織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
稲葉山城でのことだった。
近江酒造方で最初に形になった清酒は、まず売りに出されはしなかった。
いきなり京や堺へ回すには早い。
酒は口に入るものだ。器と違って、見た目だけでは済まぬ。ならば最初に通すべきは、織田家本家の舌だった。
信繁は、小ぶりながらもよく磨かれた酒樽を幾つか、稲葉山へ運ばせた。
ただの献上ではない。
試飲である。
評定のあと、ややくだけた座が設けられた。
上総介上総介兄上。
勘十郎勘十郎兄上。
柴田権六勝家。
森三左衛門可成。
池田勝三郎恒興。
前田又左衛門利家。
佐々内蔵助成政。
それに、信繁。
杯が並び、銚子が置かれ、あまり仰々しくならぬ程度に、しかし顔ぶれだけは重い。
いわば、治部家の新しい柱が、本家中枢に品定めされる場だった。
上総介兄上が、まず信繁を見る。
「治部」
「はい」
「今度は酒か」
「はい」
「お前は本当に、戦の合間に何を増やしておるのだ」
信繁は少し笑った。
「食と酒は、兵も人も裏切りにくうございますので」
勘十郎兄上が、その返しに先に笑う。
「裏切りにくい、か。たしかにお前らしい」
権六が、もう待ちきれぬといった顔で言った。
「能書きはよい。飲ませろ」
「そう仰ると思っておりました、権六の親父殿」
「親父殿言うな」
そう言いながらも、勝家の機嫌は悪くない。
信繁は、自ら最初の銚子を取り、上総介兄上の杯へ注いだ。
次に勘十郎兄上。
そのあと権六、三左衛門、勝三郎、又左衛門、内蔵助へと回す。
酒は澄んでいた。
香りはこの時代の濁り酒ほど荒れておらず、しかし後世の極端に磨いた酒とも違う。米の芯がまだ残っている。だが、雑ではない。水のやわらかさが、先に立つ。
上総介兄上が、ひと口含んだ。
座が静まる。
上総介兄上はすぐには何も言わない。
舌の上で転がし、喉へ落とし、それからようやく杯を見た。
「……ほう」
その一言で、場の空気が少しだけ緩んだ。
勘十郎兄上も口へ運ぶ。
「なるほど」
権六は、もっと率直だった。
「うまいな」
三左衛門も続く。
「無駄に尖っておらぬ。飲みやすい」
勝三郎は、少しだけ目を細めた。
「これは“ただのうまい酒”では終わらぬな」
又左衛門はすでに次の一杯を狙っている。
「米の尖りがまだあるな」
内蔵助が杯を置く。
「水か」
信繁が頷く。
「近江の水でございます」
上総介兄上が、そこでようやく言った。
「それだけではあるまい」
「はい。米の選り、洗い、置き方、火の入れ方、桶の扱い、そうしたものを少し詰めました」
「少し、か」
勘十郎兄上が苦笑する。
「お前の“少し”は信用ならぬ」
「誉め言葉として」
「受け取るな」
そこへ権六が、もう一杯を自分で注ぎながら言った。
「で、治部。これをどうしたい」
そこが本題だった。
信繁は、座を見回してから答えた。
「まずは、皆様にお認め頂きたい」
「うむ」
「そのうえで、使いたいのです」
三左衛門が眉を上げる。
「使う」
「はい。ただ飲むためだけではなく」
信繁は指を折った。
「一つ、公家や大名衆を饗応する時の酒」
上総介兄上の目が少し動く。
「二つ、贈答」
勘十郎兄上が頷く。
「これは分かる」
「三つ」
信繁は、そこで少しだけ声を低くした。
「手柄を挙げた部下への褒賞」
権六が又左衛門、内蔵助たちが、杯を持ったまま止まる。
それは思いのほか、武辺の胸に入る言葉だったらしい。
信繁は続ける。
「銭や知行も大事にございます。感状も重い。だが、勝った場で、その働きを見た上で、“これは治部家、あるいは織田家の酒だ”と渡せるものがあれば、また別の重みが出ます」
三左衛門が、低く言う。
「褒美の酒、か」
「はい」
「なるほどな」
権六が、そこでようやく口を開いた。
「悪くない」
その一言は重い。
この男が「悪くない」と言う時は、本当に筋が通っている時だ。
「首を挙げた者へ、その日すぐ振る舞える。あるいは、特に働いた者へ、樽ごと与える。たしかに、武辺は喜ぶ」
「でしょうな」
「しかも、ただのそこらの酒ではない。近江で作った、織田の新しい酒だ」
勝家は、そこまで言ってもう一度飲んだ。
「気分がよい」
三左衛門が笑う。
「権六殿が分かりやすく乗ったな」
「うるさい」
だが、三左衛門も杯を傾けたあとで言った。
「しかし実際、これは座を締める」
「はい」
「公家衆でも、味の分からぬ者ばかりではない。京で出せば、まず水で話になる」
上総介兄上が、そこで言葉を継いだ。
「堺にも持って行けるな」
「はい」
「津田宗及殿あたりへ、一度通せればと」
「酒でか」
「器だけでは、治部家の色が狭うございます。酒まで通れば、席そのものへ入れます」
勘十郎兄上が、そこは面白そうに見た。
「なるほど。茶器は見せるもの。酒は口に入るもの。確かに、入り方が違う」
「はい」
勝三郎が、そこで静かに言う。
「饗応と贈答に使えるとなれば、本家でも欲しいな」
「むろん、そのつもりにございます」
信繁は答えた。
「これは治部家だけで抱えるより、本家の名にも寄せた方がよい」
上総介兄上が、それには満足げに鼻を鳴らした。
「分かっておるではないか」
「そのくらいは」
「そのくらいでは済まぬだろうが」
勘十郎兄上が、そこで少しだけ身を乗り出した。
「どこまで量が出せる」
「最初から無茶は致しませぬ。まずは上物を少し。次に、贈答用と褒賞用を分けます」
「褒賞用も分けるのか」と三左衛門。
「はい。大樽を渡すべき時と、小さくとも格のあるものを渡すべき時がございます」
権六が、そこで笑う。
「そこまで考えておるか」
「考えております」
「お前は本当に、褒美の渡し方まで面倒な男だな」
「雑に渡しても、雑にしか残りませぬので」
その返しに、三左衛門が思わず笑った。
「たしかにな」
座の空気は、もうかなりよくなっていた。
酒がうまい。
理もある。
そして使い道が見えている。
ここまで揃えば、ただの思いつきでは終わらない。
