織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
永禄七年の正月、稲葉山城はめずらしく、やけに明るかった。
戦がないわけではない。
遠征も、仕置きも、普請も、相変わらず山ほどある。
だが、それでも新年の宴席だけは、城中に少しだけ気の緩む時間を許す。
その宴の席で、今年最初に大きく笑いを取った話題は、まことにどうでもよいようで、しかし当人たちにとってはどうでもよくない話だった。
お濃の方と、生駒吉乃の同時懐妊。
そして、そこからなぜか派生して、
「治部の名人芸」
が話題の中心になった。
「いや、なぜそうなるんですか」
治部大輔が、すでに何度目か分からぬ抗議をした。
だが、誰も聞いていない。
「何しろ昨年は、真理姫様、雪姫様、お市様、義姫様、鶴姫様と続けざまに」
「双子は多幸腹と呼ぶし」
「助右衛門の祝言では号泣なさるし」
「治部様は、そちらもまた名人芸にございますな」
「やめろ!」
爆笑が起きた。
お濃は、呆れたように、しかし少し面白そうに言う。
「治部殿、もう諦めたらどうです」
「諦められますか」
生駒吉乃も、やわらかく笑った。
「でも、祝いの席で名が出るのは悪いことではございませんよ」
「いや、そういう問題じゃ」
そこへ、どこからともなく、
「上総介様も名人では?」
という声が上がった。
その瞬間だった。
座が、ぴたりと止まった。
笑っていた者も、杯を持ちかけていた者も、全員が一瞬で静まる。
上総介兄上は、にこりともせず、ただその方向を見た。
たったそれだけで十分だった。
「……」
誰も何も言わない。
勘十郎兄上だけが、静かに杯を置いた。
「兄上のことを、そういう話で軽々しく巻き込むな」
低い声だったが、よく通った。
「しかも、わが家も昨年三男が生まれておる。そちらまで混ぜる気か」
「い、いえ、その」
「なら黙れ」
「は、はい」
それで終わった。
座の空気は一度しんとしたが、やがて伊勢守が、わざとらしく咳払いをして言う。
「では、やはり治部殿だけが名人ということで」
「おい」
また笑いが戻る。
こういうところで伊勢守は便利だった。
だが、宴席の笑いの裏では、別の重い話も動いていた。
足利将軍義輝からの書状。
朝倉家へ向けた、上洛を促す催促である。
それが、何度送られても、朝倉は一向に動かなかった。
義輝の我慢も、もう限界だった。
「左衛門督は、いつまで幕府の声を聞こえぬふりをしておる」
将軍御座所で、その言葉が出た時、周囲は誰も軽くは受け取らなかった。
義輝は、もともと軽々しく怒気を見せる人ではない。
だが、その静かな人が、本気で腹を立てると、むしろ怖い。
「越前一国の主であるだけなら、好きにすればよい」
義輝は、書状の文面を見ながら言った。
「だが、幕府の求めに応じると見せて引き延ばし、我が意を軽んじるなら、それは別だ」
信光が黙って頭を垂れる。
信繁も、そこでは口を挟まない。
「最後通牒を送る」
その声には、もう迷いがなかった。
「上洛の誠意を示せ。さもなくば、幕府に弓引く者として扱う」
それは、剣豪将軍の怒りだった。
怒鳴り散らすのではない。
明確な線を引く。
その線を、今度は本気で越えるなと告げる。
一方その頃、敦賀では、別の溜め息がつかれていた。
敦賀郡司。
朝倉宗滴の跡を継いだ九郎左衛門尉景紀の館。
その一室で、美景姫は、浅井の鶴姫から届いた手紙を前に、しばらく黙っていた。
「……速すぎる」
ぽつりと漏れた声に、景紀が娘を見る。
「何がだ」
美景姫は、手紙を畳まず、そのまま机へ置いた。
「何もかもです」
「鶴姫殿から、また面倒なことでも書いてあったか」
「面倒、というより」
美景姫は、そこで深く息を吐いた。
「もう、向こうは我らが知る畿内ではございませぬ」
景紀は黙って聞いた。
美景姫は、指を折るように言う。
「織田家と足利幕府の融和」
「石山本願寺の平和裏の退去」
「三好三人衆は討たれ、宗家は残る」
「大坂には新しく巨大な城が建ち始め」
「四国では、長曾我部家まで妙に早く動いております」
「そして、その長曾我部家までもが織田に使者を送ったと」
景紀の眉がわずかに寄る。
「長曾我部」
「はい。土佐の動きが、どうにも変です」
「変、か」
「説明は難しゅうございます。ただ、土佐一国をまとめ上げるまでの動きが、あまりに噛み合いすぎております」
景紀は、その言い回しで娘がどの程度本気かを察した。
美景姫は、昔から少し変わっていた。
ただの姫君ではない。
人の動き、家の流れ、言葉の裏。
そういうものを見る目が、妙に鋭い。
そして今、その娘がこうして明確に嫌な顔をしている。
「父上」と美景姫。
「何だ」
「朝倉家は、いよいよ危のうございます」
景紀は、あえてすぐには返さない。
「左衛門督殿が上洛なさらぬことか」
「それもございます」
「それ“も”か」
美景姫は、そこで顔を上げた。
「今の朝倉家は、最悪の道へ向かっております」
景紀の目が細くなる。
「最悪とは」
「しかも」
美景姫は、言い切った。
「最も可能性の高い結末にございます」
静かだった部屋の空気が、そこで少しだけ重くなった。
景紀は、ゆっくりと問う。
「申してみよ」
美景姫は、少しも怯まなかった。
「左衛門督殿は、まだ“越前一国の大名”として物事を見ておられます」
「……」
「ですが、向こうはもう違います。織田は、幕府を担ぎ、朝廷を動かし、三好宗家を残しつつ三人衆を料理し、本願寺まで理で退けた」
景紀は、そこで小さく息をついた。
それは否定できない。
「にもかかわらず」と美景姫。
「こちらは、式部大輔殿が掣肘し、左衛門督殿は日々を乱し、上洛の機を失い続けております」
式部大輔。
朝倉景鏡。
景紀の顔が少しだけ固くなった。
「父上」と美景姫は続けた。
