織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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054黒田家を招待

親盛が畿内を後にしてから、俺はしばらく地図の前に立っていた。

 

土佐。

伊予。

四国の特異点は、ひとまず凌いだ。

 

次に見るべきは、やはり足元だった。

 

畿内静謐。

 

三好三人衆を討ち、石山本願寺を退去させ、大谷本願寺の再建と大坂城の築城が始まった。都の喉元はだいぶ整ってきた。だが、だからこそ暗部も残る。

 

山城北部。

丹波。

丹後。

 

幕府の威令が届きにくく、旧来の反幕府勢力や半ば独立した国衆が、まだ「様子見」で生き残っている地域だ。

 

瀬田城の評定で、俺はその地図を指でなぞった。

 

「次はここだ」

 

十兵衛が目を上げる。

 

「丹波、丹後にございますか」

「うん。浅井家にやってもらう」

 

半兵衛が、すぐに意図を読んだ。

 

「浅井家の外征として動かし、織田家は援軍を出す、と」

 

「そう」

俺は頷いた。

「北近江の浅井が、丹波丹後へ手を伸ばすのは地理的にも不自然じゃない。しかも、こっちが全部直轄で食っていく形に見えない」

 

弾正が低く笑う。

 

「まことに、食い方がいやらしい」

「褒めてる?」

「ええ」

「ならいい」

 

鶴姫は、そこで静かに頷いた。

 

「浅井にとっても、六角後の立場を固めるにはよい働きにございます」

 

「そういうこと」

俺は、次に人選を告げた。

「当家が出す援軍は五千」

 

伊勢守が、少しだけ口元を上げる。

 

「出番ですな」

「滝川伊勢守」

「は」

「島左近」

 

左近が静かに頭を下げる。

 

「前田慶次郎」

「おう」

「奥村助右衛門」

「うむ」

「この四人を軸に五千」

 

半兵衛が問う。

 

「目的は、浅井軍の補強だけにございますか」

 

「いや」

俺の声が少し締まる。

「山城北部の反幕府勢力を駆逐しながら進む」

 

場の空気が変わった。

 

ただの援軍じゃない。

浅井家の丹波丹後攻略に名を借りつつ、同時に山城北部の整理まで一気にやる。つまりこれは、北近江から山城北部、さらに丹波丹後へ抜ける一本の“幕府・織田・浅井ライン”を作る戦だ。

 

十兵衛が言う。

 

「山城北部は、まだ三好残党、寺社寄りの者、国衆の独立志向、いずれも混じっております」

「だからこそ、今のうちだ」

「石山と三人衆が片付いた直後に?」

 

「直後だからだよ」

俺は地図を叩く。

「今なら、“次はどこへ手を入れるのか”皆が様子見してる。そこへ一気に我らで線を通す」

 

伊勢守が、楽しそうに言う。

 

「敵の腰が定まらぬうちに、ですか」

「そう」

「好きな手です」

「知ってる」

 

左近は、地図の北側を見ていた。

 

「五千で足りまするか」

 

「足りさせる」

俺は即答した。

「正面から全部を潰す気はない。浅井本軍が前へ出る。こっちは援軍でありながら、実際には山城北部の掃除役だ」

 

助右衛門が短く言う。

 

「細かく噛み砕く」

「そう」

 

慶次郎が笑う。

 

「派手に攻めるってより、嫌がらせしながら進む感じか」

「お前が言うと軽いな」

「でも間違ってないだろ?」

「間違ってない」

 

半兵衛が整理するように言った。

 

「つまり、戦の目標は三つ」

 

皆がそちらを見る。

 

「一、浅井家の丹波丹後進出を助けること」

「うむ」

「二、山城北部の反幕府勢力を残さぬこと」

「うむ」

「三、将軍家の理が届く道を北へ伸ばすこと」

 

「それだ」

俺は頷いた。

「都を静めるってのは、京の中を掃除するだけじゃ足りない。京へ入る道、京へかかる圧、それごと消し去らないと意味がない」

 

鶴姫が、そこで静かに言う。

 

「浅井家にとっても、北近江の家から一段上がる働きになります」

「そう」

「織田の家臣としてでなく、“幕府を支える一門格”としての実績になる」

 

伊勢守が、少しだけ感心したように言う。

 

「浅井に恩を売りつつ、立場も上げるわけですな」

「まあ、身内みたいなもんだしな」

「身内、で済む話ではありませんが」

 

弾正がそこへ低く口を挟む。

 

「山城北部で反幕府勢力を駆逐するとなれば、寺社との線引きも要りますぞ」

「そこは大事だな」

「すべてを反幕府で一括りにすれば、余計な敵を増やします」

 

十兵衛が頷いた。

 

「ゆえに、最初の触れが要りましょう」

「どんな」

と俺は聞いた。

 

十兵衛は、すでに文案を考えている顔だった。

 

「“将軍家の理に従う者は安堵、逆らい兵を集める者は討つ”」

「いいな」

「寺社も、幕府の理に従う限りは手をかけぬ」

「そこも入れよう」

 

半兵衛が、さらに実務へ落とす。

 

「伊勢守隊は先鋒。左近隊は詰めと要点制圧。慶次郎と助右衛門は、それぞれ敵が崩れやすいところと、崩れぬところへ分けた方がよろしいかと」

 

慶次郎が口を尖らせる。

 

「俺、また“崩れやすいところ”担当?」

「お前は見せ場を作るのが上手い」

「褒めてる?」

「褒めている」

 

助右衛門が短く言った。

 

「俺は崩れぬところでよい」

「お前はそういう役が似合う」

 

左近は、そこで静かに言った。

 

「浅井本軍が前へ立つなら、我らは“援軍に見えて、実は掃除をする手”になる」

「そうだ」

「ならば、速さだな」

「うん?」

「長く留まるな。一つ潰したら、すぐ次へ。反幕府勢力に“構える暇”を与えぬ方がよい」

 

俺は頷いた。

 

「左近の言う通りだ」

 

伊勢守が笑う。

 

「五千で足りさせる、というのはそういうことですな」

「正面決戦の五千じゃない。走り回って、喉を掻き切る五千だ」

 

その言い方に、場の武辺組はだいぶ納得した顔になった。

 

そうして段取りが決まっていく。

 

浅井家の丹波丹後攻略。

治部軍から援軍五千。

滝川伊勢守、島左近、前田慶次郎、奥村助右衛門を中核。

山城北部の反幕府勢力を駆逐しながら進む。

 

