織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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047複式簿記導入

稲葉山城での評定は、珠殿の誕生を祝う空気がまだ少し残っているくせに、机の上へ紙が広がった瞬間、いつもの重たい実務の顔へ戻った。

 

上総介兄上。

勘十郎兄上。

そして、俺。

 

その前に、田代城で詰めた帳の見本を置く。

大帳。

小帳。

入る銭と出る銭を対で見せる形。

城、酒、倉、橋、船着き、年貢、軍役、流通。

近江を回すうえで、どこへ何が入り、どこから何が漏れているかを、勘ではなく紙の上で掴むための仕組みだ。

 

上総介兄上は、最初の数枚を見た時点で、もう顔つきが変わった。

 

「……見えるな」

「はい」

「見えすぎるくらいに見える」

 

俺は頷いた。

 

「そこが利であり、怖さでもあります」

 

勘十郎兄上が、紙の端を指で押さえながら言う。

 

「たしかに便利だ。年貢がどこから入り、どこへ流れ、どの普請で食われ、酒造方がどこまで戻しているか、ひと目で追える」

「はい」

「だが、逆に言えば」

 

「領地の腹の中まで紙に乗る」と上総介兄上が引き取った。

「まさに」

 

少し黙りが落ちる。

 

そこが問題なのだ。

この帳の有効性は、もう疑いようがない。

だが有効すぎる。

有効すぎるものは、盗まれた時の傷もまた深い。

 

勘十郎兄上が、そこで静かに言った。

 

「兄上、これは採るべきです」

 

上総介兄上は、すぐには返さなかった。

紙をめくる。

めくるごとに、銭と物と人の流れが、妙に生々しく見えてくる。

 

「採る」と兄上はやがて言った。

 

俺は、そこで少しだけ息を吐いた。

 

「やはり」

「当然だ。ここまで見えるなら使わぬ方が馬鹿だ」

 

勘十郎兄上も頷く。

 

「ただし、そのまま全部を広げるのは危うい」

 

「ええ」と俺。

「だから、どこまで使うかを詰めに来ました」

 

上総介兄上が、そこで初めてはっきり笑った。

 

「よい。そこまで考えて持ってきたなら、ただの帳好きではない」

「帳好きではありますけどね」

「余計だ」

 

座が少しだけ緩む。

だが、話はここからだ。

 

俺はまず整理して言った。

 

「一つ。大帳と小帳は分ける」

「うむ」

「大帳は、家全体を見るためのもの。持つ者は限る」

「誰までだ」

「本家なら兄上、勘十郎兄上、それに任せる奉行衆の中枢まで」

 

勘十郎兄上が問う。

 

「小帳は」

「持ち場ごとです。酒造方、普請方、倉方、流通方、年貢収納。見るべき者だけが持つ。ただし、小帳同士を勝手に繋げさせない」

 

上総介兄上が目を細める。

 

「つまり、全体像は中央だけが見る」

「そうです。持ち場の者には、自分の持ち場の出入りだけをきちんと見せる。その代わり、全部を横に並べられるのは限られた者だけ」

「盗まれた時の傷を減らすためか」

「それもあります。あと、見えすぎると、人は余計な勘ぐりを始めます」

 

勘十郎兄上が頷いた。

 

「年貢を握る者が、軍費まで見れば口を出したくなる。普請方が酒造の戻りまで見れば、こちらへ寄越せと言い始める」

「そういうことです」

 

「分かりやすいな」と上総介兄上。

 

「ええ。便利なものほど、人を怠けさせ、また欲を出させます」

「それをお前が言うか」

「言いますよ。俺だって便利なら見たいですから」

 

兄上は鼻で笑ったが、否定はしなかった。

 

そこで勘十郎兄上が、別の角度から問う。

 

「どの範囲から始める」

 

ここが肝だった。

 

「いきなり尾張・美濃・近江を全部乗せるのは危険です」

 

「同感だ」と勘十郎兄上。

「まずは?」

 

「やはり近江です」

俺は即答した。

「瀬田、大津、酒造方、倉、橋、船着き。今いちばん新しく、費目が増えていて、しかも俺の手元で整理できる場所から始めたい」

 

上総介兄上が頷く。

 

「よい。まず南近江で試す」

「はい」

「尾張は」

「急ぎません。尾張は古くからの流れがある分、逆に人の慣れが強い。いきなり帳の理屈で切ると揉めます」

 

勘十郎兄上が、そこは本当に納得した顔をした。

 

「それはそうだな。尾張は銭の流れも人の流れも、すでに古い縄で結ばれている。便利だからといって、いきなり新しい縄へ替えると反発が出る」

 

「美濃も同じです」と俺。

「むしろ新領地の近江で先に形を作り、その有効性を見せてから、尾張と美濃へ少しずつ広げた方がいい」

 

上総介兄上が、そこで指を机へ軽く打った。

 

「よし。採る」

それが、最終決定だった。

「ただし、本家全体への一斉導入ではない」

 

「はい」

「まず南近江守護として領内で試す。治部のところで形にする。そのうえで、美濃、尾張へ必要なところだけ切り出す」

「承知しました」

 

勘十郎兄上が、そこで一つ加えた。

 

「軍と内政も分けた方がよい」

「と言うと」

「軍用の帳と、領地経営の帳を、完全に同じ箱へ入れるなということだ」

 

俺は少し考え、それから頷いた。

 

「たしかに」

「軍は軍で、急な動きがある。そこを全部、普段の内政帳へ混ぜると、かえって濁る」

 

上総介兄上も言う。

 

「しかも軍の帳は、敵に見られた時の痛手がまた別だ」

「ええ」

「なら、普段の年貢・酒・倉・普請・流通は一つの筋で整理する。軍役と臨時動員、兵糧、武具、臨戦の出費は別筋」

「それがよろしいかと」

 

これで、だいぶ骨が見えてきた。

 

* まず南近江で試す

* 大帳と小帳を分ける

* 全体像は中央だけが見る

* 軍と内政の帳は分ける

* 尾張・美濃への導入は段階的

 

上総介兄上が、そこで最後の問題へ触れた。

 

「では、誰にやらせる」

 

そこは、すでに腹が決まっていた。

 

「村井吉兵衛(貞勝)殿がよろしいかと」

 

兄上が、そこで少しだけ顎を引いた。

 

「吉兵衛か」

「はい。銭と文書と出入りを扱い慣れておられる。しかも、ただ帳が読めるだけでなく、“誰にどこまで見せるか”の勘もある」

 

勘十郎兄上も、すぐに頷いた。

 

「たしかに。あの者なら、制度として持たせられる」

 

上総介兄上が、そこでようやく決めた。

 

「よい。村井吉兵衛に任せる」

「は」

「治部、お前は最初の形を持って詰めろ」

「はい」

「勘十郎」

「は」

「尾張へどう薄く広げるか、お前も見ろ」

「承知しました」

「村井には、まず“帳を作ること”ではなく、“どの帳を誰に持たせるか”から詰めさせる」

 

