織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

33 / 68
033北畠顕家公④

槍場の朝は、火の気より先に鉄の匂いが立つ。

 

まだ陽は高くない。

それでも武具箱はもう開かれ、槍の石突が床板へ軽く触れる音、革紐を締め直す音、油を引いた布で柄を拭う音が、低く重なっていた。

 

慶次郎は、その真ん中で妙に機嫌がよかった。

 

槍を取れば様になるし、立っているだけでも華がある。だが口を開くと大体どこかで余計なことを言う。今も、穂先の具合を見ながら、いかにも思いつきで言った。

 

「俺、この戦いから帰ったら治部殿から朱槍もらうんだ」

 

助右衛門は、そこで手を止めなかった。

 

革の緒を締め直しながら、顔も上げずに答える。

 

「そういうのは、旗を立てる言葉というらしいぞ。殿から聞いた」

「ほう」

 

慶次郎は感心したように鼻を鳴らした。

 

「ならば旗ごと折れば良いではないか」

 

助右衛門は、そこでようやく顔を上げた。

 

「折れるのはたいてい、そう言った本人の方だ」

「ひどいな」

「ひどくない。よくある話だ」

 

慶次郎は槍を肩へ担ぎ、少し笑った。

 

「だが、朱槍は欲しい」

「それは分かる」

「分かるのか」

「分かる。目立つからな」

「そこかよ」

「他に何がある」

 

慶次郎は鼻で笑い、それから槍の穂先を光へ透かすように見た。

 

「しかしまあ、本当に動くことになったな」

 

今度の声は少しだけ真面目だった。

 

助右衛門も、石突を床へ立て、柄の反りと重みを確かめてから言う。

 

「右近が二度も踏み越えたからな」

「若殿ってのは、時々とんでもねえことをする」

「若殿だからだろう」

「それで殿が動ける」

「殿が動く理は前から積んでいた。あちらが、それを二度差し出しただけだ」

 

慶次郎は少し黙ってから、ふっと息を抜いた。

 

「なあ」

「何だ」

「右近って、俺らとそう歳は変わらねえんだよな」

「たしか、大しては違わぬだろうな」

「それで、あの有様だ」

 

助右衛門は何も言わない。

 

慶次郎はそのまま続けた。

 

「十兵衛殿や左近将監の叔父貴はともかく、治部殿も、半兵衛も、落ち着いてるじゃねえか。先を見るし、腹も据わってる。なのに右近は、こう……でかい声と腹だけ先に出てる」

「腹は余計だ」

「余計じゃない。大事だろ、ああいうの」

 

助右衛門はそこで小さく鼻を鳴らした。

 

「人とは、そうも違うものだということだ」

「だよなあ」

 

慶次郎は槍を持ち直しながら、少しだけ首を傾ける。

 

「同じ若い方でも、治部殿はああで、右近はあれだ。何が違うんだろうな」

「育ち方だろう」

「雑だな」

「雑ではない。家が人を作る。だが、それだけでもない」

「じゃあ何だ」

 

助右衛門は少しだけ考え、それから淡々と言った。

 

「自分より重いものを見たことがあるかどうかだ」

 

慶次郎は、そこで少しだけ真顔になった。

 

「重いもの、ねえ」

「治部殿は、たぶん知っている。自分が前へ出るより先に、家だの人だの、面倒なものがいくらでもあることを」

「右近は」

「自分が前へ出ることそのものを、重みだと思っている」

 

そこまで言われると、慶次郎もさすがにすぐには軽口を返さなかった。

 

しばらくしてから、ようやく口を開く。

 

「……俺とお主のようなものだな」

 

助右衛門が、ほんのわずかに目を動かす。

 

「何だそれは」

「俺が先にわあっと出て、お前が後ろで“待て、そこは違う”って言うだろ」

「否定はしない」

「じゃあ、俺が治部殿で、お前が右近か」

 

助右衛門は、そこで初めてはっきり顔を上げた。

 

「逆だ」

 

慶次郎が吹き出す。

 

「そこは即答なんだな」

「当然だ」

「じゃあ、お前が治部殿か」

「それも違う」

「注文が多いな」

「当たり前だ。殿をそんな軽く真似るな」

 

慶次郎は肩を揺らして笑った。

 

「分かった分かった。じゃあ俺が俺で、お前がお前だ」

「最初からそう言っておけ」

「だが、あれだな」

 

慶次郎は少しだけ声を落とした。

 

「右近見てると、同じ若いのでも、落ち着きがあるかないかでここまで違うんだなとは思う」

「落ち着きだけでもない」

「まだあるのか」

「ある。自分の腹の熱を、家のためだと勘違いする奴は危うい」

 

慶次郎は、その言葉を少し噛んでから頷いた。

 

「……それは、ちょっと分かる」

「お前も気をつけろ」

「何で俺に飛ぶんだ」

「飛ぶだろう」

「ひどいな」

「ひどくない。よくある話だ」

 

さっきの言い回しをそのまま返されて、慶次郎はとうとう声を上げて笑った。

 

武具場の奥では、別の者たちが弓弦を張り替え、火縄の束が運び込まれている。槍だけではなく鉄砲組の支度も静かに進んでいた。まだ鬨の声はない。だが、誰もがもう“備え”ではなく“出る支度”の手つきになっている。

 

慶次郎がふと、助右衛門の槍を見た。

 

「お前の槍、地味だな」

「槍は地味でよい」

「俺は嫌だ」

「知っている」

「せっかく戦うんだぞ。少しは派手な方が良いだろう」

「死ぬ時も目立ちたいか」

「そこは帰る」

「なら、まず帰ってこい。朱槍の話はその後だ」

 

