織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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057越前朝倉始末

左衛門督義景の最期は、あっけないほど静かに訪れた。

 

一乗谷を離れ、なおも立て直しの機を探る余地はあったはずだ。

だが、左衛門督義景は、それを選ばなかった。

 

付近の寺。

そこで義景は腹を切った。

 

遺された書には、短い辞世の句と、自身の不明を詫びる言葉があった。

そして、朝倉の血は残さずともよい、だが関わりのない自身の母親と女房や女官たちは助けてほしい、と。

 

その報を聞いた時、本陣はしばし静まった。

上総介兄上も、勘十郎兄上も、誰も軽口を挟まなかった。

 

「……遅すぎたな」

 

そう言ったのは権六の親父殿だったか、三左衛門殿だったか。

とにかく、その一言がすべてだった。

 

だが、その日、もう一つの報せがあった。

 

藤林長門守が、俺へだけ小さく告げた。

 

「まだ、見ておくべき者がおります」

「誰だ」

「斎藤右兵衛大夫龍興にございます」

 

俺は、わずかに目を上げた。

 

右兵衛大夫龍興。

美濃を追われたあの若い当主。

生年は天文十六年。一五四七年産まれ。俺より二つ下。だが、その名を聞いた瞬間、俺はすぐ頷いた。

 

「行く」

 

長門守に案内されて訪れたのは、一軒の屋敷だった。

寺でもなく、城でもない。

身を潜めるには適しているが、長く守れる場所ではない。

 

奥へ通されると、そこに斎藤右兵衛大夫龍興はいた。

 

若い。

だが、もう若いだけの顔ではない。

美濃を失い、流れ、朝倉に寄り、そしてここまで来た男の、疲れと諦めがすでに滲んでいる。

 

その傍らには、十三になるかならぬかほどの少女。

そして、まだ赤子の長男。

 

「……香耶」

右兵衛大夫龍興が、少女の方をちらりと見た。

「末の妹にございます」

 

俺は黙って頷いた。

 

「赤子は」

 

「喜太郎」

龍興の声は、妙に静かだった。

「母は朝倉家臣の娘にございましたが、産後ほどなく」

 

そこまでで、十分だった。

亡くなったのだと分かる。

 

龍興は、少しだけ口元を歪めた。

 

「某がここにいては、差し障りがありましょう」

 

俺は、すぐには返さなかった。

 

「だから」

龍興は、淡々と続ける。

「ここで腹を切ります」

 

香耶が、かすかに肩を震わせた。

だが泣かない。

赤子の喜太郎は、まだ何も分からぬまま、小さく寝息を立てていた。

 

「この二人は」

龍興が、初めて俺をまっすぐ見た。

「助けてほしい」

 

俺は、その視線を受け止めた。

 

「約束はできない」

 

龍興の目がわずかに細くなる。

当然だ。

ここで軽々しく“任せろ”とは言えない。

 

「だが」

俺は続けた。

「上総介兄上に話す」

 

「……」

「お濃の方にも、味方になってもらえないか相談する」

 

龍興の顔に、ほんの少しだけ色が戻る。

 

俺は、さらにもう一つ言った。

 

「それと」

「何だ」

「道三公は、まだご存命だ」

 

龍興の表情が、そこで初めて動いた。

 

驚きか。

安堵か。

悔いか。

一度には分からない。

ただ、その名が、あまりに重かっただけだ。

 

「……そうか」

 

龍興は、それだけ返した。

 

長門守が、静かに脇へ進み出る。

龍興もまた、もう迷わなかった。

 

「香耶」

 

少女が兄を見る。

血筋の呼び方はともかく、その場では最後に頼れる者だった。

 

「泣くな」

香耶は、唇を噛んで頷いた。

「喜太郎を」

 

「はい」

「生かせ」

 

それで十分だった。

 

龍興は、腹へ刃を入れた。

 

若い男の死に方としては、妙に静かだった。

苦悶の声はあった。

だが見苦しくはない。

最後まで、自分がここで消えるべきだと分かった者の死に方だった。

 

