織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
宴席は、評定の広間ほど堅くはなかったが、だからといって油断できる場でもなかった。
稲葉山城の奥、客を通す座敷。膳は整えられ、酒は出る。だが、ただの歓待ではない。昼の評定で交わされた言葉を、もう半歩崩したところで確かめるための席だ。信長は、こういう場で人の底を測る。
親盛――津野弥九郎親盛は、すでに着座していた。
昼の場より、肩の力は少し抜けている。だが、抜けすぎてはいない。この男は、座を崩しても芯までは崩さぬ。たぶんそれが、この先もいちばん厄介で、いちばん頼もしいところになる。
信長が入る。
信勝、信繁も続く。
給仕の者が静かに動き、酒が注がれる。
「使者殿」と信長が言った。
「昼は堅かったな」
親盛が一礼する。
「上総介様の御前にて、最初から気安く振る舞うほど、不心得ではございませぬ」
「気安くなっても構わぬ」
「では、そう努めましょう」
その返しで、信勝がほんの少しだけ笑った。
努めましょう、と来る。いきなり崩れない。やはりあの男は、速度の調整がうまい。
信長は酒を一口含んでから言った。
「土佐の酒とは違おう」
「違いますな」
「どちらがよい」
親盛は少し考える顔をした。
「土佐の酒は、土地の匂いが残ります」
「ほう」
「こちらの酒は、都へ届く理がございます」
信繁がそこで思わず口を挟む。
「何だよ、その言い方。ちょっと格好いいじゃないか」
信長が横目で見る。
「お前は黙っておれ」
「何でです」
「せっかく客が気の利いたことを言うておる」
「俺だってたまに言いますよ」
「たまに、だろう」
親盛は、そのやり取りを聞きながら杯を置いた。
「治部大輔殿は、土佐で申せば、山の奥に妙にでかい城を建て始めて、周りを全部巻き込んでしまう類の御方に見えます」
信繁が目を細める。
「褒めてるのか?」
「半分は」
信勝が静かに言う。
「そこまで似せなくてもよい」
親盛は、そこで初めて少しだけ笑った。
「つい」
そうして宴席の空気が、ようやく落ち着いた。
信長は、膳へ手をつけながら、昼の続きのように問う。
「土佐と伊予で、四国静謐を担う」
「はい」
「申すは易い」
「はい」
「だが、土佐をまとめたからといって、伊予が素直に転がるとも限らぬ」
親盛は、そこはすぐに頷いた。
「むろん」
「ならば、どうする」
「急ぎませぬ」
その答えに、信長の目が少し動く。
「ほう」
「土佐統一が早う済んだからと申して、次も同じ速さで呑めるとは思うておりませぬ。伊予には伊予の家があり、理があり、外からの風もござる」
信勝が静かに聞く。
「外からの風、とは」
「中国筋」
答えは明確だった。
「毛利がどう出るか。あるいは、毛利の名を借りて動く者が出るか。伊予は土佐より、よほど外の風が入りましょう」
「見えておるな」と信長。
「見ておかねば、国など持てませぬ」
その返しは、若いくせにひどく落ち着いていた。
信繁は、その横顔を見ながら思う。
やはりこの男は、ただ土佐を早回ししただけではない。早回ししたうえで、どこが別物になるかまでちゃんと分けて考えている。
信長は、そこで杯を置いた。
「臣従はせぬ」
「はい」
「だが、敵にもならぬ」
「はい」
「その代わり、遠き同盟国として扱え、と」
「はい」
信長は少しだけ笑った。
「図々しい」
親盛も崩れずに言う。
「安く済むと申し上げたはずにございます」
「まだ言うか」
「事実にございますれば」
信繁が思わず吹き出す。
「好きだなあ、その言い方」
「治部大輔殿ほどでは」
「おい」
信勝が、そこで親盛へ向き直った。
「使者殿」
「は」
「一つ、確認したい」
「何なりと」
「阿波、讃岐、淡路に朝廷と幕府のお墨付きが立った以上、そこへ正面から手を出せば、長曾我部は“ただの勢いある四国の家”ではなく、“公に逆らう家”と見られる」
親盛は頷く。
「承知しております」
「それでも、いつか利に駆られて越える気はないか」
宴席にしては、ずいぶんと真っ直ぐな問いだった。
だが、ここで濁した言葉など後では役に立たない。信勝は最初からそこをよく分かっている。
親盛は、しばらく黙った。
それから、ゆっくり答えた。
「人の世に、永劫の不変はござらぬ」
信繁が少し目を上げる。
まず前提を逃がさない。賢い答えだ。
「されど」
親盛は続けた。
「今の理において、当家から阿波・讃岐へ頭からぶつかる利は薄い」
「うむ」
「そして、理が薄いことを承知で越えれば、四国の家としても長うは持ちますまい」
