織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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052本願寺の退去

顕如は、しばらく何も言わなかった。

 

石山。

本願寺。

その二つを、今まで同じものとして抱えてきた者にとって、それを切り分けて見せられるというのは、ただの理屈では済まぬ話だった。

 

ようやく、顕如が口を開く。

 

「……石山を退け、と」

 

「はい」と俺。

 

「本願寺を消せ、ではなく」

「はい」

「大谷を再建する、と」

「はい」

 

顕如は、そこでようやく少しだけ顔を伏せた。

その沈み方は、敗者のそれではない。

むしろ、あまりに真っ当な道を示された時の人間の沈み方だった。

 

「治部大輔殿」

「何でしょう」

「それは、あまりに都合が良すぎませぬか」

 

十兵衛が、少しだけ目を上げた。

だが口は挟まない。

ここは俺が答えるところだ。

 

「誰にとって」

 

顕如が顔を上げる。

 

「……」

「織田にとってか。本願寺にとってか。それとも、畿内にとってか」

 

顕如は、そこにすぐ答えなかった。

代わりに言った。

 

「石山は、ただの地ではございませぬ」

「知ってる」

「門徒の心が集まり、ここまで守り抜いてきた地にございます」

「それも知ってる」

「それを」

 

顕如の声が、少しだけ低くなる。

 

「退けと申される」

「言う」

 

俺はそこで目を逸らさなかった。

 

「ただし、門徒の心まで捨てろとは言ってない」

「……」

「心が石山にあるのか。本願寺そのものにあるのか。それを分けろと言ってる」

 

顕如の目が、ほんのわずかに揺れる。

 

そこへ、半兵衛が冷静な声を入れた。

 

「石山に留まれば、いずれ石山とともに焼かれます」

「……」

「退けば、少なくとも宗派は残る」

 

顕如は、半兵衛を見る。

その目は怒っていない。怒るより先に、理解してしまっている目だった。

 

言継卿が、やわらかく言う。

 

「顕如殿」

「はい」

「このたびは、御所へ泥を寄せず、都に火を広げぬための話にございます」

「……」

「もし石山がなお兵を集め、戦を続ければ、もはや一寺の問題では済みませぬ」

 

公家の口からそれを言われると、重みが違う。

顕如は、それを分かっている顔だった。

 

十兵衛が、今度は紙を一枚だけ前へ出した。

 

「事前に、いくつかの筋は整えてございます」

 

顕如の目がそちらへ落ちる。

 

「何を」

「将軍家、公家筋、畿内静謐に関わる理にございます」

「……」

「今や石山だけが、なお“戦時の理”で立っております」

 

顕如の指が、膝の上でわずかに動いた。

 

これは効いている。

石山本願寺が“まだ戦乱の中にあるから仕方ない”と言い張れる段は、もう過ぎている。三好三人衆は消え、宗家は残り、幕府と朝廷の理が動き始めた。そこまで整ったあとで、石山だけが武装拠点として残れば、それはもう“戦乱の被害者”ではなく、“新秩序に最後まで抵抗する軍事勢力”に見える。

 

顕如は、そこまで読める人間だった。

 

「……治部大輔殿」

「はい」

「そなたは、寺を残すと申された」

「申した」

 

「ならば」

顕如は少しだけ身を正した。

「門徒はどうなる」

 

ここで、会見はもう一段深いところへ入った。

 

石山を退く。

本願寺を残す。

そこまでは理で切れる。

だが顕如にとって、本当に重いのは、そこで動員されていた門徒衆だ。兵であり、信徒であり、生活者でもある。その扱いが曖昧なら、この場の話は全部空中へ浮く。

 

俺は、そこを濁さなかった。

 

「兵でなく、民に戻す」

 

顕如の目が少しだけ動く。

 

「……民」

「そう。信仰を捨てろとは言わない。だが、一揆として再びまとめて兵にするのはやめてもらう」

「……」

「門徒衆は門徒衆として残る。だが、石山という軍事の核は消す」

 

半兵衛が言う。

 

「再武装があれば、その時はもう宗教問題ではございませぬ」

「武装勢力、か」

「はい」

 

顕如は、それを聞いてから、ごく長く黙った。

 

その沈黙を見ながら、俺は思った。

たぶん、この人はもう、分かっている。石山に固執し続ければ、本願寺そのものが危ういことを。だが、分かっていても決めるには痛すぎるのだ。

 

「顕如殿」

俺は、そこで少しだけ声を落とした。

「先ほども申したが、比叡山なら、俺はこうしない」

 

顕如が顔を上げる。

 

「……」

「比叡山なら、朝廷と勅許の問題が重すぎる。国家鎮護を掲げてなお、山ごと国のように振る舞うなら、最悪は朝敵の線まで見る」

 

十兵衛も、そこで補うように言った。

 

「ですが本願寺は、違う」

「……」

「だからこそ、宗教者として退く道がある」

 

言継卿が静かに頷く。

 

「まことに」

 

顕如の目が、その“違う”という言葉へ留まった。

 

違う。

それは、顕如にとって救いであり、同時に逃げ場のなさでもある。

比叡山のように“これは国家そのものだ”と言い張れないからこそ、本願寺は本願寺としての理へ戻されてしまう。

 

しばらくして、顕如が低く言った。

 

「……石山を守るか」

誰にともなく。

「本願寺を残すか」

 

それは、もう俺たちが投げた問いを、自分の中で言い直した声だった。

 

誰も、すぐには返さない。

 

顕如はそのまま続けた。

 

「石山に固執すれば、いずれ本願寺まで武装勢力として扱われる」

 

「はい」と俺。

 

「退けば、面目は傷つく」

「傷つくでしょう」

「だが、残る」

「残ります」

 

顕如は、そこでようやく俺を見た。

 

「大谷」

「はい」

「本当に、再建するのか」

「する」

「織田の費用で」

「うん」

「なぜ」

 

その問いに、俺は少しだけ考えた。

 

「石山を城にしたいから、でもある」

 

十兵衛が少しだけ目を伏せる。

言継卿は、そこは止めなかった。

正直である方が、今は強い。

 

