織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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005兄弟相克防止

小田井へ、三郎様と勘十郎様が揃って来た時、城の空気は妙に静かだった。

 

別に怒鳴り声が飛び交っているわけではない。

むしろ逆だ。

皆が余計な音を立てぬようにしている。

 

父上も、朝から言葉が少なかった。

 

「又八郎」

「はい」

「今日は、いつも以上に口を慎め」

「……善処します」

「善処、では困る」

 

そう言われたが、善処するとしか返しようがなかった。

 

慎めるなら慎めたい。

だが、慎めば済む話でもないと、俺はもう半ば分かっていたからだ。

 

三郎様と勘十郎様。

この二人が並ぶだけで、周りは勝手に意味を盛る。

誰がどう笑った、どちらがどれだけ先に口を開いた、そんなことまで、それぞれの都合で話が大きくなる。

 

たぶん今日もそうだ。

 

父上に伴われて座敷へ入ると、二人はもう座っていた。

 

三郎様は、いつものようにざんばらな格好で、それでいて静かだった。

静かだが、気を抜けばそのまま人を切りそうな鋭さがある。

一方の勘十郎様は、前に小田井へ一人で来た時より、少しだけ構えて見えた。

同じ室内に兄がいる、そのこと自体が多分まだ重いのだ。

 

俺は礼をした。

父上も深く頭を下げる。

 

形の上では穏やかだ。

だが、その穏やかさは薄い氷みたいなものだった。

 

少し言葉を交わせば、すぐに割れそうな薄さ。

 

父上が通り一遍の言葉を尽くし、二人もそれに応じる。

話は小田井の作柄、備後守様の体調、近隣の動き、そんなところから始まった。

 

誰も間違ったことは言っていない。

むしろ皆、きちんとしている。

 

それなのに、妙に息が詰まる。

 

何でか。

 

簡単だ。

二人とも、相手に本音を見せていないからだ。

 

しかも、その隙間へ、周りの人間が好き勝手に意味を差し込める。

この間もそうだったのだろう。

あの時の言葉はこういう意図だ。

あちらはこう受け取った。

いや本当は違う。

そんなものが積もり積もって、兄弟の間に、本人たちが直接置いたわけでもない壁ができている。

 

俺は、それが嫌になった。

 

このまま終わったら、また同じだ。

「今日は無事に済んだ」で終わる。

「決定的な破綻までただ一日延びた」だけだ。

そして廊下の角や控えの間で、家臣どもが勝手に続きを作る。

 

それで得をするのは誰だ。

 

斎藤だ。

今川だ。

三河の松平だ。

岩倉の大和守だって、腹の底では笑うだろう。

 

織田が割れるのを、一番待っている連中ばかりだ。

 

気づいたら、俺は口を開いていた。

 

「……三郎様」

 

座の空気が止まった。

 

父上の気配が、一瞬で固くなる。

やってしまった、というのは分かった。

だが、もう止まれない。

 

三郎様が、ゆっくりこちらを見た。

 

「何だ、又八郎」

「勘十郎様も」

 

今度は勘十郎様も見る。

 

二人分の視線は重い。

だが、ここで怯んだら駄目だと思った。

 

「お二人とも、私には兄同然にございます」

 

誰も口を挟まない。

 

「兄同然ゆえに」

俺は、できるだけまっすぐ言った。

「兄同士が相争うのは、間違っております」

 

父上の呼吸が、横でわずかに止まったのが分かった。

 

場の空気は冷えた。

だが、言うべきことはまだ先だった。

 

「本当は」

俺は続ける。

「お二人とも、相手のことを分かりたい、分かってほしいと思うておられるのではございませんか」

 

勘十郎様の眉が動く。

三郎様は表情を変えない。

だが、完全に無視もしない。

 

「それなのに、どうして素直になれぬのです」

 

「又八郎」

父上が低く言った。

「そこまでだ」

 

「父上、まだです」

 

自分でも驚くくらい、はっきり言っていた。

 

ここで止まれば、ただ生意気を言った子どもで終わる。

それでは意味がない。

 

俺は、二人から目を逸らさず言った。

 

「家臣どもが、自分の都合を通せるように、変なことを大げさにして告げ口しておるのを」

「……」

「お二人とも、よく知っておられるはずでしょう」

 

勘十郎様の顔から、すっと笑い気が消えた。

三郎様は、今度はわずかに目を細めた。

 

これは刺さった。

刺さるに決まっている。

本人たちが一番知っているところだからだ。

 

「今、織田家が割れて得をするのは」

俺は一つずつ置いた。

「斎藤や今川、三河の松平どもです」

 

「……」

「岩倉の大和守なども、きっと喜びましょう」

 

そこまで言うと、さすがに場の空気がただの私話ではなくなった。

子どもの癇癪ではなく、家の話として響いてしまったのだ。

 

だが、それでいい。

ここはそう響かなければ駄目だった。

 

「お二人とも」

俺は少しだけ声を落とした。

「幼き頃より、そんなに仲が悪かったのですか」

 

勘十郎様の視線が揺れた。

 

「すごい兄だと」

「……」

「可愛い弟だと」

「……」

「思っていた時も、なかったのですか」

 

長い沈黙が落ちた。

 

さっきまでの、薄い氷のような静けさではない。

本当に、言葉の置き場を失った沈黙だった。

 

勘十郎様が、先に顔を伏せた。

 

「又八郎」

その声は、前よりずっと低かった。

「そなた、子どもと思っておったが」

 

「はい」

「痛いところを突く」

 

三郎様は、まだ黙っている。

 

俺はそこで、もう一歩だけ出た。

 

「勘十郎様が変わられるなら」

「……」

「三郎様は、ちゃんと弟として遇してください」

 

父上が、横で息を呑んだ。

ここはかなり危うい。

分かっている。

だが、言わなければ、今日の意味がない。

 

「余の者には話せぬことも」

俺は三郎様を見た。

「勘十郎様になら、話せることもありましょう」

 

三郎様の目が、今度ははっきりと動いた。

 

この人は、全部を胸にしまい込む。

だが、しまい込むばかりでは強さがそのまま刃になる。

それを止めるには、近くで言葉を返せる相手がいる方がいい。

やはりそう思った。

 

「私の首を賭けます」

 

その言葉は、自分でも少し驚くほどすんなり出た。

 

父上が、今度こそ厳しい顔で俺を見た。

だが止めなかった。

 

「お二人が、ここで割れぬ方が」

「……」

「織田のためです」

「……」

「私の首など、そのためなら安いものです」

 

嘘ではない。

いや、本当に首が飛んだら嫌だが、それでもこの場で軽く引っ込めるわけにはいかなかった。

 

勘十郎様が、ふっと笑った。

笑ったが、いつもの軽さはない。

 

「安う申すな」

「安くはないです」

「ならば言うな」

「では、取り消せと仰せですか」

「……」

「私は、嫌です」

 

そのやり取りで、ようやく少しだけ空気が緩んだ。

 

ほんの少しだけだ。

だが、さっきまでの殺気に近い張りではなくなった。

 

そして、初めて三郎様が口を開いた。

 

「勘十郎」

 

それは、これまでの会話の中で、ずっと柔らかい声だった。

 

勘十郎様が顔を上げる。

 

「……何だ、三郎」

「又八郎の首は、まだ要らぬ」

 

勘十郎様が鼻で笑った。

 

「当たり前だ」

「こやつは勝手に賭けすぎる」

 

「それはそうだ」

そこまで言ってから、勘十郎様は少しだけ真顔になった。

「だが」

 

「……」

「こやつの言うこと、全部が外れておるとも思えぬ」

 

三郎様は、勘十郎様を見た。

真っ向から。

だが、前より棘が少ない。

 

「俺もそう思う」

 

その一言は、かなり大きかった。

 

父上が何も言わないのが、その大きさを逆に示していた。

 

勘十郎様は少しだけ目を細めた。

 

「ならば、三郎」

「何だ」

「俺が変わるなら、とこやつは言った」

「うむ」

「お前も、弟として扱え」

 

かなり危うい返しだ。

だが、もう完全な拒絶ではない。

そこまで来た時点で、半歩は動いている。

 

三郎様は、すぐには答えなかった。

それから低く言う。

 

「分かった」

「……」

 

「少なくとも」

そこで一度、息を置く。

「余の者の口をそのまま、お前へ被せることはせぬ」

 

「……」

「お前から聞く」

「……そうか」

 

それで十分だった。

 

全面和解ではない。

抱き合って泣くわけでもない。

そんなもの、この二人には似合わない。

 

だが、本人から聞く。

周りの口を一枚噛ませない。

そこまで言わせたなら、今日は勝ちだ。

 

勘十郎様も、小さく頷いた。

 

「俺も、そうしよう」

 

その瞬間、この場の空気が変わった。

 

劇的ではない。

けれど、確かに変わった。

今まで二人の間にあった、周囲が好き勝手に書き込める余白が、少しだけ狭まったのだ。

 

