織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
その夜、信繁は一人で腹を括った。
稲葉山から戻る道すがら、ずっと胸の内で同じところを回っていた。
兄たちに言われたからではない。
雪姫が自分を見ると胸が痛むと知ったからでもあるが、それだけでもない。
もっと単純で、もっと厄介なことだった。
お市に惚れているかと問われれば、惚れている、と言える。
それは否定のしようがない。戦国の姫君の中でも、こと美貌で語られる時に必ず挙がるお市だ。前世の感覚がまだぼやけていた頃ですら、初めて会った時に目を奪われたことを覚えている。
真理姫に惚れているかと問われれば、それも惚れている、と言える。
幼い身で武田の姫として立ち続ける、その気丈さと痛ましさを前にして、胸が動かぬほど鈍くはない。
そして雪姫だ。
そこまで考えたところで、信繁はとうとう立ち止まった。
「……ああ」
声が、夜気の中へ小さく落ちる。
「あー、もう、あの交渉の時から惚れてたじゃないか」
言ってしまうと、妙にあっさりしていた。
雪姫が使者として来た時。
旗のことを問い、顕家公の名を軽々しく使うなと刺し、それでもこちらの言葉を正面から受けた時。あの時点で、もう心は動いていたのだろう。北畠の娘だから、顕家公以来の家だから、そういう理屈をいくら重ねても、結局最後は「惚れた」で片がつく。
「……そうかよ」
誰に返すでもなく呟く。
お市にも惚れている。
真理姫にも惚れている。
雪姫にも惚れている。
我ながらどうかしている。一夫一妻制が当たり前の感覚が、真理姫を娶ってからもどこか拭えないでいた。
だが、どうかしているからといって嘘をついてよいわけでもない。ここで「いや違う」と誤魔化す方が、よほど卑怯だった。
「つまり」
信繁は、そこで少しだけ口元を引き締めた。
「男らしく腹を括るしかない、か」
そこまで来ると、逆に妙な静けさが降りてきた。
雪姫はもう、自分の胸の内を知っている。
自分も、ようやく知った。
ならば次は、もう逃げずに言うだけだ。
「……プロポーズ大作戦だ」
夜の廊でそんなことを口にした瞬間、自分でも少しだけ阿呆らしくなった。
だが、阿呆らしいくらいでちょうどいいのかもしれない。ここまで理屈と政と結びの重さで遠回りしたのだ。最後の一歩くらい、腹を括った男の言葉で進めばいい。
翌朝、田代城の空気はいつも通りに見えた。
弓場では日置大膳亮が待ち、奥向きではお市と真理姫がいる。雪姫もまた、いつものように静かな顔で立つつもりなのだろう。だが信繁の方は、もう昨夜までとは違った。
迷いはまだある。
怖さもある。
それでも、もう目は逸らさないと決めた男の顔になるしかない。
十兵衛が、その顔を見て最初に眉を動かした。
「治部様」
「何だ」
「何か、決まられましたか」
信繁は少しだけ笑った。
「決まった」
半兵衛が、すぐにその横から口を挟む。
「ろくでもない方向でなければよろしいのですが」
「失礼だな」
「では、まともな方向で」
「まともかどうかは知らんが、逃げるのはやめる」
その一言で、二人とも少しだけ目を細めた。
十兵衛が静かに言う。
「ようやくでございますな」
「うるさい」
半兵衛は、珍しく素直に頷いた。
「それでよろしいかと」
信繁はそのまま前を向く。
雪姫はまだ知らない。
兄たちは背を押した。
お市と真理姫はたぶんもう見抜いている。
左近将監は霧山御所でまた面倒な役を押しつけられるかもしれない。
日置大膳亮はきっと余計なことを言う。
だが、もうそれでいい。
戦も、政も、結びも、散々理屈で積んできた。
なら最後は、ちゃんと一人の男として言えばよい。
雪姫へ。
おそらく近いうちに。
きちんと、正面から。
田代城の朝は、そうして少しだけ違う色を帯び始めていた。
まだ誰も、その次の一言を聞いてはいない。
だが、信繁がとうとう腹を括ったという事実だけは、これから先の空気を変えるには十分だった。
