織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
お犬の輿入れに伴い、治部大輔が小谷へ向かってから、田代城の空気は少しだけ薄くなった気がした。
もちろん、城の日常が止まるわけではない。
お市はいつも通りに奥向きを見ているし、真理姫も日々のことを崩さない。雪姫の弓も続く。治部大輔と入れ替わるようにやって来た日置大膳亮の教えは厳しく、けれど理が通っていて、弓を引くことそのものに集中している間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
だが、ふとした時に、胸の奥へ別のものが戻ってくる。
治部大輔がいない。
ただそれだけのことが、思っていた以上に大きかった。
雪姫は、最初の二日はまだ平気だと思っていた。
小谷へ行っただけだ。戻るはずだ。お犬殿の輿入れに付き添い、副使としての務めを果たして帰ってくる。それだけの話だと、頭では分かっている。
けれど三日、四日と過ぎるにつれ、妙な不安が胸の底へ沈み始めた。
このまま戻らなかったらどうしよう。
その考えが、ある瞬間から急に現実味を帯びた。
戦のある世だ。
婚姻で城を出るのも、使者として道を行くのも、何も当たり前に帰ってくる保証があるわけではない。しかも相手は治部大輔である。あの人は、一つの役目だけを果たして帰るような人にも見えない。小谷へ行けば、そこでまた何かを見つけ、何かを抱え、別の方角へ走って行きかねない。
そう思った瞬間、雪姫ははっきりと悟った。
自分は、治部大輔に会えなくなるのが怖いのだと。
「雪姫様」
お市の声に、雪姫ははっとした。
弓場の端で、矢を番えたまま少し止まっていたらしい。お市はすぐ近くでこちらを見ていた。その目はやわらかい。だが、何も見逃してはいない目でもある。
「ごめんなさい」
「いえ。お疲れですか?」
「……少し」
それは嘘ではない。
だが、本当は疲れではないことも、お市にはたぶん見えている。
真理姫も、少し離れたところで静かにこちらを見ていた。
あの人もまた、何も言わぬ時ほどよく見ている。
お市が近づいてきて、小さく言う。
「治部大輔殿が小谷へ行ってから、少しぼんやりしておいでですね」
雪姫は、返事に詰まった。
否定できない。
だが、認めるのも恥ずかしい。
お市はそれ以上追い詰めるようなことはせず、ただ少しだけ笑った。
「無事に戻られるか、気になりますか」
その言い方があまりにまっすぐで、雪姫はかえって言い逃れできなかった。
「……はい」
真理姫が、その横で静かに言った。
「恋を知ると、離れている時の方が怖くなることもございます」
雪姫は思わず、そちらを見た。
真理姫は穏やかだった。
揶揄うふうでも、面白がるふうでもない。ただ、自分もそれを知っている人の顔で言った。
「会っている時は、目の前におられるだけで足ります。ですが、いなくなると、急に“次に会える”ことが当たり前ではなくなります」
雪姫は、そこでとうとう目を伏せた。
「私……」
言いかけて、言葉が続かない。
お市が、そっと後を継ぐ。
「二度と会えないのでは、と」
雪姫は小さく頷いた。
それを口にした途端、胸の奥へ沈めていた不安が急に形を持った気がした。そうだ。自分はそれが怖いのだ。戻ってくると分かっていても、絶対ではないと知ってしまったから怖い。
お市は雪姫の肩へ軽く手を置いた。
「それなら、もう十分ですね」
「十分……」
「はい。ご自分でも分かっておいでなのでしょう? 治部大輔殿のお姿を見ると胸が痛むだけでなく、いなくなると、もう会えないのではと怖くなる。それはもう、かなり深いところまで行っておいでです」
雪姫は、返事ができなかった。
恥ずかしい。
だが、どこかで少し楽でもある。自分の中で名のつかなかったものが、ようやく輪郭を持っている。
その頃、小谷へ向かう道中で、当の治部大輔は別の意味で妙な具合になっていた。
小谷城へ入る前の宿で、ふと静かになった時、信繁は自分でもよく分からぬ寂しさに気づいていた。
雪姫の様子が、田代を発つ少し前から変わっていた。
前より静かで、前よりまっすぐで、しかも言葉を選ぶようになった。こちらが何か言うたび、きちんと受け取り、考えて返してくる。剣や弓の話をする時も、ただ珍しがるのではなく、自分がどう学ぶかをきちんと見ている。
――あれは、きっと誰か好きな相手でもできたのだろう。
そう思った時、信繁は自分でも驚くほど自然にその結論へ行っていた。
胸が痛むだの汗が出るだのと雪姫が言っていたあれも、そういう話だ。
しかも若い娘が、あれだけ静かに一つのことを見始めるのだから、相手はよほどの男なのだろう。
そこまで考えてから、信繁は妙な顔になった。
「あれ?」
誰もいない部屋で、思わずそう口にしてしまう。
「あれ、ちょっと寂しいな?」
自分で口にして、さらに妙な気分になる。
何が寂しいのか。
雪姫が誰かを好きになったとして、それは別に良いことのはずだ。むしろ喜ばしい。若いっていいですよね、などと自分で言ったではないか。なのに、そう思うと少し胸のあたりが空く。
「……何だそれは」
信繁は、一人で額を押さえた。
雪姫は雪姫で、田代の弓場で胸を押さえている。
信繁は信繁で、小谷への道中で一人首を傾げている。
二人とも、まだ相手の方を見ていない。
だが、それぞれの場所で、もうかなり深いところまで足を踏み入れ始めていた。
♢
小谷からの帰りは、思っていたより早かった。
もちろん、のんびり戻ったわけではない。
お犬の輿入れに勘十郎信勝の副使として付き従い、浅井家中の空気も見、備前守長政の目の置きどころも確かめ、下野守久政が織田を受け入れる余地があることを確認した。そのうえで余計なところへ首を突っ込まず戻ってくる。
