織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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044治部家の日常

稲葉山城でのことだった。

 

近江酒造方で最初に形になった清酒は、まず売りに出されはしなかった。

いきなり京や堺へ回すには早い。

酒は口に入るものだ。器と違って、見た目だけでは済まぬ。ならば最初に通すべきは、織田家本家の舌だった。

 

信繁は、小ぶりながらもよく磨かれた酒樽を幾つか、稲葉山へ運ばせた。

ただの献上ではない。

試飲である。

 

評定のあと、ややくだけた座が設けられた。

 

上総介上総介兄上。

勘十郎勘十郎兄上。

柴田権六勝家。

森三左衛門可成。

池田勝三郎恒興。

前田又左衛門利家。

佐々内蔵助成政。

それに、信繁。

 

杯が並び、銚子が置かれ、あまり仰々しくならぬ程度に、しかし顔ぶれだけは重い。

いわば、治部家の新しい柱が、本家中枢に品定めされる場だった。

 

上総介兄上が、まず信繁を見る。

 

「治部」

「はい」

「今度は酒か」

「はい」

「お前は本当に、戦の合間に何を増やしておるのだ」

 

信繁は少し笑った。

 

「食と酒は、兵も人も裏切りにくうございますので」

 

勘十郎兄上が、その返しに先に笑う。

 

「裏切りにくい、か。たしかにお前らしい」

 

権六が、もう待ちきれぬといった顔で言った。

 

「能書きはよい。飲ませろ」

「そう仰ると思っておりました、権六の親父殿」

「親父殿言うな」

 

そう言いながらも、勝家の機嫌は悪くない。

 

信繁は、自ら最初の銚子を取り、上総介兄上の杯へ注いだ。

次に勘十郎兄上。

そのあと権六、三左衛門、勝三郎、又左衛門、内蔵助へと回す。

 

酒は澄んでいた。

香りはこの時代の濁り酒ほど荒れておらず、しかし後世の極端に磨いた酒とも違う。米の芯がまだ残っている。だが、雑ではない。水のやわらかさが、先に立つ。

 

上総介兄上が、ひと口含んだ。

 

座が静まる。

 

上総介兄上はすぐには何も言わない。

舌の上で転がし、喉へ落とし、それからようやく杯を見た。

 

「……ほう」

 

その一言で、場の空気が少しだけ緩んだ。

 

勘十郎兄上も口へ運ぶ。

 

「なるほど」

 

権六は、もっと率直だった。

 

「うまいな」

 

三左衛門も続く。

 

「無駄に尖っておらぬ。飲みやすい」

 

勝三郎は、少しだけ目を細めた。

 

「これは“ただのうまい酒”では終わらぬな」

 

又左衛門はすでに次の一杯を狙っている。

 

「米の尖りがまだあるな」

 

内蔵助が杯を置く。

 

「水か」

 

信繁が頷く。

 

「近江の水でございます」

 

上総介兄上が、そこでようやく言った。

 

「それだけではあるまい」

「はい。米の選り、洗い、置き方、火の入れ方、桶の扱い、そうしたものを少し詰めました」

 

「少し、か」

勘十郎兄上が苦笑する。

「お前の“少し”は信用ならぬ」

 

「誉め言葉として」

「受け取るな」

 

そこへ権六が、もう一杯を自分で注ぎながら言った。

 

「で、治部。これをどうしたい」

 

そこが本題だった。

 

信繁は、座を見回してから答えた。

 

「まずは、皆様にお認め頂きたい」

「うむ」

「そのうえで、使いたいのです」

 

三左衛門が眉を上げる。

 

「使う」

「はい。ただ飲むためだけではなく」

 

信繁は指を折った。

 

「一つ、公家や大名衆を饗応する時の酒」

 

上総介兄上の目が少し動く。

 

「二つ、贈答」

 

勘十郎兄上が頷く。

 

「これは分かる」

 

「三つ」

信繁は、そこで少しだけ声を低くした。

「手柄を挙げた部下への褒賞」

 

権六が又左衛門、内蔵助たちが、杯を持ったまま止まる。

 

それは思いのほか、武辺の胸に入る言葉だったらしい。

 

信繁は続ける。

 

「銭や知行も大事にございます。感状も重い。だが、勝った場で、その働きを見た上で、“これは治部家、あるいは織田家の酒だ”と渡せるものがあれば、また別の重みが出ます」

 

三左衛門が、低く言う。

 

「褒美の酒、か」

「はい」

「なるほどな」

 

権六が、そこでようやく口を開いた。

 

「悪くない」

 

その一言は重い。

この男が「悪くない」と言う時は、本当に筋が通っている時だ。

 

「首を挙げた者へ、その日すぐ振る舞える。あるいは、特に働いた者へ、樽ごと与える。たしかに、武辺は喜ぶ」

「でしょうな」

 

「しかも、ただのそこらの酒ではない。近江で作った、織田の新しい酒だ」

勝家は、そこまで言ってもう一度飲んだ。

「気分がよい」

 

三左衛門が笑う。

 

「権六殿が分かりやすく乗ったな」

「うるさい」

 

だが、三左衛門も杯を傾けたあとで言った。

 

「しかし実際、これは座を締める」

「はい」

「公家衆でも、味の分からぬ者ばかりではない。京で出せば、まず水で話になる」

 

上総介兄上が、そこで言葉を継いだ。

 

「堺にも持って行けるな」

「はい」

「津田宗及殿あたりへ、一度通せればと」

「酒でか」

「器だけでは、治部家の色が狭うございます。酒まで通れば、席そのものへ入れます」

 

勘十郎兄上が、そこは面白そうに見た。

 

「なるほど。茶器は見せるもの。酒は口に入るもの。確かに、入り方が違う」

「はい」

 

勝三郎が、そこで静かに言う。

 

「饗応と贈答に使えるとなれば、本家でも欲しいな」

「むろん、そのつもりにございます」

 

信繁は答えた。

 

「これは治部家だけで抱えるより、本家の名にも寄せた方がよい」

 

上総介兄上が、それには満足げに鼻を鳴らした。

 

「分かっておるではないか」

「そのくらいは」

「そのくらいでは済まぬだろうが」

 

勘十郎兄上が、そこで少しだけ身を乗り出した。

 

「どこまで量が出せる」

「最初から無茶は致しませぬ。まずは上物を少し。次に、贈答用と褒賞用を分けます」

 

「褒賞用も分けるのか」と三左衛門。

 

「はい。大樽を渡すべき時と、小さくとも格のあるものを渡すべき時がございます」

 

権六が、そこで笑う。

 

「そこまで考えておるか」

「考えております」

「お前は本当に、褒美の渡し方まで面倒な男だな」

「雑に渡しても、雑にしか残りませぬので」

 