最後に、俺は言った。

 

「これは、ただの領取りじゃない」

皆の目が集まる。

「畿内静謐の続きだ」

 

十兵衛が静かに頷く。

 

「京の外側を静める」

「そう」

 

鶴姫が言う。

 

「石山が片付き、大坂城が建ち始めた今、次は北の道ですね」

「うん。都に泥を寄せないためには、泥が流れ込む筋そのものを変えないといけない」

 

半兵衛が最後にまとめた。

 

「では、浅井家へは“援軍”として出す。だが、内実は山城北部整理を含む幕府秩序回復戦」

「それだ」

「承知しました」

 

評定が終わったあと、伊勢守は左近と並んで外へ出た。

 

「左近殿」

「何だ」

「どうやら、また面白い戦になりそうですな」

 

左近は、少しだけ空を見てから答えた。

 

「面白い戦、というより」

「うん?」

「ようやく、都の外側を刈る段に入った」

 

伊勢守が笑う。

 

「その言い方、嫌いじゃありませぬ」

 

慶次郎が後ろから入ってくる。

 

「で、俺はどっちだ? やっぱり崩れやすい方か?」

 

助右衛門も続く。

 

「お前は大体そうだ」

「ちぇっ」

 

「ちぇっ、ではない」

と左近。

「似合っておる」

 

「左近殿に言われると、ちょっと嬉しいな」

「褒めてはおらぬ」

「でも否定もしてねえ」

 

四人が揃うと、空気が少し動く。

治部軍の五千は、ただの数じゃない。

この四人がいる時点で、かなり嫌な五千になる。

 

俺は、その背を見ながら思った。

 

大坂城が建ち始めた。

石山は片付いた。

次は北だ。

 

畿内静謐は、まだ終わっていない。

だが、ようやく「終わらせに行く」段に入ったのだ。

 

 

伊勢守からの書状が届いたのは、昼の評定へ入る少し前だった。

 

瀬田城の一室。

机の上には、丹波丹後方面の略図と、山城北部の村々を書き込んだ紙が広げられている。俺は封を切るなり、まず差出人の癖のある筆跡を見て、小さく息を吐いた。

 

「来たか」

 

十兵衛と半兵衛は、すでにその場にいた。

鶴姫も少し離れて控えている。

 

「読むぞ」

俺は書状を広げた。

「――丹波、丹後の仕置き、大方相済み候。波多野氏、赤井氏、一色氏といった旧名家は、国人どもがそれぞれ討伐、あるいは降伏し……」

 

十兵衛が、静かに目を上げた。

 

「順調ですな」

 

「うん」

俺はさらに読み進める。

「――山城北部の反幕府勢力もほぼ掃討相成り、治部軍は大きな損耗なく平定を果たし、浅井本軍と無事合流」

 

半兵衛が小さく頷く。

 

「上出来です」

 

「だな」

俺は書状を畳みかけてから、机の上へ置いた。

「伊勢守の現場指揮と、左近、慶次郎、助右衛門の噛み合わせが、やっぱり効いたな」

 

「はい」と十兵衛。

「留まらずに刻んで進んだのでしょう」

 

「うん。山城北部で足を止めてたら、こうはならない」

 

鶴姫も静かに言った。

 

「浅井本軍にとっても、これでだいぶ戦いやすくなったはずです」

「そうだな」

 

そこで、俺は少しだけ考える顔になった。

 

十兵衛がすぐに察する。

 

「まだ何かございますか」

 

「ある」

俺は、伊勢守の書状の横へ、別の紙を引き寄せた。

「播磨の姫路に、黒田官兵衛という男がいるんだが」

 

鶴姫が、ぴくっと、しかし表情は変えずに反応した。

 

その小さな気配を、俺は見逃さなかった。

 

「鶴姫も引っかかったか」

「……いえ」

「いや、今ぴくっとしただろ」

「気のせいかと」

 

半兵衛が、そこで静かに言う。

 

「黒田官兵衛」

 

十兵衛も名を反復した。

 

「播磨の国衆筋にございますな」

「うん。どうにか引っ張って来れないかな」

 

「本人を、ですか」と十兵衛。

 

「親父さんも含めてなんだけど」

そこまで言ってから、俺は指で机を軽く叩いた。

「伊勢守の現場指揮と、十兵衛の文と、半兵衛の理屈、そのどれとも違う系統の頭なんだよ、あの男は」

 

半兵衛が、少しだけ目を細めた。

 

「どう違うと」

「たぶん、“後でどう転ぶか”を先に読む」

「ほう」

「目の前の勝ち負けだけじゃなく、戦のあと、城のあと、人のあとを読むのが上手い」

 

十兵衛が、少し考える。

 

「それはまた、治部様のような」

「いや、違う違う。俺はもっと雑だ」

 

鶴姫が、そこで静かに差した。

 

「そこは否定なさらぬのですね」

「否定しきれないからな」

 

少しだけ笑いが落ちる。

 

だが、話の芯は重い。

 

「播磨は」と十兵衛。

「今すぐ織田へべったり寄る土地ではございませぬ。赤松の名もあり、別所や小寺、浦上、いろいろ古い家が絡みます」

 

「だから難しいんだよ」

 

「黒田家だけを引き抜くような形に見えれば、周辺が警戒しますな」と半兵衛。

 

「うん。だから露骨に“来い”じゃ駄目だ」

 

鶴姫が、そこで静かに口を開いた。

 

「その黒田官兵衛という方は、まだ若いのでしょうか」

「若い」

「では、本人より先に父上の方を見るべきかと」

 

俺は頷いた。

 

「それなんだよな。親父さんごと押さえないと、後で家中が割れる」

 

十兵衛が整理するように言う。

 

「つまり、官兵衛個人の才を買うのではなく、黒田家そのものを“織田と話の通じる家”へ寄せたい」

「そういうこと」

「播磨で使う、というより、播磨に今のうちに置いておく釘ですか」

「うん。しかもただの武辺じゃなく、理で動く釘」

 

半兵衛が、そこでわずかに笑った。

 

「治部様は、時々こういう“まだこちらのものではないが、後で絶対欲しくなる人材”を妙によく見つけますな」

「欲しいだろ?」

「欲しいです」

「だろ」

 

「ですが」

半兵衛は、すぐに現実へ戻した。

「今の播磨へ、いきなり強い手を打つのは危うい」

 

