織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
瀬田城の外れ、馬場と鉄砲場を兼ねた平地は、朝から乾いた火薬の匂いがしていた。
土を盛った的。
木柵。
仮設の土塁。
左右へ逃げるための抜け道。
そして、その奥に細く絞った“殺し間”。
治部家の鉄砲隊は、ただ撃つだけの集団ではなくなりつつあった。銃床を改良し、照星と照門を装備して、さらに鉄砲足軽には専用の鎧を用意した。
撃って、下がる。
下がるふりをして、誘う。
誘って、詰めてきた敵の足を止める。
その一連を、少しずつだが形にし始めている。
今日はそれを、左近に見せる日だった。
「左近」
「は」
「うちの鉄砲隊、まずは見てくれ」
左近は、腕を組んだまま射場を見ている。
「ただの一斉射ではない、と」
「うん。まず連続撃ち。それから、最近ようやく形になってきた“逃げるふり”だ」
慶次郎が、横でにやりと笑った。
「治部様、“逃げるふり”って言い方が雑すぎる」
「じゃあ何だよ」
「華麗なる誘い込み、くらい言ってくだせえよ」
「お前が言うと軽くなる」
助右衛門が短く言った。
「十分軽い」
「ひでえなあ、助右衛門」
左近は、そのやり取りを聞きながらも、目は訓練場から外していなかった。
「見せて頂こう」
俺はうなずいて、場の中央へ立つ鉄砲足軽組頭へ合図した。
まずは連続撃ち。
「始め」
最前列が膝を折る。
二列目が半歩ずらして立つ。
三列目が火縄を守るように構える。
乾いた破裂音が一つ。
すぐに最前列が横へ流れ、二列目が前へ。
また一つ。
次に三列目。
その間に後ろでは火皿が払われ、装填が進む。
完全な切れ目はない。
“途切れぬように見える”程度には、もう撃てる。
左近が、そこで初めて小さくうなった。
「……なるほど」
「まだ遅いけどな」と俺。
「それでも、“一度撃ったら終わり”ではない」
左近は静かに言った。
「この鉄砲隊の練度は、それだけで十分に厄介だ」
半兵衛が、少し離れたところで説明を足す。
「火縄の管理、火皿の掃除、弾の手渡し、列の入れ替え。そこを全部、口伝でなく手順に落としました」
「よい」と左近。
「兵が“次に何をするか”を迷わぬのが良い」
典厩様も横で鼻を鳴らす。
「ましになった」
「典厩様、それ誉めてます?」
「昔よりはな」
次に本題だった。
疑似撤退。
こちらは、ただ鉄砲足軽だけでできるものではない。
そこへ慶次郎、助右衛門、左近の息が必要になる。
俺は三人を前へ呼んだ。
「やるぞ」
慶次郎は、最初から楽しそうだった。
「こういうの、嫌いじゃねえ」
助右衛門は無言で槍の石突を地へ落とした。
左近は、地形を見ている。土塁、柵、逃げ道、絞り込み、その先の横撃線。
一度見れば足りる男だ。
「左近」と俺。
「何だ」
「今日はお前にも中に入ってもらう。見学じゃなく、実際に噛んでくれ」
「承知」
「慶次郎は、見せ餌だ」
「おっ、似合う役だねえ」
「似合いすぎるから困る」
「褒めてる褒めてる」
「助右衛門は、慶次郎の半歩後ろ。引き際を締めろ」
「うむ」
「左近は殺し間の奥。慶次郎が敵を連れて入った瞬間、横から切り込む」
左近が、そこでわずかに目を細める。
「鉄砲の再装填と合うか」
「合わせる」
半兵衛がすぐに言う。
「一度目の射で怯ませ、少しだけ前を空ける。敵が“押せる”と思って詰めたところで慶次郎隊が崩れるように見せて下がる」
長門守が補足する。
「追う側には、勝ちを見せることが肝要」
「そう」と俺。
「人は、逃げる背を見ると追う。そこへ“もう一歩で取れる”を足す」
慶次郎が笑う。
「つまり俺が、いかにも“耐えきれずここで崩れました”って顔をすりゃいいんでしょう?」
左近が横目で見る。
「できるのか」
「おいおい左近殿、俺を誰だと思ってる。戦場で一番絵になる撤退ぐらい、やってみせるさ」
助右衛門がぽつりと。
「本当に絵になるのが腹立たしい」
「だろ?」
