織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
親盛が畿内を後にしてから、俺はしばらく地図の前に立っていた。
土佐。
伊予。
四国の特異点は、ひとまず凌いだ。
次に見るべきは、やはり足元だった。
畿内静謐。
三好三人衆を討ち、石山本願寺を退去させ、大谷本願寺の再建と大坂城の築城が始まった。都の喉元はだいぶ整ってきた。だが、だからこそ暗部も残る。
山城北部。
丹波。
丹後。
幕府の威令が届きにくく、旧来の反幕府勢力や半ば独立した国衆が、まだ「様子見」で生き残っている地域だ。
瀬田城の評定で、俺はその地図を指でなぞった。
「次はここだ」
十兵衛が目を上げる。
「丹波、丹後にございますか」
「うん。浅井家にやってもらう」
半兵衛が、すぐに意図を読んだ。
「浅井家の外征として動かし、織田家は援軍を出す、と」
「そう」
俺は頷いた。
「北近江の浅井が、丹波丹後へ手を伸ばすのは地理的にも不自然じゃない。しかも、こっちが全部直轄で食っていく形に見えない」
弾正が低く笑う。
「まことに、食い方がいやらしい」
「褒めてる?」
「ええ」
「ならいい」
鶴姫は、そこで静かに頷いた。
「浅井にとっても、六角後の立場を固めるにはよい働きにございます」
「そういうこと」
俺は、次に人選を告げた。
「当家が出す援軍は五千」
伊勢守が、少しだけ口元を上げる。
「出番ですな」
「滝川伊勢守」
「は」
「島左近」
左近が静かに頭を下げる。
「前田慶次郎」
「おう」
「奥村助右衛門」
「うむ」
「この四人を軸に五千」
半兵衛が問う。
「目的は、浅井軍の補強だけにございますか」
「いや」
俺の声が少し締まる。
「山城北部の反幕府勢力を駆逐しながら進む」
場の空気が変わった。
ただの援軍じゃない。
浅井家の丹波丹後攻略に名を借りつつ、同時に山城北部の整理まで一気にやる。つまりこれは、北近江から山城北部、さらに丹波丹後へ抜ける一本の“幕府・織田・浅井ライン”を作る戦だ。
十兵衛が言う。
「山城北部は、まだ三好残党、寺社寄りの者、国衆の独立志向、いずれも混じっております」
「だからこそ、今のうちだ」
「石山と三人衆が片付いた直後に?」
「直後だからだよ」
俺は地図を叩く。
「今なら、“次はどこへ手を入れるのか”皆が様子見してる。そこへ一気に我らで線を通す」
伊勢守が、楽しそうに言う。
「敵の腰が定まらぬうちに、ですか」
「そう」
「好きな手です」
「知ってる」
左近は、地図の北側を見ていた。
「五千で足りまするか」
「足りさせる」
俺は即答した。
「正面から全部を潰す気はない。浅井本軍が前へ出る。こっちは援軍でありながら、実際には山城北部の掃除役だ」
助右衛門が短く言う。
「細かく噛み砕く」
「そう」
慶次郎が笑う。
「派手に攻めるってより、嫌がらせしながら進む感じか」
「お前が言うと軽いな」
「でも間違ってないだろ?」
「間違ってない」
半兵衛が整理するように言った。
「つまり、戦の目標は三つ」
皆がそちらを見る。
「一、浅井家の丹波丹後進出を助けること」
「うむ」
「二、山城北部の反幕府勢力を残さぬこと」
「うむ」
「三、将軍家の理が届く道を北へ伸ばすこと」
「それだ」
俺は頷いた。
「都を静めるってのは、京の中を掃除するだけじゃ足りない。京へ入る道、京へかかる圧、それごと消し去らないと意味がない」
鶴姫が、そこで静かに言う。
「浅井家にとっても、北近江の家から一段上がる働きになります」
「そう」
「織田の家臣としてでなく、“幕府を支える一門格”としての実績になる」
伊勢守が、少しだけ感心したように言う。
「浅井に恩を売りつつ、立場も上げるわけですな」
「まあ、身内みたいなもんだしな」
「身内、で済む話ではありませんが」
弾正がそこへ低く口を挟む。
「山城北部で反幕府勢力を駆逐するとなれば、寺社との線引きも要りますぞ」
「そこは大事だな」
「すべてを反幕府で一括りにすれば、余計な敵を増やします」
十兵衛が頷いた。
「ゆえに、最初の触れが要りましょう」
「どんな」
と俺は聞いた。
十兵衛は、すでに文案を考えている顔だった。
「“将軍家の理に従う者は安堵、逆らい兵を集める者は討つ”」
「いいな」
「寺社も、幕府の理に従う限りは手をかけぬ」
「そこも入れよう」
半兵衛が、さらに実務へ落とす。
「伊勢守隊は先鋒。左近隊は詰めと要点制圧。慶次郎と助右衛門は、それぞれ敵が崩れやすいところと、崩れぬところへ分けた方がよろしいかと」
慶次郎が口を尖らせる。
「俺、また“崩れやすいところ”担当?」
「お前は見せ場を作るのが上手い」
「褒めてる?」
「褒めている」
助右衛門が短く言った。
「俺は崩れぬところでよい」
「お前はそういう役が似合う」
左近は、そこで静かに言った。
「浅井本軍が前へ立つなら、我らは“援軍に見えて、実は掃除をする手”になる」
「そうだ」
「ならば、速さだな」
「うん?」
「長く留まるな。一つ潰したら、すぐ次へ。反幕府勢力に“構える暇”を与えぬ方がよい」
俺は頷いた。
「左近の言う通りだ」
伊勢守が笑う。
「五千で足りさせる、というのはそういうことですな」
「正面決戦の五千じゃない。走り回って、喉を掻き切る五千だ」
その言い方に、場の武辺組はだいぶ納得した顔になった。
そうして段取りが決まっていく。
浅井家の丹波丹後攻略。
治部軍から援軍五千。
