織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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036将来への投資

上総介兄上と勘十郎兄上の前へ出た時点で、我ながら話の筋が多いとは思っていた。

 

だが、多いからといって別々の棚へ置く話でもない。

北畠との結びが済み、雪姫が田代城へ入り、真理姫の輿入れ以後に田代へ入り込む草の気配も濃くなった。そこへ今度はお犬の輿入れ、浅井との盟、将軍との合流の芽、越前方面の火種まで乗る。ならば、目と耳と兵法と遊撃を、今のうちに一つの束として整える方が早い。

 

上総介兄上は、俺が座るなり言った。

 

「で、今度は何をまとめて掻っ攫う気だ」

 

いきなり言い方がひどい。

 

「掻っ攫うとは」

「違うのか」

「……半分は」

 

勘十郎兄上が横で笑う。

 

「治部。お前も最近、半分は、を覚えたな」

「便利ですので」

「嫌な学び方だ」

 

そこからは真顔へ戻した。

 

「まず、藤林長門守です」

 

上総介兄上の目が少し細くなる。

 

「伊賀の」

「はい。もっと申せば、伊賀そのものより“伊賀の目”です」

「続けろ」

「どうやらつとに六角右衛門督がかなりの曲者らしく、現在では承禎との信頼も崩れ、六角家中も荒れております。そうなれば、あちらへぶら下がる目と耳もまた、不安定になります」

 

勘十郎兄上が頷く。

 

「つまり、今なら引けると」

「はい。藤林長門守ほどの者なら、自分がどの家に付けば長く働けるか、もう見ているはずです」

 

「何で釣る」と上総介兄上。

 

「士分取り立て」

 

そこは即答した。

 

「ただの忍び頭としてでなく、田代城警固の内役として遇します。家臣として遇し、配下数名も抱え込む。その代わり、草の発見、流出情報の量の調節、必要に応じた間引きまで担わせます」

 

「間引き、か」と勘十郎兄上。

 

「はい。すべてを殺し尽くす気はありませぬ。ですが、入って来る目と耳を放置すれば、こちらが丸裸になります。ならば、流したい情報は流れ、流したくない情報は流れにくくなる形を先に作るべきです」

 

上総介兄上が低く言った。

 

「田代を、見えているようで見えぬ城にするわけだな」

「さようにございます」

「悪くない」

 

そこは素直に落ちた。

 

俺はそのまま続ける。

 

「次に、藤林の配下、あるいは同じ働きができる者を越前へ先行配置したく」

 

「越前へ」と勘十郎兄上。

 

「はい。後の将軍合流、越前討伐、その両方をにらんでおります。それと」

 

そこで少しだけ声を落とした。

 

「どうも、稲葉山城から落ちのびた斎藤右兵衛大夫が越前にいるとのこと。ご隠居や濃姫様のご意向もございますれば、始末だけはつけねばなりますまい」

 

二人とも、そこでは黙った。

 

軽い話ではない。

だが、軽くないからこそ、力で奪うより先に、場所と守りの薄い瞬間を押さえた方がいい。そこは伊賀者や藤林の配下が一番働く。

 

勘十郎兄上が先に口を開いた。

 

「なるほど。越前は将軍と朝倉だけでなく、斎藤の残り火まで絡む。先に鼻を入れておく価値はある」

「はい」

「人数は」

「多くて三、四の小組で十分です。土地に馴染み、抜け道を押さえ、必要な子の所在だけ拾えればよい」

 

「そこも悪くない」と上総介兄上。

「だが、藤林とその配下だけでは表向きの警備が成り立たぬな」

 

そこは、待っていた。

 

「ですので、同時に柳生石舟斎の添え状も取ります」

「ほう」

「北畠具教卿の一筆と合わせ、上泉伊勢守信綱へ願います。本人が難しければ、疋田景兼殿を客分兵法師範として田代へ」

 

勘十郎兄上が腕を組んだ。

 

「名目は」

「雪姫様の剣術修練。加えて、治部家若年衆と足軽どもの兵法指南、ならびに田代城警固の質向上」

「表はそれで足りるな」

「はい。さらに、柳生門下の者を二十名ほど、士分として招きたいと考えております」

 

上総介兄上が、そこで少しだけ笑った。

 

「多いな」

「多いですが、客将、婚姻、諸家往来が増えた今の田代にはちょうどよい数です。奥向きと客将周りの表の警固にも使え、若い足軽どもへの型入れにも使えます」

 

「つまり」と勘十郎兄上。

「表は柳生、裏は伊賀か」

 

「その通りです」

 

俺は頷いた。

 

「柳生門下は表の兵法と警固。伊賀者は内の目。必要なら、柳生の者が“取り締まり”の顔を作り、伊賀者が裏で消す。両方あれば、城の内外をかなり細かく調節できます」

 

上総介兄上が鼻を鳴らした。

 

「気味が悪いほど、お前らしい」

「褒め言葉として受け取ってよろしいでしょうか」

「半分はな」

 

また半分だった。

 

そこへ、俺はさらに一枚重ねる。

 

「それと、島左近清興です」

 

さすがにそこでは、上総介兄上も少し眉を上げた。

 