♢
その日、信繁は逃げなかった。
逃げずに済ませるなら、もう曖昧な言い回しでは足りない。
剣だ、弓だ、北畠だ、顕家公だ、城の兵法だ。そういう理屈でいくらでも回してきたし、実際それらは全部本当だ。だが、本当のことがいくつあろうと、最後に言うべきことを言わねば、雪姫の胸を一人で待たせるだけになる。
だから、呼んだ。
お市。
真理姫。
雪姫。
三人とも、ただ事ではない顔で来た。
お市は「ようやくですの?」という半ば分かっている目。
真理姫は静かだが、逃がさぬぞという目。
雪姫だけが、何かを察しながらも、それでも真っ直ぐにこちらを見ていた。
部屋の中には、十兵衛、半兵衛、左近将監、それに日置大膳亮までいた。
本当なら外してもよかった。だが、ここまで来ると、外して綺麗に一対一で済ませる方が、かえってこの家らしくない。
信繁は一度深く息を吸った。
「まず」
そう言って、お市を見る。
お市は少しだけ首を傾けた。
だが笑ってはいない。ちゃんと受ける顔をしている。
「お市」
「はい」
「惚れております。好きです」
部屋の空気が、そこでまず一度止まった。
だが信繁は止まらない。
「おぼろげにしか覚えていないが、初対面の時には目を奪われたことを覚えています」
お市の目が、そこでほんの少しだけ和らいだ。
驚いたというより、ああ、やはりそこからでしたか、という顔だった。
「織田の内におられる方ですから、元より美しいお方とは存じておりました。ですが、実際にその場で拝してみれば、知っていたつもりのことなど何の役にも立ちませなんだ」
お市は、そこで小さく息を吐いた。
それから、何も茶化さず、ただ静かに頷いた。
「初めて会った時から好きでした。今でもそれは変わりません」
「……はい」
その一言には、受け取った者の静かな温かさがあった。
信繁は次に、真理姫へ向き直った。
真理姫は、最初から逃げない目をしていた。
この人は、こういう時に取り乱さない。取り乱さないまま、相手の腹がどこまで本物かを見てくる。
「真理姫様」
「はい」
「惚れております。好きです」
真理姫は、少しだけ目を伏せた。
だが、それだけだ。
「幼い身体で武田の姫として矜持を持って立ち続ける、その姿に惚れています」
そこまで言われて、真理姫の指先がほんの少しだけ動いた。
この人にしては珍しい動きだった。
「気丈さだとか、健気さだとか、そういう言葉で軽く済ませたくない。あの立ち方そのものに、胸を打たれておりました。同情かもしれません。でも、俺にとってあなたは守りたい相手で、そしてともに立って欲しい方です」
真理姫は、そこでようやく小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
声は静かだ。
だが、その静けさの奥には、たしかに揺れがあった。
お市が横で、うん、と小さく頷く。
真理姫もまた、うん、と同じように頷いた。
そして、信繁は雪姫を見た。
ここから先だけは、今までとは別だった。
お市にも惚れている。
真理姫にも惚れている。
それは本当だ。だが、雪姫へ言うべきことは、もう理屈も、顕家公も、北畠の家も、全部どけたところで言わねばならない。
雪姫は、息を詰めたようにこちらを見ていた。
胸の鼓動がこちらにまで聞こえそうなくらい、張っているのが分かる。
信繁は、逃げずに言った。
「雪姫様」
「……はい」
「顕家公だとか、北畠家がどうとかではなく、あの日あの時、あの旗の下で初めてお会いしてから、ずっと心の中にあなたはいらっしゃいました」
そこで一度、言葉を切る。
「あなたが好きだ」
雪姫の肩が、小さく震えた。
信繁はそのまま続ける。
「こんな私で良ければ、嫁に来て欲しい」
静かだった。
誰も、すぐには何も言わなかった。
十兵衛も。
半兵衛も。
左近将監ですら。
日置大膳亮だけが、なぜか先にお茶へ手を伸ばしていた。
雪姫は、しばらく黙ったまま信繁を見ていた。
北畠の娘として。
客将として。
