織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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055敦賀郡司の娘

永禄七年の正月、稲葉山城はめずらしく、やけに明るかった。

 

戦がないわけではない。

遠征も、仕置きも、普請も、相変わらず山ほどある。

だが、それでも新年の宴席だけは、城中に少しだけ気の緩む時間を許す。

 

その宴の席で、今年最初に大きく笑いを取った話題は、まことにどうでもよいようで、しかし当人たちにとってはどうでもよくない話だった。

 

お濃の方と、生駒吉乃の同時懐妊。

 

そして、そこからなぜか派生して、

 

「治部の名人芸」

 

が話題の中心になった。

 

「いや、なぜそうなるんですか」

 

治部大輔が、すでに何度目か分からぬ抗議をした。

 

だが、誰も聞いていない。

 

「何しろ昨年は、真理姫様、雪姫様、お市様、義姫様、鶴姫様と続けざまに」

「双子は多幸腹と呼ぶし」

「助右衛門の祝言では号泣なさるし」

「治部様は、そちらもまた名人芸にございますな」

「やめろ!」

 

爆笑が起きた。

 

お濃は、呆れたように、しかし少し面白そうに言う。

 

「治部殿、もう諦めたらどうです」

「諦められますか」

 

生駒吉乃も、やわらかく笑った。

 

「でも、祝いの席で名が出るのは悪いことではございませんよ」

「いや、そういう問題じゃ」

 

そこへ、どこからともなく、

「上総介様も名人では?」

という声が上がった。

 

その瞬間だった。

座が、ぴたりと止まった。

 

笑っていた者も、杯を持ちかけていた者も、全員が一瞬で静まる。

 

上総介兄上は、にこりともせず、ただその方向を見た。

たったそれだけで十分だった。

 

「……」

 

誰も何も言わない。

勘十郎兄上だけが、静かに杯を置いた。

 

「兄上のことを、そういう話で軽々しく巻き込むな」

低い声だったが、よく通った。

「しかも、わが家も昨年三男が生まれておる。そちらまで混ぜる気か」

 

「い、いえ、その」

「なら黙れ」

「は、はい」

 

それで終わった。

 

座の空気は一度しんとしたが、やがて伊勢守が、わざとらしく咳払いをして言う。

 

「では、やはり治部殿だけが名人ということで」

「おい」

 

また笑いが戻る。

こういうところで伊勢守は便利だった。

 

だが、宴席の笑いの裏では、別の重い話も動いていた。

 

足利将軍義輝からの書状。

朝倉家へ向けた、上洛を促す催促である。

 

それが、何度送られても、朝倉は一向に動かなかった。

義輝の我慢も、もう限界だった。

 

「左衛門督は、いつまで幕府の声を聞こえぬふりをしておる」

 

将軍御座所で、その言葉が出た時、周囲は誰も軽くは受け取らなかった。

 

義輝は、もともと軽々しく怒気を見せる人ではない。

だが、その静かな人が、本気で腹を立てると、むしろ怖い。

 

「越前一国の主であるだけなら、好きにすればよい」

義輝は、書状の文面を見ながら言った。

「だが、幕府の求めに応じると見せて引き延ばし、我が意を軽んじるなら、それは別だ」

 

信光が黙って頭を垂れる。

信繁も、そこでは口を挟まない。

 

「最後通牒を送る」

その声には、もう迷いがなかった。

「上洛の誠意を示せ。さもなくば、幕府に弓引く者として扱う」

 

それは、剣豪将軍の怒りだった。

怒鳴り散らすのではない。

明確な線を引く。

その線を、今度は本気で越えるなと告げる。

 

一方その頃、敦賀では、別の溜め息がつかれていた。

 

敦賀郡司。

朝倉宗滴の跡を継いだ九郎左衛門尉景紀の館。

 

その一室で、美景姫は、浅井の鶴姫から届いた手紙を前に、しばらく黙っていた。

 

「……速すぎる」

 

ぽつりと漏れた声に、景紀が娘を見る。

 

「何がだ」

 

美景姫は、手紙を畳まず、そのまま机へ置いた。

 

「何もかもです」

「鶴姫殿から、また面倒なことでも書いてあったか」

 

「面倒、というより」

美景姫は、そこで深く息を吐いた。

「もう、向こうは我らが知る畿内ではございませぬ」

 

景紀は黙って聞いた。

 

美景姫は、指を折るように言う。

 

「織田家と足利幕府の融和」

「石山本願寺の平和裏の退去」

「三好三人衆は討たれ、宗家は残る」

「大坂には新しく巨大な城が建ち始め」

「四国では、長曾我部家まで妙に早く動いております」

「そして、その長曾我部家までもが織田に使者を送ったと」

 

景紀の眉がわずかに寄る。

 

「長曾我部」

「はい。土佐の動きが、どうにも変です」

「変、か」

「説明は難しゅうございます。ただ、土佐一国をまとめ上げるまでの動きが、あまりに噛み合いすぎております」

 

景紀は、その言い回しで娘がどの程度本気かを察した。

 

美景姫は、昔から少し変わっていた。

ただの姫君ではない。

人の動き、家の流れ、言葉の裏。

そういうものを見る目が、妙に鋭い。

そして今、その娘がこうして明確に嫌な顔をしている。

 

「父上」と美景姫。

 

「何だ」

「朝倉家は、いよいよ危のうございます」

 

景紀は、あえてすぐには返さない。

 

「左衛門督殿が上洛なさらぬことか」

「それもございます」

「それ“も”か」

 

美景姫は、そこで顔を上げた。

 

「今の朝倉家は、最悪の道へ向かっております」

 

景紀の目が細くなる。

 

「最悪とは」

 

「しかも」

美景姫は、言い切った。

「最も可能性の高い結末にございます」

 

静かだった部屋の空気が、そこで少しだけ重くなった。

 

景紀は、ゆっくりと問う。

 

「申してみよ」

 

美景姫は、少しも怯まなかった。

 

「左衛門督殿は、まだ“越前一国の大名”として物事を見ておられます」

「……」

「ですが、向こうはもう違います。織田は、幕府を担ぎ、朝廷を動かし、三好宗家を残しつつ三人衆を料理し、本願寺まで理で退けた」

 

景紀は、そこで小さく息をついた。

 

それは否定できない。

 

「にもかかわらず」と美景姫。

「こちらは、式部大輔殿が掣肘し、左衛門督殿は日々を乱し、上洛の機を失い続けております」

 

式部大輔。

朝倉景鏡。

景紀の顔が少しだけ固くなった。

 

