織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
具教卿の返書を読んだあと、部屋の中で最初に動いたのは十兵衛だった。
迷いがない。
あいつは、話がまだ揺れている時ほど筆が遅い。逆に、もう相手がどこで逃げ、こちらがどこまで上げるか見えた時は早い。今の具教卿の文は、まさにそういう意味で分かりやすかった。
新しい紙が広げられる。
筆先がまだ紙へ落ちぬうちから、部屋の空気そのものが少し変わった。縄を締める文ではない。その次の文だ。そう皆が分かっている。
「治部様」と十兵衛。
「何だ」
「今度は、どこまで明言します」
俺は机の上の具教卿の返答をもう一度見た。
綺麗だ。
綺麗だが、責を若気へ散らし、止めるべきところを止めるとは書いていない。こちらが欲しいのは、右近をどう思うかではなく、工藤家領へ北畠側が二度と踏み越えぬ保証だった。そこを外した以上、向こうはまだ待てると思っている。
「二つだ」と俺は言った。
「ひとつ、右近の件はもはや若気では済まぬ。伊勢静謐を破った北畠側の越境として扱う」
十兵衛が頷く。
「はい」
「もうひとつ、長野工藤家保全のため、こちらはさらに強く出る、と示す」
「兵を進める、まで書きますか」
「書く」
部屋が少しだけ静かになる。
今までは、文で縛り、渡しで縛り、兵は見せてもまだ“その先”を曖昧にしていた。だが今回は違う。兵を進めうる、ではなく、進める用意あり、とまで出した方がいい。
半兵衛が、低く言った。
「その文を出すなら、渡しの押さえだけでは足りませぬな」
「分かってる」
「海も、陸も、もう半歩前へ出る必要があります」
「どこまでだ」
「見せすぎぬが、隠しきりもしないところまで」
それは言葉にすれば簡単だが、実際には一番難しい。
左近将監が、立ったまま言う。
「知多の方は、今夜のうちに文を飛ばせば間に合います。荷を太らせるだけでなく、舟の出入りが一段増えたと見えるところまでなら」
「兵は」
「まだ載せませぬ。されど、“載せようと思えばいつでも載る”形は取れます」
「よし」
俺は頷いた。
「北部伊勢は」
半兵衛が図を引き寄せる。
「渡河点の交替を増やします。表向きは見張りの厚み。ですが実際には、兵を寄せる前の足慣らしです」
「露骨か」
「露骨にはいたしませぬ。今まで一つ置いていたところへ二つ置く、夜の交替を一度増やす、その程度です」
「それでよい」
大軍が動く前に、先に地面を慣らす。
海なら荷を増やし、陸なら交替を増やす。小さな変化だが、小さいからこそ後から効く。
十兵衛が、筆先をようやく紙へ落とした。
「文の入りは」
「“具教卿の返答、遺憾の旨は承った”から始めろ」
「はい」
「その上で、だが右近の越境と乱暴狼藉は、若年の軽率で済ますべきでない、と切れ」
「“工藤家領へ兵を率いて踏み入り、家臣を害し、蔵馬に手をかけしこと、もはや家中の不和の限りにあらず”――このあたりに」
「悪くない」
十兵衛はそのまま続ける。
「“右、北畠側より静謐を破り候上は、織田として長野工藤家保全のため、さらに兵を進め、渡し・往来・境目を一段厳しく押さうる用意これあり”」
「そこだ」
それでいい。
“討つ”とまでは書かない。
だが、“さらに兵を進める”と出れば、向こうはもう、こちらが次の段へ上がったと分かる。しかも名目は一貫している。工藤家保全と伊勢静謐。その理はまだこちらにある。
左近将監が、そこで低く笑った。
「具教卿は嫌がりましょうな」
「嫌がってもらわねば困る」
「火消しの文で半歩稼いだつもりが、こちらは一段上がっていた、にございますから」
「そうだ」
具教卿は読める。
だからこそ、今の返答も半歩を稼ぐためのものだった。なら、その半歩を潰しに行く。読む者同士なら、ここから先はもう綺麗事で終わらない。
半兵衛が帳面を閉じた。
「治部様」
「何だ」
「兵の顔は、まだ本家を前へ立てますか」
「当然だ」
そこは即答した。
「治部家だけが妙に前へ出るな。今の理は“織田の裁断を北畠側が破った”ところにある。なら、織田全体が出る顔を崩すな」
「承知しました」
「ただし」
俺は少しだけ間を置いた。
「実際に動く先手は治部家でいい。本家の名で場を立て、治部家の手で綻びへ入る」
十兵衛が、その言い方には小さく頷いた。
「いつもの形にございますな」
「いつもの形だ」
上総介兄上が大きく場を立てる。
勘十郎兄上が評定と使者の筋を通す。
その下で、治部家が相手の内へ手を入れる。今の北伊勢も、それでよい。
「左近将監」
「はっ」
「お前はこの文を持て。兄上方への報せではない。今度は具教卿へ直接届く方だ」
「わたくしが」
「お前の顔で持って行く方が重い。伊勢のことは伊勢を知る者が運んだ方が効く」
「承知」
「ただし、具教卿の前で言葉を足すな。今回は文が先だ」
「はい」
そこまで言うと、部屋の中の仕事がいっせいに流れ始めた。
十兵衛は清書へ。
半兵衛は渡し交替と小勢配置の見直しへ。
左近将監は知多へ返す文と、具教卿へ持つ文の段取りへ。
誰も慌ててはいない。だが、皆、もう次の段へ足を掛けている。