その返しに、三左衛門が思わず笑った。

 

「たしかにな」

 

座の空気は、もうかなりよくなっていた。

 

酒がうまい。

理もある。

そして使い道が見えている。

ここまで揃えば、ただの思いつきでは終わらない。

 

上総介兄上が、杯を置いた。

 

「よい」

 

一言で、場が締まる。

 

「この酒は、まず本家の饗応にも使う」

「は」

「公家衆、大名衆、使者ども。場を選んで出せ」

「承知いたしました」

「贈答にも回せ」

「は」

「ただし」

 

上総介兄上の目が細くなる。

 

「うまいからといって、安売りするな」

 

信繁は深く頷いた。

 

「もちろんにございます」

「褒賞にも使え」

 

権六がそこで「おお」と小さく唸る。

 

上総介兄上は続けた。

 

「だが、それは“織田が働きを見て酒を与えた”と分かる形にしろ」

 

「木札でも付けますか」と勘十郎兄上。

 

「それもよいな」

 

十兵衛や半兵衛がこの場にいれば、その後の運用まで一気に詰めただろう。だが今日は本家重臣への試飲の席だ。信繁は、そこでは話を一つ先までに留めた。

 

「では、樽と小瓶、あるいは小さな陶器詰めも考えます」

 

「それがよい」と勘十郎兄上。

「場に応じて使い分けろ」

 

「はい」

 

三左衛門が、そこで少しだけ声を落とした。

 

「治部」

「何でしょう」

「お前、これを酒好きの大名へ打ち込む気もあるだろう」

 

信繁は、そこでわずかに笑った。

 

「さて」

「あるな」

「ないとは申せませぬ」

 

上総介兄上が、そのやり取りに目だけで笑った。

 

「誰だ」

「今はまだ、酒で人の縁を作れる相手、とだけ」

 

勘十郎兄上が苦笑する。

 

「便利な濁し方だ」

「便利に使っております」

 

権六が、もう一杯注ぎながら言った。

 

「まあよい。酒好きは世に多い。うまい酒は、それだけで人を動かす」

「ええ」

「しかも、ただの酒ではなく、近江の水で取った新しい酒だ」

 

三左衛門も続ける。

 

「敵も味方も、口に入れてしまえば忘れにくい」

 

信繁は、その言葉には素直に頷いた。

 

「だからこそ、最初はうるさい舌へ通したかったのです」

「誰の舌がうるさいと」

 

上総介兄上が言う。

 

「皆様にございます」

 

座が一瞬静まり、それから小さく笑いが起きた。

 

「言うようになったな」と勘十郎兄上。

 

「もともとです」

 

「違いない」と三左衛門。

 

権六も、杯を揺らしながら笑った。

 

「で、治部」

「はい」

「次は強い酒か」

 

そこを聞いてくるあたり、やはり権六は権六だった。

 

信繁は少しだけ口元を上げる。

 

「いずれ」

「あるのだな」

「ございます。ただし、そちらはまだ薬にも兵にも関わりますので、もう少し詰めてから」

 

上総介兄上が、その答えには満足したらしい。

 

「よい。ではまず、この清酒で座を押さえろ」

「は」

「織田の酒として、顔のある場へ出せ」

「承知いたしました」

 

それで決まった。

 

近江酒造方の最初の清酒は、単なる出来のよい酒では終わらなかった。

織田家本家の重臣たちの舌を通り、饗応に使え、贈答に耐え、褒賞にまで回せると認められた。

 

酒は人を酔わせる。

だがそれだけではない。

座を和らげ、顔を繋ぎ、働きをねぎらい、時に言葉より先に心へ入る。

 

信繁が狙っていたのは、まさにそこだった。

 

そしてその土台ができれば――酒を好む大きな武将を味方へ引き寄せる道も、いずれ酒樽の向こうに見えてくる。

 

今はまだ、そこまでは誰も口にしない。

だが、治部大輔信繁の頭の中では、もう次の一手へ、静かに杯が置かれ始めていた。

 

 

稲葉山城での試飲の座は、思った以上に上機嫌のまま進んだ。

 

近江酒造方の最初の清酒は、すでに上総介兄上、勘十郎兄上、権六、三左衛門らの舌を通り、ひとまず「出せる」と認められている。酒そのものの出来もさることながら、これをどう使うかまで話が進んだのが大きかった。

 

上総介兄上が杯を置いて言った。「よい酒だ。これはただ蔵に抱えておくには惜しいな」

 

勘十郎兄上も頷く。「公家衆への饗応にも使えましょうし、大名への贈答にも映えます。器だけではなく、口へ入るもので治部家の名が通るのは強い」

 

権六が、もう一杯注ぎながら笑った。「手柄を立てた者へ振る舞うのもよいぞ。感状と銭も嬉しかろうが、良い酒を樽ごと賜るとなれば、武辺は嬉しいものだ」

 

三左衛門も続けた。「しかも『近江で取れた新しい酒』となれば話の種にもなる。座を締めるにも、縁を結ぶにも使えるな」

 

俺は、そこで少しだけ息を吐いた。ここまで乗ってくれれば十分だ。あとは使い方を間違えなければ、この酒はただの美味い酒では終わらない。

 

上総介兄上が、ふと思い出したように言った。「そういえば、これは三河の元康殿にも送れ」

 

「は」と俺が応じると、上総介兄上は続けた。「同盟を結んだなら、まずは口へ入るもので覚えさせるのがよい。堅い文だけ寄越しても、人の腹には残らぬ」

 

勘十郎兄上が笑った。「浅井へも回せと、兄上が仰っておりましたな」

 

「ああ」と上総介兄上は頷く。「浅井にもだ。あちらも今は、こちらがどのような家かを測っておる最中だろう。ならば、武だけではなく、こういうものも見せておけ」

 

俺は頭を下げた。

「承知いたしました。松平三河守殿と浅井家へ、先の盟の寿ぎも添えて贈ります」

 

権六が、杯を揺らしながら言った。

「酒で縁を結ぶか。お前らしいな、治部」

 

三左衛門が笑う。

「むしろ治部殿がやると、酒まで政になるのが恐ろしい」

 

「褒め言葉として受け取っておきます」と俺が返すと、勘十郎兄上がすぐに差し込んだ。

「受け取るな」

 

だが、空気は悪くない。よい酒は、こういう時に本当に場を和らげる。しかもその場にいるのが、ただの飲兵衛ではなく、これからの織田家の動きを決める面々なのだから、なおさらだ。

 

その帰り道、俺はふと考えていた。元康殿へ酒を送る。浅井へも送る。器と違って、酒は人の内へ入る。口に入れ、喉を通り、身体の中へ落ちる。だからこそ、うまく行けば忘れにくい。こちらの顔を覚えさせるには、たしかに悪くない。

