織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
津島へ行くことになったのは、父上の用向きのついでだった。
馬の飼い葉の話をしてから、まだ日は浅い。
父上はすぐに試すとは言わなかった。
厩方へ聞く。
仔馬を選ぶ。
今の飼い葉を調べる。
腹を壊しやすいものを避ける。
そういう手順を、一つずつ踏むつもりらしい。
俺としても、それでよかった。
というより、そうでなければ困る。
田なら、失敗しても田が怒るわけではない。
馬は違う。
目がある。
鼻息がある。
腹も壊す。
痛がる。
死ぬ。
そのことを考えると、前より軽々しく「試したい」と言えなくなっていた。
だから、津島へ向かう道でも、俺は馬の背や尻ばかり見ていた。
荷を引く馬。
人を乗せる馬。
痩せている馬。
まだ若い馬。
毛艶の悪い馬。
首だけは太いが、背のあたりが頼りない馬。
馬にも、ずいぶん差がある。
人でもそうだ。
同じ年でも、食べるものや眠る場所で身体が変わる。
なら、馬もそうなのだろう。
ただ、その違いをどう見ればいいのかが、俺にはまだ分からない。
津島の湊へ近づくと、匂いが変わった。
川の水。
魚。
荷の藁。
汗。
油。
木箱。
湿った縄。
それらが混じって、鼻の奥へくる。
人の声も多い。
商人が叫ぶ。
人足が返す。
船から荷が下ろされる。
牛や馬の息遣いが混じる。
小田井とは違う。
ここは物が動く場所だ。
米も、魚も、布も、木材も、噂も、人も動く。
父上は津島商人と話があった。
俺は供の者と少し離れて待つことになったが、じっとしていられるはずもない。
もちろん、勝手に遠くへ行くなとは言われている。
だから、供の見える範囲で湊を眺めるだけだ。
それでも十分だった。
荷駄が並んでいる。
馬が何頭もいる。
船から下ろした荷を背に負わせるものもあれば、車を引かされるものもある。
馬の扱いは、人によってずいぶん違った。
声を荒げる者。
手綱を短く持ちすぎる者。
尻を叩く者。
耳の動きも見ずに前へ引く者。
見ているだけで、こちらの腹が少し重くなる。
その時だった。
一頭の馬が、大きく跳ねた。
最初は、荷が崩れたのだと思った。
だが違う。
何かに驚いたらしい馬が、首を振り、前脚を上げ、繋がれた縄を引きちぎりかけていた。
「おい、押さえろ!」
「近づくな、蹴られるぞ!」
「荷をどけろ、荷を!」
声が重なった。
人足が逃げる。
荷が倒れる。
木箱が割れ、中の何かが転がった。
馬はそれにまた驚き、さらに首を振る。
怖い。
素直にそう思った。
大きい。
人よりずっと大きい。
脚が当たれば骨が折れる。
あの首の力で振られたら、大人でも持っていかれる。
誰も近づけない。
いや、近づこうとする者はいた。
だが、皆が馬の頭か手綱を押さえようとする。
馬はそれを嫌がって、さらに暴れる。
「目を塞げ!」
「馬鹿、横から行くな!」
「縄を掛けろ!」
声だけが増えて、馬は落ち着かない。
その時、人の間から、一人の老人が出てきた。
最初、俺は商人の下男かと思った。
身なりは良くない。
港の労役をしている者と同じような、汚れた衣だった。
背も高くない。
髪も髭も白が混じっている。
だが、歩き方が変だった。
急がない。
逃げない。
馬を真正面から見ない。
けれど、目を離しているわけでもない。
老人は、馬の斜め前で止まった。
人足の一人が怒鳴る。
「爺、危ないぞ!」
老人は返事をしなかった。
ただ、低く何かを言った。
言葉は、すぐには聞き取れなかった。
日本語ではないようにも聞こえた。
だが、声の調子は妙に平らだった。
馬が、耳を動かした。
老人は近づかない。
半歩だけ横へずれる。
また低く声を出す。
手は上げない。
縄も持たない。
ただ、馬の目の先にある割れた木箱を、足で少しずつ横へずらした。
ああ。
俺はそこでようやく気づいた。
馬は、人を怖がっているだけではない。
足元に転がった木箱と、そこから出た匂いに驚いている。
それを避けたいのに、縄と人で逃げ道が塞がっている。
だから、余計に暴れている。
老人は、それを見ている。
馬だけを見ているのではない。
馬が何に驚いて、どこへ逃げたがっているかを見ている。
木箱が少し横へ動く。
老人も一歩引く。
馬の前に、狭いが空きができた。
老人が、また声をかけた。
今度は、馬の首が少し下がった。
鼻息は荒い。
だが、さっきのように前脚を上げない。
老人はすぐには触らない。
手を伸ばしかけて、止めた。
馬が耳を伏せたからだ。
少し待つ。
また声をかける。
今度は手の甲を見せる。
馬の鼻先へ押しつけない。
ただ、そこに置く。
馬が匂いを嗅いだ。
湊の騒ぎが、そこで少し静まった。
老人はようやく、手綱の端に指をかけた。
引かない。
握り込まない。
ただ、端を持つ。
そして馬が一歩動いた瞬間、老人も一緒に動いた。
力で止めたのではない。
馬の動きに合わせて、進ませる先を少しだけ変えた。
馬は、まだ荒い息をしていた。
けれど、もう暴れてはいなかった。
周りの大人たちが、ようやく息を吐いた。
「何だ、あの爺」
「おい、あいつ、港の雑役の」
「異国の流れ者だろう」
「馬方だったのか」
声がばらばらに上がる。
俺は、気づけば前へ出ていた。
供の者が慌てて近づく。
「若様、危のうございます」
「分かっている。近づきすぎない」
そう答えながら、俺は老人を見た。
老人は、馬を人足へ返していた。
だが、その返し方も変だった。
すぐに手綱を渡さない。
人足が荒く掴もうとすると、老人は首を横に振った。
「ゆるく」
その一言だけは、日本語だった。
人足が目を丸くする。
「喋れるのか」
老人は答えない。
