織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
田代で人を受け入れるばかりが、治部家の仕事ではない。
疋田豊五郎が入り、柳生の者どもが入り、藤林長門守が評定へ座るようになった。
なら次は、集めた目と耳をどこへ伸ばすかである。
信繁は、その件をあらためて稲葉山で兄たちへ願い出た。
「越前へ、草を忍ばせたく存じます」
信長が目を上げる。
「見る先は」
「三つ」
信繁は指を折った。
「まず、斎藤右兵衛大夫の行方」
信勝が頷く。
「うむ」
「次に、一乗谷そのものの息づかい」
信長が低く言う。
「朝倉がまだ余裕を残しておるか、それとも綻びが出始めておるか、だな」
「はい」
「最後に」
信繁は少しだけ間を置く。
「敦賀郡司、朝倉九郎左衛門尉」
信勝の眉がわずかに動いた。
「宗滴公の養子、か」
「はい」
信繁は頷く。
「一乗谷を見るだけでは足りませぬ。越前の先、若狭や海の口まで含めて、誰がどこまで目を配っておるか見ねばなりませぬ。九郎左衛門尉のところを押さえれば、朝倉の外向きの息づかいも少しは見えましょう」
信長は腕を組んだまま、しばし考えた。
「藤林か」
「はい。長門守の下より、小さく幾つか」
「深く入りすぎるな」と信長。
「今はまだ“取る”より“測る”だ」
「承知しております」
信勝が、そこで静かに後を継ぐ。
「右兵衛大夫のこともある」
「はい」
「生きておるなら、いずれ誰かが旗に使う」
「だからこそ早う所在の糸を掴みたいのです」
信長は、そこで短く頷いた。
「よい。許す」
「ありがたき幸せ」
「ただし」
信長の声が少しだけ重くなる。
「越前へ目を入れるなら、その前に近江の取り決めを違えるな」
「はい」
そこが次の本題だった。
南近江へ出るなら、浅井との間に線を引かねばならぬ。
愛知川よりこなたは織田。向こうは浅井。そこを曖昧にしたまま兵を進めれば、盟を結んだ意味がなくなる。
信勝が言った。
「備前守が、それを呑むかだな」
「盟を結び、お犬殿を輿入れしてもなお、そこは別でしょう」と信繁。
「当然だ」と信長。
「婚姻は婚姻。利は利だ」
「ですので」と信繁。
「こちらから先に、愛知川の線は違えぬ、と明け透けに申すべきかと」
信勝が少しだけ笑う。
「それを言ってなお、向こうが乗る器量を持つか試すわけだな」
「はい」
「そして鶴姫殿のこともある」と信長。
信繁は静かに頷いた。
「いまはまだ輿入れを急がせませぬ」
「うむ」
「南近江をどう切るか。湖西をどう見るか。その先に浅井が丹後、丹波、日本海筋へ伸びる道を、こちらがどう認めるか。そこまで形を作ってからでなければ、鶴姫殿はただの婚姻駒になります」
信長の目が細くなる。
「それを、備前守本人へ言うか」
「言うた方がよろしいかと」
信繁は答えた。
「こちらは欲しいところだけ取って、姫君だけは先に、と見せれば、あちらも腹に据えかねるでしょう。ならば最初から、浅井の先も考えていると置いた方がまだましです」
信勝が、そこで決めた。
「ならば行こう」
信繁が兄を見る。
「勘十郎兄上」
「俺とお前で浅井へ向かう」
信勝の声は静かだった。
「俺一人では“織田本家の意向”に見えすぎる。お前一人では“治部家の利”に見えすぎる。二人でちょうどよい」
信長も、それに短く頷く。
「そうだな」
「備前守へは、愛知川の線は違えぬこと、その代わり南近江ののちに湖西、その先の道筋まで含めて話す」と信勝。
「鶴姫殿には」と信繁。
「まだ急がぬ」と信長。
「だが、先を考えておることは伝えよ。姫をただ待たせるために置くのでないとな」
そこまで決まれば、話は早い。
藤林長門守へは、越前へ送る者の選別。
誰を一乗谷へ寄せ、誰を敦賀筋へ回し、誰に龍興の子の影を追わせるか。
それを稲葉山を発つ前に詰めねばならぬ。
信繁は、そこで最後にもう一つだけ言った。
「兄上」
「何だ」と信長。
「浅井との話、備前守だけでは足りぬやもしれませぬ」
信勝が目を向ける。
「鶴姫殿か」
「はい」
「お前は姫へまで腹を見せるつもりか」
信繁は少し考えてから答えた。
「腹の底まで、ではありませぬ。ですが、姫の去就が話の中にある以上、何も知らされぬまま待たせるのは悪手かと」
信長が、そこでほんの少しだけ口元を動かした。
「最近、お前は“待たせるな”をよく覚えたな」
その一言に、信繁は少しだけ黙った。
雪姫。
真理。
そのあたりを経て来た今、その言葉が前より重くなっているのは自分でも分かる。
「……耳が痛いことで」
「よい」と信長。
「痛いままで覚えておけ」
信勝が立ち上がる。
「では、用意だ」
「はい」
「越前へは影を伸ばす。近江では線を引く。浅井には、その線の先まで見せる」
「承知しました」
その日、治部家では二つの準備が同時に始まった。
表では、勘十郎信勝と治部大輔信繁の浅井行き。
裏では、藤林長門守の手で、越前へ散る小さな影。
一つは堂々と人前を行く道。
一つは、名もなく雪の中へ消える道。
だが、どちらも同じ先へ通じている。
近江を押さえ、越前を測り、その先の畿内をどう動かすか。そのための一手として。
信繁は、田代へ戻る前に、ふと空を見上げた。
愛知川の線。
備前守の器量。
鶴姫の行く末。
竜興の影。