俺だけが少し遅れて立ち上がった。
「治部様」と半兵衛。
「何だ」
「昨日の“上手く行ってるよね?”の答え、更新されました」
「何だそれは」
「上手く行っております」
「ここまでは、だろ」
半兵衛は珍しく、すぐには頷かなかった。
「ええ。ですが今日は、“ここから先へ行く理も立った”が加わります」
それには、少しだけ笑った。
「余計に怖いな」
「怖い時ほど、よく進んでおります」
「便利な理屈だ」
「便利ですから」
十兵衛が紙から目を上げずに口を挟む。
「治部様」
「何だ」
「その便利な理屈、あとでまた疑い始めるのでしょうが、今は使ってくださいませ」
「お前まで言うのか」
「はい。今は、使う段ですので」
左近将監まで、口元だけで笑った。
三人にそう言われると、さすがに否定もしづらい。
俺は小さく息を吐き、もう一度だけ机の上の文を見た。
右近が踏み越えた。
具教卿は火消しに回った。
そして今、こちらはその火消しの隙間へ一段深く刃を――いや、まだ刃ではない。
刃の手前の、重い圧を差し込もうとしている。
「よし」と俺は言った。
「出せ。向こうに“まだ待てる”と思わせるな」
その一言で、皆が動く。
膠着は、ここで本当に終わる。
次はもう、向こうにもこちらにも、同じ場所へ戻る道はない。
♢
具教卿の前へ、その文が置かれた時、部屋の空気は前よりも重かった。
前の返しでは、まだこちらが半歩引いているように見せられた。
若い右近の軽率を遺憾とし、工藤家の面目にも言葉だけは触れ、事を荒立てずに済ませようとする。名家の文としては整っていたし、乱れた局面を一度撫でるだけなら、それでも足りたかもしれない。
だが、今度の尾張の文は違った。
具教卿は一通り読み終えても、すぐには口を開かなかった。
指先で紙の端を押さえたまま、しばらくそのまま黙っている。
座の下には、家政を預かる老臣、南の城持ち、長野工藤家へ顔の利く者、それに右近が呼ばれていた。
いや、呼ばれたというより、呼び出されたという空気の方が近い。
右近は前回よりも口数が少なかった。
若さゆえの熱はまだ消えていない。だが、父に止められた上で動き、その結果としてこうして尾張から文が返ってきた以上、まったく同じ顔では座れぬのだろう。もっとも、その重い体を座へ沈めたままなお、己が間違ったとは思っていない気配だけは、嫌になるほど残っていた。
「読んだか」
具教卿の声は低い。
「は」
右近は短く頭を下げる。
「何とある」
そこを自分の口で言わせるのか、と座の空気がわずかに張る。
だが、具教卿は視線を動かさない。
右近は一瞬だけ間を置いてから答えた。
「……右近の越境と乱暴狼藉は、もはや若年の軽率で済ますべきでなく、北畠側より静謐を破りたる行いに候、と」
具教卿は何も言わない。
右近は続けざるを得なかった。
「また、長野工藤家保全のため、織田はさらに兵を進め、渡し・往来・境目を一段厳しく押さうる用意これあり、と」
最後のところは、少しだけ声が鈍った。
具教卿は、そこでようやく目を上げた。
「聞いたな」
老臣たちが一斉に頭を下げる。
「尾張は、もう一段上がりました」
家政を預かる老臣が低く言った。
「前は縄でした。今度は、その先の圧にございます」
「そうだ」と具教卿。
「しかも理は向こうにある」
その一言は、座の者にとって重かった。
長野工藤家を縛る。
渡しと往来を守る。
私闘を止める。
そこまでは、まだ“入り込んできた尾張者どもの理屈”として嫌っていられた。
だが右近が長野家領へ踏み込み、家臣に死傷を出した以上、その理屈へこちらが自分で薪をくべたことになる。
右近が言った。
「父上。されど、あれは」
「黙れ」
短いが、今度は前回より冷たかった。
右近は唇を結ぶ。
そこへさらに言葉を重ねれば、父の前で己の未熟をなぞるだけだと、さすがに分かったのだろう。
具教卿はそのまま、文を机へ置いた。
「尾張は、“討つ”とはまだ書いておらぬ」
誰も口を挟まない。
「だが、“兵を進める用意あり”と来た。これでなお、前の返しと同じ顔を続ければ、向こうはそのまま一段踏み込む」
老臣の一人が慎重に言う。
「では、右近様を引かせ、工藤家へ明白に顔を立てる形を」
「それは要る」
具教卿は即答した。
「だが、それだけで足りると思うな」
そこが、具教卿の具教卿たるところだった。
若い右近の失策を叱るだけでは済まない。
長野工藤家の古い者どもは、もう“次郎を立てて少し顔を戻す”程度では足りぬところまで傷んでいる。
海もまた、まだ兵は見えぬが、荷と舟が着実に増えている。
そして尾張は、それらを別々でなく一つの形として押し出し始めた。
「工藤家へは」と具教卿。
「次郎の名を、今までより前へ出せ」
右近の肩が、わずかに動いた。
「右近」
具教卿は視線だけで息子を押さえる。
「お前はしばらく引け」
その場の誰もが、息を潜めた。
押し込める、とまでは言わぬ。
だが「引け」と言われた時点で、少なくとも今の局面から右近は外される。それは若殿にとって小さくない屈辱だった。
「父上」
「黙れ」
今度は顔も上がらなかった。
「お前が前へ出るほど、工藤の古い者どもは尾張へ寄る。今はそれを止める方が先だ」
