織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

40 / 68
040治部家再始動

田代城へ、二つの風がほとんど時を違えずに入った。

 

一つは兵法。

一つは影。

 

先に着いたのは、疋田豊五郎だった。

 

柳生石舟斎の添え状と、具教卿の一筆を帯びて来たその男は、思っていたよりも飾り気がない。だが、飾り気がないからこそ、立っただけで分かる。剣を人に見せる側の身体だ。肩に余計な力がなく、視線は低くも高くもない。こちらを見ているようで、もっと広いところを見ている。

 

そして、ほぼ同時に入ってきたのが藤林長門守だった。

 

こちらは逆だ。

立ち居振る舞いに隙はない。だが、それをわざと消しているのが分かる。兵法者のように前へ立つ男ではない。見られても記憶に残りにくいよう、長年自分を削ってきた類の者だ。

 

信繁は、その二人を同じ日に迎えた。

 

城の中は、朝から落ち着かぬ。

お市も真理姫も雪姫も、今日はさすがに奥向きから様子を窺っている。日置大膳亮は、弓場のことだけを考えているような顔をしながら、明らかにこちらの空気を聞いていた。慶次郎は朝から妙に浮き足立ち、助右衛門は助右衛門で、こんな日に限ってやけにきちんとした顔をしている。十兵衛と半兵衛だけが、ようやく役者が揃ったかという目をしていた。

 

まずは評定の座に、藤林長門守が通された。

 

ここで露骨に軽く扱えば、それだけで来た意味がなくなる。

信繁は最初から決めていた。藤林をただの雇われ忍び頭として置く気はない。田代の内を見、越前へ小組を放ち、草を嗅ぎ分ける役を負わせるなら、立場もそれに見合うものにする。

 

だから座も、末席ではない。

家中の並びの中で、少なくとも“ただの裏働き”の場所には置かない。

 

藤林長門守は、その座へ案内された時点で、さすがに一瞬だけ目を動かした。

 

「……治部殿」

 

低い声だった。

 

「何でしょう」と信繁。

 

「我らのような草働きの者に、このような待遇を」

 

その言い方には、感激より先に当惑があった。

無理もない。忍びの者というのは、大抵の家では便利に使われる。金は払う。役目も与える。だが、評定の座に副家老格で並べるなど、そうそうあることではない。

 

信繁は、そこへ即座に返した。

 

「いや」

少し首を振る。

「戦でも政でも、外交でも何でも、大事なのは新しい、しかも違わぬ情報だ」

 

座の者たちが静かになる。

 

「その情報を仕入れてきてくれるのは、忍びの者たちだ。武辺は見える。政も表に出る。だが、見えぬところで誰が何を言い、どこで何が動いているか、それが分からねば、どれだけ兵があっても勝ち切れぬ」

藤林長門守は黙って聞いている。

「しかも、長年にわたり、名も知られず、褒められもせず、ろくに葬って貰えず任地で消える者も多いだろう」

 

「……」

「なら、せめてお主を通して、その者たちに報いたい」

 

それは綺麗事ではない。

信繁は本気でそう思っていた。忍びを使うなら、使い潰すのではなく、生きて働いてもらう方が良い。熟練の目と耳は、それだけで城一つに値する。

 

藤林長門守の喉が、目に見えて動いた。

 

「……ふぉおおおおおお」

 

座の空気が一瞬だけ揺らぐ。

 

慶次郎が危うく吹きそうになり、助右衛門が真顔で目を伏せた。十兵衛は表情を変えず、半兵衛だけが露骨に面白そうだった。左近将監は武士としての惻隠の情で目を逸らしている。

 

信繁は、そこで少し苦笑した。

 

「いや、本当に」

「は、はあ」

「熟練の忍びなど、育てるのも、育つのも大変だろう。だから基本的に“命大事に”で頼む」

 

それを聞いた藤林長門守は、今度こそ本気で顔を押さえた。

 

「うわぁあああああ……」

「泣くな」

「泣いてはおりませぬ!」

「泣いてるだろう」

「これは、これはその、長年、こう、胸に溜めておったものが」

 

左近将監が横で低く言った。

 

「長門守殿、まずは落ち着かれよ。まだ治部殿は、越前やら三河やら近江やら、あれこれ細かく申し付ける前にございます」

「やめてくだされ! 今、そのようなことを平然と!」

 

座にわずかな笑いが落ちる。

 

だが笑いの裏で、家中の者たちも理解した。

藤林長門守は、ただの雇われ者ではない。この座へ入った時点で、治部家は“影”を家の内へ正式に組み込んだのだと。

 

その藤林長門守が引いたあと、今度は疋田豊五郎が通された。

 

こちらは評定の座というより、迎えの場だ。

兵法者にまず見せるべきは、座次の理ではなく、この城がどれほど本気で学ぶ気かである。

 

信繁は自ら一歩進んだ。

 

「さて、疋田豊五郎殿」

豊五郎は軽く会釈した。

「よくぞおいで下された。田代城、我が織田家治部大輔家臣団一同、貴殿を歓迎いたす」

 

