織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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030北畠顕家公①

同じ家から出た申立てを読み終えた時には、もう答えは出ていた。

 

誰を立てるかではない。

誰を切るかでもない。

今ここで先にやるべきは、動きを止めることだった。

 

「十兵衛」

「はい」

「文を起こせ。長野工藤家中、ならびに境目に関わる者どもへ、まず私闘停止」

 

十兵衛はすでに紙を寄せている。

 

「勝手な兵の移動も禁じますか」

「禁ずる。家中の理屈は問わん。人数の多少も問わん。槍を持って動いた時点で、織田の裁断を破ったと見る」

 

半兵衛がそこで頷いた。

 

「それでよろしいかと。争いの大小を分けておる暇はございませぬ」

「次に渡しだ」

 

俺がそう言うと、左近将監がすぐに身を乗り出した。

 

「押さえる場所は三つに絞るべきですな」

「申せ」

「一つは、表向きの荷と人が一番多い渡し。ここは“止めぬ”ことを見せるために要ります。二つ目は、家中の使いが夜に抜ける小さな渡し。三つ目は、兵糧と書状が流れやすい脇道沿いの舟着きにございます」

「なるほど」

「大きいところだけ押さえても駄目です。皆、そこは避けます」

 

半兵衛が紙へ簡単な図を書きながら言う。

 

「兵は割りましょう。多くは要りませぬ。渡しごとに小勢、ただし馬を一、二疋ずつ置く。伝令が走れる形にしておけば、局地で揉めてもすぐ寄せられます」

 

「勝ち戦の構えには見せるな」と俺。

 

「分かっております」

「だが、斬れるとは見せろ」

 

半兵衛は、そこでだけ少し笑った。

 

「そこも、分かっております」

 

十兵衛が筆を走らせながら口を開く。

 

「文はどう締めます」

「短くしろ。『私闘を止めよ』『渡しと往来へ勝手な手を出すな』『兵を動かすな』、まずはそれだけでよい」

「逆らった時の咎めは」

「最後に一行で足せ。長々と脅すな」

 

十兵衛は、少しだけ考えてから読み上げた。

 

「『右三ヶ条、違背の輩は、長野工藤家中の理非を問わず、織田家中静謐を乱す者として扱うべきもの也』――このくらいで」

「よい」

「“討つ”とは書かぬので」

「書くな。だが、読めば分かる程度にはしておけ」

 

左近将監が、そこで低く言った。

 

「後見役側は、まず様子を見ますな」

「旧臣側は」

「表では従います。されど、“なぜこっちまで縛られる”という顔は必ずします」

「慎重派は」

「一番助かると思うでしょう。私闘さえ止まれば、家中で即火が回ることは減ります」

 

その整理は分かりやすかった。

 

後見役は時間を欲しがる。

旧臣は不満を抱く。

慎重派は胸を撫で下ろす。

その三つが同時に起きるなら、今は上出来だった。

 

「次郎様の名はどう使う」と十兵衛が言った。

 

「外すな」

 

即座に答えた。

 

「今ここで次郎様の顔を外せば、“尾張者が幼い当主を押しのけた”になる。命は織田から出す。だが、受ける側の名目では次郎様を立てろ」

「承知しました」

 

十兵衛が書き足す。

あいつはこういう時、本当に早い。文章が先に立っているのではない。場の空気がそのまま筆先へ落ちている。

 

半兵衛が図を見ながら続けた。

 

「渡しに置くのは、目立つ武辺より、抑えて座れる者がよろしいかと」

「誰を出す」

「本家筋からも少し、治部家からも少し。どちらか一方だと角が立ちます」

「助右衛門は」

「一つの渡しならよろしいでしょう。ですが全部へは強すぎます」

「慶次郎は」

 

左近将監がすぐ首を振った。

 

「華がありすぎます。あいつが立つと、“何か始まる”と思われます」

 

それには少し笑った。

 

「たしかに」

「今は、始めるのではなく止める場面にございます」

「なら左近将監、お前が全体を見ろ」

「はっ」

「十兵衛は文。半兵衛は人数と配置。俺は長野工藤家側へ、これは最終裁定ではなく、まず静めるための縄だと伝える」

 

「後見役へですか」と十兵衛。

 

「いや、次郎様の前で言う」

 

三人とも、そこで少しだけ顔を上げた。

 

「次郎様本人に聞かせておけば、少なくとも後から“聞いておらぬ”にはしづらい」

 

それで決まりだった。

 

十兵衛が文を整え、半兵衛が兵を割り、左近将監が現地の渡しと道筋へ手を回す。

やることは多い。だが、今はそれでよかった。

 

誰を立てるか。

誰を沈めるか。

それはまだ先だ。

 

長野工藤家は割れている。

だからこそ、今この段で重い裁定を落とせば、割れたまま崩れるか、反織田で固まる。どちらに転んでも面倒だった。

 

「治部様」と半兵衛が言った。

 

「何だ」

「これで、しばらくは静まるでしょうか」

 

俺は少しだけ考えた。

 

「静まりはする。だが、収まりはせん」

 

半兵衛が薄く笑う。

 

「その違いが大事、でございますな」

「そうだ。今欲しいのは静けさだ。収まりはその後で取る」

 

障子の外では、もう日が傾いていた。

光が薄くなるにつれて、逆にやるべきことは明るく見えてくる。

 

まず縛る。

まだ呑まぬ。

北伊勢では、その順を違えぬことが肝だった。

 

 

次郎様をもう一度呼んだ時、後見役の顔は露骨ではないにせよ、あまり面白くなさそうだった。

当然だろう。

 

先ほどの評定と申立てで、家中の割れはこちらにも見えた。ここでさらに別座を設けるとなれば、今度は何を言われるのかと身構える。しかも呼ばれた先にいるのは上総介兄上でも勘十郎兄上でもない。治部大輔たる俺だ。軽くは見られまいが、だからこそ警戒もしやすい。

 

座には、次郎様、後見役、それに先ほど評定にいた老臣の一人だけを残させた。

人数は多い方が外聞は立つ。だが、言葉は少ない方が通る。

 

次郎様は、先ほどと同じく上座にいた。

小さな肩を懸命に張っている。あの年で、ここまでの視線を一度に受けるのは楽ではあるまい。だが、楽ではないからといって、この場から外すわけにもいかなかった。

 

俺は、回りくどい前置きをしなかった。

 

「先ほど申立ては受け取った」

 

次郎様は小さく頷く。

後見役は黙ったままだ。

 

「読ませてもらったうえで、今こちらが先に出すのは三つだ。私闘を止めること。渡しと往来へ勝手な手を出さぬこと。家中で兵を動かさぬこと」

 