「だが、それだけじゃない」

「……」

「本願寺が本願寺として残るなら、発祥の地に戻るのが一番納まりがいい。織田上総介も某も、個々の民の心の拠り所まで奪うつもりはない。その拠り所を核にして、武装蜂起などをして現世での都合を通すために、宗教指導者の皮を被った者を唾棄する」

 

顕如は、そこでまた長く黙った。

 

言い逃れも、ごまかしも、きれい事もない。

石山が欲しい。

だが本願寺まで潰したいわけではない。

むしろ寺として残るなら、大谷へ戻った方がいい。

その全部が、一度に出された。

 

だから、顕如は怒れない。

怒るより先に、選ばねばならなくなる。

 

やがて顕如は、静かに息を吐いた。

 

「……すぐに返答はできませぬ」

 

「それでいい」と俺。

「ただ、長くは待たぬ」

 

「承知しております。門徒衆、近習、周辺の者どもと話さねばならぬ」

「話してくれ」

 

「だが」

顕如の目が、ここで初めて少しだけ鋭くなった。

「これは、屈したのではございませぬ」

 

「うん」

「本願寺を残すための退去にございます」

「そう言っただろ」

 

その返しに、顕如はほんのわずかに口元を動かした。

笑ったのか、苦く歪んだのか、その中間みたいな顔だった。

 

言継卿が、そこで最後に穏やかに言う。

 

「では本日は、ここまでに致しましょう」

 

誰も異を唱えなかった。

 

顕如は深く一礼した。

その礼は、敵に向けるものではなく、“まだ交渉の余地を残す相手”に向けるものだった。

 

顕如が退出したあと、しばらく誰も口を開かなかった。

 

最初に半兵衛が言った。

 

「……動きましたな」

「うん」

「まだ決まってはおりませぬ」

「でも、石山を守るか本願寺を残すか、そこまでは顕如殿に入った」

 

十兵衛が、静かに紙を重ねながら言う。

 

「顕如殿は、もう分かっておられます」

「だな」

「問題は、門徒衆と近習筋へ、どう面目を保って下ろすかです」

 

弾正が、低く言った。

 

「そのための“大谷”にございますな」

 

「そう」

俺は、そこでようやく息を吐いた。

「寺は残してもよい。だが石山は残させない」

 

それが、やっと顕如の中へ届き始めた。

次は、それを“退去の決断”まで下ろす番だった。

 

 

石山へ戻った顕如は、すぐには誰にも会わなかった。

 

近習が控え、門徒衆の代表格が待ち、各所から「いかがでございました」と声が飛ぶ。だが顕如は、まず一人になれる時間を求めた。

 

一人になったところで、答えが軽くなるわけではない。

むしろ逆だ。

静かになればなるほど、茶室で交わされた言葉が、順に胸の内へ沈んでいく。

 

石山を守るか。

本願寺を残すか。

 

その二つは、今まで顕如の中で一つだった。

いや、一つであらねばならぬと思っていた。

石山を守ることが、そのまま本願寺を守ることだと。

門徒の心が集まるこの地を失えば、宗派の柱そのものが折れるのだと。

 

だが、治部大輔信繁は、それを切り分けて見せた。

 

比叡山なら、この場は出さなかった。

本願寺顕如だから出した。

 

あの一言が、まず厄介だった。

ただの武家の恫喝なら、怒ればよい。

寺を潰すつもりなら、拒めばよい。

だが、そうではなかった。

本願寺を本願寺として残すための話だ、と最初から言われてしまった。

 

顕如は、そこでようやく近習を呼んだ。

 

「……人を」

「は」

「集めよ」

「どなたを」

 

少しの間を置いてから、顕如は答えた。

 

「近習衆。門徒の古老。兵を預かる者。あと、物の分かる者を数人」

 

その言い方が、もう半分答えだった。

ただ気勢を上げる者ではない。

ただ「戦え」と叫ぶ者でもない。

“物の分かる者”を要るとした時点で、顕如はすでに石山を残す以外の道を、自分の中で捨てきれていなかった。

 

やがて、数人が集まった。

 

石山を守ってきた近習。

門徒衆の中でも年長の者。

兵糧と人足の流れを知る者。

そして、武辺だけでなく寺の先を考えられる者。

 

顕如は、最初から飾らなかった。

 

「織田と会うた」

場が少し張る。

「将軍家と朝廷の理を背にしておる」

 

誰も口を挟まない。

それは、予想していても重い情報だった。

 

「何と申して参ったのでしょう」と一人が問う。

 

顕如は、少し目を閉じてから答えた。

 

「石山から退け、と」

 

その一言で、場の温度が変わる。

即座に怒気を立てる者もいた。

だが顕如は、すぐ次を言った。

 

「本願寺を消せ、ではない」

その言い方で、逆に皆が黙った。

「宗派は残してよいと。石山という軍事拠点だけを明け渡せと」

 

「そんなものは」と若い近習が言いかける。

 

「待て」

 

顕如が止めた。

 

「その代わり」

ここで、ようやく座の全員が顕如を見た。

「大谷を、再建すると申した」

 

さすがに、誰もすぐには意味を呑み込めなかった。

 

「大谷……」

「本願寺発祥の地たる大谷を、織田家の費用で再建すると」

 

老いた門徒の一人が、そこで息を呑んだ。

 

「それは……」

 

言葉にならない。

軽く受け取っていい話ではない。

それは、石山を失う代わりに、本願寺そのものの正統を“元の場所”へ戻すという提案だからだ。

 

「何と答えられました」と問われて、顕如は正直に言った。

 

「すぐには返せぬ、と」

「……」

「石山を守るか。本願寺を残すか。その二つを、分けて考えよと言われた」

 

沈黙。

 

その沈黙こそが、この場の本音だった。

誰も、即座に「戦え」とは言えない。

言ってしまえば、では本願寺が消えてもよいのか、という問いに向き合わねばならなくなるからだ。

 

やがて、古老の一人が低く言った。

 

「石山は、我らの拠り所にございます」

「うむ」

「されど、本願寺そのものは、石山だけではございませぬ」

 

その言葉に、若い近習の一人が顔を上げる。

 

「しかし」

 

「しかしも何もない」と、その古老は言う。

「もし石山に固執して、寺そのものまで武装勢力として討たれれば、何が残る」

 

