織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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004馬の神様発見

津島へ行くことになったのは、父上の用向きのついでだった。

 

馬の飼い葉の話をしてから、まだ日は浅い。

父上はすぐに試すとは言わなかった。

厩方へ聞く。

仔馬を選ぶ。

今の飼い葉を調べる。

腹を壊しやすいものを避ける。

 

そういう手順を、一つずつ踏むつもりらしい。

 

俺としても、それでよかった。

というより、そうでなければ困る。

 

田なら、失敗しても田が怒るわけではない。

馬は違う。

目がある。

鼻息がある。

腹も壊す。

痛がる。

死ぬ。

 

そのことを考えると、前より軽々しく「試したい」と言えなくなっていた。

 

だから、津島へ向かう道でも、俺は馬の背や尻ばかり見ていた。

荷を引く馬。

人を乗せる馬。

痩せている馬。

まだ若い馬。

毛艶の悪い馬。

首だけは太いが、背のあたりが頼りない馬。

 

馬にも、ずいぶん差がある。

 

人でもそうだ。

同じ年でも、食べるものや眠る場所で身体が変わる。

なら、馬もそうなのだろう。

ただ、その違いをどう見ればいいのかが、俺にはまだ分からない。

 

津島の湊へ近づくと、匂いが変わった。

 

川の水。

魚。

荷の藁。

汗。

油。

木箱。

湿った縄。

それらが混じって、鼻の奥へくる。

 

人の声も多い。

商人が叫ぶ。

人足が返す。

船から荷が下ろされる。

牛や馬の息遣いが混じる。

 

小田井とは違う。

ここは物が動く場所だ。

米も、魚も、布も、木材も、噂も、人も動く。

 

父上は津島商人と話があった。

俺は供の者と少し離れて待つことになったが、じっとしていられるはずもない。

 

もちろん、勝手に遠くへ行くなとは言われている。

だから、供の見える範囲で湊を眺めるだけだ。

 

それでも十分だった。

 

荷駄が並んでいる。

馬が何頭もいる。

船から下ろした荷を背に負わせるものもあれば、車を引かされるものもある。

馬の扱いは、人によってずいぶん違った。

 

声を荒げる者。

手綱を短く持ちすぎる者。

尻を叩く者。

耳の動きも見ずに前へ引く者。

 

見ているだけで、こちらの腹が少し重くなる。

 

その時だった。

 

一頭の馬が、大きく跳ねた。

 

最初は、荷が崩れたのだと思った。

だが違う。

何かに驚いたらしい馬が、首を振り、前脚を上げ、繋がれた縄を引きちぎりかけていた。

 

「おい、押さえろ!」

「近づくな、蹴られるぞ!」

「荷をどけろ、荷を!」

 

声が重なった。

人足が逃げる。

荷が倒れる。

木箱が割れ、中の何かが転がった。

馬はそれにまた驚き、さらに首を振る。

 

怖い。

 

素直にそう思った。

 

大きい。

人よりずっと大きい。

脚が当たれば骨が折れる。

あの首の力で振られたら、大人でも持っていかれる。

 

誰も近づけない。

 

いや、近づこうとする者はいた。

だが、皆が馬の頭か手綱を押さえようとする。

馬はそれを嫌がって、さらに暴れる。

 

「目を塞げ!」

「馬鹿、横から行くな!」

「縄を掛けろ!」

 

声だけが増えて、馬は落ち着かない。

 

その時、人の間から、一人の老人が出てきた。

 

最初、俺は商人の下男かと思った。

身なりは良くない。

港の労役をしている者と同じような、汚れた衣だった。

背も高くない。

髪も髭も白が混じっている。

 

だが、歩き方が変だった。

 

急がない。

逃げない。

馬を真正面から見ない。

けれど、目を離しているわけでもない。

 

老人は、馬の斜め前で止まった。

 

人足の一人が怒鳴る。

 

「爺、危ないぞ!」

 

老人は返事をしなかった。

 

ただ、低く何かを言った。

 

言葉は、すぐには聞き取れなかった。

日本語ではないようにも聞こえた。

だが、声の調子は妙に平らだった。

 

馬が、耳を動かした。

 

老人は近づかない。

半歩だけ横へずれる。

また低く声を出す。

手は上げない。

縄も持たない。

ただ、馬の目の先にある割れた木箱を、足で少しずつ横へずらした。

 

ああ。

 

俺はそこでようやく気づいた。

 

馬は、人を怖がっているだけではない。

足元に転がった木箱と、そこから出た匂いに驚いている。

それを避けたいのに、縄と人で逃げ道が塞がっている。

だから、余計に暴れている。

 

老人は、それを見ている。

 

馬だけを見ているのではない。

馬が何に驚いて、どこへ逃げたがっているかを見ている。

 

木箱が少し横へ動く。

老人も一歩引く。

馬の前に、狭いが空きができた。

 

老人が、また声をかけた。

 

今度は、馬の首が少し下がった。

鼻息は荒い。

だが、さっきのように前脚を上げない。

 

老人はすぐには触らない。

手を伸ばしかけて、止めた。

馬が耳を伏せたからだ。

 

少し待つ。

また声をかける。

今度は手の甲を見せる。

馬の鼻先へ押しつけない。

ただ、そこに置く。

 

馬が匂いを嗅いだ。

 

湊の騒ぎが、そこで少し静まった。

 

老人はようやく、手綱の端に指をかけた。

引かない。

握り込まない。

ただ、端を持つ。

 

そして馬が一歩動いた瞬間、老人も一緒に動いた。

 

力で止めたのではない。

馬の動きに合わせて、進ませる先を少しだけ変えた。

 

馬は、まだ荒い息をしていた。

けれど、もう暴れてはいなかった。

 

周りの大人たちが、ようやく息を吐いた。

 

「何だ、あの爺」

「おい、あいつ、港の雑役の」

「異国の流れ者だろう」

「馬方だったのか」

 

声がばらばらに上がる。

 

俺は、気づけば前へ出ていた。

 

供の者が慌てて近づく。

 

「若様、危のうございます」

「分かっている。近づきすぎない」

 

そう答えながら、俺は老人を見た。

 

老人は、馬を人足へ返していた。

だが、その返し方も変だった。

すぐに手綱を渡さない。

人足が荒く掴もうとすると、老人は首を横に振った。

 

「ゆるく」

 

その一言だけは、日本語だった。

 

人足が目を丸くする。

 

「喋れるのか」

 

老人は答えない。

ただ、手綱を少し緩めさせてから渡した。

 

俺は、その前に出た。

 

