織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
瀬田城の奥、夜更けの小部屋だった。
大評定ではない。十兵衛も半兵衛も、伊勢守も弾正もいない。灯は二つだけで、机の上には堺や津島の商人から上がった噂書きと、土佐・阿波・讃岐の略図、それに鶴姫が自分で抜き書きした長曾我部一門の系図が広げられている。
俺は、その一枚を指先で弾いた。
「長曾我部信濃守国親の四男、津野弥九郎親盛」
鶴姫が静かに頷く。
「はい。土佐七雄の一つ、津野家の養子に入っております」
「本来、そこは元親の子世代が入るはずだったんだよな」
「ええ。信濃守殿の次男が吉良家、三男が香曾我部家、五男が島家を継いだのと同じで、枝へ出して力を広げております。ただし本来の流れより、一世代早く、しかも四男がそこで働いている形です。しかも、本来は島家を継いだのは四男であり、その方は五男になってしまっている」
「そして、土佐統一まで綺麗すぎるんだよな」
そう言って、俺は天井を見た。
「俺と鶴姫の間でしか通じないんだよな、この特異点って」
鶴姫は、その言葉に小さく息を吐いた。
「はい」
「話すと、最初っから話せってことになるし」
「私も、新九郎兄上にすら話せてません」
「だよなあ」
俺は、少しだけ頭を掻いた。
「ただでさえ、劔神社の気比大神のお告げとか言って、何とかフォローしてんだから、これ以上は無理だよなぁ」
鶴姫の口元が、ごくわずかに揺れた。
「まことに」
「笑うなよ」
「笑ってはおりませぬ」
「ちょっと笑ってた」
「少しだけにございます」
だが、そこから先はすぐ真顔に戻った。
「外からでは、あの長曾我部家兄弟がどのように連帯して、どのように意思決定しているか、見えにくいのもあります」
「それ」
俺はすぐ頷いた。
「それなんだよ。元親だけ見てりゃいい話なら楽なんだけど、兄弟順も、養子筋も、枝家も、全部が妙に噛み合ってる」
「はい。弥九郎親盛という存在一つでなく、長曾我部家全体の動きが不自然なほど整っております」
「だから、こっちが“あいつも同類かも”って思っても、それを前提に動くわけにはいかない」
「ええ」
「現実の状況ベースで話するしかない」
そこは、俺も鶴姫も最初から割り切っていた。
特異点だの転生者だのという話は、俺たち二人の間でしか通じない。通じるからといって、それを表へ出せば、全部の筋が崩れる。だから、あくまで表で使う理屈は「現実に起きている変化」だけだ。
「土佐統一を強力に推し進めてきた長曾我部家の勢いを、伊予に向けさせる必要がある」
と俺は言った。
「なんなら、そのまま毛利とぶつかってもらってもいい」
鶴姫が静かに頷く。
「そうなれば、阿波・讃岐へ向ける力も削がれましょう」
「うん」
「ですが」
そこで鶴姫は、少しだけ間を置いた。
「弥九郎殿が、“三好の後ろには織田家、将軍家と朝廷がついている”と、その不利をきちんと認識してくれれば、の話にございます」
「そこなんだよな」
俺は机に肘をつき、系図を見下ろした。
「イケイケな対応だったら困るよな」
「はい」
「土佐を十二年も前倒しでまとめたような奴が、織田が相手でも“行けるところまで行く”って判断する可能性もある」
「ございます」
「そういうタイプだと、阿波も讃岐も“取れる時に取る”で来かねない」
「ただ」
鶴姫は、そこで少しだけ声を落とした。
「もし弥九郎殿が“見えている”なら」
「ん?」
「織田とことを構えるようなことは、あえてしないかと」
俺は少し黙った。
その“見えている”は、もちろん俺と同じ意味だ。もし向こうも、こちらにいる“異物”を感じ取れる側なら、話は少し変わる。
「まあ」と俺は言った。
「どうせ最終的には、織田家の正当性と物量で潰されて、土佐一国保てるかどうか、みたいな線になっちゃうかもだしな」
「いえ、それもありますが」
鶴姫は、そこで珍しく少しだけ含みのある顔をした。
「ある意味、治部殿の方が分かりやすい特異点なのですから」
