織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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041他国人の坩堝

田代で人を受け入れるばかりが、治部家の仕事ではない。

 

疋田豊五郎が入り、柳生の者どもが入り、藤林長門守が評定へ座るようになった。

なら次は、集めた目と耳をどこへ伸ばすかである。

 

信繁は、その件をあらためて稲葉山で兄たちへ願い出た。

 

「越前へ、草を忍ばせたく存じます」

 

信長が目を上げる。

 

「見る先は」

 

「三つ」

信繁は指を折った。

「まず、斎藤右兵衛大夫の行方」

 

信勝が頷く。

 

「うむ」

「次に、一乗谷そのものの息づかい」

 

信長が低く言う。

 

「朝倉がまだ余裕を残しておるか、それとも綻びが出始めておるか、だな」

「はい」

 

「最後に」

信繁は少しだけ間を置く。

「敦賀郡司、朝倉九郎左衛門尉」

 

信勝の眉がわずかに動いた。

 

「宗滴公の養子、か」

 

「はい」

信繁は頷く。

「一乗谷を見るだけでは足りませぬ。越前の先、若狭や海の口まで含めて、誰がどこまで目を配っておるか見ねばなりませぬ。九郎左衛門尉のところを押さえれば、朝倉の外向きの息づかいも少しは見えましょう」

 

信長は腕を組んだまま、しばし考えた。

 

「藤林か」

「はい。長門守の下より、小さく幾つか」

 

「深く入りすぎるな」と信長。

「今はまだ“取る”より“測る”だ」

 

「承知しております」

 

信勝が、そこで静かに後を継ぐ。

 

「右兵衛大夫のこともある」

「はい」

「生きておるなら、いずれ誰かが旗に使う」

「だからこそ早う所在の糸を掴みたいのです」

 

信長は、そこで短く頷いた。

 

「よい。許す」

「ありがたき幸せ」

 

「ただし」

信長の声が少しだけ重くなる。

「越前へ目を入れるなら、その前に近江の取り決めを違えるな」

 

「はい」

 

そこが次の本題だった。

 

南近江へ出るなら、浅井との間に線を引かねばならぬ。

愛知川よりこなたは織田。向こうは浅井。そこを曖昧にしたまま兵を進めれば、盟を結んだ意味がなくなる。

 

信勝が言った。

 

「備前守が、それを呑むかだな」

 

「盟を結び、お犬殿を輿入れしてもなお、そこは別でしょう」と信繁。

 

「当然だ」と信長。

 

「婚姻は婚姻。利は利だ」

 

「ですので」と信繁。

「こちらから先に、愛知川の線は違えぬ、と明け透けに申すべきかと」

 

信勝が少しだけ笑う。

 

「それを言ってなお、向こうが乗る器量を持つか試すわけだな」

「はい」

 

「そして鶴姫殿のこともある」と信長。

 

信繁は静かに頷いた。

 

「いまはまだ輿入れを急がせませぬ」

「うむ」

「南近江をどう切るか。湖西をどう見るか。その先に浅井が丹後、丹波、日本海筋へ伸びる道を、こちらがどう認めるか。そこまで形を作ってからでなければ、鶴姫殿はただの婚姻駒になります」

 

信長の目が細くなる。

 

「それを、備前守本人へ言うか」

 

「言うた方がよろしいかと」

信繁は答えた。

「こちらは欲しいところだけ取って、姫君だけは先に、と見せれば、あちらも腹に据えかねるでしょう。ならば最初から、浅井の先も考えていると置いた方がまだましです」

 

信勝が、そこで決めた。

 

「ならば行こう」

 

信繁が兄を見る。

 

「勘十郎兄上」

 

「俺とお前で浅井へ向かう」

信勝の声は静かだった。

「俺一人では“織田本家の意向”に見えすぎる。お前一人では“治部家の利”に見えすぎる。二人でちょうどよい」

 

信長も、それに短く頷く。

 

「そうだな」

 

「備前守へは、愛知川の線は違えぬこと、その代わり南近江ののちに湖西、その先の道筋まで含めて話す」と信勝。

 

「鶴姫殿には」と信繁。

 

「まだ急がぬ」と信長。

「だが、先を考えておることは伝えよ。姫をただ待たせるために置くのでないとな」

 

そこまで決まれば、話は早い。

 

藤林長門守へは、越前へ送る者の選別。

誰を一乗谷へ寄せ、誰を敦賀筋へ回し、誰に龍興の子の影を追わせるか。

それを稲葉山を発つ前に詰めねばならぬ。

 

信繁は、そこで最後にもう一つだけ言った。

 

「兄上」

 

「何だ」と信長。

 

「浅井との話、備前守だけでは足りぬやもしれませぬ」

 

信勝が目を向ける。

 

「鶴姫殿か」

「はい」

「お前は姫へまで腹を見せるつもりか」

 

信繁は少し考えてから答えた。

 

「腹の底まで、ではありませぬ。ですが、姫の去就が話の中にある以上、何も知らされぬまま待たせるのは悪手かと」

 

信長が、そこでほんの少しだけ口元を動かした。

 

「最近、お前は“待たせるな”をよく覚えたな」

 

その一言に、信繁は少しだけ黙った。

 

雪姫。

真理。

そのあたりを経て来た今、その言葉が前より重くなっているのは自分でも分かる。

 

「……耳が痛いことで」

 

「よい」と信長。

「痛いままで覚えておけ」

 

信勝が立ち上がる。

 

「では、用意だ」

「はい」

「越前へは影を伸ばす。近江では線を引く。浅井には、その線の先まで見せる」

「承知しました」

 

その日、治部家では二つの準備が同時に始まった。

 

表では、勘十郎信勝と治部大輔信繁の浅井行き。

裏では、藤林長門守の手で、越前へ散る小さな影。

 

一つは堂々と人前を行く道。

一つは、名もなく雪の中へ消える道。

 

だが、どちらも同じ先へ通じている。

近江を押さえ、越前を測り、その先の畿内をどう動かすか。そのための一手として。

 