上総介兄上が、杯を置いた。
「よい」
一言で、場が締まる。
「この酒は、まず本家の饗応にも使う」
「は」
「公家衆、大名衆、使者ども。場を選んで出せ」
「承知いたしました」
「贈答にも回せ」
「は」
「ただし」
上総介兄上の目が細くなる。
「うまいからといって、安売りするな」
信繁は深く頷いた。
「もちろんにございます」
「褒賞にも使え」
権六がそこで「おお」と小さく唸る。
上総介兄上は続けた。
「だが、それは“織田が働きを見て酒を与えた”と分かる形にしろ」
「木札でも付けますか」と勘十郎兄上。
「それもよいな」
十兵衛や半兵衛がこの場にいれば、その後の運用まで一気に詰めただろう。だが今日は本家重臣への試飲の席だ。信繁は、そこでは話を一つ先までに留めた。
「では、樽と小瓶、あるいは小さな陶器詰めも考えます」
「それがよい」と勘十郎兄上。
「場に応じて使い分けろ」
「はい」
三左衛門が、そこで少しだけ声を落とした。
「治部」
「何でしょう」
「お前、これを酒好きの大名へ打ち込む気もあるだろう」
信繁は、そこでわずかに笑った。
「さて」
「あるな」
「ないとは申せませぬ」
上総介兄上が、そのやり取りに目だけで笑った。
「誰だ」
「今はまだ、酒で人の縁を作れる相手、とだけ」
勘十郎兄上が苦笑する。
「便利な濁し方だ」
「便利に使っております」
権六が、もう一杯注ぎながら言った。
「まあよい。酒好きは世に多い。うまい酒は、それだけで人を動かす」
「ええ」
「しかも、ただの酒ではなく、近江の水で取った新しい酒だ」
三左衛門も続ける。
「敵も味方も、口に入れてしまえば忘れにくい」
信繁は、その言葉には素直に頷いた。
「だからこそ、最初はうるさい舌へ通したかったのです」
「誰の舌がうるさいと」
上総介兄上が言う。
「皆様にございます」
座が一瞬静まり、それから小さく笑いが起きた。
「言うようになったな」と勘十郎兄上。
「もともとです」
「違いない」と三左衛門。
権六も、杯を揺らしながら笑った。
「で、治部」
「はい」
「次は強い酒か」
そこを聞いてくるあたり、やはり権六は権六だった。
信繁は少しだけ口元を上げる。
「いずれ」
「あるのだな」
「ございます。ただし、そちらはまだ薬にも兵にも関わりますので、もう少し詰めてから」
上総介兄上が、その答えには満足したらしい。
「よい。ではまず、この清酒で座を押さえろ」
「は」
「織田の酒として、顔のある場へ出せ」
「承知いたしました」
それで決まった。
近江酒造方の最初の清酒は、単なる出来のよい酒では終わらなかった。
織田家本家の重臣たちの舌を通り、饗応に使え、贈答に耐え、褒賞にまで回せると認められた。
酒は人を酔わせる。
だがそれだけではない。
座を和らげ、顔を繋ぎ、働きをねぎらい、時に言葉より先に心へ入る。
信繁が狙っていたのは、まさにそこだった。
そしてその土台ができれば――酒を好む大きな武将を味方へ引き寄せる道も、いずれ酒樽の向こうに見えてくる。
今はまだ、そこまでは誰も口にしない。
だが、治部大輔信繁の頭の中では、もう次の一手へ、静かに杯が置かれ始めていた。
♢
稲葉山城での試飲の座は、思った以上に上機嫌のまま進んだ。
近江酒造方の最初の清酒は、すでに上総介兄上、勘十郎兄上、権六、三左衛門らの舌を通り、ひとまず「出せる」と認められている。酒そのものの出来もさることながら、これをどう使うかまで話が進んだのが大きかった。
上総介兄上が杯を置いて言った。「よい酒だ。これはただ蔵に抱えておくには惜しいな」
勘十郎兄上も頷く。「公家衆への饗応にも使えましょうし、大名への贈答にも映えます。器だけではなく、口へ入るもので治部家の名が通るのは強い」
権六が、もう一杯注ぎながら笑った。「手柄を立てた者へ振る舞うのもよいぞ。感状と銭も嬉しかろうが、良い酒を樽ごと賜るとなれば、武辺は嬉しいものだ」
三左衛門も続けた。「しかも『近江で取れた新しい酒』となれば話の種にもなる。座を締めるにも、縁を結ぶにも使えるな」
俺は、そこで少しだけ息を吐いた。ここまで乗ってくれれば十分だ。あとは使い方を間違えなければ、この酒はただの美味い酒では終わらない。
上総介兄上が、ふと思い出したように言った。「そういえば、これは三河の元康殿にも送れ」
「は」と俺が応じると、上総介兄上は続けた。「同盟を結んだなら、まずは口へ入るもので覚えさせるのがよい。堅い文だけ寄越しても、人の腹には残らぬ」
勘十郎兄上が笑った。「浅井へも回せと、兄上が仰っておりましたな」
「ああ」と上総介兄上は頷く。「浅井にもだ。あちらも今は、こちらがどのような家かを測っておる最中だろう。ならば、武だけではなく、こういうものも見せておけ」
俺は頭を下げた。
「承知いたしました。松平三河守殿と浅井家へ、先の盟の寿ぎも添えて贈ります」
権六が、杯を揺らしながら言った。
「酒で縁を結ぶか。お前らしいな、治部」
三左衛門が笑う。
「むしろ治部殿がやると、酒まで政になるのが恐ろしい」
「褒め言葉として受け取っておきます」と俺が返すと、勘十郎兄上がすぐに差し込んだ。
「受け取るな」
だが、空気は悪くない。よい酒は、こういう時に本当に場を和らげる。しかもその場にいるのが、ただの飲兵衛ではなく、これからの織田家の動きを決める面々なのだから、なおさらだ。
その帰り道、俺はふと考えていた。元康殿へ酒を送る。浅井へも送る。器と違って、酒は人の内へ入る。口に入れ、喉を通り、身体の中へ落ちる。だからこそ、うまく行けば忘れにくい。こちらの顔を覚えさせるには、たしかに悪くない。
だが、浅井へ酒が届くころには、もう一つ別の話も動いているはずだった。
鶴姫の輿入れである。
浅井との盟は、もはや打診や腹探りの段を越えつつあった。愛知川の線、湖西の切り取り、北と西への伸び筋。そうした話の積み重ねの先に、ついに人が動く。お犬の線はまだ本家筋の大きな婚姻として先を見ているが、こちらへ入る鶴姫の方は、治部家と浅井を深く繋ぐ実の札だ。