「このままでは、朝倉家は“都の理へ遅れた家”として扱われます」
「……」
「大樹の最後通牒は、ただの催促ではありませぬ。あれは、“今ならまだ幕府に従う家として残してやる”という、最後の頼みの綱にございます」
景紀は、黙って娘を見ていた。
美景姫の声は、そこで少しだけ低くなる。
「それを渡らねば」
「どうなる」
「朝倉は、いずれ越前の名門ではなく、“都の理に背を向けた旧家”として処断されます」
その言い方は、残酷だった。
だが、残酷だからこそ、現実味があった。
景紀が、ようやく問う。
「織田が大兵でもって攻めてくる、と」
「はい」
「そこまでか」
「そこまでです」
「浅井がある」
「鶴姫殿の手紙にも、そこは滲んでおります」
景紀の目が動く。
美景姫は続けた。
「浅井は、もはや朝倉の盾ではなく、織田家の味方にございます」
それを言われると痛い。
以前なら、朝倉・浅井の縁が、北近江・越前の結びつきとしてまだ物を言った。
だが今は違う。
織田家のお犬が浅井家に輿入れし、代わりに鶴姫が治部家に入り、浅井は丹波丹後へまで手を伸ばし、織田秩序の一翼になりつつある。
「つまり」と景紀。
「最悪とは」
美景姫は、そこで静かに答えた。
「上洛を拒み続ける」
「幕府の怒りを買う」
「織田に“朝倉を討つ大義”を与える」
「しかも浅井は、その時、朝倉のためには動かぬ」
景紀は、そこで初めてはっきりと顔をしかめた。
「……そこまで申すか」
「申します」
「勝てぬと」
美景姫は、一瞬だけ目を伏せた。
「兵力でいえば、織田家だけで我らが数倍、一〇万は出せましょう。同盟している浅井や徳川、北畠や工藤など、他の大名家の援軍を加えれば五~六倍ほどにもなる恐れもございます。それを相手に正面から戦うとして、一度二度の合戦なら、偶然が味方し、元寇の折りのごとく天祐があればまだ分かりませぬ。もっとも、蟷螂之斧にも等しいでしょうが」
「……」
「ですが、今の織田は、兵を使った戦だけでは来ませぬ。幕府、朝廷、公家、寺社、国衆、婚姻、その全部で首を絞めて参ります」
景紀は、そこでようやく理解した。
娘が怖れているのは、ただの侵攻ではない。
家そのものが、“時勢に遅れた旧家”として解体されていく未来だ。
「では」と景紀。
「どうする」
美景姫は、そこに一つだけ光を残した。
「父上が動くしかありませぬ」
「儂が」
「はい。左衛門督殿へ、今一度、上洛を迫る」
景紀は苦い顔をした。
「何度目だ」
「それでもです」
「式部大輔が邪魔をする」
「承知しております」
「左衛門督殿ご本人も、今の暮らしを崩したがらぬ」
「承知しております」
景紀は、そこで長く息を吐いた。
娘の言うことは、たぶん正しい。
だが正しいからといって、通るわけではない。
越前の家中もまた、理だけで動くほどきれいではない。
美景姫は、そんな父の顔を見て、少しだけ声を和らげた。
「父上」
「何だ」
「私も動きます」
景紀が顔を上げる。
「鶴姫殿との文も、続けましょう」
「……」
「向こうが、まだ朝倉を“話の通じぬ相手”とは切っていないうちに、できることをしておくべきです」
景紀は、娘の顔をしばらく見ていた。
宗滴公の血脈は途絶えた。宗滴公自身は廃嫡し、仏門に入った 蒲庵古渓以外実子がいないまま死去したため、同じ朝倉一族といっても、養子に入った自分が大甥であり、正しくは血を継いではいない。
だが、養子として宗滴公に育てられた景紀とその娘である美景姫自身も、幼き頃は宗滴公の薫陶を受けていた。
美景姫はただの姫ではない。早くから織田家の動向に着目し、朝倉家との激突を予想していた。かつて宗滴公が築き上げた情報網を受け継ぎ、畿内は元より、西国や東北にも諸家の情報を得るための根を張り巡らした。ゆえにこそ今の流れをちゃんと怖がれる女である。
「分かった」
ようやく、そう答える。
「儂も、もう一度、左衛門督殿へ申す」
美景姫は、静かに頭を下げた。
だが二人とも、分かっていた。
この“もう一度”が通る保証はない。
むしろ、通らぬ可能性の方が高い。
だからこそ、美景姫は最悪と言ったのだ。
外では、冬の空気が敦賀の夜を冷たくしていた。
越前の静けさは、畿内の静けさとは違う。
こちらはまだ、嵐の前の静けさだった。
そしてその嵐が、どこから来るのか。
もう、見誤る段は過ぎていた。
♢
越前一乗谷の評定の間には、重たい空気が沈んでいた。
冬の冷え込みのせいだけではない。
卓上に置かれた二通の書状が、その場にいる者たちの目を鈍く曇らせていたからだ。
一つは、将軍義輝よりの上洛催促。
そしてもう一つは、越後の弾正少弼輝虎よりの手紙。
**上洛を急がれたし。**
文面は簡潔だった。
だが、簡潔だからこそ逃げ場がない。
それを前にしてなお、朝倉左衛門督義景は、覇気のない顔で座していた。
以前と比べ痩せたわけではない。病み伏しているわけでもない。だが、どこか人の言葉を自分の中へ深く入れぬ、膜のようなものが張っている。
「……また急げ、か」
義景が、気の抜けた声で言った。
誰もすぐには答えない。
九郎左衛門尉景紀は、その沈黙の中で一歩進み出た。
敦賀郡司として、宗滴の跡を継ぐ者として、そして朝倉家をまだ何とか保たねばならぬと思う者として、もう黙っている段ではなかった。
「左衛門督殿」
景紀の声は抑えられていたが、芯があった。
「今度ばかりは、上洛なさらねばなりませぬ」
義景は、ゆっくり景紀を見た。
「九郎左衛門尉、そなたもそれを申すか」
「申します」
「織田が都で好きに動いておるのは、今に始まったことではあるまい」
「今に始まったことではございませぬ。ですが、今はその“積み重ね”が違います」
景紀は、そこで机上の書状へ目を落とした。
「三好三人衆は滅び、三好宗家は残され、本願寺すら石山を退いて大谷へ戻った」