 

だが、浅井へ酒が届くころには、もう一つ別の話も動いているはずだった。

 

鶴姫の輿入れである。

 

浅井との盟は、もはや打診や腹探りの段を越えつつあった。愛知川の線、湖西の切り取り、北と西への伸び筋。そうした話の積み重ねの先に、ついに人が動く。お犬の線はまだ本家筋の大きな婚姻として先を見ているが、こちらへ入る鶴姫の方は、治部家と浅井を深く繋ぐ実の札だ。

 

そしてそれは、ただ「また一人、側室が増える」で済む話ではない。

 

真理姫がいる。雪姫がいる。お市がいる。そこへ鶴姫が入るとなれば、順というものがどうしても生まれる。誰が先で、誰が後か。誰にどう子を宿させるか。戦国の家の話として見れば、そこは避けられない。だが、鶴姫はただの戦国の姫とも違う。

 

輿入れの前に一度だけ、鶴姫と二人で話す機会があった。

 

もっとも、話したと言っても、妙な腹の探り合いがほとんどだ。あの人は、こちらが何を知り、どこまで見ているかを測っている。俺もまた、向こうがどこまで分かっているかを測っている。

 

座敷の空気は静かだった。戦の評定とも奥向きとも違う、少しだけ張った静けさだ。

 

鶴姫は、きちんとした姿勢で座っていた。年若い姫に見える。実際、見た目だけならそうだ。だが、その目の奥が普通ではない。こちらの言葉尻より、置き方を見ている。

 

俺が先に口を開いた。

 

「此度のこと、浅井家としてはずいぶん重い札を切られましたな」

 

鶴姫は少しも崩れずに答えた。

 

「重い札でなければ、織田と並び立つ話にはなりますまい」

「並び立つ、ですか」

「はい。従うつもりで参るなら、こういう入り方は致しませぬ」

 

そこは実に鶴姫らしい。低くは出ない。だが、高ぶりもしない。家としての重みを持ったまま、こちらへ座る。

 

「治部大輔殿の御内には、すでに真理姫様も雪姫様もおられます」と鶴姫は続けた。

「私が後から入る以上、その順というものがあることは承知しております」

 

俺は、そこでわざと少しだけ間を置いた。

 

「……そんなものか、と」

 

鶴姫は、ほんの少しだけ口元を動かした。

 

「そんなもの、と割り切れるほど軽くもございません」

「でしょうな」

「ですが、ここで私が“本来なら”などと申しても始まらぬでしょう」

 

その言い方に、やはりこの人はただの姫ではないと思う。戦国の姫として言うべき筋を踏まえた上で、その一歩外にいるような含みがある。

 

「順は見ます」と俺は言った。

「だが、順を理由に粗略にはせぬ」

 

「それで十分です」と鶴姫は答えた。

「むしろ、そこをどう取る御方かを見ております」

 

「怖いことを仰る」

「お互い様にございます」

 

そこまでで、たぶん互いに分かったのだ。この人は、言わない。だが、見ている。こちらが真理姫をどう扱い、雪姫をどう扱い、そして自分をどう迎えるか。その順番の中にある心まで、たぶん見に来ている。

 

そして、その瞬間に、俺はふと別の顔を思い出していた。

 

朝倉の姫。美景姫。

 

理の通らぬ男を相手に、顔色を変えず刃を抜いたという話。六角右衛門督が馬鹿をやらかし、顔を斬られて追い出された、あの姫君である。

 

俺が何かを言う前に、鶴姫がふいに視線を外して言った。

 

「朝倉にも、少し似た匂いの方がおられました」

 

俺は、そこで思わず顔を上げた。

 

「……ああ、六角四郎殿が馬鹿をやらかした、あの姫君ですか」

 

鶴姫は、今度こそほんのわずかに笑った。

 

「ご存じでしたか」

「有名ですからな。敦賀で無礼を働き、小太刀で顔を裂かれて追い出されたと」

「ええ。それだけ聞けば気の強い姫君、で終わるのでしょうけれど」

「終わらない?」

「終わらぬ気がいたしました」

 

そこで会話は、少しだけ止まった。

 

言葉にすれば、それは余計だ。だが言葉にしなくても、何となく伝わるものはある。あの人もこちら側かもしれぬ。そういう、転生者同士にしか分からぬ気配のようなものが、たしかに一瞬だけ座敷の中を通った。

 

「まあ」と鶴姫は、最後には普通の武家の姫らしい調子へ戻った。「今はまず、浅井の姫として、治部家へきちんと入ることが先にございます」

 

「承知しております」

「順も、面目も、そのうえで家としての筋も、どうぞお見失いなきよう」

「肝に銘じます」

「そうして頂ければ、私は多くを申しませぬ」

 

それは脅しではない。だが、ただの挨拶でもなかった。

 

鶴姫の輿入れは、たぶん静かに見えて、治部家の奥向きの空気をまた一段変える。真理姫との順。雪姫との順。そしていずれ生まれる子らの順。そうしたものが、戦の評定や築城と同じくらい重く、この家の内側を組み替えていくのだろう。

 

稲葉山での酒の試飲はうまく行った。元康殿にも、浅井にも、酒は送られる。盟を結んだ家へ、まずは口へ入るもので顔を覚えさせる。それはそれで一つの戦だ。

 

だが、その裏で動く婚姻の方は、もっと静かで、もっと逃げ場がない。

 

酒で少し場が和み、肩の力が抜けることもある。そこから先、誰とどう向き合うかで、家の形そのものが変わる。

 

鶴姫はきっと、それを見に来る。言葉少なに、しかし一つも見逃さずに。

 

 

朝、目が覚めた瞬間、俺は嫌な汗をかいた。

 

頭が重い。喉が渇く。そこまでは酒の翌朝で済む。問題は、その先だった。

 

寝具が妙に乱れている。着物の合わせも、昨夜きちんと横になっただけにしては少し怪しい。しかも隣では、真理姫が静かに眠っている。

 

「……やらかしたか」

 

声に出した瞬間、背筋が冷えた。

 

婚姻している。そこはこの時代だ、状況としては間違っていない。

だが、酒を飲んで、酔った末に、となると話は別だった。

 

真理姫のこれまでを思えば、そこは一番ちゃんとしてやらねばならないところだったはずだ。

木曾での婚姻が、この子にとってどういうものだったか。

田代へ来てから、どれだけ張りつめて、それでも礼を崩さずにいたか。

そういうものを見てきたくせに、祝いの夜の酒で曖昧にしてよいはずがない。

 

俺は、ほとんど反射で布団をはねのけた。

 

そのまま、真理姫の枕元へ膝をつき、両手をついた。

考えるより先に身体が動いた。

 

額が畳に着く。

 