そしてそれは、ただ「また一人、側室が増える」で済む話ではない。
真理姫がいる。雪姫がいる。お市がいる。そこへ鶴姫が入るとなれば、順というものがどうしても生まれる。誰が先で、誰が後か。誰にどう子を宿させるか。戦国の家の話として見れば、そこは避けられない。だが、鶴姫はただの戦国の姫とも違う。
輿入れの前に一度だけ、鶴姫と二人で話す機会があった。
もっとも、話したと言っても、妙な腹の探り合いがほとんどだ。あの人は、こちらが何を知り、どこまで見ているかを測っている。俺もまた、向こうがどこまで分かっているかを測っている。
座敷の空気は静かだった。戦の評定とも奥向きとも違う、少しだけ張った静けさだ。
鶴姫は、きちんとした姿勢で座っていた。年若い姫に見える。実際、見た目だけならそうだ。だが、その目の奥が普通ではない。こちらの言葉尻より、置き方を見ている。
俺が先に口を開いた。
「此度のこと、浅井家としてはずいぶん重い札を切られましたな」
鶴姫は少しも崩れずに答えた。
「重い札でなければ、織田と並び立つ話にはなりますまい」
「並び立つ、ですか」
「はい。従うつもりで参るなら、こういう入り方は致しませぬ」
そこは実に鶴姫らしい。低くは出ない。だが、高ぶりもしない。家としての重みを持ったまま、こちらへ座る。
「治部大輔殿の御内には、すでに真理姫様も雪姫様もおられます」と鶴姫は続けた。
「私が後から入る以上、その順というものがあることは承知しております」
俺は、そこでわざと少しだけ間を置いた。
「……そんなものか、と」
鶴姫は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「そんなもの、と割り切れるほど軽くもございません」
「でしょうな」
「ですが、ここで私が“本来なら”などと申しても始まらぬでしょう」
その言い方に、やはりこの人はただの姫ではないと思う。戦国の姫として言うべき筋を踏まえた上で、その一歩外にいるような含みがある。
「順は見ます」と俺は言った。
「だが、順を理由に粗略にはせぬ」
「それで十分です」と鶴姫は答えた。
「むしろ、そこをどう取る御方かを見ております」
「怖いことを仰る」
「お互い様にございます」
そこまでで、たぶん互いに分かったのだ。この人は、言わない。だが、見ている。こちらが真理姫をどう扱い、雪姫をどう扱い、そして自分をどう迎えるか。その順番の中にある心まで、たぶん見に来ている。
そして、その瞬間に、俺はふと別の顔を思い出していた。
朝倉の姫。美景姫。
理の通らぬ男を相手に、顔色を変えず刃を抜いたという話。六角右衛門督が馬鹿をやらかし、顔を斬られて追い出された、あの姫君である。
俺が何かを言う前に、鶴姫がふいに視線を外して言った。
「朝倉にも、少し似た匂いの方がおられました」
俺は、そこで思わず顔を上げた。
「……ああ、六角四郎殿が馬鹿をやらかした、あの姫君ですか」
鶴姫は、今度こそほんのわずかに笑った。
「ご存じでしたか」
「有名ですからな。敦賀で無礼を働き、小太刀で顔を裂かれて追い出されたと」
「ええ。それだけ聞けば気の強い姫君、で終わるのでしょうけれど」
「終わらない?」
「終わらぬ気がいたしました」
そこで会話は、少しだけ止まった。
言葉にすれば、それは余計だ。だが言葉にしなくても、何となく伝わるものはある。あの人もこちら側かもしれぬ。そういう、転生者同士にしか分からぬ気配のようなものが、たしかに一瞬だけ座敷の中を通った。
「まあ」と鶴姫は、最後には普通の武家の姫らしい調子へ戻った。「今はまず、浅井の姫として、治部家へきちんと入ることが先にございます」
「承知しております」
「順も、面目も、そのうえで家としての筋も、どうぞお見失いなきよう」
「肝に銘じます」
「そうして頂ければ、私は多くを申しませぬ」
それは脅しではない。だが、ただの挨拶でもなかった。
鶴姫の輿入れは、たぶん静かに見えて、治部家の奥向きの空気をまた一段変える。真理姫との順。雪姫との順。そしていずれ生まれる子らの順。そうしたものが、戦の評定や築城と同じくらい重く、この家の内側を組み替えていくのだろう。
稲葉山での酒の試飲はうまく行った。元康殿にも、浅井にも、酒は送られる。盟を結んだ家へ、まずは口へ入るもので顔を覚えさせる。それはそれで一つの戦だ。
だが、その裏で動く婚姻の方は、もっと静かで、もっと逃げ場がない。
酒で少し場が和み、肩の力が抜けることもある。そこから先、誰とどう向き合うかで、家の形そのものが変わる。
鶴姫はきっと、それを見に来る。言葉少なに、しかし一つも見逃さずに。
♢
朝、目が覚めた瞬間、俺は嫌な汗をかいた。
頭が重い。喉が渇く。そこまでは酒の翌朝で済む。問題は、その先だった。
寝具が妙に乱れている。着物の合わせも、昨夜きちんと横になっただけにしては少し怪しい。しかも隣では、真理姫が静かに眠っている。
「……やらかしたか」
声に出した瞬間、背筋が冷えた。
婚姻している。そこはこの時代だ、状況としては間違っていない。
だが、酒を飲んで、酔った末に、となると話は別だった。
真理姫のこれまでを思えば、そこは一番ちゃんとしてやらねばならないところだったはずだ。
木曾での婚姻が、この子にとってどういうものだったか。
田代へ来てから、どれだけ張りつめて、それでも礼を崩さずにいたか。
そういうものを見てきたくせに、祝いの夜の酒で曖昧にしてよいはずがない。
俺は、ほとんど反射で布団をはねのけた。
そのまま、真理姫の枕元へ膝をつき、両手をついた。
考えるより先に身体が動いた。
額が畳に着く。
「……すまん」
自分でも驚くほど、声が掠れた。
「本当に、すまん。俺は、ちゃんとしてやりたかった。ちゃんと話して、ちゃんとお前の気持ちも聞いて、その上でと思っていたのに……酒なんか入って、あんな形で」
言いかけて、喉が詰まる。
「嫌だったなら、怒ってくれていい。殴ってもいい。俺が悪い。とにかく、先に謝らせてくれ」
部屋は、しんと静かだった。