滝川伊勢守、島左近、前田慶次郎、奥村助右衛門を中核。
山城北部の反幕府勢力を駆逐しながら進む。
最後に、俺は言った。
「これは、ただの領取りじゃない」
皆の目が集まる。
「畿内静謐の続きだ」
十兵衛が静かに頷く。
「京の外側を静める」
「そう」
鶴姫が言う。
「石山が片付き、大坂城が建ち始めた今、次は北の道ですね」
「うん。都に泥を寄せないためには、泥が流れ込む筋そのものを変えないといけない」
半兵衛が最後にまとめた。
「では、浅井家へは“援軍”として出す。だが、内実は山城北部整理を含む幕府秩序回復戦」
「それだ」
「承知しました」
評定が終わったあと、伊勢守は左近と並んで外へ出た。
「左近殿」
「何だ」
「どうやら、また面白い戦になりそうですな」
左近は、少しだけ空を見てから答えた。
「面白い戦、というより」
「うん?」
「ようやく、都の外側を刈る段に入った」
伊勢守が笑う。
「その言い方、嫌いじゃありませぬ」
慶次郎が後ろから入ってくる。
「で、俺はどっちだ? やっぱり崩れやすい方か?」
助右衛門も続く。
「お前は大体そうだ」
「ちぇっ」
「ちぇっ、ではない」
と左近。
「似合っておる」
「左近殿に言われると、ちょっと嬉しいな」
「褒めてはおらぬ」
「でも否定もしてねえ」
四人が揃うと、空気が少し動く。
治部軍の五千は、ただの数じゃない。
この四人がいる時点で、かなり嫌な五千になる。
俺は、その背を見ながら思った。
大坂城が建ち始めた。
石山は片付いた。
次は北だ。
畿内静謐は、まだ終わっていない。
だが、ようやく「終わらせに行く」段に入ったのだ。
♢
伊勢守からの書状が届いたのは、昼の評定へ入る少し前だった。
瀬田城の一室。
机の上には、丹波丹後方面の略図と、山城北部の村々を書き込んだ紙が広げられている。俺は封を切るなり、まず差出人の癖のある筆跡を見て、小さく息を吐いた。
「来たか」
十兵衛と半兵衛は、すでにその場にいた。
鶴姫も少し離れて控えている。
「読むぞ」
俺は書状を広げた。
「――丹波、丹後の仕置き、大方相済み候。波多野氏、赤井氏、一色氏といった旧名家は、国人どもがそれぞれ討伐、あるいは降伏し……」
十兵衛が、静かに目を上げた。
「順調ですな」
「うん」
俺はさらに読み進める。
「――山城北部の反幕府勢力もほぼ掃討相成り、治部軍は大きな損耗なく平定を果たし、浅井本軍と無事合流」
半兵衛が小さく頷く。
「上出来です」
「だな」
俺は書状を畳みかけてから、机の上へ置いた。
「伊勢守の現場指揮と、左近、慶次郎、助右衛門の噛み合わせが、やっぱり効いたな」
「はい」と十兵衛。
「留まらずに刻んで進んだのでしょう」
「うん。山城北部で足を止めてたら、こうはならない」
鶴姫も静かに言った。
「浅井本軍にとっても、これでだいぶ戦いやすくなったはずです」
「そうだな」
そこで、俺は少しだけ考える顔になった。
十兵衛がすぐに察する。
「まだ何かございますか」
「ある」
俺は、伊勢守の書状の横へ、別の紙を引き寄せた。
「播磨の姫路に、黒田官兵衛という男がいるんだが」
鶴姫が、ぴくっと、しかし表情は変えずに反応した。
その小さな気配を、俺は見逃さなかった。
「鶴姫も引っかかったか」
「……いえ」
「いや、今ぴくっとしただろ」
「気のせいかと」
半兵衛が、そこで静かに言う。
「黒田官兵衛」
十兵衛も名を反復した。
「播磨の国衆筋にございますな」
「うん。どうにか引っ張って来れないかな」
「本人を、ですか」と十兵衛。
「親父さんも含めてなんだけど」
そこまで言ってから、俺は指で机を軽く叩いた。
「伊勢守の現場指揮と、十兵衛の文と、半兵衛の理屈、そのどれとも違う系統の頭なんだよ、あの男は」
半兵衛が、少しだけ目を細めた。
「どう違うと」
「たぶん、“後でどう転ぶか”を先に読む」
「ほう」
「目の前の勝ち負けだけじゃなく、戦のあと、城のあと、人のあとを読むのが上手い」
十兵衛が、少し考える。
「それはまた、治部様のような」
「いや、違う違う。俺はもっと雑だ」
鶴姫が、そこで静かに差した。
「そこは否定なさらぬのですね」
「否定しきれないからな」
少しだけ笑いが落ちる。
だが、話の芯は重い。
「播磨は」と十兵衛。
「今すぐ織田へべったり寄る土地ではございませぬ。赤松の名もあり、別所や小寺、浦上、いろいろ古い家が絡みます」
「だから難しいんだよ」
「黒田家だけを引き抜くような形に見えれば、周辺が警戒しますな」と半兵衛。
「うん。だから露骨に“来い”じゃ駄目だ」
鶴姫が、そこで静かに口を開いた。
「その黒田官兵衛という方は、まだ若いのでしょうか」
「若い」
「では、本人より先に父上の方を見るべきかと」
俺は頷いた。
「それなんだよな。親父さんごと押さえないと、後で家中が割れる」
十兵衛が整理するように言う。
「つまり、官兵衛個人の才を買うのではなく、黒田家そのものを“織田と話の通じる家”へ寄せたい」
「そういうこと」
「播磨で使う、というより、播磨に今のうちに置いておく釘ですか」
「うん。しかもただの武辺じゃなく、理で動く釘」
半兵衛が、そこでわずかに笑った。
「治部様は、時々こういう“まだこちらのものではないが、後で絶対欲しくなる人材”を妙によく見つけますな」
「欲しいだろ?」
「欲しいです」
「だろ」
「ですが」
半兵衛は、すぐに現実へ戻した。
「今の播磨へ、いきなり強い手を打つのは危うい」
「うん」
