前とは違うこともある。

 

今回は、俺の身体の話ではなく、田の話だ。

 

いや、それも十分大事なんだが、少なくとも「肉が食いたいです」から始まるよりは、少しだけ座りがいい気がする。

 

座敷へ通されると、備後守様は前よりさらに少し痩せて見えた。

だが、弱っているという感じではない。

むしろ、身体のどこかは削れても、芯はまだ前へ出ようとしている顔だ。

 

三郎殿は相変わらず、髪はボサボサのまま茶筅髷を結い、半裸に近い姿、腰に荒縄で瓢箪をぶら下げたいつものコーディネートでこちらを面白そうに見ていた。

元の素材が織田家謹製の美男子とあって、粗にして野だが卑ではないという、まさに「但しイケメンに限る」をこの時代から体現している。時代先取りしすぎだろう。

 

20世紀から21世紀になって、女体化だのなんだの、ドイツ第三帝国の髭よりもいろいろいじられキャラになるとは、この時誰が想像しようか。

 

その信長その人は、瓜をかじりながら俺の慌てふためくさまを楽しんでいるというわけである。

 

やめてくれ。

今回は特に、何を言わされるか分からないのだから。

 

父上が礼を尽くし、口を開く。

 

「備後守様、三郎殿。先般の塩水を使った籾選りの件、その後を申し上げます」

 

「うむ」と備後守様。

 

父上は、派手に飾らなかった。

 

「塩水に生卵を浮かべ、その頭が少し出るほどの加減で籾を選り、沈んだものだけを使った田と、従来どおりの田を比べました」

「それで」

「穂の揃い、実入り、いずれも沈んだ籾を使った方が明らかによろしゅうございました」

「……ふむ」

 

備後守様の顔は大きく動かない。

だが、三郎殿の目は明らかに光った。

 

「左衛門佐殿」

「は」

「百姓どもは何と」

「最初は怪しみました」

「当然だな」

「されど、一枚二枚だけならと納得させ、秋に見せましたところ、今は『来年はもう少し広くやってみたい』と」

 

三郎殿が、そこで小さく笑った。

 

「人は結果に弱い」

 

備後守様は一度だけ頷いた。

 

「理を説くより、少なく植えて、そして実際に刈って見せた方が早いか」

「そのように」

 

父上の返しは短い。

その短さが、かえってこの人らしい。

 

そこで三郎殿が、また俺を見た。

 

嫌な予感しかしない。

 

「又八郎」

「は、はい」

「前は肉と卵を申した」

「はい」

「今度は籾だ」

「……はい」

「他に、そなた、疑問に思うことはないか」

 

来た。

 

俺は、内心でうめいた。

 

何で毎回そこへ来るんだ。

いや、分かる。この人は、なんというか常識を破壊したり、斜めに見ることで別のモノが見えるのが楽しくて仕方がないのだ。しかも、俺のいうことで幾分かは実利がある。

分かるが、こっちは毎回その場で答えを持っているわけじゃない。

 

だが、ひとつだけ、最近気になっていたことがあった。

 

それは、理屈としてまとまっているわけではない。いや、自然界の法則としては実に正しい姿ではあるのだ。ただ、合理だの科学だのそういうのを持ちだすのもなんだかな、と思う。

むしろ、ただの気味の悪さに近い。

 

俺は少し考え、それから口を開いた。

 

「……前に」

「うむ」

「鶏……じゃない、鳥の死骸が、お庭の端にありました」

 

父上の眉がぴくりと動く。

話の入口としては最悪かもしれない。

 

だが三郎殿は、そのまま先を促した。

 

「それで」

「土に、埋めました」

「うむ」

「しばらくしたら、そこだけ、草がにょきにょきと出ました」

 

三郎殿が何かを考えるように黙る。

備後守様も、今度はちゃんと聞いている。

 

俺は続けた。

 

「あと、海辺の漁師が」

「うむ」

「浜で、腐った魚を、捨てることがあるそうです」

「……」

「すると、その周りだけ、草がいやに青々すると」

 

父上も、そこでようやく意味を取り始めたらしい。

顔が少しだけ変わった。

 

「そなた」

と三郎殿。

「それが何だと思う」

 

「……死にかけた物とか、腐った物って、草には、血からをやるのかなと」

 

前に水滸伝の小説で、宋江のお父さんが耕す畑を守るため、李逵がとにかくぶち殺した刺客の死体をぶつ切りにして、肥溜めに突っ込んでコネコネして堆肥にするような描写があったはず。俺の記憶に残ってるんだから偉大だよな、K方K三さん。

 

備後守様が、そこで低く言った。

 

「肥やしか」

 

俺は頷いた。

 

「たぶん」

 

たぶん、である。

そこは断じない方がいい。

断じた瞬間、また話が飛ぶ。

 

父上が、少し考えてから口を開いた。

 

「備後守様」

「何だ」

「これは、塩水の時と同じに、一部でなら試せましょう」

「魚を埋めるのか」

「それだけではありませぬ。草、灰、厩のもの、魚の屑、鳥獣の屍、それらをどう混ぜるかは、なお見極めが要りましょうが」

 

「匂うぞ」

と三郎殿。

 

「匂います」

と父上。

「されど、一枚だけでも違えば、考える価値はございます」

 

備後守様は、しばらく黙っていた。

 

それから、ほんの少しだけ目を細める。

 

「また、物は試しか」

 

「は」

 

「ならば、田を一部だけ分けよ」

 

「はっ」

 

「いきなり広げるな」

「承知仕りました」

「臭いと虫で失敗もありうる」

「はい」

「だが、上手く使えば地力は変わるやもしれぬ」

「そのように存じます」

 

三郎殿は、そこでくつくつと笑った。

 

「又八郎」

「は、はい」

「そなた、食う話か、腐る話しかせぬな」

「……生きるのには、大事です」

「はは、違いない」

 

そこは備後守様まで少しだけ鼻で笑った。

 

そうして話は決まった。

 

左衛門佐父上は、また一部だけ試すことにした。

前と同じだ。

まずは小さく。

比べてみる。

違いが出るなら残す。

 

そのやり方が、この時代にはいちばん通るのだと、俺もようやく分かってきていた。

 