慶次郎は、その返しに少しだけ目を細めた。

 

「助右衛門」

「何だ」

「お前、たまに良いこと言うよな」

「たまにではない」

「いや、たまだろ」

 

そう言いながら、慶次郎は槍の柄を軽く打ち鳴らした。乾いた音が朝の支度場へ響く。

 

「まあいい。朱槍は帰ってからでいい」

「最初からそう言っておけ」

「だが、俺は言うぞ」

 

慶次郎は槍を肩へ担いだまま、少しだけ空を見た。

 

「帰ったら、治部殿に朱槍をねだる」

 

助右衛門は、わずかに口元を緩めた。

 

「なら、旗を立てる言葉としては、少しはましだな」

「だろう?」

「帰ってから、が付いた分だけな」

 

武具場の外では、もう人の足音が増えていた。伝令が走り、渡しへ向かう者が声を潜めて行き交い、海へ返す荷の控えが運び出される。戦というより、大きな仕事が城じゅうを動かし始めたような音だった。

 

慶次郎が最後に穂先へ布を掛け直す。

 

「行くか」

 

助右衛門も槍を取った。

 

「行くぞ」

 

二人が並んで武具場を出る背を見ていると、戦の前というのは、案外こういう会話の積み重ねで出来ているのだと思える。大きな理も、名家の面目も、海の備えも、結局は最後、槍を持って出る者の手元まで降りてこなければ戦にならない。

 

 

武具場を出た先で、空気はもう支度から出立へ変わり始めていた。

 

城内のあちこちで人が動いている。

だが、走り回っているわけではない。こういう時に本当に怖いのは、慌てている者ではなく、慌てずに手を動かしている者たちだ。渡しへ向かう小勢、街道筋へ先に出る足軽、荷駄の順を確かめる者、火縄と鉛を数え直す者。誰も大声は出さないのに、城全体がもう一つ重い息をし始めている。

 

俺はその中を抜けて、奥の一室へ戻った。

 

机の上には、もう十兵衛が並べ直した控えと、半兵衛が置いていった人数の割り付けがある。左近将監は知多と伊勢湾口へ手を返しに出たあとで、部屋は一見静かだった。だが、その静けさは仕事が終わった後のものではなく、全部がもう外へ出た後の静けさだ。

 

障子が一つ鳴って、十兵衛が入ってくる。

 

「出しました」

「長野も北畠もか」

「はい。それと、長野工藤家寄りへ出る者たちにも、控えの言葉は渡しております」

「具教卿の返しは」

「今度ばかりは、文だけで返しては済まぬでしょう」

「だろうな」

 

具教卿は読める。

だからこそ、こちらが一段上がったことも分かる。右近を引かせて半歩稼ぐつもりだったのに、その間にこちらが海と陸を噛み合わせ、工藤家保全の理まで固めてしまった。ならば、向こうも次は言葉だけでは返しにくい。

 

十兵衛はそこで、少しだけ声を落とした。

 

「治部様」

「何だ」

「具教卿がまだ理を読む方であるなら、逆にここで無理に威を見せぬ可能性もございます」

「そうだな」

「ですが、右近が二度やった以上、北畠家中の若い者どもは、必ずしも具教卿の歩幅では動きますまい」

「そこが厄介だ」

 

具教卿一人ならまだ読みやすい。

だが、家中には右近のような火がある。引かせても、火種は残る。しかも今は一度噴いている分だけ、火の色まで見えてしまっている。

 

半兵衛も、そのあとすぐ入ってきた。

 

帳面を抱えたまま、相変わらず大きな動きはない。

だが、あいつがこういう顔の時は、もう数字の方は全部決まっている。

 

「どうだ」

「渡しの交替は増やしました。表向きは見張りの厚み。ですが実際には、寄せる隊がそのまま使える配置にしてあります」

「長野寄りは」

「二手です。表へ出すのは本家筋を少し混ぜた隊。後ろで実際に工藤家の綻びへ入るのは治部家の者を厚く」

「海は」

「知多の方で今日明日中に舟足が変わります。兵はまだ表へは出しませんが、荷の積み方を変えれば、いつでも半分は人に替えられます」

 

そこまで整っていれば十分だった。

 

「上手く行ってるな」

 

自分で言って、少しだけ笑う。

 

半兵衛はすぐに返した。

 

「ここまでは」

「お前、本当にそれ気に入ったんだな」

「便利ですので」

「便利な言い方で世の中を回すな」

「回るなら、その方がよろしいかと」

 

十兵衛が横から口を挟む。

 

「治部様」

「何だ」

「便利な言い方ではなく、正しい言い方にございます」

「お前まで乗るのか」

「乗りますとも」

 

それで少しだけ部屋の空気が緩んだ。

 

緩むが、軽くはならない。

今はまだ兵を進め始めたばかりだ。こちらが一段上がったことは向こうにも伝わる。具教卿がどう返すか、長野工藤家の中がどう割れるか、右近の火が本当に抑え込まれるか。全部がまだ途中だ。

 

外で、遠くから槍の石突が鳴る音がした。

 

さっきの慶次郎と助右衛門だろうか、と一瞬だけ思う。

若い連中は若い連中で、もう腹を括って武具を持っている。右近とあまり歳も違わぬはずなのに、どうしてこうも違うのか、と本人たちが話していたのを思い出して、少しだけ可笑しかった。

 

「何か」と十兵衛。

「いや。慶次郎と助右衛門が、右近のことを話していてな」

 

半兵衛が目を上げる。

 