「何だよ、その言い方」
「向こうも、こう思っているのではないでしょうか」
「何て?」
鶴姫は、ほんの少しだけ視線を上げた。
「“やべぇ奴が織田家にいる”と」
しばらく、俺は黙った。
それから、思わず吹き出した。
「ひでえな」
「事実では?」
「いや、否定しきれないのが嫌なんだけど」
「津野弥九郎殿が、もし本当に“見えている”なら、織田信長その人より、まず織田治部大輔信繁という個体を警戒するかもしれませぬ」
「個体って言うな」
「個体にございますれば」
「鶴姫、たまに言い方がすごい冷たいんだよな」
「気のせいかと」
「いや気のせいじゃないだろ」
だが、笑ってばかりもいられない。実際、鶴姫の見立ては筋が通っていた。織田家全体の軍事力や正当性はもちろん脅威だ。だが、“自分と同様歴史を変えてくる奴が織田の中にいる”と向こうが感じているなら、軽々しくことを構える気にはならないかもしれない。
「だったら」と俺は言った。
「最初の文は、あんまり圧を出しすぎない方がいいな」
「はい。威しではなく、“こちらは見ているが、すぐに噛みつく気はない”くらいがよろしいかと」
「土佐統一を祝う。四国静謐をともに図る。将来的には伊予方面での働きにも期待する」
「その程度に留めるのが無難かと」
「阿波・讃岐には触れるな、とはまだ書かない」
「はい。そこまで書けば、かえってこちらの恐れを知らせます」
「だな」
少し沈黙が落ちた。
夜が深い。外ではもう、見回りの声も遠い。こういう時間にしかできない話というのがある。大評定では絶対に出せないが、それでも先の打ち筋を決めるには避けて通れない話だ。
俺はふと、くだらないことを思いついた。
「いっそ、ローマ字か英語で手紙書いてやろうか」
鶴姫が、すぐにこちらを見る。
「何と」
俺は少し笑った。
「“Peace, my friend”とかさ」
鶴姫は、そこで本当に一瞬だけ、ぽかんとした顔をした。だがすぐに戻る。
「上総介殿にバレたらどうします?」
俺は、その想像をして即座に首を振った。
「……怖いからやめとく」
「賢明にございます」
「だろ」
「ええ。治部大輔殿が訳の分からぬ文字を四国へ飛ばし、しかもそれが長曾我部家へ届いたなどと知れれば、上総介殿はまず治部大輔殿を問い詰められるでしょう」
「めちゃくちゃありそう」
「ございます」
「その時、何て言えばいいんだ。“いや、もし相手も同類なら通じるかなと思って”とか?」
「ますます駄目にございます」
「だよなぁ」
鶴姫は、そこでわずかに笑った。
「ですので、現実の状況ベースで参りましょう」
「結局そこか」
「そこにございます」
俺は、ようやく諦めて紙へ向き直った。
津野弥九郎親盛。
特異点かもしれない男。
だが、こちらが相手に投げられるのは、今のところ現実の条件だけだ。
三好宗家には将軍家と朝廷のお墨付きがある。
その後ろには織田がいる。
土佐は取れた。なら、次は伊予へ向けろ。
阿波・讃岐へ来るなら、それは公認秩序への挑戦になる。
言うべきことは、結局そこに尽きる。
「よし」と俺は言った。
「文面、現実だけで斬る」
「はい」
「ただし」
「何でしょう」
「向こうが“見えている”なら、“こっちも多少は察してるぞ”って温度は、少しだけ混ぜたい」
鶴姫は、そこでしばらく考え、それから静かに頷いた。
「露骨にせず、文の端へ置いてみましょう」
「頼む」
「承知致しました」
そうして、二人だけの小さな評定は終わりに向かった。
土佐には、見えているかもしれない男がいる。
こちらにも、もう隠しきれぬほど分かりやすい“やべぇ奴”がいるらしい。
それは少しだけ可笑しく、同時にかなり厄介だった。
だが、その厄介さも含めて、今はまだ現実の理屈で包むしかない。
それが、この時点で取り得る最もまともな戦い方だった。
♢
鶴姫との小さな詰めの場は、いつの間にか、ただの対四国策だけでは済まなくなっていた。
津野弥九郎親盛。
特異点。
それを見つけたことで、逆にこちらの視界が一気に広がってしまったのだ。