「ならば、最初は“見に来させる”ところからでしょう」
その一言に、俺の目が少し動いた。
「……それ、いいな」
十兵衛も頷く。
「官兵衛殿にとって、今の畿内は変化が大きすぎます。三好三人衆討死、本願寺退去、大坂城普請開始、朝廷・幕府との接続。見に来る理由はいくらでも作れます」
俺は、そこで書状をもう一度見た。
「伊勢守の勝ちで、山城北部の道はだいぶ風通しも良くなった」
「はい」
「石山も片付いた」
「はい」
「だったら、今の畿内を見たい播磨者は、絶対いる」
鶴姫が静かに言う。
「官兵衛殿のような方であれば、なおさら」
俺は、そこで改めて鶴姫を見る。
「やっぱり、気になってるだろ」
鶴姫は表情を崩さない。
「特には」
「絶対あるだろ」
「少しだけ」
「あるじゃん」
「ですが、“使える方かもしれない”以上のことは、まだ」
そこは慎重だった。
そしてその慎重さが、今は正しい。
十兵衛が言う。
「では、どう呼びます」
「名目は」
俺はそう言ってから続けた。
「大坂の様子、洛中静謐の現状、瀬田城と新秩序の見学」
「ずいぶん見せますな」
「見せるよ。見せて、“これはもう播磨の片隅で様子を見てるだけじゃ駄目だ”って思わせたい」
半兵衛が、そこで少しだけ嫌な顔になる。
「治部様」
「何だ」
「それをやると、こちらの手の内もかなり見せます」
「全部じゃない」
「ですが、かなりです」
「それでも来る価値があると思わせる方が先だろ」
十兵衛は、少し考えてから頷いた。
「一理ございます」
「だろ」
「ただし、最初から“引っ張る”顔は出さぬ方がよろしい」
「うん。そこは分かってる」
「“播磨の賢そうな若者を、今の畿内を見せるために呼ぶ”」
「そのくらいだな」
「そして来たら、見せる」
「そう」
鶴姫が、そこでほんの少しだけ柔らかく言った。
「治部殿は、だいぶ楽しそうですね」
「だって楽しみだろ。こういうの」
「ええ、まあ」
「黒田官兵衛が、今の大坂見て、洛中見て、瀬田城見て、どういう顔するか」
半兵衛がぼそりと。
「たぶん、治部様も似たような顔をされるかと」
「何だそれ」
「気に入るものを見つけた時の顔です」
「……否定できない」
十兵衛が、そこで紙を引き寄せた。
「では、文面を整えましょう」
「頼む」
「播磨に直接“来い”ではなく、小寺筋か、あるいは黒田家へ無理なく届く形に」
「うん」
「治部軍の山城北部平定、浅井の丹波丹後進出、大坂城普請、洛中静謐。そのあたりを“今の畿内を見ておく価値あり”と感じるように」
「それでいこう」
俺は、伊勢守の書状をもう一度見た。
北はだいぶ通った。
だったら次に必要なのは、ただ領地を増やすことじゃない。
次の段階へ行く時に使える頭数を、少しずつ寄せてくることだ。
「よし」
俺は言った。
「伊勢守の吉報は吉報として本軍へ返す」
「はい」と十兵衛。
「そのうえで、黒田官兵衛に文を飛ばす準備に入る」
「承知しました」
鶴姫は、そこで最後に小さく言った。
「来られるとよいですね」
俺は、それに少しだけ笑った。
「来ると思うよ」
「どうしてそう思われるのです」
「頭の回るやつってのは、こういう時に“見ておかないと後で困る”って考えるから」
半兵衛が静かに頷く。
「それは、たしかに」
そこで、少し遅れて弾正が入ってきた。
「遅くなり申した」
「ちょうどよかった」と俺は言った。
「何か進みましたか?」
「伊勢守から吉報。山城北部はほぼ掃除済み、浅井本軍と合流」
弾正が低く笑う。
「それはようございました」
「で、次は播磨だ」
「ほう」
「黒田官兵衛を呼んでみようと思う」
弾正の目が、そこでわずかに細くなる。
「姫路の黒田」
「知ってるか」
「名ぐらいは」
「頭、回りそうだろ」
「治部殿がそう申されるなら、そうなのでしょうな」
「他人事だな」
「播磨は、また別の癖がございますゆえ」
そこはさすがだった。
三好や畿内の匂いを知る男にとって、播磨はまた違う面倒くささのある土地だ。
十兵衛が弾正へ紙を回す。
「最初は見に来させるところから、という話にまとまりました」
弾正は一読して頷いた。
「よろしいかと」
「そうか?」
「はい。いきなり引くと、警戒される。だが、今の畿内を見せれば、向こうで勝手に考え始めましょう」
俺は、そこで少しだけ笑った。
「やっぱりそうなるよな」
「治部殿は、“見せた後に相手が勝手に寄って来る”形がお好きですな」
「楽だろ」
「後で面倒も増えますが」
「それはそれ」
弾正が、そこで小さく肩を揺らした。
「まことに」
こうして、伊勢守の戦勝報告は、次の一手に変わった。
丹波丹後は大詰。
山城北部は平定。
そしてその報せを受けた瀬田では、もう次の人材を拾いに行く話が始まっていた。
♢
伊勢守の率いる五千が瀬田へ戻ったのと、ほとんど入れ違いだった。
城門のあたりは、しばらく妙に慌ただしい。丹波丹後・山城北部の仕置きを終えて帰ってきた兵たちが荷を下ろし、馬を引き、報告の列ができる。その横を、播磨から来た一行が静かに通される。
黒田官兵衛孝高。
若い。だが、最初にこちらを見る目が、もう若造のそれではない。城の石垣、瀬田川筋、荷の流れ、人の歩かせ方、門の番の置き方。見ているところがいちいち細かい。だが、その官兵衛が、城へ入ってほどなく、さすがに一度だけ顔を引かせた。
疋田豊五郎がいた。
日置大膳亮がいた。
柳生の剣士たちが、まるで当たり前のように控えていた。
そこへ、戻ったばかりの伊勢守、左近、慶次郎、助右衛門まで揃っている。