しまった、起こした、と一瞬思った時にはもう遅い。
柔らかな衣擦れがして、真理姫が身じろぎした気配があった。
「……治部殿?」
寝起きの、まだ夢の縁にいるような声だった。
だが、次の瞬間には、俺が何をしているか分かったのだろう。息を呑む気配がした。
「な、何をなさっておいでで!」
「謝ってる」
「それは見れば」
「悪かった」
「治部殿」
真理姫の声が、少しだけ強くなった。
「まずはお顔を上げてください」
「いや、今は」
「上げてください」
そこまできっぱり言われて、ようやく俺は顔を上げた。
真理姫は、寝起きのままなのに、もう完全に目が覚めていた。
頬にうっすら赤みはある。だが、怒っている顔ではない。
むしろ、ひどく戸惑っているように見えた。
「……そんなに」
と、真理姫は小さく言った。
「そんなに、お気になさっていたのですか」
「当たり前だろ」
「でも」
「でもじゃない」
自分でも少しきつい声になったのが分かった。だが止められなかった。
「お前のこれまでを思えば、ああいうことだけは、絶対に雑にしたくなかった」
「……」
「酒の勢いでどうこう、なんて、一番駄目なやつだろ」
「治部殿」
「ちゃんとしたかった。祝いの夜だからこそ、なおさら」
そこで息を吐く。
「なのに記憶が飛んでる時点で、もう最低だ」
真理姫は、しばらく何も言わなかった。
怒るでもなく、泣くでもなく、ただじっとこちらを見ていた。
その目の奥で、何かを噛みしめるような時間があった。
やがて、真理姫がそっと口を開く。
「……では、私も謝らねばなりません」
「は?」
思わず間の抜けた声が出た。
真理姫は、そこで少しだけ視線を落とした。
だが逃げるような落とし方ではない。自分の中の何かを認める時の顔だった。
「昨夜、お酒をお勧めしたのは私です」
「いや、それは」
「叔父上が、祝いの夜くらい飲ませてしまえと仰ったのも本当です」
「やっぱりあの人か……」
「ですが、それだけではありません」
真理姫は、自分の袖をそっと握った。
「私が、そうしたかったのです」
俺は言葉を失った。
真理姫は、その沈黙のまま続ける。
「治部殿は、私にとてもお優しい」
「……」
「お優しすぎるくらいに」
「それは」
「分かっております。木曾でのことを思って、私の身体を気遣い、急がぬように、怖がらせぬように、ずっと気を配ってくださっていたのでしょう」
「うん」
「その優しさを知っていながら」
真理姫は少しだけ笑った。困ったような、恥ずかしいような笑いだった。
「私は、それでも自分の我がままを通したくなってしまいました」
「我がまま、って」
「そうでしょう?」
「……」
「治部殿がきちんとなさろうとしておられたのに、酒の力を借りてでも、私は先へ進みたかったのですから」
そこまで言われて、ようやく、昨夜のことが少しだけ輪郭を持った。
俺が一方的にどうこうしたのではない。
真理姫もまた、覚悟を決めて、こちらへ寄ってきていたのだ。
それでも、胸の奥の重さが全部消えるわけではなかった。
「だとしても」
「はい」
「俺は、やっぱりお前に謝る」
「……」
「お前が望んだかどうかとは別で、俺はちゃんとしたかった」
そこは譲れなかった。
「そう思ってたからこそ、余計に」
真理姫は、その言葉を聞いて、ふいに目元をやわらげた。
「治部殿」
「何だ」
「私、今、少しだけ嬉しくて困っております」
「え」
「だって」
真理姫は笑った。今度はさっきよりずっと穏やかだった。
「そこまで考えてくださっていたのだと、改めて分かってしまいましたから」
その言い方は、妙に胸に来た。
木曾では、そういう風に考えてもらえなかったのだろう。
正室でありながら、年齢も身体もろくに見られず、ただ武田の支配の象徴として置かれ、石女と蔑まれた。
そういうところから来た子に、今、自分は「ちゃんとしたかった」と言っている。
それがどれだけの意味を持つかを、真理姫は多分、俺以上に分かっていた。
「治部殿に嫁いで良かったと」
真理姫は小さく言った。
「今、心から思っております」
今度は、こっちが黙る番だった。
真理姫は涙ぐんではいなかった。
けれど、あまりに真っ直ぐな声だったから、かえってこちらの方が耐えづらい。
「……ずるいな」
「何がですか」
「そういうことを、朝一番で言うなよ」
「本当のことですもの」
「本当でもだ」
真理姫は、くすりと笑った。
ようやく、部屋の空気がほんの少しだけ戻る。
だが、それでも俺は手放しでは笑えなかった。
だから、もう一度言った。
「とにかく」
「はい」
「今後は、こういうことをしないでほしい」
真理姫が瞬いた。
「酒で押し切るみたいなのは」
「……」
「一度契ったからって、それで終わりみたいには絶対にしたくない」
「治部殿」
「これからのことは、ちゃんと二人で話そう」
そこで、はっきりと言う。
「お前を雑にしたくない」
真理姫の表情が、少しずつほどけていく。
「はい」
「うん」
「そう致します」
「約束だぞ」
「はい」
そして真理姫は、少しためらってから、そっと言った。
「でも」
「何だ」
「昨夜のことを、全部後悔だけにはしないでくださいませ」
「……」
「私にとっては、嬉しい夜でもございましたから」
そう言われると、また返事に困る。
困るが、嘘をつくわけにもいかない。
「……分かった」
「はい」
「後悔だけには、しない」
「ありがとうございます」
真理姫は、それで十分だというように頷いた。
ようやく、俺も肩の力を抜いた。
土下座のまま始まった朝としては、どうにか着地した方だろう。
いや、着地というより、真理姫に助けてもらったのだが。
「では」
と、真理姫。
「朝餉へ参りましょうか」
「その前に、もう一つだけ」
「はい」
「本当に、嫌ではなかったか」
真理姫は、少しだけ呆れたように、けれど優しく笑った。
「治部殿」
「うん」
「嫌であれば、こんな顔はしておりません」
「……それもそうか」
「はい」
そこでようやく、俺も立ち上がった。
