織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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031北畠顕家公②

田代城の馬場を離れて数日、空気はまた伊勢のものへ戻った。

 

女たちの笑い声も、馬の足音も、城を出てしまえば背中の向こうへ薄れていく。代わりに前へ出てくるのは、川と渡し、湿った土、そして人が互いを測る時の黙り方だった。

 

長野工藤家へ縄を入れてから、目に見える私闘は減った。

渡しに小勢を置き、往来へ勝手な手を出すなと命を下し、夜に兵を動かせば即座に咎める形を見せると、後見役も旧臣も、表立って槍を取ることは控えざるを得なくなった。

 

だが、静まることと収まることは違う。

 

その違いを、左近将監は毎度きちんと持ち帰ってくる。

 

「表では従っております」とあいつは言った。

「されど、腹の内は別にございますな」

 

尾張寄りの控え座敷で、俺、十兵衛、半兵衛、左近将監の四人がまた顔を揃えていた。

こういう並びも、もう珍しくなくなってきた。

 

「後見役は」と俺。

 

「露骨な北畠寄り差配は抑えております。さすがに、今あれをやれば自分へ返ると分かったのでしょう」

「旧臣は」

「抑えてはおりますが、収まってはおりませぬ。『今は槍を収めてやる』という顔にございます」

「慎重派は」

「一番助かっておりますな。渡しと往来が止まらぬ限り、家の息は続く、と」

 

半兵衛が小さく頷いた。

 

「予想通りです」

「予想通りすぎて面白くないな」

「面白い時ほど困るのでは」

 

それには苦笑するしかない。

 

十兵衛が、そこで一通の文を机へ置いた。

 

「長野工藤家からの再度の願い出にございます」

「またか」

「またです」

 

文を開くと、案の定、後見役側の文言は穏当で、旧臣側の添状は回りくどく刺々しく、慎重派はその間を縫うように整えてある。

もはや様式美に近い。

 

「次郎様の名義は」

「上に載っております」

「中身は大人どもか」

「はい」

 

幼い当主の名の下で、大人どもが互いに違う理を差し込む。今の長野工藤家は、まさにその形だった。

 

左近将監が、別口の報せへ話を移した。

 

「それと、北畠の方も静かではありませぬ」

 

俺は顔を上げる。

 

「具教卿か」

「はい。長野の揺れも、こちらが渡しを押さえておることも、だいぶ読まれております」

「海の方は」

 

「知多の荷の増え方まで、うっすら気づいておりますな。まだ兵が見えるわけではありませぬが、“何か通す支度ではある”とは思われておるようにございます」

 

十兵衛が息を吐いた。

 

「やはり読まれますか」

 

「読まれます」と左近将監。

「読める者はおります」

 

それはむしろ自然だった。

読まれぬことを期待する方が甘い。

 

半兵衛が、帳面へ目を落としたまま言う。

 

「ならば、向こうが待ちに入る前に、こちらは“待っても助からぬ”形を積まねばなりませぬな」

「そうだ」

 

俺は短く答えた。

 

「長野工藤家を縛ったのも、そのためだ。あそこが反尾張で一つにまとまれば、具教卿は“まだ持てる”と思う。だが今は違う。工藤家の内は割れたまま、こちらの縄の下にある」

「海も、今すぐ兵を通すのではなく、荷が太っていく形で見せる」

「そうだ」

 

十兵衛が続ける。

 

「長島や桑名も、まだ“商いの延長”として見ておる」

 

「そこを壊すな」と俺。

「今はまだ、伊勢湾が少し忙しくなった、それだけでよい」

 

左近将監が頷く。

 

「九鬼家筋へも、同じ顔で近づいております」

「急ぐなよ」

「承知しております。こちらが欲しいのは忠ではなく、まず耳ですので」

 

そこは左近将監に任せるしかない。

海の者は、陸の理屈だけでは動かぬ。銭、働き場、面白み、そして相手が本当に使えるかどうか。その辺りを嗅いでから寄ってくる。

 

俺は、机の上の文と図と控えを順に見た。

 

長野工藤家は、まだ崩れ切っていない。

だが、もう北畠の掌の内で綺麗に収まる家でもない。

北畠は、その揺れを見ている。

こちらの海の支度にも気づき始めている。

そして、気づいているからこそ、今はまだ静かだ。

 

そこが、逆に不気味だった。

 

「治部様」と半兵衛。

 

「何だ」

「次は、どこで向こうへ圧を見せます」

「まだ見せぬ」

 

即答した。

 

「今は、長野工藤家へもう一段、家中統制の文を入れる。次郎様の名義は残したまま、後見役が勝手に解けぬ形へする」

「具教卿には」

「何も送らぬ。送らぬこと自体が圧になる」

 

十兵衛がその言葉には少し目を細めた。

 

「なるほど。何も来ぬ方が、かえって“いつ来る”になりますな」

「そうだ」

「北畠から和睦や仲介の口が来た時は」

「内容次第だ。だが今は、向こうに先に“頼めば助かる”と思わせるな」

 

左近将監が低く言った。

 

「期待を折る、にございますか」

「そうだ。城を落とすより先に、期待の置き場を削る」

 

誰も笑わなかった。

今の伊勢では、その言い方が一番本当だったからだ。

 

外では、風が少しだけ強くなっていた。

川筋の湿りを含んだ風だ。伊勢へ近づくほど、あの風は人の腹の底まで冷やしてくる。長野工藤家の中も、北畠の評定の間も、たぶん同じ風を吸っている。

 

「よし」と俺は言った。

 

「長野にはもう一段文を入れる。後見役にではなく、次郎様の名の下で。旧臣も慎重派も、それを破れば自分の責になると分かる形でな」

 

「海の方は」と左近将監。

 

「太らせろ。だがまだ膨らませるな」

「承知」

「十兵衛、文を」

「はい」

「半兵衛、渡しの交替を見直せ。慣れすぎると気が緩む」

「分かっております」

 

それで四人は散った。

 

伊勢は、少しずつ形を変えつつある。

槍で一気に切り開いたわけではない。縄を入れ、荷を流し、言葉を差し込み、相手が“まだ何とかなる”と思うところを一つずつ削っている。

 

派手ではない。

だが、こういう時ほど、後で効く。

 

