織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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048島左近の加入

瀬田城のその一室だけ、妙に時間の流れが違っていた。

 

外では人足が声を上げ、普請場では木槌が鳴り、倉では俵が動き、廊では侍女が小走りに行き交っている。城全体が、京口を押さえる治部家の本拠として膨らみ続けている最中だというのに、その部屋へ一歩入ると、空気が柔らかい。

 

畳の上に、小さな子らが転がっている。

 

千代。

彦三郎。

万福丸。

源太郎と美耶姫は少し奥で乳母に預けられているが、泣き声だけは時折混ざる。

 

そして、その子らを囲んでいる顔ぶれが、どうにも異様だった。

 

まず、桃巌様――元尾張の器用の仁、織田備後守信秀。俺にとっては岳父となる。

史実では流行り病で体調を崩して早くに逝ったはずの人が、今はやや痩せたものの、しぶとく生きている。体調を取り戻してからは、俺が日々口うるさく食と衛生を改めさせ、湯浴みや手洗い、酒の量までいじった結果、本人は「お前はわしを生かしたいのか、窮屈死させたいのか分からぬ」とぶつぶつ言いながらも、結局生き延びた。

 

その隣には、土田御前。

昔よりも少し皺は増えたが、その分だけ目の光が強い。健康を取り戻してからは、かえって上総介兄上にも勘十郎兄上にも遠慮がなくなり、今や織田家の古柱として完全に居座っている。

 

そして、そこへ当然のような顔で混じっているのが、美濃のマムシ、斎藤山城守道三だった。

 

この三人が同じ部屋で、子をあやしている。

 

どう考えてもおかしい。

おかしいのだが、実際に目の前にあると、妙に馴染んでしまっているからまた恐ろしい。

 

「ほれ、彦三郎、そう怖い顔をするな」

 

そう言って彦三郎を抱き上げているのは、桃巌様だ。

抱き方は雑だが、不思議と子は泣かない。むしろ、少しじっとその顔を見ている。生まれながらにして、相手の器量か何かを測っているようで可笑しい。

 

「あなた、その抱き方は少し乱暴です」と土田御前が言う。

 

「乱暴ではない。男児はこれくらいでよい」

「よくありません。首をもっと支えなさい」

「分かっておる」

「分かっておらぬから申しているのです」

 

その横で道三が、万福丸の手を指で軽くつつきながら笑っていた。

 

「はは。上総介殿の父君ともあろう御方が、子の抱き方で叱られておる」

 

「道三、おぬしはうるさい」と信秀。

 

「いやいや、わしは学んでおるのです。こういう時は、まず母の顔色を見るのが正解と」

「お主、それは子の抱き方ではない」

「されど生き残る道理ではございましょう」

 

その返しに、土田御前まで少し笑った。

 

三人とも、昔なら同じ座にいてこんな顔をするような人間ではない。

だが俺が、食事をいじり、薬湯を飲ませ、酒を減らし、手を洗わせ、厠の位置を整え、湯と寝床と空気までうるさく整えた結果、妙なことに皆、生き延びてしまった。そして生き延びた先で、こうして孫だ曽孫だと分からぬ子をあやす羽目になっている。

 

そこへ、松永弾正が通された。

 

襖が開き、弾正が一歩中へ入ったところで、その足が止まる。

 

目が、見開かれた。

 

最初に見たのは、土田御前ではない。

桃巌様でもない。

 

斎藤山城守道三だった。

 

「……は」

 

弾正の口から、息のような声が漏れた。

 

ご隠居は、万福丸を膝へ転がしたまま、ゆっくりと顔を上げる。

年を経てなお、その目は鋭い。だが若い頃のような剥き身の刃だけではない。今はその刃の周りへ、茶の湯だの子だの長生きだの、妙なものが積もっている。

 

弾正は、その場で膝をついた。

 

いや、膝をついたというより、ほとんど崩れ落ちた。

 

「……蝮殿」

 

その呼び名に、桃巌様と土田御前が一瞬だけ道三を見る。

道三本人は、そこでほんの少しだけ口元を動かした。

 

「今さら、その名で呼ぶか」

 

その一言で、弾正の顔がくしゃりと歪んだ。

 

涙だった。

 

松永弾正が、である。

あの松永弾正が、道三を見た瞬間に、目に涙を浮かべている。

 

「まことに……まことに、生きておられたか」

 

それは、驚きでも恐れでもない。

もっと個人的な、もっと深い感情だった。

 

弾正は、そのまま畳へ額を擦りつけた。

 

「若き日の我らが、どれほどあなたの噂に胸を躍らせたか。油売りより身を起こし、美濃一国を呑み込んだ蝮。都の裏も表も、一度はあなたを語り草に致したものにございます」

 

道三は、そこで少しだけ目を細めた。

 

「大仰よな」

 

「大仰ではございませぬ!」

弾正は、顔を上げた。涙が落ちているのに、声だけは妙に通る。

「我らが悪党の道にあって、手本と仰ぐべき一人にございました!」

 

「悪党の手本にされても困るがな」と道三。

 

その横で、桃巌様が鼻で笑った。

 

「お前も十分そちら側だろうに」

「尾張の器用の仁にだけは言われとうございませぬ」

「何だと」

 

土田御前がすぐに差す。

 

「あなた方、そのような口の利き方を子の前でなさらぬ」

「「は」」

 

妙なところで二人揃って素直なのが、またおかしい。

 

弾正は、もう一度道三へ向き直った。

 

「お願い申し上げます」

「何だ」

「弟子入りさせてくだされ」

 

部屋が静まる。

 

桃巌様が、先に笑った。

 

「はは。いきなり来たな」

 

土田御前は少し呆れたように目を伏せる。

道三は、そこで本当に少しだけ考える顔をした。

 

「今のわしに、何を学ぶ」

 

「毒の使い道を」

その返しは、弾正らしかった。

「噛みつけば勝てる時代は終わりつつある。これからは、毒をいつ、どこへ、どれだけ流すかにございます。わしはそこを、あなたのようにはまだ使えぬ」

 

道三は、しばらく久秀を見ていた。

 

「お前は、お前で十分に毒だろうに」

「足りませぬ」

「足りぬか」

「はい。毒を撒くだけでは家は残らぬ。人も残らぬ。孫次郎様を大名として残す道を探る今、ただ噛むだけでは終わるのです」

 

そこまで聞くと、道三はようやく膝の万福丸を乳母へ返した。

 

「なるほど。そこまで考えておるなら、少しは見どころがある」

 

弾正の顔が、ほんの少しだけ上がる。

 

その時、襖の外から信繁が入ってきた。

 

「お、もう会ってたか」

 

あまりにも軽い。

 

桃巌様が呆れたように言う。

 

「お前な、もう少し空気を読め」

「読んでますよ。弾正が刺さるなら、まずご隠居だろうと思ってたんで」

「思っておったのか」

 