そこまで言ってから、兄上は紙をもう一度見た。

 

「便利だ」

「ええ」

「便利すぎる」

「そこが怖いんです」

 

兄上は、そこで本当に面白そうに笑った。

 

「だからよい」

「兄上はそう言うと思いましたよ」

「使えるものは使う。だが、刃でもある。なら、握り方だけは間違えるな」

 

その言い方で、評定は締まった。

 

村井吉兵衛が采配を執る。

まず南近江で形を作る。

そのうえで、尾張と美濃へは必要な範囲だけを切り出していく。

 

帳が見えるようになる。

だが、見えすぎるものは、逆に危うい。

その危うさごと制度にするところまで含めて、ようやくこの仕組みは本当の意味で使えるものになる。

 

俺は、重ねた紙束を見ながら思った。

 

上総介兄上と濃姫の間に珠姫が生まれ、源太郎との将来が冗談とも本気ともつかぬ形で口にされる。

家の先が見え始めるのと同じ年に、領地の腹の中まで紙に乗るようになる。

 

戦国の家というのは、めでたい話と厄介な制度が、どうしてこうも同じ時に来るのか。

 

だが、どちらも“家が続く”ためには必要なのだろう。

 

それなら、やるしかなかった。

 

 

御所での対面は、静かで、それでいて一つ間違えばすぐにでも火がつきそうな緊張を孕んでいた。

 

大樹が上座にあり、

その前に織田上総介信長、勘十郎信勝、治部大輔信繁、そしてこのたび新たに京を預かる者として呼ばれた本家の叔父、孫三郎信光がいた。

 

大樹は、孫三郎をしばらく黙って見ていた。

 

「面を上げよ」

「は」

 

孫三郎叔父上が顔を上げる。

武辺の気配はある。かつて小豆坂七本槍の一人に列し、織田家随一といってよい武辺だったが、上総介兄上への忠誠も高く、謀も良くする方だ。むしろただ荒いだけの男ではない。京のような、剣より先に人と理と面子が絡む土地では、むしろこういう方が使いやすい。

 

大樹が、静かに言った。

 

「上総介」

「は」

「此度、そなたが兵を率いて京へ入る大義、余は二つ与える」

 

上総介兄上は、まっすぐに将軍を見た。

 

「承ります」

「一つ。将軍家の保護」

「は」

「一つ。京中の静謐」

 

座が少しだけ締まる。

 

それは単に「入ってよい」という許しではない。

将軍家の名で、織田へ京の秩序維持を委ねる、かなり重い言葉だった。

 

大樹公は続けた。

 

「三好三人衆の動き、畿内の乱れ、公家衆の困窮、寺社の横暴、盗賊の横行。いずれも、放ってはおけぬ」

 

「承知しております」と上総介兄上。

「そこで」

 

大樹公は、今度は孫三郎へ目を向けた。

 

「この者か」

 

上総介兄上が答える。

 

「はい。叔父にございます。孫三郎信光と申します」

 

孫三郎は、そこで深く頭を下げた。

 

「お目通り、忝のうございます」

 

大樹公は頷いた。

 

「以後、この者が京を守護しまする、と申すか」

 

「そのつもりにございます」と上総介兄上。

 

勘十郎兄上が、そこで静かに補った。

 

「ただし、京そのものに全てを押し込めるのではなく、瀬田・大津口からの後詰と兵站は治部大輔に担わせます」

 

大樹公の目が、そこで俺へ向く。

 

「治部大輔」

「は」

「そなたは南近江守護として、京東口を握る」

「御意にございます」

「孫三郎が京市中と御所近辺を受け持ち、そなたが瀬田より後詰を組む。そういう役割に見えるが」

 

「その通りにございます」と俺は頭を下げた。

 

大樹公は、そこで少しだけ笑った。

 

「ようできておる」

 

上総介兄上は、その言葉に軽く頭を下げた。

 

「京は、人を一人置いたくらいで治まる土地ではございませぬ」

「分かっておる」

「ですので、孫三郎叔父を表へ立て、治部にその背を固めさせます」

「勘十郎は」

 

「尾張と本家の差配を軸に、必要に応じて京への兵と銭を回します」と勘十郎兄上。

 

大樹公は、それで十分だと頷いた。

 

「よい。では京中には、孫三郎を織田の守り手として立てる」

 

そこまで決まると、話は次へ移った。

 

今度は朝廷工作である。

 

山科言継ら公家衆との筋を繋ぐこと。

御所の修復。

将軍家の面目の回復。

そして何より、将軍家と朝廷の権威を、織田が“支える側”であると見せること。

 

俺は大樹公を見て口を開いた。

 

「恐れながら」

 

「申せ」と大樹公。

 

「京を守ると申しても、兵を置くだけでは外聞が立ちませぬ」

「うむ」

「御所を含めた朝廷の建物も、修理と再建が必要にございます」

 

上総介兄上が、その言葉を自然に引き取る。

 

「銭なら出せます」

 

あまりにもあっさりした言い方だった。

だが、だからこそ強い。

 

公家衆が困窮している時代に、金持ち織田家が、御所や朝廷建物の復旧を引き受ける。

それだけで、もう政治だ。

 

大樹公は、面白そうに目を細めた。

 

「上総介、そなたは本当にそこへ銭を出すのか」

「出すに足る価値があります」

「どういう価値だ」

「京が荒れておれば、将軍家も朝廷も荒れる。将軍家も朝廷も荒れておれば、日の本の名分が痩せる。名分が痩せれば、こちらがいくら兵を持っても、結局は賊と変わらぬ」

 

その答えに、大樹公ははっきりと笑った。

 

「よい」

 

俺は、そこでさらに一歩進めた。

 

「加えて、将軍の御座所も、今のままでは心許のうございます」

 

大樹公が眉を上げる。

 

「新たに作るか」

「はい」

「どこへ」

「淀川べりがよろしいかと」

 

その場の空気が、また一段変わった。

 

淀川。

京と畿内と大坂湾を繋ぐ、大動脈だ。

そこへ将軍御座所を兼ねた城を築く。

それはただの館ではない。

将軍家の面目を立てながら、同時に畿内への軍事拠点も押さえるということになる。

 

勘十郎兄上がすぐに言う。

 

「御座所の名で築けば、公にも通しやすい」

 

俺も頷いた。

 

「はい。御所警固、将軍家保護、京中静謐、その全ての受け皿になります」

 

上総介兄上が、そこで短く問う。

 

「誰にやらせる」

 

そこはもう決まっていた。

 

「丹羽五郎左がよろしいかと」

 

上総介兄上は、少しも迷わなかった。

 

「うむ」

 

「あの方なら、城も町も人も扱えます」と俺。

「しかも、武張りすぎず、御座所としての体裁も崩しませぬ」

 

大樹公は、しばらく黙っていたが、やがて言った。

 

「よい。将軍家御座所として、淀川べりに城を築け」

 

上総介兄上と勘十郎兄上が同時に頭を下げる。

 

