織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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035伊勢北畠の姫

翌朝、空はよく晴れていた。

 

こういう日の方が、かえって気を抜けない。

雨なら人も馬も荷も鈍る。だが晴れていると、皆どこかで「今日は上手く運ぶ」と思いたがる。そういう時に限って、言葉一つ、礼一つの違いが妙に目立つ。戦の後の結びというものは、槍で突くより細いところでこじれることがある。

 

場は、浜から少し離れた松の疎らな高みの下へ設けた。

 

戦場そのものではない。

だが、まったく無関係な座敷でもない。

海も高みも見える場所で、しかも双方が「昨日までそこに兵がいた」と分かるところ。そこに床几と毛氈を置き、双方とも供は最小に絞る。大きく見せる段はもう終わった。ここで必要なのは、残る形を誤らぬことだけだ。

 

こちらは、俺、十兵衛、左近将監、助右衛門。

半兵衛は少し引いた位置で全体を見ている。あいつはこういう場で前へ出る顔ではないが、後ろから一番よく効く。

 

向こうから来たのは、雪姫だった。

 

昨日と同じ顔ぶれではある。

だが、今日は昨日の“使者”より一段重い。雪姫の後ろには老臣が一人、さらにその少し後ろへ次郎殿がいた。

 

そこを見た時、少しだけ息を呑んだ。

 

「……次郎殿までか」

 

左近将監が低く言う。

 

「具教卿、本気ですな」

 

その通りだった。

 

ただ文を往復させるだけなら、雪姫で足りる。

それでも次郎殿を出してきたのは、工藤家当主として立てる話を、本当にこの場で形にするつもりだということだ。具教卿は、最後のところで逃げていない。

 

次郎殿は、あの日よりも幾分ましな顔をしていた。

まだ幼い。緊張もしている。だが、今日は“そこへ座らされているだけ”ではない。工藤家当主として出る場だと、本人にも分かっているのだろう。

 

双方が所定の位置で止まる。

 

雪姫が一礼した。

 

「本日は、北畠の名と工藤家の名、そして昨日までの戦を、これ以上無用に荒立てぬために参りました」

 

「こちらも同じです」と俺は返した。

「北畠を無惨に削るためではなく、残る形を違えぬために」

 

雪姫の目が、わずかに動く。

昨日の言葉を、こちらがそのまま軽くせずに持ってきたのを見たのだろう。

 

老臣が一歩進んで文を差し出す。

こちらも十兵衛が前へ出て受け、代わりにこちらの受諾文を渡す。

 

ここからは、本来なら文の読み合わせになる。

だが、今日は人が出ている以上、紙だけで済ませる方がかえって薄い。

 

「雪姫様」と十兵衛が静かに言った。

 

「はい」

「こちらの受諾は、昨日の通りにございます。北畠家の家名・祭祀・南伊勢での面目は保つ。次郎殿は工藤家当主として立つ。軍事・往来・境目は織田が担う。これを、大義名分だけでなく、実のある形で結ぶ」

 

雪姫は頷いた。

 

「父も、そのつもりにございます」

 

そこへ、今度は次郎殿が小さく口を開いた。

 

「……私は」

 

まだ声は幼い。

だが、逃げていない。

 

「私は、工藤家当主として立ちます」

 

その一言で、場が少しだけ締まった。

 

老臣も、雪姫も、誰も助け舟を出さない。

それがいい。今は、あの子が自分で言わねばならないところだからだ。

 

「北畠の御血は、変えられませぬ」と次郎殿は続けた。

「ですが、工藤家の名も、雑にはいたしませぬ」

 

言い切るまでは少し危なっかしかった。

それでも最後まで持った。

 

俺は、思わず少しだけ笑いそうになるのを堪えた。

笑うような場ではない。だが、あの子がここまで言えたことは、正直かなり嬉しかった。

 

「それでよろしい」と雪姫が静かに言った。

「次郎様がそう立たれるなら、北畠もまた、その形を認めます」

 

その言い方も上手い。

 

“北畠が許す”ではない。

“その形を認める”だ。

上から押さえつけたままではなく、形を変えて受け入れる。雪姫はそこをちゃんと分かって言葉を置いている。

 

十兵衛が、こちらの文の肝をさらに読み上げる。

 

「なお、以後長野工藤家領へ、北畠側より直接兵を入れ、往来・渡し・蔵・馬へ手を掛けることは認めぬ。違えれば、これはただちに結びを破るものとして扱う」

 

老臣が深く頷いた。

 

「異存ございませぬ」

 

「右近殿も」と十兵衛。

 

その名が出ると、空気が少しだけ冷えた。

 

雪姫が答える。

 

「兄は、今後この儀には関わらせませぬ」

 

言葉は柔らかい。

だが、中身は重い。

兄を切り捨てるとまでは言わぬが、少なくとも今この場の秩序からは外す。雪姫がそれを言うのは、北畠側が右近の火を本気で危険視している証でもある。

 

助右衛門が、そこで初めて低く口を開いた。

 

「では、結びの後にまた若殿が暴れぬ保証は」

 

少しきつい問いだった。

だが、誰かが言わねばならぬところでもある。

 

雪姫は、その問いから逃げなかった。

 