俺は、紙束の上へ指を置いたまま言った。
「逆にいうと、鶴姫みたいに主要な歴史人物の兄弟姉妹、あるいは、俺みたいに一門へ別で生まれるケースもあるってことか」
鶴姫は静かに頷く。
「はい」
「本人そのものに入るとは限らない、と」
「ええ。むしろ、その方が外からは見えにくうございます」
「厄介だな」
「厄介にございます」
鶴姫は、そこで一枚の書付を抜いた。
「そして、朝倉家の美景姫も、それに該当するかと」
俺は、すぐ顔を上げた。
「やっぱりか」
「はい。あの方は朝倉本家ではなく、敦賀郡司の宗滴公のお家柄ですが、以前から目立たぬよう、しかし積極的に動かれております」
「ああ」
俺は思わず苦笑した。
「あの六角のバカ君の顔を、小太刀でばっさりいったお方ね」
鶴姫の口元が、わずかに動く。
「ええ」
「あれはインパクトあったよな」
「その後も何度か、左衛門督殿へお父上を通じて諫言はなさっているようです」
「義景殿か」
「はい。ですが、大野郡司式部大輔殿が掣肘しており」
「景鏡か」
「ええ。さらに、左衛門督殿もまだ小少将がいないにもかかわらず、乱れた生活、というか、無気力かつ怠惰なを送られているようで」
俺は、そこで少しだけ目を伏せた。
「みんな、生き残りに必死なんだな。きっと」
鶴姫は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、逆に肯定だった。
「ええ」
そう言ってから、静かに続ける。
「では一応、こちらの方でも堺の方へ、“ここを見て欲しい”という大名家をいくつか候補として挙げておきましょうか」
「だな」
俺は指を折るように言った。
「まず、島津」
鶴姫もすぐに取る。
「あそこは、ただでさえ兄弟の爆発力が強うございます」
「そう。そこへ他の要素があったら、一気に加速する」
「大友家」
「うん」
「龍造寺家」
「あり得る」
「毛利家」
「まあ、あそこは見た方がいい」
「宇喜多家」
「絶対」
俺は頷いた。
「あそこは変なのが一人入るだけで、西国の流れが一気に変わる」
鶴姫は、淡々と続ける。
「武田家、上杉家、北条家、蘆名家、最上家、佐竹家、伊達家、南部家ぐらいでしょうか」
「うん……」
そこまで言って、俺は少し考えた。
「武田家は、典厩殿の話を伺う限り、今のところそういうのはいなさそうだ」
鶴姫が目を上げる。
「と申しますと」
「いたら、きっと俺の忠告以前に、八幡原で何かしてただろうし」
鶴姫は、それを聞いて少しだけ目を細めた。
「なるほど」
「少なくとも、あそこに“見えてる側”がいたなら、あの戦はもっと変わってたはずだ」
「ただ」
鶴姫は慎重に言う。
「これで太郎殿の叛乱等が起きなければ、また別の要因を疑った方がよいかもしれませぬ」
「そうだな。ただ、今回はもう駿河を徳川家が呑もうとしている。武田が今川を裏切るという構図そのものがなくなるかもしれん」
俺は頷いた。
「特異点は、俺たちより前に生まてれいたり、あとに生まれて来る可能性もあるしな」
そこで、ふと鶴姫の顔を見た。
鶴姫がわずかに首を傾げる。
「なんでしょうか?」
「鶴姫は、その朝倉の美景姫殿と、手紙でもいいんだが、これまでやり取りはあるのか?」
鶴姫は、そこで初めて少しだけ視線を落とした。
「やるべきか、やらざるべきかで迷って、まだ連絡は取れていないんです」
「そうか」
「私はむしろ、浅井家内部と織田家対策が主でしたから」
そこは、返す言葉がない。
俺は素直に頭を下げた。
「ごめんなさい」
鶴姫は、そこで小さく息を吐いた。
「いえ」
「いや、でも」
「結果として、浅井の歴史も今の時点では良い方向へ変わりそうですので、それは良いのですが」
そこまで言ってから、鶴姫の目に少しだけ悪戯っぽい光が入った。
「なるほど」
「何だよ、その“なるほど”は」
「美景姫を先にこちらへ寄せてしまおう、というわけですね」
「は?」
「さすが“子づくり名人”です」
「おい」
「女に手を付けるのが早い!」