官兵衛は、笑いそうにも困りそうにも見える顔で、信繁へ言った。
「……治部大輔殿」
「何だ」
「これは、少々」
「少々?」
「多士済々にも程がございませぬか」
信繁は、けろっとしている。
「そうか?」
「播磨でこれだけ揃っておれば、まず誰かが裏切るか、潰し合うか、あるいは主君が疑って崩れます」
左近が静かに言う。
「しないな」
慶次郎が笑う。
「しねえな」
助右衛門が短く言う。
「潰す相手は外におる」
それを聞いて、官兵衛はとうとう少しだけ吹き出した。
「なるほど、そういう家ですか」
「そういう家だよ」と信繁。
「で、官兵衛殿」
「はい」
「親父さんも含めて、一家でうちに来なよ」
官兵衛は、さすがに目をぱちりとさせた。
「いきなりにございますな」
「いきなりじゃないだろ。わざわざ畿内見に来たんだ。見るだけ見て帰るのもつまらん」
「播磨には播磨の付き合いが」
「それは分かってる」
信繁は笑う。
「だから“意訳するとそういう意味だ”くらいに聞いとけ」
官兵衛は、そこで少しだけ首を傾げた。
「治部大輔殿は、いつもそのように人を引かれるので?」
「だいたいは」
十兵衛が横で静かに言う。
「否定はできませぬ」
半兵衛も続ける。
「だいたい、そんな感じです」
官兵衛は、そこで改めて周囲を見た。
伊勢守。
左近。
慶次郎。
助右衛門。
さらに疋田豊五郎、日置大膳亮、柳生の剣士。
武辺が強いだけではない。どう見ても、それぞれが別種の札だ。しかも、戻ったばかりの五千が、ほとんど損耗を感じさせぬ顔で整然と帰っている。
「……なるほど」
官兵衛が小さく言った、その時だった。
奥から、侍女が息を切らさぬよう必死に抑えながら入ってきた。
「治部大輔様!」
信繁が振り向く。
「何だ」
侍女の顔は、明らかに吉報だった。
「真理姫様、ご懐妊にございます!」
その一言で、信繁の顔色が変わった。
「……ほんと?」
「はい!」
「確かか?」
「間違いございませぬ!」
そこから先が早かった。いや、早すぎた。
「いや、待て、前回の時の薬膳どうだった、いやその前に身体を冷やすな、誰か典厩様に……いやまず俺が行くか、いやでも」
そわそわし始める。というより、もう半分立ち上がっている。
官兵衛は、その様子を目の当たりにして、思わず口を開いた。
「拙者には構わず、どうぞ」
「悪い!」
それだけ言うと、信繁は本当にいなくなった。
官兵衛は、しばらく呆気に取られていた。
十兵衛も半兵衛も、慣れた顔で肩をすくめる。
慶次郎はにやにやしている。
助右衛門は無言だが、たぶん内心では「またか」と思っている。
伊勢守は、戻ったばかりだというのに妙に落ち着いていた。
官兵衛が、ようやく小さく言った。
「……あの御方、今のが素ですか」
十兵衛が答える。
「素です。戦も政も、あれだけ回しておいて。奥向きのことになると、あのように」
半兵衛が続けた。
「双子の時も、だいぶ大騒ぎでした」
官兵衛が目を上げる。
「双子」
伊勢守が笑う。
「治部殿は、双子を多くの幸せの腹、“多幸腹”と呼んでおられましたな」
官兵衛は、そこで少しだけ感心したように息を吐いた。
「多幸腹」
「ええまあ、そうなんです」と十兵衛。
「世の物言いを、そのまま通さぬ御方にございます」
官兵衛は、そこであらためて座敷の内を見回した。
「しかし、治部家は多士済々ですなぁ」
「それは、さきほども仰いましたな」と半兵衛。
「二度でも三度でも言いたくなります」
それからしばらくして、信繁は本当に戻ってきた。
だが、戻ってきた顔は、さっきより少しだけ落ち着いている。完全には落ち着いていないが、最低限、客の前へ戻れる程度には戻したらしい。
「悪い」
「いえ」
官兵衛は、そこは素直に一礼した。
「まずは、おめでとうございます」
「ありがとう」
「それで、落ち着かれましたか」
「半分ぐらい」
「半分」
「十分だろ」
官兵衛は、そこで少し笑った。
「ええ。先ほどよりは、だいぶ」
信繁は座り直すなり、さっき途切れた話をそのまま拾った。
「で、官兵衛殿」
「はい」
「もし当家に来たらだ」
官兵衛の目が、少しだけ細くなる。
「ここにいる滝川伊勢守、島左近、前田慶次郎、奥村助右衛門。こいつらを、縦横無尽に軍師として使えるぞ?」
官兵衛は、そこで初めて本当に黙った。今軍勢を率いて帰城した武辺者どもの顔つきを見回す。
信繁は、その顔を見て少しだけ笑う。効いている。
「軍師として、自分の策として、統制された倶利伽羅峠の戦いや、屋島の戦いをやってみたくないか?」
官兵衛の指先が、ほんのわずかに止まった。
伊勢守が眉を上げる。
左近は黙っている。
慶次郎は面白そうにしている。
助右衛門は、静かに官兵衛を見る。
官兵衛は、少しの間を置いてから、ようやく言った。
「……それは」
さらに間を置く。
「ずいぶんと、悪い誘いにございますな」
信繁がにやりとする。
「だろ?」
「例えば、伊勢守殿で正面を釣り、左近殿で相手の喉笛を裂き、慶次郎殿で敵を走らせ、助右衛門殿で崩れぬ軸を作る」
「うん」
「しかも、それを軍師の頭で統制してよい、と」
「そういうこと」
官兵衛は、そこでとうとう深く息を吐いた。
「……拙者、播磨へ帰ったあと、しばらく眠れぬやもしれませぬ」
慶次郎が笑う。
「落ちかけてるな」
「落ちかけておりますな」と半兵衛。
「まだです」と官兵衛は言ったが、その声にはもうだいぶ熱が混じっていた。
信繁は、そこであえて軽く言った。
