織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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034風林火山の旗

海からの風が、陸の匂いを薄く削っていた。

 

北畠勢は、海岸近くの少し高みになった地へ布陣していた。

砂浜そのものへ出し切るのではなく、波打ち際から半町ほど上がった、土の締まった場所だ。潮の湿りをまともに受けず、しかも浜へ出る船の動きは見える。具教卿が最後の一戦を選ぶなら、いかにも取りそうな位置だった。

 

真正面からぶつかるつもりではない。

だが、ただ見ているだけの位置でもない。

名家として、ここで一度は受けて立つ。その構えが、遠目にも分かった。

 

こちらの陣は、まだすべてを見せてはいない。

 

陸側は渡しと街道を押さえた隊が先に入り、後ろで治部家の主力が形を作る。

海の方では、知多からの舟列が荷の顔を崩し切らぬまま、しかしもう誰の目にも「ただの商いではない」と分かる深さで並び始めていた。沖へやや開き、角度を変え、波の向きに合わせて少しずつ位置を取る。四十隻ほどの舟が、ひと塊ではなく面になって広がる。そこに鉄砲組が薄く分かれて乗っている。まだ火は見せない。だが、見える者には、あれがもう撃てる形だと分かる。

 

俺は本陣寄りの少し高い地で、その両方を見ていた。

 

具教卿は読める男だ。

だからこそ、ただ海があるだけでは下がらぬ。

ならば一戦だ。

一戦して、それでも持久の利が消えたと分からせねばならない。

 

「治部様」

 

左近将監が、少し下から声を掛けた。

 

「北畠勢、こちらの本陣を見ております」

「見るだろうな」

「旗が目立ちますゆえ」

 

そこには、紫地の旗が立っていた。

 

ただの紫ではない。

濃く沈んだ紫の地に、日輪が置かれている。真ん中へべたりと据えたのではなく、やや上へ寄せた形だ。その下へ、風林火山の文字を配してある。武田の旗そのままではない。だが、見た瞬間に、それを思わせる力はある。しかも紫と日輪が入ることで、ただの武辺旗ではなく、もう少し別の格まで匂う。

 

慶次郎が、その旗を見上げて、いかにも嬉しそうな顔をしていた。

 

「やっぱり良いな」

 

「お前が喜ぶものでもない」と助右衛門。

 

「いや、良いだろう。こう、戦って感じがする」

「今さら何を言う」

 

半兵衛は旗そのものより、風向きを見ている。

十兵衛は、北畠側のざわつきを見ていた。

 

実際、向こうの列に少し揺れが出た。

 

「あれは」

「武田か」

「いや、違う」

「風林火山……」

 

遠目にも、そういう空気が動くのが分かる。

紫地に日輪。しかも風林火山。武田そのものではない。だが無視もできない。名家北畠の前へ、こちらが半端な旗では来ていない。それだけは伝わる。

 

十兵衛が低く言った。

 

「効いておりますな」

「ああ」

「ただの飾りには見られておりませぬ」

「そうでなければ困る」

 

俺は旗を見上げた。

 

北畠顕家公の威を借りる気はない。

そんな真似は、さすがに威を借る狐めいている。

だが、顕家公の家へ向けて兵を進めるのなら、こちらもそれなりの覚悟を目に見える形で立てるべきだと思った。

 

半端な旗で来るのは、むしろ無礼だ。

 

そこへ、前へ出ていた北畠側の一団から、使者らしき騎馬が少し進み出た。こちらをうかがっている。

本当に問うつもりなのか、それとも間合いを測るだけか。いずれにせよ、見る先は本陣と旗だった。

 

左近将監が口元だけで笑う。

 

「聞きたそうですな」

「なら、聞かせてやればいい」

「何を」

「これは北畠を愚弄するための旗ではない、と」

 

慶次郎が後ろで小さく「おお」と声を漏らしたが、すぐ助右衛門に小突かれて黙った。

 

俺は前へ一歩出た。

 

大きく叫ぶ距離ではない。

だが、こちらの陣の中には届くし、向こうの先頭も見ている。

 

「伝えよ」

 

前へ出ていた者へそう言う。

 

「これは、北畠を嘲るための旗ではない。顕家公以来の家へ礼を失せぬため、こちらも半端な旗では来ぬ、とな」

 

その言葉はすぐ前へ伝わり、さらに前へ渡る。

向こうの騎馬が止まる。完全に聞こえたかは知らない。だが、意味は届いたはずだ。

 

十兵衛が、横で静かに言った。

 

「具教卿には刺さりましょう」

「刺さるならいい」

「右近には」

「分からんだろうな」

 

そこは、少しだけ苦く笑った。

 

右近に見えるのは、威の張り合いだけだろう。

だが具教卿は違う。こちらが北畠を雑に討ち崩すためだけに来たのでなく、名家として残る道ごと押しに来ていることは、あの男なら旗一つでも読む。

 

海の方で、舟がゆっくりと位置を変えた。

 

四十隻ほどの列が、横へ少し開く。

船ごとの人数は多くない。だが、その少なさゆえに小回りが利く。舳先に寄りすぎず、舷側の射角を取れる位置へ、少しずつ回る。鉄砲組はまだ伏せ気味だ。火縄だけが湿りを避けて静かに守られている。

 

半兵衛が風を見たまま言う。

 

「そろそろです」

「まだだ」

「相手がもう一歩、前へ出ます」

「そうか」

「具教卿が一戦の面目を欲するなら、ここで少しは武を見せる」

 

それも、その通りだと思った。

 

具教卿は理で下がるにしても、一戦もなくは切り替えぬ。

だから今のこの場は、その一戦の入り口だ。

こちらは海も陸も揃えている。向こうは高みへ布陣し、最後の面目を立てようとしている。ならば、どちらが最初の一手をどう見せるかで、この戦の後半はかなり決まる。

 

慶次郎が、槍を少し握り直した。

 

「治部殿」

「何だ」

「旗、良いな」

「さっきも言っただろう」

「いや、今見たらもっと良い」

「そうかよ」

「帰ったら俺もああいうの欲しい」

 

助右衛門がすぐに言う。

 

「まず帰れ」

「分かってるって」

 