上総介信長に言われた通り、一つ一つはちゃんと済ませた。済ませたのだが、それでも信繁の胸の内には、道中ずっと拭いきれぬ妙な引っ掛かりが残っていた。
雪姫のことを思い出すたび、あの静かになった目が浮かぶ。
剣のこと。
弓のこと。
日置大膳亮のこと。
あれこれ話しても、前のようにただ感心したり驚いたりするのではなく、一つ受け取ってから返してくるようになっていた。若い娘がそういうふうに変わる時は、大抵どこかに一人の相手がいる。
そう思うたび、なぜか少しだけ気持ちが沈む。
「……我ながら面倒だな」
宿の夜に漏らした独り言を、信繁はもう一度胸の中で繰り返した。
帰城の報せが田代へ先に入ったのは、昼を少し回った頃だった。
城内の空気がわずかに弾む。
奥向きでも表でも、それぞれの動きの中で「ああ、戻られるのか」となる。真理姫は静かに微笑み、お市は「では少し早めに整えましょうか」と自然に手を動かし、日置大膳亮は「戻られるなら、雪姫様も今日は弓の手元が散るかもしれませぬな」と穏やかに言った。
その言葉の通りだった。
雪姫は、朝から落ち着かなかった。
戻ってくる。
そう聞いた瞬間、胸の奥が早くなる。嬉しい。けれど、それだけではない。小谷へ出る前と同じように接することができるのか。自分の胸の内を知ってしまった今、前と同じ顔で立っていられるのか。そんなことばかりが頭を巡る。
弓を引いても、今日はどうにも弦が重い。
「雪姫様」
日置大膳亮が、やわらかく声を掛けた。
「はい」
「手先が急いておいでです」
雪姫は、はっとして息を整えた。
「申し訳ありません」
「謝ることではございませぬ。そういう日もございます」
日置大膳亮は、それ以上は問わない。
けれど問わないからこそ、雪姫にはかえって見透かされている気がした。
その時、馬場と弓場のあいだを抜ける気配がした。
幾人かの足音。
供の者たちの声を抑えた動き。
そして、その中にある一人の歩き方を、雪姫はもう知っている。
振り返るより先に、胸がきゅっと縮んだ。
信繁が戻ってきた。
旅装の埃はまだ少し残っている。
だが、疲れた顔というより、いつものように周りへ目を配りながら歩いてくる。十兵衛が少し後ろにいて、半兵衛も控えている。小谷帰りであることを考えれば、きっと道中で拾ってきた話も頭の中でいくつも並んでいるのだろう。なのに、雪姫の目には、まず「戻ってきた」ということしか入らなかった。
「……治部殿」
あまりにも小さな声で、自分にしか聞こえなかった。
信繁の方も、弓場に雪姫がいるのを見つけた。
その瞬間、妙に胸の内がほどける。
「ああ、いるな」
ただそれだけのことなのに、道中ずっとどこか空いていた場所へ何かが戻る。
戻って、そこでようやく気づく。自分は雪姫が城にいて、剣や弓のことを話し、真面目な目でこちらの言葉を聞いている、その当たり前に妙に慣れてしまっていたのだと。
だが次の瞬間、信繁は少しだけ足を止めた。
雪姫の様子が、やはりおかしい。
こちらを見ている。
だが、前より静かだ。まっすぐに見てくるのに、その目の奥で何かを堪えているようにも見える。
――ああ、やっぱりそうか。
信繁は、半ば勝手に納得した。
好きな相手がいる。
たぶん、そのことで一人でだいぶ揺れている。自分はそれを前にして、何も知らぬまま帰ってきたに過ぎない。
そう思うと、胸の奥がまた少しだけ冷える。
「戻りました」
信繁は、できるだけ平らな声で言った。
お市と真理姫が先に歩み寄る。
言うべきことも、聞くべきことも、そちらの方が自然だからだ。
「お帰りなさいませ」とお市。
「ご無事で何よりです」と真理姫。
「ただいま戻った」
そこへはいつもの調子で返せる。
返せるのだが、その横で雪姫が少しだけ呼吸を詰めたのを、信繁は見てしまった。
雪姫は、どうしてよいか分からなかった。
「お帰りなさいませ」と言えばよい。
そんなことは分かっている。分かっているのに、喉が少しつかえる。二度と会えぬのではとまで思い詰めた相手が、今こうして目の前に立っている。そのだけで、いままで弓を引いていた時の何倍も心の蔵が早く打つ。
ようやく声が出た。
「……お帰りなさいませ、治部殿」
それだけだ。
たったそれだけなのに、雪姫には自分の声が少し震えたのが分かった。
信繁の方も、そこへ妙な引っ掛かりを覚えた。
やはり変だ。
前より丁寧で、前より遠い。そういう距離の取り方に見える。相手の男のことでも考えているのだろうか、とまた勝手に胸が沈む。
「ただいま戻りました」と信繁は、雪姫へも言った。
「弓の方は、いかがです」
「日置大膳亮殿に、厳しく見て頂いております」
「それは何よりで」
会話はちゃんとしている。
けれど、どちらも前と違う。
お市は、その二人の間に流れた妙な間をきちんと見ていた。
真理姫も同じだ。
二人とも、そこで余計な手助けはしない。ただ、見ている。
日置大膳亮が静かに一礼した。
「治部大輔殿。ご帰城、おめでとうございます」
「日置大膳亮殿には、この度は田代までお運び頂きかたじけない」
「雪姫様の弓は、飲み込みがお早うございます」
「それは重畳」
そこで、雪姫は少しだけ息を整える時間を得た。
助かった、とも思う。だが同時に、もっと何か言いたかった気もする。小谷はどうでしたか、とか、道中危なきことはございませんでしたか、とか、普通なら言えるはずのことが、今日は胸の奥でつかえてしまう。
信繁の方も、同じような違和感を抱いていた。
本当なら、雪姫に向かってもう少し軽く言えたはずだ。
「弓で腕は上がりましたか」とか、「帰ったらまた妙な城になっておりますな」とか。だが今の雪姫へそれを投げると、どこかを間違えそうな気がする。