「父上」と美景姫は続けた。

「このままでは、朝倉家は“都の理へ遅れた家”として扱われます」

 

「……」

「大樹の最後通牒は、ただの催促ではありませぬ。あれは、“今ならまだ幕府に従う家として残してやる”という、最後の頼みの綱にございます」

 

景紀は、黙って娘を見ていた。

 

美景姫の声は、そこで少しだけ低くなる。

 

「それを渡らねば」

「どうなる」

「朝倉は、いずれ越前の名門ではなく、“都の理に背を向けた旧家”として処断されます」

 

その言い方は、残酷だった。

だが、残酷だからこそ、現実味があった。

 

景紀が、ようやく問う。

 

「織田が大兵でもって攻めてくる、と」

「はい」

「そこまでか」

「そこまでです」

「浅井がある」

「鶴姫殿の手紙にも、そこは滲んでおります」

 

景紀の目が動く。

 

美景姫は続けた。

 

「浅井は、もはや朝倉の盾ではなく、織田家の味方にございます」

 

それを言われると痛い。

以前なら、朝倉・浅井の縁が、北近江・越前の結びつきとしてまだ物を言った。

だが今は違う。

織田家のお犬が浅井家に輿入れし、代わりに鶴姫が治部家に入り、浅井は丹波丹後へまで手を伸ばし、織田秩序の一翼になりつつある。

 

「つまり」と景紀。

「最悪とは」

 

美景姫は、そこで静かに答えた。

 

「上洛を拒み続ける」

「幕府の怒りを買う」

「織田に“朝倉を討つ大義”を与える」

「しかも浅井は、その時、朝倉のためには動かぬ」

 

景紀は、そこで初めてはっきりと顔をしかめた。

 

「……そこまで申すか」

「申します」

「勝てぬと」

 

美景姫は、一瞬だけ目を伏せた。

 

「兵力でいえば、織田家だけで我らが数倍、一〇万は出せましょう。同盟している浅井や徳川、北畠や工藤など、他の大名家の援軍を加えれば五~六倍ほどにもなる恐れもございます。それを相手に正面から戦うとして、一度二度の合戦なら、偶然が味方し、元寇の折りのごとく天祐があればまだ分かりませぬ。もっとも、蟷螂之斧にも等しいでしょうが」

「……」

「ですが、今の織田は、兵を使った戦だけでは来ませぬ。幕府、朝廷、公家、寺社、国衆、婚姻、その全部で首を絞めて参ります」

 

景紀は、そこでようやく理解した。

 

娘が怖れているのは、ただの侵攻ではない。

家そのものが、“時勢に遅れた旧家”として解体されていく未来だ。

 

「では」と景紀。

「どうする」

 

美景姫は、そこに一つだけ光を残した。

 

「父上が動くしかありませぬ」

「儂が」

「はい。左衛門督殿へ、今一度、上洛を迫る」

 

景紀は苦い顔をした。

 

「何度目だ」

「それでもです」

「式部大輔が邪魔をする」

「承知しております」

「左衛門督殿ご本人も、今の暮らしを崩したがらぬ」

「承知しております」

 

景紀は、そこで長く息を吐いた。

 

娘の言うことは、たぶん正しい。

だが正しいからといって、通るわけではない。

越前の家中もまた、理だけで動くほどきれいではない。

 

美景姫は、そんな父の顔を見て、少しだけ声を和らげた。

 

「父上」

「何だ」

 

「私も動きます」

景紀が顔を上げる。

「鶴姫殿との文も、続けましょう」

 

「……」

「向こうが、まだ朝倉を“話の通じぬ相手”とは切っていないうちに、できることをしておくべきです」

 

景紀は、娘の顔をしばらく見ていた。

 

宗滴公の血脈は途絶えた。宗滴公自身は廃嫡し、仏門に入った 蒲庵古渓以外実子がいないまま死去したため、同じ朝倉一族といっても、養子に入った自分が大甥であり、正しくは血を継いではいない。

 

だが、養子として宗滴公に育てられた景紀とその娘である美景姫自身も、幼き頃は宗滴公の薫陶を受けていた。

 

美景姫はただの姫ではない。早くから織田家の動向に着目し、朝倉家との激突を予想していた。かつて宗滴公が築き上げた情報網を受け継ぎ、畿内は元より、西国や東北にも諸家の情報を得るための根を張り巡らした。ゆえにこそ今の流れをちゃんと怖がれる女である。

 

「分かった」

ようやく、そう答える。

「儂も、もう一度、左衛門督殿へ申す」

 

美景姫は、静かに頭を下げた。

 

だが二人とも、分かっていた。

 

この“もう一度”が通る保証はない。

むしろ、通らぬ可能性の方が高い。

だからこそ、美景姫は最悪と言ったのだ。

 

外では、冬の空気が敦賀の夜を冷たくしていた。

 

越前の静けさは、畿内の静けさとは違う。

こちらはまだ、嵐の前の静けさだった。

 

そしてその嵐が、どこから来るのか。

もう、見誤る段は過ぎていた。

 

 

越前一乗谷の評定の間には、重たい空気が沈んでいた。

 

冬の冷え込みのせいだけではない。

卓上に置かれた二通の書状が、その場にいる者たちの目を鈍く曇らせていたからだ。

 

一つは、将軍義輝よりの上洛催促。

そしてもう一つは、越後の弾正少弼輝虎よりの手紙。

 

**上洛を急がれたし。**

 

文面は簡潔だった。

だが、簡潔だからこそ逃げ場がない。

 

それを前にしてなお、朝倉左衛門督義景は、覇気のない顔で座していた。

以前と比べ痩せたわけではない。病み伏しているわけでもない。だが、どこか人の言葉を自分の中へ深く入れぬ、膜のようなものが張っている。

 

「……また急げ、か」

 

義景が、気の抜けた声で言った。

 

誰もすぐには答えない。

 

九郎左衛門尉景紀は、その沈黙の中で一歩進み出た。

敦賀郡司として、宗滴の跡を継ぐ者として、そして朝倉家をまだ何とか保たねばならぬと思う者として、もう黙っている段ではなかった。

 

「左衛門督殿」

景紀の声は抑えられていたが、芯があった。

「今度ばかりは、上洛なさらねばなりませぬ」

 

義景は、ゆっくり景紀を見た。

 

「九郎左衛門尉、そなたもそれを申すか」

「申します」

「織田が都で好きに動いておるのは、今に始まったことではあるまい」

 

「今に始まったことではございませぬ。ですが、今はその“積み重ね”が違います」

景紀は、そこで机上の書状へ目を落とした。

「三好三人衆は滅び、三好宗家は残され、本願寺すら石山を退いて大谷へ戻った」

 