後見役が、そこで初めて口を開いた。

 

「境目の本裁定ではなく」

「まだそこではない」

 

俺はきっぱり答えた。

 

「今ここで白黒まで落とせば、そちらの家中はさらに割れる。割れたまま現地で槍が動けば、裁定以前に伊勢が荒れる。まずはそれを止める」

 

老臣が低く言った。

 

「つまり、縛るのですな」

「そうだ」

 

その言葉に、後見役が少しだけ眉を寄せた。

俺はそのまま続ける。

 

「だが、聞き違えるな。これは今ここで家を奪う刃ではない。まず家を静めるための縄だ」

 

部屋が一度、静かになった。

後見役が俺を見る。

老臣もまた見る。

 

次郎様だけは、少し遅れて、その言葉の形を飲み込もうとするように視線を上げた。

 

「縄、にございますか」と後見役。

「そうだ。誰を立てる、誰を外す、どこをどう切る。そこまでを今すぐ決めるつもりなら、もっと違う場の作り方をしている」

「では」

「まずは動くな、ということだ」

 

後見役は返す言葉を探していたが、老臣の方が早かった。

 

「動かぬうちに、織田が飲み込むのではないか」

「そう見えるのは分かる」

 

俺は答えた。

 

「だが今ここで、お前たちの家中が勝手に兵を動かし、渡しを押さえ、往来を詰まらせれば、その時点で“裁かれる家”になる。まずそこへ落とさぬための縄だ」

 

老臣は黙った。

気に食わぬのは顔に出ている。だが、理は分かる。そういう顔だった。

後見役が慎重に言葉を選ぶ。

 

「その縄が、やがて首へ回るやもしれませぬな」

「回るかもしれん」

 

そこで嘘はつかなかった。

 

「だが、それは次だ。今の話ではない」

 

その答えに、後見役は少しだけ目を細めた。

慰めで済ませず、しかし脅し一色にもせぬ。その境を見ているのだろう。

 

「次郎様」と俺は言った。

 

幼い当主の肩が、小さく動いた。

 

「はい」

「今出す命は、次郎様の名を外すためではない。むしろ逆にござる。今この段でその名まで崩せば、そちらの家は本当に瓦解する」

 

次郎様は、じっとこちらを見ていた。

分かっていることもあれば、分からぬことも多いはずだ。それでも、自分の名が外されるかどうかは、幼くとも分かる。

 

「だから今は、次郎様が次郎様としてそこにいる、その形のまま静める」

 

後見役がそこで、わずかに口を挟んだ。

 

「されど、命は織田から出る」

「当然だ。止める側はこちらだ」

 

俺はそのまま後見役へ目を向けた。

 

「そなたに言っておく。後見として次郎様を立てるなら、立てるに足る座を保て。名だけ前へ出して、内では北畠の理ばかりを通せば、旧臣は耐えぬ」

 

老臣の目が少しだけ動く。

あからさまな味方はしない。だが、今の一言はよく聞いている。

後見役はすぐには答えなかった。

言い返せば、自分が北畠寄りの運用をしていることを認めるに近い。黙っていても、刺さったことは見える。

 

「……心いたします」と、ようやく言った。

「心するだけでは足りん」

 

俺は返した。

 

「渡しに勝手な手が入れば、誰の名であれ止める。夜に兵が動けば、言い訳は聞かぬ。これは次郎様にも、そなたにも、旧臣にも同じだ」

 

老臣が低く笑うように言った。

 

「そこだけは、まことに平等ですな」

「平等でなければ縛れぬ」

 

その返しに、老臣は少しだけ鼻を鳴らした。

不満はある。だが、後見役だけをかばう命でもないと分かったのだろう。

次郎様が、そこでようやく口を開いた。

 

「……では」

 

幼い声だった。だが、先ほどよりは少しだけ張っていた。

 

「では、私は、そのままでよいのですか」

 

後見役が一瞬だけ振り向きかけ、しかし止めた。

自分が答えてはならぬ問いだと分かったのだろう。

 

「今はな」と俺は言った。

「今は、次郎様が次郎様としてそこにいることが要る。だが、その名の下で家がさらに乱れるなら、その時は別だ」

 

幼い顔が、少しだけこわばる。

それでも目は逸らさなかった。

 

「……分かりました」

 

本当に分かったかどうかは知らない。

だが、自分の名が残るのも、外れるのも、今後の静まり次第だということは、その年でも伝わったはずだ。

 

そこまで言えば十分だった。

俺は立ち上がる気配を見せず、最後に一つだけ付け加えた。

 

「外へ戻れば、この命は織田の縄として受け取られよう。それでよい。だが内では、次郎様の名の下に家を静めるものとして通せ。それが出来ぬなら、後の話は早い」

 

後見役の顔が、そこで初めて強張った。

“後の話”が何か、いちいち言う必要はない。言わぬ方が効く。

 

老臣は、かえって少しだけ肩の力を抜いたようだった。

今すぐ家を奪いに来たわけではない。だが、次がないわけでもない。その見え方が、いちばん現実に近い。

 

次郎様は、上座に小さく座ったまま、黙っていた。

あの幼い肩に載せるには重すぎる話だ。だが、それでも今日は聞かせておく必要があった。

部屋を出たあと、廊で左近将監が低く言った。

 

「効いたでしょうな」

「どれにだ」

「後見役にも、年寄りにも、次郎様にも」

 

俺は少しだけ考えた。

 

「効いたかどうかはまだ分からん。だが、少なくとも“聞いておらぬ”では済まぬ」

 

半兵衛が、後ろから静かに続ける。

 

「それで十分にございます。今はまだ、静める段ですので」

 

十兵衛も短く頷いた。

 

「縄を入れた以上、次に破れば向こうの責になります」

 

それでよかった。

今は刃ではない。

まず縄だ。

北伊勢では、その順を違えぬことが何より大事だった。

 

 

長野工藤家の内は、すぐには収まらなかった。

 

次郎様の名を残したまま、私闘停止、渡しと往来の統制、勝手な兵の移動禁止を織田の名で入れると、後見役は露骨な北畠寄り差配を控えざるを得なくなり、旧臣層もまた、表向きは槍を収めた。

もっとも、それで腹の底まで静まったわけではない。評定のたびに言葉は刺さり、境目の申立ては何度も食い違い、慎重派はただ“今はまだ動くな”と繰り返すばかりだった。

 

それでも、家中が反織田で一つに固まらなかっただけで十分だった。

次郎様を押し込めるには早く、後見役をそのままにするには危うい。そんな半端な均衡のまま、長野工藤家はひとまず織田の裁断下で息を継ぐ形になった。

 

問題は、その先だった。

 