右近は何も言えない。
言えないが、納得していないことは分かる。あの重い体の内に、まだ熱だけがぐつぐつ残っている。
具教卿は、ほかの者へ向き直った。
「長野へは、右近の件を深く詫びよ。死傷人へは然るべき手当てを出せ。次郎の名の下で、工藤家の面目を戻す形を急げ」
「は」
「渡しと往来に手を出すな。こちらから先に乱す顔を二度と見せるな」
「は」
「そして」
そこで具教卿は少しだけ間を置いた。
「海を見よ」
その一言で、若い者が頭を上げる。
「知多、津島、伊勢湾口。どこまでが商いで、どこからが兵站か、見誤るな。だが、こちらから騒ぐな。騒げば、尾張の文がさらに正しく見える」
「承知いたしました」
右近はなお黙っていた。
だが、その黙り方は従った者のそれではない。いったん引かされた火が、消えずに奥へ潜っただけの黙り方だ。
具教卿もそれは分かっているのだろう。
それでも今ここで息子の火まで相手に見せるわけにはいかない。だから、家中の前ではあくまで国司として裁く。父としての苛立ちは、その下へ沈める。
「尾張は待たせぬつもりだ」と具教卿は言った。
「ならばこちらも、“待てば助かる”と思うておってはならぬ」
その言葉は、座の者全員へ向けられていた。
前の段までは、まだ火消しで半歩稼げると思えた。
だが今は違う。尾張は、右近の暴発を“若殿の行き過ぎ”でなく“北畠側の越境”として掴み直した。しかも同時に、海の気配まで背後へ置いている。
これでなお同じ歩幅で構えていれば、本当に半歩遅れる。
老臣が低く問う。
「では、和を探りますか」
具教卿は、すぐには答えなかった。
「探る」
ようやく出た言葉は短い。
「だが、縋るな」
その一言で、部屋の空気がまた変わる。
和を探る。
だが助命や猶予を乞う顔はしない。
名家として残るなら、まだその姿勢は崩さぬ。崩さぬまま、どこまで退けるかを測る。具教卿はそう言っている。
右近だけが、その理にまだ熱を飲み込めずにいるようだった。
評定が終わりに近づいた頃、具教卿は最後に息子を見た。
「右近」
「は」
「お前は、しばらく館を出るな」
右近の顔がわずかに歪む。
だが、それでも反駁はしなかった。今この場で逆らえば、もはや若殿の面目では済まぬと分かったのだろう。
「承知いたしました」
今度の承知は、前回よりは本当だった。
本当だが、内側で何かが静まったわけではない。火が外へ噴かぬよう、蓋をされたにすぎない。
皆が引いたあと、具教卿は一人、文を見下ろしたまま動かなかった。
尾張はもう、次の段へ足を掛けている。
長野工藤家は戻り切らず、海はまだ見えぬまま太る。
この局面で欲しいのは、もはや若い者の威ではない。
時をどう削られずに済ませるか、その一点だった。
だが、その一点こそ、若い右近には最も耐え難いものなのだろう。
外では風が立っていた。
館の障子をわずかに鳴らすだけの、強くもない風だ。だが、こういう風ほど、あとで大きい天気の前触れであることが多い。具教卿の目がその音へ向いたのは、ほんの一瞬だけだった。
♢
具教卿の返しが、今度は前よりも重く尾張へ戻ってきた。
右近を引かせる。
次郎様の名を前へ出す。
長野工藤家の面目を戻す形を急ぐ。
海は見張るが、こちらから騒ぎはしない。
文面だけ見れば、前の返しよりはよほど譲っている。
だが、その譲り方がそのまま北畠の苦しさでもあった。もう“若気の至り”だけで撫でて済ませる段ではない。具教卿自身が、そこを飲まざるを得なくなったのだ。
左近将監がその報せを持ち帰った時、俺はまず十兵衛と半兵衛の顔を見た。
十兵衛は、文を受け取る前から少しだけ目を細めていた。
半兵衛は、帳面を閉じる指が一拍だけ遅れた。
「どうだ」と俺。
十兵衛が読んで、すぐに答える。
「前よりは下がりました」
「だろうな」
「ですが、折れてはおりませぬ」
半兵衛も頷く。
「はい。右近を引かせ、次郎様を立て、工藤家の面目を戻す。そこまでは呑んだ。ですが、それは“ここでまだ止められるなら止めたい”という顔でもあります」
左近将監が、座へ膝を進めた。
「具教卿としては、ここで一度、尾張へ渡した理を回収したいのでしょうな。右近を引かせることで“北畠も工藤家を立てる気はある”と見せたい」
「長野の内は」と俺。
「それでも簡単には戻りませぬ」
左近将監は即答した。
「旧臣は、“やっとか”と思うでしょう。慎重派は、“これで少しは落ち着くか”と見る。されど、右近が一度踏み込んだ事実は消えませぬ」
「後見役は」
「苦しゅうございますな。今さら次郎様を立てる顔をしても、“最初からそうしておればよかったではないか”になります」
そこまで聞けば、盤の形は見える。
北畠は一歩引いた。
だが、その一歩は退却ではない。
むしろ、今ここでこちらが雑に踏み込めば、“ほら見ろ、尾張は最初からここまで来る気だった”と向こうへ言わせる余地にもなる。
俺は文を机へ置いた。
「……さて」
十兵衛も半兵衛も、黙ってこちらを見る。
少し前なら、ここで迷わず“よし、次だ”と言えたかもしれない。だが、具教卿が右近を引かせたことで、向こうは最低限の読みを見せた。ならばこちらも、勢いだけで次へ行けば雑になる。
