織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
将軍御座所の一室には、秋の光が静かに差していた。
庭の音も遠い。風はあるはずなのに、障子の向こうまで気配が届かぬほど、座の空気は張っている。
上座には大樹公足利義輝。
その前に、織田上総介信長。
勘十郎信勝。
治部大輔信繁。
浅井備前守長政。
松平次郎三郎家康。
そして、越後の弾正少弼輝虎。
この顔ぶれで、ただの雑談で済むはずがない。
しかも、ただ集めたのではない。
上様は明らかに、この並びそのものを見せようとしていた。
大樹公は、しばらく誰の顔も見ず、手元の短刀の拵えを指で軽く撫でていた。
剣豪将軍らしい、妙に静かな癖だった。
飾りに触れるのではない。
いつでも抜けるものへ、何気なく触れている指だ。
やがて、将軍が顔を上げた。
「よく参った」
誰か一人に向けたものではない。
この場に呼ばれた全員へ向けた声だった。
上総介兄上が一礼する。
「上様」
勘十郎兄上も続く。
「恐れながら」
備前守殿も、若武者らしい張りを崩さず深く頭を下げる。
「お招き、忝のうございます」
次郎三郎殿も、三河の主としての硬さを残しながら、過不足のない礼を取った。
「松平次郎三郎家康、参上仕りました」
弾正少弼殿は、京の作法に合わせてきちんと礼を取りながらも、どこか山の風をそのまま持ち込んだような気配を崩さない。
俺もまた礼を取った。
「は」
大樹公は、その姿を一巡り見たあとで、ふっと笑った。
「面白い面子よの」
誰もすぐには口を挟まない。
上様は、しばらくその沈黙ごと楽しむように続けた。
「尾張の織田が美濃を呑み、三河には松平がおる。近江へ手を掛け、北近江には浅井がおる。そこへ越後の弾正少弼が、ただ傍観するでもなく口を添える。少し前なら、誰がこの並びを信じたか」
弾正少弼殿が静かに言った。
「盤面は日々動くものにございます。止まっておる方が、むしろ死に近い」
「言う」
上様は、その一言には少し楽しそうに目を細めた。
そして、今度は上総介兄上と勘十郎兄上を見た。
「上総介、勘十郎。そなたらへ尾張、美濃の守護の話を持ちかけたのは、弾正少弼からも後押しがあってな」
上総介兄上も勘十郎兄上も顔色一つ変えない。
だが、その一言でこの場に輝虎がいる意味が、よりはっきりした。
上様は、そこであえて弾正少弼殿へ視線を移した。
「弾正少弼」
「は」
「余はな、畿内ばかりで固まったように見せたくなかった」
弾正少弼殿の眉がわずかに動く。
「と、申されますと」
「尾張と美濃を織田へ、三河を松平へ、近江を浅井と治部大輔へ、そう置くだけでは、東海と近江の近場を固めただけにも見える。されど、そこへ越後のそなたが顔を見せることで、これは京の小細工ではなく、日の本全体に向けた一手だと見せられる」
そこまで言われると、俺は内心で、ああ、やはりそういうことか、と思った。
つまりこの座は、任官の場であると同時に、将軍自らが新しい秩序の見え方を整える場でもあるのだ。
織田だけでもない。
浅井だけでもない。
松平だけでもない。
そこへ上杉を同席させることで、「織田・松平・浅井・上杉が将軍家を軸に並び得る」という絵を、まず当人たち自身に見せる。
弾正少弼殿が、そこでほんの少し口元を緩めた。
「余を飾りにお使いになりますか」
「飾りであれば、そなたほど厄介なものもあるまい」
その返しに、さすがの弾正少弼殿も小さく笑った。
勘十郎兄上が静かに言う。
「たしかに、弾正少弼殿がここへおられるだけで、外から見た時の意味合いはかなり変わりますな」
上様は頷いた。
「そういうことよ。織田にだけ大きな顔をさせたくはない。浅井にだけ恩を売る形にもしたくはない。三河をただ織田の添え物にもしたくはない。越後がいることで、これは誰か一家を立てるための任官ではなく、将軍家のもとで武門の均衡を組み直す形になる」
次郎三郎殿が、そこで静かに顔を上げた。
「上様」
「何だ、次郎三郎」
「三河を織田の添え物にせぬ、との御言葉、ありがたく存じます」
声は若い。
だが、軽くはない。
三河という土地の重さ。
今川の圧を受け続けた家の記憶。
