織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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037北畠教の信徒

左近将監が田代城へ戻ったのは、翌日の夕刻に少し届く頃だった。

 

空はまだ明るい。

だが、城の中はもう夕餉の支度へ寄り始めている。台所の気配、奥向きの人の流れ、表の兵の交替、その全部が日常の形を取っているのに、左近将監が戻ったと聞いた瞬間だけ、空気が一段だけ引き締まった。

 

俺はすぐに詰所へ入った。

 

左近将監は、さすがに道中の埃をまとっていたが、顔そのものは落ち着いている。

悪い返りではない。そういう時の空気ではなかった。

 

「どうだった」

 

左近将監は、まず二通の文を差し出した。

 

「具教卿より」

 

受け取る。

一通は柳生石舟斎への一筆。もう一通は、日置大膳亮へ向けた命を写したものだ。

 

そこで、思わず一瞬だけ言葉が止まった。

 

「……通ったか」

「はい」

 

左近将監は短く答えた。

 

「石舟斎殿への一筆は、具教卿ご自身の筆にございます。日置大膳亮殿へも、雪姫様の弓の師として、一定の間、田代へ下るよう命が出ました」

 

それを聞いた瞬間、胸の中で何かが跳ねた。

 

疋田豊五郎へ届く筋。

日置大膳亮の来訪。

剣と弓の両方が、雪姫の修練として、しかも治部家の兵法再編の表の理として一度に立つ。

 

かなり大きい。

 

だが、その顔をそのまま出すと十兵衛に刺される気がしたので、咳払いで押さえた。

 

「ありがたい話だ」

 

「はい」

十兵衛が、すでに文を受け取る手つきで横へ寄っている。

「拝見しても」

 

「いい」

 

渡すと、十兵衛はすぐに目を走らせた。

半兵衛もいつの間にか入ってきて、帳面を抱えたまま左近将監の顔色を読んでいる。

 

「具教卿らしい文です」と十兵衛が言った。

 

「どう書いてある」

「石舟斎殿へは、北畠と治部家の結びの延長として、雪姫様の剣術修練を軽く扱わぬようにと。加えて、治部家が城の兵法と警固の格を整えたがっていることも、隠さず書いておられます」

「そこまでか」

「はい」

 

それは少し意外でもあり、具教卿らしくもあった。

 

中途半端に飾るより、見えているものとして書く。

石舟斎ほどの相手なら、その方がむしろ通る。具教卿はそこを読んだのだろう。

 

半兵衛が言う。

 

「日置大膳亮殿の方は」

 

十兵衛がもう一通を開く。

 

「雪姫様の弓の師として、しばらく田代へ下るように、と。扱いについては“北畠の家臣を召し上げる形にするな”との含みもございます」

「当然だな」

 

そこは外せない。

日置大膳亮が来るのは、北畠の家臣としての格を保ったまま、雪姫の修練のために一時田代へ入るからだ。こちらがうっかり“召し抱えたい”顔を見せれば、そこで全部が崩れる。

 

左近将監が、そこで少しだけ口元を動かした。

 

「なお、具教卿より伝言が一つ」

「何だ」

「雪姫様へ、剣も弓も学ぶなら半端にするな、と」

 

そこで、思わず少しだけ笑った。

 

「具教卿らしい」

「はい」

 

「それと」

左近将監は、ここだけ少し間を置いた。

「治部大輔殿が雪姫様を妙な理屈へ巻き込みすぎぬように、とも」

 

十兵衛が、露骨にこちらを見た。

 

半兵衛まで、帳面の陰で笑っている。

 

「何だその目は」

 

「いえ」と十兵衛。

 

「具教卿もよく見ておられると思いまして」

「見なくていいところまで見てるな」

「それだけ雪姫様のことを案じておられるのでしょう」

 

そこは、否定しにくい。

 

俺は文をもう一度受け取り、自分でも読み返した。

具教卿の筆は重い。だが、重いだけではない。雪姫の本気を受けた父としての顔も、北畠の結びを違えぬようにする国司の顔も、両方入っている。

 

「……よし」

そう言って、文を畳んだ。

「次だ」

 

半兵衛がすぐに取る。

 

「石舟斎殿へ、でございますな」

「そうだ」

「具教卿の一筆を添えて」

「そこへ雪姫様の件、田代の兵法再編、警固の格上げ、その全部をもう一度きれいに束ねる」

 

十兵衛が頷く。

 

「疋田豊五郎殿まで見据えた願いにいたしますか」

 

「いや」

そこは少し考えてから首を振った。

「最初から疋田豊五郎殿を名指しで強く願いすぎると、少し欲が見える」

 

「では」

「石舟斎殿へは、上泉伊勢守へのお取り次ぎをまず願う。そのうえで、こちらの事情として“ご本人が難しければ、門下の然るべき兵法者を一定期間お借りしたい”と置く」

「疋田豊五郎殿を想定しつつ、でございますな」

「そうだ」

 

そこへ左近将監が口を挟んだ。

 

「石舟斎殿なら、そこは読まれるでしょう」

「読まれてよい」

「はい」

 

田代城の中に、少しずつ道が出来始めているのが分かる。

雪姫が剣を望んだ。弓も望んだ。具教卿が動いた。日置大膳亮も来る。なら、その先に疋田豊五郎まで届く道も、もう夢ではない。

 

そしてその道が通れば、田代はまた一段、妙な城になる。

 

お市がいて、真理姫がいて、雪姫がいて、日置大膳亮が来て、さらに疋田豊五郎まで入る。兵法と婚姻と客将と警固が、妙に一つの城で自然に回り始める。

 

「……だいぶ妙だな」

 

ぽつりと出た本音に、半兵衛がすぐ言った。

 

「褒め言葉でございますか」

「半分はな」

 

「またそれですか」と十兵衛。

 

「便利だからな」

「嫌な学び方をなさいました」

 

そんなやり取りをしているうちに、障子の向こうで女房の声がした。

 

「雪姫様がお見えでございます」

「お通ししろ」

 

雪姫は、入ってくるなりこちらの顔を見た。

たぶん、もう具教卿からの返りの気配は聞いているのだろう。それでも、自分の耳で確かめたいという顔だった。

 

「治部殿」

「具教卿より、お返事が来ました」

 

雪姫の目が、そこで少しだけ真っ直ぐになる。

 

「はい」

 

「石舟斎殿への一筆は出ます」

その瞬間、雪姫の肩からほんの少しだけ力が抜けたのが分かった。

「日置大膳亮殿も、雪姫様の弓の師として、一定の間、田代へ下って下さることになりました」

 

今度は、さすがに雪姫もすぐには言葉が出なかった。

 

「……本当に」

「はい」

「父が」

「ええ」

「そうですか……」

 