その軽口が、妙にありがたかった。

 

戦の口が開く直前というのは、あまり皆が深刻になりすぎると、逆に息が詰まる。

慶次郎みたいなのが一人いて、助右衛門がそれを雑に戻すくらいの方がちょうどいい。

 

左近将監が、前へ目を細めた。

 

「出ますな」

 

北畠勢の前列が、少しだけ動いた。

 

大きな進軍ではない。

だが、構えたまま見ているだけの列ではなくなった。高みから半歩、いや一歩、砂地へ重みを移す。具教卿が一戦の面目を取るなら、まずはそこだ。

 

俺はもう一度、紫地に日輪、風林火山の旗を見上げた。

 

借り物ではない。

だが、こちらの覚悟をまとめるには足る旗だった。

 

「よし」

 

俺は紫地に日輪、風林火山の旗を一度だけ見上げ、それから前を見た。

 

北畠勢は高みを背にしている。

具教卿は、一戦もなく退く男ではない。

 

ならば、こちらも半端な打ち方では駄目だ。最初の一撃で、面目として受けた一戦が、そのまま次を失う入口になると分からせる必要がある。

 

「海へ合図を送れ」

 

半兵衛が顔を上げる。

左近将監の指が止まる。

 

「第一波だけ、ではない」

 

俺ははっきり言った。

 

「ここで具教卿の意地ごと折る。全列撃たせろ。交代は崩すな。だが初撃は惜しむな」

 

左近将監が、わずかに口元を引き締めた。

 

「承知」

 

小旗が上がる。

 

沖の舟列が、それぞれほんの少しずつ角度を変えた。四十隻ほどの船が、ひとかたまりではなく、面になって浜へ向く。舳先へ寄りすぎず、舷側の射角を取り、少人数ずつの鉄砲組が身を低くする。船ごとに十人余り。撃つ者、次弾を込める者、火縄を守る者。全体で見れば、海そのものが火を溜めているような形だった。

 

北畠勢の前列が、ほんの少しだけざわつく。

 

まだ届かぬと思っている者もいる。届くとしても、散発で終わると思っている者もいる。高みを取り、海を見下ろし、名家の一戦として受けるつもりでいる顔だ。

 

具教卿ほどの男なら、半歩先までは読んでいる。

 

だが、その読みに身体が追いつくとは限らない。まして前列の若侍や馬までは、理では抑えきれぬ。

 

「撃て」

 

合図が走った。

次の瞬間、海が裂けた。

一斉だった。

 

だが、ただの一発勝負の一斉ではない。横に広がった舟列の火が、ほとんど同時に噴き、しかも角度が少しずつ違う。正面寄りからも、斜めからも、浜へ向けて火線が重なる。

 

轟音が遅れてまとめて来る。

 

火縄の匂い、硝煙、潮気が一度に押し寄せ、浜と高みのあいだの空気が一瞬で汚れた。命中をいちいち目で追う前に、まず隊列の形が崩れるのが見えた。

 

北畠勢の前列で、馬が跳ねた。

 

一頭、二頭ではない。耳元で面のように火と音を浴びたのだ。人より先に馬が乱れ、それにつられて槍列が歪む。旗指物のまわりで、人が押し合う。高みを取って整然と見せるはずだった前列が、初撃だけで“整っている”顔を失った。

 

「第二列」

 

半兵衛が低く告げる。

 

「撃て」

 

また火が走る。

 

今度は少し間を置いて、しかし躊躇はない。装填済みの別船列、あるいは第一列のうち準備の早い舟から、煙の流れ始めた隙へさらに叩き込む。さっきの一撃で音に怯えた者が、ようやく体勢を立て直しかけたところへ、また別の角度から来る。

 

「なっ……」

 

北畠側の列から、誰かの叫びが風に千切れて届いた。

高みを取っている。

浜を見下ろしている。

 

それなのに、海の方が面で押してくる。しかも一発では終わらない。どこまでが初撃で、どこからが次弾かも分かりにくい。煙が流れ始めたと思ったところへ、また別の火が走る。海岸近くに布陣した兵にとって、これほど嫌な打たれ方もない。

 

慶次郎が後ろで小さく息を呑んだ。

 

「おお……」

 

助右衛門は何も言わない。

だが、槍を握る手だけが少し深くなった。

 

具教卿の本陣寄りで、旗が動いた。

 

乱れたのではない。具教卿自身が、前列の崩れを見て即座に指し手を変えたのだろう。さすがに早い。普通の大名なら、初撃の派手さに一瞬呑まれる。だが具教卿は違う。面目の一戦が、このままでは面目どころか損切りの局面へ変わると、もう読んだはずだ。

 

「まだだ」と俺は言った。

「第三列、行け」

 

左近将監の合図がまた飛ぶ。

 

三度目の火が走った時には、もう北畠勢は“高みで受ける整った陣”ではなくなっていた。

 

崩走とまでは言わない。だが、前列を保つための間と呼吸が死んでいる。馬は落ち着かず、若い者は旗の周りへ寄り、古い者は怒鳴って押し戻そうとする。押し戻せば戻すほど、また海から火が来る。これでは“次を受けて立つ陣”にならない。

 

「すごいな」と慶次郎が、今度は素直に言った。

「静かにしろ」と助右衛門。

 

「いや、だって見ろよ。これ、もう一戦の顔じゃねえぞ」

「そうだ」

 

俺も前を見たまま答えた。

具教卿は、一戦は欲した。

 

その一戦の面目を、高みで受ける形にした。

 

だが、こちらはその“受ける形”そのものを、最初の数息で崩しに来た。これなら、具教卿がこの先に見るのは勝ち筋ではない。どこで家を削らずに止まるか、その一点だけだ。

 

陸側でも、もう小勢が動き始めている。

 

渡しと街道を押さえた隊が、海の斉射で崩れた北畠前列を見て、少しずつ間合いを詰める。まだ本格の突撃ではない。だが“海だけではない”と向こうへ見せるには十分だった。

十兵衛が静かに言った。

 

「具教卿には、もう分かったでしょうな」

「ああ」

「今ここで止まれば、名家として一戦はした。だが、続ければ削れる」

「そういうことだ」

 

