織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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056越前朝倉討伐

九郎左衛門尉景紀親子が敦賀を離れたことは、思った以上に早く朝倉家中へ広まった。

 

しかも広まり方が悪い。

 

ただ「瀬田へ行った」ではない。

人の口を通るうちに、すぐに別の形へ育つ。

 

**逃げ出した。**

 

まず、その言い方が立った。

 

「敦賀郡司が、娘を連れて織田へ走ったらしい」

「朝倉が危ういと見て、先に身の振り方を決めたのだ」

「なんとも見苦しい」

「宗滴公の跡を継ぐ家が、あれではのう」

 

一乗谷の廊下でも、膳の上でも、城下でも、その話がひそひそと、だが妙にはっきりした輪郭を持って流れた。

 

もちろん、真っ先にそれへ飛びついたのは、景鏡寄りの者たちだった。

 

「早々に降伏するとは、養父宗滴公の名を汚す腑抜けよ」

「敦賀郡司もここまで落ちたか」

「結局は、都風に染まって骨を失うたのだ」

 

そう言えば、自分たちがまだ朝倉の“正しい側”に立っている気になれる。

だからこそ、その手の声はやけに大きかった。

 

だが、同時に、別の声も生まれていた。

 

「いや、違う」

「時勢を読んで、早々に“勝つ方”へ動いたのだ」

「九郎左衛門尉殿は、もとより目端が利く」

「宗滴公の流れなら、むしろあれこそ現実を見る動きではないか」

 

それは、堂々とは言えない。

だが、声を潜める分だけ、かえって真剣味があった。

 

さらに厄介なのは、その二つの声の間に挟まれて、自らの去就に迷い出す者が一気に増えたことだった。

 

「このままでよいのか」

「九郎左衛門尉殿ほどの御方が動いたということは」

「いや、しかし」

「本当に織田が来るのか」

「将軍家が本気で朝倉を見限るのか」

「越後はどう出る」

 

そういう囁きが、目に見えぬところで増えていく。

 

人が一番揺れるのは、負けた時ではない。

負けるかもしれぬと、うすうす全員が気づき始めた時だ。

 

そしてその時、評定での九郎左衛門尉の訴えが、やけに生々しく思い出され始める。

 

「織田は一〇万の兵を動かせる」

「浅井も、もはやこちらの盾ではない」

「越後から弾正少弼も軍を率いて押し寄せるやもしれぬ」

 

あの時は、過剰だ、大げさだ、都にかぶれたと笑う者も多かった。

だが、景紀親子が実際に瀬田へ去った今、その言葉は“逃げるための理屈”ではなく、“あれは本気で見えていたのではないか”という色を帯び始める。

 

一乗谷の空気は、少しずつ悪くなった。

 

誰も表立って「朝倉は危ない」とは言わない。

だが、兵糧の持ち出しに敏感になる者。

縁者へ文を増やす者。

家の女房衆や子を、さりげなく安全そうな方へ移したがる者。

そういう、小さな動きが増えていく。

 

つまり、家中そのものが、もう一つの評定を始めてしまっているのだ。

誰が残るか。

誰が動くか。

どこまで朝倉へ賭けるか。

 

だが、そのただ中にあっても、肝心の左衛門督義景の反応は、相変わらず鈍かった。

 

「九郎左衛門尉が、か」

 

そう聞かされても、驚き切らない。

怒り切らない。

悲しみ切らない。

 

ただ、どこか遠くのことのように受ける。

 

「そうか。行ったか」

 

それだけで終わってしまう。

 

家中の者にとっては、その“薄さ”が一番こたえた。

怒るならまだいい。

処断するなら、まだ主の意志が見える。

だが、鈍い。

何を重く見ているのか、何を捨てたのか、そこが見えない。

 

対して、式部大輔景鏡は、逆に構えを崩さなかった。

 

「放っておけ」

評定の場で、景鏡は平然と言った。

「一族の面汚しが、自ら織田の下へ走っただけのこと」

 

誰かが、慎重に口を挟む。

 

「しかし、九郎左衛門尉殿ほどの御方が、そこまで危機を感じておられたとすれば」

 

景鏡は、その声をほとんど嘲笑うように切った。

 

「だからどうした」

「……」

 

「朝倉は名門だ」

その言い方は、もはや祈りに近かった。

「越前は朝倉の地だ。尾張の守護代の陪臣上がり、たかが成り上がりが都で少し幅を利かせたからとて、何をそう騒ぐ」

 

「ですが、幕府よりの催促も」

 

「将軍が何だ」

景鏡は吐き捨てるように言った。

「朝倉が、いちいち織田の作った風に合わせて動く必要がどこにある」

 

その場にいた何人かは、それを聞いて逆に冷えた。

 

いまだにそう見るのか。

いまだに“織田が都で少し幅を利かせた”程度の認識なのか。

そこへ、ようやく本当の恐ろしさを感じる者もいた。

 

つまり、敵の大きさより、こちらの認識の遅さの方が怖いのだ。

 

一乗谷では、その日も雪が降っていた。

 

白い。

静かだ。

だが、その静けさの下で、家中の心はもうばらけ始めている。

 

九郎左衛門尉親子が逃げたのか。

勝つ方へ移ったのか。

その答えはまだ出ていない。

 

だが、少なくとも一つだけ確かなことがあった。

 

**景紀親子が去ったことそのものが、朝倉家中に“このままでは危うい”という現実を、一気に可視化してしまった。**

 

そして、それを見てもなお、左衛門督は鈍く、式部大輔は名門の看板へ縋っている。

 

それが、いちばん悪かった。

 

 

将軍御座所と稲葉山のあいだを行き来する書状の数が、目に見えて増えていた。

 

もはや一度や二度の諮問ではない。

都の静謐、三好宗家の扱い、本願寺退去後の整理、大坂の普請、そして諸家への触れ。幕府と織田家のあいだで、ほとんど日常のように文が往復する。昔ならば考えにくいほどの近さだった。

 

その積み重ねの果てに、ついにその日が来た。

 

稲葉山城の評定の間。

家中の主だった者が、ほぼ勢ぞろいしている。

 

上座に上総介信長。

その脇に勘十郎信勝。

一門衆。

林佐渡守や平手中務丞ら家老衆。

織田本家の武将たち。

伊勢守、左近、慶次郎、助右衛門。

十兵衛、半兵衛、弾正。

その列の厚みだけで、もう昔の尾張の一大名家ではないと分かる。

 

治部大輔は、いつもの位置にいた。

そしてその後ろ、家臣団のさらに後ろに、九郎左衛門尉景紀と美景姫も静かに座していた。

 

朝倉から来た父娘。

まだ“こちらの者”とは言い切れぬ。

だが、いま畳の上に流れている空気が、まさにその朝倉を討つ気配を帯びていることだけは、二人とも痛いほど分かっていた。

 

評定の間は静まり返っていた。

 

信長が、将軍家から届いた書状を手に取る。

だが、今さら皆がそれを“ただの伝達”とは思っていない。ここで読まれるということは、もう決まったのだ。

 

「大樹よりの命令である」

その一言で、場の空気がさらに締まった。

「上洛の命を無視し、安楽に興じ、民を虐げ、武門の意地をなくした朝倉を征伐せよ、とのことだ」

 

誰も息を漏らさない。

だが、その文言の重さは、皆の腹へ落ちていく。

 

朝倉征伐。

それは単なる隣国への出兵ではない。

幕府の命として、理のうえで下された号令だった。

 

信長は続ける。

 