評定の空気が少しだけ張る。

 

「将軍家と朝廷の理は、すでに織田を通じて畿内各地へ通っております。ここでなお上洛を引き延ばせば」

「引き延ばせば、何だ」

 

義景の声には、苛立ちというより、面倒を嫌う響きがあった。

 

景紀は、そこを一歩も退かなかった。

 

「朝倉家が、都の理を軽んずる家と見られます」

 

義景の眉がわずかに寄る。

 

だが、そこで横から、嘲るような笑いが入った。

 

「はっ」

式部大輔景鏡である。

「九郎左衛門尉殿は、相変わらず都風にかぶれておられる」

 

景紀がそちらを見る。

 

「式部大輔殿」

 

「将軍が呼ぶ。越後の長尾が煽る。だから何だというのだ」

景鏡は、露骨に鼻で笑った。

「織田の下風になぞ立てるか!!」

 

その声は、評定の間にやけに大きく響いた。

 

「尾張上がりの成り上がりが、たまたま都へ兵を入れたからとて、なぜ我ら朝倉が、いちいち顔色を見て動かねばならぬ!」

 

義景は、その言葉にだけは少し気を良くしたような顔をした。

そこが景紀には苦しかった。

 

景紀は、低く言った。

 

「誰も、織田の下風に立てとは申しておりませぬ」

 

「同じことだ!」

景鏡が即座に切る。

「上洛せよだの、将軍へ誠を見せよだの、結局は織田が都で作った流れへ乗れという話ではないか!」

 

「違う」

景紀の声も、ここで少しだけ強くなった。

「今の都の理を無視し続ければ、朝倉家に“討つ理”を与えると申しておるのです」

 

景鏡の目が鋭くなる。

 

「ほう」

「将軍家の催促を無視し、越後からの誼も無視し、なお上洛の誠を示さぬ。そこまで重なれば、もはや“越前の独立した大名”では済みませぬ」

「脅しか」

「現実です」

 

義景が、その言い争いを半ばぼんやりと見ていた。

そこが、何よりも痛かった。

 

景紀は、その主の方へ向き直った。

 

「左衛門督殿」

「……」

「今ならまだ、“幕府に従う家”として上洛できます」

「今なら、か」

「はい。今を逃せば、次は“催促”ではございませぬ」

 

義景は、そこで少しだけ視線を逸らした。

 

「都は、厄介だ」

 

景紀は、その弱音めいた一言に、胸の奥が冷えるのを感じた。

 

「厄介だからこそ、行かねばなりませぬ」

「越前にいても、家は保てよう」

 

景鏡が、そこへまた差し込む。

「何を好んで、都の泥水へ足を突っ込む必要がある」

 

「都を避けて済む時勢ではない」と景紀。

「今の朝倉が越前一国だけで安泰なら、誰もここまで申さぬ!」

 

「大げさだな」

「大げさではない!」

 

珍しく、景紀の声が張った。

 

場が、ぴたりと止まる。

 

景紀は、そのまま言い切った。

 

「将軍の最後通牒でございますぞ!」

 

義景の顔が、そこでようやく少しだけ動いた。

 

景鏡は、なおも嘲るように言った。

 

「最後通牒、最後通牒と、ずいぶん怯えておるな」

 

「怯えているのではない」

景紀は、ゆっくり言葉を置いた。

「見えているだけです」

 

「何が見える」

「このままでは、朝倉家が“都の理に背を向けた旧家”として扱われる、その先が」

 

景鏡が、そこで舌打ちに近い息を漏らした。

 

「くだらぬ」

 

「くだらぬかどうかは、左衛門督殿がお決めになること」

景紀は、そう言って義景へ向き直る。

「ですが、父祖の名と宗滴公の遺したものを思われるなら、今ここで動くべきです」

 

宗滴。

その名だけは、この場の誰にも軽くはなかった。

 

義景の顔に、一瞬だけ迷いの影が差す。

だが、それも長くは続かなかった。

 

「……少し、考えよう」

 

景紀は、その返答に、胸の奥で鈍い痛みを覚えた。

 

少し考える。

またそれだ。

ここまで来てなお、即断ではなく、先送り。

 

景鏡は、ほとんど勝ったような顔をしている。

 

「左衛門督殿、それでよろしゅうございます。織田や長尾に急かされて動く必要など」

 

景紀は、その声を聞きながら思った。

 

――駄目だ。

 

美景姫の言った通りだった。

最悪の結末が、しかも最もありそうな形で、もう目の前まで来ている。

 

だが、この場でそれを叫んでも、もはや届かぬ。

義景の耳には、景鏡の“まだ動かなくてよい”の方が甘く響いている。

 

評定が終わり、人が引き始めたあとも、景紀はしばらくその場を動けなかった。

 

景鏡が通りすがりざま、わざとらしく言う。

 

「九郎左衛門尉殿は、ずいぶんと織田に肩入れなさる」

 

景紀は冷たく返した。

 

「朝倉家を案じているだけです」

「ならば、もっと越前を信じることですな」

 

景鏡はそう言って、勝手に満足した顔で去った。

 

景紀は、その背を見送ることもせず、深く息を吐いた。

 

越前を信じる。

朝倉を信じる。

その言葉は美しい。

だが今、必要なのは祈りではなく手だ。

それを出せぬまま、家は沈む。

 

その夜、景紀が館へ戻ると、美景姫はもう父の顔を見ただけで分かったらしかった。

 

「……通りませんでしたか」

 

景紀は、答える前に重く腰を下ろした。

 

「通らぬ」

 

美景姫は、静かに目を閉じた。

 

「やはり」

「左衛門督殿は“少し考える”と仰せだ」

 

美景姫は、その言葉に、かえって表情を硬くした。

 

「それが、いちばん悪うございます」

 

「分かっておる」

景紀は、疲れた声で言った。

「分かっておるが、届かぬ」

 

美景姫は、しばらく黙っていた。

やがて、ぽつりと呟く。

 

「時間が、もう味方ではありませんね」

 

景紀は、その言葉にだけ、返す言葉を持たなかった。

 

 

敦賀の夜は、妙に静かだった。

 

静かであることが、かえって不吉に思える夜がある。

九郎左衛門尉景紀にとって、その夜はまさにそういう夜だった。

 

評定は終わった。

終わったが、何も決まってはいない。

いや、決まったのだ。

左衛門督義景は動かず、式部大輔景鏡はそれを支え、朝倉家はなお「少し考える」の内に留まる。

 