豊五郎は周りを見た。

武辺の者もいれば、奥向きに近い気配もある。日置大膳亮まで今日はきちんと席にいる。しかも、ただ若い男どもへ剣を教えよという空気ではないことくらい、あの男にはすぐ分かったのだろう。

 

「剣をお教えするのは」

豊五郎が静かに言った。

「女性にございますか」

 

その一言に、場が少しだけ止まった。

 

信繁の胸の中で、一瞬だけ妙なことが走る。

 

――あれ。

――石舟斎殿、そこまで話が通っておらぬのか。

――いや、通っていても、まず確かめるか。

――それとも、兵法者として本気で問うておるのか。

 

一瞬でそこまで回る。

だが顔には出さない。

 

「いかにも」と信繁は答えた。

「北畠家の雪姫様にございます」

 

豊五郎の眉がごくわずかに動く。

嫌がったわけではない。だが、軽い遊び事ではないと確かめた目だった。

 

信繁は続ける。

 

「ただし、それだけではござらぬ」

「ほう」

「雪姫様の剣術修練が表の始まりではある。だが同時に、我ら一同にも、どうかご指南を願いたい。若年衆も、近習も、足軽たちもだ」

 

豊五郎はそこで、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 

「なるほど」

「女子だからといって、戯れに刀を持たせるつもりはない。男子だからといって、ただ数だけ揃えればよいとも思わぬ。この城で学ぶ者には、皆それぞれに訳がある」

 

日置大膳亮が、そこで低く頷いた。

 

「左様。雪姫様も、ただ珍しがって剣を望まれたのではありませぬ」

 

豊五郎の目が、少しだけ和らいだ。

 

「では、姫を見てから決めましょう」

 

「それがよい」と信繁。

「見て頂ければ、こちらの願いが軽くないことは分かって頂けるかと」

 

豊五郎は短く頷いた。

 

「承知いたした」

 

そこで慶次郎が、待ちきれぬ顔で前へ出かけたのを助右衛門が肘で止めた。

 

「まだだ」

「え、でも疋田豊五郎殿だぞ」

「だからまだだ」

 

十兵衛が静かに言う。

 

「まずは雪姫様、その次に城中の若い者、それから足軽。順はある」

 

半兵衛が、そこで豊五郎を見ながら少し笑った。

 

「治部殿」

「何だ」

「今日一日で、この城はまただいぶ妙なものになりましたな」

「今さらだ」

「表に疋田豊五郎殿、影に藤林長門守殿。しかも一方は雪姫様の剣、もう一方は評定に副家老格」

「だから何だ」

「いえ。もうこの城、普通には戻りませぬなと」

 

それには、信繁も少しだけ笑った。

 

「戻る気もない」

 

豊五郎は、そのやり取りを聞いていたが、余計な口は挟まなかった。

ただ、わずかに口元を動かした。たぶん、この城の空気を測っているのだ。剣を教える相手が姫だと聞いて身構えた。だが、その姫だけではなく、家中まるごと鍛える気だと分かり、さらに影の者まで評定へ並べるのを見た。普通の城ではない。だが、だからこそ面白い、そういう目に少しだけ変わった。

 

その日の夕刻、田代城の空気は明らかに変わっていた。

 

藤林長門守は、まだ半ば当惑したままだった。

だがその当惑の裏には、たしかな熱もある。今まで草働きとして消えていった者たちにまで報いたい、と面と向かって言われたのだ。あれで動かぬ男ではない。

 

疋田豊五郎は、まだ静かだった。

だが、あの静けさは拒絶のそれではない。剣を教える相手と、この城そのものを見てから、本気を出すかどうかを決める男の静けさだ。

 

そして信繁は、その二人を迎え入れたことで、ようやく自分の城がもう一段変わったのを感じていた。

 

剣。

弓。

影。

表の警固。

奥向きの姫たち。

若い足軽ども。

その全部が、同じ田代城の中で、少しずつ同じ方向を向き始めている。

 

厄介だ。

だが、悪くない。

 

そう思えた。

 

 

柳生の里より、二十騎ほどの一団が田代城へ入った日、城の空気は朝から妙にそわそわしていた。

 

疋田豊五郎が来てまだ日も浅い。

藤林長門守は評定へ顔を出し始め、表では何食わぬ顔で座っていながら、いつの間にか城の出入りや裏木戸の見張りの癖まで把握している。日置大膳亮は日置大膳亮で、弓場を半ば我が物のように使い始めた。そこへ今度は柳生の者が二十。

 

どう考えても、もう普通の城ではない。

 

「治部殿」

十兵衛が、朝から妙に整った声で言った。

「柳生の衆、間もなく門をくぐります」

 

「うむ」

「慶次郎殿が、もう三度ほど外へ出ようとして助右衛門殿に止められております」

「放っておくと本当に一番前に出るからな」

「はい」

「止めておけ」

「すでに」

 

さすが抜かりがない。

 

門前へ出ると、一団はもう視界に入っていた。

人数は二十。多すぎぬ。だが、少なすぎもしない。これくらいが一番厄介だ。目立たぬようでいて、まとめて動けば一つの色になる。しかも柳生の里から来たと聞けば、ただの郷士や野伏とは違う。皆、立ち方にどこか揃った癖がある。

