織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
田代城の評定の間には、いつもの顔ぶれが揃っていた。
十兵衛。
半兵衛。
左近将監。
典厩様。
そして、相変わらず弾正少弼殿は酒を飲んでいる。越後に帰らなくて良いのかな、と心配になる。
俺は座の上を見回してから、ようやく腹を括った。
「家を太くする」
十兵衛がすぐに顔を上げた。
「ようやく、そこへ戻られましたか」
「戻るも何も、もうそこに行くしかないだろ」
半兵衛が静かに頷く。
「まことに。今の治部家は、粒が揃っているがゆえに、少数で何でも回しすぎております」
左近将監が苦笑した。
「けっきょく、そこに行くんですな」
「行くんだよ」と俺は言った。「軍務、築城、酒造、奥向き、領地支配、全部を今の顔ぶれだけで処理するのは、さすがに無茶だ」
少し離れて控えていた津島の商人久助が口を挟む。
「しかも近江は、城だけ見てりゃいい場所じゃありませんからね」
「だよな」
「酒造方も、瀬田城も、大津の支城も、結局は物が流れて、人が動いて、帳が合って初めて回ります。津島の商い筋で見ても、今の治部家は“強いけど忙しすぎる家”ですよ」
「嫌な言い方だが、その通りだ」
典厩様が低く言う。
「壊れる前に気づいたなら、まだましよ」
「典厩様、それ、慰めになってます?」
「なっておる」
「本当かなぁ」
弾正少弼殿がそこで杯を傾けた。
「なっておるのであろう。酒は送れよ」
「そこだけは外さないんですね」
「当然だ」
座に少しだけ笑いが落ちた。
だが、話の芯は重いままだ。
俺は紙を一枚引き寄せた。
「人を増やすにしても、何でもかんでも俺が路傍から拾ってくるのはやめる」
左近将監が頷く。
「それがよろしいでしょうな」
「左近将監級に“こいつは絶対要る”って確信がある場合は別です。でも基本は、伝手で拾う。家を大きくするってそういうことでしょう」
十兵衛が少しだけ満足そうに言った。
「ようやく、家中らしいことを仰る」
「今までは家中らしくなかったって?」
「正直に申せば」
「ひどいな」
「事実です」
そこへ、鶴姫が静かに口を開いた。
「治部大輔殿」
「何だ」
「以前申し上げた、浅井家の縁に連なる者たちの件にございますが」
「うむ」
「藤堂与次郎殿、石田藤右衛門殿、大谷伊賀守殿。この三人は、能力があるのに今いる場では十分に遇されておりませぬ」
半兵衛が目を細める。
「やはり」
鶴姫は続けた。
「兄上に断る必要はありましょう。ですが、今のまま浅井家に置いておくより、治部家で使った方が働けると説くことはできます」
「そこなんだよな」と俺は頷いた。「武勇だけじゃなく、内治と算段を回せる人が欲しい」
鶴姫が一人ずつ挙げていく。
「藤堂与次郎殿は、場を見て人を動かす才がございます。石田藤右衛門殿は、銭と台所に強い。大谷伊賀守殿は、人のまとめ方がうまい」
「欲しいな」
「欲しいですね」と半兵衛もすぐ言った。「この三人が入れば、酒造方、倉、兵站、城下、どこへ置いても働くでしょう」
十兵衛がそこで話を継いだ。
「こちらからも拾える者がおります」
俺はそちらを見た。
「いるのか」
「はい。さすがに左近将監のように、私が路傍から大魚を釣ってくるわけではございませんが」
左近将監が小さく笑う。
「そのような男は、そうおりますまい」
「ええ。ですので、あくまで伝手です」
十兵衛は少しだけ姿勢を正した。
「山内越中守殿と、堀尾常陸介殿」
俺はすぐ頷いた。
「なるほど」
「浪人同然の身の置き所に困っておると聞きます」
「そこを十兵衛の筋で、か」
「はい。あの二人なら、治部家の今足りぬところを埋められます」
典厩様が口を挟む。
「どう使う」
十兵衛は迷いなく答えた。
「山内越中守殿は、城下・倉・輸送・日常の行政寄り。堀尾常陸介殿は、普請・人足・持ち場・現場の差配寄り」
半兵衛が頷いた。
「よい分け方です」
十兵衛はさらに続ける。
「どちらも“一軍を率いる大将”としてではなく、私の下で治部家の持ち場を任せる中堅として置きたい」
「中間管理職ってやつだな」
「何です、その妙な言い方は」
「言いたいことは分かるだろ」
「分かりますが、妙です」
左近将監が、そこで口元を少し緩めた。
「されど、必要な層ですな」
「そうなんだよ」と俺は言った。「今の治部家、十兵衛や半兵衛、左近将監みたいな頭が全部前に出すぎてる。そこから一段下で持ち場を回す人間が薄い」
ちょうど商売のついでに寄っていた久助も頷く。
「商いでも同じです。親方と番頭だけで店を回してたら、そのうち潰れます」
「さすが津島の商人筋、言い方が生々しい」
「実際そうですから」
俺は、そこで紙にもう二つ名を書き足した。
木下藤吉郎。
木下小一郎。
十兵衛が、すぐそれに気づく。
「治部様」
「何だ」
「本家からですか」
「ああ。これは上総介兄上に頼む」
左近将監が鼻を鳴らす。
「木下兄弟ですか」
「欲しい」
「藤吉郎は、たしかに使えば伸びます」
「でしょ。今の藤吉郎なら、拾ってくれるならたぶんホイホイ付いて来そうだし」
「妙な言い方をしますね」
「でも本音だぞ。あれ、放っておくとどこかで勝手に頭角を現す」
半兵衛が少しだけ笑った。
「治部様、その見立てはだいぶ雑ですが、間違ってはいないかと」
「だろう? で、藤吉郎は半兵衛の下」
「私ですか」
「そう。あれは口が回るし、人も動かせる。兵站、普請、酒造方、人足差配、そのあたりで鍛えた方がいい」
半兵衛は静かに頷いた。
「たしかに、まず“走れて喋れる実務”を覚えさせるのが良いでしょう」
「小一郎は左近将監の下」
左近将監が、そこには素直に頷く。
「兄ほど騒がぬし、足で覚えさせるには向いておるでしょうな」
「そうなんだよ。兄は頭と口、弟は足と現場を育てたい。しばらくしたら立場を交代させる」
弾正少弼殿が、そこで酒を飲みながら言った。
「ようやく、人を使う側の悩みを語り始めたな」
「ずっと悩んではいましたよ」
「悩んでおっても、自分でやれば済むと思っておったのであろう」
「……否定できない」
「できぬか」
「できません」
典厩様がまとめるように言った。
「よい。左近将監級の“こやつは絶対に要る”という拾い方は例外よ。家を太くするとは、伝手で人を寄せ、役目を割り、頭を増やすことじゃ」
「はい、典厩様」
「壊れかけてようやくそれに気づいたのなら、まぁよしとしよう」
「典厩様、そこは“遅い”でないんですね」
「十分遅い。だが今さら言っても仕方あるまい」
そこへ、襖の向こうから慌ただしい足音がした。
「失礼つかまつるゥ!」
声だけで分かる。
木下藤吉郎だった。
「もう来たのかよ」と俺が呆れると、藤吉郎はその場へ平伏したかと思うと、次の瞬間には額を畳へこすりつけた。
「治部様ァ! ありがてえ……! ありがてえことでございます……!」
「まだ本決まりでもないぞ」
「それでもありがてえのでございます!」
横で小一郎が、ものすごく申し訳なさそうに頭を下げた。
「兄が、すみません」
「お前が謝るのか」
「いつものことにございますので……」
藤吉郎は顔を上げた。目がうるんでいる。いや、うるんでいるどころではない。今にも泣き出しそうだ。
「治部様!」
「何だ」
「寧々との間に子まで授かりまして!」
「うむ」
「それもこれも、治部様のお見立てとお導きあればこそ!」
「いや、それはお前ら夫婦の努力の結果だろ」
「いえ! もはや生き神様にございます!」
「やめろ」
「生き神様!」
「やめろって言ってるだろ!」
左近将監が肩を揺らし、半兵衛は目を閉じて耐えている。十兵衛だけが真顔を崩さない。
「治部様」と十兵衛が言う。「たぶん、しばらくこの調子です」
「見れば分かる」
典厩様が面白そうに言う。
「働きはしそうだな」
「それはそうなんですよ」と俺が答える。「こういうのは恩を受けたと思うと、本当に死ぬほど働く」
小一郎が控えめに頷いた。
「兄はそのようなところがございます」
「ただ、少々うるそうございます」と半兵衛。
「少々か?」と俺。
小一郎は少しだけ考えてから答えた。