その先に何があるか。

景紀には、もう見えていた。

 

滅ぶ。

 

その二文字を、声に出して言うことはまだできない。

だが、父としては、家臣としては、そして宗滴公の家を継ぐ者としては、もうそこから目を逸らすわけにはいかなかった。

 

景紀は、しばらく灯の前で黙っていた。

机の上には、将軍義輝の書状。

越後の弾正少弼輝虎からの手紙。

そして、美景姫が鶴姫とやり取りしていた文の束。

 

それを見ているうちに、景紀の中で一つの考えが、ついに形になった。

 

「……娘だけでも」

 

口に出した時、その声は思ったより掠れていた。

 

朝倉を救えるかは分からぬ。

左衛門督義景を動かせるかも分からぬ。

式部大輔景鏡を抑えられる見込みも薄い。

だが、それでも、娘だけでも助けたい。

 

その親心が、最後に残った。

 

美景姫は、少し離れたところで父を見ていた。

父が何を思っているか、もう半分以上は分かっている顔だった。

 

「父上」

 

景紀は、ゆっくりと娘を見た。

 

「何だ」

「……そのお顔は、もう決められたのですね」

 

景紀は、少しだけ苦く笑った。

 

「お前には隠せぬな」

「隠されても困ります」

「そうだな」

 

少しの沈黙。

 

景紀は、美景姫の前に、鶴姫からの文を一通置いた。

 

「お前は、鶴姫殿と文を重ねてきた」

「はい」

「その嫁ぎ先は」

 

美景姫は、静かに答えた。

 

「織田治部大輔殿にございます」

 

景紀は頷いた。

 

織田家でも有名な名。

治部大輔信繁。

戦だけでなく、家中の整え方、三好の処し方、本願寺の退け方、四国への目配り、朝廷との繋ぎ。そのどれを取っても、ただの若武者では済まぬ男。

 

「ほんの少しの可能性だろうが」

景紀は、自分へ言い聞かせるように言った。

「それに賭ける」

 

美景姫は、そこで小さく息を吐いた。

 

驚きはなかった。

むしろ、父がようやくそこまで来たか、という顔に近かった。

 

「私を」

 

「助けたい」

景紀は、言い切った。

「朝倉がどうなるか、もう楽観はできぬ。ならば、せめてお前だけでも」

 

美景姫は、しばらく黙っていた。

それから、静かに首を振る。

 

「父上」

「何だ」

「私は、ただ逃がされるだけでは嫌でございます」

 

景紀の眉が少し動く。

 

「……」

 

「もし治部大輔殿へ文を出されるなら」

美景姫は、まっすぐ父を見た。

「“娘を助けてくれ”だけではなく、“朝倉がどう崩れるかを見てきた者として、まだ働ける”と書いてください」

 

景紀は、その言葉に胸を打たれた。

 

この娘は、やはりただ守られるだけの姫ではない。

だからこそ、助けたい。

そしてだからこそ、助けた先でも、生き残るだけでなく、立てる場を作らねばならない。

 

「……分かった」

 

景紀は、机へ向かって座った。

 

紙を置く。

筆を取る。

だが、すぐには書き出せない。

 

何と書けばよい。

朝倉の家臣として、あからさまに“我が家は滅ぶ”とは書けぬ。

だが、ただの儀礼文では意味がない。

治部大輔ほどの男に届かせるなら、薄い文では駄目だ。

 

景紀は、しばらく考えた末、ようやく筆を入れた。

 

治部大輔殿へ。

一朝倉家中に身を置く者として、軽々しく申し上げ難きことながら、近頃の家中のありよう、ことに上洛の儀と幕府への応対につき、深く憂うるところこれあり候――

 

そこまで書いて、景紀は一度筆を止めた。

 

美景姫が、黙ってその横顔を見ている。

 

景紀は、さらに書き進める。

 

もし時勢いよいよ傾き、朝倉の家名保ち難きに至るならば、せめて娘美景につき、鶴姫殿とのこれまでの文の縁を頼みに、御憐察を賜りたく候――

 

そこへ、ただの助命願いだけでは終わらせぬための一文を足す。

 

娘は女子ながら、近年の家中の動き、越前・敦賀の気配、また都と諸家の風聞につき、年に似合わず見立てを持つ者に候。もし御家中にて何らかの用向きがあらば、ただ庇護を受けるのみならず、働き得るやもしれず候――

 

書きながら、景紀は思った。

 

これは父の文だ。

同時に、家臣の文でもある。

朝倉を売るのではない。

だが、娘の命と先だけは、時勢の中へ投げ出さぬための文だ。

 

書き終えると、景紀は深く息を吐いた。

 

美景姫が、静かに問う。

 

「父上」

「何だ」

「送られますか」

 

「送る」

その答えに、もう迷いはなかった。

「鶴姫殿へではなく」

 

「はい」

 

「治部大輔殿へ、直接」

景紀は頷く。

「鶴姫殿との文の縁があるからこそ、最後はその先へ届かせる」

 

美景姫は、少しだけ目を伏せた。

 

「……治部大輔殿が、読んでくださるでしょうか」

 

景紀は、そこで小さく笑った。

 

「読む」

「なぜ、そう思われます」

「お前が、鶴姫殿とやり取りしていたことを、治部大輔殿が知らぬはずがない」

 

美景姫の口元が、ほんの少しだけ緩む。

 

「それは、たしかに」

 

「それに」

景紀は文を畳みながら言った。

「今のあの男は、こういう“ほんの少しの可能性”を捨てぬ」

 

それは、景紀の中で、もうほとんど確信に近かった。

 

石山本願寺を焼き潰さず、退かせる。

三好三人衆を討っても宗家は残す。

四国の新しい芽にも先に手を伸ばす。

そういう男なら、朝倉の内側から届くこの文も、たぶん捨てずに読む。

 

「届く」

 

景紀は、そう言って使者を呼んだ。

 

夜はまだ深い。

だが、この文は一刻でも早く越前を出したかった。

 

美景姫は、その支度を見ながら、静かに思った。

 

これで助かる保証などない。

ほんの少しの可能性にすぎない。

だが、何もしないで滅びを待つよりはましだ。

 

そして、その“ほんの少し”に手を伸ばした父を、少しだけ誇らしくも思った。

 

敦賀の夜を、密書は出ていく。

宛先は、治部大輔信繁。

 

それは、朝倉家の中から初めて、本気で織田の未来へ向けて投げられた細い糸だった。

 

 

密書が瀬田城へ届いたのは、夜もだいぶ更けてからだった。

 