「保証は、北畠が立てます」

「どう」

「父が」

 

短い。

だが十分だった。具教卿の名がそこで出るなら、軽い約束ではない。

 

左近将監がそのやり取りを横目で見て、わずかに顎を引く。

たぶん、今ので最後の不安の一つがだいぶ消えたのだろう。

 

しばしの沈黙のあと、俺は口を開いた。

 

「雪姫様」

「はい、治部大輔殿」

「一つだけ、こちらからも申しておきます」

 

雪姫はまっすぐこちらを見る。

 

「次郎殿を、ただの名目として扱うつもりはありませぬ」

 

次郎殿の肩が、わずかに動いた。

聞いている。きちんと。

 

「工藤家を工藤家として立てるなら、その名は雑に使わぬ。北畠を残すにしても同じです。勝った側の慈悲のように扱うつもりもない」

 

雪姫は、そこでほんの少しだけ目を伏せた。

安心したのか、あるいはそこまで言わせたことに別の感情が動いたのか、そこまでは分からない。

 

「……承りました」

 

その返しは、昨日より少しだけ柔らかかった。

 

文の交換が終わる。

次郎殿の口からも言葉が出た。

右近を結びから外すことも、北畠側は認めた。

ここまで来れば、もう形式だけではない。中身が通ったと見ていい。

 

老臣が深く頭を下げる。

 

「では、北畠と工藤、そして織田、この形にて」

 

十兵衛も一礼した。

 

「違えぬよう、こちらも整えます」

 

それで、場は一度終わった。

 

だが、雪姫はすぐには引かなかった。

次郎殿と老臣が半歩下がったあとで、ほんの短い間だけこちらへ残る。

 

「治部殿」

「何でしょう」

「父は、あの旗のことを申しておりました」

 

少しだけ胸がざわつく。

 

「何と」

「盤上で人を追い込む前に、戦場で首を取ってきた男であったことを、忘れていた、と」

 

思わず、少し黙った。

 

具教卿らしい。

あの男は負けを認めぬわけではない。ただ、認める時はちゃんと自分の中で形にする。その言い方は、まさにそれだった。

 

雪姫が続ける。

 

「ですので、旗の意図も、昨日よりは父に届いたはずです」

「そうですか」

「はい。ただし」

 

そこだけ、少しだけ目が鋭くなる。

 

「届いたからといって、今後軽々しく顕家公のお名を使ってよい、とはなりませぬ」

 

思わず口元が緩みそうになる。

 

「心得ております」

「本当に?」

「本当に」

「ならよろしい」

 

そのやり取りを最後に、雪姫も下がった。

 

次郎殿の列が遠ざかる。

浜からの風が、その後ろ姿を少しだけ揺らす。

 

俺はそれを見送りながら、ようやく本当に終わったのだと実感した。

 

戦そのものは短かった。

だが、その後に結んだものは短くない。

北畠は北畠として残る。

工藤家は工藤家として立つ。

右近の火で崩れかけた盤を、具教卿の重さ、雪姫の澄み、次郎殿の白さで、どうにか別の形へ置き直した。

 

半兵衛が後ろから近づいてくる。

 

「終わりましたな」

「ああ」

「上手く行きました」

「そうだな」

 

今度は、素直にそう言えた。

 

十兵衛も静かに言う。

 

「ここまでは、ではなく、でございます」

「珍しいな。お前がそこまで言うのは」

「次郎殿が自分の口で立つと申されましたので」

「……ああ」

 

それが一番大きかったのかもしれない。

 

ただの和睦ではない。

ただの敗北でもない。

あの子が自分の名で立つと言ったから、この結びは安くならなかった。

 

俺は紫地に日輪、風林火山の旗を見上げ、それから静かに息を吐いた。

 

「よし」

 

その一言で十分だった。

 

北伊勢の局面は、ここで終わる。

次はもう、戦を始めるためではなく、この形をどう保つかの話になる。

そこまで来られたのなら、今回はこちらの勝ちと言ってよかった。

 

 

結びの場から数日後、北畠の館には、ようやく静かな時間が戻り始めていた。

 

もっとも、それは何も終わった後の静けさではない。

右近の火が二度噴き、長野工藤家は次郎殿の名で工藤家として立つ方へ傾き、北畠は北畠として残る形へ身を置き直した。その全部が、ようやく一度座り直しただけだ。だから館の空気は静かでも、誰も本当に気を抜いてはいなかった。

 

具教卿が雪姫を呼んだのは、そんな夕刻だった。

 

奥向きに近い一室で、灯はまだ浅い。障子越しの光が残っていて、顔立ちの細いところまでは見えぬ代わり、目の動きだけはよく分かる。具教卿はいつものように低く座していた。右近のこと、次郎殿のこと、長野工藤家のこと、どれ一つとして軽い話ではない。だからこそ、今ここで呼んだのは別の話を聞くためだと、雪姫にもすぐ分かった。

 

「雪」

「はい、父上」

「お前は、あの治部大輔殿をどう見た」

 

雪姫は、すぐには答えなかった。

 

あの場の旗。

戦のあとの手つき。

顕家公の名を軽々しく使うなと刺した時の返し。

そして、次郎殿も北畠も雑には扱わぬと、妙にまっすぐ言ったあの声。

 