「褒めておらぬ」
配置につく。
鉄砲隊が一度撃つ。
煙が立つ。
敵役の足軽たちが、わっと前へ出る。
二度目の射。
そこで少しだけ間を作る。
「今だ」と俺は小さく言った。
慶次郎が、そこでぱっと動いた。
朱槍がひときわ目立つ。
前へ出る。
一度受ける。
それから、あえて踏み負けたように後ろへ退く。
うまい。
あまりにうまい。
本当に少し崩れたように見える。
敵役が、そこを見て前へ出た。
「押せる!」と誰かが叫ぶ。
それが欲しかった。
慶次郎が、逃げる。
ただし狼狽えず、ぎりぎり“保っている”ように逃げる。
だから追う側はなおさら食いつく。
助右衛門が、その半歩後ろで流れを締めていた。
慶次郎だけだと華が立ちすぎて、追う側に妙な用心を生ませる。
だが、その後ろに助右衛門の黒い槍があると、「まだ踏ん張っている敵」に見える。
だからこそ、あと一押しで崩せる、と敵が思う。
そして、殺し間へ入った。
「撃て!」
左右から鉄砲。
狭めた地形に煙と音が満ちる。
敵役の足が止まる。
その一瞬だった。
左近が横から入る。
速い、というより、無駄がない。
最短で、いちばん嫌な角度へ入る。
あれは“強い武者”の動きではなく、“殺すためにそこへいた男”の動きだ。
前が慶次郎。
後ろが助右衛門。
横が左近。
そこへ鉄砲の煙。
敵役は、完全に詰まった。
「止め!」
声をかけるまでの一連が、思っていたよりずっと綺麗に決まった。
しばらく、場に沈黙があった。
それから、左近が静かに言った。
「よい」
慶次郎が、槍を肩へ担ぎながら笑う。
「おっ、左近殿から“よい”頂きました」
「だが」
左近は、そこで慶次郎を見る。
「おぬし、退く時に少し見せすぎる」
「見せすぎる?」
「上手すぎる」
場が少し揺れた。
慶次郎が笑う。
「そりゃ初めて言われたな」
「敵が鈍ければ食う。だが、鼻の利く武将が一人混じると、“あれは誘いだ”と気づくかもしれぬ」
助右衛門がうなずいた。
「たしかに」
「だから」と左近。
「一度、本当に乱れて見せる役を別に置け。慶次郎はその少し後ろで、崩れかけを支える方がよい」
俺はそこで指を鳴らした。
「なるほどな」
半兵衛も頷く。
「慶次郎殿は華がありすぎる。敵の目を引きつけるにはよいが、詐術の“雑味”が足りぬのかもしれませぬ」
「雑味って何だよ」
「崩れる時の品のなさです」
「うわ、ひでえ」
「ですが褒めております」
「全然褒めてる気がしねえ」
左近は、今度は助右衛門を見た。
「おぬしはよい」
助右衛門は短くうなずく。
「うむ」
「退く慶次郎の後ろで、ぎりぎり崩れぬ線を作っていた。あれがあるから敵は“押せば割れる”と思う」
「割れぬがな」
「だからよい」
それから、左近は鉄砲隊の方へ向いた。
「間はまだある」
組頭が少し身を固くする。
「は」
「だが、間があるからこそ“追える”と思わせる余白にもなる。いまは悪くない」
半兵衛が静かに補った。
「つまり、完成には遠いが、今の段でも罠としては十分、ということですな」
「そうだ」
左近は、最後に俺を見た。
「面白い」
「またそれか」
「鉄砲だけではない。槍だけでもない。退く足、追わせる間、止める地形、横から切る者。全部を合わせようとしている」
「そういう時代になると思ってる」
「なるだろうな」
慶次郎が、そこでからりと笑った。
「つまり左近殿も、ここに混ざる価値があるって思ったわけだ」
左近は、その軽口にも崩れなかった。
「おぬしのような男がいるから、なおそう思う」
「おっ」
「前へ出る華があり、だが一歩誤れば死ぬ。その境を面白がれるのは得難い」
慶次郎は、そこで少しだけ真顔になった。
「そいつぁ、悪くねえ褒め言葉だ」
助右衛門が横で言う。
「珍しく、ちゃんと刺さったな」
「助右衛門、お前ちょいちょい俺を何だと思ってんだ」
「分かりやすい男」
「否定できねえ」
俺はその三人を見ながら思った。
左近。
慶次郎。
助右衛門。