「うん」

「ならば、最初は“見に来させる”ところからでしょう」

 

その一言に、俺の目が少し動いた。

 

「……それ、いいな」

 

十兵衛も頷く。

 

「官兵衛殿にとって、今の畿内は変化が大きすぎます。三好三人衆討死、本願寺退去、大坂城普請開始、朝廷・幕府との接続。見に来る理由はいくらでも作れます」

 

俺は、そこで書状をもう一度見た。

 

「伊勢守の勝ちで、山城北部の道はだいぶ風通しも良くなった」

「はい」

「石山も片付いた」

「はい」

「だったら、今の畿内を見たい播磨者は、絶対いる」

 

鶴姫が静かに言う。

 

「官兵衛殿のような方であれば、なおさら」

 

俺は、そこで改めて鶴姫を見る。

 

「やっぱり、気になってるだろ」

 

鶴姫は表情を崩さない。

 

「特には」

「絶対あるだろ」

「少しだけ」

「あるじゃん」

「ですが、“使える方かもしれない”以上のことは、まだ」

 

そこは慎重だった。

そしてその慎重さが、今は正しい。

 

十兵衛が言う。

 

「では、どう呼びます」

 

「名目は」

俺はそう言ってから続けた。

「大坂の様子、洛中静謐の現状、瀬田城と新秩序の見学」

 

「ずいぶん見せますな」

「見せるよ。見せて、“これはもう播磨の片隅で様子を見てるだけじゃ駄目だ”って思わせたい」

 

半兵衛が、そこで少しだけ嫌な顔になる。

 

「治部様」

「何だ」

「それをやると、こちらの手の内もかなり見せます」

「全部じゃない」

「ですが、かなりです」

「それでも来る価値があると思わせる方が先だろ」

 

十兵衛は、少し考えてから頷いた。

 

「一理ございます」

「だろ」

「ただし、最初から“引っ張る”顔は出さぬ方がよろしい」

「うん。そこは分かってる」

「“播磨の賢そうな若者を、今の畿内を見せるために呼ぶ”」

「そのくらいだな」

「そして来たら、見せる」

「そう」

 

鶴姫が、そこでほんの少しだけ柔らかく言った。

 

「治部殿は、だいぶ楽しそうですね」

「だって楽しみだろ。こういうの」

「ええ、まあ」

「黒田官兵衛が、今の大坂見て、洛中見て、瀬田城見て、どういう顔するか」

 

半兵衛がぼそりと。

 

「たぶん、治部様も似たような顔をされるかと」

「何だそれ」

「気に入るものを見つけた時の顔です」

「……否定できない」

 

十兵衛が、そこで紙を引き寄せた。

 

「では、文面を整えましょう」

「頼む」

「播磨に直接“来い”ではなく、小寺筋か、あるいは黒田家へ無理なく届く形に」

「うん」

「治部軍の山城北部平定、浅井の丹波丹後進出、大坂城普請、洛中静謐。そのあたりを“今の畿内を見ておく価値あり”と感じるように」

「それでいこう」

 

俺は、伊勢守の書状をもう一度見た。

 

北はだいぶ通った。

だったら次に必要なのは、ただ領地を増やすことじゃない。

次の段階へ行く時に使える頭数を、少しずつ寄せてくることだ。

 

「よし」

俺は言った。

「伊勢守の吉報は吉報として本軍へ返す」

 

「はい」と十兵衛。

 

「そのうえで、黒田官兵衛に文を飛ばす準備に入る」

「承知しました」

 

鶴姫は、そこで最後に小さく言った。

 

「来られるとよいですね」

 

俺は、それに少しだけ笑った。

 

「来ると思うよ」

「どうしてそう思われるのです」

「頭の回るやつってのは、こういう時に“見ておかないと後で困る”って考えるから」

 

半兵衛が静かに頷く。

 

「それは、たしかに」

 

そこで、少し遅れて弾正が入ってきた。

 

「遅くなり申した」

 

「ちょうどよかった」と俺は言った。

 

「何か進みましたか?」

「伊勢守から吉報。山城北部はほぼ掃除済み、浅井本軍と合流」

 

弾正が低く笑う。

 

「それはようございました」

「で、次は播磨だ」

「ほう」

「黒田官兵衛を呼んでみようと思う」

 

弾正の目が、そこでわずかに細くなる。

 

「姫路の黒田」

「知ってるか」

「名ぐらいは」

「頭、回りそうだろ」

「治部殿がそう申されるなら、そうなのでしょうな」

「他人事だな」

「播磨は、また別の癖がございますゆえ」

 

そこはさすがだった。

三好や畿内の匂いを知る男にとって、播磨はまた違う面倒くささのある土地だ。

 

十兵衛が弾正へ紙を回す。

 

「最初は見に来させるところから、という話にまとまりました」

 

弾正は一読して頷いた。

 

「よろしいかと」

「そうか?」

「はい。いきなり引くと、警戒される。だが、今の畿内を見せれば、向こうで勝手に考え始めましょう」

 

俺は、そこで少しだけ笑った。

 

「やっぱりそうなるよな」

「治部殿は、“見せた後に相手が勝手に寄って来る”形がお好きですな」

「楽だろ」

「後で面倒も増えますが」

「それはそれ」

 

弾正が、そこで小さく肩を揺らした。

 

「まことに」

 

こうして、伊勢守の戦勝報告は、次の一手に変わった。

 

丹波丹後は大詰。

山城北部は平定。

そしてその報せを受けた瀬田では、もう次の人材を拾いに行く話が始まっていた。

 

 

伊勢守の率いる五千が瀬田へ戻ったのと、ほとんど入れ違いだった。

 

城門のあたりは、しばらく妙に慌ただしい。丹波丹後・山城北部の仕置きを終えて帰ってきた兵たちが荷を下ろし、馬を引き、報告の列ができる。その横を、播磨から来た一行が静かに通される。

 

黒田官兵衛孝高。

 

若い。だが、最初にこちらを見る目が、もう若造のそれではない。城の石垣、瀬田川筋、荷の流れ、人の歩かせ方、門の番の置き方。見ているところがいちいち細かい。だが、その官兵衛が、城へ入ってほどなく、さすがに一度だけ顔を引かせた。

 

疋田豊五郎がいた。

日置大膳亮がいた。

柳生の剣士たちが、まるで当たり前のように控えていた。

そこへ、戻ったばかりの伊勢守、左近、慶次郎、助右衛門まで揃っている。

 