信長がそこで低く言う。
「分かっておるな」
「ええ」
「ならよい」
それで、この話は半分決まったようなものだった。
完全な臣従ではない。
だが、少なくとも今の秩序を正面から崩す気はない。土佐と伊予に野心を収める、という昼の話は、酒席でもぶれなかった。
そこから少し座がやわらぐ。
信繁が、わざと軽い方へ振った。
「ところで弥九郎殿」
「はい」
「土佐統一、ずいぶん早かったらしいな」
親盛が、ほんのわずかに目を細める。
「風がよろしゅうございました」
「それだけか?」
「人も、土地も、運もござった」
「運、ねえ」
その言い方が気になったのか、信長が横から問う。
「治部、お前はそこが気になるのか」
「ちょっとだけ」
「何ゆえ」
信繁は、杯を弄びながら肩を竦めた。
「いや、あんまり見事すぎると、何かあるんじゃないかって思うじゃないですか」
親盛が、そこでごく小さく笑った。
「何か、とは」
「いや、別に」
ここで踏み込めないのが、もどかしい。
だが踏み込めば、最初から全部話せということになる。だから信繁は、あくまで表向きの話に戻した。
「まあ、上手いやつは上手いってことだ」
「ありがたきことに」
鶴姫がそのやり取りを静かに見ていた。
口は挟まない。だが、たぶん同じことを考えている。
信長は、その微妙な流れごと面白がっている顔だった。
この人は、分からぬことがある時ほど、かえって楽しそうになるところがある。
やがて、酒が二巡ほどした頃、信長がふと言った。
「使者殿」
「は」
「土佐守・土佐守護の話、忘れるなよ」
親盛が顔を上げる。
「忘れませぬ」
「すぐには与えぬ」
「承知しております」
「だが、働きによってはあり得る」
「それで十分にございます」
「ただし」
信長の声が少しだけ低くなる。
「その時、受けるのは長曾我部か、津野か」
宴席の空気が、また少し締まる。
土佐守。土佐守護。
それは地位であり、同時に家の名前の問題でもある。津野家養子の親盛が実務を回し、長曾我部の宮内少輔が当主として立つ。その二重構造を、どこまでどう扱うか。信長は、そこまで見ていた。
親盛は、そこで初めて少しだけ時間を使った。
「当家の内を」
「うむ」
「今この場で軽々しく申すのは、差し控えます」
「ほう」
「ですが、いずれも、土佐をまとめ、四国静謐を担うための名であるべきかと」
信勝が頷く。
「逃げたようでいて、筋は残したな」
親盛は一礼した。
「御意にございます」
信長は、そこでようやく笑った。
「よい」
それ以上は追わなかった。
追わないということは、答えに足るだけのものはあったということだ。
最後に信長は、少しだけくだけた声で言った。
「使者殿」
「は」
「今宵はもう、政の話はここまでにしておこう」
「承知致しました」
「せっかくの酒だ。飲め」
親盛が少しだけ笑う。
「では、遠慮なく」
信繁が横から口を挟む。
「土佐のやつは強いですぞ。気を付けませんと」
「それは、こちらの台詞では」
「何だよ」
「治部大輔殿こそ、酒で色々決めすぎではございませぬか」
場が少し和んだ。
信長が声を立てて笑う。
「ははっ、言いおるわ」
信繁は、少しむくれた顔になる。
「みんなして俺を酒でいじりすぎなんだよなあ」
信勝が静かに返す。
「自業自得だ」
宴席は、そのまま少しずつ柔らかい方へ流れていった。
だが、そのやわらかさの下で、必要なことはもう十分に決まっていた。
津野弥九郎親盛。
土佐と、いずれは伊予。
臣従はせず、だが遠き同盟国として織田秩序の中へ入る。
阿波・讃岐へは、理なく越えぬ。
必要なら中国筋で働く。
そこまで取れたなら、この使者来訪は大成功だった。
そして信繁は、杯を傾けながら思った。
――やっぱり、こいつは面倒で、そしてかなり当たりだ。
♢
宴席が少し緩んだ頃合いを見て、信繁は親盛へさりげなく目配せした。
親盛もすぐに察したらしく、杯を置く。鶴姫もまた、何も言わずに立つ。三人は人目を避けるようにして、稲葉山城の庭先へ出た。夜気はひんやりしていたが、座敷の酒気を抜くにはちょうどよい。
虫の音が遠い。灯籠の灯りが、庭石の縁だけをぼんやり照らしている。
親盛は、廊の陰へ入るなり、ようやく肩の力を抜いた。
「……マジで今回、ここへ来るのに兄弟を説得するのに骨が折れた」
信繁が思わず笑う。
「やっぱりそうか」
「土佐は田舎だからな。都の連中に勝てると思ってる」
鶴姫が静かに言った。
「苦労なさってますね」
親盛は、そこで本気で頷いた。
「それですよ」