顕如は、そのやり取りを黙って聞いていた。

 

門徒を“兵”として見れば、ここで戦うべきだ。

だが門徒を“民”として見れば、ここで石山へ固執し続けることの方が危うい。

治部大輔は、その矛盾をずっと突いていた。

 

別の一人が、慎重に言う。

 

「織田は、本当に宗派を残すつもりでしょうか」

 

顕如は、その問いに少し考えてから答えた。

 

「分からぬ」

 

ざわめきが走る。

だが顕如は続けた。

 

「だが、少なくとも“寺を残す理”は持っておる」

「……」

「ただ城地が欲しいだけなら、大谷まで口にせぬ」

 

そこは、顕如も認めざるを得なかった。

石山だけが欲しいなら、ただ退けと言えばよい。

わざわざ大谷再建という、宗派の面目と正統に関わる話を出す必要はない。

 

「治部大輔殿は」と顕如は言った。

「本願寺を残すために、石山を切れと申した」

 

一人が、苦い顔で言う。

 

「面子が立ちませぬ」

「立たぬだろう」

 

「では」

顕如は、そこでようやくその者を見た。

「面子のために、本願寺を賭けるか」

 

それで、場はまた静まった。

 

面子。

石山。

門徒の心。

それらは確かに重い。

だが、本願寺そのものを天秤に乗せた時、それでも石山へすべてを賭け切れるかと言われると、皆、口が鈍る。

 

顕如は、そこで最後の整理をした。

 

「織田は、比叡山とは扱いを分けると言うた」

「……」

「そこに、まだ退く道がある」

 

「退けば」と古老が言う。

「本願寺は残りますか」

 

「残させる」

 

その一言は、今度は顕如が自分で決めた言葉だった。

 

受け身ではない。

残させる。

石山を守るのでなく、本願寺を残させる。

そのために退く。

そう言い換えた時、ようやく顕如は自分の中で、石山と本願寺を分けて持てた。

 

「門徒は」と別の者が問う。

 

「兵ではなく、民へ戻す形になる」

 

それは苦い。

だが、現実だった。

 

「再び一揆を起こせば」

「その時は、もはや宗教問題ではなくなる」

 

誰も反論できない。

 

長い沈黙ののち、顕如は結論を出した。

 

「……石山を退く」

 

部屋の空気が、音もなく揺れた。

 

「ただし、屈したのではない」

そこは強く言った。

「本願寺を残すための退去にある」

 

誰も否定しなかった。

否定できなかった。

 

「近習衆へ触れよ。門徒衆へも、“石山に固執して宗派を失うより、本願寺そのものを残す”のだと伝えよ」

「は」

「武具、兵糧、書付、寺宝、その扱いも急ぎ整えよ。織田に好きに踏み荒らさせぬ」

 

そこへ、ようやく宗派の長としての実務が戻ってくる。

退く。

だが、ただ明け渡すのではない。

退去を“宗派の存続のための決断”に作り替える。

そこまで含めて、顕如の仕事になる。

 

最後に、顕如はごく小さく呟いた。

 

「石山を守るか。本願寺を残すか」

そして、自分で答えた。

「本願寺を残す」

 

それが、この会見の本当の決着だった。

 

顕如が石山退去を受ける。

だが、寺として退く。

武装勢力として追われるのではなく、宗派を残すために場所を変える。

 

その線を顕如自身が選び取ったことで、信繁の引いた理は、ようやく現実になったのだった。

 

 

大谷の再建は、石山の接収が済んですぐに始まった。

 

いや、正確には、始めさせた。

 

ただ寺地を与えるだけでは足りない。

ただ「戻ってよい」と言うだけでも弱い。

石山から退かせ、本願寺を本願寺として残すと決めた以上、**“戻る先が石山より貧相で、落ちぶれた移転先にしか見えぬ”**では、顕如にも門徒にも、公家衆にも、こちらの理が雑に見える。

 

だから信繁は、最初からそこを詰めた。

 

場所は大谷。

本願寺発祥の地。

そこへ、本願寺顕如本人と、本願寺抱えの宮大工を呼ぶ。

 

織田が勝手に作って「はいどうぞ」ではない。

顕如の宗派であり、本願寺の伽藍なのだから、**宗派の顔を知る者に、宗派の建物として建てさせる**。

ただし、予算も理も、縄張りの思想も、こちらが握る。

 

瀬田城で、その最初の打ち合わせが行われた時、十兵衛は最初からそこを言った。

 

「豪壮にしすぎると、かえってまた疑われます」

 

信繁は頷く。

 

「うん。石山の代わりの城を作るんじゃない」

 

半兵衛が続ける。

 

「貧相でもいけませぬな。“追い払われて落ちぶれた”に見えれば、門徒衆の不満と恨みを残します」

 

「そう」

信繁は、紙へ線を引きながら言った。

「豪華ではない。だが、荘厳」

 

顕如が、その言葉を聞いてわずかに顔を上げる。

 

「荘厳」

「ええ。見れば、本願寺はちゃんと本願寺として立ってると分かる。けど、見た瞬間に“ここ要害にできるな”とも思わせない」

 

本願寺抱えの宮大工が、そこで初めて口を開いた。

 

「つまり」

「軍事拠点にはならない作りにしたい」

「ふむ」

 

信繁は、そのまま具体へ落とした。

 

「堀は深くしない。土塁も過剰には設けない。門は立派にするが、枡形だの横矢だの、そういう“戦う門”にはしない」

 

十兵衛が補足する。

 

「寺としての威容は要る。だが防御施設としての意味は薄くする」

 

宮大工は、しばらく考えていたが、やがてゆっくり頷いた。

 

「ならば、正門に格を持たせるべきにございますな」

 

「そこ」と信繁。

「正門は立派にしたい」

 

顕如が、そこで初めて少しだけ興味を見せた。

 

「門を」

「はい。本願寺が本願寺として戻った、と一目で分かる顔が要る」

 

鶴姫が静かに言う。

 

「伽藍全体を戦向きにせずとも、門に宗派の面目を集めれば、十分に“戻った意味”は立ちます」

 

