織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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043北近江の姫君

田代城の門前は、祝いの日にしては妙に静かだった。

 

賑やかでないわけじゃない。

人はいる。

旗もある。

使番も、奥へ物を運ぶ女房衆も、下働きの若い連中も、皆きびきび動いている。

 

だが、その下にある空気が静かだ。

 

今日ここで迎えるのが、ただの婚礼の姫ではないからだろう。

 

浅井鶴姫。

 

浅井家が、朝倉の影で終わらず、北近江の幹として並び立つために差し出してきた札。

そして、織田がそれを受けることで、盟約を“口約束の外”へ進める日でもある。

 

俺は、城門の内に立って、その輿を待っていた。

 

上総介兄上もいる。

勘十郎兄上もいる。

 

この二人が揃って田代へいる時点で、今日は治部家だけの儀では済まない。

本家が、ここを本家の裁定の延長として見ている証だ。

 

「緊張しておるか」

と勘十郎兄上が言った。

 

「してないと言ったら嘘になります」

 

「嘘はつくな」

「ついてませんよ」

 

上総介兄上が、その横で鼻を鳴らした。

 

「まあよい」

「……」

「こういう日は、少し固いくらいでちょうどよい」

 

そう言う兄上自身は、ちっとも固く見えない。

だが、それは余裕があるからじゃない。

もう今日の意味を全部飲み込んだ上で、余計な力だけ落としている顔だ。

 

「浅井も、よくここまで踏み込んだ」

と兄上。

 

「はい」

 

「鶴姫一人の話ではない」

「分かっています」

「ならよい」

 

短い。

だが、それで十分だった。

 

やがて、輿が見えた。

 

浅井の供回りは、華美に過ぎない。

かといって、質素でもない。

見栄だけで膨らませた並びではなく、北近江の家が出せる格を、そのまま筋よく整えた並びだ。

 

らしいな、と思った。

 

長政らしいのか。

鶴姫らしいのか。

たぶん両方だ。

 

輿が止まり、声が落ち、周囲の動きが一段だけゆっくりになる。

 

まず勘十郎兄上が前へ出た。

次いで上総介兄上。

 

この順で出るのも、いかにも今の織田だ。

当主がいて、次席がいて、その両方が同じ方向を向いている。

それ自体が、浅井への見せ札になっている。

 

「よう来た」

と上総介兄上。

 

声は大きくない。

だが、門前の空気を全部まとめて抱えるような声だった。

 

鶴姫が、輿から降りる。

 

派手な動きはない。

けれど、立っただけで分かる。

この人は、自分が何としてここへ来たかを分かっている。

 

浅井の姫だ。

だが、ただ家に押し出されて泣きながら来た顔じゃない。

怖さはあるだろう。

重さもあるだろう。

それでも、自分がここでどんな意味を持つのか、腹へ入れて来ている顔だった。

 

鶴姫は、まず上総介兄上へ礼を取った。

 

「お迎え、かたじけなく存じます」

 

「よい」

と兄上。

「此度は、織田と浅井、両家のための縁だ」

 

「……」

「軽い顔で迎えては、かえって無礼であろう」

 

鶴姫の睫毛が、ほんの少しだけ震えた。

 

次に勘十郎兄上へ礼。

 

勘十郎兄上は、自然体のまま言った。

 

「北近江の姫を迎えるのだ」

「……」

「こちらも、それ相応でなければ筋が立たぬ」

「ありがたきお言葉にございます」

 

その返しも、整っている。

整いすぎてもいない。

ちゃんと今の鶴姫の声だ。

 

俺は、その少し後で向き合った。

 

「鶴姫」

「治部大輔殿」

 

ここで“あなた”でも“殿”でもなく、治部大輔殿と来るあたりが、この人らしい。

姫としての礼を守りつつ、俺個人ではなく、今の俺の立場ごと受けている。

 

「よう来た」

「はい」

「遠かったろう」

 

「距離だけならそれほどでも」

鶴姫は静かに言った。

「ですが、本当に遠いのは、そこではございませぬ」

 

俺は、少しだけ笑った。

 

「だろうな」

 

その一言で、鶴姫の口元もわずかに動いた。

 

ここで余計な言葉はいらない。

お互い、分かっている。

この婚姻が、ただの婚姻ではないことを。

 

門をくぐる時、城の内には、お市と真理姫と雪姫がいた。

 

まず、お市が前へ出る。

俺の正室であり、この家の奥向きの軸だ。

そこが先に立つのは当然だった。

 

「ようこそおいでくださいました、鶴姫様」

 

「お市様」

鶴姫が礼を取る。

「お迎えいただき、ありがとうございます」

 

お市は、微笑みを崩さない。第一子がお腹の中にいるが、それを感じさせない強健っぷりだ。

 

強すぎず、甘すぎず。

相手を値踏みもせず、だが軽くも扱わない。

正室としての受けの形が、もう出来ている。

 

「治部家へ入る方に、遠慮は要りませぬ」

「……」

「ですが、筋は一つずつ通しましょう」

「はい」

「まず今日は、無事にお入りください」

 

その言葉がよかった。

 

いきなり“仲良くしましょう”でもない。

かといって“ここはこういう家です”と圧をかけるわけでもない。

筋を一つずつ通す。

その言い方で、鶴姫も少し楽になっただろう。

 

次に真理姫。

 

「真理姫にございます」

 