北畠本体が、この揺れを見てどこまで強気に出るか。

長野工藤家の内からだけでは遅れるなら、別の手が要る。

そう見て、俺は稲葉山へ戻り、上総介兄上と勘十郎兄上へ、水軍増強と後詰めの電撃戦準備を願い出た。

 

長野工藤家を縛る手は打った。

だが、それで北伊勢が片付くほど甘くもない。

 

次郎殿の名を残したまま私闘を止め、渡しと往来を押さえれば、しばらくは静まる。

静まりはする。だが、北畠本体が「では長野工藤はもうこちらの掌の内だ」と強気に出るなら、その静けさはかえって向こうの猶予にもなる。

 

だから、その夜のうちに稲葉山へ戻り、上総介兄上と勘十郎兄上へ小部屋での話を願った。

 

部屋へ入ると、兄上方はすでに揃っていた。

勘十郎兄上は文机の脇、上総介兄上は少し崩して座っている。二人とも、ただの報告だけでは終わらぬと分かっている顔だった。

 

「治部」と上総介兄上が言う。

「長野工藤の方は、ひとまず縄を掛けたそうだな」

 

「はい」

「で、顔がそうなっておる以上、それだけの話ではあるまい」

「ええ」

 

俺はそこで頭を下げた。

 

「北伊勢について、後詰めの案を一つ。今すぐではなく、備えとして裁可を頂きたく」

 

勘十郎兄上が、すぐに身を乗り出した。

 

「備え、か。言ってみろ」

「北畠本体が強情で、長野工藤家の内側処理だけでは遅い場合に備え、水軍を増強いたしたく」

 

その一言で、上総介兄上の目が少し動いた。

 

「陸ではなく、まず海から言うか」

「はい。今回はその方が早いかと」

 

勘十郎兄上が問う。

 

「長島や桑名と正面からやり合う気か」

「いえ。そこは避けます」

 

俺は首を振った。

 

「北部伊勢を丸ごと噛む気もございませぬ。街道、渡河点、兵の抜け道、それだけ牽制で押さえる。主眼は南でございます」

「南、とは」

「北畠の中枢です」

 

部屋が少しだけ静かになった。

 

上総介兄上は面白がる時ほど、いきなり口を出さぬ。

先にこちらへ喋らせる。

 

「続けろ」

「美濃はすでにこちらのもの。尾張と美濃の後ろから銭も物も出せます。木曽三川の運上、瀬戸物の売り込み、細かいところまで含めれば、短期遠征の財布は足りる」

「足りるか」

「長くやる気はございませぬ。長くやれば、長島も桑名も、余計な顔を出してまいりましょう。欲しいのは一撃で城を落とすことではなく、具教卿に“城に籠もっても得はない”と分からせることにございます」

 

勘十郎兄上が腕を組む。

 

「で、そのための水軍か」

「はい。兵站です」

 

そこで、俺は左近将監へ目を向けた。

呼ばれていた当人は、少しだけ膝を進める。

 

「左近将監」

「はっ」

「お前の見立てを話せ」

 

左近将監は短く頭を下げた。

 

「知多の海は、こちらに近うございます。加えて伊勢湾口から志摩寄りまで、利のある話なら耳を貸す海上勢力もおります。すべてを一気に従えようとは申しませぬ。されど、荷と兵を運び、海から支えるだけなら、組みようはございます」

 

上総介兄上がそこで口を挟んだ。

 

「九鬼はどうだ」

 

左近将監は、一拍置いた。

 

「九鬼家筋へ繋ぐ口はございます」

「言い切らぬのだな」

「今この場で、完全にこちらへ入るとは申せませぬ。されど、若い九鬼殿は利を見て動く余地がございます。志摩の海を知る者を早くから味方へ引き寄せられれば、伊勢湾の兵站はだいぶ変わります」

 

勘十郎兄上が、そこで俺を見た。

 

「つまり、知多水軍を芯にしつつ、左近将監の口で九鬼側へも手を伸ばす、と」

「はい」

「兵数は」

「治部家主力を一万ほど。もっとも、全部を一塊で運ぶつもりはございませぬ。海上で荷と兵糧を切らさぬのが本旨。陸の主力は、押し寄せるためではなく、短く圧を掛けるために使います」

「北部伊勢は」

「牽制だけ置きます」

 

俺は答えた。

 

「完全放置ではございませぬ。渡河点、街道、背後へ回りうる道、それだけは押さえる。だが、一つ一つの城や国人を噛んでおっては、具教卿へ届く前に時をやることになります」

 

上総介兄上が、ようやく笑った。

 

「なるほど。長く噛んで食うのでなく、息を詰まらせて折らせるか」

「はい」

「で、折れた先は」

 

そこが肝だった。

 

「滅ぼしませぬ」

 

俺はきっぱり言った。

 

「欲しいのは北畠の死ではなく、北畠の従属的同盟にございます」

 

勘十郎兄上の眉がわずかに上がる。

 

「言葉を選んだな」

「中身は、軍事と外交をこちらが握る形です。されど、家名、祭祀、格式、南伊勢での面目、その辺りは残す」

 

上総介兄上が低く言う。

 

「北畠に甘い、と言われるぞ」

「言わせておけばよろしいかと」

 

俺はそう返した。

 

「北畠を名門のまま縛れれば、南伊勢の統治を全部こちらで抱えずに済む。長島や桑名も、いきなり“織田が伊勢を丸呑みした”とは見ませぬ。銭も兵も、その方が安く済みます」

 

勘十郎兄上が、すぐに後を取る。

 

「なるほど。家中向けの理屈としては悪くない」

「家中向け、だけではございませぬ。本心でもあります」

 

そこは少しだけ間を置いてから続けた。

 

「顕家公以来の家を、無惨に潰してしまうのは惜しい。使える形で残せるなら、その方が天下の見え方も良くなります」

 

上総介兄上は、そこで鼻を鳴らした。

 

「やはりそこは本音か」

「はい」

「嫌いではない」

 

兄上の口元は笑っていたが、目は笑っていない。

面白いと思いつつ、危うさも見ている顔だ。

 

「だが治部」と上総介兄上。

「それをやるなら、三つ外すな。ひとつ、北部伊勢を“無視”するな。押さえるべきを押さえよ。ふたつ、長島と桑名を余計に騒がせるな。みっつ、北畠へ“まだ籠もれば何とかなる”と思わせるな」

 

「承知しております」

 

勘十郎兄上が続けた。

 

「俺からも二つ。ひとつ、海の話は面白いが、海だけで勝てると思うな。陸と噛み合わせろ。もうひとつ、九鬼家筋への接触は早く始めてよいが、“既に味方だ”の顔で動くな。あくまで将来の札として扱え」