「……かなり」
その誠実すぎる返しで、座に笑いが落ちる。
俺はそこで、改めて藤吉郎へ言った。
「藤吉郎」
「ははっ!」
「まずお前は半兵衛の下だ」
藤吉郎の目がさらに輝いた。
「竹中様の!」
「そうだ。酒造方、普請場、兵站、人足差配、そのあたりをまず覚えろ。お前は口が回る。走れる。そういうのは使い道が多い」
「ありがてえ……!」
「ただし」
「は!」
「思いついたことを全部口に出すな」
藤吉郎がぴたりと止まった。
「……難しゅうございます」
「もう難しいって言った」
「申し訳ございませぬ!」
半兵衛が静かに言う。
「藤吉郎殿。まずは、治部様のお言葉を三つ聞いたら、一つだけ返すところから始めましょう」
「さ、三つに一つ」
「はい」
「残り二つは」
「胸の内にしまいなさい」
「できるかどうか……」
「そこで迷う顔をするあたりが、もう危ういですね」
次に俺は小一郎を見る。
「小一郎」
「は」
「お前は左近将監の下につける」
「承知致しました」
返事が速い。兄と違って余計な言葉が乗らない。そこがいい。
左近将監が言う。
「兄ほど騒がぬな」
「はい。そこだけは」
「そこだけ、って言うなよ小一郎!」と藤吉郎。
「事実にございますので」と小一郎。
また笑いが落ちた。
左近将監は続ける。
「よい。お前はまず、持ち場と人数を覚えろ。小荷駄、番、隊列、普請人足、そのあたりの“抜け”を拾え」
「は」
「兄のように口で突破するな。足で覚えよ」
「承知致しました」
俺はそれを見ながら、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
山内越中守、堀尾常陸介は十兵衛の伝手。
藤堂与次郎、石田藤右衛門、大谷伊賀守は鶴姫の紹介で田代城もしくは瀬田に直接来てもらう。
木下藤吉郎・小一郎兄弟は、本家から回してもらう。
これでようやく、治部家は「信繁と三家老が全部抱える家」から一段抜け出せるかもしれない。
俺は紙の上の名を見て、静かに言った。
「よし。これでいく」
皆がこちらを見る。
「治部家を、俺一人で回す家から、俺が少し倒れても回る家に変える」
典厩様が頷く。
「うむ」
弾正少弼殿が杯を差し出した。
「では、その着地を祝ってもう一杯」
「だから朝から飲み過ぎなんですよ」
「旨い酒があるのが悪い」
「いや、造ったのは俺ですけど」
「なら責任を持て」
「売り先に長生きしてもらう責任ですか?」
「そうだ」
その返しに、また座へ笑いが落ちた。
悪夢は悪夢としてあった。
だが現実では、まだやれることがある。
仕事を割る。
人を増やす。
家を一人の肩から、少しずつ皆の持ち場へ降ろしていく。
それが今の俺にとって、いちばん現実的で、いちばん前向きな解決だった。
♢
真理の産所の外は、相変わらず妙に落ち着かなかった。
いや、俺だけではない。
今回は、典厩様まで落ち着いていなかった。
普段なら、俺がうろうろしていれば「目障りじゃ、座っておれ」と一喝して終わる人が、今日はその本人が廊を行ったり来たりしている。片腕を失い、足も万全ではないはずなのに、そういう時だけ妙に速度がある。
十兵衛が、さすがに小声で言った。
「……治部様」
「何だ」
「典厩様まで落ち着いておられませぬ」
「見れば分かる」
「かなり珍しいことかと」
「そりゃ、真理は武田の姫でもあるからな」
そこへ、典厩様がこちらを振り向きもせずに言った。
「聞こえておるぞ」
「失礼しました」
「失礼と思うなら黙っておれ」
「自分は黙れって言うくせに、典厩様も十分落ち着きないじゃないですか」
「うるさい」
そう言いながら、また廊を往復する。
あの人、絶対に自覚がない。
やがて、産声が二つ重なった。
一つ目が響いた瞬間だけでも、廊の空気は張り詰めた。
そこへ、間を置かずにもう一つ。
俺は、最初、意味が分からなかった。
「……二つ?」
十兵衛が、ほとんど呆けた声でそう漏らす。
俺も同じ顔をしていたと思う。
だが、典厩様の反応は、俺たちともまた違った。
「ふ、双子……?」
そこでまず固まる。
顔が強ばる。
喜ぶより先に、「え、良いのか、それは」という、この時代の大人らしい迷いが先に出た。
廊の端に控えていた年嵩の女房なども、さすがに少しざわついた。
「まさか……」
「二人……?」
「いや、しかし……」
双子。
現代なら、むしろ祝福が先だ。
だが、この時代ではそう単純に受け取られない。
家によっては不吉と取る者もいるし、順の問題や、腹の中でどう並んでいたかだの、余計な理屈を持ち出す者も出る。
まして、ここは武田の姫を娶った真理の産所だ。
侍女も女房も、喜びだけで突っ走るには少しだけ理屈を知りすぎていた。
けれど、そんな空気を吹き飛ばしたのは、俺だった。
「双子だと!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
そのまま、ほとんど一歩前へ出る。
「良かった……! すごいじゃないですか!」
典厩様が、まだ半分呆けた顔でこっちを見る。
「治部。お前、いや、待て。双子だぞ?」
「はい、双子です!」
「いや、そうではなくてだな」
典厩様が言い淀む。
この人も、戦では疾風みたいに決断するくせに、こういう時だけ妙に古い常識へ引っ張られる。
俺は、そのまま勢いで言った。
「子は宝です!」
廊が静まる。
典厩様も、十兵衛も、侍女たちも、何を言い出したのだこいつ、みたいな顔をしている。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「つまり双子ということは、それだけ宝が多かったということです! 宝が二つ、いっぺんに来たんですよ! こんなの、多幸腹じゃないですか!」
「たこう……?」
十兵衛が、聞き返す。
「多く幸いする腹です。めでたいに決まってるでしょうよ。真理が頑張って、若君と姫君を一度に連れてきてくれたんですから、これのどこにケチをつける余地があるんですか」
言い切ると、廊の空気が少し変わった。
女房たちが、互いに顔を見合わせる。
理屈として通っているかと言われると、たぶん半分くらいは勢いだ。
だが、勢いで押し切って良い時というのはある。
典厩様が、そこでようやく低く言った。
「……多幸腹、か」
「はい」
「子は宝」
「はい」
「宝が二つだから、なお良いと」
「そういうことです」
典厩様は、しばらく黙った。
黙って、産所の方を見ていた。
その横顔から、さっきまでの妙な引っかかりが、少しずつほどけていくのが分かる。
「ふん」
と、鼻を鳴らす。
「治部にしては、たまに良いことを言う」
「たまにって何ですか」
「うるさい。だが、今はそれでよい」
そう言った時には、もう声の調子がだいぶ違っていた。
さっきまでの「双子か……」という戸惑いではない。
ちゃんと、めでたい方へ腹が寄っている。
十兵衛が、横で肩の力を抜いた。
「なるほど。多幸腹、ですか。それなら、悪くありませぬな」
「悪くないどころか、最高だろう」
「勢いだけで押し切っておる気も致しますが」
「押し切れるめでたさなら、それでいいんだよ」
そのあたりで、女房の一人が、ほっとしたように笑った。
それにつられて、他の者もようやく顔をゆるめる。
空気というのは、不思議なものだ。
さっきまで「双子」という言葉の古い重みで少し止まっていたのが、一度「宝が多い」「幸いが多い」と置き換わると、急に皆そちらへ寄っていく。
典厩様が、今度ははっきりと言った。
「うむ。めでたい。大いにめでたいではないか」
「最初からそう言って下さいよ」
「最初から言うところを、お前が横からやかましくしたのだ」
「結果的には良かったでしょう」
「それはそうだ」
そこで、ようやく侍女が改めて膝をついた。
「若君と姫君にございます。母君も、ひとまずご無事にございます」
その一言で、今度こそ廊の全員が息を吐いた。
「真理は」
典厩様の声が、急に低くなる。
「お疲れではございますが、ご容体は落ち着いておられます」
「そうか」
典厩様はそこで、ようやく本当に肩を落とした。
たぶん、双子だ何だより先に、結局はそこが一番怖かったのだろう。