「そんなつもりねーよ!」
思わず声が上ずった。
「元々ハーレム願望なんざないんだっちゅーに!」
鶴姫は、そこで完全に面白がっていた。
「それが今では、お市様に、武田家、北畠家、浅井家のお姫様を娶って、大奥を形成しそうな勢いですね」
「やめて!」
俺は本気で机に突っ伏しかけた。
「けっこう夜の生活大変なんだから!」
そこまで言ってから、しまった、と思った。
思ったが遅い。
鶴姫が、ぴたりと止まる。
数拍置いて、静かに言った。
「……ほう」
「いや、今のは」
「治部大輔殿」
「はい」
「ずいぶんと実感のこもったお言葉にございました」
「違うんだって!」
「何が違うので」
「何がって……全部! 何かこう、言葉の綾というか、その、流れで!」
鶴姫は、そこでとうとう肩を揺らした。
「ふふっ」
「笑うなよ!」
「いえ、失礼」
「全然失礼と思ってないだろ」
「少しは思っております」
「少しかよ」
だが、その軽口が一巡したところで、鶴姫はちゃんと表情を戻した。
こういう切り替えの早さが、この人の怖いところでもある。
「ですが」と鶴姫。
「美景姫殿については、本当に一度、誼を通じる価値はあるかと」
俺もようやく姿勢を戻す。
「だよな」
「はい。特異点であるか否かを別としても、朝倉家中で理を通そうとしている方にございます。もしこちらへ少しでも寄せられるなら、将来の朝倉対応はだいぶ変わります」
「うん」
「しかも、宗滴公の家筋であれば、ただの姫君より現実も分かっておられるでしょう」
「じゃあ、やるか」
「はい」
「ただし」
「はい」
「いきなり“あなたも同類ですよね”みたいな顔は出せない」
「無論にございます」
「普通に、誼を通す。鶴姫からなら自然だ」
「ええ。まずは私の名で、浅井と敦賀の間を繋ぐ程度のやり取りから始めましょう」
「それがいい」
少し沈黙が落ちた。
机の上には、島津、大友、龍造寺、毛利、宇喜多、武田、上杉、北条、蘆名、最上、佐竹、伊達、南部、そして朝倉と長曾我部。
諸国の大名家の名が、今や単なる勢力図ではなく、“どこに特異点が潜んでいてもおかしくない候補”として並んでいる。
嫌な時代だ。
だが、同時に少し面白くもある。
「……とりあえず」と俺は言った。
「長曾我部には現実ベースで文を出す」
「はい」
「美景姫殿には、鶴姫から誼を通す」
「はい」
「堺には、さっき挙げた諸家のうち、特に動きが速すぎる家、噛み合いすぎてる家を重点的に見てもらう」
「承知致しました」
「で」
「で?」
「俺が“やべぇ奴が織田家にいる”って向こうに思われてるかもしれない件は、忘れる」
鶴姫は、そこでごく真顔で言った。
「忘れられるとよいのですが」
「おい」
「少なくとも、私ならそう思います」
「鶴姫まで言うのかよ」
「事実にございますれば」
俺は天井を見上げた。
まったく、ろくでもない。
だが、このろくでもなさの中でやっていくしかないのも、また事実だった。
♢
京の空気は、兵を入れただけでは変わらない。
町を静める。
御所を直す。
将軍家の御座所を築く。
それらはたしかに大事だ。だが、都という場所は、それだけでこちらを“公の側”とは見てくれない。公家がどう見るか。朝廷がどう受け取るか。その薄い絹のような理を掴まねば、いずれ武の力だけでは足りなくなる。
だから、朝廷工作を始めることになった。
きっかけは二つあった。
一つは、弾正少弼殿――上杉輝虎が、越後へ帰る前に残していった筋。
もう一つは、治部印の清酒をきっかけに繋がった山科言継卿の縁だ。
弾正少弼殿本人は、もう越後に帰っている。
だが、あの人は帰る前に、義輝公との義理、尾張と美濃、そして南近江の守護職叙任、公家衆へ通じる口添え、そのあたりに充分すぎるほどの“信用の置き土産”を残していった。人がいなくなっても、繋がりは残る。むしろ、そういうものの方が後で効く。
稲葉山城の一室で、その話を詰めていた。
「弾正少弼殿ご本人はもう越後だ」
俺がそう言うと、鶴姫が静かに頷いた。
