織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
河内の夜は、妙に静かだった。
飯盛山の方角から吹き下ろす風はまだ冷たく、灯の届かぬ廊の端では、闇がそのまま居座っているようにも見える。だが、その静けさは、落ち着きとはほど遠かった。城の内側には、病む主君を抱えた家中特有の、息を潜めたざわめきが満ちている。
三好筑前守長慶は、痩せていた。
ただし、弱っているのと、気力が尽きているのとは違う。
床に半ば身を預けていても、その目だけはまだ死んでいない。むしろ、衰えた身体の奥で、目だけがやけに冴えて見える。人は、本当に最後のところでだけ、妙に澄むことがある。
松永久秀は、その前に膝をついていた。
「弾正」
長慶が呼ぶ。
「は」
久秀は深く頭を垂れた。
若い頃のような、剥き身の野心だけで仕えていた頃の礼ではない。長年、主君の近くで政と戦を見てきた者の礼だった。
長慶は、少し息を整えてから言う。
「孫次郎を、見たか」
久秀は顔を上げぬまま答えた。
「は。今日も御前へ参られ、政務のこと、兵のこと、よう気を配っておられました」
「そうか」
長慶は、そこでほんのわずかに口元を緩めた。
孫次郎。
三好義興。
天文十年(1541年)生まれ、いまは二十を越えた若者である。もう童ではない。若殿、というだけでもない。父の前で政務を言い、家の先を見ねばならぬ年齢だった。
「孫次郎様は、よう育っておられます」
久秀は、そこで改めて言った。
「若くして聡く、武辺にも臆さず、人の顔も見ておられる。宗家を継ぐに足る御方にございます」
長慶は、それを聞いてしばらく黙っていた。
「……足る」
ぽつりと繰り返す。
「足る、か」
「は」
「だが」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
久秀は顔を上げた。
長慶の目が、先ほどまでとは別の色になっている。父としての目ではない。政権の頂に立ち、家の内側から腐る気配を嗅ぎ続けてきた男の目だ。
「わしが死ねば」と長慶は言った。
久秀はすぐに口を開きかけたが、長慶は手で制した。
「よい。慰めは要らぬ」
「……は」
「わしが死ねば、三人衆はきっと宗家を戴くふりをする」
久秀の顔から、完全に感情が消えた。
長慶は続けた。
「最初は支えると言おう。家のため、孫次郎のため、三好のためと、美しいことを幾つも並べよう。だが、いずれ違う」
「……」
「三好宗家を飾りにし、やがては邪魔と見る」
久秀の指先が、畳の上でわずかに強ばる。
「そのようなこと」
「ある」
長慶は、言い切った。
「人の腹は、病で鈍らぬ。むしろ、病んで床にあるからこそ、よう見える」
それは、自嘲でもあった。
己が衰え、己の統制が弱ったからこそ、周囲の本性が見える。そういう苦さが滲んでいる。
「三人衆は、わしが生きておるうちは、まだ“長慶の威”を使う。だが死ねば違う。宗家のためと言いながら、宗家を締め上げるであろう」
久秀は、そこで低く言った。
「させませぬ」
長慶の目が、静かに久秀へ落ちる。
「弾正」
「は」
「おぬしは毒だ」
久秀は、その言葉に顔色一つ変えなかった。
否定もしない。
むしろ、そう見られていることを分かったうえで、今までこの主君のもとにいたのだろう。
「はい」
「だが、今の三好には、その毒が要る」
「……」
「孫次郎を、宗家を、残せ」
その声は、先ほどまでより少しだけ低かった。
命令というより、遺言に近い。
「手段は問わぬ」
久秀の目が、そこで初めて揺れた。
「それは」
「きれいにやろうと思うな」
長慶は、少し息を乱しながらも言葉を切らなかった。
「三好を残すために、三好の外へ頭を下げることもあろう。好かれぬ者と手を結ぶこともあろう。飲み込まれぬために、より大きな獣の影へ寄ることもあろう」
久秀は、黙って聞いていた。
「よいのですか」と、やがて問う。
「何がだ」
「三好の名を残すために、三好の手だけでは足りぬ時、外の力を借りることを」
長慶は、そこでほんのわずかに笑った。
「今さら、何を言う」
「……」
「この畿内で、己の手だけで立った者など一人もおらぬ。皆、誰かを使い、誰かに使われ、誰かの名を借りて生き残ってきた。違うか」
「違いませぬ」
「ならば、孫次郎と宗家が残る方を取れ」
久秀は、そこでゆっくりと頭を下げた。
さっきまでの礼より、さらに深く。
「……はっ」
長慶は、その様子を見て、少しだけ目を閉じた。
だが、まだ終わらない。
「弾正」
「は」
「おぬしは、よう働いた」
その一言で、久秀の肩がほんの少しだけ動いた。
「人は、おぬしを恐れよう。嫌おう。疑おう。だが、わしは知っておる」
「……過分にございます」
「過分ではない」
長慶は、静かに言った。
「おぬしは、おぬしなりに、よう三好を支えた」
久秀は、そこで初めて言葉に詰まった。
目を伏せ、膝の上へ置いた手を少しだけ握る。
「……もったいなきお言葉」
「褒めて終える気はない」
「は」
「だから、まだ働け」
そこまで言って、長慶は息を吐いた。
「孫次郎を守れ。宗家を残せ。あとは頼んだ」
久秀は、額が畳に触れるほど深く伏した。
「この弾正、命を尽くし」
そこで、長慶が少しだけ眉を動かす。
「命を尽くすな」
久秀が顔を上げた。
「は」
「死んで済む働きなら、誰でもできる」
その言葉には、長慶らしい冷たさがあった。
戦国の主君の冷たさ。
だが、それは久秀を見捨てる冷たさではない。
「生きて働け」