「お前、まだ乗せるのか」

「乗せます」

「何だ」

「所在を掴みます。清酒と槍で口説ける筋を、今のうちに整えます」

 

勘十郎兄上が、そこでとうとう笑った。

 

「治部、お前は本当に分かりやすいな」

「どこがにございますか」

「島左近だけ少し楽しそうだ」

「そういうわけでは」

「あるだろう」

 

否定しきれないのが少し悔しい。

 

「左近は」と俺は言い直した。

「今すぐ抱えられるかは分かりませぬ。ですが、所在と好みと、こちらへ寄る理は今のうちに作れます。後で必要になった時、いきなり掴みに行くよりずっとましです」

 

上総介兄上が、そこで指を机に打った。

 

「よし。理は通った」

 

少しだけ姿勢を正す。

 

「ただし、まとめて一度に食うな」

「……そこに来ますか」

「当たり前だ」

 

兄上はぴしゃりと言った。

 

「藤林、越前、柳生、疋田、島左近。全部同時に動かせば、どこかで顔が濁る。順を立てろ」

 

勘十郎兄上が後を取る。

 

「まずは柳生と疋田景兼だ」

「はい」

「雪姫の剣術修練、田代城警固強化、足軽兵法指南。これなら表の理が綺麗に立つ」

「はい」

「次に、藤林長門守への接触。士分取り立てを条件に、個として引け。最初から伊賀をまとめて抱えようとするな」

「承知」

 

「越前派遣は、その後だ」と上総介兄上。

「藤林が乗るか、同等の者が取れたら、小さく越前へ送れ。将軍、朝倉、斎藤の子。見る筋を絞れ」

 

「はい」

「島左近は最後だ」

「……最後、ですか」

「最後だ馬鹿もん」

 

上総介兄上が呆れたように言う。

 

「お前の頭では今すぐ酒を持って走りたいのだろうが、まだ早い」

 

そこまで見抜かれていると、かえって言い訳もしづらい。

 

勘十郎兄上が、少しだけ真面目な顔へ戻った。

 

「治部」

「はい」

「お前の考えていることは、結局こうだろう」

「はい」

「田代を、婚姻と客将と兵法と諜報が交差する拠点にする。そのうえで、外へ漏れる情報の質と量を自分で握る」

「さようにございます」

「悪くない」

 

今度のその言葉は、前より重かった。

 

「だが、人を駒だけで動かすな。雪姫もそうだが、来る者には来る者の理がある。藤林にも、疋田にも、柳生門下にもだ。そこを違えると、せっかくの網が自分で絡む」

 

そこは、さすがに胸へ落ちた。

 

「承知しました」

 

上総介兄上が最後に言った。

 

「許す。だが順は守れ」

「はい」

「まずはお犬の輿入れと小谷だ。その後、大和へ筋を通せ。伊賀はその次。島左近は噂だけ拾え」

「……はい」

 

全部は一度に摘めない。

だが、順さえ立てればかなりのところまで行ける。そこまで裁断が落ちたのは大きい。

 

下がる前、勘十郎兄上がぽつりと言った。

 

「治部」

「何でしょう」

「お前は人を集めすぎる」

「悪いことではありますまい」

「悪くはない。だが、集めるなら、城の空気まで整えろ。さもなくば皆ただの寄せ集めになる」

 

その一言は、思ったより重かった。

 

雪姫が来てから、そこは少し分かり始めている。

ただ人数と役目を並べるだけでは駄目だ。どういう空気の中へ入れるかで、人は働き方ごと変わる。

 

「承知しました」

 

そう返して下がりながら、頭の中ではもう順が整い始めていた。

 

まずは小谷。

その後、大和。

疋田景兼。

柳生門下二十。

藤林長門守。

越前への小組。

島左近はそのさらに先。

 

全部一度には摘めぬ。

だが、全部を同じ棚へ載せて見ていること自体は、やはり間違っていないと思えた。

その棚を、今度は順番どおりに一つずつ動かしていけばよいだけだ。

 

 

雪姫へその話を持ち出したのは、乗馬のあとで少し息が落ち着いた頃だった。

 

馬場の端は、昼へ向かう前の光がまだ柔らかい。

お市と真理姫は先に引き、雪姫だけが少し遅れて残っていた。手にはまだ乗馬用の手袋を持っている。頬にうっすら赤みが残っていて、朝の運動のあとらしい空気がまだ抜け切っていない。

 

「雪姫様」

 

声を掛けると、雪姫が振り返った。

 

「治部殿」

「先日の剣の件ですが」

 

雪姫の目が少しだけ真面目になる。

 

「はい」

「話としては目途が立ちそうです」

「……本当に?」

「ええ。ただし、順がございます」

 

俺はそこまで言ってから、少し歩み寄った。

 

「まず、具教卿へ願います。柳生石舟斎殿へお取り次ぎいただきたい、と」

 

雪姫は黙って聞いている。

 

「そのうえで、石舟斎殿の添え状を得て、上泉伊勢守へ疋田豊五郎殿の来訪を願う。剣の筋は、今のところその形が一番自然です」

「疋田豊五郎殿……」

 

雪姫は小さくその名を繰り返した。

 

