織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

51 / 68
050山城口の戦い

瀬田城の外れ、馬場と鉄砲場を兼ねた平地は、朝から乾いた火薬の匂いがしていた。

 

土を盛った的。

木柵。

仮設の土塁。

左右へ逃げるための抜け道。

そして、その奥に細く絞った“殺し間”。

 

治部家の鉄砲隊は、ただ撃つだけの集団ではなくなりつつあった。銃床を改良し、照星と照門を装備して、さらに鉄砲足軽には専用の鎧を用意した。

 

撃って、下がる。

下がるふりをして、誘う。

誘って、詰めてきた敵の足を止める。

その一連を、少しずつだが形にし始めている。

 

今日はそれを、左近に見せる日だった。

 

「左近」

「は」

「うちの鉄砲隊、まずは見てくれ」

 

左近は、腕を組んだまま射場を見ている。

 

「ただの一斉射ではない、と」

「うん。まず連続撃ち。それから、最近ようやく形になってきた“逃げるふり”だ」

 

慶次郎が、横でにやりと笑った。

 

「治部様、“逃げるふり”って言い方が雑すぎる」

「じゃあ何だよ」

「華麗なる誘い込み、くらい言ってくだせえよ」

「お前が言うと軽くなる」

 

助右衛門が短く言った。

 

「十分軽い」

「ひでえなあ、助右衛門」

 

左近は、そのやり取りを聞きながらも、目は訓練場から外していなかった。

 

「見せて頂こう」

 

俺はうなずいて、場の中央へ立つ鉄砲足軽組頭へ合図した。

 

まずは連続撃ち。

 

「始め」

 

最前列が膝を折る。

二列目が半歩ずらして立つ。

三列目が火縄を守るように構える。

 

乾いた破裂音が一つ。

すぐに最前列が横へ流れ、二列目が前へ。

また一つ。

次に三列目。

その間に後ろでは火皿が払われ、装填が進む。

 

完全な切れ目はない。

“途切れぬように見える”程度には、もう撃てる。

 

左近が、そこで初めて小さくうなった。

 

「……なるほど」

 

「まだ遅いけどな」と俺。

「それでも、“一度撃ったら終わり”ではない」

 

左近は静かに言った。

 

「この鉄砲隊の練度は、それだけで十分に厄介だ」

 

半兵衛が、少し離れたところで説明を足す。

 

「火縄の管理、火皿の掃除、弾の手渡し、列の入れ替え。そこを全部、口伝でなく手順に落としました」

 

「よい」と左近。

「兵が“次に何をするか”を迷わぬのが良い」

 

典厩様も横で鼻を鳴らす。

 

「ましになった」

「典厩様、それ誉めてます?」

「昔よりはな」

 

次に本題だった。

 

疑似撤退。

 

こちらは、ただ鉄砲足軽だけでできるものではない。

そこへ慶次郎、助右衛門、左近の息が必要になる。

 

俺は三人を前へ呼んだ。

 

「やるぞ」

 

慶次郎は、最初から楽しそうだった。

 

「こういうの、嫌いじゃねえ」

 

助右衛門は無言で槍の石突を地へ落とした。

左近は、地形を見ている。土塁、柵、逃げ道、絞り込み、その先の横撃線。

一度見れば足りる男だ。

 

「左近」と俺。

 

「何だ」

「今日はお前にも中に入ってもらう。見学じゃなく、実際に噛んでくれ」

「承知」

「慶次郎は、見せ餌だ」

「おっ、似合う役だねえ」

「似合いすぎるから困る」

「褒めてる褒めてる」

「助右衛門は、慶次郎の半歩後ろ。引き際を締めろ」

「うむ」

「左近は殺し間の奥。慶次郎が敵を連れて入った瞬間、横から切り込む」

 

左近が、そこでわずかに目を細める。

 

「鉄砲の再装填と合うか」

「合わせる」

 

半兵衛がすぐに言う。

 

「一度目の射で怯ませ、少しだけ前を空ける。敵が“押せる”と思って詰めたところで慶次郎隊が崩れるように見せて下がる」

 