人は、経験則や迷信や畏れに縛られる。

だが、それは愚かだからではない。

失敗の値段が高いからだ。

 

「良いはずだ」で全部を賭けるには、田も人も、簡単には戻らない。

だから、少しだけ試す。

駄目なら戻せる範囲で。

それなら動く。

 

結局、変化というものは、正しさより先に、損の少なさで通るのだ。

 

それからまた、月が流れた。

 

肥やしの試みは、塩水選よりさらに厄介だった。

匂いが出る。

虫も寄る。

魚の屑をどう扱うかで、台所方も農民も顔をしかめる。

「そんな腐ったものをわざわざ」

という反発も、前より強かった。発酵という概念が、腐敗とは別物だという体感はあったのかもしれないが、それでも一般的ではない時代だ。

 

だが、そこも父上は押し切らなかった。

 

「一枚だけだ」

「比べるだけだ」

「駄目ならやめる」

 

それだけで通した。

 

そして、通した田は、やはり違った。

 

土の色が少し変わる。

草の勢いが違う。

稲の張りが違う。

 

収量も、目で見て分かるほど差が出た。

 

塩水選ほど分かりやすく一発ではない。

だが、「あれはただの偶然だった」と言い切れないだけの差は、確かに積もった。

 

家中の空気は、そこでまた少し変わる。

 

又八郎様は、とても元気になられた。

五つや六つにしては丈夫だ。

妙に賢い。

しかも、言うことを試すと、たまに当たる。

 

まだ神童ではない。

そこまでは行かない。

だが「この子の言うことは、一応聞いてみてもよい」という程度には、家中の秤へ乗り始めていた。

 

そして、その変化は、人だけでなく膳にも少しずつ及んでいった。

 

 

那古野から使いが来た時、父上の顔色で、まずただ事ではないと分かった。

 

「又八郎」

 

呼ばれた声が低い。

いつもの、家の筋を整える時の低さではない。

もっと直截に、悪い知らせを飲み込んだ声だった。

 

「備後守様が、重い」

 

それだけで十分だった。

 

前世云々は別にして俺はまだ幼い。

死というものを知っていたとしても、この身体と精神で受け止める実感としてきちんと量れるほどではない。

だが、それでも「重い」がどういう言葉かは分かる。

 

寝込んだ。

持ち直さない。

城が静かになる。

人の足音が小さくなる。

女房の顔つきが変わる。

そういう時の「重い」だ。

 

父上は支度を急がせた。

俺も連れていく気らしかった。

 

「俺も?」

「連れて参る」

「何で」

「三郎殿が、そなたも、とな」

 

その時点で、俺は嫌な予感しかしなかった。

 

那古野へ着くと、城の空気は前とは違っていた。

人が多いのに静かだ。

皆が忙しなく動いているのに、声だけが低い。

廊の角で立ち話をしている者も、笑わない。

台所の湯気まで、どこか湿って見えた。

 

備後守様の病が、もう城全体の重さになっている。

 

父上は、俺を連れてすぐには奥へ上がらなかった。

先に使いを通し、様子をうかがわせる。

その間、俺は控えの間でじっとしていたが、落ち着くはずもない。

 

やがて、襖が開いた。

 

入ってきたのは、三郎殿だった。

 

前に見た時より、少し痩せて見えた。

いや、痩せたというより、張りつめている。

目は爛々と光っているが奥が乾いている。

それでも人前では崩れないようにしている、そういう顔だった。

 

だが、父上が深く頭を下げ、俺もそれに続いたあと、三郎殿は妙にまっすぐこちらを見た。

 

「左衛門佐」

「は」

「しばし外してくれぬか」

 

父上が、一瞬だけ顔を上げる。

だがすぐに頷いた。

 

「又八郎を、にございますか」

「うむ。少しだけだ」

 

父上は迷った。

さすがに迷った。

だが最後は、俺を見てから静かに下がった。

 

襖が閉まる。

 

部屋に残ったのは、俺と三郎殿だけだった。

 

怖い、と思うより先に、不思議だった。

この人が、人を下がらせてまで五歳だか六歳だかの子に何を言うのか。

 

三郎殿は、しばらく何も言わなかった。

立ったまま、少しだけ視線を逸らしていた。

その沈黙が、前に見た時とは全然違う。

面白がっている時の間ではない。

 

やがて、ぽつりと言った。

 

「……親父殿が、死んでしまう」

 

俺は黙った。

 

その声は低かった。

泣いてはいない。

だが、強くもなかった。

 

人前では言えないのだろう。

家中の前では、家督を継いだ若殿でいなければならない。

織田弾正忠家の嫡男として、次代を継ぐ顔でいなければならない。

だから、子どもの前でだけ、そこをこぼしたのだ。

 

そのことが、妙に分かった。

 

「皆、もう駄目だと言う」

三郎殿は続ける。

「薬師も、祈祷師も、皆それぞれに申すが、どれも決め手がない」

 

「……」

 

「食も細い。口へ入れても腹へ落ちぬ」

そこで初めて、俺を見た。

「お前、こういう時、何か思わぬか」

 

やめてくれ。

そういう目で見るな。

本当に答えがあるわけじゃない。

 

だが、食が細い。

腹へ落ちない。

そこまで聞けば、考えることは一つだった。

 

俺は少し迷ってから言った。

 

「……それがしが食べるように、肉の、煮汁に」

 

三郎殿の目がわずかに動く。

 

「うむ」

「卵を、溶いて」

「うむ」

「牛の乳と動物の骨の中の汁と、少し混ぜたものを、飲ませてみては」

 

三郎殿は、一瞬だけ黙った。

それから、ほんの少し口元を動かす。

 

「お前、それが好きだな」

 

そこだけ聞けば軽口だ。

だが声は軽くなかった。

 

「食べられぬなら、飲めるものが良いと思いました」

「……」

「肉の力と、卵と、乳、です」

 

三郎殿は、今度はすぐに笑わなかった。

ただ、何かを計るように俺を見て、それから短く頷いた。

 

「分かった」

 

それだけ言って、襖を開けた。

 