「はい」
「だが、帰る前に残していった人脈は使える」
「大樹公へと、公家衆へ繋がる信用、でございますね」
「そう。今はこちらが、その信用を借りて言継卿を通し、近衛殿へ繋ぐ段だ」
そこへ上総介兄上が口を開いた。
「近衛前久卿か」
「はい」
「いきなり“織田が朝廷を押さえる”みたいな顔ではなく、将軍家保護と京静謐の流れの中で、自然に近づく方がよろしいかと」
勘十郎兄上も頷く。
「当然だな。兵を入れたばかりで、すぐ公家衆の首根っこを掴みに行くように見えては下品だ」
「その通りです」
俺は紙の上へ指を置いた。
「だから、最初は山科言継卿を通してから参りましょう」
「酒に釣られた公卿か」と上総介兄上が少し笑う。
「兄上、その言い方だと怒られますよ」
「事実であろう」
「入口としてはそうですけど、それだけじゃありません」
鶴姫が静かに補った。
「言継卿は、治部家がただ銭をばら撒く武家ではなく、茶と贈答と礼の形を分かっておることも見ておられます」
勘十郎兄上がそこへ乗る。
「そこが大事だ。金だけでは商人でもできる。酒だけならただの成り上がりに見える。だが、そこへ茶や道具や言葉が揃って、ようやく“話が通じる武家”になる」
「前から古田勘阿弥殿や津田宗及との繋がりを太くしていたのは、そのためでもあります」
上総介兄上が、そこで少しだけ満足そうだった。
「ようやく効いてきたか」
「前から効いてましたよ」
「効いておっても、形になるまでは口にするな」
「はい」
そうして、具体の段取りへ入る。
「まず」と俺。
「表向きの名目は徹底して穏やかにします」
「申せ」と上総介兄上。
「御所修復。将軍御座所築造。京中静謐。公家町保全。諸役負担の整理。そのあたりを、“織田が支える”形で出す」
勘十郎兄上が頷く。
「よい。都に手を入れるにしても、まずは保全と再建の顔だ」
「はい。次に、言継卿へは継続して酒と、瀬田城・御座所普請の進み具合、それに贈答や礼法の相談を流す」
鶴姫が続ける。
「“相談を受ける”立場へ入って頂ければ、こちらはかなり楽になります」
「なるほど」と上総介兄上。
「物を押し付けるのではなく、理と面目を立てる相談役として引き込むわけか」
「そうです。次に」と俺は続けた。「次に近衛前久卿」
「そこはどう繋ぐ」
「弾正少弼殿が残した手紙などを、大樹公の義理と合わせて使います」
上総介兄上は、そこで少し目を細めた。
「弾正少弼殿の名を、今ここで直接使うのではないな」
「はい。あくまで、“以前より将軍家と諸家の間で通じていた筋”として扱う。その方が自然です」
勘十郎兄上が言う。
「つまり、弾正少弼殿が今も表へ出ているようには見せない」
「そういうことです。今動いているのは、あくまで織田、将軍家、公家衆」
鶴姫も頷いた。
「弾正少弼殿は、その信用の端緒を作られただけ。今の仕事は我らが引き継ぐ形にございます」
そこまで聞いて、上総介兄上はようやくはっきり頷いた。
「よい」
「ありがとうございます」
「ただし」と兄上。
「朝廷工作を急ぎすぎるな」
「はい」
「織田が都を抱え込みに来た、と見えれば逆効果だ」
「分かってます」
勘十郎兄上が静かに続ける。
「だから、今は“味方を作る”段でもない。“こちらを危険視しない層を増やす”段だ」
「そうです」と俺。
「いきなり抱え込むんじゃない。まず“織田がいると都は少し静かになる”を感じてもらう」
「よい線だ」と上総介兄上。
「兵で黙らせるより、そちらの方が長く効く」
それから、役割分担へ入った。
「京市中と御所近辺は孫三郎叔父上」
「うむ」
「瀬田口と後詰は治部家」
「はい」
「御座所築造は五郎左」
「はい」
「そして、朝廷・公家筋へのやり取りは平手中務丞」
鶴姫が静かに答えた。
「最初は言継卿筋より。近衛殿へは、その少し先にございます」
上総介兄上が鶴姫を見る。
「よく考えておる」
「治部大輔殿のお考えを、無理のない文に整えるだけにございます」
「その“整えられる”が大事だ」
少しだけ笑いが落ちた。