結局、場はお市が自然にほどいた。
「治部大輔殿、小谷のお話はあとでゆっくり伺いますわ。まずはお疲れでしょうから、お着替えを」
「ああ、そうだな」
「雪姫様も、今日はここまでにいたしましょう。続きは明日に」
「はい」と雪姫。
そこで皆が少しずつ散り始める。
散っていく中で、信繁は一度だけ雪姫を見た。雪姫もまた、一度だけこちらを見る。
それだけで、また妙に胸が騒ぐ。
雪姫は思った。
戻ってきた。ちゃんと帰ってきた。なのに、会えた喜びだけで済まない。会えたことで、かえって自分がどれほどこの人を思っていたかを突きつけられる。
信繁は思った。
やっぱり誰かを想っているのだろうか。あの静けさも、あの震えも、そういう相手がいるからなのだろうか。だとしたら、自分が少し寂しいのは何故だ。
どちらも、相手の方をまだ見ていない。
なのに、戻ってきたその一日で、前よりもっと深く相手を意識してしまっていた。
その晩、お市は真理姫に小さく言った。
「だいぶ進みましたね」
真理姫は静かに頷く。
「ええ。しかも、まるで噛み合っておりません」
お市がくすりと笑う。
「そこが、また面倒で、でも可愛らしいですわね」
田代城の夜は、そうしてまた静かに更けていく。
剣も弓も、兵法も警固も、城の中では変わらず動いている。だがその一方で、雪姫と信繁の間だけは、互いに違うものを見たまま、確かにもう前へ進み始めていた。
♢
日置大膳亮が、その場で何のためらいもなくそれを言ったのは、弓場の稽古が一段落し、皆がまだ微妙にその場へ残っていた時だった。
雪姫の射は、先日より明らかにまとまってきていた。
弓を引く肩の線も、矢を離したあとの残心も、北畠の娘らしい品を残したまま、少しずつ武家の稽古らしくなっている。日置大膳亮としても、教え甲斐はあったのだろう。機嫌が悪いわけではない。むしろよかった。よかったのだが、よかったからこそ口も滑ったらしい。
「で、治部殿」
日置大膳亮が、いかにも自然な顔で言った。
「姫はいつ娶られますかの」
空気が止まった。
本当に、ぴたりと止まった。
雪姫の手が、そこで固まる。
信繁は、まるで一瞬だけ槍でも飛んできたかのような顔になった。
お市も真理姫も、同時に目を見開いた。
十兵衛は無言のまま目だけ細め、半兵衛はその一瞬を逃すまいとでもいうようにじっと見ている。左近将監に至っては、顔を覆いたくなるのをどうにか堪えたらしく、目元だけが少し引きつっていた。
だが、その静寂を最初に破ったのは、当然ながら慶次郎だった。
「言ったぁああああ!」
ものすごく大きな声だった。
助右衛門が、珍しく即座に続く。
「なんと、まさに武人の鑑!」
「そこを褒めるな」と信繁が反射で返した。
十兵衛が、静かに袖を正しながら呟く。
「これは、どうなることやら」
半兵衛が、さらにひどいことを言う。
「治部殿にしては珍しい表情です」
「半兵衛」
「はい」
「あとで覚えておけ」
「承知しております」
全然堪えていない。
左近将監が、低く、しかし本気で面倒そうに言った。
「また霧山御所に行くのか……」
それには、信繁も一瞬だけ言葉に詰まった。
お市が、ようやく我に返って声を上げる。
「日置様!」
真理姫も、思わず口元を押さえたまま言った。
「く、空気を読まないってすごい……!」
日置大膳亮だけが、そこで少し首を傾げた。
「何をそのように驚かれる。お互い好きおうている男女ですからなぁ」
さらに止めを刺す。
「なれば子ができぬ内に夫婦になるべきですぞ」
今度こそ、雪姫が真っ赤になった。
耳まで赤い。
手にしていた弓を取り落とさなかっただけ、まだ大したものだ。北畠の姫としての最後の矜持がそこだけ残ったと言ってよかった。
「ひ、日置大膳亮殿……!」
信繁の方も、珍しく本気で狼狽していた。
「それは、あまりにも」
「何がですかな」
日置大膳亮は、本当に分かっていない顔だった。
「姫が治部殿を見る目、治部殿が姫を見る目、どちらも矢より分かりやすい。某ほど弓を見てきた者には、あのようなもの、隠したうちにも入りませぬ」
慶次郎が、そこで腹を抱えそうな勢いで笑いを堪えている。
「やべえ、すげえ」
助右衛門は助右衛門で、真顔のまま言った。
「弓の師らしい見立てだ」
「だから褒めるな!」
信繁の返しが、もはや追いついていない。
雪姫はもう、どこを見てよいかも分からないらしかった。
治部大輔を見るのも恥ずかしい。お市や真理姫を見るのも恥ずかしい。日置大膳亮は平然としている。いっそ北畠へ帰りたいくらいの顔だが、足はちゃんとその場に立っている。
お市が、ようやく少しだけ場を整えようとした。
「日置様、そのようなことは……その……」
「よいではありませぬか」と日置大膳亮。
「治部殿ほどの男ならば、姫の婿として不足はない。北畠と治部家の結びにもかなう。何を今さら、皆そのように慌てるのです」
「今さらではございませぬ!」とお市。
真理姫が、小声で信繁へ言った。
「治部大輔殿、これはご自分で何とかしてくださいませ」
「無理だろう、これは!」
そこへ十兵衛が、いかにも冷静な顔で口を開いた。
「いえ。ここは治部様が何か一言、きちんと仰るべきかと」
「十兵衛、お前は味方ではないな?」
「今日はどちらでもございませぬ」
「ひどいな」
半兵衛が、さらにとどめを刺す。
「むしろ、治部殿がどう返されるか、皆が見ております」
「それを口にするな!」
だがその通りだった。
全員が見ている。雪姫まで見ている。いや、雪姫は見まいとしているのに、結局ちらちらこちらを見てしまっている。信繁は、さすがにそこで一度深く息を吸った。
「日置大膳亮殿」
「はい」
「お言葉は、重々ありがたく」