「治部様」と半兵衛。
「何だ」
「上手く行ってますよね、の答え、また変わりましたか」
「お前、それ気に入ってるだろ」
「ええ、少し」
「嫌なやつだな」
そう返してから、俺は少しだけ息を吐いた。
「変わったな」
「どう変わりました」
「ここで具教卿が意地を張り続ければ、こっちはそのまま一段上げられた。だが、右近を引かせて次郎様を前へ出した以上、向こうはまだ“名家として収める”顔を捨てていない」
十兵衛が、静かに後を継ぐ。
「つまり、こちらも“討つために待っていた”顔は出来なくなったわけですな」
「そうだ」
左近将監が低く言う。
「ですが、弱くなったわけではございませぬぞ」
「分かってる」
「むしろ、長野工藤家の内ではなお効きます。北畠がここまで顔を変えたのは、尾張が縄を入れたからだ、と見ますので」
「ええ」と半兵衛。
「長野の者どもにしてみれば、“工藤家の面目を戻させたのは北畠ではなく織田の圧”に見えるはずです」
それは大きい。
工藤家の古い者どもが欲しかったのは、ただ詫びの文ではない。
工藤家を工藤家として扱え、ということだ。そこをようやく北畠が言い出した時点で、逆に“言わせたのは尾張だ”になる。長野工藤家は、もう以前の位置には戻らない。
「なら、次は」と十兵衛。
「一段上げぬ」
三人が少しだけ目を動かした。
「上げぬ、でございますか」
「今はな」
俺は答えた。
「具教卿が自分から右近を引かせた以上、ここでさらに兵を前へ出せば、向こうに“やはり尾張は止まる気がない”と返す理を渡す。今は押した分だけ向こうが自分で形を崩してくれる方がいい」
半兵衛が考える顔になる。
「つまり、ここで一度、圧を見せたまま止める」
「そうだ。海は太らせ続ける。渡しも緩めない。長野工藤家への縄もそのままだ。だが、具教卿が返したばかりのこの段では、こちらはまだ“伊勢静謐を保つ側”に居続ける」
左近将監が口元を少しだけ歪めた。
「嫌らしい」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めております」
十兵衛がそこで、新しい紙を引き寄せた。
「では、具教卿へは何を返します」
「短くていい」
「右近を引かせ、次郎様を立てる儀、承った、と」
「そうだ。加えて、長野工藤家の面目を損なわぬ形が保たれるか、引き続き見る、と入れろ」
「“見る”でございますか」
「見る。だが、向こうは読める」
「つまり“見ているぞ”と」
「そういうことだ」
それならちょうどいい。
向こうは、こちらがまだ海を隠していることも、長野工藤家を完全には手中にしていないことも分かっている。こちらもまた、具教卿が右近を引かせて時間を作ろうとしているのを分かっている。読める相手同士なら、いま必要なのは大声でなく、相手が勝手に考え始めるだけの静かな圧だ。
半兵衛が帳面を開き直す。
「海はどうします」
「そのまま進めろ」
「段は上げず」
「上げず。だが止めるな」
「承知しました」
「左近将監」
「はっ」
「九鬼家筋への口はなお保て。だが、ここで急に色を濃くするな。具教卿は今、海にも神経を使っている」
「分かっております。むしろ、今は知多の荷を太らせる方を前へ出します」
「それでいい」
部屋の中の空気が、少しだけ落ち着いてきた。
戦端が遠のいたわけではない。むしろ近い。だが、近いからといって一足飛びに行く段ではなくなった。
「治部様」と十兵衛。
「何だ」
「では次は、長野工藤家の内をもう一段こちらへ寄せる方が先にございますな」
「そうなる」
「次郎様を立てると具教卿が自ら言った以上、後見役の顔はさらに苦しくなります。旧臣と慎重派は、そこでまた割れるでしょう」
「割らせる」
「はい」
左近将監も続ける。
「長野の者どもにしてみれば、“北畠に工藤家の顔を戻させたのは尾張の縄”ですからな。ここで押しすぎず、見ているだけでも効きます」
「そうだ」
右近の暴発で一段進んだ。
具教卿の火消しで、もう一段形が変わった。
ならば次は、その変わった形をこちらへ寄せる番だ。
俺は、具教卿からの返書をもう一度見た。
遅い。
だが、遅いだけで愚かではない。そこが具教卿の厄介なところだった。右近をそのまま泳がせ続けるほど浅くはない。だからこそ、ここから先はこちらも、相手が賢い前提で詰めるしかない。
「よし」と俺は言った。
「今はまだ“最後の曲がり角”のままだ。向こうが右近を引かせたなら、こちらはその分だけ長野を寄せる。海も陸も、その間は太らせるだけ太らせろ。だが、まだ刃は抜くな」
半兵衛が小さく笑う。
「結局、また慎重に戻るのですね」
「慎重じゃない。今はそれが一番よく刺さるだけだ」
「便利な言い方です」
「お前が言うな」
それで、皆がまた仕事へ戻る。
右近の火は、具教卿がいったん蓋をした。
だが、一度噴いた火が消えたわけではない。長野工藤家の古い者どもも、次郎様も、後見役も、皆その熱を覚えてしまった。
ここから先は、向こうが右近を引かせたこと自体が、こちらの手になる。
戦はまだ始まっていない。