藤林長門守が、過不足なく介錯した。

 

首が落ちる。

血が散る。

香耶は目を閉じたが、倒れはしなかった。

 

俺は、しばらくその場を動かなかった。

だが、つかの間が合掌をして、やがて静かに言う。

 

「長門守」

「は」

「右兵衛大夫殿の首を持つ」

「承知」

 

そうして本陣へ戻った時、すでに夕刻は深かった。

 

上総介兄上の前へ首実検のために置かれる。

俺は、龍興の最期の言葉を、そのまま伝えた。

 

「約束はできぬが、上総介兄上に話す、と申したか」

「はい」

「ふむ」

 

上総介兄上は、しばらく黙っていた。

勘十郎兄上もまた、横で何も言わない。

 

やがて上総介兄上が口を開く。

 

「赤子は、帰蝶とご隠居に預けよ」

 

場がわずかに動く。

 

俺は顔を上げた。

 

「よろしいのですか」

 

「うむ」

上総介兄上は、そこで少しだけ口元を歪めた。

「ご隠居も、まだまだ三途の川を渡れなくなった」

 

かすかな笑いが落ちた。

だが、やさしい笑いだった。

 

「香耶姫は」

 

勘十郎兄上が静かに問う。

 

上総介兄上は、そこで香耶を前へ出させた。

 

少女は、震えてはいた。

だが、足は止まらない。

そのあたりは、さすが斎藤の血か、あるいはここまでで泣き尽くしたか。

 

上総介兄上は、静かに問うた。

 

「香耶姫よ」

「……は」

 

「そこにいるのは、そちの父一色左京大夫の仇」

俺の背筋が、嫌な感じに固くなる。

「そして、美濃を落とした張本人だ」

 

香耶は、俺を見た。

 

ほんの短い時間。

だが、その間にいろいろな感情が通り過ぎたはずだった。

 

俺が思わず口を開きかける。

 

「ちょっと」

 

だが、香耶の方が先だった。

 

「いえ」

 

細い声だった。

だが、意外なほどはっきりしていた。

 

「武門の習いでございますから、恨みには思うておりません」

 

場が、少しだけ静まる。

 

香耶は続けた。

 

「それに」

一瞬だけ目を伏せる。

「父は、私には冷とうございましたから」

 

その言い方に、誰も軽々しくは返せなかった。

権六の親父殿も、三左衛門殿も、口をつぐむ。

 

上総介兄上は、香耶をしばらく見ていたが、やがて俺を見た。

 

「では治部」

「は」

 

俺の予想は当たる。多分こうなる。

場にいた者たちも、何となく空気を察した。

 

「責任を持って、そちが娶れ」

「やっぱり!」

 

本陣に、久しぶりにはっきりした笑いが落ちた。

 

「あと」

上総介兄上は、まだ終わらない。

「朝倉の美景姫もじゃぞ」

 

俺は、今度は本気で固まる。

 

「……はい?」

「九郎左衛門尉は、喜んでお願いしたいと申しておった」

 

権六の親父殿が、そこで鼻を鳴らす。

 

「おめでとう、治部大輔殿」

 

三左衛門殿も、にやりと口元を上げる。

 

「めでたいのう」

 

勘十郎兄上は、静かな顔のまま言った。

 

「兄上、いささか急では」

「急でよい」

「よくないです!」

 

俺が全力で返すが、もう遅い。

場の流れは完全にそちらへ向いていた。

 

香耶姫は、何が起きているのか半分も分からぬ顔で、ただ呆然と俺を見ている。

美景姫は、その場にはいなかった。

だが、もし今ここにいたなら、たぶん表情を崩さずに内心だけで頭を抱えたことだろう。

 

上総介兄上は、ようやく少しだけ笑った。

 

「まあ、すぐにどうこう決めるわけではない。越前の仕置が終わってからだ」

「そうしてください!」

「だが、拾うからには、その先まで考えるのが家の務めだ」

 