その言い方に、信繁は少し吹き出しかけた。
「織田家は、こっちの感覚だと今はまだ“ようやく美濃を攻めてる頃”なのに、気が付いたら本願寺まで平和裏に解決されてる」
「特異点が強すぎます」と鶴姫。
「本当そう」と信繁。
「あなたですよ」と鶴姫。
「治部殿のことですぞ」と親盛。
信繁は、そこでわざとらしく肩をすくめた。
「すいません」
三人とも、そこで少しだけ笑う。
だが、すぐに親盛は真顔へ戻った。
「いずれにせよ、伊予を早めに固めねば、今度の件も空手形に終わる」
信繁も頷いた。
「だろうな。土佐・伊予二国で四国静謐、って兄上の前で言い切った以上、言っただけで終わるのはまずい」
「はい」
「伊予を攻めるなら、毛利だけじゃなく大友にも注意だな」
親盛が、そこで少しだけ目を細める。
「やはり、そこまで見ておられますか」
「見るよ。伊予は海が絡む。海が絡むと、西だけ見てればいいわけじゃない」
鶴姫が、そこへ静かに言葉を継いだ。
「しかも伊予は、ただ土地を取るだけでなく、誰を敵に回し、誰へ顔を立てるかで後が変わります」
「ええ」と親盛。
「だからこそ、今のうちにこちらへ来る意味がございました」
少し沈黙が落ちた。
庭の向こうで、風が竹を鳴らす。
鶴姫が、ふと少しだけ声を和らげた。
「弥五郎様や弥十郎殿には、健康にもお気をつけ頂きたいですね」
親盛が、ほんのわずかに苦笑する。
「そこは、ちゃんと指導はしてます」
「それでも」と信繁。
「こればかりは、その時になって変わるか、あるいは別の要因が発生するかは分からない」
「はい」
親盛は、そこにだけ少し疲れた顔を見せた。
「そこなんですよ。結局、毎回サイコロ振ってるようなもんだ」
「分かる」と信繁。
「こっちも大体そう」
「ですよね」
鶴姫が、そこで一枚の書付を思い出すように言った。
「島津家の」
「ん?」
「島津家の四男は、本来異母弟である中務大輔家久殿でしたが、どうも歳久殿の下に、上三人と同腹のご兄弟がもう一人いるようです」
親盛が、そこでゆっくりと天を仰いだ。
「ああ、そこにもいたか」
信繁は、苦い顔で頷く。
「やっぱり九州にも出てるんだな」
「ただ」と鶴姫。
「病弱で、ほとんど表に出ては来ていないようですが」
親盛は、その言葉に少しだけ間を置いた。
「本当に病弱だったら良いんだけど」
「だよなあ」
信繁も同意した。
「病弱設定って、たまに一番信用できないからな」
「本当それです」
親盛は、そこで肩を落としたように笑う。
「まあ、当家は戸次川だけは避けたいですから」
その一言で、三人の間に妙な共感が走った。
避けたい戦。
変えたい歴史。
だが、そのたびに、別のどこかで別の要因が湧いてくる。
まるで盤上を一つ直すと、別の角の駒が勝手に動くようなものだ。
信繁は、少しだけ庭の奥を見た。
「結局、“見えてる奴”が一人増えるたびに、読み直しなんだよな」
「ええ」と鶴姫。
「ですが、そのぶん、先に知れれば対処もできます」
親盛が、そこで少しだけ笑った。
「こうして三人で喋ってる時点で、だいぶ対処してますけどね」
「まあな」
「ただ」
親盛は、そこで少し真顔になった。
「やっぱり、俺らの間だけでしか通じない話ってのは不便ですね」
「不便だよ」
信繁は即答した。
「最初っから全部話せれば楽なのに、それやると今度は“何でそんなこと知ってる”から始まる」
「私も、新九郎兄上にすら、まだ全部は話せておりませぬ」と鶴姫。
「ですよねぇ」
「ただでさえ、気比大神のお告げとか言って、何とかフォローしている状況だし」
親盛が、そこで吹き出した。
「それで押し切ってるんですか」
「押し切ってる」と信繁。
「怖いですね」
「俺もそう思う」
そこで、ようやく少し場が柔らかくなった。
だがその時、廊の向こう、少し離れた暗がりで、別の二人が止まっていた。
信長と信勝だった。
表立って覗き込むような真似はしない。ただ、庭先へ出た信繁たちの声が風に乗って少し届く位置で、自然に足を止めている。
信長が、親盛の横顔を見ながら小さく言った。すでに信繁と鶴姫との間にここまでの関係を築いていることも含め、信繁と鶴姫が自分や信勝にまで黙っていることを黙認する意味もある。
「あやつ、面白い」
信勝は視線を動かさずに応じる。
「ええ」
「勘十郎」
「はい」
「乃夫でもくれてやるか」
信勝が、そこでほんの少しだけ目を細めた。
乃夫。
信秀の十一女。
お犬のさらに下にあたる織田家の姫。
「治部ほどに役には立つでしょうが」と信勝は静かに言う。
「兄弟は裏切れますまい」