評定の空気が少しだけ張る。
「将軍家と朝廷の理は、すでに織田を通じて畿内各地へ通っております。ここでなお上洛を引き延ばせば」
「引き延ばせば、何だ」
義景の声には、苛立ちというより、面倒を嫌う響きがあった。
景紀は、そこを一歩も退かなかった。
「朝倉家が、都の理を軽んずる家と見られます」
義景の眉がわずかに寄る。
だが、そこで横から、嘲るような笑いが入った。
「はっ」
式部大輔景鏡である。
「九郎左衛門尉殿は、相変わらず都風にかぶれておられる」
景紀がそちらを見る。
「式部大輔殿」
「将軍が呼ぶ。越後の長尾が煽る。だから何だというのだ」
景鏡は、露骨に鼻で笑った。
「織田の下風になぞ立てるか!!」
その声は、評定の間にやけに大きく響いた。
「尾張上がりの成り上がりが、たまたま都へ兵を入れたからとて、なぜ我ら朝倉が、いちいち顔色を見て動かねばならぬ!」
義景は、その言葉にだけは少し気を良くしたような顔をした。
そこが景紀には苦しかった。
景紀は、低く言った。
「誰も、織田の下風に立てとは申しておりませぬ」
「同じことだ!」
景鏡が即座に切る。
「上洛せよだの、将軍へ誠を見せよだの、結局は織田が都で作った流れへ乗れという話ではないか!」
「違う」
景紀の声も、ここで少しだけ強くなった。
「今の都の理を無視し続ければ、朝倉家に“討つ理”を与えると申しておるのです」
景鏡の目が鋭くなる。
「ほう」
「将軍家の催促を無視し、越後からの誼も無視し、なお上洛の誠を示さぬ。そこまで重なれば、もはや“越前の独立した大名”では済みませぬ」
「脅しか」
「現実です」
義景が、その言い争いを半ばぼんやりと見ていた。
そこが、何よりも痛かった。
景紀は、その主の方へ向き直った。
「左衛門督殿」
「……」
「今ならまだ、“幕府に従う家”として上洛できます」
「今なら、か」
「はい。今を逃せば、次は“催促”ではございませぬ」
義景は、そこで少しだけ視線を逸らした。
「都は、厄介だ」
景紀は、その弱音めいた一言に、胸の奥が冷えるのを感じた。
「厄介だからこそ、行かねばなりませぬ」
「越前にいても、家は保てよう」
景鏡が、そこへまた差し込む。
「何を好んで、都の泥水へ足を突っ込む必要がある」
「都を避けて済む時勢ではない」と景紀。
「今の朝倉が越前一国だけで安泰なら、誰もここまで申さぬ!」
「大げさだな」
「大げさではない!」
珍しく、景紀の声が張った。
場が、ぴたりと止まる。
景紀は、そのまま言い切った。
「将軍の最後通牒でございますぞ!」
義景の顔が、そこでようやく少しだけ動いた。
景鏡は、なおも嘲るように言った。
「最後通牒、最後通牒と、ずいぶん怯えておるな」
「怯えているのではない」
景紀は、ゆっくり言葉を置いた。
「見えているだけです」
「何が見える」
「このままでは、朝倉家が“都の理に背を向けた旧家”として扱われる、その先が」
景鏡が、そこで舌打ちに近い息を漏らした。
「くだらぬ」
「くだらぬかどうかは、左衛門督殿がお決めになること」
景紀は、そう言って義景へ向き直る。
「ですが、父祖の名と宗滴公の遺したものを思われるなら、今ここで動くべきです」
宗滴。
その名だけは、この場の誰にも軽くはなかった。
義景の顔に、一瞬だけ迷いの影が差す。
だが、それも長くは続かなかった。
「……少し、考えよう」
景紀は、その返答に、胸の奥で鈍い痛みを覚えた。
少し考える。
またそれだ。
ここまで来てなお、即断ではなく、先送り。
景鏡は、ほとんど勝ったような顔をしている。
「左衛門督殿、それでよろしゅうございます。織田や長尾に急かされて動く必要など」
景紀は、その声を聞きながら思った。
――駄目だ。
美景姫の言った通りだった。
最悪の結末が、しかも最もありそうな形で、もう目の前まで来ている。
だが、この場でそれを叫んでも、もはや届かぬ。
義景の耳には、景鏡の“まだ動かなくてよい”の方が甘く響いている。
評定が終わり、人が引き始めたあとも、景紀はしばらくその場を動けなかった。
景鏡が通りすがりざま、わざとらしく言う。
「九郎左衛門尉殿は、ずいぶんと織田に肩入れなさる」
景紀は冷たく返した。
「朝倉家を案じているだけです」
「ならば、もっと越前を信じることですな」
景鏡はそう言って、勝手に満足した顔で去った。
景紀は、その背を見送ることもせず、深く息を吐いた。
越前を信じる。
朝倉を信じる。
その言葉は美しい。
だが今、必要なのは祈りではなく手だ。
それを出せぬまま、家は沈む。
その夜、景紀が館へ戻ると、美景姫はもう父の顔を見ただけで分かったらしかった。
「……通りませんでしたか」
景紀は、答える前に重く腰を下ろした。
「通らぬ」
美景姫は、静かに目を閉じた。
「やはり」
「左衛門督殿は“少し考える”と仰せだ」
美景姫は、その言葉に、かえって表情を硬くした。
「それが、いちばん悪うございます」
「分かっておる」
景紀は、疲れた声で言った。
「分かっておるが、届かぬ」
美景姫は、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「時間が、もう味方ではありませんね」
景紀は、その言葉にだけ、返す言葉を持たなかった。
♢
敦賀の夜は、妙に静かだった。
静かであることが、かえって不吉に思える夜がある。
九郎左衛門尉景紀にとって、その夜はまさにそういう夜だった。
評定は終わった。
終わったが、何も決まってはいない。
いや、決まったのだ。
左衛門督義景は動かず、式部大輔景鏡はそれを支え、朝倉家はなお「少し考える」の内に留まる。
その先に何があるか。
景紀には、もう見えていた。
滅ぶ。
その二文字を、声に出して言うことはまだできない。