それだけ言って、雪姫は一度目を伏せた。

喜びだけではない。父が自分の願いを本気で受けたこと、そのうえで北畠の家臣まで動かしたこと、その全部を一度に受け取っている顔だった。

 

やがて、雪姫がこちらを見た。

 

「ありがとうございます」

「礼はまだ早いです」

「え?」

「石舟斎殿への一筆は出ました。日置大膳亮殿も来られる。ですが、疋田豊五郎殿まで届くかどうかはこれからです」

 

雪姫は、その返しに少しだけ目を細めた。

 

「やはり、そこまで見ておられるのですね」

「見ております」

「変わったお方です」

「この前も言われました」

「今日は、少し感謝も込めております」

 

そこまで言われると、返しに少し困る。

 

「……それはどうも」

 

お市と真理姫がもしここにいたら、たぶんまた妙な顔をしただろう。

幸い今はおらず、十兵衛と半兵衛だけが、いかにも何か言いたそうな顔をして黙っている。実に嫌な家臣どもである。

 

雪姫は、そこで少しだけ背を伸ばした。

 

「では私も、半端にはいたしませぬ」

具教卿の言葉を、そのまま受けたのだろう。

「剣も弓も、本気で学びます」

 

「それがよろしいかと」

「日置大膳亮殿がおいでになれば、お市様も喜ばれますね」

「ええ。たぶん大変喜びます」

「真理姫様も」

「それもそうでしょう」

 

そこまで言ってから、ふと、雪姫は少しだけ口元を緩めた。

 

「ますます妙な城になりますね」

 

今度は、俺も素直に頷いた。

 

「はい」

「かなり妙になります」

 

その場にいた全員が、そこで少しだけ笑った。

 

北畠からの一筆。

石舟斎への筋。

日置大膳亮の来訪。

その先に疋田豊五郎。

 

まだ全部が手に入ったわけではない。

だが、願いがただの願いで終わらず、本当に人を動かし始めた。そこまでは確かだった。

 

そして、その一歩が踏み出された以上、田代城はもう昨日までの城ではいられない。

たぶんそれは、悪いことではない。

少なくとも今は、そう思えた。

 

 

その日のうちに、柳生石舟斎へ送る文も整えられた。

 

北畠具教卿の一筆がある。

雪姫が剣を学びたいと願っている。

さらに、田代城では客将や婚姻で出入りする者が増え、表の警固や若い者たちの鍛え方も見直したい。そこまで揃えば、ただの思いつきではないと見てもらえる。

 

十兵衛が文を清書し終えた時、部屋の中の空気は、もう「願ってみようか」という軽いものではなくなっていた。人が本当に動く前の、静かな緊張感へと変わっている。

 

「これなら、石舟斎殿も無下にはなさいますまい」と十兵衛が言う。

 

「どう返されるかは、石舟斎殿次第だ」と俺は答えた。

「だが、少なくとも“雪姫が剣を望んでいる。北畠も治部家もそれを軽く扱っていない”ところまでは伝わる」

 

半兵衛も頷いた。

 

「日置大膳亮殿まで動くとなれば、具教卿が本気で雪姫様の願いを受けたことも分かります。そこまで見えれば、石舟斎殿も雑には扱えますまい」

 

そこへ、障子の向こうからお市の声がした。

 

「治部大輔殿、少しよろしいですか」

「入れ」

 

お市と真理姫、それに雪姫まで揃って入ってきた。

三人とも、ただ顔を見せに来たのではないと分かる。

 

「どうした」

 

お市が、少し嬉しそうに言う。

 

「日置大膳亮殿がおいでになると聞きまして」

「耳が早いな」

「奥向きに回る話は早いものです」

 

真理姫が少し笑った。

 

「お市様が、それはもう大変お喜びで」

「真理姫様」

「事実にございますので」

 

お市は咳払いを一つしたが、否定はしなかった。

 

「弓の師が本当にいらっしゃるなら、雪姫様だけでなく、私どもにとっても大きなことです」

「そうだろうな」

 

「ええ。それで」

お市は少しだけ表情を改めた。

「日置大膳亮殿がおいでになった後、どういうふうにお迎えするかを、先に決めておきたいのです」

 

「どういうことだ」

 

真理姫が後を継いだ。

 

「雪姫様の弓の師としてお迎えするのは当然にございます。ただ、それだけにすると、日置大膳亮殿ご自身の立場が少し窮屈になります」

「なるほど」

 

そこはすぐ分かった。

 

雪姫の弓の師、とだけ言えば分かりやすい。

だがそれだけでは、北畠の家臣たる日置大膳亮が、ただ一人の姫へ弓を教えるためだけに来たようにも見える。そうなると少し狭い。

 

お市が言う。

 

「ですので、雪姫様の稽古を第一にしながら、日にちを限って、城の女子衆や若い者にも弓の見方や構えをお話しいただくのはいかがでしょう」

「教える、ではなく」

「はい。“見方をお話しいただく”にとどめる方がよろしいかと」

 

上手い言い方だった。

 

雪姫の稽古を中心に置く。

それでも、田代城にいる治部家家臣や余の者へも見稽古の機会を与える。

そうすれば、日置大膳亮がここへ来る意味も広がるし、北畠の家臣としての遇し方も窮屈になりにくい。

 

真理姫も頷いた。

 

「剣の方は、まだ石舟斎殿からのお返り待ちです。ですが、弓は先に日置大膳亮殿がおいでになる。ならば、その時点で城の中に自然な居場所を作っておいた方がよろしいでしょう」

 

雪姫が静かに言った。

 

「私も、その方がありがたいです」

「どうしてでしょう」

「私一人だけが奥の一室で特別に習っている形より、私の稽古を大事にしつつ、この城のために少しでもお役に立てた方が、気が楽にございます」

 

そこまで言われると、たしかにその通りだった。

 

雪姫は客将であり、人質でもある。

その立場で“特別に守られ、特別に学ぶ”だけが強く出すぎると、雪姫自身にも余計な力がかかる。だが、雪姫の稽古を大事にしながらも、少しでも治部家の役に立つならば、「ただ預けられた姫」ではなく、この城で学ぶ者として居やすくなる。

 

「よし」と俺は言った。

「その形で整えよう」

 

お市は満足げに笑った。

 

「では、奥向きの受け方は私どもで整えます」

「頼む」

 

「ですが」とお市。

「剣の方まで本当に通ったら、いよいよ妙な城ですわね」

 

「妙だな」と俺。

「かなり」

 

雪姫が、小さく言った。

 

「治部殿」

「何でしょう」

「もし、疋田豊五郎殿まで本当においでになったら」

「はい」

「私は、先に日置大膳亮殿の弓で少しは形になるようになってから、剣の修行へ移りたいです」

 