公の使者ではない。

気づく者にだけ気づくような、細い筋で通された文。だからこそ、受け取った治部大輔は、封を見ただけで少しだけ顔を変えた。

 

「敦賀か」

 

机の向かいには、まだ鶴姫がいた。

夜更けに起きていてよい身ではない。だが、こういう時に限って、この人はなかなか引かない。

 

「鶴」

「はい」

「九郎左衛門尉景紀殿って、宗滴公の甥っ子だっけ?」

 

鶴姫は少し考える顔をした。

 

「いえ、確か宗滴公の長兄の孫、貞景公の息子だったはずです」

「それって何て言うんだ?」

「一族、でしょうね」

 

信繁は、そこで少し笑った。

 

「まあ、そうか」

手紙を開きながら、ぽつりと続ける。

「九郎左衛門尉殿って、宗滴公譲りの文武両道だったらしいね。某野望系ではあまり反映されてなかったけど」

 

鶴姫が、そこで珍しく少し辛い口調になった。

 

「仕方ないでしょう。あれは公平とはとても言えません」

「お、辛辣」

「しょせん、分かりやすく数字にした遊戯ですから」

「教養の項目があれば高かったかもね」

 

そこまで言ってから、信繁は文面へ目を落とした。

読み進めるほど、顔つきが変わる。

 

「……うん」

「どうでしたか」

「この人は助けるべきだろうね」

 

鶴姫が、そこで少しだけ目を細めた。

 

「また姫君を側室になさいますか?」

 

信繁は即座に顔を上げた。

 

「しねーよ」

「そうですか」

「というか、兄上たちに断りもなしにできないし、増やすつもりもない」

「はい」

「というか、鶴も早く寝なさい。お腹の子に障ったらどうする」

 

鶴姫は、少しだけ肩を竦めた。

 

「まだ大丈夫ですよ」

「大丈夫じゃない」

 

「それに」

鶴姫は、今度は少しだけ真面目な顔になる。

「個人的には、お救いしたい方ですから」

 

その言い方に、信繁は文を持ったまま少し頷いた。

 

「だよな」

「はい」

「とりあえず、明日にでも兄上たちに相談に上がる」

「ええ」

「鶴は休んでくれ」

「承知しました」

 

そう言いながらも、鶴姫はすぐには立たなかった。

信繁が文を畳み、封へ戻すところまで見届けてから、ようやく静かに席を立つ。

 

「治部殿」

「何だ」

「お怒りにはならぬでしょうが」

「うん」

「朝倉を討つと決まった時、向こうから細い糸が伸びてきた。そのこと自体を、上総介殿は面白がられるかもしれません」

 

信繁は、少しだけ笑った。

 

「たぶんそうだな」

「では」

「うん。だからもう寝ろ」

 

鶴姫は、そこで一礼して下がった。

 

翌日、信繁はその文を持って稲葉山へ上がった。

 

上総介兄上と勘十郎兄上がそろう場で、無駄な前置きはしなかった。

こういう話は、かえってまっすぐ入れた方が通る。

 

「朝倉を討伐する」

 

信繁がそう切り出すと、上総介兄上は静かに目を上げた。

 

「うむ」

「向こうの一族でも、それを近い現実だと感じている者もおるようです」

 

上総介兄上の口元が、ほんのわずかに動く。

 

「ほう」

 

信繁は、そのまま文を差し出した。

 

「敦賀郡司の九郎左衛門尉殿。その娘、美景姫」

 

勘十郎兄上が先に問う。

 

「美景姫」

「はい。例の、六角の若君の顔を小太刀で切り裂いた姫君です」

 

上総介兄上が、そこで少しだけ笑った。

 

「おもしろい」

その一言に、すでに興が乗っている。

「その者たちは、まだ時勢が読めるということか」

 

「鶴によれば」と信繁。

「美景姫は、当家が美濃を呑んでから、かなり危機感を持っていたそうです。また、宗滴公の築いた情報網を受け継ぎ、さらに拡大して運用しているとか。我らと同時期に、土佐の長曾我部家にも着目しておったそうです」

 

「数年前から当家を、しかも長曾我部家へもか」

勘十郎兄上が静かに言った。

「ただの後知恵ではないな」

 

「はい」と信繁。

「朝倉家中の空気と、都の流れと、当家の伸び方、さらには諸国の流れを、それなりに見ていたんでしょう」

 

上総介兄上は、文を受け取ってざっと目を走らせる。

読み方が速い。

だが、読み飛ばしているわけではない。

 

「女にしておくのは惜しい、ということか」

 

「ですね」

信繁は素直に頷いた。

「鶴も、“個人的にはお救いしたい”と申しておりました」

 

上総介兄上が、そこでわずかに目を上げる。

 

「ほう」

「ただし、上総介兄上の決定に異は唱えるつもりもないと」

「当然だ」

 

その返しは早かった。

だが、不機嫌ではない。むしろ、鶴姫がそこまで分かった上で言っていることを、ちゃんと受けている声だった。

 

しばらく、上総介兄上は文を見ていた。

 

九郎左衛門尉景紀。

娘、美景姫。

朝倉家の中でなお現実を見ている者。

そして、滅びを前にして、娘だけでも、あるいは娘を通じて残せるものだけでも残そうとする細い糸。

 

「会ってから決める」

 

上総介兄上は、文を置いてそう言った。

 

信繁が目を上げる。

 

「呼びますか」

 

「呼ぶ」

その声には、もう迷いがなかった。

「どのような面構えか、見てみたいものよ」

 

勘十郎兄上が、そこで静かに補足する。

 

「九郎左衛門尉父娘、両方でございますか」

 

「まずは、そうだな」

上総介兄上は少しだけ考えた。

「父だけでは弱い。娘だけでは軽い」

 

「はい」

「二人そろえて見た方が早い」

 

信繁は、そこで少しだけ安堵した。

 

助けると決まったわけではない。

だが、少なくとも切り捨てる前に会う。そこまで出れば十分だ。

 

上総介兄上は、なお文を指で軽く叩いた。

 

「朝倉の中にも、まだ目の開いている者がおる」

「はい」

「ならば、それを拾う価値はある」

「そう思います」

 

「ただし」

そこで声が少し低くなる。

「拾うことと、朝倉そのものを甘く見ることは別だ」

 

「もちろんです」

 

上総介兄上は頷いた。

 

「よい」

 

勘十郎兄上が、そこで一つ現実的な問いを置いた。

 

「どの名目で呼びますか」

 

信繁が答える。

 

「鶴と美景姫の文の縁があります。そこを細く使えば、不自然ではない」

 