剣と弓を学びながら、自分の胸の内を見ようとしてきた娘が、ようやく最後に、自分の口で答える番だった。
そして雪姫は、逃げなかった。
「はい」
声は少し震えていた。
だが、はっきりしていた。
「治部殿をお慕い申し上げております」
その一言が落ちた瞬間、お市がまず、深く頷いた。
真理姫も、静かに、だが確かに頷いた。
「ええ」
「そうなりますよね」
二人の頷きは、まるで「知っていました」と言うようだった。
そこでようやく、部屋の中の時間が動き出す。
十兵衛が、最初に我へ返った。
「失礼します」
そう言った次の瞬間には、もう立っていた。
「おい、十兵衛」
「稲葉山城へ走ります」
「早いな!」
「この場合は早い方がよろしいかと」
その顔が妙に真顔なので、止めにくい。
左近将監も、とうとう諦めた顔で立ち上がった。
「では、某は霧山御所に」
「待て左近将監」
「もう待てませぬ。具教卿に“とうとうそうなりました”と申さねばなりませぬ」
「言い方!」
「事実にございます」
半兵衛は、その二人の後ろ姿を見ながら、静かに笑っていた。
「治部殿」
「何だ」
「今のは、だいぶ見事でした」
「褒めてるのか」
「はい。珍しく」
「珍しくは余計だ」
お市は少し目を細めて、雪姫を見る。
真理姫も同じように雪姫を見ていた。二人とも、からかうより先に、まずちゃんと雪姫の方を見ている。そこがこの二人らしい。
「雪姫様」とお市。
「はい」
「まずは、おめでとうございます」
雪姫は、そこでようやく少し顔を赤くしたまま、でも嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます」
真理姫も柔らかく言う。
「これで、ようやくですね」
「はい……」
返す雪姫の声は、もう完全に幸せそうだった。
その横で、日置大膳亮は、何事もなかったようにお茶を飲んでいた。
「日置大膳亮殿」
信繁が思わず呼ぶ。
「はい」
「何かおっしゃることは」
日置大膳亮は、湯呑を置いてからごく普通に言った。
「いえ。某は先日、申すべきことはもう申しましたのでな」
それには、さすがに誰もすぐ返せなかった。
ややあって、慶次郎が障子の外から絶妙な間で叫ぶ。
「やっぱりそうなったぁああ!」
助右衛門まで、外でしみじみと言う。
「日置大膳亮殿、先見の明がおありだ」
「だから褒めるな!」
信繁の返しが飛ぶ。
だが、その声にはもう、前みたいな本気の狼狽はなかった。
雪姫は、そういう騒がしさの中でも、まだ少し夢の中にいるみたいな顔で信繁を見ていた。
信繁もまた、その視線を今度は逸らさなかった。
理屈ではなく。
北畠の家でもなく。
顕家公でもなく。
あなたが好きだ、と言った。
そして雪姫も、それに答えた。
それだけで十分だった。
田代城の空気は、そこでまた一つ変わった。
剣も弓も、兵法も警固も、婚姻も客将も、全部がややこしく絡み合っていたこの城の中で、ようやく一つ、まっすぐに言葉で定まったものがある。
その夜、十兵衛は稲葉山城へ走り、左近将監は霧山御所へ走った。
日置大膳亮は、お茶を飲んでいた。
そして部屋の真ん中には、ようやくちゃんと向き合った二人がいた。
それだけで、その日の田代城には十分すぎるほどの出来事だった。
♢
その報せを最初に聞いた信長は、しばし黙ってから、呆れ半分、感心半分で言った。
「……治部め。雪姫様へきちんと申す前に、お市にも真理姫殿にも、先に己の胸の内を改めて明かしたか」
信勝は、少し笑いを含みながら頷いた。
「はい。順立てだけ見れば妙ですが、あやつらしいと申せば、いかにもあやつらしゅうございます」
「妙ではある」と信長。
「だが、逃げずに全部言うたのなら、それはそれで見上げたものよ」
信勝も頷く。
「雪姫様へだけ甘いことを申して済ませぬあたり、変なところで筋を通しましたな」
「変なところで、な」
信長は鼻を鳴らした。
「だが、そこまで腹を括ったなら、もはや何も申すまい」