老人がこちらを見る。

目が細い。

港で使われている老人の目ではない。

人を見る前に、足元と周囲を見る目だった。

 

俺は一度、軽く頭を下げた。

 

「そなた」

 

老人は黙っている。

 

供の者が少し前に出ようとしたが、俺は手で止めた。

 

「今の馬を、力で押さえませんでした」

老人の眉が、わずかに動いた。

「怖がっているものをどけて、逃げ道を作ったように見えました」

 

今度は、はっきりこちらを見た。

 

日本語がどこまで通じるか分からない。

だが、少なくとも聞いている。

 

俺は、そのまま訊ねた。

 

「そなた、馬を視るのか」

 

老人はすぐには答えなかった。

 

湊の音が戻ってくる。

荷を運ぶ声。

縄を引く音。

馬の鼻息。

遠くで誰かが笑う声。

 

その中で、老人だけが、少し違う場所に立っているように見えた。

 

やがて老人は、低く言った。

 

「馬は、見る」

 

声は掠れていた。

だが、日本語だった。

 

「人は、見ぬ」

 

俺は思わず黙った。

 

それは、俺に言ったのか。

それとも、周りの者たちに言ったのか。

あるいは、ずっとそう扱われてきた自分のことを言ったのか。

 

分からない。

 

ただ、その言葉は、妙に腹へ落ちた。

 

馬を見る。

人は見ない。

 

確かに、さっきの大人たちは馬を押さえようとしていた。

けれど、馬が何を怖がっているかを見ていなかった。

 

俺はもう一度、老人を見た。

 

「名は」

 

老人は、少しだけ首を傾けた。

 

「名は、長い」

「では、何と呼ばれている」

「港では、唐爺」

 

唐爺。

 

その呼び方は、たぶんまともな名ではない。

異国から来た爺、という程度の雑な呼び名だ。

 

「本当の名は」

 

老人は答えなかった。

 

答えたくないのか。

それとも、ここで言う値打ちがないと思っているのか。

 

俺はそれ以上、無理に聞かなかった。

 

「唐爺」

 

老人の目が、少しだけ動く。

 

「馬の乗り方も分かるか」

「乗るより、落ちぬこと」

 

変な答えだ。

 

だが、たぶん正しい。

 

俺は少し笑いそうになった。

けれど、笑ってはいけない気がして、口元を抑えた。

 

「馬に近づく時、何を先に見る」

「耳」

 

即答だった。

 

「次は」

「目」

「次は」

「足」

「腹は」

「後でよい。腹を見る前に蹴られれば、腹を見る者が死ぬ」

 

俺は、今度こそ少し笑ってしまった。

 

供の者が困った顔をしている。

だが、俺にはもう、この老人がただの港の雑役には見えなかった。

 

少なくとも、俺よりはるかに馬を知っている。

 

当たり前だ。

俺は馬を変えたいと言っただけで、馬を知らない。

この老人は、馬を見ている。

 

それだけで、胸の中に何かがひっかかった。

 

父上に知らせるべきか。

 

いや、今すぐ「雇ってください」とは言えない。

そんなことをすれば、また父上に叱られる。

背後も分からない。

どこから来たかも分からない。

港でどう使われているかも分からない。

 

だが、このまま見逃していい相手ではない気がした。

 

「唐爺」

「何だ」

「また、馬を見るところを見せてくれるか」

 

老人は、俺を見た。

 

子どもを見る目ではなかった。

不思議なものを見る目だった。

 

「若は、馬を持つか」

「まだ、持つというほどではない」

「なら、なぜ見る」

 

俺は少し考えた。

 

未来の知識なんて言えない。

強い軍馬が欲しいとも、まだ言えない。

信長や信勝に献上する馬を育てたいなど、この時点では言葉にしてはいけない。

 

だから、今の俺に言えることだけを言った。

 

「馬を死なせず、強く育てたい」

老人は黙った。

「でも、俺は馬を知らない」

 

その言葉を出すのは、少し悔しかった。

だが、本当のことだ。

 

「だから、見る者を見たい」

 

老人は、しばらく俺を見た。

 

やがて、ほんの少しだけ口元を動かした。

笑ったのかどうか分からないほど、小さい動きだった。

 

「小さい若が、大きいことを言う」

「よく言われる」

「嫌か」

「少し」

「なら、言わねばよい」

「それができれば苦労しない」

 

老人は、そこで初めて、喉の奥で小さく笑った。

 

港の喧騒の中で、それはほとんど聞こえないほどの笑いだった。

だが、俺には聞こえた。

 

その時、父上の用向きを終えたらしい供の一人が、こちらへ来た。

 

「若様、左衛門佐様がお呼びにございます」

 

「分かった」

俺は唐爺へ向き直る。

「また来る」

 

老人は答えなかった。

 

ただ、さっき落ち着かせた馬の方へ視線を戻した。

 

俺は供に連れられ、父上のもとへ戻った。

 

歩きながら、何度も振り返りそうになった。

だが、我慢した。

 

父上に何と言うべきか。

港に、馬を見る老人がいる。

異国から来たらしい。

名も分からない。

だが、暴れ馬を落ち着かせた。

日本語も通じる。

 

怪しい。

あまりにも怪しい。

 

それでも、俺の中ではもう、あの老人の姿が消えなかった。

 

馬は、見る。

人は、見ぬ。

 

その言葉が、耳に残っている。

 

俺はまだ、馬を見ていない。

ただ、大きくしたい、強くしたいと思っていただけだ。

 

だが、もし本当に馬を変えたいなら、まず馬を見なければいけない。

 

その当たり前のことを、津島の湊で、汚れた衣の老人に突きつけられた気がした。

 

 

父上のもとへ戻った時、俺はたぶん、顔に出ていたのだと思う。

 

父上は津島商人との話を終えたばかりだった。

屋敷の一室で、商人が低く頭を下げ、父上が短く頷いている。

積まれた反物、書付、茶の匂い。

外の湊の騒ぎとは違い、ここは商いの腹の中のように静かだった。

 

俺は供の者に連れられて座へ戻り、いつものように端へ控えた。

 

だが、頭の中にはまだ、さっきの馬と老人がいた。

 

暴れる馬。

割れた木箱。

馬の耳。

足。

逃げ道。

低い声。

 

馬は、見る。

人は、見ぬ。

 

あの言葉が、どうにも離れない。

 

父上は商人への用向きを片づけると、俺の方へ視線を向けた。

 

「又八郎」

「はい」

「何を見た」

 

やはり、気づかれていた。

 