「すぐ来いとは言わないよ。親父さんもあるし、播磨のしがらみもあるしな」
「はい」
「でも、今みたいな手札を見ちゃったら、たぶん一回は考えるだろ」
官兵衛は、そこは否定しなかった。
「……考えます」
「だろ?」
「ええ。かなり」
それで十分だった。
瀬田へ現れた黒田官兵衛は、城を見た。
洛中の変化を見た。
大坂の起ち上がりを見た。
そして最後に、治部家の人間と、その手札を見た。
それだけ見せれば、あとは向こうで勝手に火が点く。
信繁は、戻ってきた伊勢守たちと、目の前の官兵衛を交互に見ながら思った。
――こういう時だけは、ほんとにうち、強いな。
そして官兵衛は、そんな治部家の空気の中で、もう半ば落ちていた。
♢
その日の夕刻、官兵衛はまだ瀬田に残っていた。
帰るには早い。
泊まるには腹の中が忙しすぎる。
そんな顔だった。
信繁は、それを見て取ったが、追い詰めるような真似はしなかった。こういう手合いは、押し込みすぎると逆に引く。見せるだけ見せて、あとは向こうに考えさせた方がよい。
だから、次に見せたのは戦ではなく、家の回り方だった。
蔵。
酒造方。
荷の出入り。
馬の飼葉の置き方。
帳面。
誰がどこまで口を出し、どこから先は任せているか。
官兵衛は、黙ってそれを見ていた。
やがて、ふと口を開く。
「治部大輔殿」
「何だ」
「こういうところまで、ご自身で見ておられるのですか」
「全部じゃない」
信繁は即座に答えた。
「全部見てたら死ぬ」
官兵衛は少しだけ笑う。
「それはそうでしょうな」
「だから、見るべきところだけ見る。あとは任せる」
「任せて回るのが、また難しい」
「難しいよ」
信繁は、そこは軽く言わなかった。
「人を役に就けるだけなら簡単だ。けど、役に就いたた人間が勝手に俺の顔色だけ見て動くようになると、家が腐る」
官兵衛の目が少し動く。
「……」
「だから、“ここまではお前”“ここから先は俺”をなるべく明瞭に切り分ける」
「なるほど」
「で、たまに顔を出して、“見てるぞ”だけ残す」
官兵衛は、そこで蔵の前に立ち止まり、荷札を見た。
「怖い家ですな」
「何が」
「戦だけでもなく、政だけでもなく、人の使い方まで一貫しておる」
信繁は肩をすくめた。
「でないと、いまの畿内は回らんよ」
そこへ、少し遅れて十兵衛が入ってきた。
「官兵衛殿」
「はい」
「夕餉の前に、もしよろしければ」
「何でしょう」
「大坂城の普請絵図も、お見せできますが」
官兵衛が、そこで本当に少しだけ迷った顔をした。
見たい。
だが、見ればもっと引かれる。
その逡巡が、分かりやすすぎるほど分かった。
信繁が笑う。
「ほら」
「何がです」
「もう来てよかったって顔してる」
「しておりませぬ」
「してる」
「半分ほどは」
「やっぱり」
結局、官兵衛は絵図も見た。
石山跡地に起ち始めた新城。
巨大な曲輪。
川筋を押さえる総構えの縄張り。
そして、高く立ち上がる予定の天守。
官兵衛は、しばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「……これは」
「うん」
「播磨の者が見れば、さぞ寝つきが悪くなりますな」
「だろ?」
「ええ」
「何で」
「“ああ、もう天下の形が変わり始めている”と嫌でも分かるからにございます」
信繁は、それを聞いて少しだけ笑った。
「そう思ったなら、来た甲斐はあったな」
官兵衛は、今度は否定しなかった。
夕餉の席は、昼よりさらに少人数だった。
官兵衛。
信繁。
十兵衛。
半兵衛。
それに伊勢守と左近だけ。
慶次郎と助右衛門も呼べなくはなかったが、あまりに札を並べすぎると、話が武辺へ寄りすぎる。今は、官兵衛の頭の中で“自分がここへ入ったらどう動かせるか”が育つ方が大事だった。
酒が一巡したところで、官兵衛が自分から問うた。
「もし、拙者がこちらへ寄ったとして」
信繁はすぐには答えず、杯を置いた。
「うん」
「何をさせたいのです」
十兵衛も半兵衛も、そこで少しだけ目を上げた。
とうとう来たか、という顔だった。
信繁は、しばらく官兵衛を見てから言った。
「最初から大きいことはさせない」
官兵衛が静かに聞く。
「まず、見てもらう」
「見る」
「播磨。摂津。西国。そっちの風を、こっちに通す」
「……」
「十兵衛は京と朝廷と文だ。半兵衛は戦の腹と、理屈だ。伊勢守と左近は現場を見る」
左近が静かに杯を置く。
それは否定でも肯定でもない。ただ、そう見られていることを受けているだけだった。
「官兵衛殿には」と信繁は続けた。
「“これが進んだら、次にどこが動くか”を見る目を使ってほしい」
官兵衛は、そこで少しだけ眉を上げた。
「買いかぶりでは」
「いや」
信繁は首を振る。
「俺は、目の前のものに手を入れるのは得意だ。上総介兄上は、大きい形を決めるのが得意だ」
「はい」
「でも、その間で、“この一手のあと、どこがどう嫌がるか”をずっと考え続ける役は、本家には勘十郎兄上がいらっしゃるが、こっちにも要る」
半兵衛が、そこで静かに言う。
「たしかに、そこは厚いほどよい」
十兵衛も頷いた。
「播磨の言質を知る者が入れば、見え方も変わりましょう」
官兵衛は、杯を持ったまま少し考えた。
「拙者を軍師として、ですか」
「そう」
「だが」
「何だ」
「拙者がこちらへ来れば、播磨のしがらみも一緒に来ますぞ」
信繁は、そこで少しだけ笑った。
「真っさらなやつなんか欲しくないよ」