父上がすぐに入ってくる。

三郎殿は何も説明しないまま、茶坊主へ静かに命じた。

 

「台所へ申せ」

「は」

「肉の煮汁に、卵を溶き、牛の乳と骨の髄を少し増したものを作れ」

「……は」

 

俺の横で父上の身体が、わずかに揺れた。

それだけ異様な命だったのだろう。

だが、三郎殿はそこでためらわない。

 

「飲めるほどに薄く」

「は」

「熱すぎるな。喉へ通るようにしろ」

「承知仕りました」

 

そのまま、話は一気に動いた。

 

台所はざわついた。

薬師は何だそれという顔をした。

女房たちは、もう葬具の相談に半ば入っていたらしく、あからさまに不吉を振り払うような顔をした。

城の隅では、声を潜めて

「大殿はもう」

「せめて今夜を越えられるか」

と囁く者もいた。

 

葬儀の準備が、水面下で始まっている。

そういう空気だった。

 

その中で、三郎殿だけが妙に静かだった。

いや、静かというより、そこへ賭けるしかない顔をしていた。

 

備後守様の口へ、その汁が運ばれる。

 

最初は一口だった。

喉を通るかどうかを見るための、一口。

 

皆が見ていた。

 

飲んだ。

 

吐かなかった。

 

次はもう少し。

また飲んだ。

 

その日は、それだけだった。

それで劇的に起き上がる、なんてことはない。

そんな都合のいい話ではない。

 

だが、翌朝、まだ息があった。

 

昼には、もう一度少し飲んだ。

夕には、また少し。

 

三日目には、頬の落ち方が前日よりましに見えた。

四日目には、女房の一人が

「今朝は脈が少し持ち直しております」

と声を潜めて言った。

五日目には、葬具の話をしていた者たちが、今度は顔を見合わせて黙るようになった。

 

そして七日目、備後守様は自分で薄く目を開け、掠れた声で言った。

 

「……腹へ、落ちる」

 

それだけで、城の空気がひっくり返った。

 

大声で喜ぶ者はいない。

そんな段階ではまだない。

だが、もう皆の顔が違う。

 

葬儀の準備をしていた手が止まる。

奥の廊下で泣いていた女房が、泣く理由を失ったみたいな顔で立ち尽くす。

薬師は面目を失ったようでいて、だが少し安堵した顔もする。

俺といっしょに那古野城に詰めていた父上は深く頭を下げたまま、しばらく顔を上げなかった。

 

三郎殿だけは、備後守様の枕元にいた。

目の奥の乾きが、少しだけ薄れている。

 

その日の夕方、父上が俺のところへ戻ってきた時、顔つきはいつもよりずっと重かった。

だが、重さの中身が違った。

 

「又八郎」

「はい」

「……助かった、とはまだ申せぬ」

「はい」

「だが、備後守様は持ち直し始めておられる」

 

俺は息をついた。

良かった、とはまだ言えない。

でも、死んでしまう、からは一歩戻ったのだ。

 

父上は俺を見下ろした。

 

「そなた」

「はい」

「今度ばかりは、家中の見立ても変わるぞ」

 

それは分かった。

 

肉が食いたい。

卵が欲しい。

牛乳は煮ろ。

その程度のことから始まった。

塩水選も、肥やしも、手洗いもうがいも、結果はどうあれ、子供の思い付きで最初は全部小さな話だった。

 

だが今回は違う。

 

備後守様が、危篤の縁から少し戻った。

それも、皆がもう駄目だと見始めたところでだ。

 

それは、小さくない。

 

数日後には、もう家中でひそひそと言われ始めていた。

 

又八郎様は、ただ賢いだけではないのではないか。

妙に当たるだけでは済まぬのではないか。

あれは、神童というやつではないのか。

 

まだ、面と向かってそうは言われない。

だが、見立てはもう、そこへ寄り始めている。

 

俺としては困る。

ものすごく困る。

 

だが一方で、備後守様が死ななかったかもしれない、という事実の方が、今は重かった。歴史が変わったかもしれない、そういう風にも思えたが、それが未来にどうつながるのか。

 

信長だから勝てた桶狭間の戦いも、信秀ならば負けてしまうのか。いや、それはもう俺の手を離れた事態だ。

 

その夜、那古野の空気はまだ張っていた。

だが、絶望の張りではない。

綱一本でもまだ向こうへ渡れる、そういう張り方だった。

 

三郎殿は、その綱を離さなかった。

 

そして俺は、ようやく少しだけ分かった。

 

人が生き延びるというのは、派手な奇跡ではない。

腹へ落ちるものを少しずつ口へ入れる。

崩れた身体が、それを受けつける。

その小さな戻りを、諦めずに繋ぐ。

 

たぶん、それだけなのだ。

 

だが、その「それだけ」を、皆が諦めた後にも差し出せるかどうかで、早世と長生きの境は案外変わるのかもしれなかった。

 

 

備後守様がはっきりとものを言えるようになったのは、それからさらに幾日か経ってからだった。

 

まだ痩せている。

声も、以前のように腹の底から響くものではない。

だが、もう危篤の床の人間の声ではなかった。

 

那古野の座敷には、強くはないが、確かに「戻ってきた者」の空気があった。

 

父上――左衛門佐は、いつも以上に口数が少ない。

三郎殿も、平然とした顔はしているが、前のような乾いた張りつめ方ではない。

俺はといえば、端へ小さく座っているだけだった。

こんな場で子どもにできることなど、もう何もない。

 

それでも、備後守様が目を開け、周囲を見回し、最後に三郎殿へ視線を置いた時、座の空気が一段深く静まった。

 

「父上」

 

三郎殿の声は低かった。

 

備後守様は、すぐには答えなかった。

少し息を整え、それから掠れた声で言った。

 

「……途中からな」

 

三郎殿が、わずかに身を寄せる。

 

「はい」

「腹の底が、温うなるようであった」

 

誰も口を挟まない。

 

「それまでは」

備後守様は少し目を閉じた。

「ずっと、闇の底へ沈んでおる心持ちであった」

 

「……」

「声は遠い。身体は重い。ただ、沈むばかりよ」

 