そのころにはもう、城の内では話が走り始めていた。
「治部殿、とうとう申されたらしい」
「雪姫様へか」
「いや、その前にお市様にも真理姫様にも、きちんと」
「なんだそれは」
「なんだそれはだが、治部殿ならやりかねぬ」
「やりかねぬどころか、やったのだ」
こんな具合に、最初は稲葉山で広がった。
だが治部の話というのは、戦だけでも妙に人の口へ乗る男である。
まして今回は色恋が絡む。しかも相手が、お市、真理姫、雪姫と来れば、面白がられぬはずもない。
話はその日のうちに清州へ飛び、小田井へ飛び、さらに尾張一国を出て美濃へ渡り、伊勢へも渡った。
北畠の姫が絡んでいるとなれば、伊勢で静かに済むはずがない。
「治部大輔、とうとう雪姫様へ」
「しかも、その前にお市様と真理姫様へも腹を割って好きだと申したそうな」
「治部め、あれで案外、男伊達ではないか」
「案外ではない。普段が妙なだけだ」
そんな話が、酒の席でも、城の番所でも、奥向きでも行き来する。
やがて噂は、三河や近江へも届いた。
松平家中では、
「織田の治部大輔という男、えらく腹を括ったらしいぞ」
「女のことまで戦のように詰めておったくせに、最後はちゃんと口で申したとか」
「それは……ちと見直すな」
などと、若い者が勝手なことを言う。
近江では、浅井家中にまで
「小谷へ来たあの治部殿、帰ってからえらいことをしでかしたらしい」
「お犬様の輿入れの副使を務めた男が、その足で雪姫様へ」
と伝わり、
駿河や甲斐にまで行けば、
「織田のご正室と武田の姫に惚れているとも言うたうえで、北畠の姫へきちんと求婚した」
「何だそれは」
「分からぬ。だが、妙に筋が通っているらしい」
と、もう半ば伝説のような広がり方をした。
そして、いちばん深刻な被害を受けたのは、実はそのあたりの妻帯者たちであった。
どこぞの城下で、妻が夫へ言う。
「治部大輔殿は、きちんと申したそうではありませぬか」
夫、酒を噴きそうになる。
「いや、それはあの御方だからであって」
「何ゆえ、あなたは申せぬのです」
別の家では、夕餉の席で女房が静かに言う。
「私は、あなたへわざわざ人前で申せとは申しませぬ」
「うむ」
「ですが、一度くらい、ちゃんと申して下されてもよいのではありませぬか」
「……何を」
「そこから言わせるのですか」
またある武士は、寝所へ入るなり妻に腕を組まれて、
「治部大輔殿ですら、きちんと口で明かされたとか」
「いや、何故そこで織田の治部が出てくる」
「あなたは、あの御方にも劣るおつもりですか」
と詰められた。
この流れが尾張、美濃、伊勢はもちろん、三河、遠江、近江、駿河、甲斐のあたりにまで広がった結果、
「ちゃんと言え」
と嫁に迫られる夫たちが、目に見えて増えた。
当然ながら、妻帯者たちの恨みは治部へ向かった。
「余計なことをしてくれた」
「何でよりにもよって、あそこまで見事にやるのだ」
「こっちは二十年連れ添っても、一度もそんなこと申したことがないのに」
「治部大輔め、戦だけしておればよいものを」
と、酒の席では大いに恨まれた。
一方で、その妻たちは妙に上機嫌である。
「ほら、織田の治部大輔殿ですら」
「雪姫様へだけでなく、きちんと順に」
「男とは、本来ああいうものではありませぬか」
と言い出すので、もう手がつけられぬ。
そのため後年、この一件は
『治部の嫁取り騒動』
として語り継がれることになった。
しかも、ただ面白おかしい騒動としてではない。
妙に理屈をこね、剣だ弓だ兵法だと話を広げる男が、最後の最後では腹を括り、ちゃんと口で言うた、という一点が、なぜか人々の胸へ深く残ったのである。
そしてさらに、年月が過ぎるにつれ、話はだんだん妙な方向へ育っていく。
「治部大輔殿の話を聞いてから、うちの人も少しはましになった」
「雪姫様へ申した言葉を書き写して、神棚へ置いておいた」
「夫婦喧嘩のあと、治部大輔にあやかれと酒を供えた」
などと、半ば冗談、半ば本気の習いが生まれた。