俺も、そこでやっと胸の奥の力が抜けた。
よかった。
本当に。
その安堵のあとで、頭に残ったのは、別のことだった。
「あ」
十兵衛が、横で振り向く。
「どうなさいました」
「名前。そういえば男と女、両方考えてて良かった!」
俺がそう言うと、十兵衛が少しだけ目を丸くした。
典厩様もこっちを見る。
「お前、最初から双子の可能性でも考えておったのか」
「そこまでは考えてませんよ。でも、どっちでも困らないようにって、両方持ってきてたんです」
「妙なところで用意がいいな」
「妙で結構です。こういう時に役に立つなら、それが一番でしょう」
典厩様が、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「で、何だ」
「はい。若君が源太郎。姫君が美耶姫」
口にすると、不思議なくらいすっと馴染んだ。懐から命名を書いた紙を出す。
最初からそこに座るために待っていた名みたいに、ぴたりと収まる。
「源太郎……。美耶姫……」
典厩様がゆっくり繰り返す。
「悪くない。いや、良いな」
「でしょう」
「調子に乗るな」
「今のは乗っていい場面では」
「半歩だけだ」
「厳しいなあ」
だが、典厩様の顔は、もう完全に緩んでいた。
「若君と姫君か。しかも、源太郎と美耶姫……」
そこで、この人はようやく、本当に実感が湧いてきたらしい。
さっきまで「双子」という字面に引っ張られていたのが、名が入った瞬間に、一気に「二人の子」になったのだ。
「……可愛いではないか」
ぽつり、と典厩様が言う。
十兵衛が、すぐに横を向いた。
あれはたぶん、笑いを堪えている。
俺も危なかった。
「何だ、その顔は」
「いえ。典厩様が、なんだかちゃんとお祖父様みたいなことを仰るので」
「うるさい」
「でも、今のはそうでしょう」
「うるさいと言うておる」
典厩様はそう言いながら、完全に機嫌が良くなっていた。
隠せていない。
隠す気も、たぶんもうない。
「治部」
「はい」
「兄上には、すぐ知らせる」
「はい」
「それから、源太郎と美耶姫に会えるのは、いつだ」
「典厩様、さっきまで双子に少し引いてた人の台詞とは思えませんね」
「黙れ。宝が二つなのだろう」
「そうです」
「なら、早く見たいに決まっておる」
その言い方に、俺は思わず笑ってしまった。
「典厩様、分かりやすいなあ」
「お前が余計なことを言わねば、もっと威厳があった」
「いや、今の方がずっといいです」
典厩様は何か言い返しかけて、結局やめた。
代わりに、産所の方を見た。
その目は、さっきまでの落ち着かなさとはもう違う。
不安と古い理屈に引っ張られていた目ではなく、ただ真っ直ぐに、孫たちへ向いている目だった。
「源太郎。美耶姫、か」
もう一度、その名を確かめるように口にする。
その声音を聞きながら、俺はようやく、本当に全部終わった気がした。
いや、終わったというより、ここから始まるのだろう。
若君と姫君。
宝が二つ。
多幸腹。
さっき勢いで口にした言葉だったが、今となっては妙にしっくり来る。
十兵衛が、横で小さく笑った。
「治部様」
「何だ」
「結果としては、まことに見事な理屈でございましたな」
「理屈じゃなくて本音だよ」
「なおのこと、よろしい」
その時、典厩様が今度は本当にこっちを振り返った。
「治部」
「はい」
「今の“多幸腹”とかいう言い回し、もし会う時があれば兄上の前でもそのまま申せ」
「え、そこ採用なんですか」
「よいではないか。めでたいのだろう」
「それはそうですけど」
「子は宝。宝が二つ。何か問題があるか」
「ありません」
「なら決まりだ」
そこまで言って、典厩様はようやく少しだけ胸を張った。
たぶん今の自分の中で、双子が完全に「めでたい」側へ収まったのだ。
「うむ。源太郎と美耶姫。良い名ではないか」
今度こそ、その言葉には一片の迷いもなかった。
「おお……!」
と、典厩様がそこで固まる。
次の瞬間には、何かを思い出したように片手を振り上げた。
「あああ、兄上に知らせねば!」
そう言って一歩踏み出し、足をもつれさせ、危うくその場でずっこけかけた。
「典厩様!」
俺も十兵衛も同時に手を出した。
典厩様は、ぎりぎりのところで踏みとどまったが、本人が一番驚いた顔をしている。
「……危ないですよ」
「分かっておる!」
「分かってないからそうなるんでしょう」
「うるさい、紙だ、紙を寄越せ!」
半兵衛が、もう諦めたような顔で紙と筆を差し出した。
典厩様は、その場でどかりと座るなり、ものすごい勢いで書き始める。
「兄上へ」と俺が言うと、典厩様は筆を走らせたまま答えた。
「当たり前じゃ! 真理が無事に産んだ。しかも双子じゃぞ。書かぬわけがあるか」
「まあ、それはそうですけど」
「“真理無事、男子女子の双生児を得たり”……いや、もう少し違うな……“源太郎、美耶姫”……うむ、名も書くべきか……」
「そこまで今すぐ決まります?」
「決まったのであろう」
「はい、まあ」
「なら書く」
筆の勢いが妙に強い。
どう見ても嬉しいのだ。
嬉しいのだが、本人だけが平静を装いきれていない。
十兵衛が小さく言った。
「武田家への報せが、誰よりも速そうです」
半兵衛も頷く。
「甲斐では、信玄公が文を開いた瞬間、何事かと思われるやもしれませぬな」
「それくらいでよい」と典厩様。
「真理のことは、兄上も気にかけておられる。なればこそ最速で知らせる」
その言い方はぶっきらぼうだが、声音だけはどうしても緩んでいた。
♢
産所へ入る前に、俺は一度だけ深く息を吐いた。
さっきまで廊で大騒ぎしていた熱が、まだ胸の内に残っている。
源太郎と美耶姫。
名まで決まった今になって、ようやく足が少し震えているのだから、我ながら遅い。
侍女にうながされて中へ入ると、真理はまだ青白かった。
汗に濡れた髪が頬へ張りついている。
息も浅い。
けれど、目だけはもうこちらを見ていた。
その目に、最初にあったのは安堵ではなかった。
不安だ。
「……治部様」
声もまだ細い。
「大丈夫だ。入っていいと言われた」
「そうではなく……」
真理は、少しだけ視線を伏せた。
「二人、だったのでしょう。みな、何と……」
そこで言葉が切れる。
双子。
この時代の女なら、そこを気にしないはずがない。
めでたいに決まっている、と現代みたいに一直線には行かない。
理屈をつける者もいる。
顔を曇らせる者もいる。
真理自身がそれを知らぬわけがなかった。
俺はその枕元へ寄って、なるべく明るい声で言った。
「何と、って? 典厩様まで最初は少し固まってたよ」
真理が、え、と目を上げる。
その顔があまりに弱っていて、逆に俺は少し笑ってしまった。
「いや、笑い事じゃないんだけどさ。廊の外、典厩様まで落ち着いてなくてな。普段なら俺がうろうろしてたら一喝で終わるのに、その本人が行ったり来たりしてた」
真理の目が、少しだけ丸くなる。
「叔父上が……?」
「そう。十兵衛と俺で『典厩様まで落ち着いてない』って小声で言ってたら、『聞こえておるぞ』って返されてさ。しかも、二つ目の産声が聞こえた瞬間、典厩様も周りも一瞬止まった」
真理の指先が、布の上で少しだけ強ばった。
やっぱり、そこだ。
だから俺は、あえてその先を勢いよく言った。
「で、俺が言ったんだよ。子は宝です、って。つまり双子ということは、それだけ宝が多かった。つまり多幸腹です、ってな」
真理が、今度はぽかんとした顔になる。
「たこう……ばら?」
「多く幸いする腹。めでたいに決まってるだろ。真理が頑張って、宝を二つ、いっぺんに連れてきてくれたんだから」
そこで、真理の目元が少し揺れた。
不安が、ようやくほどけ始める気配だった。
「そしたら典厩様もな、『子は宝』『宝が二つならなお良い』って、最後はすっかりその気になってた。今じゃもう、双子でも可愛いって顔だったぞ。むしろ早く見たいに決まっておるってさ」
真理が、そこでようやく小さく笑った。
まだ弱い笑いだ。
けれど、さっきまでの強ばった笑いではない。
「……叔父上らしいような、らしくないような」