信繁は、田代へ戻る前に、ふと空を見上げた。

 

愛知川の線。

備前守の器量。

鶴姫の行く末。

竜興の影。

一乗谷の息づかい。

敦賀郡司景紀の目配り。

 

やることは多い。

だが、ようやく盤の上へ必要な駒が揃ってきた気もする。

 

「……忙しいな」

 

ぽつりと出た独り言に、横を歩く信勝が言った。

 

「今さら何を言う」

「ごもっともで」

「それより浅井だ」

「はい」

「備前守がどこまで呑めるか」

「そこが肝ですな」

「そして、お前がどこまで余計なことを言わずに済むかだ」

 

信繁は思わず苦笑した。

 

「それは難題にございます」

 

信勝も、珍しく少しだけ笑った。

 

「知っている」

 

近江へ向かう冬の道は、まだ冷たい。

だが、その冷たさの向こうに、次の大きな動きがもう待っていた。

 

 

小谷城の評定は、最初から空気が重かった。

 

六角が崩れ始めている。

南近江は揺れている。

織田は愛知川の線を違えぬと言ってきた。

その先で湖西をどうするか、さらにその先をどう見るかまで含めて、もう「追って考えよう」では済まぬところまで来ている。

 

備前守長政が上座にある。

重臣たちも並んでいた。

皆それぞれに、南近江の地図を胸に抱えている。どこが欲しい、どこは惜しい、どこを取るべきか。そういう思いが、最初から座に満ちていた。

 

だがその日、いちばん長く、いちばん深く口を開いたのは鶴姫だった。

 

最初は、姫君として一言、心持ちを述べるくらいに思っていた者も多かった。

けれど、鶴姫は一度口を開いてから止まらなかった。

 

「まず申し上げます」

座が静まる。

「織田と近江で張り合うべきかと問われれば、私は否と申します」

 

何人かがそこでわずかに顔を上げた。

いきなりそこから来るか、という空気が走る。だが鶴姫は怯まない。

 

「我らが今すぐ総力を尽くしたところで、兵はせいぜい一万数千にございましょう」

誰も反論しない。

「対して織田は、尾張美濃の兵だけで三万を越えます」

 

静かなざわめきが走る。

 

「徳川もおります。長野工藤家もおります。北畠も今は織田と深く結んでおります。そこからなお二万ほどは出ましょう」

 

そこまで並べられると、座の空気はぐっと現実に戻る。

浅井が勇ましいことを言えばどうにかなる差ではない。

 

鶴姫は続ける。

 

「越前朝倉が加勢すると申しても、いつでも二万を出して下さるのですか」

重臣の一人が目を伏せる。

「出して下さるとして、その兵を率いる者が、こちらに都合よく働く保証がございますか」

 

そこまで言われれば、もう若い姫の物知らずな口とは言えない。

 

「大将一つ違えば、大軍も木偶にございます」

 

長政がそこで初めて、少しだけ目を細めた。

鶴姫は兄のその目を見ても怯まず、そのまま続けた。

 

「確かに南近江は値打ちの高い土地にございます」

声を少し落とす。

「予てより六角と争ってきた地。数十万貫の稲の産地。東海道の要地。琵琶湖畔の商い。誰が見ても惜しい」

 

何人かが、そこでようやく頷いた。

そこを認めるなら、まだ話は聞ける。そういう頷きだ。

 

「ですが」

鶴姫の声がまたはっきりする。

「そもそも浅井は、南近江を当然に治めるべき家とまでは申せませぬ」

 

座がぴたりと静まった。

 

そこは皆、胸のどこかで知っている。

だが、あまり真正面から口にしたくはないところでもある。

 

鶴姫は、そこをあえて踏んだ。

 

「我らは京極の内より起こり、六角と争ってここまで来た家にございます。南近江を取れば見栄えはよろしゅうございましょう。ですが、見栄えと名分は別にございます」

 

年嵩の家臣の一人が、低く息をつく。

痛いところを突いたのだ。

 

「南近江を押さえれば、たしかに領地は増えましょう。ですがその日から、我らは三好とも六角残党とも、真正面で向かい合わねばなりませぬ。京の将軍家や畏きところの御心も安んじ奉らねばなりません」

 

「うむ」と誰かが唸る。

 

「その圧を、我らが正面から受け続けるのですか」

 

誰も答えない。

 

「それとも」

鶴姫が一段強く言う。

「その圧は織田に受けて頂く方が、我らには都合が良いのではありませぬか」

 

ざわめきが走る。

露骨だ。だが、露骨なだけに分かりやすい。

 

「織田は南近江を欲する。では取って頂けばよい」

 

「姫」と家臣の一人が言いかける。

 

「最後まで聞いてください」

 

鶴姫は、その言葉をやわらかく、しかし切った。

 

「そもそも」

そこであらためて座を見渡した。

「先にこちらから盟を求めたのでございます」

 

今度は、先ほどとは別の静けさが落ちた。

 

「六角と争い、近江の中で家を立てるために、我ら浅井が織田へ手を伸ばした」

誰も否定できない。

「それに応じた織田は、相互に婚姻を行うことまで提案されました」

 

長政の目が少しだけ動く。

 

「しかも、先に動いたのは向こうにございます。織田上総介様と同じ正嫡のお犬義姉さまを、ためらいなくこちらへ輿入れされた」

 

そこは軽く扱えない。

織田は口だけでなく、もう実際に身内を出している。

 

「我らは、それに対してまだ同じだけの約を果たしてはおりませぬ」

鶴姫の声は静かだった。

「私自身、家中がどうまとまるか、そのことを案じ、輿入れを急がせぬよう願ったわがままもございます」

 

そこははっきり、自分へ引き寄せて言った。

 

「ですが、事情があるとはいえ、約したものをまだ返しておらぬことに変わりはございませぬ」

「……」

 

「つまり今の浅井は、織田に対して、義をひとつ返しきっておらぬ状態にございます」

その言葉は重かった。

「そのうえで、南近江まで欲するとなれば、どう見えましょう」

 

誰もすぐには答えない。

 