「思ってました」

信繁は、そのまま弾正の前へ座った。

「松永弾正」

 

「は」

「条件はある」

 

弾正の背が、自然に正された。

 

「承ります」

「孫次郎殿の大名としての存続。そこは俺も兄上へ筋を通すし、拾えるよう動く」

 

弾正の目が動く。

 

「まことに」

「ただし、三好三人衆とは切れ。曖昧にするな」

「は」

「そして、お前は治部家へ入れ」

「……家宰として、でございますか」

 

「家宰的立ち位置、だな」

信繁は、少し考える顔をして続けた。

「内政も見てもらう。だがそれだけじゃない」

 

十兵衛と半兵衛、そして少し離れて控えていた藤林長門守へ目をやる。

 

「藤林長門守」

「はっ」

「竹中半兵衛」

「はい」

「お前たちと協調してもらう」

 

弾正が、そこで初めて少しだけ目を細めた。

 

「草の排除、ですか」

 

「それもある」

信繁は指を折った。

「他勢力の草の洗い出し。

情報の流れの統制。

こちらから流す偽情報の仕立て。

京、畿内、寺社、公家、三好残党、その全部を絡めた“見えないところ”の差配」

 

半兵衛が、静かに頷く。

 

「まことに、松永殿がもっとも活きる持ち場ですな」

 

藤林長門守も続く。

 

「表の忍びだけでは、畿内の人の口と寺社筋の噂までは抑えきれませぬ」

 

信繁は弾正を見た。

 

「お前の毒は、そこへ使う」

 

弾正は、そこで深く頭を下げた。

 

「……善なる毒、となれと」

「なれるか」

「なりましょう」

 

その返しには、迷いがなかった。

 

道三が、横から低く笑った。

 

「よい目になったな、弾正」

「恐れ入ります」

「わしの弟子になりたいと申したな」

「はっ」

 

「ならば一つだけ教えてやる」

弾正が顔を上げる。

「毒は、自分が毒と思うておるうちは半人前よ」

 

部屋の空気が、少し締まる。

 

「周りが“薬にもなる”と思い始めて、ようやく一人前じゃ」

 

弾正は、その言葉を胸の奥まで沈めるように、静かに聞いていた。

 

桃巌様が、その横で笑った。

 

「よい教えだな。わしも若い頃に欲しかった」

 

「お前は手遅れだ」と道三。

 

「何だと」

「器用に立ち回りすぎて、もう毒にも薬にもなっておる」

「それは褒めておるのか」

「半分はな」

 

土田御前が、また差した。

 

「子の前で悪党談義をなさらぬ」

「「「は」」」

 

今度は弾正まで、一緒に頭を下げた。

 

それが、妙に可笑しかった。

 

信繁は、その様子を見ながら、ようやく一つ息を吐いた。

 

京は静まり始めている。

御所造営も、将軍御座所築造も始まった。

表の秩序が立ち始めたなら、次は裏の秩序だ。

そのための毒を、今ここで拾う。

 

「よし」と信繁は言った。

「松永弾正」

 

「は」

「今日から治部家に入れ。まずは家宰格で置く。だが、家中の誰よりも自由に動かす。代わりに、誰よりも深く責を負え」

 

弾正は、今度は迷わず答えた。

 

「この弾正、命を賭して」

「いや、命は軽々しく賭けるな」

「……はい?」

「死なれると困る。生きて働け」

 

その返しに、弾正は一瞬だけ本当に虚を突かれた顔をした。

それから、ゆっくりと笑った。

 

「承知致しました。生きて、働きまする」

 

その時、千代が小さく声を上げ、彦三郎がつられ、万福丸まで泣き出した。

桃巌様が「おお、すまぬ」と言いながら慌てて抱き上げ、土田御前が手を出し、道三が「だから声が大きい」と笑い、弾正がその光景を見て、もう一度だけ目を潤ませた。

 

畿内の毒を知り尽くした男が、子の泣き声と老獪たちの笑い声の中で、治部家へ入る。

 

その景色は、どうにも妙だった。

妙だったが、たぶんそれでよかった。

 

毒をただ毒として使うのではなく、家の中へ置き、秩序のために働かせる。

それが信繁のやり方だったし、弾正がそこへ刺さったのも、結局はその妙な温度のせいだったのだろう。

 

 

川べりの桜は、盛りを少し過ぎていた。

 

満開の華やかさではない。だが、だからこそよかった。風が吹けば花びらが一枚ずつ水へ落ち、流れに乗って静かに離れていく。騒ぎ立てるでもなく、ただそこにある景色。浪人を口説くには、案外こういう場の方が向いている。

 

連れて行ったのは、慶次郎だけだった。

 

「俺だけでよろしいんで?」

 

そう言って慶次郎は、いつものようにどこか肩の力が抜けた声を出す。だがその立ち姿は、余計な力が抜けているようでいて妙に決まる。長身、手足が長く、槍を持たせればそのまま一幅の絵になりそうな男だ。気障に見えて気障で終わらず、最後はちゃんと武辺へ落ちる。そのあたりが、いかにも前田慶次郎利益だった。

 

「お前でいい」と俺は言った。

「島左近相手に、ずらずら連れて行ったところで野暮だろ」

 

慶次郎は、ふっと笑った。

 

「違いねえ。ああいう手合いは、人数で威を見せられるとむしろ引きますわな」

「そういうことだ。お前は槍持って立ってろ。あと酒の相手」

「そっちは得意で」

「知ってる」

 

松永弾正の紹介で現れた島左近は、いかにも島左近だった。

 

派手さはない。

だが、地味でもない。

いるだけで、その場の輪郭が少し締まる。

 

寡黙な男だと思わせる空気はある。だが、ただ無口なわけではない。こちらの出すもの、言葉の間、持ってきた手土産、同行の男、その全部を一目ごとに秤へかけていく。油断もなければ、無駄な敵意もない。人を値踏みするというより、**“仕えるに足るかどうかを見切る目”**とでも言うべきものがあった。

 

弾正が一歩引いて言う。

 

「島左近殿。こちら、織田治部大輔殿」

 

左近は軽く頭を下げた。

 

「お噂は」

「悪い方か、いい方か」

「両方ですな」

「そいつは結構」

 

慶次郎が、そこで酒と肴を広げ始めた。

 

治部印の清酒。

焼酎。

そして包まれたままの槍。

 

慶次郎は、その場の空気に妙によく合っていた。

花の下で、杯を置く仕草までどこか軽やかだ。だが軽薄ではない。むしろ、こういう男が側にいると「この家には戦場の華がある」と見える。俺が連れてきた理由を、左近が分からぬはずもない。

 

「まずは一献」と慶次郎が言う。

 

「左近殿、うちの酒はよろしいですぜ。治部様が自分で旨い旨いって言うくらいには」

「慶次郎、それは余計だ」

「ですが事実でしょう?」

 