官兵衛は、笑いそうにも困りそうにも見える顔で、信繁へ言った。

 

「……治部大輔殿」

「何だ」

「これは、少々」

「少々?」

「多士済々にも程がございませぬか」

 

信繁は、けろっとしている。

 

「そうか?」

「播磨でこれだけ揃っておれば、まず誰かが裏切るか、潰し合うか、あるいは主君が疑って崩れます」

 

左近が静かに言う。

 

「しないな」

 

慶次郎が笑う。

 

「しねえな」

 

助右衛門が短く言う。

 

「潰す相手は外におる」

 

それを聞いて、官兵衛はとうとう少しだけ吹き出した。

 

「なるほど、そういう家ですか」

 

「そういう家だよ」と信繁。

「で、官兵衛殿」

 

「はい」

「親父さんも含めて、一家でうちに来なよ」

 

官兵衛は、さすがに目をぱちりとさせた。

 

「いきなりにございますな」

「いきなりじゃないだろ。わざわざ畿内見に来たんだ。見るだけ見て帰るのもつまらん」

「播磨には播磨の付き合いが」

 

「それは分かってる」

信繁は笑う。

「だから“意訳するとそういう意味だ”くらいに聞いとけ」

 

官兵衛は、そこで少しだけ首を傾げた。

 

「治部大輔殿は、いつもそのように人を引かれるので?」

「だいたいは」

 

十兵衛が横で静かに言う。

 

「否定はできませぬ」

 

半兵衛も続ける。

 

「だいたい、そんな感じです」

 

官兵衛は、そこで改めて周囲を見た。

 

伊勢守。

左近。

慶次郎。

助右衛門。

さらに疋田豊五郎、日置大膳亮、柳生の剣士。

武辺が強いだけではない。どう見ても、それぞれが別種の札だ。しかも、戻ったばかりの五千が、ほとんど損耗を感じさせぬ顔で整然と帰っている。

 

「……なるほど」

 

官兵衛が小さく言った、その時だった。

 

奥から、侍女が息を切らさぬよう必死に抑えながら入ってきた。

 

「治部大輔様!」

 

信繁が振り向く。

 

「何だ」

 

侍女の顔は、明らかに吉報だった。

 

「真理姫様、ご懐妊にございます!」

 

その一言で、信繁の顔色が変わった。

 

「……ほんと?」

「はい!」

「確かか?」

「間違いございませぬ!」

 

そこから先が早かった。いや、早すぎた。

 

「いや、待て、前回の時の薬膳どうだった、いやその前に身体を冷やすな、誰か典厩様に……いやまず俺が行くか、いやでも」

 

そわそわし始める。というより、もう半分立ち上がっている。

 

官兵衛は、その様子を目の当たりにして、思わず口を開いた。

 

「拙者には構わず、どうぞ」

「悪い!」

 

それだけ言うと、信繁は本当にいなくなった。

 

官兵衛は、しばらく呆気に取られていた。

十兵衛も半兵衛も、慣れた顔で肩をすくめる。

慶次郎はにやにやしている。

助右衛門は無言だが、たぶん内心では「またか」と思っている。

伊勢守は、戻ったばかりだというのに妙に落ち着いていた。

 

官兵衛が、ようやく小さく言った。

 

「……あの御方、今のが素ですか」

 

十兵衛が答える。

 

「素です。戦も政も、あれだけ回しておいて。奥向きのことになると、あのように」

 

半兵衛が続けた。

 

「双子の時も、だいぶ大騒ぎでした」

 

官兵衛が目を上げる。

 

「双子」

 

伊勢守が笑う。

 

「治部殿は、双子を多くの幸せの腹、“多幸腹”と呼んでおられましたな」

 

官兵衛は、そこで少しだけ感心したように息を吐いた。

 

「多幸腹」

 

「ええまあ、そうなんです」と十兵衛。

「世の物言いを、そのまま通さぬ御方にございます」

 

官兵衛は、そこであらためて座敷の内を見回した。

 

「しかし、治部家は多士済々ですなぁ」

 

「それは、さきほども仰いましたな」と半兵衛。

 

「二度でも三度でも言いたくなります」

 

それからしばらくして、信繁は本当に戻ってきた。

 

だが、戻ってきた顔は、さっきより少しだけ落ち着いている。完全には落ち着いていないが、最低限、客の前へ戻れる程度には戻したらしい。

 

「悪い」

 

「いえ」

官兵衛は、そこは素直に一礼した。

「まずは、おめでとうございます」

 

「ありがとう」

「それで、落ち着かれましたか」

「半分ぐらい」

「半分」

「十分だろ」

 

官兵衛は、そこで少し笑った。

 

「ええ。先ほどよりは、だいぶ」

 

信繁は座り直すなり、さっき途切れた話をそのまま拾った。

 

「で、官兵衛殿」

「はい」

 

「もし当家に来たらだ」

官兵衛の目が、少しだけ細くなる。

「ここにいる滝川伊勢守、島左近、前田慶次郎、奥村助右衛門。こいつらを、縦横無尽に軍師として使えるぞ?」

 

官兵衛は、そこで初めて本当に黙った。今軍勢を率いて帰城した武辺者どもの顔つきを見回す。

 

信繁は、その顔を見て少しだけ笑う。効いている。

 

「軍師として、自分の策として、統制された倶利伽羅峠の戦いや、屋島の戦いをやってみたくないか?」

 

官兵衛の指先が、ほんのわずかに止まった。

 

伊勢守が眉を上げる。

左近は黙っている。

慶次郎は面白そうにしている。

助右衛門は、静かに官兵衛を見る。

 

官兵衛は、少しの間を置いてから、ようやく言った。

 

「……それは」

さらに間を置く。

「ずいぶんと、悪い誘いにございますな」

 

信繁がにやりとする。

 

「だろ?」

「例えば、伊勢守殿で正面を釣り、左近殿で相手の喉笛を裂き、慶次郎殿で敵を走らせ、助右衛門殿で崩れぬ軸を作る」

「うん」

「しかも、それを軍師の頭で統制してよい、と」

「そういうこと」

 

官兵衛は、そこでとうとう深く息を吐いた。

 

「……拙者、播磨へ帰ったあと、しばらく眠れぬやもしれませぬ」

 

慶次郎が笑う。

 