だが、最後はまた真顔へ戻る。
「治部」
「何でしょう」
「くれぐれも、酒だけで全部済ませようとするなよ」
「兄上」
「何だ」
「酒は入口であって、全部じゃないです」
「本当か」
「本当です」
勘十郎兄上が横で笑う。
「まあ、入口として強すぎるのが問題なのだが」
「それは否定できません」
こうして、朝廷工作は始まった。
表向きは、御所修復。
将軍御座所築造。
京の静謐。
だが、その裏では、人を選び、順を追って、都の理へ織田の手を差し入れていく。
輝虎が帰る前に残した筋。
山科言継卿の酒。
近衛前久殿へ届く公家の縁。
それらを使いながら、織田はようやく「京へ兵を入れた家」から、「京の秩序に関わる家」へ変わり始めていた。
♢
評定の間に広げられた畿内の図には、もう三好三人衆の名はなかった。
消したのではない。
戦場で、本当に消えたのだ。
その結果、畿内の形は以前よりましになった。
だが、ましになったからこそ、逆に目立つものがある。
石山本願寺。
摂津の要地に食い込み、寺の顔をしたまま、なお軍事拠点として居座る大きすぎる異物だった。
上総介兄上は、図の上で石山の位置を指先で軽く叩いた。
「ここだ」
誰も、問い返しはしない。
「三人衆は消えた。宗家は残した。将軍家も朝廷も、ようやく次の秩序へ動き始めておる」
上総介兄上の声は低い。
怒っているわけではない。
こういう時の上総介兄上は、むしろ静かな方が怖い。
「なのに」
もう一度、石山を叩く。
「ここだけが、まだ戦乱の理で立っておる」
勘十郎兄上が、地図から目を離さず言った。
「寺としてではなく、軍事拠点として、ですな」
「うむ」
明智十兵衛が、紙の束を整えながら続ける。
「三好宗家を残した今、本願寺まで“敵なら滅ぼす”で処するのは、理が粗うございます」
「そうだ」と俺は言った。
そこで、皆の視線がこちらへ集まる。
「だが、本願寺を潰す必要はない」
上総介兄上は何も言わない。
先を言え、という目だけがある。
「寺を寺に戻せばいい」
半兵衛が、そこでわずかに目を細めた。
「つまり」
「問題は宗派じゃない。石山だ」
俺は、指を地図の上へ置いた。
「ここが寺でなく、軍事拠点になってるのが問題なんだよ」
松永弾正が、静かに口を開く。
「……顕如殿に、その理は刺さりましょうな」
「刺さるように言う」
「かなり痛く、でございましょう」
「かなり痛く、だな」
上総介兄上が、そこで初めて少しだけ口元を動かした。
「治部」
「何でしょう」
「言い方は考えろ」
「考えてますよ」
「どうだかな」
そこへ十兵衛が一枚の紙を差し出した。
「問題は、先に会見の場をどう作るかです」
「うむ」と勘十郎兄上。
「顕如が、ただの敵将として呼ばれて来る形では駄目だ」
「はい」と十兵衛。
「宗派代表として、なお面目を保ったまま出て来られる座を作る必要がございます」
「朝廷か」と上総介兄上。
「はい。山科殿、近衛殿、そのあたりのお力とお名を借りるべきかと」
半兵衛が続ける。
「加えて、事前に署名・誓紙・口添えを押さえるべきです。会見の場で初めて逃げ道を見せても、顕如が即断できるとは限りませぬ」
「先に退路を布いておく、か」
「ええ」
俺はそこで言った。
「顕如に選ばせるんだよ」
皆がこちらを見る。
「石山を守るか。本願寺を残すか」
弾正が、そこで深く頷いた。
「後者を選ばせる、と」
「そう」
俺は一度だけ息を吐いた。
「で、そのための餌を出す」
上総介兄上の目が少しだけ動く。
「何だ」
「本願寺発祥の地、大谷」
部屋が静まる。
「石山から退く。その代わり、本願寺出発の地である大谷の伽藍は、織田家の費用で再建する」
十兵衛の手が一瞬止まり、半兵衛が目を上げ、弾正の顔から笑みが消えた。
「……そこまで申されますか」と十兵衛。
「言う」と俺。
「石山は取り上げる。だけど宗派そのものは消さない。むしろ“本来の場所へ戻す”って話に組み替える」
半兵衛が、静かに言った。
「強いですね」
「だろ」
「強すぎます」