次に何が動くか。

長野工藤家が先に崩れるのか、北畠が先に和を探るのか、それとも海の方でひとつ、思ったより早い返事が来るのか。

いずれにせよ、伊勢はもう、ただ待っているだけの土地ではなかった。

 

 

北畠の館は、静かすぎる時ほど重い。

 

長野工藤家が織田の縄の下で辛うじて静まっていることも、知多の荷が少しずつ太っていることも、具教卿のもとへはもう届いていた。

 

届いているからこそ、館の内はむしろ静かだった。大声で騒ぐ者がいないのではない。騒げば、それだけ自分が浅く見えると分かっている者が多いからだ。

 

だが、その静けさを苛立たしげに踏み割る者もいる。

 

具教卿の嫡男具房――右近だった。

 

評定が終わり、重臣たちが半ばずつ引いた後、右近は父の前へそのまま残った。

 

若い。若いが、軽やかさはない。身体つきはすでに重く、衣の上からでも分かるほど肉が乗り、座にあるだけで妙な圧が出る。名家の子として甘やかされ、その重たさそのものを威と信じて疑わぬ――そんな暑苦しい気配が先に立つ。

 

端正だの何だのと評するより先に、「北畠の若殿がそこに居る」と見せつける種類の存在だった。

 

「父上は、動かれぬのですか」

 

具教卿は、すぐには答えなかった。

机の上に置いた手をわずかに引き、それからようやく顔を上げる。

 

「何に対してだ」

「長野にございます」

「長野の何にだ」

 

その返しが、右近には余計に苛立たしかったのだろう。声が少しだけ高くなる。

 

「工藤家の揺れにございます。尾張者どもが縄を入れ、渡しを押さえ、家中の兵の動きまで止めておる。しかも、今や海まで怪しい。なのに父上は、なお見ておれと仰せになる」

 

具教卿の表情は変わらない。

 

「見ておれ、ではない」

「同じことでございます」

「違う」

 

短いが、そこで一度切った。

 

その一言には、伊勢国司として人を黙らせてきた重みがあった。だが、今の右近には、むしろそれが“いつもの父の威”に見えたのだろう。

 

「父上は、いつも申しておられたではありませぬか」

 

右近はそのまま言い募る。

 

「北畠は伊勢国司なり、と。諸家の先に立ち、軽々しく尾張者などに顎で使われる家ではない、と。工藤のような家にまで、北畠の威を見せねばならぬ、と」

 

具教卿は黙って聞いている。

 

「それなのに今は何です。長野は揺れ、尾張は入り込み、工藤家の内まで口を出しておる。これを見て動かぬのでは、父上の御言葉と今のなさりようが違います」

 

そこまで言って、右近は一つ息を継いだ。

 

「言行不一致にございます」

 

部屋の空気が、そこでひとつ沈んだ。

近くに控えていた小姓すら、顔を上げなかった。

 

この館で、具教卿へそこまで言う者は多くない。若さゆえか、あるいは若さだからこそ言えたのか。

具教卿は、しばらく何も言わなかった。

 

怒鳴り返さぬのが、かえって重い。

 

「右近」

 

ようやく出た声は低く、静かだった。

 

「お前は、威を振るうことと、威を保つことの違いがまだ見えておらぬ」

 

右近は、ほとんど間を置かずに返した。

 

「見えておらぬのは父上の方にございます」

「ほう」

「長野を今、強く押さえねば、あの家は尾張へ傾きます。しかも海まで怪しい。尾張者どもは、ただ工藤の内を静めておるのではない。こちらの喉へ手を掛ける形を整えておるのです」

「分かっておる」

「ならば!」

 

右近の声が、ついに張った。

 

「ならば、なぜ先に叩かぬのです! 父上は、いつも“名家の威は見せてこそ残る”と仰せでした。なのに今は、待て、見る、まだ早い、そればかり。そんなことをしておれば、工藤は尾張へ寄り、海まで押さえられます!」

 

具教卿の目が、そこでようやく冷えた。

 

「右近。お前は、待つことを退きと見ておるな」

「今の待ちは退きにございます」

「違う」

 

具教卿は、今度ははっきり言った。

 

「長野へ今、北畠の理だけを押し通せば、古い者どもはかえって尾張へ寄る。海を恐れてこちらが先に騒げば、“北畠は焦っておる”と見られる。そうなれば、向こうの思うままよ」

 

右近は、それでも引かなかった。

 

「では、父上は工藤を捨てるおつもりか」

「誰がそう言った」

「今のままでは同じです!」

「違うと申しておる!」

 

その一声だけは、さすがに部屋を震わせた。

右近も、一瞬だけ息を呑んだ。

 

それでも目は逸らさない。父の威に怯えて引くには、もう遅いところまで来ている。

具教卿は、そのまま続けた。

 

「工藤を捨てぬために、今は押し込みすぎぬのだ。次郎を立て、工藤の形をわずかでも戻してやらねば、古い者どもはますます尾張へ寄る。お前はそこを見ておらぬ」

「次郎、次郎と」

 

右近の声に、今度は別の熱が混じった。

 

「弟を立てれば収まるとでも? 工藤の者どもが嫌うておるのは、ただ次郎が幼いからではない。北畠の血が家の真ん中に居る、そのことそのものではありませぬか」

 

その言葉に、具教卿は少しだけ目を細めた。

 

「それが分かっておるなら、なおさら軽々しく動くな」

「軽々しくではありませぬ」

「では何だ」

 

右近は、一歩だけ前へ出た。

衣が擦れる。若いくせに身のこなしにはもう鈍さがあり、それでも本人は、その重々しさこそ若殿の威だと信じている節がある。

 

「正すのです」

「何を」

「工藤家に、北畠の威を」

 

そこまで言い切った時点で、具教卿はもう何を言っても今の右近には届かぬと悟ったのかもしれない。怒りではない。むしろ、深い疲れに近いものが声に混じった。

 

「威は、振り回せば威になるのではない」

「されど、見せねば軽んじられます」

「今の長野へ強く出れば、軽んじられるのはこちらだ」

「父上は、尾張者を買いかぶりすぎておられる」

「お前は、尾張者を知らなすぎる」

 

その応酬は、親子の会話でありながら、すでに伊勢の先を巡る政の衝突でもあった。

 

右近は父が読んでいることを弱腰と見る。

具教卿は子の血気を、相手へ理を渡す愚と見る。

 