「……すまん」

自分でも驚くほど、声が掠れた。

「本当に、すまん。俺は、ちゃんとしてやりたかった。ちゃんと話して、ちゃんとお前の気持ちも聞いて、その上でと思っていたのに……酒なんか入って、あんな形で」

 

言いかけて、喉が詰まる。

「嫌だったなら、怒ってくれていい。殴ってもいい。俺が悪い。とにかく、先に謝らせてくれ」

 

部屋は、しんと静かだった。

 

しまった、起こした、と一瞬思った時にはもう遅い。

柔らかな衣擦れがして、真理姫が身じろぎした気配があった。

 

「……治部殿?」

 

寝起きの、まだ夢の縁にいるような声だった。

だが、次の瞬間には、俺が何をしているか分かったのだろう。息を呑む気配がした。

 

「な、何をなさっておいでで!」

「謝ってる」

「それは見れば」

「悪かった」

 

「治部殿」

真理姫の声が、少しだけ強くなった。

「まずはお顔を上げてください」

 

「いや、今は」

「上げてください」

 

そこまできっぱり言われて、ようやく俺は顔を上げた。

 

真理姫は、寝起きのままなのに、もう完全に目が覚めていた。

頬にうっすら赤みはある。だが、怒っている顔ではない。

むしろ、ひどく戸惑っているように見えた。

 

「……そんなに」

と、真理姫は小さく言った。

「そんなに、お気になさっていたのですか」

 

「当たり前だろ」

「でも」

 

「でもじゃない」

自分でも少しきつい声になったのが分かった。だが止められなかった。

「お前のこれまでを思えば、ああいうことだけは、絶対に雑にしたくなかった」

 

「……」

「酒の勢いでどうこう、なんて、一番駄目なやつだろ」

「治部殿」

「ちゃんとしたかった。祝いの夜だからこそ、なおさら」

そこで息を吐く。

「なのに記憶が飛んでる時点で、もう最低だ」

 

真理姫は、しばらく何も言わなかった。

 

怒るでもなく、泣くでもなく、ただじっとこちらを見ていた。

その目の奥で、何かを噛みしめるような時間があった。

 

やがて、真理姫がそっと口を開く。

 

「……では、私も謝らねばなりません」

「は?」

 

思わず間の抜けた声が出た。

 

真理姫は、そこで少しだけ視線を落とした。

だが逃げるような落とし方ではない。自分の中の何かを認める時の顔だった。

 

「昨夜、お酒をお勧めしたのは私です」

「いや、それは」

「叔父上が、祝いの夜くらい飲ませてしまえと仰ったのも本当です」

「やっぱりあの人か……」

 

「ですが、それだけではありません」

真理姫は、自分の袖をそっと握った。

「私が、そうしたかったのです」

 

俺は言葉を失った。

 

真理姫は、その沈黙のまま続ける。

 

「治部殿は、私にとてもお優しい」

「……」

「お優しすぎるくらいに」

「それは」

「分かっております。木曾でのことを思って、私の身体を気遣い、急がぬように、怖がらせぬように、ずっと気を配ってくださっていたのでしょう」

「うん」

 

「その優しさを知っていながら」

真理姫は少しだけ笑った。困ったような、恥ずかしいような笑いだった。

「私は、それでも自分の我がままを通したくなってしまいました」

 

「我がまま、って」

「そうでしょう?」

「……」

「治部殿がきちんとなさろうとしておられたのに、酒の力を借りてでも、私は先へ進みたかったのですから」

 

そこまで言われて、ようやく、昨夜のことが少しだけ輪郭を持った。

俺が一方的にどうこうしたのではない。

真理姫もまた、覚悟を決めて、こちらへ寄ってきていたのだ。

 

それでも、胸の奥の重さが全部消えるわけではなかった。

 

「だとしても」

「はい」

「俺は、やっぱりお前に謝る」

「……」

 

「お前が望んだかどうかとは別で、俺はちゃんとしたかった」

そこは譲れなかった。

「そう思ってたからこそ、余計に」

 

真理姫は、その言葉を聞いて、ふいに目元をやわらげた。

 

「治部殿」

「何だ」

「私、今、少しだけ嬉しくて困っております」

「え」

 

「だって」

真理姫は笑った。今度はさっきよりずっと穏やかだった。

「そこまで考えてくださっていたのだと、改めて分かってしまいましたから」

 

その言い方は、妙に胸に来た。

 

木曾では、そういう風に考えてもらえなかったのだろう。

正室でありながら、年齢も身体もろくに見られず、ただ武田の支配の象徴として置かれ、石女と蔑まれた。

そういうところから来た子に、今、自分は「ちゃんとしたかった」と言っている。

 

それがどれだけの意味を持つかを、真理姫は多分、俺以上に分かっていた。

 

「治部殿に嫁いで良かったと」

真理姫は小さく言った。

「今、心から思っております」

 

今度は、こっちが黙る番だった。

 

真理姫は涙ぐんではいなかった。

けれど、あまりに真っ直ぐな声だったから、かえってこちらの方が耐えづらい。

 

「……ずるいな」

「何がですか」

「そういうことを、朝一番で言うなよ」

「本当のことですもの」

「本当でもだ」

 

真理姫は、くすりと笑った。

 

ようやく、部屋の空気がほんの少しだけ戻る。

だが、それでも俺は手放しでは笑えなかった。

だから、もう一度言った。

 

「とにかく」

「はい」

 

「今後は、こういうことをしないでほしい」

真理姫が瞬いた。

「酒で押し切るみたいなのは」

 

「……」

「一度契ったからって、それで終わりみたいには絶対にしたくない」

「治部殿」

 

「これからのことは、ちゃんと二人で話そう」

そこで、はっきりと言う。

「お前を雑にしたくない」

 

真理姫の表情が、少しずつほどけていく。

 

「はい」

「うん」

「そう致します」

「約束だぞ」

 

「はい」

そして真理姫は、少しためらってから、そっと言った。

「でも」

 

「何だ」

「昨夜のことを、全部後悔だけにはしないでくださいませ」

「……」

「私にとっては、嬉しい夜でもございましたから」

 

そう言われると、また返事に困る。

困るが、嘘をつくわけにもいかない。

 

「……分かった」

「はい」

「後悔だけには、しない」

「ありがとうございます」

 

真理姫は、それで十分だというように頷いた。

 

ようやく、俺も肩の力を抜いた。

土下座のまま始まった朝としては、どうにか着地した方だろう。

いや、着地というより、真理姫に助けてもらったのだが。

 

「では」

と、真理姫。

「朝餉へ参りましょうか」

 

「その前に、もう一つだけ」

「はい」

 

「本当に、嫌ではなかったか」

真理姫は、少しだけ呆れたように、けれど優しく笑った。

「治部殿」

 