「はい」

 

「それと」と兄上は少しだけ声を落とした。

「この案は、長野工藤家処理が転ぶならなお効く。逆に、あちらが素直に裁断へ乗るようなら、すぐ使う必要はない」

 

「そこもその通りかと」

 

今欲しいのは、即発動ではない。

準備の裁可だ。

 

「上総介兄上」と俺は言った。

「今すぐ兵を出せと申しているのではございませぬ。水軍増強、海上兵站、左近将監の九鬼家筋への繋ぎ、その備えだけでも先に許していただきたい」

 

部屋が少しだけ静まる。

 

上総介兄上は、勘十郎兄上を見た。

勘十郎兄上は、俺を見ていた。

こういう時の二人は早い。

 

「よかろう」と上総介兄上が言った。

「ただし、発動はまだだ」

 

「承知」

「準備は進めよ。知多の海、伊勢湾、志摩の口、使えるものは拾え。だが、北伊勢の今の流れが動くまでは、露骨に“北畠を海から噛む”顔をするな」

「はい」

 

勘十郎兄上も頷いた。

 

「俺からも許す。左近将監を使え。海の顔はあいつが立てる。だが治部、お前はお前で、長野工藤家と北畠の中の空気を読み違えるな。電撃戦は、読み違えた後のごまかしに使うものではない。読んだ上で、最短で折る時にだけ使え」

「肝に銘じます」

 

上総介兄上が最後に笑った。

 

「まあよい。海から兵站を通し、北部をいちいち噛まずに南を息詰まらせる、か。治部、お前は相変わらず変なことを考える」

「勝てる変なことだけを考えております」

「それが厄介なのだ」

 

そう言って兄上は笑ったが、裁可はもう下りていた。

 

左近将監が深く頭を下げる。

俺もそれに倣った。

 

これで、今すぐ北畠へ突っ込むわけではない。

だが、北伊勢の内側処理が転ぶなら、その先に切る札が出来た。

 

水軍を増やす。

海上兵站を作る。

九鬼家筋へ繋ぐ。

南伊勢中枢へ短く圧を掛ける備えを整える。

 

そして、それでも目的は同じだ。

北畠を潰すことではない。

折らせ、残し、縛ること。

 

部屋を辞したあと、廊を歩きながら、ようやく一つ息を吐いた。

北伊勢の道が、陸だけではなく海にも伸びたのだと思えた。

 

 

裁可を得たからといって、翌朝にはもう兵船が並ぶわけではない。

 

むしろ逆だ。

こういう話は、目に見えぬところから動かねば意味がない。いきなり舟を集め、槍を積み、伊勢湾へ顔を出せば、それだけで長島も桑名も北畠も、まとめて身構える。だから最初に動くのは兵ではなく、人と荷だった。

 

左近将監が知多へ発つと決まったのは、その二日後だった。

 

見送りに出るほどのことではない。

だが、あいつはこういう時、ひとこと交わしておかぬと後でずれる。俺は治部家の詰所で、出立前の左近将監を呼び止めた。

 

「表向きはどう行く」

「海運の整えにございます」

「嘘ではないな」

「嘘ではございませぬ」

 

左近将監は平然としている。

 

「瀬戸の器も運びます。塩も干物も動かします。知多の海が太れば、津島商人も喜ぶ。そこへ“ついでに”舟足のよい者、潮を読める者、夜でも迷わぬ者を拾うだけにございます」

「九鬼家筋へは」

「まだ“顔つなぎ”までです」

 

そこは、俺が言うまでもなく分かっている顔だった。

 

「利の話をするのか」

「最初はいたしませぬ。むしろ、“尾張の治部家が海を荒らすつもりはない”と見せる方が先でございます」

「そうだな」

「九鬼のような家は、最初から味方を約すより、“この相手は使えるか、使えぬか”を見る方が早い」

 

そこは左近将監の言う通りだった。

若い海の武者にいきなり忠を問うても仕方がない。まずは相手に、こちらがただの陸の大名ではないと分からせる。その上で、銭と将来の働き場の匂いを嗅がせる。順を違えれば、手前で切れる。

 

「知多の方は誰を使う」

「古くからの船頭株を二つ三つ当たります。そこへ久助殿の口も借ります」

「久助か」

「商いの荷が増える話なら、あの方の顔は利きます」

 

それもその通りだった。

 

久助は兵の顔ではない。

だが、兵が動く前に荷が動くなら、あいつほど使いやすい者もいない。瀬戸の器、干物、塩、椎茸、紙、薬種。船に積まれて自然なものを増やし、その流れを太らせる。その先に兵糧と矢羽を滑り込ませる。そういう手は、商人の顔がないと鈍る。

 

「ただし」と左近将監が続けた。

「久助殿には、あくまで“荷を増やす”話だけを前へ出してもらいます。海の武辺の話は、わたくしが別に拾います」

 

「分けろ。混ぜるな」

「承知」

 

そこまでで話は済んだ。

 

左近将監が去ったあと、詰所へ戻ると、半兵衛がすでに帳面を広げていた。

あいつは海へ出ない。出ないが、海の話が始まるときほど目が冴える。結局、兵站とはこういう男の仕事なのだろう。

 

「どうだ」

「金が出ます」

「嫌な言い方だな」

「出るものは出ます」

 

半兵衛は顔も上げずに続ける。

 

「ただし、今のうちに出すべき金と、まだ出してはならぬ金を分けねばなりませぬ。知多へ流す荷の値を上げすぎると、“尾張が妙に海へ入れ込んでいる”と見られます」

「ほどほどにしろ、と」

「はい。増えたと分かるが、増えすぎとは見えぬ程度」

「難しいな」

「そういうものです」

 

半兵衛はそう言いながら、別の紙を差し出した。

 

「こちらは、治部家で今すぐ用意できるものにございます」

 

見ると、兵ではなく荷の名が並んでいる。

 

干し飯。

塩漬け魚。

干し椎茸。

紙。

油。

弦。

薬種。

替えの鼻緒に至るまで書いてある。

 

「細かい」

「細かくないと海は回りませぬ」

「兵糧丸は」

「まだ前へ出しませぬ。薬種が増えすぎると、かえって怪しゅうございます」

「なるほどな」

 

俺は紙を机へ置いた。

 

「舟は」

「買うより借りる方が先です。知多の方で、普段使いの船足に見せる方が角が立ちませぬ」

 

そこへ十兵衛が入ってきた。

 

「文は整いました」

「どれだ」

「長野工藤家宛の縛りの文ではございませぬ。こちらは知多と津島の方へ流す顔でございます」

「見せろ」

 