左近の口元が、ほんの少しだけ動いた。

 

「なるほど。そういう家ですか」

「どういう意味だ」

「隠さぬ、という意味です」

 

酒を注ぐ。

 

左近はまず清酒を飲んだ。

一口。

二口。

それから静かに言った。

 

「よい酒ですな」

 

「だろ」と俺。

 

「そこですぐ自分で言う」

慶次郎が笑う。

「左近殿、そこが治部様の治部様たる所以でさ」

 

「褒めておるのか貶しておるのか」

「半分ずつです」

 

その半分ずつ、という言い方がいかにも慶次郎だった。

軽口のようでいて、妙に気が利いている。

 

次に焼酎を出す。

 

左近は杯を鼻先へ寄せ、香りを見てから口にした。

そこで初めて、はっきりと目が上がる。

 

「……これは」

 

「強いだろ」と俺。

 

「強い。だが、ただ強いだけじゃない」

「ええ。喉を焼くだけのものではない」

「さすがだ」

 

慶次郎が横で、いかにも感心したように指を鳴らした。

 

「こりゃ話が早ぇ。治部様、もう槍いっちまってよさそうですぜ」

「そうだな」

 

慶次郎が、背にしていた包みを前へ出す。

布を取る。

 

鈍色の片鎌槍。

 

関兼貞の作。

慶次郎の朱槍、助右衛門の黒槍と同じ系統の、鋼鉄の芯が入った大身の槍だ。普通の足軽では両手でも持て余す。だが、持てる者が持てば、そのまま殺気になる。

 

左近の目が、そこで変わった。

 

酒の時より、ずっとはっきりと。

 

「……ほう」

 

慶次郎が、その反応を見てにやりと笑う。

 

「分かるだろ?」

 

左近は答えない。

だが、その答えなさの中に、十分すぎるほど答えがあった。

 

俺は槍を手に取った。

重い。

だが、この重みごと渡す相手が目の前にいる。

 

「関兼貞だ」と俺は言った。

「慶次郎の朱槍、助右衛門の黒槍と同じ鍛冶に打たせた」

 

左近は槍から目を外さない。

 

「足軽には無理ですな」

「無理だ」

「では」

「お前だよ」

 

そう言って差し出す。

 

左近は受け取った。

受け取るまでに迷いはない。

受け取った瞬間、長さ、重さ、鎌の癖、重心の位置まで、全部測っているのが分かる。さすがだ。慶次郎も、その横顔を見て少しだけ笑みを深くした。

 

「似合うじゃねえか、左近殿」

 

左近は、そこで初めて慶次郎を見た。

 

「そなたの朱槍も見事であろうな」

「おや、見てぇですか?」

「いずれ」

「そりゃ楽しみだ」

 

このやり取り一つで、二人の温度差がよく分かる。

慶次郎は華と軽み。

左近は静と刃。

だが、だからこそ同じ場に置く価値がある。

 

そこで俺は、左近へ向かって右手を上げた。

 

指を一本だけ立てる。

 

「今はとりあえず一万石だ」

 

左近の目がこちらへ来る。

 

「あと当家が用意できるのは」

そこで、わざと少しだけ慶次郎へ顎をしゃくった。

「この慶次郎みたいな、男ぶりの良い漢たちと」

 

慶次郎が、いかにも愉快そうに笑った。

 

「治部様、そこはもっと褒めてくだすっても」

「十分だろ」

「いやぁ、左近殿の前だと、まだまだ足りねえ気もするが」

 

左近は、その軽口を受け流しながらも、ちゃんと慶次郎を見ていた。

“男ぶりの良い漢”――なるほど、そういう言い方をするのか、とでも思ったのだろう。

 

俺は続けた。

 

「それと、日の本一統、天下静謐のための戦いだ」

 

川の音がする。

桜の花びらが一枚、水面へ落ちる。

 

「うちに来てよ」

 

それだけだった。

 

一万石。

名槍。

酒。

そして、並ぶ男たちの面構え。

その先にあるのが、どこの戦場で、何のための戦いか。

そこまで全部出して、最後の言葉だけは拍子抜けするほど軽くする。

 

左近は、長くは黙らなかった。

 

この左近は、ぐずぐず迷う男ではない。

見るべきを見て、値すると思えば動く。そういう男だ。

 

「承知」

 

本当に、それだけだった。

 

慶次郎が、そこで吹き出すように笑った。

 

「早ぇ!」

 

「早くはない」と左近。

「見るものは見た」

 

「でしょうな」

 

「一万石は軽くない。槍も酒も悪くない。だが、それだけではない」

左近は、まっすぐ俺を見た。

「“天下静謐”を口にする男は多い。されど、そのために集める男の面まで見せてくる者は少ない」

 

慶次郎が、横で口笛でも吹きそうな顔をする。

 

「へえ」

 

「そなたも含めて、だ」と左近。

「このような男を“うちが用意するもの”の中へ当たり前のように入れてくる。ならば、少しは本気と思ってよい」

 

慶次郎は、その言葉が気に入ったらしく、にっと笑った。

 

「気に入ったぜ、左近殿」

「まだ早い」

「いいや、もう半分は仲間でしょうよ」

 

左近は少しだけ槍を持ち直した。

 

「士は己を知る者のために死す、と申す」

 

「そうだな」と俺。

「だが俺は、死なせるために呼ぶつもりはない」

 

左近の目が、そこでほんの少しだけ細くなる。

 

「生きて勝つために呼んでる」

「……なお良い」

 

その返しは、小さかった。

だが、はっきりしていた。

 

弾正が少し離れたところから近づいてくる。

 

「おめでとうございます、治部殿」

「お前、最初からこうなると思ってたろ」

「半分ほどは」

「いやらしいな」

「善なる毒にございますれば」

「自分で言うな」

 

左近は、そのやり取りまで含めて見ていた。

弾正。慶次郎。俺。

この家には、ただ兵を集めるだけではない妙な熱がある。そういうものまで見て、来ると決めたのだろう。

 

桜の下で、酒を飲み、槍を受け、一万石で口説かれる。

 

だが左近を動かしたのは、一万石そのものでも、名槍そのものでもなかった。

**「こういう男たちと、天下静謐のために戦う」**

と、真顔で言ってくる主の無遠慮さと本気。そこへ刺さったのだ。

 

島左近、治部家へ入る。

 

その始まりは、いかにも治部家らしく、少し軽くて、だがまっすぐで、そして妙に男くさいものだった。

 

 

稲葉山城の広間は、いつも通り広いくせに、左近を連れて入ると少しだけ狭く感じた。

 

上座には上総介兄上。

その脇に勘十郎兄上。

こちらは俺。

そして一歩後ろに、島左近。

 