この三人の息が合えば、ただ武辺が強いだけではない、“噛ませて殺す”戦いができる。
鉄砲隊はまだ育ち切っていない。
だが、そこへこの三人の間合いが加われば、戦はかなり変わる。
「よし」と俺は言った。
「左近」
「何だ」
「今の見立て、もっと詰めてくれ」
「承知」
「慶次郎、次はもう少し汚く崩れろ」
「ええー、そこ求められる?」
「求める」
「治部様、俺に何をさせたいんだよ」
「華のある詐欺師」
「最悪だ」
「褒めてる」
「今日はその手が多いなあ!」
笑いが落ちる。
だが、その笑いの下で、治部家の鉄砲隊はまた一歩進んだ。
ただ撃つだけでなく、誘い、止め、噛み砕くための鉄砲へ。
そしてその要に、左近、慶次郎、助右衛門という、癖の強い三本の槍が入った。
それは、かなり強い。
少なくとも俺には、そう見えた。
♢
選んだ戦場は、こちらが選んだ時点でもう半ば勝っていた。
京へ至る道を、広くもなく狭くもないところで絞る。
退けるように見せて、実際には退かぬ。
勝てると踏んで追えば、いつの間にか川と土塁と柵と煙で首が締まる。
信光叔父上の隊二千は、あくまで京維持のための兵だ。あれを削れば、その後が重い。だから最初から、あちらは“いるだけで圧になる壁”として置き、決して食われぬ位置へ伏せた。
治部家の八千が動く。
十兵衛が全体の歪みを見て、兵の流れが崩れぬよう押さえる。
半兵衛が、こちらの薄く見せたところへ敵を誘い込み、退いているようで退いていない陣を作る。
伊勢守が、敵が“押せる”と勘違いする角度で見せ場を作る。
長門守と弾正が、そこへ至るまでの風を流し、三好三人衆に「今なら治部家を噛み砕ける」と思わせる。
左近、慶次郎、助右衛門が、殺し間へ入った敵先鋒を横と前から食い破る。
鉄砲隊は連続撃ちで足を止め、疑似撤退からの誘導で敵の勢いを殺さず絞る。
そして、全部が予定通りに嵌まった。
それが、まずかった。
「押せぇっ!」
敵の声が上がる。
三好三人衆の旗が、こちらの崩れかけた前面を見て前へ前へ出てくる。
勝てると見たのだ。
一度押し潰せば、瀬田口も京口も揺れると踏んだのだ。
だが、押した先が悪かった。
慶次郎が、いかにも踏み負けたように朱槍を翻して退く。
その半歩後ろを助右衛門が支え、黒槍が「あと一押しで割れる」線をわざと作る。
敵がそこへ食いつく。
鉄砲が鳴る。
左右から乾いた破裂音。
止まる。
詰まる。
そこへ左近が入る。
速いのではない。
短いのだ。
動きが、殺すために短い。
一人目。
「岩成殿っ!」
誰かが叫んだ時には、もう遅い。
横腹へ入った左近の一撃で、岩成主税助友通が馬上から崩れた。
「まだだ!」
と敵が叫ぶ。
当然だ。三人衆は一人ではない。
長逸と宗渭が残っている。
むしろ、ここからが本番のはずだった。
半兵衛が、そこで静かに目を細めた。
「……少し、前へ出すぎましたね」
十兵衛がすぐに察する。
「取れるか」
「取れてしまいます」
それは本来、喜ぶべき言葉のはずだった。
だが、その声色は少し違った。
日向守長逸が、討ち死にした岩成の位置を見て、自ら兵を寄せた。
崩れたと思ったこちらの前線を、今なら割れると踏んだのだ。
「伊勢守!」
俺が叫ぶ前に、伊勢守はもう動いていた。
「承知!」
あの男は、こういう時に本当に良い。
勢いよく、しかし雑ではなく、敵が“あそこに勝ち筋がある”と思う場所を自分で作れる。
鉄砲隊が半歩下がる。
槍足軽が道を開ける。
長逸の馬印が、その空いた喉へ吸われる。
「撃て!」
二度目の連続撃ち。
今度は、もっと近い。
馬が怯む。
前へ出た兵が折り重なる。
そのわずかな止まりへ、今度は助右衛門が黒槍を突き込んだ。
一撃ではない。
二度、三度と、無駄なく前へ出る。
崩れた先鋒の隙間を割り、ついに長逸の馬の首元へ届く。
「助右衛門っ!」
敵の怒声。
だが、その時には慶次郎がもう回っていた。
「遅ぇよ!」
朱槍が、ひどく綺麗に走る。
綺麗すぎるほど綺麗に。