「落ちかけてるな」

 

「落ちかけておりますな」と半兵衛。

 

「まだです」と官兵衛は言ったが、その声にはもうだいぶ熱が混じっていた。

 

信繁は、そこであえて軽く言った。

 

「すぐ来いとは言わないよ。親父さんもあるし、播磨のしがらみもあるしな」

「はい」

「でも、今みたいな手札を見ちゃったら、たぶん一回は考えるだろ」

 

官兵衛は、そこは否定しなかった。

 

「……考えます」

「だろ?」

「ええ。かなり」

 

それで十分だった。

 

瀬田へ現れた黒田官兵衛は、城を見た。

洛中の変化を見た。

大坂の起ち上がりを見た。

そして最後に、治部家の人間と、その手札を見た。

 

それだけ見せれば、あとは向こうで勝手に火が点く。

 

信繁は、戻ってきた伊勢守たちと、目の前の官兵衛を交互に見ながら思った。

 

――こういう時だけは、ほんとにうち、強いな。

 

そして官兵衛は、そんな治部家の空気の中で、もう半ば落ちていた。

 

 

その日の夕刻、官兵衛はまだ瀬田に残っていた。

 

帰るには早い。

泊まるには腹の中が忙しすぎる。

そんな顔だった。

 

信繁は、それを見て取ったが、追い詰めるような真似はしなかった。こういう手合いは、押し込みすぎると逆に引く。見せるだけ見せて、あとは向こうに考えさせた方がよい。

 

だから、次に見せたのは戦ではなく、家の回り方だった。

 

蔵。

酒造方。

荷の出入り。

馬の飼葉の置き方。

帳面。

誰がどこまで口を出し、どこから先は任せているか。

 

官兵衛は、黙ってそれを見ていた。

 

やがて、ふと口を開く。

 

「治部大輔殿」

「何だ」

「こういうところまで、ご自身で見ておられるのですか」

 

「全部じゃない」

信繁は即座に答えた。

「全部見てたら死ぬ」

 

官兵衛は少しだけ笑う。

 

「それはそうでしょうな」

「だから、見るべきところだけ見る。あとは任せる」

「任せて回るのが、また難しい」

 

「難しいよ」

信繁は、そこは軽く言わなかった。

「人を役に就けるだけなら簡単だ。けど、役に就いたた人間が勝手に俺の顔色だけ見て動くようになると、家が腐る」

 

官兵衛の目が少し動く。

 

「……」

「だから、“ここまではお前”“ここから先は俺”をなるべく明瞭に切り分ける」

「なるほど」

「で、たまに顔を出して、“見てるぞ”だけ残す」

 

官兵衛は、そこで蔵の前に立ち止まり、荷札を見た。

 

「怖い家ですな」

「何が」

「戦だけでもなく、政だけでもなく、人の使い方まで一貫しておる」

 

信繁は肩をすくめた。

 

「でないと、いまの畿内は回らんよ」

 

そこへ、少し遅れて十兵衛が入ってきた。

 

「官兵衛殿」

「はい」

「夕餉の前に、もしよろしければ」

「何でしょう」

「大坂城の普請絵図も、お見せできますが」

 

官兵衛が、そこで本当に少しだけ迷った顔をした。

見たい。

だが、見ればもっと引かれる。

その逡巡が、分かりやすすぎるほど分かった。

 

信繁が笑う。

 

「ほら」

「何がです」

「もう来てよかったって顔してる」

「しておりませぬ」

「してる」

「半分ほどは」

「やっぱり」

 

結局、官兵衛は絵図も見た。

 

石山跡地に起ち始めた新城。

巨大な曲輪。

川筋を押さえる総構えの縄張り。

そして、高く立ち上がる予定の天守。

 

官兵衛は、しばらく黙っていたが、やがて小さく言った。

 

「……これは」

「うん」

「播磨の者が見れば、さぞ寝つきが悪くなりますな」

「だろ?」

「ええ」

「何で」

「“ああ、もう天下の形が変わり始めている”と嫌でも分かるからにございます」

 

信繁は、それを聞いて少しだけ笑った。

 

「そう思ったなら、来た甲斐はあったな」

 

官兵衛は、今度は否定しなかった。

 

夕餉の席は、昼よりさらに少人数だった。

 

官兵衛。

信繁。

十兵衛。

半兵衛。

それに伊勢守と左近だけ。

 

慶次郎と助右衛門も呼べなくはなかったが、あまりに札を並べすぎると、話が武辺へ寄りすぎる。今は、官兵衛の頭の中で“自分がここへ入ったらどう動かせるか”が育つ方が大事だった。

 

酒が一巡したところで、官兵衛が自分から問うた。

 

「もし、拙者がこちらへ寄ったとして」

 

信繁はすぐには答えず、杯を置いた。

 

「うん」

「何をさせたいのです」

 

十兵衛も半兵衛も、そこで少しだけ目を上げた。

とうとう来たか、という顔だった。

 

信繁は、しばらく官兵衛を見てから言った。

 

「最初から大きいことはさせない」

官兵衛が静かに聞く。

「まず、見てもらう」

 

「見る」

「播磨。摂津。西国。そっちの風を、こっちに通す」

「……」

「十兵衛は京と朝廷と文だ。半兵衛は戦の腹と、理屈だ。伊勢守と左近は現場を見る」

 

左近が静かに杯を置く。

それは否定でも肯定でもない。ただ、そう見られていることを受けているだけだった。

 

「官兵衛殿には」と信繁は続けた。

「“これが進んだら、次にどこが動くか”を見る目を使ってほしい」

 

官兵衛は、そこで少しだけ眉を上げた。

 

「買いかぶりでは」

 

「いや」

信繁は首を振る。

「俺は、目の前のものに手を入れるのは得意だ。上総介兄上は、大きい形を決めるのが得意だ」

 

「はい」

「でも、その間で、“この一手のあと、どこがどう嫌がるか”をずっと考え続ける役は、本家には勘十郎兄上がいらっしゃるが、こっちにも要る」

 

半兵衛が、そこで静かに言う。

 

「たしかに、そこは厚いほどよい」

 

十兵衛も頷いた。

 

「播磨の言質を知る者が入れば、見え方も変わりましょう」

 

官兵衛は、杯を持ったまま少し考えた。

 

「拙者を軍師として、ですか」

「そう」

「だが」

「何だ」

「拙者がこちらへ来れば、播磨のしがらみも一緒に来ますぞ」

 