俺は一度、膝の上で手を握った。

 

「湊で、馬が暴れました」

 

父上の目が少し細くなる。

 

「怪我人は」

「大きな怪我は、たぶんありません。荷は少し壊れました」

「そなたは近づいたのか」

 

声が低い。

 

「近づきすぎてはおりません」

「近づいたのだな」

「……はい」

 

父上は、すぐには叱らなかった。

だが、目は厳しい。

 

「馬は蹴る」

「はい」

「暴れ馬なら、なおさらだ」

「はい」

「そなたが潰されれば、神童も何もない」

 

それは本当にその通りだった。

 

俺は頭を下げる。

 

「申し訳ございません」

 

「それで」

父上は続けた。

「何を見た」

 

叱るだけでは終わらない。

そこが父上らしい。

 

俺は顔を上げた。

 

「港で雑役に使われている老人が、馬を落ち着かせました」

 

商人の一人が、そこでわずかに顔を動かした。

心当たりがある顔だ。

 

父上もそれに気づいたらしいが、まず俺に続きを促した。

 

「どう落ち着かせた」

「力で押さえませんでした」

「うむ」

 

「馬の前に割れた木箱がありました。たぶん、その匂いと音に驚いて、でも縄と人で逃げ道がなくなっていました」

父上は黙って聞いている。

「老人は、正面から掴みに行かず、斜めから近づきました。馬の目を真正面から見ず、声を低くして、木箱を少しずつ横へどけました。それで馬の逃げ道を作ってから、手綱に指をかけました」

 

言いながら、俺自身も思い出していた。

 

あれは、手品ではない。

怪しい術でもない。

ただ、見ていた。

 

馬が何を怖がって、どこへ行きたがっているかを。

 

「その老人は、馬を知っているのか」

「少なくとも、俺よりはるかに」

 

父上の眉が少し動いた。

 

「そなたがそう認めるか」

 

「認めます」

悔しいが、本当だ。

「俺は馬を強く育てたいと思いました。でも、馬を見てはいませんでした。あの老人は、馬を見ていました」

 

座が少し静かになった。

 

商人たちは、俺が子どもとしては妙なことを言っていると思ったのだろう。

だが父上は笑わなかった。

 

「名は聞いたか」

「港では唐爺と呼ばれているそうです。本当の名は答えませんでした」

 

父上の視線が、商人の方へ動いた。

 

商人は、すぐに頭を下げた。

 

「左衛門佐様、おそらく、その者は当方の荷場に出入りしている流れ者にございます」

「出入りしている、とは曖昧だな」

「申し訳ございませぬ。もとは船で流れて参った者と聞いております。唐土筋の者か、あるいはその向こうを経た者か、確とは分かりませぬ」

「誰が使っておる」

「港の人足頭が、荷の上げ下ろしや雑役に使っております。銭というより、飯と寝場所を与えて働かせている形にございます」

 

父上の顔が、少し硬くなった。

 

「身元も知れぬ者を、港で使っておるのか」

 

商人はさらに頭を下げた。

 

「湊には、その手の者も多うございます。無論、蔵や奥へは入れておりませぬ。力仕事、汚れ仕事、馬や牛の周りで使う程度にございます」

「馬や牛の周りで、か」

 

父上の声が低い。

 

商人は、しまったという顔をした。

だが、もう遅い。

 

「はい。妙に、畜類の扱いはうまいと聞いております」

 

俺は思わず父上を見た。

 

父上は、こちらを見ない。

商人だけを見ている。

 

「いつからいる」

「半年ほど前からかと」

「どの船で来た」

「それは、すぐには」

「調べよ」

「はっ」

 

商人の背中がさらに丸くなる。

 

父上は淡々としていた。

怒鳴らない。

だが、声の一つ一つが逃げ道を塞いでいく。

 

「誰が最初に拾った。どこで寝ている。誰と話す。何を食う。どこへ出入りする。喧嘩はあるか。盗みはあるか。言葉はどこまで通じるか。全部調べよ」

「承知仕りました」

「その者を、今すぐここへ連れて来るな」

 

商人が顔を上げかける。

 

父上は続けた。

 

「いきなり呼べば、警戒する。逃げるかもしれぬ。まず、普段通りにしておけ」

「はっ」

 

俺は、膝の上の手を少しだけ緩めた。

 

父上は、やはりすぐには動かない。

いや、動いてはいる。

だが、俺が思うような「連れて来てください」ではない。

 

まず調べる。

危ういものは、危ういままに扱う。

 

そういう動きだ。

 

商人との話が終わると、父上は俺を連れて屋敷を出た。

 

外へ出ると、湊の音が戻ってくる。

船の板が鳴る。

縄が軋む。

人足が声を掛け合う。

遠くで馬が鼻を鳴らした。

 

俺は、さっきの老人を探しそうになった。

 

だが、父上が横にいるので我慢した。

 

しばらく歩いてから、父上が言った。

 

「又八郎」

「はい」

「気に入ったのか」

「気に入ったというより、必要だと思いました」

「そなたに」

「馬にです」

 

父上が、そこで少しだけ俺を見る。

 

俺は続けた。

 

「俺は、馬を強く育てたいと言いました。でも、馬が何を嫌がるか、何を怖がるか、どこを見ればよいか、分かっていません」

「それで、あの老人なら分かると」

「少なくとも、分かることがあると思います」

「異国の流れ者だ」

「はい」

「名も明かさぬ」

「はい」

「港で飯と寝床を得て、雑役をしている」

「はい」

「そのような者を、そなたの近くへ置けると思うか」

「今すぐは、無理だと思います」

 

父上は足を止めた。

 

「今すぐは、か」

「はい」

 

自分でも少し危うい言い方だと思った。

だが、ここで引っ込めると、この話は終わる。

 

「背後を調べて、悪い者でなく、馬を本当に見られるなら」

「なら?」

「教えてほしいです」

 

父上は黙った。

 

湊の風が、父上の袖を少し揺らす。

その向こうで、荷馬が首を振っていた。

 

父上は、その馬を見ているのか。

それとも、俺を見ているのか。

どちらとも取れない顔だった。

 

やがて、低く言った。

 

「そなたは、馬を大きくしたいのではなかったか」

「大きいだけでは駄目だと思いました」

「ほう」

「怖がるものも見ずに、ただ食わせて大きくしても、たぶん危ないです」

 

父上の目が、少しだけ変わる。

 

俺は続けた。

 

「よく食う。腹を壊さない。人に慣れる。走れる。戻れる。怖がった時に、何で怖がったか分かる。そういうのを見ないと、たぶん駄目です」

 