「は」

 

こうして、京の支配体制の骨が置かれた。

 

孫三郎叔父が京市中と御所近辺を守る。

俺が瀬田から京東口と後詰を預かる。

上総介兄上が金を出し、朝廷建物の復旧と将軍家御座所の新造を引き受ける。

丹羽五郎左がその普請を指揮する。

 

その後、田代城では、いよいよ本格的な移転準備が始まった。

 

田代城から瀬田城へ。

一気にではない。

まずは帳面。

倉。

酒造方。

普請奉行筋。

流通に関わる人員。

その順で少しずつ動かす。

 

お市が、荷の出入りを見ながら感慨深げに言った。

 

「本当に引っ越すのですね」

 

「引っ越すよ」と俺。なんだかんだ、この城にも愛着が湧いているのはわかる。

「田代を捨てるわけではないが、これからは瀬田の方が重くなる」

 

真理は双子を抱きながら、静かに頷いた。

 

「京が近くなりますね」

「近くなるし、面倒も増える」

 

雪姫は少し緊張した顔をしていた。

 

「将軍様のための城まで築かれるのですものね」

 

鶴姫は、地図を見ながら言った。

 

「田代城時代より、家の役割そのものが変わります」

 

「だな」

俺は、荷札の束を見ながら答えた。

「ここまでは“動ける家”だった。これからは“支える家”になる」

 

その言葉は、少しだけ重かった。

 

戦で勝つ。

城を築く。

酒を造る。

それだけではない。

 

将軍を支え、朝廷へ銭を回し、京の秩序を守る。

そういう家へ、治部家そのものが作り替わろうとしていた。

 

だからこそ、田代城から瀬田城への移転は、ただの引っ越しではなかった。

 

家の荷を動かすのではない。

家の役割そのものを、京口へ寄せていく作業だった。

 

織田はもう“尾張美濃の新興大名”ではない。

将軍家と朝廷の両輪を支える者として、天下の盤へ足をかけたと見なされる。

 

そしてその足場を、瀬田から固めるのが俺の役だった。

 

引っ越しの最中、俺はふと空を見上げた。

 

やることが多い。

相変わらず多い。

だが、今度の多さは、ただ忙しいのとは少し違う。

 

上総介兄上が京へ入る。

孫三郎信光殿が京を守る。

五郎左が御所の修繕と造営、淀川べりに城を築く。

治部家は瀬田へ移る。

朝廷工作が始まり、公家衆との付き合いも深まる。

 

全部が、次の段へ進んでいる。

 

「……いよいよ、だな」

 

そう呟いた時、後ろで十兵衛が静かに言った。

 

「はい。ようやく、畿内へ足がかかりました」

 

振り返ると、十兵衛もまた、荷と帳面と地図を見ていた。

 

「ここから先は、今までよりもっと面倒になりますよ」

「だろうな」

「ですが」

「何だ」

「治部家が田代城のままでいられぬということは、それだけ家が大きくなったということでもございます」

 

それは慰めではない。

事実だ。

 

俺は、ゆっくりと頷いた。

 

「なら、その大きさに見合うよう、こっちも変わらないとな」

 

田代城から瀬田城へ。

戦うためだけの家から、天下の秩序を支える家へ。

 

その移り目が、1563年の京と近江には、はっきりと刻まれ始めていた。

 

 

瀬田城に、また新しい泣き声が増えた。

 

最初は、お市の子だった。

 

女児。

小さく、しかしよく通る声で泣くその子を抱いたお市は、さすがに少し疲れてはいたが、それでも顔つきにははっきりとした満足があった。

 

「千代、と」

 

俺がそう言うと、お市は静かに頷いた。

 

「はい。よい名にございますね」

「お前の子だからな。強く、長く、しぶとく生きる名がよいと思った」

「最後の一言は余計です」

「褒めてるんだよ」

 

お市は、苦笑しながらも娘を見下ろした。茶々にしようかと思ったが、年も違うし、もうこの際だと思って別の名にした。

その横で、豊寿丸はまだ何も分かっていない顔で乳母に抱かれている。兄になった、というより、ただ周りがまた騒がしくなったと思っているだけだろう。

 

だが、城の空気はもう完全に変わっていた。

治部家にまた一人、子が増えた。しかも今度は、お市の娘である。

 

そして、それで終わらなかった。

 

ほどなくして、今度は雪姫が産気づいた。

 

さすがにそこまで重なると、家中の足音まで変わる。兵も侍女も、廊を走るなと言わずとも走らなくなる。十兵衛は無言で段取りを詰め、半兵衛は必要な物を一つずつ先回りし、左近将監すら普段より声が低かった。

 

で、俺だけが落ち着かない。

 

「治部様」

十兵衛が呆れたように言う。

「今度はお市様の時と同じ速さで廊を往復しておられます」

 

「同じ速さって何だ」

「歩幅まで同じです」

「そんなことまで見てるのか」

「見えてしまうのです」

 

典厩様が、横で鼻を鳴らした。

 

「うろつくな。目障りじゃ」

「典厩様も前にそう言って、真理の時はご自分がうろついてたでしょうが」

「……聞こえておるぞ」

「ええ、聞かせてます」

 

そうやって言い返してはいたが、結局、雪姫の産所から産声が上がった瞬間には、俺も典厩様も同じような顔をしていたのだと思う。

 

今度は男児だった。

 

その報せが出た瞬間、城中が一気に沸いた。

そして、その沸き方が少し妙だった。

 

「若君にございます!」

 

そう侍女が告げた時、俺より先に声を上げた者がいる。

 

「何!」

 

その声とともに、ほとんど同時に瀬田城へ駆け込んできたのが、具教卿だった。

 

「早いですな!」

 

思わずそう言うと、具教卿は本気で息を切らしながらも、こちらを見て言った。

 

「初孫を得るやもしれぬと聞いて、じっとしておれるか!」

「予感だけで来たのですか」

「予感ではない。確信である」

「どこからその確信が」

「知らぬ!」

 

その勢いのまま奥へ入ろうとするので、さすがに侍女たちが慌てて止めた。具教卿は止められてもなお、じりじりと前へ出ようとする。公卿のする動きではない。

 

「落ち着いてくださいって!」

「落ち着いておれるか! 顕家公の血を継ぐ男子ぞ! 我が家もこれで安泰じゃ!」

 

いや、まだそこまで確定しているわけではない。

いないのだが、この人の中ではもう話が完成しているらしい。

 

しばらくして、ようやく雪姫も子も落ち着き、具教卿にも対面が許された。

その時の顔は、もう本当にどうしようもなく嬉しそうだった。

 

「……よい顔だ」

 

そう呟く声が、妙にやわらかい。

 

雪姫は疲れを残しながらも、少し照れたように笑っていた。

俺は、その子を見ながら、ゆっくりと言った。

 

「名は、彦三郎にしたいと思います」

 

具教卿の目が、はっきりと光った。

 

「彦三郎」

「はい。顕家公の幼名とも伝わります」

 