「それだけでは弱い」と勘十郎兄上。

 

「九郎左衛門尉ほどの男が、娘の文の縁だけで動くとは見えにくい」

「では、敦賀郡司館へ、当家が“話を聞く”用意がある、と別に通した方がよろしいかと」

 

上総介兄上が頷いた。

 

「そうだな。公の筋は薄く、私の筋は太くしすぎぬ」

 

「承知しました」と信繁。

 

少し沈黙が落ちる。

 

その沈黙の中で、上総介兄上はふと笑った。

 

「治部」

「何です」

「お前、今のところ、拾う側に回る時はやけに嬉しそうだな」

 

信繁は、少しだけ肩を竦めた。

 

「だって、こういうのは当たりの可能性あるじゃないですか。宗滴公の情報網を受け継いでるなら、畿内の情報の精度は格段に上がります」

 

勘十郎兄上が静かに言う。

 

「人材蒐集の顔を隠せ」

「無理です」

「無理か」

 

上総介兄上は、そこで声を立てずに笑った。

 

「よい。会わせてみよ」

 

それで、この件は動き出した。

 

朝倉家は、まだ上洛せぬ。

義景はまだ決めぬ。

景鏡はまだ笑っている。

 

だが、その家の内側から、細い糸はもう織田へ伸びてきている。

信繁は、その糸を見ながら思った。

 

――こういう糸を捨てないのが、たぶん今のうちの強みなんだろうな。

 

 

数日後、敦賀の館へ返書が届いた。

 

景紀は、使者の気配を聞いた時点で、もう半分は察していた。

返ってくるなら早い方がよい。遅れる文は、だいたい中身が薄い。

だが、今回の返書は早かった。

 

封を切る手が、わずかに重い。

 

美景姫も、少し離れて控えていた。

父が一人で読むと言えば下がるつもりだったが、景紀はそれをしなかった。最初から、この文は二人で受けるべきものだと分かっていた。

 

景紀は、静かに文を開いた。

 

「……」

「父上」

「待て」

 

読み進める。

短い。

だが、短いからこそ、余計な飾りがない。

 

治部大輔信繁の名でありながら、そこには上総介信長と勘十郎信勝の意向も、すでに薄く通っているのが分かる文だった。

 

やがて景紀は、文を閉じた。

 

美景姫が、父の顔を見つめる。

 

「いかがでしたか」

 

景紀は、文を机へ置いた。

 

「来い、とのことだ」

 

美景姫の目が、ほんの少しだけ動いた。

 

「……二人で、ですか」

「うむ」

「父上だけではなく」

「お前もだ」

 

少しの沈黙。

 

安堵か。

緊張か。

そのどちらともつかぬ気配が、部屋の中を薄く満たす。

 

「会ってから決める、とのことでしょうか」

 

美景姫がそう言うと、景紀は小さく頷いた。

 

「その通りだ」

「軽々しく助けるとは書いていない」

「書いておらぬ」

「ですが、切ってもいない」

「うむ」

 

美景姫は、そこで初めて少しだけ息を吐いた。

 

「……十分です」

 

景紀も同じ気持ちだった。

 

助ける。

拾う。

庇護する。

そうした言葉が、最初から文に並ぶはずもない。

今の彼らに許されているのは、“会う価値はある”と見てもらうところまでだ。

 

それでも十分だった。

 

景紀は、しばらく黙ってから言った。

 

「行くぞ」

 

美景姫は、すぐには答えなかった。

その代わり、一度だけきちんと父を見る。

 

「はい」

「怖いか」

「少しは」

「儂もだ」

 

その返しに、美景姫はほんのわずかに口元を緩めた。

 

「父上でも」

 

「当然だ」

景紀は、そこで苦く笑った。

「織田は、いまやただの武家ではない。将軍家と朝廷の理に触れ、三好を残し、本願寺を退けるところまで来ておる」

 

「はい」

「そういう相手の前に出るのだ。怖くないわけがない」

 

「ですが」

美景姫は、静かに続ける。

「行かねば、もっと悪い」

 

景紀は頷いた。

 

「その通りだ」

 

旅支度は、表向きにはあくまで穏やかに整えられた。

 

大勢を引き連れて行くわけにはいかない。

あまりに仰々しければ、朝倉家中の中で余計な勘ぐりを呼ぶ。

逆に、ひどく細い供回りでも、こちらの覚悟が軽く見える。

 

だから、必要最低限より少しだけ厚い程度。

敦賀郡司家としての体面は保ちつつ、しかし逃避行には見えぬように。

そのあたりの整え方は、さすがに景紀もよく分かっていた。

 

出立の前夜、景紀は美景姫へ言った。

 

「一つだけ、覚えておけ」

「はい」

「お前は、哀れまれに行くのではない」

 

美景姫の姿勢が、少しだけ正される。

 

「……はい」

「見られに行く。値踏みされる。だが同時に、お前も向こうを見る」

「承知しております」

「治部大輔殿がどのような男か。鶴姫殿がどのようにそこへ立っているか。上総介殿が何を見るか。全部だ」

「はい」

 

「そして」

景紀は少し間を置いた。

「もし向こうが本当に拾う気なら、その時は遠慮するな」

 

美景姫は、そこで初めて少しだけ目を伏せた。

 

「父上は」

「何だ」

「私だけでも残れば、それでよいと思っておられますか」

 

景紀は、その問いにしばらく答えられなかった。

 

それは、たしかに最初の親心だった。

娘だけでも助けたい。

だが、ここまで来ると、もうそれだけでは済まないことも分かっている。

 

「よい、とは思わぬ」

景紀は、静かに言った。

「だが、最悪に備えるのが親の役目だ」

 

美景姫は、ゆっくりと頷いた。

 

「……はい」

 

翌朝、父娘は敦賀を出た。

 

冬の道は冷たい。

だが、天気は崩れていない。

馬の足も重くはない。

 

道中、二人とも口数は多くなかった。

話すべきことは、出立前にだいたい終えている。

今さら無理に言葉を足しても、心の重さは軽くならない。

 

ただ、途中で一度だけ、美景姫がぽつりと聞いた。

 

「父上」

「何だ」

「治部大輔殿は、どのような方だと思われますか」

 

景紀は、しばらく考えた。

 

「厄介な男だろう」

「厄介」

「人を切るべき時に切る。残すべき時には残す。その線を、若いくせに妙に分かっておる」

「……」

「しかも、その線引きに理がある」

 

美景姫は、その答えを静かに飲み込んだ。

 

「鶴姫殿が、あの方を支えておられるのも、何となく分かる気がします」

 