どちらも、北畠のためを思っていないわけではない。だが、見ている距離が違う。

 

しばらく黙り込んだあと、具教卿が最後に言った。

 

「右近。長野へは手を出すな」

 

短いが、明確だった。

 

「今は次郎の名を立て、工藤の顔を少し戻してやる方が先だ。お前が余計な真似をすれば、かえって尾張の理を立てる」

 

右近の顎がわずかに上がる。

 

「余計な真似、と仰せか」

「そうだ」

「北畠の威を正すことが」

「今この時に限っては、そうだ」

 

その言葉で、何かが決まったのだろう。

右近はしばらく父を見ていた。

 

その目には、従う者の色はない。若い者が、自分こそ正しいと信じた時の、あの危うい光だけがある。

やがて右近は、形式だけは崩さずに頭を下げた。

 

「……承知いたしました」

 

だが、その承知が本当の承知でないことくらい、部屋にいた誰にでも分かった。

具教卿もまた、分かっていたはずだ。

 

それでもそれ以上言わなかったのは、ここで押し込めれば、かえって若い火を別の場所へ噴き上げると読んだからか、それともまだ息子の理性へ一分の望みを残したからか。そこまでは知れぬ。

 

右近は下がった。

 

障子が閉まり、足音が遠ざかっても、具教卿はしばらくそのまま動かなかった。

やがて、傍らの老臣が低く問う。

 

「若殿は」

 

具教卿は短く答えた。

 

「見張れ」

「は」

「だが、あからさまにするな」

 

そこまで言ってから、具教卿は机に置いた手をわずかに握った。

 

「……若い」

 

それは怒りでも嘆きでもなく、半ばは諦めに近い響きだった。

 

だが、若いという一言の中には、父としての情も、国司としての苛立ちも、どちらも含まれていたように見えた。

 

その夜、館の内は静かだった。

 

だが、静かだからといって何も動かぬわけではない。むしろ、こういう夜ほど、人は命じられなかったことを自分で決める。

 

右近が父の言葉をそのまま呑み込まぬことだけは、もう明らかだった。

 

 

右近が動いたと知れたのは、夜が明け切る前だった。

 

最初に届いたのは、まともな軍報ですらない。

長野工藤家領の渡し近くで、北畠の若侍どもが馬を荒く入れた。蔵前で言い争いが起きた。村役の者が叩かれた。そんな断片が、ばらばらに走ってきた。

 

断片の時点で、もう嫌な予感しかしない。

 

長野工藤家の内をようやく縄で縛り、次郎様の名を残したまま静めに入った矢先に、それを踏み越えるような真似をされたなら、こちらの理が一気に立つ。

同時に、向こうの愚も一気に露わになる。

 

左近将監が、朝靄の残るうちに控え座敷へ飛び込んできた。

 

「治部様」

 

顔を見た時点で、だいたい分かった。

 

「右近か」

「はい」

「どこだ」

「長野家領寄り、渡しから半里ほど。近習と若侍、それに小勢を連れて入り込み、蔵と馬を押さえようとした由」

「押さえようと、か」

「まだ押さえ切ってはおりませぬ。ですが、止めに出た長野家臣へ無礼を働き、ひとり斬られております」

 

部屋の空気が、そこで一段冷えた。

 

十兵衛が低く問う。

 

「右近本人が、ですか」

「そこまではまだ。ただ、右近の場で起きたことにございます」

 

半兵衛が吐き捨てるように言った。

 

「十分ですな」

 

いや、十分どころではない。

これで長野工藤家の旧臣も慎重派も、「まだ北畠へ留まる余地がある」とは言いにくくなる。工藤家の面目を立てるどころか、家領へ若殿が踏み込んで乱暴狼藉、しかも家臣が斬られたとなれば、もはやただの家中整理ではない。

 

「人数は」

 

「多くはありませぬ」と左近将監。

「右近自身の見栄を立てるには足るが、戦を始めるには足らぬ程度。だからこそ厄介にございます」

 

それが一番悪い。

 

大軍で押し寄せたなら、最初から戦だ。

だが、小勢で若殿が入り込み、威を示すつもりで家臣を斬らせたとなると、戦ではない顔をしたまま、家の面目だけを踏み荒らす。こういうのが一番火を回す。

 

「長野の内は」

「旧臣は沸いております。慎重派も、さすがに顔色が変わりました。後見役は抑えようとしておりますが、もう“北畠が工藤家を立てる気はある”とは言いにくいでしょう」

「次郎様は」

「……まだ表へは出ておりませぬ」

 

それも当然だ。

 

幼い次郎様には止めようがない。

だが止められぬ以上、工藤家の名の下に起きたこの騒ぎは、さらに重くなる。

 

俺はそこで立ち上がった。

 

「使者を出す」

 

十兵衛が、すぐ顔を上げる。

 

「北畠へ」

「いや、両方だ」

「両方」

「長野工藤家へは、織田の縄を踏み越えた以上、これは家中争いではなくなった、と伝える。北畠へは、右近の振る舞いが長野家領と近辺の静謐を乱した、と伝える」

 

半兵衛が頷く。

 

「理が立ちますな」

「立たせる」

 

ここで重要なのは、怒ることではない。

こちらが“怒って北畠を討つ”顔をすれば、向こうに名分を返す。

そうではない。あくまで、織田が入れていた縄を北畠側若殿が破った。だからこちらは静謐維持のため、さらに一段強く出る。そういう順にする。

 

左近将監が言った。

 

「右近は、たぶん父の御意に逆らっております」

「分かってる」

「ならば具教卿は火消しに出ましょう」

「出るだろうな」

「その場合、どうします」

 

俺は少しだけ考えた。

 

具教卿は読める。

だからこそ、すぐに「若気の至り」「行き過ぎを諫める」「工藤家の面目も立てる」と火消しへ回るはずだ。

だが、それで済ませるにはもう遅い。

 

「火消しはさせる」と俺は言った。

「だが、火種は消えたことにしない」

 

十兵衛が、その意図をすぐ取る。

 

「つまり、右近の暴発は暴発として処理させる。だが、それで“北畠は工藤家へなお然るべき顔をしている”とは認めぬわけですな」

「そうだ」

 

半兵衛が、帳面を寄せながら続けた。

 

「では、長野工藤家の扱いは一段変わりますな」

「変わる」

「次郎様名義を残したまま静める、から」

「“工藤家保全のため、北畠側の越境と乱暴を抑える”へ一段強く寄せる」

 