お市が少し驚いたように見る。

 

「順を気になさるのですね」

「ええ。せっかくですから」

 

真理姫がその言い方には少し感心したようだった。

 

「雪姫様らしいです」

 

そこへ、左近将監が入ってきた。

 

「治部様」

「何だ」

「石舟斎殿へ走る者、今しがた発ちました」

 

部屋の空気が、また少しだけ張る。

 

これで文は出た。

あとは返りを待つだけだ。

 

「分かった」

 

左近将監は、お市、真理姫、雪姫が揃っているのを見て、少しだけ口元を動かした。

 

「何だその顔は」と俺。

 

「いえ」

「申せ」

「田代城が、また一段、変わったものになって参ったなと」

「お前まで言うのか」

「事実にございますので」

 

そう返されると、もう否定しにくい。

 

お市がいて、真理姫がいて、雪姫がいる。

そこへ日置大膳亮が来る。

さらに疋田豊五郎まで来れば、剣と弓を学ぶ場が一つ、この城の中へちゃんと根を下ろす。姫君の嗜みというだけでなく、城の中の習いの一つになる。

 

普通なら、少し変わっている。

だが、それがこの城の厚みに変わるなら悪くない。

 

「まあいい」と俺は言った。

「通るなら、その変わり方ごと使う」

 

お市が笑う。

 

「治部大輔殿らしいですわ」

 

雪姫も、今度ははっきり少しだけ笑った。

 

その笑みを見て、ようやく分かった気がした。

雪姫はもう、北畠の末姫であり客将であるだけでなく、田代城の中で自分が学ぶ場所を少しずつ見つけ始めている。その最初の形が、剣と弓なのだろう。

 

外ではもう、日が傾き始めていた。

石舟斎への文は走った。

日置大膳亮の来訪も決まっている。

その先に疋田豊五郎。

 

まだ結果は届かない。

だが、待つべきものはもうはっきりしていた。

そういう夕刻だった。

 

 

北畠具教卿のもとへ、その文が届いたのは昼過ぎだった。

 

雪姫からの手紙と聞けば、具教もまず顔を上げる。

田代城へ入ってからまだ日も浅い。客将としての暮らしに不自由はないか、剣や弓の話はどうなったか、日置大膳亮が着いたならどこまで馴染んだか。父として気になることはいくらでもある。

 

具教は、文を受け取るとすぐ封を切った。

 

最初の書き出しは、まず穏当だった。

 

「お父上、いかがお過ごしでしょうか。私はとても良くして頂いており、一日一日が楽しくて仕方がありません」

「ふむ」

 

そこまではよい。

少なくとも、雪は田代で粗略にはされていないらしい。いや、あの治部大輔とお市、真理姫がいるのだから、そこは案じてはいなかったが、それでも実際に娘の筆でそう書かれていれば、父として少し肩の力は抜ける。

 

だが次の行で、具教の眉がぴくりと動いた。

 

「早速ではございますが、この頃胸に変な痛みが走るときがございます」

 

具教はそこで、一度文から目を離した。

 

「……なんだと」

 

近くに控えていた左近将監が、少しだけ顔を上げる。

 

「具教卿?」

 

具教は答えず、もう一度文へ目を落とした。

 

「治部大輔殿のお姿を見ると、心の蔵が激しく打つようになり、汗もかいてしまいます」

 

そこで、具教の指が止まった。

 

しばし沈黙が落ちる。

 

左近将監も、さすがに今度は何事かと顔を上げた。

具教は黙ったまま、その先を読む。

 

「お父上におかれましては、このような症状になにかお心当たりはございませぬか。女房や呼んでいただいた典医にも訊ねましたが、みな顔を左右に振るばかりで、なにも答えてもらえないのです」

 

具教は、そこでついに文を机へ叩きつけた。

 

「ほら見たことか!」

 

左近将監が、本気で肩を震わせた。

 

「……は?」

「ほら見たことかだ!」

 

具教は机へ手をついたまま、怒るでもなく、嘆くでもなく、ものすごく面倒なことになった時の父親の顔をしていた。

 

「左近将監よ」

「は」

「儂は言うたではないか!」

「何をでございますか」

「雪は、治部大輔とどうこうではないのだな、と!」

 

左近将監は、そこでようやく文の内容を半ば察したらしい。

察したが、察したところで楽になる話でもない。

 

「具教卿」

 

「見よ!」

具教は文をひっつかむように取り上げ、半ば読み上げるように振った。

「治部大輔殿のお姿を見ると、心の蔵が激しく打つようになり、汗もかいてしまいます、だぞ!」

 

「……左様にございますな」

「左様にございますな、ではない!」

 

具教は、さっきまで国司の顔でいた男とは思えぬ勢いで言った。

 

「典医に訊ねたが、皆顔を左右に振るばかりで答えぬ、とある! なぜ答えぬ! 答えは明らかではないか!」

 

左近将監は、そこで一度、深く息を吐いた。

 

「具教卿」

「何だ」

「典医どのも女房どもも、たぶん、分かっておられます」

 

具教が止まる。

 

「……ではなぜ答えぬ」

「答えにくいからにございます」

「なぜ答えにくい!」

 

そこまで来ると、左近将監も少しだけ困った顔を隠さなくなった。

 

「姫君に向かって、“それは恋にございます”と申すのは、なかなか勇の要ることかと」

 

具教は、本気で言葉を失った。

 

しばしの沈黙が落ちる。

外では、昼の風が少しだけ障子を鳴らした。

 

やがて具教は、低く唸るように言った。

 

「……恋、だと」

 

左近将監は、今度は即答しなかった。

だが否定もしない。

 

具教は立ち上がり、数歩歩いて、また戻った。

 

「いや、待て」

「は」

「これは、やはり本当にそうなのか?」

「文面だけ見れば」

 

「文面だけ見れば!」

具教は思わず声を荒げた。

「雪め、もう少し隠せぬのか! いや、むしろここまで素で書いて父親に寄越すな!」

 

左近将監は、そこは少しだけ口元を動かした。

 

「そこが雪姫様らしいとも申せましょう」

「らしいで済むか!」

 

具教はまた文を見た。

 

治部大輔殿のお姿を見ると。

心の蔵が激しく打つ。

汗もかく。

典医にも訊ねたが分からぬ。

 

一つ一つが、あまりにもまっすぐだった。

計算して父を揺さぶる文ではない。だからこそ厄介だ。雪は本気で、自分の身に何が起きているのか分からぬまま、父なら知っているかと思って聞いてきたのだろう。

 

具教は、額へ手を当てた。

 