だが、盤はもう、戦がなくてもじわじわ動くところまで来ていた。
♢
館の廊は、広いわりに声が残る。
人が正面きって話す場所ではない。
だからこそ、半端な噂や、言い切るには軽すぎる見立てほど、軽々しい話題が陰湿に飛び交う。障子の向こうで交わされた一言、曲がり角で小さく漏れたため息、誰かが誰かへ「いや、まだ確かではないが」と前置きして落とした話。それが、妙に耳へ残る。
右近がその話を拾ったのは、夕刻の少し前だった。
評定を外され、館を出るなとまで言い渡された後のことだ。
一度ならまだしも、父の前で引けと言われ、しかも次郎を立てて工藤家の顔を戻すなどとまで聞かされた。右近の腹の内は、静まるどころか煮詰まっていた。若い怒りというものは、叱られて収まる時もあるが、引かされた屈辱と結びつくと、かえって粘つく。
だから、その時も右近は、ただ廊を歩いていただけではない。
何か、自分を正当化できる種を探していたのかもしれない。
曲がり角の向こう、半ば閉めた障子の内で、老臣と小者が低い声で話していた。
「……次郎様も気の毒なことよ」
「しっ。声が高い」
「いや、しかしな。工藤の古い者どもが、あの御方を本当に若殿として立てておるのかどうか……」
「尾張が縄を入れておる今、前へ出しようもあるまい」
「それでも押し込め同然ではないか」
そこで右近の足が止まった。
押し込め。
その言葉だけが、妙にはっきり残った。
「北畠の御血を引く御方を、工藤の家であのように扱わせておいてよいものか」
「黙れ。誰に聞かれる」
「だが、次郎様は今や工藤家の当主ぞ。そこへ古い者どもが好き放題にしておるなら――」
右近は、そこで踵を返した。
聞こえたのは断片だ。
押し込め、同然かもしれぬ。
好き放題、しておるなら。
どれも、言い切った話ではない。噂の域を出ぬ。
だが、煮えている時の人間は、噂を噂のままには置かない。自分が一番怖れている形へ、勝手に整えてしまう。
次郎が工藤家で押し込めに遭っている。
父はそれを知っていて、なお“次郎を立てる”と言った。
ではそれは、工藤家の顔を戻すためではなく、北畠の名と弟を工藤家へ預けたまま、自分だけを退けるつもりなのではないか。
そこまで行くと、もう噂ではなく確信に近い顔をして、右近の腹へ沈んだ。
部屋へ戻った右近は、しばらく座っていた。
座ってはいたが、落ち着いてはいない。膝の上に置いた手が、何度か握られては開き、衣の裾がわずかに鳴る。重い体を持て余すような動きだった。
父は、自分を引かせた。
館を出るなとも言った。
次郎を前へ出し、工藤家の面目を戻すとまで言った。
そこまでは言葉だ。
だが、その言葉の先にあるものは何だ。
右近が思い返したのは、幼い頃から聞かされてきた話だった。
北畠は伊勢国司なり。
諸家の上に立つ家なり。
軽々しく威を損ねてはならぬ。
そう言ってきたのは父だ。
それなのに今は、工藤家が揺れ、尾張が入り、海まで怪しい。
しかも、北畠の血を引く次郎が工藤家の内で押し込め同然だという。
それを知ってなお動かぬなら、父は何を守っているのか。いや、何を捨てようとしているのか。
「まさか……」
その独り言は、部屋の中でやけに低く響いた。
まさか父は、次郎を生かし、工藤家へ残し、その代わり自分を外すつもりではないか。
一度失策した右近より、まだ幼く、どうとでも形を付けられる次郎の方が使いやすいと見たのではないか。
廃嫡――とまでは口にせずとも、それに近い線をもう考えているのではないか。
そこまで考えた時、右近の中で何かが音もなくひっくり返った。
恐れは、若い男の中で長くは恐れのまま残らない。
すぐに怒りへ化ける。
怒りは、正義の顔をし始める。
自分が行かねばならぬ。
次郎を救わねばならぬ。
工藤家の古い者どもへ、北畠の威を見せねばならぬ。
父が動かぬなら、自分が動くしかない。
そう思い込んだ時点で、右近にとってそれはもう“暴発”ではなかった。
遅れた父に代わり、自分が正すべきことだった。
「おい」
呼ばれた近習が、すぐに入ってくる。
「はっ」
「支度をせよ」
近習は一瞬だけ顔を上げた。
前回の件がある。ここで若殿が“支度をせよ”と言った意味を、読み違えるほど鈍くはない。
「……どちらへ」
「長野だ」
それでも、近習はその場で即座には動かなかった。
ためらいがある。前回の後だけに当然だ。だが、そのためらいを見たこと自体が、右近にはまた癪だった。
「聞こえなかったか」
「いえ。ですが、殿には、しばらく館を出るなとの――」
「次郎が工藤家で押し込められておるかもしれぬ」
その一言で、近習の顔色が変わった。
「は」
「尾張者が縄を入れたのをよいことに、工藤の古い者どもが好きにしておるのだとしたら、見過ごせるか。次郎は北畠の血ぞ」
そこまで言われれば、近習も強くは返せない。若殿の暴走を止めるには、あまりにも言葉の見目が良すぎた。
右近はさらに続けた。
「ただの供回りでは軽い。槍だけでなく、鉄砲も持たせよ」
「鉄砲を」
「数は要らぬ。五、六挺でよい」
近習は思わず聞き返した。
「それは……戦をなさるおつもりにございますか」