父上が、ようやく深く頭を下げた。

 

それは場が収まったからというより、収まる方へ動いたことへの礼に見えた。

 

俺は、そこでようやく息を吐いた。

膝が少し震えている。

やっぱり怖かったのだ。

 

だが、怖くても言ってよかった。

 

帰り際、勘十郎様が俺の頭を軽く小突いた。

 

「又八郎」

「はい」

「次からは、自分の首を勝手に賭けるな」

「……はい」

 

「賭けるなら」

と勘十郎様。

「まず俺に相談しろ」

 

そこで、三郎様が珍しく少しだけ笑った。

 

「それでは結局、こやつの首は守られるな」

「それでよいかと」

 

勘十郎様のその返しは、兄弟の間に残る最後の固さを、少しだけほどいたように聞こえた。

 

俺は頭を押さえながら思った。

 

やっぱり、この人は生きて三郎様の側にいた方がいい。というより、身内や兄弟での相剋は、少ない方が良いに決まっている。

 

まだ全部は終わっていない。

ここから先も、何度でも面倒は起きるだろう。

だが少なくとも今日、小田井で、二人は「相手の口から聞く」と言った。

 

それだけで、斎藤も今川も岩倉も、少しは嫌な顔をするはずだ。

 

それで十分だった。

 

 

俺があの二人の間へ入ってから、空気はすぐには変わらなかった。

 

変わらなかったが、確かに、前と同じでもなくなった。

 

最初に動いたのは、三郎様と勘十郎様その人たちではなく、むしろ周りだった。

 

二人が、表立ってぶつからない。

片方の言葉を、もう片方がすぐには悪く取らない。

何より、一度「本人から聞く」と決めてからは、間に立つ者たちの顔つきが変わった。

 

今までなら、

「勘十郎様はこのように」

「三郎様はあのように」

と、わずかに言葉へ色を足して伝えていた者が、急に慎重になる。

 

それはそうだ。

 

本人同士が、意外とちゃんと口を利くと知れてしまえば、下手な讒言はすぐに綻ぶ。

盛った言葉は、本人同士の一言で剥がれる。

そうなれば、間で好き勝手していた者ほど困る。

 

だから、まず讒言が減った。

 

完全には消えない。

そんなものはすぐには消えぬ。

だが、露骨なものは減った。

誰が何を言ったか、言わぬかを、皆が前より気にするようになった。

 

露骨だが、言葉の端に乗った勝手な憶測が、人を疑心暗鬼にする。それが減少しただけでも、二人の間にわだかまりが増えることはない。

 

そして、その変化はさらに妙な形で目に見えた。

 

ある日、家中で

「あの者、しばらく見ぬな」

という顔が二つ三つ重なった。

 

最初は誰も気に留めなかった。

親類筋へ下がったのか、勝手に拗ねて籠ったのか、その程度に思われた。

だが、数が重なると、さすがにおかしい。

 

一人は、前から岩倉方と妙に昵懇ではないかと言われていた者だった。

もう一人は、末森と那古野の間で話を運ぶのに、どうも余計な尾ひれをつける癖があると言われていた。

さらに一人、斎藤方の使者が来た折に、必要以上に色めいた顔をしていた小者まで、いつの間にか姿を消した。

 

逐電である。

夜逃げ同然に、きれいにいなくなった。

 

そうなると、さすがに家中も気づく。

ああ、本当にいたのだ、と。

 

兄弟の相剋を、外からの指図や、自分の立身のために煽っていた者が。

本人たちのわだかまりだけではなく、そこへ火をくべていた者が。

しかも、兄弟が歩み寄り始めた途端に、居づらくなって逃げる程度には、図星の立場にいた者が。

 

それが見えてしまった。

 

見えてしまうと、逆に二人の方が楽になる。

 

今までは、兄弟で口を利けば、それだけで周囲が意味を盛った。

少し笑えば「内通」、顔をしかめれば「決裂」と囁いた。

だから何をしても身構えねばならなかった。

 

だが今は違う。

 

讒言していた者が実際にいた。

しかも、兄弟が近づくと困る者だった。

そこまで家中にも明るみに出ると、逆にもう、周囲も軽々しく騒げない。

 

その結果として、三郎様も勘十郎様も、前よりずっと「兄弟」をやりやすくなった。

 

最初は、本当に些細なことだった。

 

評定のあと、皆が下がったところに、勘十郎様だけが残る。

三郎様が、書付を畳みながら、

「お前はどう見る」

とだけ聞く。

勘十郎様も、変に身構えず、

「そこはこうした方が良いのでは」

と返す。

 

たったそれだけだ。

 

だが、今まではその「たったそれだけ」が、難しかったのだろう。

 

ある日には、勘十郎様が末森から持ってきたものを、三郎様本人が笑顔で受け取る場面もあった。

誰も大声は出さない。

ただ、

「ああ、もうその程度では騒がぬのだな」

という空気が家中にじわじわ広がる。

 

俺の目から見ても、二人は前より自然だった。

 

まだ遠慮はある。

まだ全部をさらけ出すわけではない。

だが、少なくとも「この相手へ何を言えば周囲にどう取られるか」ばかりを気にしている感じは薄れた。

 

その変化は、病床の備後守様にも分かったらしい。

 

まだ床に伏す時間は長い。

けれど、危篤の底は越えた。

肉の煮汁に卵を溶き、牛の乳を足したものも、雑炊にしたりして、今では前より量が入るようになっている。

顔色も、少し戻った。

痩せてはいるが、目の奥に死にゆく者の濁りが前ほどない。

 

その日も、備後守様の枕元には三郎様がいた。

少し遅れて勘十郎様も入る。

前なら、その並びだけで周囲が固くなっただろう。

 

今は、女房たちの手もそこまで止まらない。

 

備後守様は、二人を見た。

かなり長く見た。

それから、かすれた声で言う。

 

「……ようやく、静かになったな」

 

三郎様は、枕元に座ったまま答えた。

 

「まだ静かになっただけにございます」

 

「それでよい」

備後守様は、少しだけ口元を動かした。

「家中が、余の死に先立って割れぬなら、それでよい」

 

勘十郎様が、そこで少し顔をしかめる。

 

「縁起でもないことを仰るな」

と三郎様が横で言う。

 

「左様で」

勘十郎様は、だが引かなかった。

「父上は、すぐそういうことを言う」

 

備後守様は、二人を見比べた。

その目が、どこか面白がっているようにも見える。

 

「何だ」

と三郎様。

 

備後守様が苦笑する。

「二人して、そのような顔をするな」

 

「それと父上」

「何だ」

「父上が安心して逝くのは、まだ早いぞ」

 

その言葉で、部屋の空気が少しだけ止まった。

 

女房たちも、手を止めるほどではないが、耳だけはこちらへ寄せた気配がある。

備後守様も、一瞬だけ目を細めた。

 

勘十郎様は、少しだけ間を置いてから言った。

 

「そうだな」

「……」

「今、兄弟でようやく、まともに話せるようになったばかりだ」

「……」

「そんなところで安心されても困る」

 

三郎様は、最初それを冗談として受けるかのように、わずかに鼻で笑った。

だが、その笑いはすぐ消えた。

 

「勘十郎」

「何だ」

「珍しいことを言う」

「そうか」

 

「そうだ」

少し息を置く。

「だが、違わぬ」

 

備後守様は、そのやり取りを聞いて、ゆっくりと息を吐いた。

 

「ならば」

 

「はい」

と三郎様。

 

「余も、もう少し生きねばならぬか」

 

「そうしていただかねば困ります」

と勘十郎様。

「こちらは、ようやく面倒が減ったところだ」

 

そこは少し笑いが落ちた。

 

大きな笑いではない。

病床の前だ。

だが、それでも笑えたこと自体が、前までとは違っていた。

 

又八郎はその少し後ろで、その様子を見ていた。

 

自分が何かを成し遂げた、という気分ではない。

そんな大層なものではない。

ただ、兄弟が本人同士で話せるようになると、周囲の変な声が減る。

変な声が減ると、また兄弟が話しやすくなる。

その流れが、ようやく回り始めたのだと分かった。

 

備後守様も、それを見て安心したのだろう。

 

いや、安心というより、

「まだ死ねぬ」

と思い直したのかもしれない。

 

その日、膳が運ばれてきた時も、備後守様は前より少し多く口へ入れた。

汁を飲み、喉を通し、わずかに目を閉じる。最近は細かく刻んだ米や、肉なども入るようになった。

 

「前より、腹へ落ちる」

 

その言葉に、三郎様も勘十郎様も、何も言わなかった。

何も言わないが、二人とも確かに聞いていた。

 

肉。

卵。

牛乳。

そういう地味なものが、人を少しずつ生かす。

そして、人が少し長く生きることで、兄弟がやり直す時間が生まれる。

 

戦国時代というのは、結局そういう細い線の積み重ねで動くのかもしれない、と又八郎は思った。

 