海の鉄砲組は、なお交代で火を保っている。

 

全船同時に一発で終わりではない。初撃は全力。だが、全力のまま次弾へも繋げる。そのためにここまで準備した。

 

硝煙が風で少し流れ、北畠側の高みがまた見え始める。

 

そこに残っていたのは、整ってはいるが勝てる顔ではない陣だった。

 

具教卿はまだ崩れていない。さすがにそこまでは浅くない。だが、その周りの空気がもう違う。先ほどまでの“名家の一戦を受ける”重みではなく、“これ以上重ねれば危うい”と皆がどこかで悟り始めた重さになっている。

 

俺は風林火山の旗をもう一度見上げ、それから前へ目を戻した。

 

「十分だ」

 

半兵衛が頷く。

 

「はい。初戦で折れましたな」

「城ではなく、意地の方がな」

 

左近将監が低く笑う。

 

「具教卿ほどの方なら、この一撃で次を読みます」

「読ませるために撃った」

 

それが一番大きい。

 

ただ殺すためではない。

ただ派手に始めるためでもない。

 

名家として一戦受けたなら、その一戦で“次はない”と悟らせるための火だった。

 

浜と高みのあいだには、まだ硝煙の名残が漂っている。

 

潮気と火薬の匂いが混じり、さっきまでの静かな風景をすっかり別物にしていた。もうここから先、具教卿が同じ顔で座り続けることはできない。和を探るにせよ、下がるにせよ、この火を見た後では話し方そのものが変わる。

 

「よし」と俺は言った。

「追い過ぎるな。陸はここで止めろ。海も撃ち方を落とせ。次は使者だ」

 

十兵衛がすぐに取る。

 

「今ここで、具教卿へ“まだ残れる”道を差し出す」

「そうだ」

 

慶次郎が、少し不満そうに言った。

 

「ここで一気に行かねえのか」

 

助右衛門が先に答えた。

 

「一気に行く必要がなくなったからだ」

「……ああ」

 

慶次郎も、今度は素直に頷いた。

 

それでよい。

初戦は終わった。

 

大勝と叫ぶほど長い戦でもない。だが、具教卿の意地を砕くには十分すぎるほどだった。ここから先は、勝った勢いで押し潰す段ではない。折れた意地の上へ、こちらが残す道を置く段になる。

北畠勢の高みで、旗がまた一つ動いた。

 

あれはもう、戦を続ける旗の動きではない。具教卿が次の形を決めるための動きだ。見れば分かる。

風が吹き、紫地に日輪、風林火山の旗が大きく鳴った。

 

こちらは半端な旗では来なかった。

 

向こうもまた、一戦の面目は立てた。

 

ならば次は、どの形で残るかの話になる。

その順でいい。

 

むしろ、その順まで持ってきたこと自体が、もう勝ちに近かった。

 

 

具教卿は、高みの向こうにまだ薄く残る硝煙を見ていた。

 

海からの全力斉射。

前列の崩れ。

馬の乱れ。

そして、追い過ぎず、勝ちに乗じて雑に来ぬ尾張の手つき。

 

あれは、ただ兵站を整えた者の戦ではない。

ただ盤上で人を追い込む者の戦でもない。

そこまで考えたところで、具教卿はふと、苦いものを噛んだように口を開いた。

 

「大事なことを忘れておったわ」

 

傍らの家臣が、すぐに頭を下げる。

 

「何にございましょう」

 

具教卿は、しばらく前を見たまま答えた。

 

「織田治部大輔信繁――あの者、盤上で戦場を転がすより前に、桶狭間で今川治部大輔の首を取り、美濃表で一色左京太夫の首を取った、戦場の男であったわ」

 

家臣は、すぐには返せなかった。

 

具教卿の声は静かだったが、その静けさの中には、今さらながらの噛み締めがあった。

あの男は、評定で人を縛る。

渡しと往来を押さえ、海を太らせ、家中の綻びへ縄を入れる。

だからつい、そちらを本体と思いがちになる。

 

だが違う。

 

そもそもあの治部大輔は、首を取り、血の匂いの中で勝ちを拾ってきた男なのだ。

その上で、今は盤上でも戦を転がしている。

ならば、初戦の一撃がああまで苛烈で、しかも引き際まで正確であったのも、むしろ当然だった。

 

「策で来る男と思うておった」と具教卿は低く続けた。

「違うな。戦を知る者が策も使うから、ああも厄介なのだ」

 

家臣は、そこでようやく深く頭を下げた。

 

「……恐れながら、その通りにございましょう」

 

具教卿は答えない。

 

答えず、ただ前を見ていた。

海の向こうで、紫地に日輪、風林火山の旗がなお風を受けている。

あれもまた、ただ奇を衒った飾りではないのだろう。

戦場の熱を知った者が、盤上で相手を追い込み、そのうえでなお、自ら前へ出る覚悟を旗にしたもの。そう見れば、あの旗の厭らしさもまた少し変わる。

 

「……名家が相手にするには、厄介な男よ」

 

その独り言に近い一言は、風に紛れて小さく散った。

 

 

具教卿が文を机へ置いた時、部屋の空気はまだ重かった。

 

右近の二度の暴発。

長野工藤家の離反。

海からの斉射。

そして尾張から突きつけられた、残るならこの形だという最後の押し。

 

名家として何を残し、何を切るか。

その裁ち方を誤れば、北畠の名そのものが痩せる。具教卿はそれを分かっていたし、座の者たちもまた、今さら軽い理屈では動かぬところまで来ていることを知っていた。

 

「返しを整えよ」

 

具教卿がそう命じた時、下に控えていた老臣たちが頭を下げる。

 

「は」

「長くするな。北畠の家名と祭祀、南伊勢の面目は保つ。そのうえで、尾張に委ねるべきところは委ねる。曖昧にはするな」

「承知いたしました」

 

そこまではよかった。

だが、次に誰を使者に立てるかとなると、座の中にわずかな迷いが生まれた。

 