長門守が補足する。

 

「追う側には、勝ちを見せることが肝要」

 

「そう」と俺。

「人は、逃げる背を見ると追う。そこへ“もう一歩で取れる”を足す」

 

慶次郎が笑う。

 

「つまり俺が、いかにも“耐えきれずここで崩れました”って顔をすりゃいいんでしょう?」

 

左近が横目で見る。

 

「できるのか」

「おいおい左近殿、俺を誰だと思ってる。戦場で一番絵になる撤退ぐらい、やってみせるさ」

 

助右衛門がぽつりと。

 

「本当に絵になるのが腹立たしい」

「だろ?」

「褒めておらぬ」

 

配置につく。

 

鉄砲隊が一度撃つ。

煙が立つ。

敵役の足軽たちが、わっと前へ出る。

 

二度目の射。

そこで少しだけ間を作る。

 

「今だ」と俺は小さく言った。

 

慶次郎が、そこでぱっと動いた。

 

朱槍がひときわ目立つ。

前へ出る。

一度受ける。

それから、あえて踏み負けたように後ろへ退く。

 

うまい。

あまりにうまい。

本当に少し崩れたように見える。

 

敵役が、そこを見て前へ出た。

 

「押せる!」と誰かが叫ぶ。

それが欲しかった。

 

慶次郎が、逃げる。

ただし狼狽えず、ぎりぎり“保っている”ように逃げる。

だから追う側はなおさら食いつく。

 

助右衛門が、その半歩後ろで流れを締めていた。

慶次郎だけだと華が立ちすぎて、追う側に妙な用心を生ませる。

だが、その後ろに助右衛門の黒い槍があると、「まだ踏ん張っている敵」に見える。

だからこそ、あと一押しで崩せる、と敵が思う。

 

そして、殺し間へ入った。

 

「撃て!」

 

左右から鉄砲。

 

狭めた地形に煙と音が満ちる。

敵役の足が止まる。

 

その一瞬だった。

 

左近が横から入る。

 

速い、というより、無駄がない。

最短で、いちばん嫌な角度へ入る。

あれは“強い武者”の動きではなく、“殺すためにそこへいた男”の動きだ。

 

前が慶次郎。

後ろが助右衛門。

横が左近。

そこへ鉄砲の煙。

 

敵役は、完全に詰まった。

 

「止め!」

 

声をかけるまでの一連が、思っていたよりずっと綺麗に決まった。

しばらく、場に沈黙があった。

 

それから、左近が静かに言った。

 

「よい」

 

慶次郎が、槍を肩へ担ぎながら笑う。

 

「おっ、左近殿から“よい”頂きました」

 

「だが」

左近は、そこで慶次郎を見る。

「おぬし、退く時に少し見せすぎる」

 

「見せすぎる?」

「上手すぎる」

 

場が少し揺れた。

 

慶次郎が笑う。

 

「そりゃ初めて言われたな」

「敵が鈍ければ食う。だが、鼻の利く武将が一人混じると、“あれは誘いだ”と気づくかもしれぬ」

 

助右衛門がうなずいた。

 

「たしかに」

 

「だから」と左近。

「一度、本当に乱れて見せる役を別に置け。慶次郎はその少し後ろで、崩れかけを支える方がよい」

 

俺はそこで指を鳴らした。

 

「なるほどな」

 

半兵衛も頷く。

 

「慶次郎殿は華がありすぎる。敵の目を引きつけるにはよいが、詐術の“雑味”が足りぬのかもしれませぬ」

「雑味って何だよ」

「崩れる時の品のなさです」

「うわ、ひでえ」

「ですが褒めております」

「全然褒めてる気がしねえ」

 

左近は、今度は助右衛門を見た。

 

「おぬしはよい」

 

助右衛門は短くうなずく。

 

「うむ」

「退く慶次郎の後ろで、ぎりぎり崩れぬ線を作っていた。あれがあるから敵は“押せば割れる”と思う」

「割れぬがな」

 

「だからよい」

それから、左近は鉄砲隊の方へ向いた。

「間はまだある」

 