一乗谷の息づかい。
敦賀郡司景紀の目配り。
やることは多い。
だが、ようやく盤の上へ必要な駒が揃ってきた気もする。
「……忙しいな」
ぽつりと出た独り言に、横を歩く信勝が言った。
「今さら何を言う」
「ごもっともで」
「それより浅井だ」
「はい」
「備前守がどこまで呑めるか」
「そこが肝ですな」
「そして、お前がどこまで余計なことを言わずに済むかだ」
信繁は思わず苦笑した。
「それは難題にございます」
信勝も、珍しく少しだけ笑った。
「知っている」
近江へ向かう冬の道は、まだ冷たい。
だが、その冷たさの向こうに、次の大きな動きがもう待っていた。
♢
小谷城の評定は、最初から空気が重かった。
六角が崩れ始めている。
南近江は揺れている。
織田は愛知川の線を違えぬと言ってきた。
その先で湖西をどうするか、さらにその先をどう見るかまで含めて、もう「追って考えよう」では済まぬところまで来ている。
備前守長政が上座にある。
重臣たちも並んでいた。
皆それぞれに、南近江の地図を胸に抱えている。どこが欲しい、どこは惜しい、どこを取るべきか。そういう思いが、最初から座に満ちていた。
だがその日、いちばん長く、いちばん深く口を開いたのは鶴姫だった。
最初は、姫君として一言、心持ちを述べるくらいに思っていた者も多かった。
けれど、鶴姫は一度口を開いてから止まらなかった。
「まず申し上げます」
座が静まる。
「織田と近江で張り合うべきかと問われれば、私は否と申します」
何人かがそこでわずかに顔を上げた。
いきなりそこから来るか、という空気が走る。だが鶴姫は怯まない。
「我らが今すぐ総力を尽くしたところで、兵はせいぜい一万数千にございましょう」
誰も反論しない。
「対して織田は、尾張美濃の兵だけで三万を越えます」
静かなざわめきが走る。
「徳川もおります。長野工藤家もおります。北畠も今は織田と深く結んでおります。そこからなお二万ほどは出ましょう」
そこまで並べられると、座の空気はぐっと現実に戻る。
浅井が勇ましいことを言えばどうにかなる差ではない。
鶴姫は続ける。
「越前朝倉が加勢すると申しても、いつでも二万を出して下さるのですか」
重臣の一人が目を伏せる。
「出して下さるとして、その兵を率いる者が、こちらに都合よく働く保証がございますか」
そこまで言われれば、もう若い姫の物知らずな口とは言えない。
「大将一つ違えば、大軍も木偶にございます」
長政がそこで初めて、少しだけ目を細めた。
鶴姫は兄のその目を見ても怯まず、そのまま続けた。
「確かに南近江は値打ちの高い土地にございます」
声を少し落とす。
「予てより六角と争ってきた地。数十万貫の稲の産地。東海道の要地。琵琶湖畔の商い。誰が見ても惜しい」
何人かが、そこでようやく頷いた。
そこを認めるなら、まだ話は聞ける。そういう頷きだ。
「ですが」
鶴姫の声がまたはっきりする。
「そもそも浅井は、南近江を当然に治めるべき家とまでは申せませぬ」
座がぴたりと静まった。
そこは皆、胸のどこかで知っている。
だが、あまり真正面から口にしたくはないところでもある。
鶴姫は、そこをあえて踏んだ。
「我らは京極の内より起こり、六角と争ってここまで来た家にございます。南近江を取れば見栄えはよろしゅうございましょう。ですが、見栄えと名分は別にございます」
年嵩の家臣の一人が、低く息をつく。
痛いところを突いたのだ。
「南近江を押さえれば、たしかに領地は増えましょう。ですがその日から、我らは三好とも六角残党とも、真正面で向かい合わねばなりませぬ。京の将軍家や畏きところの御心も安んじ奉らねばなりません」
「うむ」と誰かが唸る。
「その圧を、我らが正面から受け続けるのですか」
誰も答えない。
「それとも」
鶴姫が一段強く言う。
「その圧は織田に受けて頂く方が、我らには都合が良いのではありませぬか」
ざわめきが走る。
露骨だ。だが、露骨なだけに分かりやすい。
「織田は南近江を欲する。では取って頂けばよい」
「姫」と家臣の一人が言いかける。
「最後まで聞いてください」
鶴姫は、その言葉をやわらかく、しかし切った。
「そもそも」
そこであらためて座を見渡した。
「先にこちらから盟を求めたのでございます」
今度は、先ほどとは別の静けさが落ちた。
「六角と争い、近江の中で家を立てるために、我ら浅井が織田へ手を伸ばした」
誰も否定できない。
「それに応じた織田は、相互に婚姻を行うことまで提案されました」
長政の目が少しだけ動く。
「しかも、先に動いたのは向こうにございます。織田上総介様と同じ正嫡のお犬義姉さまを、ためらいなくこちらへ輿入れされた」
そこは軽く扱えない。
織田は口だけでなく、もう実際に身内を出している。
「我らは、それに対してまだ同じだけの約を果たしてはおりませぬ」
鶴姫の声は静かだった。
「私自身、家中がどうまとまるか、そのことを案じ、輿入れを急がせぬよう願ったわがままもございます」
そこははっきり、自分へ引き寄せて言った。
「ですが、事情があるとはいえ、約したものをまだ返しておらぬことに変わりはございませぬ」
「……」
「つまり今の浅井は、織田に対して、義をひとつ返しきっておらぬ状態にございます」
その言葉は重かった。