久秀は、ほんのわずかに目を見開いた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……承知仕りました」
長慶は、その返事に満足したように、少しだけ目を細めた。
「よい」
部屋の外では、夜気がさらに深まっていた。
誰も大声を出さない。
病む主君の部屋の外で、皆が息を殺している。
その静けさの中で、久秀はもう一度だけ主君の顔を見た。
衰えている。
病んでいる。
だが、判断はまだ生きている。
そしてその判断は、自分へ向けて「毒であれ」と命じた。
宗家を残すための毒であれ、と。
久秀は、静かに立ち上がった。
「孫次郎様のもとへ参って参ります」
「うむ」
「今宵のこと、胸に刻みます」
「刻め」
「は」
襖の前まで下がり、それでもなお一度振り返る。
長慶はもう目を閉じていた。
だが眠ったのではない。ただ、言うべきことを言い終えて、ほんの少しだけ力を抜いたのだと分かった。
久秀は、そこで深く一礼し、部屋を出た。
廊へ出ると、風が少し冷たかった。
だが、その冷たさで頭はむしろ冴えた。
三人衆は、いずれ宗家を食う。
孫次郎様は、守らねばならぬ。
そのために、きれいでない道も通る。
松永久秀が、のちに織田へ近づく理由は、もうその夜に定まっていた。
それは、寝返りではない。
三好長慶という主君の、最後の信任を背負った一歩だった。
♢
三好義興――孫次郎の部屋は、父の病室とはまた別の重さがあった。
若い。
まだ二十を少し越えたばかり。
だが、若いからこそ、これから背負わねばならぬものの重さが、そのまま顔に出る。
久秀が通されると、義興はすでに座して待っていた。
立ち上がりはしない。
主家嫡男としての矜持か、あるいは立てばそれだけ心が揺らぐと知っているのか。どちらにせよ、よい座り方だった。
「弾正」
「は」
久秀は、深く礼を取った。
「父上と話したな」
義興の声は静かだった。
だが、その静けさは諦めではない。覚悟の方に近い。
「話し申した」
「……そうか」
少しの沈黙。
義興は、そこでまっすぐ久秀を見た。
「将軍を擁し、朝廷とも結びつき始めている織田に降りまする」
久秀は、言葉を選ばなかった。
ここで濁すのは、かえって不忠だ。
義興は、その一言を受けて、すぐには返さなかった。
若い目が、しかし逃げずに前を見ている。
「父上のおっしゃること」
ようやく口を開く。
「我ら宗家が残るには、もうそうせねばならぬか」
久秀は、深く頭を垂れたまま答えた。
「は」
それだけでは足りぬと思ったのだろう。
すぐに続けた。
「三好は太くなりすぎもうした」
義興の目が、わずかに細くなる。
「太く」
「は。手足が育ちすぎたのでございます」
久秀は、そこで初めて少しだけ顔を上げた。
「もとは、宗家を支えるための手足にございました。摂津を押さえ、河内を押さえ、山城へ兵を出し、和泉へ睨みを利かせ、阿波・讃岐・淡路を後ろで繋ぐ。そのために伸ばした手足」
「……」
「されど今は、その手足が、本体を食い破ろうとしております」
義興は黙って聞いていた。
否定しない。
もう、見えているのだろう。
父が病み、命令が遅れ、周囲の顔色が少しずつ変わっていく。
誰が宗家のために動き、誰が“宗家の名”を使って自らを肥らせようとしているか。若いながらも、それが分からぬほど愚かではない。
「三人衆か」と義興は言った。
「は」
「松永家も、もとはその手足の一つではなかったか」
その問いは鋭かった。
だが久秀は、怯まなかった。
「その通りにございます」
「では、弾正」
「は」
「そなたもまた、手足が本体を食い破る側へ回るやもしれぬではないか」
そこまで言うと、義興の声にはじめて若さが出た。
怒りではない。
不安の色だ。
久秀は、その不安をまっすぐ受け止めた。
「恐れながら」
「申せ」
「それを案じられるからこそ、私は織田へ参りまする」
義興が、少しだけ眉を動かす。
「……どういうことだ」
「三好宗家の内で、私が力を増せば、いずれ私もまた“手足”にございます」
「うむ」
「されど、外へ出て織田の力を借りるなら、私一人が宗家を呑むことは叶いませぬ」
部屋が静まった。
それは、あまりにも冷たい理屈だった。
だが、冷たいからこそ、義興にも分かる。
久秀が畿内の中で独力を伸ばし続ければ、それは結局、三人衆と同じ構図になる。
だが、より大きな外の力へ身を寄せ、そのうえで宗家存続を条件に動くなら、少なくとも久秀自身が三好そのものを食う形にはなりにくい。
義興は、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……父上らしい」
「は」
「きれいでは済まぬ、と申されたのであろう」
久秀は、少しだけ目を伏せた。
「仰せにございました」
義興は、そこでほんのわずかに苦く笑った。
「父上は、病んでなお父上だな」
その言い方に、久秀は返す言葉を持たなかった。
ただ、深く頭を下げる。
義興は顔を上げ、はっきりと言った。
「わかった」
久秀の背が、わずかに正される。
「父の命には逆らうつもりはない」
「……はっ」
「弾正、済まぬが織田へ向かってくれぬか?」
その一言は、命令というより託宣だった。
若い嫡男が、父の忠臣へ、自らの家の未来を預ける言葉だ。
久秀は、畳へ深く額を近づけた。
「御意にございます」
義興は、そこで少しだけ声を落とした。
「ただ一つ」
「は」
「織田治部大輔」
久秀が、顔を上げる。
「健康や体調の好転に詳しいとか」
「……そのように聞き及んでおります」
「父上を、なんとかしては貰えぬか」
そこだけ、義興の声が若かった。
宗家嫡男ではなく、病む父を前にした息子の声だった。