言ってから、自分でも少し驚いた。

 

俺は、馬をそんなふうに考えていたのか。

 

いや、違う。

さっきの老人を見たからだ。

 

老人は、馬を力で押さえなかった。

馬の怖がるものを見て、道を作った。

それが俺の中で、飼い葉の話と繋がってしまった。

 

食べものだけではない。

扱い方も、育ち方を変える。

 

父上はしばらく黙っていた。

そして言った。

 

「悪くない」

 

それだけだった。

 

だが、俺にとっては十分だった。

 

「ただし」

来た。

「そなたが直接、勝手に会いに行くことは許さぬ」

 

「はい」

「話す時は、儂か供を付ける」

「はい」

「その者の素性が分かるまで、屋敷へ入れぬ」

「はい」

「馬を見せるとしても、まずは外だ」

「はい」

「そなたが近づく時は、必ず間に大人を置く」

「はい」

「返事が早いな」

「守らないと、話がなくなると思いました」

 

父上は、そこでほんの少しだけ口元を動かした。

 

「分かっておるならよい」

 

その日の津島で、唐爺を連れて帰ることはなかった。

 

俺は何度か振り返りたくなったが、父上の横でそれをやると、いかにも未練がましい。

だから我慢した。

 

帰りの道、馬の背に揺られながら、俺はずっと考えていた。

 

あの老人は、本当に何者なのか。

どうして津島へ流れたのか。

なぜ本当の名を言わないのか。

馬を見る目を、どこで身につけたのか。

 

知りたいことは多い。

 

けれど、それ以上に強く思ったのは、別のことだった。

 

馬を変えたいなら、俺一人では無理だ。

 

飼い葉を変えるだけでも足りない。

仔馬を選ぶだけでも足りない。

厩方の経験も要る。

父上の慎重さも要る。

そして、馬を本当に見る者が要る。

 

俺は、まだ馬を見ていない。

 

そのことが、悔しいようで、少しだけ嬉しかった。

 

知らないことが、はっきりしたからだ。

 

小田井へ戻る頃には、日が傾いていた。

厩の方から、馬の匂いが流れてくる。

 

俺は馬の方へ行きかけたが、父上の声に止められた。

 

「又八郎」

「はい」

「今日はもう行くな」

「……はい」

「顔に出ておる」

 

そんなに出ているのか。

 

父上は、少しだけ疲れたように息を吐いた。

 

「調べが済むまで待て」

「はい」

「待つのも、試すうちだ」

 

その言葉は、少し胸に刺さった。

 

俺は頭を下げる。

 

「分かりました」

 

本当は、すぐにでも唐爺を呼んで、馬の耳の見方から教わりたかった。

馬の目、足、腹、息。

何をどう見るのか、知りたかった。

 

だが、父上の言う通りだ。

 

待つのも、試すうち。

 

唐爺が何者なのか。

信用できるのか。

馬を本当に見られるのか。

それを見ずに近づければ、俺だけでなく、父上にも、家にも、馬にも危うい。

 

俺は厩の方を見た。

 

一頭の馬が、夕暮れの中で首を下げている。

その耳が、こちらの足音に少しだけ動いた。

 

耳。

目。

足。

 

唐爺の声が、また耳の奥で鳴った。

 

俺は、そこから先へ踏み出さなかった。

 

今日は見るだけにした。

 

馬の耳が、こちらを向き、またゆっくり戻る。

それだけを、しばらく見ていた。

 

 

唐爺のことを父上が調べ始めてから、しばらくの間、俺は待たされた。

 

待つのも試すうちだ。

 

父上にそう言われた以上、勝手に津島へ行くわけにもいかない。

厩へ行くにしても、前より供の目が厳しくなった。

 

俺としては不満がないわけではない。

だが、父上の言うことも分かる。

 

名も分からない。

どこから来たかも分からない。

港で飯と寝床をもらって雑役をしている。

そんな老人を、いきなり屋敷へ入れる方がどうかしている。

 

まして、俺の近くに置くとなれば、なおさらだ。

 

だから俺は待った。

 

待っている間にも、仔馬の候補は少しずつ見せてもらった。

まだ細い。

脚が頼りない。

近づくと耳を動かす。

人の手に慣れているものもいれば、すぐに尻を向けるものもいる。

 

飼い葉の試みも、まだ本格的には始まっていない。

厩方と父上が話し、肉の煮汁をどう薄めるか、卵をどの程度混ぜるか、牛の乳は必ず煮ること、急に与えないこと、腹を壊したら即座に止めること、そういう話ばかりが積み上がっていく。

 

それは地味だった。

 

だが、地味でいいのだろう。

 

命を扱うのに、派手な始まり方をしてはいけない。

 

数日後、父上に呼ばれた。

 

「又八郎」

「はい」

「唐爺の件だ」

 

俺は思わず背を伸ばした。

 

父上はその反応を見て、少しだけ目を細めた。

 

「まず申しておく。そなたが勝手に会いに行くことは、今後も許さぬ」

「はい」

「話が終わる前から顔を明るくするな」

「……はい」

 

やはり出ていたらしい。

 

父上は書付を一枚置いた。

 

「津島の人足頭、商人、船筋に聞かせた。盗みの話はない。喧嘩も、向こうから仕掛けたものはない。酒に溺れるでもない。女に荒い話もない」

「はい」

「ただし、名は曖昧だ」

「本当の名は言わなかったのですか」

 

「言わぬ。あるいは、言ってもこちらが聞き取れぬのかもしれぬ」

父上は続けた。

「唐土の者か、その向こうの者か、確とは分からぬ。ただ、長く海を渡る者たちの中に混じっていたらしい。津島へ来る前は堺にもいたという話がある」

 

「堺」

「そこも確かではない」

「はい」

「だが、馬や牛の扱いでは、何度か役に立っておる。暴れた荷馬を止めたのは今回が初めてではない。荷を嫌がる牛を動かしたこともある。足を痛めた馬を見て、すぐ休ませろと言い、後で本当に腫れたこともある」

 

俺は黙って聞いた。

 

やはり、見ている。

 

あの老人は、馬だけでなく、牛も見るのかもしれない。

少なくとも、足、息、目、耳、嫌がり方を見ている。

 

父上は、そこで少し声を低くした。

 

「この者は必要だ」

 

胸の奥が、少し熱くなった。

 

だが父上は、すぐに釘を刺す。

 