「何と」

「同じくらいの年でも、ここまで違うものか、とな。慶次郎が“俺とお主のようなものだ”と言って、助右衛門に“逆だ”と返されていた」

 

それを聞いて、半兵衛が珍しくはっきり笑った。

 

「それは、そうでしょう」

 

十兵衛も口元だけで笑う。

 

「助右衛門殿は、言いそうにございます」

「言っていた」

 

そこまで言ったところで、ふと、若いということについて考えた。

 

右近は、若さをそのまま熱へ変えた。

慶次郎は熱を持っているが、助右衛門に突かれながら一応は帰る話に落とす。

次郎様は、まだ若すぎて、その熱を外へ出す前に周りに形を決められている。

人は若いから同じなのではない。若い時に何を見て、何を叩き込まれたかで、ああも違う。

 

「……嫌な見本だな」と俺は言った。

 

十兵衛がすぐに取る。

 

「右近ですか」

「そうだ。家とは何か、武士とは何かを、間違えて飲み込むとああなる」

 

「先ほどの文の末尾にございましたな」と半兵衛。

「子が授かれば、右近を引いて叩き込む、と」

 

「書いたな」

「書きましたな」

「兄上に笑われるかもしれん」

 

「上総介様は笑うでしょう」と十兵衛。

「勘十郎様は、案外頷かれるかと」

 

「そうかもな」

 

そこでいったん話が切れた。

 

障子の外では、もう出る者たちの足音が増えている。小勢が先に長野工藤家寄りへ入り、渡しを一段厚くし、街道の交替を増やす。海ではまだ兵を見せぬまま、荷の顔をした舟が少しずつ増える。派手な号令があるわけではない。それでも、戦の準備というものは、一度動き始めると空気まで変わる。

 

「治部様」と半兵衛。

 

「何だ」

「長野工藤家の方ですが、次郎様を立てると具教卿が自ら言ったのは、やはり効きます」

「どう見る」

「後見役が苦しい。旧臣は“ようやくか”と思う。慎重派は“それを言わせたのは尾張の縄だ”と見る。つまり、北畠が顔を戻そうとするほど、かえってこちらへ寄ります」

「だろうな」

「だから今は、兵を進めるのと同じくらい、長野の中で“北畠に工藤家の顔を戻させたのは織田だ”という見え方を保つのが肝です」

 

そこまで言われると、半兵衛の役はやはり数字だけではないと思う。兵糧や渡しや荷の割り付けの話から、そのまま人心の寄り方までつながっている。

 

「十兵衛」

「はい」

「長野宛の次の文も、そこを忘れるな」

「承知しております。次郎様の名を立てること自体は妨げぬ、だがその名の下で工藤家の面目が本当に保たれるかは、こちらが見続ける――その形で整えます」

「よし」

 

そこまで言った時、外から早足の音が近づいた。

 

軽い。

若い者の足音だ。伝令か。

 

障子の向こうで止まる。

 

「治部様」

「入れ」

 

若い足軽が膝をつき、頭を下げた。

 

「長野工藤家寄りより、早馬にございます」

 

部屋の空気が、一瞬で締まる。

 

「何だ」

「次郎様のお側近くにて、工藤家旧臣と慎重派とが、表立ってではございませぬが、夜のうちに集まる気配あり、と」

 

十兵衛と半兵衛が同時にこちらを見る。

 

俺は一拍だけ考えた。

 

とうとう来たか、という思いと、やはりそうなるか、が半分ずつだった。

 

北畠が右近を引かせ、次郎様を前へ出すと言った以上、工藤家の古い者どもは今こそ“次郎様の名の下で工藤家をどう立て直すか”を話し始める。慎重派も混じるなら、もうただの愚痴ではない。家の形をどちらへ寄せるかの相談になる。

 

「場所は」

「長野家領寄りの館にございます」

「人数は」

「まだ少のうございます。されど、集まり方が妙です」

 

それで十分だった。

 

「よし」

 

俺は立ち上がった。

 

「十兵衛、長野宛の次便を急げ。半兵衛、寄せる隊の足を少し早めろ。だが表向きは変えるな」

「はい」

「長野の中が動く。なら、こちらもその半歩先へ出る」

 

伝令が再び頭を下げる。

 

部屋の中の空気は、もう完全に次の場面へ移っていた。

 

右近の暴発で戦の理が立った。

具教卿の火消しで長野の中がさらに揺れた。

そして今、その揺れが、ようやく次郎様の周りで形を持ち始めた。

 

北伊勢はもう、ただ押すだけの盤ではない。

どこが先に形を決めるか、その競り合いになっている。

 

 

若い足軽が下がり、障子が閉まると、部屋の中に短い沈黙が落ちた。

 

長野工藤家の旧臣と慎重派が、次郎様の近くで夜のうちに集まる。

ただの愚痴ではない。家の形をどちらへ寄せるか、いよいよそこまで話が進んだということだ。

 

半兵衛が帳面を押さえたまま言う。

 

「動きましたな」

「ああ」

 

十兵衛も静かに続ける。

 

「次郎様を前へ出すと具教卿自ら言った以上、工藤家の古い者どもも、次はその名の下でどう残るかを考えざるを得ませぬ」

「そうだな」

 

そこまで返してから、俺は少しだけ黙った。

 

十兵衛も半兵衛も、何も急かさない。

こういう時のあいつらは、変に気を利かせぬ方がまだ利いている。

 

「……俺はな」

 

思ったより低い声が出た。

 

二人とも顔を上げる。

 

「個人的な感傷かもしれんが、次郎殿は助けたいと思ってる」

 