「そういうこと」

信繁はさらに続ける。

「堂宇は、広すぎず狭すぎず。荘厳だが、兵を籠めて戦うには向かない。講や法会には足りる。だが兵糧を積んで堪える設えではない」

 

半兵衛が、そこで少し笑った。

 

「治部様は、本当に“建てながら戦えぬようにする”のがお好きですな」

「好きでやってるわけじゃない」

「ですが上手い」

 

そこは否定しない。

 

そして、信繁はもう一手上を見ていた。

 

「あと、扁額だ」

 

顕如の目が動く。

 

「扁額」

「うん。正門に掲げる」

 

十兵衛が、すぐに察した顔になる。

 

「権威を載せるのですね」

 

「そう」

信繁は、そこで初めて少しだけ悪い顔になった。

「比叡山なみの権威を持たせる」

 

顕如が、そこではっきりと信繁を見た。

 

「比叡山なみ」

 

「ただし」

信繁はすぐ切った。

「権力や武力は持たせない」

 

部屋が静まる。

 

この男は、本当にそこを分けて考えている。

権威は与える。

面目も与える。

だが軍事と政治の再武装は許さない。

その線引きが、ここでもまるでぶれない。

 

「今上帝に」と信繁は言った。

「近衛前久殿の筋からお願いできないか」

 

十兵衛が少し目を細める。

 

「宸筆、ですか」

「できれば」

「文言は」

 

信繁は、少しも迷わなかった。

 

「洛中静謐天下静謐」

 

その場にいた者の空気が、そこで少し変わった。

 

顕如も、言葉の意味をすぐに量った顔だった。

本願寺が京へ戻る。

だがその意味は、石山のように“武装して秩序へ抗う”のではなく、**洛中静謐、天下静謐を祈る側へ戻る**ということになる。

 

言継卿が後でこの案を聞いた時、思わず感嘆したほどだった。

 

「見事にございますな」

「何がです」

「寺の権威を上げながら、同時に“戦わぬ寺”の意味まで扁額へ刻み込む」

「そう見えてくれれば助かります」

「助かるどころか、公家衆にも通りがよろしいでしょう。帝の宸筆となれば、本願寺もまた“洛中静謐の側”へ立ったように見えまする」

 

近衛前久への打診は、極めて丁寧に進められた。

信繁が直接押すのではない。

あくまで、

 

* 石山退去後も本願寺という宗派は残るべきこと

* その発祥地たる大谷再建には、朝廷の理が通った方がよいこと

* 新しい本願寺が、洛中静謐と天下静謐を祈る寺として戻ること

 

を、言継・前久から積む。

 

そして最終的に、正親町帝へ願いが上がる。

 

もちろん簡単な話ではない。

だが今の織田は、

 

* 将軍義輝との信頼

* 御所修復

* 将軍御座所築造

* 畿内静謐の実績

* 三好宗家温存という穏当な再編

* 一部有力公家衆との接続

 

をすでに積み上げている。

 

そのうえで「武装宗教を退去させたあと、宗派そのものは京へ戻し、静謐を祈る寺として再建する」と来れば、帝の側から見ても、筋の悪い話ではない。

 

数日後、その見込みが立った時、信繁は静かに言った。

 

「これでいい」

 

鶴姫が問う。

 

「何がにございます」

「石山を取り上げた代わりに、“落ちた本願寺”じゃなく、“戻った本願寺”を見せられる」

 

顕如は、その言葉にしばらく何も言わなかった。

やがて、小さく答えた。

 

「……恐ろしい御方だ」

 

信繁が眉を上げる。

 

「俺が?」

「石山を剥がしながら、宗派の顔まで整えて戻す」

「だってそうしないと、また面倒が残るだろ」

「その“面倒”の片付け方が、もう普通の武家のものではございませぬ」

 

半兵衛が横でぼそりと言う。

 

「それは今さらです」

 

大谷本願寺は、そうして建ち始めた。

 

木を選ぶ。

柱を立てる。

堂宇の奥行きを決める。

正門は重厚に、だが戦うためではなく迎えるために。

伽藍の全体は、豪奢ではなく荘厳。

人が手を合わせ、法を聞き、宗派の本山として戻ったと分かる形。

だが兵を籠め、矢狭間を穿ち、門を閉ざして戦うには向かない形。

 

そして最後に、正門へ扁額が掲げられる。

 

**洛中静謐天下静謐**

 

その字が宸筆として載った時、場の空気は確かに変わった。

 

石山本願寺のような、武装し要害に籠る宗教拠点ではない。

だが、軽んじてよい寺でもない。

むしろ、京の中で、比叡山にも劣らぬほどの権威を持つ宗派本山として立つ。

 

比叡山なみの権威を持たせる。

権力や武力は持たせない。

 

信繁が引いた線は、ここでも徹底していた。

 

正門の前で、その扁額を見上げながら、上総介兄上は短く言った。

 

「よい」

 

信繁が横で答える。

 

「でしょう」

「寺としては十分すぎる」

「でも城にはならない」

「うむ」

 

それだけで足りた。

 

石山を城地として取り、本願寺を大谷へ戻す。

しかも“追われて落ちた寺”ではなく、“朝廷の理を帯びて洛中静謐を担う寺”として戻す。

 

これこそが、信繁の本願寺処理の完成だった。

 

 

石山の地が、城へ変わり始めた。

 

まだ何もかもが完成しているわけではない。だが、すでに誰の目にも分かる。あれは寺の跡地ではない。新しい時代の喉元だ。

 

川筋。

船着場。

西国へ伸びる水の道。

京へ返る道。

畿内を押さえ、播磨や摂津を睨み、西国へ圧をかけるに足る位置。

 

上総介兄上は最初から、そこを見ていた。

 

「大きいですねえ……」

 

慶次郎が、まだ組み上がりきらぬ石垣を見上げて言う。

 

「当たり前だ」と信繁。

「兄上が、小ぢんまりした城を建てるわけないだろ」

 

実際、その規模は尋常ではなかった。

 

秀吉の大坂城に匹敵するほどの広がりを最初から志向しつつ、その中核たる天守については、上総介兄上があえて別の色を求めた。つまり、ただ大きいだけではない。安土城めいた、見せるための高さと華を持たせる。

 