真理姫ももう、最初の頃より少し落ち着いている。

だが、まだ武田の姫としての張りが声に残る。

それがむしろよかった。

 

「真理姫様」

と鶴姫。

 

「どうぞ、そのままで」

真理姫は言う。

「ここでは、私もまだ学んでいる身です」

 

「……はい」

「ですから、一緒に覚えてまいりましょう」

 

その言葉には、木曾で冷えた分だけの優しさがあった。

安易な馴れ合いじゃない。

痛みを知った人間の、少し硬い優しさだ。

 

雪姫は、その少し後ろから出た。

 

「雪姫です」

 

雪姫は、こういう時に変に飾らない。

だから逆に空気が和らぐ。

 

「ようこそ」

「……」

「ここは、思っていたより騒がしい家ですが」

「悪い家ではありません」

 

鶴姫が、そこで初めて少しだけ笑った。

 

「それは、存じております」

 

雪姫が俺を見る。

視線が少しだけ面白がっていた。

 

たぶん、“この人もまた、ただの姫ではないですね”ぐらいは思っている。

 

婚儀は、田代城の奥で行われた。

 

大げさすぎない。

だが、軽くもない。

 

上総介兄上と勘十郎兄上が見届け、お市が奥の受けを担い、真理姫と雪姫がそこへ連なる。

治部家としての形と、織田本家の承認が、一つの座に揃う。

 

固めの杯が進み、礼が重ねられる。

声は大きくない。

けれど、一つ一つが重い。

 

俺が杯を受ける時、上総介兄上が言った。

 

「治部」

「は」

「今日より、浅井との縁はさらに深くなる」

「はい」

「盟は、言葉だけでは薄い」

「……」

「だが、婚姻は家の骨へ入る」

「……」

「軽く扱うな」

「承知しております」

 

勘十郎兄上が、その横で続ける。

 

「浅井を、取り込んだと思うな」

「……」

「並ばせる気で扱え」

「はい」

「そうでなければ、鶴姫も長政も動かぬ」

「はい」

 

そこまで言われて、ようやく本当に腹へ落ちる。

 

この婚姻は、織田が浅井を従える札じゃない。

浅井が織田へ頭を下げ切るためのものでもない。

両方が、朝倉と六角の向こうで生き残るために、一本深く線を引くためのものだ。

 

鶴姫が杯を受ける横顔は、静かだった。

 

だが、静かなだけではない。

その下にある緊張も、意志も、ちゃんと見える。

 

この人は、自分でここへ来た。

家に押されただけじゃない。

浅井のために、そしてたぶん自分の見た盤のために、ここへ来た。

 

婚儀が一段落したあと、少しだけ人が引いた。

 

上総介兄上と勘十郎兄上も、最後まで残るわけじゃない。

だが、帰る前に、上総介兄上が鶴姫へ言った。

 

「鶴姫」

「は」

「織田は、そなたを浅井の人質としては見ぬ」

 

鶴姫が顔を上げる。

 

「はい」

「浅井の姫として迎える」

「……」

「そのうえで、治部家の一員として立て」

「……」

「出来るな」

 

少しの間があった。

 

だが、鶴姫は逃げなかった。

 

「はい。浅井のためにも」

「……」

「そして、ここへ来た私自身のためにも、そういたします」

 

よい返しだった。

 

上総介兄上の口元が、ほんの少しだけ動く。

悪くない、という顔だ。

 

勘十郎兄上も、そこで肩の力を抜いた。

 

「ならよい」

「……」

「これで、織田と浅井は、ただの約定ではなくなった」

「……」

「互いに嫁を出し、迎える家になったのだ」

「はい」

 

その言葉で、場が締まった。

 

そうだ。

結局、そこだ。

 

使者が往来し、言葉を重ね、盟約を書いても、それだけではまだ薄い。

だが、姫が動くと、家は本気になる。

戻れなくなる。

だから婚姻は重い。

 

兄上たちが下がり、奥の灯りが少し柔らかくなった頃、俺はようやく鶴姫と向き直った。

 

「疲れたか」

 

「はい」

鶴姫は素直に言った。

「ですが、それ以上に」

 

「うん」

「思っていたより、怖くはありませんでした」

「それはよかった」

 

「ええ」

鶴姫は、ほんのわずかに息を吐く。

「上総介様も、勘十郎様も。お市様も、真理姫様も、雪姫様も」

 

「……」

「ただ優しいのではなく、皆さま筋を分かっておいででした」

「そういう家だよ」

「はい」

 

「だからこそ」

鶴姫は俺を見る。

「浅井も、ここへ寄る価値がある」

 

その言葉は、姫の言葉でありながら、同時に家の言葉でもあった。

 

俺は頷いた。

 

「こっちも同じだ」

「……」

「浅井がただの駒なら、こんな婚姻にはしない」

「……」

「並ぶつもりで来たなら、こっちもそれに応える」

 

鶴姫の目が、そこでようやく少し和らいだ。

 

田代城の夜は、まだ浅い。

奥では、お市たちが受けの続きを整えている。

外では、使番や近習たちが“今日決まったこと”を、それぞれの言葉で理解し直している。

 

そして俺は、ようやく実感した。

 

今日、鶴姫が田代城へ入ったことで、治部家の奥が一人増えた。

それだけじゃない。

 

織田と浅井は、もう“話をしている家”ではない。

嫁を出し、嫁を迎え、家と家の骨へ線を通した家になった。

 

これで、相互婚姻同盟へ移ったのだ。

 