「そのうえで、南近江まで欲するとなれば、どう見えましょう」
誰もすぐには答えない。
「盟を求めたのはこちら。婚姻を先に果たしたのは向こう。こちらはまだ約を完遂せず、それでいて利の大きい南近江まで求める」
一つずつ置くように言う。
「それでは、浅井の名が軽くなります」
長い沈黙が落ちた。
「私は、それを避けとうございます」
そこまでで、もう鶴姫の論は守りではなくなっていた。
織田に譲るのではない。浅井が浅井として立つために、いま何を取らぬべきかを言っているのだ。
「では、どうするか」
鶴姫は、そこで初めて少しだけ息をついた。
「我らが見るべきは、その先にございます」
長政が、そこで腕を組んだ。
もうこの時点で、妹を止めるつもりはない顔だった。
「織田は愛知川の線を違えぬと言いました」
「言うたな」と重臣の一人。
「ならば、その言葉を受けましょう」
鶴姫は一つ頷く。
「そのかわり、湖西は切り取り次第との言葉もあった由」
今度は座の者たちの視線が、少しずつ変わる。
ただ守りに回る話ではないと見え始めたのだ。
「ならば、我らは南を無理に奪い合うより、西と北へ道を伸ばすべきにございます」
「西と北」
「はい」
鶴姫は指先で地図をなぞるように言う。
「朽木谷。坂本。その先」
「……丹後、丹波か」と老臣が呟く。
「はい」
鶴姫は頷いた。
「越前朝倉とも無用に争わず、なお我らが膨らむなら、道はそこにございます」
そこから先は、もう姫君の夢物語ではなかった。
「日本海へ出られれば、良港を得られましょう」
「うむ」
「良港を得れば、琵琶湖の産物を自らの手で北へ送り出せます。逆に北の物を湖へ落とし、畿内へ流すこともできましょう」
家臣たちの顔つきが、少しずつ変わる。
戦の話だけでなく、国の立て方の話に切り替わったからだ。
「近江は湖の国にございます」
鶴姫の声は静かだがよく通る。
「ならば湖をただ南へ向けて使うだけでなく、北と西へ繋げてこそではありませぬか。南近江はたしかに甘い果実に見えましょう」
そこで一拍置く。
「ですが、甘い果実ほど、取った後に虫がつくものです」
座の何人かが、思わず顔を見合わせた。
「三好。六角残党。東海道筋の圧。琵琶湖畔の商いをめぐる摩擦。京の都」
一つ一つが重い。
「それらを我らが正面から抱え込むより、織田に抱えて頂き、その間に我らは西へ活路を求める」
「……」
「その方が、浅井は浅井として立てましょう」
そこまで言い切られると、軽々しい反論はしにくい。
長政が、ここでようやく口を開いた。
「鶴」
「はい」
「お前は、南近江が惜しくないのか」
鶴姫は、少しも逃げずに答えた。
「惜しゅうございます」
その返事に、何人かが少しだけ安堵する。
惜しくない、では話にならない。惜しいと知った上で捨てるからこそ重い。
「惜しゅうございます。ですが、惜しいからといって、取ってよいとは限りませぬ」
長政は黙って聞いている。
「南近江を我らが取れば、浅井はその日からずっと南を睨む家になります」
「……」
「それよりも、西と北を見られる家になった方が、私は浅井の先は広いと思います」
その一言は深く落ちた。
長政だけでなく、重臣たちにもだ。
これが単なる「織田に譲りましょう」ではなく、「その代わり浅井はどこへ伸びるか」を示しているからだ。
しばらく、長い沈黙が落ちる。
やがて年寄りの一人が言った。
「姫は、織田を信用なさるか」
鶴姫はすぐ答えた。
「信用し切ってはおりませぬ」
座がざわつく。
「ですが、信用し切らぬからこそ、こちらに利のある形で結ぶべきにございます」
そこは長政も小さく頷いた。
「なるほどな」
「愛知川の線を違えぬ、と口にしたのは向こうです」
鶴姫は言う。
「ならば、その言葉を受けましょう。そのかわり、湖西の先と、日本海筋への道について、あとで知らぬとは申させぬようにする」
「言質を取る、か」
「はい」
「婚姻を急がぬのも、そのためと」
「はい」
鶴姫はそこで、ようやく少しだけ息をついた。
「私は、ただ輿入れして終わるつもりはございませぬ」
その一言で、また座が静まる。
「浅井の先がどこにあるか、その見通しもないまま、ただ正室腹の姫を送るのでは軽うございます」
長政が、そこでとうとう少し笑った。
「お前、自分のことだろうに、本当に容赦がないな」
鶴姫は兄を見る。
「兄上も、同じことをお考えではございませぬか」
長政は、すぐには答えなかった。
だが、その沈黙が答えに近かった。
やがて備前守長政は、座を見渡して言った。
「聞いた通りだ」
静かな声だった。
「南近江は惜しい。だが、惜しいからといって、浅井がそこへ飛びつくのが上策とも限らぬ」
「……」
「愛知川の線は受ける」
座がざわめく。
「そのかわり、湖西、その先の道については、今後の取り決めを違えさせぬ」
「はっ」
「鶴の輿入れも、そこがただの口約束で終わらぬと見てからだ」
そこまで言われれば、大勢は決した。
評定を終えたあと、家中の者たちの目は少し変わっていた。
鶴姫を、ただの輿入れ待ちの姫としては見なくなっていた。
南近江を惜しみつつ、それでもそこへ飛びつかず、浅井の先を西と北へ開く。
しかも、浅井が南近江を当然に治める名分に欠けること、さらには織田へまだ義を返し切っていないことまで、自分の口で出した。