信繁は、縄張り図の上へ指を置きながら、長秀と話していた。

 

「石垣は、とにかく高く、厚く」

 

丹羽長秀が頷く。

 

「はい」

「だが、天守はただの櫓では駄目でしょう」

「見せる城、にございますな」

「そう。兄上は、あれで案外、見栄えにうるさい」

 

長秀が少しだけ笑った。

 

「存じております」

「上へ行くほど軽やかに見える感じがいい。だけど、足元はがっしり。見上げたら、うわっ、てなるやつ」

「かなり具体的でいて、かなり曖昧でもございます」

「そこは察して」

「察して形にするのが、こちらの役目ですな」

 

長秀はそう言いながらも、もう頭の中では線が引けている顔だった。

 

この男は本当に便利だ。

信繁が思いつきで「すげえ城」としか言っていないような話を、ちゃんと石と木と人足と金の話へ落としてしまう。

 

半兵衛が、少し離れたところでその図を見ながら言った。

 

「寺の跡地にこれだけの城を据えるとなると、もはや畿内どころか西国全体への楔になりますな」

「そのつもりだろ、兄上は」

「でしょうな」

「石山を退かせた意味は、結局ここへ繋がる」

 

左近が、川筋の方を見ながら静かに言う。

 

「船の動きが変わる」

 

「そう」と信繁。

「大坂は、城っていうより流れの結節点だ。だから押さえた」

 

「でかい城は、ただの城じゃないってことか」

 

慶次郎が口を挟む。

 

「そういうこと」

「なるほどねえ。でかいだけじゃなくて、目立つし、人も物も金も集まる」

「兄上が欲しがるわけだろ」

「納得ですわ」

 

助右衛門は無言だったが、石垣の立ち上がりを見て、ほんの少しだけ目を細めていた。あの男は、分かるものにはちゃんと反応する。

 

その頃、瀬田城には別の報せが入っていた。

 

土佐より使者来訪。

名乗り――津野弥九郎親盛。

 

信繁は、その名を聞いた時、ほんの一瞬だけ顔を止めた。

横にいた鶴姫も、無言のままこちらを見る。

 

「来たか」

 

小さく呟くと、鶴姫が静かに言った。

 

「やはり、向こうもこちらを見ていたのでしょう」

「だろうな」

「しかも、ただの家臣ではなく、弥九郎殿ご自身が来られるとは」

「思ったより早い」

「はい」

 

信繁は、少しだけ笑った。

 

「これはもう、“見えてる側”の匂いしかしない」

 

鶴姫はそこには返さない。

だが、否定もしなかった。

 

津野弥九郎親盛――長曾我部国親の四男として生まれ、津野家へ養子に入り、兄弟を一致団結させて土佐統一を十二年近く前倒しで押し進めた男。表向きには、土佐統一を成した長曾我部家の使者。だが、信繁と鶴姫にとっては、それだけではない。

 

出迎えは、あくまで正式なものとした。

 

稲葉山ではなく、まずは瀬田で受ける。

上総介兄上・勘十郎兄上ラインの裁可のもとで対四国政策を動かしている以上、勝手な密談めいた扱いにしてはならない。だが同時に、最初の顔合わせで余計な人数を置きすぎてもいけない。

 

同席は信繁、鶴姫、十兵衛。

少し離れて弾正と半兵衛。

礼は尽くすが、腹は見せすぎない。

 

津野弥九郎親盛が通された時、部屋の空気は少しだけ変わった。

 

信繁同様若い。

だが、その若さに不相応な落ち着きがある。

いかにも“若武者”という前のめりさではない。むしろ、一歩引いて場を見る目がある。土佐をまとめた家の使者として来ているだけでなく、自分でも何かを測りに来ている顔だった。

 

信繁は、その顔を見て思った。

 

――ああ、こりゃ本当に面倒な相手だ。

 

だが、その面倒さは嫌いではない。

 

「ようこそ、瀬田へ」

 

信繁が言う。

 

弥九郎は、きちんと礼を取った。

 

「津野弥九郎親盛、長曾我部家の使者として、此度の御厚誼への返礼に参上仕りました」

 

声が整っている。

ただの武辺ではない。

言葉が通る男だ。

 

鶴姫が、その少し横で静かに見ている。

たぶん、同じことを思っている。

 

「遠路ご苦労だった」と信繁。

「土佐よりはるばるとなれば、道中も骨が折れたろう」

 

「いえ」と弥九郎。

「それだけの価値があると判断したまでにございます」

 

その返しで、十兵衛がほんのわずかに目を細めた。

早い。

相手も最初から“ただの儀礼”で終える気がない。

 

信繁は、そこで少しだけ笑った。

 

「率直でいいな」

「隠しても仕方のないことかと」

「たしかに」

「四国のことを、こちらがどこまで見ているのか。畿内のことを、こちらがどこまで理解しているのか。互いにそこを測らねば、誼もまた薄うございましょう」

 

鶴姫が、初めて口を開く。

 

「弥九郎殿は、使者として来られたと同時に、見極めにも来られたのですね」

 

弥九郎は、そこでほんの少しだけ口元を動かした。

 

「浅井の鶴姫殿に、そう見抜かれるのであれば、隠し通すのも野暮にございますな」

 

信繁は、そこで心の中だけで苦笑した。

 

――やっぱり、分かってる。

 

表で「特異点」だのという単語は使えない。

だが、互いに“普通の若手大名家中の人間ではない”と察している温度が、すでにそこにある。

 

「長曾我部家の土佐統一」と信繁は言った。

「ずいぶんと見事に進んだな」

 

「ありがたきお言葉」

「見事すぎて、堺の商人どもが騒いでる」

 

弥九郎の目が、ほんのわずかにだけ動く。

 

「商人は早耳にございます」

「そうだな。だからこそ、土佐の勢いが次にどこへ向くのか、皆が気にしている」

 

そこは、最初の本題だった。

 

弥九郎は、すぐには答えない。

代わりに、室内を一度だけ見た。

鶴姫。十兵衛。少し奥の半兵衛と弾正。

つまり、この場の人間が“ただの表の顔合わせ”で終わる相手ではないと見ている。

 

「長曾我部は」と弥九郎が静かに言った。

「土佐を治めるだけでも、まだ骨が折れます」

 