左近は別に気負った風もない。

だが、こういう場で無駄に縮こまらないところが、やはりこの男らしい。

礼は失せず、媚びもない。

ああ、これは兄上も嫌いではなかろうな、と思った。

 

「面を上げよ」

 

上総介兄上が言う。

左近が静かに顔を上げた。

 

上総介兄上は、その顔をしばらく眺めてから、ふっと口元を緩めた。

 

「そちが島左近か」

「は」

「数年前から、治部めが部下に欲しい欲しいと、ずっと言っておったわ」

 

横で勘十郎兄上が、少しだけ肩を揺らす。

 

「それはもう、しつこいほどに」

 

「ひどいな」と俺が言うと、上総介兄上がすぐ返した。

 

「ひどくはない。事実だ」

それから、あらためて左近を見た。

「なるほど。よき面構えよ」

 

左近は短く答えた。

 

「恐れ入ります」

 

その返しもよい。

余計にへりくだらず、しかし不遜でもない。

上総介兄上は、そこでいかにも面白そうに俺へ向いた。

 

「治部よ」

「何でしょう」

「この男、どれくらいで雇ったのだ?」

 

俺は、そこで平然と答えた。

 

「とりあえず一万石です」

 

上総介兄上の眉が、わずかに上がる。

 

「とりあえず、か」

「はい」

「左近」

「は」

「余の元へ参れ」

 

広間の空気が少しだけ変わる。

 

兄上は、いかにも何でもないことのように続けた。

 

「二十万石出そう」

 

勘十郎兄上が、横で完全に面白がっていた。

俺は思わず「兄上」と言いかけたが、その前に左近が答えた。

 

「お断り申す」

 

即答だった。

 

さすがに、その場が一瞬静まる。

 

だが、上総介兄上は怒らない。

むしろ、そこで本当に楽しそうに目を細めた。

 

「ほう」

 

左近は、まっすぐ前を向いたまま言った。

 

「禄の多寡で仕える主を決めるつもりはござらん」

「うむ」

「むろん、上総介様が治部大輔殿より先にお声がけ頂いておれば、是非ともお仕えしたいとは存じます」

「ほう」

「されど、我が忠義は、治部様に捧げ申す」

 

そこまで言い切られると、さすがに俺も少し黙った。

こういうことをさらりと言う男だとは分かっていたが、いざ上総介兄上たちの前でやられると、妙にくるものがある。

 

上総介兄上は、そこでふっと笑った。

 

「よい」

そう言って、今度は俺を見た。

「治部よ。そなた、本当に良き家臣に恵まれるの」

 

俺は、そこで少し口を尖らせた。

 

「某が家臣では不満ですか?」

 

勘十郎兄上が、先に吹き出しかける。

上総介兄上は一瞬きょとんとしたあと、すぐに笑った。

 

「言いよるわ!」

「そりゃ言いますよ」

「自分で自分を数に入れるか」

「当たり前でしょう。俺だって兄上の家臣なんですから」

「そういうところだぞ、治部」

「どういうところです」

「いちいち返してくるところだ」

 

勘十郎兄上が、そこで静かに口を挟んだ。

 

「兄上、その返しはたしかに治部らしいですが」

「何だ」

「左近殿の方は、なお良いですな」

 

「うむ」

上総介兄上は、もう一度左近を見た。

「左近よ」

 

「は」

 

「余よりも頼む」

左近が、わずかに目を上げる。

「治部を助けてやれ」

 

「は」

 

「この男、色々抜けてるところも多いぞ」

 

さすがに、そこで俺はすぐ言い返した。

 

「兄上」

「何だ」

「いきなり左近の前で何を吹き込んでるんです」

「事実を申したまでだ」

「事実でも、初対面でわざわざ言うことじゃないでしょう」

「いや、初対面ではないな。お前が散々欲しがって連れてきた男だ」

「そうですけど」

「なら、早めに共有しておいた方がよい」

 

勘十郎兄上が、横で本気で肩を揺らしていた。

 

「兄上、それはなかなか容赦がございません」

「容赦してどうする」

「いや、治部も少しは主の体面が」

「左近は、その程度で主を値踏みし直す男には見えぬ」

 

そこまで言われると、たしかにそうだ。

 

左近は、少しも困った顔をしていなかった。

むしろ、ほんのわずかに口元が緩んでいる。

 

「……左近」と俺。

 

「は」

「お前、今ちょっと面白がっただろ」

「少々」

「おい」

「上総介様のお言葉、もっともにございますれば」

「お前まで乗るのかよ」

 

左近は、そこでごくわずかに笑った。

 

「ですが」

「何だ」

「抜けておられるところがあろうと、そこを埋めるのが家臣の役目にございましょう」

 

上総介兄上が、そこで満足そうに頷いた。

 

「よい」

 

勘十郎兄上も続く。

 

「たしかに、見込み通りの男ですな」

 

「でしょう?」と俺が言うと、上総介兄上がすぐ差した。

 

「お前が偉そうに言うな」

「連れてきたの俺ですよ」

「連れてきたことは褒めておる」

「じゃあもっと素直に褒めてくださいよ」

「調子に乗るだろうが」

「もう乗ってます」

「言うようになったな」

 

広間に笑いが落ちる。

 

だが、笑いながらも、そこにいる全員が分かっていた。

これはただの顔見せではない。

左近が、織田の本家の前で、治部家へ忠義を置くと明言した。

そして上総介兄上もまた、それを面白がりながら認めた。

 

つまり、島左近という男は、ただの一牢人ではなく、**治部家の旗本として本家公認で立った**のだ。

 

上総介兄上が、最後に言った。

 

「左近」

「は」

「治部を支えよ。戦でも政でもな」

「はっ」

「ただし」

「は」

「もしこやつが妙な方向へ走りすぎたら、止めろ」

 

俺はすぐ口を挟む。

 

「兄上」

「何だ」

「左近にまでそういう役を振るんですか」

「当たり前だ。お前一人に好き放題させていては、家がいくつあっても足りぬ」

 

勘十郎兄上が、静かに頷いた。

 

「それはまことに」

「勘十郎兄上まで!」

 

左近は、そこで実に落ち着いた声で答えた。

 

「承知仕りました」

「お前、そこは“治部様のご意向を第一に”とか言うところだろ」

「走りすぎを止めるのもまた、治部様のためにございましょう」

「うわ、正論だ」

 

上総介兄上が、そこでとうとう声を立てて笑った。

 

「はは! よい、よい! 治部、お前にはやはりこういう男がつくのだな」

 

俺は、半ば諦めたように息を吐いた。

 

「まあ、いいです。左近が俺のところにいるなら、それで」

 

「うむ」と上総介兄上。

 

「その代わり、使い潰すなよ」

「兄上がそれ言います?」

「余が言うから重いのだ」

 

それは、たしかにそうだった。

 

俺は、そこでようやく少し真面目な顔に戻った。

 