織田と結びながらも、ただ呑まれるわけにはいかないという意地。
それらが、短い言葉の底にあった。
上様は、そこを分かっている顔で頷いた。
「三河は、東海道の喉元よ。そこを松平が押さえる意味は小さくない。織田に近いからといって、ただ尾張の下に置くには惜しい」
上総介兄上が、そこでわずかに笑った。
「上様は、ずいぶんと次郎三郎を買われますな」
「買うとも。買わねば、三河守護など軽々しく出さぬ」
次郎三郎殿の目が、ほんのわずかに揺れた。
三河守護。
その言葉が、この場に置かれた意味は大きい。
松平家は、もはやただの三河の国衆ではない。
今川から離れ、織田と結び、三河をまとめる家として、将軍家から正式に筋を与えられる。
それは、次郎三郎殿にとっても、三河の家臣たちにとっても、かなり重い。
上様は、そこで全員へ視線を戻した。
「織田上総介信長を美濃守護に、織田勘十郎信勝を尾張守護に、松平次郎三郎家康を三河守護に、織田治部大輔信繁を南近江守護に任ずる」
上総介兄上が深く頭を下げる。
「は」
勘十郎兄上も応じる。
「謹んで」
次郎三郎殿も、低く、だがはっきり答えた。
「ありがたき幸せに存じます」
俺もまた頭を下げた。
「恐れ入りました」
「そして、北近江は浅井がこれを押さえよ。されど守護職そのものは、なお軽々しく定めぬ」
備前守殿は、迷いなく応じた。
「承知致しました」
そこで上様は、あえて弾正少弼殿へ視線を向けた。
「弾正少弼、これでどう見える」
弾正少弼殿は少しも急がず、座の全員を一度見回した。
それから静かに言った。
「将軍家を軸に、織田が尾張と美濃を押さえ、松平が三河を固め、治部大輔が京口を預かり、浅井が北近江を支える。そこへ越後が遠くより異論なくこれを見届ける。なるほど、派閥と言うにはまだ緩いが、流れとしては見える」
「流れ、か」
「はい。織田・松平・浅井・上杉。その名が並ぶだけで、三好も松永も、朝倉も、六角残党も、今川方の残りも、少しは盤の先を読み直しましょう」
その一言に、座の空気が一段深くなった。
上様が、まさにそこを狙っていたのだと、誰にも分かったからだ。
勘十郎兄上が低く言う。
「将軍家の下に、そういう見え方を作るだけでも効きますな」
「効く」
弾正少弼殿は言う。
「人は実より先に、形を見る」
上総介兄上がその言葉を引き取る。
「そして一度形が見えれば、実は後から寄ってくる」
「その通り」
弾正少弼殿が応じた。
次郎三郎殿は、そのやり取りをじっと聞いていた。
若い。
だが、ただ若いだけではない。
口数は少ないが、言葉の置かれた場所を見ている。
三河守護として呼ばれた意味を、慎重に腹へ落としている顔だった。
俺は、そこでようやくこの座の異様さを改めて実感した。
織田、松平、浅井、上杉。
家々の距離も、背負うものも、見ている方角も違う。
だが今だけは、将軍の前で、一つの並びとして見せられている。
これはただの任官ではない。
上様自らが、「新しい武家秩序の骨はここだ」と、半ば宣言しているに近い。
上様は、そこへさらに言葉を重ねた。
「三好が何を思うか。松永がどう動くか。朝倉が何を警戒するか。今川の残りがどう見るか。余はそれも見ておる。ゆえに、ただ任ずるだけでは足りぬ。誰と誰が並ぶかまで、見せねばならぬ」
備前守殿が静かに言った。
「では浅井は、織田の下ではなく、横に置かれたと受け取ってよろしいので」
「よい」
上様は迷いなく答えた。
「そなたが北近江を保ち、湖西から西へ伸び、なお織田と噛み合うなら、下では困る。並んでもらわねばならぬ」
備前守殿は、その一言には本当に満足したらしい。
表情は大きく変えない。
だが、目の奥が少し熱を帯びた。
次郎三郎殿も、そこで静かに問う。
「では、松平もまた、織田の下ではなく、東海道を支える一枚として見られる、と」
上様は頷いた。
「そうだ。そなたが三河を保ち、東海道を乱さず、織田と噛み合うなら、松平はただの従属では困る。三河の主として立ってもらわねばならぬ」
次郎三郎殿は深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
上総介兄上が、そこで少しだけ次郎三郎殿を見た。
「次郎三郎」
「は」
「重いぞ」