久秀は、黙った。
長慶の病は、もはや薬一つでどうこうなるものではない。
それは、久秀にも分かっている。
だが、だからといって「無理です」と即座に返すには、義興はまだ若すぎたし、父はまだそこにいた。
義興は続けた。
「弾正」
「は」
「治部大輔を見極めてくれ」
「……」
「ただの成り上がりか。父上へ手を尽くすだけの器量があるか。宗家を残す約を、言葉だけでなく動きで果たせる男か」
久秀の顔から、少しずつ感情が消えていく。
これは、久秀にとって最も向く表情だった。
人を見る時の顔だ。
「承知仕りました」
「頼む」
「必ずや」
そこで義興は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「父上が、もう少しだけでも持ち直されるなら」
その先は言わなかった。
言わぬ方が、かえって分かる。
あと少しでいい。
父が生きていてくれれば。
宗家の形を整える時間が欲しい。
三人衆を押さえる時間が欲しい。
嫡男として立つための時間が欲しい。
久秀は、その願いの重さを受け止めた。
「孫次郎様」
「何だ」
「私は、毒にございます」
義興が顔を上げる。
「だが」
久秀は、静かに言った。
「毒にも、用いようはございます」
義興は、それを聞いて少しだけ笑った。
若いのに、妙に疲れた笑みだった。
「父上も、同じことを言いそうだ」
「仰せにございました」
「そうか」
義興は、姿勢を正した。
「では行け、弾正」
「は」
「父上の忠臣として」
「は」
「そして、三好宗家のために」
「……はっ」
久秀は、深く一礼した。
襖の外へ出ると、夜気が少し重い。
だが、もう迷いはなかった。
三好長慶の遺志。
三好義興の願い。
宗家を残すため、織田へ行く。
そして、治部大輔信繁という男が、それに値するか見極める。
松永久秀が織田へ向かう理由は、これで二重になった。
主君の命。
嫡男の願い。
そのどちらも背負っているからこそ、次に稲葉山城で九十九髪茄子を差し出す久秀は、ただの降人ではなく、**三好宗家の未来を賭けた使者**として立つことになるのだった。
♢
松永弾正が瀬田城へ通された時、あの男は最初から半ば覚悟していた。
織田家へ寄る。
治部大輔信繁という若き主へ近づく。
それが宗家を残すための道だと、筑前守にも孫次郎にも言われ、自分でもそう見定めてはいる。
だが、それでもなお、最後の最後で人は一つ確かめる。
――この主は、本当に託せる相手か。
その確かめが、弾正には必要だった。
そして、瀬田城で見たものが、それを決めた。
子の泣き声。
その声に、器用の仁と呼ばれた織田信秀が振り向く。
その隣で、美濃の蝮、斎藤道三が赤子の手を指先であやして笑う。
土田御前が二人まとめて叱り、北畠具教卿が孫だ彦三郎だと浮き立ち、疋田豊五郎は「この子らに剣を」と言い、柳生の剣士どもが静かに控え、松永久秀自身は気づけば、その輪の中へ半ば当然のように座らされていた。
意味が分からぬ。
本当に意味が分からぬ。
だが、その「意味の分からなさ」の中に、妙に強い秩序があった。
ただ兵の強い家ではない。
ただ知恵の回る家でもない。
老獪も、毒も、剣も、弓も、子も、女も、公家も、商いも、みな一つの家の中へ呑み込んで、それでも壊れていない。
久秀は、その光景を見て思った。
――やはり、治部大輔ならば。
そう判断したのだった。
後日、あらためて信繁と鶴姫を前にした時、久秀はその判断を胸の内へしまったまま、静かに本題を切り出した。
「治部殿」
「何だ」
「三好孫次郎様より、ひとつ願いがございます」
信繁の顔が少しだけ締まる。
鶴姫も、自然と背筋を伸ばした。
「長慶殿のことか」
久秀は頷いた。
「は。病そのものを治す、とまでは申せませぬ。されど、少しでも持ち直して頂ければ、宗家の形を整える時間が稼げます」
鶴姫が、そこで静かに口を開いた。
「御様子は」
「身体の衰えもございます。されど、それ以上に、心が沈み込み、気が外へ向かぬ」
「気鬱、だな」と信繁。
久秀の目が、わずかに動く。
「やはり、そのように見られますか」
「うん。たぶんな」
信繁は、少し考える顔をした。
それは即答できる軽い話ではない。
だが、何も分からぬわけでもない顔だった。
「完治、なんてものは約束できない」とまず言う。
「ですが」と久秀。
「少しでも」
「できることはある」
そこで、鶴姫がすっと紙を寄せた。
もうこういう時、この二人は自然に役割が分かれている。信繁が思い出し、鶴姫が整える。
「まず」と信繁は言った。
「食だな」
久秀が顔を上げる。
「食」
「病む人間は、だいたい身体の土台から崩れる。食が細れば、余計に気が落ちる。だから、まずは健康な食事に戻す」
鶴姫が補う。
「重すぎず、しかし痩せすぎぬよう。温かい汁、魚、野菜、少量でも日々一定に口へ入るものを整えるべきです」
「酒は」と久秀。
「減らす」と信繁。
「完全に断つと反発も出る。だが、今の状態で深酒は悪い」
「……なるほど」
「次に、日照だ」
「日照」
「日を浴びる。朝の光を浴びるだけでも違う」
久秀は、少し怪訝そうだった。
だが信繁は気にしない。
「部屋へ閉じこもって、暗いところにばかりいると、余計に沈む。これは理屈より、実際そういうもんだ」
鶴姫も頷く。
「御簾や障子で光をやわらげるのはよいとしても、昼なお暗い部屋へ置き続けるのはよくありませぬ」
「ふむ……」
「それから環境を変える」
信繁は、そこで地図を思い浮かべるように少し視線をずらした。
「琵琶湖畔がよい。あるいは信楽方面」