だが、半ば放心したまま朝の席へ向かった俺は、二度目の硬直を味わうことになる。
赤飯だった。
どう見ても赤飯だった。
「……何で?」
思わずそう言うと、台所の者たちが妙ににこやかに頭を下げる。
お市は上座で静かな顔をしている。静かな顔をしているのだが、口元だけ少し緩んでいる。
雪姫に至っては、俺と目が合った瞬間にさっと視線を逸らし、耳まで赤い。
真理姫は、何事もないように俺の隣へ座った。
やはり、にこにこしている。
「真理」
「はい」
「何だこの空気は」
「朝の、めでたい空気かと」
「どこがだ」
お市が、そこで口を開いた。
「治部殿、お酒はほどほどがよろしいかと」
「お市まで……!」
「でも、まあ、真理姫様があのように嬉しそうですし」
「何が“まあ”なんだ」
「治部殿が覚えていないなら、ここで細かく申し上げる必要もございませんでしょう」
この人までそう来る。
雪姫は箸を持つ手まで落ち着かない。頬がうっすら紅潮していて、明らかに何かを勝手に想像している顔だった。
真理姫がやわらかく呼ぶ。
「雪姫様」
「は、はい」
「そのようにお顔を赤くなさらずとも」
「ま、真理姫様……!」
「私は何も申しておりませんよ」
それが余計によくないのだろう。雪姫はますます俯いた。
「いや待て」と俺は言った。
「今のは何だ」
「何でもございません」
「絶対に何かあるだろ」
そこへ、廊の向こうから足音がした。
ものすごく嫌な予感がして、その予感はたいてい当たる。
典厩様だった。
片腕を失い、脚を引きずりながらも、なぜか背筋だけはまるで曲がらない。俺の顔を見るなり、ほんの少しだけ口元を動かした。
「治部大輔」
「……おはようございます」
「うむ。よい朝だな」
「全然よくないです」
「そうか?」
「そうです」
典厩様は赤飯をひと目見て、真理姫の顔を見て、それから俺を見た。
「どうやら、酒も無駄ではなかったようだ」
「やっぱり典厩様の入れ知恵か!」
「入れ知恵とは人聞きが悪い。背を押しただけだ」
「十分悪いです!」
真理姫が横で小さく笑う。お市は目を伏せているが、どう見ても笑いを堪えている。雪姫はもうまともにこちらを見られない。
典厩様は、そんな座の空気を見回してから言った。
「安心しろ。頭をかち割る気はない」
「“今のところ”は、ですよね?」
「付けぬ」
「本当ですか」
「姫が笑っておる。なら、朝から騒ぐ方が野暮だ」
そこだけは妙にもっともだった。
真理姫がそっと言う。
「治部殿、朝餉が冷めてしまいます」
「いや、その前にいろいろ確認を」
「あとで、ゆっくり」
その言い方が、また何とも言えない。
結局、その朝の席は、赤飯の湯気と妙にやわらかい空気のまま進んだ。
俺だけがひとり置いていかれ、真理姫はにこにこしていて、お市は全部分かった上で受け流し、雪姫は勝手に熱を上げ、典厩信繁様はどこか満足そうにしている。
近江の酒は、たしかに出来がよかった。よすぎたのかもしれない。
そして俺はその朝、酒というものは外へ顔を広げるだけでなく、家の内側まで思わぬ勢いで動かすのだと、身をもって思い知らされることになった。
♢
お市の産所の前は、さすがに普段の評定とは空気が違った。
戦の前でも、織田家の重臣たちはここまで揃ってそわそわしない。だが、この日は別だった。上総介兄上も、勘十郎兄上も、落ち着かない時は落ち着かないのである。とりわけ、お市の初産ともなればなおさらだ。
もっとも、いちばん落ち着かないのは、夫である俺だった。
「治部殿、もう少しお座りになってくださいませ」と侍女に言われ、「いや、でも」と返し、「でも、ではございません」と押し戻されるのを、もう何度やったか分からない。
「落ち着け、治部」と勘十郎兄上が言う。
「勘十郎兄上が言いますか」
「俺はまだ落ち着いている方だ」
「どの口で」
上総介兄上が、そのやり取りの向こうから口を挟んだ。「お前ら二人とも、似たようなものだ」
「上総介兄上もです」と俺が返すと、上総介兄上は一拍置いてから鼻を鳴らした。「わしは兄だ。落ち着かぬのはよいのだ」
「理屈になっておりません」と勘十郎兄上。「私も兄ですぞ」
「うるさい」
その時だった。
産婆と侍女の動きが変わり、ほどなくして、奥から小さく、しかし確かな産声が響いた。
空気が止まる。
次の瞬間、侍女が顔を輝かせて出てきた。
「若君にございます!」
それで、場が一気に崩れた。
「おおっ」と最初に声を上げたのは上総介兄上だった。
「おお……!」と、その次に本当に安堵した顔を見せたのが勘十郎兄上。
そして俺はというと、その場で膝から力が抜けそうになった。
「……お市は無事か?」
ようやく出たのは、それだけだった。
「はい。お市様もご無事にございます」
その言葉で、ようやく息ができた気がした。
上総介兄上が、いつになく素直な笑顔で言う。「よかったな、治部」
勘十郎兄上もすぐに続く。「いや、本当にめでたい。お市もよくやった」
「ありがとうございます」
そう返しながらも、まだ頭が追いつかない。若君。嫡男。お市は無事。そこまでは理解できる。だが、その先は何だ。抱くのか。まだ早いのか。名前はどうする。いや、その前にお市へ何を食べさせる。冷えは駄目だ。寝所は暖かく。湯はどうだ。産婆はもう一人呼ぶべきか。そういうことばかりが頭の中をぐるぐる回り始める。
勘十郎兄上が、その顔を見て苦笑した。「もう次のことでいっぱいだな」
「当たり前でしょう。お市の身体をまず休ませねばなりませんし、湯も寝所も食事も」
上総介兄上が笑う。「産んだのはお市だぞ。お前が産んだような顔をするな」
「するでしょう、そりゃ」
「するのか」
「します」
そう言い切ると、勘十郎兄上が肩を揺らした。「駄目だ、これはしばらく役に立たん」
「元から今この場では大して役に立っておりません」と俺が返すと、上総介兄上まで声を立てて笑った。
しばらくして、ようやく若君の顔を見せてもらった。
小さい。
当たり前だが、小さい。
けれど、たしかに生きていて、泣いていて、手を握る力がある。
上総介兄上が、覗き込みながら言う。「よい顔だ」