ただ、手綱を少し緩めさせてから渡した。
俺は、その前に出た。
老人がこちらを見る。
目が細い。
港で使われている老人の目ではない。
人を見る前に、足元と周囲を見る目だった。
俺は一度、軽く頭を下げた。
「そなた」
老人は黙っている。
供の者が少し前に出ようとしたが、俺は手で止めた。
「今の馬を、力で押さえませんでした」
老人の眉が、わずかに動いた。
「怖がっているものをどけて、逃げ道を作ったように見えました」
今度は、はっきりこちらを見た。
日本語がどこまで通じるか分からない。
だが、少なくとも聞いている。
俺は、そのまま訊ねた。
「そなた、馬を視るのか」
老人はすぐには答えなかった。
湊の音が戻ってくる。
荷を運ぶ声。
縄を引く音。
馬の鼻息。
遠くで誰かが笑う声。
その中で、老人だけが、少し違う場所に立っているように見えた。
やがて老人は、低く言った。
「馬は、見る」
声は掠れていた。
だが、日本語だった。
「人は、見ぬ」
俺は思わず黙った。
それは、俺に言ったのか。
それとも、周りの者たちに言ったのか。
あるいは、ずっとそう扱われてきた自分のことを言ったのか。
分からない。
ただ、その言葉は、妙に腹へ落ちた。
馬を見る。
人は見ない。
確かに、さっきの大人たちは馬を押さえようとしていた。
けれど、馬が何を怖がっているかを見ていなかった。
俺はもう一度、老人を見た。
「名は」
老人は、少しだけ首を傾けた。
「名は、長い」
「では、何と呼ばれている」
「港では、唐爺」
唐爺。
その呼び方は、たぶんまともな名ではない。
異国から来た爺、という程度の雑な呼び名だ。
「本当の名は」
老人は答えなかった。
答えたくないのか。
それとも、ここで言う値打ちがないと思っているのか。
俺はそれ以上、無理に聞かなかった。
「唐爺」
老人の目が、少しだけ動く。
「馬の乗り方も分かるか」
「乗るより、落ちぬこと」
変な答えだ。
だが、たぶん正しい。
俺は少し笑いそうになった。
けれど、笑ってはいけない気がして、口元を抑えた。
「馬に近づく時、何を先に見る」
「耳」
即答だった。
「次は」
「目」
「次は」
「足」
「腹は」
「後でよい。腹を見る前に蹴られれば、腹を見る者が死ぬ」
俺は、今度こそ少し笑ってしまった。
供の者が困った顔をしている。
だが、俺にはもう、この老人がただの港の雑役には見えなかった。
少なくとも、俺よりはるかに馬を知っている。
当たり前だ。
俺は馬を変えたいと言っただけで、馬を知らない。
この老人は、馬を見ている。
それだけで、胸の中に何かがひっかかった。
父上に知らせるべきか。
いや、今すぐ「雇ってください」とは言えない。
そんなことをすれば、また父上に叱られる。
背後も分からない。
どこから来たかも分からない。
港でどう使われているかも分からない。
だが、このまま見逃していい相手ではない気がした。
「唐爺」
「何だ」
「また、馬を見るところを見せてくれるか」
老人は、俺を見た。
子どもを見る目ではなかった。
不思議なものを見る目だった。
「若は、馬を持つか」
「まだ、持つというほどではない」
「なら、なぜ見る」
俺は少し考えた。
未来の知識なんて言えない。
強い軍馬が欲しいとも、まだ言えない。
信長や信勝に献上する馬を育てたいなど、この時点では言葉にしてはいけない。
だから、今の俺に言えることだけを言った。
「馬を死なせず、強く育てたい」
老人は黙った。
「でも、俺は馬を知らない」
その言葉を出すのは、少し悔しかった。
だが、本当のことだ。
「だから、見る者を見たい」
老人は、しばらく俺を見た。
やがて、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったのかどうか分からないほど、小さい動きだった。
「小さい若が、大きいことを言う」
「よく言われる」
「嫌か」
「少し」
「なら、言わねばよい」
「それができれば苦労しない」
老人は、そこで初めて、喉の奥で小さく笑った。
港の喧騒の中で、それはほとんど聞こえないほどの笑いだった。
だが、俺には聞こえた。
その時、父上の用向きを終えたらしい供の一人が、こちらへ来た。
「若様、左衛門佐様がお呼びにございます」
「分かった」
俺は唐爺へ向き直る。
「また来る」
老人は答えなかった。
ただ、さっき落ち着かせた馬の方へ視線を戻した。
俺は供に連れられ、父上のもとへ戻った。
歩きながら、何度も振り返りそうになった。
だが、我慢した。
父上に何と言うべきか。
港に、馬を見る老人がいる。
異国から来たらしい。
名も分からない。
だが、暴れ馬を落ち着かせた。
日本語も通じる。
怪しい。
あまりにも怪しい。
それでも、俺の中ではもう、あの老人の姿が消えなかった。
馬は、見る。
人は、見ぬ。
その言葉が、耳に残っている。
俺はまだ、馬を見ていない。
ただ、大きくしたい、強くしたいと思っていただけだ。
だが、もし本当に馬を変えたいなら、まず馬を見なければいけない。
その当たり前のことを、津島の湊で、汚れた衣の老人に突きつけられた気がした。
♢
父上のもとへ戻った時、俺はたぶん、顔に出ていたのだと思う。
父上は津島商人との話を終えたばかりだった。
屋敷の一室で、商人が低く頭を下げ、父上が短く頷いている。
積まれた反物、書付、茶の匂い。
外の湊の騒ぎとは違い、ここは商いの腹の中のように静かだった。
俺は供の者に連れられて座へ戻り、いつものように端へ控えた。
だが、頭の中にはまだ、さっきの馬と老人がいた。
暴れる馬。
割れた木箱。
馬の耳。
足。
逃げ道。
低い声。
馬は、見る。
人は、見ぬ。