久秀が、そこで初めて少しだけ息を止めた。
「河内から、ですか」
「うん。環境が同じだと、沈んだ気も同じところを回り続ける。なら、一度場所ごと変える」
鶴姫が言う。
「琵琶湖は、水面が開けております。風もよい。信楽は起伏があり、森と土の匂いが変わります。どちらも、今の河内や城中とは空気が違いましょう」
信繁は続けた。
「景色に癒されるってのは、馬鹿にできない。体を少し動かし、風に当たり、同じ部屋で同じ顔を見続けるのをやめる。それだけで違うことがある」
久秀は、静かに聞いていた。
もはや途中で疑わない。
この男は、本当にそういうところを考えているのだと分かったからだ。
「さらに」と信繁は言った。
「認知……まあ、考えの向きを少し変える」
「考えの向き」
「長慶殿は、たぶん“自分が支えねばならぬ”“自分が倒れれば全部終わる”と、思い詰めてる」
久秀は、そこで目を伏せた。
「……否定できませぬ」
「だろうな。だが、それを少し変える」
鶴姫が続ける。
「すべてを御一人で抱えねばならぬ、ではなく、“残すべきものを定め、それを人へ渡す”という形へ考えを移すべきかと」
「そう」と信繁。
「天下の采配全部を、三好一門だけで抱える必要はもうない、と見せる」
久秀が、そこでゆっくり顔を上げる。
「織田に」
「うん。将軍家と朝廷を支え、天下静謐を担う大きな仕事は織田が引き受ける。三好はそれを支える家として存続できる、と」
久秀は黙った。
それは、三好の誇りを傷つける言い方にもなりかねない。
だが同時に、長慶の肩から最も重い荷を下ろす考え方でもある。
信繁は、そこを濁さなかった。
「全部を守る、は無理だ。だが、宗家を残す、ならまだできる」
鶴姫も静かに言う。
「三好宗家が“天下を押さえる家”でなくとも、“天下を支える名家”として残る道はございます」
久秀の目が、そこで少しだけ揺れた。
長慶が聞けば、どう思うか。
義興が聞けば、どう受けるか。
その二つを同時に考えている顔だった。
「……孫次郎様にも」と久秀は言う。
「何だ」
「同じ手当てが要るやもしれませぬ」
信繁が頷く。
「筑前守殿のご嫡男か」
「はい。あの御方も、若くして負いすぎておられる」
鶴姫が少しだけ目を伏せた。
「父が病み、宗家が揺らぎ、三人衆が圧を増す。その中で嫡男であれば、身体を壊さぬ方が難しゅうございます」
「だから」と信繁。
「長慶殿だけじゃなく、孫次郎殿も同時に見る。食、睡眠、日照、気分転換。話を聞く相手も要る」
久秀が問う。
「治部殿自ら、来られますか」
「行くよ」
即答だった。
「ただし、俺一人じゃなく、鶴姫も来てもらう」
鶴姫は、そこで驚かなかった。
「承知しております」
「男同士で言えることと、女の目があった方が見えることは違う。特に食と日々の変化は、鶴姫の方が細かく拾える」
「はい」
久秀は、その二人をしばらく見ていた。
若い。
あまりに若い。
だが、やっていることが妙に老獪で、しかも本気で人を生かす方へ頭を使っている。
やはり、と思う。
やはりこの治部大輔ならば、と。
「弾正」と信繁が言った。
「は」
「一つだけ、約束しろ」
「何を」
「筑前守殿にも孫次郎殿にも、“すぐ治る”みたいな言い方はするな」
久秀は、そこでわずかに目を細めた。
「……厳しいですな」
「厳しくていい。期待を煽って裏切る方が、よほど悪い」
鶴姫も頷く。
「できることを一つずつ積む。良くなる日もあれば、沈む日もありましょう。それでも少しずつ上を向けるなら、それで十分にございます」
久秀は、そこで深く頭を下げた。
「承知仕りました」
「よし」
信繁は、紙へいくつか書き付けながら言う。
「食事の案。日中の過ごし方。散策先。話の持って行き方。あと、無理に政務を奪わず、“任せてもよい”と感じさせる段取り。これを持って行く」
「弾正殿」と鶴姫が静かに続ける。
「筑前守殿は、きっと御自分が弱ったことを恥じておられるはずです」
「……はい」
「ならば、“治療される病人”として扱ってはなりませぬ」
弾正の顔が、そこで少し変わる。
「いかにも」
「“なお家の主である方が、少しでも長く采配できるよう整える”という形にすべきです」
「そういうことだ」と信繁。
「立場を折るな。気だけ上げる」
久秀は、ゆっくりと頷いた。
「……やはり」
「何だ」
「治部大輔殿ならば、と」
その言葉は、小さかった。
だが、重かった。
信繁は、そこで少しだけ笑った。
「だったら、ちゃんと見極めろよ」
「ええ」
「俺も、三好宗家が残せるなら、その方がいいと思ってる。全部を潰して回るのは、後が面倒だ」
鶴姫が、横で少しだけ肩を揺らした。
「最後が少々台無しにございます」
「本音だよ」
「それは存じております」
久秀は、そのやり取りを聞いて、ようやく本当に安堵したように息を吐いた。
病を治すとまでは言わぬ。
だが、主君と嫡男を“まだ立て直せる人間”として扱う。
そのために、食を変え、光を当て、景色を変え、思考をほどく。
そして、天下の重みそのものを、三好だけで抱えずともよいと見せる。
それは医術であり、同時に政治でもあった。
松永久秀は、そこで確信した。
斎藤道三が生きていて、信秀や土田御前と同じ部屋で子をあやしているような家だ。
ただ運がよいのではない。
人が生きる条件そのものへ手を入れている。
だから、まだ三好宗家にも手が届くかもしれない。
「では」と久秀は言った。
「筑前守様、孫次郎様のもとへ戻り、段取りを整えます」
「頼む」
「治部大輔殿」
「何だ」
「どうか、お力を」
「出すよ」
その返しがあまりに当たり前だったので、久秀はもう何も言わず、深く一礼した。