「うん」

「嫌であれば、こんな顔はしておりません」

「……それもそうか」

「はい」

 

そこでようやく、俺も立ち上がった。

だが、半ば放心したまま朝の席へ向かった俺は、二度目の硬直を味わうことになる。

 

赤飯だった。

 

どう見ても赤飯だった。

 

「……何で?」

 

思わずそう言うと、台所の者たちが妙ににこやかに頭を下げる。

お市は上座で静かな顔をしている。静かな顔をしているのだが、口元だけ少し緩んでいる。

雪姫に至っては、俺と目が合った瞬間にさっと視線を逸らし、耳まで赤い。

 

真理姫は、何事もないように俺の隣へ座った。

やはり、にこにこしている。

 

「真理」

「はい」

「何だこの空気は」

「朝の、めでたい空気かと」

「どこがだ」

 

お市が、そこで口を開いた。

 

「治部殿、お酒はほどほどがよろしいかと」

「お市まで……!」

「でも、まあ、真理姫様があのように嬉しそうですし」

「何が“まあ”なんだ」

「治部殿が覚えていないなら、ここで細かく申し上げる必要もございませんでしょう」

 

この人までそう来る。

 

雪姫は箸を持つ手まで落ち着かない。頬がうっすら紅潮していて、明らかに何かを勝手に想像している顔だった。

 

真理姫がやわらかく呼ぶ。

 

「雪姫様」

「は、はい」

「そのようにお顔を赤くなさらずとも」

「ま、真理姫様……!」

「私は何も申しておりませんよ」

 

それが余計によくないのだろう。雪姫はますます俯いた。

 

「いや待て」と俺は言った。

「今のは何だ」

 

「何でもございません」

「絶対に何かあるだろ」

 

そこへ、廊の向こうから足音がした。

 

ものすごく嫌な予感がして、その予感はたいてい当たる。

 

典厩様だった。

 

片腕を失い、脚を引きずりながらも、なぜか背筋だけはまるで曲がらない。俺の顔を見るなり、ほんの少しだけ口元を動かした。

 

「治部大輔」

「……おはようございます」

「うむ。よい朝だな」

「全然よくないです」

「そうか?」

「そうです」

 

典厩様は赤飯をひと目見て、真理姫の顔を見て、それから俺を見た。

 

「どうやら、酒も無駄ではなかったようだ」

「やっぱり典厩様の入れ知恵か!」

「入れ知恵とは人聞きが悪い。背を押しただけだ」

「十分悪いです!」

 

真理姫が横で小さく笑う。お市は目を伏せているが、どう見ても笑いを堪えている。雪姫はもうまともにこちらを見られない。

 

典厩様は、そんな座の空気を見回してから言った。

 

「安心しろ。頭をかち割る気はない」

「“今のところ”は、ですよね?」

「付けぬ」

「本当ですか」

「姫が笑っておる。なら、朝から騒ぐ方が野暮だ」

 

そこだけは妙にもっともだった。

 

真理姫がそっと言う。

 

「治部殿、朝餉が冷めてしまいます」

「いや、その前にいろいろ確認を」

「あとで、ゆっくり」

 

その言い方が、また何とも言えない。

 

結局、その朝の席は、赤飯の湯気と妙にやわらかい空気のまま進んだ。

俺だけがひとり置いていかれ、真理姫はにこにこしていて、お市は全部分かった上で受け流し、雪姫は勝手に熱を上げ、典厩信繁様はどこか満足そうにしている。

 

近江の酒は、たしかに出来がよかった。よすぎたのかもしれない。

 

そして俺はその朝、酒というものは外へ顔を広げるだけでなく、家の内側まで思わぬ勢いで動かすのだと、身をもって思い知らされることになった。

 

 

お市の産所の前は、さすがに普段の評定とは空気が違った。

 

戦の前でも、織田家の重臣たちはここまで揃ってそわそわしない。だが、この日は別だった。上総介兄上も、勘十郎兄上も、落ち着かない時は落ち着かないのである。とりわけ、お市の初産ともなればなおさらだ。

 

もっとも、いちばん落ち着かないのは、夫である俺だった。

 

「治部殿、もう少しお座りになってくださいませ」と侍女に言われ、「いや、でも」と返し、「でも、ではございません」と押し戻されるのを、もう何度やったか分からない。

 

「落ち着け、治部」と勘十郎兄上が言う。

 

「勘十郎兄上が言いますか」

「俺はまだ落ち着いている方だ」

「どの口で」

 

上総介兄上が、そのやり取りの向こうから口を挟んだ。「お前ら二人とも、似たようなものだ」

 

「上総介兄上もです」と俺が返すと、上総介兄上は一拍置いてから鼻を鳴らした。「わしは兄だ。落ち着かぬのはよいのだ」

 

「理屈になっておりません」と勘十郎兄上。「私も兄ですぞ」

 

「うるさい」

 

その時だった。

 

産婆と侍女の動きが変わり、ほどなくして、奥から小さく、しかし確かな産声が響いた。

 

空気が止まる。

 

次の瞬間、侍女が顔を輝かせて出てきた。

 

「若君にございます!」

 

それで、場が一気に崩れた。

 

「おおっ」と最初に声を上げたのは上総介兄上だった。

 

「おお……!」と、その次に本当に安堵した顔を見せたのが勘十郎兄上。

 

そして俺はというと、その場で膝から力が抜けそうになった。

 

「……お市は無事か?」

 

ようやく出たのは、それだけだった。

 

「はい。お市様もご無事にございます」

 

その言葉で、ようやく息ができた気がした。

 

上総介兄上が、いつになく素直な笑顔で言う。「よかったな、治部」

 

勘十郎兄上もすぐに続く。「いや、本当にめでたい。お市もよくやった」

 

「ありがとうございます」

 

そう返しながらも、まだ頭が追いつかない。若君。嫡男。お市は無事。そこまでは理解できる。だが、その先は何だ。抱くのか。まだ早いのか。名前はどうする。いや、その前にお市へ何を食べさせる。冷えは駄目だ。寝所は暖かく。湯はどうだ。産婆はもう一人呼ぶべきか。そういうことばかりが頭の中をぐるぐる回り始める。

 

勘十郎兄上が、その顔を見て苦笑した。「もう次のことでいっぱいだな」

 

「当たり前でしょう。お市の身体をまず休ませねばなりませんし、湯も寝所も食事も」

 

上総介兄上が笑う。「産んだのはお市だぞ。お前が産んだような顔をするな」

 

「するでしょう、そりゃ」

「するのか」

「します」

 

そう言い切ると、勘十郎兄上が肩を揺らした。「駄目だ、これはしばらく役に立たん」

 

「元から今この場では大して役に立っておりません」と俺が返すと、上総介兄上まで声を立てて笑った。

 