どれも一つにまとまっていそうで、きれいにはまとまらない。

 

「……変わったお人に見えました」

 

雪姫はそう言った。

 

「ですが、軽く見えるようでいて、重くもある、不可思議なご仁でした」

 

具教卿の口元が、わずかに動く。

 

「軽く見える、か」

「はい。申すことの中に、ときおり妙な抜けや柔らかさがございます。あれで本当に戦場を転がしてきた方なのかと、思うほどに」

「だが重い」

「はい」

 

雪姫は頷いた。

 

「言葉の置き方も、旗の立て方も、次郎の扱いも、どこか一つ軽くすると全体が崩れると分かっておられるように見えました。そういう意味では、恐ろしく重うございます」

 

具教卿は黙って聞いている。

 

雪姫もその沈黙を急がせない。

具教卿は、誰かが自分の見立てへ寄せた答えを喜ぶ人ではない。むしろ、どこを違えて見たかを知りたがる。そのくらいは、娘であれば分かっている。

 

「顕家公への敬意を持つのは確かなのだろうが」と具教卿が言った。

 

雪姫は、その言葉へ少しだけ目を伏せた。

 

「あれは確かにございます」

「北畠の家へも、か」

「ひいては北畠の家にも敬意をお持ちです」

 

そこは、はっきり言えた。

 

ただの策なら、もっと別の旗を立てる。

ただの勝ち戦なら、もっと別の言葉を使う。

それをしないのは、少なくとも“北畠をただ削る相手”としては見ていないからだ。そこだけは、雪姫にも分かった。

 

「ただ」と雪姫は続ける。

 

「父上の仰った、“戦場で首を挙げて来た将”というのが、どうにも想像がつきませぬ」

 

具教卿が、そこで初めて小さく笑った。

 

「そうか」

「はい。あのお人は、どちらかといえば、盤上で人を追い込む方のように見えました。渡し、往来、海、長野工藤家の内、そういうものを一つ一つ重ねて、最後に逃げ場を塞ぐ。そういうお方に見えました」

「それでいて、初戦では海から一気に意地を折りに来た」

「そこが、なお分かりませぬ」

 

雪姫は正直に言った。

 

「軽く見えるようでいて重い。盤上の人かと思えば、戦場の将でもある。顕家公の名を口にするくせに、妙なところで気の抜けたような返しもなさる。どうにも一つに収まりませぬ」

 

具教卿は、その言葉をしばらく黙って受けていた。

 

やがて、低く言う。

 

「案外、顕家公とはあのような男だったのかもしれんな」

 

雪姫が、思わず顔を上げた。

 

「まさか……」

 

そこまで言いかけて、止まる。

 

顕家公の像は、雪姫の中にもある。

清く、鋭く、若くして散った名将。

そういう像へ、治部大輔信繁の、あの少し抜けたような軽みと、しかし盤ごと動かす重みを重ねるのは、たしかに最初は妙だ。

 

だが、少し考える。

 

気高いだけで、人を率い、戦場を渡り、敵の首を取れるのか。

鋭いだけで、古い家を残す形まで読めるのか。

名だけでなく、人としての魅力や、妙な軽みや、相手の懐へ入り込む何かがなければ、顕家公ほどの方もまた成り立たぬのではないか。

 

雪姫は、ようやく小さく言った。

 

「……いえ。そうかもしれませぬ」

 

具教卿は、その返しに何も足さなかった。

だが、否定もしない。

 

部屋の中へ静けさが落ちる。

 

その静けさの中で、雪姫はふと、自分の胸の内に別のものが生まれ始めていることに気づいていた。好悪ではない。まだそんな軽いものではない。ただ、あの治部大輔という男が、どういう家で、どういう空気の中で、どうやってああいう人間になったのかを、知りたいと思っている自分がいる。

 

具教卿が、その気配を読まぬはずもない。

 

「雪」

「はい」

「お前は、あの治部大輔殿をもっと見たいのだな」

 

雪姫は、すぐには否定できなかった。

 

否定すれば嘘になる。

かといって、あまりにあけすけに頷くのも軽い。

 

少し間を置いてから答える。

 

「……治部家を、もう少し知りとうございます」

 

具教卿は、その答えに目を細めた。

 

「織田家から求めてきたわけではない」

「はい」

「ならば、こちらから出すしかない」

 

雪姫は黙って待つ。

 

「田代城へ行け」

 

その一言に、雪姫はわずかに目を見開いた。

 

「私が、ですか」

「そうだ」

 

具教卿の声は、もう父の情より国司の裁断に近かった。

 

「客将として、だ」

 

そこまで言ってから、ほんの少しだけ口元が動く。

 

「……人質ともいうがな」

 

雪姫は、その言い方には思わず息を漏らしかけた。

具教卿がこういう冗談めいたことを自分から言うのは珍しい。珍しいが、まったく本気でないわけでもない。

 

「北畠が結びを本気で守ると見せるには、人を出すのが一番早い」と具教卿は続けた。

「しかも右近では駄目だ。次郎も今は工藤家の座におらねばならぬ。ならば、お前だ」

 

「……田代城へ」

「嫌か」

 

雪姫は、少しだけ考えた。

 