「うむ」
「ありがたく存じますが」
「うむ」
「そういう話は、もう少し順というものがあるでしょう」
日置大膳亮は少し考えてから言った。
「順、ですかな」
「順です」
「ふむ」
「剣もまだこれから、弓もまだ途上、雪姫様ご本人のお気持ちも、北畠具教卿のお考えもございます」
そこまでは、かなりまともだった。
だが、日置大膳亮は平然と返した。
「では、やはり治部殿も雪姫様をお好きではあるのですな」
その瞬間、慶次郎が本当に膝を叩いた。
「日置殿つよ!」
助右衛門まで、さすがに少しだけ感心した顔になった。
「一歩も退かぬ」
十兵衛は口元を押さえている。
半兵衛は、ついに露骨に面白そうだった。
左近将監だけが、本気で遠い目をしている。
信繁は、その問いへすぐには答えられなかった。
答えられるはずもない。
ここで否定すれば雪姫を傷つけるかもしれぬ。肯定すれば、その場で全部話として転がってしまう。しかも、本人だってまだそこをちゃんと整理できているか怪しい。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、雪姫が、思いがけず小さな声を出した。
「日置殿」
皆の目がそちらへ向いた。
雪姫は、まだ赤い。
だが、ただ恥じているだけではなかった。少し震えながらも、自分で立とうとしている声だった。
「そのようなことを、治部殿に今ここでお尋ねするのは……その……」
少しだけ息を吸う。
「私が、困ります」
そこで、場の空気が少し変わった。
お市の目が柔らかくなる。
真理姫も、ほっとしたように雪姫を見る。
信繁は、逆にそこで少しだけ目を見張った。
雪姫は恥じている。
だが、それでも“困る”と自分で言った。ただ黙って俯くのでなく、ちゃんと言葉にした。そこがもう、この姫の強いところだった。
日置大膳亮は、その一言に、ようやく「ああ」と頷いた。
「なるほど。これは某が先を急ぎすぎましたな」
「急ぎすぎです」とお市が即座に言った。
「左様です」と真理姫も続ける。
「弓の話から、どうして一足飛びにそこへ……」
日置大膳亮は、少しだけ肩をすくめた。
「矢筋と男女の間合いは、見えてしまえば同じようなものにございますので」
「同じではありません!」
今度は、お市と真理姫が綺麗に揃って返した。
慶次郎が、もう笑いを堪え切れず横を向いている。
助右衛門は「日置大膳亮殿、やはり只者ではない」とでも言いたげな顔だ。
十兵衛と半兵衛は、もはや完全に観客だった。
信繁は、ようやく少しだけ肩の力を抜いて、雪姫を見た。
雪姫も、恥ずかしそうにしながらこちらを見る。
その目が合った瞬間、日置大膳亮の言葉が余計に場へ残る。
お互い好きおうている男女。
子ができぬ内に夫婦になるべき。
とんでもないことを言ったものだ。
だが、そのとんでもなさがまるきり的外れでもないから、余計に厄介なのだった。
左近将監が、とうとう低く呟いた。
「……これは、本当にまた霧山御所へ行く話になりかねぬな」
「やめろ」と信繁が言う。
「今それを言うな」
だが、誰も完全には否定しなかった。
弓場の午後は、そうして妙な熱を残したまま終わっていった。
ただ一つ確かなのは、日置大膳亮が放った矢よりも、この一言の方がずっと深く刺さった、ということだった。
♢
上総介信長が動いたのは、田代でのあれこれが、いよいよ人の口だけでは済まぬところまで来たと見たからだった。
最初に動いたのは信長ではない。
報せを拾い、つなぎ、どこまでが笑い話で、どこからが家の結びに触れる話かを見ていたのは周りの者たちだ。雪姫の文。日置大膳亮の余計な一言。小谷から戻った治部大輔の妙な鈍さ。左近将監の霧山御所往復。どれも一つなら、若い者の色恋と笑って流せる。だが、相手が北畠具教卿の娘であり、しかも今は客将として田代にある。となれば、放っておけばそのうち誰かが雑に触る。
信長は、そういう雑さを嫌った。
稲葉山の一室で、信長は勘十郎信勝を前にしていた。
「勘十郎」
「は」
「済まぬが霧山御所へ行ってくれ」
信勝は、そこで少しだけ目を上げた。
「具教卿のもとへ、ですか」
「そうだ」
「話は」
信長は、少しだけ鼻を鳴らした。
「おおむね見えておろう」
信勝は、それ以上は問わない。
この兄は、細かく説明する時より、もう答えを半ば決めている時の方が短い。
「雪姫様と治部のことにございますな」
「そうだ」
信長は机へ肘を置いた。
「まだ何も決まってはおらぬ。そこは承知しておる。だが、決まっておらぬからこそ、今のうちに具教卿へこちらの腹を見せておく」
「こちらの腹」
「治部が雪姫様を軽く扱うことはない。北畠を雑に呑む気もない。だが、もしこのまま人の心がそちらへ転がるなら、織田はそれを“若気の迷い”とだけは扱わぬ、とな」
信勝は、そこでようやく小さく頷いた。
「兄上らしい」
「何がだ」
「止めるでもなく、煽るでもなく、先に盤だけは整える」
信長は少しだけ笑った。
「お主もそのようなところは治部に似てきたな」
「ありがたくないお言葉です」
だが、実際その通りだった。
いま動く理由は二つある。
一つは、具教卿に「織田は何も知らぬふりをしているわけではない」と分からせるため。
もう一つは、逆に具教卿が父として先走らぬよう、こちらから先に“礼を違えぬ”と置くためだ。
雪姫が客将として田代にある以上、この話は治部一人の胸の内で済まない。
北畠と織田の結びに触れる。
ならば、治部本人より先に、本家筋の信勝が霧山御所へ行くのがちょうどよかった。
「何と申せば」と信勝。
信長は、少し考えてから言った。
「まず、田代の件は聞き及んでおると伝えよ」
「はい」