城を落とす。

敵を斬る。

国を取る。

そういう派手な話の前に、家中の讒言を減らし、兄弟が本人同士で話し、病人がもう少し食えるようになる。

その全部が揃って、やっと家が割れずに前へ進める。

 

備後守様は、その頃にはもう、危篤の人ではなかった。

 

まだ病床にはある。

だが、死を待つだけの人でもない。

 

三郎様が静かに言った。

 

「父上」

「何だ」

「ご無理はなさいますな」

 

備後守様は、わずかに笑った。

 

「そなたがそのようなことを申すか」

「申します」

「勘十郎まで似たようなことを言いおった」

「それは、そうでしょう」

「……面倒な子らだ」

 

その言い方が、妙に柔らかかった。

 

又八郎は、それを聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。

 

この人は、まだしばらく生きる。

少なくとも、今ここではそう思えた。

 

そして、三郎様と勘十郎様も、周囲を気にせずに兄弟をやれるようになり始めている。

 

なら、俺が自分の首を賭けたのも、まるきり無駄ではなかったのだろう。

 

 

那古野から呼び出しが来た時、父上は珍しく少しだけ声を和らげていた。

 

「又八郎」

「はい」

「今回は、叱責ではなさそうだ」

「“今回は”って付くんですね」

 

父上は口元を動かした。

笑ったのか、呆れたのか、その中間みたいな顔だった。

 

「礼、らしい」

「礼」

「備後守様のこと」

「……ああ」

 

それで、だいたい察しはついた。

 

備後守様が死なずに済んだこと。

三郎様と勘十郎様の間が、割れる方ではなく、寄る方へ動き始めたこと。

そのどちらにも、俺の置いた小さな石が、多少は効いた。

 

多少は、である。

そこを勘違いしてはいけない。

全部を俺がどうこうしたわけではない。

ただ、きっかけがいくつか、運よくハマっただけだ。

 

それでも、妻として、母として礼を言いたい。

そういう話なら、呼ぶ相手は一人しかいない。

 

正室の土田御前だ。

 

那古野へ上がる道すがら、俺は少しだけ落ち着かなかった。

 

備後守様や三郎様の前へ出るのとは、また違う。

あの人たちは、怖い。

だが筋は見える。

一方、母親というものは、理屈だけでは測れない。

 

夫を失いかけた。

息子たちも危ういところを見た。

そのうえで礼を言うのなら、軽いものではないはずだった。

 

通された座敷は、思っていたより静かで、思っていたより柔らかかった。

 

だが、その柔らかさの真ん中にいる人は、柔らかいだけではなかった。

 

土田御前は、座の中でごく自然に中心へいた。

 

美しいとか、厳しいとか、それだけでは少し足りない。

この人は、長く家の内側を見てきた人間の顔をしている。

表で刀を振るわずとも、家中の人の心の向きくらいは、一目で見抜きそうな目だった。

 

父上が礼を取り、俺もそれに続く。

 

「面を上げなさい」

 

声は穏やかだった。

だが、逆らえる穏やかさではない。

 

俺が顔を上げると、土田御前はしばらく俺を見ていた。

値踏みというほど露骨ではない。

けれど「なるほど、この子か」と思っている顔ではあった。

 

「又八郎」

「は、はい」

「そなたには、一度礼を言っておきたかったのです」

 

いきなりそう来た。

 

俺は少しだけ言葉に詰まった。

礼を言われるだろうとは思っていた。

思っていたが、真正面から来ると困る。

 

土田御前は、俺の戸惑いを見たうえで続けた。

 

「夫は、ようやくあの世へ引かれずに済みました」

「……」

「三郎殿も、勘十郎殿も」

「……」

「今はまだ完全ではありませんが、それでも、決裂する方ではなく、お互いが歩み寄る方へ歩き始めております」

 

その声は静かだった。

だが、静かな分だけ重かった。

 

「妻としても」

「……」

「母としても」

「……」

「それをありがたく思わぬはずがありません」

 

そこまで言われると、さすがに逃げられない。

 

俺は少し考えてから答えた。

 

「私が、何かを成したわけではございません」

 

土田御前の眉が、ほんの少しだけ動いた。

 

「ほう」

 

「ただ」

俺は言葉を選ぶ。

「置ける石を、いくつか置いただけにございます」

 

「……」

「それを拾われたのは、備後守様であり、三郎様であり、勘十郎様であり、父上です」

「自分は違うと」

「違うとは申しませぬ」

「では」

「……大きくは、申しませぬ」

 

土田御前は、それで少しだけ笑った。

 

「利口な子ですね」

 

それが褒め言葉かどうか、すぐには分からなかった。

多分、両方だ。

 

「ですが」

と土田御前。

「利口なだけの子では、ここまでは動きません」

 

「……」

「人の心に触れるところまで行ったからこそ、家の空気も動いたのでしょう」

 

そこまで言われると、返しづらい。

 

父上も何も言わなかった。

言わないのが正解なのだろう。

 

しばらくの静けさのあと、土田御前がふと視線を横へ向けた。

 

「お市」

 

その名が落ちた瞬間、俺は少しだけ呼吸を止めた。

 

襖の向こうで、衣擦れの音がした。

それから、小さな足音。

 

入ってきたのは、まだ幼い娘だった。

だが、幼い、で済ませるには少し綺麗すぎた。

 

俺はその瞬間、自分でも驚くほどはっきりと理解した。

 

あ、駄目だ。

そういう理解だった。

 

美しいとか、可愛いとか、そういう順序ではない。ロリコンとかチャチな話じゃない。

視界に入った瞬間に、胸の内側のどこかが勝手に持っていかれた。

 

黒髪。

まだ幼い顔立ち。

だが、幼いだけではない、妙に整った輪郭。

母や兄たちに似たのか、目元にすでに人を見返す静かな芯がある。

 

お市様は、母の側で止まり、きちんと礼をした。

その所作まで含めて、俺は少し危うかった。

 

見惚れるな。

顔に出すな。

今すぐ直せ。

 

頭の中でそう怒鳴る。

怒鳴るのだが、胸の方が言うことを聞かない。

 

土田御前が言う。

 

「この子が、お市です」

「……小田井の又八郎にございます」

 

何とかそれだけ返せた。

声が裏返らなかっただけ、上出来だ。

 

お市様がこちらを見る。

その目は、まだ幼い好奇心を隠していなかった。

 

「母上」

「何です」

「この方が、又八郎様」

「そうです」

「小田井の」

「ええ」

 

神童、とまでは言わない。

そこはさすがに母だった。

だが、言外に全部含まれている。

 

お市様は、少しだけ首を傾げた。

 

「思っていたより」

「うむ」

「大きい方です」

 

そこで土田御前が、少しだけ笑った。

父上も、わずかに肩を揺らした気がする。

 

「よく食べますので」

 

と、俺は言った。

何を言ってるんだ俺は。

だが、それしか出なかった。

 

お市様はそれで少し笑った。

その笑い方が、またまずかった。

 

いや、本当にまずい。

俺は必死で表情を固めた。

 

どうせこの方は、将来北近江の浅井家へ嫁ぐ方だ。

 

そう思った。

思って、自分で自分の胸へ冷水を浴びせる。

 

織田の姫だ。

しかも三郎様や勘十郎様の同腹の妹。

軽く見てよい相手ではない。

さらに言えば、この時代の姫は大名家にとって、他家との同盟を強固に維持するための重要な楔であり、あるいは有力家臣を繋ぎとめる切札でもある。

将来どこへ出るか、俺ごときがどうこう考える筋ではない。

 

だったら、今ここで勝手に胸を騒がせるだけ無駄だ。

無駄なのだが、無駄と分かることと、止まることは別だった。

 

土田御前は、多分、その辺りまで全部は見抜いていない。

だが俺が妙に固くなったのは見たらしい。

 

「又八郎」

「はい」

「そんなに緊張せずともよいのですよ」

「……はい」

「お市は、そなたを食いはしません」

 

そこで、お市様が少しむっとした顔をした。

 

「母上」

「何です」

「私、そんなこと致しません」

 

その返しが、また可愛らしい。

 

駄目だ。

本当に駄目だ。

顔に出すな。

 

俺は内心で必死になりながら、何とか礼を崩さなかった。

 

土田御前は、そのやり取りを見て、少しだけ満足そうだった。

その顔が、妻や母の顔から、家の中を整える人の顔へ少し戻る。

 

「又八郎」

「はい」

「今日呼んだのは、礼のためだけではありません」

「……」

「そなたのような子が、どのような目をしておるか、私自身も見ておきたかったのです」

 

そこはやはり、そうだった。

 

「いかがに見えますか」

 

と、俺は聞いた。

少し生意気だったかもしれない。

だが聞きたかった。

 

土田御前は、すぐには答えなかった。

 

「賢い子です」

「……」

「だが、それだけではない」

「……」

「目立つのを嫌がるくせに、家が割れるのはもっと嫌う」

「……」

「そういう子ですね」

 