「左近」

「は」

「これから忙しくなるぞ」

「承知」

「京も近江も、まだまだ面倒が多い」

「それも承知」

「一万石、安かったと思わせるなよ」

 

左近は、そこで初めてほんの少しだけ鋭い顔になった。

 

「思わせませぬ」

 

それで十分だった。

 

稲葉山城の広間で、島左近は正式に治部家の者となった。

そして上総介兄上も、勘十郎兄上も、それを見て納得した。

 

一万石。

だが、その一万石で手に入ったのは、ただの勇将ではない。

主の軽口にも、本家の冗談にも揺れず、己の忠義を自分で選び取る男だった。

 

治部家は、また一段、厚くなったのである。

 

 

瀬田城へ左近が入ってから、城の空気はさらに一段変わった。

 

もともと広くなった城ではある。

田代城に比べれば、門も、曲輪も、蔵も、兵の詰める場所も多い。

その分、人の流れも複雑になった。京口に近い。公家も来る。寺社筋も来る。商人も来る。将軍家筋の使いも来る。田代城の頃のように「誰がどこへ入ったか」が目だけで追える城では、もうなくなっている。

 

だから、俺は義仙を呼んだ。

 

場所は、城内でも少し奥まった詰所だった。

十兵衛、半兵衛、藤林長門守、滝川左近将監それに島左近も同席している。

 

義仙が座ると、俺はすぐに本題へ入った。

 

「義仙殿」

「は」

「石舟斎殿にお願いして、あと五十名ほど柳生剣士を雇えぬかな?」

 

さすがに、その場の空気が少し止まった。

 

義仙が、まず静かに俺を見る。

 

「……五十」

「うん。できれば、だ」

 

滝川左近将監が横で小さく唸る。

 

「いきなり大きく出ますな」

 

「必要だからな」

俺は、そのまま義仙へ向けて続けた。

「今後、公家の方々も訪ねて来られるだろうし、今以上に草が入り込む余地がある。田代城と比べて城も広くなった。人の出入りも増えた。今の人数では、表向きの警固と、見えぬところの締め付けを両立しきれん」

 

長門守が、その言葉には静かに頷いた。

 

「たしかに。今はまだ、こちらが入れる草の方が多い。されど、城が大きくなれば、向こうも紛れ込みやすくなります」

 

「そういうことだ」

俺は、机の上へ指を軽く打った。

「当家所属の草以外は雑草だ。目に付いたら引き抜いておく」

 

左近が、そこで少しだけ目を細める。

義仙も、面白そうに口元を動かした。

 

俺は続ける。

 

「だが、雑草も腐れば土の養分となる。だから全部を即座に刈り尽くすのではなく、使える根は拾う。だが今はまだ、この城のことをできる限り秘匿したい」

 

半兵衛がそこで言葉を継いだ。

 

「城の広さそのものより、出入りの意味が増えたのが大きいですな。京に近く、将軍家、公家、商人、寺社、諸家の使者が重なる」

 

「そう」と俺。

「兵だけの城なら、兵だけ見張ればいい。だが、今の瀬田城はそれじゃ済まない」

 

義仙は、そこでようやく口を開いた。

 

「治部殿は、我らを門番として欲しいのではなさそうですな」

「もちろん」

「では」

「人の流れの中へ溶けて、人を見て、必要なら抜く。そういう役だ」

「柳生に、ですか」

「柳生だからこそだよ」

 

義仙は、そこで少しだけ笑った。

剣士としての矜持はある。だがこの男は、柳生衆の使い道を剣一本とは思っていない。石舟斎の弟子筋らしい、静かな現実感がある。

 

「五十は、すぐには難しいかと」

「うん。分かってる」

「ただし」

「何だ」

「派遣できる範囲で増員は可能でしょう」

 

そこへ俺はすぐに乗った。

 

「それでいい。五十とまで行かなくとも、そちらの派遣できる範囲で増員したい。今、義仙殿らに支払っている俸禄にも色を付ける」

 

義仙が目を上げる。

 

「色を」

「うん。増える仕事に見合うだけは出す。剣だけでなく、城の中身まで見てもらうことになるからな」

 

十兵衛が、そこで事務的に補足する。

 

「増員分については、常駐と短期滞在を分けるべきでしょう。いきなり全員を城へ詰めれば、逆に人目を引きます」

 

「その通り」と半兵衛。

「表向きは、警護のための出入りに見せ、実際には持ち場ごとに目を配らせる方が自然です」

 

長門守も続く。

 

「我ら伊賀者とも、役を分けた方がよろしい。忍びは忍びの目がある。柳生衆は、侍とも客人とも取れる位置におるからこそ見えるものがある」

 

「うむ」と義仙。

「たしかに、草を狩るにも、忍びだけでは逆に目立つ時がある」

 

そこで、島左近が初めて口を開いた。

 

「よい城は、人が集まる」

皆がそちらを見る。

「人が集まる城は、必ず草も集まる。ならば、草だけを消そうとするな。“草が根づけぬ地面”を作られると良い」

 

俺が頷く。

 

「だから、義仙殿に増員を頼んでる」

 

左近は、静かに言った。

 

「よろしゅうござる」

 

滝川左近将監――その時点ではまだ左近将監が、そこで少し肩を竦めた。

 

「ややこしいですな」

 

「何が」と俺。

 

「左近が二人おります」

 

「ああ、それな」

俺は、そこで急に別のことを思いついた。

「それなら」

 

皆が嫌な予感をした顔になる。

だが、もう遅い。

 

「左近将監と左近だと被っちゃうから、左近将監は右近将監に変える?」

 

左近将監が、ほんの少しだけ固まった。

 

「……おおう、無茶振り」

 

慶次郎がいたら絶対笑っていただろうところだが、今日は助右衛門もいないぶん、場は少しだけ静かだ。静かだが、皆、顔だけはそれぞれ動いた。

 

俺はそこで、さらに悪乗りした。

 

「それか、いっそ伊勢守でも名乗っちゃおうか!」

 

半兵衛が目を伏せる。

十兵衛は「また始まった」という顔だ。

長門守に至っては、少し楽しそうに見ている。

左近は左近で、口元だけ動かした。どうやらこの家の急な横滑りには、少し慣れ始めているらしい。

 

滝川は、一度だけ腕を組んだ。

 

「……でも、伊勢守もいいかも」

 

俺がすぐ前のめりになる。

 

「だろ?」

「悪くないですな。左近将監では、たしかにややこしい」

「でしょう?」

「そうします」

 

十兵衛が、そこで本当に少しだけ目を上げた。

 

「決まるのが早い」

「よっし決定!」

 

俺がそう言うと、滝川左近将監――いや、これからは伊勢守か――が苦笑した。

 

「治部様、こういうところだけは本当に決めるのが早い」

「いいことだろ」

「たまには」

 