右近は論外だ。

若い火はまだ燻っているし、今あれを前へ出せば、それだけで文が死ぬ。

老臣を立てるのは穏当だが、穏当すぎる。尾張はすでにこちらの一戦を受けて勝った。その後にただ老人を遣るだけでは、いかにも削られた家の顔になる。

かといって、重臣を出せば出したで、今度は北畠側が下がりすぎたようにも見える。

 

その沈黙へ、すっと別の声が入った。

 

「ならば、私が参りましょう」

 

座の空気が変わった。

 

奥寄りに控えていた女房たちのあいだから、一人が進み出る。

雪姫だった。

 

末姫。

だが、ただ奥に籠もっている姫ではない。さっきまで表へ出ていなかっただけで、実のところ、初戦の間も女伊達らに紛れてかなり前まで出ていた。具教卿がそれを知らぬはずもないし、知らぬふりをしていたわけでもない。ただ、今その事実を表へ出すかどうかは、また別の話だった。

 

雪姫はまっすぐに父を見た。

 

「姫が、か」と具教卿。

 

「はい」

 

その声には、右近のような熱はない。

具教卿のような重い抑えとも違う。

澄んでいる。だが引いてはいない。北畠の娘として、今ここで自分が出る意味を、少なくとも本人の中ではきちんと立ててきた声だった。

 

老臣の一人が慎重に口を挟む。

 

「雪姫様。使者は軽き役目ではございませぬ」

「軽いなどと思っておりませぬ」

 

雪姫は視線を逸らさない。

 

「だからこそです。右近兄様は今、表へは出せませぬ。重臣を出せば、北畠がただ頭を下げたようにも見えましょう。ならば、北畠の娘として私が参る方が、まだ家の顔は立ちます」

 

それはかなり正しかった。

 

若殿は使えず、老臣だけでは弱い。

そこで末姫が出る。

しかもただの奥向きの姫でなく、戦場近くまで出ていた女伊達らの中に混じれる胆がある。そういう娘なら、尾張側も侮りにくい。

 

だが具教卿は、すぐには頷かなかった。

 

「お前は、どこまで見ていた」

 

部屋の空気が少しだけ冷える。

 

雪姫は答える前に、ほんのわずかだけ顎を引いた。

 

「浜の高みから海まで、ある程度は」

「女伊達らに紛れて、か」

「……はい」

 

老臣たちの中に、ごく小さなざわめきが走る。

知っていた者もいただろう。知らなかった者もいる。だが、ここで具教卿がわざわざそれを口にしたのは、ただ咎めるためではない。娘がどこまで勝手をしたかを確かめると同時に、その胆をこの場で測り直しているのだ。

 

「怖くはなかったか」

「怖うございました」

 

雪姫は即答した。

 

「ですが、怖いから見ぬままでいては、北畠の娘として後々まで恥になると思いました」

 

その返しに、老臣たちはもう口を挟めなかった。

 

具教卿も黙って娘を見る。

 

右近なら、ここで“怖くはない”と強がったかもしれない。

だが雪姫は違う。怖かったと認め、そのうえで見たと言う。そこがもう、兄とはだいぶ違っていた。

 

「見て、どう思うた」

 

具教卿の問いは短かった。

 

雪姫は少しだけ息を吸った。

 

「尾張は、ただ押し潰しに来たのではありませぬ」

「ほう」

「少なくとも、あの旗と、あの撃ち方はそうでした。こちらへ礼を失せぬ形で来ており、そのうえで、これ以上は持たぬと分からせに来ていたように見えました」

 

そこまで言うと、座の者の中にまた別の沈黙が落ちた。

 

紫地に日輪、風林火山の旗。顕家公の旗。阿倍野神社に伝わる、北畠親房の書とも言われる旗だ。

海からの全力斉射。

追い過ぎない手つき。

雪姫はそれを、ただ怖い戦の光景としてではなく、意味まで含めて見ていたらしい。

 

具教卿の目が、わずかに細くなる。

 

「ならば、お前はその者の前へ出ると申すか」

「はい」

「何を言う」

「北畠を雑に扱うな、と」

 

雪姫の声は澄んでいた。

 

「ですが同時に、次郎を工藤家の当主として立て、北畠の家名も残す道を本当に示すなら、その話は私も聞く、と申します」

 

老臣の一人が、思わずと言ったふうに顔を上げた。

その言葉は、今この局面で最も欲しい芯だったからだ。

 

具教卿はなお娘を見ていた。

 

「使者は、言葉を運ぶだけでは足りぬ」

「承知しております」

「相手が何を隠し、何を本気で言うておるか、持ち帰らねばならぬ」

「はい」

「お前にそれが出来るか」

 

雪姫は、そこで初めてほんの少しだけ口元を引き結んだ。

若い。だが、揺れてはいない。

 

「分かりませぬ」

 

それでも正面から言った。

 

「ですが、今の北畠で、誰が参れば一番ましにございますか、と問われれば、私が参るのが一番ましにございます」

 

具教卿は、その答えにしばらく何も返さなかった。

 

末姫にそこまで言わせる時点で、北畠がどこまで追い込まれているかは痛いほど分かる。

だが同時に、その追い込まれた座の中で、なお家の顔を立てる者として雪姫が出てきたことは、決して弱い話でもなかった。

 

やがて具教卿が口を開く。

 

「よい」

 

座が静まる。

 

「使者に立て」

 

老臣たちが頭を下げる。

 

「は」

「だが、雪姫」

 

具教卿の声が少しだけ低くなった。

 

「伊勢国司としての面目を失するな」

 

雪姫は深く頭を下げた。

 

「心得ております」

「頭を下げに行くのではない。北畠の家を残すために行くのだ」

「はい」

「次郎のことも、工藤家のことも、軽く扱うな」

「はい」

 

その“はい”は小さかったが、はっきりしていた。

 

これで決まった。

 

北畠の返しは、ただの文ではなくなる。

末姫が自ら使者に立つ。

それはつまり、北畠がまだ家の顔を失っていないと示す最後の一手でもあるし、同時に、もう右近の熱ではなく別の色で話を通しに来るということでもある。

 

具教卿は最後に一度だけ娘を見た。

 

右近には言えなかったことも、雪姫には言わずに済む。

そういう目だった。

 