「だろうな」

「ですが、国をまとめた家が、その先を見ぬわけにも参りませぬ」

「それもそうだ」

 

「ただし」

弥九郎の声は穏やかだった。

「阿波・讃岐・淡路は、今や三好宗家に朝廷と幕府のお墨付きがあると伺っております」

 

鶴姫が、そこで目を上げる。

 

「よくご存知で」

「知らぬでは済まぬ相手にございますれば」

 

信繁は、その返しに少しだけ満足した。

 

話が早い。

そしてやはり、この男は“理”を先に読む。

 

「なら」と信繁。

「土佐の次は、伊予か」

 

弥九郎は、そこで初めて明確に信繁を見た。

 

「織田家としては、そうお考えにございますか」

「長曾我部にとって、一番理が立つのはそこだろう」

「阿波・讃岐へ出れば」

「三好の後ろには、織田家、将軍家、朝廷がついている」

「はい」

「わざわざ、そっちへ頭からぶつかるのは利が薄い」

 

弥九郎は静かに頷いた。

 

「ごもっとも」

 

その返答が早すぎる。

だからこそ、信繁は逆に確信する。

 

――こいつ、やっぱり最初からそこを織り込んでるな。

 

「ただ」と弥九郎。

「伊予へ向くにも、西国の風向きは無視できませぬ」

 

そこへ弾正が、少し離れた位置から低く言う。

 

「毛利と大友」

 

弥九郎は、その名を否定しなかった。

 

「ええ」

 

「なら、なおさら土佐と伊予で力を蓄えるのがよい」と信繁。

「阿波・讃岐は、今は三好宗家の面目として残すべき地だ」

 

弥九郎は、そこでほんの少しだけ笑った。

 

「それは、長曾我部への忠告にございますか。あるいは」

「何だ」

「確認、にございますか」

 

信繁も少しだけ笑う。

 

「両方だな」

 

しばし沈黙。

その沈黙自体が、もうかなり深い会話だった。

 

瀬田の城。

石山から大坂城への転換。

朝廷と幕府の理を帯びた三好宗家温存。

そこへ土佐統一を異様な速さで成し遂げた男が使者として来る。

 

ここで交わされているのは、ただの挨拶ではない。

四国と畿内の先を、互いに“今どこまで読んでいるか”の測り合いだ。

 

やがて弥九郎が、礼を崩さぬまま言った。

 

「長曾我部家としては、今後とも織田家との誼を大切にしたく存じます」

「うん」

「そして」

「うん?」

「織田家中に、ただならぬ御方がおられる、という噂も、どうやら誤りではなかったようだ」

 

十兵衛の目が、ほんのわずかに動く。

鶴姫は表情を変えない。

信繁だけが、心の中で頭を抱えた。

 

――やっぱりそう見えてんじゃねえか。

 

だが顔には出さず、あくまで軽く返した。

 

「それは誰のことだろうな」

 

弥九郎は、そこでだけ少し悪い笑みを見せた。

 

「さあ」

 

その一言で十分だった。

 

大阪城の建造は、まだ始まったばかり。

だが、その巨大な石垣と高く立つはずの天守は、もう畿内だけでなく四国の男まで引き寄せ始めている。

 

そして土佐から来たこの若い使者は、ただの使者では終わらない。

信繁には、そうとしか思えなかった。

 

 

弥九郎親盛との面会は、最初の礼が済んだあとから、妙に息が合いすぎた。

 

普通なら、土佐から来た若き使者と、畿内再編のただ中にいる治部大輔が、ここまで滑らかに話を進めることはない。

もっと探り合いになり、もっと言葉を濁す。

だが、この男は濁し方まで分かった上で、あえて濁しすぎない。

そういう手合いだった。

 

信繁は、少しだけ身を乗り出した。

 

「弥九郎殿に」

 

親盛が姿勢を正す。

 

「はい」

「土佐守と、土佐守護の叙任、働きかけてもよいと思ってる」

 

その場の空気が、ほんの少しだけ止まった。

 

十兵衛は無表情のまま、しかし目だけがわずかに動く。

鶴姫は、静かに親盛を見る。

弾正は少し離れたところで、口元だけ笑っていた。

この治部大輔という男は、本当にこういうところで石をいきなり深いところへ投げる。

 

親盛は、すぐには驚かなかった。

驚かなかったが、その代わり、目の奥で一度だけきちんと量った。

 

「それがしは、源九郎義経でございますか」

 

返しが早い。

しかも、軽口で流しているようで、ちゃんと核心を含んでいる。

 

信繁は、少しも崩れなかった。

 

「貴殿が実質、土佐統一を差配したのであれば、当然であろう」

 

親盛は、そこでほんの少しだけ口元を動かした。

 

「それでも、某ではなく、当主宮内少輔の功にござる」

 

信繁が、にっこり笑う。

 

親盛も、にっこり笑う。

 

鶴姫も、にっこり笑う。

 

十兵衛だけが、顔には出さぬまま思った。

 

――何だこの人たち。

 

いや、実際には思っただけではなく、少しだけ目を伏せた。

こういう“分かった上での応酬”に自分も慣れていないわけではない。だが、この三人の噛み合い方は、少々異様だった。

 

親盛は、そのまま真顔へ戻った。

 

「ざっくばらんに申し上げますと」

「うん」

「当家は、織田家に臣従する気はござらん」

 

十兵衛の目が、そこで少しだけ上がる。

かなり思い切った言い方だ。

だが、親盛は言葉を乱暴にしているわけではない。礼を保ったまま、線だけは明確に引いている。

 

「ただ」

「うん」

「遠き同盟国としての地位を、認めて頂きたく存ずる」

 

信繁は、そこで少しだけ黙った。

 

この返しは、むしろきれいだった。

土佐統一を成したばかりの長曾我部が、いきなり織田へ膝をつくはずがない。

だが、敵対でもなく、無視でもなく、遠き同盟国。

つまり、**臣従はしないが、織田秩序の外へ出る気もない**ということだ。

 

信繁は、静かに問い返した。

 

「土佐と伊予、二国の大名として、ですかな?」

 

親盛の目が、そこでほんの少しだけ鋭くなる。

 

