織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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042瀬田築城構想

六角戦の論功恩賞が、稲葉山城で改めて開かれたのは、南近江の制圧があまりに鮮やかで、その後の取り決めまで含めて一度きちんと形にせねばならぬと、信長が判断したからだった。

 

広間には、此度の戦で名を挙げた者たちが並ぶ。

箕作で槍を振るった者。

長光寺で押し込んだ者。

和田山で働いた者。

それぞれに褒美はある。だがその日、もっとも重い話は、首数や感状ではなく、**南近江をどう治めるか**にあった。

 

信長が、ひとしきり論功を済ませたのち、ふと信繁へ目を向けた。

 

「治部」

「は」

「近江で領地をやる」

 

広間の空気が、そこで少し変わる。

 

信繁は顔を上げた。

信長は、いつものようにあっさりと続ける。

 

「二十万石だ」

 

ざわ、と空気が揺れる。

 

軽い加増ではない。

ひとつの働き口ではなく、ひとつの国を預けるに近い。しかも近江。京の喉元であり、湖の口であり、東海道の継ぎ目でもある。

 

信長は、そこで地図を広げさせた。

 

「城はどこがよい?」

 

信繁は、すぐには答えなかった。

 

広げられた近江の地図を見下ろす。

南近江。

琵琶湖南端。

京へ近く、湖へ開き、東国へも繋がるあのあたりだ。

 

最初に目へ入るのは、やはり大津だった。

誰が見てもそうだろう。京の東口。港もある。見映えもよい。だが、見映えのよさは、ときにそのまま弱みでもある。

 

信繁は、指を少しだけ滑らせた。

 

「大津……」

 

信長が黙って見ている。

 

信繁は、そこで首を振った。

 

「いや」

 

指が、もう少し南へ落ちる。

 

「瀬田ですかね」

 

信長の目が、わずかに動いた。

 

「ほう」

 

信勝も横から地図を覗き込む。

 

「瀬田か」

 

信長が、そこで口元を少しだけ上げた。

 

「瀬田川を防衛線とするか」

 

信繁は、少しだけ困ったように笑った。

 

「漠然とですが」

「うむ」

「瀬田川を天然の堀にしてみれば、嫌がらせにはなるかな、と」

 

広間のあちこちで、わずかに息が漏れた。

いかにも治部らしい言い方だ。だが、言っていることは軽くない。

 

信長は地図を見たまま言う。

 

「嫌がらせ、で二十万石の城を語るな」

「本音ですので」

「だろうな」

 

信勝が低く笑う。

 

「だが、分かる」

 

信長も頷いた。

 

「大津は京に寄りすぎる。見栄えはするが、瀬田の橋を焼かれれば、かえって向こう側へ押し出される」

 

「はい」と信繁。

 

「大津は前へ張り出しすぎます。押さえるべきではありましょうが、本拠を置くには少し不安が残る」

 

信長が、今度は瀬田川の流れを指でなぞった。

 

「瀬田なら、こちら側だ」

「はい」

「橋を握り、渡りを握り、必要なら橋を落とし、自分はなお地続きで残れる」

「それがいちばん大きいかと」

 

信繁は答えた。

 

「京へ睨みは利きます。東海道も締められます。しかも万一の時に、城の方が川向こうで孤立する形にはなりませぬ」

 

信長は、そこで鼻を鳴らした。

 

「やはりお前、ただ漠然とではないな」

「漠然と申し上げておいた方が、角が立たぬかと」

「今さらだ」

 

座に小さな笑いが落ちる。

 

だが、誰もそれを軽口だけでは受けなかった。

瀬田、という一言の中に、

 

* 瀬田川を天然の堀にする

* 東海道を締める

* 京への前線にする

* 大津を出先で押さえつつ、本拠は地続きに置く

* 橋を味方の防衛線にも敵の喉にも変える

 

そういう理が詰まっていることを、皆それぞれに感じ取っていたからだ。

 

信長が、あらためて言う。

 

「瀬田に城を置く」

「は」

「大津は捨てぬ。だが、本拠は瀬田だ」

「はい」

「よい」

 

それだけで、話はほぼ決まった。

 

だが信長は、そこでなお一つ足した。

 

「治部」

「はい」

「そこは、ただの褒美の地ではない」

「承知しております」

「京の前だ。湖の口だ。石山本願寺のことを思えば、いずれ兵も銭も船も、そこを通る」

 

信繁は深く頭を下げる。

 

「はい」

「二十万石の大名というより、二十万石分の仕事場だと思え」

 

信繁は、そこで少しだけ笑った。

 

「それもまた、ありがたい話にございます」

 

信勝が、横で言う。

 

「お前にはちょうどよい」

「兄上まで」

「働く城には、働く男を置くものだ」

 

その評には、広間の何人かも小さく頷いた。

 

治部家は今や、ただ戦うだけの家ではない。

北畠を結び、浅井と線を引き、雪姫を迎え、真理と向き合い、藤林長門守や疋田豊五郎まで抱え込んでいる。そういう家が瀬田に置かれるとなれば、それは単なる城持ちではなく、**京と東国、湖と街道、前線と兵站の結び目**を任されるということだった。

 

信長は地図を閉じさせながら、最後にもう一度だけ言った。

 

「瀬田川を天然の堀、か」

 

信繁が顔を上げる。

 

「はい」

 

信長の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮いた。

 

「嫌がらせとしては、悪くない」

 

信繁も、そこでようやく少しだけ笑った。

 

「ありがたきことで」

 

六角戦の論功恩賞の場で決まったのは、槍や感状や加増だけではなかった。

治部家が、これからどこに根を張り、何を受け持つ家になるのか。その骨まで、そこで定まったのである。

 

そして瀬田という名は、その日から、ただの地名ではなくなった。

治部家が京の東口へ据えられる、新たな喉元の名として、重みを持って響き始めたのだった。

 

 

瀬田に新たな城を置くと決まってから、信繁はすぐに普請奉行へ話を下ろさなかった。

 

まず呼んだのは、明智十兵衛。

竹中半兵衛。

そして、顧問として武田典厩信繁。

 

場所は田代城の一室。

地図と縄張りの荒絵図が広げられ、その周りに四人が座している。

 

信繁が、紙の上へ指を置いた。

 

「まっすぐ囲うのはつまらん」

 

十兵衛がすぐに眉を寄せる。

 

「つまらん、で城を語らないで下さい」

「だが本音だ」

「本音でも困ります」

 

半兵衛が、横で静かに笑う。

 

「つまり、直線で囲うと横から射ちにくい、と仰りたいのでしょう」

「そう、それだ」

 

武田典厩信繁が、残った右手で地図の端を押さえる。

 

「で、どうしたい」

 

信繁は、そこで瀬田の地形へ沿って、外へ張り出す角をいくつか描いた。

 

「こういうのはどうでしょう」

 

十兵衛が、すぐに顔を寄せる。

 

「……妙な形ですな」

「妙だが、どの面へ寄っても、隣の角から矢鉄砲が飛ぶ」

 

半兵衛が頷く。

 

「死角を減らす、と」

「そう」

 

典厩信繁が低く言う。

 

「攻める側から見れば、嫌な形だ」

「ほう」

「門へ真っ直ぐ寄ったつもりでも、横から射られる。しかも一つ角を崩しかけても、隣から援けが来る」

 