「……あの治部大輔め」

「はい」

「やはり、妙な冊子など書く男は危うい」

「そこは関係が薄いかと」

 

「関係ある!」

具教は言い切った。

「女と子のことにやけに詳しい男が、雪の近くにおって、何も起こらぬと思う方がどうかしておる!」

 

左近将監は、今度はさすがに視線を逸らした。

笑いをこらえているのか、疲れているのか、その両方なのか判じにくい。

 

「具教卿」

「何だ」

「某の知る治部大輔は、どちらかと申せばそういうところは淡白で」

「前にも聞いたわ!」

「はい」

「だが雪はこう書いて寄越しておるではないか!」

「雪姫様の方が先に参っておられる可能性もございます」

「それを今、父に言うか!」

 

そこは、さすがに左近将監も少しだけまずいと思ったらしい。

 

「恐れながら」

「恐れろ」

「はい」

 

具教はしばらく、本当に困った顔で手紙を見つめた。

 

娘が楽しゅう暮らしている。

それ自体は良い。

だが、その楽しさの中に治部大輔がいて、その姿を見るだけで胸が痛いだの汗が出るだのと書かれてしまっては、父としてどういう顔をすればよいのか分からぬ。

 

やがて具教が、ぽつりと言った。

 

「左近将監よ」

「は」

「治部大輔は、本当に雪へ妙な手出しはしておらぬのだな?」

 

左近将監は、今度はかなり真面目に答えた。

 

「少なくとも、某の見聞きする限り、そのような不埒はございませぬ」

「本当によの」

「はい。むしろ、雪姫様の願いを、城の兵法だの警固だのへ勝手に広げているだけでございます」

「それもどうなのだ」

「そこはいつものことで」

「いつものことで済ますな」

 

だが、その返しに少しだけ具教の力も抜けたらしい。

少なくとも、治部大輔が露骨に娘へ何かしたわけではない。それだけでも、父としては少しはましだった。

 

「では」と左近将監。

「返しはどうなさいます」

 

具教は、文を見下ろしたまま黙る。

 

何と返せばよい。

「それは恋だ」と書くのか。

いや、それを父が真正面から書くのもどうかしている。

かといって、典医と同じく左右に首を振って済ませるのも、雪のあの真っ直ぐな筆には酷だ。

 

しばらくして、具教が低く言った。

 

「……熱病か何かではない。まずそこは書く」

 

左近将監が、深々と頷く。

 

「は」

「そのうえで」

「はい」

「もう少しお市殿や真理姫殿と話せ、とでも返すか……」

 

左近将監は、少しだけ感心したような顔になった。

 

「それがよろしいかと」

「お前、今ちょっと楽をしたな」

「否定はいたしませぬ」

 

具教はまた文を見た。

 

雪は、田代でよくしてもらっている。

一日一日が楽しい。

その上で、治部大輔を見ると胸が痛い。

 

父としては面倒だ。

だが、北畠の娘が田代で楽しく暮らし、その中で胸を動かしているなら、それ自体は悪いことばかりでもないのかもしれない。そう思いかけて、具教はすぐに顔をしかめた。

 

「いや、よくない」

「何がでございますか」

「儂の知らぬところで話が進むのがよくない」

 

左近将監は、そこで本当に真面目な顔になった。

 

「具教卿」

「何だ」

「そこは、進んでからお怒りになればよろしいかと」

 

具教は、しばし左近将監を見た。

 

それから、とうとう小さく笑った。

 

「お前は本当に、いちいちもっともで困る」

「ありがたきことにございます」

「ありがたくはない」

 

そう言いながら、具教はようやく腰を落ち着けた。

 

返書は書かせる。

娘には、病ではないこと。まずはお市と真理姫へよく話せと返す。

そして治部大輔については――今のところは、左近将監の見る限り不埒はなし、と信じておくほかない。

 

男たちの夜は、また一つ面倒な話を抱えたまま更けていく。

だが、こういう面倒こそ、案外、家がまだ生きている証かもしれなかった。

 

 

左近将監は、そこで少しだけ言葉を選んだ。

 

具教卿の問いは、半ば本気で、半ばもう面倒がりながら聞いている声だった。

だが、聞かれた以上は答えるしかない。しかも相手は北畠具教である。下手に濁せば、かえって余計な想像を膨らませる。

 

「どちらかと申せば、治部大輔は」

左近将監は、慎重に口を開いた。

「雪姫様を、まるで古の顕家公の再来かとも思っておるようでして」

 

具教卿の顔が、ぴたりと止まった。

 

「それはつまり、雪に良い顔をしたいという魂胆ではないか!」

 

即座だった。

 

左近将監は、少しだけ目を伏せた。

 

「それは左様にございますが」

 

「左様にございますが、ではない!」

具教卿は机へ手をついた。

「顕家公だの何だのと持ち出し、我が娘へ良い顔をしておるだけではないか! 儂は前々から、あの治部大輔は妙な方向へ熱が出ると危ういと思っておったのだ!」

 

左近将監は、そこでさすがに少しだけ疲れた顔になった。

 

「具教卿」

「何だ」

「某が見ますに、お市様や真理姫様に向ける視線と、雪姫様に向ける視線は、まるで違い申す」

 

具教卿が、目を細める。

 

「……具体的にどう違うのだ?」

 

少しだけ間が落ちる。

 

そして、具教卿は本気の声で言った。

 

「瞳の色でも変わるのか!?」

 

左近将監は、とうとう天を仰ぎたくなった。

 

「そこまで露骨ではございませぬ」

「では何だ」

 

「お市様や真理姫様を見る時は」

左近将監は、少し考えながら言った。

「お市様や真理姫様を見る治部大輔は、どちらかと申せば“身内を見る目”にございます」

 

「身内」

 

「はい。城のことを共に回す者、奥向きを預ける者、そういう落ち着いた見方にございます」

具教卿は黙って聞いている。

「雪姫様を見る時は」

 

「うむ」

「どうも、少し違います」

「だから何が」

 

「こう……」

左近将監は、かなり困った顔で言葉を探した。

「見ておる、というより、手を合わせて拝んでおる時がございます」

 

具教卿が、今度こそ本気で顔をしかめた。

 

「それは余計に駄目ではないか!」

「いえ、妙な意味ではなく」

「妙だろう!」

「具教卿、落ち着いてお聞き下さい」

「お前が儂を落ち着かせぬようなことばかり申すからこうなる!」

 

そこは、左近将監も少しだけ黙った。

反論できない。

 

やがて、もう一度言い直す。

 

「お市様や真理姫様へは、信頼して任せる目にございます。雪姫様へは、それに加えて“何かこう、思い描いていたものが目の前に出てきた”ような目になります」

 

具教卿が、少しだけ止まる。

 