組頭が少し身を固くする。

 

「は」

「だが、間があるからこそ“追える”と思わせる余白にもなる。いまは悪くない」

 

半兵衛が静かに補った。

 

「つまり、完成には遠いが、今の段でも罠としては十分、ということですな」

 

「そうだ」

左近は、最後に俺を見た。

「面白い」

 

「またそれか」

「鉄砲だけではない。槍だけでもない。退く足、追わせる間、止める地形、横から切る者。全部を合わせようとしている」

「そういう時代になると思ってる」

「なるだろうな」

 

慶次郎が、そこでからりと笑った。

 

「つまり左近殿も、ここに混ざる価値があるって思ったわけだ」

 

左近は、その軽口にも崩れなかった。

 

「おぬしのような男がいるから、なおそう思う」

「おっ」

「前へ出る華があり、だが一歩誤れば死ぬ。その境を面白がれるのは得難い」

 

慶次郎は、そこで少しだけ真顔になった。

 

「そいつぁ、悪くねえ褒め言葉だ」

 

助右衛門が横で言う。

 

「珍しく、ちゃんと刺さったな」

「助右衛門、お前ちょいちょい俺を何だと思ってんだ」

「分かりやすい男」

「否定できねえ」

 

俺はその三人を見ながら思った。

 

左近。

慶次郎。

助右衛門。

 

この三人の息が合えば、ただ武辺が強いだけではない、“噛ませて殺す”戦いができる。

鉄砲隊はまだ育ち切っていない。

だが、そこへこの三人の間合いが加われば、戦はかなり変わる。

 

「よし」と俺は言った。

「左近」

 

「何だ」

「今の見立て、もっと詰めてくれ」

「承知」

「慶次郎、次はもう少し汚く崩れろ」

「ええー、そこ求められる?」

「求める」

「治部様、俺に何をさせたいんだよ」

「華のある詐欺師」

「最悪だ」

「褒めてる」

「今日はその手が多いなあ!」

 

笑いが落ちる。

 

だが、その笑いの下で、治部家の鉄砲隊はまた一歩進んだ。

ただ撃つだけでなく、誘い、止め、噛み砕くための鉄砲へ。

そしてその要に、左近、慶次郎、助右衛門という、癖の強い三本の槍が入った。

 

それは、かなり強い。

少なくとも俺には、そう見えた。

 

 

選んだ戦場は、こちらが選んだ時点でもう半ば勝っていた。

 

京へ至る道を、広くもなく狭くもないところで絞る。

退けるように見せて、実際には退かぬ。

勝てると踏んで追えば、いつの間にか川と土塁と柵と煙で首が締まる。

信光叔父上の隊二千は、あくまで京維持のための兵だ。あれを削れば、その後が重い。だから最初から、あちらは“いるだけで圧になる壁”として置き、決して食われぬ位置へ伏せた。

 

治部家の八千が動く。

 

十兵衛が全体の歪みを見て、兵の流れが崩れぬよう押さえる。

半兵衛が、こちらの薄く見せたところへ敵を誘い込み、退いているようで退いていない陣を作る。

伊勢守が、敵が“押せる”と勘違いする角度で見せ場を作る。

長門守と弾正が、そこへ至るまでの風を流し、三好三人衆に「今なら治部家を噛み砕ける」と思わせる。

左近、慶次郎、助右衛門が、殺し間へ入った敵先鋒を横と前から食い破る。

鉄砲隊は連続撃ちで足を止め、疑似撤退からの誘導で敵の勢いを殺さず絞る。

 

そして、全部が予定通りに嵌まった。

 

それが、まずかった。

 

「押せぇっ!」

 

敵の声が上がる。

三好三人衆の旗が、こちらの崩れかけた前面を見て前へ前へ出てくる。

勝てると見たのだ。

一度押し潰せば、瀬田口も京口も揺れると踏んだのだ。

 

だが、押した先が悪かった。

 