そこまで言うと、部屋の中の空気が変わった。

 

ついさっきまでは、長野工藤家はまだ割れたまま、こちらの縄の下で静まっていた。

だが右近が踏み越えたことで、その膠着が崩れた。しかも崩したのは、こちらではない。向こうだ。

 

「治部様」と左近将監が言った。

 

「何だ」

「これは、かなり大きいですぞ」

「分かってる」

「長野の旧臣だけでなく、慎重派まで“もう北畠は工藤家を家として扱っておらぬ”と見るようになります」

「そうなるだろうな」

「そして、こちらは“討ちに行く”のでなく、“静めに行く”顔を一段強く出来る」

「その通りだ」

 

今までは、私闘停止、渡し保全、兵移動禁止の縄だった。

だが今は違う。北畠の若殿が工藤家領へ踏み込み、家臣を斬らせ、蔵と馬へ手を出した。これを放っておけば、織田の裁断そのものが軽くなる。もう“縄”だけでは済まぬ。

 

「十兵衛」

「はい」

「文を二つ起こせ。長野へは、織田が工藤家保全のためさらに兵を進める用意あり、と。北畠へは、右近の振る舞いを諫め、責ある者を引かせ、工藤家領へ二度と踏み込ませぬ形をすぐ示せ、と」

「期限は」

「短くしろ。一日だ」

 

十兵衛が即座に書きつける。

 

半兵衛はもう兵の方へ頭を回していた。

 

「渡しの小勢では足りませぬな」

「まだ大軍は出すな」

「はい。ですが、押し返せるだけの隊は寄せます」

「長野の側に“織田は本当に出る”と見せる」

「北畠には」

「“まだここで止まれる”と思わせる」

 

そこが肝だった。

 

いきなり全面戦へ飛ぶ必要はない。

だが、もう全面戦へ向かう理由は立った。

そして、その理由を立てたのは右近だ。

 

左近将監が、そこで低く言った。

 

「若気の至り、にしては高くつきますな」

「若いからこそだろう」

 

俺はそう返した。

 

「父が読んでおるのを、弱腰と見た。威を見せるつもりで、理をこちらに渡した」

 

誰も笑わなかった。

笑うような話ではない。

 

長野工藤家は、これでさらに尾張へ寄る。

次郎様の幼さも、後見役の北畠寄りも、もう些細ではない。家そのものが工藤家領へ踏み込んで家臣を斬らせた、その事実の前では。

 

「よし」と俺は言った。

 

「これはもう、工藤家の内輪ではない。伊勢の静謐を乱した北畠側の越境だ。そういう顔で押し返す」

 

十兵衛、半兵衛、左近将監が、それぞれ短く応じる。

 

部屋を出る頃には、もうただの膠着ではなくなっていた。

縄で静めていた局面を、向こうが自分で踏み越えた。

ならば、その踏み越えに応じた次の手を出すだけだ。

 

北伊勢は、ここで一段進む。

いや、進まされたと言うべきか。

どちらでもよい。理がこちらへ落ちたことに違いはない。

 

 

右近の暴発が、ただの若気で済まぬことは明らかだった。

 

長野工藤家の家臣が斬られ、蔵と馬へ手がかかり、渡し近くまで騒ぎが及んだ。

これを“家中の行き過ぎ”で丸めれば、こちらが入れていた縄の方が軽くなる。織田が裁断を下し、私闘停止と兵移動禁止を命じていたにもかかわらず、北畠側の若殿がそれを踏み越えたのだ。ならば、こちらが次に出る理は十分に立つ。

 

だが、立つからといって、いきなり兵を走らせるのは下策だった。

 

「十兵衛」と俺は言った。

 

「はい」

「文をもう一つ起こせ」

「北畠宛とは別に、にございますか」

「そうだ。上総介兄上と勘十郎兄上へ上げる」

 

十兵衛がすぐに筆を持ち直す。

半兵衛と左近将監も、そこでこちらへ目を向けた。

 

「内容は簡潔でよい」と俺は続けた。

「右近の越境、乱暴狼藉、長野家臣の死傷、工藤家中の硬直化。ここまでは事実として並べる」

 

「はい」

「そのうえで、北伊勢の局面が一段進んだこと、長野工藤家保全と伊勢静謐維持の名目で、こちらがさらに強く出る理が立ったことを書く」

 

十兵衛は頷きながら走らせている。

こういう時のあいつは、言葉が先回りする。

 

「最後は」と俺。

 

「“海と陸の備えを整えた後詰め案につき、発動の時期が近づいております”――このあたりにございますか」

「悪くない」

「“ただし、なお北畠側の返答と長野工藤家の出方を見て、最終の裁可を仰ぎます”も添えますか」

「添えろ。勝手に始める顔はするな」

 

それは最初から決めていた。

 

どれほど理が立とうと、北伊勢の次段を始めるのは本家の裁断だ。

治部家が先走って“もう作戦発動です”の顔をすれば、それこそ逆に軽くなる。

 

左近将監が低く言った。

 

「ですが、兄上方には、ほぼ始まると分かる文にしておいた方がよろしゅうございますな」

「もちろんだ」

 

俺は頷く。

 

「今はまだ“その時が来ればすぐ動ける”までだ。だが、右近がここまで踏み越えた以上、その時はかなり近い」

 

半兵衛が帳面を見ながら口を挟む。

 

「兵糧、渡し、知多の荷、どれも遅れてはおりませぬ。上総介様と勘十郎様にしてみれば、“よし、そこまで来たか”と分かる方が良いでしょう」

「そうだな」

「ただ、まだ海から大きく動いた顔を出してはならぬ」

「そこも書かぬ」

十兵衛が文を少し読み上げる。

 

「――右近、長野家領へ兵を率いて踏み入り、乱暴狼藉に及び、長野家臣に死傷を生ぜしむ。これにより、長野工藤家中はさらに反北畠へ傾き、織田裁断の下にある静謐は、北畠側より破られ候。ついては、かねて申し上げし海陸の後詰め備え、いよいよ用うべき時節近しと存じ候。もっとも、なお一日、二日、向こうの返答と工藤家の出方を見極め、最終の裁可を仰ぎたく候――」

「よい」

 

そこで止めた。

 