軽くはない。

面倒も増える。

奥も、政も、戦も、前よりずっと複雑になるだろう。

 

だが、それでいい。

 

単純なまま呑み込めるほど、浅井は軽くない。

そして、軽くない相手と結ぶからこそ、この婚姻には意味がある。

 

俺は、鶴姫の横顔を見ながら、ようやく一つ息を吐いた。

 

悪くない。

いや、かなりいい。

 

今日は、四人目の妻を迎えた日であると同時に、織田と浅井が本当に同じ盤面へ立った日だった。

 

 

部屋へ入った瞬間、これは先に言葉の方が来るな、と思った。

 

夜具は整っている。

灯りも落としすぎず、明るすぎず。

香もきつくない。

お市あたりが、いや、たぶんお市と真理姫と雪姫の三人で、過不足なく整えたんだろうな、という感じがある。

 

初夜のための部屋だ。

 

それは間違いない。

 

だが、その部屋の真ん中に座っている鶴姫を見た瞬間、今夜はそれだけで終わらないと分かった。

 

鶴姫は、もう着替えていた。

婚儀の時の張った顔ではない。

少しだけ力を抜いている。

それでも、ただ恥じらって俯いている新妻の顔じゃない。

 

考えている顔だ。

 

俺は、少し離れたところへ座った。

 

「疲れたか」

「はい。さすがに」

「それはそうだろうな」

「治部大輔殿は、平然としておいでですか」

「してるように見えるなら、だいぶ得してる」

 

鶴姫は、ほんの少しだけ笑った。

 

「そういう返しをなさるのですね。もっと、何もかも見透かしたように、余裕でいらっしゃるのかと」

「そんなわけないだろ」

 

そこで、少しだけ沈黙が落ちた。

 

夜の沈黙だ。

けれど、気まずいのとは少し違う。

互いに、今どこへ踏み込むかを測っている沈黙だった。

 

鶴姫が先に言った。

 

「稲葉山が落ちた時、私は、本当に驚いたのです。早すぎた。どう考えても」

 

俺は何も言わなかった。何に比べて早いのか、それを明らかにするのは今さら野暮だろう。

 

鶴姫も、すぐには続けない。

 

「少なくとも、ただの戦下手や戦上手の話ではなかった」

 

そこでようやく、俺は口を開いた。

 

「そう思う理由が、鶴姫にはあったんだな」

「ありました」

「普通の姫は、そこまでの言い方はしないだろうな」

「普通は、しないでしょう。けれど、私はします」

 

そこは、もうかなり踏み込んでいた。

 

“普通ではない”とは言っていない。

だが、“普通ではしない見方を自分はする”とは、はっきり言った。

 

だったら、こっちも少しは返すべきだろう。

 

「俺も、普通の姫が、あそこまできれいに六角との関係を割り切って、朝倉との距離まで測って、織田へ来るとは思ってない」

 

鶴姫の目が、わずかに細くなった。

 

「買いかぶりでは」

「半分はな。だが半分は事実だろ」

「半分、ですか」

「全部だと言うと、こっちも気味が悪い」

 

その返しに、鶴姫はまた少し笑った。

 

その笑い方で分かる。

この人も、今のやり取りがただの夫婦の探りじゃないと分かっている。

 

「では、私たちは、互いに少し気味が悪い者同士、ということになりますか」

「言い方がひどいな」

「違いますか」

「違うとは言い切れない」

 

そこで、初めて空気が少しだけ和らいだ。

 

夜が夜らしくなる、というより、ようやく二人の間に座る場所が出来た感じだ。

 

鶴姫は膝の上で指を組んだまま、少し考えるように間を置いた。

 

「治部大輔殿。私は、兄に申しました。織田と争うべきではないと。今のうちに、並び立つ道を作るべきだと」

「らしいな」

「らしい、で済ませますか」

「そこを今、詳しく聞いても仕方ないだろ。鶴姫がそう言って、備前守殿がそれを飲み、下野守殿まで動いた。それで十分だ。それ以上を今夜、詮索しても、たぶんろくなことにならない」

 

鶴姫は、そこで俺をまっすぐ見た。

 

「詮索は、お嫌いですか」

「好きじゃない。必要なところだけ通じていれば、今は足りる」

「必要なところ」

「そう。鶴姫は、普通の姫より少し先まで見る。俺も、普通の一門衆より少し先まで見る。それで今夜、互いに『ああ、こいつも少し変だな』って分かれば、まずは十分だ」

 

鶴姫はしばらく黙った。

それから、ほんの少しだけ息を抜く。

 

「少し、では済まない気もいたしますが」

「そこを大きく言い出すと、話が面倒になる」

「それはそうですね」

「だろ」

 

また、沈黙が落ちる。

 

けれど、最初の沈黙とは違う。

もう、どこかで互いに腹を決めたあとの沈黙だ。

 

「治部大輔殿」

「何だ」

「私は、ここへ来ることを、怖いとは思っていました。ですが、間違いだとは思っていませんでした」

 

その言葉は、かなり重かった。

 

浅井の姫として。

たぶん、それだけじゃない。

自分の見ている盤全体を含めて、この婚姻を間違いではないと思って来たのだ。

 

だったら、こっちも返さないと駄目だ。

 

「俺も、鶴姫が来ると聞いた時、面倒になるな、とは思った」

「ひどい」

「本当だから仕方ないだろ。でも、間違いだとは思わなかった。むしろ、来てもらわないと困る人だと思った」

 