だが、父としては、家臣としては、そして宗滴公の家を継ぐ者としては、もうそこから目を逸らすわけにはいかなかった。
景紀は、しばらく灯の前で黙っていた。
机の上には、将軍義輝の書状。
越後の弾正少弼輝虎からの手紙。
そして、美景姫が鶴姫とやり取りしていた文の束。
それを見ているうちに、景紀の中で一つの考えが、ついに形になった。
「……娘だけでも」
口に出した時、その声は思ったより掠れていた。
朝倉を救えるかは分からぬ。
左衛門督義景を動かせるかも分からぬ。
式部大輔景鏡を抑えられる見込みも薄い。
だが、それでも、娘だけでも助けたい。
その親心が、最後に残った。
美景姫は、少し離れたところで父を見ていた。
父が何を思っているか、もう半分以上は分かっている顔だった。
「父上」
景紀は、ゆっくりと娘を見た。
「何だ」
「……そのお顔は、もう決められたのですね」
景紀は、少しだけ苦く笑った。
「お前には隠せぬな」
「隠されても困ります」
「そうだな」
少しの沈黙。
景紀は、美景姫の前に、鶴姫からの文を一通置いた。
「お前は、鶴姫殿と文を重ねてきた」
「はい」
「その嫁ぎ先は」
美景姫は、静かに答えた。
「織田治部大輔殿にございます」
景紀は頷いた。
織田家でも有名な名。
治部大輔信繁。
戦だけでなく、家中の整え方、三好の処し方、本願寺の退け方、四国への目配り、朝廷との繋ぎ。そのどれを取っても、ただの若武者では済まぬ男。
「ほんの少しの可能性だろうが」
景紀は、自分へ言い聞かせるように言った。
「それに賭ける」
美景姫は、そこで小さく息を吐いた。
驚きはなかった。
むしろ、父がようやくそこまで来たか、という顔に近かった。
「私を」
「助けたい」
景紀は、言い切った。
「朝倉がどうなるか、もう楽観はできぬ。ならば、せめてお前だけでも」
美景姫は、しばらく黙っていた。
それから、静かに首を振る。
「父上」
「何だ」
「私は、ただ逃がされるだけでは嫌でございます」
景紀の眉が少し動く。
「……」
「もし治部大輔殿へ文を出されるなら」
美景姫は、まっすぐ父を見た。
「“娘を助けてくれ”だけではなく、“朝倉がどう崩れるかを見てきた者として、まだ働ける”と書いてください」
景紀は、その言葉に胸を打たれた。
この娘は、やはりただ守られるだけの姫ではない。
だからこそ、助けたい。
そしてだからこそ、助けた先でも、生き残るだけでなく、立てる場を作らねばならない。
「……分かった」
景紀は、机へ向かって座った。
紙を置く。
筆を取る。
だが、すぐには書き出せない。
何と書けばよい。
朝倉の家臣として、あからさまに“我が家は滅ぶ”とは書けぬ。
だが、ただの儀礼文では意味がない。
治部大輔ほどの男に届かせるなら、薄い文では駄目だ。
景紀は、しばらく考えた末、ようやく筆を入れた。
治部大輔殿へ。
一朝倉家中に身を置く者として、軽々しく申し上げ難きことながら、近頃の家中のありよう、ことに上洛の儀と幕府への応対につき、深く憂うるところこれあり候――
そこまで書いて、景紀は一度筆を止めた。
美景姫が、黙ってその横顔を見ている。
景紀は、さらに書き進める。
もし時勢いよいよ傾き、朝倉の家名保ち難きに至るならば、せめて娘美景につき、鶴姫殿とのこれまでの文の縁を頼みに、御憐察を賜りたく候――
そこへ、ただの助命願いだけでは終わらせぬための一文を足す。
娘は女子ながら、近年の家中の動き、越前・敦賀の気配、また都と諸家の風聞につき、年に似合わず見立てを持つ者に候。もし御家中にて何らかの用向きがあらば、ただ庇護を受けるのみならず、働き得るやもしれず候――
書きながら、景紀は思った。
これは父の文だ。
同時に、家臣の文でもある。
朝倉を売るのではない。
だが、娘の命と先だけは、時勢の中へ投げ出さぬための文だ。
書き終えると、景紀は深く息を吐いた。
美景姫が、静かに問う。
「父上」
「何だ」
「送られますか」
「送る」
その答えに、もう迷いはなかった。
「鶴姫殿へではなく」
「はい」
「治部大輔殿へ、直接」
景紀は頷く。
「鶴姫殿との文の縁があるからこそ、最後はその先へ届かせる」
美景姫は、少しだけ目を伏せた。
「……治部大輔殿が、読んでくださるでしょうか」
景紀は、そこで小さく笑った。
「読む」
「なぜ、そう思われます」
「お前が、鶴姫殿とやり取りしていたことを、治部大輔殿が知らぬはずがない」
美景姫の口元が、ほんの少しだけ緩む。
「それは、たしかに」
「それに」
景紀は文を畳みながら言った。
「今のあの男は、こういう“ほんの少しの可能性”を捨てぬ」
それは、景紀の中で、もうほとんど確信に近かった。
石山本願寺を焼き潰さず、退かせる。
三好三人衆を討っても宗家は残す。
四国の新しい芽にも先に手を伸ばす。
そういう男なら、朝倉の内側から届くこの文も、たぶん捨てずに読む。
「届く」
景紀は、そう言って使者を呼んだ。
夜はまだ深い。
だが、この文は一刻でも早く越前を出したかった。
美景姫は、その支度を見ながら、静かに思った。
これで助かる保証などない。
ほんの少しの可能性にすぎない。
だが、何もしないで滅びを待つよりはましだ。
そして、その“ほんの少し”に手を伸ばした父を、少しだけ誇らしくも思った。
敦賀の夜を、密書は出ていく。
宛先は、治部大輔信繁。
それは、朝倉家の中から初めて、本気で織田の未来へ向けて投げられた細い糸だった。
♢
密書が瀬田城へ届いたのは、夜もだいぶ更けてからだった。
公の使者ではない。
気づく者にだけ気づくような、細い筋で通された文。だからこそ、受け取った治部大輔は、封を見ただけで少しだけ顔を変えた。
「敦賀か」
机の向かいには、まだ鶴姫がいた。
夜更けに起きていてよい身ではない。だが、こういう時に限って、この人はなかなか引かない。