そうしていつしか、織田治部大輔信繁は、
「夫婦円満」の神
として、妙にありがたがられるようになる。
戦で首を取り、政で国を動かし、北畠や武田や浅井の結びにも深く関わった男が、まさかそのようなところで拝まれることになろうとは、当の本人も、その時はまだ思いもよらぬことであった。
♢
稲葉山の奥で、その話を持ち出せる女は限られていた。
しかも二人揃って、となれば、もはや逃げ場はない。
信長が顔を上げた時、お濃の方はいつものように静かだった。
静かだが、今日はその静けさが少しだけ冷たい。生駒吉乃はその横で、やわらかな笑みを浮かべている。だが、やわらかい時ほど、この人もなかなか容赦がない。
「それで」
お濃の方が言った。
「肝心の」
生駒吉乃が続ける。
「貴方様は」
お濃の方が、少しだけ目を細めた。
「いかがなさいますか」
信長は、しばし黙った。
何のことか分からぬほど鈍くはない。
治部が腹を括って、三人へ順に言うた。雪姫はきちんと受けた。城々には話が走り、夫どもは嫁に詰められ、治部は夫婦円満の神だなどと妙なことまで言われ始めている。
そのうえで、今この二人が面と向かって問うてくるのだ。
「で、あなたは」と。
「……勘十郎め、逃げたな」
信長がぽつりと言う。
生駒吉乃が、くすりと笑った。
「勘十郎様のせいになさいますの?」
「お市が書き、生駒が聞きつけ、お濃が乗った」
「乗った、とは」
お濃の方の声は静かだ。
「まるで、私が面白がっているようではありませぬか」
「違うのか」
「半分は」
信長が、そこで鼻を鳴らした。
「お前まで半分か」
生駒吉乃が優しく言う。
「治部様の話を聞いて、城中の女たちがいろいろ思うのは、仕方ありませぬ」
「うむ」
「ですが、思うだけでは済みませぬもの」
お濃の方が続ける。
「雪姫様へ言うた。真理姫殿へも言うた。お市へも言うた」
「うむ」
「ならば」
そこでもう一度、あの問いが落ちる。
「貴方様は」
生駒吉乃が少しだけ笑う。
「いかがなさいますか」
信長は、そこでようやく背を預けた。
評定で責め立てられるのとは違う。
戦の詰めとも違う。
だが、これはこれで厄介だ。相手がこの二人だとなおさらである。
「治部は若い」
「はい」と生駒吉乃。
「若うございますね」
「若い者のすることだ」
「はい」とお濃の方。
「では、若うないお方はなさらぬのですか」
信長は、そこで初めて少しだけ口元を歪めた。
「ずいぶん詰めるな」
「詰めております」
お濃の方は一歩も退かない。
「治部大輔があれだけきちんと口にして、あちこちの城下で夫どもが嫁に絞られておるのに、肝心の上総介殿が知らぬ顔では締まりませぬ」
生駒吉乃も頷く。
「ええ。皆、見ております」
「誰がだ」
「女たちが」
そこで信長は、珍しく少し黙った。
女たちが見ている。
それはそうだろう。治部の嫁取り騒動がここまで広がれば、「では上総介殿は」となるのも道理だ。しかも相手が、お濃の方と生駒吉乃である。軽く扱ってよいはずがない。
「何を申せばよい」
信長が低く問う。
お濃の方は、少しだけ表情をやわらげた。
「それを、いま私どもに問われるのですか」
「戦や政なら、いくらでも申せる」
「存じております」と生駒吉乃。
「ですから、なおさらでございます」
信長は、しばし二人を見た。
お濃の方。
最初から並んできた女だ。強い。聡い。こちらが黙れば黙っただけ、何を考えているかを見ておる。
生駒吉乃。
やわらかい。だが、そのやわらかさで家も人も包んでしまう。包まれた方は、気づけば逃げ場を失っている。
「……難しいことを申す」
「そうでございますか」とお濃の方。
「治部大輔は、存外簡単に申したようですけれど」
「存外、ではあるな」
「では」と生駒吉乃。
「貴方様も、難しゅうお考えにならず」
その言い方が妙に腹立たしい。
だが、腹立たしいからといって、間違っているとも言いにくい。
信長は、ようやく言った。
「お濃」
お濃の方が、まっすぐにこちらを見る。