まだ完全に実感にはなっていないのだろう。

だが、もうただの夢物語ではなく、現実に手が届く名として聞いている顔だった。

 

「ただ」と俺は続けた。

「それだけでは少し片手落ちかもしれませぬ」

 

「片手落ち、と申しますと」

「雪姫様が学ばれるのが剣だけ、というのは、治部家の都合が少し強く見える」

 

雪姫が少し首を傾ける。

 

「では」

「弓の師もお願いしたいのです」

 

そこで雪姫の目が、わずかに動いた。

 

「弓、ですか」

「はい。具教卿へ、石舟斎殿への一筆を願うそのついでに、日置大膳亮殿を弓の師として田代へお招きできぬか、と」

 

雪姫はしばらく黙っていた。

 

剣だけなら、まだ治部家の兵法好きの延長にも見える。

だが、弓まで入れば話は変わる。北畠の姫が、客将として織田治部家へ入り、剣と弓の両方をきちんと学ぶ。それはもう趣味ではなく、武家の娘としての本格の修練になる。

 

「……なるほど」

 

ようやく雪姫が言った。

 

「剣だけではなく、弓も」

「ええ。そうなれば、具教卿にとっても願いを立てやすいかと」

「北畠の娘としての修練、という形になりますものね」

「その通りです」

 

そこは雪姫もすぐに掴んだ。

 

やはり、この姫は話が早い。

ただ感心しているだけではない。自分がどう見えるか、北畠の顔がどう立つかまで含めてすぐ考える。

 

「日置大膳亮殿は」と雪姫が言った。

「父の家臣にございます」

 

「はい」

「治部殿は、そこまでお考えでしたか」

「ついでに、です」

「ついで、でそこまで行くのが治部殿の変わったところです」

 

それには少しだけ笑う。

 

「褒めていただいていると受け取ります」

「まだそこまでは申しておりませぬ」

 

だが、その声は少し柔らかい。

 

俺はそのまま続けた。

 

「雪姫様がよろしければ、具教卿へはこう願いたい。石舟斎殿へのお取り次ぎを。加えて、弓の師として日置大膳亮殿を一定期間、田代へお借りしたい、と」

「一定期間」

「ええ。剣は疋田豊五郎殿、弓は日置大膳亮殿。そうなれば、雪姫様の修練としても、田代城の武芸の格としても、かなり筋が通ります」

 

雪姫は、そこでようやくはっきり頷いた。

 

「それは、願ってみたいです」

「では」

「ただし」

 

今度は雪姫の方が言葉を継いだ。

 

「治部殿」

「何でしょう」

「それは、私一人のためではございませんね」

 

そこは、また同じ問いだった。

だが今度は、少し違う。責めるのでなく、確認する問いだ。

 

「雪姫様のためでもあります」と俺は答えた。

「ですが、それだけではございませぬ」

 

雪姫は黙って続きを待つ。

 

「雪姫様が剣と弓を学ぶ。そこへ疋田豊五郎殿や日置大膳亮殿ほどのお方が来る。そうなれば、田代の若い者どもも、足軽たちも、自然とその恩を受ける」

「……はい」

「客将が増え、婚姻が増え、諸家との往来が増えた今、田代城そのものの武芸と警固の格を上げることにもなる。ですので」

 

少しだけ息を置く。

 

「雪姫様お一人の願いに、田代城全体の都合を重ねさせて頂く形にはなります」

 

雪姫は、それを聞いて少しだけ目を細めた。

 

「やはり、そうなりますか」

「嫌でございますか」

「いいえ」

 

そこははっきり否定した。

 

「むしろ、その方がよろしいのでしょう。私のためだけに大仰な筋を動かすより、父にも話が通りやすい」

「ええ」

「それに」

 

雪姫は少し考えてから言った。

 

「私も、ただ守られているだけで剣や弓を習いたいわけではございませぬ」

「はい」

「田代城へ来た以上、この城にいることに少しは意味がある形で学びたいと思います」

 

そこまで言われると、こちらも少しだけ姿勢を正したくなる。

 

やはり、この姫は軽くない。

具教の娘であり、雪姫自身でもある。そこがはっきりしている。

 

「分かりました」と俺は言った。

「では、その形で具教卿へ願います」

 

「お願いします」

「ただし、具教卿へは雪姫様からも一言添えて頂きたい」

「私からも」

「はい。雪姫様ご自身が、剣も弓も本気で学びたいと望んでおられること。そのうえで、北畠の娘として恥じぬよう修練したいこと。そこがあると、話の通りがまるで違います」

 

雪姫は少しだけ視線を落とし、それから頷いた。

 

「承知しました」

「日置大膳亮殿のことも、です」

「はい」

「弓を願うのは、私から見ても自然です。お市様と真理姫様を見ていても、馬だけ、剣だけ、では片手落ちに思えて参りました」

 

それを聞いて、少しだけ意外だった。

 

「そこまで感じられましたか」

「ええ」

 

雪姫は小さく笑った。

 

「田代城では、皆さま思っていたよりよく動かれますもの。見ているうちに、私だけ座しているのも妙な気がしてきました」

 

その言い方に、こちらもつられて少し笑う。

 