「むろん」

 

そこを隠さない。

やはり、この男は早い。

 

「伊予まで呑んだ際」

親盛は、はっきりと言った。

「貴殿らが中国筋に御用の際は、当家も出兵に応じましょう」

 

十兵衛が、そこでわずかに息を止める。

言質としてはかなり強い。

まだ伊予も取っていない段で、そこまで先の連携を匂わせるとは。

 

親盛は、そこは冷静だった。

 

「規模は、まだお約束できませぬが」

 

その一言で、逆に話が現実へ落ちる。

大言壮語ではない。

今の器量で言えるところまでしか言わない。

だからこそ、重い。

 

信繁は、少しだけ笑った。

 

「そこまでおっしゃっていただけるとは」

「こちらも、理のない喧嘩をする気はござらんので」

「だろうな」

「三好の後ろに織田、将軍家、朝廷があると分かっていて、阿波讃岐へ頭からぶつかるほど、当家も愚かではござらぬ」

 

「よい見立てだ」

 

鶴姫が、そこで静かに入った。

 

「では、土佐と伊予を軸に家を立て、そのうえで遠き同盟国として織田家と誼を結ぶ」

 

親盛は鶴姫へ一礼した。

 

「そのように考えております」

 

「筋は通っております」と鶴姫。

 

「ありがとうございます」

 

十兵衛は、ここでようやく口を開いた。

 

「ただし」

 

親盛がそちらを見る。

 

「“遠き同盟国”という言葉を、上総介様がそのまま飲まれるとは限りませぬ」

「承知しております」

「土佐守・土佐守護の話も含め、最終の裁可は織田家本家にございます」

 

「むろん」

親盛は、少しも揺れなかった。

「それゆえ、こうして参った」

 

そこが、この男のちゃんとしているところだった。

瀬田で信繁へ話を通しつつも、最後は上総介兄上へ持っていくべき筋だと分かっている。

だから礼を失わず、しかし必要な線は先に引く。

 

信繁は、そこで結論を出した。

 

「いずれにせよ」

「はい」

「稲葉山城まで、我らがご案内致そう」

 

親盛は静かに頭を下げた。

 

「かたじけのうございます」

「すべては、我が主に述べられるがよい」

「承知仕った」

 

そこで話は一区切りついた。

 

だが、空気はまだ解けていない。

この場にいた全員が分かっていた。

いま交わされたのは、ただの使者応対ではない。

 

親盛個人へ土佐守・土佐守護叙任を匂わせる。

長曾我部は臣従を拒む。

その代わり、土佐・伊予二国の大名として、遠き同盟国の地位を求める。

さらに、中国筋での軍事協力まで匂わせる。

 

若いくせに、やっていることがひどく大人びている。

しかも、それを受ける信繁も、嬉しそうにそれへ乗っている。

 

十兵衛は、静かに茶を置きながら、心の中で繰り返した。

 

――本当に何だ、この人たち。

 

だが、嫌な感じはない。

むしろ、こういう者同士が話した時にしか進まぬ話が、たしかにあるのだとも思う。

 

親盛が退出したあと、十兵衛はようやく小さく言った。

 

「治部様」

「何だ」

「土佐守・土佐守護は、さすがに先が早すぎませぬか」

「そうか?」

「そうです」

 

鶴姫が、そこで少しだけ肩を揺らした。

 

「ですが、よく効いたように見えました」

「だろ?」

 

十兵衛は額を押さえたくなった。

 

「そこは否定致しませぬが」

「だったらいい」

「よくありません」

 

信繁は笑った。

 

「でも、あれくらい投げないと、あっちも本音までは出さなかったよ」

 

それは、たしかにそうだった。

 

弥九郎親盛は、かなり本気で来ている。

そして、こちらに対しても“理で話が通るか”を見ていた。

その意味では、信繁のいきなり深いところへ差し込む癖が、今日はちょうど噛み合ったとも言える。

 

鶴姫が最後にぽつりと言った。

 

「稲葉山で、上総介殿がどう受けるか」

 

信繁は、それには少しだけ苦笑した。

 

「そこが一番怖いな」

 

その言葉だけは、妙に素だった。

 

 

稲葉山城の広間は、瀬田とはまた違う緊張を持っていた。

 

同じ織田家の城でも、ここは本家の座である。

畳の上に流れる空気そのものが、「ここでは最後に上総介が決める」と知っている。

 

上座に上総介兄上。

その脇に勘十郎兄上。

やや下がって治部大輔信繁、さらに一門衆。

対して、土佐よりの使者、津野弥九郎親盛。

 

瀬田で一度会っているから、親盛も最初の座興で崩れる男ではない。

むしろ本番はここだと、最初から分かっている顔だった。

 

上総介兄上は、しばらく親盛を眺めていた。

 

若い。

だが、若いだけではない。

立ち方も、目の置き方も、田舎の土豪の使者というには妙に整いすぎている。

そして何より、上総介兄上の視線を受けても、媚びずに揺れぬ。

 

やがて上総介兄上が口を開いた。

 

「宮内少輔は」

 

親盛が静かに顔を上げる。

 

「はい」

「土佐と伊予二国で、野心を納め得るのか?」

 

広間が、わずかに静まった。

 

これ以上ないほど真ん中を射抜く問いだった。

土佐統一を成した家が、次に伊予を望む。そこまではよい。だが、その先まで欲するのではないか。織田としては、そこを見極めねばならぬ。

 

親盛は、少しも怯まずに答えた。

 

「産まれて来た時世、場所が悪うございました」

 

広間の空気が、そこで少しだけ動く。

 

上総介兄上の片眉がわずかに上がる。

勘十郎兄上も、無表情のまま親盛を見ている。

信繁は、ああ来たか、と思った。

 

親盛は続けた。

 

「器量でいえば、上総介様とも戦える」

そこでわずかに間を置く。

「いえ、我ら兄弟が揃えば、負けぬつもりでございましたが」

 

その一言は、広間のど真ん中へ放られた。

 

さすがに、そこらの武将ならここで息を呑む。

だが親盛は、言い切ったあとで少しも居丈高にならない。

ただ事実として、己の見立てを述べている顔だった。

 