「承知しております」
「ならよい」
その短いやり取りだけで、二人の間の呼吸が見えた。
織田と松平。
同盟であり、隣国であり、東海道を見据える上で欠かせぬ線。
近すぎれば呑まれる。
離れすぎれば危うい。
その間合いを、この任官がひとまず形として整える。
上総介兄上が、そこで義輝へ視線を戻した。
「上様は、ずいぶんと気前がよろしい」
「気前ではない」
「何です」
「必要よ。上総介。そなた一人を大きくしすぎれば、世はまた別の歪み方をする」
上総介兄上は、その返しには素直に頷いた。
「まことに」
勘十郎兄上が横で言う。
「兄上には、そのくらい言って頂いた方がちょうどよろしい」
「勘十郎、お前はいつも余計だ」
「兄上が大きくなりすぎぬよう、尾張守護として励みます」
「言うようになったな」
上様は、それを見てまた笑った。
「よい。織田は三枚。松平が一枚。浅井が一枚。そこへ上杉が遠くから支える。そう見せれば、余の後ろにも少しは重みが戻る」
その「余の後ろにも」という言い方に、俺は一瞬だけ目を伏せた。
上様は分かっているのだ。
将軍家だけでは、もう足りない。
だからこそ、自分の後ろへ、織田、松平、浅井、上杉という名を並べる。
己の権威で押し切るのでなく、権威の周りへ支柱を立てる。
それが今の義輝の打ち方なのだろう。
弾正少弼殿が、そこで静かに言った。
「上様」
「何だ」
「余の名をその絵の中へ置かれるなら、越後もまた軽くは動けませぬ」
「それでよい」
「よろしいのですか」
「よい。そなたが軽々しく動かぬからこそ、ここへ置く意味がある」
弾正少弼殿は、そこで少しだけ笑った。
「厄介なお方だ」
「そなたにだけは言われとうない」
その返しで、座に小さく笑いが落ちた。
だが、その笑いのあとで、上様は最後にもう一度、全員を見渡した。
「覚えておけ」
誰もが姿勢を正す。
「今日の任官は、役目を与えるだけではない。誰が誰と並ぶかを、余が世へ示す第一手だ」
俺は、その言葉を胸の内で反芻した。
第一手。
つまり、まだ続きがある。
これで終わりではない。
将軍家はなお手を打つつもりなのだ。
上様は、そこでふっと肩の力を抜いた。
「さて」
上総介兄上が目を上げる。
「何にございましょう」
「これで少しは、三好も松永も顔色を変えるだろう」
「変えるでしょうな」と弾正少弼殿。
「朝倉も六角残党も」と勘十郎兄上。
「今川方の残りも、三河を見る目を変えましょう」と次郎三郎殿。
「京口の空気まで変わります」と俺。
備前守殿が静かに締めた。
「ならば、形はもう立った。あとはそれぞれが実を積むのみ」
上様は、その言葉に満足げに頷いた。
「うむ。よう言った」
その日、御所の一室で整えられたのは、官職だけではなかった。
織田。
松平。
浅井。
上杉。
その四つが、将軍家の下で緩やかに同じ側へ立ちうる、という見え方そのものだった。
まだ同盟と呼ぶには早い。
派閥と呼ぶには、なお流動的だ。
だが、世の目はきっと、もうそう見る。
そして上様は、その見え方をこそ、先に作ったのだった。
♢
御座所を辞したあとも、廊の空気はまだ張っていた。
誰もが礼を崩していない。
崩していないが、それは単に将軍の御前を離れたばかりだから、というだけでもない。
さっきの一座で置かれたものが、あまりに重かったのだ。
美濃。
尾張。
南近江。
北近江。
三河。
それぞれの守りと役目を、上様は官職として与えただけではなかった。
誰が誰と並ぶのか、その並びそのものを、将軍家の名の下に世へ見せると宣した。
それを当人たちが、嫌でも呑み込まされた直後だ。
廊を少し進んだところで、上総介兄上が足を緩めた。
勘十郎兄上も、それに合わせる。
備前守殿も、次郎三郎殿も、弾正少弼殿も、自然と歩みを合わせた。
妙な並びだと思う。
将軍の一室で並んでいた時も十分妙だったが、御座所の外でなおこの面子がまとまって歩いていると、さすがに絵が強い。
これを遠目に見た公家や近習は、たぶんしばらく話の種に困らないだろう。
最初に口を開いたのは、勘十郎兄上だった。
「上様は、ずいぶんと思い切られた」
上総介兄上は、少しだけ鼻で笑った。