「だが、雪姫様と治部のあいだを、こちらが今すぐ何かに決めるつもりはない、とな」
「はい」
「その上で、もし今後、雪姫様ご自身の心が確かに治部へ向き、治部の方もまた同じところまで来るなら」
信長は、そこで言葉を切った。
「来るなら」
「織田は、北畠を軽んじる形では扱わぬ」
信勝は、その一言を静かに受けた。
「つまり」
「雪姫様を“客将の姫に手をつけた”ような話には絶対にせぬ、ということだ」
そこが一番大きい。
信長は、雪姫と治部がどうなるかを、まだ断じてはいない。
だが、もし本当にそうなるなら、それはきちんとした話にしかせぬ。北畠の体面も、雪姫の立場も、治部の立場も、全部を雑に扱わぬ。その腹を、父たる具教卿へ先に見せる。
「それを具教卿へ申す、と」
「うむ」
「治部には」
信長は少しだけ呆れたような顔になった。
「まだ言うな」
信勝は思わず口元を動かした。
「そこは、治部への対応らしい」
「気づけば自分でひっくり返る。気づかねば、まだ気づかぬままでおる。今はそれでよい」
「雪姫様にも」
「まだだ」
信長は言い切った。
「若い者二人の胸の内を、周りの年寄りが先回りして形にするな。だが、形が要る時にすぐ出せるようにはしておく。そこまでだ」
信勝は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
霧山御所へ向かった信勝は、表向きには北畠との結びの後の挨拶と、田代における雪姫の遇し方についての改めての礼を名目にした。嘘ではない。むしろそれが本筋だ。だが、その道行きの底には、もう一つ別の話が静かに流れている。
具教卿は、勘十郎信勝が来たと聞いて少しだけ眉を動かした。
左近将監が横に控えている。
あの男は、もう信長が何をしに来たか半ば分かっている顔だった。
信勝が座へ着き、型通りの挨拶と礼が済む。
雪姫が田代で粗略にされておらぬこと。剣と弓の修練が進んでいること。日置大膳亮への感謝。石舟斎への筋のこと。そこまでは、互いに少しも違えぬ言葉だった。
そのあとで、信勝が少しだけ声を落とした。
「具教卿」
「何でしょうな、勘十郎殿」
「今日は、一つだけ、家の年長として先に申し上げておきたいことがございます」
具教は、その声音で本題を悟った。
だが、何も言わず待つ。
「田代での雪姫様と治部のこと、こちらにも耳へ入っております」
具教卿の目が、わずかに細くなる。
左近将監は、内心で「やはり来たか」と思ったが、顔には出さない。
信勝は続けた。
「もっとも、今ここで何かを決めるつもりはございませぬ。雪姫様ご自身のお心も、治部の胸の内も、まだ途中にございましょう」
具教は、そこで初めて短く頷いた。
「そこは、儂もそう見ております」
「ですが」
信勝の声は静かだった。
「途中であるからこそ、先に申し上げます」
一拍置く。
「もし今後、雪姫様ご自身の心が確かに治部へ向き、治部の方もまた同じところまで来るなら、織田は北畠を軽んじる形では扱いませぬ」
その一言が落ちた時、座の空気が少しだけ重くなった。
具教は、表情を崩さない。
だが、その目はきちんと相手を見ている。
これは、ただの牽制ではない。信長が信勝を寄越してまで、父たる自分へ先に言わせた言葉だ。その重みは分かる。
「軽んじる形では扱わぬ、とは」
具教の問いに、信勝はすぐ答えた。
「雪姫様を“客将として預かっておきながら、そのまま曖昧に手をつけた”ような話には決していたしませぬ、ということにございます」
左近将監は、そこで少しだけ目を伏せた。
そこを先に言うか。
さすがに信長と信勝だと思う。具教が一番嫌う形を、先に潰した。
「治部は、そういう男ではないと、儂も思うております」と具教。
「我らも同じです」
「だが、鈍い」
信勝は、そこでほんの少しだけ口元を緩めた。
「そこも同じく」
具教も、そこだけは少しだけ息を漏らした。
父としての警戒と、年長の男同士の妙な諦めが、一瞬だけ重なった。
「上総介殿は」
具教が低く言う。
「どこまで見ておられる」
「かなり」
信勝は率直だった。
「だからこそ、今のうちに私が参りました。若い者の胸の内へ、年寄りが土足で入るのは好みませぬ。ですが、家と家の話になる時に、礼を違えるのはもっと好みませぬ」
それは、信長らしい。
具教にもよく分かる物言いだった。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて具教が言う。
「つまり、織田は止める気も、押し進める気も、今はまだない」
「はい」
「だが、いざそうなるなら、北畠の娘を軽くは扱わぬ」
「その通りにございます」
「……よい」
具教は、静かに頷いた。
「それを先に聞けたのは、父としてありがたい」
信勝も深く頭を下げる。
「そう言って頂けるなら、こちらも来た甲斐がございます」
そこまでで、本題はほとんど済んだ。
だが、具教はそこで少しだけ声を和らげた。
「勘十郎殿」
「は」
「治部は」
「はい」
「まだ、本当に雪が自分をどう思うておるか分かっておらぬのであろうな」
信勝は、そこでさすがに少しだけ苦い顔になった。
「……おそらく」
「そうか」
「ですが、鈍いだけで、軽く見ているのではございませぬ」
「そこは分かっており申す」
具教の返しは静かだった。
「だからこそ、厄介でもある」
信勝は、その言葉には素直に頷いた。
「まことに」
霧山御所の夕は、そのあと少しだけ和らいだ。
酒が出るほどではない。だが、男たちの間で、最も大事な一線は互いに見えた。
雪姫と治部。
まだ途中。
だが、もしそこが本当に一つの道になるなら、織田は雑に扱わぬ。
それだけで、具教の胸の中の重みは少し変わった。