上総介兄上はまだ黙っていた。
だが、怒っている顔ではない。
むしろ、先をどう繋ぐかを見ている顔だった。
俺はさらに続ける。
「三好宗家すら残したんだ。本願寺も宗派としては残していい。ただし、石山という軍事拠点は残させない」
弾正が、そこで小さく言った。
「寺は残してもよい。だが石山は残させぬ、ですな」
「そういうこと」
そこまで言ってから、ようやく上総介兄上が口を開いた。
「よい」
短い一言だった。
「顕如には、宗教者として退く道を与えろ」
「はい」
「だが、石山に固執するなら」
その先は、言わずとも分かる。
武装勢力として処理する。
上総介兄上はそこを長く説明しない。しない方が重い。
「十兵衛」
「は」
「会見の座を整えよ。公家筋、朝廷筋、幕府筋、どこまで事前に押さえられるか見よ」
「承知」
「半兵衛」
「はい」
「退去失敗時の危険と、その後の整理を並べよ」
「承知しました」
「弾正」
「は」
「三好宗家側にも、この話が“寺を潰す話ではない”と分かるよう、先に理を通せ」
「御意にございます」
最後に、上総介兄上は俺を見た。
「治部」
「何でしょう」
「顕如を、言葉で退かせてみろ」
その一言で、評定は決まった。
石山を攻め潰すのではない。
寺を寺に戻し、軍事拠点だけを剥がす。
そのために、まずは会見の場を作る。
本願寺退去は、そういう形で始まることになった。
♢
会見の場は、寺でも城でもなかった。
そのどちらでもない場所にしたのは、最初から意図してのことだった。
石山本願寺の中へこちらが入れば、顕如は宗教者ではなく籠城する主として出て来る。
逆に、織田方の城へ呼びつければ、ただの降伏勧告にしかならない。
だから、あえて中間を取った。
公家衆の面目が立ち、朝廷の理が届き、しかも武家の刃がすぐ抜かれぬ場所。
その小さな一室の外には、表向き控えめに、しかし見れば分かるだけの人数が置かれている。
こちらは、脅しつけに来たのではない。
だが、脅しつける力を持たぬわけでもない。
そのことは、最初から顕如にも伝わっていなければならなかった。
同席したのは、山科言継卿。
そして公家筋の連絡を受けた者が数名。
武家側は、表へ強く出すぎぬよう、上総介兄上は後ろに置いた。
座の正面に出るのは俺。
脇に十兵衛。
少し離れて半兵衛。
さらに、その場の意味を分かる者として松永弾正も控えている。
顕如が入ってきた時、部屋の空気は少しだけ変わった。
思っていたより若い、という印象ではない。三河の次郎三郎殿と同い年。
若くも老いても見える顔だ。
教団の長としての理性と、石山を背負う者の疲れが、同じ顔に乗っている。
ただの頑迷な僧ではない。
だからこそ、この場を作った意味がある。
言継卿が、まず穏やかに口を開いた。
「本日は、天下静謐のための話し合いにございます」
顕如は、静かに一礼した。
「聞き及んでおります」
その声には、まだ棘がある。
当然だ。
石山を囲んできた武家の側が、今さら“話し合い”を言うのだから。
俺は、そこで最初の言葉を急がなかった。
急げば、ただの言い負かしになる。
まず相手に、「まだ宗教者として扱われている」と思わせる必要がある。
「顕如殿」
俺が名を呼ぶと、顕如はまっすぐこちらを見た。
「はい」
「そもそも比叡山なら、この場は設けなかった」
ほんのわずかに、顕如の目が動く。
「……」
「本願寺顕如だから出した」
部屋が静まる。
十兵衛は、横で一切顔を動かさない。
半兵衛は、むしろそこで少しだけ目を伏せた。
この一言が、どこへ刺さるかをよく知っている顔だ。
顕如は、すぐには返さなかった。
返さなかったが、否定もしなかった。
そこへ、俺はさらに言葉を重ねた。
「比叡山なら、国家鎮護の名を掲げながら武と権を呑み込もうとする。朝廷まで巻き込み、山そのものを一つの国のように扱う」
顕如は黙っている。
「だが、本願寺は違うだろう」
その問い方で、初めて顕如が口を開いた。
「違う、と申されますか」
「違うから、こうして座っている」