「盟を求めたのはこちら。婚姻を先に果たしたのは向こう。こちらはまだ約を完遂せず、それでいて利の大きい南近江まで求める」

一つずつ置くように言う。

「それでは、浅井の名が軽くなります」

 

長い沈黙が落ちた。

 

「私は、それを避けとうございます」

 

そこまでで、もう鶴姫の論は守りではなくなっていた。

織田に譲るのではない。浅井が浅井として立つために、いま何を取らぬべきかを言っているのだ。

 

「では、どうするか」

鶴姫は、そこで初めて少しだけ息をついた。

「我らが見るべきは、その先にございます」

 

長政が、そこで腕を組んだ。

もうこの時点で、妹を止めるつもりはない顔だった。

 

「織田は愛知川の線を違えぬと言いました」

 

「言うたな」と重臣の一人。

 

「ならば、その言葉を受けましょう」

鶴姫は一つ頷く。

「そのかわり、湖西は切り取り次第との言葉もあった由」

 

今度は座の者たちの視線が、少しずつ変わる。

ただ守りに回る話ではないと見え始めたのだ。

 

「ならば、我らは南を無理に奪い合うより、西と北へ道を伸ばすべきにございます」

「西と北」

 

「はい」

鶴姫は指先で地図をなぞるように言う。

「朽木谷。坂本。その先」

 

「……丹後、丹波か」と老臣が呟く。

 

「はい」

鶴姫は頷いた。

「越前朝倉とも無用に争わず、なお我らが膨らむなら、道はそこにございます」

 

そこから先は、もう姫君の夢物語ではなかった。

 

「日本海へ出られれば、良港を得られましょう」

「うむ」

「良港を得れば、琵琶湖の産物を自らの手で北へ送り出せます。逆に北の物を湖へ落とし、畿内へ流すこともできましょう」

 

家臣たちの顔つきが、少しずつ変わる。

戦の話だけでなく、国の立て方の話に切り替わったからだ。

 

「近江は湖の国にございます」

鶴姫の声は静かだがよく通る。

「ならば湖をただ南へ向けて使うだけでなく、北と西へ繋げてこそではありませぬか。南近江はたしかに甘い果実に見えましょう」

 

そこで一拍置く。

 

「ですが、甘い果実ほど、取った後に虫がつくものです」

座の何人かが、思わず顔を見合わせた。

「三好。六角残党。東海道筋の圧。琵琶湖畔の商いをめぐる摩擦。京の都」

 

一つ一つが重い。

 

「それらを我らが正面から抱え込むより、織田に抱えて頂き、その間に我らは西へ活路を求める」

「……」

「その方が、浅井は浅井として立てましょう」

 

そこまで言い切られると、軽々しい反論はしにくい。

 

長政が、ここでようやく口を開いた。

 

「鶴」

「はい」

「お前は、南近江が惜しくないのか」

 

鶴姫は、少しも逃げずに答えた。

 

「惜しゅうございます」

 

その返事に、何人かが少しだけ安堵する。

惜しくない、では話にならない。惜しいと知った上で捨てるからこそ重い。

 

「惜しゅうございます。ですが、惜しいからといって、取ってよいとは限りませぬ」

長政は黙って聞いている。

「南近江を我らが取れば、浅井はその日からずっと南を睨む家になります」

 

「……」

「それよりも、西と北を見られる家になった方が、私は浅井の先は広いと思います」

 

その一言は深く落ちた。

 

長政だけでなく、重臣たちにもだ。

これが単なる「織田に譲りましょう」ではなく、「その代わり浅井はどこへ伸びるか」を示しているからだ。

 

しばらく、長い沈黙が落ちる。

 

やがて年寄りの一人が言った。

 

「姫は、織田を信用なさるか」

 

鶴姫はすぐ答えた。

 

「信用し切ってはおりませぬ」

座がざわつく。

「ですが、信用し切らぬからこそ、こちらに利のある形で結ぶべきにございます」

 

そこは長政も小さく頷いた。

 

「なるほどな」

 

「愛知川の線を違えぬ、と口にしたのは向こうです」

鶴姫は言う。

「ならば、その言葉を受けましょう。そのかわり、湖西の先と、日本海筋への道について、あとで知らぬとは申させぬようにする」

 

「言質を取る、か」

「はい」

「婚姻を急がぬのも、そのためと」

「はい」

 

鶴姫はそこで、ようやく少しだけ息をついた。

 

「私は、ただ輿入れして終わるつもりはございませぬ」

その一言で、また座が静まる。

「浅井の先がどこにあるか、その見通しもないまま、ただ正室腹の姫を送るのでは軽うございます」

 

長政が、そこでとうとう少し笑った。

 

「お前、自分のことだろうに、本当に容赦がないな」

 

鶴姫は兄を見る。

 

「兄上も、同じことをお考えではございませぬか」

 

長政は、すぐには答えなかった。

だが、その沈黙が答えに近かった。

 

やがて備前守長政は、座を見渡して言った。

 

「聞いた通りだ」

静かな声だった。

「南近江は惜しい。だが、惜しいからといって、浅井がそこへ飛びつくのが上策とも限らぬ」

 

「……」

 

「愛知川の線は受ける」

座がざわめく。

「そのかわり、湖西、その先の道については、今後の取り決めを違えさせぬ」

 

「はっ」

「鶴の輿入れも、そこがただの口約束で終わらぬと見てからだ」

 

そこまで言われれば、大勢は決した。

 

評定を終えたあと、家中の者たちの目は少し変わっていた。

鶴姫を、ただの輿入れ待ちの姫としては見なくなっていた。

 

南近江を惜しみつつ、それでもそこへ飛びつかず、浅井の先を西と北へ開く。

しかも、浅井が南近江を当然に治める名分に欠けること、さらには織田へまだ義を返し切っていないことまで、自分の口で出した。

 

そこまで言えるなら、もう姫ではなく、国の先を語る者だった。

 

後にこの日の評定を振り返る者は、たぶんこう言うだろう。

 

浅井家の評定にて、鶴姫、一人にて論陣を張る、と。

 