半兵衛は黙っている。

十兵衛も、すぐには何も言わなかった。

 

「あの方は、右も左も分からぬ状況で、それでもあのとき、まっすぐ俺を見つめ返していた」

 

あの小部屋のことを思い出す。

工藤家の名を借りた幼い当主。家中は割れ、後見役は北畠寄り、旧臣は煮え、慎重派は縮こまり、その真ん中に居ながら、あの子は怯えて目を伏せるのでなく、分からぬなりにこちらを見ていた。

 

「普通なら、もっと早く目を逸らす。大人の声が飛び交う中で、自分が何のために座っているのかも曖昧な子なら、なおさらだ」

 

十兵衛が静かに言う。

 

「はい」

「だが、次郎殿は違った。あれは強がりでも意地でもない。ただ、分からぬなりに、自分がそこに居ることから逃げなかった」

 

半兵衛が、そこでようやく口を開く。

 

「買っておられるのですね」

「買っている、というほど上からでもないがな」

 

俺は少しだけ息を吐いた。

 

「案外、顕家公のようなお方になるかもしれん、と思ってる」

 

その名を出すと、十兵衛がわずかに目を細めた。

茶化さない。否定もしない。ただ、その名を今ここで出す重みだけを受け取っている顔だった。

 

「顕家公、ですか」と半兵衛。

 

「ああ」

「そこまで申されますか」

「いう」

 

俺は頷いた。

 

「もちろん、今はまだ何も分からん。幼いし、周りの都合で座に置かれているだけだ。だが、だからこそだ。あれだけ何もかも訳が分からぬ中で、なお人の目をまっすぐ見返せるなら、育ち方次第では、意外と大きくなるかもしれん」

 

十兵衛が、そこで小さく言った。

 

「右近殿とは違う」

「違うな」

「具教卿とも違う」

「そこも違う」

 

右近は熱が先に立つ。

具教卿は重さが先に立つ。

次郎殿は、まだ何者でもない。だが何者でもないまま、逃げずに座っていた。あの白さは、今だからこそ惜しい。

 

「だから」と俺は続けた。

「工藤家を残す、北畠を縛る、それはそれとして、次郎殿まで雑に潰したくはない」

 

半兵衛が頷く。

 

「それは感傷だけではありますまい」

「どういう意味だ」

「次郎殿が生きて立てば、北畠を残す形にも、工藤家を保つ形にも、後で使えます」

「相変わらず現実的だな」

「現実で考える役ですので」

 

それには少し笑った。

 

十兵衛も続ける。

 

「ですが、その感傷は悪くございませぬ」

「そうか」

「はい。次郎殿をただの駒と見ておられぬからこそ、いま工藤家の内へ寄せる言葉も、北畠へ返す文も、どこかで踏み外さずに済んでおります」

 

それを言われると、少しだけ困る。

自分ではもっと打算と都合で動いているつもりだった。だが、打算だけなら、右近が踏み越えた時点で“次郎ごと切れば早い”という話にもなりうる。そうしないのは、結局どこかであの子の目を覚えているからだろう。

 

「……まあ、そうかもしれん」

 

「そうにございます」と十兵衛。

 

半兵衛も珍しくすぐに頷いた。

 

「ええ」

 

少しの沈黙が落ちる。

 

その沈黙は重くない。

むしろ、次の手を決める前に、人として何を残したいかを一度だけ確かめたあとの静けさだった。

 

俺は机の上の控えへ目を戻した。

 

「だから、次郎殿の名の下に工藤家がどう動くか、ここは丁寧に見たい」

 

「はい」と十兵衛。

 

「後見役を飛ばすにしても、次郎殿を立てる形で」と半兵衛。

 

「そうだ」

 

俺は頷いた。

 

「右近の火と、具教卿の重さの間で、あの子まで一緒に焼くのは惜しい。助けられるなら助ける。その上で、工藤家も北畠もこちらの形へ寄せる」

 

半兵衛が小さく笑う。

 

「だいぶ難しいことを仰います」

「分かってる」

「ですが、治部様はそういう無茶を、わりと本気で通しに行くから厄介です」

「褒めてるのか」

「半分は」

「半分か」

 

十兵衛がそこで、静かに紙を引き寄せた。

 

「では、次の文はなおさら慎重に整えます」

「頼む」

「次郎殿が後で振り返った時、“あの時、尾張に助けられた”とだけは思わせぬ方がよろしいでしょう」

「……ああ」

 

それは、たしかにそうだ。

 

助けるにしても、恩を売るような形は良くない。

次郎殿が後で本当に立つ人になるなら、あの時自分はただ大人たちの都合で拾われたのだと感じさせるより、工藤家の名と自分の足で立ち始めたと思える方がいい。

 

そこまで考えてから、俺は小さく息を吐いた。

 

「やはり難しいな」

 

「今さらでございます」と半兵衛。

 

「今さらだな」

 

そう返しながらも、気持ちは少しだけ定まっていた。

 

工藤家をどう残すか。

北畠をどこまで縛るか。

その先で、次郎殿をどう生かすか。

 

全部を一度に通すのは骨が折れる。

だが、あの子の目を思い出す限り、雑にはやれない。

それだけは、もうはっきりしていた。

 

 

その夜、長野工藤家の館は、妙に静かだった。

 

人が集まる夜というのは、本来もっとざわつく。廊を渡る足音が増え、障子の向こうで気配が重なり、誰かが咳払いの一つもする。だが今夜の静けさは、皆が皆、余計な音を立てぬようにしている静けさだった。

次郎様の名の下で集まる。そう決まっただけで、もういつもの家中話とは違う。

 