父として、まだ案ずることは多い。雪の文も、治部の鈍さも、日置大膳亮の余計な一言も、全部がまだ厄介だ。だが、少なくとも織田が北畠の娘を軽くはしないと分かった。それは大きい。
信勝が田代へ戻る頃には、夜が降り始めていた。
そしてその夜、信長は信勝の戻りを聞いて、短く尋ねた。
「どうだった」
信勝は答えた。
「具教卿は受けました。まだ途中であることも、いざそうなるなら軽く扱わぬことも」
信長は短く頷いた。
「それでよい」
「治部には」
「まだ言うな」
やはりそこは同じだった。
「本人が気づくまでは、もう少し放っておけ」
信勝は少しだけ笑った。
「兄上」
「何だ」
「案外、雪姫様の方が先に腹を括るやもしれませぬ」
信長は、そこでほんの少しだけ口元を動かした。
「それもまた、北畠の娘らしい」
夜は更ける。
だが、今度はただ面倒なだけではない。
若い二人の胸の内に、家と家の年長者たちが先回りして道を塞ぐのでなく、いざという時にだけ礼を違えぬよう、そっと地ならしをした夜だった。
♢
稲葉山でその文を開いた時、信長はしばらく黙った。
最初に寄越したのは、お市からだった。
飾り気のない、だが妙に切実な筆だった。
**「今のままでは雪姫様がけがをします。兄上の方で無理矢理にでも話をまとめてください」**
信長は、その一行を二度見た。
「……お市め」
それだけ呟いて、文を机へ置く。
北畠と治部家の結び、雪姫の客将入り、剣と弓の修練、日置大膳亮の余計な一言、雪姫の文、治部の鈍さ。そのどれもを、お市は奥向きの一番近いところで見ている。だからこそ、こう書いたのだろう。
雪姫は、ただ胸を痛めているだけでは済まぬところまで来ている。治部があのまま鈍いままなら、雪姫の方が先に一人で傷つく。だから兄に動け、と。
そこへ、信勝が別の文を持って入ってきた。
「兄上」
「何だ」
「私のところにも」
信勝は、少しだけ苦い顔で紙を差し出した。
信長が受け取る。
差出人を見て、今度は少しだけ口元が動いた。
「真理姫様か」
文は短い。
**「上総介義兄上様が動かない、そのようなことのないよう、勘十郎義兄上様からもお力添えをお願いいたします」**
信長は、そこでようやく鼻で笑った。
「左右から来たな」
信勝も頷く。
「ええ。お市と真理姫様、どちらも我らへ先に訴えて来るあたり、もう奥向きでは相当見えているのでしょう」
「ああ。見えておるのだろう」
信長は、お市の文をもう一度見た。
**雪姫様がけがをします。**
そこが重い。
ただ恋の手助けをしてやってほしい、ではない。雪姫の方が先に深く入っており、そのまま放っておけば傷を負う、と見ているのだ。お市がそこまで書くなら、かなりはっきり見えている。
「治部め」
信長は、少し呆れたように言った。
「そこまで人の心へ名をつけておいて、当の自分の足元は見えておらぬか」
信勝が、静かに後を取る。
「雪姫様が自分へ向いているとは、まだ思っておらぬようですな」
「そうだろうな」
「しかも、少し寂しいなどと思っている」
「馬鹿だな」
「はい」
即答だった。
だが、それで片づけてよい話でもない。
信長は二通の文を並べた。
お市は「雪姫様がけがをします」と書く。
真理姫は「兄上が動かない、そのようなことのないよう」と信勝へ念を押す。
つまり、奥向きではもう「これはそのうち誰かがきちんと形にせねばならぬ」と見切っている。
「勘十郎」
「は」
「前に言うたな」
「何をにございますか」
「若い者の胸の内へ、年寄りが土足で入るな、とな」
「ええ」
「だが、どうやら土足で踏み荒らすな、であって、地ならしまで止めろ、ではなかったらしい」
信勝は、そこに少しだけ笑った。
「兄上らしい言い換えです」
「笑うな」
「失礼」
だが、信長ももう半ば決めていた。
「治部を呼ぶ」
信勝が目を上げる。
「雪姫様を、ではなく」
「まずは治部だ」
「どうなさるおつもりで」
信長は短く答えた。
「気づかせる」
「直に」
「直にだ」
そこに遠回しは要らない。
治部は、遠回しにすると変な理屈へ逃げる。北畠の家がどうだ、顕家公以来の色がどうだ、雪姫の剣がどうだ、弓がどうだ、城の警固がどうだ――全部本当だが、今必要なのはそこではない。
「あ奴」と信長。
「はい」
「雪姫様の心が自分へ向いておることも、あ奴がそれを寂しがっておることも、全部まとめて言ってやる」
信勝が、今度は露骨に面白そうな顔をした。
「治部の顔が見ものですな」
「お前も来い」
「私もでございますか」
「お市と真理姫から、わざわざ兄弟それぞれへ文が来たのだ。お前も同席しろ」
「承知しました」
信長は、そこで少しだけ声を落とした。
「ただし」
「はい」
「治部へ“雪姫を娶れ”と命じるのではない」
「ええ」
「そこは最後まで本人に言わせる」
そこだけは揺らがない。
雪姫が本当にそこまで心を定めるなら、そして治部の方もようやく自分の胸の内を知るなら、その時に言うべき言葉は本人の口から出ねばならぬ。兄が命じて作る縁ではない。
だが、その手前で鈍いまま雪姫を傷つけるなら、それは別だ。
「では」と信勝。
「治部へは、何と切り出します」
信長は、お市の文を指で叩いた。
「これを見せる」
「お市様のを」
「まずはな」
「真理姫様のは」
「その後だ。“今のままでは雪姫様がけがをします”だけで、たぶん十分刺さる」
信勝は、そこへは素直に頷いた。
「たしかに」
「刺さってなお、話が分からぬなら、今度はお前の文だ」
「真理姫様ではなく?」
「違う。お前が言え。『上総介様が動かない、そのようなことのないようにと、真理姫様がこちらにまで文を寄越された』とな」
信勝は、そこでさすがに少し肩を竦めた。
「それは、治部には相当効きますな」
「効かせるためにやる」