「それは、たしかにこの城の悪い癖かもしれませぬ」

「悪い癖なのですか」

「時に、はい」

「では、良い癖でもあるのでしょう」

 

そこは、返しが上手かった。

 

俺は頷く。

 

「そうかもしれませぬ」

 

話はそこでまとまった。

 

雪姫が具教卿へ、自らも剣と弓の修練を望む旨を添える。

こちらは、石舟斎への一筆と、日置大膳亮来訪の願いを立てる。

その先に、疋田豊五郎の来訪まで繋げる。

 

まだ文は出していない。

だが、もう筋はかなりきれいに立った。

 

雪姫が一礼して下がりかけたところで、ふと思い出したようにこちらを見た。

 

「治部殿」

「何でしょう」

「もし、本当に疋田豊五郎殿と日置大膳亮殿が共に田代へおいでになったら」

「はい」

「この城は、また少し妙な城になりますね」

 

思わず少しだけ笑ってしまった。

 

「ええ。だいぶ妙になります」

 

雪姫も、その返しにはほんの少しだけ笑った。

 

その笑みを見送りながら、俺は胸の中で次の文の組み方をもう考え始めていた。

 

具教卿へ、どう願うか。

石舟斎への一筆をどう立てるか。

日置大膳亮を“借りる”でなく、どうすれば北畠の顔を立てたまま田代へ迎えられるか。

 

話は、だいぶ先まで見えている。

だからこそ、ここで違えずに出したい。

そう思えた。

 

 

その日のうちに、文は二通整えられた。

 

一本は、治部家から北畠具教卿へ。

もう一本は、雪姫自身の手で添えられる短い願いだった。

 

机の上へ並んだそれを見ながら、十兵衛が静かに言う。

 

「ようやく、話が一本にまとまりましたな」

「そうだな」

 

俺は頷いた。

 

剣のためだけなら、少し治部家の色が強い。

弓だけなら、北畠側の内輪話に見える。

だが、雪姫が客将として田代へ入り、武家の娘として剣も弓も学びたいと望み、そのために具教卿へ願う。こちらはそれを城の武芸再編と警固強化へ繋げる。そこまで揃えば、ようやく一本の筋になる。

 

半兵衛が、文の端へ目を落としたまま言う。

 

「具教卿への願いは、あくまで“お借りしたい”で統一してあります」

「いい」

「日置大膳亮殿も、“寄越せ”ではなく“しばらく田代へお貸し願いたい”。石舟斎殿への取次も、“誼をお借りしたい”」

「そこは違えるな」

 

北畠の家を残す結びをしたばかりだ。

その直後に、北畠の家臣や人脈を“召し上げる”ような顔をすれば、全部が安くなる。たとえ中身がこちらに利する話でも、表の礼が崩れれば、具教卿ほどの男は必ず嫌う。

 

十兵衛が、もう一度読み返す。

 

「雪姫様の添え書きも、よろしゅうございます」

「どんなふうにした」

「剣のみならず弓も学び、北畠の娘として、また治部家へ客将として入った者として、恥じぬよう修練したい、と」

 

それを聞いて、少しだけ息を吐いた。

 

雪姫らしい。

余計に飾らず、それでいて軽くもない。自分の修練を願う文でありながら、ちゃんと北畠と治部家の両方を背負っている。

 

「お前が整えたか」と俺。

 

「いえ。雪姫様ご自身の文に、最低限の言い回しだけ整えました」

「それでいい」

 

半兵衛が、そこで少しだけ楽しそうな顔をした。

 

「雪姫様、だいぶこの城の文の流れに馴染んでこられましたな」

「いいことだ」

「ええ。奥向きでお市様と真理姫様に見られ、表では治部様に筋を通される。あの姫様もなかなか大変です」

「他人事みたいに言うな」

「他人事ではございません。非常に大事な当事者です」

 

左近将監がその横で、小さく咳払いした。

 

「具教卿へは、わたくしが持ちましょうか」

 

少しだけ考える。

 

左近将監が一番自然だ。

伊勢の地理も空気も知っているし、今の北畠との間合いもよく分かっている。しかも、あいつの顔なら“治部家が誠実に願っている”ところまで持って行きやすい。

 

「頼む」

「承知」

「ただし、余計なことは言うな。今はまだ、疋田豊五郎殿がどうとか、柳生門下がどうとか、大きく膨らませるな」

「分かっております」

「雪姫様の剣と弓、そのためのお力をお借りしたい。まずはそこまでだ」

「はい」

 

それで決まった。

 

障子の向こうで、控えていた女房が静かに声を掛ける。

 

「雪姫様がお見えでございます」

「お通ししろ」

 

雪姫が入ってきた時、もう表情だけでだいたい分かった。

覚悟はしている。だが緊張もしている。父へ願うのだから当然だ。

 

「雪姫様」と十兵衛が文を差し出す。

 

「はい」

「こちらが治部家より具教卿へお願いする文。こちらが、雪姫様のお添えになります」

 

雪姫は両方を受け取り、まず自分の添え書きへ目を落とした。

 

しばらく静かに読んで、それから小さく頷く。

 

「これでよろしいです」

 

「具教卿も、おそらく軽い願いとは取られますまい」と十兵衛。

 

「はい」

 