 

剣士だ。

だが、剣だけでもない。

 

「柳生といえば影の軍団……いや、あれは服部半蔵の方か」

 

ぼそりと出た独り言に、半兵衛がすぐ反応した。

 

「何か申されましたか」

「いや、何でもない。とにかくあれだ。柳生一族の陰謀というやつだ」

「ろくでもない響きにございますな」

「褒め言葉だ」

「褒めておられますか、それは」

「半分は」

 

半兵衛が、またそれですか、という顔をした。

 

一団の先頭にいたのは、年嵩の者ではない。

むしろ、目つきの妙に鋭い男が一歩前へ出て、まずきちんと名乗った。柳生義仙。噂に違わぬ、剣も立ち、しかもただ真っ直ぐ立つだけでは終わらぬ顔つきである。

 

「柳生の義仙にございます」

 

「よう来て下さった」と俺は言った。

「田代城、ならびに織田家治部大輔家中、一同歓迎いたす」

 

義仙は、こちらをひととおり見たあとで、少しだけ口元を動かした。

 

「剣の御指南だけにございますか」

 

「剣が主だ」

そこで少しだけ声を落とす。

「だが、夜道の歩き方も、足音の消し方も、館への目立たぬ入り方も、知っておる者は知っておるのだろう」

 

義仙の目が、ほんの少しだけ細くなる。

 

「柳生をよくご存じで」

「いや、よくは知らぬ。ただ、剣が立つ者は、大抵それ以外のことも少しは出来るものだ」

「少し、で済めばよいのですが」

「そこは追々見せてもらおう」

 

義仙は、それでようやく少しだけ楽しそうな顔になった。

 

つまり、柳生の衆を迎えるにあたって、こちらもただの兵法指南役として並べるつもりはないと伝わったのだろう。剣が主、忍び働きは従。だが従だからといって無視はしない。そのくらいの受け方が一番ちょうどよい。

 

門をくぐらせながら、俺はふと思った。

 

一つで二つ得なやつらだな。

いや、得とか言うと十兵衛に怒られるな。だが本当にそうなのだから仕方がない。

 

「治部様」

助右衛門が、少し離れたところから言う。

「慶次郎が今にも飛び出しそうです」

 

見ると、慶次郎が本当にうずうずしている。

新しい剣客が二十人も来たのだ。あいつが我慢できるはずもない。

 

「慶次郎」

「おう!」

「邪魔をするな」

「してねえ!」

「まだ何も始まってないだろうが」

「でも疋田豊五郎殿と柳生の衆だぞ!」

「だからだ。お前は少し黙って見てろ」

「見てるだけかぁ……」

「見てるだけだ」

 

そこへ助右衛門が、すかさず止めを刺す。

 

「慶次は、まず今日一日は声を出さぬことから始めるべきだ」

「ひどくね?」

 

「もっともにございます」と十兵衛。

 

「全員敵か!」

 

敵ではない。

だが全員、お前が一番危ないと思っているだけである。

 

その頃、疋田豊五郎はもう弓場寄りの一角へ出ていた。

 

新しく来る柳生の衆を見る前に、まず今の田代をどう見るか。あの男はたぶん、そこから始める。だから雪姫、お市、真理姫――この三人を、今日は少し早めに見せる手筈にしていた。

 

予想通りだった。

 

豊五郎は、雪姫の立ち姿をひと目見て、まず足を止めた。

次にお市。

それから真理姫。

 

そして、あからさまではないが、はっきりと目が変わった。

 

「……ほう」

 

それだけだった。

だが、それで十分だった。

 

「体力や筋力は、女子にしては強い」

豊五郎の声は低い。だが、事情を聞いて驚きの声をあげた。

「え? 肉を食い、鶏卵を食い、牛の乳を飲んで、よく寝ておるからこうなった?」

 

日置大膳亮が、そこで平然と頷く。

 

「左様にございます」

 

豊五郎は無言になった。

 

さらにお市と真理を見て、もう一度目を動かす。

 

「……ほかのお二人も、とても大名家の奥方とは思えぬ」

 

お市が少しだけ笑う。

 

「悪しゅうございましたか」

 

「いや、そうではない」

豊五郎は首を振った。

「剣を教える側からすれば、これほどありがたいこともない」

 

そこで真理が軽く一礼する。

 

「私は武田から参りました」

 

その一言で、豊五郎の眉がほんの少しだけ動いた。

 

「武田の姫、か」

声の端に、ごく薄い棘があった。

「……うちの殿の仇敵にございますな」

 

その場が少しだけ静かになる。

 

だが豊五郎はすぐ続けた。

 

「もっとも、私情は持ち込みませぬ」

 

真理は、そこを正面から受けて頷いた。

 

「お願いいたします」

 

その受け方がよかったのだろう。豊五郎の目が少し和らぐ。

 

そして今度は、お市の馬の乗り方を見て、ほんの小さく息を漏らした。

 

「うわ、馬術も相当にお出来になるのか」

 

日置大膳亮が横で言う。

 

「真理姫殿に鍛えられております」

「なるほどな」

 