「思い切ったというより、腹を決めておられたのだろう。尾張と美濃だけではなく、三河まで同じ座へ入れてきた。しかも」
兄上は少しだけ肩越しに次郎三郎殿を見た。
「ただの陪席ではなく、三河守護までその場で置いた」
「……」
「やるなら、あそこまでやるということだ」
次郎三郎殿は、歩みを乱さぬまま静かに言った。
「こちらとしては、軽い話ではなくなりました」
「もとより軽く扱う気もあるまい」
と弾正少弼殿。
「無論」
次郎三郎殿の返しは短い。
「ですが、尾張と美濃の並びへ三河が加わることで、東の見られ方が変わる。今までは、上総介殿が強くなった、と見る向きが多かったでしょう」
「……」
「これからは、将軍家の下で東海の筋が一本通った、と見る者も増える。それが利にもなり、同時に縛りにもなります」
その言い方が、次郎三郎殿らしかった。
浮かれない。
だが重さだけを言い立てもしない。
利と縛りを同時に数える。
三河を背負う人間の、硬い現実感がそのまま出ている。
備前守殿が、その横で頷いた。
「北近江も同じですな」
「……」
「上様は、浅井へ守護そのものは置かれなかった」
「されど、あの場で北近江を押さえる役として明言された以上、世はもうそのように見ます」
「……」
「恩でもあり、鎖でもある」
「良い鎖だろう」
と上総介兄上。
備前守殿は、そこで少しだけ笑った。
「はい。少なくとも、六角や朝倉へ繋がる鎖よりは、よほど」
そこは、さすがに誰も否定しなかった。
上総介兄上は、そういうところで無駄に情を挟まない。
浅井をただ従わせるのではなく、並ぶ側へ置く。
だが、だからといって甘く扱うわけでもない。
今の一言には、そういう兄上らしさがよく出ていた。
弾正少弼殿が、そこでふと立ち止まった。
立ち止まると言っても、本当に半歩だけだ。
それだけで、場の意識がそちらへ寄る。
「上総介殿」
「何です」
「そなたは、さきほど上様の意図を“任官の見せ方まで整えておられる”と言った」
「はい」
「ならば、その見せられた絵を、そなた自身がどう受けたかを聞きたい」
上総介兄上は、そこで少しも考え込まなかった。
「面白いと思いました」
即答だった。
勘十郎兄上が、少しだけ目を細める。
備前守殿も、次郎三郎殿も、黙って続きを待った。
「面白い、か」
と弾正少弼殿。
「はい」
兄上は淡々と続ける。
「余計な見栄を抜いて言えば、上様は、将軍家の後ろへ支柱を立てた。織田だけでも足りぬ、浅井だけでも弱い、上杉だけでは遠い、松平だけでは軽い」
「……」
「だが、それぞれを一つの座へ並べれば、“将軍家の下に、東から京口まで一本通る”という形が立つ」
「……」
「それを、まず当人たちへ呑ませた。実に鮮やかです」
弾正少弼殿の目が、ほんの少しだけ楽しげに細まった。
「鮮やか、か」
「はい。俺ならもう少し露骨にやる」
「勘十郎はどうだ」
「私も、兄上ほどではないにせよ、もう少しあからさまに利を見せます」
「だろうな」
と兄上。
「上様は、そこを半歩引いて見せた」
「……」
「だからこそ、受ける側も逃げにくい」
それは本当にそうだった。
上様は命じた。
だが、ただ押しつけただけではない。
それぞれが受けてもよい理由まで、同じ場で整えてみせた。
織田には重すぎぬよう。
浅井には軽すぎぬよう。
三河には東の役目を。
越後には遠くからの見届けの意味を。
全員が、それぞれ違う納得の形を得てしまっている。
だから逃げにくい。
次郎三郎殿が、そこで低く言った。
「将軍家は、まだ死んでおらぬということでしょうな」
廊の空気が、少しだけ重くなる。
言葉としては静かだ。
だが、中身は重い。
都ではもう何年も、将軍家の名と実のずれを見せつけられてきた。
それでも今日の座には、たしかに“まだ打てる手がある”という気配があった。
弾正少弼殿も、そこは軽く流さなかった。
「死んでおらぬ、か」
「はい」
と次郎三郎殿。
「少なくとも、死にかけた家の打ち方ではありません」
「……」
「己だけで支えるのではなく、支えるべき柱を選び、先に並びを作る。それを当人たちへ呑ませる」
「……」
「弱った家に出来る芸ではない」
備前守殿が、少しだけ息を吐くように言う。
「だからこそ、浅井も寄る価値がある」
「そうだな」