そこまで言えるなら、もう姫ではなく、国の先を語る者だった。
後にこの日の評定を振り返る者は、たぶんこう言うだろう。
浅井家の評定にて、鶴姫、一人にて論陣を張る、と。
そしてその日を境に、鶴姫は本当に、家中で一段違う目で見られるようになった。
♢
南近江がわずか数日のうちに織田の手へ落ちたあと、田代城ではすぐに論功行賞の支度が始まった。
首数。
一番乗り。
二番乗り。
城ごとの働き。
誰がどこで誰を支えたか。
そうしたものをきちんと拾い上げるのは、勝った後の務めである。
だがその日の治部家では、いつもと少し違う熱があった。
信繁が、南近江出陣の前に関兼貞を訪ねたのは、ただ礼を通すためだけではなかった。
実はあの時、もう一つ頼みを置いていたのだ。
槍を、二本。
一本は、常の兵なら両手でも持てぬほどの大身槍。
柄は黒く塗られ、その内には鋼まで通してある。見た目の重さだけではない。持てば分かる、叩けば折れぬ、振れば人も馬もたやすく近寄れぬ、そういう槍だ。
そしてもう一本は、さらに先を見たものだった。
論功行賞の日、田代城の広間には治部家の若侍たちがずらりと並んだ。
上座には信繁。
脇には十兵衛と半兵衛。
奥の方にはお市、真理、雪姫もいる。日置大膳亮まで今日は妙に神妙な顔で座っていた。疋田豊五郎は腕を組み、藤林長門守は「こういう場はまだ慣れぬ」と顔に書いてあったが、それでもきちんと列の一角へいる。
慶次郎は落ち着かない。
助右衛門は落ち着いている。
だが、その落ち着きの奥が熱いことくらいは、長く見ていれば分かる。
信繁が、まず一番乗りと二番乗りの功を改めて読み上げた。
箕作城。
前田慶次郎利益、一番乗り。
武将首二つ。
奥村助右衛門、二番乗り。
武将首二つ。
呼び上げられた二人が前へ出る。
慶次郎はさすがに胸を張っているが、今日は妙に声が出ない。
助右衛門は普段通りに見える。だが指先だけ、ほんの少しだけ強く握られていた。
信繁は、そこで一度だけ後ろを見た。
控えていた者が、布をかけた長物を運び出す。
広間の空気が変わる。
まず布が払われた。
黒槍だった。
柄は深く黒く塗られている。
ただ黒いだけではない。塗りの奥に鈍い艶があり、その長さと太さがただ者でないと知れる。穂先も大きい。しかも、ただ大きいのではなく、全体が重く沈んだような気配を放っている。
助右衛門が、思わず息を止めた。
信繁が言う。
「奥村助右衛門」
「は」
「本日の功により、貴殿にこの黒槍を与える」
広間が静まり返る。
「軽々しく振るうための槍ではない。前へ出た時、そこを動かさず、押し込み、支え、他の者が続くための槍だ」
助右衛門の目が、槍へ吸い寄せられていた。
「貴殿の働きは、派手ではない。だが、確かだ。今日の二番乗りもまた、その確かさゆえと見た」
そこまで言われると、助右衛門もさすがに喉が動いた。
「……ありがたき幸せ」
声が少し低く掠れる。
信繁は自ら立って、その黒槍を手に取った。
ずしりと重い。普通の兵なら、持ち上げるだけで腕が詰まるだろう。だが助右衛門は、両手を出して受けた瞬間、わずかに目を見開いただけで、そのままきちんと支えた。
「重いか」と信繁。
「……はい」
助右衛門は正直に答えた。
「ですが」
少しだけ口元を引き締める。
「よく手に馴染みます」
広間のあちこちで小さく息が漏れた。
それだけで分かる。ああ、これは助右衛門の槍だ、と。
慶次郎が、横でそれを見ている。
黒槍の出来栄えに、さすがのあいつも一瞬、子供のような目になっていた。
だが、まだ終わらない。
信繁が、もう一本の方へ目を向ける。
「前田慶次郎」
「……はっ」
今度の慶次郎の返事は、さっきより少しだけ小さい。
いや、小さいというより、喉が詰まっているのだろう。
二つ目の布が払われた。
広間の空気が、今度こそはっきり揺れた。
朱槍。
柄は鮮やかな朱。
ただ派手なだけではない。朱の中に槍そのものの格がある。しかも、助右衛門の黒槍よりさらに長い。穂先もまた、ひと目で尋常ならぬと分かる大きさで、全体の均衡が普通の長槍と違う。長い。重い。だが、その重さごと前へ倒れていくような凶暴な美しさがあった。
慶次郎が、本当に言葉を失った。
助右衛門まで、黒槍を抱えたまま横目で見ている。
お市も、真理も、雪姫も、思わず見入った。疋田豊五郎は腕を組んだまま、わずかに目を細める。あれが実用として成るところまで組んだなら、鍛冶の腕も相当に見事だと分かる目だった。
信繁は、その朱槍を見たまま言った。
「前田慶次郎」
慶次郎が、ようやく顔を上げる。
「本日の功により、貴殿に朱槍を許す」
その一言で、慶次郎の肩が震えた。
「以後も、存分に働け」
それ以上は要らなかった。
慶次郎はしばらく口を開けなかった。
普段なら何か一言二言、勢いよく返すはずの男が、今日は本当に何も出ない。
「……治部殿」
ようやく出た声が、妙に弱い。
「何だ」
「これ」
「うむ」
「良すぎるだろ」
広間に、小さな笑いが落ちる。
だが、それで崩れはしない。皆が同じことを思っていたからだ。
信繁は、そこで少しだけ口元を上げた。
「そうだろう」
「いや、だって」
慶次郎は本当に困った顔をした。
「こんなん、持ったらもう」