景紀は、そこには少しだけ笑った。

 

「お前も、だいぶ鶴姫殿の文を読んできたからな」

「ええ」

「どう見る」

「怖い方だと思います」

「それは治部大輔殿か。鶴姫殿か」

「両方です」

 

その返しに、景紀は小さく息を漏らした。

 

「たしかに」

 

そうして父娘は、織田方の地へ入った。

 

迎えは、思っていたより整っていた。

だが、整いすぎて威圧するようなものではない。

礼を守り、しかしこちらが軽くも見られていないと分かる人数と並び方。

 

その中に、見慣れぬはずなのに、なぜかすぐ分かる顔があった。

 

治部大輔信繁である。

 

若い。

だが、その若さに似合わぬ疲れ方と、妙な親しみやすさと、どこか一歩先まで見ている目が同居している。

そしてそのすぐ横に、鶴姫がいた。

 

鶴姫は、美景姫を見るなり、表情を大きくは崩さない。

だが、目だけが少し柔らかくなった。

 

「ようこそお越しくださいました」

 

景紀が礼を取る。

 

「朝倉九郎左衛門尉景紀にございます」

「織田治部大輔信繁です」

 

信繁も礼を返した。

 

「文は読んだ。まずは来てくれてありがとう」

 

その一言が、思っていたより軽くなかった。

 

来たこと自体を、もう一つの決断として受け取っている声だった。

 

景紀は、その場で少しだけ腹を決める。

 

「こちらこそ、お目通り叶い、ありがたく存じます」

 

信繁は、次に美景姫を見る。

 

「あなたが美景姫殿」

 

美景姫は、静かに一礼した。

 

「はい」

「鶴から、文は聞いてる」

 

その言い方に、美景姫は少しだけ救われた。

“鶴姫の友である姫君”として最初の一歩を受けてもらえたからだ。

 

鶴姫が、そこで小さく言った。

 

「長旅、お疲れでしょう」

「大事ございません」

「無理はなさらず」

「ありがとうございます」

 

そこへ信繁が、いつもの調子で少しだけ場を崩した。

 

「まあ、いきなり重い話から入るのも何だから、まずは休んでくれ」

 

景紀が、少し意外そうに信繁を見る。

 

信繁は肩を竦めた。

 

「こっちも、会ってすぐ全部決める気はない。見る。話す。そのうえでだ」

 

景紀は、その言い方を聞いて思った。

 

――やはり、あの文の通りの男だ。

 

軽く見せながら、線は最初から引いている。

助けるとも言わぬ。

だが、見捨てるとも言わぬ。

 

まずは会う。

まずは話す。

そうして値を量る。

 

景紀にとって、それはむしろありがたかった。

安易な憐れみより、よほど信用できる。

 

「承知致しました」

 

そう答えた時、景紀はようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 

朝倉の内から伸ばした細い糸は、たしかに織田へ届いた。

そして今、その糸を、目の前の男が自分の手で確かめようとしている。

 

それだけで、まだ何も決まっていないのに、少しだけ先が見えた気がした。

 

 

上総介兄上との謁見は、翌日に定まった。

 

景紀父娘は一晩を瀬田で過ごしたが、落ち着けたかと問われれば、たぶん落ち着けてはいない。

当然だ。

敦賀から細い糸を投げ、織田へ届いた。その先で、今度は織田家の主その人の前へ出る。

 

しかも相手は、ただの勢いある大名ではない。

将軍家と朝廷を背にし、三好を裁き、本願寺を退かせ、大坂を起こし始めた男。

その織田上総介信長である。

 

案内は信繁が務めた。

 

廊を進む間、景紀は余計なことを一つも言わなかった。

美景姫も同じだった。

だが、黙っていても分かる。二人とも、これから何を見られるのかを考えている。

 

信繁は、広間の手前で一度だけ足を止めた。

 

「九郎左衛門尉殿」

「はい」

「上総介兄上は、見て決める人だ」

 

景紀は静かに頷く。

 

「承知しております」

「だから、変に取り繕うよりは、そのままの方がいい」

「……そのまま、ですか」

「うん。朝倉の中で何を見て、何を怖れて、何を残したいのか。そこが通れば、たぶん早い」

 

美景姫が、そこで初めて口を開いた。

 

「通らねば」

 

信繁は、少しだけ笑った。

 

「その時は、その時だな」

 

軽いようでいて、妙に冷たくはない返しだった。

美景姫は、その答えにだけ少し安心した。

この男は、期待だけを持たせて甘やかす気はない。だが、見もしないうちに切る気もなさそうだ。

 

広間へ通される。

 

上座に上総介兄上。

その脇に勘十郎兄上。

少し下がって信繁。

十兵衛もいる。

場は静かで、よけいな人数は置いていない。だが、それだけに空気が薄まらない。

 

景紀と美景姫は、定められた位置で礼を取った。

 

「敦賀郡司、朝倉九郎左衛門尉景紀にございます」

「その娘、美景にございます」

 

上総介兄上は、すぐには何も言わなかった。

 

まず景紀を見る。

次に美景姫を見る。

最後に、ほんのわずかに信繁を見る。

 

その視線だけで、すでに“文の通りかどうか”を量っているのが分かる。

 

やがて上総介兄上が口を開いた。

 

「九郎左衛門尉」

「は」

「文は読んだ」

「恐れ入ります」

 

「朝倉の内より、そのような文を出す」

上総介兄上の声は平らだった。

「軽い覚悟ではあるまいな」

 

景紀は、そこで一切逃げなかった。

 

「軽くはございませぬ」

「うむ」

「されど、軽くないからこそ、出しました」

 

上総介兄上の目が、わずかに細くなる。

 

「朝倉は滅ぶ、と見ておるか」

 

広間が少しだけ冷えた。

 

勘十郎兄上は無言。

信繁も口を挟まない。

ここは、景紀が自分で答えねばならぬ場だ。

 

景紀は、頭を下げたまま言う。

 

「……このままでは、保ち難いと見ております」

「このままでは、か」

「はい」

「何が足りぬ」

 

景紀は、そこでようやく顔を上げた。

 

「決断にございます」

 

上総介兄上は黙る。

続けよ、という沈黙だった。

 

「将軍義輝公よりの上洛催促。越後の弾正少弼殿よりの諫め。都の気配。畿内の変化。そのいずれを前にしても、左衛門督殿はなお“少し考える”に留まられます」

「……」

「式部大輔景鏡は、それを支えます」

 

勘十郎兄上が、そこで初めて口を開いた。

 