鶴姫の表情が、そこで少し変わった。

 

驚いたというより、張っていたものが少しだけほどけた顔だった。

 

「困る人、ですか」

「そう。浅井のためにも、織田のためにも、そしてたぶん、鶴姫自身にとっても」

「私自身」

「自分で盤面を見てる奴が、誰かに何も分からないまま運ばれるだけの駒で終わるのは、たぶん耐えられないだろ」

 

その言葉に、鶴姫はすぐ返事をしなかった。

だが、沈黙の置き方で分かった。

 

当たった。

少なくとも、外してはいない。

 

「……はい。それは、たしかに」

 

そこまで来れば、もう十分だった。

 

正体当ては要らない。

前の生だの、未来だの、そんな言葉を今ここで使う必要はない。

使ったところで、劇的に何かが変わるわけでもない。

 

必要なのは、互いに“この相手には普通の言い回しだけでは通じない部分がある”と分かることだ。

 

それが通った。

 

「じゃあ、今夜はここまででいいか」

 

鶴姫が目を瞬かせる。

 

「ここまで、とは」

「互いに少し気味が悪い。だが、話は通る。その確認だ」

「……初夜にしては、ずいぶん変わった確認ですね」

「普通の初夜がよかったか」

 

そう聞くと、鶴姫は少しだけ考えた。

それから、首を横へ振る。

 

「いいえ。たぶん、こちらの方が、私には合っています。少なくとも、何も知らぬふりをして座っているよりは、ずっと」

 

その笑い方が、婚儀の前や門前で見せたものより、ずっと鶴姫本人に近く見えた。

 

ようやく、ここからだなと思う。

 

今日、鶴姫は田代城へ入った。

婚儀も済んだ。

織田と浅井は、もう前よりずっと深く結ばれた。

 

だが、本当に大事なのは、ここから先だ。

この人と、どこまで言葉を省けるか。

どこまで通じるか。

そして、通じた上で、どこまで互いの家のために手を打てるか。

 

「鶴姫」

「はい」

「これから先、全部を言葉にしなくてもいい。だが、要る時は、要るところまで言ってくれ。分かるように。それなら、こっちも拾う」

 

鶴姫は、静かに頷いた。

 

「治部大輔殿も、同じようにしてくださいますか」

「そのつもりだ」

「では、今夜は、それで十分です」

 

十分、か。

 

たしかにそうだと思った。

 

初夜と呼ぶには、少し妙だ。

夫婦の始まりとしては、たぶんかなり変だ。

けれど、俺たちらしい始まりではある。

 

灯りが静かに揺れる。

部屋の外は、もうだいぶ静かになっている。

お市たちも、たぶん今はもう、奥でそれぞれ引いているだろう。

 

俺は、そこでようやく鶴姫の方へ少しだけ近づいた。

 

鶴姫は、今度はもう逃げなかった。

 

言葉で通すべきところは、もう通した。

だったら、その先は夫婦として進めばいい。

 

だが、その直前に、鶴姫が小さく言った。

 

「治部大輔殿。やはり、少し、では済まない気がいたします」

 

俺は思わず笑った。

 

「だろうな」

 

そう返したところで、ようやく本当の意味で、夜が始まった。

 

 

鶴姫が「やはり、治部大輔殿には敵いませんね」と言ったのは、近江造酒方で作った酒の話が一段落し、瀬田城の普請の見通しまで話したあとだった。

 

不意打ちのようでいて、不意打ちではなかった。

 

ここへ来てから鶴姫は、ずっと見ていたのだろう。

椎茸のこと。

酒のこと。

城のこと。

兵の鍛え方。

人の置き方。

そういう、一つずつは地味だが、家を強くするには欠かせないものを。

 

部屋の灯りは静かで、夜ももう深い。

初夜のために整えられた部屋だというのに、今この場にあるのは、甘い空気よりも先に、互いの手の内を少しずつ確かめる静かな熱だった。

 

俺がすぐに返さなかったからか、鶴姫は小さく息を継いでから続けた。

 

「急に言ったつもりはありません。ここへ来てから見聞きしたものを、ようやく一つの言葉にしただけです。私は私なりに、やろうとはしました。ですが、やはり違うのです。私は姫です。正室腹であっても、姫は姫。兄上を通さねば、家のことは何も動かせません。しかも兄上には兄上のお立場がある。戦もある。評定もある。父上もおられる。ですから、私がこうすべきだと思っても、届くまでに薄まるのです。届いても半分。よくて一部。それを、治部大輔殿は自分で見て、自分で決めて、自分で人を動かして、そのまま形にしてしまう」

 

そこまで一息に言って、鶴姫は少しだけ目を伏せた。

 

悔しさがないわけではない。

だが、悔しさだけの顔ではなかった。

自分でも手を打とうとしてきた人間が、届かなかった距離を、ようやく正面から認めた時の顔だった。

 

俺は盃を置いた。

 

「家が違うからな」

 

言葉にしてしまえば、それは身も蓋もない。

だが、嘘でもない。

 

浅井家の姫として出来ることと、治部家の当主として出来ることが同じなわけがない。

鶴姫はそこを理解した上で、それでも“それだけでは済まない”と思っている。

その顔をしていた。

 

案の定、鶴姫は静かに首を振った。

 

「ええ。それだけでは済みません。私は、ずっと遠くからあなたを見ていました。異様な人だと思っていました。警戒もしていました。けれど、こうして形になったものを見せつけられると、もう認めるしかありません」