座敷は広すぎない。

広すぎないからこそ、そこに並ぶ顔ぶれの温度がよく分かる。

 

古い長野工藤家臣たち。

渡しと蔵を預かる慎重派。

そして、次郎様の近くに付いている者が数名。

北畠側から送り込まれた後見役の姿は、今夜はない。呼ばれなかったのか、呼べなかったのか、どちらでもよかった。少なくとも、この場を工藤家の内として立てたい気配だけははっきりしていた。

 

上座には次郎様がいた。

 

まだ幼い。

幼いが、前のようにただ座らされているだけではない。今夜は、周りの者たちがその名を借りに来ている。そういう座だった。本人にどこまで分かっているかは別にしても、その違いくらいはあの子にも感じ取れたはずだ。

 

最初に口を開いたのは、白髪の混じった老臣だった。

 

「次郎様」

「……はい」

「今宵このようにお集まり願いましたのは、ほかでもございませぬ。工藤家が工藤家として残るかどうか、いよいよそこまで来たと、皆が見ておるからにございます」

 

次郎様は黙って聞いている。

その横に控える若い者が、少しだけ息を詰めた。言い方としてはかなり重い。幼い当主へ真正面から投げるには重すぎるほどだ。だが今は、遠回しに言っても意味がない。

 

慎重派の実務家が続けた。

 

「北畠様は、右近様を引かせ、次郎様を立てると仰せになりました。それ自体は、こちらにとって悪い話ではございませぬ」

「……はい」

「されど、それを言わせたのは北畠様の御慈悲ではなく、尾張の縄にございます」

 

座の空気が、そこで少しだけ沈んだ。

 

誰も反論しない。

したくても、今の局面では出来ないのだろう。右近が二度踏み越え、家臣に死傷が出て、渡し近くまで騒ぎが及んだ。その後で、ようやく“次郎様を立てる”が出てきた。ならば、誰がそれを言わせたかは、もう皆の腹に落ちている。

 

老臣が低く言った。

 

「我らは、もはや北畠様の理だけに家を預けてはおれませぬ」

 

次郎様の肩が、小さく動く。

 

それを見た慎重派が、少しだけ声を和らげた。

 

「申し上げておきます。これは、次郎様をお立てせぬ、という話ではございませぬ。むしろ逆にございます」

「逆……」

「はい」

 

実務家ははっきりと言った。

 

「次郎様のお名の下で、工藤家を工藤家として残す。そのために、尾張の裁断の下へ入る外ない、という話にございます」

 

それは、長野工藤家にとってほとんど告白だった。

 

北畠へ残るのではない。

織田へそのまま降る、とも少し違う。

次郎様の名を立てながら、工藤家の形を尾張の裁断の中で保つ。そういう苦い現実案だった。

 

次郎様はしばらく黙っていた。

大人たちは待った。ここで幼い子へ何を答えさせるのか、とも思う。だが同時に、もう何も言わせぬままには出来ない段でもある。

 

やがて、次郎様が小さく言った。

 

「……私は」

 

その声で、座の者たちの背がわずかに伸びた。

 

「私は、どうすればよいのですか」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

最初に返したのは、意外にもあの老臣だった。

 

「お立ちになればよろしい」

「立つ……」

「はい。工藤家の当主として、ここにおわすと申せばよろしい」

 

次郎様は、それを聞いてもまだ分からぬ顔をしていた。

無理もない。大人たちは皆、自分の理を持ってそこへ座っている。幼い当主に、ただ“立て”と言われても、その中身まではすぐには見えまい。

 

慎重派が、少し言葉を足した。

 

「次郎様」

「はい」

「次郎様が北畠のお血筋であることは、もはや変えようがありませぬ。ですが工藤家の当主でもございます。ならば、どちらか一つへ呑まれるのでなく、工藤家をお立てになる、と申していただきたいのです」

「尾張の……力で」

「はい。今は、それが一番ましにございます」

 

老臣がそこで苦く言った。

 

「腹は痛みますぞ。痛みますが、今さら北畠の理へ全部を預けては、家ごと溶ける」

 

その言い方は、次郎様へ向けたというより、自分自身へ言い聞かせているようでもあった。

 

次郎様は、小さく息を吸った。

 

「工藤家を……立てる」

「はい」

「北畠様ではなく」

 

「北畠様を捨てよ、とは申しておりませぬ」と慎重派が即座に返した。

「されど、今は工藤家の当主として、お立ち頂きたいのです」

 

ここが一番苦しいところだった。

 

北畠を完全に切る。

そう言い切るほど、まだ皆も腹は固まっていない。具教卿自身は読める相手だし、右近を引かせるところまで下がった。だから“北畠すべてが駄目”とまで言い切るには、まだ名門への遠慮も残る。

だが、家の形を残す軸はもう北畠側には置けない。それも分かっている。だから言葉が苦い。

 

しばらくして、次郎様はようやく顔を上げた。

 

「……治部殿は」

 

その名が出た時、座の空気が少しだけ動いた。

 

「治部殿は、私を、助けるのでしょうか」

 

誰も軽々しくは答えない。

だが、その問いが出たこと自体が大きかった。

 

あの小部屋で、信繁にまっすぐ目を返した時のことを、次郎様は覚えているのだろう。完全には理解していなくても、“自分の名を外すためではない”と言われたことは残っている。

 

老臣が、今度はかなり慎重に答えた。

 

「助ける、というより」

 

言葉を選ぶ。

この場で「尾張が助けてくれる」では安すぎるし、後で次郎様の中にいびつに残る。

 