雪姫は次に、治部家の願い状へ目を移した。

 

そこには、具教卿へ礼を尽くしながら、石舟斎への取次ぎと、日置大膳亮を弓の師としてしばらく田代へ貸してほしい旨が整然と並んでいる。剣も弓も、雪姫一人の願いとしてではなく、客将としての修練と田代城の武芸の格を整えるため――そういう言い回しになっていた。

 

雪姫が読み終えてから、ふと顔を上げた。

 

「治部殿」

「何でしょう」

「この文、私一人のために見えて、きちんと田代城のことにもなっておりますね」

「そう見えましたか」

「見えます」

 

そこは少しだけ口元を和らげる。

 

「さすがにそこは隠せません」

「隠しておられぬ方が、むしろ安心いたします」

 

その返しには、ほんの少し意外さもあった。

 

雪姫は続ける。

 

「私のためだけに、父へここまでの助力を願われるのも、かえって落ち着きませぬ。ですが、この城のためでもあると分かれば、願いの置きどころがはっきりいたします」

「そう言っていただけるなら助かります」

 

そこへ、半兵衛が横からぽつりと言った。

 

「雪姫様、日置大膳亮殿がおいでになれば、弓の方はお市様も大変喜ばれるでしょう」

 

雪姫が少しだけ目を丸くする。

 

「お市様が」

「ええ。今も真理姫様へ弓をご覧になっておりますが、日置大膳亮殿ほどの師なら、ご自身でも学びたいと思われるかもしれませぬ」

「それは……」

 

雪姫はそこで、初めて少しだけ力の抜けた笑いを見せた。

 

「ますます妙な城になりますね」

 

「はい」と半兵衛。

 

「だいぶ妙です」

 

「お前が言うと妙に腹立つな」と俺。

 

「褒め言葉では?」

「違う」

 

だが、その妙さが悪い方へ転がっているわけでもない。

北畠の姫がいて、武田から来た姫がいて、お市が弓を教え、真理姫が馬を教え、そこへ疋田豊五郎や日置大膳亮まで入るかもしれない。普通に考えれば妙だ。だが、その妙さがそのまま治部家の厚みになっていくのなら、悪くない。

 

雪姫は文を抱え直し、すっと背を伸ばした。

 

「父へ、きちんとお送りします」

「頼みます」

「はい」

 

左近将監が一歩進み出る。

 

「わたくしが責任をもってお届けいたします」

 

雪姫はそこへも一礼した。

 

やり取りはそれで終わるはずだった。

だが、部屋を出る前に雪姫がふと立ち止まった。

 

「治部殿」

「何でしょう」

「もし父が、石舟斎殿への一筆はよいとしても、日置大膳亮殿までは難しい、と申したなら」

 

少しだけ考える。

 

「その時は、まず剣の方を整えます」

「弓は」

「弓は急がずとも、田代にはお市がいます。真理姫もいます。ですが、石舟斎殿への一筆は、いま話を通さねば後へ響きます」

 

雪姫は、そこへ頷いた。

 

「そうおっしゃると思いました」

「分かりやすいですか」

「少し」

 

そこへ少しだけ困った顔をすると、雪姫は本当に小さく笑った。

 

「では、よろしくお願いいたします」

「ええ」

 

雪姫が下がり、左近将監もそれに続く。

 

障子が閉まってから、部屋の中へしばらく静けさが落ちた。

 

「どう思う」と俺。

 

十兵衛がすぐに答える。

 

「具教卿は、石舟斎殿への一筆はまず出されましょう」

「日置大膳亮殿は」

「少し考えられるかもしれませぬ。ですが、雪姫様の添え書きがございます。まったく脈がないとも思えませぬ」

 

半兵衛も頷いた。

 

「むしろ、具教卿にとっては“雪姫が剣だけでなく弓も望む”方が自然に見えるかもしれませぬ。北畠の娘としての修練、と考えれば」

「だといいがな」

 

そこまで言ってから、机の上から文が消えた空白を見た。

 

今はまだ、願いを出しただけだ。

何も手に入ってはいない。

だが、筋だけはかなり綺麗に立った。

 

雪姫の本気。

具教への礼。

石舟斎への取次ぎ。

日置大膳亮の弓。

その先に疋田豊五郎。

 

話が全部通るとは限らない。

だが、通るならかなり大きい。そう思えた。

 

 

左近将監が北畠の館へ着いた時、具教卿はまだ表の務めを終えていなかった。

 

だが、治部家からの文と聞いた時点で、ただの往復ではないことは分かったのだろう。

ほどなくして通され、左近将監は、まず治部家からの願い状を、続いて雪姫自身の添え書きを差し出した。

 

具教卿は先に雪姫の文を開いた。

 

そこに何が書かれているかは、読む前から半ば察していたのかもしれない。

それでも、実の娘の筆で

 

剣のみならず弓も学びたいこと。

北畠の娘として、また治部家へ客将として入った者として、恥じぬよう修練したいこと。

そのため、柳生石舟斎への取次ぎと、日置大膳亮をしばらく田代へ借り受けたいこと。

 

そこまでまっすぐに書かれていれば、父としても国司としても、軽く扱うわけにはいかなかった。

 