信長が、そこで楽しそうに笑う。
「それよ。宮内少輔に器量がなければ、この婚姻で兄弟は揉める」
「ええ」
「器量があれば」
信勝は、そこでわずかに口元を動かした。
「当家との繋がりを利用する、と」
「そういうことだ」
信長の目は、まだ親盛を見ていた。
あの若い津野弥九郎親盛という男を、ただの使者としては見ていない。
土佐・伊予を預けるに足るか。
長曾我部兄弟を抑えつつ使えるか。
婚姻でさらに織田と結び、そのうえで四国の整理役として立つ器か。
そこまで、もう見ている。
信勝は、少しだけ兄の方を見る。
「本気でございますか」
「半分はな」
「またそれですか」
「全部本気に決まっておろう」
そう言って、信長は静かに笑った。
一方、庭先ではまだ三人の話が続いていた。
親盛は、ふと信繁を見て言う。
「それにしても」
「何だ」
「あなた、本当に分かりやすいですね」
「何が」
「こっちが一つ言うと、二つ先まで勝手に考える」
鶴姫が横で静かに言う。
「ある意味、治部殿の方が分かりやすい特異点ですので」
「またそれ言うのかよ」
「事実にございます」
親盛が、そこで本当に少しだけ肩を揺らした。
「たぶん、向こうから見てもそうですよ。“やべぇ奴が織田家にいる”って」
信繁は、がっくりとうなだれる。
「やめてくれ。本人も少し自覚あるから刺さる」
「刺さりますか」
「刺さる」
鶴姫が、少しだけ笑った。
「そこは否定なさらぬのですね」
「否定しきれないんだよ」
その返しに、親盛も鶴姫も、今度は隠さず笑った。
夜の庭先。
織田、浅井、長曾我部。
しかもそれぞれ、少し普通ではない側の三人が、小さな声で未来の火種と回避策を話し合っている。
その光景を、廊の陰から見ていた信長は、ふと思った。
――やはり、あやつは面白い。
そして、その面白さを、織田の外へも繋いでおく価値がある。
宴席の続きは、まだ残っている。
だが、この夜の本当の収穫は、むしろこの庭先の会話にあったのかもしれなかった。
♢
宴席の終わりが近づいた頃、信長は、ふと何でもない顔で杯を置いた。
「使者殿」
津野弥九郎親盛が、すぐに姿勢を正す。
「は」
「一つ、話がある」
その声音があまりに平らだったので、最初は誰も大事とは思わなかった。
だが、信長がこういう平たい声を出す時ほど、中身はだいたい重い。
「乃夫」
親盛の目が、ほんのわずかに動く。
「……は」
「儂らの妹よ」
そこまで来て、ようやく場の空気が変わった。
信勝は、横で黙って兄を見ている。
信繁は杯を持ったまま固まった。
鶴姫は、表情こそ崩さぬが、さすがに一瞬だけ視線が止まる。
十兵衛に至っては、内心で「今ここでそれを出されますか」と思ったが、もちろん顔には出さない。
信長は、まるで評定の続きを言うように続けた。
「使者殿。まずは伊予を呑まれよ」
親盛は、完全に一拍遅れた。
「……は?」
さすがに、予想外だったらしい。
その顔を見て、信繁は心の中だけで思った。
――だよな。そりゃ戸惑うよな。
信長は、そこで少しだけ口元を動かした。
「話はそれからぞ」
親盛は、しばらく言葉を探した。
土佐統一を成した若い男でも、この投げ方は想定していなかったのだろう。
「そ、それは……」
信繁が、そこで思わず口を挟んだ。
「義弟が増える!」
信勝が即座に差し込む。
「まだだと言っておろう」
「いやでも!」
「まだだ」
「はい……」
親盛は、そのやり取りを見て、今度は本当にどういう顔をしてよいか分からぬ顔になった。
土佐統一を前倒しで成した男。
伊予まで視野に入れて畿内へ使者として乗り込んできた男。
その男が、ここで初めて、年相応に戸惑っていた。
「上総介様」と親盛は、ようやく言った。
「某、ただの使者にございますが」
「知っておる」
「しかも、伊予もまだ手中ではござらぬ」
「だから申しておる。まずは呑め」
信長の返しは、あまりに明快だった。
「伊予を取り、土佐と合わせて四国静謐の形を作れ。話はそれからよ」
親盛は、そこでようやく少しだけ息を吐いた。
今この場で婚姻を決める話ではない。
約束ですらない。
だが、選択肢として信長の口から出た。
その意味は重い。
信勝が、静かに補った。
「兄上のお言葉は、軽く聞いてよいものではござらぬ」
「承知しております」
親盛の声も、そこはもう戻っていた。
「ですが、あまりに大きすぎるお話にございます」
「大きいからこそ、先に見せるのだ」と信長。
「そなたが伊予を取り、なお筋を違えぬなら、織田としても四国に楔を打つ価値がある」
そこへ信繁が、また余計なタイミングで口を出す。