十兵衛が、そこでさらに細かく見る。

 

「ただし、角を出しすぎると守兵が足りませぬ」

 

「そこだな」と信繁。

「全部を綺麗な星にはせん」

 

半兵衛が、紙へ軽く手を置いた。

 

「橋詰側と街道側だけを強く張り出す方がよろしいでしょう」

 

典厩信繁もすぐに頷く。

 

「うむ。全周を妙な形にするより、敵の来る面だけを濃くする方が、戦国の普請には合う」

 

「つまり」と十兵衛。

「正面二面に大きな張出し、背後は普通の曲輪寄り」

 

「そうだ」

信繁が言う。

「上から見れば少し星めいて見える、くらいでよい」

 

半兵衛が笑う。

 

「“少し”で済むかは怪しいですが」

「済ませるのが腕の見せ所だ」

 

典厩信繁が、そこでぽつりと言う。

 

「橋を焼かれた時は」

 

全員の目がそちらへ向いた。

 

「はい」と信繁。

「その時こそ、こちら側が本城でなければならぬ。大津に本城を置くと孤立する。瀬田側に本城を置き、橋の向こうは出先で押さえる」

 

十兵衛が、そこへは強く頷いた。

「本城は瀬田。橋詰に大出丸。大津は砦と代官所、港支配」

 

「うむ」と半兵衛。

 

「町も含めて総構えにしたいですな。兵糧、船着き、関所、馬場、普請場まで外郭へ抱え込みたい」

 

「町ごと囲うか」と信繁。

 

「働く城ですから」と半兵衛。

「兵站が外に剥き出しでは意味がありませぬ」

 

典厩信繁は、そこで少しだけ目を細めた。

 

「よい」

 

「何がです」と十兵衛。

 

「攻める側からすると、嫌なことばかりだ」

 

信繁が笑う。

 

「それは褒め言葉として受け取っておきます」

 

典厩信繁は、荒縄張りの橋詰側を見ながら続けた。

 

「ここへ大きめの出丸を置け」

「橋の前に、ですか」

「うむ。敵に最初に噛ませる場所が要る。そこで止める。もし破られても、本城の角から横に撃てるようにしろ」

 

十兵衛が、すぐに書き足す。

 

「二重の枡形に近くなりますな」

 

「よい」と信繁。

 

「まっすぐ門へ入れぬようにしたい」

 

半兵衛が言う。

 

「堀も、ただ広いだけでなく、底へ畝を切る手もあります」

 

典厩信繁がそちらを見る。

 

「畝堀か」

「はい。全面は無理でしょうが、大手前だけでも十分嫌らしい」

 

「嫌らしい、で褒められる城というのも妙ですな」と十兵衛。

 

「城は嫌らしくてよい」と信繁。

「真っすぐで分かりやすい城ほど、落ちやすい」

 

そこで四人の目が、ようやく同じところを向いた。

 

瀬田本城。

橋詰大出丸。

街道口の張出し。

枡形虎口。

部分的な畝堀。

総構えで囲う町。

大津側の出先拠点と港支配。

 

五稜郭そのものではない。

だが、五稜郭のような「互いに援護し合う角」の思想は、たしかにそこへ落ち始めていた。

 

典厩信繁が、最後に言った。

 

「治部大輔」

「何でしょう」

「この城、妙だな」

「そうでしょう」

「だが、戦場で会いたくはない」

 

信繁はそこで満足げに頷いた。

 

「それでよいかと」

 

半兵衛が静かにまとめる。

 

「では、“妙だが、理にかなう”で進めましょう」

 

十兵衛も頷く。

 

「普請奉行へは、そのように下ろします」

 

信繁は地図を見たまま言った。

 

「頼む」

 

そして典厩信繁は、ほんの少しだけ口元を動かした。

 

「まったく」

「何です」

「死ぬ前に、こんな城の縄張りを評するとは思わなんだ」

 

その一言に、誰も軽くは笑わなかった。

だが、妙に悪くない空気がそこにはあった。

 

 

瀬田城の縄張りを詰める評定は、地図と荒絵図が机いっぱいに広げられたところから始まった。

 

瀬田川。

橋。

東海道。

大津側への出先。

本城の張り出し。

橋詰出丸。

馬出。

総構え。

 

信長、信勝、治部大輔信繁。

明智十兵衛。

竹中半兵衛。

そして、顧問として武田典厩信繁。

 

ここまで顔ぶれが揃えば、もうただの普請の話ではない。

京の東口をどう押さえ、どう見せ、どう生き残るか。その骨を決める場だった。

 

信長が荒絵図を見下ろしながら言う。

 

「瀬田を本城とするところまではよい」

 

「はい」と信繁。

 

「橋詰出丸も置く。街道口は折る。総構えも回す」

「はい」

「では、その先だ」

 

信長の指が、本丸の奥へ置かれる。

 

「ここは、どう使う」

 

十兵衛が、すぐに図面の一角を示した。

 

「本丸奥を一段上げ、御座所兼高楼の区画にする案にございます」

 

半兵衛が続ける。

 

「普段は政務と詰めの空間。御成の折は上総介様の御座所」

 

典厩信繁が、地図のその部分をじっと見る。

 

「軍事の中枢から少し退かせるのだな」

 

「はい」と十兵衛。

「兵の動線と御座所の動線を重ねすぎぬ方がよろしいかと」

 

信長は、そこでふいに治部を見る。

 

「お前はどう思う」

 

信繁は、少しだけ間を置いた。

 

実は、ここから先が今日いちばん言いにくい。

言いにくいが、言わねばならないことでもある。

 

「御座所は要りましょう」

「うむ」

「上総介兄上がお成りの折だけでなく、公家衆や勅使を迎えるにも、瀬田ほどの城に清浄な御殿は欠かせませぬ」

 

信勝が静かに頷く。

 

「そこまでは自然だな」

「はい」

 

信繁は、そこでさらに続けた。

 

「そのうえで」

 

信長の目が少しだけ細くなる。

 

「万一、京に騒ぎあらば」

 

座が、ぴたりと止まった。

 

十兵衛が、ほんのわずかに顔を上げる。

半兵衛は、目だけで先を促した。

典厩信繁は黙っている。

信勝も、何も言わず弟分の口を待った。

 

信繁は、そのまま言う。

 

「ひとまずお入り頂けるような御殿にしておけば、後々必ず効いて参ります」

 

信長が黙った。

 

その沈黙は短くない。

誰も軽々しく言葉を足さない。

 

やがて信勝が、静かに確認するように言う。

 

「京に騒ぎ、とは」

「火でも、乱でも、何でもにございます」

 

信繁は答えた。

 

「いざという時、帝や院、あるいは公卿衆を、どこへ一時お移しするか。その候補を、こちらが最初から持っておく」

 

典厩信繁が、そこで低く言った。

 

「露骨だな」

「はい」

 

信繁は正直に頷く。

 

「だからこそ、名目は別にございます」

 

信長の目が、少しだけ動く。

 

「ほう」

「表向きは御成御殿。あるいは勅使・公家衆の逗留所。ですが作りだけは、万一にも使えるようにしておく」

 

十兵衛が、そこでようやく口を開いた。

 

「……兵の動線から切り離した静かな区画にせねばなりませぬな」

 

「そうだ」と信繁。

「主戦面の真上や真横では困る」

 