「……次郎様を当主として立てたまま、工藤家を残す道を、尾張は今のところ切っておりませぬ」

 

次郎様は、じっと聞いていた。

 

慎重派が続ける。

 

「それが慈悲か打算かは、今は申せませぬ。されど、北畠様へだけ預けておくよりは、まだ形が残る。それだけは確かにございます」

 

次郎様は、その言葉をゆっくり飲み込んでいるようだった。

 

やがて、ほんの少しだけ頷いた。

 

「……分かりました」

 

その返事は、まだ幼い。

だが、幼いなりに“自分は当主として立つしかない”ところまでは受け入れた声だった。

 

老臣も慎重派も、そこでようやく小さく頭を下げた。

 

今夜決まったのは、何か華々しい盟約ではない。

もっと苦く、もっと現実的なことだ。

工藤家は、次郎様の名を残したまま、尾張の裁断の中で生き残る方へ傾く。

その最初の一歩が、ようやく言葉になった。

 

外では、風が少しだけ立っていた。

遠くの渡しの方から来る湿った夜風だ。障子がかすかに鳴るたび、誰かがびくりとする。もう誰も、ただの家中話をしているつもりではないのだろう。

 

次郎様は、上座でまだ小さく座っていた。

だが、その幼い背に、今夜は少しだけ別の重みが乗った。

北畠の血でもあり、工藤家の当主でもある。その二つを、どちらか一つへ雑に溶かさずに残す。大人たちはその難しい話を、ようやく本人の前で始めてしまった。

 

そしてそれは、信繁が聞けばたぶん安堵する話でもあるだろう。

あの子はまだ駒としてだけではなく、立てる名として見られ始めたのだから。

 

 

その報せが治部家の詰所へ届いた時、夜はまだ深かった。

 

長野工藤家の旧臣と慎重派が、次郎殿の前でとうとう腹を割った。

北畠の理だけには家を預けられぬこと。

次郎殿の名の下で、工藤家を工藤家として残すには、尾張の裁断の中へ入るほかないこと。

そして、その場で次郎殿が頷いたこと。

 

左近将監が持ち帰ったその筋を、十兵衛が短くまとめて読み上げる。

読み終えたあと、部屋の中はしばらく静かだった。

 

半兵衛が、帳面に置いた指を軽く離す。

 

「決まりましたな」

「決まったな」

 

俺もそう返したが、言い切った声は思っていたより低かった。

 

長野工藤家の内が、ついに次郎殿の名で動き始めた。

それはつまり、北畠と工藤家の間に置かれていた曖昧な板が、とうとうこちらの側へ傾いたということだ。まだ正式に何が定まったわけでもない。だが、あの家の古い者どもが、幼い当主の前でそこまで言った以上、もう元の位置には戻らない。

 

十兵衛が静かに言う。

 

「具教卿へ、この筋が伝われば、向こうもいよいよ迷えませぬ」

 

「迷うだろうさ」と俺。

 

「迷うが、その迷い方が変わる。今までは“長野をまだ戻せるか”で迷えた。だが今は違う。“どこまで失わずに済むか”の迷いに変わる」

 

半兵衛が小さく頷いた。

 

「ええ。長野工藤家が次郎殿の名で尾張寄りへ動いた以上、北畠にとっては工藤家をどう残すか、ではなく、工藤家をどこまで抱えたまま下がれるか、になります」

 

左近将監は、そこでだけ少し安堵した顔を見せた。

 

「ようやく、ですな」

「ああ」

「右近が二度も踏み越えたあとで、ようやくここまで来た」

「そうだな」

 

そこまで言ってから、ふと、次郎殿の顔を思い出した。

あの小部屋で、分からぬなりにこちらをまっすぐ見ていた目だ。大人たちの理屈に挟まれ、家の都合で座に置かれ、それでも目を逸らさなかった。今夜もたぶん、同じ目で旧臣たちの言葉を聞いていたのだろう。

 

「……よかった」

 

ぽつりと出たその一言に、三人とも少しだけ目を上げた。

 

「何がでございますか」と十兵衛。

 

「次郎殿だ」

 

それだけ言えば十分だった。

 

半兵衛が少しだけ笑う。

 

「助けたいと仰っていた方ですからな」

「そうだよ」

 

俺は息を吐いた。

 

「駒として担がれて終わるのでなく、本人の名の下で工藤家を立てる話になった。それならまだ、救いがある」

 

「感傷ですか」と十兵衛。

 

「感傷だな」

「悪くございません」

「お前ら今日は妙に優しいな」

 

「今日は、にございます」と半兵衛。

 

そこへ、別の足音が近づいた。

 

早い。

しかも伝令の足ではない。もう少し重く、しかし慌ててはいない足だ。俺が顔を上げた時には、障子の向こうから声がかかった。

 

「治部様」

「入れ」

 

入ってきたのは、稲葉山からの使者だった。

本家筋の者で、顔を見れば軽い用ではないと分かる。

 

「上総介様より」

 

差し出された文は短かった。

開く。

 

北伊勢の口、ここに定まる。

長野工藤家が次郎の名で動くなら、兵を進める理はさらに厚くなった。

北畠へ最後の一押しを掛けよ。

ただし、討ち潰す顔を前へ出すな。

具教がまだ読める男なら、折れる場を残してやれ。

 

それだけだった。

だが、十分だった。

 

「兄上らしいな」

「何と」

 

十兵衛が聞く。

 

「長野が動いたなら、もう北畠への最後の一押しに入れと」

 

半兵衛がすぐ言った。

 