そこは、たしかにその通りだった。

 

龍興の赤子喜太郎は、お濃の方とご隠居のもとへ。

香耶姫は、本陣での処遇を定める。

そして美景姫もまた、ただの客では終わらない位置にいる。

 

戦は終わりに近づく。

だが、戦のあとに誰を残し、どう繋ぐか。

そこまで含めて、上総介兄上の戦は終わっていない。

 

俺は、頭を抱えたい気持ちを隠しもせずに、深く息を吐いた。

 

「……本当に人遣い荒いですよ」

 

上総介兄上は、涼しい顔で返す。

 

「今さら何を申す」

 

その返しに、さすがに誰も否定できなかった。

 

 

香耶姫の方は、思ったより早く腹を決めていた。

 

もちろん、嬉しげに頷いたわけではない。

兄を失い、父を失い、そのうえで織田の本陣へ置かれた身だ。そんな中で、ぽんと縁談めいた話を落とされて、年相応に頬を染めるような空気にはなりようがない。

 

それでも、話を通す段になると、香耶はまっすぐ俺を見た。

 

「本当に、俺で良いのか?」

俺がそう聞くと、香耶は少しも逸らさずに答えた。

「武門の習いですので」

 

あまりにきっぱりしていて、俺は逆に少したじろいだ。

 

「いや、そこまで割り切られると、こっちも何か複雑なんだけど」

「斎藤の女が、いまさら何を申すのです」

 

「うん、そうなんだけどさ」

俺は、そこで少し困ったように頭を掻いた。

「寝てる時にぶすっとか、やめてよ?」

 

香耶は、そこで初めてほんの少しだけ目を細めた。

 

「油断なさる方が悪いかと」

 

それを聞いて、俺は本気で一歩引いた。

 

「怖っ」

 

香耶姫の口元が、ほんのわずかにだけ動く。

笑ったのか、呆れたのか、その中間みたいな表情だった。

 

俺はなおも言う。

 

「それって斎藤家のお家芸なの?」

「さあ」

「さあ、じゃないんだよなあ」

「ご心配なら、夜は藤林長門守殿か柳生の方々にでも見張っていただけばよろしいのでは」

「それ、夫婦の会話としてどうなんだ」

「私は最初から、そういう甘い話をしておりません」

 

言われてみればその通りだった。

 

俺は、少しだけ肩を竦めてから、改めて香耶を見た。

 

十三になるかならぬかの少女。

だが、もう家を失い、兄を失い、泣くだけでは済まぬところへ立ってしまった顔だ。

 

「……まあ、そうだな」

俺は、少しだけ声を和らげた。

「武門の習いだろうが何だろうが、少なくとも俺は、お前を粗略には扱わない」

 

香耶は、その言葉にはすぐ返さなかった。

ただ、静かに目を伏せてから、小さく答えた。

 

「はい」

 

それで十分だった。

 

一方で、美景姫の方は、また違った。

 

こちらは最初から、父九郎左衛門尉景紀が深く頭を下げている。

 

「本当に、俺で良いのですか?」

 

俺が半ば本気でそう聞くと、景紀は苦笑に近い顔で答えた。

 

「もとより、治部大輔殿に救ってもらったようなものですから」

「いや、救ったっていうか、まだ途中でしょう」

 

「それでもです」

景紀の声は静かだった。

「朝倉家中より抜け、こうして父娘ともども命を繋げた。その時点で、御恩は十分にございます」

 

俺は、そこで何とも言えない顔になる。

 

「そう言われると、こっちが困るんですよね」

 

そこへ、美景姫が静かに口を挟んだ。

 

「鶴姫様からも、治部大輔殿の惚気話は、よく手紙で読まされたもので」

 

俺が固まる。

 

「……は?」

 

美景姫は、すました顔のまま続けた。

 

「“治部殿はこういう時に妙に真面目である”とか」

「“外では強がるくせに、家のことになると露骨に顔へ出る”とか」

「“面倒くさいほど人のことを放っておけない”とか」

 