その穂先が、日向守長逸の喉下を抉った。
血が上がる。
馬が嘶く。
また一つ、三好側の旗色が揺れた。
「二人……!」
誰かが叫んだ。
ここで止まるはずだった。
本来は、ここで残る一人へ疑心を流し、敵を崩して追い返す。
それが当初の算段だった。
だが、下野守宗渭が止まらなかった。
止まれなかったのかもしれない。
二人落ちた以上、ここで退けば、残った自分がすべての責を背負う。
ならば、押し切るしかない。
そういう顔だった。
弾正が、後ろで低く言った。
「……あれは、死にに来てますな」
俺も見ていた。
下野守宗渭はもう、勝つためではなく、崩れぬために前へ出ている。
「十兵衛」
「は」
「孫三郎叔父上の二千は動かすな」
「承知」
「京口は削らせるな。ここで終わらせる」
「御意」
宗渭は、残兵をまとめて中央へ突っ込んで来た。
そこはもう、こちらが最も厚い場所だった。
助右衛門が、静かに言った。
「最後は、某が行く」
慶次郎が笑う。
「おう、行こうぜ」
左近は何も言わなかった。
だが、もう槍の角度が決まっている。
三人が出る。
鉄砲が鳴る。
煙。
血。
怒声。
川風が吹いて、火薬の臭いが流れる。
下野守宗渭は、さすがに弱くはなかった。
二人討たれてなお、自ら前へ出てくるだけの胆力はある。
だが、その胆力が、今日はちょうど悪い方へ嵌まった。
慶次郎が前へ出て、派手に槍を見せる。
宗渭がそちらへ意識を寄せる。
左近が逆から締める。
その一瞬だけ生まれた首の向きへ、助右衛門が最短で入った。
「っ――」
短い。
声とも息ともつかぬ音。
それで終わった。
下野守宗渭の身体が、馬上で一度だけ揺れて、そして崩れた。
三好三人衆、全員討死。
あまりに綺麗に決まりすぎて、しばらくその場の誰もが理解したくなかった。
敵が先に崩れた。
三人衆の旗が、まとめて落ちたのを見て、残兵が完全に腰を砕いた。
もう“疑心を流す”段ではない。
最初から根が抜けてしまったのだ。
「追うな!」
十兵衛の声が飛ぶ。
「孫三郎様の持ち場を空けるな! 潰走を追って散るな!」
その号令で、こちらはぎりぎり崩れずに済んだ。
勝ち戦のあとの一番怖いところを、十兵衛がちゃんと締める。
伊勢守が、血振るいしながら笑った。
「やりすぎましたな!」
半兵衛が、土塁の後ろから出てきて本当に少しだけ困った顔をした。
「まことに」
「いや、勝ったでしょうが」
「勝ちました。勝ちましたが、“一人落とす”つもりが三人とも落ちるのは、さすがに少し予定が違います」
慶次郎が、肩で息をしながら笑う。
「相手が弱すぎたんだ!」
その声が、場に妙に明るく響いた。
助右衛門がすぐに返す。
「お前が言うと腹が立つな」
「何でだよ」
「本当に楽しそうだからだ」
左近は、槍を静かに下ろしたまま言った。
「弱くはない」
「じゃあ何だい」と慶次郎。
「こちらが、噛み合いすぎた」
その一言が、たぶん真実だった。
戦場。
地形。
誘導。
鉄砲。
撤退の芝居。
横撃。
そして、三人衆側の焦り。
全部が、綺麗に噛み合ってしまった。
俺は、その結果を見ながら息を吐いた。
「……三人とも、か」
弾正が、少し離れたところで複雑な顔をしている。
そりゃそうだ。
一人落として二人を争わせるつもりが、三好三人衆そのものが消えたのだ。
三好宗家にとっては楽になった面と、逆に“次に誰が頭をもたげるか分からぬ”怖さが同時に来る。
半兵衛が俺を見る。
「治部様」
「何だ」
「勝ちは勝ちです。ですが、後処理は重くなります」
「分かってる」
「三人衆全員討死となれば、畿内の空白は思った以上に大きい」
「分かってるって」
十兵衛も静かに言う。
「孫三郎様の二千を温存できたのは大きゅうございました」
「そこはよかった」
「はい。京口の維持と、将軍家・朝廷への顔を保てます」
俺は、そこでようやく頷いた。
たしかにそうだ。
治部家八千で殴り、孫三郎叔父上の二千は損耗させずに残した。
それができたのだから、当初の条件は果たしている。