嫌ではない。

それは認めざるを得ない。むしろ、治部家の空気を知る機会が来たことに、胸のどこかが静かに動いている。ただ、その感情をそのまま出すほど子供でもない。

 

「北畠のために参るのであれば、嫌ではございませぬ」

「それでよい」

 

具教卿は頷いた。

 

「お前があちらへ行けば、北畠は結びを本気で守ると見える。あちらもまた、お前を雑には扱えまい。次郎のこと、工藤家のこと、今後の北畠の立ち方、どれを考えるにも悪くない」

「はい」

「そして」

 

具教卿はそこで少しだけ声を落とした。

 

「あの治部大輔殿が本当にどういう男か、見てこい」

 

雪姫は、今度ははっきり頷いた。

 

「承知いたしました」

「ただし」

 

具教卿の目が、わずかに父のものへ戻る。

 

「伊勢国司の娘として行け。軽くするな」

「心得ております」

「顕家公の名を振り回すような男なら、容赦なく見限れ」

 

雪姫はその言葉に、少しだけ口元を和らげた。

 

「そこは、すでに半分ほど見えております」

「ほう」

「軽々しく振り回す方ではございませぬ」

 

具教卿は、それ以上は言わなかった。

 

雪姫は深く一礼し、下がる。

 

障子が閉まる直前、具教卿の低い声がもう一度だけ届いた。

 

「雪」

「はい」

「田代城へ行ったなら、治部家だけでなく、あの治部大輔殿の周りの若い者どももよく見てこい」

「……はい」

 

それは具教卿らしい指示だった。

 

一人の男だけを見ても、その男の本当の家風は分からない。

周りにどういう者が付き、どういう空気が流れ、何が自然に回っているか。そこまで見て初めて、あの治部大輔という男の重みの正体も分かる。たぶん具教卿は、そこまで読んでいる。

 

雪姫が廊へ出ると、風が少し冷たかった。

 

田代城。

客将。

人質ともいう。

 

名目はどうあれ、これで自分は北畠を背負ってあの城へ入ることになる。

だが、不思議と足は重くなかった。むしろ、あの紫地に日輪、風林火山の旗の下で、軽く見えるようでいて重い、あの不可思議な男がどういう空気の中にいるのか、知りたいという思いの方が先に立っていた。

 

それが吉と出るか凶と出るかは、まだ分からない。

だが少なくとも、北畠の結びはこれで文だけではなく、人を伴うものになった。

 

そしてそれは、たぶん信繁にとっても、思っていた以上に軽くない話になる。

 

 

雪姫が田代城へ客将として入る。

 

その報せを聞いた瞬間、さすがの俺も一拍遅れた。

 

(やばいよやばいよ。大河で後藤久美子がやってた顕家公みてえな姫君が、うちへ来るってばよ)

 

そこまで一気に思ってから、すぐに頭を振る。

 

違う。

落ち着け。

今のは俺の中だけだ。外へ一文字でも漏らしたら、十兵衛に真顔で刺され、半兵衛には一生ネタにされる。

 

「雪姫様が」と十兵衛が言う。

 

「ああ」

 

俺は咳払いを一つして、できるだけ平らな声を作った。

 

「雪姫が、我が田代城へ客将としておいでになる、か」

 

半兵衛がこちらを見ている。

絶対に何か勘づいている目だ。嫌な奴である。

 

「客将、と言えば聞こえはよろしゅうございますな」と十兵衛。

 

「実のところは人質でもある」と半兵衛。

 

「その通りだ」と俺は頷いた。

「だが、北畠が本気で結びを守る気だと見せるには、これ以上ない札でもある」

 

そこまでは、ちゃんと本音だ。

 

雪姫が来る。

それは単に姫君が一人増える話ではない。北畠が右近でなく、次郎でもなく、雪姫をこちらへ寄越す。つまり、今後の結びを“文”でなく“人”で担保するということだ。軽い話であるはずがない。

 

「治部様」と十兵衛。

 

「何だ」

「お顔が少し妙です」

「妙とは何だ」

「言いにくうございますが」

 

半兵衛がすぐ後を取る。

 

「少し浮ついておられます」

「浮ついてない」

「本当に?」

「本当にだ」

「では結構です」

 

全然結構そうではない。

こういう時の半兵衛は、本当に嫌なところだけよく見る。

 

俺は一度息を吐いて、机の上へ手を置いた。

 

「いずれにせよ、俺の一存で“どうぞどうぞ”とは言えん。雪姫は北畠の末姫。客将にせよ人質にせよ、受ける側の筋を通さねば、かえって軽くなる」

 

十兵衛が頷く。

 

「上総介様と勘十郎様へお伺いを立てるべきにございますな」

「そうだ」

「田代城へそのまま入れるか、あるいは一度本家筋を経るか」

「そこも兄上方の裁断だ」

 

半兵衛が帳面を開きながら言う。

 

「受けるとなれば、居所の整えも要ります。姫様付きの女房衆、警護、奥向きの使い方、どこまで北畠の顔を立てるかも」

「分かってる」

「分かっていても、今ちょっと別のことも考えておられた顔でしたが」

「半兵衛」

「はい」

「お前は本当に嫌なやつだな」

「便利ですので」

 