しばらくして、ようやく若君の顔を見せてもらった。

 

小さい。

当たり前だが、小さい。

けれど、たしかに生きていて、泣いていて、手を握る力がある。

 

上総介兄上が、覗き込みながら言う。「よい顔だ」

 

勘十郎兄上もすぐに頷く。「うむ。これはよい」

 

「まだ分からんでしょう」と俺が言うと、二人とも同時にこちらを見た。

 

「分かる」と上総介兄上。

 

「分かるな」と勘十郎兄上。

 

まったく、この叔父馬鹿二人は、甥ができた途端に甘い。いや、分かってはいたが、ここまで分かりやすいとは思わなかった。

 

そして案の定、命名の話になった。

 

「名はどうする」と上総介兄上が言う。

 

それを聞いたお市が、まだ疲れの残る顔でありながらも、妙にはっきりした声で言った。「兄上にだけは、先に決めさせたくありません」

 

座が少し静まり、それから勘十郎兄上が吹き出した。

 

「お市、お前……」

上総介兄上が眉をひそめる。「何だそれは」

 

「だって兄上、思いつきで妙な名をつけそうですもの」

「妙とは何だ、妙とは」

「変に凝るでしょう」

「凝って何が悪い」

 

勘十郎兄上が、笑いながら助け船を出した。「いや、実際、お市の気持ちも分かるぞ」

 

「勘十郎、お前までか」

「叔父としては格好いい名をつけたい気持ちは分かりますが、父親の意向を先に聞いてやらねば」

 

そこでようやく、俺へ話が回ってきた。

 

「治部、お前はどうだ」と上総介兄上。

 

俺は、まだ若君の寝顔を見ながら答えた。「……元服の際は信秀公の名を、一字頂ければと思っております」

 

それで、空気がまた少し変わった。

 

上総介兄上が静かに頷く。

勘十郎兄上も、今度は笑わなかった。

 

「なるほど」と上総介兄上。「父上の名か」

 

「はい」

 

「よいではないか」と勘十郎兄上。

 

上総介兄上も、すぐに言った。「うむ。よい。父上もお喜びになろう」

 

お市も、その答えには安心した顔をした。「それならば」

 

つまり、上総介兄上に好きにさせるよりは、よほど安心だ、ということだろう。実にお市らしい。

 

若君は、ひとまず「豊寿丸」と呼ばれることになった。

 

そして、その話が落ち着いた頃、もう一つの報せが入った。

 

濃姫の懐妊である。

 

「ほう」と上総介兄上がまず言い、次に本当に嬉しそうな顔をした。

「めでたいことが続くな」

 

勘十郎兄上が笑う。「本当に続きますな。こちらは本家、あちらは治部家。家中の空気もよくなりましょう」

 

「珠のような赤子になるかもしれんな」と上総介兄上が何気なく言いかけて、そこで止めた。

 

「兄上、気が早いです」と勘十郎兄上がすぐに差し込む。

 

「何だ。よいではないか」

「よくありません。まだ早い」

 

とはいえ、その場にいた誰もが、これはただの懐妊ではないと感じていた。本家の子が生まれる。しかも、こちらには豊寿丸がいる。早いうちから、将来の縁を見ておく話が出るのは自然だった。

 

それからの俺はというと、ひどかった。

 

お市に対してもそうだったが、懐妊した者が身近にいるとなると、どうにも落ち着かない。

 

「冷えるな」と言う。

「重いものは持つな」と言う。

「何か少しでも変なら、すぐ横になれ」と言う。

「無理をするな」と言う。

「それは食べられるか」と言う。

「こっちは駄目か」と言う。

 

そして、その後すぐに懐妊が判明した真理姫に対しても、ほとんど同じだった。あの晩の交わりがまさに実を結んだわけだが、年齢が年齢だけに、お市の初産よりも心配度が高い。

 

「あの、治部殿」と真理姫が少し呆れたように言う。

 

「何だ」

「私はまだ、そこまで重病人のように扱われるほどではございません」

「重病人扱いしてるわけじゃない」

「では」

「大事にしている」

 

「それは分かっております」

真理姫は困ったように笑う。「でも、そこまでおたおたなさると、こちらの方が不安になります」

 

「不安にさせるつもりはない」

「はい」

「ただ、何かあってからでは遅い」

 

そう言うと、真理姫は少しだけ表情をやわらげた。

 

「……甲斐から、また何か取り寄せるおつもりですか」

「もちろんだ」

「やはり」

「典厩様に頼めば、甲斐で身体によいものや、食べやすいものも回してもらえるだろう。しのにも聞く。半兵衛にも台所を詰めさせる」

 

真理姫は、とうとう小さく笑いを漏らした。「治部殿、本当にそちらへ走られますのね」

 

「走るに決まってるだろ」

 

実際、その通りだった。

 

典厩様が慌てて文を出す。

甲斐の味で食の進むものを聞く。

しのへも確かめる。

半兵衛へは、台所で無理なく出せるものを工夫させる。

お市の時に役立ったことは全部もう一度洗い直す。

 

そして、その様子を横で見ていた雪姫と鶴姫は、妙に静かだった。

 

静かではあるのだが、何も感じていない顔ではない。

 

雪姫は雪姫で、こういう家の内側がどう動くかを、もうだいぶ分かってきている。頬を少しだけ染めながらも、目は真面目だ。

鶴姫はもっと静かだ。表には出さない。だが、順番などに過度に囚われる風でもなく、ただ「この家ではこう動くのだ」と見ている顔をしている。

 

つまり、どちらももう、閨や懐妊を「自分とは遠い別の話」とは思っていないのである。

 

それが見えるからこそ、俺は余計におたおたする。

 

お市が、そんな俺を見て言った。「治部殿」

 

「何だ」

「真理姫様は、ちゃんと休まれております」

「うむ」

「私ももう、一度産んでおります」

「うむ」

「ですから、少し落ち着いてくださいませ」

「無理だ」

 

即答すると、お市は呆れたように、それでもどこか楽しそうに笑った。「本当に、そういうところは変わりませんのね」

 

「変えられるか、こんなもん」

「でも、悪くありません」

 

その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。

 

家の中に、子が宿る。

一人だけではない。

これから先もきっと増える。

それはただの慶事ではない。家のかたちそのものが増え、重くなっていくということだ。

 

豊寿丸が生まれ、本家にも新しい命の報せがあり、真理姫の腹にも次の命が宿るった。そんな空気の中で、治部家はもう、ただ戦に勝つための寄せ集めではなく、次の代まで見据えた家になり始めていた。

 

そして、その「家」の重さに、俺はたぶん、これから先もずっと、おたおたし続けるのだろう。

 

 