官兵衛が顔を上げる。
「……ほう」
「しがらみがあるから見えることもある。親父さんも含めて、って言ったのはそういうことだ」
そこは官兵衛にも刺さったらしい。
ただ自分だけを抜くのでなく、家ごと見ている。
その言い方は、若い当人にとってかなり重い。
伊勢守が、酒を少し飲んでから言った。
「官兵衛殿」
「はい」
「我らは、治部殿に使われておるようで、実はそうでもない」
官兵衛が少しだけ笑う。
「それは、どういう」
「使いたいように使われるのではない。こっちも、使いたいように働く」
左近が短く言う。
「でなければ、続かぬ」
半兵衛が補う。
「要は、治部様は“駒”を欲しておるのではないのです」
「では」
「自分で勝手に動いても、最後は繋がる者を欲しておられる」
官兵衛は、その言葉にしばらく黙った。
それは、たしかに魅力的だった。
ただ命じられるだけの軍師ではなく、自分の頭で先を見て、その先読みごと家の中へ差し込める立場。
しかも、使える札は伊勢守、左近、慶次郎、助右衛門のような面倒で強い連中だ。
「……悪い誘いだ」と官兵衛は、もう一度言った。
信繁がにやりとする。
「二回言ったな」
「二回言いたくなるほど、悪い」
「じゃあ、だいぶ効いてる」
官兵衛は、今度は否定しなかった。
しばらくして席が少し緩んだ頃、十兵衛がふと尋ねた。
「官兵衛殿は、父上へ何と申されます」
官兵衛は、そこでようやく現実へ戻る顔になった。
「まずは、見たままを」
「と、申されますと」
「畿内はもはや、どこが主か分からぬ乱れた場ではない、と」
信繁は静かに聞く。
「将軍家と朝廷の理が動き、京は静まり、大坂は起ち、瀬田は後ろを支えている」
「うん」
「そこへ、治部家のような罠がある」
少しの間。
「それを、父にはそのまま申します」
「で、親父さんは何て言うと思う」
官兵衛は、少しだけ苦笑した。
「たぶん、“面倒なところへ目をつけたな”と」
「当たりだな」
「ええ」
「でも」と信繁。
「面倒って、大体当たりだろ」
官兵衛は、その返しにだけ、はっきり笑った。
「それは否定できませぬ」
夜は更けていく。
官兵衛はまだ、この場で「参る」とは言わない。
だが、もう完全に他人の顔でもなかった。
瀬田を見た。
大坂を見た。
洛中の静まり方を見た。
治部家の札を見た。
そして、自分がそこへ入った時の座まで、半ば見せられた。
それで落ちない方が難しい。
信繁は、官兵衛の杯が少しずつ空いていくのを見ながら思った。
――よし。あと少しだな。
♢
翌日、姫路へ戻る道すがら、黒田官兵衛はあまり喋らなかった。
供の者から見れば、ただ物静かなだけに映ったかもしれない。だが実際には違う。頭の中で、見てきたものがまだ片付いていなかったのだ。
大坂。
洛中。
瀬田。
石山を退かせたあとの理の通し方。
将軍家と朝廷の気配。
そして、治部家という、どう考えても一つの家としては人材が厚すぎる集団。
あれは、ただ強いのではない。
強い者が偶然揃ったのでもない。
強い者、癖の強い者、理の強い者、手を汚せる者、その全部を一つの流れへ押し込んで、それでも家が割れていない。
官兵衛は、姫路へ近づくほど、かえって口数が減った。
そして帰宅してすぐ、父、黒田兵庫助職隆の前へ出た。
兵庫助は、息子の顔を見た瞬間に、まず一つ察した。
――これは、止まらぬな。
まだ何も聞いていない。
だが、長年息子を見てきた父には分かる。
官兵衛が何かを面白がった時の目。
面白がっただけではない。そこへ自分の居場所を見つけてしまった時の目。
「戻ったか」
「はい」
官兵衛は、いつものように礼を取った。
だが、その声の奥にある熱まで隠し切れてはいない。
兵庫助は、静かに座を示した。
「話せ」
官兵衛は、少しだけ息を整えてから口を開いた。
「まず申し上げるべきは」
「うむ」
「畿内は、もはや“どこが主か分からぬ乱れた場”ではございませぬ」
兵庫助の目が少し動く。
「ほう」
「将軍家と朝廷の理が動いております。京は静まり、大坂は起ち始め、瀬田が後ろを支えております」
兵庫助は黙って聞く。
官兵衛は続けた。
「織田上総介殿が強いのは、今さら申すまでもございませぬ」
「うむ」
「ですが、恐ろしいのはそこだけではありませぬ」
「治部大輔殿か」
兵庫助は、先にその名を出した。
官兵衛は、ほんのわずかに目を見開いた。
「父上も、そこを」
「お前の顔を見れば分かる」
短い返しだったが、重かった。
兵庫助は続ける。
「お前が何かを見て帰ってきた時の顔だ。しかも今回は、ただ感心しただけではない。“あそこへ入り込めば、自分はどう働けるか”まで考えておる顔だ」
官兵衛は、一瞬だけ黙った。
それから、少し苦く笑った。
「敵いませぬな」
「父だからな」
兵庫助の声は静かだった。
「で、実際どうなのだ」
官兵衛は、そこでようやく本気で語り始めた。
「治部大輔殿は、戦だけの御方ではありませぬ」
「ほう」
「石山を焼き潰すのでなく、退かせ、本願寺を大谷へ戻し、大坂を起こす」
「……」
「しかも、その理が朝廷と将軍家に通っている。三好三人衆を切って宗家を残す手つきも、ただの武辺ではない」
兵庫助は、そこで少しだけ目を伏せた。
「話には聞いていたが」
「実際に見ると、もっと厄介です」
官兵衛は、今度ははっきりと言った。
「その治部家そのものが、厄介にございます」
「何がおる」
「滝川伊勢守。島左近。前田慶次郎。奥村助右衛門。疋田豊五郎。日置大膳亮。柳生の剣士ども。明智十兵衛。竹中半兵衛。松永弾正までおります」