慶次郎が、いかにも踏み負けたように朱槍を翻して退く。

その半歩後ろを助右衛門が支え、黒槍が「あと一押しで割れる」線をわざと作る。

敵がそこへ食いつく。

鉄砲が鳴る。

左右から乾いた破裂音。

止まる。

詰まる。

そこへ左近が入る。

 

速いのではない。

短いのだ。

動きが、殺すために短い。

 

一人目。

 

「岩成殿っ!」

 

誰かが叫んだ時には、もう遅い。

横腹へ入った左近の一撃で、岩成主税助友通が馬上から崩れた。

 

「まだだ!」

 

と敵が叫ぶ。

当然だ。三人衆は一人ではない。

長逸と宗渭が残っている。

むしろ、ここからが本番のはずだった。

 

半兵衛が、そこで静かに目を細めた。

 

「……少し、前へ出すぎましたね」

 

十兵衛がすぐに察する。

 

「取れるか」

「取れてしまいます」

 

それは本来、喜ぶべき言葉のはずだった。

だが、その声色は少し違った。

 

日向守長逸が、討ち死にした岩成の位置を見て、自ら兵を寄せた。

崩れたと思ったこちらの前線を、今なら割れると踏んだのだ。

 

「伊勢守!」

 

俺が叫ぶ前に、伊勢守はもう動いていた。

 

「承知!」

 

あの男は、こういう時に本当に良い。

勢いよく、しかし雑ではなく、敵が“あそこに勝ち筋がある”と思う場所を自分で作れる。

鉄砲隊が半歩下がる。

槍足軽が道を開ける。

長逸の馬印が、その空いた喉へ吸われる。

 

「撃て!」

 

二度目の連続撃ち。

今度は、もっと近い。

 

馬が怯む。

前へ出た兵が折り重なる。

そのわずかな止まりへ、今度は助右衛門が黒槍を突き込んだ。

 

一撃ではない。

二度、三度と、無駄なく前へ出る。

崩れた先鋒の隙間を割り、ついに長逸の馬の首元へ届く。

 

「助右衛門っ!」

 

敵の怒声。

だが、その時には慶次郎がもう回っていた。

 

「遅ぇよ!」

 

朱槍が、ひどく綺麗に走る。

綺麗すぎるほど綺麗に。

その穂先が、日向守長逸の喉下を抉った。

 

血が上がる。

馬が嘶く。

また一つ、三好側の旗色が揺れた。

 

「二人……!」

 

誰かが叫んだ。

 

ここで止まるはずだった。

本来は、ここで残る一人へ疑心を流し、敵を崩して追い返す。

それが当初の算段だった。

 

だが、下野守宗渭が止まらなかった。

 

止まれなかったのかもしれない。

二人落ちた以上、ここで退けば、残った自分がすべての責を背負う。

ならば、押し切るしかない。

そういう顔だった。

 

弾正が、後ろで低く言った。

 

「……あれは、死にに来てますな」

 

俺も見ていた。

下野守宗渭はもう、勝つためではなく、崩れぬために前へ出ている。

 

「十兵衛」

「は」

「孫三郎叔父上の二千は動かすな」

「承知」

「京口は削らせるな。ここで終わらせる」

「御意」

 

宗渭は、残兵をまとめて中央へ突っ込んで来た。

そこはもう、こちらが最も厚い場所だった。

 

助右衛門が、静かに言った。

 

「最後は、某が行く」

 

慶次郎が笑う。

 

「おう、行こうぜ」

 

左近は何も言わなかった。

だが、もう槍の角度が決まっている。

 

三人が出る。

 

鉄砲が鳴る。

煙。

血。

怒声。

川風が吹いて、火薬の臭いが流れる。

 

下野守宗渭は、さすがに弱くはなかった。

二人討たれてなお、自ら前へ出てくるだけの胆力はある。

だが、その胆力が、今日はちょうど悪い方へ嵌まった。

 

慶次郎が前へ出て、派手に槍を見せる。

宗渭がそちらへ意識を寄せる。

左近が逆から締める。

その一瞬だけ生まれた首の向きへ、助右衛門が最短で入った。

 

「っ――」

 