「この戦、三河殿がすでに五千を率い、こちらへ向かっておる」

 

場の端が、わずかに動く。

三河守護松平家康。

今や三河を抑え、織田と並ぶべき東の柱の一つ。

 

「また、伊勢国司北畠家より五千、長野工藤家より三千。浅井家より八千の援軍が追随する」

 

そこまで来て、場にいる者たちは皆、同じことを思った。

 

援軍だけで二万を越える。

織田本軍を合わせれば、もはや“越前を討つかどうか”ではない。どう討ち、どう治めるかの段だ。

 

信長は、そこで治部大輔へ視線を向けた。

 

「治部大輔」

「は」

「一万の兵を率い、浅井家と合流、金ヶ崎を受領し、その後は若狭を鎮めよ」

 

その命は、迷いなく落ちてきた。

 

金ヶ崎。

若狭。

ただ前へ進めではない。

越前の喉へ手をかけ、その西の口まで押さえる役目だ。

 

治部大輔は、少しも顔色を変えずに頭を下げた。

 

「承知仕りました」

 

その声が、よく通る。

 

後ろで景紀は、無意識に膝の上の拳を固めていた。

金ヶ崎。

その名が、もう他人事ではない。朝倉の地へ、織田の兵が理を持って入る。その最初の刃の一つを、目の前の若い男が担う。

 

信長は、すぐに全体へ戻る。

 

「余の者は出陣の支度を整えよ。援軍が到着次第、我らも越前へと向かう」

 

場に満ちていたのは、熱だけではなかった。

大きすぎる戦の前には、むしろ静けさが先に立つ。皆が、自分の仕事と役目を、すでに頭の中で並べ始めている。

 

そして信長は、最後に声を少し低くした。

 

「皆の者」

皆の背筋が、さらに揃う。

「これは畿内の、いや、日の本の静謐を乱す者たちへの最初の警告となる」

 

その言葉は、軍令であると同時に、戦の意味を定めるものでもあった。

朝倉を討つ。

だが、それは越前を奪うためだけではない。

都の理に背き続け、静謐を拒み続ける者への、公の名を帯びた最初の警告。

 

「それゆえ」

信長の声は、さらに冷えた。

「朝倉の地に入ろうと、盗るな、犯すな、殺すな」

 

その三つは、重かった。

 

ただの美辞ではない。

ここにいる者たちは皆知っている。信長がこういう時に口にする禁は、破れば終わる。

 

「これを家臣どもに徹底せよ」

「はっ」

 

声が揃う。

一門。

家臣。

将。

皆が、それぞれに頭を垂れた。

 

評定の間は、それで終わりではなかった。

終わったあとに動き始めるものの方が多い。

 

十兵衛はすでに文案を頭の中で組み始めている。

半兵衛は進軍路と補給、朝倉の崩れ方を算段している。

伊勢守は一万のうちどの部隊をどこへ割るかを考える。

左近は金ヶ崎の受け方を測る。

慶次郎は戦の匂いに少しだけ口元を上げ、助右衛門はいつも通り無言で座している。

弾正は、朝倉家中の崩れをどう煽るか、その糸口を探していた。

 

そして景紀父娘は、動けなかった。

 

ついに出た。

しかも、これ以上ないほどの理と数をもって。

 

景紀は、昨日までの不安が、もう“もしも”ではなく現実へ変わったことを知った。

美景姫は、父より先に、その変化を飲み込んでいた。顔色は白い。だが、視線は逸らさない。

 

信繁が立ち上がる。

 

その動きで、場も少しずつ解け始める。

瀬田から一万。

これで三万。

その後ろには、織田家本軍がさらに積み上がる。

 

評定の間を出たところで、信繁は振り返った。

 

景紀と美景姫がまだ動けずにいる。

だから少しだけ足を止めた。

 

「九郎左衛門尉殿」

 

景紀が、ようやく頭を上げる。

 

「……はい」

「見た通りだ」

 

その言い方は、あまりに率直だった。

だが、景紀にはむしろありがたかった。

 

「はい」

「だから今さら、こちらが何を考えているかを隠す気はない」

「承知しております」

 

美景姫が、静かに言った。

 

「……父の見立ては、間違っておりませんでした」

 

信繁は、それにだけ少し頷いた。

 

「そうだな」

「そして、私の見立ても」

「たぶん」

 

短いやり取りだった。

だが、それで十分だった。

 

いよいよ発せられた大号令。

将軍の理を帯び、織田の兵を動かし、諸家の援軍を束ねて、朝倉征伐が始まる。

 

永禄八年。

越前へ向かう戦は、こうしてもう引き返せぬところまで来た。

 

 

燎原の火とは、こういうものを言うのだろうと、誰もが思った。

 

織田本軍。

浅井。

三河。

伊勢国司北畠。

長野工藤。

さらに、これに従う諸勢力まで含めれば、十万を越えんとする数である。

 

もはや一国一城の構えで受け止めるようなものではなかった。

山を越え、谷を埋め、道を飲み込みながら進むそのさまは、まさしく火であった。

しかも、ただ燃え広がる野火ではない。

将軍の理を帯び、幕府の命を掲げ、朝倉征伐という名目を整えたうえで、冷たく前へ進む火だった。

 

一乗谷は、混乱の極致にあった。

 

「五万どころではない」

「十万に届くそうだ」

「浅井まで八千を出した」

「三河の兵も来る」

「越後も動くやもしれぬ」

「九郎左衛門尉殿はやはり……」

「逃げたのではなく、見切ったのだ」

 

誰が何を言っているのか、もう分からない。

だが一つだけ確かなのは、九郎左衛門尉景紀が評定で必死に訴えていたことが、いまや一つずつ現実になっていることだった。

 

そして、その景紀により、金ヶ崎城はあっさりと開城した。

 

無用な籠城をしても意味がない。

ここで血を流しても、越前を救うことにはならない。

それを分かる者が城を預かっていた時点で、結末は決まっていた。

 

「開いたな」

 

治部大輔は、金ヶ崎の門が静かに開かれるのを見て、小さく言った。

 

横には浅井備前守長政がいた。

 

「ええ」

 

長政の声も静かだった。

勝った喜びというより、ようやく理にかなった形で越前への喉が開いた、という顔だった。

 

浅井軍八千と治部家一万は、そこから悠々と若狭を制圧していった。

 

もはや組織的抵抗はない。

 

もちろん、散発的な地侍や国人はいた。

土地の意地もある。

その場その場で槍を取る者もいる。

だが、それはもう流れに逆らう礫に過ぎなかった。

 

伊勢守が前を荒らさず整える。

左近が逃げ足の速い相手の喉を押さえる。

慶次郎が朱槍で崩し、助右衛門が黒槍を持ち黙って締める。

浅井勢もまた、若狭を新たな家の地として受けるに足るだけの整った進軍を見せた。

 

大きく燃え上がる戦ではない。

むしろ、もう勝負のついた地を、きちんとこちらの秩序へ組み替えていく戦だった。

 

各地に占領のための兵を残す。

 

浅井は五千。

治部家はそのまま一万。

 

そこまで置いたうえで、ようやく両軍は信長率いる本軍と合流した。

 

本軍の陣は大きかった。

大きいだけではない。

人の数、旗の多さ、馬の列、兵糧の積み方、そのすべてが、「これはもう一国を討つ軍だ」と分からせる規模だった。

 

合流の報が入ると、信長はすぐに評定を開いた。

 

若狭の処分。

敦賀の扱い。

そして越前本国へどう手を入れるか。

 