そこまで見えるのか。

いや、この人なら見えるか。

 

「面倒くさい子とも申せます」

と父上。

 

土田御前は、その言葉に少し笑った。

 

「それは、そなたの家の血でしょう」

 

父上が黙る。

そこは否定しないらしい。

 

お市様は、その間ずっと静かに俺を見ていた。

見られるたびに落ち着かない。

だが、もうさっきほどではない。

 

というより、必死で理性を前へ出した結果、ようやく表面が整ってきたのだ。

 

土田御前は最後に言った。

 

「又八郎」

「はい」

「これからも、思うところがあれば、軽々しくはなく、だが怯えすぎずに言いなさい」

「……はい」

「家というものは、強い者だけでは保てません」

「はい」

「見て、気づいて、少しだけ風を変える者も要るのです」

 

その言葉は、思っていたより深く残った。

 

座を辞したあと、俺は那古野の廊を歩きながら、ようやく一つ大きく息を吐いた。

 

父上が横で言う。

 

「疲れたか」

「はい」

「御前様は、重いお方だからな」

「それもあります」

「それも?」

 

俺は少しだけ黙った。

 

父上はそこで、妙に面白そうな顔をしなかった。

ただ待った。

それが逆に困る。

 

「……お市様に、初めて会いました」

「うむ」

「綺麗な方ですね」

 

そこまでは、別におかしくない。

年下の姫君をそう評するくらいは、七つや八つの子でも言うだろう。

 

父上は短く頷いた。

 

「そうだな」

 

そこで終わると思った。

終わってほしかった。

 

だが父上は、その少し後で、淡々と言った。

 

「気をつけよ」

「何をです」

「顔へ出すな」

 

思わず、俺は足を止めかけた。

 

父上は前を向いたままだ。

 

「……出てました?」

「少しな」

 

最悪だ。

 

「だが」

と父上。

「今日のところは、それで損をしたわけでもない」

 

「……」

「だからこそ、次から気をつけよ」

 

俺はうなだれた。

 

一目惚れなんて、もっとこう、浮ついたものかと思っていた。というか、もっと年齢が上になってするものだと思っていたし、あんな年端も行かない幼女相手に、などと理性はそうがなり立てる。

実際には違った。

ただ、見た瞬間に、これはもうまずい、と分かってしまった。戦国一の美女の吸引力は、吸引力の変わらない、ただ一つの掃除機以上だった。

それなのに、止めようと思うほど余計に意識する。

 

面倒くさい。

恋とかいうもの、面倒くさすぎる。

 

しかも相手は、お市様だ。

 

どうせあの方は、将来北近江浅井家へ嫁ぐ方だろう。

織田の姫として、きっとそういう未来を迎えることになる。

俺ごときがどうこう考えていい相手ではない。

 

だったら最初から、胸の内へ押し込めておくしかない。

 

そう決めた。

 

決めたが、多分、もう遅いのだろうとも思った。

 

那古野の空は高かった。

俺はその下で、まだ子どものくせに妙に重いものを抱え込んでしまった気分で、父上の半歩後ろを歩いた。

 

 

お市様に会ってからしばらくの間、俺は妙に静かだったらしい。

 

父上にも、

「また何か考えておるな」

と二、三度言われた。

 

そのたびに、

「別に」

と返したが、別に、で済むはずもない。

 

済むはずがないのだ。

 

那古野から戻ってきた日から、頭のどこかに、ずっとお市様がいた。

姿そのものというより、あの場でふっと笑った顔とか、まだ幼いのに妙に整った目元とか、そういう断片が、油断すると勝手に浮かぶ。

 

市之助に馬鹿にされ、又六郎には心配された。

 

面倒くさい。

 

しかも、面倒くさいだけならまだしも、相手は織田の姫だ。

それも三郎様と勘十郎様と同じ、正室土田御前から産まれた妹君。

 

俺ごときが勝手に胸を騒がせたところで、どうにもならない。

 

だから、押し込めるしかなかった。

 

押し込めるなら、別の方へ流すのが一番だ。

戦のことでも、田のことでも、台所のことでもいい。

とにかく、主家にとって益になる何かへ変えてしまう。

 

恋だの何だのを抱えたまま、ぼんやりしている方がよほどみっともない。

 

そう考えた時、前から温めていたことが一つあった。

 

椎茸だ。

 

山へ入るたび、俺は倒木や古い切り株に生える茸を見ていた。

雨の後、湿った木肌の陰に、いかにも旨そうなやつが出る。

出汁をとるにも貴重で、市場に出せばけっこうな値段がつく。

 

だが毎度毎度、都合よく生えるわけではない。

当たり年もあれば、外れもある。

拾い物にしてはうまいが、売り物としては不安定すぎる。

 

それが気に入らなかった。

 

木に生えるなら、木へ生やせばいい。

 

いや、口で言うほど簡単ではないのは分かっている。

分かっているが、前の人生のどこかで、ナラの倒木へ打ち込んでどうこうした話を聞いた覚えがある。

切ったばかりの木でも大丈夫なのか、半ば腐ってないとダメとか、そもそも生える時期だとか、穴をどう開けるだとか、その辺りは曖昧だ。

だが、曖昧でも、何も無いところから作るよりはましだった。

 

俺はある日、父上へ言った。

 

「父上」

「何じゃ」

「椎茸は、拾うだけでなく、作れぬでしょうか」

 

父上は書付から目を上げた。

今度は驚きより先に、また来たか、という顔だった。

 

「また妙なことを申すな」

「妙ですが」

「……何ゆえそう思う」

 

「木に生えるなら」

俺は言った。

「木に生やせばよいかと」

 

父上は、そこでしばらく黙った。

前なら即座に怪訝な顔をしただろうが、俺の突飛な申し出も今はまず一度考える。

そこまで来たのは、俺にとってはありがたい。

 

「どう生やす」

「それが、まだ全部は分かりませぬ」

「分からぬのか」

「ですが」

「うむ」

「ナラに近い木へ、しいたけの生えた木屑を打ち込めば、移るのではないかと」

 

父上は腕を組んだ。

 

「移る、か」

「はい」

「病のような言い方だな」

「まあ、木の病かもしれません」

「そなた、時々言いようが雑だな」

 

そこは仕方ない。

俺だって、完全に分かって言っているわけではないのだ。

 

だが、父上は最後にはいつものところへ落ちた。

 

「……物は試しか」

「はい」

 

それで始まった。

 

まず、木が要る。

枯れたナラの幹を探す。それと同時に、ナラの木も切っておく。

切ってすぐがいいのか、少し置くのがいいのかで揉める。

穴をどう開けるかでも揉める。

茸の生えていた古木を砕いて詰めるにしても、乾きすぎると駄目ではないか、逆に湿りすぎると腐るのではないか、そこでも揉める。

 

つまり、最初はだいたい失敗した。

 

全く生えぬ木がある。

変な茸が出る。

木そのものが腐る。

「若様、これ本当にいけるのですか」と現場の顔がどんどん渋くなる。

俺も、内心ではかなり焦った。

 

だが、全部は外れなかった。

 

いくつか、明らかに手応えのある木が出た。

 

前回より揃っている。

思い当たりのない場所から急に出たのではなく、打ったところの近くからまとまって出る。

雨のあとの伸びもいい。

何より、拾い物ではなく「次もこの木から出そうだ」と思える。

 

そこまで来ると、父上の目つきが変わる。

 

「……又八郎」

「はい」

「これは、売り物になるかもしれぬな」

 

俺は頷いた。

 

「干してもよいかと」

「干す」

「はい。軽くなり、日持ちがし、遠くへも出せます」

「……うむ」

 

そこから先は早かった。

 

父上は、すぐに本家へ報告を上げた。

田や食の話と違って、これはかなり露骨に銭へ繋がる。

しかも山の木を使い、尾張の内側で回せる。

そして、初期投資費用が少なく、さらには維持費、ランニングコストも少ないので、失敗しても損をすることがほとんどない。

戦のたびに銭が要るこの家で、見逃す理由がない。

 

那古野でその話を聞いた信秀――備後守様は、思った以上に食いついた。

 

「ほう」

と笑ったらしい。

「寝床におっても、これぐらいは指図できる」

 

その言葉が出た時点で、もう勝ちだった。

 

備後守様はまだ全快ではない。

それでも、前のようにただ病床で弱るだけの人ではない。

膳も入る。

声も戻る。

そして、面白いと思ったことへはまだ手を伸ばせる。

 

その気力がある限り、この人は家の重しであり続ける。

 

備後守様は、寝所からでも山の手配をさせた。

どの山のナラを伐るか。

誰に木を任せるか。

湿り気のある場所と風通しのよい場所をどう分けるか。

干し椎茸にして津島へ流すなら、どの商人を使うか。

 

やり始めると、この人はやはり早い。

 

三郎様も面白がった。

勘十郎様も、これは悪くないと見た。

津島へ流せば、京へも届く。

しかも魚や塩のように重くない。

乾かせば持つ。

山から出て、都へ銭に変わる。

 