真理姫の騎乗術に目玉が飛び出そうなぐらい驚いたのはこのあとだった。

上泉伊勢守信綱とともに戦場を駆け巡り、武田信玄相手に兜割りをしまくった剛の者ではあるが、それだけに真理姫の馬術には感心を通り越したものを感じているようだ。

 

豊五郎は、そこでようやく本格的にやる気になった顔をした。

 

つまり、雪姫ひとりに少し型を教えて終わり、のつもりではいられなくなったのだ。

目の前にいるのは、剣も弓も馬も、しかも本気で学ぶ気のある女たちである。これなら、剣を教える方も本気でやらねば面白くない。

もっとも、懐妊が判明したお市は、身体に障らぬ程度に、ではあるが。

 

「治部殿」

 

豊五郎がこちらへ言う。

 

「はい」

「これは少し、鍛え甲斐がありそうにございます」

「それは何よりだ」

「ただし」

「何でしょう」

「女子だからといって手加減はいたしませぬ」

 

雪姫が、そこで真っ直ぐに答える。

 

「望むところです」

 

お市も静かに頷く。

 

「ええ」

 

真理もまた、目を逸らさなかった。

 

その三人を見た豊五郎が、今度こそ本当に小さく笑う。

ようやく腹が決まったのだろう。

 

「では、柳生の者どももまとめて、少し鍛え直しますか」

 

義仙が後ろから言う。

 

「我らまでですか」

 

「当たり前だ」

豊五郎は振り返らずに言った。

「ここはもう、姫にだけ少し剣を見せて帰るような城ではない」

 

義仙が、それには少しだけ口元を上げた。

 

「承知いたした」

 

つまり、柳生の二十人も、これで全員まとめて疋田豊五郎の下でしごかれることが決まったわけである。

 

「はい、そこの慶次郎」

 

俺は振り返った。

 

「な、なんだよ」

「お前は疋田豊五郎殿の邪魔をするな」

「してねえ!」

「今からする顔だ」

「なんで分かるんだよ」

「分かる」

「ひどい」

「お前はしばらく瀬戸へでも行って、新しい茶器でも考えてこい」

「なんでだよ!」

「茶器の方がまだ平和だ」

 

助右衛門が、しみじみと言う。

 

「まことに」

 

慶次郎が本気で不満そうな顔をする。

だが、その横で半兵衛がぽつりと言った。

 

「そういえば、古田織部殿の御父君、勘阿弥殿が先日こちらへお顔を見せておられましたな」

 

俺が瞬く。

 

「……いたな」

「茶道の方も、いずれ整えねばなりませぬ」

「剣、弓、忍び、茶か」

「だいぶ治部家らしいかと」

「らしいのか、それ」

「妙に、です」

 

そこへさらに、門前の者が駆け込んできた。

 

「治部様!」

「何だ」

「堺より、津田殿の使者にございます!」

 

今度は何だと思って受けると、使いの者は息を整えてから言った。

 

「残火をお売り願いたい、と」

 

俺は思わず天を仰いだ。

 

「それは稲葉山へ行ってくれ」

「左様に申してよろしゅうございますか」

「よい」

「残火は」

「残火は上総介兄上のところだ。こっちは今、疋田豊五郎殿と柳生の衆と藤林長門守で手一杯だ」

「承知!」

 

使いが飛んでいく。

 

豊五郎が、その様子を見て少しだけ言った。

 

「治部殿」

「何でしょう」

「この城、ずいぶん忙しいですな」

 

俺は苦笑した。

 

「ええ。最近は特に」

「ですが」

 

豊五郎は雪姫たちを見、柳生の衆を見、少し離れたところでまだ感激の余韻を引きずっている藤林長門守まで見て、最後にこちらへ目を戻した。

 

「退屈はせぬでしょうな」

「それだけは保証いたす」

 

そう答えると、豊五郎はごく小さく頷いた。

 

その日の田代城は、まさに新しいものが一気に流れ込んだ日だった。

 

柳生の二十人。

疋田豊五郎。

藤林長門守。

弓場には日置大膳亮。

奥にはお市、真理、雪姫。

表には慶次郎と助右衛門がいて、十兵衛と半兵衛がその全部を淡々と回している。

 

もう、誰がどう見ても普通の城ではない。

 

だが、これだけ人と技と影が揃えば、田代城はもう一段強くなる。

剣の城。

弓の城。

影のある城。

そして、妙に人の心までややこしく抱え込む城。

 

厄介だ。

だが、その厄介さごと育てると決めた以上、あとは前へ進めばよいだけだった。

 

 

評定の間へ通される直前、藤林長門守は本気で足を止めた。

 

廊の先に見える空気が、もう違う。

ただ治部家の内輪で話す時の重さではない。人の出入りも、控えている近習の気配も、座の張り方も、全部が「今日は大きい」と告げている。

 

「……左近将監殿」

長門守が、珍しく本音の声を漏らした。

 

「何でござるかな」

左近将監は、いかにも分かっていて知らぬ顔をしている。

「はて?」

 

長門守は目を瞬いた。

 

「はて、では済みませぬぞ」

「何がにございます」

 