「鶴」
「はい」
「九郎左衛門尉景紀殿って、宗滴公の甥っ子だっけ?」
鶴姫は少し考える顔をした。
「いえ、確か宗滴公の長兄の孫、貞景公の息子だったはずです」
「それって何て言うんだ?」
「一族、でしょうね」
信繁は、そこで少し笑った。
「まあ、そうか」
手紙を開きながら、ぽつりと続ける。
「九郎左衛門尉殿って、宗滴公譲りの文武両道だったらしいね。某野望系ではあまり反映されてなかったけど」
鶴姫が、そこで珍しく少し辛い口調になった。
「仕方ないでしょう。あれは公平とはとても言えません」
「お、辛辣」
「しょせん、分かりやすく数字にした遊戯ですから」
「教養の項目があれば高かったかもね」
そこまで言ってから、信繁は文面へ目を落とした。
読み進めるほど、顔つきが変わる。
「……うん」
「どうでしたか」
「この人は助けるべきだろうね」
鶴姫が、そこで少しだけ目を細めた。
「また姫君を側室になさいますか?」
信繁は即座に顔を上げた。
「しねーよ」
「そうですか」
「というか、兄上たちに断りもなしにできないし、増やすつもりもない」
「はい」
「というか、鶴も早く寝なさい。お腹の子に障ったらどうする」
鶴姫は、少しだけ肩を竦めた。
「まだ大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃない」
「それに」
鶴姫は、今度は少しだけ真面目な顔になる。
「個人的には、お救いしたい方ですから」
その言い方に、信繁は文を持ったまま少し頷いた。
「だよな」
「はい」
「とりあえず、明日にでも兄上たちに相談に上がる」
「ええ」
「鶴は休んでくれ」
「承知しました」
そう言いながらも、鶴姫はすぐには立たなかった。
信繁が文を畳み、封へ戻すところまで見届けてから、ようやく静かに席を立つ。
「治部殿」
「何だ」
「お怒りにはならぬでしょうが」
「うん」
「朝倉を討つと決まった時、向こうから細い糸が伸びてきた。そのこと自体を、上総介殿は面白がられるかもしれません」
信繁は、少しだけ笑った。
「たぶんそうだな」
「では」
「うん。だからもう寝ろ」
鶴姫は、そこで一礼して下がった。
翌日、信繁はその文を持って稲葉山へ上がった。
上総介兄上と勘十郎兄上がそろう場で、無駄な前置きはしなかった。
こういう話は、かえってまっすぐ入れた方が通る。
「朝倉を討伐する」
信繁がそう切り出すと、上総介兄上は静かに目を上げた。
「うむ」
「向こうの一族でも、それを近い現実だと感じている者もおるようです」
上総介兄上の口元が、ほんのわずかに動く。
「ほう」
信繁は、そのまま文を差し出した。
「敦賀郡司の九郎左衛門尉殿。その娘、美景姫」
勘十郎兄上が先に問う。
「美景姫」
「はい。例の、六角の若君の顔を小太刀で切り裂いた姫君です」
上総介兄上が、そこで少しだけ笑った。
「おもしろい」
その一言に、すでに興が乗っている。
「その者たちは、まだ時勢が読めるということか」
「鶴によれば」と信繁。
「美景姫は、当家が美濃を呑んでから、かなり危機感を持っていたそうです。また、宗滴公の築いた情報網を受け継ぎ、さらに拡大して運用しているとか。我らと同時期に、土佐の長曾我部家にも着目しておったそうです」
「数年前から当家を、しかも長曾我部家へもか」
勘十郎兄上が静かに言った。
「ただの後知恵ではないな」
「はい」と信繁。
「朝倉家中の空気と、都の流れと、当家の伸び方、さらには諸国の流れを、それなりに見ていたんでしょう」
上総介兄上は、文を受け取ってざっと目を走らせる。
読み方が速い。
だが、読み飛ばしているわけではない。
「女にしておくのは惜しい、ということか」
「ですね」
信繁は素直に頷いた。
「鶴も、“個人的にはお救いしたい”と申しておりました」
上総介兄上が、そこでわずかに目を上げる。
「ほう」
「ただし、上総介兄上の決定に異は唱えるつもりもないと」
「当然だ」
その返しは早かった。
だが、不機嫌ではない。むしろ、鶴姫がそこまで分かった上で言っていることを、ちゃんと受けている声だった。
しばらく、上総介兄上は文を見ていた。
九郎左衛門尉景紀。
娘、美景姫。
朝倉家の中でなお現実を見ている者。
そして、滅びを前にして、娘だけでも、あるいは娘を通じて残せるものだけでも残そうとする細い糸。
「会ってから決める」
上総介兄上は、文を置いてそう言った。
信繁が目を上げる。
「呼びますか」
「呼ぶ」
その声には、もう迷いがなかった。
「どのような面構えか、見てみたいものよ」
勘十郎兄上が、そこで静かに補足する。
「九郎左衛門尉父娘、両方でございますか」
「まずは、そうだな」
上総介兄上は少しだけ考えた。
「父だけでは弱い。娘だけでは軽い」
「はい」
「二人そろえて見た方が早い」
信繁は、そこで少しだけ安堵した。
助けると決まったわけではない。
だが、少なくとも切り捨てる前に会う。そこまで出れば十分だ。
上総介兄上は、なお文を指で軽く叩いた。
「朝倉の中にも、まだ目の開いている者がおる」
「はい」
「ならば、それを拾う価値はある」
「そう思います」
「ただし」
そこで声が少し低くなる。
「拾うことと、朝倉そのものを甘く見ることは別だ」
「もちろんです」
上総介兄上は頷いた。
「よい」
勘十郎兄上が、そこで一つ現実的な問いを置いた。
「どの名目で呼びますか」
信繁が答える。
「鶴と美景姫の文の縁があります。そこを細く使えば、不自然ではない」
「それだけでは弱い」と勘十郎兄上。
「九郎左衛門尉ほどの男が、娘の文の縁だけで動くとは見えにくい」
「では、敦賀郡司館へ、当家が“話を聞く”用意がある、と別に通した方がよろしいかと」
上総介兄上が頷いた。