そこで、信長は迷いなく裁定した。

 

「若狭一国は浅井家領、敦賀郡は治部家預かりとする」

 

場が、わずかに動く。

 

備前守長政が、顔色一つ変えずに頭を下げる。

だが、その胸の内では何か熱いものが動いただろう。

 

北近江に加え、若狭、丹波、丹後。

これで浅井家は四ヶ国にまたがる家となった。

およそ八十万石。

 

もはや北近江の一大名ではない。

明確に、織田秩序を支える一翼だった。

 

治部大輔は、信長の裁定を聞きながら、横の備前守長政をちらりと見た。

長政は、短く、しかしきちんと頷いた。

 

「重うございますな」

 

小声でそう言う。

 

「だろうな」と治部大輔。

 

「でも、義弟殿なら回せる」

「回さねばなりませぬ」

 

その返しに、少しだけ笑った。

 

信長は、そこで今度は治部大輔を見た。

 

「治部よ」

「は」

「越前が終わった後は、三河殿の駿河進出を助けよ」

 

治部大輔の眉が、ほんの少しだけ動く。

 

「人遣い荒いですよ」

 

場に、少し笑いが落ちた。

だが、信長は笑わない。

 

「そなたの家中は、血の気の多い者が多数おるようじゃからな」

 

「ですよねえ」

治部大輔は、そこで肩を竦めた。

「ですが、承知いたしました」

 

その返答に、今度は松平次郎三郎家康が、きちんと頭を下げた。

 

「治部殿、よろしくお願い申す」

 

家康の声は、穏やかで、しかし少し疲れているようにも聞こえた。

 

三河を抑え、織田家が北畠と同盟し、伊勢路の安定させたと同時に遠江全土を併合。

いまや六十万石ほどか。

しかも次は駿河。

武田家が上杉家と川中島で争い、さらに上州へも手を伸ばしているその隙を、逃すつもりはない。

 

「そっちも大変ですな」と治部大輔。

 

家康は、わずかに口元を緩めた。

 

「互い様にございます」

「まあな」

 

備前守長政も、そこへ視線を向ける。

 

その顔は、まさに「おつかれ」と言いたげだった。

そしてそれは、治部大輔にも家康にも、自分自身にも向けた顔だった。

 

皆、忙しすぎる。

皆、次の戦を抱えすぎている。

だが、そういう顔をしながらも、誰も立ち止まらない。

 

評定がいったん引けたあと、治部大輔は少しだけ陣の外れへ出た。

 

そこから見える旗の数が、まだ信じられないほど多い。

織田。

徳川。

浅井。

北畠。

長野工藤。

そのほか、いくつもの小旗が風に鳴る。

 

ここまで来たか、と思う。

尾張の一大名家だった頃とは、もう何もかもが違う。

 

「治部様」

 

振り返ると、伊勢守だった。

後ろには左近、慶次郎、助右衛門もいる。

 

「若狭、片付きましたな」

「片付いた」

「次は越前」

「そうだ」

 

慶次郎が、肩を回しながら言う。

 

「でも、もうこっからは、散発的な相手を潰すだけじゃ済まねえな」

「済まない」

 

左近が静かに続ける。

 

「朝倉そのものを折る段だ」

「うん」

 

助右衛門は短く言う。

 

「鈍い相手ほど、折るには重い」

「それもそうだ」

 

治部大輔は、そこで少しだけ息を吐いた。

 

「でも、ここまで来たらやるしかない」

 

伊勢守が笑う。

 

「いつもそれですな」

「いつもだよ」

「嫌いじゃありませぬ」

 

そうしているうちに、備前守長政もこちらへ来た。

 

「治部殿」

「何だ」

「若狭のこと、感謝致します」

「いや、感謝される筋でもない」

「いえ。浅井だけで抱えたなら、もう少し荒れたでしょう」

「それはあるかもな」

 

長政は、そこで少しだけ空を見た。

 

「北近江、若狭、丹波、丹後」

「四つになったな」

「ええ」

「重いか」

「重いです」

 

だが、その顔は沈んではいない。

 

「ですが、やります」

「うん。そう言うと思った」

 

家康も、少し離れたところからそのやり取りを見ていた。

若い家だ。

まだ完全に固まってはいない。

だが、若いからこその勢いと、組み替えの早さがある。

いまの織田には、それが味方として並んでいる。

 

やがて、夕刻の風が陣を抜けた。

 

越前征伐は、まだ終わっていない。

むしろここからが本番だ。

 

だが、金ヶ崎は開き、若狭は落ち着き、浅井は新たな一国を得て、敦賀は治部預かりとなった。

そのうえで、次には駿河まで見えている。

 

信長の軍は、もはや一つの戦をしているのではない。

畿内を静め、越前を折り、四国を測り、東国の形まで視野に入れて動いている。

 

燎原の火。

 

その言い方は、やはり間違ってはいなかった。

だがそれは、ただ焼き尽くすだけの火ではない。

焼いたあとに、どこへ何を置くかまで決めて進む火だった。

 

 

金ヶ崎城開城の報が届いて、陣中の空気がようやく一つ先へ進んだ、その直後だった。

 

今度は、別の報せが入った。

しかも、それはあまりにも露骨で、あまりにも早かった。

 

「……朝倉式部大輔殿より」

 

本陣へ持ち込まれた書状の差出を確認し、丹羽五郎左衛門長秀がそう言った時、その場にいた者たちは一瞬だけ無言になった。

 

上座に信長。

その脇に信勝。

柴田権六勝家、丹羽五郎左長秀、森三左衛門可成。

そして治部大輔信繁。

 

それだけで十分だった。

むしろ、それだけだからこそ、文の毒気が薄まらずに場へ落ちた。

 

「早いな」と権六が鼻を鳴らす。

 

「ええ」と五郎左。

「金ヶ崎開城の知らせが届いて、ほとんど間を置いておりませぬ」

 

信長は、まだ文へ手を伸ばさない。

 

「読め」

「は」

 

五郎左は封を切り、目を走らせた。

読み進めるほど、その顔に乾いた色が差す。

 

「長いですな」

 

森三左衛門が、少し口元を歪める。

 

「何と書いておる」

 

五郎左は、文を持ったまま答えた。

 

「いろいろと長々しく理屈を連ねておりますが」

「うむ」

「要するに、朝倉左衛門督の首を土産に一乗谷を開城する。ゆえに、己の命は助けてほしい、と」

 

場に、嫌な静けさが落ちた。

権六が、露骨に顔をしかめる。

 

「見下げ果てた男よ」

 

三左衛門は、逆に妙に静かだった。

 

「早すぎる」

 

「はい」と五郎左。

「金ヶ崎が開いたと知れた途端、でございます」

 

信長は、そこでようやく手を差し出した。

 

「寄こせ」

 

五郎左が文を渡す。

信長は、ざっと読み下した。

 

義景の不明。

家中の乱れ。

越前のため。

朝倉の名のため。

やむなく自分が立つ。

そういうことが、もっともらしくいくらも並んでいる。

 

だが結局は一つだ。

 

**義景を売る。自分は助かりたい。**

 

読み終えた信長は、鼻で笑った。手にした手紙を弟に手渡す。

 

「潔いほどに、己が可愛い男よ」

 

手紙に目を通した信勝が、静かに言う。

 

「言い訳は長いが、言いたいことは一つですな」

 

「そうだ」

信長は、そこで顔を上げた。

「どう思う」

 

権六が先に答えた。

 

「使えますな」

 