「……それは」

「たぶん、顕家公以来の家だの、そういう治部大輔の勝手な熱が混ざっております」

「勝手な熱」

「はい」

「やはり駄目ではないか」

 

「ですが」

左近将監は、そこで少しだけ真顔になった。

「その熱があっても、治部大輔は雪姫様へ軽々しく近づくようなことは致しておりませぬ」

 

「本当によの」

「はい。むしろ、勝手に雪姫様の剣や弓の願いを、城の兵法だの警固だのへ広げております」

 

具教卿は、そこで低く唸った。

 

「それもどうなのだ……」

「どうもこうも、治部大輔にございますので」

「お前、最近その“治部大輔にございますので”で大体済ませておらぬか」

「便利ゆえ」

 

具教卿が、じろりと睨む。

 

「その便利という言い回し、儂はあまり好きではない」

「某も、できれば使いたくはございませぬ」

「なら使うな」

「ですが、実際便利にございます」

 

そこまで言うと、具教卿はとうとう額を押さえた。

 

「……つまり何だ」

「はい」

「治部大輔は、雪を女としてどうこう以前に、まず勝手に顕家公以来の家の色だ何だと見ておる」

「左様にございます」

「その上で、少しは雪へ良い顔もしたい」

「それも左様にございます」

「そして、肝心の雪は、その男を見て胸が痛いだの汗が出るだのと書いて寄越した」

「はい」

 

具教卿は、しばらく本当に何も言えなかった。

 

やがて、ぽつりと漏らす。

 

「厄介だな」

「はい」

「右近の時より、ずっと厄介だ」

「はい」

「右近なら、殴って止めれば済む」

「済むとは申しませぬが、方向としては近いかと」

「だが治部大輔は、顕家公だの家の色だの、妙に立派なことを胸の内で言いながら娘を見るのであろう」

「おそらく」

「雪は雪で、それを病か何かと思って儂へ聞いてくる」

「左様にございます」

「……厄介だな」

 

二度目だった。

 

左近将監も、今度は否定しない。

それ以上に言うこともない。

 

しばらくして、具教卿が少し顔を上げた。

 

「左近将監よ」

「は」

「治部大輔は、お市殿や真理姫殿を見る時には、そんなふうにはならぬのだな」

「なりませぬ」

「断言するか」

「断言いたします」

「では、雪だけか」

「少なくとも今は、そのように見え申す」

 

具教卿は、そこで少しだけ遠い目をした。

 

「……顕家公の再来、か」

「はい」

「そんなふうに見られて、娘の方は大丈夫なのか」

 

左近将監は、そこだけ少しだけ考えた。

 

「雪姫様は、治部大輔のそういう妙な熱には、今のところまだ半ば気づいておられぬかと」

「半ば」

「はい。変わったお方、とは見ておられますが、そこに顕家公の何のとまで悟られるには、まだ雪姫様の方が真っ直ぐにございます」

 

具教卿は、そこで初めて少しだけ息を吐いた。

 

「それならまだましか」

「はい」

「治部大輔の方が勝手に拝んでおる分には、まだ被害が軽い」

「被害、とは」

「左近将監よ」

「は」

「父というものは、そういう見方をする」

 

左近将監は、そこは黙って頭を下げた。

 

具教卿は、しばらく考え込んでから、ふいに言った。

 

「だが、瞳の色が変わるわけではないのだな」

「変わりませぬ」

「本当によの」

「そこは本当に」

「そうか……」

 

なぜかそこだけ、少しだけ安心したようだった。

 

左近将監は、そこで初めて「この話はもう終わってよいのではないか」と思った。

だが具教卿は、最後にもう一つだけ、どうしても聞いておきたかったらしい。

 

「では」

「は」

 

「治部大輔が雪を見る時、どういう目になるのだ」

左近将監は、もう逃げられぬと悟った。

「……古い宝物を、急に目の前へ出されたような目にございます」

 

具教卿は、しばらく黙った。

 

それから、ひどく面倒そうな顔で天井を見た。

 

「それはやはり、娘に良い顔をしたい男の目ではないか」

「半分ほどは」

「また半分か!」

 

夜の静けさの中で、具教卿の声だけが少し高く響いた。

 

左近将監は、ようやく「男たちの夜はまだ終わらぬらしい」と腹を括るしかなかった。

 

 

左近将監は、そこで少しだけ本気の顔になった。

 

具教卿の問いは、半ば呆れと、半ば本気の警戒が混じっている。

ならば、ここは下手に濁すより、見たままを言った方が早いと判断したのだろう。

 

「おそらく」

左近将監は、静かに言った。

「具教卿が目の前にいらっしゃれば、すぐにでも某より近くの距離に来て、まるで餌を待つ子犬のような瞳を向けまする」

 

具教卿は、一瞬だけ本当に言葉を失った。

 

「……は?」

 

「以前、次郎様にお会いした時もそうでした」

左近将監は、そこでさらりと続けた。

「『案外、次郎様のような若者が、顕家公のような方になられるのかもな』とも申しておりまして」

 

具教卿の顔が、今度は別の意味で固まる。

 

「何だそれは」

 

「つまり」

左近将監は、もう腹を括ったように言い切った。

「治部大輔は、『北畠家』そのものが大好きなのです」

 

沈黙が落ちた。

 

長い。

かなり長い。

 

具教卿は、机の上へ手を置いたまま動かない。

怒るべきか、呆れるべきか、あるいは笑うべきか、そのどれもがすぐには決まらぬ顔だった。

 

やがて、ひどく低い声で言った。

 

「……それは、もっと厄介ではないか」

 

左近将監は、今度は即答した。

 

「はい」

「雪個人に惚れたとか、そういう話ならまだ話が早い」

「左様にございます」

「だが、“北畠家”が好きだと?」

「はい」

「儂もか」

「はい」

「次郎もか」

「はい」

「雪もか」

「はい」

「右近は」

 

左近将監は、そこだけ少し間を置いた。

 

「……右近殿は、たぶん少し違います」

 

具教卿は、そこでとうとう顔をしかめた。

 

「何だその差は」

「治部大輔の中にある“顕家公以来の家の色”に、右近殿は少し乗りにくいのでしょう」

「乗りにくい、で済ますな」

「ですが、そうとしか申せませぬ」

 

具教卿は額を押さえた。

 

「つまりあれか。治部大輔は、北畠の家自体に妙な憧れを抱いておって、その延長で雪や次郎を見ておる」

「はい。かなり」

「儂を見ても」

「たぶん、かなり嬉しそうになります」

 

「嫌だな」

その一言が、あまりにも素直で、左近将監は少しだけ視線を逸らした。

「嫌だな、としか思えぬ」

 