あの言葉が、どうにも離れない。
父上は商人への用向きを片づけると、俺の方へ視線を向けた。
「又八郎」
「はい」
「何を見た」
やはり、気づかれていた。
俺は一度、膝の上で手を握った。
「湊で、馬が暴れました」
父上の目が少し細くなる。
「怪我人は」
「大きな怪我は、たぶんありません。荷は少し壊れました」
「そなたは近づいたのか」
声が低い。
「近づきすぎてはおりません」
「近づいたのだな」
「……はい」
父上は、すぐには叱らなかった。
だが、目は厳しい。
「馬は蹴る」
「はい」
「暴れ馬なら、なおさらだ」
「はい」
「そなたが潰されれば、神童も何もない」
それは本当にその通りだった。
俺は頭を下げる。
「申し訳ございません」
「それで」
父上は続けた。
「何を見た」
叱るだけでは終わらない。
そこが父上らしい。
俺は顔を上げた。
「港で雑役に使われている老人が、馬を落ち着かせました」
商人の一人が、そこでわずかに顔を動かした。
心当たりがある顔だ。
父上もそれに気づいたらしいが、まず俺に続きを促した。
「どう落ち着かせた」
「力で押さえませんでした」
「うむ」
「馬の前に割れた木箱がありました。たぶん、その匂いと音に驚いて、でも縄と人で逃げ道がなくなっていました」
父上は黙って聞いている。
「老人は、正面から掴みに行かず、斜めから近づきました。馬の目を真正面から見ず、声を低くして、木箱を少しずつ横へどけました。それで馬の逃げ道を作ってから、手綱に指をかけました」
言いながら、俺自身も思い出していた。
あれは、手品ではない。
怪しい術でもない。
ただ、見ていた。
馬が何を怖がって、どこへ行きたがっているかを。
「その老人は、馬を知っているのか」
「少なくとも、俺よりはるかに」
父上の眉が少し動いた。
「そなたがそう認めるか」
「認めます」
悔しいが、本当だ。
「俺は馬を強く育てたいと思いました。でも、馬を見てはいませんでした。あの老人は、馬を見ていました」
座が少し静かになった。
商人たちは、俺が子どもとしては妙なことを言っていると思ったのだろう。
だが父上は笑わなかった。
「名は聞いたか」
「港では唐爺と呼ばれているそうです。本当の名は答えませんでした」
父上の視線が、商人の方へ動いた。
商人は、すぐに頭を下げた。
「左衛門佐様、おそらく、その者は当方の荷場に出入りしている流れ者にございます」
「出入りしている、とは曖昧だな」
「申し訳ございませぬ。もとは船で流れて参った者と聞いております。唐土筋の者か、あるいはその向こうを経た者か、確とは分かりませぬ」
「誰が使っておる」
「港の人足頭が、荷の上げ下ろしや雑役に使っております。銭というより、飯と寝場所を与えて働かせている形にございます」
父上の顔が、少し硬くなった。
「身元も知れぬ者を、港で使っておるのか」
商人はさらに頭を下げた。
「湊には、その手の者も多うございます。無論、蔵や奥へは入れておりませぬ。力仕事、汚れ仕事、馬や牛の周りで使う程度にございます」
「馬や牛の周りで、か」
父上の声が低い。
商人は、しまったという顔をした。
だが、もう遅い。
「はい。妙に、畜類の扱いはうまいと聞いております」
俺は思わず父上を見た。
父上は、こちらを見ない。
商人だけを見ている。
「いつからいる」
「半年ほど前からかと」
「どの船で来た」
「それは、すぐには」
「調べよ」
「はっ」
商人の背中がさらに丸くなる。
父上は淡々としていた。
怒鳴らない。
だが、声の一つ一つが逃げ道を塞いでいく。
「誰が最初に拾った。どこで寝ている。誰と話す。何を食う。どこへ出入りする。喧嘩はあるか。盗みはあるか。言葉はどこまで通じるか。全部調べよ」
「承知仕りました」
「その者を、今すぐここへ連れて来るな」
商人が顔を上げかける。
父上は続けた。
「いきなり呼べば、警戒する。逃げるかもしれぬ。まず、普段通りにしておけ」
「はっ」
俺は、膝の上の手を少しだけ緩めた。
父上は、やはりすぐには動かない。
いや、動いてはいる。
だが、俺が思うような「連れて来てください」ではない。
まず調べる。
危ういものは、危ういままに扱う。
そういう動きだ。
商人との話が終わると、父上は俺を連れて屋敷を出た。
外へ出ると、湊の音が戻ってくる。
船の板が鳴る。
縄が軋む。
人足が声を掛け合う。
遠くで馬が鼻を鳴らした。
俺は、さっきの老人を探しそうになった。
だが、父上が横にいるので我慢した。
しばらく歩いてから、父上が言った。
「又八郎」
「はい」
「気に入ったのか」
「気に入ったというより、必要だと思いました」
「そなたに」
「馬にです」
父上が、そこで少しだけ俺を見る。
俺は続けた。
「俺は、馬を強く育てたいと言いました。でも、馬が何を嫌がるか、何を怖がるか、どこを見ればよいか、分かっていません」
「それで、あの老人なら分かると」
「少なくとも、分かることがあると思います」
「異国の流れ者だ」
「はい」
「名も明かさぬ」
「はい」
「港で飯と寝床を得て、雑役をしている」
「はい」
「そのような者を、そなたの近くへ置けると思うか」
「今すぐは、無理だと思います」
父上は足を止めた。
「今すぐは、か」
「はい」
自分でも少し危うい言い方だと思った。
だが、ここで引っ込めると、この話は終わる。
「背後を調べて、悪い者でなく、馬を本当に見られるなら」
「なら?」
「教えてほしいです」
父上は黙った。
湊の風が、父上の袖を少し揺らす。
その向こうで、荷馬が首を振っていた。
父上は、その馬を見ているのか。
それとも、俺を見ているのか。
どちらとも取れない顔だった。
やがて、低く言った。