三郎殿の顔から、すっと色が消える。

いや、消えるというより、無理に押しとどめていたものが一瞬だけ表へ出かけた。

 

備後守様はそれに構わず続けた。

 

「だが、あの汁を入れてから」

「……」

「腹の底に火が入るようであった」

「火」

「うむ。じわりと、な」

 

その声は弱い。

だが言葉ははっきりしていた。

 

「そこから、闇に包まれておったものが、少しずつ薄うなった」

「……」

 

「まるで陽が昇るような心持ちになってな」

備後守様は、そこでわずかに口元を動かした。

「気がつけば、意識が戻っておった」

 

三郎殿は何も言わなかった。

 

いや、言えなかったのかもしれない。

父の口から、死の縁にあった時の感覚を、こんなに静かに聞かされれば、そうなるのも無理はない。

 

父上も黙っていた。

俺も黙っていた。

 

だが、その沈黙の中で、一つだけはっきりしたことがある。

 

やっぱり肉や卵や牛乳って、すごいのでは。

 

少なくとも、三郎殿の中では、そこがかなり固まり始めていた。

ただの子どもの戯言ではない。

たまたまでもない。

薬でも呪でもないが、腹へ落ちて身体を戻す助けにはなる。

 

そういう手応えが、備後守様自身の言葉で示されたのだ。

 

三郎殿はしばらくしてから、ようやく声を出した。

 

「父上」

「何だ」

「もう少し、お召し上がりになれそうですか」

 

備後守様は、少しだけ考え、それから言う。

 

「重いものはまだいらぬ」

「はい」

「だが、あれなら入る」

「承知致しました」

 

その返事は、嫡男のものだった。

もう「親父殿が死んでしまう」と弱さを漏らした若者の声ではない。

戻ってきた父を前にして、次の手を整える息子の声だ。

 

だが俺は知っている。

この人が、あの夜、俺の前でだけ弱さを零したことを。

そのことを知っているからこそ、今の声音の変化が余計に重かった。

 

備後守様は、その日の膳でも、肉の煮汁へ卵を溶き、牛の乳を少し足したものを少しずつ口へ入れた。

前より受けつける。

咽せない。

腹へ落ちる。

それを皆が見た。

 

ああ、これでこの人は、すぐには死なない。

そういう確信が、ようやく城の中へ広がり始めた。

そして、その確信が広がると同時に、もう一つ別のことも広がった。

 

あの又八郎の言うことは、やはり妙に当たる。

ただの利発では済まぬのではないか。

いや、もはや神童と申してよいのではないか。

 

その見立てである。

 

俺としては、非常に困る。

ものすごく困る。

だが、困ると言って止まるものでもない。

 

備後守様が持ち直した、という事実の前では、家中の秤はもう少し傾いてしまう。

 

小田井へ戻ってしばらくした頃、父上はある日、珍しく機嫌がよかった。

いや、上機嫌というほどではない。

だが、張りつめた芯のあたりに少し余裕がある。

 

「備後守様も、このぶんなら持ち直されるだろう」

 

そう、ぽつりと言った。

それだけだったが、父上がそこまで言うのはかなり大きい。

 

俺は少しほっとした。

本当にほっとした。

 

だが、人間、少し気が緩むと次のことを考えるらしい。

 

田植えの時分になると、俺はまた妙なところが気になり始めた。

 

今の田植えは、どうにも雑なのだ。

 

いや、雑というと怒られるかもしれない。

皆、慣れた手つきでやっている。

長年そうしてきたのだろう。

だが、見ていると、苗と苗の間がまちまちだ。

広いところもあれば、寄りすぎているところもある。

列も何となく揺れる。

 

それでいて、皆それが当然だと思っている。

 

俺は、田の畔にしゃがみこんで、しばらくそれを見ていた。

 

陽の当たり方も、風の抜け方も、水の流れも、こんなにばらばらでいいのか。

 

いや、全体としてはいいのだろう。

これでずっとやってきたのだから。

だが、もっと揃えた方が、苗一つ一つには均等に回るのではないか。

 

そう思って、今度は父上へ言った。

 

「父上」

「何じゃ」

「苗は、もっと、きれいに並べられませぬか」

 

父上は書付から目を上げた。

またか、という顔である。

 

「きれいに、とは」

「縄か糸をはって」

「うむ」

「その通りに、みな、同じ幅同じ列で」

 

父上は、少しだけ目を細めた。

 

「何ゆえ」

 

「陽の光が」

俺は少し手を動かした。

「みな、同じように当たる方が、良い気がします」

 

「……」

「風も、水も」

「ふむ」

「今は、近いのと遠いのがあります」

 

父上は黙った。

 

その黙り方で分かる。

すぐには否定しない。

頭の中で、やるならどうやるかを見始めている。

 

「縄か」

「はい」

「等間隔に」

「はい」

「……また物は試しか」

 

俺は頷いた。

 

全面ではやらない。

そこはもう分かっている。

まず一部。

比べる。

違いが出るなら残す。

 

父上もそこは同じだった。

 

「一角だけだぞ」

「はい」

「人手も余計に食う」

「はい」

「百姓どもは面倒がる」

「でも」

「でも?」

「揃っていたら、見ていて気持ちが良いです」

 

父上は、そこで初めて声を立てずに笑った。

 

「そこか」

「そこです」

「……まあ、見目が揃うのも悪くはない」

 

そうして、また一部だけ試された。

 

縄を張る。

目印をつける。

その通りに植える。

 

最初、現場は露骨に嫌がった。

 

「こんな細かいことを」

「手間が増えます」

「田植えは急ぐものにございます」

 

当たり前だ。

忙しい時分に仕事を増やされれば、誰だって嫌だ。

 

だが父上は、そこをまた無理に押し切らない。

 

「一枚だけだ」

「比べれば済む」

「駄目ならやめる」

 

それだけで通した。

 

やってみると、まず見た目から違った。

 

揃っている。

 

そこがいちばん分かりやすい。

田が整って見える。

畝ではないが、列が通っているだけで、人の目には「ちゃんとしている」ように映る。

 

そして育っていく途中でも、ばらつきが少ない。

風の抜け、水の回り、陽の当たり、そういうものが、前より均されているように見えた。

 