「ただし、そなたの玩具ではない」

「分かっております」

「藤左衛門家で雇う。まずは馬係の助言役だ。厩方の上に置くのではない」

「はい」

「馬の扱い、乗り方、近づき方、仔馬の見方を教えさせる。そなたが学ぶ時も、必ず大人が付く」

「はい」

「家中の者にも、異国の老人をいきなり重く遇するとは見せぬ。あくまで、馬を見る者として使う」

「はい」

 

父上はそこで、ようやく少しだけ息を吐いた。

 

「よいな」

「はい。ありがとうございます、父上」

「礼を言うのは早い。役に立つかどうかは、これからだ」

 

それもまた正論だった。

 

唐爺が小田井へ来たのは、その二日後だった。

 

身なりは前より少しましになっていた。

汚れた衣ではなく、きちんと洗われた古着を着ている。

ただ、立ち方は津島で見た時と変わらなかった。

 

人より先に、周りを見る。

門を見る。

庭を見る。

厩の方角を見る。

犬が吠えると、犬の方ではなく、犬が何に反応したかを見る。

 

父上が短く言った。

 

「唐爺」

 

老人は頭を下げた。

深すぎず、浅すぎず。

礼法としては崩れているのかもしれないが、無礼ではない。

 

「今日より、藤左衛門家で馬を見る。まずは厩方の助言だ。又八郎にも、馬の近づき方、乗り方を教えよ」

「承った」

 

唐爺の日本語は、やはり少し変だった。

だが意味は通る。

 

父上は続ける。

 

「ただし、勝手は許さぬ。厩方の頭を飛ばすな。若へ近づく時は、必ず供を置く。屋敷内の出入りも限る」

「分かる」

 

「分かる、ではなく、分かりました、だ」

唐爺は少し黙った。

「分かりました」

 

その言い直しに、俺は少し笑いそうになった。

父上に睨まれたので、すぐに飲み込む。

 

唐爺は俺を見た。

 

「若」

「はい」

「また会うた」

「はい。また会いました」

「馬、見るか」

「見ます」

「なら、先に蹴られぬ立ち方」

 

初手からそれか。

だが、たぶんそれが一番大事なのだろう。

俺は真面目に頷いた。

 

「教えてください」

 

唐爺は、少しだけ口元を動かした。

 

それから数日、唐爺は厩の周りを見て回った。

 

面白いことに、最初からあれこれ変えようとはしなかった。

ただ見る。

馬を見る。

人を見る。

飼い葉を見る。

水桶を見る。

寝藁を見る。

馬が嫌がる場所を見る。

 

そして、時々だけ短く言う。

 

「この馬、右後ろ、嫌う」

「この桶、低い」

「この者、手綱を引きすぎる」

「この仔、耳は怖がる。目はまだ逃げぬ」

 

言われた厩方は、最初こそむっとしていた。

当たり前だ。

いきなり来た異国の老人に仕事を見られ、口を出されるのだから面白くない。

 

だが、唐爺の言うことは、たいてい後から当たった。

 

右後ろを嫌う馬は、蹄のあたりに小さな傷があった。

桶が低い馬は、飲む時に首の下げ方を嫌がっていた。

手綱を引きすぎる者が扱う馬は、口の周りを触られるのを嫌がった。

 

厩方の空気が、少しずつ変わる。

 

この爺、何か分かっている。

 

そういう目になっていく。

 

そして、唐爺が飼い葉の試みを初めて見た時だった。

 

厩方が、小さな桶に薄い煮汁を作っていた。

肉の煮汁をさらに薄め、煮た牛の乳をほんの少し混ぜる。

卵はまだ入れない。

まず匂いと食いつきを見るだけだ。

 

唐爺は、その桶の前で止まった。

 

「何だ」

 

厩方の一人が、少し居心地悪そうに答えた。

 

「若様の試みにございます」

 

唐爺が桶を見た。

次に、厩方を見る。

それから俺を見た。

 

「これは、誰の思い付きだ」

 

厩方は、少し迷ってから言った。

 

「若だ」

 

唐爺の目が、改めて俺に向いた。

 

津島で見た時とは違う目だった。

あの時は、妙な子どもを見る目だった。

今は、少し量り直している。

 

「若」

「はい」

「馬に、これを飲ませるか」

「いきなりではありません。匂いを嫌がるか、少し舐めるか、腹を壊さないかを見ます」

「肉」

「煮汁です。薄く」

「乳」

「煮ています。これも少しだけ」

「卵は」

「まだです。最初から混ぜると、何が悪かったか分からなくなると思います」

 

唐爺は黙った。

 

その沈黙が、父上に似ている気がした。

否定するのではなく、考えている沈黙だ。

 

「誰に教わった」

「人に食わせて、身体が変わるのを見ました」

「馬も同じと?」

「同じではないと思います。でも、生き物なら、食うもので変わるところはあると思いました」

 

唐爺は、桶へ視線を戻した。

 

「面白い」

 

小さな声だった。

 

だが、その一言で、厩方の者たちが少しざわついた。

 

唐爺は、面白いと言った。

笑ったのではない。

馬鹿にしたのでもない。

試す価値があると言ったのに近い。

 

唐爺は桶の匂いを嗅ぎ、すぐに少し顔をしかめた。

 

「濃い」

 

厩方が慌てる。

 

「これでも薄めております」

「馬の鼻には濃い」

 

唐爺は、水を足すように言った。

さらに薄める。

それから、仔馬の前へ持っていく前に、まず桶を遠くに置いた。

 

「近づけすぎるな」

「なぜです」

 

俺が訊くと、唐爺は言った。

 

「逃げられぬ匂いは、嫌いになる」

 

なるほど。

 

桶を鼻先へ押しつければ、嫌なら逃げるしかない。

逃げられなければ、暴れるか、覚えて嫌う。

 

唐爺は桶を少し離し、仔馬が自分から近づくのを待った。

 

仔馬は耳を動かした。

鼻を伸ばす。

一度引く。

また伸ばす。

 

舐めた。

 

ほんの少し。

 

唐爺はそれ以上近づけなかった。

 

「今日はこれでよい」

「これだけですか」

 

思わず言うと、唐爺は俺を見た。

 

「若は、最初の日から飯を十杯食えるか」

「無理です」

「馬も同じ」

 

それは分かりやすかった。

 

唐爺は桶を下げさせた。

そして仔馬の口元、耳、腹の張り、尻尾の動きを見た。

 

「明日、糞を見る」

厩方が頷く。

「腹を見ずに、よい悪いは言えぬ」

 

その通りだった。

 

俺は少し恥ずかしくなった。

食いつきばかり気にしていた。

だが、腹を壊したかどうかは、後から出る。

 