「お前がおらねば、ここまで来てはおらぬ」
部屋が少しだけ静かになった。
お濃の方の目が、わずかに揺れる。
だが、すぐに逸らしはしない。
信長は続ける。
「腹立たしい時もある。手強い時もある。だが、お前が隣におるのが当たり前になって久しい」
お濃の方は、そこで小さく息をついた。
「……それは、ずいぶん回りくどうございますね」
「治部のようにはいかぬ」
「比べてはおりませぬ」
だが、声は少しだけやわらいでいた。
信長は次に、生駒吉乃を見た。
「吉乃」
「はい」
「お前は、人の家の中へ入ってきて、気づけば皆が少しずつお前に甘くなっておる」
生駒吉乃が、ふっと笑う。
「それは、良い意味にございますか」
「半分は」
「まあ」
「だが、お前がおると、城の中の息が少しやわらぐ」
生駒吉乃は、その言葉を静かに受けた。
「ありがたきことにございます」
「子らも、お前のところへ寄る」
「はい」
「それを見ておると、悪くないと思う」
生駒吉乃は、そこでようやく少しだけ目を伏せた。
「それで、十分にございます」
お濃の方が横から言う。
「十分にございます、ではありませぬ」
「お濃様」
「ここまで申して、まだ逃がしませぬよ」
信長が、そこでとうとう笑った。
「お前は本当に容赦がないな」
「今さらでございます」
「分かった」
そう言って、少しだけ居住まいを正す。
「お濃。吉乃。どちらも大事に思うておる」
今度は短かった。
だが、短いからこそ信長らしいとも言えた。
お濃の方は、しばらく黙ってから、ようやく頷いた。
「はい」
生駒吉乃も、やわらかく微笑んだ。
「ええ」
その返事の温度が違うのも、またらしい。
しばらくの静けさのあと、お濃の方がぽつりと言った。
「治部大輔ほど派手ではありませぬが」
「比べるな」
「ですが」
生駒吉乃が続ける。
「これはこれで、よろしゅうございました」
信長は、少しだけ肩の力を抜いた。
「治部のせいで、妙なことまでさせられる」
「よろしいではありませぬか」とお濃の方。
「たまには」
「そうです」と生駒吉乃。
「夫婦円満の神が家中におられるのですから」
「やめろ」
「もう皆、そう申しております」
信長は本気で顔をしかめたが、二人とも今日は引かなかった。
外では、稲葉山の夜が静かに更けていく。
だが、その静けさの中で、治部の嫁取り騒動はまた一つ、別の余波を広げていた。
そしてその余波はたぶん、まだまだここでは済まない。
信長は、そう思いながらも、今だけは深く息を吐くしかなかった。
♢
年が改まって間もなく、田代城からの早馬が稲葉山へ駆け込んだ。
「お市様、ご懐妊にございます!」
座が一気に沸いた。
信長が身を乗り出す。
「なに!」
信勝も目を見張る。
「なんと!」
めでたい。
これは文句なく、めでたい報せだった。
治部家に子が宿った。それは田代にとっても、織田にとっても、喜ばぬ理由のない吉事である。
だが、その場で頭を下げた信繁の胸には、喜びと同時に別の重みも落ちた。
――お市が子を宿した。
――なら、次に人の目が向くのは誰か。
真理のことだった。
雪姫とのことが定まったとはいえ、順に言えば、先に向き合うべきは真理になる。
だが真理はまだ若い。そこを軽く扱う気は、信繁にはなかった。
祝いの場を引いたあとも、そのことが頭から離れない。
「……困ったな」
一人になってから、ようやく口に出た。
お市の懐妊は心から嬉しい。
だが、その嬉しさの陰で、真理だけを曖昧に待たせる形になるのはまずい。しかも、もしこちらが何も言わずにいる間に雪姫の方へ話が先に深まるようなことになれば、真理の胸に余計な傷を増やしかねない。
「いや、俺がどうこうではないんだが」
そう呟いて、すぐ首を振る。
「……いや、そこもなくはないな」
自分が耐える耐えぬの話ではない。
真理がどう思うかだ。そこをちゃんと聞かねばならない。
結局、答えは一つしかなかった。
――本人と話すしかない。
その夜、信繁は真理を呼んだ。