秋には、やはり差が出た。

 

全部が劇的ではない。

だが、明らかに「揃っている方が扱いやすく、出来も見やすい」という差はあった。

刈る側も分かる。

見る側も分かる。

 

父上は、その田を見てから一言だけ言った。

 

「これも、当たったな」

 

それだけで十分だった。

 

そして、ここまで来ると、さすがに家中の呼び名も変わり始める。

 

又八郎様は、たいそう丈夫になられた。

妙に賢い。

言うことを試すと、当たることがある。

 

その程度だったものが、少しずつまとまりを持ち始める。

 

小田井の神童。

 

最初は、半分笑い話だった。

だが、備後守様が持ち直し、田の出来も変わり始めると、その呼び名はもう半分笑いでは済まなくなってくる。

 

俺としては、本当に困る。

 

困るのだが、父上はそれを強く止めなかった。

むしろ、ある程度は仕方ないと見ている顔だった。

 

「父上」

「何じゃ」

「俺、神童って呼ばれるの、あまり嬉しくない」

 

父上は、少し考えてから言った。

 

「そうであろうな」

「じゃあ、止めて」

 

「無理だ」

ひどい。

「そなたが言うて、結果が出ておる」

 

「……」

「人は名をつけたがる」

「嫌だ」

「分かる」

「じゃあ」

 

「だが」

父上はそこで俺を見た。

「神童と呼ばれるからといって、そなたが神になるわけではない」

 

それはそうだ。

 

「浮かれるな」

「うん」

「怯えすぎるな」

「……うん」

「その間で立て」

 

それは、父上らしい言葉だった。

 

結局、小田井の神童という名は、その頃からじわじわと定着し始めた。

まだ尾張中へ鳴り渡るようなものではない。

だが、少なくとも小田井とその周りでは、又八郎と言えば「あの神童様」で通じ始める。

 

俺はその呼び名を聞くたびに、嬉しいような、困るような、逃げたいような気分になる。

 

ただ一つだけ、前よりはっきりしていることもあった。

 

備後守様は生きている。

 

肉の煮汁に卵を溶き、牛の乳を足したものを、今もまだ少しずつ口へ入れている。

腹へ落ちるものがある。

食える。

戻る。

その積み重ねが、確かにこの人を繋いでいる。

 

そう思うと、神童だの何だのの面倒くささも、少しだけ耐える価値があるような気がした。

 

……本当に少しだけだが。

 

 

田の列が揃って見えるようになってから、俺はしばらく、屋敷の中を歩く時にも妙なものばかり見るようになった。

 

台所の残り物。

鶏の卵。

牛の乳。

灰。

魚の屑。

厩の匂い。

 

前世の知識を、そのまま言葉にするつもりはない。

そんなことをしても、たぶん誰にも通らない。

 

だが、ここまで来ると、俺の中では一つだけはっきりしていた。

 

食べるものが変われば、身体は変わる。

 

俺自身がそうだった。

前より風邪を引きにくい。

走っても息の戻りが早い。

腕も足も、年の割にしっかりしてきた。

 

備後守様も、あの汁で持ち直した。

肉の煮汁に卵を溶き、牛の乳を少し入れたものを、腹へ落とせた。

それだけで、人は死の縁から少し戻ることがある。

 

なら、馬はどうなのだろう。

 

そう考え始めたのは、厩の前で一頭の痩せた馬を見た時だった。

 

骨ばっている、というほどではない。

だが、毛艶が悪い。

腹のあたりが薄い。

目も、どこか鈍い。

 

厩方の者は、当たり前のように飼い葉を与えていた。

草。

藁。

麦や豆の類も、少しは混じる。

この時代の馬としては、特別悪い扱いではないのだろう。

 

だが、それでも思ってしまう。

 

これで戦場へ出るのか。

これで人を乗せ、鎧武者を乗せ、荷を引くのか。

冬を越し、雨の中を歩き、泥の道を走るのか。

 

人が食べるものを変えて身体が違うなら、馬も、仔馬の頃から変えれば違うのではないか。

 

そう思った瞬間、俺はすぐに父上のところへ行きかけた。

 

だが、足を止めた。

 

これは、田とは違う。

 

田なら、一枚だけ試せる。

駄目なら来年戻せる。

臭ければやめられる。

 

だが馬は生き物だ。

下手に食わせて腹を壊せば、それで終わる。

しかも馬は高い。

田一枚の失敗より、父上の顔がずっと怖くなる。

 

俺は厩の前で、しばらく考え込んだ。

 

全部の馬ではない。

成馬でもない。

まずは仔馬。

まだ身体を作っている時期の馬を、数頭だけ。

 

いきなり肉を塊で食わせるわけではない。

そんなことをしたら、たぶん駄目だ。

肉の煮汁。

卵を少し。

牛の乳も、煮たものを少し。

飼い葉に混ぜるか、粥のように薄めるか。

 

食いつきを見る。

腹を壊さないか見る。

毛艶を見る。

痩せ方を見る。

冬の越え方を見る。

走った後の息の戻りを見る。

 

そこまで考えて、ようやく俺は父上のもとへ向かった。

 

父上は書付を見ていた。

田のこと、蔵のこと、人のこと。

最近の父上は、前よりさらに書付を見る時間が増えている。

俺のせいもあるかもしれない。

 

「父上」

「何じゃ」

 

顔を上げずに返される。

だが、聞いていない声ではない。

 

俺は一度、息を整えた。

 

「馬の飼い葉で試せませんか」

 

筆が止まった。

 

父上は、そこでようやく顔を上げた。

 

「馬の、飼い葉」

「はい」

「何を試す」

 

声が少し低くなる。

田植えの列を揃えたいと言った時とは違う。

これは、危ないものを見る声だった。

 

俺は、なるべく慌てずに答えた。

 

「肉の煮汁と、卵と、煮た牛の乳です」

 

父上は黙った。

 

その沈黙が長い。

 

やはり、まずいか。

いや、まずい。

子どもがいきなり馬に肉だの卵だの牛の乳だのと言い出すのだから、まともに考えれば相当に変だ。

 

だが父上は、すぐには叱らなかった。

 