唐爺は、そこを見る。

 

やはり必要な人だ。

 

その日の夕方、俺は唐爺と厩の外に座っていた。

供も少し離れたところにいる。

父上の言いつけ通り、二人きりではない。

 

唐爺は、馬が草を噛む音を聞いていた。

 

俺は、しばらく黙ってから言った。

 

「将来的には、坂道を登らせて鍛えたいです」

 

唐爺の目が動いた。

 

「坂」

「はい」

「なぜ」

「平らなところを走るだけでは、脚と腹の力が足りない気がします。坂をゆっくり登らせれば、無理に速く走らせずに、身体の奥を鍛えられるのではないかと」

 

唐爺は、俺をじっと見た。

 

俺は続けた。

 

「もちろん、仔馬にいきなりは駄目です。脚を痛めるかもしれません。荷を背負わせるのも、最初は駄目です。まず歩かせて、息と脚を見て、少しずつ」

 

それは、前世の競馬の知識の断片だった。

坂路調教。

そういう言葉は出さない。

出しても意味がない。

 

だが、坂を登ると鍛えられる、くらいなら当時の人間にも通る。

 

唐爺は、しばらく黙っていた。

 

やがて、低く言った。

 

「若は、馬を走らせたいのではないな」

「走らせたいです」

 

「違う」

唐爺は首を振った。

「走る前の馬を作りたいのだ」

 

俺は少し驚いた。

 

そうかもしれない。

 

強い馬が欲しい。

速い馬が欲しい。

大きい馬が欲しい。

 

そう思っていたつもりだった。

でも本当は、その前の話をしている。

 

食える馬。

眠れる馬。

人を怖がりすぎない馬。

脚を痛めにくい馬。

息が戻る馬。

冬を越せる馬。

 

走る前の馬だ。

 

「たぶん、そうです」

 

唐爺は、そこでにやりと笑った。

 

「面白い若だ」

「よく言われます」

「嫌か」

「少し」

「なら、また言う」

 

ひどい。

 

俺が少しむっとすると、唐爺はさらに笑った。

 

その顔を見て、ふと思いついた。

 

「唐爺」

「何だ」

「名がないと、呼びにくいです」

「唐爺でよい」

「それは名ではありません」

「名など、なくても馬は見る」

「人は困ります」

 

唐爺は肩をすくめた。

 

俺は少し考えた。

 

馬を見る老人。

異国から流れて来た。

本当の名を言わない。

少し怪しくて、少し面白い。

 

なら、これしかない気がした。

 

「皇甫端」

 

唐爺の目が、ぴたりと止まった。

 

「……何」

「皇甫端。馬をよく見る人の名です」

 

唐爺は、しばらく俺を見ていた。

 

そして、口の端を吊り上げた。

 

「水滸伝か」

 

今度は、俺が固まった。

 

「知っているのですか」

「知らぬ者もおろう。知る者もおる」

 

唐爺は、にやりと笑う。

 

その笑い方は、初めて少しだけ悪そうだった。

 

「若こそ、なぜ知る」

 

しまった。

 

俺は一瞬、言葉に詰まった。

だが、ここで慌てると余計に怪しい。

 

「書で聞いたことがあります」

「聞いた書か」

「そうです」

 

唐爺は、また喉の奥で笑った。

信じていないのかもしれない。

だが、追及もしなかった。

 

「では、儂は皇甫端か」

「嫌ですか」

 

「いや」

唐爺、いや皇甫爺は、厩の方を見た。

「悪くない」

 

「では、皇甫爺と呼びます」

「爺は付くのか」

「付けます」

「若は遠慮がない」

「名が長いので」

 

皇甫爺は、また笑った。

 

その笑いが消えた頃、俺は前から気になっていたことを訊ねた。

 

「皇甫爺」

「何だ」

「そこまで詳しいということは、国では士大夫だったのですか」

 

皇甫爺は、すぐには答えなかった。

 

夕方の光が、厩の屋根に当たっている。

馬が草を噛む音だけが、しばらく続いた。

 

やがて皇甫爺は言った。

 

「もとは、元朝の頃から王朝に仕えた馬を飼う一族だった」

 

元朝。

 

俺は思わず皇甫爺を見る。

 

「遡れば、蒙古人である」

 

本当か。

 

そう思った。

 

あまりにも話が大きい。

大きすぎる。

本当かもしれないし、嘘かもしれない。

あるいは、一族の中でそう語られてきただけかもしれない。

 

皇甫爺は、俺の顔を見てまた笑った。

 

「信じるか」

「半分だけ」

「賢い」

「嘘ですか」

「馬の前では、嘘をつくと蹴られる」

「では本当ですか」

「人の前では、少し嘘を混ぜると楽になる」

 

どっちだ。

 

俺が顔をしかめると、皇甫爺は楽しそうに肩を揺らした。

 

「若は、馬を見る前に、人も見よ」

 

それは、たぶんまた正しい。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

「難しいです」

「馬より難しい」

「人の方が?」

「人は、怖がっているものを隠す」

 

その言葉に、俺は少し黙った。

 

馬は耳に出る。

目に出る。

足に出る。

逃げようとする。

 

人は隠す。

笑う。

礼をする。

嘘を混ぜる。

名を伏せる。

 

皇甫爺自身が、まさにそうだ。

 

俺は、まだこの老人のことを何も知らない。

ただ、馬を見る力があることだけは分かる。

 

それで今は十分なのかもしれない。

 

「皇甫爺」

「何だ」

「馬の見方を教えてください」

 

皇甫爺は、今度は笑わなかった。

 

少しだけ真面目な顔で俺を見る。

 

「蹴られぬ立ち方からだ」

「はい」

「耳を見る」

「はい」

「目を見る」

「はい」

「足を見る」

「はい」

「腹は後でよい」

「腹を見る前に蹴られれば、腹を見る者が死ぬから」

 

皇甫爺が、満足そうに頷いた。

 

「覚えはよい」

「神童なので」

 

言ってから、しまったと思った。

 

皇甫爺は、にやりと笑った。

 

「嫌なのではなかったか」

「少しだけ、使い道があるかと思いました」

 

皇甫爺は声を出して笑った。

 

厩方の者が何事かとこちらを見る。

供の者も少し驚いた顔をした。

 

俺は少し恥ずかしくなって、馬の方へ視線を逸らした。

 

その馬の耳が、こちらの笑い声に反応して動いた。

 

耳。

目。

足。

 

そこからだ。

 

馬を強くする前に、まず馬を見る。

 