具教卿は読み終えてもしばらく文を閉じなかった。

左近将監は、下げた頭のまま待つ。こういう時、余計な口を挟まぬのがこの男の良いところだった。

 

やがて具教卿が、治部家からの願い状へ移る。

 

こちらは雪姫の本気を受けた上で、きれいに筋を整えてあった。

 

石舟斎への一筆を願いたい。

雪姫の剣術修練を軽く扱わぬためでもあり、同時に田代城の兵法と警固の格を上げるためでもある。

さらに、弓の師として日置大膳亮をしばらく田代へ貸し願いたい。

これもまた雪姫個人のためだけではなく、客将を迎え、婚姻で諸家が出入りし、城の格が変わりつつある田代全体のためである。

 

具教卿は、そこまで読んでから、ふっと息をついた。

 

「……やはり、あの治部大輔殿は一つの話で済ませぬな」

 

左近将監は、少しだけ顔を上げた。

 

「恐れながら、その通りにございます」

「雪だけの願いとしては済ませぬ」

「はい」

「だが、雪の願いを踏み台にもしておらぬ」

 

そこが、具教卿にもよく見えたのだろう。

 

剣だけを願うなら、まだ治部家の趣味に見える。

弓だけなら、北畠の内輪の修練に見える。

だが、剣と弓の両方を、雪姫の修練として立て、そのうえで田代城の武芸と警固の格へ繋げる。そこまで筋を通されると、たしかに断りにくい。

 

「左近将監」

「は」

「お前はどう見た」

 

左近将監は、一拍だけ考えてから答えた。

 

「石舟斎殿への一筆は、まずお書きになるのがよろしいかと」

「日置は」

「……そこは、具教卿ご自身の胸三寸かと存じます」

 

具教卿は、その返しには少しだけ口元を動かした。

 

「逃げよるわ」

「逃げてはおりませぬ」

「まあよい」

 

具教卿は、雪姫の添え書きをもう一度見た。

 

雪は本気だ。

それだけは、文の運びより先に分かる。

剣も弓も、ただ姫君らしく嗜みたいというのではない。北畠の娘として、また治部家へ入った者として、身ひとつでも立てるようになりたい。その気持ちは、父には見誤れぬ。

 

「石舟斎へは書く」

 

左近将監が、深く頭を下げる。

 

「ありがたきことにございます」

「書かぬ道理がない」

 

具教卿はそう言い切った。

 

「雪の願いでもある。北畠と治部家の結びの筋でもある。あの治部大輔殿が、そこを軽く扱わず願ってきた以上、こちらも返さぬのは筋違いだ」

 

そこまでは、かなり早かった。

 

だが、日置大膳亮の方へ話が移ると、さすがに少し間が落ちた。

 

具教卿は、机へ指を置いたまま黙る。

日置大膳亮は北畠の家臣であり、弓の師であり、伊勢の地と家中の空気も知る男だ。雪姫の弓の師として相応しいのはその通り。だが、相応しいからといって、そう易々と田代へ出してよいかとなると、話は少し変わる。

 

具教卿が低く言った。

 

「日置を貸せば、雪の弓は確かに整う」

「はい」

「だが、それだけでは済むまい」

 

左近将監は、そこで何も言わなかった。

 

治部家が日置大膳亮を欲しがる理由は、雪姫の弓だけではない。

表向きの武芸の格。北畠の顔。伊勢の地理と人脈。そういうものまで含めての“借りたい”だと、具教卿ほどの男なら当然読む。

 

「治部大輔殿は、欲張りなお方にございます」と左近将監がようやく言った。

 

「知っておる」

 

具教卿は、そこはすぐに答えた。

 

「だが、欲張りだからといって雑ではない」

「左様にございます」

「だから困る」

 

その一言には、少し苦みがあった。

 

欲張りなだけなら断れる。

雑なら嫌える。

だが、礼は通す、筋は立てる、雪姫の願いも軽くしない、その上で城の格と将来の利まで綺麗に一本へ通してくる。そういう男だから、安易に切れないのだ。

 

しばらくして、具教卿はようやく顔を上げた。

 

「日置も出す」

 

左近将監の目が少しだけ動いた。

 

「よろしいので」

「良いも悪いもあるか」

 

具教卿の声は静かだった。

 

「雪が弓も望む。しかも、それが北畠の娘として恥じぬように、という願いだ。父として、そこへ“いや、弓は後にせよ”とは言えぬ」

 

そこへは、父の顔がはっきり出ていた。

 

「ただし」と具教卿は続けた。

「日置は、北畠から取り上げられる形にはせぬ」

 

「はい」

「雪の弓の師として、一定の間、田代へやる。そこを違えるな、と治部大輔殿へも伝えよ」

「承知いたしました」

「それと」

 

具教卿は、ここで少しだけ声を低くした。

 

「石舟斎への一筆には、雪のことだけではなく、あちらが治部家の兵法と警固を整えたがっていることも書いてよい」

 

左近将監が顔を上げる。

 

「よろしいので」

「隠しても詮なきことだ。あの治部大輔殿は、どうせ石舟斎にも上泉にも、そこまで願う」

「……左様にございますな」

「ならば、こちらも初めから見えているものとして扱う」

 