「両方だな。でも、ちゃんとめでたい方へ転んだ。だから、心配するな」
俺はそこで、少しだけ胸を張った。
「名前も決めたぞ」
「えっ」
「男と女、両方考えてて良かった。若君は源太郎、姫君は美耶だ」
真理の目が、大きく開く。
「源太郎と……美耶……」
「どうだ」
真理は、しばらくその名を口の中で確かめるみたいに黙っていた。
それから、本当に小さな声で言う。
「……良いお名前」
その一言で、俺の中の張っていたものが少しだけ緩んだ。
良かった。
そこは真理に気に入ってもらわないと、どうにも落ち着かない。
「だろ。源太郎も、美耶も、ちゃんとお前が連れてきてくれた名だ」
そう言いながら、俺はそっと真理の手を取った。
まだ少し冷たい。
けれど、確かに生きていて、ここにある手だった。
「真理」
「はい」
「よく頑張ったな」
その言葉だけは、なるべく飾らずに言った。
たぶん、今はいろんな理屈よりそっちの方が届く。
「本当に。よく頑張った」
真理は何か言おうとして、結局うまく言葉にならなかったらしい。
代わりに、目尻へ少しだけ涙が浮いた。
「……治部様」
「うん」
「私、双子と聞いて。少し、怖くなってしまって」
「そりゃそうだ」
「もし、縁起がどうとか、順がどうとか、そういうことを言われたら、どうしようかと……」
「言わせない。少なくとも、俺の前では言わせないし、典厩様ももう完全にめでたい側だ。何せ多幸腹だからな」
真理が、涙のまま少し笑った。
「本当に、それで押し切られたのですか」
「押し切った。勢いは大事だ」
「ひどい理屈……」
「でも、間違ってないだろ」
真理は少しだけ考えて、それから弱々しく頷いた。
「……はい。間違っては、いないと思います」
「だろう?」
俺はそこで、ようやくいつもの調子で笑えた。
「だから安心していい。源太郎と美耶姫だ。若君と姫君、宝が二つだぞ。めでたいに決まってる」
真理は、その言葉を胸の中へしまうみたいに目を閉じた。
それから、ゆっくりと開く。
「治部様」
「何だ」
「お顔を見たいです」
「源太郎と美耶姫のか」
「はい」
「もちろんだ。でも、お前がもう少し落ち着いてからな」
「はい……」
声はまだ弱い。
けれど、さっきまでの不安に引かれたものではない。
ちゃんと母の顔へ戻り始めている声だった。
俺は、真理の手を包んだまま、もう一度だけ言った。
「真理」
「はい」
「お前が連れてきた宝だ。胸を張れ」
真理の目から、今度ははっきり涙がこぼれた。
けれど、その顔はもう、不安に押されていなかった。
「……はい」
その返事を聞いたところで、俺はようやく本当に安心した気がした。
廊の外では、きっとまだ典厩様が落ち着かずにうろうろしているだろう。
十兵衛はたぶん、その様子を見て苦笑している。
兄上へも、すぐに報せが飛ぶ。
だが、今ここでいちばん大事なのは、そんなことではない。
真理が生きていること。
源太郎と美耶姫が生まれたこと。
そして、この母親が、双子でもよかったのだと思える顔になったことだ。
それで十分だった。
「さて」
俺は少しだけ声を明るくした。
「源太郎と美耶姫に負けないように、お前もちゃんと休め。多幸腹の功労者なんだからな」
真理は涙の残る目で、困ったように笑う。
「その言い方、もう決まりなのですね」
「決まりだ。典厩様公認だぞ」
「それは……強いですね」
「強いだろ」
そう答えると、真理は今度こそ少しだけ、声を立てずに笑った。
その笑いが見られただけで、今日のところは、もう何も足りないものはない気がした。
♢
その後、源太郎と美耶姫の誕生は、城中に一気に広がった。
若君と姫君。
しかも双子。
めでたいに決まっている。
決まっているのだが、こういう時に限って、どこぞの陰から余計な口を挟む手合いは出る。
双子ということで、案の定、どこぞで余計なことを言う者もいた。
そこへ俺が怒鳴り込み、多幸腹の呼び名を定めたまでは、もうその日のうちの出来事だ。
だが、そこで終わらなかった。
きっかけは、城の奥へ戻る途中のことだった。
さっきまでの騒ぎがひと段落し、兄上へ報せも通り、典厩様も源太郎と美耶姫の名を口の中で何度も転がして、ようやく機嫌良く落ち着いてきた、その矢先だ。
廊の角を折れたところで、ひそひそと小さな声が耳へ入った。
「とはいえなあ……」
「双子では、畜生腹などと――」
そこまで聞いた瞬間、頭の奥で何かが切れた。
考えるより先に足が動く。
声の主は、兄上の近習の一人だった。
若いが、近習衆の中ではそれなりに使い勝手の良い方として顔を覚えている。
そいつが俺に気づいて振り向いた時には、もう遅い。
俺はそのまま胸倉を掴み上げた。
「て、治部様――」
「今、何と言った」
喉の奥から出た自分の声が、自分でも驚くほど低かった。
相手の顔色が一気に変わる。
けれど、もう遅い。
聞き間違いではない。
はっきり聞いた。
「い、いや、私はただ、古くはそう申すことも――」
「古くは、だと?」
俺は、さらに相手を壁際へ押しつけた。
背中が板へぶつかる鈍い音がする。
周りが凍った。
近くにいた小者も、侍女も、誰もすぐには声を出せない。
「お前は今、真理が命懸けで産んだ源太郎と美耶姫を、畜生腹と言ったな」
「ち、違……!」
「違わん」
そこでようやく、相手も本気でまずいと悟ったらしい。
顔から血の気が引き、口だけが無意味に動く。
だが、そんなものは目に入らなかった。
「子は宝だ」
俺は、一語ずつ叩きつけるように言った。
「一人でも宝。二人なら、なお宝だ。それを畜生腹だと? 誰が決めた。どこの馬鹿が、母親が腹を痛めて産んだ命を、数が多いというだけで軽く見てよいと決めた」
相手は何も言えない。
当然だ。
理屈ではなく、ただ昔の嫌な言い回しを口にしただけなのだから。
俺はさらに胸倉を掴む手へ力を込めた。
「真理は、武田の姫だとか、戦国の女の常だとか、そんなものを全部飲み込んで、源太郎と美耶姫を連れてきた。その腹は、多く幸いする腹だ。多幸腹だ。それを、畜生腹だと?」
自分でも分かる。
勢いが、もうただの怒りを越えていた。
周りが息を呑む気配がある。
十兵衛が少し離れたところで、止めるべきかどうか迷っているのも見えた。
だが、止まらなかった。
「お前みたいな、命も産めぬ口だけの男が。何を根拠に、子を二人も産んでくれた女を下に見るのだ。言ってみろ」
「ち、治部様……!」
相手の声が情けなく裏返る。
その顔を見た瞬間、逆に殴ってしまいそうになった。
拳へ力が入る。
あと半歩で、たぶん本当に行っていた。
その瞬間だった。
「治部!」
声が飛んだ。
同時に、横から腕を取られる。
振り向くまでもない。
上総介兄上だった。
反対側からは、勘十郎兄上が入っていた。
二人がかりで腕を止められて、ようやく自分が本当に殴る寸前だったと分かる。
「離せ、兄上」
「離すか、馬鹿者」
上総介兄上の声は強い。
だが、怒鳴っているのではない。
完全にこっちを止める時の声だ。
勘十郎兄上も、珍しく真顔で言った。
「治部、ここで殴れば、お前の理が濁る」
その一言で、俺の足が止まった。
理が濁る。
そうだ。
殴りたい。
実際、殴っても足りないくらいだ。
だが、ここで拳を入れれば、「双子を寿ぐ理」ではなく「治部大輔が怒って殴った話」へ変わる。
それでは駄目だ。
俺は歯を食いしばったまま、どうにか拳を開いた。
上総介兄上が、そこで初めて相手の近習へ目を向けた。
その目つきは、俺よりよほど冷たかった。
「貴様」
近習は、もう膝が笑っている。
胸倉を掴まれたままというのもあるが、兄上の声で完全に腰が抜けかけていた。
「誰の前で、何を言ったか分かっておるか」
「う、上様……私は、ただ古い言い回しを……」
「だから何だ」
上総介兄上の声が、すっと細くなる。
「古ければ正しいのか。古くからあれば、口にしてよいのか」
近習は、もう何も返せなかった。
勘十郎兄上が、俺の腕をまだ押さえたまま、低く言う。
「治部の言う通りだ。子は宝だろうに。しかも二人、若君と姫君だ。それを、何だと思って口にした」
上総介兄上が、その先を引き取る。
「聞け」