「はい」

「父の前で、娘を気にする以前に、家ごと好かれておると言われて喜ぶ者がおるか」

「……あまりおられぬかと」

「であろう」

 

具教卿は、少しの間、本気で考え込んだ。

 

雪が治部大輔を見ると胸が痛い。

治部大輔は雪を見ると、顕家公以来の家の色だ何だと妙な熱を帯びる。

しかも、それは雪一人に向いたものというより、北畠家そのものへの敬慕が先にある。

 

そこまで整理されると、もはや普通の父親の警戒線では測りにくい。

 

「左近将監よ」

「は」

「それはもう、男としてどうこうというより、信徒か何かではないのか」

 

左近将監は、今度こそ少しだけ吹き出しそうになった。

 

「具教卿」

「何だ」

「某も、そこは少し近いものを感じます」

「感じるのか」

「はい」

「やはり厄介だな」

 

三度目だった。

 

だが今度は、具教卿の声に少しだけ力が抜けていた。

怒っても詮ない。困っても仕方ない。そういう種類の厄介さだと、ようやく腹に落ちたのだろう。

 

しばらくしてから、具教卿はぽつりと言った。

 

「では雪のあの胸の痛みも、あながち見当違いではないのかもしれぬな」

 

左近将監は、そこには慎重に答えた。

 

「雪姫様の方がどう思っておられるかは、まだ某にも分かりませぬ」

「うむ」

「ただ、少なくとも治部大輔の側は、雪姫様を“北畠の娘”としてかなり特別に見ております」

 

「そこだ」

具教卿が、少しだけ指を立てた。

「そこがややこしいのだ。雪そのものを見ておるのか、“北畠の娘”を見ておるのか」

 

左近将監は、その問いには少し考えた。

 

「……両方かと」

「両方」

「はい。最初は“北畠の娘”として入ったのでしょう。ですが、今は雪姫様ご自身の剣や弓の望み、田代での過ごし方、そういうものもちゃんと見ております」

 

具教卿は、そこで少しだけ黙った。

 

「それなら、まだましか」

「ええ」

「家の看板だけ見ておるのではないなら」

「はい」

 

具教卿は、ようやく息を吐いた。

 

「だが、餌を待つ子犬のような瞳、というのはどうなのだ」

 

そこへまた戻るのか、と左近将監は思ったが、顔には出さなかった。

 

「比喩にございます」

「だろうが」

「ですが、近いものはございます」

「嫌だな」

 

また同じ一言が出た。

 

左近将監は、今度はさすがに少しだけ口元を動かした。

 

「具教卿」

「何だ」

「治部大輔が具教卿を目の前にして、そのような顔をなさったなら」

「うむ」

「その時は、具教卿の方でどうぞ一度、冷たくあしらってやって下さいませ」

 

具教卿は、そこで初めて少しだけ笑った。

 

「お前、それを見たいのだろう」

「否定はいたしませぬ」

「左近将監よ」

「は」

「お前もなかなか悪い」

「具教卿ほどでは」

「儂は悪くない」

 

そう言いながらも、具教卿の肩からはかなり力が抜けていた。

 

雪の手紙。

治部大輔の妙な熱。

北畠家そのものへの敬慕。

全部がややこしい。だが、ややこしいからこそ、ただの下卑た話ではないとも分かる。

 

「……まあよい」

具教卿は、最後にそう言った。

「少なくとも、雪も次郎も、軽く見られてはおらぬのであろう」

 

「そこは、まず間違いございませぬ」

「なら、今はそれでよい」

 

左近将監は深く頭を下げた。

 

「は」

 

「だが」

具教卿は、そこでまた少しだけ目を細めた。

「もし本当に、雪に何か言い寄るようなことがあれば」

 

「はい」

「その時は、まず儂へ知らせよ」

 

左近将監は、今度はもう疲れた顔を隠しもせずに答えた。

 

「承知いたしました」

 

男たちの夜は、まだ終わらない。

だが少なくとも、治部大輔信繁という男が、雪姫だけでなく北畠家そのものへ妙な敬慕を抱いていることだけは、今この夜、具教卿の腹へしっかり落ちた。

 

それが良いことか、悪いことか。

そこはまだ、誰にも分からない。

ただひとつ言えるのは、普通の縁談よりずっと面倒で、たぶん少しだけ重い話だということだった。

 

 

再び北畠具教のもとへ届いた雪姫からの文は、前のものとはまた違う意味で、父の頭を抱えさせるものだった。

 

書き出しこそ穏やかである。

 

「お父上、いかがお過ごしでしょうか。私は相変わらず、よくして頂いております」

 

そこまではよい。

具教も、まずは文へ目を落とし、静かに先を追った。

 

だが次の段で、もう嫌な気配がした。

 

「先日、勇気を出して、いえ、卑怯とは思いつつも、治部大輔殿に、『これは私の話ではなく、侍女に相談を受けた』という形でご相談致しましたところ、治部大輔殿は何とも良い笑顔で何度か頷かれました」

具教の目が止まる。

「……左近将監よ」

 

「は」

「儂、もう嫌な予感しかしない」

 

左近将監は、またか、という顔を半分だけ押し隠して頭を下げた。

 

具教はそのまま読む。

 

「そしてそのあと、『若いって良いですよね』とも仰っていました。何だそれは」

 

思わず声が漏れる。

 

左近将監は、まだ文を見ていない。

だが、治部大輔の口からその言葉が出る場面だけは、妙にはっきり想像できるらしく、目を伏せたまま小さく息を吐いた。

 

具教は続けて読む。

 

「雪には、そこに若さがどうして関係があるのか分かりませんでした」

「そりゃそうであろうよ!」

 

具教はとうとう文へ向かって言った。

 

「ですので、恥を忍んで、『どういうことですか? 私もどう返事すればよいのかわからず困っております。もったいぶらずに教えていただきとう存じます』と申し上げましたところ」

 

具教は、そこで少しだけ手を止めた。

 

「……ここからが本番だな」

 

左近将監が、かなり疲れた顔で答える。

 

「おそらく」

 

具教は読んだ。

 

「非常に生暖かい物でも見るかのような視線で、『それって恋してるってことですよ! さすが伊勢物語の国ですね!』とのお答えを頂きました」

 

文を読み終えた瞬間、具教は机へ手をついた。

 

「治部大輔ぁ……!」

 

低い。

だが、ものすごく面倒なものを引き受けさせられた父親の声だった。

 

左近将監は、そこでようやく顔を上げた。

 

「何と」

 

具教は文を持ち上げて、半ば読み上げるように振った。

 

「“それって恋してるってことですよ!”だと!」

「……左様にございますか」

 