兵庫助が、思わず小さく息を漏らした。
「……盛りすぎではないのか」
「盛っておりませぬ」
「本当にか」
「本当に」
そこへ官兵衛は、少しだけ笑って付け足した。
「しかも、戻ったばかりの五千が、ほとんど乱れずに帰ってきておりました」
兵庫助の顔が、今度は本当に少し変わった。
「五千」
「はい」
「それは、厄介だな」
「ええ。厄介です」
少しの沈黙。
兵庫助は、そこで静かに問うた。
「で」
「はい」
「誘われたか」
官兵衛は、そこには少しだけ間を置いた。
「……はい」
「どのように」
「親父さんも含めて、一家で来いと」
兵庫助は、その返しに目を閉じた。
やはり。
そう来るか。
官兵衛のような若者一人の才にだけ目をつけるなら、もっと軽いやり方もある。だが、治部大輔は最初から“親父さんも含めて”と来た。つまり、官兵衛個人ではなく、黒田家ごと見ている。
そこが、嬉しくもあり、怖くもあった。
兵庫助は、ゆっくりと言った。
「お前は、どう思った」
官兵衛は、その問いに対して、珍しく少し長く黙った。
「……行きたいと思いました」
兵庫助は、やはりな、と思った。
思ったが、それで終わりではない。
父としては、そこから先を問わねばならない。
「なぜだ」
官兵衛は、顔を上げる。
「戦があるからではありませぬ」
「うむ」
「戦のあとがある」
兵庫助の目が少し動く。
「都の理があり、朝廷があり、将軍家があり、寺社の処し方があり、城を起こし、人を並べ、使い、家を残す」
「……」
「しかも、あの治部大輔殿は、人材を見せたうえで“お前ならどう使う”と誘ってくる」
兵庫助は、そこでほんの少しだけ苦く笑った。
「悪い誘いだな」
「まことに」
「で、落ちかけている」
官兵衛は、正直に頷いた。
「かなり」
兵庫助は、そこで深く息を吐いた。
父としては、止めたい。
播磨には播磨のしがらみがある。
小寺、赤松、別所、浦上。
そう簡単に姫路を引き払って、畿内の只中へ入っていけるものではない。
だが、同時に、自分も分かるのだ。
そんな面倒を押してでも、行く価値のある場が世にはある。
そして今、畿内はたぶんそういう場なのだろう。
「父上」と官兵衛が言う。
「何だ」
「止められますか」
兵庫助は、その問いにすぐには答えなかった。
息子の顔を見る。
若い。
だが、もう子ではない。
しかもこの顔は、単に憧れている顔でも、浮ついている顔でもない。自分の器量がどこで使えるかを、本気で見てしまった男の顔だ。
兵庫助は、ゆっくり首を振った。
「……無理だな」
官兵衛の目が、わずかに揺れる。
「はい」
「お前のその顔は、もう無理だ」
「……申し訳ございませぬ」
「謝るな」
兵庫助は、そこで初めて少しだけ笑った。
「ただな」
「はい」
「止められぬと思うているのは、お前だけではない」
官兵衛が顔を上げる。
兵庫助は、静かに続けた。
「儂も行きたい」
その一言で、今度は官兵衛の方が黙った。
兵庫助は、自分でも苦笑した。
「姫路の地で一生を終える覚悟もしておった。だが、お前の話を聞き、顔を見れば、分かる」
「……」
「いま畿内で起きておるのは、ただの勢力争いではない」
「はい」
「天下の形そのものが、組み替わっておる」
そこまで言ってから、兵庫助は少しだけ首を振った。
「いや、言い過ぎだな」
官兵衛は、その言い直しにだけ少し笑った。
兵庫助は続ける。
「少なくとも、今の播磨でただ座して見ておるだけでは、あとで必ず悔やむ」
「父上……」
「だから、考える」
その声はもう、黒田家の主のものだった。
「すぐに飛びつくのではない。だが、どう寄るか。何を残し、何を持っていくか。どの筋で動けば家を割らずに済むか。そこから詰める」
官兵衛は、深く頭を下げた。
「はい」
「治部大輔殿は、親父さんも含めて来いと申したのだな」
「はい」
「ならば」
兵庫助は、そこで目を細めた。
「向こうも、家で来るものと見ておる」
「そのように思われます」
「よい」
それで、話は決まったわけではない。
だが、父子の腹は同じところへ向いた。
官兵衛を止められない。
しかも、自分もまた惹かれている。
その二つが交錯した結果、兵庫助はようやく認めたのだ。
黒田家にとって、次の場所は、たぶんもう播磨の内だけには収まらぬのだと。
夜が更ける頃、官兵衛は一人で庭へ出た。
姫路の夜は、瀬田とも京とも違う。
だがその静けさの中で、官兵衛の胸の内には、まだあの治部家の空気が残っていた。
伊勢守。
左近。
慶次郎。
助右衛門。
十兵衛。
半兵衛。
そして、妻の懐妊の知らせに、そわそわしながら奥へ消えた治部大輔。
「……悪い誘いだ」
小さく、もう一度だけ呟く。
だが、その悪さに抗えぬことも、もう本人が一番よく分かっていた。
♢
真理姫の懐妊が知れた、その余韻もまだ落ちきらぬうちだった。
今度は、雪姫の懐妊が判明した。
瀬田城の奥で、その報せを受けた治部大輔は、最初こそ「えっ」と間の抜けた声を出したが、次の瞬間には、また前と同じ顔になった。つまり、嬉しい、ありがたい、めでたい、その全部の上に、「いや待て、また俺が右往左往する番か」という実務担当の顔である。
「冷やすな」
「はい」
「重い物持たせるな」
「はい」
「体がだるいならすぐ休ませろ」
「はい」
「具教卿に文」
「またでございますか」と鶴姫。
そこへさらに追い打ちのように、お市にも懐妊の兆しが見え、義姫と鶴姫にも同じ報が入った。