短い。

声とも息ともつかぬ音。

 

それで終わった。

 

下野守宗渭の身体が、馬上で一度だけ揺れて、そして崩れた。

 

三好三人衆、全員討死。

 

あまりに綺麗に決まりすぎて、しばらくその場の誰もが理解したくなかった。

 

敵が先に崩れた。

三人衆の旗が、まとめて落ちたのを見て、残兵が完全に腰を砕いた。

もう“疑心を流す”段ではない。

最初から根が抜けてしまったのだ。

 

「追うな!」

十兵衛の声が飛ぶ。

「孫三郎様の持ち場を空けるな! 潰走を追って散るな!」

 

その号令で、こちらはぎりぎり崩れずに済んだ。

勝ち戦のあとの一番怖いところを、十兵衛がちゃんと締める。

 

伊勢守が、血振るいしながら笑った。

 

「やりすぎましたな!」

 

半兵衛が、土塁の後ろから出てきて本当に少しだけ困った顔をした。

 

「まことに」

「いや、勝ったでしょうが」

「勝ちました。勝ちましたが、“一人落とす”つもりが三人とも落ちるのは、さすがに少し予定が違います」

 

慶次郎が、肩で息をしながら笑う。

 

「相手が弱すぎたんだ!」

 

その声が、場に妙に明るく響いた。

 

助右衛門がすぐに返す。

 

「お前が言うと腹が立つな」

「何でだよ」

「本当に楽しそうだからだ」

 

左近は、槍を静かに下ろしたまま言った。

 

「弱くはない」

 

「じゃあ何だい」と慶次郎。

 

「こちらが、噛み合いすぎた」

 

その一言が、たぶん真実だった。

 

戦場。

地形。

誘導。

鉄砲。

撤退の芝居。

横撃。

そして、三人衆側の焦り。

 

全部が、綺麗に噛み合ってしまった。

 

俺は、その結果を見ながら息を吐いた。

 

「……三人とも、か」

 

弾正が、少し離れたところで複雑な顔をしている。

そりゃそうだ。

一人落として二人を争わせるつもりが、三好三人衆そのものが消えたのだ。

三好宗家にとっては楽になった面と、逆に“次に誰が頭をもたげるか分からぬ”怖さが同時に来る。

 

半兵衛が俺を見る。

 

「治部様」

「何だ」

「勝ちは勝ちです。ですが、後処理は重くなります」

「分かってる」

「三人衆全員討死となれば、畿内の空白は思った以上に大きい」

「分かってるって」

 

十兵衛も静かに言う。

 

「孫三郎様の二千を温存できたのは大きゅうございました」

「そこはよかった」

「はい。京口の維持と、将軍家・朝廷への顔を保てます」

 

俺は、そこでようやく頷いた。

 

たしかにそうだ。

治部家八千で殴り、孫三郎叔父上の二千は損耗させずに残した。

それができたのだから、当初の条件は果たしている。

 

果たしているのだが。

 

「でも、本当に三人とも消えるとはなあ」

 

伊勢守が笑う。

 

「景気がよろしいではありませぬか」

「景気はいい。後が面倒なだけだ」

「いつものことで」

「それもそうか」

 

慶次郎は、まだ楽しそうだった。

 

「相手が弱すぎたんだ!」

 

「だからそれを繰り返すな」と俺。

 

「格好いいじゃねえか」

「格好よくても、後で帳尻合わせるのはこっちだ」

「半兵衛がやってくれるだろ?」

 

半兵衛が即答する。

 

「嫌です」

 

それで、ようやく場に少し笑いが戻った。

 

三好三人衆、一万余。

治部家八千。

孫三郎叔父上の京維持隊二千温存。

 

選んだ戦場で、予定通り、各自がやるべきことをやった。

その結果、こちらは三好三人衆を撃退するどころか、三人とも討ち取ってしまった。

 

勝ちすぎた勝利。

だが戦国には、そういうことがある。

 

だから次に来るのは、歓声より先に、空白の処理だった。

 

 

稲葉山城の評定は、いつもより少しだけ静かだった。

 