「それで十分だ。読めば兄上方には伝わる」

 

十兵衛は最後を整えに入る。

余計な飾りは要らない。事実と、理と、次が近いという匂いだけでよい。

 

俺はその間に、別の文も頭の中で並べた。

 

北畠へは、右近の振る舞いを抑え、責ある者を引かせ、工藤家領へ二度と踏み込ませぬ形をすぐ示せ、と。

長野工藤家へは、織田が工藤家保全のため、さらに一段強く出る用意がある、と。

 

三本の文は、それぞれ向き先が違う。

だが中身は一つだ。

今の局面は、もう“ただ静めるだけ”ではない。向こうが踏み越えたからには、こちらはそれを理由に次段へ上がる。

 

「治部様」と左近将監。

 

「何だ」

「兄上方への文、誰に持たせます」

「軽い使者では弱いな」

「はい。ですが重すぎると、こちらがもう始める気だと見えます」

「……お前が行け」

 

左近将監の眉がわずかに動く。

 

「わたくしが」

「お前が一番分かっている。右近の越境も、長野の空気も、海の備えもだ。文だけでは足りぬところを口で足せ」

「承知しました」

「あくまで“報せ”だ。裁可を迫る顔では行くな」

「そこは違えませぬ」

 

それで決まった。

 

十兵衛が文を折り、封をし、左近将監へ渡す。

半兵衛はその横で、もう次に動かせる人数と荷を改めて見ている。部屋の中にいるのに、皆の頭はもう次の一歩先にある。

 

左近将監が文を受け取ったところで、俺は最後に言った。

 

「兄上方には、こうも伝えろ」

「はい」

「まだ始めてはおりませぬ。されど、始めるに足る理は、ほぼ揃いました、と」

 

左近将監は短く頭を下げた。

 

「承知」

「それと」

「は」

「右近の暴発は、若気の至りで片づけぬ方がよろしい、とも添えろ。あれは北畠側の名家の理を宿した火の噴き方そのものだ」

 

「分かっております」

 

あいつはそこで一度だけ笑った。

 

「上総介様は、面白がられましょうな」

「面白がってもらって結構だ。だが勘十郎兄上には、次に評定をどう組むかまで見てもらう」

「そちらも抜かりなく」

 

左近将監が出ていくと、部屋の中は一瞬だけ静かになった。

 

もう戻れぬところまで来ている、という静けさだった。

 

右近が越境し、工藤家臣が死に、長野工藤家はさらに尾張へ寄る。

北畠本体は火消しに回るだろうが、それで済ませるにはもう重すぎる。

海の備えはまだ表へ出ていない。だが、出せるところまでは来た。

ならば、あとは本家の一声を待つだけだ。

 

「いよいよ、でございますな」と半兵衛が言った。

 

「まだ早い」

 

俺はそう返したが、自分の声が少しだけ乾いているのは分かった。

 

「まだ一日、二日ある。具教卿がどう返すか、長野がどう動くか、それで最後の形が少し変わる」

「ですが、近い」

「近いな」

 

そこは認めるしかなかった。

 

今までの膠着は、右近が自分で踏み破った。

向こうが理を渡し、こちらがそれを拾った。

それだけのことだ。だが、それだけのことで戦の口は開く。

 

俺は机の上に残った控えへもう一度目を通し、静かに息を吐いた。

 

北伊勢は、ここから先、ただ縄を締めるだけでは済まぬ。

海も陸も、もう備えは出来つつある。

後は、本家の裁断が落ちるかどうかだけだ。

 

 

左近将監が稲葉山へ入ったのは、日が傾き切る前だった。

 

急ぎの報せではある。

だが、血相を変えて駆け込むほどの顔はさせていない。そういう報せほど、運ぶ者の呼吸が乱れた時点で半分負ける。左近将監はそこを弁えていた。衣も乱れておらず、足取りも速いが慌ただしくはない。そういうところが使いやすい。

 

上総介兄上と勘十郎兄上には、すでに治部家からの文が届いている。

だが、今回は文だけでは足りない。右近の越境、長野工藤家の硬直、海の備え、そして作戦発動が近いという匂い。その全部を、一つの話として通すには口が要る。

 

左近将監が通された時、兄上方はすでに小部屋で待っていた。

 

上総介兄上は文を脇へ置いたところで、左近将監を見た。

勘十郎兄上は、まだ指先で文の端を押さえている。読み終わってはいるが、もう一度確かめるつもりの顔だった。

 

「来たか、左近将監」

「はっ」

「治部の文は読んだ」

 

上総介兄上の声はいつも通りだ。

だが、こういう時にいつも通りというのは、むしろ中身をかなり読んでいる証でもある。

 

「口で足せ」

「承知いたしました」

 

左近将監は深く頭を下げ、それから簡潔に並べた。

 

「右近殿、長野家領へ近習と若侍、それに小勢を率いて踏み入り、蔵と馬へ手を掛け、止めに出た長野家臣に死傷を生ぜしめました」

 

勘十郎兄上の目が細くなる。

 

「本人が斬ったか」

「そこまではなお不明にございます。されど、右近殿の場にて起きたことに相違ございませぬ」

「十分だな」と上総介兄上。

 

「はい。長野工藤家の旧臣はもちろん、慎重派まで“もはや北畠は工藤家を家として扱っておらぬ”と見る方へ寄っております」

 

勘十郎兄上がそこで問う。

 

「後見役は」

「表では抑えようとしております。ですが、もう“北畠の理で工藤家を保つ”顔はかなり苦しゅうございましょう」

「具教卿は」

 

左近将監は一拍置いた。

 

「火消しに回るはずにございます。右近殿の暴発を、若気の至りとして収めたがるかと」

 

上総介兄上がそこで小さく笑った。

 

「治部の見立て通りだな」

「はい」

「で、海の方は」

 

そこへ話が移るのも早かった。

 

左近将監はすぐ続けた。

 

「知多の荷は順調に増えております。津島商人との顔つなぎも良好。伊勢湾口の船頭株も、表向きは商いの延長としてこちらを受け入れております」

「志摩は」

「九鬼家筋へ繋ぐ口は保っております。まだ“こちらの人”とは申せませぬ。ですが、切れてもおりませぬ」

 

勘十郎兄上が、そこは特に念を押した。

 

「欲を見せたか」

「見せておりませぬ。まずは“尾張が海を荒らすつもりはない”顔でございます」

「よい」

 