真理は静かに座した。
幼い。だが、ただ幼いだけではない。武田の姫として立ってきた者の静けさがある。
信繁は少し間を置いてから言った。
「真理姫」
真理が顔を上げる。
「はい」
「まず、話しておきたいことがある」
「はい」
「お市が子を宿した。これは本当にめでたい」
真理は小さく頷いた。
「はい。私も、そう思います」
「そのうえで、次をどうするかは、俺が勝手に決めたくない」
真理の目が少しだけ真っ直ぐになる。
「……私のこと、ですね」
「そうだ」
信繁は頷いた。
「順に見れば、次に人が見るのはおそらくお前の方になる。だが、俺は正直に言う。まだお前を軽々しく急がせる気はない」
そこではっきり言う。
「身体のことも、年のことも、何もかも“まあよい”では済まんと思っている」
真理は黙って聞いていた。
やがて、小さく言う。
「待つだけ、というのは嫌です」
信繁は口を挟まなかった。
「何も言われず、何も決まらず、ただ“その時まで待て”と言われるだけなのは、嫌です」
声は穏やかだ。
だが、その中に芯があった。
「私は、妻としてここにおります。なのに、幼いから、まだ早いから、それだけで全部を遠ざけられるのは……違う気がいたします」
信繁は深く息を吐いた。
「……そうか」
「はい」
「なら、聞かせてくれ。お前はどうしたい」
真理は少し視線を落とし、それから言った。
「ただ待たされるのではなく、きちんと妻として扱っていただきたいです」
そこには、若さゆえの背伸びだけではないものがあった。
後ろへ置かれるのではなく、自分の立場を自分でもちゃんと受け止めたいという願いだ。
信繁はゆっくり頷いた。
「分かった」
真理は少しだけ息を詰める。
「先を急ぐことはしない」
そこで一拍置く。
「だが、待たせるだけにもせぬ」
真理が顔を上げた。
「きちんと話す。きちんとそばにいる。お前が“後回しにされた”と思うような扱いはしない」
真理は黙ったまま聞いている。
「ただ、身体に関わることだけは、私の方でも慎重にさせてくれ。そこを曖昧にしたくない」
しばらく沈黙が落ちた。
やがて真理は、ようやく小さく頷いた。
「……では、私は待たされるだけではないのですね」
「待たせるだけにはしない」
その一言で、真理の肩から少し力が抜けた。
「それと」
真理が、少しだけ言いにくそうに続ける。
「真理姫、と呼ばれると、少し遠く感じます」
信繁が瞬く。
「え」
「お市様に、姫はついておりません」
「ああ……」
「私も、真理と呼んでください」
そこは意外に強い願いだった。
信繁は一拍遅れて頷く。
「承知した」
「はい」
「真理」
その名で呼ばれて、真理はようやく少しだけ笑った。
その笑みは、ただ甘える子のものではない。
自分の居場所を一つ前へ動かした者の顔だった。
信繁は額に手をやりたくなった。
「……困ったな」
真理が首を傾げる。
「何がですか」
「お前の気持ちは受け取った。だが、こういう時に誰へ知恵を借りれば一番ましか、今の俺には分からん」
真理が思わず少し笑う。
「治部殿にも、そういうことはあるのですね」
「ある」
信繁は真顔で答えた。
「大いにある。お市に聞けば笑われる。おまつ殿に聞けば、たぶん面白がる。黄梅院殿の例を思い出したところで、だからどうしたという話だ」
真理が、今度はもう少しだけ自然に笑った。
「では、私と一緒に考えてください」
信繁は、その言葉に少しだけ目を細めた。
「……ああ」
「それがよいな」
その夜、何かが決まり切ったわけではない。
だが少なくとも、真理は“ただ待つ妻”ではなくなった。信繁もまた、“まだ若いから”の一言で先へ追いやる男ではいられなくなった。
お市の懐妊がもたらしたのは、祝いだけではない。
家の中の順と、人の心の順を、改めて見直させる重みでもあった。
田代城の冬はまだ冷たい。
だが、その冷たさの中で、真理と信繁のあいだには、急がぬまま、それでも前へ進む時間が確かに生まれ始めていた。