そこへ左近将監まで、口元だけで笑っている。

もう駄目だ。こいつらの前で完全に平静を装うのは無理かもしれない。

 

それでも表の言葉は整える。

 

「十兵衛、文を起こせ」

「はい」

「北畠雪姫様が、結びの証として治部家へ客将として入る意向あり、ただしこれは我が一存で軽々しく決すべきでなく、上総介兄上・勘十郎兄上の御裁可を仰ぎたい、と」

「承知しました」

「それと」

 

少しだけ間を置く。

 

「雪姫様をただの人質として扱うつもりはない、北畠の家名と今回の結びの重みを踏まえ、相応の礼と格式で迎える腹積もりである、とも添えろ」

 

十兵衛が筆を走らせる。

半兵衛はその横で、もう田代城のどこへ入れるかまで考え始めている顔だ。

 

俺は少しだけ天井を見た。

 

(いや本当に来るのかよ……)

 

また頭の中でだけ、そうなる。

紫地に日輪、風林火山の旗を見て、顕家公の名を軽々しく使うなと刺してきた姫だ。北畠の家の色を、右近とも具教とも次郎とも違う形で持っていたあの雪姫が、今度は田代城へ来る。

 

(やばいって。顕家公の家の姫がうちに来るって、そりゃ嬉しいとかどうこう以前に、普通に扱い間違えたら腹を切る案件だろ)

 

そこまで思ってから、ようやく少し落ち着いた。

 

そうだ。

浮ついている場合ではない。

これは趣味ではなく政だ。しかも北畠と工藤家の今後を背負う一手でもある。

 

「……よし」

 

そう言うと、三人ともこちらを見る。

 

「兄上方の裁断が下りるまで、田代城の整えだけ先に始める。だが、雪姫様がお入りになる前提で露骨に騒ぐな。北畠側にも余計な見え方をさせる」

 

「はい」と十兵衛。

 

「はい」と半兵衛。

 

左近将監も短く頷く。

 

それでようやく、本当に話が仕事へ戻った。

 

だが、戻ったはずなのに、胸の奥ではまだ妙に落ち着かないものが残っていた。

それを顔へ出さぬようにしながら、俺はもう一度だけ、十兵衛が書き始めた文へ目を落とした。

 

雪姫が来る。

まずは兄上たちにお伺いだ。

話はそれからである。

 

 

稲葉山へ送った伺いは、思ったより早く返ってきた。

 

北畠との結びがまとまり、その証として雪姫が治部家へ客将として入る意向あり。

ただし、北畠末姫を受けることは、ただ一人預かる話では済まぬ。家格、礼、奥向きの整え、警護、どこまでを本家の顔として扱い、どこからを治部家の座として扱うか。軽々しく決めれば、せっかく整った結びそのものを安くする。だからこそ、上総介兄上と勘十郎兄上へ裁可を仰いだ。

 

返書は短かった。

 

上総介兄上らしい文だ。

 

受けよ。

ただし、粗略にするな。

 

その二行で、だいたい全部入っていた。

 

俺は文を読み終えてから、思わず鼻で笑った。

 

「らしいな」

 

十兵衛が横から言う。

 

「ええ。細かく並べるまでもない、と」

 

半兵衛も帳面を閉じる。

 

「逆に申せば、細かいところで違えれば許さぬ、でもありますな」

「そうだな」

 

左近将監が、少しだけ面白そうに言った。

 

「上総介様らしいことで」

 

「勘十郎兄上は何と」と俺。

 

十兵衛が返書の後ろを示す。

 

「別紙で一つ。『北畠の姫を預かるのだから、治部家の顔で済ませるな。本家の礼も通した上で入れよ』と」

「そこもその通りだ」

 

つまり、受けること自体に異論はない。

むしろ受けろ、だ。

ただし、それを治部家だけの話に落とすな。北畠末姫を客将として入れる以上、織田家本家の結びの延長としてきちんと整えろ。そういう裁断だった。

 

「よし」

 

俺は返書を畳んだ。

 

「受ける。だが兄上方の仰る通り、粗略にはせん」

 

「はい」と十兵衛。

 

「はい」と半兵衛。

 

左近将監も短く頷いた。

 

そこでまず思い浮かんだのは、奥向きのことだった。

 

雪姫が来る。

客将、と言えば聞こえはよいが、実のところは結びの証でもあり、人質でもある。だからこそ、雑に置けば北畠への無礼になるし、逆に腫れ物のように持ち上げすぎても治部家の座が変に揺れる。そこを最初から一番分かっているのは、やはりお市と真理姫だろう。

 

「十兵衛」

「はい」

「兄上方への返しの礼はお前が整えろ。俺は先に奥へ一報入れる」

「承知しました」

 

半兵衛が、そこへ口を挟む。

 

「お市様と真理姫様に、ですな」

「そうだ」

「それが一番早いでしょう」

「ええ。居所、女房衆、奥向きの動線、そのあたりはもう殿より先に見て下さいます」

「まったくだ」

 

そこは否定しようがない。

 