そしてその日を境に、鶴姫は本当に、家中で一段違う目で見られるようになった。

 

 

南近江がわずか数日のうちに織田の手へ落ちたあと、田代城ではすぐに論功行賞の支度が始まった。

 

首数。

一番乗り。

二番乗り。

城ごとの働き。

誰がどこで誰を支えたか。

 

そうしたものをきちんと拾い上げるのは、勝った後の務めである。

だがその日の治部家では、いつもと少し違う熱があった。

 

信繁が、南近江出陣の前に関兼貞を訪ねたのは、ただ礼を通すためだけではなかった。

 

実はあの時、もう一つ頼みを置いていたのだ。

 

槍を、二本。

 

一本は、常の兵なら両手でも持てぬほどの大身槍。

柄は黒く塗られ、その内には鋼まで通してある。見た目の重さだけではない。持てば分かる、叩けば折れぬ、振れば人も馬もたやすく近寄れぬ、そういう槍だ。

 

そしてもう一本は、さらに先を見たものだった。

 

論功行賞の日、田代城の広間には治部家の若侍たちがずらりと並んだ。

 

上座には信繁。

脇には十兵衛と半兵衛。

奥の方にはお市、真理、雪姫もいる。日置大膳亮まで今日は妙に神妙な顔で座っていた。疋田豊五郎は腕を組み、藤林長門守は「こういう場はまだ慣れぬ」と顔に書いてあったが、それでもきちんと列の一角へいる。

 

慶次郎は落ち着かない。

助右衛門は落ち着いている。

だが、その落ち着きの奥が熱いことくらいは、長く見ていれば分かる。

 

信繁が、まず一番乗りと二番乗りの功を改めて読み上げた。

 

箕作城。

前田慶次郎利益、一番乗り。

武将首二つ。

 

奥村助右衛門、二番乗り。

武将首二つ。

 

呼び上げられた二人が前へ出る。

 

慶次郎はさすがに胸を張っているが、今日は妙に声が出ない。

助右衛門は普段通りに見える。だが指先だけ、ほんの少しだけ強く握られていた。

 

信繁は、そこで一度だけ後ろを見た。

 

控えていた者が、布をかけた長物を運び出す。

広間の空気が変わる。

 

まず布が払われた。

 

黒槍だった。

 

柄は深く黒く塗られている。

ただ黒いだけではない。塗りの奥に鈍い艶があり、その長さと太さがただ者でないと知れる。穂先も大きい。しかも、ただ大きいのではなく、全体が重く沈んだような気配を放っている。

 

助右衛門が、思わず息を止めた。

 

信繁が言う。

 

「奥村助右衛門」

「は」

「本日の功により、貴殿にこの黒槍を与える」

 

広間が静まり返る。

 

「軽々しく振るうための槍ではない。前へ出た時、そこを動かさず、押し込み、支え、他の者が続くための槍だ」

 

助右衛門の目が、槍へ吸い寄せられていた。

 

「貴殿の働きは、派手ではない。だが、確かだ。今日の二番乗りもまた、その確かさゆえと見た」

 

そこまで言われると、助右衛門もさすがに喉が動いた。

 

「……ありがたき幸せ」

 

声が少し低く掠れる。

 

信繁は自ら立って、その黒槍を手に取った。

ずしりと重い。普通の兵なら、持ち上げるだけで腕が詰まるだろう。だが助右衛門は、両手を出して受けた瞬間、わずかに目を見開いただけで、そのままきちんと支えた。

 

「重いか」と信繁。

 

「……はい」

 

助右衛門は正直に答えた。

 

「ですが」

少しだけ口元を引き締める。

「よく手に馴染みます」

 

広間のあちこちで小さく息が漏れた。

それだけで分かる。ああ、これは助右衛門の槍だ、と。

 

慶次郎が、横でそれを見ている。

黒槍の出来栄えに、さすがのあいつも一瞬、子供のような目になっていた。

 

だが、まだ終わらない。

 

信繁が、もう一本の方へ目を向ける。

 

「前田慶次郎」

「……はっ」

 

今度の慶次郎の返事は、さっきより少しだけ小さい。

いや、小さいというより、喉が詰まっているのだろう。

 

二つ目の布が払われた。

 

広間の空気が、今度こそはっきり揺れた。

 

朱槍。

 

柄は鮮やかな朱。

ただ派手なだけではない。朱の中に槍そのものの格がある。しかも、助右衛門の黒槍よりさらに長い。穂先もまた、ひと目で尋常ならぬと分かる大きさで、全体の均衡が普通の長槍と違う。長い。重い。だが、その重さごと前へ倒れていくような凶暴な美しさがあった。

 

慶次郎が、本当に言葉を失った。

 

助右衛門まで、黒槍を抱えたまま横目で見ている。

お市も、真理も、雪姫も、思わず見入った。疋田豊五郎は腕を組んだまま、わずかに目を細める。あれが実用として成るところまで組んだなら、鍛冶の腕も相当に見事だと分かる目だった。

 

信繁は、その朱槍を見たまま言った。

 

「前田慶次郎」

 

慶次郎が、ようやく顔を上げる。

 

「本日の功により、貴殿に朱槍を許す」

 

その一言で、慶次郎の肩が震えた。

 

「以後も、存分に働け」

 

それ以上は要らなかった。

 

慶次郎はしばらく口を開けなかった。

普段なら何か一言二言、勢いよく返すはずの男が、今日は本当に何も出ない。

 

「……治部殿」

 

ようやく出た声が、妙に弱い。

 

「何だ」

「これ」

「うむ」

「良すぎるだろ」

 

広間に、小さな笑いが落ちる。

だが、それで崩れはしない。皆が同じことを思っていたからだ。

 

信繁は、そこで少しだけ口元を上げた。

 

「そうだろう」

 

「いや、だって」

慶次郎は本当に困った顔をした。

「こんなん、持ったらもう」

 

「もう何だ」

「死ねねえだろ」

 

その返しに、広間がしんとした。

 

冗談めいている。

だが、冗談だけではなかった。

 