果たしているのだが。
「でも、本当に三人とも消えるとはなあ」
伊勢守が笑う。
「景気がよろしいではありませぬか」
「景気はいい。後が面倒なだけだ」
「いつものことで」
「それもそうか」
慶次郎は、まだ楽しそうだった。
「相手が弱すぎたんだ!」
「だからそれを繰り返すな」と俺。
「格好いいじゃねえか」
「格好よくても、後で帳尻合わせるのはこっちだ」
「半兵衛がやってくれるだろ?」
半兵衛が即答する。
「嫌です」
それで、ようやく場に少し笑いが戻った。
三好三人衆、一万余。
治部家八千。
孫三郎叔父上の京維持隊二千温存。
選んだ戦場で、予定通り、各自がやるべきことをやった。
その結果、こちらは三好三人衆を撃退するどころか、三人とも討ち取ってしまった。
勝ちすぎた勝利。
だが戦国には、そういうことがある。
だから次に来るのは、歓声より先に、空白の処理だった。
♢
稲葉山城の評定は、いつもより少しだけ静かだった。
三好三人衆を討ち、畿内の再編に目途が立ち始めたとはいえ、だからこそ次の手をどう打つかが重い。勝ったあとの一手を誤れば、勝ちはただの空白になる。上総介兄上も勘十郎兄上も、そのことはよく分かっている顔だった。
俺と鶴姫は、やや下座寄りに並んで座っていた。
上総介兄上が、まず口を開く。
「治部」
「は」
「何かある顔だな」
「あります」
「申せ」
俺は、そこで一度だけ息を整えた。
「四国方面のことです」
勘十郎兄上の目が少しだけ動く。
そこへ先に触れるか、という顔だった。
「三好宗家を筑前守殿、孫次郎殿ともども温存するなら、残る四国側の形を早めに定めるべきかと存じます」
上総介兄上は何も言わず、先を促すように顎を引いた。
「阿波、讃岐、淡路は、宗家の核として残すのがよろしいかと考えております」
「うむ」と勘十郎兄上。
「それは前にも出た話だ」
「はい。問題は、その先です」
俺は、地図の上で土佐を指した。
「長曾我部家」
上総介兄上が、そこで少しだけ目を細めた。
「長曾我部か」
「はい。まだ大きい家ではありませぬ。ですが、勢いがある。当主が若い。そしてそれを支える兄弟が周囲に養子に入り枝を伸ばし、しかも団結している。今後、伸びると見ています」
勘十郎兄上が言う。
「つまり」
「放っておけば、いずれ阿波、讃岐にも手を伸ばす家です」
鶴姫が、そこで静かに口を開いた。
「ゆえに、今のうちより誼を通じておくのがよろしいかと」
上総介兄上の視線が、今度は鶴姫へ向く。
「浅井の姫は、どう見る」
「長曾我部家は、いずれ四国の西南より北へ伸びましょう。ですが、誼がなければ、伸びる先は阿波讃岐にも向かいます」
「誼があれば」
「土佐のあと、のちの伊予へ向けやすうございます」
評定の空気が少し締まる。
ここで大事なのは、長曾我部家を拾う話ではあっても、それが三好宗家を切り捨てる話に見えてはならぬことだった。だからこそ、この場で上総介兄上と勘十郎兄上の裁可を得る必要がある。
俺は、そこを正面から言った。
「勝手に動く気はありません」
上総介兄上が少しだけ笑う。
「珍しいことを言うな」
「兄上」
「冗談だ。続けよ」
「長曾我部との誼は、織田家としての裁可を得たうえでやるべきです」
勘十郎兄上が頷く。
「当然だな。治部が単独で四国へ手を伸ばしているように見えてはまずい。あくまで、織田家の対四国方針として動くべきです」
「その方針とは何だ」と上総介兄上。
俺は地図の上に指を置いたまま答えた。
「三好宗家は、阿波、讃岐、淡路で残す」
「うむ」
「長曾我部は土佐を固める」
「その先は」
「将来的には伊予」
上総介兄上は、そこで初めてはっきりと頷いた。
「阿波讃岐へは食い込ませぬ、と」
「はい」
鶴姫が続ける。
「最初から“食うな”と命ずるのではなく、まずは“先に目をかけてくれた家”になることが大事かと」
「恩を売る、か」と勘十郎兄上。