義仙が、そのやり取りを見て静かに笑った。

 

「なるほど。意味が分からぬようでいて、妙なところは即決にございますな」

「そういう家だよ」

「もうだいぶ分かって参りました」

 

そして、ようやく話を戻した。

 

義仙は、背筋を正して言う。

 

「では、石舟斎様へ文を出します」

「頼む」

「五十は、まず口にしてみましょう。ただし、現実には二十か三十からの刻みになるかと」

「それで十分だ」

「常駐と巡回、それに客人を装う者を分けます」

「よい」

「剣の稽古役として入る者、警護名目で入る者、ただの逗留に見せる者。柳生衆の色をあまり揃えすぎぬようにも致します」

 

半兵衛が、そこには本当に感心したように言った。

 

「そこまで考えて頂けるなら、こちらも持ち場を切りやすいですな」

 

長門守も続く。

 

「伊賀者との連絡線も一本通しておきましょう。草を抜く時は抜く、泳がす時は泳がす、その判断は早い方がよい」

 

「うん」と俺。

「今の瀬田城は、ただ守るだけじゃなく、見えぬものまで城の内で飼いならさないといけない」

 

左近が静かに言う。

 

「よい。城が城らしくなってきた」

「今までは違ったみたいに言うなよ」

「今までは、妙に強い人の寄り合いに見えた」

「まあ否定できん」

「今はそこへ、土が入り始めた」

 

その言い方は、いかにも左近らしかった。

 

雑草も、腐れば土の養分となる。

さっき俺が投げた言葉を、別の角度から拾って返してきている。

 

俺は、そこで少しだけ笑った。

 

「いいね。それ」

「本音だ」

「ならなおいい」

 

こうして、柳生衆増員の話は動き出した。

瀬田城はまた少し、目に見えぬ守りを増やす。

そして左近将監は、半ば勢いで、だが本人も案外気に入った顔で、伊勢守へ名を寄せることになった。

 

城は広くなった。

人の出入りも増えた。

ならば、門と堀だけでは足りない。

 

目に見える兵に、目に見えぬ目を足す。

治部家は、そういう段に入り始めていた。

 

 

奥州馬十頭が瀬田へ着いたのは、朝靄がまだ少し川筋に残る頃だった。

 

最初に見た時、やはり大きい、と思った。

 

木曾筋の馬とは、骨の組み方から違う。胴があり、胸が深く、首の付き方にもどこか重みがある。速さだけでなく、押しと粘りで前へ出る馬だ。越後の弾正少弼殿に頼んでいた十頭が、ようやく届いたのである。

 

「どうです」

 

俺が言うと、典厩様がまず頷いた。

 

「よい」

 

その一言が重い。甲斐の騎馬を知り尽くした人が言うのだから、まず外れはない。

 

「御代は」と半兵衛が帳を見ながら言った。「運搬費を含め、酒代をかなり引いて、おおよそ百両ほどで済みそうです」

 

「安いな」

 

「安くはございませぬ」と半兵衛。

「ただ、弾正少弼殿がかなり“酒勘定”で譲ってくださった」

 

「やっぱり酒は偉大だな」

 

典厩様が鼻を鳴らす。

 

「馬を酒で引っぱってくるなど、まことに妙な話よ」

「でも通ったでしょう」

「通ったな」

 

そこへ、もう待ちきれない顔ぶれが馬場の端に並んでいた。

 

慶次郎。

助右衛門。

左近。

滝川伊勢守。

それに、他の家老衆もそれぞれ遠巻きに見ている。

 

半兵衛だけは、少し離れたところで腕を組み、いかにも冷静な顔をしていた。

 

「半兵衛」と俺。

 

「何でしょう」

「お前だけ妙に遠いな」

「私は、馬は少し貧相なくらいがよい、という持論がございますので」

 

慶次郎がすぐ笑う。

 

「出たよ、半兵衛の変なこだわり」

「変ではございませぬ。大きすぎる馬は目立つ」

「そりゃ目立つだろうよ。だから格好がいいんじゃねえか」

「戦は見栄でやるものではございませぬ」

「でも見栄が映える戦場もあるぜ?」

「それで死んだら元も子もございません」

 

助右衛門が短く言う。

 

「半兵衛殿らしい」

 

左近は、そのやり取りを聞きながらも、馬から目を離していなかった。

この男、馬も人も、まず全体を見てから細部へ行く。

 

俺は、そこで十頭を改めて眺めた。

 

全部を一度に前へ出すつもりはない。

この馬は、ただの贈り物ではない。

将来的には種馬でもある。

木曾筋との掛け合わせも考えている。

だから、戦場へ持ち出すにしても、常時ではない。基本は信楽と瀬田城の馬場を往ったり来たりさせ、育て、見て、血を残す。

 

だが、まずは“誰に預けるか”が大事だった。

 

「よし」と俺は言った。

 

皆がこちらを見る。

 

「先行投資だ」

 

慶次郎の顔がすぐ明るくなる。

 

「いい響きだねえ」

「お前、こういう言葉だけは本当に好きだな」

「夢があるじゃねえか」

「一応言っとくが、種馬でもある。好きに戦場へ連れ回して潰すなよ」

 

「へいへい」と言いつつ、もう目は馬へ行っている。

 

俺は順に見た。

 

「慶次郎」

「はいよ」

「一頭」

「よっしゃ」

「助右衛門」

 

助右衛門は無言で頷いた。だが、目の色は少し変わった。

 

「左近」

「は」

「お前にも一頭」

 

左近は、そこで初めて少しだけ驚いた顔をした。

 

「私にも」

「何だ、いらんのか」

「いらぬわけがない」

「ならよし」

「……これは重い」

「馬がか」

「違う。意味がだ」

 

それを言えるところが、やはり左近だった。

 

滝川伊勢守にも一頭。

そのほか、家老筋でも実際に馬を使いこなし、しかも“与えたら家の戦力として返してくる”面子へ順に回す。

 

半兵衛だけは、最後まで少し距離を置いていた。

 

「お前は本当にいらんのか」と俺が聞くと、半兵衛は静かに答えた。

 

「要りませぬ」

「即答だな」

「大きい馬は、私には少々派手すぎます」

「似合いそうだけどな」

「似合うかどうかで選ぶと、慶次郎殿のようになりますので」

 

「何だそりゃ」と慶次郎。

 

「褒めてるのか?」

「半分は」

「半分かい」

 

典厩様が、そこで馬の肩と脚を見ながら言った。

 

「大きい馬は、たしかに的にはなる」

 

慶次郎がすぐ振り向く。

 

「おっ」

 

「だが」

典厩様は、そこで慶次郎、助右衛門、左近、伊勢守を順に見た。

「こやつらなら大丈夫であろう」

 

「でしょう?」と俺。

 