俺は、だんだん額を押さえたくなる。

 

「鶴め……手紙ではそんなことを」

 

美景姫の目が、少しだけ和らいだ。

 

「ですので」

「ですので?」

「よく知らぬ方へ預けられる、という感じはあまりございません」

 

その返しは、香耶姫とはまるで違う。

武門の習いで割り切るのでなく、文の積み重ねの先で、少しずつこちらを知っていた女の言葉だった。

 

俺は、そこで少しだけ真面目になる。

 

「でも、それと実際に俺を相手にするのとは、また別だろ」

「そうですね」

「嫌なら嫌でいいんだぞ」

 

景紀が、わずかに目を上げる。

美景姫も、少しだけ考えた。

 

やがて、美景姫は、まっすぐ俺を見た。

 

「嫌ではございません」

「……」

「怖くはあります」

「うん」

「ですが、それは治部大輔殿が怖いというより」

「うん?」

「この先の世の動きごと、大きすぎるからです」

 

その答えに、俺は少し黙った。

 

美景姫は続ける。

 

「ただ、その大きさの中で、まるで何も知らぬ方へ放り込まれるより」

少しだけ口元が柔らぐ。

「鶴姫様があれだけ惚気を書き送る相手なら、まだ筋が通っております」

 

「惚気って、やっぱり惚気なんだ……」

 

俺が小さく呟くと、景紀が珍しく少しだけ笑った。

 

「どうやら、そのようにございますな」

「九郎左衛門尉殿まで」

 

「いえ、治部大輔殿」

景紀はそこで改めて頭を下げた。

「娘をやるなら、理と情の両方がある相手へ、と思っておりました」

 

俺は、ゆっくり息を吐いた。

 

香耶は、武門の習いでまっすぐ受けた。

美景姫は、文の積み重ねで静かに受けた。

まるで違う。

だが、どちらも軽くはない。

 

「……分かった」

俺は、ようやくそう言った。

「じゃあ、少なくとも俺は、二人とも泣かせない方向で頑張る」

 

香耶がすぐに返す。

 

「断言はなさらぬのですね」

「人生に絶対はないからな」

 

美景姫は、そこに小さく頷いた。

 

「そのくらいの方が、むしろ信用できます」

「そうか?」

「はい」

 

俺は、そこで少しだけ肩を落としつつ笑った。

 

「何か、二人とも思ってたより強いな」

 

香耶は無言で目を細める。

美景姫は、静かに言った。

 

「治部大輔殿の周りへ来る女は、たぶんそのくらいでないと務まらぬのでしょう」

「それも鶴が書いた?」

「いいえ」

「じゃあ誰情報だよ」

「いま、見てそう思いました」

 

その返しに、俺はつい笑った。

 

少なくとも、二人の反応は悪くなかった。

いや、悪くないどころか、それぞれのやり方で、すでにこちらを見定め始めている。

 

それが少し怖くて、だが悪くはない。

俺は、そんなふうに思っていた。

 

 

朝倉滅亡の後、越前の処置は驚くほど早かった。

 

上総介兄上は、滅ぼした土地をそのまま自ら抱え込む気は最初から薄い。

抱え込めば、兵も銭も、人も詰まる。

それより、任せるべき者へ任せ、戦線ごと家中の骨組みを作る方が早い。

 

評定で、上総介兄上は地図の北側を指で叩いた。

 

「越前は分ける」

 

誰も口を挟まない。

ここから先は、もう“誰がどこを受け持つか”の話だ。

 

「三郎五郎兄上」

「は」

「権六」

「は」

「又左衛門」

「は」

「内蔵助」

「は」

 

三郎五郎兄上、柴田権六勝家、前田又左衛門利家、佐々内蔵助成政。

この四人が前へ出る。

 

上総介兄上は、短く言った。

 

「越前は、お前たちへ委ねる」

 

場の空気が少し動く。

 