右近は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「戦ではない。だが、必要なら撃てると見せねば、工藤の者どもは足を止めぬ」
その理屈もまた、右近の中では通っていた。
合戦を始めるつもりではない。
次郎を救い、工藤家へ北畠の威を見せるだけだ。
ただ乗り込むだけでは、前と同じ若殿の癇癪に見られる。
ならば、今度は少し違う顔が要る。槍に加え、鉄砲も持たせる。撃つためではない。撃てると思わせるためだ――。
右近自身は、そう考えていた。
だが、傍で聞いている者からすれば、それはもう十分に危うい。
近習がなお口を開きかけた時、別の若侍が右近の気色を見て、先に膝を進めた。
「承知いたしました」
その一言が、悪かった。
ひとりが承知すれば、残りも流される。
しかも周囲は、具教卿が右近を引かせたことで、もうしばらくは大人しくしているだろうと油断していた。見張れとは命じられていても、館の内の近臣たちは「さすがに一度ここまで叱られれば懲りたろう」と半ば勝手に思い込んでいた。
火種を知っていたのは具教卿だけだった。
だが、火種を知ることと、寝ずに見張り続けることは違う。組織の綻びは、たいていそこで生まれる。
右近は立ち上がった。
重い体が衣を鳴らす。
その動きは鈍い。だが本人は、その重々しさこそ若殿の威だと思っている節がある。そこがまた危うい。
「よいか」
右近は近習たちを見回した。
「次郎を辱めさせるな。工藤の者どもへ、北畠の威を分からせる。父上が遅いなら、我らが正す」
その言葉に、若い者どもは一応の勢いを得た。
若殿が弟を救う。北畠の威を立てる。言葉だけ聞けば、ずいぶん立派に見える。だから怖い。
館の外へ出る頃には、槍と太刀に加え、鉄砲が五挺、布に包まれて用意されていた。
多くはない。
だが、少ないからこそ「本気の合戦ではない」と思い込みやすい。
そして、そういう時の数丁がいちばん危ない。
右近は馬へ乗る前に、それを一度だけ見た。
鉄砲まで持たせる。
そこまでしてでも、自分が行かねばならぬ。
その考えは、もう疑いようもなく自分の中で正義になっていた。
館の奥ではまだ誰も、大きくは気づいていない。
具教卿が恐れていた二度目の火は、近臣たちの「もう懲りただろう」という緩みの隙を抜けて、静かに形を持ち始めていた。
♢
上総介兄上
勘十郎兄上
恐れながら、北伊勢の儀につき、急ぎ申し上げ候。
一、右近殿、再び長野家領へ踏み入り、近習・若侍を率いて乱暴狼藉に及び候。
しかも今度は鉄砲数挺まで携え候由、もはや若気の至り、あるいは家中の行き過ぎとしては済まず、北畠側より静謐を踏み破り候ものと存じ候。
一、これにより、長野工藤家中の反北畠は決定的となり候。
具教卿、先には右近殿を引かせ、次郎様を立て、工藤家の面目を戻す形を示し候えども、かかる再越境にて、その返しも実を伴わぬものとなり申候。
長野工藤家保全の名目、今や十分に立ち候。
一、かねて申し上げ候海陸の備えも、ここに噛み合い申候。
北部伊勢における渡河点・往来の押さえ、長野工藤家への縄、知多の荷の増勢、伊勢湾口への目配り、いずれも発動に堪え候。
よって、北畠方へさらに兵を進め、伊勢静謐を乱す根を断つべき時節、到来仕り候と存じ候。
一、もっとも、此度の軍は、ただ北畠を打ち潰すためのものにてはござらず候。
右近殿の再暴発により、北畠家中の統御が揺らぎ候こと明らかとなり申候えば、ここに一段強く出て、具教卿へ従属的同盟の形を呑ませ、名家の体裁を残したまま縛る方が、後日の伊勢支配・海路・長島桑名への波及を考え候ても得策に候と存じ候。
なお、若さゆえの過ちは恐ろしきものにて候。
私にいずれ子が授かり候はば、右近殿の例を引き、家とは何か、武士とは何かを、よくよく叩き込みたく存じ候。
委細は左近将監に口上申し含め候。
何卒、御裁可下され候はば幸甚に候。
治部大輔信繁
♢
左近将監がその書状を懐へ入れた時、部屋の空気はもう迷いの段を越えていた。
文は整った。
理も立った。
海も陸も、すぐにでも動かせるところまで来ている。
あとは本家の裁断が落ちるかどうか、その一点だけだ。
「左近将監」
「はっ」
「今度は急げ。だが、急いでいる顔は見せるな」
「承知」
「兄上方には、文の通りでいい。余計な飾りは要らん。ただ――」
そこで一度だけ言葉を切った。
「右近の二度目は、若さでは済まぬと、そこだけは口でも押してくれ」
左近将監は短く頷いた。
「心得ております」
「兄上方も分かってはおられましょうが、書状だけでは“また若殿がやらかした”で流したくなる者も出ます」
「今度は鉄砲まで持ち出しておりますからな」
「そうだ。あれで“若気”と流せば、こちらが軽くなる」
左近将監は深く頭を下げ、そのまま出ていった。
障子が閉まると、部屋には十兵衛と半兵衛、それに俺だけが残る。
さっきまでの張りはまだある。だが、それでもどこか、もう人事ではなくなった後の静けさに変わっていた。
「治部様」と十兵衛。
「何だ」
「兄上方から裁可が下りた時、最初にどこを動かします」
「渡しと街道だ」
即答した。