「そなたは、馬を大きくしたいのではなかったか」
「大きいだけでは駄目だと思いました」
「ほう」
「怖がるものも見ずに、ただ食わせて大きくしても、たぶん危ないです」
父上の目が、少しだけ変わる。
俺は続けた。
「よく食う。腹を壊さない。人に慣れる。走れる。戻れる。怖がった時に、何で怖がったか分かる。そういうのを見ないと、たぶん駄目です」
言ってから、自分でも少し驚いた。
俺は、馬をそんなふうに考えていたのか。
いや、違う。
さっきの老人を見たからだ。
老人は、馬を力で押さえなかった。
馬の怖がるものを見て、道を作った。
それが俺の中で、飼い葉の話と繋がってしまった。
食べものだけではない。
扱い方も、育ち方を変える。
父上はしばらく黙っていた。
そして言った。
「悪くない」
それだけだった。
だが、俺にとっては十分だった。
「ただし」
来た。
「そなたが直接、勝手に会いに行くことは許さぬ」
「はい」
「話す時は、儂か供を付ける」
「はい」
「その者の素性が分かるまで、屋敷へ入れぬ」
「はい」
「馬を見せるとしても、まずは外だ」
「はい」
「そなたが近づく時は、必ず間に大人を置く」
「はい」
「返事が早いな」
「守らないと、話がなくなると思いました」
父上は、そこでほんの少しだけ口元を動かした。
「分かっておるならよい」
その日の津島で、唐爺を連れて帰ることはなかった。
俺は何度か振り返りたくなったが、父上の横でそれをやると、いかにも未練がましい。
だから我慢した。
帰りの道、馬の背に揺られながら、俺はずっと考えていた。
あの老人は、本当に何者なのか。
どうして津島へ流れたのか。
なぜ本当の名を言わないのか。
馬を見る目を、どこで身につけたのか。
知りたいことは多い。
けれど、それ以上に強く思ったのは、別のことだった。
馬を変えたいなら、俺一人では無理だ。
飼い葉を変えるだけでも足りない。
仔馬を選ぶだけでも足りない。
厩方の経験も要る。
父上の慎重さも要る。
そして、馬を本当に見る者が要る。
俺は、まだ馬を見ていない。
そのことが、悔しいようで、少しだけ嬉しかった。
知らないことが、はっきりしたからだ。
小田井へ戻る頃には、日が傾いていた。
厩の方から、馬の匂いが流れてくる。
俺は馬の方へ行きかけたが、父上の声に止められた。
「又八郎」
「はい」
「今日はもう行くな」
「……はい」
「顔に出ておる」
そんなに出ているのか。
父上は、少しだけ疲れたように息を吐いた。
「調べが済むまで待て」
「はい」
「待つのも、試すうちだ」
その言葉は、少し胸に刺さった。
俺は頭を下げる。
「分かりました」
本当は、すぐにでも唐爺を呼んで、馬の耳の見方から教わりたかった。
馬の目、足、腹、息。
何をどう見るのか、知りたかった。
だが、父上の言う通りだ。
待つのも、試すうち。
唐爺が何者なのか。
信用できるのか。
馬を本当に見られるのか。
それを見ずに近づければ、俺だけでなく、父上にも、家にも、馬にも危うい。
俺は厩の方を見た。
一頭の馬が、夕暮れの中で首を下げている。
その耳が、こちらの足音に少しだけ動いた。
耳。
目。
足。
唐爺の声が、また耳の奥で鳴った。
俺は、そこから先へ踏み出さなかった。
今日は見るだけにした。
馬の耳が、こちらを向き、またゆっくり戻る。
それだけを、しばらく見ていた。
♢
唐爺のことを父上が調べ始めてから、しばらくの間、俺は待たされた。
待つのも試すうちだ。
父上にそう言われた以上、勝手に津島へ行くわけにもいかない。
厩へ行くにしても、前より供の目が厳しくなった。
俺としては不満がないわけではない。
だが、父上の言うことも分かる。
名も分からない。
どこから来たかも分からない。
港で飯と寝床をもらって雑役をしている。
そんな老人を、いきなり屋敷へ入れる方がどうかしている。
まして、俺の近くに置くとなれば、なおさらだ。
だから俺は待った。
待っている間にも、仔馬の候補は少しずつ見せてもらった。
まだ細い。
脚が頼りない。
近づくと耳を動かす。
人の手に慣れているものもいれば、すぐに尻を向けるものもいる。
飼い葉の試みも、まだ本格的には始まっていない。
厩方と父上が話し、肉の煮汁をどう薄めるか、卵をどの程度混ぜるか、牛の乳は必ず煮ること、急に与えないこと、腹を壊したら即座に止めること、そういう話ばかりが積み上がっていく。
それは地味だった。
だが、地味でいいのだろう。
命を扱うのに、派手な始まり方をしてはいけない。
数日後、父上に呼ばれた。
「又八郎」
「はい」
「唐爺の件だ」
俺は思わず背を伸ばした。
父上はその反応を見て、少しだけ目を細めた。
「まず申しておく。そなたが勝手に会いに行くことは、今後も許さぬ」
「はい」
「話が終わる前から顔を明るくするな」
「……はい」
やはり出ていたらしい。
父上は書付を一枚置いた。
「津島の人足頭、商人、船筋に聞かせた。盗みの話はない。喧嘩も、向こうから仕掛けたものはない。酒に溺れるでもない。女に荒い話もない」
「はい」
「ただし、名は曖昧だ」
「本当の名は言わなかったのですか」
「言わぬ。あるいは、言ってもこちらが聞き取れぬのかもしれぬ」
父上は続けた。
「唐土の者か、その向こうの者か、確とは分からぬ。ただ、長く海を渡る者たちの中に混じっていたらしい。津島へ来る前は堺にもいたという話がある」
「堺」
「そこも確かではない」
「はい」
「だが、馬や牛の扱いでは、何度か役に立っておる。暴れた荷馬を止めたのは今回が初めてではない。荷を嫌がる牛を動かしたこともある。足を痛めた馬を見て、すぐ休ませろと言い、後で本当に腫れたこともある」