「いやでも、本当に義弟になったら面白いな」
信勝がもう一度切る。
「治部」
「はい」
「黙れ」
「はい」
鶴姫は、そこでほんの少しだけ肩を揺らした。
今のは笑っていた。たぶん。
親盛は、そこまでのやり取りを受けて、ようやく頭を下げた。
「かたじけのうございます」
「まだ礼を言うには早い」と信長。
「は」
「伊予を取れ。土佐を保て。兄弟をまとめよ。そのうえで、なお当家と理を違えぬなら、改めて考えよう」
「……はっ」
そこに曖昧さはなかった。
期待だけを持たせるでもない。
逆に、今ここで軽く縁談を決めるわけでもない。
やるべきことをやって来い。その上で見よう。
信長らしい、よくも悪くも重い言い方だった。
そして、信長は杯を持ち直してから、ふと別のことのように言った。
「だが、足利の大樹公には会っていくとよい」
親盛が顔を上げる。
「将軍様に、でございますか」
「うむ」
「それは……」
さすがに、そこもまた意外だったらしい。
信長は、平然としている。
「話の分かる方ではある」
信勝も頷いた。
「今の畿内秩序を理解されておる御方だ」
信長はさらに続ける。
「伊予攻略の大義にもつながるやもしれんな」
親盛の目が、そこで変わった。
婚姻の話以上に、こちらの方が今は現実だったのだろう。
土佐をまとめ、伊予へ向かう。その時、幕府との接点を持っておくことは、武辺以上に効く。
「将軍様に、長曾我部の名を覚えていただく、と」
「そうだ」と信長。
「四国の僻地の土豪ではなく、土佐を静め、伊予をうかがう家としてな」
親盛は、そこで深く一礼した。
「それは、ありがたきことにございます」
信長は、そこでようやく信繁へ視線を向けた。
「治部」
「何でしょう」
「案内してやれ」
「承知しました」
それで、話はひとまず決まった。
津野弥九郎親盛は、信繁の案内で将軍義輝へも会う。
婚姻の話はまだ先。
まずは伊予。
そのうえで、幕府への顔を通し、長曾我部家を“地方の勢い者”ではなく、“公の秩序の中で四国静謐を担う家”へ寄せる。
親盛が座を下がる時、その背中は来た時より少しだけ重かった。
当然だ。
土佐と伊予の話だけでも重いのに、そこへ織田との婚姻の含み、さらに将軍との面会まで載ったのだ。
親盛が出てから、信繁はまず兄を見た。
「兄上」
「何だ」
「びっくりしたんですけど」
「そうであろうな」
「弥九郎殿も、たぶん本気でびっくりしてましたよ」
「それでよい」
「よくないでしょう」
信勝が、そこで静かに言った。
「いや、よいのだ」
信繁がそちらを見る。
「勘十郎兄上まで」
「婚姻を餌にするにはまだ早い。だが、“その先が全くないわけではない”と見せるにはちょうどよい」
「なるほどなあ」
信長が、少しだけ笑う。
「それに」
「それに?」
「あやつは、器量を試される餌の方が、銭や言葉より効く」
信繁は、そこでようやく頷いた。
「たしかに」
「伊予を取れ。兄弟をまとめよ。筋を違えるな。その上で、だ」
「はい」
信勝が小さく言う。
「それで潰れるなら、そこまでということでもある」
「まあ、そうですね」
「だが」と信長。
「あやつは、たぶん潰れぬ」
その言い方に、兄の見立てがかなり乗っているのが分かった。
宴席は、そのあともう一巡した。
だが、今夜の本当の収穫は、もはや酒ではない。
津野弥九郎親盛。
土佐と、いずれは伊予。
そこへ、織田との縁談の含み。
さらに将軍義輝との面会。
長曾我部家は、もう四国の中だけの家ではなくなり始めていた。
そして、その最初の扉を開けたのが、この稲葉山の夜だった。
♢
将軍義輝への拝謁は、翌々日に整えられた。
京の空気は、稲葉山とも瀬田とも違う。
都というのは、建物がどうこうより、そこへ集まる視線の質が違う。
武家の城では、強いか弱いかがまず問われる。
だが将軍の御前では、それに加えて「どの理でここへ立っているか」まで見られる。
だから信繁も、さすがに親盛へ言った。
「ここは、稲葉山の評定や宴席と同じじゃない」
親盛が、馬上から横目で見る。
「さすがに分かっております」
「ほんとに?」
「そこまで軽く見られておるのですか、某は」
「軽く見てるわけじゃない。ただ、あんた、話が早すぎて、たまに飛ぶから」
親盛は少しだけ笑った。
「治部殿にだけは言われとうない」
「それはそう」
鶴姫は今回は同道していない。
この拝謁は、あくまで織田家の裁可を経たうえで、信繁が案内役となる武家筋の顔通しだ。余計な意味を重ねぬ方がよいと、信勝が判断した。
供は最小限。