♢
芥川城の茶室は、思っていたよりもずっと静かだった。
城そのものは、まだ三好の気配を濃く残している。
兵の足音、物見の視線、廊の先に立つ武士たちの息遣い。
だが、その茶室だけは、別の理で切り取られた空間のように感じられた。
公平と安全。
それを形にするため、同席者は最初から決まっていた。
公家、山科言継卿。
しかも、ただ名目だけで呼ばれたわけではない。治部印の清酒をきっかけにした縁があり、茶と公家筋と商いの話まで通じる人だ。信長がこの会見を許したのも、言継卿が付き添うと聞いたからだった。
「じゃないと、上総介兄上が首を縦に振らなかったんだよ」
茶室へ通される前、そう小声でこぼした信繁に、鶴姫はわずかに目を細めた。
「当然にございます」
「まあ、そうなんだけどな」
「筑前守殿は、まだ織田家の敵にも味方にもなり切っておられませぬ。そこへ治部大輔殿が単独で入るなど、許されようはずもありません」
「分かってるって」
「分かっておられる顔には見えませぬ」
そう言いながらも、鶴姫の声は静かだった。
今日の場は軽く崩してよいものではない。
病を語り、家を語り、宗家の先を語る。
しかも相手は三好筑前守長慶と嫡男孫次郎義興。
余計な言葉一つで、場そのものが壊れかねない。
茶室へ入ると、筑前守はすでにそこにいた。
病んではいる。
だが、寝所の人ではない。
茶室という、小さく整った場所へ通されたその姿は、やはり一国の主のものだった。
その隣に孫次郎義興。
二十を越えた若い男の顔に、若さと疲れが同時にある。父を支えたい気持ちと、支えきれるのかという重圧と、その全部を見せまいとする矜持とが、まだ整理しきれぬまま乗っている顔だった。
山科言継卿は、その少し斜めに座していた。
この人がいるだけで、場は武家同士の腹の探り合いから、もう少しだけ公の理へ引き戻される。信長がこれを欲したのも分かる。
「よう来られた、治部大輔殿、鶴姫殿」
言継卿が柔らかく言う。
「本日は、清酒を言い訳にして参ったようなものですな」
信繁が軽く頭を下げた。
「その言い訳のおかげで、こうして座れております」
長慶が、そのやり取りを静かに見ていた。
やがて口を開く。
「上総介は慎重よな」
「兄は、こういう時にだけ妙に真面目です」と信繁。
言継卿が小さく笑った。
「こういう時にこそ、真面目でなくては困りまするぞ」
少しだけ空気が和み、それからすぐ本題へ戻った。
長慶が、真っ直ぐに信繁を見た。
「弾正より聞いた」
「は」
「わしの気鬱に、何がしか手を打てるかもしれぬ、と」
「何がしか、です」
信繁は、そこで最初から言葉を選ばなかった。
「治るとは申しません」
茶室が静まる。
義興の目が、わずかに揺れた。
だが信繁は続けた。
「完治はございません」
そこまで言い切ってから、少しだけ間を置く。
「ですが」
筑前守の目は動かない。
その目の奥に、落胆より先に「では何を言う」と促す理性がまだ残っているのが分かった。
「沈み切った気を、上向きにする」
信繁は、そこでようやく言葉の芯を置いた。
「少なくとも、生きるうえでの前向きになれるようなところまで持っていくことは、できるかもしれません」
長慶が、そこでほんのわずかに目を細める。
「できるかもしれぬ、か」
「なにゆえ、我らも医者ではございませぬ」
信繁は、あくまで正直に言った。
「ただ、気を整えるなら、まず身体を。そこから入るのがよいと考えます」
鶴姫が、その言葉を自然に引き取った。
「そして、気には表と裏がございます」
義興がそちらを見る。
「表は大丈夫でも、裏が傷ついたままでは、また気を下げてしまう」
鶴姫の声は穏やかだったが、ひどく通った。
「よって、一日で晴れやかになるものではございませぬ。根気よく、今日は一つ上がった、を続ける。時には二つ下がる日もありましょう」
言継卿が、そこで少し頷いた。
「なるほど」
「ただ」と鶴姫は続ける。「上へ向かえる。頂へは届かずとも、山登りを続ける。そのような感じにございます」
長慶は、そこで初めて少し考える顔になった。
「山登り、か」
「はい」と信繁。
「頂上へ一足飛びに行く話ではありません。今日より明日、明日より三日後が、少しだけましである。その積み重ねです」
義興が、そこで口を開いた。
「身体から整える、と申された」
「はい」
「たとえば、何を」
そこには、父を救いたい息子の切実さがあった。
若い。
だが、若いからこそ真っ直ぐだ。
信繁は指を折るように言った。
「まず食です。重すぎず、だが痩せすぎぬ。温かい汁、野菜、魚、少量でも日々一定に入るものを整える」
鶴姫が補足する。
「食の時間も一定に寄せるべきかと。腹が乱れると、気も乱れやすくございます」
「次に日を浴びる」
長慶が少し眉を上げる。
「日か」
「はい。朝の光がよい」
「そのようなもので変わるか」
「変わることがあります」
信繁は、そこを軽く言わなかった。
「必ずとは申しません。ですが、閉じた部屋で暗いものばかり見ておれば、沈みは深くなる。外へ出る。風へ当たる。日を浴びる。それだけでも違います」
言継卿が、そこで静かに茶碗を置いた。
「たしかに、公家の家でも、気の晴れぬ者を庭へ出すことはありますな」
「それです」と信繁。
「あと、環境を変えるのも大きい」
鶴姫が言う。
「琵琶湖畔はいかがでしょう」
義興が、そこで少し意外そうに目を上げた。
「琵琶湖」
「はい。水面が開け、風が違います。城中や河内の景色とは、だいぶ異なりましょう」
信繁も続ける。