「お前が言うと、妙に軽いな」

「軽くないですよ。でかい馬の方が目立つ。目立てば狙われる。だが、こいつらなら、目立つことごと叩き返せる」

 

慶次郎が、そこで嬉しそうに笑った。

 

「治部様、そういうこと言うのずりぃなあ」

「何が」

「男冥利に尽きるでしょうが」

 

助右衛門は口数こそ少ないが、手を馬の首へ置く仕草がすでに柔らかい。

左近は、馬の目と脚を見て、それから軽く息を吐いた。

 

「……よい馬だ」

 

伊勢守も、どこか満足そうだった。

 

「これは、たしかに働けそうですな」

 

「働いてもらうよ」と俺。

「戦場だけじゃない。普段は信楽と瀬田を回せ。慣らせ。走らせろ。だが無駄にすり減らすな」

 

「承知」と左近。

 

「任せとけ」と慶次郎。

 

「うむ」と助右衛門。

 

その返事が、妙によかった。

 

馬を与えるというのは、ただの恩賞ではない。

期待している、ということだ。

お前に預ける、ということだ。

その意味は、やはり武辺の男には効く。

 

半兵衛が横でぼそりと言った。

 

「皆、分かりやすく顔が変わりましたな」

「だろ」

「やる気は上がったようで」

「忠誠度も上がったんじゃないか」

「その言い方は妙ですが、実際そうでしょう」

 

慶次郎など、もう隠しもしない。

 

「そりゃ上がるってもんですよ。こんだけの馬を預けられりゃあね」

 

左近も、静かな声で言った。

 

「預ける、ですか」

「そうだ」

「与える、ではなく」

「預ける方が近い。お前らの手で良くしろ。戦でも、種でも」

 

左近は、そこでわずかに頷いた。

 

「……なるほど」

 

この男は、こういう言葉の違いをよく拾う。

 

俺は馬場の向こう、信楽の方角を思い浮かべた。

 

今は十頭。

まだ始まりに過ぎない。

だが、木曾の血と奥州の骨を混ぜ、信楽で育て、各務原で増やし、膳所で走らせる。

その絵が少しずつ形になり始めている。

 

典厩様が、最後に言った。

 

「よいな」

「何がです」

「城、酒、人に続いて、ようやく馬まで家で持ち始めた」

「まだ持ち始めたばかりですよ」

「それでよい。最初は何でもそうだ」

 

俺は、そこで素直に頷いた。

 

十頭の奥州馬。

百両ほど。

酒の値引き込み。

 

安くはない。

だが、払った値以上のものは、すでに返ってきている気がした。

 

馬そのもの。

これからの血。

そして、馬を預けられた連中の顔。

 

ああ、これはたしかに先行投資だ。

しかも、悪くない。

そう思えた時点で、もう半分は成功していたのかもしれなかった。

 

ただし、この時点で信楽の牧場がすぐ本格的に動き出したわけではない。

 

奥州馬十頭は、あくまで先に届いた素材だった。

 

慶次郎、助右衛門、左近、滝川伊勢守らに預けた数頭は、まず人に慣らし、戦場で使えるかを見るための馬である。

大柄な武者を乗せて脚が残るか。

長い移動で腹を壊さぬか。

鉄砲の音や旗の動きにどこまで耐えるか。

押す戦に向くのか、追う戦に向くのか。

そこを、実際に乗る者の手元で見なければならなかった。

 

残りの馬も、すぐに種付けへ回すわけではない。

瀬田の馬場と小田井の厩で、食い、毛艶、糞、息の戻り、冬場の痩せ方、脚の腫れを見た。

大きい馬は、それだけで魅力がある。

だが、大きいだけなら壊れやすい。

治部家が欲しいのは、見栄えのする馬ではなく、戦場から戻れる馬だった。

 

信楽の名は、この頃から既に出ていた。

坂路を作り、谷ごとに区画を分け、木曾駒と奥州馬、小田井育ちの墨磨を組み合わせる。

その構想はあった。

 

だが、構想と稼働は違う。

 

信楽は山の土地だ。

水を見る必要がある。

坂を整える必要がある。

厩を建て、柵を張り、飼い葉を運び、馬方を置き、帳を分けねばならない。

何より、皇甫爺を小田井から動かすには、小田井に後継者を残さなければならなかった。

 

だから、奥州馬十頭が届いた段階では、まだ瀬田と小田井での観察が先だった。

 

信楽が本格的に治部家の馬専用牧場として動き出すのは、もっと後。

毛利征伐を越え、治部家の兵站と水軍、遠征経験が一段積み上がった後である。

 

その頃には、小田井にも馬を見る者が育っていた。

織田本家にも、上総介兄上と勘十郎兄上へ渡した馬を通じて、飼い葉や馬体を見る者が出始めていた。

だからこそ皇甫爺は信楽へ移れる。

そして、典厩様も非常勤の目利きとして、折々に信楽へ入れる。

 

奥州馬十頭は、そのための最初の材料だった。

 

すぐに信楽で答えを出すための馬ではない。

瀬田で乗られ、小田井で見られ、家臣たちの手で癖を知られ、やがて信楽へ血として持ち込まれる馬だった。

 

 

瀬田城の普請場は、朝から土と木と怒鳴り声で満ちていた。

 

人足が土を担ぎ、縄を引き、木材を転がし、石を寄せる。見ていて分かるのは、いちばん面倒なのが「牛馬を出すほどではないが、人が担ぐには重い」荷だということだった。

 

土。

砂利。

石灰。

杭。

縄束。

酒造方へ回す米俵の半端。

倉から出る木箱。

 

一つ一つは大したことがなくとも、量が重なると、人の肩と腕だけで動かすのは無駄が多い。

 

俺は、普請場の端でそれを見ながら言った。

 

「これ、やっぱり作るか」

 

堀尾常陸介がすぐに振り向いた。

 

「何をにございますか」

「小さな運搬車」

「運搬車」

 

山内越中守も、帳面を抱えたまま近寄ってくる。

 

「牛車ほど大きいものではなく?」

「そんな大袈裟なもんじゃない。細めの箱に車輪を付ける。猫車みたいなもんだ」

 

「猫、ですか」と堀尾常陸介。

 

「いや、そこは気にしなくていい」

「はあ」

 

半兵衛も、少し離れたところから寄ってきた。

俺が何か思いついた時の顔を、もう覚えてしまっているらしい。

 

「また妙なものをお考えで」

 

「妙じゃないぞ。見てみろ」

俺は、土を運んでいる人足へ顎をしゃくった。

「一人で二籠を天秤棒で運ぶ。歩幅が制限される。腕も肩も疲れる。しかも土をこぼす」

 

「ええ」

「二人掛かりで板を持つ。遅い。曲がりづらい。いちいち掛け声が要る」

「ええ」

「だったら、小さな車を作ればいい」

 

堀尾常陸介が腕を組む。

 

「どのような」

 