「又八郎」

「はい」

「馬に、肉を食わせる気か」

「肉そのものではなく、まずは煮汁を少しです」

「卵は」

「よく溶いて、少しだけ」

「牛の乳は」

「必ず煮ます」

 

父上の目が細くなる。

 

「なぜ馬にそれを食わせる」

 

俺は少し考えた。

 

ここで言葉を間違えると、ただの思いつきになる。

だが、難しく言いすぎても駄目だ。

俺は子どもだ。

子どもとして、見たままを言う方がいい。

 

「人は、それで身体が変わりました」

「うむ」

「俺も、前より丈夫になりました」

「そうだな」

「備後守様も、腹へ落ちるものがあって、戻られました」

 

父上の顔が少しだけ変わる。

そこは、父上にとっても重い話なのだろう。

 

俺は続けた。

 

「馬も、生き物です」

「……」

「仔馬の頃から、身体を作るものが違えば、育ち方も違うかもしれません」

 

父上はすぐには答えなかった。

 

俺は畳の上で、膝の上の手を握った。

 

「ただ、全部の馬にするのは危ないと思います」

「ほう」

「腹を壊すかもしれません。食わないかもしれません。かえって弱るかもしれません」

「分かっておるなら、なおさら何ゆえ言う」

「試せる数だけなら、見られるからです」

 

父上は黙ったまま俺を見る。

 

俺は、ここで逃げるわけにはいかなかった。

 

「仔馬を数頭だけ。飼い葉も急に変えず、ほんの少し混ぜます。食いつきと、腹の具合と、毛艶と、冬に痩せるかどうかを見ます。走らせた後、息が戻る早さも見ます」

 

そこまで言うと、父上の目つきが少し変わった。

 

怒っている目ではない。

考えている目だ。

 

「誰が見る」

「厩の者に見てもらいます」

「そなたは」

「俺も見ます」

 

父上の眉が動いた。

 

「馬は、そなたの玩具ではない」

「分かっております」

「蹴られれば死ぬ」

「はい」

「噛まれても、ただでは済まぬ」

「はい」

「仔馬でも、油断すれば怪我をする」

「はい」

 

父上は、そこで深く息を吐いた。

 

「分かっておる顔ではないな」

 

ひどい。

だが、たぶん当たっている。

 

俺は正直に言った。

 

「怖さは、まだ分かっていないと思います」

「ならば近づくな」

「だから、教えてくれる者が要ります」

 

父上の目がまた細くなる。

 

「そこまで考えておったか」

「少しだけです」

「少し、か」

 

父上は書付を置いた。

 

部屋の空気が少し変わる。

これは、ただの子どもの願いを聞く時間ではなくなった。

 

「又八郎」

「はい」

「塩水の籾選りは、田を一部だけ分ければ済んだ。肥やしも、臭いと虫は出たが、田一枚で済んだ。田植えの列も、手間が増えるだけで済んだ」

「はい」

「だが馬は違う」

「はい」

「馬は銭がかかる。戦にも、使いにも、荷にも要る。しかも、腹を壊せば一頭失う」

「はい」

「そなたの思いつきで失えるものではない」

 

胸の奥が少し冷えた。

 

その通りだ。

父上は正しい。

 

俺は頭を下げた。

 

「申し訳ございません」

「まだ叱ってはおらぬ」

 

え。

 

顔を上げると、父上はいつもの固い顔のままだった。

だが、完全に退ける顔ではない。

 

「危うい、と申しておる」

「はい」

 

「危ういことは、危ういままに扱えばよい」

その言い方は、父上らしかった。

「仔馬を数頭だけだ」

 

俺は息を止めた。

 

「本当に?」

「まだ決めたとは申しておらぬ」

「はい」

「厩方に聞く。腹を壊しやすいもの、食わせてはならぬもの、今の飼い葉の加減を確かめる」

「はい」

「いきなり肉を食わせることは許さぬ」

「はい」

「煮汁も、卵も、牛の乳も、薄く、少なく、様子を見ながらだ」

「はい」

「そなたが見る時は、必ず厩の者を付ける」

「はい」

「勝手に近づくな。勝手に食わせるな。勝手に名をつけるな」

「最後もですか」

「最後もだ」

 

そこは少し納得がいかなかったが、今は飲み込むしかない。

 

父上は、俺の顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「不満そうだな」

「……名は、大事です」

「まず生かせ」

 

正論だった。

 

俺は黙って頭を下げた。

 

「はい」

 

父上は、また書付へ目を落としかけた。

だが、その前にもう一度だけ俺を見る。

 

「又八郎」

「はい」

「そなたは、田のことも、人の食のことも、結果を見せた。だから儂も、すぐには捨てぬ」

「はい」

「だが、当たったことがあるからといって、次も当たるとは限らぬ」

「分かっております」

「分かっておるならよい。馬で試すなら、なおさら慎め」

 

その言葉は重かった。

 

俺はもう一度、深く頭を下げた。

 

「はい。小さく試します」

「そうせよ」

 

そうして、馬の飼い葉の話は、ひとまず父上の手に渡った。

 

まだ何も始まっていない。

仔馬も選んでいない。

飼い葉も変えていない。

誰が見るかも決まっていない。

 

だが、捨てられなかった。

 

それだけで、俺は少しだけ胸の奥が熱くなった。

 

部屋を出て、厩の方へ歩く。

夕方の風に、干し草と馬の匂いが混じっていた。

 

馬が一頭、こちらを見た。

何を考えているのかは分からない。

だが、その大きな目を見ていると、急に少し怖くなった。

 

田とは違う。

草とは違う。

これは、生き物だ。

 

俺が余計なことを言えば、死ぬかもしれない。

俺がうまくやれば、強く育つかもしれない。

 

その両方が、同じ場所にある。

 

「……まず、生かせ、か」

 

父上の言葉を、小さく繰り返した。

 

その通りだと思った。

 

強い馬を作るとか、大きい馬を育てるとか、そんなことはまだ先でいい。

まず、腹を壊さず、よく食い、よく眠り、よく育つこと。

 

そこからだ。

 

俺は厩の前で足を止め、少しだけ頭を下げた。

 