「あるいは信楽方面でもいい。土と森の匂いが違う。起伏もある。今おられる場所と空気を変えるだけで、気が動くことがあります」
長慶は、そこでは否定しなかった。
否定しない、というのは、この人の場合かなり前向きな反応だった。
「さらに」と信繁。
「一番大きいのは、筑前守様が生真面目であられることです」
義興の顔が、少しだけ緊張する。
筑前守本人は、黙った。
「肩に載せていらっしゃる見えない重石を、少しでも降ろす」
茶室の空気がまた少し締まる。
「心穏やかになさるが肝要かと」
筑前守が、そこでゆっくりと言った。
「重石を、降ろす」
「はい」
「どうやってだ」
そこが、いちばん難しい。
食も、日照も、景色も、所詮は手当ての一つに過ぎない。
本丸は、心の中に積まれた“天下と家を一人で背負わねばならぬ”という重さだ。
信繁は、そこで正面から言った。
「天下の采配を、全部ご自分で抱えようとなさらぬことです」
義興の目が動く。
長慶は、わずかに視線を下げた。
「……ほう」
「将軍家と朝廷を支え、天下静謐の表の役を担う家は、もう別にございます」
言継卿が静かに座している。
この話が、ただの武家の策ではなく、公の場の言葉として立つのは、その存在があるからだった。
「織田がそこを担う」
信繁は、少しも濁さない。
「ならば、三好は三好として残る道がございます」
鶴姫が続けた。
「“天下をすべて呑む家”としてではなく、“天下を支える名家”として存続する道にございます」
長慶は黙って聞いていた。
顔にはまだ陰がある。
だが、そこへ初めて別の線が差した。
「……下る、ということか」
「違います」と信繁。
「役を分けるということです」
その答えに、義興が少しだけ息を入れた。
たぶんそこが、この若い嫡男にとって最も聞きたかった言葉だったのだろう。
「全部を失え、と申しておるのではありません」と鶴姫。
「守るべきものを定め、それを残す。そのために重石を下ろすのです」
言継卿が、そこで初めて強く頷いた。
「なるほど。捨てるのではなく、担う役を変える、と」
「はい」と信繁。
「筑前守様が今のまま“全部を自分で背負わねば”と思われる限り、気は下へ引かれます。ならば、背負う荷の形を変える」
長慶は、その言葉をかなり長く黙って受けた。
茶室の外で風が鳴る。
庭木が少し揺れた。
やがて長慶が、小さく言った。
「……治るとは言わぬ」
「はい」
「だが、生きるうえで前を向けるところまで、か」
「そこまでは」と信繁。
「届くかもしれません」
長慶は、そこでふっと息を吐いた。
それは苦笑にも近かった。
「若いのに、厳しいことを言う」
「厳しいことしか、効かぬ時もございます」
「それもそうだ」
その返しには、もう先ほどまでの硬さが少し減っていた。
義興が、そこで初めてはっきりと父を見る。
「父上」
長慶は息子へ目を向ける。
「何だ」
「試してみては頂けませぬか」
その声には、願いがある。
だが、泣きつく若者の声ではない。
家の嫡男として、なお父へ生きていて欲しいと願う声だった。
長慶は、しばらく義興の顔を見ていた。
それから、ゆっくりと頷く。
「よかろう」
義興の肩が、わずかに緩んだ。
言継卿が、その場を和らげるように言う。
「では、まずは酒も“楽しむための一献”に戻されますかな」
信繁がすぐに言った。
「深酒は減らして頂きます」
長慶が、そこで少しだけ顔をしかめた。
「そこは厳しいな」
「はい」
「上総介といい、おぬしといい、どうしてこう銭持ちは人の酒に口を出す」
「長生きして頂くためです」
鶴姫が静かに添える。
「まずは、今日一つ上げる、で十分にございます」
長慶は、それを聞いてから小さく笑った。
「山登り、か」
「はい」
「ならば、今日は一つ登ってみるとしよう」
その一言で、茶室の空気は少しだけ軽くなった。
完治ではない。
奇跡でもない。
だが、沈み切った気に、ほんの少しだけ上向きの線が入った。
その小さな変化こそが、今日この場で得られたものだった。
♢
茶室を辞したあと、廊の角を二つほど曲がったところで、信繁は松永久秀を呼び止めた。
「弾正」
「は」
久秀が足を止める。
先ほどまでの柔らかな空気とは違い、信繁の声はもう実務のものへ戻っていた。鶴姫もそのまま横にいる。山科言継卿は、公家らしく一歩引いたところで気配を薄くしていたが、話の重みは察しているらしい。
信繁は、まず久秀の目をまっすぐ見た。
「そなたには今さらではあろうが」
「は」
「筑前守様、孫次郎様、そして、そなた自身、暗殺には気を付けよ」
久秀の目が、ほんのわずかに細くなった。
「……いかにも」
信繁は続ける。
「我ら織田と三好宗家が結び始めたと知られれば、三好三人衆は、まずは軍勢での一当てなどしよう」
鶴姫が静かに補う。
「表では、でございます」
「うん」と信繁は頷いた。
「だが、負ければそういう邪道に走ろう」
久秀は、そこで小さく鼻を鳴らした。
「邪道、と申されますか」
「そなたがその道の人間だと知っていて言ってる」
「それはまた、厳しい」
「厳しくていい。毒を知るやつには、毒で来る」
久秀は、そこで苦笑に近い顔をした。
「まことに」
信繁はさらに言葉を継いだ。
「当家のように、忍びに加えて、それを斬れる柳生の剣士を揃えるのが早いのだが」
そこで少し間を置く。
「そなた、伝手はあるのか?」
久秀の顔つきが、少しだけ変わった。
これは“試されている”ではなく、“考えろ”という顔だと分かる。
「用意してみましょう」
「いるか」
「おりますとも。畿内で生きておる以上、己の身を預けられる手は、いくつか確保しております」
「ならよかった」