俺は黙って聞いた。
やはり、見ている。
あの老人は、馬だけでなく、牛も見るのかもしれない。
少なくとも、足、息、目、耳、嫌がり方を見ている。
父上は、そこで少し声を低くした。
「この者は必要だ」
胸の奥が、少し熱くなった。
だが父上は、すぐに釘を刺す。
「ただし、そなたの玩具ではない」
「分かっております」
「藤左衛門家で雇う。まずは馬係の助言役だ。厩方の上に置くのではない」
「はい」
「馬の扱い、乗り方、近づき方、仔馬の見方を教えさせる。そなたが学ぶ時も、必ず大人が付く」
「はい」
「家中の者にも、異国の老人をいきなり重く遇するとは見せぬ。あくまで、馬を見る者として使う」
「はい」
父上はそこで、ようやく少しだけ息を吐いた。
「よいな」
「はい。ありがとうございます、父上」
「礼を言うのは早い。役に立つかどうかは、これからだ」
それもまた正論だった。
唐爺が小田井へ来たのは、その二日後だった。
身なりは前より少しましになっていた。
汚れた衣ではなく、きちんと洗われた古着を着ている。
ただ、立ち方は津島で見た時と変わらなかった。
人より先に、周りを見る。
門を見る。
庭を見る。
厩の方角を見る。
犬が吠えると、犬の方ではなく、犬が何に反応したかを見る。
父上が短く言った。
「唐爺」
老人は頭を下げた。
深すぎず、浅すぎず。
礼法としては崩れているのかもしれないが、無礼ではない。
「今日より、藤左衛門家で馬を見る。まずは厩方の助言だ。又八郎にも、馬の近づき方、乗り方を教えよ」
「承った」
唐爺の日本語は、やはり少し変だった。
だが意味は通る。
父上は続ける。
「ただし、勝手は許さぬ。厩方の頭を飛ばすな。若へ近づく時は、必ず供を置く。屋敷内の出入りも限る」
「分かる」
「分かる、ではなく、分かりました、だ」
唐爺は少し黙った。
「分かりました」
その言い直しに、俺は少し笑いそうになった。
父上に睨まれたので、すぐに飲み込む。
唐爺は俺を見た。
「若」
「はい」
「また会うた」
「はい。また会いました」
「馬、見るか」
「見ます」
「なら、先に蹴られぬ立ち方」
初手からそれか。
だが、たぶんそれが一番大事なのだろう。
俺は真面目に頷いた。
「教えてください」
唐爺は、少しだけ口元を動かした。
それから数日、唐爺は厩の周りを見て回った。
面白いことに、最初からあれこれ変えようとはしなかった。
ただ見る。
馬を見る。
人を見る。
飼い葉を見る。
水桶を見る。
寝藁を見る。
馬が嫌がる場所を見る。
そして、時々だけ短く言う。
「この馬、右後ろ、嫌う」
「この桶、低い」
「この者、手綱を引きすぎる」
「この仔、耳は怖がる。目はまだ逃げぬ」
言われた厩方は、最初こそむっとしていた。
当たり前だ。
いきなり来た異国の老人に仕事を見られ、口を出されるのだから面白くない。
だが、唐爺の言うことは、たいてい後から当たった。
右後ろを嫌う馬は、蹄のあたりに小さな傷があった。
桶が低い馬は、飲む時に首の下げ方を嫌がっていた。
手綱を引きすぎる者が扱う馬は、口の周りを触られるのを嫌がった。
厩方の空気が、少しずつ変わる。
この爺、何か分かっている。
そういう目になっていく。
そして、唐爺が飼い葉の試みを初めて見た時だった。
厩方が、小さな桶に薄い煮汁を作っていた。
肉の煮汁をさらに薄め、煮た牛の乳をほんの少し混ぜる。
卵はまだ入れない。
まず匂いと食いつきを見るだけだ。
唐爺は、その桶の前で止まった。
「何だ」
厩方の一人が、少し居心地悪そうに答えた。
「若様の試みにございます」
唐爺が桶を見た。
次に、厩方を見る。
それから俺を見た。
「これは、誰の思い付きだ」
厩方は、少し迷ってから言った。
「若だ」
唐爺の目が、改めて俺に向いた。
津島で見た時とは違う目だった。
あの時は、妙な子どもを見る目だった。
今は、少し量り直している。
「若」
「はい」
「馬に、これを飲ませるか」
「いきなりではありません。匂いを嫌がるか、少し舐めるか、腹を壊さないかを見ます」
「肉」
「煮汁です。薄く」
「乳」
「煮ています。これも少しだけ」
「卵は」
「まだです。最初から混ぜると、何が悪かったか分からなくなると思います」
唐爺は黙った。
その沈黙が、父上に似ている気がした。
否定するのではなく、考えている沈黙だ。
「誰に教わった」
「人に食わせて、身体が変わるのを見ました」
「馬も同じと?」
「同じではないと思います。でも、生き物なら、食うもので変わるところはあると思いました」
唐爺は、桶へ視線を戻した。
「面白い」
小さな声だった。
だが、その一言で、厩方の者たちが少しざわついた。
唐爺は、面白いと言った。
笑ったのではない。
馬鹿にしたのでもない。
試す価値があると言ったのに近い。
唐爺は桶の匂いを嗅ぎ、すぐに少し顔をしかめた。
「濃い」
厩方が慌てる。
「これでも薄めております」
「馬の鼻には濃い」
唐爺は、水を足すように言った。
さらに薄める。
それから、仔馬の前へ持っていく前に、まず桶を遠くに置いた。
「近づけすぎるな」
「なぜです」
俺が訊くと、唐爺は言った。
「逃げられぬ匂いは、嫌いになる」
なるほど。
桶を鼻先へ押しつければ、嫌なら逃げるしかない。
逃げられなければ、暴れるか、覚えて嫌う。
唐爺は桶を少し離し、仔馬が自分から近づくのを待った。
仔馬は耳を動かした。
鼻を伸ばす。
一度引く。
また伸ばす。
舐めた。
ほんの少し。
唐爺はそれ以上近づけなかった。
「今日はこれでよい」
「これだけですか」
思わず言うと、唐爺は俺を見た。
「若は、最初の日から飯を十杯食えるか」
「無理です」
「馬も同じ」
それは分かりやすかった。