田代城に、まるで風のように現れた一行があると聞いた時、俺は最初、またどこかの大名家の使者かと思った。

 

だが、名を聞いた瞬間に、さすがに手が止まった。

 

上杉弾正少弼政虎。いや、上洛し、足利将軍から偏諱をもらって今では上杉弾正少弼輝虎か。

 

いずれにせよ、世に軍神とまで囁かれる男が、上洛を隠れ蓑にしながら、わざわざ治部印の清酒を飲みに来たというのである。

 

普通なら城中が浮き足立つ。

だが、意外なことに、いちばん落ち着いていたのは典厩様だった。

 

「まあ、来るだろうとは思っていた」と、あの人は平然と言った。

 

「思ってたんですか」

「旨い酒は人を動かす。まして、ああいう男ならな」

「いや、相手は軍神ですよ」

「知っておる」

 

言いながら、典厩様はまるで昔なじみでも迎えるような顔をしている。やはり、いくさ人というのはどこか常人とずれている。

 

しかも、あの人はその前にぽつりと漏らした。

 

「第四次川中島の時も、あちらは啄木鳥を読んでいたからな」

「……気軽に言わんでくださいよ、それ」

「お主には今さら隠すほどのことでもあるまい。こちらが妙を取りすぎれば、あの男はそこを嗅ぐ。ゆえに作戦を変えた。それだけだ」

 

それだけ、で済む話ではない。

だが、典厩様にとっては済んでいるのだろう。あの戦で生き延び、片腕を失い、足を痛め、それでもなお「あの時はそうした」と静かに言える。そこがもう、こちらと住んでいる世界が違う。

 

そして実際に現れた弾正少弼殿は、なるほど、そういう男だった。

 

派手に名乗りを上げるでもない。

だが、城へ入った瞬間、空気が変わる。

細いとか太いとか、強いとか恐いとか、そういう単純な話ではない。立っているだけで、こちらが勝手に姿勢を正したくなる類の人間である。

 

応対の座には、俺だけでは格が足りない。

当然、上総介兄上も出てきた。

 

上総介兄上は、相手の顔を見ても騒がない。むしろ面白いものを見る目になった。

 

「弾正少弼殿、いかがなされたのかな?」

 

まるで近所の変わり者でも迎えるような、冷静な声だった。

ああいうところは、本当にこの人らしい。

 

軍神は、少しも気取らずに言った。

 

「旨い酒があると聞いた。お酒を頂こう。織田家のことは、大樹にはそれなりに話しておいた。尾張守護職や美濃守護職、あるいは南近江守護職などへの叙任もあるかもしれんな」

 

上総介兄上の目が、ほんのわずかに細くなった。

酒を飲みに来た、と言いながら、ちゃんとそれだけでは終わらせない。将軍への口利きまで含めて持ってくるあたり、やはりただの酒好きではない。

 

上総介兄上は、そこで俺を見た。

 

「ほう。治部よ、出せ」

「は」

 

俺はあらかじめ用意していた治部印の清酒を出させた。

最初の樽でもよかったが、さすがにここは選りの分けた上澄みだ。近江の水で取った、今のところ一番顔のいい酒を持ってくる。

 

軍神は杯を取り、香りを見てからひと口含んだ。

 

しばし、沈黙。

 

それから、短く言った。

 

「旨いな」

 

そこで座の空気が少しだけ動いた。

 

「これは良い酒だ。金は出すから、定期的に越後に送ってくれ」

 

いや、あまりにも早い。

気に入るにしても、もう少し駆け引きがあるかと思ったが、この人はそのあたりを飛ばしてくる。

 

上総介兄上が、横でわずかに笑う。

典厩様は「そうだろうな」という顔をしている。

 

ならば、こちらも遠慮はしない。

 

「同盟結んでいただけるなら」と俺は言った。「他にももっときつい酒ありますので、そちらもつけますよ」

 

上総介兄上が横目で俺を見る。

勘十郎兄上がいればたぶん額を押さえていた。

だが、ここで小さくまとまる意味はない。相手が相手だ。酒で来たなら、酒で釣るのがいちばん早い。

 

軍神は、杯を置いた。

 

「わかった」

 

これもまた、あまりにも早かった。

 

「よいのですか」と俺が逆に聞きたくなるほどあっさりしている。

 

「旨い酒は大事だ」と軍神は言う。「それに、強い酒もあるのだろう」

 

「あります」

「ならよい」

 

「いや、そこ、そんなに軽く決めてよいところですか」と俺が思わず言うと、典厩様が横で小さく笑った。

 

「治部大輔、いくさ人とはそういうものだ。理があれば、あとは案外早い」

 

軍神も、それには少しだけ口元を動かした。

 

「結ぶ理もある。酒もある。なら、まずは飲んでから考えればよい」

 

上総介兄上が、そこで杯を傾けながら言う。

 

「弾正少弼殿、そなた、世に聞く軍神のわりに、ずいぶん人の世に馴染んでおるな」

「戦しか知らぬ者が、どうして人を動かせよう」

「なるほど」

「それに、そなたの弟も面白い」

「弟?」

「治部大輔だ」

 

上総介兄上が、そこで本当に愉快そうに笑った。

 

「それは否定できぬ」

「否定してくださいよ」

「無理だ」

 

軍神は、もう一度酒を口へ含んだ。

 

「これはよい。越後へ送れ」

「承知いたしました」

「強い酒も忘れるな」

「同盟の件、書付にして頂けるなら」

「よかろう」

 

話が早い。

早すぎる。

だが、早すぎるからこそ、こういう人たちは戦の盤を動かしてきたのだろう。

 

その座の空気は、どこか妙だった。

上総介兄上も、典厩様も、弾正少弼殿も、皆それぞれ違う家を背負う大大名級の男たちだ。だが、酒が一つ入るだけで、急にただの政略の座ではなくなる。いくさ人同士の、妙に乾いた、しかし軽くはない場になる。

 

俺はその光景を見ながら、ああ、こういう男たちがいるから世は面白くも厄介なのだろうと思った。

 

治部印の清酒は、ここでついに軍神の舌まで掴んだ。

そしてどうやら、酒好きな軍神を味方へ引き寄せるという、半ば冗談めいた狙いまで、本当に形になり始めたらしい。

 

 

弾正少弼殿は、治部印の清酒を二、三度口へ運んだあとで、ようやくゆっくりと座中を見回した。

 

その目が、ただ酒席の余興として人を眺めているのではないことは、すぐに分かった。

 

当然だろう。田代城のこの座には、ただの城主一家と家臣団だけではないものが混じっている。

疋田豊五郎がいる。日置大膳亮がいる。柳生の剣士たちが控えている。十兵衛、半兵衛、左近将監、慶次郎、助右衛門がいる。さらに、典厩様がいる。そして、表に姿は見せずとも、藤林長門守の気配にまで、この軍神はたぶん気づいている。