「景鏡が、そこまで家中を動かしておるか」

 

景紀は頷く。

 

「はい。少なくとも、上洛を避ける理屈を与え続けております」

 

上総介兄上が、小さく鼻を鳴らした。

 

「織田の下風には立てぬ、とでも申しておるか」

 

景紀の目が、ほんのわずかに動く。

 

「……そのようなことも」

 

上総介兄上は、そこでようやく笑った。

楽しげではない。

だが、ああやはりそこか、と腑に落ちた時の笑いだった。

 

「下風」

上総介兄上は、ゆっくりとその言葉を繰り返した。

「風向きも読めぬ者が、よう申す」

 

景紀は、その一言にだけ、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。

少なくとも、この男は朝倉の内の停滞を、ただの敵の弱さとしてではなく、“理の鈍さ”として見ている。

 

「それで」と上総介兄上。

「そなたは、何を望む」

 

景紀は、一瞬だけ息を詰めた。

 

ここが本題だった。

助けてくれ。

そう直截に言うのは簡単だ。

だが、それだけでは駄目だと、美景姫にも言われている。

 

「娘を」

景紀は、静かに言った。

「美景を、ただ憐れみで拾って頂きたいのではございませぬ」

 

上総介兄上の目が、美景姫へ移る。

 

「ほう」

「この娘は、近年の朝倉家中、敦賀の動き、都の風聞、浅井家との文など、よく見ております」

「文」

 

上総介兄上が、少しだけ横目で信繁を見た。

 

信繁は頷く。

 

「鶴と数年にわたってやり取りをしていました」

「うむ」

 

景紀は、そこで言葉を継いだ。

 

「もし御家中に置いて頂けるなら、ただ庇護を受けるだけではなく、何らかの働きもできるやもしれませぬ」

 

広間は静かだった。

 

この場で、娘を売るような言い方はしたくない。

だが、ただ“助けてくれ”でも足りない。

そのぎりぎりのところを、景紀は必死で言葉にしている。

 

上総介兄上は、そこで初めて美景姫へまともに問いを向けた。

 

「美景姫」

「は」

「そなたも、父と同じく、朝倉はこのままでは危ういと見ておるか」

 

美景姫は、少しも怯まなかった。

 

「はい」

「なぜ」

「都の理が、もう変わっているからにございます」

 

上総介兄上の目が、わずかに細くなる。

 

「申せ」

「かつての朝倉は、都へ近い名門でございました。されど今は、都の側がこちらへ寄るのではなく、こちらが都の変化に遅れております」

 

勘十郎兄上が、静かに聞いている。

 

美景姫は続けた。

 

「三好三人衆が消え、宗家は残り、本願寺も石山を退き、大坂には新しい城が建ち始めた」

「……」

「そのすべてが、幕府と朝廷の理を通して動いております」

「うむ」

「にもかかわらず、朝倉はなお越前一国の大名として時勢を見ております」

 

上総介兄上は、そこで口元を少しだけ動かした。

 

「女にしておくには惜しい、と治部が申したが」

 

美景姫は、その言葉にも顔色を変えなかった。

 

「ありがたきことにございます」

「惜しいかどうかは、まだ分からぬ」

「はい」

 

「だが」

上総介兄上は、ほんの少しだけ身を乗り出した。

「面構えは悪くない」

 

その一言で、場の空気が少し変わる。

 

信繁は、内心で少しだけ息を吐いた。

最初の関門は越えた。

上総介兄上が“見てみたい”と言っていたその見極めは、少なくとも悪い方へは転んでいない。

 

だが、そこで終わらないのが上総介兄上だった。

 

「九郎左衛門尉」

「は」

「そなたは、娘だけでも助けたいと思うた」

「……はい」

「そなた自身はどうする」

 

その問いは、重かった。

 

景紀は、そこで初めて少しだけ言葉に詰まった。

自分の命。

自分の立場。

朝倉の中に残るか、娘とともに織田へ寄るか。

それは、文を出した時点では、まだ答えを出し切っていないところだった。

 

上総介兄上は、逃がさない。

 

「娘だけを押し出し、自分は朝倉へ残る」

「……」

「それも一つの道だ」

「はい」

「だが、そなたもまた、宗滴の家を継ぐ者であろう」

 

景紀の目が、はっきりと動いた。

 

そこを突かれるのは痛い。

娘だけではない。

宗滴公の流れをどうするか。

それは朝倉の中に残すのか、外へ繋ぐのか。

 

上総介兄上は、そこへあえて答えを与えなかった。

 

「今ここで決めよとは言わぬ」

「は」

「だが、いずれ決めることになる」

 

景紀は、深く頭を下げた。

 

「肝に銘じます」

 

上総介兄上は、そこでようやく身体を戻した。

 

「よい」

その声で、場の第一段は終わったと分かる。

「しばらくは瀬田に置こう」

 

信繁が目を上げる。

 

「よろしいのですか」

「うむ」

「九郎左衛門尉父娘、すぐにどうこうは決めぬ」

「はい」

「見て、話して、それからだ」

 

勘十郎兄上も頷いた。

 

「それがよろしいかと」

 

「ただし」

上総介兄上の目が少しだけ鋭くなる。

「朝倉を討つべき時が来れば、情で鈍らせるつもりはない」

 

景紀が、そこで顔を上げた。

 

「承知しております」

「そのうえで、なお来たのだな」

「はい」

 

上総介兄上は、そこでようやく満足したように頷いた。

 

「ならばよい」

 

美景姫も、静かに礼を取る。

 

「ありがたく存じます」

 

謁見を終えて退出する時、信繁は父娘の背を見ながら思った。

 

兄上は、やはり拾う気だ。

ただし、即座にではない。

瀬田へ置き、見て、量って、それから使い道まで考える。

そういう拾い方をする。

 

廊へ出たところで、景紀はようやく小さく息を吐いた。

 

「……生きた心地が致しませなんだ」

 

信繁が、少しだけ笑う。

 

「だろうな」

「治部大輔殿は、毎度あれに向き合っておられるのか」

「毎度だよ」

 

美景姫が、そこで初めて少しだけ口元を緩めた。

 

「慣れとは恐ろしいですね」

「慣れたくて慣れたわけじゃない」

 

その返しに、ようやく父娘の顔にも、ほんの少しだけ色が戻った。

 

朝倉から伸びた細い糸は、これでただ届いただけではない。

一度、上総介兄上の手に触れた。

 

その意味は、まだ誰にも分からない。

だが少なくとも、この父娘はもう“朝倉の内にいるだけの人間”ではなくなった。

 

 

 

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