三好三人衆を討ち、畿内の再編に目途が立ち始めたとはいえ、だからこそ次の手をどう打つかが重い。勝ったあとの一手を誤れば、勝ちはただの空白になる。上総介兄上も勘十郎兄上も、そのことはよく分かっている顔だった。

 

俺と鶴姫は、やや下座寄りに並んで座っていた。

 

上総介兄上が、まず口を開く。

 

「治部」

「は」

「何かある顔だな」

「あります」

「申せ」

 

俺は、そこで一度だけ息を整えた。

 

「四国方面のことです」

 

勘十郎兄上の目が少しだけ動く。

そこへ先に触れるか、という顔だった。

 

「三好宗家を筑前守殿、孫次郎殿ともども温存するなら、残る四国側の形を早めに定めるべきかと存じます」

上総介兄上は何も言わず、先を促すように顎を引いた。

「阿波、讃岐、淡路は、宗家の核として残すのがよろしいかと考えております」

 

「うむ」と勘十郎兄上。

「それは前にも出た話だ」

 

「はい。問題は、その先です」

俺は、地図の上で土佐を指した。

「長曾我部家」

 

上総介兄上が、そこで少しだけ目を細めた。

 

「長曾我部か」

「はい。まだ大きい家ではありませぬ。ですが、勢いがある。当主が若い。そしてそれを支える兄弟が周囲に養子に入り枝を伸ばし、しかも団結している。今後、伸びると見ています」

 

勘十郎兄上が言う。

 

「つまり」

「放っておけば、いずれ阿波、讃岐にも手を伸ばす家です」

 

鶴姫が、そこで静かに口を開いた。

 

「ゆえに、今のうちより誼を通じておくのがよろしいかと」

 

上総介兄上の視線が、今度は鶴姫へ向く。

 

「浅井の姫は、どう見る」

 

「長曾我部家は、いずれ四国の西南より北へ伸びましょう。ですが、誼がなければ、伸びる先は阿波讃岐にも向かいます」

「誼があれば」

「土佐のあと、のちの伊予へ向けやすうございます」

 

評定の空気が少し締まる。

 

ここで大事なのは、長曾我部家を拾う話ではあっても、それが三好宗家を切り捨てる話に見えてはならぬことだった。だからこそ、この場で上総介兄上と勘十郎兄上の裁可を得る必要がある。

 

俺は、そこを正面から言った。

 

「勝手に動く気はありません」

 

上総介兄上が少しだけ笑う。

 

「珍しいことを言うな」

「兄上」

「冗談だ。続けよ」

「長曾我部との誼は、織田家としての裁可を得たうえでやるべきです」

 

勘十郎兄上が頷く。

 

「当然だな。治部が単独で四国へ手を伸ばしているように見えてはまずい。あくまで、織田家の対四国方針として動くべきです」

 

「その方針とは何だ」と上総介兄上。

 

俺は地図の上に指を置いたまま答えた。

 

「三好宗家は、阿波、讃岐、淡路で残す」

「うむ」

「長曾我部は土佐を固める」

「その先は」

「将来的には伊予」

 

上総介兄上は、そこで初めてはっきりと頷いた。

 

「阿波讃岐へは食い込ませぬ、と」

「はい」

 

鶴姫が続ける。

 

「最初から“食うな”と命ずるのではなく、まずは“先に目をかけてくれた家”になることが大事かと」

 

「恩を売る、か」と勘十郎兄上。

 

「はい。大きくなってから寄れば、向こうも足元を見ます。されど、まだ手の小さいうちに誼を通せば、覚え方が違いましょう」

 

上総介兄上が、少しだけ口元を緩めた。

 

「ふむ」

 

俺は、そこで言葉を足した。

 

「長曾我部が四国西南で伸びるのは、止めにくいです。なら、伸びる先を選ばせるしかない」

「阿波讃岐ではなく、伊予へ」

「はい」

「なぜ伊予だ」

「三好宗家を残した意味を失わせないためです」

 

その一言に、場の温度が少し変わる。

 