この槍を許される。

それは、ただ一日働いた褒美ではない。これから先も、お前はこの槍に恥じぬ働きをしろ、ということだ。慶次郎ほどの男なら、その重さは分かる。

 

信繁は、そこで声を少し低くした。

 

「そうだ」

慶次郎が、まっすぐにこちらを見る。

「その朱槍に恥じぬよう働け。だが、無駄死にはするな」

 

「……はい」

「前へ出る時は誰よりも前へ出ろ。だが、帰る時はちゃんと帰って来い」

 

慶次郎の目が、そこで少し赤くなった。

本当に、少しだけだったが。

 

「……はっ」

 

今度の返事は、きちんと腹に落ちた声だった。

 

信繁はその朱槍を自分で持ち上げ、慶次郎へ渡した。

重い。長い。だが慶次郎は、受けた瞬間にぐっと腰を落とし、そのまま持ち切った。

 

「どうだ」と信繁。

 

慶次郎は、朱槍を見たまま答える。

 

「……最高だ」

 

それが一番慶次郎らしい答えだった。

 

助右衛門が、黒槍を抱えたまま静かに言う。

 

「慶次郎」

「なんだ」

「よかったな」

 

慶次郎は、少しだけ鼻をすすってから言った。

 

「お前もな」

 

そのやり取りに、十兵衛がわずかに目を細め、半兵衛が珍しく茶化さずに見ている。日置大膳亮も疋田豊五郎も、ただ静かだった。こういう褒美は、剣や弓の技とは別のところで人を育てるのだと、どちらも知っている顔だった。

 

信繁は、二人を並べて見た。

 

黒槍の助右衛門。

朱槍の慶次郎。

 

派手さは違う。

だが、どちらも要る。

 

「奥村助衛衛門」と信繁。

「は」

「前田慶次郎」

「はっ」

「この二槍、今後の治部家の先駆けと支えとせよ」

 

二人は同時に頭を下げた。

 

「はっ!」

 

その声は、広間の中へよく響いた。

 

後で聞けば、関兼貞もまた、この二本の出来には自分でも満足していたらしい。

だがそれは当然だろう。片や黒く沈んだ大身槍、片や朱に燃える長槍。どちらも、ただ飾るための槍ではない。持つ者の働きと癖と、その先の生き方まで少しは背負わせるための槍だった。

 

その日の論功行賞のあと、田代城ではしばらく二本の槍の話で持ちきりになった。

 

黒槍。

朱槍。

 

ただの褒美ではない。

治部家が、人をどう見ているか、そのまま形になったような褒美だった。

 

そして慶次郎も助右衛門も、その出来栄えがあまりに見事で、しばらく本当にまともな言葉が出なかった。

それもまた、あの日の二本がどれほどのものだったかを、何よりよく示していた。

 

 

やがて人々は、その槍そのものの見事さだけではなく、**その槍を持って戦場を駆ける二人**を語るようになった。

 

黒槍の奥村助衛衛門。

朱槍の前田慶次郎。

 

一人は重く、堅い。

一人は長く、烈しい。

 

助右衛門が黒槍を構えて前へ出れば、そこはまるで壁が歩いてくるようだったという。

押されても崩れず、寄られても退かず、ただじりじりと詰めて来る。黒く沈んだ槍は派手ではない。だが派手でないからこそ、戦場では余計に怖い。気づけばそこにおり、気づけば味方の先頭を支え、気づけば敵の勢いだけが削がれている。

 

一方、慶次の朱槍は違った。

 

あれは見えた時点でもう遅い、と語る者がいた。

長く、重く、しかもその長さと重さを振り回しているのが、あの前田慶次郎である。朱の柄がひるがえるたび、ただ槍が来るのではない。戦場の風向きごと変わるように見えた。前へ出る。跳ねる。抉る。敵からすれば、槍というより獣に近かったろう。

 

そのため、人々は二人を恐れもしたし、称えもした。

 

「治部家の黒槍が見えた」

「朱槍が走った」

そう聞けば、味方は勢いづき、敵は身構えた。

 

しかも厄介なことに、あの二人の槍は、**上か前にしか向かぬ**とも言われた。

 

引いて受けるためではない。

横へ逃がすためでもない。

ただ、上へ立つか、前へ突き進むか。そのどちらかにしか向かぬ槍。

 

もちろん、本当にそうだったわけではない。

戦はそんなに単純ではない。だが、そう言われるようになったこと自体が大きかった。

 

黒槍の助右衛門は、支えながら前へ出る者。

朱槍の慶次は、前へ出ながら上を取りに行く者。

その二人が治部家の槍として立った時、人は自然に、あれは下がるための槍ではないと思うようになったのだ。

 

そしてまた、人々が感じ取ったのは、槍だけではなかった。

 

**あの褒賞の出し方**である。

 

戦のあと、ただ首数を数え、銀を渡し、感状を出して終わりにしなかった。

誰がどのように立ったかを見て、助右衛門には黒槍、慶次には朱槍を与えた。しかも、その槍はただ派手な飾りではない。持つ者の癖と働き、その先の生き方まで見たうえで拵えさせたものだった。

 

それを見た者は、皆どこかで思った。

 

――ああ、治部は、人を使っているだけではない。

――人を見ている。

――しかも、見たうえで報いている。

 

それがじわじわと効いた。

 

武辺の者は、あのような槍が欲しいと思った。

ただの名物だからではない。あの槍を許されるほど、自分というものを見られたいと思ったのだ。

 

家中の者は、治部の下で働けば、働きの形ごと拾われるのではないかと思うようになった。

敵は逆に、治部家は武だけでなく、人をまとめる手際まで厄介だと知った。

 

そうして、この南近江攻略とその後の論功行賞こそが、織田治部大輔信繁の名へ、もう一つ別の響きを与えることになった。

 

ただの働き者ではない。

ただの兵法好きでもない。

ただの奇策家でもない。

 

**花も実もある名将。**

 

そう呼ぶ者が、少しずつ増えていったのである。

 

しかも、その時に引かれた名は、自然ともう一人の信繁だった。

 