「何が、ではありませぬ!」

長門守は、さすがに声を潜めつつも慌てていた。

「織田家の家老職の方々が座におられる気配ではござらぬか」

 

「おられますな」

 

「“おられますな”ではない!」

長門守は思わず左右を見た。

「しかも、あの座の上、どう見ても織田上総介様と勘十郎様まで同席なさる形ではござらぬか!」

 

「左様にございます」

「聞いておりませんぞ殿ぉ!」

 

その最後だけは、だいぶ情けなかった。

 

案内役の若い近習が、危うく吹きそうになるのを必死に堪えている。

左近将監だけが平然としていた。

 

「長門守殿」

「何でござる」

「落ち着かれよ」

 

「落ち着けるか!」

長門守は本気で困った顔になった。

「某は、たしかに副家老格などという身に余る遇し方を頂いた。評定にも出よと申された。そこまでは、まあ、まだ良い。いや、良くはないが、ありがたい。ありがたいが!」

 

そこで一度息を継ぐ。

 

「いきなり織田上総介様ご本人と勘十郎様の前で、六角家の内情を申せ、と!?」

「左様にございますな」

「だから、その“左様にございますな”をやめて頂きたい!」

 

廊に低い声が響く。

 

長門守は額を押さえた。

 

「我らのような草働きの者は、見る、聞く、忍ぶは得手にござる。だが、あのような表の大身の方々の前で、筋立てて申せと言われると、別の汗が出る!」

「それは、人前の汗にございますか。それとも命の汗にございますか」

「どちらもだ!」

 

そこへ、後ろから半兵衛がすっと現れた。

 

「長門守殿」

「ぬわっ」

「大丈夫です。治部殿が最初に妙な間を埋めます」

「それはそれで不安なのだが!?」

 

半兵衛は真顔で頷いた。

 

「もっともでございます」

「もっともだと思うなら何とかして下され!」

 

そこへ十兵衛まで現れる。

 

「長門守殿」

「今度は何でござる」

「上総介様も勘十郎様も、草働きの者だからと侮るような御方ではございませぬ」

 

「それは分かる」

長門守は即答した。

「分かるからこそ怖いのだ!」

 

十兵衛が、珍しく少しだけ口元を和らげた。

 

「では、侮られぬように申せばよろしい」

「簡単に申される!」

「実際、長門守殿が持ってきた話は、南近江の盤面そのものを動かすに足るものです」

「うむ……」

 

そこを言われると、長門守も少しだけ息を整えた。

 

たしかにそうなのだ。

六角四郎義高の失点。

義賢との不和。

家中の軋み。

観音寺騒動。

どれも、ただの噂として持ち込んだわけではない。攻め時を量るための、生きた情報だ。

 

「……つまり」

長門守は、少しだけ背を伸ばした。

「今の某は、忍びの頭というより、南近江の今を運んで来た者として座へ出るべき、と」

 

「左様にございます」と十兵衛。

 

「最初からそう申しておるではござらぬか」と左近将監。

 

「最初からもっと分かりやすく言って下され!」

 

長門守は本気でそう返したが、さっきまでよりは声が落ち着いていた。

 

半兵衛が、そこで最後の一押しをする。

 

「それに」

「何でござる」

「治部殿は長門守殿を、ただの忍び頭としてではなく、名も知られず消えていく者たちに報いる窓口として座へ上げたのでしょう」

 

長門守の顔が、そこで少しだけ引き締まった。

 

その言葉は効く。

あまりに効く。

 

「……それを今言うか」

「今が一番効くかと」

 

「うぬぬ……」

長門守は、とうとう一度深く息を吸った。

「分かった」

 

「はい」

「出る」

「はい」

「だが、終わったら酒を頂きたい」

 

左近将監が低く言う。

 

「それは治部殿へ申されよ」

「申す! 必ず申す!」

 

そこへ、障子の内から声が掛かった。

 

「藤林長門守殿、御入来」

 

もう逃げ場はない。

 

長門守は、最後に小さく呟いた。

 

「……伊賀の山で潜んでおる方が、まだ気が楽であったわ」

 

「それは違いませぬ」と半兵衛。

 

「違いませぬな」と十兵衛。

 

「今さら引き返せませぬぞ」と左近将監。

 

「分かっておる!」

 

そうして藤林長門守は、とうとう評定の座へ入った。

 

中には、織田上総介信長。

その下座に勘十郎信勝。

そして家老職の者たちも含めた有力武将たち。

 

本当に全員いた。

 

長門守は、一瞬だけ本気で胃のあたりが縮むのを感じた。

だが、ここで膝を震わせるために田代へ来たのではない。見たもの、聞いたもの、生きた情報を持ってきたからこそ、この座へ呼ばれたのだ。

 

そう思い直して、深く頭を下げる。

 

「藤林長門守にございます」

 

信長が、短く言った。

 

「うむ。面を上げよ」

 

その声は鋭い。

だが、草働きの者だからと値踏みする声ではなかった。

 

長門守は、そこでようやく分かった。

 

ああ、これはたしかに怖い。

だが同時に、ここまでの座へ自分を上げた治部大輔の気持ちも、少しだけ腹へ落ちる。

 

ならば、申すしかない。

 