部屋の中へ、少しだけ重い静けさが落ちる。
若い者の恋。
そう言ってしまえば軽い。
だが相手は雪姫であり、北畠の娘であり、治部家へ客将として入った者だ。ここを雑に転ばせると、雪姫一人の胸の痛みで済まず、家の結びまでどこか濁る。
「兄上」
信勝が、少しだけ真面目な声で言う。
「何だ」
「治部は、たぶん本当に気づいておりませぬ」
「分かっておる」
「ですので、気づいた後の方が面倒かもしれませぬ」
「だろうな」
信長はそこで、少しだけ笑った。
「だが、面倒なのは今さらだ」
信勝も、それには小さく頷いた。
「まことに」
「呼べ」
「はい」
信長が命じると、外の者がすぐに走った。
治部大輔信繁を、稲葉山へ。
兄たちが呼ぶ時、大抵は戦か政の話だ。
だからこそ、今度は別の意味で面倒になる。
信長は、お市の文をもう一度開いた。
**今のままでは雪姫様がけがをします。兄上の方で無理矢理にでも話をまとめてください。**
「お市め」と、もう一度呟く。
「無理矢理にでも、か」
「兄上」と信勝。
「何だ」
「たぶん、お市は“雪姫様の心が先に壊れる前に、治部へせめて自覚を持たせてほしい”と言いたいのかと」
信長は、今度は素直に頷いた。
「分かっておる」
「なら」
「だから治部を呼ぶのだ」
信長の声は、短く、しかしはっきりしていた。
「雪姫様を守るためにも、治部には一度、自分の胸の内と相手の胸の内を、きちんと見させる」
その夜、稲葉山では兄たちが一つの覚悟を決めていた。
若い者二人に代わって話をまとめるのではない。
だが、片方だけが傷つく前に、もう片方の鈍さを叩き起こす。そこまでは、兄の役目だと。
♢
稲葉山からの呼び出しは、夕刻前に届いた。
使いの顔が妙に硬い。
戦か、政か、あるいは浅井関連かと一瞬思う。実際、今はどれが飛び込んできてもおかしくない。だから信繁も、文を受け取った時点ではごく普通に眉を寄せただけだった。
だが、開いてみると文は短い。
**至急、登城。勘十郎も同席。**
それだけだ。
「……短いな」
十兵衛が横で静かに言う。
「短い時ほど、面倒かと」
「縁起でもないことを言うな」
半兵衛は帳面を閉じた。
「浅井ではございませぬか」
「なら、もう少し具体がある」
「北畠ですか」
「それも違う気がする」
そう言いながらも、胸の内に妙な引っ掛かりが落ちる。
戦でも政でもない。かといって私事だけで、この兄二人がわざわざ同席まで書いて呼ぶかと言えば、それも変だ。
「治部様」
左近将監が、そこで少しだけ目を逸らした。
「何だ」
「……行かれれば分かるかと」
「お前、その顔は何だ」
「いえ」
「絶対に何か知ってるだろう」
「知っておることと、今ここで申してよいことは、必ずしも同じではございませぬ」
「嫌な言い回しを覚えたな」
だが、これ以上は何も引き出せそうになかった。
稲葉山へ着いた時には、もう日が少し傾いていた。
案内された部屋には、上総介信長と勘十郎信勝が揃っている。二人とも、怒っているようには見えない。だが、穏やかでもない。こういう時が一番怖い。
信繁は座へ着いて頭を下げた。
「お呼びとあって」
「うむ」と信長。
「来たか」
「はい」
「何の用か分かるか」
そこをいきなり来るのか、と思う。
「いえ」
「本当にか」
「……いえ」
「どっちだ」
勘十郎信勝が横で少しだけ口元を動かした。
「治部。今のはかなり治部らしかった」
「勘十郎兄上まで」
上総介信長は机の上の文を一つ指先で押した。
「これを読め」
差し出された文を見て、信繁は一瞬だけ止まった。
お市の筆だった。
嫌な予感が、ようやく形になる。
文を開く。
**今のままでは雪姫様がけがをします。兄上の方で無理矢理にでも話をまとめてください。**
読み終えた瞬間、信繁の顔から血の気が少し引いた。
部屋が静かになる。
信長は、その顔を見ていた。
信勝も同じだ。逃がす気のない兄の目だった。
「……何だその顔は」
信長が言う。
信繁は、すぐには返せなかった。
「お市が、こう書いて寄越した」
信勝が静かに続ける。
「つまり、田代の奥ではもう、そこまで見えているということだ」
信繁は文を見たまま、低く言った。
「雪姫様が……けがをする」
「そうだ」
信長の声は短い。
「お前が鈍いままでおるとな」
そこでようやく、信繁は顔を上げた。
「兄上」
「何だ」
「私は」
「お前は?」
「雪姫に、何かひどいことをした覚えは」
「ない」
信長が即座に切った。
「そこは分かっておる。だからこそ厄介なのだ」
信勝が、今度は別の文を差し出す。
「私のところへはこれだ。真理姫様より『上総介義兄上様が動かない、そのようなことのないよう、勘十郎義兄上様からもお力添えをお願いいたします。』とな」
受け取る。
真理姫の筆。
**上総介様義兄上が動かない、そのようなことのないよう、勘十郎義兄上様からもお力添えをお願いいたします。**
今度は、さすがに信繁も文をすぐには下ろせなかった。
お市。
真理姫。
二人とも、それぞれ兄たちへ直接書いた。
それが何を意味するかくらいは分かる。
もう奥向きの中だけで笑って済ませる話ではない。雪姫の胸の内が、そこまで深くなっていると見ているのだ。
「治部」
信勝が静かに言った。
「はい」
「お前、まだ気づいておらぬのか」
信繁は、返事ができなかった。
気づいていない、とは言いにくい。
だが、気づいている、とも言えない。雪姫が変わったことは分かる。静かになったことも、まっすぐこちらを見るようになったことも、離れている間に自分が妙に寂しかったことも分かる。分かるが、それが全部きちんと一本につながっているかと言えば、まだ曖昧だ。
信長が、少しだけ身を乗り出した。
「雪姫様は、お前を見て胸が痛むと父へ書いた」