唐爺は桶を下げさせた。
そして仔馬の口元、耳、腹の張り、尻尾の動きを見た。
「明日、糞を見る」
厩方が頷く。
「腹を見ずに、よい悪いは言えぬ」
その通りだった。
俺は少し恥ずかしくなった。
食いつきばかり気にしていた。
だが、腹を壊したかどうかは、後から出る。
唐爺は、そこを見る。
やはり必要な人だ。
その日の夕方、俺は唐爺と厩の外に座っていた。
供も少し離れたところにいる。
父上の言いつけ通り、二人きりではない。
唐爺は、馬が草を噛む音を聞いていた。
俺は、しばらく黙ってから言った。
「将来的には、坂道を登らせて鍛えたいです」
唐爺の目が動いた。
「坂」
「はい」
「なぜ」
「平らなところを走るだけでは、脚と腹の力が足りない気がします。坂をゆっくり登らせれば、無理に速く走らせずに、身体の奥を鍛えられるのではないかと」
唐爺は、俺をじっと見た。
俺は続けた。
「もちろん、仔馬にいきなりは駄目です。脚を痛めるかもしれません。荷を背負わせるのも、最初は駄目です。まず歩かせて、息と脚を見て、少しずつ」
それは、前世の競馬の知識の断片だった。
坂路調教。
そういう言葉は出さない。
出しても意味がない。
だが、坂を登ると鍛えられる、くらいなら当時の人間にも通る。
唐爺は、しばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「若は、馬を走らせたいのではないな」
「走らせたいです」
「違う」
唐爺は首を振った。
「走る前の馬を作りたいのだ」
俺は少し驚いた。
そうかもしれない。
強い馬が欲しい。
速い馬が欲しい。
大きい馬が欲しい。
そう思っていたつもりだった。
でも本当は、その前の話をしている。
食える馬。
眠れる馬。
人を怖がりすぎない馬。
脚を痛めにくい馬。
息が戻る馬。
冬を越せる馬。
走る前の馬だ。
「たぶん、そうです」
唐爺は、そこでにやりと笑った。
「面白い若だ」
「よく言われます」
「嫌か」
「少し」
「なら、また言う」
ひどい。
俺が少しむっとすると、唐爺はさらに笑った。
その顔を見て、ふと思いついた。
「唐爺」
「何だ」
「名がないと、呼びにくいです」
「唐爺でよい」
「それは名ではありません」
「名など、なくても馬は見る」
「人は困ります」
唐爺は肩をすくめた。
俺は少し考えた。
馬を見る老人。
異国から流れて来た。
本当の名を言わない。
少し怪しくて、少し面白い。
なら、これしかない気がした。
「皇甫端」
唐爺の目が、ぴたりと止まった。
「……何」
「皇甫端。馬をよく見る人の名です」
唐爺は、しばらく俺を見ていた。
そして、口の端を吊り上げた。
「水滸伝か」
今度は、俺が固まった。
「知っているのですか」
「知らぬ者もおろう。知る者もおる」
唐爺は、にやりと笑う。
その笑い方は、初めて少しだけ悪そうだった。
「若こそ、なぜ知る」
しまった。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
だが、ここで慌てると余計に怪しい。
「書で聞いたことがあります」
「聞いた書か」
「そうです」
唐爺は、また喉の奥で笑った。
信じていないのかもしれない。
だが、追及もしなかった。
「では、儂は皇甫端か」
「嫌ですか」
「いや」
唐爺、いや皇甫爺は、厩の方を見た。
「悪くない」
「では、皇甫爺と呼びます」
「爺は付くのか」
「付けます」
「若は遠慮がない」
「名が長いので」
皇甫爺は、また笑った。
その笑いが消えた頃、俺は前から気になっていたことを訊ねた。
「皇甫爺」
「何だ」
「そこまで詳しいということは、国では士大夫だったのですか」
皇甫爺は、すぐには答えなかった。
夕方の光が、厩の屋根に当たっている。
馬が草を噛む音だけが、しばらく続いた。
やがて皇甫爺は言った。
「もとは、元朝の頃から王朝に仕えた馬を飼う一族だった」
元朝。
俺は思わず皇甫爺を見る。
「遡れば、蒙古人である」
本当か。
そう思った。
あまりにも話が大きい。
大きすぎる。
本当かもしれないし、嘘かもしれない。
あるいは、一族の中でそう語られてきただけかもしれない。
皇甫爺は、俺の顔を見てまた笑った。
「信じるか」
「半分だけ」
「賢い」
「嘘ですか」
「馬の前では、嘘をつくと蹴られる」
「では本当ですか」
「人の前では、少し嘘を混ぜると楽になる」
どっちだ。
俺が顔をしかめると、皇甫爺は楽しそうに肩を揺らした。
「若は、馬を見る前に、人も見よ」
それは、たぶんまた正しい。
俺は小さく息を吐いた。
「難しいです」
「馬より難しい」
「人の方が?」
「人は、怖がっているものを隠す」
その言葉に、俺は少し黙った。
馬は耳に出る。
目に出る。
足に出る。
逃げようとする。
人は隠す。
笑う。
礼をする。
嘘を混ぜる。
名を伏せる。
皇甫爺自身が、まさにそうだ。
俺は、まだこの老人のことを何も知らない。
ただ、馬を見る力があることだけは分かる。
それで今は十分なのかもしれない。
「皇甫爺」
「何だ」
「馬の見方を教えてください」
皇甫爺は、今度は笑わなかった。
少しだけ真面目な顔で俺を見る。
「蹴られぬ立ち方からだ」
「はい」
「耳を見る」
「はい」
「目を見る」
「はい」
「足を見る」
「はい」
「腹は後でよい」
「腹を見る前に蹴られれば、腹を見る者が死ぬから」
皇甫爺が、満足そうに頷いた。
「覚えはよい」
「神童なので」
言ってから、しまったと思った。
皇甫爺は、にやりと笑った。
「嫌なのではなかったか」
「少しだけ、使い道があるかと思いました」
皇甫爺は声を出して笑った。
厩方の者が何事かとこちらを見る。