皇甫爺は、そのために小田井へ来た。

 

そして俺は、ようやく、自分の飼い葉の試みが本当に始まったのだと思った。

 

 

皇甫爺が小田井へ来てから、俺の厩通いは前より少しだけ厳しくなった。

 

勝手に近づくな。

勝手に触るな。

勝手に食わせるな。

勝手に乗るな。

 

父上の言いつけは増えた。

 

だが、逆に言えば、守れば近づける。

皇甫爺が横にいれば、馬の耳や目や足を見ることも許される。

仔馬に近づく時の立ち方も、鼻先へ手を出す時の間も、馬の後ろを通ってはいけない距離も、少しずつ教わった。

 

そして、教われば教わるほど、馬は思っていたよりずっと怖がりだと分かってきた。

 

大きい。

力も強い。

蹴られれば死ぬ。

 

でも、その大きい身体の中身は、意外なほどびくびくしている。

 

草の束が急に落ちる。

桶の影が揺れる。

人が横から走る。

犬が吠える。

頭の上を鳥が飛ぶ。

足元の白い石を嫌がる。

 

それだけで耳が動き、首が上がり、脚が乱れる。

 

「皇甫爺」

「何だ」

「馬は、見えすぎるのではありませんか」

 

皇甫爺は、藁を直していた手を止めた。

 

「見えすぎる?」

「はい。足元も、横も、上も、全部気にしているように見えます」

「馬は、逃げる獣だ。見えねば死ぬ」

 

「それは分かります」

俺は頷いた。

「でも、人を乗せる時や荷を引く時に、余計なものまで見えて驚くなら、少しだけ見せない方が落ち着くのではありませんか」

 

皇甫爺は、俺を見た。

 

あの目だ。

津島の湊で初めて見た、馬ではなく俺を量る目。

 

「若は、馬の目を潰す気か」

「違います」

「では、何だ」

「隠すのです。少しだけ」

 

皇甫爺の眉が動く。

 

俺は近くにあった古い布を取り、手の中で丸めた。

 

「たとえば、鼻の上に柔らかいものを巻きます。目の下あたりです。そうすると、足元が少し見えにくくなります」

「足元を見せぬ?」

「はい。足元の白い石や影を見て跳ねる馬には、下を見せすぎない方がよいかもしれません」

 

皇甫爺は黙った。

 

俺は今度、手で馬の目の横を示した。

 

「横を気にしすぎる馬には、目の横に革を立てます。前は見える。でも横は見えにくい。そうすれば、横で人が動いても、いちいち驚かないかもしれません」

「横を見せぬ」

「はい」

「逃げ道を奪う」

「完全には奪いません。人を乗せる時だけ、あるいは荷を引く時だけです。慣らすために使う道具です」

 

皇甫爺は、まだ答えない。

 

俺はさらに続けた。

 

「上を気にする馬には、額のあたりに幅のある布か革を付けます。上を見上げすぎないようにする。頭の上を鳥が飛んだり、木の枝が揺れたりしても、前へ気持ちを戻せるように」

「上も見せぬ」

「全部ではありません。少し遮るだけです」

「耳は」

 

さすがに早い。

 

俺が言おうとする前に、皇甫爺の方から来た。

 

「耳を怖がる馬もいる。音で跳ねる馬もいる」

「はい。耳を布で覆います。覆面のようにして、耳だけ袋を付ける。音を消すというより、急な風や虫や、耳に触れるものを減らす感じです」

 

皇甫爺は、そこでようやく大きく息を吐いた。

 

「若」

「はい」

「馬の顔を、布と革だらけにする気か」

 

たしかに、そう聞くとひどい。

 

俺は少し困った。

 

「全部同時ではありません」

「当たり前だ」

「馬によって、嫌がるものが違います。足元を気にする馬には鼻の上。横を気にする馬には横の革。上を気にする馬には額の布。音や耳を嫌がる馬には耳袋つきの覆面」

「馬ごとに変える」

「はい」

 

皇甫爺は、俺の顔をじっと見た。

 

「若は、馬を隠すのではないな」

「はい」

「怖がるものを、一つずつ減らす気か」

「そうです」

 

言われて、自分でも腑に落ちた。

 

そうだ。

俺が考えていたのは、目隠しではない。

馬から世界を奪うことではない。

 

怖がるものを、少しずつ減らすことだ。

 

皇甫爺は、しばらく黙っていた。

 

それから、厩の奥にいる一頭の若馬へ目を向けた。

 

「試すなら、あれだ」

 

その馬は、足元を気にする癖があった。

白い石、影、水たまり。

そういうものを見ると、首を上げて、前脚を少し乱す。

 

まだ乗る段階ではない。

だが、人が引いて歩かせるだけでも、たびたび止まる。

 

皇甫爺は厩方を呼び、古い布と綿、柔らかい縄を用意させた。

 

「革はまだ要らぬ。重い。硬い。嫌えば終わる」

「はい」

「まず軽く、柔らかく、すぐ外せるもの」

「はい」

「若、鼻の上と言ったな」

「目の下に、ふわっと。足元だけ少し見えにくくなるように」

 

皇甫爺は馬の顔へ近づいた。

いきなり着けない。

布を見せる。

匂いを嗅がせる。

頬に当てる。

すぐ外す。

また当てる。

 

馬の耳が動く。

鼻が広がる。

だが、暴れない。

 

何度か繰り返してから、皇甫爺は布を鼻の上へ軽く巻いた。

目は見える。

前も見える。

だが、下の方は布のふくらみで少し遮られる。

 

「歩かせる」

 

厩方が手綱を持つ。

 

俺は少し離れて見た。

 

若馬は、最初、鼻の上の布を気にして首を振った。

皇甫爺がすぐに止める。

 

「急ぐな」

 

厩方が足を止める。

馬も止まる。

また匂いを嗅ぐように鼻を動かす。

 

少し待ってから、また歩かせる。

 

白い石の近くへ来た。

 

いつもなら、ここで首が上がる。

脚が乱れる。

 

だが、その馬は一瞬耳を動かしただけで、前へ出た。

 

厩方が小さく息を飲む。

 

「もう一度」

 

皇甫爺が言う。

 

同じ場所を戻る。

今度も、前より乱れない。

 

完全に治ったわけではない。

首は少し硬い。

耳も忙しい。

 

だが、足元を見て跳ねる感じは、明らかに薄い。

 

皇甫爺は、すぐに布を外した。

 

「今日はここまで」

「もう少し見ないのですか」

 

俺が訊くと、皇甫爺は俺を見た。

 