信繁は、そこで少しだけ笑った。

 

「真っさらなやつなんか欲しくないよ」

 

官兵衛が顔を上げる。

 

「……ほう」

「しがらみがあるから見えることもある。親父さんも含めて、って言ったのはそういうことだ」

 

そこは官兵衛にも刺さったらしい。

ただ自分だけを抜くのでなく、家ごと見ている。

その言い方は、若い当人にとってかなり重い。

 

伊勢守が、酒を少し飲んでから言った。

 

「官兵衛殿」

「はい」

「我らは、治部殿に使われておるようで、実はそうでもない」

 

官兵衛が少しだけ笑う。

 

「それは、どういう」

「使いたいように使われるのではない。こっちも、使いたいように働く」

 

左近が短く言う。

 

「でなければ、続かぬ」

 

半兵衛が補う。

 

「要は、治部様は“駒”を欲しておるのではないのです」

「では」

「自分で勝手に動いても、最後は繋がる者を欲しておられる」

 

官兵衛は、その言葉にしばらく黙った。

 

それは、たしかに魅力的だった。

ただ命じられるだけの軍師ではなく、自分の頭で先を見て、その先読みごと家の中へ差し込める立場。

しかも、使える札は伊勢守、左近、慶次郎、助右衛門のような面倒で強い連中だ。

 

「……悪い誘いだ」と官兵衛は、もう一度言った。

 

信繁がにやりとする。

 

「二回言ったな」

「二回言いたくなるほど、悪い」

「じゃあ、だいぶ効いてる」

 

官兵衛は、今度は否定しなかった。

 

しばらくして席が少し緩んだ頃、十兵衛がふと尋ねた。

 

「官兵衛殿は、父上へ何と申されます」

 

官兵衛は、そこでようやく現実へ戻る顔になった。

 

「まずは、見たままを」

「と、申されますと」

「畿内はもはや、どこが主か分からぬ乱れた場ではない、と」

 

信繁は静かに聞く。

 

「将軍家と朝廷の理が動き、京は静まり、大坂は起ち、瀬田は後ろを支えている」

「うん」

「そこへ、治部家のような罠がある」

 

少しの間。

 

「それを、父にはそのまま申します」

「で、親父さんは何て言うと思う」

 

官兵衛は、少しだけ苦笑した。

 

「たぶん、“面倒なところへ目をつけたな”と」

「当たりだな」

「ええ」

 

「でも」と信繁。

「面倒って、大体当たりだろ」

 

官兵衛は、その返しにだけ、はっきり笑った。

 

「それは否定できませぬ」

 

夜は更けていく。

 

官兵衛はまだ、この場で「参る」とは言わない。

だが、もう完全に他人の顔でもなかった。

 

瀬田を見た。

大坂を見た。

洛中の静まり方を見た。

治部家の札を見た。

そして、自分がそこへ入った時の座まで、半ば見せられた。

 

それで落ちない方が難しい。

 

信繁は、官兵衛の杯が少しずつ空いていくのを見ながら思った。

 

――よし。あと少しだな。

 

 

翌日、姫路へ戻る道すがら、黒田官兵衛はあまり喋らなかった。

 

供の者から見れば、ただ物静かなだけに映ったかもしれない。だが実際には違う。頭の中で、見てきたものがまだ片付いていなかったのだ。

 

大坂。

洛中。

瀬田。

石山を退かせたあとの理の通し方。

将軍家と朝廷の気配。

そして、治部家という、どう考えても一つの家としては人材が厚すぎる集団。

 

あれは、ただ強いのではない。

強い者が偶然揃ったのでもない。

強い者、癖の強い者、理の強い者、手を汚せる者、その全部を一つの流れへ押し込んで、それでも家が割れていない。

 

官兵衛は、姫路へ近づくほど、かえって口数が減った。

 

そして帰宅してすぐ、父、黒田兵庫助職隆の前へ出た。

 

兵庫助は、息子の顔を見た瞬間に、まず一つ察した。

 

――これは、止まらぬな。

 

まだ何も聞いていない。

だが、長年息子を見てきた父には分かる。

官兵衛が何かを面白がった時の目。

面白がっただけではない。そこへ自分の居場所を見つけてしまった時の目。

 

「戻ったか」

「はい」

 

官兵衛は、いつものように礼を取った。

だが、その声の奥にある熱まで隠し切れてはいない。

 

兵庫助は、静かに座を示した。

 

「話せ」

 

官兵衛は、少しだけ息を整えてから口を開いた。

 

「まず申し上げるべきは」

「うむ」

「畿内は、もはや“どこが主か分からぬ乱れた場”ではございませぬ」

 

兵庫助の目が少し動く。

 

「ほう」

「将軍家と朝廷の理が動いております。京は静まり、大坂は起ち始め、瀬田が後ろを支えております」

 

兵庫助は黙って聞く。

 

官兵衛は続けた。

 

「織田上総介殿が強いのは、今さら申すまでもございませぬ」

「うむ」

「ですが、恐ろしいのはそこだけではありませぬ」

「治部大輔殿か」

 

兵庫助は、先にその名を出した。

 

官兵衛は、ほんのわずかに目を見開いた。

 

「父上も、そこを」

「お前の顔を見れば分かる」

 

短い返しだったが、重かった。

 

兵庫助は続ける。

 

「お前が何かを見て帰ってきた時の顔だ。しかも今回は、ただ感心しただけではない。“あそこへ入り込めば、自分はどう働けるか”まで考えておる顔だ」

 

官兵衛は、一瞬だけ黙った。

それから、少し苦く笑った。

 

「敵いませぬな」

 

「父だからな」

兵庫助の声は静かだった。

「で、実際どうなのだ」

 

官兵衛は、そこでようやく本気で語り始めた。

 

「治部大輔殿は、戦だけの御方ではありませぬ」

「ほう」

「石山を焼き潰すのでなく、退かせ、本願寺を大谷へ戻し、大坂を起こす」

「……」

「しかも、その理が朝廷と将軍家に通っている。三好三人衆を切って宗家を残す手つきも、ただの武辺ではない」

 

兵庫助は、そこで少しだけ目を伏せた。

 

「話には聞いていたが」

 

「実際に見ると、もっと厄介です」

官兵衛は、今度ははっきりと言った。

「その治部家そのものが、厄介にございます」

 