十兵衛が差し出した文面は、実に十兵衛らしかった。

戦の匂いはない。海運と商いを整えるため、尾張・美濃の荷をより安定して流したい、そのため船頭株・商人株と良い形を作りたい、という顔だけがある。だが、読む者が読めば「これで船の数が増える」と分かる。

 

「悪くない」

「悪くない、では困るのですが」

「十分よい」

 

そう返すと、十兵衛はわずかに口元を緩めた。

 

「では出します」

「待て」

 

俺は一つだけ足した。

 

「知多の方へは、本家の名を半分出せ。治部家だけが妙に海へ寄る顔をするな」

「承知しました」

 

十兵衛はすぐに直した。

あいつの良いところは、ここで意地を張らぬことだ。

 

それから十日ほどで、目に見えぬ変化がいくつか起きた。

 

知多の方で、いつもより荷がよく動く。

津島の商人が、少し海へ金を出し始める。

瀬戸の器の見本が、陸伝いだけでなく舟でも流れる。

干し椎茸が、思ったより傷まず運べると分かる。

塩と干魚の扱いに慣れた者が、尾張と伊勢湾口を行き来し始める。

 

どれも、戦ではない。

だが、戦の前の整えとしては十分だった。

 

ある夕方、左近将監から最初の文が届いた。

 

知多の船頭株二つ、こちらの荷を嫌がらず。

津島商人筋の顔つなぎ、良好。

志摩へはまだ遠いが、九鬼家筋の近くまで話を投げる口あり。

ただし急げば切れるゆえ、なお一段柔らかく進むべし。

 

「柔らかく、か」

 

俺はその文を読みながら、少しだけ笑った。

海の武者へ近づく時に、柔らかく進めというのも妙な話だが、実際その通りなのだろう。

 

半兵衛が横から文を覗き込む。

 

「悪くありませぬな」

「ああ」

「すぐに乗る話ではないが、切れてもいない」

「今はそれで十分だ」

 

半兵衛は小さく頷いた。

 

「北伊勢の内がまだ動いておりますからな」

 

そこへ、別の報せも重なった。

長野工藤家では、縄を入れて以来、あからさまな私闘は減った。後見役は表向きの差配を少し和らげ、旧臣層もまた表で槍を持つのは控え始めた。だが、評定のたびに刺すような言葉は消えていない。静まってはいるが、収まってはいない。まさにその通りだった。

 

「ちょうどよい」

 

俺がそう言うと、十兵衛が珍しく怪訝そうな顔をした。

 

「何がにございますか」

「どちらも、だ」

「長野工藤家も、海も」

「そうだ。今すぐ決着してしまうと、かえって次の札が死ぬ」

 

十兵衛は少しだけ考えてから頷いた。

 

「なるほど。今はまだ、どちらも“動く余地”がある方がよい」

「北畠にとってもな」

 

もし長野工藤家があっさりと収まり、後見役も旧臣層も呑み込み、北畠本体まで静かになるなら、それはそれで安い。

だが、そうならぬ時のために海の札がいる。

逆に、海の札が露骨に見えすぎれば、長野工藤家も北畠も、まとめて固まる。

 

二つは別々に動かしながら、頭の中では一つの盤として見ねばならない。北伊勢は、そういう土地だった。

 

夜、詰所の外へ出ると、空気に少しだけ潮の気配が混じっている気がした。

気のせいかもしれない。ここは稲葉山で、海は遠い。だが、左近将監が知多へ走り、荷が増え、舟が動き始めたと思うと、道が陸だけではなくなったのだと実感できた。

 

今すぐではない。

だが、いざとなれば海からも届く。

 

長野工藤家は、まだ織田の縄の中でもがいている。

北畠本体は、まだこちらの手を読み切れていない。

その間に、こちらは海を整える。

 

まず静める。

次に選ばせる。

それでも足りなければ、短く折る。

 

北伊勢は、その順で行く。

 

 

北畠の側からすれば、長野工藤家は従わせて終わったはずの家だった。

 

戦で抑え、血を入れ、幼い次郎を戴かせた。

あとは時が経てば、古い遺恨も薄れ、いずれ工藤家の名のまま北畠の一枝になる。少なくとも、そう見ていた者は多かったろう。

 

だが、実際にはそうならなかった。

 

長野工藤家の内は、静まっても収まり切らない。

しかもそこへ、織田の裁断が入った。

表向きは私闘停止、境目裁断、渡しと往来の保全。

それだけのはずなのに、家中の空気はそれだけでは済まぬ方へ傾いている。

 

その報せが具教卿のもとへ届いたのは、秋口へ差しかかる頃だった。

 

評定の座は広くはない。

だが、広くない分だけ、そこに並ぶ者の顔色がよく見える。具教卿の前にいたのは、家政を預かる重臣、南の城持ち、北伊勢の様子を探る者、そして長野工藤家に関わりを持つ者が数名。いずれも、ただの噂を持ち込むには重い顔ぶれだった。

 

「長野の内は、まだ割れております」

 

そう口火を切った男に、具教卿はすぐには返さなかった。

机の上に置かれた文を一度見下ろし、それからようやく顔を上げる。

 

「割れるのは、前からであろう」

「はい。されど、今は割れたまま織田の裁断下へ入っております」

「それが何だ」

 

声は低い。怒っているのではない。

むしろ、分かりきったことをいちいち言わせるな、という調子だった。

 

「織田は、家を取るとはまだ申しておりませぬ」

「申すわけがなかろう」

「ですが、私闘を止め、渡しと往来を押さえ、兵の動きまで縛りました」

 

そこで別の重臣が続けた。

 

「長野工藤家の内では、“北畠へ寄れば家が溶ける、織田へ出れば家が取られる”と、どちらへも腹を決めかねております。そこへ織田は、取らぬとも言わず、ただ動くなとだけ命じた。あれが効いております」

 

具教卿の指が、机を一度だけ叩いた。

 

「効く、か」

「はい。後見役は表向き差配を和らげざるを得ず、旧臣もまた勝手に槍を取れませぬ。静まってはおります」

「収まってはいない、と」

「左様にございます」

 

そこまで聞いて、具教卿はようやく少しだけ笑った。

嘲る笑いではない。腹立たしさを薄く切ったような笑いだった。

 

「尾張者らしい」

「は」

「斬るでもなく、取るでもなく、まず動きを止める。相手に自分で息苦しくなったと思わせる」

 

その評は、かなり正確だった。

だからこそ座の者は誰もすぐには口を挟めない。

 

「治部大輔が前へ出ておるのであろう」

「はい」

「上総介ならもっと露骨に大身の理で押す。勘十郎なら評定と使者で綻びを探る。だが、あの治部大輔は、戦もするくせに、まず相手の形を残したまま縛りに来る」

 