雪姫は下がった。

だが、下がるその足は乱れていない。女伊達らに紛れて戦場を見ていた者の足だ。奥へ戻る姫の足ではなく、次にどこへ出るかをもう決めている足だった。

 

障子が閉まったあと、老臣が低く言った。

 

「姫にまで、この役を負わせることになりましょうとは」

 

具教卿は、すぐには答えなかった。

 

やがて、静かに言う。

 

「右近が二度火を噴き、次郎が工藤家の名で立つと言うた以上、今の北畠で澄んだ顔をして出られるのは、あれくらいのものだ」

 

その一言で、座の者は皆、もう何も言えなかった。

 

北畠は今、右近の熱でも、次郎の白さでもなく、雪姫の澄み方で尾張へ向かおうとしていた。

それが吉と出るかどうかはまだ分からない。

だが少なくとも、北畠はただ削られているだけではなく、自分で残る形を選びにいく。その意思だけは、今この場ではっきりと立った。

 

 

昼の光は、戦の直後ほど妙に白い。

 

硝煙はもうだいぶ流れた。

だが、浜と高みのあいだにはまだ火薬と潮の匂いが薄く残っている。初戦は短かったが、その短さのわりに、空気の中へ置いていったものは重かった。北畠勢はなお高みを保っている。こちらもまた追い過ぎず、海と陸の圧を示したところで止めた。だからこそ、今この場は“戦のあと”であると同時に、“話の前”でもあった。

 

本陣近くでは、紫地に日輪、風林火山の旗がまだ風を受けている。

 

慶次郎はさっきまであの旗を見上げていたが、今は槍を脇へ立てたまま、やや後ろへ下がっている。助右衛門は相変わらず地味な顔で周りを見ている。半兵衛は人の流れ、十兵衛は言葉の流れを見ていた。左近将監だけが、少し離れた前方へ意識を尖らせている。

 

「来ますな」と左近将監が言った。

 

北畠側の高みから、白旗ではないが、それに準ずる静かな列が下りてくる。

騎馬は少ない。供は絞られている。使者としては多すぎず、しかし名家の顔としては軽くもない数だ。

 

その先頭にいたのが、雪姫だった。

 

俺は思わず息を止めかけた。

 

右近のような熱さではない。

具教卿のような重さとも違う。

次郎殿のまだ何色にも染まらぬ白さとも別だ。

 

立った瞬間に、空気の温度が少し変わる。

それでいて、わざとらしくない。こちらへ威を張ってくるのでもなく、怯えて縮こまるのでもない。北畠の娘として出てくるなら、たぶんこういう歩き方になるのだろうと思わせるものがあった。

 

しかも若すぎない。

 

天文十五年まれなら、今は十五前後。

幼い姫君ではない。右近やこちらの若い連中とも大きくは離れぬ年で、だからこそ“名家の娘として前へ出る”ことに説得力がある。あの立ち方は、たしかに十やそこらでは出ない。

 

「……なるほどな」

 

気づけば、そんな声が出ていた。

 

十兵衛が横から小さく言う。

 

「何にございますか」

「右近とも、具教卿とも、次郎殿とも違う」

 

半兵衛が、少しだけ目を細める。

 

「雪姫様ですか」

「ああ」

 

言いながら、視線は離せなかった。

 

顕家公以来の家。

それを言葉ではなく、ふっと形で思わせるものがある。右近のように“名家の威”を自分の大きさで代用するのでもない。具教卿のように重みで座を支配するのでもない。ただ、澄んだまま前へ出てくる。そういう色も、あの家にはまだ残っていたのかと思った。

 

雪姫の列が本陣近くで止まる。

 

左近将監が一歩前へ出たが、俺はそれより半歩先へ出た。

 

「北畠の使者として参りました」と雪姫が言った。

 

声も、見た目と同じだった。

高くない。かといって無理に低くもない。こちらへ媚びず、しかし硬すぎて折れる音もしない。戦の後の使者に要る声だった。

 

「お受けいたします」と俺は答えた。

 

雪姫の目が、そこで初めてまっすぐこちらへ来た。

 

一瞬だけ、向こうもこちらを測ったのだろう。

旗を見て、海を見て、戦の手つきを見て、それでもなお目の前にいる男が何者なのかを。

 

「織田治部大輔殿でございますね」

「左様にございます」

「父、具教が文を託しました」

「承ります」

 

雪姫が文を差し出す。

受け取るのは十兵衛に任せてもよかった。だが、ここは自分で受けた方がいいと思った。礼をどう返すかは、こういう細部にも出る。

 

受け取った時、雪姫がほんのわずかに本陣の旗へ目を向けた。

 

「……治部大輔殿」

「何でしょう」

「その旗、ただの思いつきではございますまい」

 

俺は黙って待った。

 

雪姫は視線を逸らさない。

 

「顕家公以来の家へ向けて掲げるには、あまりに意味がありすぎます。北畠を愚弄するための旗でないことは、先ほどの戦の手つきを見れば分かります」

 

そこまで言って、ほんの少しだけ間を置く。

 

「ですが、だからこそ伺いたいのです。何のつもりで、あの旗を立てられたのですか」

 

いきなりそこを問うか。

やはり、ただの奥向きの姫ではない。

 

俺は少しだけ空を見てから答えた。

 

「顕家公の威を借りるつもりはありませぬ」

 

雪姫の目がわずかに細くなる。

 

「では」

「顕家公以来の家へ、礼を失したくなかっただけです」

 

雪姫は黙っていた。

だが、その沈黙は拒絶ではない。続きを待つ沈黙だった。

 

「北畠を雑に討ち崩すためだけに来たのなら、もっと別の旗で来ます」

「……そうおっしゃる」

「そう申します。右近殿の二度の越境で理は尽きた。長野工藤家も次郎殿の名で動き始めた。だから押しには来ました。ですが、それでも北畠を無惨に削るためだけに来たのではない」

 

そこまで言うと、雪姫はなお黙って聞いていた。

 

「顕家公の家だからこそ、残る形があるならその方がよい。そう思っております」

 

その一言は、少し本音が混じりすぎたかもしれない。

だが、ここで嘘の整った言葉だけを並べても、雪姫には見抜かれる気がした。

 