皆がそちらを見る。

 

権六は、淡々としていた。

 

「景鏡は腐っておる。だが、腐っておるからこそ、一乗谷を内から割るには使える」

 

三左衛門も頷く。

 

「残しておくと毒だが、今は使える」

 

五郎左が続ける。

 

「そのまま信用するのは危ううございます」

「うむ」

「ただ、これほど露骨に助命を乞うておる以上、餌を少しぶら下げれば、自ら働きましょう」

 

信勝が、そこで信繁を見る。

 

「治部はどう見る」

 

信繁は、少しだけ考える顔をした。

 

「使うべきです」

「その後は」

「別です」

 

短かったが、はっきりしていた。

 

権六が、少し口元を上げる。

 

「だろうな」

 

信繁は、文を軽く指で叩いた。

 

「助ける約束を守る価値はないです、こういう手合いは」

 

五郎左が静かに補う。

 

「約束を守る相手かどうか、ではなく、守った時に、こちらが得るものが薄い」

「そういうことです」

 

信長は、そこで文を机へ置いた。

 

「景鏡という男は」

誰も口を挟まない。

「朝倉が名門であるとの構えだけは崩さなんだ」

 

「はい」と信勝。

 

「だが、金ヶ崎が開いたと知れた途端、これだ」

信長の口元が、冷たく歪む。

「名門の看板を振り回す者ほど、最後はこうなるか」

 

信繁が、そこで小さく言った。

 

「九郎左衛門尉殿が必死で訴えた時、あいつが一番笑ってたそうですからね」

 

信長は頷いた。

 

「“織田の下風になぞ立てるか”と言うたのだったな」

「はい」

「ならば、せめて最後くらい、織田の風に吹かれてもらおう」

 

権六が、低く笑った。

 

「ようございますな」

 

五郎左は、すぐに現実へ戻した。

 

「返書は、薄くするべきかと」

「申せ」

「働き、真偽明らかとなれば、その後のことは別途沙汰する。その程度に留める」

 

信勝が頷く。

 

「生かすとも、助けるとも書かぬ」

「はい」

 

三左衛門が、そこへ差した。

 

「他へ漏らさせぬ方がよい」

「うむ」

「義景側へ先に知れれば、一乗谷の内で潰し合いになり、城は開く前に荒れましょう」

 

「その通りだ」と信長。

「景鏡一人にだけ飲ませる」

 

信繁が、そこで一つ問うた。

 

「九郎左衛門尉殿には知らせますか」

 

一瞬、場が静まる。

 

信長は即答しなかった。

だが、少し考えてから言う。

 

「知らせてよい」

「はい」

「ただし、美景姫まで広げるかは父に任せよ」

「承知しました」

 

信長は、もう一度文を見る。

 

「しかし、こうも早く左衛門督めの首を売りに来るとなると」

 

権六が低く言う。

 

「朝倉は、中からも終わっておりますな」

 

「うむ」

信長は短く頷いた。

「我らが外から焼くまでもなく、内から火が上がっておる」

 

そして最後に、きっぱり命じた。

 

「返書を出せ」

 

「は」と五郎左。

 

「一乗谷は開かせる」

「は」

「式部大輔の助命は、その時考える」

 

信繁が、そこで少しだけ笑った。

 

「考える、ですか」

 

信長が横目で見る。

 

「何だ」

「左衛門督殿が大好きな言葉だなと思って」

 

一瞬だけ、場に乾いた笑いが落ちた。

だが冷たい笑いだった。

 

それで評定は決まった。

 

朝倉式部大輔景鏡。

その内通は使う。

だが、信じはしない。

助ける約束も、今はしない。

 

一乗谷を開かせるための、次の火種がここで置かれたのだった。

 

 

本陣の評定が終わったあと、信繁はしばらく動かなかった。

 

景鏡からの文は、薄汚い。

だが、薄汚いからこそ、いまの朝倉の底がよく見えた。

あれを見た以上、九郎左衛門尉景紀へ何も伝えぬという手はない。

 

もっとも、知らせること自体が一つの刃でもある。

景紀にとっては、家中の腐りがもう疑いではなく、形になって届くことになるのだから。

 

それでも、知らせるべきだと信長が言った。

ならば、伝える。

 

景紀がいる一室は、瀬田でも稲葉山でも同じように、少し静かすぎる感じがした。

客として遇されている。

だが、ただの客ではない。

朝倉家の行く末を、もう自分たちの意思だけでは決められぬ位置へ来てしまった者の部屋だった。

 

信繁が入ると、景紀はすぐに立ち上がった。

 

「治部大輔殿」

「座ってくれ」

 

その声で、景紀は何かを察したらしい。

礼は崩さぬが、顔が少しだけ硬くなる。

 

美景姫も同席していた。

こちらは父よりも先に、信繁の手にある文を見て、目を細めた。

 

「……何か、ございましたか」

 

信繁は、まず二人を見た。

それから、ためらわずに言った。

 

「式部大輔から、内通の文が来た」

 

景紀の顔から、すっと色が引いた。

驚きというより、ついにそこまで来たか、という反応だった。

 

美景姫は、父より先に口を開いた。

 

「何と」

 

信繁は、文を軽く持ち上げた。

 

「長々と理屈は書いてある」

「……」

 

「でも、要するに一つだ」

少しの間。

「左衛門督殿の首を土産に、一乗谷を開く。だから命は助けてくれ、だとさ」

 

部屋が静まり返った。

 

景紀は、しばらく呼吸の仕方を忘れたように黙った。

怒りも、呆れも、悲しみも、すぐには出てこない。

その全部がいっぺんに来すぎた時、人はまず固まる。

 

美景姫が、低く言った。

 

「……そこまで」

 

信繁は頷いた。

 

「そこまでだ」

 

景紀は、ゆっくりと目を閉じた。

そして、長く息を吐く。

 

「評定の場で、織田の下風になぞ立てるかと笑っていた男が」

「うん」

「最後は、自分だけ助かろうとするか」

「そういうことになる」

 

景紀は、そこでようやく顔を上げた。

その目は、怒っているというより、何かが完全に折れたあとの目だった。

 

「……朝倉は、もう外からだけでなく」

 

「内からも終わってる」と信繁。

 

景紀は、その言葉に反論しなかった。

 

美景姫は、静かに膝の上で手を握っていた。

だが声は、思ったより落ち着いていた。

 

「父上が評定で訴えたことが、ことごとく現実になっておりますね」

 

景紀は、苦く笑った。

笑ったが、目は死んでいない。

 

「そうだな」

 

「それでも」美景姫は続ける。

「左衛門督殿は、まだお動きにならぬのでしょう」

 

信繁は、そこには即答しなかった。

だが返さぬことが、答えのようなものだった。

 

景紀が、ぽつりと呟く。

 

「宗滴公が見たなら、何と申されたでしょうな」

 

その言葉には、景紀自身への悔しさもあった。

宗滴の家を継ぎながら、結局ここまでしか届かなかったという痛みだ。

 

信繁は、少しだけ声を落とした。

 

「九郎左衛門尉殿」

「はい」

「兄上は、この文を使う」

 

景紀は、静かに頷く。

 

「でしょうな」

「一乗谷を開かせるために」

「はい」

「でも、式部大輔を信用してるわけじゃない」

「それも、そうでしょう」

「助ける約束もしてない」

 

そこへ、美景姫が顔を上げた。

 

「では、式部大輔は」

「働くだけ働かされて、最後にどう転ぶかは別」

 