誰に向けたのかは、自分でも分からない。

 

ただ、これから試す相手が田でも道具でもなく、命なのだと、忘れないためだった。

 

 

勘十郎殿が来る、と聞いた時、俺は少しだけ姿勢を正した。これまで三郎殿といる場には一緒に出ては来なかった方だ。

 

織田の一門衆も、正月などでは俺も呼ばれたりするが、基本頭を下げている状態だし、そのまま子供は母親の元に戻されるので、誰がどうとかまでは正直顔と名前が一致しない人がほとんどだ。

 

備後守様が持ち直されて、三郎殿のご兄弟である三郎五郎信広殿や、安房守信時殿は会うと気軽に声をかけて下さる。俺の少し上、三十郎信包殿も同様だ。

 

勘十郎殿は三郎殿の同腹、正室土田御前の子で、すぐ下の弟御。

今は末森城にいる。史実では二度信長を裏切り、結果として騙し討ちに誅殺された。

そこまでは知っている。

 

それだけでも十分に重い相手だが、今の俺にとってもっと大きいのは、この人が生きて三郎殿の側にいた方が、織田家はたぶんずっとましになるのではないか、ということだった。

 

史実だの何だのと、今さら言葉にするつもりはない。

ただ、何となく分かるのだ。

 

強すぎる人間の近くには、その強さをそのまま刃にしないための存在が要る。

三郎殿は、どう見てもそういう類の人だ。

なら、勘十郎殿はなるべく側にいた方がいい。

 

もちろん、そんなことを六つや七つの子どもが正面から言えるわけがない。

だから俺にできるのは、せいぜい「この子は面白い」と思わせることと、「三郎殿を嫌い切るのも何だか違う」と、少しだけ印象をずらすことくらいだった。

 

父上――左衛門佐は、朝から少しだけ顔が硬かった。

 

「又八郎」

「はい」

「勘十郎殿は、噂を聞いてそなたの顔を見に来られるだけだ」

「はい」

「余計なことを申すな」

「分かっております」

 

そう答えると、父上は俺を見た。

 

分かっているような口を利く年ではない、とでも言いたげな顔だったが、今さらそこを言わないのが父上らしい。

この人も、もう俺に対して、普通の七つ児への物言いだけでは済ませなくなっていた。

 

「……妙な賢しらぶりはするな」

「はい」

「だが、怯えすぎるな」

「はい」

 

その辺の匙加減が一番難しいのだが、父上もそれは分かっていて、これ以上は言わなかった。

 

やがて、勘十郎殿が来た。

 

末森からの供回りは、三郎殿の時ほど張りつめてはいない。

だが軽くもない。

若殿ではあるが、ただの若殿ではない、という空気がある。

 

そして、本人を見た瞬間、俺は少しだけ意外に思った。

 

三郎殿と同じく長身でどこか女性的な美男であるが、どこか温度がある。歴史上のイメージだと正統派を自認するエリート意識というか、プライドの高い文弱の君、という感じだったが、どうしてちゃんと鍛えられた身体つきだ。

 

いや、温かいとか優しいとか、そういう意味ではない。

人の機嫌や場の空気に反応する温度が、三郎殿より素直に表へ出る感じがするのだ。

その分、扱いやすいかもしれないし、逆に拗れると面倒かもしれない。

 

勘十郎殿は、父上の礼を受け、二言三言交わしたあと、すぐに俺を見た。

 

そして、本当にまずそこで止まった。

 

「……そなたが又八郎か」

「はい」

 

俺も礼をした。

いつもより少しだけ深く。

相手は本家の若殿、それも嫡男と同腹の弟だ。雑にはできない。

 

だが、勘十郎殿は礼そのものより先に、俺の肩や背のあたりを見ていた。

 

「左衛門佐殿」

「は」

「この者」

「はい」

「この子、本当に七つか」

 

来た。

 

父上が一瞬だけ黙る。

そこは黙るところだろう。

何しろ、俺はこの数年で、かなり目に見えて丈夫になっている。

 

「数えで七つにございます」

 

「……そうか」

勘十郎殿はなおも俺を見た。

「いや、もっと上に見えた」

 

「それは」

と父上が短く言う。

「ありがたきことに、少し丈夫に育ちまして」

 

「少し、か?」

勘十郎殿が、今度は少し笑った。

「噂には聞いていたが、まずそこから驚かされるとは思わなんだ」

 

神童を見に来たのに、最初の感想が体格か。

だが、そこはむしろ良かった。

妙な夢だ知恵だのから入られるより、よほど健全だ。

 

勘十郎殿は、俺の前まで来た。

見下ろされる。

織田の血筋のせいか、やはり大きい。

俺も年齢の割にはそれなりに育ってはいるが、当然まだ子どもだ。

 

「又八郎」

「はい」

「何を食うたら、そうなる」

 

思わず、俺は少しだけ父上を見た。

父上は、表情を変えない。

だが「お前が答えろ」という顔だった。

 

「……肉と」

「うむ」

「鶏の卵と」

「うむ」

「牛の乳を、煮たものです」

 

勘十郎殿が吹き出しかけた。

 

「やはりそれか」

「はい」

「三郎が、そなたはそういう子だと言うておった」

 

そこは少し意外だった。

三郎殿、俺のことを勘十郎殿に話していたのか。

 

「どういう子、と」

 

つい聞くと、勘十郎殿はまた少し笑った。

 

「妙なところへ気がつく」

「……」

「しかも、食い物と田の話に強い」

「悪いことですか」

「いや、戦では名槍より大事なこともある」

 

それは、本気の声だった。

からかい半分だけではない。

この人も、もう城や家の現実をかなり見ている。

 

父上が、そこで一歩引いた位置から言う。

 

「勘十郎殿、又八郎はまだ幼く、噂先行にございます」

「分かっておる」

「……」

 

「だから顔を見に来た」

勘十郎殿は、そこで俺をじっと見た。

「神童、のう」

 

その響きは、持ち上げるでも、貶すでもなかった。

ただ量っている。

 

「そなた、自分がそう呼ばれておるのは知っておるか」

「知っております」

「どう思う」

 