しばらくの沈黙が落ちる。

 

風が吹いて、紫地に日輪、風林火山の旗が一度大きく鳴った。

 

雪姫はその音を少しだけ聞いてから、ようやく口を開いた。

 

「……なるほど」

 

それは感心でも、即座の納得でもない。

“この男は北畠を単なる獲物としてだけは見ていない”と、ひとまず受け取った声だった。

 

「では、治部大輔殿」

「はい」

「北畠を残す道を、本当に示されるのですね」

「示します」

「次郎を、工藤家の当主として立てる道も」

「切っておりませぬ」

「父の家名と、次郎の名と、工藤家の形。その三つを雑にせずに」

「そのために、今ここまで来ました」

 

雪姫は、それを聞いてもすぐには頷かなかった。

だが、目を逸らしもしなかった。

 

そのまっすぐさに、ふと次郎殿を思い出した。

やはりあの家には、まだこういう目が残っているのだろう。右近のような熱だけではなく、次郎のような白さだけでもなく、その間で澄んで立つ者が。

 

「……分かりました」

 

雪姫は静かに言った。

 

「では、父の文をお読みくださいませ。そのうえで、北畠を本当に残すつもりがあるのなら、次の言葉を違えぬよう願います」

「承ります」

 

そこまでで、ようやく使者としての場が立った。

 

十兵衛が横で文を受ける支度を整え、半兵衛は向こうの供回りの人数まで目で数えている。左近将監は、雪姫の列が余計な武辺の顔をしていないことを確認していた。皆それぞれ仕事をしている。だが、場の芯は完全に雪姫とこちらのやり取りへ移っていた。

 

雪姫はすぐには下がらない。

もう一度だけ、旗へ目を向け、それから俺へ戻した。

 

「治部殿」

「何でしょう」

「顕家公のお名前は、軽々しく口にして済むものではございませぬ」

 

その刺し方に、思わず少しだけ笑いそうになる。

 

「承知しております」

「本当に?」

「本当に」

「ならば結構」

 

その返しはわずかに冷たく、だが少しだけ柔らかくもあった。

 

十兵衛が後ろで小さく息を吐いた。

半兵衛は口元だけで笑っている。たぶん、今の一言でだいぶ場が決まったと思ったのだろう。

 

雪姫は最後に一礼した。

 

北畠の使者として。

そして、末姫でありながら今この局面で前へ出てきた者として。

 

その礼を見て、やはり思った。

 

右近ではない。

次郎でもない。

具教でもない。

だが確かに、顕家公以来の家の色だ。

 

雪姫が下がっていくのを見送りながら、俺はようやく息を吐いた。

 

「……危なかった」

 

半兵衛がすぐ言う。

 

「何がにございますか」

「軽々しく余計なことを言いそうになった」

 

十兵衛が、珍しく露骨に顔をしかめた。

 

「おやめくださいませ」

「分かってる」

「今ので十分危のうございました」

「分かってるって」

 

そう答えながらも、胸の内では妙に熱いものが残っていた。

 

戦のあとだ。

具教が折れるかどうかの局面だ。

それなのに、雪姫が出てきたことで、北畠を残すという話が、ただの政略ではなく少しだけ別の手触りを持ち始めた。

 

良くも悪くも、それはもう否定しようがなかった。

 

 

雪姫が去ったあとも、しばらく風だけが残っていた。

 

紫地に日輪、風林火山の旗が一度、二度と鳴る。

浜と高みのあいだに立っていた緊張は、使者が来る前と後とで少し質を変えていた。戦の気配が薄れたわけではない。むしろ逆だ。どの形で止めるか、どの形で残すか、その話がようやく人の顔を持ったのだ。

 

俺は雪姫から受け取った文へ目を落とした。

 

具教卿の返書は、予想した通りでもあり、予想より一歩深くもあった。

北畠の家名と祭祀、南伊勢の面目を保つこと。

次郎殿を工藤家当主として認めること。

軍事と往来、境目の扱いを尾張へ委ねること。

そして、それらをただ降った形ではなく、名家が形を変えて残るための結びとすること。

 

文としては整っている。

だが、それを雪姫に持たせた時点で、中身は文以上のものになっていた。

 

「どう見ます」と十兵衛。

 

「具教卿は腹を切ったな」

「はい」

 

半兵衛も頷く。

 

「一戦はした。その一戦で、これ以上は家を削るだけと見切ったのでしょう」

 

左近将監が少しだけ空を見た。

 

「右近殿には苦い結びでしょうな」

「右近は今、考えなくていい」

 

そう返してから、自分でも少し冷たい言い方だと思った。

だが本当に、今は右近ではない。あの若殿の熱はもう二度、十分すぎるほど盤を動かした。ここから先に要るのは、具教卿の重さと、次郎殿の名と、そして雪姫のように澄んだ北畠の顔だ。

 

文を閉じる。

 

「上総介兄上と勘十郎兄上へは」

 

十兵衛がすぐに答える。

 

「すぐに飛ばします。雪姫様が使者に立ち、具教卿がこの形で返してきた以上、受けるか受けぬかの裁断に入らねばなりませぬ」

 

「受けるだろう」と半兵衛。

 

「ええ」と俺。

「ただし、条件の書き方は詰める」

 

そこが最後の肝だった。

 

向こうは腹を切った。

だが、その腹の切り方をこちらが雑に受ければ、北畠は“結局は尾張に呑まれた”形でしか残らない。そうなると、せっかく次郎殿が工藤家として立つ話も、雪姫が澄んだ顔で出てきた意味も薄くなる。

 

「治部様」と半兵衛。

 

「何だ」

「どこを詰めます」

「二つだ」

 

俺は指を二本立てた。

 

「ひとつ。次郎殿は、北畠が預ける駒ではなく、工藤家当主として立つと明記させる」

「はい」

「ふたつ。北畠は“許されて残る”のでなく、“名家として形を変えて残る”と見える文にする」

 

十兵衛が静かに後を取る。

 

「勝者の慈悲、のように見せぬわけですな」

「そうだ」

「なるほど」

 

左近将監が低く笑った。

 

「そこまで気を遣う相手も珍しい」

「珍しい相手だからな」

「顕家公以来の家、にございますか」

「それもある」

 