勘十郎兄上もすぐに頷く。「うむ。これはよい」
「まだ分からんでしょう」と俺が言うと、二人とも同時にこちらを見た。
「分かる」と上総介兄上。
「分かるな」と勘十郎兄上。
まったく、この叔父馬鹿二人は、甥ができた途端に甘い。いや、分かってはいたが、ここまで分かりやすいとは思わなかった。
そして案の定、命名の話になった。
「名はどうする」と上総介兄上が言う。
それを聞いたお市が、まだ疲れの残る顔でありながらも、妙にはっきりした声で言った。「兄上にだけは、先に決めさせたくありません」
座が少し静まり、それから勘十郎兄上が吹き出した。
「お市、お前……」
上総介兄上が眉をひそめる。「何だそれは」
「だって兄上、思いつきで妙な名をつけそうですもの」
「妙とは何だ、妙とは」
「変に凝るでしょう」
「凝って何が悪い」
勘十郎兄上が、笑いながら助け船を出した。「いや、実際、お市の気持ちも分かるぞ」
「勘十郎、お前までか」
「叔父としては格好いい名をつけたい気持ちは分かりますが、父親の意向を先に聞いてやらねば」
そこでようやく、俺へ話が回ってきた。
「治部、お前はどうだ」と上総介兄上。
俺は、まだ若君の寝顔を見ながら答えた。「……元服の際は信秀公の名を、一字頂ければと思っております」
それで、空気がまた少し変わった。
上総介兄上が静かに頷く。
勘十郎兄上も、今度は笑わなかった。
「なるほど」と上総介兄上。「父上の名か」
「はい」
「よいではないか」と勘十郎兄上。
上総介兄上も、すぐに言った。「うむ。よい。父上もお喜びになろう」
お市も、その答えには安心した顔をした。「それならば」
つまり、上総介兄上に好きにさせるよりは、よほど安心だ、ということだろう。実にお市らしい。
若君は、ひとまず「豊寿丸」と呼ばれることになった。
そして、その話が落ち着いた頃、もう一つの報せが入った。
濃姫の懐妊である。
「ほう」と上総介兄上がまず言い、次に本当に嬉しそうな顔をした。
「めでたいことが続くな」
勘十郎兄上が笑う。「本当に続きますな。こちらは本家、あちらは治部家。家中の空気もよくなりましょう」
「珠のような赤子になるかもしれんな」と上総介兄上が何気なく言いかけて、そこで止めた。
「兄上、気が早いです」と勘十郎兄上がすぐに差し込む。
「何だ。よいではないか」
「よくありません。まだ早い」
とはいえ、その場にいた誰もが、これはただの懐妊ではないと感じていた。本家の子が生まれる。しかも、こちらには豊寿丸がいる。早いうちから、将来の縁を見ておく話が出るのは自然だった。
それからの俺はというと、ひどかった。
お市に対してもそうだったが、懐妊した者が身近にいるとなると、どうにも落ち着かない。
「冷えるな」と言う。
「重いものは持つな」と言う。
「何か少しでも変なら、すぐ横になれ」と言う。
「無理をするな」と言う。
「それは食べられるか」と言う。
「こっちは駄目か」と言う。
そして、その後すぐに懐妊が判明した真理姫に対しても、ほとんど同じだった。あの晩の交わりがまさに実を結んだわけだが、年齢が年齢だけに、お市の初産よりも心配度が高い。
「あの、治部殿」と真理姫が少し呆れたように言う。
「何だ」
「私はまだ、そこまで重病人のように扱われるほどではございません」
「重病人扱いしてるわけじゃない」
「では」
「大事にしている」
「それは分かっております」
真理姫は困ったように笑う。「でも、そこまでおたおたなさると、こちらの方が不安になります」
「不安にさせるつもりはない」
「はい」
「ただ、何かあってからでは遅い」
そう言うと、真理姫は少しだけ表情をやわらげた。
「……甲斐から、また何か取り寄せるおつもりですか」
「もちろんだ」
「やはり」
「典厩様に頼めば、甲斐で身体によいものや、食べやすいものも回してもらえるだろう。しのにも聞く。半兵衛にも台所を詰めさせる」
真理姫は、とうとう小さく笑いを漏らした。「治部殿、本当にそちらへ走られますのね」
「走るに決まってるだろ」
実際、その通りだった。
典厩様が慌てて文を出す。
甲斐の味で食の進むものを聞く。
しのへも確かめる。
半兵衛へは、台所で無理なく出せるものを工夫させる。
お市の時に役立ったことは全部もう一度洗い直す。
そして、その様子を横で見ていた雪姫と鶴姫は、妙に静かだった。
静かではあるのだが、何も感じていない顔ではない。
雪姫は雪姫で、こういう家の内側がどう動くかを、もうだいぶ分かってきている。頬を少しだけ染めながらも、目は真面目だ。
鶴姫はもっと静かだ。表には出さない。だが、順番などに過度に囚われる風でもなく、ただ「この家ではこう動くのだ」と見ている顔をしている。
つまり、どちらももう、閨や懐妊を「自分とは遠い別の話」とは思っていないのである。
それが見えるからこそ、俺は余計におたおたする。
お市が、そんな俺を見て言った。「治部殿」
「何だ」
「真理姫様は、ちゃんと休まれております」
「うむ」
「私ももう、一度産んでおります」
「うむ」
「ですから、少し落ち着いてくださいませ」
「無理だ」
即答すると、お市は呆れたように、それでもどこか楽しそうに笑った。「本当に、そういうところは変わりませんのね」
「変えられるか、こんなもん」
「でも、悪くありません」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
家の中に、子が宿る。
一人だけではない。
これから先もきっと増える。
それはただの慶事ではない。家のかたちそのものが増え、重くなっていくということだ。
豊寿丸が生まれ、本家にも新しい命の報せがあり、真理姫の腹にも次の命が宿るった。そんな空気の中で、治部家はもう、ただ戦に勝つための寄せ集めではなく、次の代まで見据えた家になり始めていた。
そして、その「家」の重さに、俺はたぶん、これから先もずっと、おたおたし続けるのだろう。
♢
田代城に、まるで風のように現れた一行があると聞いた時、俺は最初、またどこかの大名家の使者かと思った。