本家武田典厩信繁。

 

戦場で名を挙げるだけでは足りぬ。

人を見、家を支え、武に華を添え、それでいて実も取る。そういう将こそ、古くから人は好きだ。治部のこの褒賞は、まさにそこへ触れた。

 

助右衛門と慶次郎という二本の槍を見れば花がある。

だが、その裏にはちゃんと実がある。

働きを見、働きに合うものを与え、家の中の士気まで上げた。そこまで揃って、初めて「花も実もある」と言えるのだと、人々は感じた。

 

後に語る者は言う。

 

南近江を落としたことも大きかった。

だが、真に人の胸へ残ったのは、そのあとに治部が**誰へ何を与えたか**だった、と。

 

黒槍。

朱槍。

そして、それを掲げて戦場を縦横無尽に駆ける二人の鬼武者。

 

あの光景は、ただの戦功話では終わらなかった。

治部家とはどういう家か。

治部大輔信繁とはどういう将か。

それを、一目で分からせる光景だったのである。

 

 

八幡原へ向かう前夜、典厩信繁は、どうにも胸の底がざわついていた。

 

武田の陣は整っている。

兵は動き、将は配され、啄木鳥の戦法もすでに固まりつつある。妻女山へ籠る上杉勢を、別動隊で大きく回り込んで追い落とし、八幡原で本隊が受ける。理だけ見れば鮮やかだ。鮮やかで、いかにも人の舌に乗りやすい。だからこそ、逆に気にかかる。

 

その「気にかかり」を、典厩信繁は自分ひとりの胸へしまっておけなかった。

 

火の気の弱い陣屋で、典厩信繁は人を呼んだ。

 

山県三郎兵衛昌景。

高坂弾正昌信。

 

二人とも、呼ばれた時点で顔つきが違った。

ただの打ち合わせではないと分かっている顔である。川中島を前にして、この人が夜にあらためて人を呼ぶ時は、大抵ろくでもないところへ目が行っている。そして、その「ろくでもなさ」は往々にして当たる。

 

「典厩様」

山県昌景がまず頭を下げた。

「何事にございます」

 

高坂昌信も、静かに座へ着く。

 

典厩信繁は、火の揺れを見たまま言った。

 

「啄木鳥だ」

 

それだけで、二人とも黙った。

 

山県が先に息を吐く。

 

「……やはり」

 

「お前たちもか」と典厩信繁。

 

「はい」

高坂が続ける。

「妙が過ぎます」

 

その言い方が、すべてを言い表していた。

 

別動隊が大きく回り、妻女山から上杉勢を追い落とす。

その上で本隊が八幡原で受け止める。理は通っている。だが、あまりにも綺麗すぎる。こちらの思う通りに敵が動き、こちらの思う通りに時間が流れ、こちらの思う通りに兵が間に合う。そういう作戦は、紙の上では美しい。戦場では、たいていどこかでひっくり返る。

 

典厩信繁は、そこでぽつりと言った。

 

「真理の輿入れの折、織田治部大輔が妙なことを申した」

 

山県が顔を上げる。

 

「織田の治部大輔殿が」

「うむ」

「何と」

 

典厩信繁は、そこで一言ずつ置くように言った。

 

「戯言ですが、とな」

 

高坂の目が細くなる。

 

「戯言」

「うむ」

「その戯言とは」

 

典厩信繁は、二人の顔を見てから、はっきりと言った。

 

「啄木鳥の羽は折れます、とな」

 

沈黙。

 

火がひとつ鳴る音だけが、妙に大きく聞こえた。

 

その沈黙を最初に破ったのは、山県昌景だった。

 

「そういえばそのような……いや、まさか。しかし、確かにそう申しておりました!」

 

高坂が、ほとんど同時に言う。

 

「……この状況、ぴたりとはまるぞ」

 

典厩信繁は、その二つの反応に、かえって少しだけ背筋が冷えた。自分一人の嫌な勘ではないのだと分かったからだ。

 

山県が、膝へ手を置いたまま続ける。

 

「別動隊が大きく回る。その間、本隊は八幡原で待つ」

「うむ」

 

「相手が別の将ならまだしも、此度は弾正少弼だ」

高坂が静かに継ぐ。

「武田軍の作戦を看破するのも、あの男なら考えられる」

 

典厩信繁は、ゆっくり頷いた。

 

「そこだ」

 

さらに山県。

 

「しかも、もし読まれておるなら、こちらが一番脆いのは別動隊そのものではなく、別動隊を待つ本隊の時間差にございます」

 

高坂が言う。

 

「妻女山から駆け下りた敵が、本隊へ真っ直ぐ噛みつく。別動隊はまだ遠い。そうなれば、啄木鳥の羽どころか、こちらの胴そのものが折れかねませぬ」

 

典厩信繁は、火を見たまま低く言った。

 

「治部大輔は、そこまで言わなんだ。だが、あの若造が見たのはたぶん、妙が崩れる一点だ」

 

高坂は少しだけ苦い顔になった。

 

「“啄木鳥の羽は折れます”とは、よくもあれだけで済ませたものですな」

 

山県が小さく息を吐く。

 

「戯言のように言われると、耳に残ります」

 

「そうだ」

典厩信繁は、そこでようやく二人を正面から見た。

「私は、啄木鳥が失敗した時のことを考えた」

 

二人とも黙る。

 

「別動隊が遅れる。本隊が食い破られる。弾正少弼がこちらの本陣へ迫る」

火が揺れる。

「そうなれば、勘助も生きてはおれまい」

 

山県の目がわずかに伏せられる。

 

「……はい」

「献策が外れた、では済まぬ。戦の芯が折れた責は、勘助ひとりの首では足りぬ」

 

高坂もまた低く答えた。

 

「我らも、多くが残れますまい」

 

典厩信繁は、それをさらに言葉にした。

 

「私も、お前たちも、馬場も、原も、誰がどこで折れてもおかしくない。武田の柱が一度に何本も持っていかれよう」

 

そこまで言われると、陣屋の空気そのものが重くなる。

 