俺はそのまま立ち上がり、奥向きへ足を向けた。

城の中は、戦のあとで少し落ち着きを取り戻している。だが、完全に日常へ戻ったわけではない。渡しや海の話はまだ動いているし、北畠との結びも紙の上で終わる話ではない。そういう時ほど、奥向きの整いがそのまま家の格になる。

 

お市と真理姫がいたのは、日当たりのよい一室だった。

 

二人とも、こちらの顔を見る前にもう、ただの雑談でないことくらいは分かったのだろう。お市は少し姿勢を改め、真理姫も手を止めてこちらへ向く。

 

「治部殿」

 

「どうなさいました」と真理姫。

 

俺は座へ着くなり、まず返書を置いた。

 

「上総介兄上と勘十郎兄上から裁可が下りた」

 

お市がすぐに目を細める。

 

「では」

「ああ。雪姫様を、田代城へ客将としてお迎えする」

 

二人とも、すぐには言葉を返さなかった。

 

驚いていないわけではないだろう。

だが、驚きをそのまま表へ出すほど軽くもない。そこは二人とも、もうこの城の奥向きを預かる側の顔だった。

 

最初に口を開いたのはお市だった。

 

「本当においでになるのですね」

「ああ」

「北畠の末姫が」

「そうだ」

 

真理姫が、少しだけ目を伏せてから言った。

 

「客将、と申せば聞こえはよろしいですが、やはり軽い話ではございませぬな」

「軽くはない」

 

俺は頷いた。

 

「だからこそ、兄上方からも“受けよ。ただし粗略にするな”だ」

 

お市が、そこでふっと笑った。

 

「上総介兄上らしいお言葉」

「だろう?」

「ですが、分かりやすいです」

「そうだな」

 

お市は少し考えてから続けた。

 

「では、奥向きは私と真理姫様で整えます」

「頼めるか」

「もちろんにございます」

 

真理姫もすぐに頷いた。

 

「雪姫様は、ただのお客様ではございませぬ。北畠の姫として、また今回の結びの証として来られるのでしょう。であれば、居所も、付き従う女房衆の扱いも、最初から筋を通しておかねばなりませぬ」

「その通りだ」

 

「それと」とお市。

 

「はい」

「雪姫様が奥向きへお入りになるとしても、“預けられた姫”のように見せてはなりませぬ」

 

そこは、さすがお市だと思った。

 

「北畠の姫としての顔は立てつつ、田代城の内では安心してお過ごし頂けるように」

 

「ええ。腫れ物でもなく、粗末でもなく、ですね」と真理姫。

 

「そうだ」

 

お市が少しだけ笑う。

 

「難しゅうございますけれど、こういう時のための奥向きにございますから」

「頼もしいな」

「治部殿がそのように仰るのなら、なおさら整えませんと」

 

真理姫も、そこで少し和らいだ顔を見せた。

 

「雪姫様は、戦場近くまでお出ましになったのでしたか」

「ああ。女伊達らに紛れてな」

「なるほど」

「しかも使者にも自ら立候補された」

 

それを聞いて、お市がわずかに目を見開いた。

 

「まあ……」

「ただ守られている姫君ではない」

 

「では、なおさらですね」と真理姫。

「ただの客扱いでは、たぶん向こうも落ち着かれますまい」

 

「その通りだ」

 

しばらく、三人で具体の話を詰めた。

 

どの部屋へ入るか。

女房衆は誰をつけるか。

北畠側から伴う者をどこまでそのまま使うか。

お市と真理姫が最初の出迎えに出るか。

そこへ俺はどの順で顔を出すか。

北畠への礼をどこまで見せ、治部家の内としてどこで自然に迎えるか。

 

話せば話すほど、兄上方の「粗略にするな」の二言がよく分かった。

これは本当に、ただ一人を迎える話ではない。結びそのものの格を、城の中でどう見せるかの話だ。

 

ひととおり決まったあと、お市が少しだけこちらを見て言った。

 

「治部殿」

「何だ」

「お顔が、先ほどから少し妙です」

 

思わず十兵衛と同じことを言われた気がして、少し嫌な感じがした。

 

「妙とは」

 

真理姫が、ほんの少しだけ笑いを含んだ声で言う。

 

「嬉しそうに見える時と、胃が痛そうに見える時が、交互に来ておいでです」

「……そんなに分かりやすいか」

 

「はい」とお市。

「とても」

 

そこまできっぱり言われると、さすがに言い逃れしにくい。

 

「いや、別に浮かれているわけではないぞ」

 

「存じております」とお市。

 

「ですが、雪姫様を軽くお迎えしてはならぬと思っておられるのと、少し楽しみにもなさっているのと、両方かと」

「お市」

「違いますか?」

「……違わん」

 

否定しきれなかった。

 

真理姫がそこで、少しだけ首を傾ける。

 

「顕家公の家の姫君、ですものね」

「そこまで読まれているのか」

「治部殿は分かりやすいところがおありです」

 

それは嬉しくない評価だ。

 

お市が笑う。

 

「ですが、よろしいではありませぬか。嬉しいとか、怖いとか、その両方があるからこそ、粗略になさらぬのでしょう?」

「……まあ、そうだな」

 

そこは認めるしかない。

 

雪姫が来る。

それは面倒だ。重い。扱いを違えれば厄介だ。

だが同時に、顕家公以来の家の姫が、北畠の結びの証として田代城へ来る。それを全く何も思わぬほど、俺も枯れてはいない。

 