南近江が今、どう崩れているか。

六角義治がどれほどどうしようもないか。

そして、どこを押さえれば城門が内から開くか。

 

そういう話を、伊賀の長門守が、織田上総介の前で語る。

それ自体がもう、少し前なら考えもせぬことだった。

 

 

信繁は、座へ入ってきた藤林長門守の顔を見た瞬間に、半ば悟った。

 

――忍びのくせに、情報戦で負けてどうする。

 

もちろん顔には出さない。

出さないが、この男、廊の外でだいぶ余計な汗をかいた顔をしている。こちらがわざわざ副家老格で座へ上げたのだ。ここで縮こまられても困る。

 

信繁は、わざと少し明るめの声を出した。

 

「では、評定を始め申す」

 

座の空気がすっと締まる。

上座には信長と信勝。家老職の面々も揃っている。田代城の内での評定とは、やはり張りが違う。

 

「この者、伊賀の藤林長門守と申しまして、近頃某が召し抱えたる者にござる」

長門守が深く頭を下げる。

「先日まで近江六角家に縁あって仕えておりましたが、その六角家、どうやらそろそろ瓦解を始めておる模様」

 

信長が、そこでわずかに目を細めた。

 

「ほう」

 

信繁は、そこでわざと長門守の方へ顔を向けた。

 

「さ、長門守」

 

長門守が一瞬だけ顔を上げる。

 

「ここにおられるお歴々へ、最新の」

 

一拍。

 

「正確な」

 

さらに一拍。

 

「圧倒的すぎる情報をお伝えするのだ」

 

座が、ほんの少しだけ静まった。

 

長門守は、一瞬だけ「その煽り方はやめてほしい」と言いたげな目をしたが、もう逃げ場はない。喉をひとつ鳴らし、姿勢を正す。

 

「……は」

そして、思ったより低く落ち着いた声で口を開いた。

「まず、南近江六角家中にございますが、四郎様への不満、もはや押し隠す気配すらございませぬ」

 

信勝が、すぐ反応する。

 

「そこまでか」

 

「はい」

長門守は頷いた。

「最初の綻びは、定頼公以来の楽市楽座にございます」

 

信長の眉がわずかに動く。

 

「申せ」

「四郎様、お父上のなされたことを御自らの手柄として打ち出したかったのでしょう。されど、町、寺、地侍、農民、誰へどう触れ、何をどう変えるか、その段取りも根回しもないまま、いきなり触れ回りました」

 

座のあちこちで、息を引く気配がある。

 

長門守は続ける。

 

「結果、商人は“誰が既得を削るかも決まらぬうちから何を言う”と反発し、寺は“市の立て方を崩すのか”と騒ぎ、地侍は“問われもせぬまま勝手に境の理を動かすのか”と色めき立ち、農民に至っては“年貢も夫役もそのままに、市だけ軽くなるはずがない”と見透かしました」

 

信繁が、思わず口を挟む。

 

「いや、まあ、そりゃそうなんだろうけど」

少し首を傾げる。

「家臣が段取りを整える前に、自分で言い出したの?」

 

長門守は真顔で答えた。

 

「左様にございます」

 

信繁は、ほんの少しだけ天井を見た。

 

「……アホじゃね?」

 

信長が鼻を鳴らす。

 

「その一言でだいたい済んでおるな」

 

座にごく小さな笑いが落ちる。

だが、長門守はそこへ乗らず、そのまま次へ進んだ。

 

「さらに、越前朝倉家との縁談がほぼ調いかけた折」

 

信勝が身を乗り出す。

 

「うむ」

「四郎様は、姫君の顔を御自分の目で見たいと申されました」

 

信長が低く言う。

 

「嫌な予感しかしないな」

 

「まことに」

長門守も同意した。

「案内もなく屋敷へ押し入り、しかも当の姫君へ無礼を働き、姫君ご自身に小太刀で顔を裂かれた由にございます」

 

信勝が思わず止まる。

 

「……は?」

 

信繁は即座に言った。

 

「バカじゃね?」

 

「はい」と長門守。

「家中でも、おおむねそのような空気にございます」

 

今度は、家老職の何人かまで視線を伏せた。

あまりに酷い。酷いが、作り話にしては酷すぎて、かえって真実味しかない。

 

長門守は、さらに畳みかける。

 

「次に、後藤但馬守親子のことにございます」

 

信長の目が、少しだけ鋭くなる。

 

「そこが本丸か」

「はい。四郎様は、日々当たり前に六角家御一門としての務めを果たされよ、と苦言を呈しておりましたる但馬守親子を密かに除こうとしたようにございます」

「密かに、か」

「はい。されど、密かに事を運ぶ器量もなく、かえって家中へ漏れ、逆に但馬守方の備えを固めさせました」

 

信繁が顔をしかめる。

 

「で、逆襲された?」

「左様。四郎様は家臣たちより観音寺城から押し出される形となりました」

「クソじゃね?」

 

「はい」と長門守。

「そこも、また、おおむねそのような空気にございます」

 

今度は、信長も少し笑った。

 

「南近江の空気がよく見えるな」

 