認めてしまうと、半兵衛が少し面白そうな顔をした。

 

「それ“も”と仰ると、ほかにもありそうに聞こえます」

「うるさい」

「雪姫様ですか」

「半兵衛」

「はい」

「お前はたまに余計なところだけ冴えるな」

「便利ですので」

 

それには十兵衛まで少しだけ口元を緩めた。

 

だが、冗談で流せるほど軽い話でもない。

雪姫が出てきたことで、北畠をどう残すかが急に人の顔を持ち始めたのは本当だ。具教卿の文だけなら、まだ理と理の噛み合わせで済む。だが、あの姫が旗を見て、顕家公の名を軽々しく口にするなと刺し、そのうえで次郎殿と北畠の両方を雑にするなと言った。あれを受けたあとで、こちらがぞんざいな文を書けば、たぶん全部が安くなる。

 

「十兵衛」

「はい」

「受諾の文は、お前が起こせ。だが一度、俺にも細かく見せろ」

「承知しました」

「半兵衛、お前は長野工藤家寄りへ先に言葉を回せ。次郎殿の名の下で話が進むと分かれば、旧臣と慎重派の寄り方が変わる」

 

「はい」

「左近将監」

「はっ」

「雪姫が戻るまで、海は目立つな。だが、崩すな」

「承知」

 

仕事が割れる。

 

それぞれが動き始めたあと、俺は少しだけその場に残った。

雪姫の去った方向を見る。もう見えるはずもないのに、視線だけがそちらへ残る。

 

「治部様」と十兵衛。

 

「何だ」

「先ほどの場で、だいぶ本音が出ておりましたな」

「何のことだ」

「顕家公の家だからこそ、残る形があるならその方がよい、と」

「言ったか」

「言いました」

「……言ったな」

 

そこは否定できなかった。

 

十兵衛は淡々としている。

 

「悪くございません」

「またそれか」

「はい。悪くございません。打算だけでは、あそこまでの言葉は出ませぬ。ですが打算がないわけでもない。その混ざり方がちょうどよろしゅうございます」

「お前、褒めてるのか分析してるのか分からんな」

「両方にございます」

 

半兵衛が、帳面を抱えたまま横から言う。

 

「要するに、治部様が雪姫様に少しやられた、ということかと」

「お前ら本当に嫌なやつだな」

 

「今さらです」と半兵衛。

 

そう言いながらも、胸の内を完全には否定できないのが少し悔しい。

 

雪姫は、北畠の姫として前へ出てきた。

ただ可憐だとか、澄んでいるとか、そんな軽い言葉だけでは足りない。場を読んで、家を背負い、それでも旗を見て問いを投げてきた。あれを前にして、こちらがただ策だけで話を回していたら、たぶんどこかで負けていた。

 

「……まあいい」

 

そう言って、気持ちを切り替える。

 

「今は文だ。具教卿が腹を切った以上、こっちも受け方を違えるな」

「はい」

「はい」

 

二人が答える。

 

その時、外で小さな足音が止まった。

若い足軽が障子越しに声を掛ける。

 

「治部様」

「入れ」

 

入ってきた足軽は、北畠側からではなく長野工藤家寄りからの者だった。

 

「次郎様の御側より、口上にございます」

 

部屋の空気がまた引き締まる。

 

「申せ」

「雪姫様がこちらへ立たれたと聞き、次郎様は、“姉上がそうなさるなら、自分も工藤家当主として恥じぬよう立たねばならぬ”と仰せにございます」

 

しばし、誰も何も言わなかった。

 

十兵衛がゆっくり目を伏せる。

半兵衛は、今度は笑わなかった。

 

俺は、その短い口上が胸へ落ちるのを少し待ってから、ようやく息を吐いた。

 

「……そうか」

 

雪姫が立てば、次郎殿も立つ。

右近の火で崩れかけた北畠の家が、今度は別の形で自分を保とうとしているのかもしれない。具教卿の重さ、雪姫の澄み、次郎殿の白さ。その三つが揃うなら、北畠はただ折れるのでなく、形を変えて残る。

 

「伝えよ」と俺は言った。

 

「次郎殿へ。工藤家を工藤家として立てるなら、こちらもその名を雑には扱わぬ、と」

 

足軽が深く頭を下げる。

 

「はっ」

 

下がっていく背を見送りながら、俺はようやく本当に分かった気がした。

 

この戦は、ただ北畠を削るためだけのものではなかった。

右近の熱で崩れたものを、具教卿の判断と雪姫の使者と次郎殿の一言で、どう別の形へ立て直すか。そこまで含めて、この戦なのだ。

 

そして、そういう戦にしてしまった責の一端は、たぶん俺にもある。

 

「治部様」と半兵衛。

 

「何だ」

「上手く行っておりますよ」

 

今度は茶化しではなかった。

 

「ここまでは、ではなく?」

 

「ええ」と半兵衛。

「ここから先も、でございます」

 

十兵衛も小さく頷いた。

 

「はい。あとは、違えぬように受けるだけにございます」

 

俺は机の上の文へ手を置き、静かに頷いた。

 

「なら、違えぬようにやる」

 

それで十分だった。

 

 

夕刻に入る前、稲葉山からの返書が届いた。

 

速い。

だが、ここまで来れば速いのは当然でもある。北畠具教卿が実質的に腹を切り、雪姫が使者に立ち、次郎殿が工藤家当主として立つ意思を見せた。これでなお本家が日を置くなら、かえって局面を鈍らせる。

 

十兵衛が封を切り、文を開く。

その横で半兵衛は帳面を閉じ、左近将監は口をつぐんだ。部屋の中の全員が、もう内容は半ば読めている。それでもやはり、最後は兄上方の言葉として見ねばならない。

 

「何と」

 

俺が問う前に、十兵衛が静かに読み上げた。

 

「上総介様、勘十郎様ともに、北畠との結びを認められました」

 

そこで一度切る。

 

「ただし」

「そこだな」

「はい。次郎殿を工藤家当主として立てることを明文で定めること。北畠は家名・祭祀・南伊勢での面目を保つこと。軍事・往来・境目の扱いは織田へ委ねること。長野工藤家への北畠側の直接介入は以後認めぬこと」