「左様にございますか、ではない!」

具教は本気で言った。

「前の文で、胸が痛いだの汗が出るだのと寄越した娘に、今度は本人が“それは恋だ”と教えたのが、ほかならぬ治部大輔だぞ!」

 

左近将監は、さすがに少しだけ視線を逸らした。

たぶん笑いを堪えている。

 

「しかも」と具教は続ける。

「伊勢物語の国ですね、とは何だ! 何を妙に楽しげに講評しておる!」

 

左近将監は慎重に答えた。

 

「治部大輔にございますので」

「その便利な言い回しを使うな!」

 

だが、そうとしか言いようがないのも事実だった。

 

具教は文をもう一度見た。

 

雪は、勇気を出した。

だが卑怯と思い、侍女の相談という形を取った。

治部大輔は良い笑顔で頷いた。

若いって良いですよね、と言った。

意味が分からぬので問い返したら、恋だと教えた。

 

どこを切り取っても、雪の真っ直ぐさと治部大輔の妙な軽みが噛み合って、やたら鮮明に場面が浮かぶ。そこがまた父には腹立たしい。

 

「左近将監よ」

「は」

「これはもう、あやつ、知って言うておるのだな?」

「はい」

「雪が自分自身のことを申しておると、分かった上で」

「おそらく」

「おそらく、ではなく十に九つそうであろう!」

 

左近将監は、そこへは静かに頷いた。

 

「はい。そこは、まず」

 

具教はそこで、しばらく本当に黙った。

 

怒るべきか。

呆れるべきか。

あるいは、娘に恋とは何かを教えた相手が治部大輔であること自体を、どう受け取るべきか。

 

やがて、ぽつりと言う。

 

「……生暖かい物でも見るような視線、か」

「はい」

「それは、どういう目だ」

 

左近将監は少しだけ考えた。

 

「たぶん、“やっとそこへ気づきましたか”という目かと」

 

具教は、そこでとうとう天を仰いだ。

 

「嫌だな」

「はい」

「実に嫌だ」

 

それでも文の先は気になるらしく、もう一度続きを追う。

 

雪には若さが関係あるようには思えぬこと。

どう返事をすればよいか分からず困っていたこと。

もったいぶらずに教えてほしいと頼んだこと。

 

「……雪らしい」

 

具教の口から、ようやくそんな言葉が漏れた。

 

真正面から聞いたのだ。

父に胸が痛いと書くくらいだから、そこに変な小細工はない。だが、小細工がないぶん、相手が治部大輔のような男だと、余計に話がややこしくなる。

 

左近将監が低く言う。

 

「具教卿」

「何だ」

「雪姫様は、ようやく“これは恋かもしれぬ”と、ご自身で言葉を持たれたのでしょうな」

「その言葉を、治部大輔から教えられてか」

「はい」

 

具教はまた額を押さえた。

 

「父としては、何とも言い難いな」

「はい」

「せめてお市殿か真理姫殿から、もう少し穏当に教えてもらえなかったものか」

 

左近将監は、そこには少し考えてから答えた。

 

「雪姫様ご自身が、治部大輔へ聞いてみたかったのでは」

 

具教が止まる。

 

「……そうか」

「おそらく」

「それもまた厄介だな」

「はい」

 

そこへはもう、左近将監も否定しない。

 

しばらくして、具教は文を丁寧に畳んだ。

 

「では、次の返りはどう書く」

 

左近将監が少しだけ姿勢を正す。

 

「まず、恥じることではない、と」

 

具教が頷く。

 

「うむ」

「次に、治部大輔が申したことを、すぐに答えと決め切らずともよい、と」

「うむ」

「剣と弓を学びながら、胸の内がどう変わるか、もう少し見てもよいのではないか、と」

 

具教は、そこへは素直に頷いた。

 

「それがよいな」

「はい」

 

「だが」

具教は少しだけ目を細める。

「治部大輔の方が、雪の問いを受けて“それは恋だ”と即答したことについては、何か一言言いたい」

 

左近将監は、そこでさすがに少し困った顔になった。

 

「具教卿」

「何だ」

「そこを文へ出すと、少し父親らしすぎるかと」

 

具教は、ほんの少しだけ唸った。

 

「父だ」

「はい」

「父なのだから仕方あるまい」

「まことに」

 

そう言いながらも、左近将監の口元は少しだけ緩んでいた。

 

結局、具教は返書の中へその不満を直接は書かなかった。

だが心の中では、確かに刻んだ。

 

雪に恋とは何かを教えたのは、治部大輔だ。

しかも、良い笑顔で頷いたあと、若いって良いですよね、などと言ってのけた。

さらに伊勢物語の国ですね、と来た。

 

「……あやつ、やはり妙だ」

 

具教がぽつりとそう漏らすと、左近将監も今度は素直に頷いた。

 

「はい。たいへん妙にございます」

 

男たちの夜は、また一つ、娘の純粋さと治部大輔の妙な軽みのせいで、更けていく。

 

しかも今度は、雪の方ももう「自分の胸の痛みは恋かもしれぬ」と知ってしまった。

知ってしまった以上、前の文よりさらに後戻りが利かぬ。父としては実に面倒だが、だからといって無理に押さえつけてどうにかなる段でもない。

 

具教は、返書の最後にこう入れることにした。

 

まずは剣と弓を学べ。

恥じることはない。

ただし、胸の内の名を急いで決めずともよい。

お市殿や真理姫殿とも、なおよく話せ。

 

それが、いま父として返せる一番ましな言葉だろうと思えた。

 

 

数日後、また雪姫からの文が届いた。

 

具教卿は、封を見た瞬間に少し嫌な予感を覚えた。

 

前の文が前の文である。

あれだけ真っ直ぐに、「治部大輔殿を見ると胸が痛い」「汗も出る」「これは病か」と書いて寄越した娘だ。父としては、次の文も穏当な近況報告だけで終わる気が、どうしてもあまりしない。

 

「……左近将監」

「は」

 

たまたま側にいた左近将監が、またか、という顔を半分だけ隠して頭を下げる。

 

「おるなら、読め」

「いえ、それはさすがに」

「儂一人で読むのも不安だ」

「不安、と仰せられましても」

 

だが具教卿はもう封を切っていた。

 

開いて、まず書き出しを見る。

そこまでは至って普通だった。

 

「お父上、先日はご返書ありがとうございます。病ではないと分かり、まずは安心いたしました」

「うむ」

 

具教卿は小さく頷く。

 

病ではない。

そこは返した。

お市と真理姫によく話を聞け、とも書いた。雪も少しは落ち着いたかと思ったのだ。

 

だが、その次で、やはり目が止まる。

 

「ただ、病ではないと分かった後も、治部殿のお姿を見ると、やはり胸の内が落ち着かず、心の蔵がとくとくと早く打ちます」

 