半兵衛が、図面へ指を置く。

 

「なら、本丸奥のさらに一段奥、独立した小郭に御殿を置きますか」

「うむ」

「井戸も別」

「要るな」

「台所も小さく独立」

「要る」

「裏から湖側か、少なくとも後方の控え郭へ抜ける道」

「それも要る」

 

典厩信繁が、ようやく口元を動かした。

 

「治部大輔」

「何でしょう」

「それはもう、ただの御成御殿ではないな」

「そうです」

 

そこは否定しない。

 

「だが、表でそうは申さぬ方がよろしい」

「もちろんにございます」

 

信長が、そこで初めて口を開いた。

 

「お前」

「はい」

「そこまで考えておったか」

「瀬田は京の東口です」

 

信繁は答えた。

 

「働く城にするなら、兵と銭と船だけでなく、人の格も受けられねばなりませぬ」

 

信勝が小さく息を吐く。

 

「人の格、か」

「はい。勅使、公家、院使、その先まで」

 

典厩信繁が、少しだけ感心したように言う。

 

「戦国の城で、そこまでを最初から入れるか」

「入れられる時に入れておいた方がよいかと」

 

半兵衛が静かに笑った。

 

「後から足すには、重い要素ですからな」

 

「そういうことだ」と信繁。

「後で“あればよかった”では遅い」

 

十兵衛が、図面の本丸奥を書き直しながら言う。

 

「なら、御成御殿は高楼と切り離し気味にした方がよいでしょう」

 

信長がそちらを見る。

 

「高楼とは別か」

「はい。高楼は見せる場、物見の場、象徴の場。御殿は静かでなければなりませぬ」

 

「なるほど」と信勝。

「同じ本丸内でも、役目を分けるか」

 

「その方が自然です」と十兵衛。

「上総介様の御座所として高楼を使う時と、朝廷方をお迎えする時では、求められる空気が違います」

 

「たしかにな」と信長。

 

典厩信繁が、その整理には頷いた。

 

「よい。軍の城の中に、静かな別の顔を持たせるわけだ」

「はい」

 

「ただし」と典厩信繁。

「敵が知れば、真っ先に狙う」

 

「そこも承知にございます」

 

信繁は答えた。

 

「だからこそ、あからさまに“そのための御殿”とは見せませぬ。普段は上総介兄上の御成にも使い、公家衆の逗留にも使う。そうしておいて、いざとなれば受け皿になる」

 

信長が、そこで少しだけ笑った。

 

「お前らしいな」

「何がにございますか」

「露骨なことを考え、見せ方は露骨でなくする」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「そうしておけ」

 

座に、少しだけやわらかい空気が落ちた。

 

だが、話の中身は重いままだ。

 

信勝が、改めて図面を見る。

 

「では、瀬田城の中枢は三つに割れるな」

 

「三つ」と半兵衛。

「前面の戦う城」

 

「うむ」

「中ほどの働く城」

「兵站、政務、評定」

「そして奥の静かな城」

 

十兵衛が頷く。

 

「御成と、いざという時の受け皿」

 

信繁が、そこでようやく全体を言葉にした。

 

「橋を締める」

 

一つ。

 

「兵と物を捌く」

 

二つ。

 

「人の格を受ける」

 

三つ。

 

「瀬田城は、その三つを持つべきかと」

 

典厩信繁が、残った右手で図面を軽く叩いた。

 

「厄介だな」

「ええ」

「だが、そういう城ほど落としにくい」

「それなら上出来です」

 

半兵衛が言う。

 

「普請奉行は驚きますな」

 

十兵衛が即座に返す。

 

「まず間違いなく、“ここまで要るのですか”と申すでしょう」

 

信長が鼻を鳴らした。

 

「要る」

 

「はい」と十兵衛。

「そう申されると思っておりました」

 

信勝が、そこで少しだけ声を和らげた。

 

「治部」

「はい」

「これは朝廷工作になる。だが、あまり前へ出しすぎるな」

「承知しております」

「表では、あくまで御成御殿、公家衆逗留所だ」

「はい」

「その裏で、有事にも耐える」

「はい」

 

信長が、最後に言った。

 

「よし」

 

誰もが少しだけ姿勢を正す。

 

「瀬田城には高楼を置く。御成御殿も置く。だが御殿はさらに奥へ引く」

「は」

「公家も勅使も、いざとなればもっと重い御方も、ひとまず入れられるようにしておけ」

 

信繁が深く頭を下げる。

 

「承知いたしました」

 

それで決まった。

 

瀬田城は、ただの前線城ではなくなった。

ただの兵站城でもない。

京の東口を締め、瀬田川を天然の堀とし、橋を握り、船を捌き、兵を集め、そのうえでいざという時には朝廷方まで一時受け入れうる城として作られることになった。

 

評定を下がったあと、典厩信繁は廊でぽつりと言った。

 

「治部大輔」

「何でしょう」

「おぬし、戦の城を作っているのか、国の殿舎を作っているのか、時々分からなくなるな」

 

信繁は少しだけ笑った。

 

「両方でしょう」

 

典厩信繁も、そこでほんの少しだけ口元を動かした。

 

「……そういうところが厄介だ」

「褒め言葉として」

「受け取るな」

 

だが、そのやり取りのあとで、典厩信繁はもう一度だけ振り返って言った。

 

「よい城になる」

 

信繁は、その一言には素直に頷いた。

 

「そうしたいと思っております」

 

瀬田城は、その日また一つ、ただの縄張りから離れていった。

戦のための城でありながら、同時に戦の外まで抱え込む城へ。

 

それは、信長の時代が少しずつただの勝ち戦ではなく、何を守り、何を受けるかを問う時代へ移り始めていることを、先取りして示すようでもあった。

 

 

「橋とは」

 

俺は瀬田川の絵図を指で叩いた。

 

「一本である必要はない」

 

普請評定の座が、一瞬だけ静まる。

 

十兵衛がまず目を上げ、半兵衛はそのまま絵図へ視線を落とした。典厩信繁は腕を組んだまま、何を言い出す気だという顔をしている。大工頭と普請奉行は、もう慣れたような、まだ慣れていないような顔で俺を見た。

 

「……治部様」

 

十兵衛が、いつもの落ち着いた声で言う。

 

「橋の話にございますよな」

「そうだ」

「一本でなくてよい、とは」

「橋を焼かれた後の話だ」

 

それで半兵衛の目が上がった。

 

瀬田に本城を置く以上、瀬田大橋は喉だ。

だが喉であるということは、真っ先に狙われるということでもある。焼かれる。落とされる。切られる。そこまでは、最初から考えておかねばならぬ。

 

俺は絵図の橋の少し下流を指でなぞった。

 

「大橋が落ちても、本城は残る」

 

「はい」と十兵衛。

「瀬田側が本城ですからな」

 

「だが、残るだけでは足りん」

 

「向こう岸への手が死にますな」と半兵衛。

 

「そういうことだ」

 

典厩信繁が、そこで低く言う。

 

「で?」

「橋材です」

 

俺は答えた。

 

「丸太と板をあらかじめ幾つかの組にしておく」

 

大工頭が首を傾げる。

 

「組、に」

「うむ。一本丸ごとの橋をいつも用意しておくから、焼かれると終わる。そうではなく、平時は材木にしか見えぬ橋材を分けて持っておき、いざという時だけ数珠つなぎで橋にする」