 

遠くから。

異様な人。

警戒。

 

その言い回しの端々に、普通の姫のものではない見方が滲む。

けれど、それをいちいち拾って正体当ての方へ寄せるのは野暮だった。

 

今ここで必要なのは、鶴姫が何者かを断じることではない。

この人が、見て、考え、試し、届かなかった側の人間だと分かることの方だった。

 

だから俺は、別の方へ返した。

 

「だったら、認めるだけで終わるなよ。半兵衛が、当家の取り組みをまとめてる。全部は出せない。出せる部分と出せない部分がある。だが、鶴姫の言ってることが正しかったって、備前守殿にだけでも分かってもらいなよ」

 

鶴姫の目が少しだけ見開かれた。

 

驚いた、というより、そこまで踏み込んで渡してくるのか、という顔だった。

 

「……よろしいのですか」

「全部じゃない。尾張時代からの塩選法。正条植え。苗の選り分け。田ごとの収量比較。そういう、出してもまだ困らない部分だけだ。それでも、兄に見せるには十分だろ」

 

それでようやく、鶴姫は黙った。

 

何を思っているのかは、顔だけでは読めない。

だが、軽く受け取ってはいないことだけは分かった。

もしこれがただの慰めや機嫌取りなら、鶴姫はむしろ不快がったはずだ。

けれど今は違う。

この人は、渡されるものの重さを量っている。

 

やがて、半兵衛が来た。

 

呼ばれてすぐ紙束を持ってくるあたり、あいつは本当に仕事が早い。

すでに整理してあったのか、あるいは俺がこう言い出すのを半ば読んでいたのか。たぶん両方だろう。

 

半兵衛は、いつもの静かな声で必要なことだけを言った。

 

「治部様。ご所望のものを。全部は無理ですので、出してよい範囲だけ抜いてあります。塩選法、正条植え、苗の選り分け、田ごとの収量比較、簡単な年次の並びまで。瀬田城は構想の外縁、外向けの情報のみです」

それから鶴姫へ向き直り、礼を崩さず紙束を差し出した。

「鶴姫様。治部様は、出してよいと仰せです。ですが、分かる相手にだけ分かればよいとも仰せです。ですので、広げすぎぬよう、お取り扱いください」

 

鶴姫は、その紙束を受け取った。

 

すぐには開かなかった。

中を確かめるより先に、両手で持って膝の上へ置く。

紙束の重さというより、その向こうにある年数の重さを量っているように見えた。

 

半兵衛が下がり、部屋にまた二人きりの静けさが戻る。

 

しばらくして、鶴姫がぽつりと漏らした。

 

「……こういうものが、本当に積み上がっていたのですね」

「積み上げないと、たぶん今の織田はない」

 

鶴姫は頷いた。

だが、その頷きには、ただ納得した以上のものがあった。

 

「分かっていたつもりでした。ですが、つもりでした。けれど、こういうものを見ると、分かってしまいます。綺麗に噛み合っているのではなく、一つずつ積んでいたのですね」

 

その言い方は、よかった。

 

たまたま上手くいった。

運よく噛み合った。

そういう見方ではなく、積んできたから今があると認める言い方だった。

 

それはたぶん、鶴姫自身が“積めなかった側”の痛みを知っているからこそ出る言葉でもある。

 

「だったら、鶴姫もやればいい。浅井で全部は無理でも、備前守殿に通す。一つずつ増やす。それだけでも違う」

 

その返しに、鶴姫はすぐ頷いた。

 

「ええ。やります」

 

短く、迷いなく。

 

そこに嘘はなかった。

悔しさを呑み込んで終わる人ではない。

出来ないことを認めた上で、それでも自分の出来る形へ落とし直す。

鶴姫はそういう人なんだろう。

 

けれど、その直後にもう一度、鶴姫は俺を見て、同じ言葉を繰り返した。

 

「やはり、治部大輔殿には敵いませんね」

 

今度のそれは、最初のものと違っていた。

 

最初は敗北感だった。

二度目は、認識だった。

 

悔しい。

羨ましい。

認める。

届かない。

それでも見てしまう。

 

そういうものが全部混ざって、ようやく一つの声になったように聞こえた。

 

俺は、そこでようやく少しだけ笑った。

 

「そんなに負けを認めてどうする」

 

すると鶴姫は、小さく首を横へ振った。

 

「負けを認めているのではありません。差を認めているのです。しかも、その差を埋めたいと思っている。……それが、たぶん一番厄介です」

 

厄介。

自分で言うあたりが鶴姫らしい。

 

それから鶴姫は、少し迷うような間を置いて、ぽつりと続けた。

 

「私は、遠くから特異点を見るように、治部大輔殿を見ていました。近づくべきか、避けるべきか、浅井のためにどう扱うべきか、ずっと考えていました。ですが、今、分かりました」

 

そこで言葉が切れた。

 

その先を俺は急かさなかった。

急かせば、たぶん言えなくなる。

あるいは、まだ自分でも名前をつけきれていないのかもしれない。

 

「……今は、まだ言いません」

 

結局そう言って、鶴姫はわずかに笑った。

その笑い方は、意地でもあり、照れでもあり、たぶんその両方だった。

 

「そのくらいは、よろしいでしょう。私にも姫としての矜持があります」

「面倒だな」

「治部大輔殿にだけは、言われたくありません」

 