久秀は、そのまま少し考えるように視線を落とした。
「なるほど」
「何だ」
「蛇の道は蛇、にございますな」
「そうだな」
「忍びの嗅覚で気配を拾い、柳生の剣士で必殺の処置をする、ということですか」
鶴姫が頷く。
「察しが早うございます」
「いや、分かりやすい理にございます」
信繁は、そこで一つ指を立てた。
「それと、もう一つ」
久秀が顔を上げる。
「藤林長門守に相談しろ」
「は」
「天井裏、床下、壁の裏、押入れの奥、庭から屋内へ通じる細道、そういう“忍びが入り込めそうな場所”に筋交いを入れる」
久秀が、そこで初めて少し感心したように息を吐いた。
「……物理で塞ぎますか」
「そう」
「たしかに、それだけで動きはだいぶ制限されますな」
「忍びは、入るだけならどこからでも入る。だが、入ってから動けなければ意味がない」
鶴姫も続ける。
「音も出やすくなります。床下を這うにも、天井裏を渡るにも、通り道が細れば気配は濃くなります」
「なるほど」と久秀。
「これは、さすがに織田家というべきか、治部家というべきか」
「うちだと、長門守と柳生と城普請組が一緒に考えるからな」
「それがもう妙だ」
「妙でいいんだよ」
久秀は、そこで少しだけ笑った。
「承知仕りました。まずは居所の見取りを改め、入られやすいところから塞いで参ります」
「ただ塞ぐだけじゃ駄目だぞ」と信繁。
「人が普段使う道まで殺すな。家人が窮屈になると、今度は内から綻ぶ」
「分かっております」
「あと、寝所を固定するな」
「筑前守様と孫次郎様、でございますな」
「そなたもだ」
久秀が、そこで少しだけ肩を竦めた。
「私は、元よりそのつもりにございます」
「ならいい」
「ただ」
久秀は少し真顔になった。
「筑前守様は、病でお疲れのところへ“居所を移せ”“寝所を変えろ”を重ねれば、かえって気を損ねるやもしれませぬ」
「そこは」と鶴姫。
「“養生のために場所を変える”と申し上げるのがよろしいかと」
信繁も頷く。
「そうだな。日照の都合、風の都合、静けさの都合、そういう名目で動かす」
「孫次郎様は」
「孫次郎殿は、むしろ理解が早いだろう」
「ええ」と久秀。
「あの御方は若いが、事情は分かっておられる」
「なら、正面から言え。そなたの身も狙われるぞ、と」
久秀は、そこで静かに一礼した。
「心に刻みます」
信繁は、最後に少しだけ声を落とした。
「弾正」
「は」
「そなたが死ぬと困る」
久秀が、そこでほんの一瞬だけ黙った。
「長慶様にも、同じことを申されました」
「そうか」
「“死んで済む働きなら、誰でもできる”と」
信繁は小さく頷いた。
「だったらなおさらだ。生きて働け」
久秀は、その言葉に深く頭を下げた。
「……はっ」
廊の外では、風が少しだけ動いていた。
表向きには、まだ何も始まっていない。
だが、もう十分に危うい段へ足を踏み入れている。
結び始めた、というだけで人は殺される。
それが畿内であり、それが三好の内だ。
だからこそ、話し合いの次は守りだった。
薬、養生、言葉、景色。
それと同じだけ、刃と忍びへの備えも要る。
信繁は、その両方を同じ重さで考えていた。
久秀はそれを見て、やはりこの男はただの若武者ではないと、もう一度だけ思った。
♢
評定の間には、いつもの重さがあった。
瀬田城へ移ってから、家の空気はたしかに変わった。
子の泣き声も増えたし、酒や茶や公家との付き合いも増えた。
だが、評定だけは別だ。畳の上へ地図と帳面が広がれば、そこにあるのは相変わらず生きるか死ぬかの話である。
十兵衛。
半兵衛。
伊勢守。
長門守。
左近。
弾正。
そして鶴姫。
俺は、地図の上へ指を置いた。
「後々の禍根を断つため」
皆の目がこちらへ集まる。
「三好三人衆には、可能なかぎり早く消えてもらいたい」
部屋が静まった。
言い切った以上、そこには曖昧さはない。
「が」
そこで一つ区切る。
「下手をすると、頭がすげ替わるだけ、という可能性もある」
十兵衛が、静かに頷いた。
「まことに」
「だから、ただ勝つだけじゃ足りない」
俺は、地図の摂津、河内、山城の境を指でなぞった。
「十兵衛、半兵衛、伊勢守」
「は」と三人。
「戦場を設定せよ。奴らがどれほどの兵を連れて来るか。我らが奴らの喉元を食い破り、三人衆のうち一人を始末する」
伊勢守が、そこで腕を組んだ。
「一人、でございますか」
「うん。三人まとめて取れりゃ理想だが、欲張ると外す。まず一人」
半兵衛が、少しだけ口元を動かした。
「残り二人で主導争いになれば、これ幸いですな」
「上手く行けば、な」
俺がそう返すと、半兵衛は素直に頷いた。
「ええ。上手く行けば、です」
十兵衛が、地図のさらに西を指先で押さえた。
「そもそもが、奴らの本貫は四国、讃岐と阿波にございます」
「うむ」
「畿内で一度叩いても、戻れば再起してきましょう」
「そこなんだよなぁ」
俺は少し息を吐いた。
「四国で、三好三人衆の背後を突ける者がいればいい」
長門守が言う。
「阿波・讃岐筋に草を入れますか」
「草だけじゃ弱い」と俺。
「向こうで旗を立てられる家が欲しい」
そこで、少し間が空いた。
「長曾我部家は」と俺は続けた。「まだそこまで大きくない」
伊勢守が、そこで初めて少し怪訝そうな顔をした。
「長曾我部家、ですか?」
「勢いがある」
「ほう」
「当主が若い。今後伸びると見ている」
左近が、そこで静かに口を開いた。
「遠いな」
「遠いよ」
「畿内の喉を切る話に、いきなり土佐が出る」
「でも、いるだろ。ああいう“まだ大きくないが、今後伸びる若い家”って」
左近は、少しだけ考える目になった。