と上総介兄上。
「寄る価値があるうちに寄らねば、ただの遅参になる」
勘十郎兄上が、その言い方に口元だけで笑った。
「兄上は本当にそういうところが容赦ない」
「容赦で国が保てるか」
「保てぬな」
と弾正少弼殿が言った。
その一言で、少しだけ空気が軽くなる。
そこで、備前守殿が俺を見た。
「治部大輔殿は、どう受けられた」
いきなり振ってきたな、と思った。
だが、この場で黙るのも違う。
「俺ですか」
「そうだ」
と備前守殿。
「上総介殿や勘十郎殿や次郎三郎殿は、それぞれの持ち場を背負う側だ。弾正少弼殿は、少し外から全体を見ておられる」
「……」
「では、京口を預かるそなたは、あの座をどう見た」
俺は、少しだけ考えた。
正確には、考えるふりをした。
答え自体は、さっきの座の最中からほぼ決まっていたからだ。
「上様は」
と俺は言った。
「“先に形を作った”のだと思いました」
次郎三郎殿が、わずかに頷く。
弾正少弼殿も聞いている。
上総介兄上と勘十郎兄上は、たぶんもう大体分かっている顔だった。
「実があるから形が立つのではなく、形が立ったから実が寄る」
「……」
「今日の一座は、まさにそれでした。織田が美濃と尾張を押さえる。浅井が北近江を支え、松平が三河を保持し、治部家が京口を預かる。そして遠国とはいえ、関東管領の職にある上杉がそれを見届ける」
「……」
「まだ全部が固まったわけではない。されど、そう見えます。そう見えた時点で、三好も松永も、朝倉も六角残党も、まずその“見え方”に対して動かざるを得ない」
「……」
「上様は、そこを先に取ったのだと思います」
備前守殿が、小さく頷いた。
「やはり、そなたもそこへ行くか」
「備前守殿もそう見たでしょう」
「見た」
備前守殿ははっきり言った。
「だからこそ、あの場で“横に置かれた”と申した」
「……」
「下に入れられるのではない。並ぶからこそ、意味がある。その意味を、上様は先に見せてくださった」
弾正少弼殿が、それを聞いて少しだけ笑った。
「若いくせに、皆よく言う」
「若くなければ、今ここに座っておりません」
と上総介兄上。
「そういうところだ」
と勘十郎兄上。
次郎三郎殿は、そのやり取りを静かに見てから言った。
「では、あとは実ですな」
短いが、それで十分だった。
形は立った。
だが、形だけではいずれ空疎になる。
三河が本当に三河として立つか。
尾張と美濃が織田の背と腹として噛み合うか。
北近江が浅井の手で安定するか。
南近江が京口の押さえとして機能するか。
越後がその絵の中で意味を保つか。
そこまで行って、初めて今日の任官は本物になる。
上総介兄上が、そこで小さく息を吐いた。
「次郎三郎」
「は」
「三河守護、おめでとうと言うべきか」
次郎三郎殿は、少しだけ考えてから答えた。
「今はまだ、重くなったと申すべきでしょうな」
「そうか」
兄上は笑う。
「だが、悪い顔はしていない」
「上総介殿も、人のことは言えますまい」
それには、勘十郎兄上が先に吹いた。
「兄上が一番、ああいう場のあとで顔が良い」
「余計だ」
「余計ではない」
「美濃守護など、いかにも嬉しそうであった」
「勘十郎、お前は本当にその減らず口を何とかしろ」
「尾張守護として、以後も励みます」
そこは、さすがに備前守そしてまで少し笑った。
弾正少弼殿は笑いこそ大きく出さなかったが、目元には明らかに面白がっている色があった。
次郎三郎殿も、わずかに口元を緩める。
こういうのを見ると、やはり思う。
今ここに並んでいるのは、ただの任官を受けた若手大名や一門衆じゃない。
それぞれに国があり、兵があり、譲れぬものがある。
それでもなお、こうして同じ笑いを一つ落とせる程度には、今日の座で何かが通ったのだ。
廊の先で、近習が控えめに頭を下げて、次の案内の準備をしている。
御所の空気はまだ静かだ。
だが、さっきまでとは違う静けさだった。
形は、たしかに立った。
あとは実だ。
その言葉が、この場の全員に同じ重さで落ちているのが分かる。
そして、その重さを知った上でなお、誰も今日の任官を軽いものとは見ていない。
これで終わりじゃない。
むしろ、ここから始まる。
そういう顔を、全員がしていた。