その一声で、その場の空気が完全に固まった。
廊にいた者は皆、膝を着き頭を下げる。
たった今の騒ぎを聞きつけて、少し遠くにも人影が増えていた。
上総介兄上は、まっすぐに言った。
「これより織田家では、双子を『多幸腹』と呼ぶ」
廊の空気が、一瞬だけ揺れる。
だが上総介兄上は、そのまま続けた。
「子は宝だ。宝が二つなら、なおめでたい。腹が二つの幸いを運んだなら、それは多幸腹に決まっておる」
俺は、そこでようやく少しだけ息を吐いた。
上総介兄上が、それを自分の口で言ってくれた。
それだけで十分だった。
だが上総介兄上は、まだ終わらなかった。
「そして、口減らしなど必要のない国をつくる」
その一言は、廊にいる全員へ落ちた。
近習だけではない。
侍女にも、小者にも、家中の空気そのものへ落ちた。
「双子が生まれたからといって、顔を曇らせるような貧しい家にせぬ。余計な理屈で、めでたいものへ泥を塗るような国にもせぬ。織田はそうする」
それは、ただの言い換えではなかった。
国の方針だった。
少なくとも上総介兄上は、そういうつもりで言っている。
勘十郎兄上が、そこで静かに頷いた。
「よろしいかと。若君と姫君にございます。めでたい以外、ございませぬ」
上総介兄上も頷いた。
そのうえで、まだ震えている近習を見下ろす。
「今の言葉、よく覚えておけ。次に同じことを口にしたら、今度は治部を止めはせぬ」
それは、罰より怖い一言だった。
近習は、ほとんど泣きそうな顔で平伏した。
「も、申し訳ございませぬ……!」
俺はようやく、その胸倉を離した。
手のひらに、布の皺と熱が残っている。
勘十郎兄上が、そこで少しだけ力を抜く。
「治部」
「何でしょう」
「お前は、普段怒らない分腹を立てると本当に止まらぬな」
「今回は止まらなくていい場面でしょう」
「半分はそうだ」
「残り半分は、兄上たちが来るのが遅ければ面倒だった」
「そこは否定しない」
上総介兄上が、ようやくこちらを見た。
怒っているような、少し呆れているような、妙な顔だった。
「お前な」
「はい」
「殴る前に、余へ持ってこい」
「兄上が先に来なかったら、危なかったですよ」
「だから来たのだ。分かっておるなら、最初から拳でなく口で刺せ」
「口で刺した結果がこれです」
「その後に拳が出かかったのが問題だ」
そこは返す言葉がなかった。
俺が黙ると、勘十郎兄上が小さく笑った。
「珍しいな。治部が素直に詰まった」
「勘十郎兄上は黙っててください」
「なんでだ」
そう言いながらも、勘十郎兄上の顔は少しゆるんでいた。
上総介兄上も、最後には小さく鼻で笑った。
「まあよい。今回は治部の理屈が勝ちだ。多幸腹、よいではないか」
「でしょう」
「調子に乗るな」
「上総介兄上が採用したんでしょう」
「余が決めたのだ」
「最初に言い出したのは俺です」
「だから何だ」
そのやり取りで、ようやく廊の空気に人心地が戻った。
遠巻きにしていた者たちの肩も少し下がる。
だが、さっきまでとは決定的に違う。
もう誰も、双子に余計な陰を差す顔ではなかった。
上総介兄上が明言したからだ。
織田では双子は多幸腹。
子は宝。
口減らしの要らぬ国をつくる。
それが、その場で家中の理屈になった。
俺は、さっきの近習を一度だけ睨んだ。
相手はもう顔も上げられない。
「次はないぞ。だが、お前のおかげで双子が幸いが多いということが認められた。そこは礼をいう。いきなり済まなかった」
それだけ言うと、近習は地面へ額を擦りつける勢いで頷いた。
「は、はい……。以後気を付けまする!」
上総介兄上が、そこでようやく歩き出した。
「行くぞ、治部」
「どこへ」
「源太郎と美耶姫の話を、もう一度ちゃんと聞きに行く。余はまだ、実際に顔を見ておらぬ」
「典厩様も同じこと言ってましたよ」
「だろうな」
勘十郎兄上が、そこで少しだけ笑う。
「今日の織田家は、双子に振り回されておりますな」
「めでたい振り回され方だ」
上総介兄上が言う。
勘十郎兄上も、俺も頷いた。
「その通りです」
廊を歩きながら、俺はようやく胸の奥の熱が落ちていくのを感じた。
怒りはまだ残っている。
だが、それ以上に、理が通ったという安堵が大きい。
♢
源太郎と美耶姫。
若君と姫君。
宝が二つ。
多幸腹。
そう呼ぶと決まった以上、もうこの城で双子に余計な影を差させはしない。
そのためなら、さっきの一件くらい、別に何度でも怒鳴り込んでやる気だった。
だが、その後の広がり方がまた予想外だった。
最初に走り回ったのは、木下藤吉郎である。
「聞いたかあっ!」
廊の向こうからでも分かる声で、広間へ飛び込んで来た。
「若君と姫君にございます!」
「知ってる」
「しかも治部様も仰ったぞ!」
「何をだ」
「多幸腹!」
その言葉を、なぜかものすごく誇らしげに叫ぶ。
俺は少し嫌な予感がした。
「藤吉郎」
「は!」
「まさかお前」
「拙者、もう城下へ触れ回って参ります!」
「待て!」
「“双子は多幸腹、めでたきことなり!”と!」
「待てって言ってるだろ!」
だが、止まらない。
あの男はこういう時、本当に止まらない。
半兵衛が頭を押さえる。
「……行きましたね」
「行ったな」
小一郎が、ものすごく申し訳なさそうな顔で言った。
「兄が……」
「お前はもう謝らなくていい」と俺。
「でも、あれ、止まりませんので」
「分かってる」
藤吉郎だけではなかった。
慶次郎も面白がって乗った。
久助は津島筋の商人へ「治部様がこう仰った」と流した。
城下の侍も足軽も、「あの治部様が言うのなら」という妙な信頼で、その呼び名を口にするようになった。
治部大輔信繁。
あいつが怒って言ったのなら、それなりの理があるのだろう。
あいつは色々と面倒だが、子のことと家のことだけは真剣だ。
なら、その言葉に乗ってよいのではないか。
そんな、変な信頼である。
一気に世が変わるわけではない。
昔から染みついた見方や言い回しは、そう簡単には消えない。
だが、それでも少しずつ、織田領の中で空気が変わり始めた。
双子を宿した腹は、多幸腹。
子が多く生まれるのは、幸いが重なったこと。
それなら、わざわざ減らすより、育ててみるか。
そういう方向へ、ほんの少しだけ人の心が倒れるようになったのだ。
城下でも、農村でも、すぐに何もかもが消えたわけではない。
それでも、「あの治部様がそう言うなら」という理屈は思いのほか強かった。
十兵衛が、後で少しだけ感心したように言った。
「治部様の言葉というのは、妙なところで通りますな」
「妙なところって何だ」
「内政にせよ築城にせよ、皆、治部様が一度理を通したものは“何かある”と思っておりますので」
半兵衛も頷く。
「稲の収穫、酒造り、城造り、戦、椎茸、そのあたりで実際に形が出ておりますから。双子観まで変わるとは、さすがに私も思いませんでしたが」
「俺も思ってないよ」
「ですが、悪い変わり方ではございませぬ」
その通りだった。
お市が、産着に包まれた源太郎と美耶姫を見ながら言う。
「この子たちが、生まれたことだけで妙なことを言われずに済むなら、それだけでも十分ですね」
雪姫も、小さく頷く。
「多幸腹……良い言葉です」
鶴姫は少しだけ笑った。
「治部大輔殿は、怒る時に家の空気を変えますね」
真理は、まだ疲れを残しながらも、穏やかな顔で言った。
「子らのためになる怒りでございました」
その時、典厩様は信玄からの返書を受け取っていた。
文を読んだ典厩様が、珍しくはっきりと笑ったので、俺は思わず聞いた。
「何てありました」
「“真理、よくやった。真理には、しっかり食わせて休ませよ。ついでに治部大輔にも、良き名じゃと伝えておいてくれ”だそうじゃ」
「俺までですか」
「当たり前じゃ」
典厩様は、そこで文を畳みながら続けた。
「兄上も、双子が多幸腹とは面白い、と」
「甲斐でも使いますかね」
「使うやもしれんな」
それを聞いて、少しだけ笑ってしまった。
源太郎。
美耶姫。
そして、多幸腹。
真理の命懸けの出産をきっかけに、たった一つ言葉が変わった。
だが、その言葉は、少しずつ織田領の空気を変え始めていた。
すぐではない。