「恐れながら」

長門守は、そこでわずかに呼吸を整えた。

「そして最後に、大樹の御座所の件にございます」

 

座が改めて静まる。

 

「六角家がかつて御庇護した縁を頼みに、四郎様は将軍家の御座所へ出向かれました」

 

信勝が低く言う。

 

「悪い流れのまま、さらに上へ行ったか」

「はい。しかも、そこでまで礼を違えたようにございます」

 

信長が無言になる。

 

長門守は続けた。

 

「結果、大樹公御自ら怒気を発せられ、四郎様はその場で無礼討ちに討たれたと伝わっております」

 

沈黙。

 

しばらく誰も何も言わなかった。

 

やがて信繁が、ぽつりと漏らす。

 

「……当然じゃね?」

 

長門守は、今度は頷くだけだった。

 

信繁は額へ手をやりたくなるのを堪えながら、少し遠い目で言った。

 

「えーっと、六角四郎って、そこまでどうしようもなかったっけ?」

 

その一言で、座の空気が少しだけ戻る。

 

信長が、ようやく口を開いた。

 

「長門守」

「は」

「いまの話、どこまでが噂で、どこからが確に近い」

 

長門守の目が引き締まる。

ここからは、ただ呆れる話では済まない。戦を決めるための情報の値踏みだ。

 

「楽市楽座の拙速は、ほぼ確かにございます。町場と寺筋、地侍の三方から同じ話が出ております」

「うむ」

「越前縁談の件は、朝倉方から見れば恥でございましょうゆえ、表では濁しまする。されど、近侍筋と女房筋の両方から、かの時期に拵えし傷のことまで一致しております」

 

信勝が頷く。

 

「なら、かなり強い」

「はい。後藤但馬守の件はさらに強うございます。観音寺の周りで動いた者たちが、もう隠しておりませぬ」

「将軍の件は」

 

「これが一番、表では濁りましょう」

長門守は言った。

「されど、六角が御所にてしくじった、との大きな流れは、複数の筋で一致しております。四郎様の名を伏せても、六角家が自ら顔を潰したことは、もはや覆いませぬ」

 

信長は、そこでゆっくり頷いた。

 

「よい」

 

信繁が、すかさず後を取る。

 

「兄上、南近江は今、誰が大将かという以前に、“次は誰につくか”を見ている段かと」

 

「そうだな」と信長。

 

信勝も続ける。

 

「左京大夫の威はまだ残る。だが、四郎の失点で家中の結束は崩れた。観音寺を軸に、もう一度束ね直せるかどうか」

 

信繁は、長門守へ視線を向ける。

 

「長門守。いまの南近江で、こちらへ寝返りうる筋は」

 

長門守は、先ほどまでの当惑が嘘のように、きっぱり答えた。

 

「ございます。しかも一つ二つではございませぬ。ただし、皆、最初の一太刀を待っております」

 

信長の口元が、わずかに動いた。

 

「なるほど」

「誰も六角へ命を賭ける気はありませぬ。だが、誰が先に旗を倒すかはまだ見ておる」

 

信繁が言う。

 

「攻め時は近い、か」

 

信勝が静かに続ける。

 

「ただし、攻めた後を先に決める必要がある」

 

「はい」と信繁。

「浅井との境を愛知川に引き、湖西は切り取り次第、向こうに丹後・丹波、日本海筋へ伸びる目を見せる。そこまで確立してから鶴姫の輿入れ」

 

信長は、そこで初めてはっきりと笑った。

 

「治部」

「はい」

「お前、ちゃんと先を考えておるではないか」

「失礼な」

「普段が妙だからな」

 

長門守は、そのやり取りを聞きながら、ようやく腹の底から思った。

 

――ああ、これは本当に、ただの“草働きの報告”ではないのだな。

 

いま自分が口にした話は、戦の号令になる。

境の引き方になり、浅井の将来図になり、六角を崩す一手になる。そういう座へ、自分はちゃんと通されたのだ。

 

その実感が、今さら遅れて胸に来る。

 

信繁は、そんな長門守の顔を見て、ほんのわずかに口元を上げた。

 

「どうした、長門守」

「は」

「最新で、正確で、圧倒的すぎる情報だったぞ」

 

長門守は、そこで本気で一瞬だけ泣きそうになったが、さすがに評定の座では堪えた。

 

「……恐れ入ります」

 

「では、続きも働いてもらおう」

信繁の声は、もういつもの軽さに戻っている。

「南近江の綻びを、次は内から広げる番だ」

 

長門守は深く頭を下げた。

 

「は」

 

その返事は、廊の外で慌てていた時より、ずっと腹の据わった声になっていた。

 

 

評定の話が一段落したところで、信繁はそのまま終わらせなかった。

 

南近江の綻び。

六角四郎義高の失態。

観音寺の揺らぎ。

どれも大きい。大きいが、それをここまでの形で座へ上げられたのは、結局のところ、名も知られぬ者たちが命を張って拾ってきたからだ。

 

信繁は、そこで座を改めて、上座へ向かって深く頭を下げた。

 

「上総介兄上、勘十郎兄上」

信長と信勝が目を向ける。

「最後に、この者へ、是非とも一言お声を賜りたく存じます」

 