 

半兵衛が小さく頷いた。

 

「きれいに入りましたな」

「きれいすぎるくらいだ」

「ええ。だからこそ、ここで違えると全部崩れます」

 

左近将監が続けた。

 

「海はどうします」

 

「止めるな」と俺。

「だが見せつけるな。結びが確かに交わるまで、まだ“備えがそのまま座っている”形にしておけ」

 

「承知」

 

十兵衛がさらに文を読み進める。

 

「勘十郎様より。“北畠へ勝ちを売るな。残る形を与えたと見せるな。あくまで名家同士が形を変えて並び直した文に整えよ”」

「らしいな」

「上総介様からは、“治部、満足するのはまだ早い。結びの文と人の顔が揃って初めて勝ちだ”」

 

それには、思わず少し笑った。

 

「本当にその通りだ」

 

ここまで来れば、理はほとんど定まっている。

だが、理が定まることと、話が本当に結ばれることは違う。最後の文を違えれば、雪姫が前へ出た意味も、次郎殿が立つと言った意味も、具教卿が右近を引かせた重みも、全部が安くなる。

 

「誰を出しますか」と十兵衛。

 

「こちらからか」

「はい。最後の結びの場へ」

 

少しだけ考えた。

 

左近将監でもよい。

十兵衛でもよい。

だが、ここまで来た流れを思えば、それでは足りない気もした。

 

「……俺が行く」

 

三人とも顔を上げた。

 

半兵衛が先に言う。

 

「そこまでなさいますか」

「ここまで来たからだ」

「危うくは」

「危うい」

 

そこは認めた。

 

「だが、雪姫が出て、具教卿が腹を切り、次郎殿が工藤家当主として立つと言った。その場へ、こちらが文と代理だけで済ませたら、最後のところで薄くなる」

 

十兵衛が静かに言う。

 

「では、治部様みずから、北畠と工藤家の両方へ“雑に扱わぬ”と見せるわけですな」

「そうだ」

 

左近将監が口元だけで笑う。

 

「雪姫様がお出ましになった時点で、半分はそうなると思っておりました」

「余計なことは言うな」

「申しませぬ」

 

半兵衛がそこで、珍しく真面目な顔で言った。

 

「でしたら、なおさら人選を絞りましょう。多くは要りませぬ。治部様、十兵衛殿、左近将監、それに最低限の供」

 

「助右衛門も連れていく」と俺。

 

「慶次郎殿は」と半兵衛。

 

少し考えてから首を振った。

 

「今回は置く。あいつは戦場には華があっていいが、結びの場では華が立ちすぎる」

 

「たしかに」と十兵衛。

 

「不満を言うでしょうな」と左近将監。

 

「言わせておけ」

 

そこまで決まると、部屋の空気が一気に実務へ戻る。

 

十兵衛は結びの文面へ。

半兵衛は供回りと段取りへ。

左近将監は北畠側へ、こちらが受ける用意ありの筋を静かに返す手配へ。

皆が動き始めたあと、部屋に一瞬だけ俺一人の時間ができた。

 

机の上には、兄上方の返書と、具教卿の返書の控えと、雪姫が運んできた文の余韻がある。

 

ずいぶん遠くまで来た。

 

長野工藤家を縄で縛った時は、まだこんな形までは見えていなかった。右近が一度踏み越え、二度目でさらに理を渡し、具教卿が火消しに回り、次郎殿が工藤家当主として立つと言い、雪姫が使者に出た。その全部を通って、ようやくここだ。

 

「……上手く行ったな」

 

独りでそう呟くと、障子の向こうから半兵衛の声が返った。

 

「聞こえておりますよ」

「お前、いちいち耳ざといな」

「ここまでは、と申し上げるべきか迷っておりました」

「今日は言うな」

「では言いませぬ」

 

その返しに、少しだけ肩の力が抜けた。

 

夕暮れまでには、こちらの受諾文も整った。

 

北畠の家名と祭祀、南伊勢の面目を認める。

次郎殿を工藤家当主として認める。

軍事・往来・境目は織田が担う。

両家は争って削り合うのでなく、形を変えて並び直す。

そういう文だ。

 

文だけ見れば穏やかですらある。

だが、その穏やかさに至るまでに、どれだけの火と血と意地が要ったかを知っている者には、これはもう十分すぎるほど重い。

 

「できました」と十兵衛。

 

受け取って読む。

よく出来ている。勝者の慈悲に見えず、敗者の命乞いにも見えない。名家と名家が、盤を一度ひっくり返した末に、新しい位置へ置き直したような文だ。

 

「いい」

「はい」

「これで行く」

 

左近将監が、外の空を見た。

 

「今夜のうちに筋だけ返しておけば、明日の場は整いましょう」

「そうしろ」

 

半兵衛が帳面を抱え直す。

 

「では、明日でございますな」

「ああ」

 

その一言で、部屋の全員の背が少しだけ伸びた。

 

明日。

ただの使者のやり取りでは終わらない。北畠と工藤家と織田家の、形を変えた結びの場になる。そこに雪姫が来る。次郎殿の名も出る。具教卿の重さも、こちらの押しも、全部が最後に一度だけ同じ卓へ載る。

 

「治部様」と十兵衛。

 

「何だ」

「明日は、余計なことを仰らぬよう」

「何のことだ」

「顕家公がどうのと、勢いで増やさぬように、でございます」

「……分かってる」

 

半兵衛が横から言う。

 

「本当に?」

「本当にだ」

「では結構」

 

左近将監まで、口元だけで笑っている。

本当に嫌な連中だ。だが、こういう嫌さが今はありがたい。

 

外はもう暮れかけていた。

戦のあとの夕暮れは、不思議と静かだ。兵は動いている。荷も流れている。だが、大声はない。皆、明日のために一度息を潜めている。

 

俺は受諾文を折り、机へ置いた。

 

明日で、形は決まる。

北畠は北畠として残り、工藤家は工藤家として立つ。

その場を、自分の目で見届ける。

 

そこまで思ったところで、ようやく本当に腹が据わった気がした。

 

 

 

 

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