「もう何だ」
「死ねねえだろ」
その返しに、広間がしんとした。
冗談めいている。
だが、冗談だけではなかった。
この槍を許される。
それは、ただ一日働いた褒美ではない。これから先も、お前はこの槍に恥じぬ働きをしろ、ということだ。慶次郎ほどの男なら、その重さは分かる。
信繁は、そこで声を少し低くした。
「そうだ」
慶次郎が、まっすぐにこちらを見る。
「その朱槍に恥じぬよう働け。だが、無駄死にはするな」
「……はい」
「前へ出る時は誰よりも前へ出ろ。だが、帰る時はちゃんと帰って来い」
慶次郎の目が、そこで少し赤くなった。
本当に、少しだけだったが。
「……はっ」
今度の返事は、きちんと腹に落ちた声だった。
信繁はその朱槍を自分で持ち上げ、慶次郎へ渡した。
重い。長い。だが慶次郎は、受けた瞬間にぐっと腰を落とし、そのまま持ち切った。
「どうだ」と信繁。
慶次郎は、朱槍を見たまま答える。
「……最高だ」
それが一番慶次郎らしい答えだった。
助右衛門が、黒槍を抱えたまま静かに言う。
「慶次郎」
「なんだ」
「よかったな」
慶次郎は、少しだけ鼻をすすってから言った。
「お前もな」
そのやり取りに、十兵衛がわずかに目を細め、半兵衛が珍しく茶化さずに見ている。日置大膳亮も疋田豊五郎も、ただ静かだった。こういう褒美は、剣や弓の技とは別のところで人を育てるのだと、どちらも知っている顔だった。
信繁は、二人を並べて見た。
黒槍の助右衛門。
朱槍の慶次郎。
派手さは違う。
だが、どちらも要る。
「奥村助衛衛門」と信繁。
「は」
「前田慶次郎」
「はっ」
「この二槍、今後の治部家の先駆けと支えとせよ」
二人は同時に頭を下げた。
「はっ!」
その声は、広間の中へよく響いた。
後で聞けば、関兼貞もまた、この二本の出来には自分でも満足していたらしい。
だがそれは当然だろう。片や黒く沈んだ大身槍、片や朱に燃える長槍。どちらも、ただ飾るための槍ではない。持つ者の働きと癖と、その先の生き方まで少しは背負わせるための槍だった。
その日の論功行賞のあと、田代城ではしばらく二本の槍の話で持ちきりになった。
黒槍。
朱槍。
ただの褒美ではない。
治部家が、人をどう見ているか、そのまま形になったような褒美だった。
そして慶次郎も助右衛門も、その出来栄えがあまりに見事で、しばらく本当にまともな言葉が出なかった。
それもまた、あの日の二本がどれほどのものだったかを、何よりよく示していた。
♢
やがて人々は、その槍そのものの見事さだけではなく、**その槍を持って戦場を駆ける二人**を語るようになった。
黒槍の奥村助衛衛門。
朱槍の前田慶次郎。
一人は重く、堅い。
一人は長く、烈しい。
助右衛門が黒槍を構えて前へ出れば、そこはまるで壁が歩いてくるようだったという。
押されても崩れず、寄られても退かず、ただじりじりと詰めて来る。黒く沈んだ槍は派手ではない。だが派手でないからこそ、戦場では余計に怖い。気づけばそこにおり、気づけば味方の先頭を支え、気づけば敵の勢いだけが削がれている。
一方、慶次の朱槍は違った。
あれは見えた時点でもう遅い、と語る者がいた。
長く、重く、しかもその長さと重さを振り回しているのが、あの前田慶次郎である。朱の柄がひるがえるたび、ただ槍が来るのではない。戦場の風向きごと変わるように見えた。前へ出る。跳ねる。抉る。敵からすれば、槍というより獣に近かったろう。
そのため、人々は二人を恐れもしたし、称えもした。
「治部家の黒槍が見えた」
「朱槍が走った」
そう聞けば、味方は勢いづき、敵は身構えた。
しかも厄介なことに、あの二人の槍は、**上か前にしか向かぬ**とも言われた。
引いて受けるためではない。
横へ逃がすためでもない。
ただ、上へ立つか、前へ突き進むか。そのどちらかにしか向かぬ槍。
もちろん、本当にそうだったわけではない。
戦はそんなに単純ではない。だが、そう言われるようになったこと自体が大きかった。
黒槍の助右衛門は、支えながら前へ出る者。
朱槍の慶次は、前へ出ながら上を取りに行く者。
その二人が治部家の槍として立った時、人は自然に、あれは下がるための槍ではないと思うようになったのだ。
そしてまた、人々が感じ取ったのは、槍だけではなかった。
**あの褒賞の出し方**である。
戦のあと、ただ首数を数え、銀を渡し、感状を出して終わりにしなかった。
誰がどのように立ったかを見て、助右衛門には黒槍、慶次には朱槍を与えた。しかも、その槍はただ派手な飾りではない。持つ者の癖と働き、その先の生き方まで見たうえで拵えさせたものだった。
それを見た者は、皆どこかで思った。
――ああ、治部は、人を使っているだけではない。
――人を見ている。
――しかも、見たうえで報いている。
それがじわじわと効いた。
武辺の者は、あのような槍が欲しいと思った。
ただの名物だからではない。あの槍を許されるほど、自分というものを見られたいと思ったのだ。
家中の者は、治部の下で働けば、働きの形ごと拾われるのではないかと思うようになった。
敵は逆に、治部家は武だけでなく、人をまとめる手際まで厄介だと知った。
そうして、この南近江攻略とその後の論功行賞こそが、織田治部大輔信繁の名へ、もう一つ別の響きを与えることになった。