 

普請奉行が、思わず身を乗り出した。

 

「丸太と板を、数珠つなぎに」

「そうだ」

 

俺は、別紙へざっと線を引いた。

 

下に丸太束。

その上に横木。

さらに板を載せる。

左右を縄と鉄輪で締める。

一つ一つは短い。だが、つなげば橋になる。

 

「……ほう」

 

最初にちゃんと声を出したのは、典厩信繁だった。

 

「浮橋寄り、ですか」と十兵衛。

 

「そこまで露骨な舟橋ではない」と俺。

「だが、理は近い。水へ浮かせる。あるいは浅いところなら、ところどころで簡単な脚を打つ。大事なのは、大橋の代わりに一晩で細い橋を通すことだ」

 

半兵衛がすぐに取る。

 

「立派である必要はない、と」

「うむ。まずは人と馬が渡れればよい。次に鉄砲と兵糧だ」

 

大工頭が絵を覗き込みながら言った。

 

「普段は分けておくのですな」

「それが肝だ」

 

俺は頷いた。

 

「橋の形で置いておけば、見つかった時に意味が知れる。だが、丸太束、床板、横木、締め縄、鉄のかすがい、それぞれ別に置いておけば、ただの材木置き場に見える」

 

十兵衛の目が細くなる。

 

「しかも、隠しやすい」

「そうだ」

「橋詰近くの倉へまとめすぎると、敵にも読まれますな」

 

「ゆえに分ける」と半兵衛。

「橋詰の倉、川際の材木小屋、船着きの荷場、城下の普請場。見せ方を変えて散らす」

 

「うむ」

 

普請奉行が、少しずつ腑に落ちてきた顔をする。

 

「なるほど……。橋そのものを隠すのではなく、橋になるものを散らしておくわけですか」

「そういうことだ」

 

典厩信繁が、そこでぽつりと言った。

 

「攻める側からすると嫌だな」

「でしょうな」

「橋を焼けば、向こうはしばらく死ぬと思う」

「そう思わせる」

「ところが夜のうちに、人足が動き、丸太束が運ばれ、板が載り、朝には細い橋が一本通る」

 

俺は少しだけ笑った。

 

「それが理想です」

 

典厩信繁も、そこでほんのわずかに口元を動かした。

 

「たしかに嫌だ」

 

十兵衛が、図面へさらに書き足す。

 

「なら、架橋地点も本橋そのものではなく、少しずらした方がよろしいですな」

「うむ」

「本橋跡は敵も見張る。だから少し上流か下流」

 

「ただし流れの急なところは駄目です」と半兵衛。

「浅く、岸の取り付きがよく、こちら側から材を運び込みやすい場所を、最初に決めておく必要がある」

 

大工頭がそこへ乗ってくる。

 

「それなら、川筋を見て、橋の掛けやすい点を三つほど選びます」

 

「三つ」と十兵衛。

 

「一つでは足りぬか」

「一つでは、読まれまする」

 

大工頭は、そこだけは妙に確信があった。

 

「二つでも、意地悪な相手なら先回りするやもしれませぬ。なら、三つ。いつも掛けるのはそのうち一つだけ。残りは捨て場にも囮にも使えます」

 

「よい」と俺。

「そのくらいの嫌がらせはしてよい」

 

「また嫌がらせでございますか」と十兵衛。

 

「本音だ」

「でしょうな」

 

半兵衛が、もう一つ別の問題を出した。

 

「組み橋は、架けるだけでなく、流されぬよう固定せねばなりませぬ」

 

「綱ですな」と普請奉行。

 

「うむ。岸に取る綱、上流へ流れ止めの控え綱、浅瀬なら杭も打ちたい」

 

典厩信繁が、そこへ低く言う。

 

「幅は欲張るな」

 

皆がそちらを見る。

 

「最初から立派な橋を目指せば遅くなる。まずは二人か三人並んで通れるだけでよい。戦の橋とは、きれいであることより、早く通ることの方が大事だ」

 

「はい」と十兵衛。

 

「まずは伝令、次に人足、次に鉄砲、最後に兵糧と馬」

「そういう順だ」

 

半兵衛が、帳面へ書き込んでいく。

 

「架橋に必要な人足組も、普段から決めておくべきですな」

 

「当然」と俺。

 

「いざという時に“誰が綱を張る”“誰が丸太束を押し出す”“誰が板を載せる”を相談していては遅い」

 

普請奉行が、そこでようやく本気の顔になった。

 

「治部様」

「何だ」

「これ、橋方の衆を別に育てるべきです」

「そうなるな」

「普段は普請場や船着きで働かせておき、いざという時だけ橋を組む者どもにする」

「よい」

 

典厩信繁が、そこで絵図の上に残った右手を置いた。

 

「これなら、橋が落ちても終わらぬ」

「そのための案です」

「地下でも掘るかと思うておった」

 

俺は思わずそちらを見た。

 

「さすがに川の下は掘りませんよ」

「そうか」

「面白くはありますが、面白いだけで本城が沈んでは意味がない」

 

典厩信繁が、それには小さく笑った。

 

「その見切りがあるなら、まだ安心だ」

 

十兵衛が、そこで少しだけ表情を和らげた。

 

「橋とは一本である必要はない」

「うむ」

「なるほど、言われてみればその通りですな」

 

半兵衛も続ける。

 

「普段は材木。戦時は橋。しかも使い潰してよい」

「そうだ。立派なものを一つ守るより、組み替えられるものを幾つも持つ方が、こういう喉元では強い」

 

大工頭が、紙へ墨で四角を幾つも描いた。

 

「一組の長さは、どのくらいに」

「人足四、五人で運べる程度」

「では短めにして、数でつなぎますか」

「それがよい」

「床板は外せるように」

「うむ」

「丸太束は浮力優先」

「うむ」

「鉄のかすがいと縄は別保管」

「それも」

 

普請奉行が、そこでぽつりと言った。

 

「橋とは、一本である必要はないのか……」

 

その言い方に、座の空気が少しだけ変わった。

 

腑に落ちたのだろう。

橋は、ただ一本大きく架かっているもの。そう思い込んでいたところへ、「ばらして持ち、つなげて渡る」という理が入った。戦国の普請としては十分ありうるのに、発想だけが少しずれていた。そのずれが、今ようやく形になり始めている。

 

俺は、その顔を見て言った。

 

「そうだ」

 

皆がこちらを見る。

 

「橋を焼いて安心した敵を、こちらは翌朝困らせればよい」

 

典厩信繁が、そこで本当に小さく笑った。

 

「嫌な男だな」

「褒め言葉として受け取ります」

「だから礼を言うな」

 

十兵衛がまとめへ入る。

 

「では、瀬田城本橋とは別に、非常架橋用の組み橋を作る」

「はい」

「丸太束、横木、床板、締め縄、鉄具を分散保管」

「はい」

「架橋地点は三つ。常用は一つに絞り、残りは囮と予備」

「はい」

「橋方の人足組を常備」

「それも」

 

半兵衛が最後に一つ加えた。

 

「この橋、架けたあともすぐ壊せるようにしておいた方がよろしい」

 

「うむ」と俺。

 

「味方を通したあと、必要ならまた外す」

「橋を持つのではなく、橋を出し入れする感覚ですな」

「まさにそれだ」

 

それで決まった。

 