勘十郎兄上が、静かに言った。

 

「そこだな」

「はい。せっかく宗家を残しても、数年のうちに長曾我部が阿波讃岐まで呑み込めば、畿内での処置と矛盾します」

 

上総介兄上は、それを聞いて少し考える顔になった。

 

「つまり」

「長曾我部には、土佐安堵と、将来の伊予方面での利を匂わせる」

「その代わり」

「阿波讃岐は、三好宗家の面目として触らせない」

 

「文面は難しいぞ」と勘十郎兄上。

「露骨に書けば、向こうも気を悪くする」

 

鶴姫が、そこへ自然に入った。

 

「ですので、“土佐の安堵を祝い、四国の静謐をともに図りたし”くらいから始めるのがよろしいかと」

「いきなり境を切るのではなく」

「はい。まずは誼。そのうえで、将来の利を少しずつ見せる」

 

上総介兄上が、鶴姫を見て言う。

 

「よく考えておるな」

「治部大輔殿のお考えを、文に耐えるよう整えただけにございます」

「その“整える”が大事だ」

 

そこで、少しだけ笑いが落ちた。

 

だが、上総介兄上はすぐに真顔へ戻った。

 

「治部」

「は」

「長曾我部に何を送るつもりだ」

「文だけでは弱いかと」

「当然だ」

「酒は付けます」

 

上総介兄上が小さく笑う。

 

「また酒か」

「効くものは使います」

「それで」

「織田家としての顔が立つもの。派手すぎず、だが軽くもないもの」

 

勘十郎兄上が言う。

 

「瀬戸か」

「それもありです」

「武ではなく、恩と縁で結ぶのだな」

「今はその方がいい」

 

上総介兄上は、そこでようやく結論を出した。

 

「よい」

 

俺は姿勢を正した。

 

「長曾我部との誼、許す」

「は」

「ただし、治部の私交ではない」

「はい」

「織田家の対四国筋として動け」

「承知致しました」

「勘十郎」

「は」

「文面と使者筋、お前も見ろ」

「承知しました」

「阿波讃岐へ深入りさせぬ理は崩すな」

「無論にございます」

 

上総介兄上は、さらに言った。

 

「長曾我部が将来、四国を大きく揺らすなら、今のうちに覚えさせておく価値はある」

「はい」

「だが、三好宗家を残す方針と矛盾してはならぬ」

「そこは最優先で通します」

 

上総介兄上は、そこで少しだけ笑った。

 

「治部」

「何でしょう」

「今回はちゃんと許可を取りに来たな」

「兄上」

「よい傾向だ」

「褒めてます?」

「半分はな」

「またそれですか」

 

勘十郎兄上が横でくすりと笑う。

 

「治部、兄上としてはだいぶ素直に褒めておられる方だ」

「全然そう思えないんですが」

「慣れろ」

 

それで場の空気が少し和らいだ。

 

だが、決まったことは重い。

 

長曾我部家への誼は、信繁の思いつきではない。

信長、信勝の裁可を経た、織田家の対四国政策として動く。

三好宗家は阿波、讃岐、淡路に残す。

長曾我部は土佐を固め、将来的には伊予へ寄せる。

その地ならしを、今から始める。

 

評定を辞したあと、廊へ出てから、鶴姫が静かに言った。

 

「通りましたね」

「うん」

「上総介様も勘十郎様も、最初からかなり乗り気であられたように見えました」

「兄上たちも、放っておいたら長曾我部がどこへ伸びるか、分かってるんだろうな」

「でしょうね」

「だからこそ、今のうちか」

 

「はい」

鶴姫は、そこで少しだけ目を細めた。

「では、文を整えましょう」

 

「頼む」

「治部大輔殿」

「何だ」

「勝手に使者を出さぬでくださいませ」

「分かってるよ」

「本当に」

「本当に」

 

その返しに、鶴姫は小さく頷いた。

 

四国はまだ遠い。

だが、遠いからこそ、今のうちに一手を置く意味がある。

 

稲葉山城の評定で、その一手は、ようやく正式なものになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。