「うむ……うむ!」

具教卿は本当に嬉しそうに、何度も頷いた。

「よい! まことによい!」

 

「許しを頂けますか」

「もちろんである。むしろ、余が願うところよ」

 

そして、そこでさらに前のめりになった。

 

「元服の際は、是非とも顕具の名を与えたい」

「早いな」

「早くはない! 今から決めておくのがよい!」

 

雪姫がそのやり取りを聞いて、さすがに吹き出しそうになっていた。

具教卿は本気である。

本気で、もう先の元服まで見ている。

 

俺は、そこで苦笑しながら頭を下げた。

 

「では、その時はよろしくお願い致します」

「任せよ!」

 

その声がやたら大きかったので、彦三郎がびくっとして泣き出した。

具教卿は本気で慌てた。

 

「お、おお、すまぬ、すまぬ!」

「まず声を落としてくださいよ」

「うるさい、今それどころではない!」

 

それどころでなくしたのは自分である。

 

この流れで、具教卿はほとんど自然に瀬田城常駐のような顔になった。

いや、本人は常駐とは言っていない。だが、来る頻度と滞在時間が、もうそれである。

 

そこへ俺は具教卿に頼んでさらに一手打った。

 

「日置大膳亮」

「はっ」

「彦三郎の傅役を頼みたい」

 

大膳亮が、ほんの少し目を見開いた。

だがすぐに姿勢を正す。

 

「それは、身に余るお役目にございます」

 

「余るどころか、貴殿より向く者がおらん」

具教卿も、そこで満足そうに頷いた。

「うむ。よい。日置ならば、武も礼も仕込めよう」

 

こうして、日置大膳亮は彦三郎の傅役として、瀬田城へ常駐することになった。

 

だが、まだ終わらない。

 

ほどなく、今度は鶴姫が男児を産んだ。

 

万福丸。

 

鶴姫らしく、派手ではないが、どこか福を静かに抱え込むような名だった。

この頃にはもう、俺も「今度は誰が一番早く駆けつけるか」みたいなことまで考えるようになっていたので、自分でもだいぶ慣れてきた気がする。

 

そして、北近江側からも動きがあった。

 

お犬殿はすでに長男猿夜叉君を産んでいる。

そこへ雪姫の彦三郎、鶴姫の万福丸と続いたのだから、下野守(久政)殿がにっこりしないわけがない。

 

その下野守殿を先頭に、備前守殿、お犬殿、そして猿夜叉君まで連れ立って瀬田城へやって来た時には、もう完全に「子を見に来た親族の群れ」だった。

 

下野守殿は、最初こそいつものように少し重々しい顔をしていたが、猿夜叉を抱いたお犬殿と、寝かされた彦三郎、万福丸を見た瞬間、全部崩れた。

 

「……よい」

 

それだけ言って、ひたすら頷く。

 

備前守殿も、甥っ子の誕生でさすがに隠しきれぬ笑みがあった。

鶴姫は、実の兄が万福丸を見下ろす顔を見て、少しだけ安心したようだった。

 

お犬殿が笑って言う。

 

「義父上、猿夜叉もおりますよ」

「分かっておる」

「分かっておる顔ではありませんね」

「うるさい」

 

その横で、猿夜叉本人はまだ何が何だか分からず、彦三郎の寝顔を覗き込んでいた。

そのうち、この子らが一緒に城を走り回るのかと思うと、少し気が遠くなる。

 

さらに、疋田豊五郎までおかしくなった。

もともと何となく滞在を延ばしていたのだが、子らが増えるごとに帰る理由を失っていったらしい。

 

「……かわいいな」

 

と、しみじみ言った顔が、もう剣豪のそれではない。

 

「豊五郎殿」と俺が言うと、疋田豊五郎は真面目な顔に戻った。戻ったつもりらしい。だが戻りきっていない。

 

「何だ、治部殿」

「帰る気あります?」

「薄れてきた」

「でしょうね」

「この子たちに剣を教えたい」

「早いな」

「早くはない。幼き頃より、身の置き方と目の運びを教えるのは大事だ」

 

そこへ、具教卿まで乗ってくる。

 

「うむ、よい!」

「具教卿まで言いますか」

「顕家公の幼名を継ぐ子ぞ!」

「だからまだ生まれたばかりだって」

 

典厩様が、そこで小さく鼻を鳴らした。

 

「おぬしの周りだけ、何でも早いな」

「俺のせいじゃないでしょう」

「半分はそなたのせいよ」

「半分もですか」

 

疋田豊五郎は、そこでさらに本気の顔になった。

 

「治部殿」

「何です」

「この子たちが少し大きくなったら、まず立ち方から教えたい」

「じゃあ、ついでに将軍にもお目通りしてもらうから」

 

俺がそう言うと、豊五郎は少しだけ驚いた顔をした。

 

「将軍に」

「そりゃそうでしょう。彦三郎は具教卿もおられるし、瀬田城自体がもう京口の要です。いずれ御所や将軍家とも繋がる」

「……たしかにな」

「だったら、豊五郎殿にもその流れに乗ってもらう。剣を教えるだけでなく、治部家の子らがどういう場へ出るか、その目で見てもらう」

 

豊五郎は、しばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。

 

「よかろう」

「では、滞在は延長で」

「延長だ」

 

それを聞いて、慶次郎がすぐに笑う。

 

「先生、もう帰る気ないでしょう」

「黙れ。お前はまず己の槍を磨け」

「はいはい」

「“はい”が軽い」

 

そのやり取りの横で、彦三郎がまた泣き、美耶姫がつられ、千代も起き、万福丸までむずかり始めた。

もう城のどこへ行っても、子の声がある。

 

瀬田城は、築いたばかりの軍事と政の城だったはずだ。

だがいつの間にか、子らの泣き声と、名前の話と、誰が誰の傅役か、誰に剣を習わせるか、そんな話で満ちるようになっていた。

 

俺は、それを聞きながら思った。

 

面倒だ。

本当に面倒だ。

だが、たぶんこういう面倒くささこそが、家が“続く”ということなのだろう。

 

戦で勝つだけなら、一代でいい。

だが、子の名を付け、傅役を置き、祖父だ叔父だと駆けつけてくる。そういう騒がしさは、次を前提にした家にしかない。

 

瀬田城は、ただ京口を押さえるための城ではなくなっていた。

いつの間にか、子らが育ち、家中が増え、次の代へ渡していくための城になり始めていた。

 

 

瀬田城の一室に、典厩様と半兵衛、十兵衛を呼んだのは、夕方も少し回った頃だった。

 

三人とも、最初は次の京筋か、あるいは朝倉か三好筋の話だと思っていたらしい。だが、俺が最初の一言でまるで別の方向を口にしたので、揃って少しだけ顔が変わった。

 

「牧場をつくりたい」

 

しん、と一瞬だけ場が静まる。

 

典厩様が、最初に目を細めた。

 

「騎馬の充実と育成か?」

 