瀬田城は、大橋一本に命を預ける城ではなくなった。

橋を焼かれてもなお、細い橋を夜のうちに生やす城になる。

 

敵から見れば、厄介だろう。

味方から見れば、心強いだろう。

そして俺から見れば、それでようやく「働く城」と呼べる形に少し近づいた気がした。

 

 

「橋を焼かれても」

 

俺は瀬田川から琵琶湖南端へ続く荒絵図を見ながら言った。

 

「道まで消えるとは限らん」

 

組み橋機構の案がひとまず形になったあとも、評定は終わらなかった。

橋が落ちた後にどうするか。そこを詰め始めると、どうしても「では、その先は」となる。細い橋を夜のうちに一本戻せるようにする。それはいい。だが、それとは別に、もう一つ、敵が見落としやすい筋を持っておければなお強い。

 

十兵衛が顔を上げる。

 

「治部様、まだございますか」

「ある」

「橋をもう一本作る話にございますか」

「半分はそうだ」

 

半兵衛が、そこで少しだけ目を細めた。

 

「半分、ですか」

「橋を作るのではない。道を見つける」

 

それで、典厩信繁がわずかに興味を示した。

 

「ほう」

 

俺は指を、大津のあたりから南湖の岸辺に沿って滑らせた。

 

「湖は広い。だが、広いからといって、どこも同じ深さというわけじゃない」

 

十兵衛がすぐに取る。

 

「浅瀬、洲、砂のたまり、そういうものですな」

「うむ」

「それを、先に洗っておく」

「そうだ」

 

半兵衛が、そこで少し身を乗り出した。

 

「大津付近から、ですか」

「真っ正面からではない」

 

俺は首を振った。

 

「大津の城下前から、そのままずぶずぶ歩いて渡れるなどとは思わん方がいい。そんな都合のいい話なら、とうに皆が使ってる」

 

典厩信繁が、そこで小さく頷いた。

 

「うむ。そういうものは、たいてい使い物にならぬ」

「ええ。だが」

 

俺は続けた。

 

「南湖は北より浅い。浅いがゆえに、船頭と漁師しか知らぬ筋がある」

 

座が少し静まる。

 

「歩けるところは歩く。深みだけ舟を使う。最後は板を渡す。そういう細い道なら、どこかに作れるはずだ」

 

十兵衛が、少しだけ考えてから言った。

 

「つまり、徒歩だけでも舟だけでもない」

「うむ」

「徒歩と小舟と、必要なら仮の板橋まで合わせた“複合の渡し”にするわけですな」

「それだ」

 

半兵衛が帳面へ何か書きつけながら言う。

 

「なら、これは道ではなく“手順”ですな」

「ほう」

「一つの場所へ行けば渡れる、ではない。

まずここを歩く。

次にここで小舟へ乗る。

向こう岸近くでまた歩く。

必要なら最後に板を掛ける。

そういう、知っている者しか通れない筋にする」

 

「その方がよい」と俺。

「道そのものを残すより、通り方を持つ方が秘匿しやすい」

 

大工頭と普請奉行は、今日は黙って後ろへ控えていたが、その言葉でようやく話の形が見えてきたらしい。普請奉行が遠慮がちに言う。

 

「殿、それは……橋というより、渡しをいくつも重ねるようなものですな」

「そう思えばいい」

 

典厩信繁が、そこで口を開いた。

 

「実戦で効くぞ」

 

皆がそちらを見る。

 

「大軍は無理だ」

 

そう前置きしたうえで続ける。

 

「だが、大軍など通さずてよい。使者、伝令、物見、選抜の兵、退くべき者の収容。それだけでも戦の重みは変わる」

 

「まさにそこです」と俺。

「橋が焼けた時、敵は“これで向こうはしばらく死んだ”と思う」

 

十兵衛が頷く。

 

「ええ。まずはそう見ますな」

「だが、その夜のうちに、こちらの使者が大津側へ出ていたり、向こうの兵がこちらへ戻ってきたりしたら」

 

半兵衛が静かに言った。

 

「かなり嫌らしい」

「だろう」

 

俺は少し笑った。

 

「俺が敵なら嫌だ」

 

「治部様はたいてい嫌です」と十兵衛。

「おい」

 

「褒めております」

 

典厩信繁が、そのやり取りには少しだけ口元を緩めた。

 

「しかし、筋はどう洗う」

 

そこはもっともだ。

 

俺は絵図の脇に、小さく人の名を書き始めた。

 

漁師。

船頭。

猟師。

葦刈り。

網元。

水鳥を追う者。

川と湖のきわを、日々、職として見ている者たちだ。

 

「こいつらに金を払う」

 

普請奉行が目を上げる。

 

「橋大工ではなく、ですか」

「橋は作るものだ。だが道は、知っている者から買う方が早い」

 

半兵衛が、そこはすぐに頷いた。

 

「なるほど。

水の浅い筋。

足を取られぬ底。

風で危ないところ。

舟を寄せやすい葦際。

そういうものは、地元の口伝の方が早い」

「そういうことだ」

 

十兵衛が補う。

 

「ただし、紙には残しすぎぬ方がよろしいですな」

「当然だ」

「案内役だけが知る」

「うむ」

「瀬田本城に一組、大津側に一組」

「それでいい」

 

典厩信繁が、そこでふと問う。

 

「案内役が死ねば」

「次が要る」

 

俺は即答した。

 

「一人だけに持たせるのは駄目だ。二組、三組。しかも互いに全部は知らぬ方がよい」

 

十兵衛が頷く。

 

「口伝を割るのですな」

「そうだ。一つの筋を知る者、二つの筋を知る者、舟を出すだけの者。役を分ける」

 

半兵衛が、そこへまた一つ足した。

 

「季節でも変わりますな」

「うむ」

「渇水時だけ使える筋、夏だけ危ない筋、風向きで駄目になる筋」

 

「だからこそ、今のうちから見ておく」と俺。

「平時に洗っておかねば、いざという時に“たぶんあの辺り”では人が死ぬ」

 

そこは皆、真顔で頷いた。

 

妙案のようでいて、実際にはかなり地味だ。

だが、こういう地味な保険が、いちばん命をつなぐこともある。

 

普請奉行が、慎重に尋ねる。

 

「殿。これは、橋の代わりになりますか」

「ならん」

 

俺はきっぱり言った。

 

皆が少し驚いた顔をする。

 

「大軍も、荷駄も、馬も、好きなようには通せん。だからこれは、大橋の代わりではない」

「では」

「保険だ」

 

典厩信繁が、低く言った。

 

「逃げ道であり、連絡路であり、敵が見落とす細道」

「その通り」

「なら強い」

 

十兵衛が、そこで絵図の端へ小さく書き加えた。

 

橋。

組み橋。

非常渡湖路。

 

三つが並ぶ。

 

「瀬田城は、大橋一本で生きる城ではない、ということですな」

「そうしたい」

 

半兵衛が続ける。

 

「本橋がある。落ちたら組み橋を戻す。それでも間に合わぬ時は、非常渡湖路で人だけは通す」

「うむ」

「三段構えですな」

「そういうことだ」

 

典厩信繁が、そこでぽつりと言った。

 

「大軍を渡す道ではない」

「ええ」

「だが、こういう道が一つあるだけで、城は急にしぶとくなる」

 

その言い方は、戦を知る人間のものだった。

 