「では、いよいよ具教卿へ“従属的同盟か、それともさらに一段進むか”を迫る場ですな」

「そうなる」

 

左近将監が、少しだけ声を落とした。

 

「海は」

「まだ兵は見せぬ。だが、見せられるところまでは出す」

「知多へは、明朝のうちに」

「頼む」

「承知」

 

使者はそれだけを伝えて下がった。

障子が閉まり、部屋の中にはまた四人だけが残る。

 

だが、さっきまでの静けさとは違っていた。

次郎殿の周りで工藤家が動き、本家からも最後の一押しへ入れと来た。理も、人も、海も、ようやく同じ方向を向いた感じがある。

 

「治部様」と半兵衛。

 

「何だ」

「“上手く行ってますよね”の答え、今度こそ変えてよろしいですか」

「何だそれは」

「上手く行っております。ここまでは、ではなく、次へ進むだけの形が揃いました」

 

十兵衛がすぐ足した。

 

「ただし、最後の一押しで具教卿に“今ならまだ残れる”と思わせる文でなければなりませぬ」

「分かってる」

「右近を踏み台にした勝ち方では、具教卿は折れません」

「そこも分かってる」

 

具教卿は右近ではない。

二度の暴発で理を失った北畠側を、それでも名家としてどこまで残せるか。そこへ道を残した上で押さなければ、あの男は最後まで固まる。

 

俺は机の上へ手を置いた。

 

「十兵衛」

「はい」

「具教卿宛の次便を起こせ。文の芯は二つだ」

「申してください」

「ひとつ、右近の失策で理は尽きた。長野工藤家も次郎殿の名でこちらへ動いた。ここでなお意地を張るなら、もう工藤家は戻らぬ」

「はい」

「ふたつ、だが今ここで具教卿が家名を保ち、次郎殿を工藤家当主として認め、軍事と往来をこちらへ任せるなら、北畠そのものを潰す気はない、と」

 

十兵衛がすぐ頷く。

 

「従属的同盟の形にございますな」

「そうだ」

 

半兵衛が続ける。

 

「海と陸は、その文が届く頃合いに合わせて半歩前へ出します。見えすぎず、だが“もう間に合わぬ”と思わせる程度に」

「それでいい」

 

左近将監は、そこで低く言った。

 

「具教卿が本当に読める方なら、この文で腹を決めるでしょうな」

「決めさせる」

 

それは声に出すと、思っていたよりまっすぐ響いた。

 

右近の暴発。

具教卿の火消し。

次郎殿の名の下で動いた工藤家。

全部がようやく一つへつながった。

 

今度の一押しは、ただの脅しではない。

北畠にとっても、工藤家にとっても、そして次郎殿にとっても、どの形で残るかを決める押しになる。

 

「……よし」

 

俺はそう言った。

 

「次郎殿が立つなら、その形を潰さずに北畠を折る。そこまで含めて、今度の文だ」

 

十兵衛も半兵衛も、左近将監も短く頷いた。

 

夜はまだ深い。

だが、次に明ける朝は、今までの朝とは少し違うはずだった。

もう膠着をどうするかではない。

何を残し、何を切り、どこで折らせるか。そこまで話は進んでいる。

 

北伊勢は、ようやく本当の勝負の形に入った。

 

 

具教卿へ送る次の文は、夜明け前に整った。

 

十兵衛の筆は、こういう時ほど余分を削ぐ。

言いたいことを全部書けば、相手に逃げ道も言い訳も与える。逆に、要るところだけを置けば、読む者は勝手に自分でその先を埋める。具教卿ほどの相手なら、なおさらそうだった。

 

俺は、清書の前の下書きを受け取って、黙って目を走らせた。

 

右近の再越境により、北畠側の理は尽きたこと。

長野工藤家は、次郎殿の名の下で、工藤家を工藤家として残す方へ動き始めたこと。

よって、織田は長野工藤家保全と伊勢静謐維持のため、さらに兵を進めうること。

ただし、具教卿が家名を保ち、次郎殿の工藤家当主としての立場を認め、軍事・往来・境目の扱いをこちらへ委ねるなら、北畠を無惨に潰す気はないこと。

 

文は短い。

だが、短いからこそ重い。

 

「どうでしょう」と十兵衛。

 

「いい」

「柔らかすぎますか」

「いや」

 

俺は首を振った。

 

「これでいい。具教卿は読める。なら、“ここまで来てもなお道はある”と分かる形でなければ駄目だ」

 

半兵衛が、その横から口を挟む。

 

「一方で、“今この文を蹴れば、次は本当に兵が来る”とも見えねばなりませぬ」

「そこも見える」

「はい」

 

十兵衛はそれ以上何も言わず、清書へ戻った。

 

部屋の外はまだ暗い。

だが、城の中の気配はもう夜のものではない。渡しへ向かう交替組が動き、荷駄の控えが改めて運ばれ、鉄砲組の火縄が湿らぬように見直されている。まだ鬨の声はない。だが、静かなまま戦の前へ入る時というのは、たいていこういう空気になる。

 

「左近将監」

「はっ」

「これを具教卿へ持て」

「承知」

「ただし、文が先だ。口はその後」

「何を申せば」

「一つだけでいい」

 

俺は少し考えてから言った。

 

「“次郎殿が工藤家の当主として立つ形を、尾張は切っておりませぬ”と」

 

左近将監が、わずかに目を上げた。

 

「そこを押しますか」

「押す」

「具教卿に効きますかな」

「効くだろう。効いてほしい、ではない。効く」

 