少し迷ったが、ここは正直に言う方がいい。

 

「ありがたくは、あります」

「ほう」

「でも、あまり嬉しくはありません」

 

勘十郎殿の眉が少し動いた。

父上も、たぶんそこは聞きたかったのだろう。黙っている。

 

「何ゆえだ」

「悪目立ちするからです」

 

勘十郎殿は、そこでとうとう声を立てて笑った。

 

「はっ、面白いことを言う」

「面白いですか」

「七つで神童と呼ばれ、嬉しがるより先に、目立つのが嫌だと言う子がそうおるか」

「目立って良いことばかりではございません」

「……左衛門佐殿、そなたの子は本当に七つか」

「その問いは、先ほども」

 

父上の返しが微妙に乾いていて、俺は少しだけ助かった。

 

勘十郎殿はまだ笑っていたが、その笑いのあとに、少しだけ真顔になった。

 

「では、又八郎」

「はい」

「そなたは、目立たずにどうなりたい」

 

これは、少し難しい問いだった。

 

だが、答えそのものは、前から俺の中にあった。

 

「それなりに役に立つ方がよいです」

「ほう」

「でも、要らぬところで前へは出たくありません」

「……」

「使おうと思えば使える、くらいがよいです」

 

勘十郎殿は、そこで笑わなかった。

 

父上も黙っている。

言いすぎたか、と一瞬思ったが、もう遅い。

 

「妙な子だな」

 

勘十郎殿が、やがて言った。

 

「ありがとうございます」

「褒めておるかは分からぬぞ」

「勘十郎殿が笑っておられたので、たぶん悪くはないのだろうと」

 

そこで、また笑った。

この人は本当に、笑うところでは素直に笑う。

 

「三郎なら、そういう返しはせぬ」

「三郎殿は、そうでございましょう」

 

その一言で、空気が少し変わった。

 

勘十郎殿は俺を見る。

 

「そなた、三郎が怖くないのか」

 

来たな、と思った。

そこは多分、今日いちばん大事な問いだった。

 

俺は少し考えてから答えた。

 

「怖いです」

「ふむ」

「でも」

「でも?」

「怖いだけの人なら、父上も備後守様も、あそこまで色々と任せないと思います」

 

勘十郎殿が、黙った。

 

これは、少し踏み込んだ。

だが、まだ子どもの範囲だ。

理屈ではなく、見たままの感想として言える程度には留めている。

 

「三郎殿は、たぶん無自覚に強すぎる方です」

「……」

「あのように在り方が強い方は、近くにちゃんと物を言う人がいた方がよいです」

 

父上の気配が、わずかに固くなる。

そこはそうだろう。

七つ児が本家の弟へ向かって言うには、少し危うい。

 

だが、俺は続けた。

 

「みんなが怖がって、何も申さぬと」

「何だ」

「強い方は、もっと一人だけであり続けようと、閉じこもる方に強くなる気がします」

 

勘十郎殿は、そこで俺から目を外した。

 

笑っていない。

怒ってもいない。

ただ、何かを考えている顔だった。

 

俺は追わない。

ここで畳みかけたら、ただの差し出口になる。

 

しばらくして、勘十郎殿はゆっくりと言った。

 

「そなた、それを私に言うのか」

「勘十郎殿は、三郎殿に言える方に見えたので」

 

その返しは、我ながらかなり危うかった。

だが、半分は本音だ。

この人は、ただ怯えて従うだけの人間ではない。

三郎殿と真正面からぶつかるのではなくても、近くで物を言える余地がある。

そう見えた。

 

勘十郎殿は、長く息を吐いた。

 

「……左衛門佐殿」

「は」

「そなたの子、七つにしては可愛げが薄いな」

 

父上は、ごく短く言った。

 

「申し開きもございませぬ」

 

その言い方で、勘十郎殿はまた少しだけ笑った。

助かった、と思う。

少なくとも、場は壊れていない。

 

「又八郎」

「はい」

「そなたは、三郎のことをどう見る」

 

そこまで聞くのか、と思ったが、もうここまで来れば同じだ。

 

「備後守様がお倒れになった時」

「うむ」

 

「三郎殿は、ちゃんとその先を怖がっておられました」

勘十郎殿の目が動く。

「あの方も、人だと思いました」

 

座が静かになる。

 

それは、俺の中ではかなり大事なことだった。

強い。

怖い。

拾う。

試す。

そういう人だ。

だが同時に、父が死ぬかもしれぬ時に、子どもの前でだけ弱さを漏らす人でもある。

 

それを知っているから、怪物と決めつけずに済む。

 

「だから」

俺は小さく言った。

「近くに人がいた方が、よいと思います」

 

勘十郎殿は、しばらく何も言わなかった。

 

やがて、ふっと息を吐く。

 

「そなた、本当に七つか」

「その問いは、今日三度目です」

 

今度は、父上まで少しだけ口元を動かした気がした。

 

勘十郎殿は肩を揺らして笑った。

 

「三度でもよい。妙な子だ」

 

それから帰り際、勘十郎殿は父上へ言った。

 

「左衛門佐殿」

「は」

「又八郎は、たしかに面白い」

「ありがたきお言葉」

「神童かは知らぬ」

「は」

「だが、少なくとも、ただの噂ではなかった」

 

それだけ言って、勘十郎殿は去った。

 

供回りの気配が遠ざかる。

小田井の空気も、ようやく少し緩んだ。

 

父上は、しばらく黙っていたが、やがて俺を見た。

 

「又八郎」

「はい」

「そなた」

「はい」

「余計なことを、かなり申したな」

「……そうですね」

 

「だが」

父上はそこで少しだけ目を細めた。

「間違ってはおらぬのだろうな」

 

それは、父上にしてはかなり甘い言い方だった。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

勘十郎殿は、生きた方がいい。

しかも、三郎殿の側で。

今日一日でどうこうなる話ではない。

だが少なくとも、俺の言葉を笑って捨てはしなかった。

 

それだけで十分だった。

 

小田井の神童、などと呼ばれるのは相変わらず困る。

だが、その呼び名にも、こうして少しだけ使い道があるのかもしれない。

 

……本当に、少しだけだが。

 

 

 

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