「長野工藤家の側へ寄せる兵を一段増やす。名目はあくまで工藤家保全。北畠の再越境阻止だ」
半兵衛が頷く。
「海は」
「海はまだ“太った荷”の顔を崩すな」
「兵を載せるのは」
「本家の裁可が落ちてからだ。だが、載せ替えは一夜で済むようにしておけ」
「承知しました」
半兵衛はそう言いながら、すでに頭の中で日数を割っている顔だった。
米、塩、干魚、干し椎茸、替えの弦、火縄、鉛、硝石。あいつの頭の中では、たぶんもう全部が一つの流れとして並んでいる。
十兵衛が、新しい紙を引き寄せた。
「裁可が下りた後の文も、二つ要りますな」
「二つ?」
「長野工藤家へと、北畠へ。長野には“織田がさらに保全のため動く”顔、北畠には“再越境の責を問う”顔」
「そうだな」
「同時に出しますか」
「同時だ」
そこは迷わない。
片方だけ早ければ、向こうに余計な勘繰りをさせる。長野工藤家へだけ先に出せば、“尾張は工藤家を抱え込んだ”と見える。北畠へだけ先に出せば、“討つ気でいる”とだけ見える。だから、今度は同時に打つ。
「治部様」と半兵衛がまた言った。
「何だ」
「上手く行ってますよね、の答え、最後にもう一度聞きますか」
思わず笑った。
「お前、よほど気に入ったな」
「ええ、少し」
「なら答えてやる。上手く行ってる」
「はい」
「ただし」
「はい」
「ここを外したら、今までの全部が台無しになる」
十兵衛が紙から目を上げずに言う。
「それでこそ、でございます」
「嫌なやつだなお前らは」
「治部様がそう育てたのでしょう」と半兵衛。
「覚えがない」
「ございますとも」
そんなやり取りをしているうちに、少しだけ肩の力が抜けた。
抜けたからといって、緩むわけではない。
むしろこういう時の方が、手を違えぬように意識が細くなる。右近の二度目の暴発は、こちらに理を渡した。だが、理が立った時ほど、振り回した側が負けることもある。そこを違えてはならない。
夜に入る前、左近将監から最初の戻りがあった。
早い。
まだ稲葉山へ着いたはずもない。だが、道中から継ぎを飛ばしたのだろう。
十兵衛が文を受け取って開く。
「何と」
「今夜中に目通り叶う由」
「早いな」
「ええ」
さすがにそこは、本家もただ事ではないと見ているということだ。
「もう一つございます」と十兵衛。
「上総介様より、“治部、浮かれるなよ”と」
思わず鼻で笑った。
「文でもなく先にそれだけ飛ばしてきたのか」
「左様にございます」
半兵衛まで少し口元を緩めた。
「見透かされておりますな」
「浮かれてない」
「でしょうか」
「……少しは安心しただけだ」
「同じようなものです」と十兵衛。
「だから嫌なやつなんだお前は」
その言い合いは、そこまでだった。
外が暗くなるにつれ、部屋の中の灯が少しずつ重くなる。
昼の理屈は、夜になると妙に生々しくなる。今この時も、長野工藤家では次郎様の周りがどう固まるか見られているだろうし、北畠の館では具教卿が息子を引かせた上で、それでも次をどう返すか考えているはずだ。知多の方では左近将監の手が、荷と舟の顔を崩さぬように静かに動いている。
全部が、まだ繋がったばかりだ。
だからこそ、次の一声で本当に戦へ入る。
夜半近くになって、左近将監本人が戻った。
「早かったな」
「今夜のうちに、お目通り叶いました」
「で」
左近将監は部屋へ入り、深く頭を下げた。
「上総介様、勘十郎様、どちらも御裁可にございます」
部屋の空気が、そこで完全に変わった。
「何と仰せだ」
「右近の二度目は、もはや北畠家中の失態にて、織田の裁断を二度破るもの。長野工藤家保全、伊勢静謐維持の名において、兵を進めること相応と」
「海は」
「太らせた備えを、そのまま使え、と」
「北部伊勢は」
「いちいち噛むな、でございます。渡河点と街道を押さえ、南へ届く道を開け、と」
十兵衛も半兵衛も、何も言わない。
それでいて、もうそれぞれが次へ入っている顔だった。
左近将監が続ける。
「なお、勘十郎様より。“具教がまだ理を読む男であることは忘れるな。討つために押すのでなく、折るために押せ”とのことにございます」
「……らしいな」
「上総介様からは、“治部の書付の末尾は面白かったが、今は子のことを考えるより先に勝て”と」
それには、さすがに笑った。
「余計なお世話だ」
「まことに」
左近将監も、そこでだけ少し笑った。
だが、それで終わりだ。
裁可は下りた。
もう、近いではない。
始める段だ。
俺は立ち上がった。
「十兵衛」
「はい」
「長野と北畠への文を仕上げろ。今夜のうちに出す」
「承知しました」
「半兵衛」
「はい」
「渡しの交替を増やせ。寄せる兵の飯と火薬も詰めろ。明日からは“備え”でなく“動き”だ」
「承知しました」
「左近将監」
「はっ」
「知多へ返せ。荷の顔は崩すな。だが、明日からは人も通す」
「承知」
そこまで言ってから、一度だけ皆の顔を見た。
上手く行っている。
その言葉を、今だけは疑わずに使ってよかった。疑っている暇があるなら、もう手を動かす段だからだ。
「行くぞ」と俺は言った。
誰も声を上げない。
ただ短く頷く。
その静けさが、かえってよかった。