そう言ってから、兄上は文へもう一度目を落とした。

 

「つまり」

 

上総介兄上がその先を継ぐ。

 

「長野は反北畠へ一段深く傾いた。具教は火消しに回るしかない。海の備えも、まだ表へ出し切ってはいないが、動かせるところまでは来た」

「左様にございます」

「なら」

 

兄上はそこで、ほんの少しだけ口元を上げた。

 

「もう発動は近いな」

 

部屋の空気が、それでひとつ締まった。

 

左近将監は頭を下げたまま答える。

 

「はい。もっとも、治部様はなお一日、二日、具教卿の返答と長野工藤家の出方を見極めたうえで、最終の裁可を仰ぐべしと申しておりました」

 

「当然だな」と勘十郎兄上。

 

「あそこで“理が立ったからすぐ動きます”では、かえって軽い」

「はい」

「だが、近いことは近い」

「はい」

 

そこはもう否定のしようがない。

 

右近が越境し、工藤家臣が死に、長野工藤家はさらに尾張へ寄る。

海はまだ兵を運んではいないが、運べる形は整いつつある。

この段まで揃えば、あとは具教の返しが穏当か、意地を張るか、その差だけでしかない。

 

上総介兄上が、そこで左近将監へ視線を戻した。

 

「治部は何と言っておる」

「“まだ始めてはおりませぬ。されど、始めるに足る理は、ほぼ揃いました”と」

 

上総介兄上は、鼻で笑った。

 

「あいつらしい」

 

勘十郎兄上も小さく頷く。

 

「勝手に始めぬ顔は保っておる。だが、もう次段に上がる気は隠しておらぬわけだ」

「はい」

「よろしい」

 

勘十郎兄上はそこで文を置いた。

 

「兄上」

「分かっておる」

 

兄上はすぐ返した。

 

「左近将監」

「はっ」

「治部のところへ戻れ」

「はい」

「こう伝えよ。準備はそのまま進めてよい。海も陸も、止めるな。ただし」

「ただし」

「具教卿の返しを見てからだ。向こうが右近を引かせ、工藤家へ顔を立てる形を急いで示すなら、まだ一段柔らかく取れる。逆に、火消しに失敗するか、意地を張るなら、その時はもう迷うな」

 

左近将監は深く頭を下げた。

 

「承知」

 

勘十郎兄上も言葉を継いだ。

 

「それと治部へ、こうも言え。“発動は近い”と俺も見る。だが、近いからこそ、最後の文を違えるな。討つための文ではなく、静謐を破った北畠側へ、理を問う文として整えろ」

「承知いたしました」

 

「海の方も」と上総介兄上。

「九鬼家筋へはなお慎重に。当たるのはよい。だが、味方面はまだするな」

 

「そこも違えませぬ」

 

左近将監が顔を上げた時、もう伝えるべきことは揃っていた。

 

上総介兄上は最後に、少しだけ楽しそうに言った。

 

「治部は、また面倒なところを上手く繋いだものだ」

 

勘十郎兄上が、すぐに返す。

 

「上手く繋いだ、では済みませぬ。次はきちんと締めてもらわねば」

「それもそうだ」

 

二人とも、軽く言っているようで中身は軽くない。

 

左近将監は再び頭を下げ、退出した。

障子が閉まったあと、部屋の中には短い沈黙が残る。

 

その沈黙を破ったのは勘十郎兄上だった。

 

「兄上」

「何だ」

「右近が一歩早めましたな」

 

上総介兄上は少しだけ笑う。

 

「若い者というのは、時にこちらの手を楽にもする」

「その分、荒くもします」

「だから治部が要るのだろう」

 

それで話は済んだ。

 

左近将監が治部家の詰所へ戻ったのは、夜の入口だった。

俺は文机の前で待っていた。あいつの顔を見た時点で、向こうの裁断がどう落ちたかはだいたい分かった。

 

「どうだった」

 

左近将監は、座る前に答えた。

 

「上総介様も勘十郎様も、同じにございます」

「何と」

「もう発動は近い、と」

 

その一言で、部屋の中の空気が静かに張った。

 

十兵衛が筆を置く。

半兵衛が帳面から目を上げる。

俺は、ようやく一度だけ息を吐いた。

 

近い。

だが、まだ命ではない。

その微妙なところまで含めて、兄上方の裁断はいつも正確だった。

 

「続けろ」と俺。

 

左近将監が、上総介兄上と勘十郎兄上の言葉を順に伝える。

 

具教の返答を最後に見ること。

右近を引かせ、工藤家へ顔を立てる形を示すなら、まだ一段柔らかく取れること。

逆に、火消しに失敗するか、意地を張るなら、その時はもう迷わぬこと。

そして、最後の文を違えぬこと。討つための文でなく、静謐を破った北畠側へ理を問う文として整えること。

 

全部、こちらが考えていた通りだった。

通りであることが、かえって重い。

 

「治部様」と半兵衛。

 

「何だ」

「では、いよいよですな」

「まだだ」

 

そう答えてから、自分で少し笑った。

 

「……いや、近い、か」

 

左近将監が動き、十兵衛が文を整え、半兵衛が荷と人数を噛み合わせる。その流れを見ながら、俺はふと、机の上へ落とした指先を止めた。

 

十兵衛が静かに言う。

 

「近いからこそ、文を違えぬように、でございますな」

「そうだ」

 

ただ正直、ここまで上手く運ぶとは、正直思っていなかった。

 

いや、上手く運んだ、という言い方も少し違うか。

俺が何か途方もない才覚を振るったわけじゃない。長野工藤家と北畠の遺恨、名家の面目、若い右近の血気、そういう、この時代とあの家がもともと抱えていたものへ、古今東西歴史の上にあった出来事の形をいくつか重ねただけだ。

 

伊勢の情勢は、見た目だけなら入り組んでいる。後世の歴史だけで知ったかぶりをするには、複雑怪奇な状況だといえる。

 

長野工藤家、北畠、長島、桑名、海、渡し、商人、名分。

 

だが、要のところは案外単純なのかもしれない。

 

名家は名家らしく振る舞おうとして、自分で重みを崩すことがある。

 

若く短慮な若殿は、父の沈黙を怯えと見て、威を正そうとして理を踏み外す。そういう、人が昔から繰り返してきた綻びの上に、今もまた盤が乗っているだけだ。

 