具教卿の声は静かだったが、その静けさの中には少しだけ苛立ちがあった。

力で押してくる敵の方が、まだ分かりやすい。形を残すと言いながら中身を変えようとする相手は、かえって始末が悪い。

 

そこへ、別の報せが入った。

 

「もう一つ、ございます」

 

海沿いの様子を見ていた者だった。

まだ若いが、伊勢湾口の荷と船の流れを追わせるには向いている。

 

「申せ」

「尾張の海が、少しずつ太っております」

 

座の空気が、そこでまた少し変わった。

 

「太る、とは」

「知多の方で荷が増えております。瀬戸の器、干し椎茸、塩、干魚、紙。いずれも不自然な品ではございませぬ。されど、動きが妙に揃っております」

「商いが増えた、では済まぬか」

「済まぬ、とまでは申せませぬ。ですが、船頭株と津島商人の顔つなぎが、少し急でございます」

 

具教卿の目が細くなる。

 

「兵は見えたか」

「見えませぬ」

「ならば」

「兵はまだでございましょう。されど、荷が先に動けば、後から何が載るかは分かりませぬ」

 

そこは、まことにその通りだった。

 

普段の荷がよく流れ、舟が増え、港が慣れれば、その延長で兵も兵糧も動かせる。最初から兵船を並べるより、よほどいやらしいやり方だ。

 

「誰の手だ」と具教卿。

 

「滝川左近将監の名が、少し」

「ほう」

「加えて、治部家側の商いとも繋がっておるように見えます」

 

そこで、家政を預かる老臣が低く言った。

 

「海から来る気ですかな」

 

具教卿はすぐには答えなかった。

 

北伊勢の裁断。

長野工藤家への縄。

知多の海の微妙な膨らみ。

これらが全部バラバラに見えているほど、具教卿は甘くない。

 

「まだ来ぬ」と具教卿は言った。

 

「は」

「今来れば、長島も桑名も騒ぐ。長野の内も反尾張でまとまりやすい。治部大輔は、そのくらいは分かっておろう」

「では」

「備えておるのだ」

 

その言い方に、座の何人かが顔を見合わせた。

 

「長野を内から揺らし、それでも足りぬ時のために海を太らせる。そういうことだろう」

「海の備えまで読まれた、と向こうが知れば」

「知るまでは言うな」

 

具教卿の声が少しだけ硬くなった。

 

「こちらが海の気配に先走って騒げば、それこそ尾張者どもの思う壺よ。長野の内にまで“やはり北畠は焦っておる”と見られる」

 

そこは動かしようがない。

 

実際、今の段で北畠が露骨に強く出れば、長野工藤家の慎重派まで「ではやはり尾張の裁断に寄る方がまし」と傾きかねない。だから具教卿も、苛立ちながら静かにしておくしかない。

 

「では、長野へは」

「次郎の名を立てよ」

 

即答だった。

 

「後見役に申せ。表の差配は少し緩めよ。工藤家の面目をわざと削るような真似は控えろ」

「そこまで、でございますか」

「そこまでだ」

 

具教卿の目がわずかに冷える。

 

「今ここで北畠の理だけを押し通せば、古い者どもはますます尾張へ寄る。かといって、尾張の裁断に丸ごと従うような顔も出来ぬ。ゆえに、今は工藤家の形を少し戻してやる」

「次郎様の御名の下に」

「そうだ」

 

それは半ば、尾張への対抗でもあった。

 

治部大輔が、幼い当主の名を残したまま縄を入れた。

ならばこちらもまた、幼い当主の名の下に工藤家の形を立て直す顔をしなければならぬ。理屈としては不快だが、盤面としてはそれが一番ましだ。

 

「海の方は」と若い者が問う。

 

具教卿は少しだけ考えた。

 

「見よ。だが触るな」

「知多へ手を回しませぬか」

「今はまだ早い」

「九鬼の方は」

 

その名が出たところで、具教卿の目が少しだけ動いた。

 

「志摩へまで尾張の手が伸びると見たか」

「まだ確たるものではございませぬ。ただ、伊勢湾口から先へ話が投げられておる気配が」

 

具教卿は、そこで初めてほんの少しだけ笑った。

嫌な笑いだった。

 

「なるほど。海を整え、長野を縛り、それでも足りぬなら南へ届く形を作る、か」

 

誰も声を出せなかった。

それが当たっていると、皆薄々分かったからだ。

 

「よい」

 

具教卿は最後にそう言った。

 

「長野へは“工藤家を立てる顔”を見せよ。海は見張れ。だが今は騒ぐな。尾張がまだ来ぬうちに、こちらから“来られるのが怖い”と触れ回る愚は犯すな」

「はっ」

 

座の者たちが頭を下げる。

 

評定が終わりに近づいても、空気は軽くならなかった。

長野工藤家は、まだ北畠の内にある。だが、その内側へ尾張の縄が入った。

海は、まだ兵を運んではいない。だが、運べる形へ少しずつ近づいている。

どちらも、まだ決定打ではない。だからこそ不気味だった。

 

具教卿は、皆が引いたあとも、しばらく席を立たなかった。

 

長野はまだ取られていない。

海もまだ越えられていない。

それでも、尾張者どもは着実に形を整えている。

 

「治部大輔、か」

 

低く漏れたその声に、返す者はいない。

 

力で押してくる敵より、よほど面倒だ。

そう思ったかどうかまでは知れぬ。だが、机に置かれた指先が一度だけ止まり、また静かに動いたのを見れば、具教卿が今この局面を軽く見ていないことだけは、誰の目にも明らかだった。

 

 

左近将監が北畠側の空気を持ち帰った夜、俺はすぐに十兵衛と半兵衛も呼んだ。

 

場所は治部家の詰所の奥。

広い座敷ではない。こういう話は、広ければそれだけ薄まる。四人で膝を詰めてちょうどよいくらいの狭さの方が、言葉が逃げない。

 

左近将監は、持ち帰った報せを一通り置き終えると、最後にこう結んだ。

 

「具教卿は、こちらの手をかなり読んでおるようにございます」

 

十兵衛が静かに問う。

 

「海の方まで、ですか」

「はい。知多の荷が増えておること、津島商人の顔つなぎが少し急なこと、そこから先まで。兵はまだ見えておらぬが、何かを通す支度ではある、と」

 

半兵衛が、少しだけ眉を寄せた。

 

「そこまで読まれておるなら、奇襲の意味は薄いですな」

「その通りだ」

 

俺はすぐに頷いた。

 

「だから、奇襲として考えるな」

 

三人とも、そこで顔を上げた。

 