「何がおる」

「滝川伊勢守。島左近。前田慶次郎。奥村助右衛門。疋田豊五郎。日置大膳亮。柳生の剣士ども。明智十兵衛。竹中半兵衛。松永弾正までおります」

 

兵庫助が、思わず小さく息を漏らした。

 

「……盛りすぎではないのか」

「盛っておりませぬ」

「本当にか」

 

「本当に」

そこへ官兵衛は、少しだけ笑って付け足した。

「しかも、戻ったばかりの五千が、ほとんど乱れずに帰ってきておりました」

 

兵庫助の顔が、今度は本当に少し変わった。

 

「五千」

「はい」

「それは、厄介だな」

「ええ。厄介です」

 

少しの沈黙。

 

兵庫助は、そこで静かに問うた。

 

「で」

「はい」

「誘われたか」

 

官兵衛は、そこには少しだけ間を置いた。

 

「……はい」

「どのように」

「親父さんも含めて、一家で来いと」

 

兵庫助は、その返しに目を閉じた。

 

やはり。

そう来るか。

 

官兵衛のような若者一人の才にだけ目をつけるなら、もっと軽いやり方もある。だが、治部大輔は最初から“親父さんも含めて”と来た。つまり、官兵衛個人ではなく、黒田家ごと見ている。

 

そこが、嬉しくもあり、怖くもあった。

 

兵庫助は、ゆっくりと言った。

 

「お前は、どう思った」

 

官兵衛は、その問いに対して、珍しく少し長く黙った。

 

「……行きたいと思いました」

 

兵庫助は、やはりな、と思った。

 

思ったが、それで終わりではない。

父としては、そこから先を問わねばならない。

 

「なぜだ」

 

官兵衛は、顔を上げる。

 

「戦があるからではありませぬ」

「うむ」

 

「戦のあとがある」

兵庫助の目が少し動く。

「都の理があり、朝廷があり、将軍家があり、寺社の処し方があり、城を起こし、人を並べ、使い、家を残す」

 

「……」

「しかも、あの治部大輔殿は、人材を見せたうえで“お前ならどう使う”と誘ってくる」

 

兵庫助は、そこでほんの少しだけ苦く笑った。

 

「悪い誘いだな」

「まことに」

「で、落ちかけている」

 

官兵衛は、正直に頷いた。

 

「かなり」

 

兵庫助は、そこで深く息を吐いた。

 

父としては、止めたい。

播磨には播磨のしがらみがある。

小寺、赤松、別所、浦上。

そう簡単に姫路を引き払って、畿内の只中へ入っていけるものではない。

 

だが、同時に、自分も分かるのだ。

 

そんな面倒を押してでも、行く価値のある場が世にはある。

そして今、畿内はたぶんそういう場なのだろう。

 

「父上」と官兵衛が言う。

 

「何だ」

「止められますか」

 

兵庫助は、その問いにすぐには答えなかった。

 

息子の顔を見る。

若い。

だが、もう子ではない。

しかもこの顔は、単に憧れている顔でも、浮ついている顔でもない。自分の器量がどこで使えるかを、本気で見てしまった男の顔だ。

 

兵庫助は、ゆっくり首を振った。

 

「……無理だな」

 

官兵衛の目が、わずかに揺れる。

 

「はい」

「お前のその顔は、もう無理だ」

「……申し訳ございませぬ」

 

「謝るな」

兵庫助は、そこで初めて少しだけ笑った。

「ただな」

 

「はい」

「止められぬと思うているのは、お前だけではない」

 

官兵衛が顔を上げる。

 

兵庫助は、静かに続けた。

 

「儂も行きたい」

 

その一言で、今度は官兵衛の方が黙った。

 

兵庫助は、自分でも苦笑した。

 

「姫路の地で一生を終える覚悟もしておった。だが、お前の話を聞き、顔を見れば、分かる」

「……」

「いま畿内で起きておるのは、ただの勢力争いではない」

「はい」

 

「天下の形そのものが、組み替わっておる」

そこまで言ってから、兵庫助は少しだけ首を振った。

「いや、言い過ぎだな」

 

官兵衛は、その言い直しにだけ少し笑った。

 

兵庫助は続ける。

 

「少なくとも、今の播磨でただ座して見ておるだけでは、あとで必ず悔やむ」

「父上……」

 

「だから、考える」

その声はもう、黒田家の主のものだった。

「すぐに飛びつくのではない。だが、どう寄るか。何を残し、何を持っていくか。どの筋で動けば家を割らずに済むか。そこから詰める」

 

官兵衛は、深く頭を下げた。

 

「はい」

「治部大輔殿は、親父さんも含めて来いと申したのだな」

「はい」

 

「ならば」

兵庫助は、そこで目を細めた。

「向こうも、家で来るものと見ておる」

 

「そのように思われます」

「よい」

 

それで、話は決まったわけではない。

だが、父子の腹は同じところへ向いた。

 

官兵衛を止められない。

しかも、自分もまた惹かれている。

 

その二つが交錯した結果、兵庫助はようやく認めたのだ。

黒田家にとって、次の場所は、たぶんもう播磨の内だけには収まらぬのだと。

 

夜が更ける頃、官兵衛は一人で庭へ出た。

 

姫路の夜は、瀬田とも京とも違う。

だがその静けさの中で、官兵衛の胸の内には、まだあの治部家の空気が残っていた。

 

伊勢守。

左近。

慶次郎。

助右衛門。

十兵衛。

半兵衛。

そして、妻の懐妊の知らせに、そわそわしながら奥へ消えた治部大輔。

 

「……悪い誘いだ」

 

小さく、もう一度だけ呟く。

 

だが、その悪さに抗えぬことも、もう本人が一番よく分かっていた。

 

 

真理姫の懐妊が知れた、その余韻もまだ落ちきらぬうちだった。

 

今度は、雪姫の懐妊が判明した。

 

瀬田城の奥で、その報せを受けた治部大輔は、最初こそ「えっ」と間の抜けた声を出したが、次の瞬間には、また前と同じ顔になった。つまり、嬉しい、ありがたい、めでたい、その全部の上に、「いや待て、また俺が右往左往する番か」という実務担当の顔である。

 

「冷やすな」

「はい」

「重い物持たせるな」

「はい」

「体がだるいならすぐ休ませろ」

「はい」

「具教卿に文」

「またでございますか」と鶴姫。

 