十兵衛が文の筋を整え、信繁が親盛を連れ、あとは礼を崩さぬだけの人数で行く。
将軍御座所は、まだ完全な完成には遠い。
それでも、すでに「ここに幕府がいる」と分かる程度には整えられている。
孫三郎信光が周辺の抑えを受け持ち、長秀の普請が進み、朝廷の理も少しずつ通り始めている。信繁が最初にこの場へ来た頃に比べれば、空気はずいぶん落ち着いていた。
義輝は、奥にいた。
剣豪将軍。
そういう言い方をされることが多いが、実際に会うと、その剣の気配は思ったほど前面には出ていない。むしろ、何を見ても一度は腹に落としてから返す、あの静かな圧の方が厄介だった。
信繁が礼を取り、親盛もそれに倣う。
義輝は、しばらく二人を見てから言った。
「治部大輔」
「は」
「その者が、土佐よりの使者か」
「はい。長曾我部家より参った、津野弥九郎殿にございます」
「津野弥九郎」
義輝の目が、そこへ静かに落ちる。
親盛は、まっすぐ頭を下げた。
「長曾我部家当主宮内少輔元親が使者、津野弥九郎親盛にございます。此度、御拝謁の栄に浴し、恐懼仕り候」
声も、礼も、まず間違いはない。
将軍の前で武辺を見せても意味はない。
理と節を見せねばならぬ。そこを親盛はちゃんと分かっていた。
義輝は、少しだけ頷いた。
「土佐をよくまとめたと聞く」
親盛は、そこで一拍置いた。
「当主宮内少輔と、その兄弟一門の働きにございます」
信繁は、内心で少しだけ笑う。
ここでもそこへ逃がすか、と。だが、その逃がし方は悪くない。親盛は、自分の器量を隠しているのではない。順序を違えないようにしているだけだ。
義輝は、そこも見抜いている顔だった。
「そうか」
短い。
だが、その一言に「そなた自身も、その中にいるのだろう」という含みがある。
「畿内のことは、どこまで聞いておる」
将軍の問いは、いつもまっすぐだ。
親盛も、そこは真っ直ぐ返した。
「三好三人衆討死。宗家は筑前守殿、孫次郎殿ともども温存。畿内中枢は、将軍家・朝廷の理のもとに織田家が預かり、京の静謐が進みつつあると承っております」
義輝の目が、ほんの少しだけ細くなる。
かなり正確だ。
しかも“織田が奪った”ではなく、“将軍家・朝廷の理のもとに預かる”と表現した。あれは信繁と信勝が、ずっと外へそう見せてきた理屈である。
「その上で」と義輝。
「長曾我部は、何を望む」
親盛は、ほんのわずかも揺れない。
「土佐の安堵にございます」
「うむ」
「そして、いずれ伊予において働く道があれば」
「ほう」
「四国静謐の一助を担いたく」
義輝は、そこで初めて少しだけ口元を動かした。
「治部大輔」
「はい」
「そなた、よう話を通しておるな」
信繁は肩をすくめた。
「そこはまあ、頑張りました」
「頑張りました、で済ますな」
「はい」
親盛は、そのやり取りを聞きながらも顔を崩さない。
だが、目の奥ではたしかに、この将軍がただの飾りではないことを測っている。
義輝は、そこで親盛へ向き直った。
「伊予を望む、と」
「はい」
「阿波、讃岐へは向かわぬのか」
その問いは、信長が宴席で問うたものと似ていた。
だが、意味は少し違う。信長は“秩序の運用者”として問うた。義輝は“公の裁可の源”として問うている。
親盛は、少しだけ頭を垂れてから答えた。
「今の世において、阿波・讃岐・淡路は、三好宗家に朝廷・幕府のお墨付きが立っております」
「うむ」
「そこへ理なく兵を向ければ、当家は四国の勢い者ではなく、公儀に逆らう家と見られましょう」
義輝は、それを聞いてから小さく頷いた。
「分かっておるではないか」
「分からぬでは済まぬことにございますれば」
「ならば」と義輝。
「長曾我部家は、今のところ土佐と、いずれ伊予に目を向ける、と受け取ってよいか」
親盛は、そこでようやくはっきりと言った。
「差し支えございませぬ」
信繁は、その答えに心の中で息を吐いた。
これでかなり固まった。信長の前での言葉と、義輝の前での言葉が一致した。こういうところが一番大事だ。
義輝は、そこで少し座り直した。
「治部大輔」
「はい」
「そなたは、この者をどう見る」
急にこちらへ来る。
だが、来ると思ってはいた。
信繁は、親盛を横目で見た。
「話が早いです」
義輝が少し目を細める。
「それだけか」
「いえ」
「申せ」
「土佐統一をかなりの速度でもって成しただけあって、世の風を読み、現実をちゃんと嗅ぎ分けてます」
親盛は少しだけ目を伏せた。
褒められて喜ぶ顔ではない。褒められている中身を量っている顔だ。