供の者も少し驚いた顔をした。
俺は少し恥ずかしくなって、馬の方へ視線を逸らした。
その馬の耳が、こちらの笑い声に反応して動いた。
耳。
目。
足。
そこからだ。
馬を強くする前に、まず馬を見る。
皇甫爺は、そのために小田井へ来た。
そして俺は、ようやく、自分の飼い葉の試みが本当に始まったのだと思った。
♢
皇甫爺が小田井へ来てから、俺の厩通いは前より少しだけ厳しくなった。
勝手に近づくな。
勝手に触るな。
勝手に食わせるな。
勝手に乗るな。
父上の言いつけは増えた。
だが、逆に言えば、守れば近づける。
皇甫爺が横にいれば、馬の耳や目や足を見ることも許される。
仔馬に近づく時の立ち方も、鼻先へ手を出す時の間も、馬の後ろを通ってはいけない距離も、少しずつ教わった。
そして、教われば教わるほど、馬は思っていたよりずっと怖がりだと分かってきた。
大きい。
力も強い。
蹴られれば死ぬ。
でも、その大きい身体の中身は、意外なほどびくびくしている。
草の束が急に落ちる。
桶の影が揺れる。
人が横から走る。
犬が吠える。
頭の上を鳥が飛ぶ。
足元の白い石を嫌がる。
それだけで耳が動き、首が上がり、脚が乱れる。
「皇甫爺」
「何だ」
「馬は、見えすぎるのではありませんか」
皇甫爺は、藁を直していた手を止めた。
「見えすぎる?」
「はい。足元も、横も、上も、全部気にしているように見えます」
「馬は、逃げる獣だ。見えねば死ぬ」
「それは分かります」
俺は頷いた。
「でも、人を乗せる時や荷を引く時に、余計なものまで見えて驚くなら、少しだけ見せない方が落ち着くのではありませんか」
皇甫爺は、俺を見た。
あの目だ。
津島の湊で初めて見た、馬ではなく俺を量る目。
「若は、馬の目を潰す気か」
「違います」
「では、何だ」
「隠すのです。少しだけ」
皇甫爺の眉が動く。
俺は近くにあった古い布を取り、手の中で丸めた。
「たとえば、鼻の上に柔らかいものを巻きます。目の下あたりです。そうすると、足元が少し見えにくくなります」
「足元を見せぬ?」
「はい。足元の白い石や影を見て跳ねる馬には、下を見せすぎない方がよいかもしれません」
皇甫爺は黙った。
俺は今度、手で馬の目の横を示した。
「横を気にしすぎる馬には、目の横に革を立てます。前は見える。でも横は見えにくい。そうすれば、横で人が動いても、いちいち驚かないかもしれません」
「横を見せぬ」
「はい」
「逃げ道を奪う」
「完全には奪いません。人を乗せる時だけ、あるいは荷を引く時だけです。慣らすために使う道具です」
皇甫爺は、まだ答えない。
俺はさらに続けた。
「上を気にする馬には、額のあたりに幅のある布か革を付けます。上を見上げすぎないようにする。頭の上を鳥が飛んだり、木の枝が揺れたりしても、前へ気持ちを戻せるように」
「上も見せぬ」
「全部ではありません。少し遮るだけです」
「耳は」
さすがに早い。
俺が言おうとする前に、皇甫爺の方から来た。
「耳を怖がる馬もいる。音で跳ねる馬もいる」
「はい。耳を布で覆います。覆面のようにして、耳だけ袋を付ける。音を消すというより、急な風や虫や、耳に触れるものを減らす感じです」
皇甫爺は、そこでようやく大きく息を吐いた。
「若」
「はい」
「馬の顔を、布と革だらけにする気か」
たしかに、そう聞くとひどい。
俺は少し困った。
「全部同時ではありません」
「当たり前だ」
「馬によって、嫌がるものが違います。足元を気にする馬には鼻の上。横を気にする馬には横の革。上を気にする馬には額の布。音や耳を嫌がる馬には耳袋つきの覆面」
「馬ごとに変える」
「はい」
皇甫爺は、俺の顔をじっと見た。
「若は、馬を隠すのではないな」
「はい」
「怖がるものを、一つずつ減らす気か」
「そうです」
言われて、自分でも腑に落ちた。
そうだ。
俺が考えていたのは、目隠しではない。
馬から世界を奪うことではない。
怖がるものを、少しずつ減らすことだ。
皇甫爺は、しばらく黙っていた。
それから、厩の奥にいる一頭の若馬へ目を向けた。
「試すなら、あれだ」
その馬は、足元を気にする癖があった。
白い石、影、水たまり。
そういうものを見ると、首を上げて、前脚を少し乱す。
まだ乗る段階ではない。
だが、人が引いて歩かせるだけでも、たびたび止まる。
皇甫爺は厩方を呼び、古い布と綿、柔らかい縄を用意させた。
「革はまだ要らぬ。重い。硬い。嫌えば終わる」
「はい」
「まず軽く、柔らかく、すぐ外せるもの」
「はい」
「若、鼻の上と言ったな」
「目の下に、ふわっと。足元だけ少し見えにくくなるように」
皇甫爺は馬の顔へ近づいた。
いきなり着けない。
布を見せる。
匂いを嗅がせる。
頬に当てる。
すぐ外す。
また当てる。
馬の耳が動く。
鼻が広がる。
だが、暴れない。
何度か繰り返してから、皇甫爺は布を鼻の上へ軽く巻いた。
目は見える。
前も見える。
だが、下の方は布のふくらみで少し遮られる。
「歩かせる」
厩方が手綱を持つ。
俺は少し離れて見た。
若馬は、最初、鼻の上の布を気にして首を振った。
皇甫爺がすぐに止める。
「急ぐな」
厩方が足を止める。
馬も止まる。
また匂いを嗅ぐように鼻を動かす。
少し待ってから、また歩かせる。
白い石の近くへ来た。
いつもなら、ここで首が上がる。
脚が乱れる。
だが、その馬は一瞬耳を動かしただけで、前へ出た。
厩方が小さく息を飲む。
「もう一度」
皇甫爺が言う。
同じ場所を戻る。
今度も、前より乱れない。
完全に治ったわけではない。
首は少し硬い。
耳も忙しい。
だが、足元を見て跳ねる感じは、明らかに薄い。
皇甫爺は、すぐに布を外した。