「はい」

俺は頷いた。

「典厩様の伝手で、木曾駒の良い血筋のものを得たいと考えております。さらに、越後の弾正少弼殿経由で奥州の大型馬も仕入れたい」

 

半兵衛が、そこで静かに言葉を継いだ。

 

「それを掛け合わせる、と」

「そう」

 

十兵衛が、少しだけ眉を寄せた。

 

「ただ馬を集めるのではなく、治部家筋で改良したいと」

 

「ああ」

俺は机の上に置いていた紙を引き寄せた。そこには大まかな地図と、いくつかの走り書きがある。

「木曾の馬は、足腰が強く、山と悪路に強い。奥州の大型馬は、体格と牽引力に優れる。だったら、最初から“どちらを採るか”ではなく、“どう混ぜるか”を考えた方がいい」

 

典厩様が、そこで本当に少しだけ笑った。

 

「そこへ行くか、そなたは」

「行きますよ。今の騎馬は、領地ごと家ごとに寄せ集める色が強い。だが、治部家がこれから先も京口、近江、尾張美濃をまたいで兵を動かすなら、馬も家で持った方がいい」

「うむ」

「しかも、ただの騎馬では足りませぬな」

 

半兵衛が言った。

 

「うん」

俺は頷く。

「いずれ、大規模な火力を持った機動が欲しい。将来的には、鉄砲と騎馬の連携まで見たい」

 

十兵衛が、そこで一度腕を組んだ。

 

「なるほど。そうなると、まずは生産と育成の場が要る」

「そこだ」

 

半兵衛が、すでに紙の上へ目を落としている。

 

「問題は、どこに開設するかですが」

 

俺は、すぐに答えた。

 

「最初の生産と育成は、信楽あたりはどうかと考えている」

 

十兵衛が、そこで紙の地図を見直した。

 

「信楽」

「うん。まず場所的に秘匿がしやすい。そしてあの土地なら、谷もあるし、緩い傾斜もある。平地ばかりで育てるより、足腰の締まった馬が育ちそうだ」

 

典厩様が、深く頷いた。

 

「うむ、それは良い」

その声には、かなり実感があった。

「木曾の馬も、甘い土地でぬくぬく育つわけではない。起伏のある地で育つからこそ、踏ん張りが違う。信楽なら、たしかに最初の育成には向く」

 

俺は続けた。

 

「しかも近江の手のうちにある。瀬田城からも目が届く。いきなり大規模にやれば人目を引くが、最初は小さく始めて、育てて、試して、血を残せばいい」

 

半兵衛が、少しだけ感心したように言った。

 

「珍しく、最初から大きくは行かぬのですね」

「珍しくって何だ」

「治部様は、時折いきなり大城郭やら酒造方やらを立ち上げるので」

「馬は生き物だから、そうもいかない」

「そこはちゃんと分かっておられると」

 

「当たり前だ」

十兵衛が、紙の先を指で押さえた。

「では、信楽で“種”を作る。で、その先は」

 

俺は地図の北西から東へ、そして尾張美濃筋へと指を滑らせた。

 

「規模が増えてくれば、田代城から笠松、各務原あたりで増産したい」

 

典厩様が、そこでわずかに目を上げた。

 

「各務原か」

「ええ。あのあたりなら広い。川筋も近いし、馬をまとめて動かしやすい。数を抱えるなら、最終的にはあちらの方が向くと思っております」

 

半兵衛が、静かに補足する。

 

「つまり、信楽が育成と改良の場。笠松・各務原が増産と選別の場」

「そういうことだ」

「役目を分けるわけですね」

「同じ場所で全部やろうとすると、いずれ濁る」

 

十兵衛が、そこでほんの少しだけ笑った。

 

「帳も馬も、分けるのがお好きですな」

「分けないと見えなくなるからな」

「たしかに」

 

典厩様が、さらに地図の近江側へ視線を落とした。

 

「で、膳所か」

「はい」

「それは集団行動や鉄砲に慣れるための訓練場だな」

 

「そうです」

俺は、そこだけは少し強く言った。

「膳所あたりなら、大規模な行軍の訓練ができる。平地もあり、水もあり、瀬田・大津・京口とも近い。将来的には、そこで騎馬隊をまとまった形で動かし、鉄砲と合わせる訓練まで見たい」

 

半兵衛が、そこで少しだけ黙った。

 

「……鉄砲騎馬、ですか」

「いきなりは無理だろうけどね」

 

「無理でしょうな」

十兵衛が言った。

「ですが、治部様が“将来的に”と仰る時は、大抵いつか本当にやらかします」

 

「やらかすって言うな」

「これまで何度もやらかしておりますので」

 

典厩様が、そこで低く笑った。

 

「よいではないか。夢を見るだけなら銭は減らぬ」

 

「銭は減りますよ」

半兵衛が即座に返す。

「牧場、馬、飼葉、厩舎、馬丁、選別、伝手、輸送、どれも銭食いです」

 

「そこなんだよなぁ」

 

俺はそこで少し天井を仰いだ。

 

「だから最初から“軍馬の名産地を作る”みたいな大言壮語はしない。まずは信楽で小さく始める。木曾と奥州の良いものを少しずつ集める。生まれた仔の足を見て、胸を見て、気性を見る」

 

典厩様が、静かに頷く。

 

「それでよい。馬は、人の思う通りには育たぬ。だからこそ、少しずつ試すしかない」

 

「それに」

俺は、紙の端へもう一つ名を書いた。

「小田井で育てた馬も、ここへ入れたい」

 

十兵衛が目を落とす。

 

「墨磨、ですか」

「そうだ」

 

その名を口にすると、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

墨磨。

 

俺の初めての愛馬。

皇甫爺と一緒に、飼葉を見て、腹を見て、脚を見て、落ちて、戻って、乗り直してきた馬。

馬具に頼りすぎぬ稽古も、騎射の土台も、あの馬の背で覚えた。

 

「墨磨は、ただ俺が気に入っているだけの馬じゃない。小田井でやってきた飼葉、仔馬期の扱い、坂道、耳と目の慣らし、その全部が入っている」

 

半兵衛が、静かに頷く。

 

「つまり、治部家式の第一世代」

「そういうことだ」

「種馬の一頭にする、と」

「ああ。ただし、墨磨だけで広げる気はない。あいつの良さは、戻りの早さと、人の重心を読むところにある。体格だけならもっと大きい馬もいる。だから、木曾の足腰、奥州の馬体、墨磨の気性と扱いやすさを、どう組み合わせるかを見る」

 

典厩様が、少し面白そうに目を細めた。

 

「愛馬を種に回すか」

「ずっと俺だけで抱えていても仕方ないですから」

「寂しくはないのか」

 

「ありますよ」

俺は正直に答えた。

「でも、墨磨の血が残るなら、それはそれで悪くない」

 

十兵衛が、少しだけ表情を緩めた。

 

「治部様らしいですな」

「何が」

「愛着を残しながら、結局は家の仕組みへ落とすところが」

「褒めてるのか?」

「半分は」

「もう半分は」

「厄介という意味です」

 