「そうだな。公の筋は薄く、私の筋は太くしすぎぬ」
「承知しました」と信繁。
少し沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、上総介兄上はふと笑った。
「治部」
「何です」
「お前、今のところ、拾う側に回る時はやけに嬉しそうだな」
信繁は、少しだけ肩を竦めた。
「だって、こういうのは当たりの可能性あるじゃないですか。宗滴公の情報網を受け継いでるなら、畿内の情報の精度は格段に上がります」
勘十郎兄上が静かに言う。
「人材蒐集の顔を隠せ」
「無理です」
「無理か」
上総介兄上は、そこで声を立てずに笑った。
「よい。会わせてみよ」
それで、この件は動き出した。
朝倉家は、まだ上洛せぬ。
義景はまだ決めぬ。
景鏡はまだ笑っている。
だが、その家の内側から、細い糸はもう織田へ伸びてきている。
信繁は、その糸を見ながら思った。
――こういう糸を捨てないのが、たぶん今のうちの強みなんだろうな。
♢
数日後、敦賀の館へ返書が届いた。
景紀は、使者の気配を聞いた時点で、もう半分は察していた。
返ってくるなら早い方がよい。遅れる文は、だいたい中身が薄い。
だが、今回の返書は早かった。
封を切る手が、わずかに重い。
美景姫も、少し離れて控えていた。
父が一人で読むと言えば下がるつもりだったが、景紀はそれをしなかった。最初から、この文は二人で受けるべきものだと分かっていた。
景紀は、静かに文を開いた。
「……」
「父上」
「待て」
読み進める。
短い。
だが、短いからこそ、余計な飾りがない。
治部大輔信繁の名でありながら、そこには上総介信長と勘十郎信勝の意向も、すでに薄く通っているのが分かる文だった。
やがて景紀は、文を閉じた。
美景姫が、父の顔を見つめる。
「いかがでしたか」
景紀は、文を机へ置いた。
「来い、とのことだ」
美景姫の目が、ほんの少しだけ動いた。
「……二人で、ですか」
「うむ」
「父上だけではなく」
「お前もだ」
少しの沈黙。
安堵か。
緊張か。
そのどちらともつかぬ気配が、部屋の中を薄く満たす。
「会ってから決める、とのことでしょうか」
美景姫がそう言うと、景紀は小さく頷いた。
「その通りだ」
「軽々しく助けるとは書いていない」
「書いておらぬ」
「ですが、切ってもいない」
「うむ」
美景姫は、そこで初めて少しだけ息を吐いた。
「……十分です」
景紀も同じ気持ちだった。
助ける。
拾う。
庇護する。
そうした言葉が、最初から文に並ぶはずもない。
今の彼らに許されているのは、“会う価値はある”と見てもらうところまでだ。
それでも十分だった。
景紀は、しばらく黙ってから言った。
「行くぞ」
美景姫は、すぐには答えなかった。
その代わり、一度だけきちんと父を見る。
「はい」
「怖いか」
「少しは」
「儂もだ」
その返しに、美景姫はほんのわずかに口元を緩めた。
「父上でも」
「当然だ」
景紀は、そこで苦く笑った。
「織田は、いまやただの武家ではない。将軍家と朝廷の理に触れ、三好を残し、本願寺を退けるところまで来ておる」
「はい」
「そういう相手の前に出るのだ。怖くないわけがない」
「ですが」
美景姫は、静かに続ける。
「行かねば、もっと悪い」
景紀は頷いた。
「その通りだ」
旅支度は、表向きにはあくまで穏やかに整えられた。
大勢を引き連れて行くわけにはいかない。
あまりに仰々しければ、朝倉家中の中で余計な勘ぐりを呼ぶ。
逆に、ひどく細い供回りでも、こちらの覚悟が軽く見える。
だから、必要最低限より少しだけ厚い程度。
敦賀郡司家としての体面は保ちつつ、しかし逃避行には見えぬように。
そのあたりの整え方は、さすがに景紀もよく分かっていた。
出立の前夜、景紀は美景姫へ言った。
「一つだけ、覚えておけ」
「はい」
「お前は、哀れまれに行くのではない」
美景姫の姿勢が、少しだけ正される。
「……はい」
「見られに行く。値踏みされる。だが同時に、お前も向こうを見る」
「承知しております」
「治部大輔殿がどのような男か。鶴姫殿がどのようにそこへ立っているか。上総介殿が何を見るか。全部だ」
「はい」
「そして」
景紀は少し間を置いた。
「もし向こうが本当に拾う気なら、その時は遠慮するな」
美景姫は、そこで初めて少しだけ目を伏せた。
「父上は」
「何だ」
「私だけでも残れば、それでよいと思っておられますか」
景紀は、その問いにしばらく答えられなかった。
それは、たしかに最初の親心だった。
娘だけでも助けたい。
だが、ここまで来ると、もうそれだけでは済まないことも分かっている。
「よい、とは思わぬ」
景紀は、静かに言った。
「だが、最悪に備えるのが親の役目だ」
美景姫は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
翌朝、父娘は敦賀を出た。
冬の道は冷たい。
だが、天気は崩れていない。
馬の足も重くはない。
道中、二人とも口数は多くなかった。
話すべきことは、出立前にだいたい終えている。
今さら無理に言葉を足しても、心の重さは軽くならない。
ただ、途中で一度だけ、美景姫がぽつりと聞いた。
「父上」
「何だ」
「治部大輔殿は、どのような方だと思われますか」
景紀は、しばらく考えた。
「厄介な男だろう」
「厄介」
「人を切るべき時に切る。残すべき時には残す。その線を、若いくせに妙に分かっておる」
「……」
「しかも、その線引きに理がある」
美景姫は、その答えを静かに飲み込んだ。
「鶴姫殿が、あの方を支えておられるのも、何となく分かる気がします」
景紀は、そこには少しだけ笑った。
「お前も、だいぶ鶴姫殿の文を読んできたからな」
「ええ」
「どう見る」
「怖い方だと思います」