そこは、俺も笑った。

 

けれど、その笑いの裏で、ようやく分かったことがある。

 

鶴姫は、ここで初めて、自分の中にあるものへ名前が付きかけているのだ。

遠くから特異点として見ていた相手。

政治判断として近づいた相手。

家のために結ばれるべき相手。

 

それが今、ただの敬意や警戒だけでは済まないところまで来ている。

 

しかも、それは今日急に生まれたものではない。

ずっと見てきた、その視線の延長にあったのだろう。

ただ、今日まで名前がなかっただけだ。

 

鶴姫は紙束を見下ろしながら、静かに言った。

 

「兄には、きちんと見せます。私が勘だけで言っていたのではないと、ちゃんと分かってもらいます」

「そうしなよ」

「はい。ですから、少しだけ悔しいですが、その悔しさも必要なのでしょうね」

 

難儀だな、と思う。

けれど、その難儀さが嫌じゃなかった。

 

悔しいだけなら、反発になる。

敬意だけなら、距離が残る。

けれど今の鶴姫は、そのどちらでも終わっていない。

悔しさを抱えたまま、近づこうとしている。

 

それはたぶん、かなり深い。

 

しばらくして、鶴姫は紙束を脇へ置いた。

今夜はもう開かないつもりなんだろう。

開けば、たぶん朝まで読んでしまう。

 

それから、少しだけ声を柔らかくして言った。

 

「今夜は、もう少しだけ、政の話ではない時間にしてもよろしいですか」

 

そこでようやく、俺も本当に笑った。

 

「それは、むしろ望むところだ」

 

 

評定の間へ入った時、十兵衛と半兵衛の目が、ほんの一瞬だけ鶴姫へ流れた。

 

露骨ではない。

露骨ではないが、見てはいる。

 

それも当然だった。

 

治部家の評定に、奥向きの人間が顔を出すこと自体は珍しくない。

お市だって必要があれば来る。

真理姫や雪姫も、台所や人の受け入れが絡む話なら耳を入れる。

 

だが今日は、そういう評定じゃない。

 

六角後処理。

瀬田城。

南近江の押さえ方。

浅井との線引き。

琵琶湖の水運。

京への道。

 

要するに、戦と統治と、これからの織田家の行き先が重なる話だ。

 

そこへ鶴姫が座る。

 

俺は上座から少し外した位置へ鶴姫を置いた。

客ではない。

だが、いきなり家老筋と同列の置き方もしない。

その半端さを、十兵衛はたぶんすぐ見て取ったはずだ。

 

十兵衛は何も言わず、半兵衛も何も言わない。

その代わり、両方とも見ている。

 

面白いな、と思った。

 

鶴姫自身は、その視線を気にした顔をしていなかった。

していないというより、こういう場へ座る以上、それが来るのは当然だと分かっている顔だった。

 

「では」

と十兵衛が口を開く。

「まず、瀬田城の今後の方針から」

 

紙が広げられ、位置と道筋が示される。

 

十兵衛の話はいつも通り整っていた。

 

瀬田の橋。

大津。

坂本。

湖西。

草津。

京へ向かう道。

伊賀・伊勢方面へ抜ける線。

南近江の旧六角勢力の残り。

浅井方の出入りとの干渉。

 

半兵衛がそこへ兵站を足す。

 

材木。

人足。

米。

舟運との接続。

城下へ入れる職人。

銭の流れ。

街道負荷。

湖上を通す荷と、陸を通す荷の分け方。

 

戦の話をしているようでいて、実際には台所の話でもある。

あいつらしい。

 

ひと通り聞いたあとで、俺は鶴姫を見た。

 

「どう思う」

 

十兵衛も半兵衛も、そこで初めて少しだけ目を動かした。

 

たぶん来ると思っていた。

だが、本当にここで振るのか、とは思ったんだろう。

 

鶴姫は、紙へもう一度目を落とした。

 

すぐには話さない。

そこがよかった。

分かっているふりをして、勢いで入ってこない。

 

やがて、鶴姫は静かに言った。

 

「治部大輔殿」

「何だ」

「六角四郎殿がやろうとして、失敗したものがございます」

 

その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。

十兵衛の眉が、ほんのわずかに動く。

 

「楽市楽座、か」

 

鶴姫は頷いた。

 

「はい」

 

六角四郎義高。

雑な知識で楽市楽座めいたものを進め、調整も根回しもなく家中と町場を乱した男。

 

その名を出すだけで、場には少し嫌な響きが残る。

 

だが鶴姫は、そこから逃げなかった。

 

「六角四郎殿は、やり方を誤りました。ですが、あれを失敗したからといって、定頼公以来の楽市楽座そのものまで捨てるべきではないと思います」

 

半兵衛が紙から目を上げる。

 

鶴姫は続けた。

 

「南近江を押さえ、瀬田城へ治部家が入るなら、今こそ本家と協働して、市を整えるべきでしょう」

「本家と協働」

 

十兵衛が静かに繰り返す。

 

「はい。治部家だけで進めれば、南近江の商いを治部家が抱え込むように見えます。ですが、本家の法として筋を立て、治部家が瀬田で運用する形にすれば、効果も周囲の受け方は違うはずです」

 

なるほど、と思った。

 

治部家が勝手に市を開くのではない。

織田本家の方針として、南近江と瀬田を整える。

その実務を、治部家が担う。

 

そう置けば、治部家の突出にも見えにくい。

 