今回は、たまたま右近という歩く火薬庫がいて、そこへうまく手が掛かった。

そういうことなのだろう。

 

だからこそ、気を緩めるわけにはいかない。

まだ勝っていない。

向こうが理を渡しただけで、こちらがそれを拾ったにすぎない。

戦はこれからだし、具教卿ほどの相手が、このまま何も返さぬとも思えない。

 

勝ってもいないうちから、兜の緒を締めても仕方がない――いや、違うな。

こういう時こそ、締めるべきか。

 

俺は小さく息を吐いて、机の上の文へもう一度目を落とした。

上手く行っている時ほど、次の外し方は派手になる。

なら、浮かれず、一つずつ詰めるだけだ。

 

上手く行ってる時ほど、次のやらかしは大きい。

浮かれるな、俺。

まだ、何も終わっていない。

 

「左近将監」と俺。

 

「はっ」

「海はそのまま太らせろ。だが、なお兵は見せるな」

「承知」

「半兵衛、渡しの交替を見直せ。いざという時、すぐ陸へ繋がるように」

「承知しました」

「十兵衛、最後の文の下書きに入れ。まだ出さぬ。だが、出す時は一夜で足りるようにしておけ」

「はい」

 

それで、皆が動き始めた。

 

右近が踏み越えた一歩は、北畠側にとっては若気の暴発でも、こちらから見れば戦の口を開けるには十分な一歩だった。

その先をどう使うかは、こちらの整え方次第になる。

 

今はまだ縄の延長だ。

だが、もうその先に刃が見えている。

 

北伊勢は、次で本当に動く。

 

 

もう発動は近い。

そう言われれば、普通は腹が決まる。だが、こういう時ほど、逆に妙な引っかかりが残ることもある。

 

俺は机の上の文へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。

 

十兵衛は次の文の下書きに入っている。

半兵衛は兵糧と渡しの控えを見直している。

左近将監は、戻ってきたばかりなのに、もう知多へ返す言伝の順を頭の中で並べている顔だ。

 

皆、それぞれ前へ進んでいる。

進んでいるからこそ、俺だけ立ち止まっているようで、少し居心地が悪い。

 

「……なあ」

 

気づけば、そんな声が出ていた。

 

十兵衛も半兵衛も、同時に顔を上げる。

左近将監だけは、一拍遅れてこちらを見る。

 

「何でしょう」と十兵衛。

 

「いや」

 

そこまで言ってから、自分でも少し妙なことを口にしたと思った。

 

「いや、何というか……上手く行きすぎてないか、これ」

 

部屋が、一瞬だけ静まった。

 

十兵衛は何も言わない。

半兵衛は、先に口元だけで笑った。

 

「いきなりそこへ戻りますか」

「戻るだろ、普通」

「普通、ですか」

「右近が勝手に踏み越えてくれた。長野工藤家はさらにこっちへ寄る。北畠は火消しに回らざるを得ない。海の備えもまだ割れていない。兄上方からも“発動は近い”まで来た。何というか、都合がよすぎる」

 

半兵衛は、それを聞いても笑いを消さなかった。

 

「都合は良いでしょうな」

「おい」

「ですが、都合が良いからといって、すぐにこの状況すべてが罠とは限りませぬ」

「限らないのは分かる。分かるが、こう、もうちょっと引っかかれよ」

 

「引っかかってはおりますよ」と十兵衛が静かに言った。

「ただ、治部様ほど露骨に言わぬだけにございます」

 

「本当に?」

「はい」

 

十兵衛は筆を置いた。

 

「今の流れは、たしかにこちらへ寄っております。ですが、それは右近が理を踏み外したからであって、こちらが勝ったからではございませぬ。具教卿がどう火を消すかで、まだいくらでも形は変わります」

「だよな」

「はい。ですから、上手く行っておる、は間違いではございません。されど、“決まった”とは申しませぬ」

 

そこまで言われると、少しだけ胸が軽くなる。

軽くなるのも妙な話だが、誰かに「まだ決まっていない」と言われた方が、かえって落ち着く時もある。

 

半兵衛も続けた。

 

「それに、上手く行っている理由も、別に運だけではございません」

「そうか?」

「はい。長野工藤家へ先に縄を入れておいたからです。あれがなければ、右近が踏み越えても、ただの国境揉めで終わりました。今のように“織田の裁断を北畠側が破った”顔にはなりませぬ」

「……ああ」

 

そこは、たしかにそうだ。

 

「海も同じです」と半兵衛。

「今すぐ使えるかどうかは別にして、備えがあるから兄上方も“近い”と仰せになった。何もないところへ右近が転んできただけなら、ただ騒ぎが大きくなっただけです」

 

左近将監が、そこでようやく低く笑った。

 

「要するに、治部様は“たまたま右近が馬鹿をやっただけで、自分は何もしていないのでは”と思うておられるわけですな」

「そこまで露骨に言うな」

「されど、半分はそうでしょう」

「……半分はな」

 

認めるしかなかった。

 

俺の前世知識だの何だのと言っても、結局、人が勝手に転ぶ局面はある。

それに、俺はそこまで人の心を読んだとか、断じていえるほど賢くはない。

 

だからこそ、今の右近の暴発も、その部類に見える。それゆえにこそ、少し気味が悪い。

 

十兵衛が、そこで少しだけ表情を和らげた。

 

「治部様」

「何だ」

「上手く行っておりますよ」

「おう」

「ただし、“ここまでは”にございます」

 

それは、いかにも十兵衛らしい言い方だった。

 

半兵衛も頷く。

 

「ええ。ここまでは、です」

「その先は」

「その先で違えれば、きっちり崩れます」

「そこまではっきり言うのか」

「言いますとも」

 

左近将監が肩をすくめる。

 

「ですので、上手く行っておること自体は疑わず、次を違えぬことだけ考えればよろしいかと」

 

俺はそこで、ようやく少し笑った。

 

「お前ら、慰めているのか脅しているのか分からんな」

 

「両方でございます」と半兵衛。

 

「便利な答えだな」

「便利だから使います」

 

それには、さすがに十兵衛まで少しだけ笑った。

 

部屋の空気が、ほんの少しだけ緩む。

それで十分だった。

 

俺は息をついて、もう一度文へ目を戻す。

 