啄木鳥が妙であるがゆえに、それが崩れた時の代価もまた大きい。

ただ一戦の敗北ではない。武田の背骨そのものが折れる可能性がある。そういう話になっていた。

 

山県が、やがて静かに言った。

 

「典厩様」

「何だ」

「変えましょう」

「うむ」

「妙を捨てるのではなく、妙を薄くするのです」

 

高坂が、その言葉を取る。

 

「別動隊を大回りさせ、後背を扼するのではなく、本隊の脇へ控えさせる」

 

典厩信繁の目が動く。

 

「横撃か」

 

「はい」

高坂は頷く。

「弾正少弼が本隊へ噛みついたところへ、横から叩き込む。これなら、別動隊は見失いませぬ」

 

山県もすぐに続ける。

 

「本隊は本隊で受ける。その代わり、横から厚みを足す。妙は薄れますが、羽は折れにくくなります」

 

典厩信繁は、しばらく何も言わなかった。

 

考えるまでもなく、理は通る。

大回りの別動隊が戦場の背後を衝くのは美しい。だが、その美しさが時間差という危うさを抱える。ならば、別動隊は本隊から離しすぎぬ方がよい。横撃であれば、敵の前進を曲げることができる。少なくとも、来ぬはずの援軍を待って本隊だけが壊れる形にはなりにくい。

 

「行くぞ」と典厩信繁。

「御屋形様へ申す」

 

信玄の本陣は、夜の深さのわりに静かだった。

 

この人の陣は、前の晩ほど静かになる。

それは迷いがないからでもあるし、迷いを人へ見せぬからでもある。

 

三人が通されると、信玄は顔を上げた。

 

「何だ」

 

短い一言だった。

 

だが、典厩信繁はひるまず正面から頭を下げた。

 

「啄木鳥の戦法、いま一度お改め頂きたく」

 

信玄の目が鋭くなる。

 

「ほう」

 

そこで退かぬから、この人はこの人なのだろう。

 

典厩信繁は、そのまま言葉を切らずに並べた。

別動隊が大きく回ることの遅れ。

妻女山から敵がどう下るか不確かなこと。

弾正少弼ほどの相手なら、こちらの腹を読んで先に本隊へ噛みつくこともあり得ること。

そして、その場合、別動隊の到着の遅れが、そのまま本隊の壊滅へ繋がる恐れがあること。

 

信玄は一度も口を挟まなかった。

 

山県昌景が後を継ぐ。

 

「典厩様のお考えに同じく、別動隊は本隊の脇に控えるべきにございます」

 

高坂昌信も言う。

 

「後背を扼するのではなく、戦の最中に横から叩き込む。弾正少弼の勢いをそこで曲げるべきかと」

 

信玄は、なおも黙っていた。

 

やがて低く問う。

 

「何が、そこまでおぬしらに言わせる」

 

典厩信繁は、一瞬だけ息を止めた。

 

言うべきか。

だが、隠しても仕方がない。

 

「……真理姫様の輿入れの際、織田の治部大輔が、戯言として申しました」

 

信玄の眉がわずかに動く。

 

「何と」

 

典厩信繁は、はっきりと答えた。

 

「啄木鳥の羽は折れます、と」

 

本陣が静まる。

 

信玄は、三人を順に見た。

若い織田の男の軽口めいた一言を、武田の柱たる三人が、ここまで重く受けている。そこに嘲りの色は浮かばなかった。むしろ、その若造が三人の胸に刺すだけの何かを見たのだと、先に読んだのだろう。

 

やがて、信玄は地図へ目を落とした。

 

「啄木鳥はやめる」

三人が同時に顔を上げる。

「本隊が受ける」

 

信玄の指が八幡原をなぞる。

 

「別動隊は遠くへやらず、脇に置く」

さらに指がずれる。

「弾正少弼が噛みついたところへ、横から叩き込む」

 

典厩信繁の胸の奥から、ようやく一つ重いものが下りた。

 

「はっ」

 

「弾正少弼相手に妙を競う戦ではない」

信玄の声は低かった。

「折れぬ形を取る」

 

それで十分だった。

 

作戦は、その夜のうちに組み替えられた。

 

別動隊は、妻女山を大きく回って後背を取る役ではなくなった。

本隊の脇に控え、上杉軍が武田本隊へ食いついた瞬間、横から打ち込む刃へ変わった。

 

翌朝、八幡原に霧が立った。

 

上杉軍は来た。

しかも速い。

こちらの腹をどこまで読んでいたかは分からぬ。だが、読んでいたとしてもおかしくない速さだった。上杉弾正少弼は、ただ妻女山を守るつもりでいる男ではない。武田が何を望んでいるかを逆に利用してくる、そのくらいのことはする。

 

正面が噛み合った瞬間、戦は激しくなった。

 

ここまでは、啄木鳥のままでも同じだったかもしれぬ。

だが、違いはその次に出た。

 

横撃が早い。

 

馬場信春と高坂昌信の隊が、本隊の崩れかけるところへ間に合った。

後ろから来るはずのものを待つのではない。脇にいる。だから速い。上杉の前へ出る勢いを、真横からねじ曲げることができる。

 

それでも、戦は楽ではなかった。

 

武田の大敗はなくなった。

だが、楽勝にもならない。

 

上杉の死傷はむしろ増えた。

横撃を受けた分、ただ押し込むだけでなく、押し返されながら斬り結ぶ形になったからだ。だが武田もまた深く血を流した。八幡原の泥は、結局のところ双方の血を飲んだ。

 

典厩信繁も、そこで大きな傷を負った。

 

左手は肘から先で斬り落とされた。

右膝にも深い傷を受けた。

それでも、命は残った。

 

戦の最中、何度も危ういところはあった。

だが、もし啄木鳥のまま別動隊が遠く回っていたなら、この人はその前に本隊の裂け目の中へ飲まれていたかもしれぬ。いや、典厩信繁だけではない。山県も高坂も、馬場も原も、そして何より献策の張本人たる山本勘助も、生きてこの日を終えられたかどうか分からない。