「よし」

 

俺は一つ息を吐いた。

 

「兄上方の裁可も下りた。なら、あとはこちらが違えぬだけだ」

 

お市が頷く。

 

「はい」

 

真理姫も頷いた。

 

「お任せくださいませ」

 

そこまで言ってもらえると、だいぶ肩の荷が軽くなる。

 

奥向きから出る時、廊の先の光が少しだけ柔らかく見えた。

雪姫はまだ来ていない。だが、来るための座は、これでだいぶ整い始めた。

 

北畠との結びは、もう文だけではない。

次は人が入る。

そして、その人をどう迎えるかで、この結びが本物かどうかまで見られる。

 

そこが肝だ。

本当に、兄上方の仰る通りだった。

 

 

田代城へ雪姫が入った夜、歓迎の宴は過不足なく整っていた。

 

過度に大げさでもなく、だからといって軽くもない。

北畠の末姫を客将として迎える以上、ただの客扱いでは足りない。だが、あまりに仰々しくしてしまえば、今度は人質を飾り立てるようでかえって品がない。そこをうまく整えたのは、やはりお市と真理姫だった。

 

お市は柔らかく、しかし織田家の正室としての格を崩さずに雪姫を迎えた。

真理姫は武田から来た姫らしい静けさでその脇を支え、雪姫もまた北畠の娘として軽くならずに応じた。

 

そうして、夜は大きな波もなく済んだ。

 

そして翌朝。

 

雪姫がまだ城内の気配を探るような心持ちで廊へ出た時、朝の空気の中から、馬の鼻息と軽い蹄の音が聞こえてきた。

 

思わず足を止める。

 

田代城の朝は、北畠の館ともまた違う。

戦のための城でありながら、どこか日々の営みが濃い。奥向きの女たちの動きと、兵の動きと、台所の匂いと、鍛錬の音が不思議に同じ朝の中へ収まっている。

 

音の方へ寄ると、馬場でお市と真理姫が馬に乗っていた。

 

雪姫は、思わず目を瞬いた。

 

ただ庭先で眺めているのではない。

本当に乗っている。しかも、遊びではなく鍛錬の顔だ。

 

真理姫は手綱の扱いが無駄なく、馬の癖まで読んでいるのがすぐ分かる。

お市も、まだ真理姫ほどではないにせよ、すでにただの姫君の乗馬ではない。身体の軸を保ち、言われた通りに腰を作り、少しずつ“武家の妻として乗る”形へ入っていた。

 

雪姫は、しばらく見てから声をかけた。

 

「あの、何をしておいでですか?」

 

お市が気づいて、馬上からにこやかに振り返る。

 

「あら、雪姫様。乗馬の練習です」

「乗馬の……」

「はい。夫である治部大輔殿の奨めで、当家は必ず運動をするよう仰せつかっておりますの」

 

雪姫は一瞬、言葉を失った。

 

運動。

姫君が朝から乗馬。

しかもそれを、夫の奨めで、必ず。

 

そのどれもが、北畠の館ではあまり聞かぬ響きだった。

 

お市はそのまま続ける。

 

「真理姫様は武田よりおいでで、乗馬が巧みなんです。武家の妻として、馬に乗れるに越したことはないので、こうして教わっております」

 

真理姫が、少しだけ馬を寄せて一礼する。

 

「代わりに私は、お市様から弓をご指導いただいております」

「弓を」

「はい。私が馬を、お市様が弓を。ちょうどよい交換にございます」

 

その言い方は穏やかだが、やっていることは案外とんでもない。

武田から来た姫が乗馬を教え、織田家の正室が弓を教える。しかもそれが朝の一風景として回っている。

 

真理姫がそこで雪姫へ目を向けた。

 

「雪姫様も、乗馬はなさると聞いておりますが」

 

雪姫は少しだけ肩を引いた。

 

「え、ええ。たしかに、少しは乗ることはできますが」

 

それを聞いたお市が、妙に楽しそうな顔になる。

 

「それなら話が早いですわ」

「話が早い?」

「雪姫様も、当家の食事に慣れてしまえば、すぐに運動が必要であることを痛感なさいますわ」

「……え?」

 

雪姫は思わず間の抜けた声を出してしまった。

 

真理姫が、そこは少しだけ言いにくそうに補足する。

 

「肉を食べたり、牛の乳を飲んだり、その……運動を怠ると、すぐにお腹にお肉が」

「ええ!?」

 

雪姫は本当に驚いた。

 

北畠の館でも肉をまったく口にせぬわけではない。

だが、ここまで当然のように“肉を食べ、牛の乳を飲み、だから運動せねば太る”と語る姫君たちは、さすがに想定外だった。

 

お市がくすくすと笑う。

 

「雪姫様も何か運動を始めた方がよろしいですわ。多少の融通はつけられますので、まずは治部大輔殿にご相談なさってはいかがでしょう」

 

雪姫はまだ半ば混乱しながらも、そこでふと一つ思い当たるものがあった。

 

「では……剣を習いたいです」

 

お市が少し目を丸くする。

 

「剣ですか?」

「はい」

 