 

弾正少弼殿は、面白そうに口元を歪めた。

 

「興味深き者たちばかりよの。南近江を制したは、この者たちの力か」

 

言いながら、空になった杯をこちらへ向ける。その杯がまた、杯というより陣笠を半分に切ったような大きさである。よくそんなもので平然と飲めるものだと、毎度ながら思う。

 

俺は黙って酒を注いだ。

 

「はい。皆のおかげでございます」

「皆、か」

「俺一人ではどうにもなりませんので」

「殊勝なことを申す」

「本音ですよ」

 

弾正少弼殿は、またぐいと飲んだ。呑みっぷりに変な迷いがない。だからこそ怖い。怖いが、見ていると妙に気持ちがいいのもまた困る。

 

俺は、そこでふと思ったことをそのまま口にした。

 

「あの、越後に帰らなくて大丈夫なんです?」

「何がだ」

「もうすぐ雪に閉ざされるでしょう」

 

弾正少弼殿は、少しだけ考える顔をした。

 

「うむ」

「いや、“うむ”じゃなくて」

「あと三日、いや一週間は呑みたい」

 

「ああ……」

思わず空を見たくなった。

「お酒が大事なんですね」

 

「一応な」

「一応で済ませるんですか、それ」

「大樹に申し上げた件も、結果を見届けようと思ってな」

 

そう言いながら、弾正少弼殿は懐から何かを出した。包みをほどくと、干した魚のような、小さく切った肴だった。

 

「これ、ツマミじゃ。塩でよい」

「自前で持って来たんですか」

「酒を飲むなら備えは要る」

「そこだけ妙に用意がいいですね」

「当然であろう」

 

まったく当然のように言う。さすがにそこまで堂々とされると、こちらも笑うしかない。

 

俺は、塩を小皿へ少し盛らせ、肴と一緒に出した。弾正少弼殿はそれを指でつまんで口へ入れ、また酒を飲む。

 

十兵衛が横で、いかにも顔に出さぬようにしながらも、少しだけ呆れている。半兵衛は、こういう珍客にもあまり驚かない顔をしている。慶次郎は妙に楽しそうだ。助右衛門は無言だが、たぶん「この人は危ない」と思っている。典厩様に至っては、もう「そういう男だ」と受け入れている顔だった。

 

俺はその飲み方を見ていて、どうにも放っておけなくなった。

 

「こんな呑み方してると、雪隠で踏ん張ったときに脳の血管切れて死んじゃいますよ?」

 

座が、一瞬だけ静まり返った。

 

弾正少弼殿が、杯を持ったまま止まる。

 

「……何だそれは」

「すごく情けない死に方じゃないですか」

「そのような恐ろしいことを申すでない」

「いや、でも本当にありますよ。塩と酒ばかりで、しかもこんな大杯で何度もやってると」

「申すでない」

「軍神でも、胃腸や肝の臓は人並みでしょう?」

「うむ」

「うむ、じゃないですよ。どちらか控えてください。塩か酒か」

 

弾正少弼殿は、いかにも嫌そうな顔をした。

 

「だが、このように旨い酒を造ったそなたに言われとうはない」

「造ったからこそ言ってるんです」

「何故だ」

「死なれたら、定期便が途切れるでしょう」

 

それで、座に少しだけ笑いが落ちた。

 

弾正少弼殿も、ようやく小さく笑った。

 

「なるほど。そなた、酒で人を釣っておいて、死ぬなと申すか」

「当たり前です。せっかく越後への売り先ができたんですから」

「売り先扱いか」

「お得意先や同盟先とも申します」

「どちらでも変わらぬな」

「変わりますよ。売り先だとお代を頂きますが、同盟先ならきつい酒もつけます」

「それは先ほど聞いた」

「では、長生きしてください」

「奇妙な勧め方よの」

 

そこへ、典厩様が杯を片手に言った。

 

「弾正少弼殿、こやつはこういう男です」

「分かっておる」

「戦の話をしておったかと思えば、次には酒を勧め、次には雪隠で死ぬなと言い出す」

 

「まことに、分かっておる」

弾正少弼殿は、そこで改めて俺を見た。

「だが、嫌いではない」

 

「ありがとうございます」

「礼はよい。もう一杯注げ」

「控えましょうよ」

「申したであろう。あと三日、いや一週間は呑みたいと」

「その発想自体が危ないんです」

「そなたは、酒を造る者のくせに、酒に冷たいな」

「冷たくないですよ。売る相手に死なれると困るだけで」

「やはり売り先ではないか」

 

そこで今度は、典厩様が小さく笑った。

 

「よいではないか、弾正少弼殿。酒で釣られ、命まで案じられる。なかなか得難い扱いよ」

「それもそうだな」

 

「よくないですよ」と俺が返すと、典厩様は肩を揺らした。

 

弾正少弼殿は、また塩を少し舐め、酒を飲み、それからふいに周囲へ視線を巡らせた。

 

「しかし、面白い城だな」

 

「田代城ですか」と俺。

 

「城もそうだが、人だ。剣の者、弓の者、忍びの気配、兵法者、そしてそなたら兄弟。これでは酒を飲みに来たのか、戦を見に来たのか分からぬ」

「どちらもでよろしいのでは」

「そうかもしれぬ」

 

そこで弾正少弼殿の目が、廊の暗がりの方へほんの一瞬だけ向いた。やはり、気づいている。藤林長門守のことまで、完全にではなくとも、何かいると感じてはいるのだろう。

 

だが、それをあえて口にはしない。

 

いくさ人というものは、そういうところが妙に洗練されている。見えても全部を言わぬ。言わぬことで、相手の腹もまた測る。典厩様が平然としているのも、そこが分かるからだろう。

 

「治部大輔」と弾正少弼殿が言った。

 

「はい」

「そなたの酒はよい。人も面白い。城も、これから厄介になりそうだ」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「うむ。そうしておけ」

「ただし、もう一杯は少しゆっくり飲んでください。塩も控えめで」

「まだ申すか」

「申します」

「困った男だ」

「困らせているのは、そちらです」

 

弾正少弼殿は、それにはさすがに声を立てて笑った。

 

その笑い方は、噂に聞く軍神とも、越後の大大名とも少し違っていた。ただ旨い酒に機嫌をよくした、しかし底のところではやはりどこか人間離れした、妙に危うくて愉快な男の笑いだった。

 

そして俺は、その笑いを見ながら、ああ、やはりこの手の人たちは、戦の話も、生き死にも、酒の旨いまずいも、同じ地平で語れるのだなと思った。

 

それが羨ましいかと問われれば、たぶん違う。だが、見ていて面白いのは確かだった。

 

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