そのまま視線を横へ動かす。

勘十郎兄上。

信繁。

さらに一門衆を順に見る。

 

「織田家一門の皆様のお顔を拝見すれば」

声は整っていた。

「尾張や美濃、南近江。豊かな地を、すばらしき速さで支配なさり」

 

そこでほんの少しだけ口元を和らげた。

 

「なかなかどうして、当家の規模では抗えぬとは思っております」

 

その返しは見事だった。

 

器量の話は下げない。

だが現実の差は認める。

虚勢でもなく、卑屈でもない。

 

上総介兄上が、そこで少し笑った。

 

「ほう」

 

その声には、怒りはない。

むしろ、面白がる響きがあった。

 

「では、あくまで器量であれば、我らと張り合えると申すか」

 

親盛は、そこで初めて少しだけ首を振った。

 

「張り合おうなどとは」

そして、落ち着いた声で続ける。

「いずれにせよ、室町の世が続こうが」

 

「……」

 

「畿内の方々にとって、土佐や伊予は僻地でござろう」

上総介兄上は黙って聞いている。

「土佐と伊予を合わせても、五十万石も届きますまい」

 

「うむ」

「だが、それで四国静謐が可能なのであれば」

 

そこで、親盛ははっきりと上総介兄上を見た。

 

「織田家にとっても、安く済む」

広間が、また少しだけ静まる。

「……と、そういう理屈でございますな」

 

それは、臣従の言葉ではなかった。

だが敵対の言葉でもない。

 

土佐と伊予を押さえる長曾我部が、四国を静める。

阿波・讃岐・淡路の三好宗家は、そのお墨付きと面目を保ったまま残る。

その上で、織田は畿内と西国筋に主力を注げる。

つまり、「こちらを潰すより使った方が安い」と、そう言っている。

 

上総介兄上は、しばらく親盛を見ていた。

 

やがて、低く笑う。

 

「ふふふふふ」

 

その笑い方は、機嫌が良い時のものだ。

ただし、単純に愉快なだけではない。気に入った獲物か、面白い人間を見つけた時の笑いだ。

 

「面白きことをいう」

 

親盛は、一礼したまま動かない。

 

上総介兄上は、なお笑みを残したまま言った。

 

「そなた」

「は」

「儂の近くにおる、誰かとやらにそっくりじゃのう」

 

その瞬間、信繁は露骨に目を逸らした。

 

勘十郎兄上の口元が、ほんの少しだけ動く。

一門衆の何人かも、さすがに今のは分かった顔をした。

十兵衛などは、さも何も感じていない顔をしているが、たぶん内心では「やはりそう見えるのだな」と思っている。

 

親盛は、その空気ごと受けながらも、そこへ踏み込まなかった。

 

「ありがたきことにございます」

「ふん」

 

上総介兄上は、そこでようやく笑いを収めた。

 

「土佐と伊予で四国を鎮める、か」

「はい」

「そして、中国筋に用があれば、兵も出すと申したな」

「規模は、まだお約束できませぬ」

「それでよい」

 

上総介兄上は、そこで言葉を切った。

 

その短い沈黙の中で、すでに腹は決まっていたのだろう。

 

「大儀であった」

 

親盛が深く頭を下げる。

 

「はっ」

「使者殿には、のちの宴席にてまた会おう」

 

それで、ひとまずこの場は終わった。

 

親盛が下がったあと、広間にはほんの少しだけ緩みが落ちた。

だが上総介兄上は、まだしばらく黙っていた。

 

やがて、勘十郎兄上が静かに言う。

 

「いかがにございました」

 

上総介兄上は、親盛が去った方を見たまま答えた。

 

「ようできておる」

「はい」

「田舎の勢いだけではない。理で動く。しかも、こちらの理まで読んでおる」

 

信繁は、そこでようやく視線を戻した。

 

「兄上」

「何だ」

「さっきの“誰かとやら”って、誰のことでしょうね」

 

上総介兄上が、横目で見る。

 

「お前以外に誰がいる」

「やっぱり俺かあ」

「目を逸らすから余計にそう見える」

「だって嫌な予感したんですもん」

 

勘十郎兄上が、そこで小さく笑った。

 

「だが、似ているのはたしかだ」

「勘十郎兄上まで」

「仕方あるまい。あの弥九郎という男、ずいぶん早い」

「ですよねえ」

 

上総介兄上は、そこで少しだけ目を細めた。

 

「土佐と伊予二国で野心を納めるか、などという問いに、“時世と場所が悪うございました”と返す」

「言い切りましたね」

「しかも、ただの大言壮語にせず、最後は“安く済む”へ落としおる」

 

勘十郎兄上が頷く。

 

「臣従はせぬ。だが、敵にもならぬ。むしろ使った方が得だと、自ら言いに来たわけですな」

 

「そうだ」

上総介兄上は、そこでようやく信繁を見た。

「治部」

 

「はい」

「お前、ああいう手合いは好きだろう」

「好きですね」

「正直だな」

「だって、話が早いですもん」

 

上総介兄上が、また少し笑った。

 

「であろうな」

 

そして、最後に静かに言った。

 

「土佐守と土佐守護の件、すぐにとは言わぬ」

「はい」

「だが、先で使う」

 

信繁は、その一言で十分だった。

 

長曾我部家は、臣従しない。

だが、遠き同盟国として織田秩序の中へ入る。

土佐、そして伊予。

四国西南を持たせる代わりに、阿波・讃岐には手を出させぬ。

必要なら、中国筋で兵も出させる。

 

上総介兄上の中で、その線はすでに引かれたのだと分かった。

 

「宴席で、もう少し崩してみるか」と上総介兄上が言う。

 

勘十郎兄上が静かに返す。

 

「酔わせすぎませぬように」

「治部ではないのだ、そこまで下手はせぬ」

「兄上、それ、俺にだけ当たり強くないですか」

「事実を申したまでだ」

 

そのやり取りに、ようやく広間の空気は少しだけ和んだ。

 

だが、今の会見は軽いものではなかった。

津野弥九郎親盛という男が、ただの使者ではなく、これからの四国を預けるに足るかどうか。

その最初の見極めとしては、十分すぎるほどのものだった。

 

 

 

 

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