「畿内と四国の距離。朝廷・幕府の理。三好宗家の面目。毛利と大友。全部を見たうえで、“土佐と伊予で四国を静める方が安く済む”って、兄上にも申してました」
「安く済む、か」
義輝が、そこで少しだけ笑う。
「ずいぶん言う」
「でしょう」
「治部大輔」
「何でしょう」
「そなたが気に入るのも分かる」
「何か嫌な言い方ですね」
「似ておるからな」
信繁は、そこで露骨に嫌そうな顔をした。
親盛は、今度こそ少しだけ笑った。
義輝は、その様子まで含めて見てから、静かに言った。
「よい」
場が締まる。
「長曾我部家が、土佐を静め、さらに伊予にて働くなら」
「は」
「幕府としても、四国静謐を担う家として名を置くことに異存はない」
親盛が、深く頭を下げる。
「ありがたき幸せにございます」
「ただし」
「は」
「名を置くのは、理を違えぬうちだけだ」
「承知仕りました」
「阿波・讃岐・淡路は、今は三好宗家の面目を立てて残してある」
「はい」
「そこへ理なく越えれば、話は変わる」
「肝に銘じます」
義輝は、そこでようやく少しだけ柔らかくなった。
「よかろう。土佐の若き使者」
親盛が顔を上げる。
「伊予を取ってから、また来い」
その言い方は、将軍のものだった。
許しでもあり、宿題でもある。
今ここで何かを与えるのではない。だが、次に来るべき道を、公の言葉で示した。
親盛は、もう一度だけ深く礼を取った。
「必ずや」
拝謁を終えて退出する廊で、信繁は小さく息を吐いた。
親盛も、隣で少しだけ肩の力を抜く。
「どうだ」と信繁。
「寿命が縮みました」
「だろうな」
「けれど」
親盛は、少しだけ笑った。
「話の分かる方、というのは本当でしたね」
「だから言ったろ」
「ええ」
少し間が空く。
「ただ」と親盛。
「上総介様も、大樹も、結局は同じですな」
「何が」
「“取ってこい。話はそれからだ”と」
信繁は、そこで吹き出した。
「たしかに」
「やることがはっきりしているのは助かりますが」
「重いけどな」
「重いです」
そう言って、二人とも少しだけ笑った。
その頃、御座所の奥で義輝は、信光へ向けて小さく言っていた。
「治部大輔は、また妙なものを拾ってきたな」
信光が静かに答える。
「拾うというより、向こうから来たのでしょう」
「それもそうだ」
義輝は、ほんの少しだけ目を細めた。
「四国の風向きも、これで少しは形になるやもしれぬ」
石山を退かせ、大谷本願寺を立て、大坂城が起ち始める。
その一方で、四国では土佐の若き家が伊予へ手を伸ばそうとしている。
天下は、少しずつ、だがたしかに組み替わり始めていた。
♢
将軍御座所を辞して、親盛を伴って戻る道すがら、京の空気は来た時よりわずかに軽く感じられた。
いや、軽いというより、一本線が通った、という方が近い。
信長の前で話し、義輝の前で話し、それでもなお長曾我部家としての立ち位置が崩れなかった。そこまで来れば、もうただの土佐の勢い者ではない。少なくとも、畿内の理の中で名前を置かれた家にはなった。
親盛も、さすがにその重みは感じているらしかった。
「治部殿」
「何だ」
「こういうのを」
「うん」
「一つずつ積まれると、もう後へ引けませんな」
信繁は笑った。
「それが狙いだろ、たぶん兄上も大樹も」
「でしょうな」
「土佐だけの話じゃ済まなくなった」
「はい」
少し沈黙が落ちる。
京の町は、相変わらず人が多い。だが以前より、どこか“見られている”感じが薄い。信光が押さえ、将軍家の御座所が整い、朝廷筋の空気も荒れにくくなっている。その変化を、親盛もちゃんと感じ取っている顔だった。
「弥九郎殿」と信繁。
「はい」
「今の大樹の言葉、分かっただろ」
「伊予を取ってからまた来い、ですか」
「そう」
親盛は、そこで苦く笑った。
「結局、上総介様と同じでござるな」
「だろ?」
「人の上に立つ方は、皆ああなのでしょうか」
「たぶん」
「厳しい」
「厳しいけど、分かりやすいだろ」
「それはそうです」
戻った先では、信勝がすでに待っていた。
稲葉山へ返る前の小休止の座敷。派手な評定ではない。だが、こういう半ば私的な場でこそ、昼間に出なかった言葉が落ちることもある。
信勝は親盛の顔を見るなり言った。
「どうだった」
親盛が一礼する。
「厳しうございました」
「だろうな」
「ですが、筋は通して頂けたかと」
信勝は静かに頷いた。
「兄上も公方様も、理のない期待は持たせぬ」
「はい」
「その代わり、理が立つなら先へ繋ぐ」
親盛は、そこで少しだけ目を伏せた。
「ありがたいことにございます」
信繁は、その横へどかっと座る。