美景姫は、その言い方を飲み込んだ。

冷たい。

だが、おそらくそれが一番正確だ。

 

景紀は、しばらく黙ってから言った。

 

「お伝えくださって、ありがとうございます」

 

信繁が少し眉を上げる。

 

「怒らないんだな」

 

「怒りはあります」景紀の声は静かだった。

「ですが、知らせて頂けたことの方が重い」

 

「そうか」

 

「もし私がまだ一乗谷にいたなら」

景紀は、自分でその先を言い切った。

「いま頃、式部大輔の口車か、あるいは左衛門督殿の鈍さとともに、あの谷に埋もれておったでしょう」

 

その言い方は、自嘲だった。

だが、美景姫は父を見て、きっぱりと言った。

 

「父上は、そうはならなかったからここにおられるのです」

 

景紀は、娘の方を見た。

その目にだけ、少しだけ色が戻る。

 

信繁は、そのやり取りを見ながら思った。

この父娘は、やはり拾ってよかった側だ。

今の一言の応酬だけでも分かる。

 

「九郎左衛門尉殿」と信繁。

 

「はい」

「景鏡の癖、もっと分かるか」

 

景紀は、すぐに意味を取ったらしい。

 

「使うため、ですか」

「うん」

「……分かります」

「なら、教えてほしい」

 

「承知しました」

景紀は、そこでようやく完全に“聞かされる側”から、“使われる側”へ一歩踏み出した。

「式部大輔は」

 

「うん」

「己の利には敏い。だが、命が懸かった時ほど早く動く」

「そうだろうな」

「また、相手が“自分を必要としている”と感じた時に、余計なことまで喋ります」

 

美景姫が、静かに補った。

 

「軽く助命の気配を見せれば、自分で勝手に働きを盛るでしょうね」

 

信繁は、そこで少し笑った。

 

「似た見立てだ」

 

景紀も、少しだけ口元を動かした。

 

「父娘で長年見て参りましたので」

「ありがたい」

 

しばらく、朝倉家中の空気、景鏡の人脈、義景の近習たち、どこから一乗谷の門が動くか、そういう話が続いた。

 

信繁は、必要なところだけを聞く。

景紀は、必要なところだけを答える。

美景姫は、ときどき父より早く補う。

 

そのやり取りの中で、父娘はもう朝倉の外から朝倉を見ていた。

それが痛ましくもあり、しかし今さら戻れぬところまで来た証でもあった。

 

最後に、景紀が静かに言った。

 

「治部大輔殿」

「何だ」

「もし、一乗谷が落ちたなら」

「うん」

「宗滴公の名まで、ただの滅びた朝倉と一緒に埋もれぬよう、どこかで覚えておいて頂ければ」

 

信繁は、その願いにだけは、少しも軽く返さなかった。

 

「覚えておくよ」

 

景紀が顔を上げる。

 

「本当に」

 

「本当に」

信繁は親子を見つめる。

「九郎左衛門尉殿のことも、美景姫殿のことも、宗滴公の流れも」

 

景紀は、それを聞いて深く頭を下げた。

 

美景姫も、黙ってそれに倣う。

 

朝倉は、もはや崩れる。

その現実は変わらない。

だが、崩れるからこそ、何を残し、誰を拾うかが意味を持つ。

 

景鏡の内通は、その腐りをはっきり形にした。

そして同時に、景紀父娘がこちらへ来たことが、間違いではなかったとも証明してしまった。

 

部屋を出る時、信繁は小さく思った。

 

――これ、朝倉の中にいたら本当に地獄だったろうな。

 

だが声には出さなかった。

それはもう、この父娘自身が一番よく分かっていることだったからだ。

 

 

式部大輔景鏡への返書が出てから、一乗谷へ至る空気は、目に見えて変わった。

 

表向きには、まだ朝倉家は立っている。

左衛門督義景は一乗谷にあり、家臣も揃い、旗も立つ。

だが、その内側では、もう人の心が持ち場を離れ始めていた。

 

誰が最後まで残るのか。

誰が門を開くのか。

誰が首を差し出し、誰が逃げるのか。

そういう話が、声をひそめて行き交う時点で、家は半ば落ちている。

 

織田本軍は、急ぎすぎなかった。

 

それは兵が鈍いからではない。

急がずとも、向こうが勝手に崩れると分かっていたからだ。

 

陣中で、信長は静かに命を下した。

 

「一乗谷へは、圧をかけ続けよ」

 

「は」と権六。

 

「だが、無理に谷へ飛び込むな」

 

五郎左が頷く。

 

「景鏡が働くまで待つ、でございますか」

 

「うむ」

信長は、地図の上で一乗谷の位置を指で押さえた。

「逃げ道は塞ぐ。だが、潰し合う余地は残す」

 

森三左衛門が低く笑う。

 

「内から腐らせる方が早い、ですな」

「そうだ」

 

信勝が静かに補う。

 

「左衛門督が逃げればなお良し。式部大輔が先に動けば、それでも良し。どちらに転んでも、谷は荒れる」

 

信繁は、そこで少しだけ目を細めた。

 

「景鏡は、たぶん待ちきれないでしょう」

 

信長が横目で見る。

 

「そう思うか」

「思います。あいつは、自分が“使われている”と感じるより、“必要とされている”と勘違いした時の方が早い」

 

「九郎左衛門尉も似たようなことを申しておったな」と信勝。

 

「はい」

「ならば、もう間もないか」

 

その読みは当たった。

 

一乗谷では、その頃、景鏡の周囲だけが妙に忙しかった。

 

義景は、なおも鈍い。

城中がざわつき、兵が減り、近習の顔色が変わっても、どこか「まだ朝倉は朝倉である」という夢から醒め切らない。

 

「式部大輔」

「は」

「本当に、まだ持つのか」

 

その問いに、景鏡は深々と頭を下げた。

 

「持たせてみせまする」

 

言い切る。

だが、その内心は別だった。

 

――持たせるのではない。

――開くのだ。

 

景鏡は、もう義景を主としては見ていない。

いや、もっと正確に言えば、義景を抱えて沈むつもりはない。

 

あとはいつ、どのように切るか。

そこだけだった。

 

その夜、一乗谷のある一角で、小さな刃傷が起きた。

 

表向きには、近習同士の争い。

だが実際には違う。

義景側の気配を残す者と、景鏡側へ寄った者が、もう隠しきれずにぶつかったのだ。

 

血は多くは流れなかった。

だが、十分だった。

 

「城内で抜刀があった」

「近習が離れ始めておる」

「景鏡が兵を別に固めておる」

 

その報せは、夜のうちに織田本陣へも届いた。

 

五郎左が文を持って入り、信長へ差し出す。

 

「動きました」

 

信長は、短く問う。

 

「義景か、景鏡か」

「まだ判然とは致しませぬ。ですが、谷の内で兵の割れが始まっております」

 

信長は、そこでようやく少しだけ笑った。

 

「景鏡が痺れを切らしたな」

 

権六が言う。

 

「ならば、朝には決まりますか」

 

「決まろう」

信長は立ち上がった。

「夜が明けたら動く」

 

「は」

「だが、谷へ突っ込みすぎるな。門が開くなら開かせる。逃げるなら追う。無駄に潰し合うな」

 

その命は、すぐに諸将へ回った。

 

翌朝、一乗谷は霧に包まれていた。

 

朝倉の谷は、静かな時は本当に静かだ。

山の息がそのまま降りてきたような白さが、家並みを曖昧にする。

 