それは、具教卿らしい割り切りだった。

 

相手が何を欲しているか、もう分かっている。

ならば、変に目隠しをして小さくするより、見えているものとして書いた方が、かえって話は通る。まして石舟斎ほどの相手なら、その方がむしろ好むだろう。

 

「文は今夜のうちに整えまするか」と左近将監。

 

「整えよ」

「石舟斎殿への一筆と、日置大膳亮殿への命、双方」

「そうだ」

 

具教卿は、雪姫の添え書きを丁寧に畳んだ。

 

その手つきを見て、左近将監は、少しだけ目を伏せた。

あれは国司の裁断だけではない。父として娘の本気を受けた手つきだった。

 

「雪へは」と具教卿が言った。

 

「はい」

「剣も弓も、学ぶなら半端にするなと伝えよ」

「承知」

「治部大輔殿には」

 

具教卿はそこで少しだけ口元を動かした。

 

「……雪を妙な理屈へ巻き込み過ぎるな、とでも書いておけ」

 

左近将監は、そこでだけほんのわずかに笑いを含んだ。

 

「それは、石舟斎殿への一筆より難しい注文かもしれませぬ」

「知れたことを」

 

そのやり取りのあとで、ようやく場が少し緩んだ。

 

だが結論はもう出ている。

 

石舟斎への一筆は出る。

日置大膳亮も、雪姫の弓の師として田代へ行く。

しかもそれは、単に治部家へ“取られる”のではなく、北畠の娘の修練と、北畠と治部家の結びの延長として整えられる。

 

左近将監が下がったあと、具教卿は一人、しばらく座に残っていた。

 

雪。

剣だけでなく弓も望むか。

 

そのこと自体に、少し驚きはあっただろう。

だが同時に、田代へ入ってからの雪が、ただ守られているだけではなく、あの城の空気に少しずつ当てられていることも、父には分かったはずだ。

 

「治部大輔殿、か」

 

低い独り言が落ちる。

 

あの男は、やはり人を動かす。

だが、雑にではない。雪の願いを城の都合へ繋げ、それでも雪自身を軽くしない。そういうところが、厄介で、そして切りにくい。

 

具教卿は、それ以上は何も言わなかった。

 

だが、その夜のうちに、柳生石舟斎への一筆と、日置大膳亮への命は整えられる。

北畠と治部家の結びは、また一歩、人を伴って深くなる。

 

そういう夜だった。

 

 

その夜、左近将監がなお具教卿の前へ呼び止められたのは、文が一通り整い、もう下がってよいはずの頃だった。

 

部屋の灯は低く、日中の張り詰めた評定とは違う静けさが落ちている。

こういう時間の具教卿は、昼の国司の顔から少しだけ外れる。だからといって軽くなるわけではない。むしろ、重い話ほど変な角度から出るのは、たいていこういう時だ。

 

「その、なんだ。左近将監よ」

 

具教卿が、珍しく言い淀むように口を開いた。

 

「は」

 

左近将監は、すぐには顔を上げない。

こういう前置きの時ほど、まともな話ばかりではないと知っているからだ。

 

「雪は」

 

少しだけ間が落ちる。

 

「治部大輔と、どうこうではないのだな?」

 

左近将監は、さすがにそこで顔を上げた。

 

「は。はぁ?」

 

具教卿は、言ってしまった以上は後へ引かぬらしい。

 

「いや、雪めが、お市殿や真理姫殿に対抗心を燃やしておるとか、女の戦いとか、そういうことではないよの?」

 

左近将監は、しばらく本気で答えを探す顔をした。

 

目の前にいるのは伊勢国司北畠具教である。

戦と和睦と家名の残し方を量る男である。

そのはずなのに、今この場で問われているのは、雪姫と治部大輔と、お市と真理姫の妙な色恋めいた話だった。

 

「……はあ」

 

左近将監は、ようやく声を絞り出した。

 

「某の知る治部大輔は、どちらかといえば女性に対しては淡白と申しますか」

「ほう」

「特別、そういう方面がお好きだとは思えませぬが」

 

具教卿は、その答えに少しだけ眉を寄せた。

 

「しかしだな、左近将監よ」

「は」

「先日、織田家より送られて来た冊子に、子をもうける方法などが書かれたものがあってな」

 

左近将監は、そこで嫌な予感しかしなかった。

 

「それがなんと、治部大輔の書き著したものだというではないか!」

 

声は抑えている。

抑えてはいるが、だいぶ本気で困っている響きだった。

 

左近将監は、もう一度だけ、慎重に言った。

 

「それは、左様にございますな」

「左様にございますな、ではない」

 

具教卿はとうとう机へ手をついた。

 

「いや、治部大輔ほどの男ならば、雪の婿として不足はない!」

 

左近将監は、そこで目を伏せた。

どこから返せばよいのか、もう分からない。

 

「だが!」

 

具教卿は続ける。

 

「儂に断りもなく、そういう話になってもらっては困る! それこそ右近がまた暴れるやもしれぬ!」

 

左近将監は、ついに顔をしかめた。

 

「いえ、それは右近殿をお止め頂きたい」

 

即答だった。

 