その一言が、真正面から来た。
信繁の目が動く。
「治部大輔本人へも、それとなく相談しておる」
今度は信勝。
「そして、お前は“それって恋してるってことですよ”と教えたそうだ」
「…………」
信繁は、そこで本気で額を押さえたくなった。
「さらに日置大膳亮は、弓場で“姫はいつ娶られますかの”と皆の前で申した」
信長が言う。
「そこまで来てもなお、お前は“雪姫様にもとうとう好きな相手ができたのだろう”と思っておるらしいな」
信繁は、そこで初めて顔を上げた。
「……左近将監ですか」
「そこはどうでもよい」
信長は切った。
「問題は、お前がそこまで鈍いことだ」
信勝が、少しだけ苦い顔で続ける。
「しかも、お前自身は少し寂しいなどと思っておる」
信繁は、さすがにそこで黙った。
図星だった。
しかも、それを自分以外の人間に言葉にされると、逃げ場がない。
しばらく沈黙が落ちる。
信長が、その沈黙を割った。
「治部」
「はい」
「はっきり聞くぞ」
「……はい」
「お前は、雪姫様をどう見ておる」
その問いは、逃げ場を残さなかった。
雪姫は北畠の娘だ。
顕家公以来の家の色を感じる。
剣も弓も学ぼうとする。
客将として田代にありながら、ただ守られているだけで済まぬ強さがある。
そういうものが、頭の中で一度に浮かぶ。
だが今、聞かれているのはそこではない。
信繁は、少し長く黙ってから答えた。
「……大事に見ています」
信長がすぐ返す。
「それは知っておる」
「軽くは見ておりませぬ」
「それも知っておる」
信勝が静かに言う。
「治部。我らが聞いているのは、北畠の娘として大事にしているのか、一人の女としても見ているのか、そのどちらだ」
信繁は、また言葉を失った。
一人の女として。
その言葉を、自分の中ではっきり置いたことがあったか。たぶん、なかった。いや、置かぬようにしていたのかもしれない。北畠の娘であること、雪姫本人のまっすぐさ、結びの重さ、その全部が先に来て、そこへ名をつけるのを避けていた。
だが、避けたまま雪姫だけを先へ行かせているなら、それはたしかに卑怯だ。
「……分かりませぬ」
ようやく出た言葉は、それだった。
信長と信勝は、どちらも黙ってそれを受けた。
「分からぬ、か」と信長。
「はい」
「だが、少し寂しい」
「……はい」
「雪姫様が誰か別の者を想っていると思って、妙に胸が空く」
信繁は、小さく頷いた。
そこまで言われれば、もう否定しても仕方ない。
信勝がそこで、少しだけ声を和らげた。
「治部。それはたぶん、分かりませぬ、で済ませてよいところを過ぎている」
信繁は、静かに息を吐いた。
分かっている。
兄たちにここまで言われて、ようやく分かる。雪姫がどうであるか以前に、自分がもう雪姫を“北畠の娘”だけでは見ていないことを。
信長が言った。
「命じはせぬ」
「はい」
「雪姫様を娶れとも、今ここで答えを出せとも言わぬ」
信繁が顔を上げる。
「だが」
「はい」
「雪姫様がけがをするのは許さぬ」
その一言が、深く落ちた。
お市の文の意味が、ここでやっと腹に入る。
雪姫はもう、十分に深く入っている。こちらが名をつけるのを避けて、ぼんやりしたまま接していれば、傷つくのは雪姫の方だ。
信勝が続ける。
「お前がまだごまかすなら、雪姫様は“治部殿は北畠を見ているだけで、自分を見ているのではないのかもしれない”と一人で思い詰める」
信繁の目が、そこで少しだけ揺れた。
それは嫌だった。
はっきりと嫌だと思った。雪姫がそんなふうに思い詰めるのは、嫌だ。
信長は、その変化を見逃さない。
「今、嫌だと思うたな」
信繁は、少し遅れて答えた。
「……はい」
「なら十分だ」
「十分、ですか」
「お前が雪姫様をどう見ておるかは、もうお前自身で腹へ落とせ」
信長の声は低いが、乱暴ではなかった。
「その上で、雪姫様を一人で待たせるな。気づかぬふりを続けるな。そこだけは約せ」
信繁は、しばらく黙ってから、深く頭を下げた。
「承知しました」
信勝が、そこでようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「それでよい」
「勘十郎兄上」
「何だ」
「雪姫様は……」
信繁は、そこだけ妙に言葉を選んだ。
「本当に、そこまで」
信勝は苦笑した。
「そこまででなければ、お市も真理姫様も、わざわざ我らへ文など寄越さぬ」
信長も短く言う。
「雪姫様は、お前より先へ行っておる」
その言葉は重かった。
だが、痛いだけではない。
どこかで少し、救いでもあった。雪姫の胸の内が、こちらの思い込みではなく、本当にそこまで来ているのだと分かったからだ。
「行け」と信長。
「田代へ戻れ」
「はい」
「今すぐ答えを出せとは言わぬ。だが、もう目は逸らすな」
「……はい」
信繁は、今度ははっきり頷いた。
部屋を下がったあと、しばらく廊で立ち止まった。
雪姫が、自分を見ると胸が痛む。
それを自分は知っていた。
恋だと、自分の口で教えた。
なのに、自分の方はそこへ名をつけず、雪姫だけを先へ行かせていた。
「……馬鹿だな」
誰に向けたのでもない。
たぶん自分への言葉だった。
そして稲葉山の部屋では、信長が短く息を吐いていた。
「どうでしょうか」と信勝。
「あ奴には響いたか」
「少しは」
信長は頷いた。
「お市の言う“無理矢理にでも話をまとめる”まではせずに済んだな」
信勝が少し笑う。
「兄上も、そこまではしたくなかったのでしょう」
「当然だ」
「ですが、だいぶ背は押しました」
「兄の役目だ」
夜は更ける。
だが今夜の稲葉山では、ようやく一人、長い鈍さから目を上げ始めた男がいた。
それだけでも、かなり大きな前進だった。