長門守が、そこで少しだけ目を見張った。

まさかその願いが来るとは思っていなかったのだろう。

 

信繁は、頭を下げたまま続けた。

 

「草働きとは、名もなき命の闘争でもございます」

座が静まる。

「この者らが命を懸けて持ち帰るものが、我らの将来を左右し申す」

 

一言ずつ、はっきりと置いていく。

 

「長門守は士分にて召し抱えました。されど、この者ひとりが働くにあらず。この者の下には、幾人もの命がございます。名も残らず、褒められもせず、時にそのまま消える者もございましょう」

 

長門守の喉が動いた。

 

「どうか」

信繁はさらに深く頭を垂れた。

「お願い致します」

 

座の中で、その礼の重さがはっきりと見えた。

 

治部大輔信繁が、ただ新しい手駒を得たからと浮かれているのではない。

本気で、この働きを家の中へ立てようとしている。そのことが、あの一礼で十分すぎるほど伝わった。

 

長門守は、胸の奥を何かが掴んだような気がした。

伊賀の山で人を使う時、上に立つ者は大抵こうは言わない。使う。払う。必要なら惜しむ。そこまでだ。だが、いま目の前の男は、自分を通して、自分の下にいる名もなき者たちへまで頭を下げた。

 

信長が、しばし信繁を見ていた。

 

やがて低く言う。

 

「面を上げよ、治部」

 

信繁がゆっくりと顔を上げる。

 

信長は、今度は長門守へ目を向けた。

 

「藤林長門守」

「はっ」

 

長門守は、反射のように背を正した。

 

「大儀である」

 

その一言は短い。

だが重い。

 

「たしかに、その方らの働きなくば、我らもめくらも同様よ」

 

座の空気が、そこでさらに締まる。

 

信長は続けた。

 

「表で槍を振るう者ばかりが戦をしておるのではない。見えぬところで見、聞き、耐え、持ち帰る者がおるからこそ、打つべき時に打てる」

長門守の背が、さらに伸びる。

「これからの働き、期待しておる」

 

「はっ……!」

 

それだけで、長門守の声はもう少しで裏返りそうだった。

 

信勝もまた、静かに言葉を継いだ。

 

「長門守」

「は」

「治部がその方を評定へ上げた理由、今日の報せでよく分かった」

 

信勝の声はやわらかい。

だが、それだけに真っ直ぐ入る。

 

「そなた一人を買ったのではない。その下で動く者どもまで含めて、この先の戦と政を支える力として見ておる」

 

長門守は、思わず目を伏せた。

 

「ありがたき……」

 

「命を惜しめ」と信勝。

 

「え」

「使い潰されてよい働きではない。よい目と耳は、それだけで城一つに値する。長く働け。下の者どもにもそう伝えよ」

 

そこまで言われて、長門守は本当に言葉を失った。

 

座の中で涙を見せるわけにはいかない。

だが、胸の奥が熱くなるのはどうしようもない。

 

「……ははっ!」

 

絞り出した声は、少し震えていた。

 

信繁が横でそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩める。

よかった、と思った。この男を副家老格で座へ上げたのは間違いではなかった。こうして上からも認められれば、長門守の下で動く者たちの誇りも少しは違ってくる。

 

信長が最後に言った。

 

「治部」

「はい」

「お前の申したこと、悪くない」

「ありがたきことにございます」

「だが」

「はい」

「こういうことは、時に人の胸へ効きすぎる」

 

信繁が少しだけ笑う。

 

「承知しております」

「本当にか」

「半分ほどは」

 

座のあちこちで、わずかに息が漏れた。

さっきまでの重さが、そこで少しだけやわらぐ。

 

信勝が苦笑する。

 

「今の場でそれを言えるのは、やはり治部だな」

「兄上、それは褒めておられますか」

「半分は」

 

今度こそ、座に小さな笑いが落ちた。

 

長門守は、その笑いの中で、ようやく少しだけ力を抜いた。

ただの草働きの頭としてではない。きちんと一つの働きを担う者として、この座に置かれたのだと、今はっきり分かったからだ。

 

その日の評定が終わったあと、廊へ出た長門守は、しばらく本当に言葉が出なかった。

 

左近将監が横へ来る。

 

「どうでござった」

 

長門守は、しばし口をぱくぱくさせたあと、ようやく言った。

 

「……うわぁあああああ」

「泣くな」

「泣いてはおらぬ!」

「泣いておる」

「いや、あれは、その、上総介様と勘十郎様の前で、あのように言われるとは思わなんだ!」

 

左近将監は低く笑った。

 

「治部殿に拾われた時点で、半ばそうなる運命であったのだ」

「運命で済ますな!」

「だが、悪くはなかろう」

 

長門守は、そこでようやく静かになった。

 

悪くはない。

どころではない。

草働きに身を置いてきた者にとって、今日の一言は、たぶん生涯忘れぬ類のものだった。

 

「……ああ」

長門守は、小さく頷いた。

「悪くない」

 

それは、伊賀の山から出てきた男が、ようやく本当に田代城の中へ根を下ろし始めた瞬間でもあった。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。