その流れが見えた瞬間、椎茸はただの山の拾い物ではなくなった。

 

尾張の椎茸。

 

そう呼ばれるには、まだ少し早い。

だが、津島経由で京へ流れ始めると、味のよさより先に「またあの尾張の干し茸か」という扱いにはなった。

尾張から運んできて、品質は地のものと比べると多少は落ちるが、何より定期的にほぼほぼ一定量が安価に入手できる。

精進の膳にも使える。

出汁にもなる。

軽くて日にちも持つ。

これは強かった。

 

尾張国内はもとより、近隣諸国の寺社仏閣でも求められるようになる。

 

銭も、地味に、だが確かに入る。

 

戦一つを動かすほどではない。

だが、こういう小さい財源がいくつもある家は強い。

備後守様がそこを見逃すはずがない。

 

父上は、小田井へ戻る道すがら、珍しく俺へ言った。

 

「又八郎」

「はい」

「そなた」

「はい」

「御前様に会うてから、少し働きぶりが増したな」

 

思わず、俺は黙った。

 

父上は前を向いたままだ。

 

「……気のせいでは」

「気のせいではないな」

「……」

「悪いことではない」

「……はい」

 

そこまでだった。

それ以上は言わない。

だが、父上は父上なりに見抜いていたのだろう。

 

お市様に会って、俺の中の何かが変わったことを。

 

もちろん、その変化をそのまま口にする気はない。

しないし、できない。

 

だから俺は、その代わりに主家へ尽くす。

 

どうせこの想いは押し込めるしかない。

なら、押し込めた熱は、山へでも田へでも台所へでも流してしまった方がいい。

 

その方がずっとましだ。

 

そして、その頃から家中では、又八郎を見てこう言う者が増えた。

 

「小田井の神童様は、今度は山まで銭に変えてしまわれた」

「食だけでなく、田だけでなく、今度は茸か」

「若様、どこまで御覧になっておられるのやら」

 

そこまで持ち上げられるのは、やはり困る。

困るのだが、椎茸が売れ、銭が入り、備後守様が寝床で笑い、父上が黙って頷くのを見ると、悪い気ばかりでもなかった。

 

初恋は面倒くさい。

 

だが、面倒くさいからこそ、こうして別の形へ変えていくしかないのだろう。

 

俺はその頃には、ようやく少しだけ学び始めていた。

 

人を想うことと、家へ尽くすことは、時に別ではなくなる。

少なくとも、今の俺にとってはそうだった。

 

 

林佐渡守秀貞殿と平手中務丞政秀殿が小田井へ来る、と聞いた時、父上の顔はいつもより少し固かった。

 

そして、その後ろに柴田権六勝家殿まで来ると聞いて、俺は内心で少しだけ腹を括った。

 

これは、ただの礼では済まない。

もちろん、表向きは礼だろう。

 

上総介兄上と勘十郎兄上の間に、俺がいらぬ差し出口を挟んだ。

結果として、兄弟は本人同士で話すようになった。

讒言めいたものも減り、いつの間にか姿を消した者もいる。

家中の空気は、前よりずっとましになった。

 

そのことへの礼。

そこまでは分かる。

 

だが、信長と信勝という人の周りにいる織田家中枢の重臣たちが、それだけで終わるはずがない。

 

座敷へ通された三人は、それぞれまったく違う重さを持っていた。

 

林佐渡守は、見るからに古い家の重臣だった。秀吉が終ぞ持てなかった、譜代という名の重臣だ。

ただ年を取っているという意味ではない。

座る位置、袖の置き方、口を開く前の間に、家中の格式を背負っている感じがある。

信長という若い主の奇行に家老として振り回されながら、それでも家を崩さないために踏ん張ってきた人間の顔だ。

 

平手中務丞は、年長の分林佐渡守よりもさらに深く疲れて見えた。

だが、その疲れは弱さではない。

長く主を案じ続けた者の疲れだ。

たぶん、この人は上総介兄上の才も危うさも、どちらも早くから見ていたのだろう。

 

柴田権六は、その二人とはまた違う。

 

大きい。

声も太い。

座っていても、武辺の圧がある。

だが、ただ荒い人ではない。

目がまっすぐで、こちらを値踏みするより先に、まず礼を尽くそうとしているのが分かった。

 

父上が礼を整え、三人もそれに応じる。

 

しばらくは、定まった言葉が続いた。

 

備後守様の体調。

小田井の作柄。

近頃の家中の静まり。

上総介兄上と勘十郎兄上のこと。

 

やがて、平手中務丞が俺を見た。

 

「又八郎殿」

「はい」

「このたびのこと、まずは礼を申し上げる」

 

そう言って、深く頭を下げた。

慌てた。

 

「中務丞殿、頭をお上げください。私が受ける礼ではございません」

 

「いや、受けていただきたい」

林佐渡守も続いた。

「若殿と勘十郎様の間があのまま深く割れておれば、織田家はどうなっていたか分からぬ。又八郎殿の一言が、いらぬ口を封じた面は確かにある」

 

柴田権六は、もっと直截だった。

 

「某からも礼を申す。勘十郎様が、上総介様と正面から口を利けるようになった。それだけで、末森の空気はかなり変わった」

 

俺は少し黙った。

 

礼を言われるのは、どうにも慣れない。

しかも、この三人からとなると、重すぎる。

 

「私は、ただ差し出口を申しただけにございます」

 

林佐渡守が首を横に振った。

 

「差し出口にも、家を割るものと、家を繋ぐものがある」

 

平手中務丞が静かに頷く。

 

「ただ、その差し出口を申せる者は少ない」

 

柴田権六は鼻を鳴らした。

 

「首まで賭けたと聞いた。最初に聞いたときは阿呆かと思ったが、あれでおそらく勘十郎様も退けなくなった」

「そこは忘れてください」

「忘れられるか」

 

ひどい。

 

だが、場は少しだけ緩んだ。

 

そのまま終われば、ただの礼で済んだのかもしれない。

 

しかし、林佐渡守と平手中務丞の顔には、まだ何か残っていた。

 

俺はそれを見てしまった。

 

上総介兄上と勘十郎兄上の仲が修復された。

それは喜ばしい。

だが、信長という人そのものへの心配が消えたわけではない。

 

むしろ、兄弟の件が落ち着いたからこそ、次の不安が見えている。

 

そんな顔だった。

 

父上も気づいたのだろう。

黙って茶を置かせ、席を整え直した。

 

林佐渡守が、少し間を置いて口を開いた。

 

「又八郎殿」

「はい」

「失礼を承知で申す」

「はい」

「上総介様の振る舞いを、そなたはどう見る」

 

座の空気が、また変わった。

 

柴田権六の目も少し動く。

平手中務丞は、林佐渡守を止めない。

つまり、これは二人が聞きたかったことなのだ。

 

俺はすぐには答えなかった。

 

上総介兄上の振る舞い。

 

それは、要するに奇行のことだ。

 

服装。

言葉。

歩き方。

人の使い方。

急な発想。

説明を飛ばす癖。

家臣の顔色をまったく気にしていないように見える態度。

周囲から見て理由の解らぬ怒り。

 

この時代の重臣からすれば、こんなの頭が痛いに決まっている。

 

だが、俺も人のことは言えない。

 

馬に肉の煮汁を食わせる。

牛の乳を煮て飲ませる。

鞍なしで馬に乗る。

手綱を緩める。

落ちる稽古をする。

鼻上の布や耳袋付きの覆面を考える。

 

小田井の神童と呼ばれながら、同時に変人扱いもされている。

その俺が、信長の奇行をどうこう言うのは、かなり危うい。

 

「実際に奇行を行っている自分が言うことではないかもしれませんが」

 

そう前置きすると、柴田権六が小さく笑った。

 

林佐渡守は笑わなかった。

平手中務丞も、真剣にこちらを見ている。

 

俺は続けた。

 

「奇行に見えても、本人にはやるべき理由があるのです」

 

林佐渡守の眉が動いた。

 

「理由があれば、何をしてもよいと」

 

「いいえ」

俺は首を横に振った。

「たしかに上総介兄上は説明が足りませぬ。そこはあの方が悪い」

 

一瞬で空気が凍った。

 

柴田権六が目を見開く。

平手中務丞も息を止めた。

林佐渡守の顔には、はっきり怒気が浮いた。

 

「お主、殿を愚弄するか」

 

声は低い。

だが、刃がある。

 

父上の気配も固くなる。

 

俺は頭を下げなかった。

ここで下げると、言葉そのものが逃げになる。

 

「愚弄ではございません」

「では何だ」

「お二人は、上総介兄上が心配だからこそ、そこまで心を痛めておられるのでしょう」

 

林佐渡守の目がさらに鋭くなる。

 

俺は言葉を続けた。

 

「ただ嫌っているなら、適当に相手をし、心の中では放っておけばよい。奇行と笑い、若気と切り捨て、いずれ潰れると離れればよい。でも、お二人はそうなさらない。ならば、それは心配です」