 

戦後、それがはっきりしていく。

 

まず、別動隊が川を渡るはずだった地点。

そこに、上杉軍でも屈指の名将**甘粕近江守**が、少数ながら強固な陣を張っていたことが判明した。

 

ただ兵を置いていたのではない。

渡ってから迎え撃つのでもない。

**渡河の最中に噛みつくための備え**だった。

 

それを聞いた評定の場で、武田家中の者たちは顔を見合わせた。

 

「渡河中であったなら……」

「甚大な被害で済むかどうか」

「済むまい」

 

川は、渡る時がいちばん脆い。

列は伸び、足は取られ、槍も馬も自由がきかぬ。そこへ甘粕近江守ほどの男が構えていたなら、別動隊は最初の一打で大きく削られていたはずだ。

 

だが、それ以上に重いことがあった。

 

「甘粕の備えもそうだ」

戦後の評定で、信玄は地図の上へ指を置いたまま言った。

「だが、もっと重大なのは、そもそも弾正少弼こちらの腹を見すかしていたことだ」

 

典厩信繁、山県昌景、高坂昌信、馬場信春らが黙って聞いている。

 

「弾正少弼は、こちらが海津城を空にし、別動隊を妻女山へ迂回させ、残りの本隊をもって八幡原で受けるつもりであることを、ほぼ読んでいた」

 

山県昌景が、低く言った。

 

「……つまり、別動隊は最初から“来ぬもの”として置かれていた、と」

 

高坂昌信が続ける。

 

「あるいは、“来ても間に合わぬもの”として」

 

信玄は頷いた。

 

「甘粕の位置、上杉の前へ出る早さ、妻女山からの下り方、すべてがそれを示しておる」

 

座が重くなる。

 

もし啄木鳥のまま行っていたなら。

 

別動隊は渡河で削られ、さらに遅れる。

その間に本隊は八幡原で上杉軍に噛みつかれる。

別動隊の到着が大幅に遅れれば、本隊の裂け目は広がる。

そこへ弾正少弼がさらに押し込めば、武田本体が壊滅していた恐れすら、もはやただの仮定ではない。

 

その重さを、家中の誰もが感じていた。

 

その時、誰かがぽつりと漏らした。

 

「……治部大輔とは千里眼か」

 

座がぴたりと止まった。

 

言った本人は、口にしてから「しまった」という顔をした。

だが、誰も笑わなかった。

 

典厩信繁が、少しだけ遠い目で言った。

 

「千里眼、というより」

 

「はい」と山県昌景。

 

「妙を妙と見て、その折れるところを嗅ぎつけたのであろう」

 

高坂昌信は、苦い顔で続けた。

 

「しかも、それを“戯言ですが”で済ませるのですから、なお質が悪い」

 

馬場信春まで、そこで静かに言った。

 

「織田の若造とはいえ、末恐ろしいところがある」

 

信玄は、その評を笑わなかった。

 

むしろ、ほんの少しだけ口元を動かした。

 

「面白い若造だ」

 

それだけだった。

だがその一言は軽くない。

 

この戦で典厩信繁は生き残った。

左手を失い、右膝も深く傷んだ。もう前のように先頭へ立って戦場を駆けることは難しい。だから、家督は六郎次郎信豊へ譲ることになる。そこまでは、誰もが読めた。

 

だが、その後は誰も読めなかった。

 

典厩信繁は、武田の中からひっそりと消えた。

消えたと思われた。

 

ところが後に分かったことは、あの人、いきなり**田代城へ現れた**のである。

 

しかも左手を失い、膝を引きずりながら、それでも背筋だけは折れていない。

出迎えた治部大輔信繁が、本気で困る程度には、堂々と現れた。

 

「死ぬまでは姫のお傍にあって、治部大輔の恩に報いよう」

 

そう言ったと聞いた時、武田家中は、戦後評定の時とはまた別の意味で黙り込んだ。

 

「……あの方らしい」

「らしいが、なぜ田代城なのだ」

「真理様の叔父君にあたられるゆえ、姫のお傍に、と」

「恩に報いる、とは」

「治部大輔殿の一言で、啄木鳥を改めたと見ておられるのであろう」

「……千里眼ではないか、やはり」

 

今度は、何人かが本気で頷いた。

 

もちろん千里眼ではない。

だが、武田家中から見れば、そう言いたくなるだけのことが続いたのも確かだった。作戦の折れ目をひとことで示し、その結果、典厩信繁が生き残る。しかもその当人が、最後には田代へ流れ着く。

 

理で追えば追える。

だが、理だけでは片づかぬ気味の悪さと鮮やかさがあった。

 

一方、田代城では、理より先に現実が困っていた。

 

「……どうするんだ、これ」

 

治部大輔信繁は、本気でそう言ったらしい。

 

その目の前で、真理は泣く。

叔父のそんな姿を見て、平気でいられるはずがない。

 

「叔父上」

と、真理は声を詰まらせた。

「そのお体で、どうしてそのようなことを」

 

典厩信繁は、姫ではなく、姪を見るような、しかしそれだけでもない眼差しで答えた。

 

「真理」

「はい……」

「生きて戻った以上、何もせずに消えるわけにもいかぬ」

「ですが」

「おぬしを案じるのも、治部大輔へ恩を返したいのも、私の勝手よ」

 

そこで真理はとうとう涙をこぼし、治部大輔信繁は横で本気で頭を抱えた。

 

「いや、あの、典厩様」

「何だ」

「お気持ちはありがたいのですが」

「うむ」

「ありがたいのですが、困ります」

「知っておる」

「知ってて言うんですか」

「当たり前だ」

 

その堂々たる返しに、困りごとは深まるばかりだった。

 

川中島の一戦は、武田の大敗を消した。

だがその代わりに、武田典厩信繁という重い人間ひとりを、そっくりそのまま田代城へ流し込むことになった。

 

それもまた、治部大輔信繁が後になって「啄木鳥の羽は折れます」という戯言の代償として、背負うことになった一つの結果だったのかもしれない。

 

 

 

 

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