雪姫は今度は少し落ち着いて答えた。

 

「父も塚原卜伝様に剣を習いました。私も、それに倣いたいと思いまして」

 

真理姫が、わずかに感心したような顔をする。

 

「なるほど」

 

お市もすぐに頷いた。

 

「それは立派なお考えですわ。馬とはまた違いますが、たしかに当家では何か身につけておく方が自然かもしれません」

 

雪姫はそこで、ようやく自分がこの城へ来てから初めて、少しだけ肩の力を抜いた気がした。

 

北畠の末姫。

客将。

人質ともいう。

 

その立場は変わらない。

だが、目の前のお市と真理姫は、雪姫をただの“北畠の姫”として扱っているのではなく、この妙な治部家の習いの中へ、半ば当然のように引き入れ始めていた。

 

そこへ、背後から聞き覚えのある声がした。

 

「剣、と申されましたか」

 

振り返ると、信繁がいた。

 

たぶん途中から聞いていたのだろう。

顔は平静を装っている。だが、雪姫にはもう少し分かる。この男は時々、内心が変な方向へ暴れる。

 

そして案の定、その目が一瞬だけ妙な光を帯びた。

 

(やばい。剣。塚原卜伝。具教卿の縁。ここで柳生石舟斎まで繋がったら、大和行きの大義名分が増える。大和行く。石舟斎に会う。ついでに島左近も引っ掛ける。夢が広がる――)

 

そこまで頭の中で一気に走ってから、信繁はすぐに咳払いを一つした。

 

「……失礼。少し考えが先へ飛びました」

 

お市が、いかにも分かっている顔で微笑む。

 

「治部殿、いま妙なことを考えておいででしたわね」

「妙なことではない」

「では何ですの」

「大和への道筋だ」

 

真理姫が少しだけ口元を押さえる。

 

雪姫は、まだその意味が半分ほどしか分からない。だが、何となく分かる。治部大輔信繁という男は、目の前の話から平気で三手も四手も先へ飛ぶ。そして、飛んだ先に妙な実益まで見つけてくる。

 

信繁は表向きの顔へ戻して言った。

 

「雪姫様が剣をお望みであれば、軽々しくそこらの者へ任せるわけには参りませぬ」

「はい」

「具教卿のご縁もございますし、いずれ然るべき筋へお頼みするのがよろしいかと存じます」

 

その返しは、ちゃんとしていた。

ちゃんとしているのだが、雪姫にはその奥で別の歯車が勢いよく回っている気配まで少し見える。

 

お市が面白そうに言う。

 

「では、雪姫様はまず乗馬とお食事に慣れ、その上で剣も考える形ですわね」

 

「ええ!?」と雪姫。

 

「まずは……食事、ですか」

 

「もちろんです」とお市。

「当家においでになった以上、食べることと動くことは一つにございますもの」

 

真理姫も頷く。

 

「ええ。運動をなさるなら、きちんと食べてこそにございます」

 

雪姫は思わず、自分の腹のあたりへそっと手を当てそうになった。

さすがに途中で止めたが、お市にはたぶん見抜かれている。

 

信繁が、そこで少しだけ真顔になって言う。

 

「雪姫様」

「はい」

「治部家へおいでになった以上、ただ座して客であるだけ、とは参りませぬ。何かを身につけたいと望まれるのは良いことです。剣にせよ馬にせよ、必要なことは整えます」

 

その言い方は穏やかだが、やはりどこか重い。

軽く見えるようでいて重い。具教が言い、雪姫もそう感じたあの不可思議さが、こういうところでも出る。

 

雪姫は、少しだけ背を伸ばして答えた。

 

「ありがとうございます、治部殿」

 

その一言に、信繁がほんのわずかだけ目を細める。

 

「こちらこそ」

 

それだけだった。

 

だが、雪姫には、その一言が思っていたよりもきちんと胸へ落ちた。

自分は北畠の末姫であり、客将であり、人質でもある。けれどこの城では、ただ預かられた姫として置かれるのではなく、何かを身につける者として扱われ始めている。

 

それが良いことかどうかはまだ分からない。

だが少なくとも、退屈はしなさそうだった。

 

馬場では、お市が再び手綱を整え、真理姫が馬の首筋を軽く撫でる。朝の光の中で、その二人の姿は妙に自然だった。織田の正室と武田から来た姫が、乗馬と弓を教え合っている。北畠の末姫がそこへ加わり、さらに剣まで習いたいと言い出す。少し前なら考えもしなかった光景だ。

 

そしてその全部を、治部大輔信繁という男が、妙に真面目な顔で「では大和行きの筋が――」などと心のどこかで考えている。

 

雪姫は、思わずほんの少しだけ笑ってしまった。

 

信繁が気づいて振り返る。

 

「何でしょう」

「いえ」

 

雪姫は首を振った。

 

「やはり、治部殿は変わったお方です」

 

そう言われて、信繁は少しだけ困ったような顔をした。

 

お市は楽しそうに笑い、真理姫も静かに口元を和らげる。

 

田代城の朝は、北畠の館とはずいぶん違う。

だが、その違いの中へ、自分も少しずつ入っていくのかもしれないと、雪姫は初めてはっきり思った。

 

 

 

 

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