実際、そうなのだ。

百人が通れぬ道でも、三人通れれば変わる。

伝令が通れれば変わる。

負傷した将ひとりを抜ければ変わる。

戦とは、時にそういうもので持ち直す。

 

俺はそこで、絵図の上を指でなぞった。

 

「橋を焼いて安心した敵に」

 

皆がこちらを見る。

 

「まだ人が出てくることこそ、嫌がらせだ」

 

十兵衛が少しだけ笑う。

 

「結局そこへ戻りますか」

「本音だからな」

 

半兵衛も、珍しく声に笑いを混ぜた。

 

「大変よろしい本音かと」

 

典厩信繁は、最後に一つだけ釘を刺した。

 

「ただし、使いどころは選べ」

「もちろんです」

「“渡れるらしい”と敵に知れた瞬間、価値は半分になる」

「だから口伝だ」

「うむ」

「だから複数筋だ」

「うむ」

「だから、歩けるところは歩き、深みだけ舟にする。いかにも“橋”に見せぬ」

 

典厩信繁は、それでようやく納得したらしい。

 

「よい」

「ありがとうございます」

「礼を言うな」

 

それで決まった。

 

瀬田城には、本橋がある。

本橋が落ちても、組み橋ユニットで細い橋を戻せる。

それでもなお間に合わぬ時には、大津付近から南湖の浅瀬と船頭筋を使う、知る者しか通れぬ細い道がある。

 

大きな道ではない。

だが、こういう細い道こそ、城をしぶとくする。

 

瀬田城はまた一つ、単に堅いだけの城ではなく、**折られてもまだ手を伸ばせる城**へ近づいた。

 

 

「城を作るなら」

 

俺は瀬田城の荒絵図の脇へ、別の紙を一枚置いた。

 

「酒も作る」

 

十兵衛が顔を上げ、半兵衛は一瞬だけ目を細め、典厩信繁は「また来たか」という顔をした。

普請評定は、城をどう囲うか、橋が落ちたらどう戻すか、雷除けをどう入れるか、そこまでで一段落したはずだった。

 

だが俺の中では、瀬田を押さえるというのは、ただ砦を築くことではない。水と人と物の流れを、丸ごと掴むことだ。なら、水があるなら酒へ行くのは自然だった。

 

「……治部様」

 

十兵衛が、いつもの丁寧な声音で言う。

 

「普請の話から、急に酒ですか」

「急ではない」

 

俺は首を振った。

 

「瀬田を押さえる。大津を押さえる。湖の口を押さえる。なら、その土地の水と穀物で何を立てるかまで、一緒に決めた方が早い」

 

半兵衛が、そこで静かに取る。

 

「近江は水がよい」

「そうだ」

「田も取れる。麦も取れる。蕎麦もできる」

「そうだ」

「つまり、酒に向く」

「その通り」

 

典厩信繁が腕を組んだまま言う。

 

「清酒か」

「まずは」

俺は紙へ幾つかの丸を書いた。

 

「近江酒造方を作る」

「酒造方」と十兵衛。

「うむ」

 

「治部家直轄にございますか」

「最初はそうする」

 

瀬田城を支える新しい柱だ。誰かの気まぐれでやるのではなく、最初から方として立てた方がよい。椎茸の時もそうだったが、治部家でやるなら、ただ美味い酒を飲みたいだけでは済まない。

俺は一つ目の丸を指した。

 

「まず清酒」

「うむ」と半兵衛。

「これは分かりやすい」

「近江の水で、きちんとした酒を取る。贈答にも使える。京口で名も立つ。これが表の顔だ」

 

十兵衛が頷く。

 

「城を持ち、酒まで持てば、商人も寄りやすい」

「そういうことだ」

 

二つ目の丸へ指を移す。

 

「次に、強い酒」

「焼き酒、ですか」と半兵衛。

「そうだ。蒸して、留める」

 

典厩信繁が、そこで少しだけ面白そうな顔をした。

 

「ほう」

「米でもよい。麦でもよい。蕎麦も試せる」

「蕎麦までやるか」と典厩信繁。

「やります。だが主力は分ける」

 

俺は紙へさらに書いた。

清酒。

米焼き酒。

麦焼き酒。

蕎麦焼き酒。

酒粕再留め。

半兵衛が、その並びを見ている。

 

「……なるほど」

「何がだ」

「欲張っているようで、ちゃんと役が違う」

「分かるか」

「はい」

 

半兵衛は指先で順に示した。

「清酒は看板。

米は上等。

麦は量。

蕎麦は癖。

酒粕の再留めは安くて強い」

「その通りだ」

 

十兵衛が、そこで口を開いた。

 

「売り先も違いますな」

「そうだ」

「清酒は贈答と顔。

米の強い酒は上物。

麦は兵站。

酒粕再留めは薬と現場」

「うむ」

 

俺は少し満足した。

話が早い。

やはりこの二人を前にすると、説明が半分で済む。

典厩信繁が、低く言った。

 

「薬、というのは」

「傷を洗うものです」

 

そこで座が少し静まる。

俺は続けた。

 

「濁りのある酒より、よく留めた強い酒の方がよい。傷口も洗える。刃物も拭ける。布にも使える」

 

典厩信繁は、そのあたりは戦場を知る顔で頷いた。

 

「たしかに」

「飲むためだけではない」

 

「冬の陣中にも効く」と典厩信繁。

 

「うむ。腹を温める。士気も落ちにくい」

 

十兵衛が少しだけ眉を寄せた。

 

「ただし、兵に好き勝手飲ませれば乱れます」

「当然だ。軍用は軍用で分ける」

 

半兵衛が帳面へ書きつける。

 

「飲む酒、売る酒、薬の酒を分ける、と」

「そうだ」

「倉も分けるべきですな」

「それも」

 

それで大工頭ではなく、台所と倉を見ている者の顔になった半兵衛が、さらに先を読んだ。

 

「蒸留器が要ります」

「要る」

「銅か鉄か」

「できれば銅を混ぜたい」

 

鍛冶頭が控えていたので、俺はそちらを見た。

 

「釜の上に蓋をかける。蒸気を導く。冷やして落とす」

 

鍛冶頭は、すでに観念した顔だ。

雷除けの時と同じく、「また妙なことを始めた」と思っているだろう。だがもう、この家ではそれだけで止めはしない。

 

「治部様」

「何だ」

「その“冷やして落とす”ところが肝ですな」

「そうだ」

「木の桶に水を張って、その中へ管を通す形か」

「それでよい」

 

半兵衛が言う。

 

「最初から美しくなくてよい。まずは落ちるかどうか」

「うむ」

「味が整うのはその後」

「その通り」

 

十兵衛が、そこで少しだけ目を細めた。

 

「また、気比大神ですか」

 

俺も少しだけ笑う。

 

「もちろんだ」

 

典厩信繁が、そこで呆れ半分の声を出した。

 

「何でも気比大神に寄せるな」

「便利ですから」

「便利で済ますな」

 

だが、こればかりは仕方がない。

雷除けもそうだが、まっとうな理屈だけを切り出すと、現場より先に噂が立つ。なら最初は「気比大神の御教え」で押し通し、形になったあとで役に立つことを見せればよい。

 

俺は紙の端にもう一つ、小さく書いた。

樽。

十兵衛がすぐに見つける。

 