そこへさらに追い打ちのように、お市にも懐妊の兆しが見え、義姫と鶴姫にも同じ報が入った。

 

さすがに、その時ばかりは城中の空気が妙な方向へまとまった。

 

「……やはり名人芸では?」

と、誰が最初に言ったのかは分からない。

 

だが、一人がそう言うと、あとはもう駄目だった。

 

「名人芸ですな」

「うむ、これは名人芸にございます」

「治部様、そちらの才までござったか」

「おめでとうございます、名人」

「やめろ!」

 

治部大輔が真っ赤になって否定しても、もう遅い。

 

お市は、呆れたような、だがどこか楽しそうな顔で言う。

 

「何を今さら照れておるのですか」

 

雪姫は、頬を染めながらも目を伏せる。

 

「……その、めでたきことではございますので」

 

真理姫は、前回より少し余裕のある微笑みで、静かに言う。

 

「治部殿が、いちばん慌てておられますね」

 

義姫はすました顔でお腹を撫でる。

 

「治部殿のおかげで父や兄に吉報を送れます」

 

鶴姫は、そこへ容赦なく差した。

 

「治部殿は、夜の方でも働きすぎなのでは」

「やめてくれ!」

 

城中は笑いに包まれた。

 

だが、笑ってばかりもいられない。

祝いが重なれば、人も動く。物も要る。奥向きの手当ても増える。治部大輔は嬉しさ半分、胃痛半分のような顔で、帳面と文と侍女の動きを一つずつ見ていた。

 

そんな折、黒田官兵衛と、その父兵庫助職隆ら黒田一家が瀬田を訪れた。

 

そして、ちょうどその頃、城では別の祝い事も進んでいた。

奥村助右衛門と、加藤家の安との祝言である。

 

小田井の馬を見に来て。桶狭間で共に戦って以来、命を預け合ってきた家臣。

その助右衛門の祝言だ。しかも、今の治部家がようやくここまで来たという実感が、こういう形で目の前に出ると、治部大輔には少々効きすぎた。

 

祝言の席が整う。

助右衛門は、普段通りの無骨な顔をしているつもりだが、さすがにいつもより少しぎこちない。

安も、凛としつつも緊張している。

周囲の家臣団は、祝いの顔をしながら、どこか「さて、治部様はどうなるか」と構えている顔だ。

 

そして案の定だった。

 

誓いの盃が交わされ、座が「めでたし」で一つまとまりかけた、その時。

治部大輔が、突然ぐっと顔をしかめた。

 

十兵衛が嫌な予感のする顔になる。

半兵衛は、もう半分諦めている。

慶次郎はにやにやしている。

伊勢守は、声を殺して笑い始めている。

 

「助右衛門……」

 

治部大輔の声が、妙に震えた。

 

助右衛門が、ぴくりと眉を動かす。

 

「何です」

 

「お前……お前が、祝言か……」

そこまで言ったところで、もう駄目だった。

「よかったなああああ!」

 

号泣である。

 

座が一瞬止まった。

次の瞬間、爆発した。

 

慶次郎が腹を抱える。

伊勢守は膝を叩く。

左近ですら、口元を隠して横を向く。

十兵衛は目を伏せて肩を揺らし、半兵衛は「やはり」とでも言いたげに深く息を吐く。

お市は呆れながら笑い、真理姫は口元へ袖を当て、雪姫は困りつつ微笑み、義姫は夫の変わりように目を白黒し、鶴姫は完全に面白がっていた。

 

「桶狭間から、ここまで……うぅ……」

 

「治部様」と助右衛門。

 

「何だ」

「泣きすぎです」

「だって、お前が……」

「分かりますが、泣きすぎです」

 

安が困ったように助右衛門を見る。

助右衛門は、いつもの仏頂面のまま、しかし完全に処理に困っていた。

 

「お、おめでとうございます」と黒田職隆が言う。

 

「ありがとうございます!」と治部大輔が号泣したまま返す。

 

官兵衛は、その横で本気で意味が分からなくなっていた。

 

「……あの」

 

「何だ」と信繁。

 

「これは」

「祝言だ」

「それは分かります」

「めでたいだろ」

「めでたいですが、なぜ治部大輔殿がそこまで」

 

そこへ慶次郎が、笑いを堪えきれぬ声で入る。

 

「うちの殿は、こういうとこあるんだよ」

 

伊勢守も続く。

 

「戦で人が死ぬのは慣れても、家臣の祝い事には弱い」

 

十兵衛が静かに補足する。

 

「特に、古くからの者どもには」

 

兵庫助職隆は、そこでようやく少し納得したように頷いた。

 

「なるほど」

 

官兵衛は、なお少し呆然としていたが、やがてじわじわと笑いがこみ上げてきたらしい。

 

「……これは」

「何だよ」

 

「いや」

官兵衛は、とうとう笑った。

「祝い事だと巻き込まれる家、というのは、こういうものかと」

 

「そういうものだ」と慶次郎。

 

「黒田殿も飲め飲め!」

「え、いや拙者は」

「おめでたい席だぞ!」

「そうですが」

「めでたい!」

 

そうして、黒田一家まで半ば強引に祝言の輪へ巻き込まれた。

 

職隆は、最初こそ慎重だったが、やがて「これは断る方が野暮だな」と察したらしい。官兵衛もまた、目の前の治部家の空気を見て、半分呆れ、半分感心しながら盃を取った。

 

助右衛門は最後まで困った顔だった。

 

「治部様」

「何だ」

「まだ泣いておられるのですか」

「泣く」

「そうですか」

「お前、よかったなあ」

「ありがとうございます」

「幸せになれよ」

「努力します」

「うわあああああ」

「またですか」

 

座が、また笑いに包まれた。

 

その年――永禄七年は、そうやって過ぎていった。

 

畿内は静まりつつある。

本願寺は大谷へ戻り、大坂城は建ち始め、浅井の丹波丹後遠征は仕上がり、黒田一家は瀬田城へ現れた。

一方で奥向きでは、真理姫、雪姫、お市、義姫と鶴姫に懐妊が重なり、助右衛門の祝言まで執り行われる。

 

戦もある。

政もある。

人も死ぬ。

だが、それでも家は、こういう祝い事を重ねながら大きくなっていく。

 

治部大輔が泣き、家臣団が笑い、妻たちが呆れながら見守り、黒田一家まで巻き込まれる。

 

永禄七年は、そういう年だった。

 

 

 

 

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