だが、その白さの中で、人だけが落ち着かない。

 

門番の立つ位置が変わる。

物見の声が揃わない。

兵が、命令の届く前から勝手に散っていく。

 

義景の側では、ようやく遅い恐慌が始まっていた。

 

「式部大輔はどこだ」

「それが……」

「九郎左衛門尉はもうおらぬ。式部大輔まで見えぬとは何事だ」

 

返す声も、もう強くない。

 

誰もが分かっていた。

もう“何事だ”では済まないところまで来ている、と。

 

その時だった。

 

一乗谷の一つの門が、内側から静かに開いた。

 

大音声もない。

鬨もない。

むしろ妙に事務的だった。

 

開けるべきだから開けた。

そういう感じで、木戸が左右へずれた。

 

谷の外でそれを見た権六が、鼻を鳴らす。

 

「開いたな」

 

森三左衛門が低く言う。

 

「式部大輔め」

 

信長は、前へ出す兵を最低限に留めた。

 

「権六、三左衛門」

「は」

「まず押さえろ。だが、奪うな。荒らすな」

「御意」

「左衛門督が残っておれば捕らえよ。逃げておれば追え」

「御意」

 

そうして織田兵が谷へ入っていく。

だが、これはもはや正面攻城ではなかった。

 

城壁を破るのでも、堀を埋めるのでもない。

内から半ばほどけた家を、外から秩序立てて押さえに行く戦だった。

 

景鏡は、自ら姿を見せることはしなかった。

代わりに、自分の側近を先へ出している。

 

「式部大輔殿は、御約定の通り――」

 

そこまで言いかけた男を、権六は見下ろした。

 

「御約定?」

 

その声音だけで、男は言葉を詰まらせた。

 

権六は冷たく言った。

 

「城は押さえる。左衛門督は捕える。式部大輔の沙汰は、その後だ」

 

その返しで十分だった。

 

景鏡側の者たちは、ここで初めて気づく。

ああ、この織田は、こちらを使ってはいても、対等に約を結んだつもりはないのだと。

 

一乗谷の中では、散発的な抵抗がまだあった。

 

朝倉の名で立つ地侍。

何が起きたか分からぬまま槍を取る兵。

主を見失って、それでも門前で踏みとどまる近習。

 

だが、もう組織だった戦いではない。

 

織田兵は、それを押し切った。

押し切るというより、一つずつ剥がした。

門を押さえ、蔵を押さえ、道を押さえ、人を分ける。

火を放たせず、乱取りをさせず、谷を一つの形のまま奪う。

 

信長が命じた通りだった。

 

**盗るな。犯すな。殺すな。**

 

もちろん、刃を交えれば血は流れる。

だが、戦の後に残る荒れは、ほとんど出さなかった。

 

昼前には、一乗谷の大勢は決した。

 

義景は、もう谷にはいなかった。

 

「逃げたか」

 

信長は、その報を聞いて短く言った。

 

信勝が頷く。

 

「式部大輔が先に動いた以上、残る方がおかしいでしょう」

「うむ」

 

「追手を」

 

「出せ」と信長。

「だが、深追いしすぎるな。越前はまだ一国ある」

 

ここで一つを押さえたからといって、越前全体がすぐ静まるわけではない。

だが、一乗谷が落ちた意味は大きい。

朝倉の“顔”が、ついに崩れたのだ。

 

その頃、景紀父娘は、遠くから届く報せでその結末を知った。

 

「一乗谷、開城」

 

景紀は、文を受け取ったまま、しばらく動かなかった。

予想していた。

していたが、それでも実際にそうなると、胸の奥のどこかが静かに崩れる。

 

「左衛門督様は」

「谷を脱したと」

 

景紀は、目を閉じた。

 

美景姫は、父を見た。

何と言えばよいか分からない。

悔しい。

悲しい。

だが、驚きはない。

 

それが、なおさら辛かった。

 

「父上」

 

「……ああ」

景紀は、ようやく声を出した。

「終わったな」

 

その言い方に、美景姫は静かに頭を下げた。

 

朝倉は、まだ完全には滅んでいない。

義景は逃れた。

残党もある。

越前の山は、まだ朝倉の名を覚えている。

 

だが、一乗谷が落ちた。

 

その意味は、もう取り返しがつかなかった。

 

同じ頃、信繁は谷を見下ろしていた。

 

一乗谷。

名門朝倉の本拠。

宗滴も、義景も、ここで朝倉を見てきた。

 

それが今、門を開かれ、内から腐り、外から秩序立てて押さえられている。

 

「式部大輔はどうしました」と信繁が問う。

 

「押さえました」と森三左衛門。

「生かしてある。上総介様が、まず見てからと」

 

信繁は、少しだけ口元を歪めた。

 

「考える、か」

 

森三左衛門も、乾いた笑みを浮かべた。

 

「式部大輔の好きな言葉でしたな」

「最後までな」

 

そうして、一乗谷は落ちた。

 

あれほどの名門。

あれほどの誇り。

だが、最後は景鏡のような男が自分の命惜しさに門を開き、義景は谷を失う。

 

滅びというのは、もっと劇的なものだと人は思いたがる。

だが実際には、こういうふうに、鈍さと保身と遅れが重なって、音もなく割れていくものなのかもしれなかった。

 

 

一乗谷が落ちたその日の夕刻、朝倉式部大輔景鏡が本陣へ引き立てられてきた。

 

縛られてはいる。

だが、引きずられてきたというほど乱暴でもない。

上総介が「まず見てから」と言った以上、ここで無駄に傷を増やす意味はない。もっとも、その“見てから”が助命を意味しないことくらいは、景鏡自身もよく分かっていた。

 

本陣の空気は冷えていた。

 

上座に信長。

その脇に信勝。

柴田権六勝家、丹羽五郎左長秀、森三左衛門可成。

そして少し下がって、治部大輔信繁。

 

それだけで十分だった。

むしろ、それだけだからこそ、景鏡の惨めさが薄まらない。

 

景鏡は、据えられてからも、完全には崩れなかった。

いや、崩れぬように必死で形を保っている、と言うべきか。

 

「式部大輔」

 

信長が名を呼ぶ。

 

景鏡は深々と頭を下げた。

 

「は」

「文は読んだ」

「恐れ入ります」

「城も開いた」

「は」

「左衛門督は逃がしたな」

 

そこで初めて、景鏡の肩がわずかに動いた。

 

「……取り逃がしました」

「取り逃がした、か」

 

信長の声は平らだった。

だが、その平らさの方がむしろきつい。

 

「そちは、義景の首を土産に一乗谷を開くと申した」

「は」

「だが、実際には門を開いただけだ」

 

景鏡は、しばらく言葉を探していた。

長々しい理屈を並べる口はある。

だが、この場でそれを重ねても薄っぺらくなることは、自分でも分かっているらしい。

 

「御陣の勢い、あまりに急に」

 

「言い訳か」と権六が切った。

 

景鏡の口が閉じる。

 

信長は権六を制しない。

ただ景鏡を見ている。

 

「式部大輔」

「……は」

「そちは、朝倉が名門であると申したな」

 

景鏡の喉が、わずかに動く。

 

「はい」

「織田の下風になぞ立てるか、とも」

 

そこで、景鏡はついに視線を落とした。

その言葉が、もう自分へ返ってくると分かっていたのだろう。

 

信長は短く言った。

 

「引け」

 

兵が一歩進みかける。

 

その時だった。

治部大輔が、静かに一歩前へ出た。

 

「ねえ、式部大輔殿」

 