さすがに、その時ばかりは城中の空気が妙な方向へまとまった。
「……やはり名人芸では?」
と、誰が最初に言ったのかは分からない。
だが、一人がそう言うと、あとはもう駄目だった。
「名人芸ですな」
「うむ、これは名人芸にございます」
「治部様、そちらの才までござったか」
「おめでとうございます、名人」
「やめろ!」
治部大輔が真っ赤になって否定しても、もう遅い。
お市は、呆れたような、だがどこか楽しそうな顔で言う。
「何を今さら照れておるのですか」
雪姫は、頬を染めながらも目を伏せる。
「……その、めでたきことではございますので」
真理姫は、前回より少し余裕のある微笑みで、静かに言う。
「治部殿が、いちばん慌てておられますね」
義姫はすました顔でお腹を撫でる。
「治部殿のおかげで父や兄に吉報を送れます」
鶴姫は、そこへ容赦なく差した。
「治部殿は、夜の方でも働きすぎなのでは」
「やめてくれ!」
城中は笑いに包まれた。
だが、笑ってばかりもいられない。
祝いが重なれば、人も動く。物も要る。奥向きの手当ても増える。治部大輔は嬉しさ半分、胃痛半分のような顔で、帳面と文と侍女の動きを一つずつ見ていた。
そんな折、黒田官兵衛と、その父兵庫助職隆ら黒田一家が瀬田を訪れた。
そして、ちょうどその頃、城では別の祝い事も進んでいた。
奥村助右衛門と、加藤家の安との祝言である。
小田井の馬を見に来て。桶狭間で共に戦って以来、命を預け合ってきた家臣。
その助右衛門の祝言だ。しかも、今の治部家がようやくここまで来たという実感が、こういう形で目の前に出ると、治部大輔には少々効きすぎた。
祝言の席が整う。
助右衛門は、普段通りの無骨な顔をしているつもりだが、さすがにいつもより少しぎこちない。
安も、凛としつつも緊張している。
周囲の家臣団は、祝いの顔をしながら、どこか「さて、治部様はどうなるか」と構えている顔だ。
そして案の定だった。
誓いの盃が交わされ、座が「めでたし」で一つまとまりかけた、その時。
治部大輔が、突然ぐっと顔をしかめた。
十兵衛が嫌な予感のする顔になる。
半兵衛は、もう半分諦めている。
慶次郎はにやにやしている。
伊勢守は、声を殺して笑い始めている。
「助右衛門……」
治部大輔の声が、妙に震えた。
助右衛門が、ぴくりと眉を動かす。
「何です」
「お前……お前が、祝言か……」
そこまで言ったところで、もう駄目だった。
「よかったなああああ!」
号泣である。
座が一瞬止まった。
次の瞬間、爆発した。
慶次郎が腹を抱える。
伊勢守は膝を叩く。
左近ですら、口元を隠して横を向く。
十兵衛は目を伏せて肩を揺らし、半兵衛は「やはり」とでも言いたげに深く息を吐く。
お市は呆れながら笑い、真理姫は口元へ袖を当て、雪姫は困りつつ微笑み、義姫は夫の変わりように目を白黒し、鶴姫は完全に面白がっていた。
「桶狭間から、ここまで……うぅ……」
「治部様」と助右衛門。
「何だ」
「泣きすぎです」
「だって、お前が……」
「分かりますが、泣きすぎです」
安が困ったように助右衛門を見る。
助右衛門は、いつもの仏頂面のまま、しかし完全に処理に困っていた。
「お、おめでとうございます」と黒田職隆が言う。
「ありがとうございます!」と治部大輔が号泣したまま返す。
官兵衛は、その横で本気で意味が分からなくなっていた。
「……あの」
「何だ」と信繁。
「これは」
「祝言だ」
「それは分かります」
「めでたいだろ」
「めでたいですが、なぜ治部大輔殿がそこまで」
そこへ慶次郎が、笑いを堪えきれぬ声で入る。
「うちの殿は、こういうとこあるんだよ」
伊勢守も続く。
「戦で人が死ぬのは慣れても、家臣の祝い事には弱い」
十兵衛が静かに補足する。
「特に、古くからの者どもには」
兵庫助職隆は、そこでようやく少し納得したように頷いた。
「なるほど」
官兵衛は、なお少し呆然としていたが、やがてじわじわと笑いがこみ上げてきたらしい。
「……これは」
「何だよ」
「いや」
官兵衛は、とうとう笑った。
「祝い事だと巻き込まれる家、というのは、こういうものかと」
「そういうものだ」と慶次郎。
「黒田殿も飲め飲め!」
「え、いや拙者は」
「おめでたい席だぞ!」
「そうですが」
「めでたい!」
そうして、黒田一家まで半ば強引に祝言の輪へ巻き込まれた。
職隆は、最初こそ慎重だったが、やがて「これは断る方が野暮だな」と察したらしい。官兵衛もまた、目の前の治部家の空気を見て、半分呆れ、半分感心しながら盃を取った。
助右衛門は最後まで困った顔だった。
「治部様」
「何だ」
「まだ泣いておられるのですか」
「泣く」
「そうですか」
「お前、よかったなあ」
「ありがとうございます」
「幸せになれよ」
「努力します」
「うわあああああ」
「またですか」
座が、また笑いに包まれた。
その年――永禄七年は、そうやって過ぎていった。
畿内は静まりつつある。
本願寺は大谷へ戻り、大坂城は建ち始め、浅井の丹波丹後遠征は仕上がり、黒田一家は瀬田城へ現れた。
一方で奥向きでは、真理姫、雪姫、お市、義姫と鶴姫に懐妊が重なり、助右衛門の祝言まで執り行われる。
戦もある。
政もある。
人も死ぬ。
だが、それでも家は、こういう祝い事を重ねながら大きくなっていく。
治部大輔が泣き、家臣団が笑い、妻たちが呆れながら見守り、黒田一家まで巻き込まれる。
永禄七年は、そういう年だった。