一気でもない。
それでも、間引きが少しずつ減っていく。
双子が生まれた時に、まず「幸いだ」と言う者が増える。
それだけでも、たぶん十分に意味があった。
♢
その年の冬は、田代城にとって、どうにも慌ただしく、そして妙にめでたかった。
真理が源太郎と美耶姫を産んだだけでも、すでに家中の空気はひっくり返っている。そこへ追い打ちをかけるように、初冬のうちにお市と雪姫の懐妊が判り、年が明けた頃には、今度は鶴姫まで懐妊した。
さすがに、そこまで重なると、家中の見る目も変わってくる。
「治部殿は子作り名人よ」
最初にそんなことを言い出したのが誰なのか、俺は本気で知りたくなかった。だが、いったんそういう妙な評判が立つと、もう止まらない。
台所で言われる。
廊で言われる。
城下でも、どうやら言われ始めているらしい。
「違うからな」と俺が言うと、十兵衛が静かな顔で答える。
「何がでございましょう」
「全部だよ」
「ですが、結果だけ見れば見事な的中率です」
「結果だけで見るな」
半兵衛まで、そこで少しだけ肩を揺らした。
「たしかに、この短い間にこれだけ続けば、何か妙な技でもあるのではと思われるのも無理はないかと」
「半兵衛、お前まで乗るな」
「乗ってはおりませぬ。ただ、否定材料が乏しゅうございます」
左近将監が横で笑う。
「城も造る、酒も造る、子も成す。まことに働き者にございますな」
「左近将監まで!」
典厩様に至っては、もう完全に面白がっていた。
「よいではないか」
「よくないですよ」
「戦でも内治でも成果が出て、家の内でも子が増える。武家としては、まことに結構なことよ」
「言い方が雑なんですよ」
「雑で何が悪い」
そこへ弾正少弼殿が、例によって酒を呑みながら一言だけ差し込む。
「実りが多いのは、よいことだ」
「あなたまで言いますか」
「酒も子も、多いに越したことはない」
「何でそんなに全部一緒くたなんですか」
「似たようなものだからであろう」
「似てませんよ」
そんなふうに、俺が本気で嫌がっているのに、周囲はたいして助けてくれなかった。
もっとも、嫌がってはいても、嬉しくないわけではない。
そこがまた厄介だった。
お市が懐妊したと聞いた時も、雪姫が少し恥ずかしそうに俯きながら伝えてきた時も、鶴姫が静かな顔のまま「このたび、どうやら」と言った時も、結局俺は毎度同じように慌てた。
冷やすな。
無理をするな。
重いものは持つな。
何か変ならすぐ横になれ。
それを三人へ別々に言うものだから、十兵衛には「治部様、同じことを三度申されております」と冷静に指摘され、半兵衛には「書付にして配った方が早いかもしれませぬ」とまで言われた。
だが、仕方がない。気になるものは気になるのだ。
そんな中で、源太郎と美耶の出産に立ち会っていた弾正少弼殿は、越後へ発つ間際に、ふいに源太郎を見て言った。
「この子が元服した際は、我が虎の字を使って構わん」
座が、そこで少しだけ静まった。
軽い言い方だった。
まるで酒のつまみに一言添えるような、そんな調子だ。だが、口にした内容は決して軽くない。
上杉輝虎の「虎」の字。
それを元服の折に使ってよいと言うのは、ただ気に入った幼子へ向ける冗談では済まない。
俺が少し言葉を探していると、典厩様が横でぼそりと漏らしかけた。
「信虎とか、ちょっと縁起悪――」
そこまで言って、ぴたりと止まる。
俺はすぐにそこを拾った。
「典厩様や徳栄軒殿のお父上のお名でしたな」
典厩様が、わずかに目を細める。
飲み込んだところを、きちんと拾われたので少しばつが悪そうだ。
俺は続けた。
「長男は、お市の祖父、桃巌様より秀の字を頂く」
お市が、そこで少しだけ顔を上げた。
その案は、すでに俺や兄上たちの間で柔らかく出ていた話でもある。
「そして次男は、弾正少弼殿と、真理の祖父君から虎の字を頂くということか」
真理が静かに目を伏せる。
武田の血と、越後の軍神。
その両方の響きが、たしかにそこに重なる。
俺は、そこで素直に頭を下げた。
「ありがたいことです」
弾正少弼殿は、相変わらず大きな杯を持ったまま、ほんの少しだけ口元を動かした。
「よい。強く育てよ」
「それはもちろん」
「酒も飲めるように育てよ」
「そこはほどほどで」
「何故だ」
「あなたみたいになると困るからです」
「失礼なことを申す」
「事実でしょう」
典厩様が、そこでようやく苦笑した。
「まったく、うまく拾いおったな」
「何がです」
「虎の字の話を、そのように納めるところがじゃ」
「いや、本当にありがたいですから」
「それは分かっておる」
典厩様は、少しだけ遠いものを見る目になった。
「武田の血を引く子に、越後の虎の字が重なる。妙な縁よ」
「戦国ですからね」
「うむ。戦国よ」
その言い方には、どこかしみじみしたものがあった。
弾正少弼殿は、その空気をあまり引きずらず、立ち上がった。
「では、帰る」
「ようやくですか」と俺が言うと、弾正少弼殿は平然と答える。
「酒は十分に呑んだ」
「十分どころじゃないでしょう」
「旨かった」
「それは何よりです」
「忘れるな。絶やすな」
「分かってますよ」
「うむ」
そのまま、軍神は本当に風のように去っていった。
残るのは、酒の話と、虎の字の約束と、妙に濃い数日の記憶ばかりだ。
そしてその後、家の中ではさらに妙な評判が強まった。
お市も懐妊。
雪姫も懐妊。
鶴姫も懐妊。
「やはり治部殿は子作り名人」
誰かがそう言うたびに、俺は「だから違う」と否定するのだが、もう誰もまともに聞いてくれない。
真理にまで、少し困ったような笑みで「名人だそうですよ」と言われた時には、さすがに頭を抱えた。
「真理、お前まで言うのか」
「私は申しておりません」
「顔が言ってる」
「ふふ」
お市は豊寿丸を抱きながら笑うし、雪姫はまだ少し恥ずかしそうに俯くし、鶴姫は平然と「結果としてはそう見えましょう」と言う。
どうやらこの件に関して、俺に味方はいないらしい。
だが、悪い気はしない。
それもまた、どうにも悔しい。
田代城には、子の気配が増えた。
笑いも増えた。
面倒も増えた。
そして、家そのものの重みもまた、少しずつ増していく。
治部家は、ただ戦のために人を抱える家ではなく、次の代を本気で育てる家になり始めていた。
その中心に自分がいるのだと思うと、やはり少し怖い。
怖いが、それでもありがたいと思えるくらいには、俺もこの時代の家の主として馴染んできていたのかもしれなかった。
♢
永禄六年の田代城は、戦の評定と同じくらい、子の泣き声と縁談の話が増えていた。
真理が源太郎と美耶姫を産み、お市、雪姫、鶴姫の腹も順に大きくなる。そうなると、さすがに家の空気そのものが変わる。昨日まで槍だ馬だと騒いでいた連中まで、妙に足音を控えるようになるし、台所も薬味やら湯やら、いつもと違う段取りが増える。
その中で、俺が改めて感心したのは十兵衛だった。
「お前、いつの間に二児の父なんだ」
そう言うと、十兵衛は本気で困った顔をした。
「いつの間にも何も、治部様が働かせすぎる間に、でございます」
「ひどいな」
「事実です」
それが返せない。
永禄四年、十兵衛がようやく治部家へ根を下ろし、暮らしが安定し始めた頃、熙子との間に長男・十五郎光慶が生まれていた。そして永禄六年、この年には娘の玉まで生まれた。
まだ小さな玉を抱いた十兵衛の妻女熙子殿は、静かな顔をしていた。十兵衛の妻らしく、浮ついたところがない。だが、目元だけははっきりと柔らかい。
「おめでとう、十兵衛」
「ありがとうございます」
「玉、か」
「はい」
「よい名だな」
「熙子が気に入りまして」
そう言いながら、十兵衛の顔はいつものままだ。いつものままなのだが、玉を見下ろす目だけは、どうにも父親のそれだった。
「十五郎も、兄になるのか」
「そうなりますな」
「お前のところは、ちゃんと家になってきたな」
俺がそう言うと、十兵衛は一拍だけ黙った。
「……治部様に拾われた時には、そこまで考える余裕もございませんでした」
「だろうな」
「ですが、食うに困らず、住まいが定まり、明日の仕事に怯えずに済むようになって、ようやく“子を持つ”ということが現実になりました」