「で、これからが本番だな」
「本番」
「伊予だよ。ここで“分かりましたー”って帰って、土佐でゆっくりしてたら全部飛ぶ」
親盛は、そこは真面目な顔に戻った。
「承知しております」
信勝が言う。
「土佐を固めるだけでは足りぬ」
「はい」
「伊予を取るだけでも足りぬ」
親盛が顔を上げる。
「と、申されますと」
「取ったあと、どう治めるかまで見せねばならぬ」
そこは、親盛もすぐに理解した顔だった。
「……なるほど」
「戦で取る家は多い。だが、取ったあと“そこが静まる”と見せられる家は少ない」
「四国静謐を担う、ですか」
「そうだ」と信繁。
「兄上も大樹も、そこを見てる。土佐と伊予で暴れるだけの家なら、長くは使えない」
親盛は、そこで少しだけ笑った。
「使う、と来ますか」
「来るよ。だってその方が正確だろ」
「正確ですな」
「でも、使われるだけでもないだろ?」
「むろん」
その返答に、信勝がわずかに口元を動かした。
「よい」
しばらくして、鶴姫も合流した。
こちらは最初から空気を読む。親盛が将軍拝謁を終えた直後であることを見て、いきなり踏み込まず、まず一言だけ置いた。
「ご無事に済んで何よりです」
親盛が礼を返す。
「寿命が縮みましたが、何とか」
「それはよろしゅうございました」
「よろしいんですか?」
「生きて帰って来られたのであれば」
「基準が高い」
信繁が笑う。
「鶴姫はそういうとこある」
「治部殿にだけは言われとうございませぬ」
そこへ信勝が、静かに場を戻した。
「鶴姫」
「はい」
「長曾我部家へ返す文の草案、詰められるか」
「承知しております」
「今日の拝謁を受けて、文言を少し上げる。だが、与えすぎるな」
「はい」
「“幕府に名を聞いてもらえた”ことは伝わるように、しかし“もう織田の傘下だ”とは見えぬように」
「心得ております」
親盛は、そのやり取りを聞きながら、少しだけ感心したようだった。
「ここまで細かく詰めるのですな」
信繁が答える。
「詰めないと、後で勝手に話が育つからな」
「怖い」
「怖いよ」
「当家も気を付けます」
「そこは本当に気を付けろ」と信勝。
「土佐で“将軍に気に入られた”“織田の姫が来る”などと先に広まれば、家の内から崩れる」
親盛が、そこで深く頷く。
「承知仕りました」
その返答に迷いはなかった。
やはりこの男は、自分が今どれほど危うい綱の上にいるかをよく分かっている。兄弟をまとめ、伊予を取り、理を違えず、しかも織田や幕府との距離を保つ。若いのに、やることが多すぎる。
信繁は、ふと親盛を見た。
「ところで」
「何でしょう」
「今回帰ったら、兄弟に何て説明するんだ」
親盛は、そこでほんの少しだけ遠い顔になった。
「それを考えると胃が痛い」
鶴姫が、静かに言う。
「率直に申されるのがよろしいかと」
「どこまでを」
「上総介殿も大樹も、すぐに何かを与えるとは仰らなかったこと」
「はい」
「だが、伊予を取り、理を違えねば、先へ繋がる筋は立ったこと」
親盛は、少し考えてから頷いた。
「それが一番、無難か」
信繁が補う。
「乃夫殿の話は、今はまだ雑に広めるなよ」
親盛が思わず苦笑する。
「もちろんです」
「下手すると、そこだけ独り歩きする」
「分かっております」
「兄弟のうち誰かが“もう織田の縁戚だ”みたいな顔をし始めたら最悪だからな」
「その時は、まず某が叩きます」
信勝が、そこへ少しだけ低い声を置いた。
「叩いて済めばよいがな」
親盛は、その意味を分かった顔で一礼した。
「肝に銘じます」
座の空気が少し落ち着いたところで、信繁は最後に言った。
「まあ、いずれにせよだ」
「はい」
「伊予だ」
親盛も頷く。
「はい」
「四国静謐だの、遠き同盟国だの、土佐守土佐守護だの、全部そこから先の話になる」
「その通りにございます」
「だからまずは、勝ってこい」
親盛は、そこで初めて、本当に若武者らしい顔で笑った。
「承知」
その返しは短かったが、強かった。
その夜、親盛が下がったあと、信繁は一人で少し庭を歩いた。
稲葉山の風は、京とも瀬田とも違う。美濃の匂いがする。
伊予を取ってからまた来い。
兄上も大樹も、結局そこへ戻した。
つまり今は、可能性だけが与えられた状態だ。
だが、可能性だけでも与えられたなら十分とも言える。
信繁は空を見上げて、小さく呟いた。
「面倒くせえけど、面白いな」
誰に言うでもないその言葉は、夜気の中へ溶けた。
長曾我部。
四国。
伊予。
そして、まだ見えぬその先。
天下は、また一つ、新しい線を引き始めていた。