またそれか。

 

典厩様が笑った。

 

「墨磨は皇甫が見ておるのか」

 

「はい。そこも大きいです」

俺は、そこから本題のもう一つへ移った。

「皇甫爺を、瀬田へ動かせるようになりました」

 

三人の目が、少しだけ変わる。

 

半兵衛が先に問う。

 

「小田井は大丈夫なのですか」

「そこだ。皇甫爺が、小田井で後継者を育ててくれた」

 

十兵衛が、わずかに眉を上げる。

 

「馬を見る者を、ですか」

「ああ。完全に皇甫爺の代わりになるわけじゃない。だが、耳、目、足、腹を見ること。飼葉を急に変えないこと。糞を見ること。鼻上の布や耳覆いを馬ごとに使い分けること。乗り手の癖を見ること。そのあたりを任せられる者が、数人育ってきた。本家にも数名だせる規模だ」

 

半兵衛が、紙の別の余白へ何かを書き込んだ。

 

「それは大きいですね」

「うん。小田井を空にするわけじゃない。後継者を置いて、皇甫爺は瀬田と信楽を見に来られる。必要なら小田井へ戻る。そういう形にしたい」

 

典厩様が深く頷いた。

 

「馬は、目利きが変わると一気に崩れる。皇甫が動けるなら、信楽の立ち上げはかなり違う」

「はい」

 

十兵衛が、現実の形へ落とす。

 

「つまり、信楽牧場の初期監督は皇甫爺。小田井には皇甫爺の後継者を残す。墨磨は種馬の一頭として信楽へ出す。ただし、必要時には治部様の騎乗馬としても残す」

「そうしたい」

「墨磨を完全に牧へ入れてしまうのではなく、種と象徴を兼ねる」

「象徴?」

 

俺が聞き返すと、十兵衛は静かに答えた。

 

「治部様が小田井で始めた馬改良。その最初の成果が墨磨です。その馬が瀬田へ入り、信楽で血を残す。これは、ただの種馬以上の意味を持ちます」

 

半兵衛も頷いた。

 

「牧場の者にとっても、分かりやすい旗になりますな。治部様の馬を増やすのではなく、治部家式の馬を作る。その出発点として墨磨がいる」

「なるほど」

 

そう言われると、たしかに重い。

 

墨磨は、俺の愛馬であると同時に、小田井での試行錯誤の証でもある。

なら、それを信楽へ持っていく意味はある。

 

典厩様が、地図を見ながら言った。

 

「皇甫は、信楽をどう見るかな」

「たぶん、最初に土と水と坂を見るでしょうね」

「馬より先にか」

 

「皇甫爺なら、そうします」

俺は少し笑った。

「どこで水を飲ませるか。どこで脚を痛めるか。どの坂なら仔馬に良くて、どの坂は危ないか。柵の高さ、寝藁の乾き、風の抜け方。そういうところから入るはずです」

 

半兵衛が、すぐに書き足す。

 

「用地選定には、皇甫殿を必ず同行」

「そうしてくれ」

 

十兵衛が言う。

 

「皇甫殿の後継者の名も、帳へ入れます。小田井側の馬方として扱い、瀬田・信楽との連絡役も置くべきです」

「それも頼む」

「小田井、信楽、笠松、各務原、膳所。これだけ散るなら、馬方の帳と人の系統を最初から分けねばなりませぬ」

「うん」

「馬だけでなく、人の血統も見えなくなります」

「言い方」

「事実です」

 

半兵衛が、ここで現実へ戻す。

 

「ところで、墨磨を種馬にするなら、牝馬の選別が要ります」

「そこも典厩様と皇甫爺に見てもらいたい」

 

典厩様が頷く。

 

「木曾からは、足腰の良い牝を選ぶ。大きさばかりで選ぶな。山で踏み外さぬ馬がよい」

「はい」

「奥州の馬は、弾正少弼経由で大型を求めるとしても、気性を見よ。大きくとも荒すぎれば使いにくい」

「そこは皇甫爺が嫌がるでしょうね」

 

「ならよい」

典厩様は、そこで少し笑った。

「皇甫が嫌がる馬は、たぶん本当に嫌がった方がよい」

 

それには全員が納得した。

 

十兵衛が、そこで問うた。

 

「木曾筋の伝手は、典厩様でよろしいとして、奥州の大型馬を弾正少弼殿に頼むのは」

 

「通ると思う」

俺は答えた。

「酒があるので」

 

半兵衛が小さく笑った。

 

「結局そこですか」

「いや、そこ大事だろ。あの人、酒さえ切れなければ、妙に機嫌よく動く時がある」

「酒で奥州馬を引く、と」

「言い方は悪いが、実際そうだ」

 

典厩様が、そこで鼻を鳴らした。

 

「弾正少弼が、自分の口へ入るものと引き換えに馬を回す。いかにもありそうな話じゃ」

「でしょう?」

「だが、酒だけではあるまい。あやつも、そなたの見ている先が面白ければ乗る」

「そこはありがたいですね」

 

十兵衛が、そこで現実へ戻した。

 

「で、誰に持たせます」

「何を」

「牧場です」

 

俺は少し考えた。

 

「最初は、左近将監筋と山内越中守筋を半分ずつ使いたい」

「軍と内治で分けるのですね」

 

半兵衛が言う。

 

「そうだ。馬の“使い道”を見るのは左近将監寄り。飼葉、地面、柵、厩舎、人足の差配は山内越中守寄り」

「なるほど」

「あと、いずれ堀尾常陸介も普請と現場統率で噛ませる。馬を見る目そのものは後からでもいい。まずは“場を回せる”人間が要る」

 

十兵衛が頷いた。

 

「形になりそうですな」

「なるようにしないと困る」

「また抱え込みすぎておりませぬか」

 

半兵衛が言う。

 

「だから、今こうして三人呼んでるんだろうが」

 

そこへ典厩様が、少しだけ楽しそうに言った。

 

「よい」

「何がです」

「そなた、馬の話になると少し元気になるな」

「そうですか?」

「うむ。城、酒、京、朝廷、そのあたりの話をしておる時より、幾分血が通っておる」

 

十兵衛が、そこで静かに笑った。

 

「たしかに」

「何だよ」

「いえ。治部様も、たまには“好きでやる算段”があってよいのかと」

「牧場は好きでやるだけじゃないぞ」

 

「分かっております」

半兵衛が言った。

「ですが、好きでなければここまで細かくは見ませぬ」

 

そこまで言われると、少しだけ言葉に詰まる。

 

俺は、紙の上の信楽、笠松、各務原、膳所を順に見た。

 

小田井で始まった馬の話が、ここまで来た。

 

父上に「馬の飼い葉で試せませんか」と言ったあの日。

津島で唐爺を見つけた日。

皇甫爺と名をつけた日。

墨磨の背で落ちて、戻って、また乗った日。

上総介兄上と勘十郎兄上に馬を献上した日。

 

その全部が、いま信楽の紙の上に繋がっている。

 