 

平手中務丞の顔が、わずかに歪んだ。

 

刺さったのは、たぶんこちらだった。

 

「家臣が主を思うなら、主もまた家臣を思わねばなりませぬ。家臣を思い遣れなければ、家は栄えませぬ」

 

「又八郎殿」

平手中務丞の声は静かだった。

「それは、殿に家臣への思い遣りがないと申すか」

 

「いいえ。あの方には、我ら以上の思い遣りがあるのだと思います」

「ならば」

「ただ、表には見えませぬ。むしろ、出すのを弱さだと思うてらっしゃる」

 

それが、一番の問題なのだと思った。

 

上総介兄上は、たぶん見ている。

人も、家も、先も、かなり遠くまで見ている。

だが、その見えている途中を説明しない。

 

一足飛びに結論へ行く。

 

本人の中では、つながっているのだろう。

だが、周りには飛んで見える。

 

だから、奇行になる。

 

「上総介兄上には、上総介兄上なりの理由があるのでしょう。ですが、途中を言わぬまま結論だけ出されれば、家臣は戸惑います。何を見ておられるのか、なぜそうなさるのか、どこまで本気なのか、分からぬまま従うことになる」

 

林佐渡守は黙った。

 

俺は、そこでもう一歩だけ踏み込んだ。

 

「これでは、将、将足らず、です」

 

柴田権六が、今度こそ声を出しかけた。

 

林佐渡守の怒気も強くなる。

 

だが、俺は続けた。

 

「才がないという意味ではございません。むしろ、才がありすぎるから困るのです。本人だけが見えて、周りに見えぬ。ならば、将として家臣へ道を示すところが足りませぬ。死ねと言われて、闇雲に死ぬより、自分のために死んでくれと正直に言われた方がよい」

 

その時だった。

 

「ほう」

 

背後の襖の向こうから、声がした。

心臓が止まりかけた。

 

その声は、あまりにも聞き覚えがある。

襖が開く。

 

上総介兄上が、そこに立っていた。

後ろには、苦笑気味で勘十郎兄上もいる。

 

遊びに来ていた、というには、間が良すぎる。

いや、間が悪すぎる。

 

どちらかは分からない。

上総介兄上は、笑っていた。

ただし、目は笑っていない。

 

「又八郎」

「はい」

「俺は将、将足らず、か」

 

逃げたい。

ものすごく逃げたい。

だが、ここまで言って逃げるわけにはいかなかった。

 

「はい」

 

父上が、横で目を閉じた。

 

林佐渡守と平手中務丞は、即座に平伏しかけた。

柴田権六も姿勢を正す。

 

上総介兄上は手を上げた。

 

「よい。そのまま聞く」

 

そして、俺の前へ座った。

勘十郎兄上も、少し離れて座る。

 

勘十郎兄上は、笑いをこらえているような、心配しているような、かなり複雑な顔をしていた。

 

「続けよ」

上総介兄上が言う。

「今、俺の悪口を申しておったのであろう」

 

「悪口ではございません」

「では何だ」

「苦言です」

「ほう。大きく出たな」

 

その言い方は軽い。

だが、場は軽くない。

 

俺は林佐渡守と平手中務丞を見た。

 

「佐渡守殿も、中務丞殿も、上総介兄上の才を疑っているわけではございません」

 

林佐渡守が、少しだけ顔を上げる。

 

平手中務丞はまだ頭を下げたままだ。

 

「ただ、途中が分からぬのです。なぜその姿で家臣たちの前に出るのか、なぜその者を使うのか、なぜそこで笑い、なぜそこで怒るのか。兄上の中ではつながっていても、家臣には見えませぬ」

 

上総介兄上は黙って聞いている。

 

俺は続けた。

 

「一足飛びに話をしても、途中が分からなければ家臣は戸惑うばかりです」

「林や平手に、俺が降りて話せと」

「はい」

 

林佐渡守が、そこで顔を上げた。

 

「又八郎殿」

 

俺はそちらを見た。

 

「佐渡守殿は、政務と家中の運びに非常に長けておられます。織田の幹を支える大事な宿老です。上総介兄上とは、苦言も多くそりが合わぬところもありましょう。けれど、そりが合わぬから何も話さぬ、では損です」

 

林佐渡守の目が変わった。

 

怒りだけではない。

驚きが混じる。

 

「私が、役に立つと申すか」

「はい」

「殿とそりが合わぬ私が」

「そりが合う者だけで家を回すのは危ういです。景気の良いこと、阿諛追従を申す者だけに囲まれ、織田家は項王や袁家、蜀漢のごとく滅亡へとひた走ることとなりましょう」

 

上総介兄上の口元が、少し動いた。

 

俺は構わず続けた。

 

「耳に痛いことを言う者、古い家中の顔を知る者、家臣の戸惑いを拾える者。そういう者がいなければ、才ある主ほど一人となり、そして遠くへ行きすぎます」

 

平手中務丞が、そこで静かに顔を上げた。

 

「では、私は」

「中務丞殿は、上総介兄上を心配しすぎるのだと思います」

 

柴田権六が小さく息を漏らした。

 

平手中務丞は怒らなかった。

むしろ、痛いところを突かれた顔だった。

 

「心配しすぎる、か」

「はい。心配するあまり、止めることが先に立つ。上総介兄上からすれば、分かってもらえぬと感じることもあるのではないかと」

 

上総介兄上が、初めて少しだけ目を細めた。

 

俺はそちらへ向き直る。

 

「ですが、兄上も悪い」

「まだ言うか」

 

「言います」

もう、ここまで来たら同じだ。

「心配されるようなことをしておきながら、なぜそうするのかを言わない。分かる者だけ分かれ、では家臣が困ります。家臣が困れば、家が乱れます」

 

「家臣を思い遣れ、か」

「はい」

「それを俺に言うか」

「申します。そして聞いて頂きます。兄上」

 

言ってしまった。

 

座敷が完全に静まった。

 

柴田権六が、ものすごい顔で俺を見ている。

林佐渡守は固まっている。

平手中務丞は、頭を下げるべきか上げるべきか迷っているようだった。

 

勘十郎兄上だけが、とうとう小さく笑った。

 

「兄上、又八郎は俺の時もこうでした」

「首を賭けたか」

「はい」

「今回は何を賭ける」

「耳くらいで許してやってください」

 

ひどい。

 

上総介兄上は、そこでようやく声を出して笑った。

 

大笑いではない。

だが、場の硬さを少しだけ割る笑いだった。

 

「又八郎」

「はい」

「お前は本当に、口が過ぎる」

「承知しております」

「承知していて言うか」

「言わねばならぬと思ったので」

「そこがまた腹立たしい」

 

そう言いながら、上総介兄上は林佐渡守と平手中務丞を見た。

 

二人の顔が引き締まる。

 

「佐渡」

「はっ」

「平手」

「はっ」

「俺は、お前らが何に頭を痛めておるか、知らぬわけではない」

 

林佐渡守の肩が、わずかに動いた。

平手中務丞は、静かに頭を下げる。

 

上総介兄上は続けた。

 

「だが、俺にも見えておるものがある。古い形のままでは、織田は喰われる。斎藤にも、今川にも、いずれ来る大きな波にもだ」

「はい」

 

林佐渡守が答える。

 

「されど」

上総介兄上は、そこで少しだけ言葉を切った。

「その途中を言わねば、そなたらには見えぬか」

 

平手中務丞が、深く頭を下げた。

 

「恐れながら」

「申せ」

「見えませぬ」

 

言った。

 

平手中務丞が言った。

 

「殿の才は、疑っておりませぬ。ですが、あまりにも遠く、あまりにも急にお進みになる。なぜそこでお笑いになるのか、なぜそこでお怒りになるのか、何をお試しなのか。某どもには分からぬ時がございます」

 

林佐渡守も続いた。

 

「古き家中が戸惑うのは、ただ古いからではございませぬ。何を守ればよいのか、何を捨てればよいのか、その境が分からぬ時にございます」

 

柴田権六は、少し考えてから言った。

 

「勘十郎様の側でも同じにございました。言葉の間を、勝手な者が埋める。埋められると、本人の声ではなくなる」

 

それは、以前の兄弟の件そのものだった。

 

上総介兄上は、柴田権六を見た。

 

「権六」

「はっ」

「お前も、そう見たか」

「はい。某も、間に入る言葉の怖さを見ました」

 

勘十郎兄上が、そこで静かに言う。

 

「兄上。俺とのことも、結局そこでした。本人へ聞く前に、周りの言葉が積もりすぎた」

 

上総介兄上は、しばらく黙った。

その沈黙は、怒りではなかった。

考えている沈黙だ。

 

やがて、上総介兄上は俺を見た。

 