だが、名を聞いた瞬間に、さすがに手が止まった。
上杉弾正少弼政虎。いや、上洛し、足利将軍から偏諱をもらって今では上杉弾正少弼輝虎か。
いずれにせよ、世に軍神とまで囁かれる男が、上洛を隠れ蓑にしながら、わざわざ治部印の清酒を飲みに来たというのである。
普通なら城中が浮き足立つ。
だが、意外なことに、いちばん落ち着いていたのは典厩様だった。
「まあ、来るだろうとは思っていた」と、あの人は平然と言った。
「思ってたんですか」
「旨い酒は人を動かす。まして、ああいう男ならな」
「いや、相手は軍神ですよ」
「知っておる」
言いながら、典厩様はまるで昔なじみでも迎えるような顔をしている。やはり、いくさ人というのはどこか常人とずれている。
しかも、あの人はその前にぽつりと漏らした。
「第四次川中島の時も、あちらは啄木鳥を読んでいたからな」
「……気軽に言わんでくださいよ、それ」
「お主には今さら隠すほどのことでもあるまい。こちらが妙を取りすぎれば、あの男はそこを嗅ぐ。ゆえに作戦を変えた。それだけだ」
それだけ、で済む話ではない。
だが、典厩様にとっては済んでいるのだろう。あの戦で生き延び、片腕を失い、足を痛め、それでもなお「あの時はそうした」と静かに言える。そこがもう、こちらと住んでいる世界が違う。
そして実際に現れた弾正少弼殿は、なるほど、そういう男だった。
派手に名乗りを上げるでもない。
だが、城へ入った瞬間、空気が変わる。
細いとか太いとか、強いとか恐いとか、そういう単純な話ではない。立っているだけで、こちらが勝手に姿勢を正したくなる類の人間である。
応対の座には、俺だけでは格が足りない。
当然、上総介兄上も出てきた。
上総介兄上は、相手の顔を見ても騒がない。むしろ面白いものを見る目になった。
「弾正少弼殿、いかがなされたのかな?」
まるで近所の変わり者でも迎えるような、冷静な声だった。
ああいうところは、本当にこの人らしい。
軍神は、少しも気取らずに言った。
「旨い酒があると聞いた。お酒を頂こう。織田家のことは、大樹にはそれなりに話しておいた。尾張守護職や美濃守護職、あるいは南近江守護職などへの叙任もあるかもしれんな」
上総介兄上の目が、ほんのわずかに細くなった。
酒を飲みに来た、と言いながら、ちゃんとそれだけでは終わらせない。将軍への口利きまで含めて持ってくるあたり、やはりただの酒好きではない。
上総介兄上は、そこで俺を見た。
「ほう。治部よ、出せ」
「は」
俺はあらかじめ用意していた治部印の清酒を出させた。
最初の樽でもよかったが、さすがにここは選りの分けた上澄みだ。近江の水で取った、今のところ一番顔のいい酒を持ってくる。
軍神は杯を取り、香りを見てからひと口含んだ。
しばし、沈黙。
それから、短く言った。
「旨いな」
そこで座の空気が少しだけ動いた。
「これは良い酒だ。金は出すから、定期的に越後に送ってくれ」
いや、あまりにも早い。
気に入るにしても、もう少し駆け引きがあるかと思ったが、この人はそのあたりを飛ばしてくる。
上総介兄上が、横でわずかに笑う。
典厩様は「そうだろうな」という顔をしている。
ならば、こちらも遠慮はしない。
「同盟結んでいただけるなら」と俺は言った。「他にももっときつい酒ありますので、そちらもつけますよ」
上総介兄上が横目で俺を見る。
勘十郎兄上がいればたぶん額を押さえていた。
だが、ここで小さくまとまる意味はない。相手が相手だ。酒で来たなら、酒で釣るのがいちばん早い。
軍神は、杯を置いた。
「わかった」
これもまた、あまりにも早かった。
「よいのですか」と俺が逆に聞きたくなるほどあっさりしている。
「旨い酒は大事だ」と軍神は言う。「それに、強い酒もあるのだろう」
「あります」
「ならよい」
「いや、そこ、そんなに軽く決めてよいところですか」と俺が思わず言うと、典厩様が横で小さく笑った。
「治部大輔、いくさ人とはそういうものだ。理があれば、あとは案外早い」
軍神も、それには少しだけ口元を動かした。
「結ぶ理もある。酒もある。なら、まずは飲んでから考えればよい」
上総介兄上が、そこで杯を傾けながら言う。
「弾正少弼殿、そなた、世に聞く軍神のわりに、ずいぶん人の世に馴染んでおるな」
「戦しか知らぬ者が、どうして人を動かせよう」
「なるほど」
「それに、そなたの弟も面白い」
「弟?」
「治部大輔だ」
上総介兄上が、そこで本当に愉快そうに笑った。
「それは否定できぬ」
「否定してくださいよ」
「無理だ」
軍神は、もう一度酒を口へ含んだ。
「これはよい。越後へ送れ」
「承知いたしました」
「強い酒も忘れるな」
「同盟の件、書付にして頂けるなら」
「よかろう」
話が早い。
早すぎる。
だが、早すぎるからこそ、こういう人たちは戦の盤を動かしてきたのだろう。
その座の空気は、どこか妙だった。
上総介兄上も、典厩様も、弾正少弼殿も、皆それぞれ違う家を背負う大大名級の男たちだ。だが、酒が一つ入るだけで、急にただの政略の座ではなくなる。いくさ人同士の、妙に乾いた、しかし軽くはない場になる。
俺はその光景を見ながら、ああ、こういう男たちがいるから世は面白くも厄介なのだろうと思った。
治部印の清酒は、ここでついに軍神の舌まで掴んだ。
そしてどうやら、酒好きな軍神を味方へ引き寄せるという、半ば冗談めいた狙いまで、本当に形になり始めたらしい。
♢
弾正少弼殿は、治部印の清酒を二、三度口へ運んだあとで、ようやくゆっくりと座中を見回した。
その目が、ただ酒席の余興として人を眺めているのではないことは、すぐに分かった。
当然だろう。田代城のこの座には、ただの城主一家と家臣団だけではないものが混じっている。
疋田豊五郎がいる。日置大膳亮がいる。柳生の剣士たちが控えている。十兵衛、半兵衛、左近将監、慶次郎、助右衛門がいる。さらに、典厩様がいる。そして、表に姿は見せずとも、藤林長門守の気配にまで、この軍神はたぶん気づいている。