「どういう意味でしょう」と十兵衛。

 

「最初から、読まれぬ手として切る気はない」

 

俺はそう言ってから、机の上へ指で三つ並べた。

 

「ひとつ、長野工藤家の内を縛る。

ふたつ、海を太らせる。

みっつ、北部伊勢は牽制だけで動きを鈍らせる」

 

左近将監が頷く。

 

「南へ届く前に、背後で足を取られぬ形ですな」

「そうだ。具教卿が“海から来るかもしれぬ”と読むのは構わん。問題は、その先で“なら籠もって待てば助かる”と思わせることだ」

 

半兵衛が、その一言にはすぐ反応した。

 

「つまり、持久の利を消すわけですか」

「そういうことだ」

 

俺はさらに続けた。

 

「ただ海を警戒されるだけなら、向こうは籠る。時間を買う。六角へも将軍へも朝廷へも、和睦の口を探る。だからこちらは、“待てば何とかなる”と思わせぬ形を先に作らねばならん」

 

十兵衛が低く言う。

 

「読まれていること自体は問題ではない、と」

「読まれた上で、なお間に合わぬようにする」

 

そこは、はっきり言った。

 

奇襲とは、相手が何も知らぬうちに打つ手だけではない。

相手が何か来ると知っていても、どこまでが備えで、どこからが本当の圧か分からぬまま、しかも待っていても助からぬと気づいた時には遅い。そういう形へ持ち込めるなら、それもまた電撃戦の一つだ。

 

左近将監が、少しだけ笑った。

 

「嫌らしいことで」

「勝てる嫌らしさだけを使う」

 

「その台詞、お好きでございますな」と半兵衛。

 

「便利だからな」

 

十兵衛だけは笑わなかった。

あいつは、こういう時ほど先に危ないところを見る。

 

「治部様。では、向こうが和睦仲介を求める前に、こちらも手を打つ必要がありますな」

「そうだ」

「六角、将軍、朝廷。その辺りへ、北畠の名分が先に通ると面倒です」

「だから発動前に、こちらの理屈も整えておく」

 

十兵衛は頷いた。

 

「名家北畠を潰すためではない。長島・桑名まで騒がせぬためにも、むしろ家名を残す形で収める。その理を、あらかじめ置いておくわけですな」

「そういうことだ」

 

治部大輔信繁は北畠に甘い。

そう見られる危険はある。だが、それでよい。北畠を無惨に潰すより、名家の顔を残して従属させた方が、銭も兵も安く済み、伊勢の座りもよい。その理屈が通るなら、家中の目もなんとかなる。

 

半兵衛が、そこで帳面を閉じた。

 

「要するに、戦の準備は三つでよろしいわけですな」

「言ってみろ」

「長野工藤家を反織田でまとめぬこと。

海を太らせて兵站を切らさぬこと。

具教卿に、籠もって待てば助かると思わせぬこと」

「その通りだ」

 

左近将監が続ける。

 

「北部伊勢はどうします」

「いちいち噛まぬ」

「牽制だけで」

「そうだ。渡河点、街道、兵の抜け道、それだけは押さえる。だが、一つ一つ潰していたら、向こうに“まだ時がある”と思わせるだけだ」

「南だけを見ていると、背後を噛まれますぞ」

「だからお前がいる」

 

左近将監は、その返しには軽く頭を下げた。

 

「承知しております」

 

十兵衛が、そこでようやく少しだけ息をついた。

 

「これで分かりました。今の案は、読まれぬ手ではなく、読まれてもなお向こうの持久と仲介待ちを間に合わせぬための備えにございますな」

「そうだ」

「ならば、奇襲というより、短期圧迫の形で見ておいた方がよろしいでしょう」

「その呼び方の方が近い」

 

そこまで整理できれば十分だった。

 

部屋の空気が、少しだけ変わる。

漠然とした「海から何かする」ではなくなった。何を残し、何を削ぎ、何を急がせぬか。それがはっきりすると、やるべきこともまた細かく割れる。

 

半兵衛は兵糧と荷。

左近将監は知多と志摩への顔。

十兵衛は、発動前に置いておくべき言葉と理屈。

俺は長野工藤家と北畠の間合いを見る。

 

「よし」と俺は言った。

「この案はそのまま寝かせるな。だが、兵を動かす話としても広げるな。今はまだ備えだ」

 

「承知」

「海は太らせるが、太らせすぎるな」

「承知」

「長野工藤家には、なお縄を締める。あそこが勝手にまとまるようなら、海の札も死ぬ」

 

三人とも短く応じた。

 

それで話は終わった。

終わったが、終わった時には、むしろ最初より重かった。

 

具教卿が読んでいる。

ならば、そこから先をさらに変えねばならぬ。

それでも備えを捨てぬ以上、こちらはもう、ただの“もしも”では済まぬ場所まで足を踏み入れている。

 

今すぐではない。

だが、来る時は短く来る。

 

部屋を出る前、左近将監が最後に言った。

 

「治部様」

「何だ」

「具教卿がそこまで読める方なら、こちらが備えておることを知った上で、なお強気に出る可能性もございます」

「あるだろうな」

「その時は」

 

俺は一度だけ頷いた。

 

「その時こそ、待てば助かると思うておる望みごと折る」

 

左近将監は笑わなかった。

十兵衛も、半兵衛も、何も言わない。

 

それでよかった。

北伊勢で次に折るべきは、城ではなく、期待の方なのだから。

 

 

田代城の馬場は、朝の光を受けてまだ少し白かった。

 

昨夜までの湿り気が土の上に薄く残り、踏み固められた砂の匂いと、馬の体温の匂いが混じっている。城内にあっても、ここだけは少し空が広い。武具蔵や厩の気配が近く、奥向きの庭とはまた違う音がする。

 

真理姫は、そこで不思議とよく馴染んでいた。

 

細い体つきに見えて、馬の横へ立つと無駄がない。手綱の扱いが自然で、馬もまた、それを分かっているように静かだ。木曾での暮らしがどうであったにせよ、甲斐の血か育ちか、馬の気配を怖がらぬことだけは本物らしい。

 

その横で、お市もまた真剣な顔をしていた。

 

最初の頃は、ただ見て覚えようという顔だったのが、ここ数日は手綱を取る手に迷いが減った。背を伸ばして鐙へ足を掛ける姿も、姫君らしい優美さを残したまま、少しずつ実用へ寄っている。

 

「お市様、そこはもう少し肩の力を抜いて下さいませ」

 

真理姫が言う。

 

「手綱を握る時、腕で引くのではなく、腰の向きで先を教えてやるように」

「こう、かしら」

「はい、その方が馬も楽にございます」

 