具教卿は、もうこの時点で文を少し遠くへ持った。

 

「……左近将監よ」

「は」

「続きが嫌な予感しかしない」

「具教卿、それを某に申されましても」

 

それでも具教卿は読むしかない。

 

「お市様と真理姫様にお話ししたところ、お二人ともたいへん優しいお顔で、そういうこともございます、と仰せでした。ですが、何が“そういうこと”なのかは、やはりはっきり教えては下さらないのです」

 

左近将監は、そこでとうとう目を伏せた。

 

具教卿は読む。

 

「しかも、治部殿は私に対して時おり妙に真面目なお顔をなさるかと思えば、次の瞬間には、まるで別のことを考えておられるようなお顔にもなります」

 

具教卿の眉がぴくりと動く。

 

「それはそうであろうな」と思わず独り言が漏れた。

 

左近将監が小さく言う。

 

「治部大輔にございますので」

「その便利な言い回しを使うな」

 

だが文は続く。

 

「先日は、弓のお話をしていたはずなのに、いつの間にか大和の兵法や、疋田豊五郎殿がどうの、柳生の者がどうのと申しておられました」

 

具教卿は、そこで思わず天を仰いだ。

 

「やはり妙な男だ」

「はい」

「雪へ向ける話ですら、途中から城の話になる」

「はい」

 

「だが雪は、そういうところも少し面白く感じてしまう自分がいるのです」

そこで、具教卿は文を机へ置いた。

「ほらみたことか」

 

左近将監は、今度はさすがに苦笑を隠せなかった。

 

「具教卿」

「見よ。面白く感じてしまうと書いておるぞ」

「左様にございますな」

 

「それで済ますな」

具教卿は、もう一度文を取り上げる。

「治部殿は、私を北畠の娘として大事にして下さるのだと思います。ですが時おり、それだけではないようにも感じます」

 

「…………」

「私が剣や弓を学びたいと申すと、たいそう喜ばれました。けれども、その喜びは、私個人のためというより、なにかもっと大きなものが一つ増えたような、少し不思議な喜び方でした」

 

具教卿は、そこでしばらく何も言わなかった。

 

娘は本当に真っ直ぐだ。

見たままを書いてくる。飾らない。だからこそ、読む方には余計に刺さる。

 

「お父上」

 

と文は続く。

 

「これは恋なのでしょうか。もしそうなら、治部殿のお心も同じなのでしょうか。それとも、私ばかりが一人で騒いでいるだけなのでしょうか」

 

具教卿は、ついに文を机へ伏せた。

 

「左近将監」

「は」

「難題を寄越しおったぞ」

「はい」

「儂は国司であって、恋文の裁き手ではない」

「まことに」

「しかも相手が治部大輔だ」

「はい」

「普通の若殿なら、まだ分かる。だがあれは、雪を見ておるのか、北畠を見ておるのか、顕家公を見ておるのか、城の兵法を見ておるのか、儂にも分からぬ」

 

左近将監は、そこへは少しだけ真面目に答えた。

 

「たぶん、全部でございます」

 

「それが一番困るのだ!」

具教卿は本気で言った。

「一つならまだ良い。全部混ざっておるから、父としてどこを怒ればよいか分からぬ!」

 

左近将監は、そこで少し考えてから言う。

 

「雪姫様は、治部大輔が自分だけを見ておるのではないことも、どこかで感じておられるのでしょうな」

「うむ」

「ですが、それでも胸が痛む」

「うむ」

「なら、もうだいぶ本物かと」

「言うな!」

 

具教卿は即座に制した。

 

だが制した声に、前ほどの勢いはない。

父としては否定したい。だが、娘の文があまりにも素直で、しかも一過性の浮つきだけでもなさそうだと、もう分かり始めているのだろう。

 

しばらくして、具教卿は文の最後を開き直した。

 

そこにはさらに、雪姫らしい一文があった。

 

「もしこれが恋であるなら、私はまず剣と弓をきちんと学び、その上で改めて自分の胸の内を見たいと思います。まだ今は、治部殿のお姿を見て胸が痛い、それしか分かりませぬので」

 

具教卿は、そこで小さく息を吐いた。

 

「……雪らしいな」

 

左近将監も頷く。

 

「はい」

「いきなりどうこうではなく、まず剣と弓を学んでから、か」

「雪姫様にございますので」

「それはそうだ」

 

しばらく静けさが落ちた。

 

先日の文より、よほど深い。

だが、妙に安心するところもある。雪は雪で、ただ胸が騒ぐままに走ろうとしているのではない。自分でそれを見ようとしている。そこは、北畠の娘らしいと言えばらしい。

 

「返書は」と左近将監。

 

具教卿は少し考えた。

 

「まず、剣と弓を学べと返す」

「はい」

「その上で、自分の胸の内がどういうものかは、急いで決めずともよい、と」

「はい」

 

「治部大輔の方の胸の内については」

そこだけ、具教卿は本気で困った顔をした。

「……なんと書けばよい」

 

左近将監は、少しだけ視線を泳がせた。

 

「難しゅうございますな」

「難しいで済ますな」

「少なくとも、“あれはおそらく雪姫様を軽くは見ておらぬ”くらいはよろしいかと」

 

具教卿は、少しだけ黙った。

 

「軽くは見ておらぬ、か」

「はい。そこはまず間違いございませぬ」

「だが、“同じ心である”とはとても書けぬ」

「はい」

「“そうではない”とも書けぬ」

「はい」

「厄介だな」

 

左近将監は、そこへは静かに答えた。

 

「まことに」

 

具教卿は、最後にもう一度文を読んだ。

 

雪は楽しゅう暮らしている。

治部大輔を見ると胸が痛む。

それが恋かどうかを、剣と弓を学びながら見たいと思っている。

 

父としては厄介だ。

だが、娘が真っ直ぐに生きていること自体は、どこかで嬉しくもある。そこがまた厄介だった。

 

「左近将監よ」

「は」

「お前は田代へ戻る時、治部大輔の顔色も少し見てこい」

「某が、ですか」

「そうだ」

「何を見れば」

「雪の文を見せた時、もしあやつの瞳の色が変わったら、すぐに知らせよ」

 

左近将監は、本気で困った顔をした。

 

「具教卿」

「何だ」

「やはりそこへ戻られますか」

「父というものはそういうものだ」

 

左近将監は、ついに小さく笑った。

 

「承知いたしました」

 

男たちの夜は、また一つ、娘の真っ直ぐすぎる文に振り回されながら更けていく。

だが、こうして振り回されるのも、まだ家が続いているからこそだ。

 

少なくとも具教卿は、そう思うことにしたらしかった。

 

 

 

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