景鏡が、縛られたまま顔を上げる。

 

「……なんでしょうか、治部大輔殿」

 

治部大輔の声は高くない。

怒鳴るでもない。

むしろ静かだった。

静かだからこそ、その場にいた誰も口を挟まなかった。

 

「平家物語や三国志などでは、袁紹や袁術、劉表など、滅びの道をたどった名家のことをたくさん描いてますよね」

景鏡の顔が、わずかに強張る。

「当然、あなたもご存知でしょうが」

 

治部大輔は、少し首を傾げた。

 

「どうして、自分の身に置き換えられなかったのです?」

 

景鏡は、唇を動かしかける。

だが、声が出ない。

 

「本気で、越前朝倉家が、『名門』なんぞという屁の突っ張りにもならない理屈で、十万の織田兵を撃退できるとでも思ってたのですか?」

「……」

「それとも、名門だから意味もなく滅びないと?」

「……」

「名門だから元寇みたいに神風が吹いて、織田軍は撤退するとでも? そもそも攻めて来ないとでも思いました?」

 

場は凍っていた。

 

信長も、信勝も、権六も、五郎左も、三左衛門も、誰も止めない。

止める必要がないと分かっている顔だった。

 

「では、どうして平家は滅びたんです?」

景鏡の喉が、ひくりと動く。

「三国志の袁紹袁術劉表は?」

「源九郎義経は?」

「鎌倉幕府は?」

「周防の大内家は?」

「美濃の斎藤家は?」

「九州の少弐氏は?」

 

一つずつ、逃げ場を潰すように言葉が落ちる。

 

景鏡は、ついに目を逸らした。

だが、治部大輔はそれすら逃がさない。

 

「某が不思議なのは」

声が、ほんの少しだけ低くなる。

「ほんの一瞬でも、『あ、自分たちまずいぞ』とは思わなかったのか、ということです」

 

「……」

「そこまで周囲のことに鈍くて、よく今まで大身である越前朝倉家の中ででかい顔できましたねぇ?」

 

景鏡の顔は、もう青白い。

怒り返す気力も、言い訳を重ねる胆力も、さきほどの裁きでほとんど抜けていた。

 

「『織田の下風になんぞ立てるか』ですか」

 

治部大輔は、そこで少しだけ笑った。

笑ったが、冷たい笑いだった。

 

「それで今は、どんな気持ちですか?」

「治部大輔殿、それは……」

 

ようやく出た景鏡の声は、かすれていた。

だが、そこへ容赦はなかった。

 

「九郎左衛門尉殿とは対立していた」

治部大輔は、景鏡の言葉を切るように言う。

「それは、家中でのこと、仕方ないことかもしれません」

 

「……」

 

「でも、それでも、どうして相手ではなく、その話の内容を聞こうとしなかったのですか?」

景鏡は、何も言えない。

「だから今こうなってるんじゃないですか?」

 

声は大きくない。

だが、刃のようだった。

 

「見たい物だけを見たいように見て」

「見たくないものに蓋をして」

「けっきょく自分の脳みそが空っぽなのに、死の間際になってようやく気づいて」

 

治部大輔は、景鏡をまっすぐ見た。

 

「どんな気持ちですか?」

 

沈黙。

 

本陣の中で、誰一人として動かなかった。

景鏡は、返す言葉を持たなかった。

いや、言葉はいくつも浮かんだのかもしれない。

だが、そのどれもが、今ここで口にした瞬間に、自分の薄っぺらさを増すだけだと、ようやく分かったのだろう。

 

やがて景鏡は、絞り出すように言った。

 

「……某は……」

その先が続かない。

「某は、朝倉を……」

 

治部大輔の目が、わずかに細くなる。

 

「守るつもりだった?」

 

景鏡は、そこで初めて涙のようなものを滲ませた。

だが、もう遅い。

 

「なら、九郎左衛門尉殿が評定で叫んだ時、どうして一緒に叫ばなかったんです?」

「……」

「どうして、左衛門督殿を無理にでも上洛させようとしなかったんです?」

「どうして、織田の兵数を笑ったんです?」

「どうして、浅井がもう昔の浅井じゃないと認めなかったんです?」

 

景鏡の肩が震える。

だが、その震えは悔しさより、ようやく自分の愚かさを見せつけられた者のものに見えた。

 

「あなたは、朝倉を守ろうとしたんじゃない」

治部大輔は、最後にそう言った。

「朝倉の看板を使って、自分の気分を守ってただけです」

 

その一言で、景鏡の顔から、残っていたものが全部落ちた。

 

信長が、そこでようやく口を開く。

 

「もうよい、治部」

 

治部大輔は、静かに一歩引いた。

 

「はい」

信長は、景鏡を見下ろした。

「聞いたであろう、式部大輔」

 

景鏡は、もはや顔を上げない。

 

「お前は、使えはした」

「……」

「だが、それだけだ」

 

短い沈黙。

 

「引け」

「は」

 

兵が、景鏡を引き立てる。

 

今度はもう、景鏡は何も叫ばなかった。

叫ぶ言葉も、残っていなかったのだろう。

 

幕の外へ消えていくその背を、治部大輔は黙って見た。

 

やがて、外で短く太刀の音がした。

 

それだけで終わった。

 

本陣の中に、少しだけ重い静けさが残る。

三左衛門が低く息を吐き、権六は腕を組み直した。五郎左は何も言わず、信勝は静かに景図へ目を戻す。

 

信長だけが、ほんの少しだけ治部大輔を見た。

 

「……だいぶ刺したな」

 

治部大輔は、肩を竦めた。

 

「ずっと言いたかったので」

 

権六が、そこで鼻を鳴らす。

 

「九郎左衛門尉殿の話を、あやつは笑い飛ばしたからな」

「はい」

 

五郎左が静かに言った。

 

「言葉で斬られたうえで、太刀で斬られたか」

 

信勝が、治部大輔へ静かに問う。

 

「気は済んだか」

 

治部大輔は、少しだけ考えてから答えた。

 

「半分ぐらい」

「半分か」

「九郎左衛門尉殿と美景姫殿が聞いたら、もう半分済むかもです」

 

その返しに、信長は小さく笑った。

 

「相変わらずだな、お前は」

 

だが、その声に咎める色は薄かった。

 

景鏡は死んだ。

だが、その死は、ただの裏切り者の処刑で終わらなかった。

朝倉家がどこで腐り、何を見誤り、どう滅びたのか。

その答えを、景鏡自身へ最後に突きつけたうえで、終わらせた。

 

それは、たぶん必要なことだった。

 

 

景鏡が討たれたその日のうちに、九郎左衛門尉景紀と美景姫は、信長の本陣へ呼ばれた。

 

二人とも、呼ばれた時点で、ただ事ではないとは分かっていた。

一乗谷は落ちた。

義景は谷を脱した。

そのうえで、いま本陣へ招かれる。

 

何かが終わったのだ。

しかも、あまり良い形ではない。

 

本陣の空気は静かだった。

だが、その静けさの底に、戦の後の冷たさがある。

 

上座に信長。

その脇に信勝。

柴田権六勝家、丹羽五郎左長秀、森三左衛門可成。

そして少し下がって、治部大輔信繁。

 

景紀と美景姫は、定められた位置で深く礼を取った。

 

「九郎左衛門尉」

 

信長が、まっすぐ言った。

 

「は」

「式部大輔は討った」

 

景紀は、顔を上げなかった。

上げなかったが、その肩がごくわずかに沈んだ。

 