「それは治部大輔殿か。鶴姫殿か」
「両方です」
その返しに、景紀は小さく息を漏らした。
「たしかに」
そうして父娘は、織田方の地へ入った。
迎えは、思っていたより整っていた。
だが、整いすぎて威圧するようなものではない。
礼を守り、しかしこちらが軽くも見られていないと分かる人数と並び方。
その中に、見慣れぬはずなのに、なぜかすぐ分かる顔があった。
治部大輔信繁である。
若い。
だが、その若さに似合わぬ疲れ方と、妙な親しみやすさと、どこか一歩先まで見ている目が同居している。
そしてそのすぐ横に、鶴姫がいた。
鶴姫は、美景姫を見るなり、表情を大きくは崩さない。
だが、目だけが少し柔らかくなった。
「ようこそお越しくださいました」
景紀が礼を取る。
「朝倉九郎左衛門尉景紀にございます」
「織田治部大輔信繁です」
信繁も礼を返した。
「文は読んだ。まずは来てくれてありがとう」
その一言が、思っていたより軽くなかった。
来たこと自体を、もう一つの決断として受け取っている声だった。
景紀は、その場で少しだけ腹を決める。
「こちらこそ、お目通り叶い、ありがたく存じます」
信繁は、次に美景姫を見る。
「あなたが美景姫殿」
美景姫は、静かに一礼した。
「はい」
「鶴から、文は聞いてる」
その言い方に、美景姫は少しだけ救われた。
“鶴姫の友である姫君”として最初の一歩を受けてもらえたからだ。
鶴姫が、そこで小さく言った。
「長旅、お疲れでしょう」
「大事ございません」
「無理はなさらず」
「ありがとうございます」
そこへ信繁が、いつもの調子で少しだけ場を崩した。
「まあ、いきなり重い話から入るのも何だから、まずは休んでくれ」
景紀が、少し意外そうに信繁を見る。
信繁は肩を竦めた。
「こっちも、会ってすぐ全部決める気はない。見る。話す。そのうえでだ」
景紀は、その言い方を聞いて思った。
――やはり、あの文の通りの男だ。
軽く見せながら、線は最初から引いている。
助けるとも言わぬ。
だが、見捨てるとも言わぬ。
まずは会う。
まずは話す。
そうして値を量る。
景紀にとって、それはむしろありがたかった。
安易な憐れみより、よほど信用できる。
「承知致しました」
そう答えた時、景紀はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
朝倉の内から伸ばした細い糸は、たしかに織田へ届いた。
そして今、その糸を、目の前の男が自分の手で確かめようとしている。
それだけで、まだ何も決まっていないのに、少しだけ先が見えた気がした。
♢
上総介兄上との謁見は、翌日に定まった。
景紀父娘は一晩を瀬田で過ごしたが、落ち着けたかと問われれば、たぶん落ち着けてはいない。
当然だ。
敦賀から細い糸を投げ、織田へ届いた。その先で、今度は織田家の主その人の前へ出る。
しかも相手は、ただの勢いある大名ではない。
将軍家と朝廷を背にし、三好を裁き、本願寺を退かせ、大坂を起こし始めた男。
その織田上総介信長である。
案内は信繁が務めた。
廊を進む間、景紀は余計なことを一つも言わなかった。
美景姫も同じだった。
だが、黙っていても分かる。二人とも、これから何を見られるのかを考えている。
信繁は、広間の手前で一度だけ足を止めた。
「九郎左衛門尉殿」
「はい」
「上総介兄上は、見て決める人だ」
景紀は静かに頷く。
「承知しております」
「だから、変に取り繕うよりは、そのままの方がいい」
「……そのまま、ですか」
「うん。朝倉の中で何を見て、何を怖れて、何を残したいのか。そこが通れば、たぶん早い」
美景姫が、そこで初めて口を開いた。
「通らねば」
信繁は、少しだけ笑った。
「その時は、その時だな」
軽いようでいて、妙に冷たくはない返しだった。
美景姫は、その答えにだけ少し安心した。
この男は、期待だけを持たせて甘やかす気はない。だが、見もしないうちに切る気もなさそうだ。
広間へ通される。
上座に上総介兄上。
その脇に勘十郎兄上。
少し下がって信繁。
十兵衛もいる。
場は静かで、よけいな人数は置いていない。だが、それだけに空気が薄まらない。
景紀と美景姫は、定められた位置で礼を取った。
「敦賀郡司、朝倉九郎左衛門尉景紀にございます」
「その娘、美景にございます」
上総介兄上は、すぐには何も言わなかった。
まず景紀を見る。
次に美景姫を見る。
最後に、ほんのわずかに信繁を見る。
その視線だけで、すでに“文の通りかどうか”を量っているのが分かる。
やがて上総介兄上が口を開いた。
「九郎左衛門尉」
「は」
「文は読んだ」
「恐れ入ります」
「朝倉の内より、そのような文を出す」
上総介兄上の声は平らだった。
「軽い覚悟ではあるまいな」
景紀は、そこで一切逃げなかった。
「軽くはございませぬ」
「うむ」
「されど、軽くないからこそ、出しました」
上総介兄上の目が、わずかに細くなる。
「朝倉は滅ぶ、と見ておるか」
広間が少しだけ冷えた。
勘十郎兄上は無言。
信繁も口を挟まない。
ここは、景紀が自分で答えねばならぬ場だ。
景紀は、頭を下げたまま言う。
「……このままでは、保ち難いと見ております」
「このままでは、か」
「はい」
「何が足りぬ」
景紀は、そこでようやく顔を上げた。
「決断にございます」
上総介兄上は黙る。
続けよ、という沈黙だった。
「将軍義輝公よりの上洛催促。越後の弾正少弼殿よりの諫め。都の気配。畿内の変化。そのいずれを前にしても、左衛門督殿はなお“少し考える”に留まられます」
「……」
「式部大輔景鏡は、それを支えます」
勘十郎兄上が、そこで初めて口を開いた。
「景鏡が、そこまで家中を動かしておるか」
景紀は頷く。
「はい。少なくとも、上洛を避ける理屈を与え続けております」