その言い方は淡々としていた。だが、だからこそ重かった。
戦国の世で、家を持つ。
子を持つ。
それは、ただめでたいだけではない。明日もその子が生きられるだけの土台が要る。十兵衛はその土台を、治部家へ来てようやく得たのだ。
「そう考えると」と半兵衛が横で言った。「治部家も、だいぶ物を抱える家になりましたな」
「なったよなぁ」
俺はしみじみ頷いた。
「人を使うだけじゃなく、その妻子まで含めて抱える家になってきた」
「ゆえに」と半兵衛は続ける。「独り身ばかりを走らせておくのも、そろそろ限界かと」
そこなのだ。
俺は、そこで視線をずらした。
左近将監。
慶次郎。
助右衛門。
見事なまでに、ろくに所帯を持っていない面子である。
左近将監は、こちらの視線に気づくと、露骨に嫌そうな顔をした。
「……何ですかな」
「いや別に」
「その顔は別にではありますまい」
「左近将監にも、そろそろ嫁が要るなと思って」
「いきなりそこへ来ますか」
「来るよ。お前、歳だけ重ねて、一生そのまま剣と軍だけで生きるつもりか」
左近将監は、珍しく言葉に詰まった。そこへ、権六の親父殿の名を出す。
「権六の親父殿の筋に、ちょうどよい姪御でもおられぬかなと思ってな」
左近将監が、とうとう顔をしかめた。
「権六の親父殿、ですか」
「悪くないだろ」
「……悪くはございませぬが」
「年の差は出るかもしれんが、お前にはちょうどいい」
「何がちょうどよいのやら」
「お前、自分と同じように渋くて面倒くさい女が来たら、絶対に家が燃えるぞ」
半兵衛が小さく頷いた。
「それは燃えそうです」
「半兵衛、お前まで」
左近将監が本気で嫌そうな声を出したので、さすがに少し笑ってしまった。
「安心しろ。無理やり決めるつもりはない」
「今の流れのどこに安心が」
「だが、権六の親父殿の御縁なら、家格も申し分ないし、織田家中でも収まりがいい」
「それは……そうですが」
「しかもお前、外面だけはいいからな」
「“だけ”は余計です」
「事実だろ」
そこへ、慶次郎が面白そうに口を挟んだ。
「左近将監殿が年の差夫婦とは、なかなか絵になりますな」
「黙れ、慶次郎」
「いやいや、渋い武辺の夫に、若くて賢い奥方。たいそうようございます」
助右衛門が短く言う。
「お似合いかもしれぬ」
「助右衛門まで!」
もう左近将監は、完全に皆の肴だった。
だが、本題はそこでは終わらない。俺は、そのまま慶次郎と助右衛門の方を向いた。
「で、お前らだ」
「えっ」と慶次郎。
助右衛門は無言で視線を逸らした。
「慶次郎も助右衛門も、もう少し槍以外のことを考えろ」
「ええー」
「“ええー”じゃない」
「だって俺、まだまだ自由でいたいんですけど」
「戦場を縦横無尽に走るのは自由で、妻を持つのは不自由か」
「何か、響きが急に重いです」
「重くて当たり前だ」
助右衛門は、そこでようやくぽつりと言った。
「……某は、別に」
「別に、何だ」
「決まるなら、決まっても構わん」
慶次郎がすぐそちらを振り向く。
「え、お前そんなあっさり」
「嫌と言っても、いずれそうなる」
「助右衛門、お前そういう時だけ妙に大人だな!」
「お前が子供すぎるだけだ」
その返しに、座が少しだけ和む。
半兵衛が静かに言った。
「慶次郎は、まず逃げるでしょうな」
「逃げませんよ!」
「今、顔に“逃げたい”と書いてありました」
「半兵衛こわっ」
「事実を申したまでです」
そして半兵衛自身は、すでに妻帯者としてそこへ座っている。
「お前はいいよな」と俺が言うと、半兵衛は少しだけ首を傾げた。
「何がにございます」
「もう安藤伊賀守殿の娘を妻に迎えて、涼しい顔してるところが」
「涼しい顔には見えておりますか」
「見えてる」
「それは、治部様が他の者の騒がしさに慣れすぎておられるだけでは」
「否定できない」
半兵衛は、そこで小さく笑った。
「子はまだおりませぬが、夫婦というものは、静かなのもまたよろしいものです」
「お前らしいな」
「騒がしいのは、家中だけで十分にございます」
その言い方に、十兵衛まで少し口元を緩めた。
俺は一つ息を吐いて、座の顔ぶれを見回した。
十兵衛は十五郎と玉の父。
半兵衛はすでに所帯持ち。
左近将監はこれから縁談。
慶次郎と助右衛門も、もう独り身で戦だけしていれば済む歳ではない。
治部家は、ただの武辺集団ではなくなっていた。
戦う。
築く。
稼ぐ。
産む。
育てる。
そういうもの全部を抱える家へ、少しずつ変わっている。
「まあ、あれだ」と俺は最後に言った。
「今年は子が多い。めでたい。だがそれだけじゃなく、家そのものを次の代へ渡せる形にしていく年でもある」
十兵衛が頷く。
「はい」
半兵衛も続く。
「家臣団もまた、家を持つ者として整えねばなりませぬな」
「そういうことだ」
左近将監が、どこか観念したように言った。
「では、権六の親父殿のところへ話を持って行くので?」
「持って行く」
「早いですな」
「遅いくらいだ」
慶次郎が、そこで本気で嫌そうな顔をした。
「じゃあ次は俺ですか」
「そのうちだ」
「助右衛門!」
「諦めろ」と助右衛門。
「薄情者!」
そんなやり取りを見ながら、俺は少しだけ可笑しくなった。
永禄六年。
子が生まれ、腹が大きくなり、家臣団にも縁談が持ち上がる。
騒がしい。
面倒だ。
だが、その面倒くささこそが、治部家がただの戦う家ではなく、本当に生きる家になってきた証なのかもしれなかった。
♢
永禄六年の夏、稲葉山城にはまた一つ、はっきりとした慶事が加わった。
お市が長男豊寿丸を産んだ時に懐妊が判明した、上総介兄上とお濃の方の間に、女児が生まれたのである。
その報せを聞いた時、城中の空気は素直に明るくなった。兄上にとってもそうだが、お濃の方にとっても待望の初子だ。しかも女児となれば、家の先を考えるうえでもまた別の重みがある。
名は、珠。
やわらかく、しかし芯のある響きだと思った。
産後のお濃の方を見舞った兄上は、まだ小さな珠を見下ろしながら、ふいに言ったらしい。
「この娘、正室の娘ゆえ、昨年生まれた治部の長男に嫁がせようと思うが、どうじゃ?」
お濃の方は、そこで少しだけ笑って返したという。
「よきお考えですが、早すぎますね」
まことに、その通りである。
だが兄上は、そういう話を思いついたら一度は口にせずにいられない。
後日、その話はそのまま評定の席で俺に下りてきた。
上総介兄上は、いかにも何でもないことのように言った。
「そういえば、お濃との間に珠が生まれた」
「それはまことにめでとうございます」
「うむ。で、昨年生まれたお前の長男に、そのうち嫁がせてもよいかと思うた」
俺は、その場で一瞬だけ固まった。
「……は?」
勘十郎兄上が横で肩を揺らす。
「治部、顔が面白いぞ」
「いや、だって」
「何だ」
「喜んでいいのか、焦っていいのか、そもそもまだ早すぎるだろうとか、色々ごっちゃになるでしょう普通」
上総介兄上は、面白そうに眉を上げた。
「そうか」
「そうですよ」
「まあ、お濃にも“早すぎますね”と返された」
「そりゃそうでしょうよ!」
座に笑いが落ちる。
笑われながらも、俺の胸の内は本当に妙だった。兄上の娘。珠。その将来の縁談として、豊寿丸の名が出る。まだ赤子同然の子らの先まで、もう家として見られているのだと思うと、嬉しいような、気が早すぎて怖いような、やはり色々混ざる。
勘十郎兄上が、少しだけ面白がるのをやめた顔で言った。
「だが、兄上がそう口にするということは、治部家をもう“次の代まで繋がる家”と見ている、ということだ」
「……そうですね」
「焦るのも分かるが、喜んでよい」
「はい」
俺がそう答えると、上総介兄上はすぐ次の話へ移った。
「で、治部」
「何でしょう」
「近江はどうだ」
「どうだ、と申しますと」
「城、酒、城下、倉、人、銭。全部、ようやく“回す”段に入っておるだろう」
そこなのだ。
珠の話で一瞬飛びかけた頭を、俺はどうにか実務へ戻した。
「ええ。そこなんですが」
「何だ」
「領地支配の帳の付け方を、根本から見直したい」
勘十郎兄上が首を傾げる。