お市が小さく息をついて頷く。馬上でのお市は、普段の柔らかい笑みとは少し違う。習う時の顔だ。気持ちが定まると、妙に真っ直ぐになる。

 

そこまでは良かった。

 

いや、良くなかったわけではない。だが、俺が馬場へ顔を出して、最初に見た時、さすがに一度では頭が追いつかなかった。

 

お市の横に、もう一騎いたからだ。

 

しかも見間違いようがない。

 

「……お犬殿?」

 

思わず声が出た。

 

本当に二度見した。真理姫が馬を引いて、お市が教わっているのは分かる。だが、その少し外で、当たり前のような顔をして別の若い馬へ乗っているのがお犬殿だったのだ。

 

お犬殿は俺に気づくと、何食わぬ顔でこちらを向いた。

 

「おはようございます、治部殿」

 

「おはようございます、ではなく」

俺は思わず馬場の中ほどまで歩み寄る。

「どうしてお犬殿がここに?」

 

お犬殿は、そこで少しだけ得意そうな顔をした。

 

「上総介兄上の許可は頂きました」

「……ほう」

「あと、姉上にも」

 

そこでお市が、馬上からこちらを見てにっこり笑った。

 

何も言っていない。言っていないが、顔だけでだいたい分かる。

私も許しましたけれど、何か問題でも?

そういう笑みだ。

 

「お市」

「だって、治部殿。私一人だけ真理姫様に教わっているのも、何だかお犬が退屈そうでしたもの」

「退屈そうで済む話では」

 

「退屈ではありませんでしたよ?」とお犬殿がすぐに返す。

「とても面白そうでした」

 

「それを退屈そうと言うのです」

 

真理姫が、そこで口元を隠すようにして少し笑った。

 

「お犬様も、怖がるかと思いましたが、案外そうでもございませぬ」

 

「怖いは怖いですよ」とお犬殿は言う。

「でも、姉上だけが新しいことを覚えていくのを見ていたら、私もやってみたくなりました」

 

その言い方は、いかにもお犬殿らしい。気まぐれに見えるが、案外ちゃんと筋がある。

 

俺はもう一度、お市を見る。お市はやはりにこにこしている。

 

「……上総介兄上は、何と」

「好きにさせておけ、と」

 

それは実に兄上らしい返事だった。

姫君が馬に乗りたいと言えば止めぬ。危なければその時考える。大体そういう裁断をする。

 

「勘十郎兄上は」

 

「呆れておられました」とお犬殿。

「でも、お市と真理姫様が揃っておられるなら、まあよかろう、と」

 

そこまで聞けば、もう止める理由も薄い。

 

そもそも、お市が乗馬を覚えること自体、別に悪いことではない。真理姫が言う通り、覚えておいて損はない。今の世で、姫君だから不要という理屈の方が危ういこともある。

 

ただ。

 

「真理姫」

「はい」

「お市に教えるだけでも大変だろうに、お犬殿まで見て大丈夫なのか」

 

真理姫は少しだけ首を傾けた。

 

「お市様は、言ったことをすぐ形にして下さいます。お犬様は……」

 

そこで一度、お犬殿の方を見る。

 

「お犬様は、お犬様で勘がよろしいので」

「それ、褒めてます?」

「半分ほどは」

「半分ですか」

 

お犬殿が少し唇を尖らせる。だが、馬の上では思ったより安定していた。真理姫が最初から大人しい馬を選んだのもあるのだろうが、少なくとも腰が浮いてはいない。

 

「治部殿」とお市が言う。

「せっかくですから、見ていて下さいませ。真理姫様の教え方、本当にお上手なのです」

 

「はい。そこはもうよく分かっております」

「それに、お犬も意外に筋が良いのです」

「お市様、それは今言わぬ方が」

「どうして?」

「褒められると、すぐ調子に乗りますから」

「ひどい」

 

お犬殿が不満そうに言い返したが、否定できぬのか、そのまま黙った。

 

真理姫がそこで手綱を軽く引き、自分の馬をお犬殿の横へ寄せる。

 

「お犬様、先ほど申した通り、目は少し先へ。馬の耳の辺りばかり見ておりますと、体もつられて固くなります」

「少し先……」

「はい。行きたい先を見てくださいませ」

 

お犬殿が言われた通りに視線を上げると、不思議と肩の力も抜けた。真理姫はそういうところをちゃんと見ている。

 

「ほら」とお市が嬉しそうに言う。

「上手くなりました」

 

「まだ何もしておりません」

「それでもです」

 

真理姫が、今度はお市の鐙の位置を直す。お市は素直に従う。その横でお犬殿が少しだけ前へ出ようとして、すぐ真理姫に「まだそこまでは」と止められる。

 

馬場の朝の空気は、気づけば思っていたより柔らかくなっていた。

 

真理姫が教える側に立つことで、木曾から来た姫というだけではない顔が出る。お市は習うことで、正室としての静けさとは別の張りを見せる。お犬殿は――これはまあ、予想外だったが――勝手に面白そうな方へ首を突っ込んできて、しかも一応は許可を取っているあたりがいかにもらしい。

 

俺はそこでようやく息をついて、馬場脇の柵へ手を置いた。

 

「分かりました。今日は止めません」

 

「今日は、ですか?」とお犬殿。

 

「今日は、です」

「では明日は?」

「明日のことは、今日見てから決めます」

「むう」

 

お犬殿が不服そうにしたところで、お市がくすりと笑う。

 

「治部殿、そう言いながら結局お許しになるのでしょう?」

「お市までそういうことを」

 

「だって」

お市は手綱を握ったまま、いかにも楽しそうに微笑んだ。

「治部殿、今、とても面白そうなお顔をしておられますもの」

 

それを言われると弱い。

 

実際、面白がっていないと言えば嘘になる。田代城の馬場で、真理姫に乗馬を教わるお市と、なぜかそこへ当然のように混ざっているお犬殿。こんな光景、少し前なら想像もしていなかった。

 

真理姫が「では、次はゆっくり歩かせてみましょう」と言い、お市が頷き、お犬殿が「私もですか」と食いつく。真理姫は少し考えたふりをしてから「お犬様は、その後で」ときっぱり告げた。

 

「どうしてです」

「先ほど、褒められて少し前へ出すぎました」

「……見ておられましたか」

「はい、教える者ですので」

 

その返しに、お市がまた笑い、お犬殿は口を尖らせる。

 

俺は柵にもたれたまま、そのやり取りをしばらく見ていた。

 

田代城の朝は、思ったより賑やかだった。

そして、その賑やかさは案外悪くない。

少なくとも、今この馬場にいる三人の顔を見ている限りは。

 

 

 

 

 

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