権六の親父殿は、まるで当然のように頭を下げた。

三郎五郎殿も変わらぬ。

だが、又左衛門殿と内蔵助殿の顔には、わずかに熱が差す。越前一国をどう分けるかだけではない。ここで北陸を受け持つ骨組みそのものが決まるのだと、分かっているからだ。

 

上総介兄上は続ける。

 

「北はまだ終わっておらぬ。越前を押さえれば、その先に加賀、能登、越中の半ばまで、さらに越後の弾正少弼殿との外交交渉も生まれる」

 

「は」と権六の親父殿。

 

「ゆえに」

上総介兄上の声が少し低くなる。

「これをもって、北陸方面軍とする」

 

その一言で、場の意味が変わった。

 

越前守備ではない。

北陸方面軍。

つまり、越前を足場とし、その先の北陸全体へ向けて動く方面軍の成立である。

 

権六の親父殿の目が、わずかに鋭くなる。

又左衛門は、胸の内で熱いものが走った顔をしていた。

内蔵助もまた、若いがゆえの高揚を隠しきれていない。三郎五郎兄上だけが、あくまで落ち着いて受けている。

 

「越前一国は広く、しかも一揆気質も強い」

勘十郎兄上が静かに補う。

「ゆえに、守りながら先を見る者が要る」

 

「そのための四人だ」と上総介兄上。

 

権六の親父殿が低く言う。

 

「承知仕りました」

「又左衛門」

「はっ」

「血の気が先走るな。越前を荒らせば、その先が詰む」

「肝に銘じます」

「内蔵助」

「は」

「若さで走るな。権六と三郎五郎兄上の後ろで、まず地を覚えよ」

「承知」

「三郎五郎兄上」

「は」

「お主は全体を統括せよ」

「御意」

 

上総介兄上は、そこで初めて少しだけ頷いた。

 

「よい」

 

これで北は決まった。

 

だが、上総介兄上の目はもう次へ向いていた。

 

地図の手が、今度は南へ滑る。

伊賀。

大和。

さらに、その先の紀伊。

 

「三十郎」

 

上総介兄上と勘十郎兄上の弟御、お市やお犬殿と同じ土田御前の子である織田三十郎信包が進み出る。

 

「は」

「三左衛門」

「は」

「勝三郎」

「は」

 

三十郎信包、森三左衛門可成、池田勝三郎恒興。

こちらはまた別種の手札だった。

 

「お前たちは、伊賀から大和路へ回れ」

 

三十郎殿が静かに頭を下げる。

三左衛門殿は、むしろ少しだけ嬉しそうだった。

勝三郎殿は、目の奥で素早く道筋を測り始めている。

 

「大和を押さえ、紀伊をうかがう」

 

その命令で、また場が引き締まる。

 

紀伊。

そこは単なる一国ではない。

雑賀、根来、寺社、地侍、水軍、畿内の外縁にして、いつでも都へ泥を飛ばしうる土地。今すぐ食い切るというより、まず目を向け、道を作り、いつでも手をかけられるようにする段だ。

 

三左衛門殿が、低く笑った。

 

「北を権六らに渡し、南は我ら、ですか」

 

「そうだ」

上総介兄上は即答した。

「越前が落ちた以上、次は畿内の南を曇らせるものを消していく」

 

勝三郎殿が問う。

 

「紀伊へは、ただ睨みを利かせるだけでよろしいか」

 

「最初はな」

上総介兄上は、そこで少しだけ口元を動かした。

「だが、睨みは本気で利かせよ」

 

「御意」

 

三十郎殿が、静かに地図を見ながら言う。

 

「伊賀を通すとなると、道も兵站も楽ではありませぬ」

 

「だからお前をつける」と上総介兄上。

「三左衛門だけでは、まっすぐ突っ込みすぎる」

 

三左衛門殿が、少し肩を竦めた。

 

「否定はできませぬな」

 

場に小さな笑いが落ちる。

 

勝三郎殿がそこへ続く。

 

「では、私が道と人足、三十郎様が筋、三左衛門殿が押さえ、というところでしょうか」

 