ただの働き者ではない。
ただの兵法好きでもない。
ただの奇策家でもない。
**花も実もある名将。**
そう呼ぶ者が、少しずつ増えていったのである。
しかも、その時に引かれた名は、自然ともう一人の信繁だった。
本家武田典厩信繁。
戦場で名を挙げるだけでは足りぬ。
人を見、家を支え、武に華を添え、それでいて実も取る。そういう将こそ、古くから人は好きだ。治部のこの褒賞は、まさにそこへ触れた。
助右衛門と慶次郎という二本の槍を見れば花がある。
だが、その裏にはちゃんと実がある。
働きを見、働きに合うものを与え、家の中の士気まで上げた。そこまで揃って、初めて「花も実もある」と言えるのだと、人々は感じた。
後に語る者は言う。
南近江を落としたことも大きかった。
だが、真に人の胸へ残ったのは、そのあとに治部が**誰へ何を与えたか**だった、と。
黒槍。
朱槍。
そして、それを掲げて戦場を縦横無尽に駆ける二人の鬼武者。
あの光景は、ただの戦功話では終わらなかった。
治部家とはどういう家か。
治部大輔信繁とはどういう将か。
それを、一目で分からせる光景だったのである。
♢
八幡原へ向かう前夜、典厩信繁は、どうにも胸の底がざわついていた。
武田の陣は整っている。
兵は動き、将は配され、啄木鳥の戦法もすでに固まりつつある。妻女山へ籠る上杉勢を、別動隊で大きく回り込んで追い落とし、八幡原で本隊が受ける。理だけ見れば鮮やかだ。鮮やかで、いかにも人の舌に乗りやすい。だからこそ、逆に気にかかる。
その「気にかかり」を、典厩信繁は自分ひとりの胸へしまっておけなかった。
火の気の弱い陣屋で、典厩信繁は人を呼んだ。
山県三郎兵衛昌景。
高坂弾正昌信。
二人とも、呼ばれた時点で顔つきが違った。
ただの打ち合わせではないと分かっている顔である。川中島を前にして、この人が夜にあらためて人を呼ぶ時は、大抵ろくでもないところへ目が行っている。そして、その「ろくでもなさ」は往々にして当たる。
「典厩様」
山県昌景がまず頭を下げた。
「何事にございます」
高坂昌信も、静かに座へ着く。
典厩信繁は、火の揺れを見たまま言った。
「啄木鳥だ」
それだけで、二人とも黙った。
山県が先に息を吐く。
「……やはり」
「お前たちもか」と典厩信繁。
「はい」
高坂が続ける。
「妙が過ぎます」
その言い方が、すべてを言い表していた。
別動隊が大きく回り、妻女山から上杉勢を追い落とす。
その上で本隊が八幡原で受け止める。理は通っている。だが、あまりにも綺麗すぎる。こちらの思う通りに敵が動き、こちらの思う通りに時間が流れ、こちらの思う通りに兵が間に合う。そういう作戦は、紙の上では美しい。戦場では、たいていどこかでひっくり返る。
典厩信繁は、そこでぽつりと言った。
「真理の輿入れの折、織田治部大輔が妙なことを申した」
山県が顔を上げる。
「織田の治部大輔殿が」
「うむ」
「何と」
典厩信繁は、そこで一言ずつ置くように言った。
「戯言ですが、とな」
高坂の目が細くなる。
「戯言」
「うむ」
「その戯言とは」
典厩信繁は、二人の顔を見てから、はっきりと言った。
「啄木鳥の羽は折れます、とな」
沈黙。
火がひとつ鳴る音だけが、妙に大きく聞こえた。
その沈黙を最初に破ったのは、山県昌景だった。
「そういえばそのような……いや、まさか。しかし、確かにそう申しておりました!」
高坂が、ほとんど同時に言う。
「……この状況、ぴたりとはまるぞ」
典厩信繁は、その二つの反応に、かえって少しだけ背筋が冷えた。自分一人の嫌な勘ではないのだと分かったからだ。
山県が、膝へ手を置いたまま続ける。
「別動隊が大きく回る。その間、本隊は八幡原で待つ」
「うむ」
「相手が別の将ならまだしも、此度は弾正少弼だ」
高坂が静かに継ぐ。
「武田軍の作戦を看破するのも、あの男なら考えられる」
典厩信繁は、ゆっくり頷いた。
「そこだ」
さらに山県。
「しかも、もし読まれておるなら、こちらが一番脆いのは別動隊そのものではなく、別動隊を待つ本隊の時間差にございます」
高坂が言う。
「妻女山から駆け下りた敵が、本隊へ真っ直ぐ噛みつく。別動隊はまだ遠い。そうなれば、啄木鳥の羽どころか、こちらの胴そのものが折れかねませぬ」
典厩信繁は、火を見たまま低く言った。
「治部大輔は、そこまで言わなんだ。だが、あの若造が見たのはたぶん、妙が崩れる一点だ」
高坂は少しだけ苦い顔になった。
「“啄木鳥の羽は折れます”とは、よくもあれだけで済ませたものですな」
山県が小さく息を吐く。
「戯言のように言われると、耳に残ります」
「そうだ」
典厩信繁は、そこでようやく二人を正面から見た。
「私は、啄木鳥が失敗した時のことを考えた」
二人とも黙る。
「別動隊が遅れる。本隊が食い破られる。弾正少弼がこちらの本陣へ迫る」
火が揺れる。
「そうなれば、勘助も生きてはおれまい」
山県の目がわずかに伏せられる。
「……はい」
「献策が外れた、では済まぬ。戦の芯が折れた責は、勘助ひとりの首では足りぬ」
高坂もまた低く答えた。
「我らも、多くが残れますまい」
典厩信繁は、それをさらに言葉にした。
「私も、お前たちも、馬場も、原も、誰がどこで折れてもおかしくない。武田の柱が一度に何本も持っていかれよう」