上総介兄上が、小さく鼻を鳴らした。
「織田の下風には立てぬ、とでも申しておるか」
景紀の目が、ほんのわずかに動く。
「……そのようなことも」
上総介兄上は、そこでようやく笑った。
楽しげではない。
だが、ああやはりそこか、と腑に落ちた時の笑いだった。
「下風」
上総介兄上は、ゆっくりとその言葉を繰り返した。
「風向きも読めぬ者が、よう申す」
景紀は、その一言にだけ、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
少なくとも、この男は朝倉の内の停滞を、ただの敵の弱さとしてではなく、“理の鈍さ”として見ている。
「それで」と上総介兄上。
「そなたは、何を望む」
景紀は、一瞬だけ息を詰めた。
ここが本題だった。
助けてくれ。
そう直截に言うのは簡単だ。
だが、それだけでは駄目だと、美景姫にも言われている。
「娘を」
景紀は、静かに言った。
「美景を、ただ憐れみで拾って頂きたいのではございませぬ」
上総介兄上の目が、美景姫へ移る。
「ほう」
「この娘は、近年の朝倉家中、敦賀の動き、都の風聞、浅井家との文など、よく見ております」
「文」
上総介兄上が、少しだけ横目で信繁を見た。
信繁は頷く。
「鶴と数年にわたってやり取りをしていました」
「うむ」
景紀は、そこで言葉を継いだ。
「もし御家中に置いて頂けるなら、ただ庇護を受けるだけではなく、何らかの働きもできるやもしれませぬ」
広間は静かだった。
この場で、娘を売るような言い方はしたくない。
だが、ただ“助けてくれ”でも足りない。
そのぎりぎりのところを、景紀は必死で言葉にしている。
上総介兄上は、そこで初めて美景姫へまともに問いを向けた。
「美景姫」
「は」
「そなたも、父と同じく、朝倉はこのままでは危ういと見ておるか」
美景姫は、少しも怯まなかった。
「はい」
「なぜ」
「都の理が、もう変わっているからにございます」
上総介兄上の目が、わずかに細くなる。
「申せ」
「かつての朝倉は、都へ近い名門でございました。されど今は、都の側がこちらへ寄るのではなく、こちらが都の変化に遅れております」
勘十郎兄上が、静かに聞いている。
美景姫は続けた。
「三好三人衆が消え、宗家は残り、本願寺も石山を退き、大坂には新しい城が建ち始めた」
「……」
「そのすべてが、幕府と朝廷の理を通して動いております」
「うむ」
「にもかかわらず、朝倉はなお越前一国の大名として時勢を見ております」
上総介兄上は、そこで口元を少しだけ動かした。
「女にしておくには惜しい、と治部が申したが」
美景姫は、その言葉にも顔色を変えなかった。
「ありがたきことにございます」
「惜しいかどうかは、まだ分からぬ」
「はい」
「だが」
上総介兄上は、ほんの少しだけ身を乗り出した。
「面構えは悪くない」
その一言で、場の空気が少し変わる。
信繁は、内心で少しだけ息を吐いた。
最初の関門は越えた。
上総介兄上が“見てみたい”と言っていたその見極めは、少なくとも悪い方へは転んでいない。
だが、そこで終わらないのが上総介兄上だった。
「九郎左衛門尉」
「は」
「そなたは、娘だけでも助けたいと思うた」
「……はい」
「そなた自身はどうする」
その問いは、重かった。
景紀は、そこで初めて少しだけ言葉に詰まった。
自分の命。
自分の立場。
朝倉の中に残るか、娘とともに織田へ寄るか。
それは、文を出した時点では、まだ答えを出し切っていないところだった。
上総介兄上は、逃がさない。
「娘だけを押し出し、自分は朝倉へ残る」
「……」
「それも一つの道だ」
「はい」
「だが、そなたもまた、宗滴の家を継ぐ者であろう」
景紀の目が、はっきりと動いた。
そこを突かれるのは痛い。
娘だけではない。
宗滴公の流れをどうするか。
それは朝倉の中に残すのか、外へ繋ぐのか。
上総介兄上は、そこへあえて答えを与えなかった。
「今ここで決めよとは言わぬ」
「は」
「だが、いずれ決めることになる」
景紀は、深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
上総介兄上は、そこでようやく身体を戻した。
「よい」
その声で、場の第一段は終わったと分かる。
「しばらくは瀬田に置こう」
信繁が目を上げる。
「よろしいのですか」
「うむ」
「九郎左衛門尉父娘、すぐにどうこうは決めぬ」
「はい」
「見て、話して、それからだ」
勘十郎兄上も頷いた。
「それがよろしいかと」
「ただし」
上総介兄上の目が少しだけ鋭くなる。
「朝倉を討つべき時が来れば、情で鈍らせるつもりはない」
景紀が、そこで顔を上げた。
「承知しております」
「そのうえで、なお来たのだな」
「はい」
上総介兄上は、そこでようやく満足したように頷いた。
「ならばよい」
美景姫も、静かに礼を取る。
「ありがたく存じます」
謁見を終えて退出する時、信繁は父娘の背を見ながら思った。
兄上は、やはり拾う気だ。
ただし、即座にではない。
瀬田へ置き、見て、量って、それから使い道まで考える。
そういう拾い方をする。
廊へ出たところで、景紀はようやく小さく息を吐いた。
「……生きた心地が致しませなんだ」
信繁が、少しだけ笑う。
「だろうな」
「治部大輔殿は、毎度あれに向き合っておられるのか」
「毎度だよ」
美景姫が、そこで初めて少しだけ口元を緩めた。
「慣れとは恐ろしいですね」
「慣れたくて慣れたわけじゃない」
その返しに、ようやく父娘の顔にも、ほんの少しだけ色が戻った。
朝倉から伸びた細い糸は、これでただ届いただけではない。
一度、上総介兄上の手に触れた。
その意味は、まだ誰にも分からない。
だが少なくとも、この父娘はもう“朝倉の内にいるだけの人間”ではなくなった。