ようやく、北伊勢は本当に動き始める。
♢
夜のうちに、文は三方へ走った。
長野工藤家へ。
北畠具教卿へ。
そして知多と渡しの持ち場へ。
同じ夜に出したのは、意味がある。どこか一つだけ先に動けば、残る二つが勘繰る。長野へ先に出せば“尾張は工藤家を抱え込む気だ”となる。北畠へ先に出せば“討つ気で固めた”になる。海へ先に走らせれば“やはり裏で何かしていた”と見える。だから、今度は全部を一度に動かす。こちらが一段上がったことを、三方同時に知る形がよかった。
明け方前の詰所は、火の色だけがやけに濃い。
十兵衛は最後の封を閉じ、乾き切る前の墨へ一度だけ目を落とした。
半兵衛は帳面を抱えたまま、渡しごとの人数と交替時刻をもう一度だけ繰り直している。
左近将監は、知多へ返す口上を頭の中で整え終えた顔だった。
俺は机の前に立ったまま、最後の一通を見ていた。
北畠宛の文は、短い。
短いが、逃げ場はない。
右近の再越境と乱暴狼藉、しかも鉄砲携行を含むこと。もはや若年の過ちではなく、北畠側より伊勢静謐を乱したものとみなすこと。よって長野工藤家保全のため、織田はさらに兵を進め、渡し・往来・境目を一段厳しく押さえること。そしてなお具教卿に、家名を損なわぬ収め方を望むなら、その形を示すべきこと。
“討つ”とは、まだ書いていない。
だが、“兵を進める”は明記した。
これで向こうは、もう前と同じ文のやり取りには戻れない。
「治部様」
半兵衛がようやく帳面を閉じた。
「何だ」
「最初の寄せは三手に分けます」
「言ってみろ」
「まず、長野工藤家寄りの渡しへ小勢を厚くします。これは保全の顔です。次に、街道筋へ交替を増やします。これは北畠側の再越境阻止の顔。最後に、海側へはまだ兵ではなく荷を増やす。ただし、明日からは人も混ぜられるよう、舟の割り当てだけ先に変えます」
「よい」
「兵は目立たぬように二つに割ります。表の先手は本家筋を少し混ぜ、後ろで実際に動くのは治部家の者を厚く」
「それで行け」
半兵衛の良いところは、最初から大きく見せようとしないことだ。
数を盛れば強く見えるが、今の北伊勢ではそれがそのまま悪手になる。欲しいのは、向こうに“来たか”と思わせる重みであって、“怯えて大軍を寄せた”と思わせる派手さではない。
十兵衛が封を渡してきた。
「こちらが長野宛」
受け取る。
次郎様の名を立てること自体は、具教卿もようやく口にした。ならば今度は、その名の下で本当に工藤家の面目が守られるかを、こちらが見続けると伝える。織田は長野工藤家を抱え込むためでなく、保つために兵を寄せる。だが、その兵の下でなお北畠側の手が入り込むなら、次はもう“保つ”だけでは済まぬ。そういう含みだ。
「文面は」
「柔らかくはありません」と十兵衛。
「ただし、切ってもおりませぬ」
「それで十分だ」
左近将監が、そこで口を開いた。
「知多の方は、今日一日で景色が変わります」
「どこまでだ」
「船の出入りが増えます。増えますが、兵船には見せませぬ。普段の荷が少し忙しくなった、そこまでに留めます。だが、目の利く者が見れば、“尾張はもう人を通せる”と分かるでしょう」
「分からせろ。だが騒がせるな」
「そこが難しいところですな」
「だからお前がいる」
左近将監は短く笑い、深く頭を下げた。
外では、まだ空が白み切っていない。
この時刻の風は冷たい。だが、冷たい風ほど人を正気にする。こういう時、変に胸が熱くなっている方が危ない。
「治部様」と十兵衛。
「何だ」
「上総介様のお言葉、改めて申し上げるまでもないですが」
「浮かれるな、だろ」
「はい」
「分かってる」
「ならば結構です」
そう言いながらも、十兵衛は少しだけこちらの顔を見た。
本当に分かっているか確かめる時の目だ。
分かっている。
分かっているから、今はかえって静かだった。
右近が二度目をやった。
具教卿は一度引いた。
本家から裁可も落ちた。
海も陸も噛み合った。
ここまで揃うと、むしろ騒いではいけない。騒いだ方が浅く見える。
「よし」
俺は最後にそう言った。
「出せ」
それだけで、皆が動いた。
十兵衛は文を持たせる。
半兵衛は人を割る。
左近将監は海へ返る。
それぞれの足音が、まだ夜の名残の残る廊へ散っていく。
戦の始まりというものは、鬨の声よりこういう足音の方がよほど本当だ。
一人になると、机の上へ残った控えが急に少なく見えた。
ついさっきまで“備え”だったものが、今はもう“動き”に変わっている。言葉が変われば、中身も変わる。そこが怖い。
だが、怖いからといって止まる段ではない。
俺は最後に北畠宛の控えへ目を落とし、声に出さずに一度だけなぞった。
静謐を破ったのは向こう。
こちらはそれを正すだけ。
その理を最後まで崩すな。
そこまで確かめてから、ようやく部屋を出た。
廊の先では、もう人が走り始めている。
渡しへ向かう者。
長野工藤家寄りへ出る者。
知多へ返る者。
みな声を抑えているのに、空気だけがはっきり変わっていた。
北伊勢は、とうとう膠着を抜けた。
まだ大きな合戦ではない。だが、もう誰も昨日までの場所へは戻れない。
そういう朝が、静かに始まっていた。