「まだございますか」

「ある」

「何です、それは」

「少し寝かせる」

 

半兵衛が、そこで珍しく先に反応した。

 

「……酒を、ですか」

「うむ」

「清酒を」

「いや」

 

俺は首を振った。

 

「強い酒だ」

 

座がまた静まる。

 

「麦を使う」

「麦」と典厩信繁。

「そうです。麦芽を混ぜ、強く取って、樽へ入れて少し寝かせる」

 

十兵衛が言う。

 

「妙ですな」

「妙だ」

「何を狙っておいでで」

「味だ」

「それだけで」

「それだけでない」

 

俺はそこで指を二本立てた。

 

「一つ、ただの焼き酒とは違う顔が出るかもしれん」

「はい」

「二つ、長く置けるなら、贈答にも化ける」

 

半兵衛が、そこは少し考え込んだ。

 

「……樽の木の香りが移るやもしれませぬな」

「それも狙っている」

「うまく行けば面白い」

「だろう」

 

典厩信繁が、そこで笑いを堪えるような顔になった。

 

「米で満足せず、麦まで焼き、さらに寝かせるか」

「せっかく近江の水があるのですぞ」

「おぬしは、本当にそういう時だけ楽しそうだな」

「そう見えますか」

「見える」

 

十兵衛が、そこへ冷静に差し込む。

 

「ただし、いきなり“面白い酒”を前へ出しすぎぬ方がよろしいかと」

「というと」

「まずは清酒で名を立てるべきです」

「うむ」

「そのうえで、強い酒は軍用と薬用。さらにその先で、寝かせた酒を“瀬田の秘蔵”くらいにして出す」

 

半兵衛もすぐに頷いた。

 

「同感です。最初から何でも並べると、かえって軸がぼやける」

「なるほど」

 

たしかにそうだ。

手元では全部試していい。だが世へ出す順は考えた方がよい。

典厩信繁が、そこで武辺らしく話を戻した。

 

「で、兵には何を回す」

「麦だな」

「そうか」

「量が利く。味も強い。軍用に分けやすい」

「傷洗いは」

「まずは酒粕の再留めか、出来のよい麦焼きの強いところ」

 

半兵衛が補足する。

 

「上等な米焼き酒を、最初から傷へ流すのはもったいないですからな」

「そういうことだ」

 

十兵衛が、そこでまた別の筋を出した。

 

「売り先は」

「京、堺、それと湖沿い」

「堺は津田宗及殿ですな」

「そこを足がかりにしたい」

 

津田宗及。

今や茶器だけでなく、堺の物の流れそのものへ繋がる名だ。瀬戸焼で縁を作るにしても、酒の方で別口の付き合いができれば強い。

 

「清酒を一つ見せる」

 

と俺。

 

「次に、強い酒を見せる」

「飲ませるので」

「いや、使わせる」

 

十兵衛が少しだけ笑う。

 

「なるほど。飲む前に“これは役に立つ”と思わせるわけですな」

「そうだ。傷を洗える。刃も拭ける。保存も利く。そういう口の方が堺の商人は食いつく」

 

半兵衛が言う。

 

「薬種商とも繋がりますな」

「そこまで行けば上出来だ」

 

それで、場の空気はほぼ決まった。

清酒を表に立てる。

米と麦の焼き酒を裏で育てる。

蕎麦は試験。

酒粕再留めは薬用。

そして麦の強い酒を少し寝かせる試しまでやる。

十兵衛が、最後にまとめへ入る。

 

「では、近江酒造方を立てる」

「うむ」

「表看板は清酒」

「うむ」

「裏で焼き酒を進める」

「うむ」

「軍用・薬用・贈答用を分ける」

「それも」

 

半兵衛が、帳面を閉じた。

 

「台所と倉と鍛冶場が全部絡みますな」

「絡ませる」

「人も選ばねば」

「選ぶ」

「酒癖の悪い者は外した方がよろしい」

 

典厩信繁が、そこで小さく笑った。

 

「それはまことだ」

 

俺も笑う。

 

「真っ先にそうする」

 

それで評定は動き出した。

瀬田城は、橋と土塁だけで生きる城ではない。

水を掴み、穀物を掴み、酒を掴む城になる。

ただ飲むためではない。

兵を支え、傷を洗い、商いを呼び、京と堺へ名を流すための酒だ。

近江の水が、ただ田を潤すだけでなく、治部家の新しい柱に変わる。

その最初の一歩が、その日の評定で決まったのだった。

 

 

「橋を焼かれても」

 

俺は瀬田川から南湖へ続く絵図の、橋のすぐ脇ではなく、その少し外れた浅い色の部分を指でなぞった。

 

「渡る道まで消えるとは限りませぬ」

 

座が、一瞬だけ静まった。

 

上総介兄上は何も言わない。

勘十郎兄上は腕を組んだまま、先を言え、という顔で見ている。

十兵衛と半兵衛、左近将監、そして典厩殿は、すぐに絵図へ目を落とした。

 

「また何か思いついたな」

 

と、勘十郎兄上。

 

「思いついたというより、ありそうな筋を思い出しただけです」

「言い方が妙だな」

「妙でも、理にはかないます」

 

上総介兄上が、そこで初めて口を開いた。

 

「申せ」

「は」

 

俺は頷いて、瀬田川の河口寄り、湖の縁へ近いあたりを示した。

 

「瀬田川から南湖へ抜けるこの辺り、見た目より水深が揃っておらぬはずです」

「……」

「砂や礫が寄る。洲が出来る。流れの緩いところと深いところがまだらになる」

「浅瀬、ですか」と十兵衛。

「そうだ」

 

半兵衛がすぐに継いだ。

 

「橋が落ちたあと、浅い筋だけを拾って人を通す、と」

「その通り」

「歩けるところは歩き、深みだけ別の手を使う」

「そうしたい」

 

左近将監が、絵図の南端を見ながら言った。

 

「つまり、真っ当な橋ではなく、“知る者だけが通れる渡り”を作るわけですな」

「うむ」

 

典厩殿が低く言う。

 

「大軍では無理だぞ」

「無理で結構です」

「ほう」

「橋の代わりにする気はありませぬ。人だけでも通せれば、それで戦の形が変わる」

 

そこへ上総介兄上が、鼻を鳴らした。

 

「大軍を渡す道ではなく」

「伝令、使者、物見、選抜の兵、負傷した将の引き抜き」

「……」

「そのための道にございます」

 

勘十郎兄上が、そこで小さく頷いた。

 

「それなら分かる」

「はい」

「橋が落ちて“これで向こうはしばらく死んだ”と思った敵に、夜のうちに使者が抜けていれば、かなり嫌だ」

「俺なら嫌です」

 

上総介兄上が少しだけ笑った。

 

「お前はそういう嫌さをよく考えるな」

「城とはそういうものかと」

 

十兵衛が、そこで絵図の脇へ小さく書きつけた。

 

浅瀬。

砂州。

深み。

 

「問題は、どこが本当に使えるかですな」

「そこは買います」

「買う?」

 

と、勘十郎兄上。

 

「漁師、船頭、葦刈り、猟師、水鳥を追う者」

「……」

「水を日々見ている者の口の方が、下手な絵図よりよほど早い」

 

半兵衛が、そこはすぐに頷いた。

 