「今日はここまで」
「もう少し見ないのですか」
俺が訊くと、皇甫爺は俺を見た。
「初めて履く草鞋で、いきなり山を越すか」
「越しません」
「馬も同じ」
またそれだ。
でも、分かりやすい。
皇甫爺は外した布を手に取り、今度は横へ持っていった。
「横の革は、気の強い馬には怒りを買う。臆病な馬には、逃げ道を奪われたと思わせる。作るなら、前を広く見せ、横を少しだけ削る」
「はい」
「上を遮る布は、頭を押さえられると思う馬がいる。軽く、揺れぬように」
「はい」
「耳袋は、暑い時は蒸れる。虫を避けるにはよいが、音が変わればそれも怖がる」
「はい」
俺は頷きながら、必死に覚えた。
やっぱり、皇甫爺がいると違う。
俺の発想は、形だけなら出せる。
だが、馬にどう受け取られるかまでは見えていない。
皇甫爺はそこを見る。
その日の夕方、皇甫爺は厩の外で、俺の作った粗い絵を見ていた。
鼻の上の布。
目の横の革板。
額の幅広い布。
耳袋つきの覆面。
絵は下手だ。
自分でも分かる。
だが、言いたいことは伝わっているはずだ。
皇甫爺はしばらく黙っていた。
「若」
「はい」
「これは、誰にも教わっておらぬな」
少し、喉が詰まった。
まずい。
だが、ここで変に誤魔化すと余計に怪しい。
俺は、言える範囲で答えた。
「馬が怖がるものを見ていたら、そう思いました」
「足元、横、上、耳」
「はい」
「怖がるものを、一つずつ分けた」
「はい」
「それを、布と革で減らす」
「はい」
皇甫爺は、ゆっくりと俺を見る。
その目が、今までと少し違った。
津島では、妙な子ども。
飼い葉を見た時は、面白い若。
坂道の話をした時は、走る前の馬を作りたい子。
だが今は、もう少し深いところを見ている気がした。
「小田井の者どもが、若を神童と呼ぶ」
「……あまり嬉しくはありません」
「そう言っておったな」
「はい」
皇甫爺は、鼻の上の布を指で押した。
「儂は、神童など、たいてい大人が勝手に作る名だと思うておった」
「俺もそう思います」
「だが」
皇甫爺は、そこでにやりとは笑わなかった。
珍しく、真面目な顔だった。
「これは、少し違う」
胸の奥が、変に落ち着かなくなる。
「違う、とは」
「馬をよく見る大人でも、怖がるものを減らす道具までは、すぐには考えぬ。手綱を変える。鞍を変える。人を変える。馬を叱る。疲れさせる。その辺で止まる」
「……」
「若は、馬の目に入るものを変えようとした」
皇甫爺は、俺の絵に視線を落とす。
「しかも、全部隠すのではない。余計なところだけ削る。これは、馬を見ぬ者の考えではない」
俺は黙った。
褒められている。
たぶん、褒められている。
でも、素直に喜べない。
なぜなら、この発想は俺だけのものではないからだ。
前世で見た競馬の道具。
名は知っている。
意味も少しは知っている。
ただ、それをこの時代の布と革に落としただけだ。
それでも、皇甫爺にはそう見えるのだろう。
皇甫爺は、俺を見て、低く言った。
「神童というのは、本当かもしれんな」
俺は思わず顔をしかめた。
「やめてください」
「嫌か」
「嫌です」
「なら、なお言いたくなる」
「皇甫爺は性格が悪い」
「人を見る稽古だ」
どんな稽古だ。
俺がむっとしていると、皇甫爺はようやく少し笑った。
だが、その笑いはすぐ消える。
「若」
「はい」
「この道具は、家の外へすぐ出すな」
俺は顔を上げた。
「なぜです」
「効く」
その一言は短かった。
「効くものは、欲しがられる。欲しがられるものは、盗まれる。盗まれぬまでも、真似される」
「……」
「まず小田井の馬で試す。どの馬に効くか、どの馬に悪いか、暑い時はどうか、雨の時はどうか、走る時にずれるか、擦れて傷になるかを見る」
「はい」
「形だけ広がれば、馬を苦しめる」
それは、胸に刺さった。
たしかにそうだ。
鼻の上に布を巻けばいい。
目の横に革を付ければいい。
耳を覆えばいい。
それだけ真似されたら、馬が嫌がっても押しつける者が出るかもしれない。
「分かりました。まず、ここで試します」
「父にも言え」
「はい」
「若の思いつきは面白い。だが、面白いものほど、止める者が要る」
父上と同じことを言う。
いや、たぶん本当にそうなのだ。
俺は頷いた。
「皇甫爺」
「何だ」
「止めてください」
皇甫爺は片眉を上げた。
「儂がか」
「はい。俺が馬を見ずに道具だけを見たら、止めてください」
皇甫爺は、しばらく俺を見ていた。
それから、少しだけ口元を上げる。
「よかろう。若が馬を見なくなったら、耳を引っ張る」
「俺の耳を?」
「他に誰の耳を引く」
「それは困ります」
「なら、馬を見よ」
俺は小さく息を吐いた。
「はい」
厩の中で、さっきの若馬が鼻を鳴らした。
耳がこちらへ向き、すぐに戻る。
目は落ち着いている。
足も乱れていない。
俺はその耳を見た。
目を見た。
足を見た。
それから、鼻の上に置かれた布を見た。
ただの布だ。
まだ道具とも呼べない。
それでも、さっき一度だけ、馬の怖がるものを減らした。
そこから始まるのだと思った。
飼い葉だけではない。
坂道だけでもない。
馬の目に入るもの、耳に入るもの、人の手の当たり方、全部を少しずつ変えていく。
皇甫爺が横にいる。
父上が止める。
厩方が見る。
俺は考える。
それでようやく、試すことができる。
小田井の神童などという呼び名は、今でも嫌だ。
だが、皇甫爺がそれを少しだけ認めたという事実は、嬉しいというより、重かった。
神童と呼ばれるなら、なおさら失敗できない。
いや、違う。
失敗はする。
たぶん、必ずする。
だからこそ、小さく試す。
馬をよく見る。
駄目なら戻す。
それだけは、忘れてはいけないと思った。