「……おる」
「だろ」
鶴姫が、そこで静かに言った。
「今より誼を通じておくのも、よろしいかと」
皆がそちらを見る。
鶴姫は、地図へ視線を落としたまま続けた。
「今すぐ四国で三好を食える家ではありますまい。されど、将来の対三好の釘にはなりましょう」
半兵衛が頷く。
「しかも、今ならこちらが“大恩ある大国”ではなく、“先に目をかけてくれた家”になれる」
「そういうことだ」と俺。
「大きくなってから寄ると、向こうも足元を見る。小さいうちに誼を通しておけば、覚え方が違う」
弾正が、そこで少し楽しそうに笑った。
「治部殿は、敵だけでなく芽も刈り取らずに拾う」
「使えそうな芽は育てる方が後で楽だろ」
「その理は嫌いではございませぬ」
十兵衛が、話を戦場へ戻した。
「では、三人衆を誘い込む“場所”が必要です」
「うむ」
「京へ近すぎれば、将軍家と朝廷の外聞が立ちませぬ。河内深くでは、向こうの地の利が強い。摂津でも石山筋は面倒が多すぎる」
伊勢守が言う。
「ならば、山城口か、あるいは河内へ入る手前で迎え撃つ形ですな」
「どのあたりだ」と俺。
伊勢守は、指でいくつかの線を引いた。
「一つは、淀川筋に寄りすぎぬ場所。川を背負わせるか、こちらが背負うかで話は変わります。もう一つは、敵が“勝てる”と思って踏み込める場所にすること」
「そこだな」と左近。
「逃げ腰の敵を追うより、噛みに来る敵の喉を狙う方が早い」
半兵衛も続ける。
「つまり、少しだけ餌を見せる」
「餌、か」
「ええ。たとえば、織田方が京と瀬田の間でまだ布陣を固め切れていない、あるいは将軍御座所普請のために兵が薄い、と見せる」
弾正が、そこで目を細めた。
「偽情報にございますな」
「そう」と俺。
「そこはお前と長門守の仕事になる」
長門守が頷く。
「できます」
「三人衆に、“今なら一撃で京口を揺らせる”と思わせる」
「はい」
「で、噛みに来たところを、十兵衛と伊勢守で挟む」
伊勢守が、そこで低く笑った。
「なるほど。左近将監ではなく伊勢守へ名を改めた早々、景気のよい仕事ですな」
「嫌か?」
「まさか。好きですとも」
その返しは、いかにも伊勢守だった。
十兵衛は、すでに現実的な算段へ入っている。
「三人衆の動員は、京一撃なら六千から八千。本気で寄せれば一万前後まで見ておくべきかと」
「多いな」
「多いですが、全部が精兵ではございませぬ」と左近。
「三人衆の怖さは、直の兵数より、畿内で“兵を寄せられる”ことにある」
「そうだな」
「こちらは、数で同じだけ出す必要はない」と十兵衛。
「地形、罠、誤認、退路、夜襲、そのあたりを噛ませれば、三人衆のうち一人を狙い撃てる余地はございます」
半兵衛が、静かに言う。
「要は、勝つ戦ではなく“首を取る戦”にする」
その言い方に、部屋の温度が少し下がる。
だが、それが必要な段なのだ。
三人衆を漠然と追い払っても、また戻る。
なら、最初から“首級一つ”を目的に据える方が、よほど後が軽い。
俺は、そこで頷いた。
「そうだ。勝つだけなら今の織田家なら兵力を催せば割と誰でもやれる。だが、今欲しいのは三人衆の均衡を崩すことだ」
弾正が、そこで口を開いた。
「誰を先に落とすかで、残る二人の動きは変わります」
「見立ては」
「長逸、宗渭、友通。いずれも癖が違う」
弾正は、さすがにその辺りの顔をよく知っている。
「一人落ちれば、残る二人は“織田より先に、誰が主導を握るか”で必ず疑い合いましょう」
「その疑いを煽れるか」
「煽れます」
「よし」
鶴姫が、そこで少し声を落として言った。
「ただし、宗家を巻き込まぬことが肝要にございます」
「うん」
「三人衆を討つために、三好宗家を“同じ敵”に見せてはなりませぬ」
「それは絶対だ」
俺は、そこだけはすぐに答えた。
「筑前守殿と孫次郎殿は残す。その線はぶらすな」
十兵衛が、その言葉にははっきり頷いた。
「ならば、戦場でも旗色の見せ方が要りますな」
「どういう意味だ」
「三人衆を討つ戦であって、三好宗家を潰す戦ではないと、誰の目にも分かるようにする」
半兵衛が補う。
「たとえば、事前の触れ、使者筋、軍配の名目、いずれも“宗家から離れた専横への討伐”に寄せるべきです」
「そこも弾正と長門守か」
「はい」と弾正。
「任せて頂ければ」
左近は、そこで静かに言った。
「面白い」
皆がそちらを見る。
「戦場を作る。敵を選ぶ。一人だけを落とす。そのあと残る二人に疑心を流す。で、四国には芽を打っておく」
「嫌か?」
「嫌ではない」
左近は、ほんのわずかに口元を上げた。
「ようやく“ただの合戦”ではなくなってきた」
伊勢守も笑う。
「左近殿、来たばかりでだいぶ治部家の温度に慣れてきましたな」
「慣れたのではない。最初からこういうのは嫌いではない」
「それは何より」
俺は、そこで最後に言った。
「じゃあ決めるぞ」
皆の目が集まる。
「三人衆を叩く。狙いは一人。戦場はお前ら三人で作れ。長門守と久秀は、その場へ来るよう風を流せ」
「は」と十兵衛、半兵衛、伊勢守、長門守、弾正。
「鶴姫」
「はい」
「長曾我部家へ繋ぐ文を考えてくれ。今すぐ何かをさせるんじゃない。覚えてもらうところからでいい」
「承知致しました」
「左近」
「は」
「お前は戦場の臭いを嗅げ。こいつらの案が机上で終わってないか、ちゃんと見ろ」
「承知」
これで、評定は動き始めた。
三好三人衆。
ただ勝って追い返すのではない。
一人を消し、残る二人を争わせ、宗家だけは残す。
そのための戦場を、今から作る。
瀬田城の評定は、また一つ、ただの防衛ではない段へ入っていた。