鶴姫は、紙の上で瀬田から湖へ視線を流した。

 

「そして、浅井家もその流れに載せるべきかと」

「浅井も、か」

 

俺が言うと、鶴姫はためらわず頷いた。

 

「はい。浅井が北近江だけに閉じれば、いずれ織田の従属に見えます。ですが、琵琶湖の北と東を浅井が整え、南と京への口を織田が整えるなら、浅井は片翼になります」

 

半兵衛の目が、そこで少し細くなった。

 

「舟運を分ける」

 

「分けるというより、つなぐのです」

鶴姫の声は静かだった。

「北から来る荷。敦賀や若狭へ抜けるもの。丹波、丹後へ向かうもの。そこを浅井が伸ばす。南へ下り、瀬田から京へ流すものを織田が押さえる。そうすれば、浅井家もただ織田の後ろをついてくる家ではなくなります」

 

十兵衛が、今度ははっきりと鶴姫を見た。

 

「浅井家は、丹波丹後方面へ進出する予定、と見ておられる」

 

「そうするべきでしょう。私はそう訴え、兄も家中もそれを支持しております」

鶴姫は答えた。

「朝倉ばかり見ていては、浅井は北近江の家で終わります。ですが、琵琶湖を使い、若狭や丹後へ道を伸ばすなら、浅井は北から織田を支える家になれます」

 

その言い方は、浅井の姫らしかった。

 

従属ではない。

反抗でもない。

織田の大きな流れに乗りながら、浅井家自身も伸ばす。

 

そこまで考えている。

 

鶴姫は、さらに続けた。

 

「そのうえで、主攻は京方面に定めるべきかと」

 

部屋の空気が、もう一段締まった。

 

「主攻」

 

十兵衛が言う。

 

「はい。浅井が丹波丹後方面へ伸びるなら、それは助攻とみなす。織田本家と治部家は、瀬田から京へ向かう道を主攻にする」

 

半兵衛が、静かに問う。

 

「京で何をしますか」

 

「三好三人衆などを制し、将軍家と御所を保護する」

鶴姫の声は、驚くほど迷わなかった。

「ですが、ここで間違えてはならないのは、権力と権威を混ぜすぎないことだと思います」

 

「権力と権威」

 

俺は思わず繰り返した。

 

鶴姫は頷く。

 

「はい。武で京を押さえるだけでは、ただの乱暴です。けれど、御所や将軍家の権威をすべて背負ったつもりになれば、今度は織田家が身動きしにくくなります」

「……」

「御所と将軍家は保護する。けれど、実際の兵と銭と道は織田が握る。その二つを分けて扱う必要がございます」

 

十兵衛と半兵衛が、ほとんど同時に沈黙した。

 

それは、聞き流した沈黙ではない。

むしろ、強く聞いた時の沈黙だった。

 

鶴姫は、ここまで来ても調子を上げない。

 

「さらに、各地の大名へ当たる時も同じです」

「どういう意味だ」

 

俺が問う。

 

「織田が京へ入れば、各地の大名は織田を見るでしょう。ですが、全員を敵にする必要はありません。御所と将軍家を保護する名分を用い、織田が道と銭と兵を握る。従う者には役割を与え、抗う者には兵を向ける。その区別が肝要かと」

「……」

 

「ですから、瀬田城は城でありながら、城だけではない。楽市楽座、舟運、検地、寺社、公家、町衆、浅井との役割分け、京への兵站。それらを一度試す場所になります」

そこまで言って、鶴姫はようやく少しだけ息を置いた。

「治部家が瀬田に入る意味は、そこにあるのではありませんか」

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

かなりのことを言った。

しかも、ただ大きなことを言ったのではない。

 

六角四郎の失敗。

楽市楽座の再設計。

本家との協働。

浅井家の発展。

琵琶湖水運。

丹波丹後方面への助攻。

京方面への主攻。

三好三人衆の制圧。

将軍家と御所の保護。

権力と権威の分離。

各地大名への対応。

 

全部を、瀬田城へ結びつけた。

 

俺は、思わず笑いそうになった。

嬉しいというより、少し呆れた笑いだ。

 

やっぱり、普通じゃない。

 

十兵衛が、先に口を開いた。

 

「……鶴姫様」

「はい」

「そのお考えは、どなたから」

 

それは、少しだけ意地の悪い問いだった。

誰かに吹き込まれたのか、自分でそこまで見たのか。

十兵衛はそこを測っている。

 

鶴姫は、少しだけ考えてから答えた。

 

「北近江で育てば、嫌でも考えます」

「……」

「浅井は、朝倉にも、六角にも、京にも挟まれておりました。湖を失えば詰みます。道を誤れば挟まれます。どちらか一つだけ見ていては、生き残れません」

「……」

 

「それに、こちらへ来てから、治部大輔殿が何を見ておいでか、少し分かりました」

今度は俺へ視線が来る。

「治部大輔殿は、城を城だけでは見ておられません。兵を兵だけでも、婚姻を婚姻だけでも見ておられない」

 

「買いかぶりだな」

 

「いいえ」

鶴姫は、静かに首を振った。

「桶狭間も、美濃も、真理姫様のことも、雪姫様のことも、岡目八目で見ていれば分かります。治部大輔殿は、いつも勝った後、迎えた後を見ておられる」

 

半兵衛が、そこでゆっくりと紙から目を上げた。

 

「……十兵衛殿」

 