具教卿は、ただの武辺ではない。

右近のように血が先へ走る男なら、ここまでの文で逆に意地を張るかもしれない。だが具教卿は違う。次郎殿を工藤家の顔として残せるなら、北畠の家名そのものまで無惨に削らずに済む。その道を、あの男は必ず計る。

 

半兵衛が、そこは静かに頷いた。

 

「北畠の家を残すことと、工藤家を残すこと。その二つを、今や別に考えられぬ局面ですからな」

「そうだ」

「そして次郎殿がその結び目にいる」

「だから雑に切れない」

 

そこまで言った時、昨日の自分の言葉がまた戻ってきた。

 

次郎殿は助けたい。

感傷かもしれんが、そう思っている。

その感傷が、今のこの文を少しだけ人の側へ寄せているのだろう。全部が打算なら、もっと早く、もっと冷たく切る書き方もあったはずだ。だが、そうしないのは、やはりあの子の目を覚えているからだ。

 

十兵衛が清書を持ってきた。

 

「できました」

 

受け取る。

墨の艶がまだ少しだけ残っている。

 

「読み上げますか」

「いや、いい」

 

そこは自分で読む。

 

北畠具教卿へ。

右近殿二度の越境、もはや若気にては済まず。

長野工藤家もまた、次郎殿の名の下に工藤家を保つ道を求め始め候。

今ここにて、具教卿みずから家名を保ち、次郎殿の工藤家当主たるを認め、軍事・往来・境目の扱いを織田へ任せ候ならば、北畠そのものを潰すに及ばず。

されど、なお曖昧に返し、時を引くならば、兵を進めるほかなく候――。

 

「いい」

 

そう言って、左近将監へ渡した。

 

「頼む」

「はっ」

 

左近将監は深く頭を下げ、そのまま下がった。

 

障子が閉まり、足音が遠のく。

 

その音を聞きながら、半兵衛がぼそりと言った。

 

「行きましたな」

「ああ」

「これで具教卿が折れれば、伊勢はだいぶ安く済みます」

「そうだな」

「折れねば」

「折らせる」

 

それしかない。

 

十兵衛が、机の端へ別の紙を揃え直す。

 

「裁可済みの兵の動きは、左近将監の戻りを待たず始めますか」

「始める」

「どこまで」

「見えるところまでだ。見えすぎるな」

「承知しました」

 

十兵衛も半兵衛も、そこで迷いはなかった。ここから先は待つだけの局面ではない。文はもう出た。なら、文の後ろに現実が並んでいなければ、ただの脅しで終わる。だから、兵も荷も動かす。ただし、“もう来ている”と思わせる手前で止める。その半歩の違いが今はいちばん大きい。

 

外が、ようやく白み始めていた。

 

夜が明ける。

その明け方の色を見ながら、俺はふと、ここまでの盤を頭の中でなぞった。

 

長野工藤家を縛った。

右近が一度目を踏み越えた。

具教卿が火消しに回った。

右近が二度目をやった。

次郎殿の名の下で、工藤家がこちらへ動き始めた。

そして今、具教卿へ最後の一押しを掛けている。

 

ここまで来るとは、最初は思っていなかった。

 

だが、思っていなかったからといって、今さら驚いている暇もない。形は揃った。なら、あとはどこで折るかだけだ。

 

「治部様」と半兵衛。

 

「何だ」

「また、上手く行きすぎておるとお思いですか」

 

思わず少し笑った。

 

「少しな」

「では」

「だが、今はそれでいい。具教卿が読める男であることまで含めて、ここまで来た。なら、あとは相手が読む前提で、こちらが半歩ずつ先へ出るだけだ」

 

半兵衛は小さく頷く。

 

「ここまでは、にございますな」

「そうだ」

「その先は」

「具教卿次第だ」

 

そう答えたところで、外から再び足音が近づいた。

 

今度は軽い。

伝令だ。

 

「治部様」

「入れ」

 

入ってきた若い足軽が膝をつく。

 

「長野工藤家寄りより」

「何だ」

「次郎様の御側近き者より、伝言にございます」

 

部屋の空気が、また少し変わる。

 

「申せ」

 

足軽は頭を下げたまま言った。

 

「“次郎様、治部殿へ、工藤家は工藤家として立ちたいと伝えてほしい、と仰せにございます”」

 

一瞬、誰も言葉を返さなかった。

 

十兵衛が先に目を伏せる。

半兵衛は帳面へ置いた指を止めた。

 

俺は、その一言を頭の中でゆっくりなぞる。

 

工藤家は工藤家として立ちたい。

 

短い。

幼い言葉だ。だが、それで十分だった。あの子は、今ようやく、自分が何の名の下に座るべきかを言葉にしたのだ。

 

「……そうか」

 

それだけ言うので精一杯だった。

 

「それだけですか」と半兵衛が小さく言う。

 

「うるさい」

「いえ、治部様らしいと思いまして」

「うるさい」

 

十兵衛が、今度はほんの少しだけ笑った。

 

「では、その言葉も、次の押しの芯になりますな」

「ああ」

 

それはその通りだった。

 

具教卿へ送った文は、まだ理と形の文だ。

だが、その後ろに次郎殿自身のその一言があるとなれば、こちらの押しはもう少し深くなる。北畠か尾張か、というだけでなく、工藤家が工藤家として立ちたい。その願いの方へ、こちらが理を付けることになるのだから。

 

俺は机の上の控えへ目を落とし、静かに息を吐いた。

 

もう戻れない。

だが、それでいい。

 

次の返答で、具教卿がどこまで下りるか。

あるいは、下りきれぬならどこで兵を進めるか。

そのどちらになっても、今度はこちらが足元を違えぬだけだ。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。