「又八郎」

「はい」

「俺は、家臣に降りねばならぬか」

「必要な時は」

「いつだ」

「途中を知らねば動けぬ時です。理由を知らねば不安だけが膨らむ時です。才ではなく、信で人を動かしたい時です」

「信か」

「はい」

「恐怖では足りぬか」

「速く動かすには足りるかもしれませぬ。でも、長く支えるには足りませぬ」

 

林佐渡守と平手中務丞が、黙って聞いている。

 

柴田権六も、目を逸らさない。

 

上総介兄上は、ふっと笑った。

 

「お前、本当に子どもか」

「その問いは、何度も聞かれています」

「ならば、何度でも言われるだけの口を慎め」

「善処します」

「善処では困る」

 

父上と同じことを言う。

 

勘十郎兄上が笑った。

 

「兄上、それは左衛門佐殿も日頃よりよく言っておられます」

「だろうな」

 

そこで、ようやく座敷に少しだけ息が戻った。

 

上総介兄上は、林佐渡守と平手中務丞へ向き直る。

 

「佐渡、平手」

「はっ」

「俺は、すべてを一から十まで言う性分ではない」

「存じております」

 

林佐渡守が答える。

 

「だが、言わねば分からぬこともあると、今日こやつに言われた」

「はっ」

 

「腹は立つ」

そこは言うのか。

「だが、外れてはおらぬ」

 

平手中務丞の顔が、ほんの少しだけ揺れた。

 

「これより、俺が何かを変える時、そなたらが分からぬなら聞け」

 

林佐渡守が顔を上げる。

 

「よろしいので」

「聞かずに腹の中で腐らせるよりはよい」

「はっ」

「ただし、聞くなら正面から聞け。陰で色を足すな。誰かの口を借りるな」

 

「承知仕りました」

平手中務丞も、深く頭を下げた。

「殿。私も、止めるだけにならぬよう努めます」

 

上総介兄上は、少しだけ柔らかい顔になった。

 

「そなたは心配しすぎる」

 

平手中務丞は、苦く笑った。

 

「それは、又八郎殿にも言われました」

「ならば本当なのだろう」

「耳が痛うございます」

「俺も痛い」

 

それは、かなり大きい一言だった。

 

林佐渡守も、平手中務丞も、柴田権六も、そこで完全に空気が変わったのを感じたはずだ。

 

上総介兄上は、自分の非をまったく認めないわけではない。

家臣に聞けと言う。

自分も痛いと言う。

 

それだけで、重臣たちはかなり救われる。

 

柴田権六が、低く言った。

 

「上総介様」

「何だ、権六」

「勘十郎様は、変わられます」

「知っておる」

「ならば、我らも変わります」

 

上総介兄上は少し笑った。

 

「よい。お前は武辺らしく、短く太い方が分かりやすい」

「恐縮にございます」

 

たぶん、褒めている。

 

たぶん。

 

俺はようやく息を吐いた。

 

緊張で、膝の上の手が少し汗ばんでいた。

 

林佐渡守が、改めて俺を見る。

 

さっきの怒気はもうない。

 

「又八郎殿」

「はい」

「殿を悪く言われた時は、斬りかねぬと思った」

「申し訳ございません」

 

「だが」

林佐渡守は、少しだけ頭を下げた。

「言わせてしまったのは、我らの弱さでもあるのだろう」

 

「それは」

「よい。こちらも、途中を聞く勇気を持たねばならぬ」

 

平手中務丞も言った。

 

「私は、止めることに寄りすぎておりました。殿の御心を案じるあまり、殿が何を見ておられるかを聞く前に、危ういと決めてかかっていたのかもしれませぬ」

 

上総介兄上は、それを聞いて何も言わなかった。

 

ただ、目を逸らさなかった。

 

それで十分だった。

 

勘十郎兄上が、最後に俺を見て言った。

 

「又八郎」

「はい」

「お前は本当に、揉め事の真ん中に突っ込むのが好きだな」

「好きではありません」

「では、なぜ毎度入る」

「きっとこのまま放っておくと、もっと面倒になるからです」

 

上総介兄上が笑った。

 

「それはそうだ」

 

父上が、横で深いため息をついた。

 

「又八郎」

「はい」

「口を慎めと言ったはずだ」

「善処はしました」

「しておらぬ」

 

その返しに、座敷に小さな笑いが落ちた。

 

大きな笑いではない。

だが、林佐渡守も、平手中務丞も、柴田権六も、上総介兄上も、勘十郎兄上も、同じ場で笑えた。

 

それだけで、この場には意味があったのだと思う。

 

織田信長という人は、たぶんこれからも奇行をやめない。

 

いや、やめられない。

見えているものが違いすぎる。

速度も違う。

発想も飛ぶ。

 

だが、飛ぶなら、せめて飛ぶ前に足場を少し示す。

周りが何に戸惑っているかを見る。

そりが合わぬ家臣とも、必要なら正面から話す。

 

勘十郎兄上との和解で、上総介兄上は「本人から聞く」ことの重さを知った。

 

今日、その重さが、家臣にも向いた。

それは、史実がどうこうではない。

 

今、この小田井で、確かに一つ変わったということだ。

 

俺は、上総介兄上と林佐渡守、平手中務丞、そして柴田権六を見た。

この家は、まだ割れずに済む。

 

そう思った。

 

もちろん、また面倒は起きる。

上総介兄上は上総介兄上だ。

林佐渡守は林佐渡守だ。

平手中務丞は心配しすぎるし、柴田権六は武辺の芯でぶつかる時はぶつかる。

 

けれど、本人同士で聞くなら。

途中を話すなら。

勝手な誰かが、言葉の隙間へ火を投げ込みにくくなる。

 

それだけで、家は少し強くなる。

 

小田井の神童などという呼び名は、相変わらず好きではない。

 

だが、こういう時だけは、少しだけ使い道があるのかもしれなかった。

 

 

天文二二年、斎藤山城守との聖徳寺における会見が決まった時、上総介兄上も勘十郎兄上も、妙に機嫌が良かった。

 

いや、正しくは、何か企んでいる時の顔だった。

 

「蝮殿がよ」

と、上総介兄上は小田井城の俺の部屋に来るなり、懐から取り出した瓜を齧りながら笑った。ちゃんと勘十郎兄上と俺の分も持って来ているところが、この人らしいというか、なんというか。

「尾張のうつけ者と、その弟を見物しに来るのであろう」

 

「まあ、そうであろうな」

と勘十郎兄上。

「ならば、見物させてやればよいではないか」

 

その言い方が、もう良くない。

 

俺はその時点で嫌な予感しかしなかった。

この二人が揃ってこういう顔をしている時は、たいてい碌なことにならない。

 

案の定、上総介兄上が身を乗り出した。

 

「又八郎、何かあるまいか」

「何か、とは」

「蝮殿の度肝を抜くものじゃ」

 

そこへ来るか、と思った。

 

史実の信長公は、茶筅髷に浴衣じみた姿、腰に火打ち袋や瓢箪をぶら下げた奇矯な出で立ちで道中を進み、道三を「やはりうつけ」と油断させておいて、聖徳寺ではきっちり正装に着替えて現れたという。

あれは、十分すぎるほど強い。のちに太閤秀吉相手に前田慶次もやったらしいが、傾奇者の嗜好は大体同じようなところに落ち着くらしい。

小田原参陣遅参を詫びる際の伊達政宗にも通じる芝居気質なんだろうな。

 

だが、目の前の二人は、そこへさらに何か足したいらしい。

 

俺は少し考えた。

考えた末に、思い出したのは、ずっと後の世に、伊達政宗がやった馬揃えだった。

 

「……派手に、なさるのであれば」

「うむ」

「足軽は元より騎馬武者の装いを揃えてしまうのはいかがでしょう」

 

上総介兄上の目が、そこで既に面白がっている。

 

「揃える?」

「全員同じ意匠の黒漆の具足で」

「ほう」

「前後に金の星を打つ」

「ははっ」

「馬にも必要でしょう」

 

もう笑っている。

 

勘十郎兄上が腕を組んだ。

 

「馬鎧もか」

「はい。豹皮、虎皮、孔雀の尾など、目に見える珍物を飾りに使えば、道中で見せるには十分かと」

「馬まで伊達にするわけだな」

「左様にございます」

 

そこで俺は、もう一つ思いついたことを足した。

 

「騎馬ばかりでは片手落ちかと」

「ほう?」

と勘十郎兄上。

「足軽も見せるか」

「はい。兄上たち御考案の三間半柄の長槍で揃えた足軽を前後に置けば、見世物であると同時に、ただの悪ふざけではなくなります」

 

二人の目が変わった。

 

三間半。

おおよそ六尺どころではない、約六・三メートル。

当世の槍としては明らかに長い。

それがずらりと揃って歩けば、遠目にも異様だし、近くで見ればもっと異様だ。

精強で知られる他国の軍と違い、どこか切実さが足りない豊かな尾張兵とでは、戦うための地の力が違う。それを補うための方策として、上総介兄上と勘十郎兄上が着手した軍制改革の一端である。

 