「……まあ、馬は好きだよ」

 

典厩様が満足そうに頷いた。

 

「それでよい」

「典厩様」

「何だ」

「木曾駒の良い血筋、本当に頼めますか」

「頼める。だが、すぐには揃わぬぞ」

「それでいいです」

「急ぐなよ」

「分かってます。まずは種ですから」

「うむ」

 

十兵衛が、そこで筆を取った。

 

「では、段取りを切りましょう」

「頼む」

「信楽での用地選定。皇甫爺の同行。小田井後継者の配置確認。墨磨の移動時期。木曾筋への打診。弾正少弼殿への文案。左近将監と山内越中守への下打ち」

 

「それと」

俺は、そこで典厩様を見た。

「典厩様にも、折を見て信楽へ入っていただきたい」

 

典厩様が、片眉を上げる。

 

「儂もか」

 

「はい。常駐していただくつもりはありません。ですが、木曾駒の血を入れる以上、木曾の馬を見る目が要ります。皇甫爺は馬を見る。ですが、木曾の山で育つ馬の癖や、武田の騎馬で軍馬としてどう使うかは、典厩様の方が見えるところもあるはずです」

 

典厩様は、少しだけ笑った。

 

「非常勤の馬奉行か」

「言い方はともかく、そうなります」

 

半兵衛が、すぐに拾う。

 

「信楽牧場の常の目は皇甫爺。折々の外部評定役として典厩様。木曾筋から入る馬、奥州から入る馬、墨磨の血、それぞれを合わせる時に、複数の目で見るわけですね」

「そういうことだ」

 

十兵衛も頷いた。

 

「よろしいかと。皇甫爺ひとりの癖に寄りすぎるのも避けられます。典厩様が時折入られるなら、馬そのものだけでなく、騎馬としての使い道も見えましょう」

 

典厩様は、紙の上の信楽を見た。

 

「信楽なら、木曾とは違うが、山の馬を見るには悪くない。仔の足、腰、胸、息、坂の登り方。見に行く価値はある」

「では」

「よい。常には無理だが、折々に見よう。木曾筋へ声をかける以上、儂も責任を持たねばならぬ」

「助かります」

 

典厩様は、少しだけ目を細めた。

 

「ただし、治部」

「はい」

「儂が見て駄目だと思えば、駄目と言うぞ」

「それでお願いします」

「墨磨の仔でもか」

 

少しだけ、言葉に詰まった。

 

だが、ここは誤魔化すところではない。

 

「墨磨の仔でも、です」

 

典厩様は満足そうに頷いた。

 

「ならよい。馬を家の情で濁らせるな」

 

皇甫爺がここにいれば、きっと同じことを言っただろうと思った。

 

半兵衛が、さらに書き足す。

 

「では、信楽牧場の初期体制は、皇甫爺を常の目、典厩様を非常勤の評定役。小田井後継者を連絡役。左近将監筋が軍馬としての使い道、山内越中守筋が場と人足、堀尾常陸介が普請と現場統率」

 

十兵衛が頷く。

 

「かなり形になりましたな」

「ああ」

 

俺は紙の上を見た。

 

信楽。

小田井。

木曾。

奥州。

墨磨。

皇甫爺。

典厩様。

 

馬の話が、ただの思いつきではなく、ようやく家の仕組みになり始めていた。

 

 

京がようやく静まり始めたのは、兵が入ったからだけではなかった。

 

将軍家保護の名目で織田が入洛し、孫三郎(信光)叔父上が京市中と御所近辺の守りを受け持つ。瀬田からは治部家が後詰と兵站を担い、朝廷の建物復旧にも銭が回り始めた。淀川べりでは、丹羽五郎左長秀の指揮で将軍御座所の築造が進み、材木と人足と図面が、淀の流れと同じように絶えず動いている。

 

ようやく、京の空気が「明日も焼けるかもしれぬ」から「明日も何か建つかもしれぬ」へ変わり始めた頃だった。

 

松永弾正久秀が、稲葉山城へ来た。

 

その報せを受けた時、上総介兄上は別に驚かなかった。むしろ、来るべきものが来た、という顔だった。

 

「通せ」

 

その一言で決まる。

 

三好三人衆とは別に、三好義継を立て、三好本家の生き残りを探る側。その才も毒も、畿内の誰より濃く、そして厄介な男。敵として置けば面倒極まるが、味方へ引き寄せられれば、これほど使い甲斐のある者もまた少ない。

 

広間へ現れた松永弾正は、思っていたよりも静かな男だった。

 

いや、静かに見える、というべきか。

本当に静かな男なら、あの畿内でここまで名を残さぬ。

声も姿勢も落ち着いている。だが、その落ち着きの内側に、刃のような薄い光がある。人を値踏みし、場の空気を測り、どこまで毒を混ぜられるかを考える目だ。

 

松永弾正は、まず上総介兄上へきちんと礼を取った。

 

「此度、お目通り叶い、恐悦至極にございます」

 

上総介兄上は、上からそれを眺める。

 

「松永弾正」

「は」

「三好三人衆と道を違えるか」

 

松永弾正は、そこですぐには答えなかった。

一拍だけ置いてから、静かに言った。

 

「道を違える、ではございませぬ」

「ほう」

「違えたのは、あちらにございます」

 

その言い方が、いかにも松永弾正だった。自分が離反したとは言わない。向こうが理から外れた、と言う。

 

上総介兄上は、少しだけ笑った。

 

「では、おぬしは何を残したい」

「三好を」

「誰の三好だ」

「孫次郎様の三好にございます」

 

それで、広間の空気が少し締まる。

 

松永弾正は、三好を捨てて織田へ尻尾を振りに来たのではない。孫次郎義継を残し、三好本家を大名として生かす道を探りに来ている。そこがただの降人と違う。だからこそ、織田にとっても値打ちがある。

 

そして松永弾正は、そこでようやく本題を差し出した。

 

供が抱えていた包みが、そっと前へ出される。

布が解かれる。

そこにあったのは、名物中の名物だった。

 

九十九髪茄子。

 

それを見て、座中の空気がほんのわずかに変わった。

上総介兄上も、周囲の重臣も、十兵衛も半兵衛も、表には出さぬが目が動いた。

俺ですら、さすがに少しだけ息を止めた。

 

松永弾正が言う。

 

「誠意の形として、お納め頂きとうございます」

 

上総介兄上は、しばらくそれを見ていた。

ただの茶器ではない。持ち主の格を示し、贈る相手との距離を決める、戦国の特級名物である。松永弾正はそれを分かったうえで差し出している。つまりこれは、かなり深いところまで腹を見せているということだ。

 

兄上は、やがて短く言った。

 

「受けよう」

 

松永弾正が深く頭を下げる。

だが、その次が兄上らしかった。

 

「治部」

「は」

「これを受け取れ」

「……俺がですか」

「お前の物よ」

 

さらりと言う。

九十九髪茄子ほどの名物を、自分で抱え込まず俺へ流す。上総介兄上は、そういうところで人の度肝を抜く。

 