「……さようにございますか」

「うむ」

 

信長の声は平らだった。

だが、その平らさの中に、隠す気のない断定があった。

 

「一乗谷を開かせるには使えた」

「……」

「だが、その先で生かしておく価値はなかった」

 

景紀は、ゆっくりと頭を下げたまま答えた。

 

「ご裁断、もっともにございます」

 

美景姫は、父の横で静かに息を吸った。

彼女もまた、景鏡が生き延びるとは思っていなかった。

だが、こうして信長自身の口から聞かされると、やはり現実の重みが違う。

 

信長は、そこで少しだけ信繁を見た。

 

「ただし」

景紀親子の目が、わずかに動く。

「あれは、ただ斬っただけではない」

 

「……」

「治部」

 

信繁が一歩出る。

 

「はい」

 

信長は、景紀父娘を見たまま言った。

 

「あれは、そなたらのために怒っておった」

 

景紀が、初めてはっきりと顔を上げた。

美景姫も、信繁の方を見る。

 

信繁は、少しだけ困ったような顔をした。

 

「兄上、そういう言い方をすると」

 

「事実であろう」

信長の声は変わらない。

「式部大輔が九郎左衛門尉を笑い、そなたの話を聞かず、朝倉の看板に縋って何も見ぬまま腐っていった。そのことに、そなたは腹を立てておった」

 

景紀の顔に、言葉にしにくい色が差した。

ありがたさ。

痛み。

そして、自分の訴えが、他家の者にそこまで届いていたのかという、少しの驚き。

 

信長は続ける。

 

「景鏡が引き立てられてきた時、治部はこう申した」

そこで信長は、景鏡を前にした時の信繁の言葉を、いくつか拾って聞かせた。

 

「どうして自分の身に置き換えられなかったのです」

「ほんの一瞬でも、『あ、自分たちまずいぞ』とは思わなかったのか」

「九郎左衛門尉殿とは対立していた、それは仕方ないことかもしれません。だが、どうして相手ではなく、その話の内容を聞こうとしなかったのですか」

「見たい物だけを見たいように見て、見たくないものに蓋をして、けっきょく自分の脳みそが空っぽなのに、死の間際になってようやく気づいて、どんな気持ちですか」

 

本陣の中が、少しだけ静かになった。

 

景紀は、それを聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。

まるで、自分があの場にいて、その言葉を直接聞いているようだった。

 

美景姫は、父よりも先に信繁を見つめていた。

驚きというより、ああこの人は本当にそういう怒り方をするのだ、という納得に近い目だった。

 

権六が、そこで鼻を鳴らした。

 

「正直、そこまで言うか、と肝が冷えた」

 

三左衛門がすぐ続く。

 

「権六もか?」

 

権六が、少しだけ嫌そうにそちらを見る。

 

「何だ」

「わしも、治部殿があそこまで淡々と怒っておるのは初めて見た」

 

景紀父娘が、そこでようやく本陣の中の空気を少し別の角度から見る。

 

権六と三左衛門。

本家の重臣たちが、景鏡への追及を思い出して、なおそう言う。

それは、つまり、あの場の怒りが単なる若者の勢いではなかったということだ。

 

信繁は、少しだけ肩を竦めた。

 

「いや、だって」

 

信長が横目で見る。

 

「何だ」

「九郎左衛門尉殿の話、あいつ笑ってたんですよ」

 

景紀が、そこでわずかに目を伏せる。

 

信繁は、構わず続けた。

 

「対立してたのは分かる。けど、それでも、話の中身ぐらいは聞けよって」

「……」

 

「朝倉が危ないって、あんだけ分かりやすく出てたのに、見たいもんだけ見て、最後は主左衛門督殿の首を売って自分だけ助かろうとか」

そこまで言って、少し息を吐く。

「腹が立ちました」

 

景紀は、しばらく何も言えなかった。

 

美景姫が、静かに父を見る。

父の喉が上下している。

泣くまいとしているのか、怒りを抑えているのか、たぶんどちらもだった。

 

やがて景紀は、深く頭を下げた。

 

「……もったいなきことにございます」

 

信長が、そこで短く言う。

 

「もったいなくはない」

 

景紀が顔を上げる。

 

「そなたは、評定で正しいことを申した」

「……」

 

「それを式部大輔は笑った」

信長の声は変わらない。

「だから治部は怒った」

 

短い。

だが、それで十分だった。

 

美景姫は、そこで初めて信繁へはっきりと口を開いた。

 

「治部大輔殿」

「何です」

「ありがとうございます」

 

信繁は、少しだけ気まずそうな顔をした。

 

「いや、礼を言われるようなことでも」

 

「いえ」

美景姫の声は、静かだったがよく通った。

「父の言葉が、ただの負け惜しみでも、逃げるための理屈でもなかったと、あの男に突きつけてくださった」

 

「……」

「それだけで、十分にございます」

 

信繁は、そこでようやく少しだけ真面目な顔に戻った。

 

「九郎左衛門尉殿の言ってたことは、正しかったからな」

 

景紀は、その言葉にまた頭を下げた。

 

「……はい」

 

信長は、そこで場を締めた。

 

「式部大輔は死んだ」

皆が上座を見る。

「だが、それで朝倉の腐りが消えるわけではない」

 

「は」と信勝。

 

「左衛門督はまだ逃げておる。越前もまだ残る」

「はい」

「そなたら父娘には、そのことをよく見ておいてもらう」

 

景紀と美景姫が揃って頭を下げる。

 

「承知致しました」

 

信長は最後に、静かに言った。

 

「朝倉のどこが終わっていたか。どこなら残せたか。どこを残すべきか。そこを見失うな」

「は」

 

それで、この場は終わった。

 

退出して、少し本陣から離れたところで、景紀はようやく深く息を吐いた。

美景姫も、肩の力を抜く。

 

「父上」

「何だ」

「……救われましたね」

 

景紀は、少しだけ空を見た。

 

「そうだな」

 

「式部大輔は討たれました。朝倉は崩れました。ですが」

美景姫は、静かに続けた。

「父上の言葉は、ちゃんと届いていた」

 

景紀は、そこでやっと、ほんの少しだけ笑った。

 

「まことに、ありがたいことだ」

 

信繁は、その少し後ろからついてきていた。

景紀は振り返る。

 

「治部大輔殿」

「何です」

「……あそこまで言ってくださるとは思いませんでした」

 

信繁は、少しだけ眉を上げた。

 

「言いすぎましたかね」

 

景紀は、ゆっくり首を振る。

 

「いえ」

「ならいいや」

 

美景姫が、そこで少しだけ口元を緩めた。

 

「本当は、怒ると怖い方なのですね」

 

信繁は、少しだけ困った顔をした。

 

「いや、普段はそんなでも」

「権六殿も、三左衛門殿も、肝が冷えたと仰っていました」

「……それは、まあ」

 

そこへ景紀が、珍しく少しだけ柔らかい声で言った。

 

「ですが」

「はい」

「あの怒り方なら、一族としては、むしろ嬉しゅうございました」

 

信繁は、その言葉にだけ、しばらく返事ができなかった。

 

やがて、ぽつりと答える。

 

「そう言ってもらえるなら、まあ」

 

それでよかった。

 

景鏡は死んだ。

だが、その最期は、景紀父娘にとって、ただの政敵の処刑で終わらなかった。

自分たちの見ていたものが、ちゃんと現実だったと確認する場にもなった。

 

それは、朝倉の終わりの中で、数少ない救いの一つだった。

 

 

 

 

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