俺は地面へ棒で線を引いた。

 

「まずは二輪だな」

 

四角く細長い箱を書く。

左右に車輪。

前へ曳き棒。

後ろに押し手。

 

「こういうやつ」

 

山内越中守がすぐに理解した顔になった。

 

「なるほど。荷台を低くして、人が押し曳きする」

「そう。牛を使うほどじゃない場所で、人が一人か二人で回す」

 

半兵衛が、そこでしゃがみ込んで図を見た。

 

「二輪の方が安定は致しますな」

「一輪は?」

「作れはするでしょうが、慣れぬ者には難しゅうございます。重心がずれれば、かえって土をぶちまけるかと」

「じゃあ最初は二輪だ」

 

堀尾常陸介が、地面へもう一本線を足した。

 

「箱は深い方がよろしいですか」

 

「深すぎると重心が上がる」と俺。

「浅めでいい。土、砂利、縄、石灰、小さな石、そのあたりが入ればいい」

 

山内越中守が言う。

 

「酒造方でも使えますな」

「使える。米の小口、麹箱、樽の蓋、薪。倉でも使える」

 

半兵衛が、そこで少しだけ感心したように言った。

 

「普請場だけではございませぬな」

「そこなんだよ。城内の短距離運搬は、だいたい全部これで少し楽になる。あと、最終的には、蔵の中に置く際の幅まで統一したい」

 

そこへ、典厩様まで来た。

 

「何をしておる」

「小運搬車の試作です」

 

地面の絵を見せる。

 

典厩様は、少し黙ってから言った。

 

「牛馬を出すほどでもない荷か」

「はい」

「よいところへ目を付けたな」

「でしょ」

「ただし」

「何です」

「いきなり戦へ持ち出すな。まずは城と倉で使え」

「そのつもりです」

「使い手が慣れてから外へ出せ」

「はい」

 

そこから先は早かった。

 

堀尾常陸介が大工を呼ぶ。

山内越中守が倉から使えそうな板と車軸材を出させる。

鍛冶場からは、車輪の外周へ巻く鉄の帯を用意させる。

 

俺はその場で、さらに細かく口を出した。

 

「車輪は大きすぎるな。人力なら、腰より下くらいの径でいい」

 

「はい」と堀尾常陸介。

 

「箱は細め。横に広げすぎると狭い道で使いづらい」

「はい」

「底は板を厚くしろ。側板は軽くていい」

「はい」

「曳き棒は前へ。押し手も欲しい。前から引いても、後ろから押しても使えるように」

 

半兵衛が、そこでぼそりと言う。

 

「治部様、楽しそうですね」

「楽しいよ」

「やはり」

「だってこういうの、効くだろ」

「ええ、効きます」

 

最初の試作品は、その日のうちに形になった。

 

木製の細長い箱。

左右に小径二輪。

車輪の外には鉄の帯。

前へ伸びる曳き棒。

後ろに簡単な押し手。

 

まだ荒い。

だが、十分だった。

 

「よし、土入れてみろ」

 

人足が少し怪しそうな顔をしながら、箱へ土を入れる。

最初は控えめに。

次に少し増やす。

 

「押してみろ」

 

人足が後ろから押す。

ごとごと、と少し音はする。だが進む。

 

「おお」と誰かが言った。

 

「次、引いてみろ」

 

今度は前から曳く。

こちらも進む。

二輪だから横転しない。

多少揺れるが、担ぐよりずっとましだ。

 

堀尾常陸介が、そこで素直に頷いた。

 

「使えますな」

 

山内越中守も言う。

 

「ええ。道さえ少し均せば、倉から普請場、普請場から堀際まで十分に回せましょう」

 

半兵衛は、すでに次を考えていた。

 

「用途ごとに箱の形を変えてもよろしいかもしれませぬ」

「例えば?」

「土運び用は浅く広め。米や薪は深め。鉄具や縄はさらに浅くてもよい」

「なるほど」

「あと、酒造方用は底を少し高くして、濡れた床でも板が傷みにくいようにしたいですな」

「それもいい」

 

典厩様が、試作品を見ながら言う。

 

「で、名は何とする」

 

そこで皆が少し黙った。

 

俺は何となく答えた。

 

「小車、でいいんじゃないか」

 

慶次郎が、いつの間にか覗き込んでいた。

 

「ええー、もっと格好いいの付けましょうよ」

「何だよ」

「治部様車、とか」

「嫌だよ」

「何でです」

「恥ずかしいだろ」

「もう今さらでは?」

「慶次郎、お前は黙ってろ」

 

左近も後ろから見ていたらしい。

 

「よいではないか、小車で」

「だろ」

「妙な名にするより、使い道が分かる」

「左近、お前は分かってる」

 

慶次郎が不服そうに言う。

 

「俺ぁ“走り箱”とか好きなんだけどなあ」

「お前の趣味は派手すぎる」

 

そうして、まず二輪の小車は正式に試用することになった。

 

用途は、

 

* 普請場の土運び

* 石灰、砂利、小石の移動

* 倉からの小荷物出し

* 酒造方の米・薪・麹箱運び

* 牧場の飼葉や水桶運び

 

と決まる。

 

堀尾常陸介が言う。

 

「まずは瀬田城と酒造方で回し、壊れ方と使い勝手を見ましょう」

「うむ」

 

山内越中守も続く。

 

「数はまだ少なく。道を均す側も合わせて整えた方がよろしい」

「それだな」

 

半兵衛が最後に言った。

 

「これも帳へ入れましょう」

「やっぱりそこ行くか」

「導入にいくら、修理にいくら、運搬効率がどれだけ変わるか。見えれば、増やすかどうか判断できます」

「正しいけど夢がないな」

「夢だけで増やすと、あとで倉が泣きます」

「それは困る」

 

典厩様が、そこで珍しく少しだけ笑った。

 

「城も、酒も、馬も、今度は車か」

「次々増えますね」

「よい。使えるものは使え」

 

俺は、土を積んだ小車がごとごと進むのを見ながら思った。

 

大発明ではない。

天下を変えるようなものでもない。

だが、こういう小さな便利が積み重なると、家は変わる。

 

一俵、二俵。

一籠、二籠。

一日、二日。

 

その差は、やがて城の立ち上がりの速さになり、倉の回転になり、兵の疲れ方の違いになる。

 

「よし」

 

俺が言うと、堀尾常陸介が振り返る。

 

「何がにございます」

「増やそう」

 

半兵衛がすぐ差す。

 

「まずは壊してからにしてください」

「ちぇっ」

「“ちぇっ”ではございませぬ」

 

そのやり取りを聞いて、場に少し笑いが落ちた。

 

瀬田城では、また一つ、地味だが確実に効く道具が生まれた。

戦国の城というのは、結局こういう小さな工夫の積み重ねで、じわじわと強くなっていくのだろう。

 

 

 

 

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