「分かった。上手く行ってる。だが、ここまで、だな」

 

「はい」と十兵衛。

 

「はい」と半兵衛。

 

左近将監は声に出さず、短く頷いた。

 

「なら、次を違えぬようにする」と俺は言った。

「半兵衛、渡しの交替を今一度詰めろ。緩みがあると全部崩れる」

 

「はい」

「十兵衛、最後の文の下書きは二通り用意しろ。具教卿が柔らかく来た時と、意地を張った時で分ける」

「承知しました」

 

それで皆がまた、それぞれの仕事へ戻る。

 

上手く行っている。

たぶん、それは本当だ。

だが本当だからこそ、気を抜くわけにはいかない。

 

俺は心の中で、もう一度だけ繰り返した。

 

浮かれるな。

まだ、ここまでだ。

 

 

翌日の昼過ぎ、具教卿からの返答が届いた。

 

早い。

早いが、だからといって誠実とも限らない。火が回った時ほど、名家の文はよく整う。整っているからこそ、中身の逃げ方もまた分かりやすい。

 

十兵衛が封を切り、ざっと目を走らせた時点で、もう顔が少しだけ細くなった。

 

「どうだ」

「柔らかうございます」

「ほう」

「柔らかいですが、逃げております」

 

そう言って文を渡してきた。

 

読む。

案の定だった。

 

右近の振る舞いは若年の軽率にて、具教卿としても深く遺憾とする。長野工藤家の面目を損ねたことは本意でなく、死傷人のことも痛ましく思う。以後このようなことなきよう厳しく申し付ける。ついては、双方ともなお静謐を重んじ、ことさらに事を大きくせず、境目の儀は落ち着いて評すべし――。

 

「綺麗だな」

 

「はい」と十兵衛。

「綺麗に、こちらが欲しいものだけ抜けております」

 

半兵衛が横から言う。

 

「右近を引かせる、とも書いておりませぬな」

 

「二度と踏み込ませぬ、ともない」と俺。

 

「ええ」

 

左近将監が、文机の脇へ膝を進めた。

 

「具教卿としては、火消しの顔は見せる。されど、首根を押さえられた形までは飲まぬ、にございます」

「当然か」

 

火を認める。

だが、責の置き場は若気へ散らす。

こちらが欲しいのはそこではない。こちらは“北畠側が工藤家領へ踏み込まぬ保証”を欲しているのだ。

 

十兵衛が静かに言う。

 

「これで、二通りの文のうち片方は要らなくなりました」

「柔らかい返しが来た時の方か」

「はい。具教卿は柔らかくは返しましたが、譲ってはおりませぬ」

「つまり」

「こちらも、もう一段上げてよろしいかと」

 

部屋がそこで少し静まった。

 

もう発動は近い。

そう言ってから一日。こちらはまだ縄の内で収まる余地も見ていた。だが、具教卿の返答は、その余地を自分で狭めた。火を認めながら、肝心の止めを言わぬ。ならば、“まだ待てば助かる”という望みを向こうが捨てていない証でもある。

 

半兵衛が帳面を閉じた。

 

「治部様」

「何だ」

「上手く行ってますよね、の答え合わせにございます」

「嫌な言い方だな」

「申し訳ございません」

 

口ではそう言うが、少し笑っている。

 

「答えは」と俺。

 

「はい。ここまでは、です」

「やっぱりそこへ戻るのか」

「戻りますとも。具教卿は状況を読める方です。読める方が、なおこの返しをよこした。なら、“一度火消しを打てば時間が買える”と思っておられるのでしょう」

 

左近将監も頷いた。

 

「長島も桑名も、まだ静か。長野もまだ割れたまま。海もまだ兵を見せておらぬ。具教卿からすれば、ここで文を整えれば、まだ半歩は稼げると見たのでしょうな」

 

「なら、その半歩を潰す」と俺。

 

「はい」と十兵衛。

「今度の文は、右近の件を若気で流させぬ形にいたします」

 

「どう締める」

 

十兵衛は、少し考えてから言った。

 

「北畠側若殿の越境と乱暴狼藉は、もはや長野工藤家の家中揉めではなく、伊勢静謐を破る行為である。ついては、長野工藤家保全のため、織田はさらに兵を進めうる――この線にございます」

 

「悪くない」

 

「悪くないでは困ります」と十兵衛。

「今回は、相手に“もう一段上がった”と分からせねばなりませぬので」

 

そこへ半兵衛がすぐ足した。

 

「兵を進める、と書くなら、渡しも海も同時に締まっていなければ虚勢になります」

「分かってる」

 

「知多は間に合います」と左近将監。

「少なくとも、荷が太っていることは向こうにも見えております。ここで文が一段強くなれば、“やはり海もある”と思わせるには十分です」

 

「十分でいい」と俺。

「全部を見せる必要はない。見せずとも、あると思わせればそれで足りる」

 

そう言ったところで、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。

さっきまでの“上手く行きすぎていないか”という引っかかりは、まだゼロではない。だが、具教卿の返答を見たことで、逆に盤の形ははっきりした。向こうはまだ待てると思っている。なら、その待ちを削るだけだ。

 

「左近将監」

「はっ」

「もう一度、兄上方へ報せる」

「はい」

「具教卿の返しは柔らかいが、実は譲っておらぬ。従って、作戦発動前の最後の一押しに入る、と伝えろ」

「承知」

「今回は、近い、ではなく」

 

そこで言葉を切った。

 

十兵衛も半兵衛も、左近将監も、黙ってこちらを見る。

 

「始める前の最後の曲がり角だ、と」

 

左近将監が、短く頭を下げた。

 

「そのように」

 

半兵衛が小さく息を吐く。

 

「では、本当に次でございますな」

「次だ」

 

今度は、はっきりそう言えた。

 

長野工藤家は、もう北畠へ戻り切れない。

具教卿は読めているが、なお半歩を稼ごうとする。

海はまだ隠れているが、気配だけで十分に利き始めた。

ならば次は、その全部を一段にまとめる番だ。

 

十兵衛が新しい紙を広げる。

半兵衛が兵と渡しの数字を繰り直す。

左近将監が立ち上がる。

 

俺はその様子を見ながら、ようやく腹の中で一つだけ言葉を定めた。

 

膠着は終わりだ。

次は、向こうに「まだ待てる」と思わせぬための一手になる。

 

 

 

 

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