言継卿が、そこで静かに茶碗を置いた。
この一手で、座はさらに“理の場”へ寄る。
「本願寺は、もっと広く衆生を救う教えを持つはずだ」
俺は、顕如から目を逸らさずに続けた。
「なのに今、石山でやっていることは何だ」
顕如の口元が、わずかに固くなる。
「……」
「本願寺が、なんで仏法を盾にして武家と戦ってんだよ」
その言葉だけが、少しだけ荒かった。
だが、荒くしすぎはしない。
吐き捨てるのでなく、理を突き立てるための鋭さに留める。
顕如は、そこで初めてはっきりとこちらを見た。
「武家が寺を脅かすからにございます」
「それは半分だ」
「半分、とは」
「石山が、寺でなく軍事拠点になってるからだよ」
そこへ十兵衛が、整えた言葉を静かに添えた。
「寺社の面目を保つことと、兵糧と武具を積み、一揆を動員し、要害に籠もることは、別にございます」
顕如の視線が十兵衛へ移る。
すぐ戻る。
「門徒は信仰の民にございます」
「民を戦わせているのは、誰だ」
今度は、少しも間を置かなかった。
「衆生救済を言うなら、門徒を兵にするな。南無阿弥陀仏を唱えれば阿弥陀如来が救ってくれるといいながら、その言葉を信じた門徒を戦わせて痛い思いをさせたりするのは、詭弁だと言われても仕方がないんじゃないのか?」
顕如の顔から表情が薄くなる。
怒ったのではない。
痛いところへ当たった時の顔だ。
半兵衛が、その空気を逃さず、さらに冷たく言った。
「戦が長引けば、石山の中だけでなく、周囲の民も削れます。米も、人も、銭も、心も」
「……」
「念仏やお経で腹が膨れる特異な体質でなければ、結局は衣食が先にございます」
言継卿が、そこでごく静かに頷いた。
「民の安寧を損なうのは、公家や朝廷にとっても望ましきことではございませぬ」
顕如は、今度は言継卿を見た。
そこにいるのが、ただの武家の使いではないことを、もう十分に理解した顔だった。
俺は、そこでさらに一歩進めた。
「三好宗家すら、我らは残した」
顕如の目が、また少し動く。
「理の通じぬ三人衆は討った。だが、筑前守殿も孫次郎殿も、宗家としては温存した」
「……」
「なのに、本願寺だけがなお“石山に武装して居座る”となれば、どう見える」
部屋が静まり返る。
「宗派だから残す、ではなく」
俺は、一字ずつ区切るように言った。
「宗派なのに、なぜそこまで軍事拠点に固執する、になる」
顕如は、長く黙った。
その沈黙の長さで、もう分かる。
この人は、こちらの論を“ただの武家の詭弁”ではなく、切り返しにくいものとして聞いている。
だからこそ、ここで退路を出す。
「顕如殿」
「……何でございましょう」
「本願寺そのものを消すとは言っていない」
そこへ初めて、顕如の表情がわずかに変わった。
「石山から退いてくれればいい」
十兵衛が、静かな声で続ける。
「石山という軍事拠点を明け渡して頂きたい」
「宗派の存続そのものに手をかけるつもりはございませぬ」と言継卿。
半兵衛は、その最後の刃をさらに薄く、だが深く入れた。
「抗えば、寺ではなく武装勢力として処理せざるを得ませぬ」
その言葉で、場の温度が一段下がった。
だが、そこで終わらせない。
「その代わり」
俺は、そこで一つ息を入れた。
「本願寺発祥の地である大谷の伽藍は、織田家の費用で大々的に再建する」
顕如が、初めて目を見開いた。
「……何」
「石山は退く。だが、本願寺の法燈まで消せとは言っていない」
「……」
「むしろ、本来の出発点へ戻せと言っている」
十兵衛も言葉を整える。
「石山に固執するより、本願寺そのものの正統を、あらためて大谷で立てる方が、宗派のためには筋でありましょう」
言継卿が、そこで穏やかに言う。
「面目も立ちまするな」
顕如は、もうすぐには返せなかった。
石山を守るか。
本願寺を残すか。
その二つが、いま初めて、はっきりと別のものとして目の前へ出されたのだ。
部屋の中には、もう誰も余計な言葉を挟まなかった。
顕如がそれをどう受け取るか。
それが、この会見の最初の山だった。