具教卿も、さすがにそこで少しだけ言葉に詰まる。

 

「……まあ、それはそうだが」

「そこは“まあ”ではなく、まず確実にお止め頂かねばなりませぬ」

「分かっておる」

「本当にでございますか」

「左近将監よ」

「は」

「今この流れで、お前まで儂へ冷たくするでない」

 

左近将監は、とうとう少しだけ天を仰ぎたくなった。

 

昼は昼で、国司として家を残す理を裁つ。

夜は夜で、娘が治部大輔とどうこうではないかと気にする。

具教卿もまた、ただの名家当主ではなく父なのだと分かるが、だからといって、処理しやすい話では全くない。

 

「恐れながら」と左近将監。

 

「うむ」

「某の見るところ、雪姫様はそのような軽いお気持ちで剣や弓を望んでおられるのではございませぬ」

 

具教卿は、そこは真面目に聞いた。

 

「ふむ」

「お市様や真理姫様を見て、自分もただ客として座しているだけでは軽い、そう感じられたのでしょう。そこへ治部大輔が、例によって一つの願いを三つ四つの筋へ繋げて来ただけにございます」

「……例によって、か」

「はい。剣だけでなく城の兵法。弓だけでなく雪姫様の修練と田代の格。あのお方は、そういうところがございますゆえ」

 

具教卿は、少しだけ黙った。

 

「では」

「少なくとも今のところ、雪姫様が治部大輔へどうこう、という風には見えませぬ」

「そうか」

「はい」

「本当によの?」

 

そこは、だいぶしつこかった。

 

左近将監は、とうとう少しだけ苦い顔になった。

 

「具教卿」

「なんだ」

「仮にそのような話が出るにせよ出ぬにせよ、今ここで気を揉まれるところはそこではございませぬ」

 

具教卿が少しだけ目を細める。

 

「ではどこだ」

「まず右近殿です」

「うむ」

「次に、雪姫様が田代で妙な目に遭わぬこと」

「うむ」

「次に、治部大輔が雪姫様の願いをいつものように城全体の話へ膨らませすぎぬこと」

「……そこは、まあ、たしかに」

「最後に、石舟斎殿と日置大膳亮殿が本当に動くかどうか」

「うむ」

「婿だ何だは、その後でございます」

 

具教卿は、そこでようやく深く息を吐いた。

 

「左近将監よ」

「は」

「お前の申すことは、毎度いちいちもっともで困るな」

「ありがたきことにございます」

「ありがたくはない」

 

そう言いながらも、具教卿の肩から少しだけ力が抜けたのは分かった。

 

しばらくしてから、具教卿は少し低い声で言った。

 

「……いやな」

「は」

「儂も、雪に良い縁があればとは思う」

 

左近将監は、今度は茶化さなかった。

 

「はい」

「北畠の娘である以上、家のこと抜きでは語れぬ。だが、だからこそ雑な相手へはやれぬ」

「左様にございますな」

「治部大輔なら、家も人も、どちらもそれなりに量れる男ではあろう」

 

左近将監は、そこへもすぐには返さなかった。

 

たしかに、そうなのだ。

治部大輔は変わっている。軽く見える時もある。妙な冊子まで書く。だが、家の重さを知らぬ男ではない。そこは具教卿も、もう分かっているのだろう。

 

「……ですが」と左近将監。

 

「何だ」

「いまはまだ、そのような話より、雪姫様が田代の食事で本当にお腹へ肉をつけられぬかの方が、よほど現実的かと」

 

具教卿は、一瞬だけ本気で言葉を失った。

 

それから、珍しくはっきりと顔をしかめた。

 

「なんだその恐ろしい話は」

「お市様と真理姫様が、朝から運動を勧めておられますゆえ」

「……田代城というところは、本当に妙な城だな」

「はい。某もそう思います」

 

そこで初めて、具教卿も小さく笑った。

 

本当にわずかだった。

だが、そのわずかさで十分だった。

 

戦のあと。

結びのあと。

娘を客将として出し、さらに剣と弓の師まで願う。

そういう重い話の裏で、父が娘のことを案じ、家臣がそれをなだめる。男たちの夜というのは、結局こういうものかもしれない。

 

具教卿は、最後にもう一度だけ言った。

 

「左近将監よ」

「は」

「もし、もし万一だぞ」

「はい」

「治部大輔が雪へ妙な気を起こしたら、まず儂へ知らせよ」

 

左近将監は、今度ばかりは本当に困った顔をした。

 

「具教卿」

「何だ」

「その前に、まず雪姫様とお市様と真理姫様がどう動かれるかを見た方が早いかと」

 

具教卿は、そこで少しだけ考え込んだ。

 

「……それもそうか」

「はい」

「女の戦いというものは、儂にはどうにも分からぬ」

「某にも、あまり分かりませぬ」

「頼りにならんな」

「申し訳もございませぬ」

 

そうして、ようやく話は終わった。

 

左近将監が下がる頃には、夜はすっかり深くなっていた。

北畠の館も、田代城も、いまはそれぞれ違う場所で、同じように次の一手を待っている。

 

男たちの夜は更ける。

だが、妙に人間臭い話ほど、こういう夜にこそ零れ落ちるものだった。

 

 

 

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