「初めて履く草鞋で、いきなり山を越すか」

「越しません」

「馬も同じ」

 

またそれだ。

 

でも、分かりやすい。

 

皇甫爺は外した布を手に取り、今度は横へ持っていった。

 

「横の革は、気の強い馬には怒りを買う。臆病な馬には、逃げ道を奪われたと思わせる。作るなら、前を広く見せ、横を少しだけ削る」

「はい」

「上を遮る布は、頭を押さえられると思う馬がいる。軽く、揺れぬように」

「はい」

「耳袋は、暑い時は蒸れる。虫を避けるにはよいが、音が変わればそれも怖がる」

「はい」

 

俺は頷きながら、必死に覚えた。

 

やっぱり、皇甫爺がいると違う。

 

俺の発想は、形だけなら出せる。

だが、馬にどう受け取られるかまでは見えていない。

 

皇甫爺はそこを見る。

 

その日の夕方、皇甫爺は厩の外で、俺の作った粗い絵を見ていた。

 

鼻の上の布。

目の横の革板。

額の幅広い布。

耳袋つきの覆面。

 

絵は下手だ。

自分でも分かる。

だが、言いたいことは伝わっているはずだ。

 

皇甫爺はしばらく黙っていた。

 

「若」

「はい」

「これは、誰にも教わっておらぬな」

 

少し、喉が詰まった。

 

まずい。

 

だが、ここで変に誤魔化すと余計に怪しい。

俺は、言える範囲で答えた。

 

「馬が怖がるものを見ていたら、そう思いました」

「足元、横、上、耳」

「はい」

「怖がるものを、一つずつ分けた」

「はい」

「それを、布と革で減らす」

「はい」

 

皇甫爺は、ゆっくりと俺を見る。

 

その目が、今までと少し違った。

 

津島では、妙な子ども。

飼い葉を見た時は、面白い若。

坂道の話をした時は、走る前の馬を作りたい子。

 

だが今は、もう少し深いところを見ている気がした。

 

「小田井の者どもが、若を神童と呼ぶ」

「……あまり嬉しくはありません」

「そう言っておったな」

「はい」

 

皇甫爺は、鼻の上の布を指で押した。

 

「儂は、神童など、たいてい大人が勝手に作る名だと思うておった」

「俺もそう思います」

「だが」

 

皇甫爺は、そこでにやりとは笑わなかった。

 

珍しく、真面目な顔だった。

 

「これは、少し違う」

 

胸の奥が、変に落ち着かなくなる。

 

「違う、とは」

「馬をよく見る大人でも、怖がるものを減らす道具までは、すぐには考えぬ。手綱を変える。鞍を変える。人を変える。馬を叱る。疲れさせる。その辺で止まる」

「……」

 

「若は、馬の目に入るものを変えようとした」

皇甫爺は、俺の絵に視線を落とす。

「しかも、全部隠すのではない。余計なところだけ削る。これは、馬を見ぬ者の考えではない」

 

俺は黙った。

 

褒められている。

たぶん、褒められている。

 

でも、素直に喜べない。

なぜなら、この発想は俺だけのものではないからだ。

前世で見た競馬の道具。

名は知っている。

意味も少しは知っている。

 

ただ、それをこの時代の布と革に落としただけだ。

 

それでも、皇甫爺にはそう見えるのだろう。

 

皇甫爺は、俺を見て、低く言った。

 

「神童というのは、本当かもしれんな」

 

俺は思わず顔をしかめた。

 

「やめてください」

「嫌か」

「嫌です」

「なら、なお言いたくなる」

「皇甫爺は性格が悪い」

「人を見る稽古だ」

 

どんな稽古だ。

 

俺がむっとしていると、皇甫爺はようやく少し笑った。

 

だが、その笑いはすぐ消える。

 

「若」

「はい」

「この道具は、家の外へすぐ出すな」

 

俺は顔を上げた。

 

「なぜです」

 

「効く」

その一言は短かった。

「効くものは、欲しがられる。欲しがられるものは、盗まれる。盗まれぬまでも、真似される」

 

「……」

「まず小田井の馬で試す。どの馬に効くか、どの馬に悪いか、暑い時はどうか、雨の時はどうか、走る時にずれるか、擦れて傷になるかを見る」

「はい」

「形だけ広がれば、馬を苦しめる」

 

それは、胸に刺さった。

 

たしかにそうだ。

鼻の上に布を巻けばいい。

目の横に革を付ければいい。

耳を覆えばいい。

 

それだけ真似されたら、馬が嫌がっても押しつける者が出るかもしれない。

 

「分かりました。まず、ここで試します」

「父にも言え」

「はい」

「若の思いつきは面白い。だが、面白いものほど、止める者が要る」

 

父上と同じことを言う。

 

いや、たぶん本当にそうなのだ。

 

俺は頷いた。

 

「皇甫爺」

「何だ」

「止めてください」

 

皇甫爺は片眉を上げた。

 

「儂がか」

「はい。俺が馬を見ずに道具だけを見たら、止めてください」

 

皇甫爺は、しばらく俺を見ていた。

 

それから、少しだけ口元を上げる。

 

「よかろう。若が馬を見なくなったら、耳を引っ張る」

「俺の耳を?」

「他に誰の耳を引く」

「それは困ります」

「なら、馬を見よ」

 

俺は小さく息を吐いた。

 

「はい」

 

厩の中で、さっきの若馬が鼻を鳴らした。

 

耳がこちらへ向き、すぐに戻る。

目は落ち着いている。

足も乱れていない。

 

俺はその耳を見た。

目を見た。

足を見た。

 

それから、鼻の上に置かれた布を見た。

 

ただの布だ。

まだ道具とも呼べない。

 

それでも、さっき一度だけ、馬の怖がるものを減らした。

 

そこから始まるのだと思った。

 

飼い葉だけではない。

坂道だけでもない。

馬の目に入るもの、耳に入るもの、人の手の当たり方、全部を少しずつ変えていく。

 

皇甫爺が横にいる。

父上が止める。

厩方が見る。

俺は考える。

 

それでようやく、試すことができる。

 

小田井の神童などという呼び名は、今でも嫌だ。

 

だが、皇甫爺がそれを少しだけ認めたという事実は、嬉しいというより、重かった。

 

神童と呼ばれるなら、なおさら失敗できない。

 

いや、違う。

 

失敗はする。

たぶん、必ずする。

 

だからこそ、小さく試す。

馬をよく見る。

駄目なら戻す。

 

それだけは、忘れてはいけないと思った。

 

 

 

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