「帳の付け方?」
「今のままだと、“入った”“出た”“余った”“足りぬ”が、人の勘と小帳に散りすぎる。領地が太ってくると、もうそれでは見えなくなるんです」
上総介兄上はすぐに返さず、少しだけ目を細めた。
「まずはやってみろ」
「はい」
「いきなり本家へ持ち込むな。お前のところで形にしてから出せ」
「承知しました」
そこから先は、田代城へ戻ってからの話だった。
俺はまず、鶴姫を呼んだ。
広げたのは、近江の荒地図と、今ある帳面、それに新しく切らせた紙束だ。瀬田、大津、城下、酒造方、倉、川筋、船着き、橋詰。頭の中では繋がっていても、紙の上ではまだばらばらだ。これを一つの仕組みに落とさなければ、いずれ必ずどこかで破綻する。
鶴姫は紙の前へ静かに座った。
「治部大輔殿」
「何だ」
「顔が、また厄介なことを思いついた時のそれにございます」
「ひどいな」
「事実かと」
「まあいい。今日は、お前にしか頼めない」
鶴姫は少しだけ真面目な顔になった。
「何をご所望ですか」
「近江を、費目で割る」
鶴姫の目がわずかに動く。
「費目」
「そう。領地ごと、持ち場ごとに、“何に銭が入り、何に出ていくか”を分けて見たい」
俺は紙にまず大きく書いた。
年貢。
城。
酒。
流通。
その下へ、さらに枝を伸ばしていく。
瀬田城普請。
大津支城。
橋と渡し。
船着き。
倉。
酒造方。
人足賃。
木材。
縄。
鉄具。
俸給。
臨時軍役。
街道修繕。
寺社口利き。
津島筋との取引。
鶴姫はしばらく黙ってそれを見ていた。やがて静かに言う。
「今までは、これを頭の中で回しておられたのですか」
「だいたいは」
「無茶です」
「でしょうね」
その返しに、鶴姫は小さく息を吐いた。
「笑えませぬ」
鶴姫はそこで紙を一枚引き寄せた。
「ですが、やるなら理にかなっております」
「だろう?」
「はい。ただし、ただ費目を並べるだけでは駄目です」
「うむ」
「誰が持つか、です」
そこが鶴姫らしい。
「瀬田城普請は左近将監殿。酒造方は半兵衛殿。倉と流通は久助や津島商人へ仮託。領地そのものの年貢と日々の出入りは、十兵衛殿配下の山内殿や堀尾殿のような中堅が持つべきです」
「うむ」
「一つの帳に全部を詰めれば、見えるようになった分、逆に漏れた時の傷も大きい」
「それなんだ」
「ならば、まず“大帳”と“小帳”を分けるべきです」
俺は、そこではっきり頷いた。
「そうだ。まさにそれだ」
大帳。
小帳。
領地全体の見取りと、持ち場ごとの日々の出入り。その二つを分ける。さらに鶴姫は、紙の上で整理を進めていく。
「瀬田城は“建つまでの費え”と“建った後に維持する費え”を分けるべきです」
「なるほど」
「酒造方も、“造るための元手”と“売れて戻る銭”を分ける」
「うむ」
「橋と船着きも、“普請の銭”と“そこを使って得る運上”を分ける」
「いいな」
「良いのではなく、そうせぬと後で見えなくなります」
「分かったよ」
「まだございます」
「何だ」
「“人に払う銭”と“物に払う銭”も分けるべきです」
それも、その通りだった。
人足賃。
武家への知行。
臨時の恩賞。
商いへの支払い。
木材や鉄や縄の仕入れ。
これを一緒くたにしていたら、銭が消えた時に“誰へ流れたか”“何が高いか”がぼやける。
「お前、こういうの本当に上手いな」
「家をやっておりましたので」
それだけ言って、鶴姫は少しだけ目を伏せた。
浅井の姫として見てきたものがあるのだろう。戦だけでなく、家を保つために何が要るか。そこへ目が向くからこそ、こういう整理が効く。
俺はそこで紙を改めた。
「よし。もう一段、形にする」
それからしばらく、ほとんど筆算のような話になった。
瀬田城。
大津支城。
城下町整備。
酒造方。
年貢収納。
津島筋との流通。
軍役と臨時出費。
それぞれについて、
何が入るか
何が出るか
誰が見るか
どこまで大帳へ上げるか
を分けていく。
日が傾く頃には、俺一人の頭の中にあったものが、だいぶ紙へ降りていた。
「まずは」と鶴姫が言う。
「十兵衛殿、半兵衛殿、左近将監殿に見せるべきです」
「そうする」
「十兵衛殿は“領地として持つ”側から、半兵衛殿は“算段と兵站”から、左近将監殿は“軍の持ち場に落ちるか”を見るでしょう」
「うむ」
「そこで揉まれれば、上総介様へ上げても恥はありますまい」
「恥がある前提で言うな」
「治部大輔殿は、妙案ほど最初は穴が多いので」
「ぐうの音も出ない」
その夜、三人を呼んだ。
十兵衛は、最初の二枚を見た段階で黙った。半兵衛は目を細め、左近将監は腕を組んだ。
「……何ですかな、これは」と左近将監。
「領地支配の帳の組み替えだ」
「帳、でございますか」
半兵衛が先に取る。
「入った銭と、出た銭を、持ち場ごとに分けて見せようというのですね」
「そうだ」
十兵衛はまだ紙を見ている。
「しかも、出入りを対にしてある」
「うむ。片方だけ見ると、都合よく見えるからな。入るなら、どこから入ったか。出るなら、何に出たか。それを左右に置いて見たい」
半兵衛が少しだけ息を吐いた。
「これは……たしかに有効です」
左近将監がすぐに問う。
「されど、紙に乗せすぎるのでは?」
「そこだ」と俺は言った。
「便利だが、見えすぎる」
十兵衛がようやく顔を上げた。
「なるほど。領地の形が、逆に紙の上へ露わに出る」
「そういうことだ」
「普請の銭、人足の数、酒造の戻り、橋の運上、軍役の動き。それが帳の中で一目で見える」
「うむ」
「盗まれたら、かなり危うい」
「だから、大帳と小帳を分ける」
鶴姫が、そこで初めて口を挟んだ。
「大帳は、家全体を見るためのもの。小帳は、持ち場ごとの日々のもの。二つを一つにせぬことが肝にございます」
十兵衛が、そこで初めて少しだけ笑った。
「なるほど。最初は鶴姫様と二人で詰められましたか」
「ああ」と俺は言った。
「俺一人では、持ち場の割り方までうまく切れなかった」
半兵衛は、そこには素直に頷いた。
「よい詰め方です。瀬田城を“建つまで”と“建った後”で分けたのも、酒造方を“元手”と“戻り”で分けたのも、実務に落ちます」
左近将監も言う。
「軍の側から見ても悪くない。城の普請と、戦のための銭が混ざると見誤りますからな」
十兵衛が、そこで紙の端を指で押さえた。
「では問題は、どこまでを上へ上げるかですね」
「うむ」
「本家まで上げるのか、治部家の内に留めるのか」
「そこなんだよ」
俺はそこで一つ息を吐いた。
「有効なのは分かる。だが、使う範囲を間違えると危ない。兄上たちに見せる価値はある。でも、そのまま全部を本家で採るべきかは別の話だ」
十兵衛が頷く。
「上総介様は気に入るでしょう」
半兵衛も続く。
「ええ。間違いなく」
左近将監が低く言う。
「そして気に入るからこそ、広げすぎる危険もある」
「そうだ」
俺はそこで決めた。
「まずはこれを兄上へ上げる」
「はい」と十兵衛。
「だが、上総介兄上だけではなく、勘十郎兄上も交えて話す」
半兵衛が目を上げる。
「使う範囲、でございますな」
「うむ。本家全体へ広げるのか、治部家・南近江・瀬田だけで先に使うのか。あるいは軍と内政で帳を分けるのか。そこは兄上たちと詰める」
鶴姫が静かに言った。
「紙は便利です。ですが、便利なものほど、人を怠けさせ、また裏切らせます」
「だからこそ」と俺は言った。
「誰に何を見せるかまで含めて制度にしないといけない」
十兵衛が、その言葉で紙を丁寧に重ねた。
「では、次は稲葉山にございますな」
「そうなる」
珠が生まれた。
源太郎との将来の縁まで、冗談とも本気ともつかぬ形で持ち上がった。
その一方で、近江では城と酒と領地支配が膨らんでいく。
祝い事と制度が、同じ年の中で並んで走っていく。戦国の家というのは、つくづく慌ただしい。
だが、その慌ただしさの中で、今度は銭と領地の流れまで見える形にしようとしている。
重ねた帳面を見ながら、俺は思った。
これはうまく行けば強い。だが、うまく行きすぎると逆に危ない。だからこそ次は、上総介兄上と勘十郎兄上を交えて、どこまで使うかを詰めなければならなかった。