「ええ」

十兵衛は、小さく頷いた。

「ある意味、初めて治部様とお会いした時を思い出しますな」

 

半兵衛の声は、珍しく少しだけ深かった。

 

「私も同じことを思いました」

 

俺は眉をひそめた。

 

「何だ、それは」

 

十兵衛がこちらを見る。

 

「治部様と初めてお会いした時も、そうでした」

「俺が?」

「はい。こちらが一つの城、一つの戦、一つの調略として見ていたものを、治部様は道、蔵、人、婚姻、後始末までつなげておられた」

 

半兵衛が続ける。

 

「しかも、本人はそれを大仰な策とは思っておられない。むしろ、当然のように言う」

「……」

「鶴姫様も、今かなり近いことを申されました」

 

鶴姫は、そこで初めて少しだけ表情を変えた。

 

意外だったのか。

それとも、見抜かれたことに少し面白さを感じたのか。

たぶん、その両方だ。

 

「それは、誉められているのでしょうか」

 

半兵衛が、少しだけ間を置いて答える。

 

「半分は」

「残り半分は?」

「厄介という意味です」

「ひどいな」

 

俺が言うと、半兵衛はすぐに返した。

 

「治部様が言えた義理ではないかと」

 

そこは十兵衛まで少しだけ口元を緩めた。

 

「たしかに、治部様に似た方向で物をご覧になる。ですから、こちらとしては、ようやく腑に落ちました」

「腑に落ちた?」

 

十兵衛は頷いた。

 

「なぜ鶴姫様が、これほど自然にこの座へおられるのかです」

「……」

「ただの婚姻の結果なら、場へ慣れる前に気後れが出る。あるいは、分かったふりをして外す。ですが、そうではなかった」

「……」

「瀬田を、南近江の押さえだけではなく、天下へ向かう試験場として見た。それは、戦略を統治へ落とす者の見方です」

 

鶴姫は、静かに目を伏せた。

 

「買いかぶりでは」

 

「いいえ」

十兵衛の答えは早かった。

「買いかぶりであれば、ここまで具体にはなりません。楽市楽座、舟運、浅井、京、三好、将軍家、御所、権力と権威の分離、各地大名への当たり方。そこまで並べた上で、治部家が瀬田で何を受け止めるべきかまで言われた」

 

半兵衛も頷く。

 

「普通の姫君であれば、瀬田城を“どのように飾るか”で見る。あるいは、誰が住むかを問う。ですが、鶴姫様は、瀬田から天下へ続く道筋を見た」

「普通の姫君ではない、ということですか」

 

鶴姫がそう言うと、半兵衛は平然と答えた。

 

「はい」

 

即答だった。

 

俺は思わず言った。

 

「言い切るなよ」

 

「言い切ってよろしいかと」

半兵衛は静かに続ける。

「普通ではありません。ですが、この家には必要です」

 

その言葉は、かなり重かった。

 

ただの慰めでもない。

嫁いできた姫への配慮でもない。

半兵衛が“必要”と言う時は、本当に実務の上で必要と見た時だけだ。

 

十兵衛も、そこで明確に頷いた。

 

「今後席次や表情への参加、話の挙げ方などは、まだこの家で覚えていただくこともありましょう。ですが、盤面の見方そのものは、軽んじるべきではない。むしろ、最初からこの座に要る側の見方です」

 

鶴姫はそれを分かっている顔で、少しだけ姿勢を正した。

 

「それは、ありがたく受けます。ですが」

「何でしょう」

「治部大輔殿に似ている、というのは、あまり嬉しいような、嬉しくないような」

 

そこは、俺より先に半兵衛が小さく息を吐いた。

 

「その感想は、実に正しいかと」

「おい」

 

「それはつまり」

半兵衛は、少しだけ目を伏せる。

「誉れではありますが、面倒も増えます」

 

「言うなよ」

「ですが事実です」

 

十兵衛まで少しだけ目を伏せた。

笑っているわけではないが、否定もしない。

 

鶴姫の口元も、今度ははっきりと緩んだ。

 

評定の空気の中で初めて出た、少しだけ柔らかい笑みだった。

 

「では、その面倒も含めて、ここで覚えることにいたします」

 

「そうしてくれ」

俺は言った。

「どうせ瀬田城だけで終わる話じゃない。ここから先、そういう見方が要る場は増える」

「はい」

「姫の席じゃ足りないなら、別の席で働けばいい」

 

その言葉に、鶴姫は一瞬だけ言葉を止めた。

 

それから、静かに頷いた。

 

「はい」

 

短い返事だった。

だが、さっきよりずっと重かった。

 

十兵衛が紙を引き寄せ直す。

 

「では、瀬田城を治部家が受ける前提で、もう一段詰めましょう」

 

半兵衛が続ける。

 

「本家と協働する楽市楽座、浅井家を載せる湖上の流れ、京方面への主攻、丹波丹後方面への助攻。姫様にも、引き続きお聞きしたい」

 

鶴姫は、もうためらわなかった。

 

そこでようやく、十兵衛と半兵衛の中で何かが定まったのが分かった。

 

嫁いできた姫。

浅井との縁。

奥向きに入る一人。

 

そういう見方だけでは、もう足りない。

 

この人は、普通の姫君ではない。

しかもただ鋭いだけではない。

治部家の評定で使うべき、違う方向性の刃を持っている。

 

そしてその刃の向きが、少しだけ俺に似ている。

 

それを、二人はたしかに認めたのだ。

 

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