そこまで言われると、陣屋の空気そのものが重くなる。
啄木鳥が妙であるがゆえに、それが崩れた時の代価もまた大きい。
ただ一戦の敗北ではない。武田の背骨そのものが折れる可能性がある。そういう話になっていた。
山県が、やがて静かに言った。
「典厩様」
「何だ」
「変えましょう」
「うむ」
「妙を捨てるのではなく、妙を薄くするのです」
高坂が、その言葉を取る。
「別動隊を大回りさせ、後背を扼するのではなく、本隊の脇へ控えさせる」
典厩信繁の目が動く。
「横撃か」
「はい」
高坂は頷く。
「弾正少弼が本隊へ噛みついたところへ、横から叩き込む。これなら、別動隊は見失いませぬ」
山県もすぐに続ける。
「本隊は本隊で受ける。その代わり、横から厚みを足す。妙は薄れますが、羽は折れにくくなります」
典厩信繁は、しばらく何も言わなかった。
考えるまでもなく、理は通る。
大回りの別動隊が戦場の背後を衝くのは美しい。だが、その美しさが時間差という危うさを抱える。ならば、別動隊は本隊から離しすぎぬ方がよい。横撃であれば、敵の前進を曲げることができる。少なくとも、来ぬはずの援軍を待って本隊だけが壊れる形にはなりにくい。
「行くぞ」と典厩信繁。
「御屋形様へ申す」
信玄の本陣は、夜の深さのわりに静かだった。
この人の陣は、前の晩ほど静かになる。
それは迷いがないからでもあるし、迷いを人へ見せぬからでもある。
三人が通されると、信玄は顔を上げた。
「何だ」
短い一言だった。
だが、典厩信繁はひるまず正面から頭を下げた。
「啄木鳥の戦法、いま一度お改め頂きたく」
信玄の目が鋭くなる。
「ほう」
そこで退かぬから、この人はこの人なのだろう。
典厩信繁は、そのまま言葉を切らずに並べた。
別動隊が大きく回ることの遅れ。
妻女山から敵がどう下るか不確かなこと。
弾正少弼ほどの相手なら、こちらの腹を読んで先に本隊へ噛みつくこともあり得ること。
そして、その場合、別動隊の到着の遅れが、そのまま本隊の壊滅へ繋がる恐れがあること。
信玄は一度も口を挟まなかった。
山県昌景が後を継ぐ。
「典厩様のお考えに同じく、別動隊は本隊の脇に控えるべきにございます」
高坂昌信も言う。
「後背を扼するのではなく、戦の最中に横から叩き込む。弾正少弼の勢いをそこで曲げるべきかと」
信玄は、なおも黙っていた。
やがて低く問う。
「何が、そこまでおぬしらに言わせる」
典厩信繁は、一瞬だけ息を止めた。
言うべきか。
だが、隠しても仕方がない。
「……真理姫様の輿入れの際、織田の治部大輔が、戯言として申しました」
信玄の眉がわずかに動く。
「何と」
典厩信繁は、はっきりと答えた。
「啄木鳥の羽は折れます、と」
本陣が静まる。
信玄は、三人を順に見た。
若い織田の男の軽口めいた一言を、武田の柱たる三人が、ここまで重く受けている。そこに嘲りの色は浮かばなかった。むしろ、その若造が三人の胸に刺すだけの何かを見たのだと、先に読んだのだろう。
やがて、信玄は地図へ目を落とした。
「啄木鳥はやめる」
三人が同時に顔を上げる。
「本隊が受ける」
信玄の指が八幡原をなぞる。
「別動隊は遠くへやらず、脇に置く」
さらに指がずれる。
「弾正少弼が噛みついたところへ、横から叩き込む」
典厩信繁の胸の奥から、ようやく一つ重いものが下りた。
「はっ」
「弾正少弼相手に妙を競う戦ではない」
信玄の声は低かった。
「折れぬ形を取る」
それで十分だった。
作戦は、その夜のうちに組み替えられた。
別動隊は、妻女山を大きく回って後背を取る役ではなくなった。
本隊の脇に控え、上杉軍が武田本隊へ食いついた瞬間、横から打ち込む刃へ変わった。
翌朝、八幡原に霧が立った。
上杉軍は来た。
しかも速い。
こちらの腹をどこまで読んでいたかは分からぬ。だが、読んでいたとしてもおかしくない速さだった。上杉弾正少弼は、ただ妻女山を守るつもりでいる男ではない。武田が何を望んでいるかを逆に利用してくる、そのくらいのことはする。
正面が噛み合った瞬間、戦は激しくなった。
ここまでは、啄木鳥のままでも同じだったかもしれぬ。
だが、違いはその次に出た。
横撃が早い。
馬場信春と高坂昌信の隊が、本隊の崩れかけるところへ間に合った。
後ろから来るはずのものを待つのではない。脇にいる。だから速い。上杉の前へ出る勢いを、真横からねじ曲げることができる。
それでも、戦は楽ではなかった。
武田の大敗はなくなった。
だが、楽勝にもならない。
上杉の死傷はむしろ増えた。
横撃を受けた分、ただ押し込むだけでなく、押し返されながら斬り結ぶ形になったからだ。だが武田もまた深く血を流した。八幡原の泥は、結局のところ双方の血を飲んだ。
典厩信繁も、そこで大きな傷を負った。
左手は肘から先で斬り落とされた。
右膝にも深い傷を受けた。
それでも、命は残った。
戦の最中、何度も危ういところはあった。
だが、もし啄木鳥のまま別動隊が遠く回っていたなら、この人はその前に本隊の裂け目の中へ飲まれていたかもしれぬ。いや、典厩信繁だけではない。山県も高坂も、馬場も原も、そして何より献策の張本人たる山本勘助も、生きてこの日を終えられたかどうか分からない。