俺は一礼して、それを受けた。

 

手にしてみれば、たしかにただの茶入ではない。

重みそのものよりも、そこへ積み重なった人の欲と目利きと執着の方が重い。

黒く、深く、どこまでも手元へ引き寄せる力のある器だった。

 

俺は、しばらくそれを眺めた。

 

松永弾正は何も言わない。

ただ、俺がどう扱うかを見ている。

上総介兄上も見ている。

座中の誰もが、ここで何が起こるかを待っていた。

 

俺は、その九十九髪茄子を、松永弾正の前へ戻した。

 

ぽん、と。

 

あまりにあっさりと置いたので、さすがに松永弾正の目が動いた。

 

「……治部殿」

「これ、あんたが持ってた方が似合うだろ」

 

広間が静まり返る。

 

上総介兄上は、そこで面白そうに片眉を上げた。

勘十郎兄上が額を押さえている。

十兵衛は無表情のまま止まり、半兵衛の目だけが少し細くなる。

 

松永弾正は、まだ九十九髪茄子を見たままだった。

 

「誠意として差し出したものにございます」

「誠意は受けた」

「……では」

 

「でも俺が欲しいのは、これじゃない」

そう言って、俺は松永弾正を見た。

「あんただ」

 

それは、あまりにも身も蓋もない言い方だった。

だが、そこで余計な飾りを足す気はなかった。

 

「あんたが持ってきたのが名物だから価値があるんじゃない。あんたがそれを持って来ると決めた、その腹の中に値打ちがある」

 

松永弾正は、そこで初めてほんの少しだけ口元を動かした。

笑ったのか、驚いたのか、その中間みたいな顔だった。

 

「……なるほど」

「九十九髪茄子は、上総介兄上へ出した。兄上が受けた。そこまでは済んでる。なら次は、あんた自身の価値をこちらに見せろ」

「茶器ではなく」

「茶器は茶器だ。名物は名物だ。けど、俺はそこに釣られてあんたを取るつもりはない」

 

その一言が、どうやら松永弾正には効いたらしい。

目の奥が、ほんの少しだけ深くなった。

 

上総介兄上が、横で小さく笑った。

 

「治部」

「何でしょう」

「お前、本当に人の取り込み方がいやらしいな」

「誉め言葉として受け取っておきます」

「そうしておけ」

 

だが俺は、そこで終わらせなかった。

 

「あと、もう一つ」

 

俺は後ろに控えていた小姓へ目をやる。

小さな包みを持って来させる。

布を解くと、中から出てきたのは、見た目だけなら九十九髪茄子とは比べものにもならない器だった。

 

残火。

 

少し縁が欠けている。

色合いも地味だ。

名物でも何でもない。

しかも、俺はこれを普段、ご飯茶碗みたいな顔で平気で使っていた。

 

松永弾正が、それを見た瞬間、今度ははっきりと目を動かした。

 

「……これは」

「残火」

「治部殿の」

「普段使いだよ」

「普段、使っておられると」

「うん。飯でも汁でもお茶でも、わりと普通に」

 

横で十兵衛が、ほんの少しだけ目を閉じた。

たぶん「その言い方はどうかと思います」と言いたいのだろう。だが今は黙っている。

 

俺は残火を久秀の前へ置いた。

 

「こっちもやる」

 

松永弾正は、しばらく言葉を失っていた。

 

俺としては、ただ残火全体を見てほしかっただけだった。

欠けてはいる。だが、欠けたところだけが値打ちなのではない。全体の色の沈み方、火の走り方、手の馴染み方、日々使われてなお残る静かな姿。そういうものを見てほしかった。

 

だが、松永弾正の目は、まずその欠けた縁に吸い寄せられた。

 

本当に、一瞬で。

 

それを見た時、ああ、この人はそこに刺さるのか、と分かった。

名物を差し出し、名物を返され、そして今度は欠けた器を渡される。

その落差、その欠けを、よりによって“普段使いしていた”と言う男がいる。

 

松永弾正は、ゆっくりと残火を手に取った。

 

指先の動きが、九十九髪茄子に向けた時より、むしろ丁寧だった。

 

「……欠けておる」

「欠けてしまった」

「それを」

「使ってた」

「……」

 

「でも、俺は欠けだけを見てたわけじゃない」

そこは、ちゃんと言った。

「全体を見てた。だから渡す」

 

松永弾正は、その言葉を聞いてから、もう一度残火を見た。

そして、かなり長く黙った。

 

やがて低く言う。

 

「これは」

「うん」

「まことに、わびた器にございますな」

「だろう?」

 

「……いや」

松永弾正は、そこでかすかに首を振った。

「器が、ではございませぬ」

 

今度は、俺が少し黙る番だった。

 

松永弾正は、残火を両手で持ったまま、静かに続けた。

 

「このようなものを、ただ欠けたまま、しかも日々の手の中で使いながら、なお全体を見ておられる。その目の方が、よほど」

 

そこで言葉を切った。

切ったが、言いたいことは十分に伝わった。

 

上総介兄上が、その沈黙を楽しむように見ている。

十兵衛は無言。

半兵衛は、ほんの少しだけ口元を和らげた。

典厩様がいたなら、たぶん「落ちたな」とでも言っただろう。

 

松永弾正は、そこで初めて深く頭を下げた。

九十九髪茄子を出した時より、むしろ深かった。

 

「……治部殿」

「何だ」

「この弾正、ようやく、何を見られているのか分かりました」

「分かったならいい」

「よろしいのですか」

「何が」

「九十九髪茄子も、残火も」

「茄子はあんたの方が似合う。残火は、あんたに持っててほしいと思った。だからそうした」

 

松永弾正は、そこで本当に少し笑った。

 

「毒に、過ぎた扱いにございます」

「毒だって善く使えればいい薬だろ」

 

その言葉で、松永弾正の目がまた少し変わった。

 

三好の残り香を背負い、畿内の毒を知り、人の裏と表を渡ってきた男。

その毒を、ただ嫌うでも、恐れるでもなく、使い道のあるものとして見てくる。

それが、どうやら弾正には想像以上に効いたらしい。

 

上総介兄上が、そこで言った。

 

「松永弾正」

「は」

「どうする」

 

松永弾正は、残火を手の中へ収めたまま答えた。

 

「孫次郎義継様の筋を残し、三好の名を潰しきらぬ道を、なお探ります」

「うむ」

 

「そのうえで」

ほんの一拍置く。

「この毒、織田の天下静謐のために使いましょう」

 

上総介兄上が笑った。

 

「よい」

 

俺は、その顔を見て思った。

 

ああ、落ちたな。

それも、ただの家臣としてではない。

自分が毒であると知った男が、その毒の置き場を見つけた顔だ。

 

善なる毒。

松永弾正久秀。

 

その最初の一歩が、稲葉山城の畳の上で、九十九髪茄子と残火を挟んで静かに刻まれたのだった。

 

 

 

 

 

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