弾正少弼殿は、面白そうに口元を歪めた。
「興味深き者たちばかりよの。南近江を制したは、この者たちの力か」
言いながら、空になった杯をこちらへ向ける。その杯がまた、杯というより陣笠を半分に切ったような大きさである。よくそんなもので平然と飲めるものだと、毎度ながら思う。
俺は黙って酒を注いだ。
「はい。皆のおかげでございます」
「皆、か」
「俺一人ではどうにもなりませんので」
「殊勝なことを申す」
「本音ですよ」
弾正少弼殿は、またぐいと飲んだ。呑みっぷりに変な迷いがない。だからこそ怖い。怖いが、見ていると妙に気持ちがいいのもまた困る。
俺は、そこでふと思ったことをそのまま口にした。
「あの、越後に帰らなくて大丈夫なんです?」
「何がだ」
「もうすぐ雪に閉ざされるでしょう」
弾正少弼殿は、少しだけ考える顔をした。
「うむ」
「いや、“うむ”じゃなくて」
「あと三日、いや一週間は呑みたい」
「ああ……」
思わず空を見たくなった。
「お酒が大事なんですね」
「一応な」
「一応で済ませるんですか、それ」
「大樹に申し上げた件も、結果を見届けようと思ってな」
そう言いながら、弾正少弼殿は懐から何かを出した。包みをほどくと、干した魚のような、小さく切った肴だった。
「これ、ツマミじゃ。塩でよい」
「自前で持って来たんですか」
「酒を飲むなら備えは要る」
「そこだけ妙に用意がいいですね」
「当然であろう」
まったく当然のように言う。さすがにそこまで堂々とされると、こちらも笑うしかない。
俺は、塩を小皿へ少し盛らせ、肴と一緒に出した。弾正少弼殿はそれを指でつまんで口へ入れ、また酒を飲む。
十兵衛が横で、いかにも顔に出さぬようにしながらも、少しだけ呆れている。半兵衛は、こういう珍客にもあまり驚かない顔をしている。慶次郎は妙に楽しそうだ。助右衛門は無言だが、たぶん「この人は危ない」と思っている。典厩様に至っては、もう「そういう男だ」と受け入れている顔だった。
俺はその飲み方を見ていて、どうにも放っておけなくなった。
「こんな呑み方してると、雪隠で踏ん張ったときに脳の血管切れて死んじゃいますよ?」
座が、一瞬だけ静まり返った。
弾正少弼殿が、杯を持ったまま止まる。
「……何だそれは」
「すごく情けない死に方じゃないですか」
「そのような恐ろしいことを申すでない」
「いや、でも本当にありますよ。塩と酒ばかりで、しかもこんな大杯で何度もやってると」
「申すでない」
「軍神でも、胃腸や肝の臓は人並みでしょう?」
「うむ」
「うむ、じゃないですよ。どちらか控えてください。塩か酒か」
弾正少弼殿は、いかにも嫌そうな顔をした。
「だが、このように旨い酒を造ったそなたに言われとうはない」
「造ったからこそ言ってるんです」
「何故だ」
「死なれたら、定期便が途切れるでしょう」
それで、座に少しだけ笑いが落ちた。
弾正少弼殿も、ようやく小さく笑った。
「なるほど。そなた、酒で人を釣っておいて、死ぬなと申すか」
「当たり前です。せっかく越後への売り先ができたんですから」
「売り先扱いか」
「お得意先や同盟先とも申します」
「どちらでも変わらぬな」
「変わりますよ。売り先だとお代を頂きますが、同盟先ならきつい酒もつけます」
「それは先ほど聞いた」
「では、長生きしてください」
「奇妙な勧め方よの」
そこへ、典厩様が杯を片手に言った。
「弾正少弼殿、こやつはこういう男です」
「分かっておる」
「戦の話をしておったかと思えば、次には酒を勧め、次には雪隠で死ぬなと言い出す」
「まことに、分かっておる」
弾正少弼殿は、そこで改めて俺を見た。
「だが、嫌いではない」
「ありがとうございます」
「礼はよい。もう一杯注げ」
「控えましょうよ」
「申したであろう。あと三日、いや一週間は呑みたいと」
「その発想自体が危ないんです」
「そなたは、酒を造る者のくせに、酒に冷たいな」
「冷たくないですよ。売る相手に死なれると困るだけで」
「やはり売り先ではないか」
そこで今度は、典厩様が小さく笑った。
「よいではないか、弾正少弼殿。酒で釣られ、命まで案じられる。なかなか得難い扱いよ」
「それもそうだな」
「よくないですよ」と俺が返すと、典厩様は肩を揺らした。
弾正少弼殿は、また塩を少し舐め、酒を飲み、それからふいに周囲へ視線を巡らせた。
「しかし、面白い城だな」
「田代城ですか」と俺。
「城もそうだが、人だ。剣の者、弓の者、忍びの気配、兵法者、そしてそなたら兄弟。これでは酒を飲みに来たのか、戦を見に来たのか分からぬ」
「どちらもでよろしいのでは」
「そうかもしれぬ」
そこで弾正少弼殿の目が、廊の暗がりの方へほんの一瞬だけ向いた。やはり、気づいている。藤林長門守のことまで、完全にではなくとも、何かいると感じてはいるのだろう。
だが、それをあえて口にはしない。
いくさ人というものは、そういうところが妙に洗練されている。見えても全部を言わぬ。言わぬことで、相手の腹もまた測る。典厩様が平然としているのも、そこが分かるからだろう。
「治部大輔」と弾正少弼殿が言った。
「はい」
「そなたの酒はよい。人も面白い。城も、これから厄介になりそうだ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「うむ。そうしておけ」
「ただし、もう一杯は少しゆっくり飲んでください。塩も控えめで」
「まだ申すか」
「申します」
「困った男だ」
「困らせているのは、そちらです」
弾正少弼殿は、それにはさすがに声を立てて笑った。
その笑い方は、噂に聞く軍神とも、越後の大大名とも少し違っていた。ただ旨い酒に機嫌をよくした、しかし底のところではやはりどこか人間離れした、妙に危うくて愉快な男の笑いだった。
そして俺は、その笑いを見ながら、ああ、やはりこの手の人たちは、戦の話も、生き死にも、酒の旨いまずいも、同じ地平で語れるのだなと思った。
それが羨ましいかと問われれば、たぶん違う。だが、見ていて面白いのは確かだった。