戦後、それがはっきりしていく。
まず、別動隊が川を渡るはずだった地点。
そこに、上杉軍でも屈指の名将**甘粕近江守**が、少数ながら強固な陣を張っていたことが判明した。
ただ兵を置いていたのではない。
渡ってから迎え撃つのでもない。
**渡河の最中に噛みつくための備え**だった。
それを聞いた評定の場で、武田家中の者たちは顔を見合わせた。
「渡河中であったなら……」
「甚大な被害で済むかどうか」
「済むまい」
川は、渡る時がいちばん脆い。
列は伸び、足は取られ、槍も馬も自由がきかぬ。そこへ甘粕近江守ほどの男が構えていたなら、別動隊は最初の一打で大きく削られていたはずだ。
だが、それ以上に重いことがあった。
「甘粕の備えもそうだ」
戦後の評定で、信玄は地図の上へ指を置いたまま言った。
「だが、もっと重大なのは、そもそも弾正少弼こちらの腹を見すかしていたことだ」
典厩信繁、山県昌景、高坂昌信、馬場信春らが黙って聞いている。
「弾正少弼は、こちらが海津城を空にし、別動隊を妻女山へ迂回させ、残りの本隊をもって八幡原で受けるつもりであることを、ほぼ読んでいた」
山県昌景が、低く言った。
「……つまり、別動隊は最初から“来ぬもの”として置かれていた、と」
高坂昌信が続ける。
「あるいは、“来ても間に合わぬもの”として」
信玄は頷いた。
「甘粕の位置、上杉の前へ出る早さ、妻女山からの下り方、すべてがそれを示しておる」
座が重くなる。
もし啄木鳥のまま行っていたなら。
別動隊は渡河で削られ、さらに遅れる。
その間に本隊は八幡原で上杉軍に噛みつかれる。
別動隊の到着が大幅に遅れれば、本隊の裂け目は広がる。
そこへ弾正少弼がさらに押し込めば、武田本体が壊滅していた恐れすら、もはやただの仮定ではない。
その重さを、家中の誰もが感じていた。
その時、誰かがぽつりと漏らした。
「……治部大輔とは千里眼か」
座がぴたりと止まった。
言った本人は、口にしてから「しまった」という顔をした。
だが、誰も笑わなかった。
典厩信繁が、少しだけ遠い目で言った。
「千里眼、というより」
「はい」と山県昌景。
「妙を妙と見て、その折れるところを嗅ぎつけたのであろう」
高坂昌信は、苦い顔で続けた。
「しかも、それを“戯言ですが”で済ませるのですから、なお質が悪い」
馬場信春まで、そこで静かに言った。
「織田の若造とはいえ、末恐ろしいところがある」
信玄は、その評を笑わなかった。
むしろ、ほんの少しだけ口元を動かした。
「面白い若造だ」
それだけだった。
だがその一言は軽くない。
この戦で典厩信繁は生き残った。
左手を失い、右膝も深く傷んだ。もう前のように先頭へ立って戦場を駆けることは難しい。だから、家督は六郎次郎信豊へ譲ることになる。そこまでは、誰もが読めた。
だが、その後は誰も読めなかった。
典厩信繁は、武田の中からひっそりと消えた。
消えたと思われた。
ところが後に分かったことは、あの人、いきなり**田代城へ現れた**のである。
しかも左手を失い、膝を引きずりながら、それでも背筋だけは折れていない。
出迎えた治部大輔信繁が、本気で困る程度には、堂々と現れた。
「死ぬまでは姫のお傍にあって、治部大輔の恩に報いよう」
そう言ったと聞いた時、武田家中は、戦後評定の時とはまた別の意味で黙り込んだ。
「……あの方らしい」
「らしいが、なぜ田代城なのだ」
「真理様の叔父君にあたられるゆえ、姫のお傍に、と」
「恩に報いる、とは」
「治部大輔殿の一言で、啄木鳥を改めたと見ておられるのであろう」
「……千里眼ではないか、やはり」
今度は、何人かが本気で頷いた。
もちろん千里眼ではない。
だが、武田家中から見れば、そう言いたくなるだけのことが続いたのも確かだった。作戦の折れ目をひとことで示し、その結果、典厩信繁が生き残る。しかもその当人が、最後には田代へ流れ着く。
理で追えば追える。
だが、理だけでは片づかぬ気味の悪さと鮮やかさがあった。
一方、田代城では、理より先に現実が困っていた。
「……どうするんだ、これ」
治部大輔信繁は、本気でそう言ったらしい。
その目の前で、真理は泣く。
叔父のそんな姿を見て、平気でいられるはずがない。
「叔父上」
と、真理は声を詰まらせた。
「そのお体で、どうしてそのようなことを」
典厩信繁は、姫ではなく、姪を見るような、しかしそれだけでもない眼差しで答えた。
「真理」
「はい……」
「生きて戻った以上、何もせずに消えるわけにもいかぬ」
「ですが」
「おぬしを案じるのも、治部大輔へ恩を返したいのも、私の勝手よ」
そこで真理はとうとう涙をこぼし、治部大輔信繁は横で本気で頭を抱えた。
「いや、あの、典厩様」
「何だ」
「お気持ちはありがたいのですが」
「うむ」
「ありがたいのですが、困ります」
「知っておる」
「知ってて言うんですか」
「当たり前だ」
その堂々たる返しに、困りごとは深まるばかりだった。
川中島の一戦は、武田の大敗を消した。
だがその代わりに、武田典厩信繁という重い人間ひとりを、そっくりそのまま田代城へ流し込むことになった。
それもまた、治部大輔信繁が後になって「啄木鳥の羽は折れます」という戯言の代償として、背負うことになった一つの結果だったのかもしれない。