「我ながら長すぎて笑えるな」

と上総介兄上。

「だが、横へ並べば槍衾も壁に見える」

と勘十郎兄上。

 

「加えて」

と俺。

「弓と鉄砲、合わせて五百丁ほど、脇へ付けましょう」

「五百」

上総介兄上が、そこで本気で笑った。

「又八郎、おぬし、蝮殿を驚かすと言いつつ、脅かす気でおろう」

「驚かせるだけでは足りませぬ」

「確かにな」

 

勘十郎兄上も頷く。

 

「ただ珍しいだけでは、派手好きのうつけで終わる」

「はい」

「だが、騎馬は異様に美しく揃い、足軽は長槍で壁をなし、その脇に弓鉄砲五百となれば」

「見世物の皮を被った軍勢に見えます」

「そういうことだ」

 

上総介兄上が、ぱんと膝を打った。

 

「よい! それよ! どうせなら、ただのうつけではなく、見たこともないうつけで行く!」

 

勘十郎兄上も、口元を緩めた。

 

「蝮殿の度肝を抜くには良い。どうせなら、供回りにも馬鹿馬鹿しいほど大きな見せ物を背負わせるか」

「金塗りの鞘に朱塗りの木太刀など」

と俺が言うと、

「それだ」

と上総介兄上は即答した。

 

こうして決まった。

 

柴田権六殿、森三左衛門殿ら大兵の供回りには、通常の刀とは別に、一間半はあろうかという朱塗りの木太刀を背負わせる。

騎馬武者は皆、同じ黒漆の具足。

馬には豹皮、虎皮、孔雀の尾。

その前後を、三間半柄の長槍で統一した足軽衆が固める。

さらに脇には、弓と鉄砲を合わせて五百丁の精鋭を付ける。

 

ただ派手なだけではない。

見た者に、尾張はもう「奇矯な若殿がいる家」ではなく、「形を揃えて人を動かせる家」だと叩き込む布陣だった。

 

しかも、こういう時の織田は異様に早い。

津島商人の伝手を使えば、珍物は集まる。

皮革も、飾りも、布も、金具も、数日で形になる。

長槍の柄木も、朱塗りの大太刀も、弓鉄砲の持ち手も、上総介兄上の「面白い」が乗った時の人と銭の動きは、時に軍勢より速い。

 

そして当日、道中は実際にひどかった。

 

ひどい、というのは、もちろん良い意味でだ。

 

先頭近くを進む足軽の長槍は、揃って空を裂くように前へ伸びていた。

三間半柄が一列に動くさまは、槍というより林が歩いているようなものだ。

それだけで道の両脇の者は目を奪われる。

 

その後ろ、あるいは脇を固める黒漆の騎馬武者たちは、陽を吸って鈍く光る。

前後に打たれた金の星が、動くたびちらちらと光る。

そこへ豹皮と虎皮、孔雀の尾まで揺れる。

馬上の一団は、揃いすぎていて逆に異様だ。

 

さらに弓衆と鉄砲衆。

ただ数を並べたのではない。

歩幅も列も、持たせ方まで揃えた五百の精鋭が脇に付くと、それだけでこの行列が見世物ではなく「整えられた力」だと分かる。

 

権六殿と三左衛門殿たち馬廻が背負う朱塗りの大太刀は、その中でもひときわ馬鹿馬鹿しい。

だが、馬鹿馬鹿しいからこそ目立つ。

そして、その馬鹿馬鹿しさを笑い切れぬだけの兵が周囲に揃っている。

 

上総介兄上はその中にあって、いつもの茶筅髷に、敢えて崩した軽装で馬を進めていた。

奇抜さだけなら、確かに評判通りのうつけである。

 

だが、供回りの異様さと噛み合うと、単なる乱痴気騒ぎではなくなった。

こいつは本当にただの阿呆なのか、それとも全部分かってやっているのか。

見る者の腹へ、そういうざらつきを残す。

 

聖徳寺近く、道の脇の小屋から、斎藤山城守殿がこちらを見ていた。

 

後に聞けば、その時はやはり「評判通りのうつけよ」と笑ったらしい。

だが、その笑いは、列を見渡すうちに少しずつ変わったはずだ。

 

まず目立つのは派手さだ。

次に見えるのは、統一されていることだ。

そして、よく見れば、統一の奥に軍の骨が通っている。

 

長槍の列は見栄えのためだけではない。

弓鉄砲五百は飾りではない。

騎馬の揃い具足も、珍装ではなく指揮の通りを示している。

 

ただ奇抜なだけではない。

この馬鹿げた趣向を、本当に一軍の形へ揃えて持ってきた者がいる。

 

尾張は、少なくとも人と銭と手足を、この若殿の「やれ」で即座に動かせる。

そのこと自体が、十分不気味だったろう。

 

そして聖徳寺へ入る。

 

そこから先は、史実通りにやった。

 

控えの間で、上総介兄上は髪を整え、衣を改め、きっちり正装へ変わった。

さっきまでの道中とは別人だった。

隣に立つ勘十郎兄上もまた、落ち着いた威を纏っている。

 

さっきまでの見世物じみた行列を見た後で、いがみ合ってたはずのこの二人がこう出てくれば、そりゃ効く。

 

斎藤道三は、そこで初めて、尾張の若殿兄弟がただのうつけではないと、腹の底から飲み込んだのだと思う。

 

だが、その会見より前に、俺には別にやっておかねばならぬことがあった。

 

俺は、上総介兄上へ一通の文を託した。

 

「兄上、これを」

「蝮殿へか」

「はい」

 

「何だ、又八郎」

と勘十郎兄上。

「まじない札の類ではあるまいな」

 

「違います」

 

違うが、当人にとってはまじない札よりよほど重い。

 

文面は、何度も書き直した。

 

あまりに先を断じれば、妖しすぎる。

だが曖昧では伝わらぬ。

だから、出来るだけ短く、出来るだけ切実に、こうした。

 

――新九郎殿ご謀反の気配これあり。

孫四郎殿、喜平次殿、新九郎殿不予の折、登城なさるべからず。討ち取られ候。

山城守様、その折は一目散に小田井へおいで下され。死人として匿い申す。

 

上総介兄上は、文を一読して、さすがに笑わなかった。

 

「……又八郎」

「はい」

「そこまで見えるか」

「見えるというより、嫌な形で予感が胸に残っております」

「そうか」

 

勘十郎兄上も、横から覗いて眉をひそめた。

 

「孫四郎殿と喜平次殿まで名指しか」

「それでなければ、山城守様は本気になさらぬかと」

「ふむ」

 

上総介兄上は、少しだけ考え、それから文を畳んだ。

 

「分かった。蝮殿へ渡そう」

「お願いします」

 

そして会見の場。

 

何がどこまで道三の胸へ入ったかは、外からは分からぬ。

だが、後に伝わったあの言葉――「我が子らは、いずれ信長の門前に馬を繋ぐ」――が出た以上、目の前の上総介兄上に心底打たれたのは間違いない。

 

そのうえで、兄上が差し出した又八郎からの密書を読み、道三はさすがに身を震わせたらしい。

 

それもそうだろう。

 

ただ鋭い若殿が尾張にいる、というだけでも厄介だ。

その傍に、小田井の神童と呼ばれる子がいて、自家の破れ目を、しかも名まで挙げて先に書いてよこす。

 

気味が悪い、で済む話ではない。

 

未来を知る、などとまでは思わなくとも、少なくとも自分の家の先に差す不穏を、尾張側の子供に先んじて見抜かれた、その事実は重い。

 

上総介兄上と又八郎が尾張にいる。いざという時の楔となるはずの勘十郎兄上とも深く和解し、他の一門同士も同様に強力に結びつこうとしている。

 

それだけで、斎藤家の未来にはもう猶予が薄い。

 

そう悟らせるには、十分すぎた。

 

会見から戻った後、上総介兄上はひどく上機嫌だった。

 

「見たか、又八郎」

「何をです」

「蝮殿の顔よ。途中までは完全に面白がっておったが、最後は目の色が違うた」

「兄上の変わり身が効いたのでしょう」

「それもある。だが、おぬしの文も効いた」

 

勘十郎兄上が、静かに続けた。

 

「斎藤山城守ほどの男でも、自分の家の破れ目を外から先に言い当てられれば、嫌でも構える」

「……あまり当たってほしくないことですが」

「そうであろうな」

 

「だが」

と上総介兄上。

「これで蝮殿は、尾張を侮らぬ。我らだけでなく、おぬしのこともな」

 

それは、あまり嬉しい話ではなかった。

嬉しいより先に、重い。

 

だが、ここから先はきっとそういう重さを抱えて進むのだろう。

 

聖徳寺の一日で、道三は上総介兄上の非凡を見た。勘十郎兄上の崩れぬ兄弟の繋がりを察した。

そして、その傍にいる小田井の又八郎の不気味さも、きっと見抜いた。

 

尾張のうつけと笑って済ませるには、織田はもう少し手が揃いすぎていたのだ。

 

 

 

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