「なるほど。橋は作るものだが、道は知っている者から買う方が早い」

「そういうことだ」

「ただし紙へ残しすぎぬ方がよろしい」

「当然だ」

 

左近将監が、そこで少し身を乗り出した。

 

「なら、知る者も分けた方がよいですな」

「ほう」

「一人が全部知っていると、口が割れた時に終わる」

「……」

「歩く筋だけ知る者。

舟を出す場所だけ知る者。

最後に合図を出す者。

役を割れば、全部は見えませぬ」

 

「よい」

 

と上総介兄上。

 

「左近将監、その理は使える」

「は」

 

典厩殿が、そこで絵図の一角を指した。

 

「歩けるとしても、膝丈までだ」

「そのくらいを想定しております」

「深みへ入れば?」

「そこだけは舟です」

 

俺は別紙へ、簡単な絵を描いた。

 

葦際に伏せた小舟。

幅の狭い、二、三人乗りの軽いものだ。

 

「大きい舟はいらぬ」

「見つかるからか」と十兵衛。

「そうです」

「たらい舟のようなもの、あるいは小さなサッパ舟で足りる」

「うむ」

「葦の中へ伏せておける程度なら、橋の上から見張っておっても気づきにくい」

 

半兵衛が言った。

 

「浅瀬を歩き、深みだけ舟に乗る」

「そう」

「なら、一艘で足りますな」

「人数次第だが、最初はそれでよい」

「渡しではなく、手順ですな」

「その方が秘匿しやすい」

 

勘十郎兄上が、そこで絵を覗き込んだ。

 

「この舟、壊されたら」

「別の手も持ちます」

 

そう言って、俺はもう一枚の紙へ、細長い袋の形を描いた。

 

典厩殿が怪訝な顔をする。

 

「何だ、それは」

「皮袋です」

「……皮袋」

「猪でも鹿でもよい。皮を縫って口を締め、空気を詰める」

「浮かせるのか」

「はい」

 

座が少し静まった。

 

十兵衛が、まず最初に理を取った。

 

「書状を濡らさぬため、ですな」

「その通り」

「人が抱えて泳げば、身体を全部浮かせるほどではなくとも、荷は守れる」

「うむ」

「しかも水面ぎりぎりで動ける」

「そうだ」

 

左近将監が、そこで少し目を細めた。

 

「忍びが喜びそうな道具ですな」

「忍びだけでなく、伝令にも使える」

「たしかに」

 

上総介兄上が、低く言う。

 

「武具を着けたままでは無理だぞ」

「そんなものを着けて渡らせる気はありませぬ」

「軽装か」

「書状、短刀、せいぜい小筒程度。あとは人の命が先です」

「よい」

 

典厩殿がそこでようやく頷いた。

 

「戦場で泳ぐ者は、荷が沈むと終わる」

「ええ」

「なら皮袋は理にかなう」

「それを二つ三つ、舟とは別に隠しておく」

「うむ」

 

半兵衛が帳面へ書く。

 

「小舟が一段。浮袋が二段。浅瀬歩きが土台」

「そうなるな」

 

そこで左近将監が、もう一つ出した。

 

「湿地や葦際を速く抜ける道具も欲しいですな」

「水蜘蛛か」と俺。

「その名で呼ぶなら、それです」

「使えるか」

「歩くための道具と思うな」

「ほう」

「浮いて走るものではない。足を沈めすぎぬための補助だ」

「なるほど」と十兵衛。

「浅瀬や湿地で足を取られにくくする」

「そういうことだ」

 

典厩殿が、そこで珍しく少し笑った。

 

「噂話のような水上歩きではないのだな」

「そんな都合のよいものがあれば、皆苦労しませぬ」

「違いない」

 

勘十郎兄上が、その整理に乗ってくる。

 

「つまり」

「はい」

「歩けるところは歩く」

「はい」

「ぬかるみや葦際は、足の沈みを減らす道具で抜ける」

「はい」

「深みだけ小舟、あるいは浮袋」

「そうです」

「全部を一つの渡河法と思わず、いくつも繋ぐわけか」

「まさに」

 

上総介兄上が、その言葉を聞いて笑った。

 

「橋とは一本でなくてよい」

「はい」

「道もまた一本でなくてよい、か」

「そう申し上げたかった」

 

十兵衛が、そこでまとめに入る。

 

「では、瀬田城の渡河保険は三つになりますな」

「申せ」

「本橋」

「うむ」

「組み橋」

「うむ」

「そして、非常渡湖路」

「うむ」

 

半兵衛が補う。

 

「非常渡湖路は、さらに中で分かれる」

「……」

「浅瀬筋。

砂州中継。

小舟伏せ場。

浮袋隠し。

湿地抜けの足具」

「その通り」

 

左近将監が、現場寄りの顔で言った。

 

「ただし、これは大軍には使えませぬ」

「使わせぬ方がよい」

「ええ。使うほど露見します」

「だから少人数専用だ」

「伝令、物見、案内、退路」

「そこまでで十分」

 

典厩殿が、そこで釘を刺した。

 

「季節で変わるぞ」

「承知しております」

「渇水時に出る洲もあろう。風で危うい日もあろう」

「だから今から洗います」

「今から?」

「冬と春、少なくとも二度は見たい」

「よい」

 

半兵衛が即座に繋ぐ。

 

「記録は最小限」

「うむ」

「実際の筋は口伝」

「うむ」

「案内役は二組三組」

「うむ」

「しかも互いに全部は知らぬ」

「その方がよい」

 

勘十郎兄上が、そこで上総介兄上の方を見た。

 

「兄上、ここまでやれば、橋を焼いてもまだ手は死にませぬ」

「死なぬな」

「ええ」

「それに」

「何だ」

「敵は、本橋を見て安心し、組み橋を見つけて腹を立て、最後に人がまだ出てくるのを見て嫌になる」

「いい」

 

上総介兄上は、そこではっきり笑った。

 

「それでよい」

「は」

「瀬田は喉元だ。喉元が一本切られて終わるようでは困る」

「無論にございます」

「橋を戻す。

道を買う。

舟を伏せる。

皮袋まで使う」

「はい」

「やれ」

 

それで決まった。

 

十兵衛が書付を整え、半兵衛が人足と口銭の計算を始め、左近将監はどの手合いを現地の漁師筋へ回すか考え始める。

典厩殿は腕を組んだまま、絵図の浅い色の筋をしばらく見ていた。

 

やがて、ぽつりと言う。

 

「治部大輔」

「何でしょう」

「城とは、石垣と堀と門だけではないのだな」

「ええ」

「橋が落ちた後の、人一人の抜け道まで含めて城か」

「そう思っております」

「……厄介だ」

 

その言い方に、俺は少しだけ笑った。

 

「褒め言葉として受け取っておきます」

「受け取るな」

 

だが典厩殿も、最後にはほんの少しだけ口元を動かした。

 

瀬田城はまた一つ、しぶとくなった。

 

本橋がある。

それが落ちても、組み橋がある。

それでもまだ足りぬ時には、浅瀬を拾い、砂州を踏み、小舟を伏せ、浮袋を抱え、知る者だけが渡る非常渡湖路がある。

 

大きな道ではない。

だが、こういう細い道こそ、城を最後まで生かす。

 

瀬田城は、ただ堅い城ではなく、**折られてもなお、人と意志が向こう岸へ届く城**として、少しずつ形を得始めていた。

 

 

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