「はい。大きくなってから寄れば、向こうも足元を見ます。されど、まだ手の小さいうちに誼を通せば、覚え方が違いましょう」
上総介兄上が、少しだけ口元を緩めた。
「ふむ」
俺は、そこで言葉を足した。
「長曾我部が四国西南で伸びるのは、止めにくいです。なら、伸びる先を選ばせるしかない」
「阿波讃岐ではなく、伊予へ」
「はい」
「なぜ伊予だ」
「三好宗家を残した意味を失わせないためです」
その一言に、場の温度が少し変わる。
勘十郎兄上が、静かに言った。
「そこだな」
「はい。せっかく宗家を残しても、数年のうちに長曾我部が阿波讃岐まで呑み込めば、畿内での処置と矛盾します」
上総介兄上は、それを聞いて少し考える顔になった。
「つまり」
「長曾我部には、土佐安堵と、将来の伊予方面での利を匂わせる」
「その代わり」
「阿波讃岐は、三好宗家の面目として触らせない」
「文面は難しいぞ」と勘十郎兄上。
「露骨に書けば、向こうも気を悪くする」
鶴姫が、そこへ自然に入った。
「ですので、“土佐の安堵を祝い、四国の静謐をともに図りたし”くらいから始めるのがよろしいかと」
「いきなり境を切るのではなく」
「はい。まずは誼。そのうえで、将来の利を少しずつ見せる」
上総介兄上が、鶴姫を見て言う。
「よく考えておるな」
「治部大輔殿のお考えを、文に耐えるよう整えただけにございます」
「その“整える”が大事だ」
そこで、少しだけ笑いが落ちた。
だが、上総介兄上はすぐに真顔へ戻った。
「治部」
「は」
「長曾我部に何を送るつもりだ」
「文だけでは弱いかと」
「当然だ」
「酒は付けます」
上総介兄上が小さく笑う。
「また酒か」
「効くものは使います」
「それで」
「織田家としての顔が立つもの。派手すぎず、だが軽くもないもの」
勘十郎兄上が言う。
「瀬戸か」
「それもありです」
「武ではなく、恩と縁で結ぶのだな」
「今はその方がいい」
上総介兄上は、そこでようやく結論を出した。
「よい」
俺は姿勢を正した。
「長曾我部との誼、許す」
「は」
「ただし、治部の私交ではない」
「はい」
「織田家の対四国筋として動け」
「承知致しました」
「勘十郎」
「は」
「文面と使者筋、お前も見ろ」
「承知しました」
「阿波讃岐へ深入りさせぬ理は崩すな」
「無論にございます」
上総介兄上は、さらに言った。
「長曾我部が将来、四国を大きく揺らすなら、今のうちに覚えさせておく価値はある」
「はい」
「だが、三好宗家を残す方針と矛盾してはならぬ」
「そこは最優先で通します」
上総介兄上は、そこで少しだけ笑った。
「治部」
「何でしょう」
「今回はちゃんと許可を取りに来たな」
「兄上」
「よい傾向だ」
「褒めてます?」
「半分はな」
「またそれですか」
勘十郎兄上が横でくすりと笑う。
「治部、兄上としてはだいぶ素直に褒めておられる方だ」
「全然そう思えないんですが」
「慣れろ」
それで場の空気が少し和らいだ。
だが、決まったことは重い。
長曾我部家への誼は、信繁の思いつきではない。
信長、信勝の裁可を経た、織田家の対四国政策として動く。
三好宗家は阿波、讃岐、淡路に残す。
長曾我部は土佐を固め、将来的には伊予へ寄せる。
その地ならしを、今から始める。
評定を辞したあと、廊へ出てから、鶴姫が静かに言った。
「通りましたね」
「うん」
「上総介様も勘十郎様も、最初からかなり乗り気であられたように見えました」
「兄上たちも、放っておいたら長曾我部がどこへ伸びるか、分かってるんだろうな」
「でしょうね」
「だからこそ、今のうちか」
「はい」
鶴姫は、そこで少しだけ目を細めた。
「では、文を整えましょう」
「頼む」
「治部大輔殿」
「何だ」
「勝手に使者を出さぬでくださいませ」
「分かってるよ」
「本当に」
「本当に」
その返しに、鶴姫は小さく頷いた。
四国はまだ遠い。
だが、遠いからこそ、今のうちに一手を置く意味がある。
稲葉山城の評定で、その一手は、ようやく正式なものになったのだった。