「そういうことだ」と上総介兄上。

「伊賀や大和については治部の家中にも話を聞け。蒲生や左近、弾松永弾正などが良く案内してくれるはずだ」

 

こうして見ると、北陸方面軍と大和路方面の手組みは、かなり対照的だった。

 

北は、重く、粘り、押さえながら伸びる軍。

南は、道を通し、にらみを利かせ、いつでも噛みつける軍。

 

俺は、その評定を少し下がった位置で見ていた。

越前が落ちた。その次の手が、もうここまで整理されている。兄上の頭の中では、朝倉を討つこと自体は終着ではなかったのだと、改めて分かる。

 

上総介兄上が、そこで俺を見る。

 

「治部」

「はい」

「お前は、ひとまず北陸へは入らぬ」

「はい」

「越前の沙汰は、権六らに任せる」

「承知しております」

「その後は、先の命の通りだ」

「三河殿の駿河進出を助けよ、ですね」

「うむ」

「相変わらず人遣い荒いですよ」

 

上総介兄上は涼しい顔で返す。

 

「今さら何を申す」

 

権六の親父殿が、そこで鼻を鳴らした。

 

「治部は、北へ置くと余計なことまで始めかねんからな」

「ひどいな」

 

「否定はできまい」と勘十郎兄上。

 

「うっ」

 

それには、さすがに少し笑いが起きた。

 

だが、冗談で終わる話ではない。

ここで家中の戦線が、はっきり分かれたのだ。

 

北陸方面軍。

大和路方面。

そして東では三河と遠江、さらに駿河。

中央では大坂。

それぞれに役を持つ者がいる。

 

上総介兄上は、最後にきっぱりと言った。

 

「朝倉は滅んだ」

皆が上座を見る。

「だが、一つの家を滅ぼして終わりではない」

 

「は」

「滅ぼした後、どこへ何を置くか。そこまでが戦だ」

 

その言葉は、越前を受けた者にも、これから南へ回る者にも、東へ行く俺にも、等しく重かった。

 

評定が引けた後、権六の親父殿は又左衛門と内蔵助を呼び止めた。

 

「浮かれるなよ」

 

又左衛門が、少しだけ苦笑する。

 

「そんな顔しておりましたか」

「しておる」

 

内蔵助も、少しだけ視線を逸らした。

 

「……気をつけます」

 

「越前は勝って終わりではない」

権六の親父殿の声は低い。

「ここからが重い。分かっておるな」

 

三郎五郎兄上が、その横で静かに言った。

 

「だが、任された以上、やるしかあるまい」

 

その一言で、若い二人の顔も締まった。

 

一方、三十郎殿、三左衛門殿、勝三郎殿の方では、もう大和路の道筋の話が始まっている。

 

「伊賀を通すなら、どこで荷を切る」と勝三郎殿。

「細かい谷筋は、現地の者を使わねば厳しかろう」と三十郎殿。

「雑賀や根来に紀伊の風が通る前に、大和で睨みを利かせたい」と三左衛門殿。

 

俺は、その両方を見ながら、少しだけ息を吐いた。

 

朝倉滅亡。

だがその後に生まれたのは、空白ではなかった。

むしろ逆で、織田家の戦線は、ここではっきりと組織へ変わり始めていた。

 

越前は、三郎五郎兄上・権六の親父殿・又左衛門殿・内蔵助殿へ。

北陸方面軍、成立。

上総介兄上は、三十郎信包殿・三左衛門殿・勝三郎殿を大和路へ回し、紀伊をうかがう。

 

戦のあとに方面軍が立つ。

そのこと自体が、もう家の格の変化を物語っていた。

 

 

取り急ぎの処置は、驚くほど手早く決まった。

 

朝倉九郎左衛門尉景紀は、そのまま金ヶ崎城城代として残る。

 

これは温情だけではない。

敦賀郡司としての地理勘、越前と若狭の境目の空気、朝倉旧臣や地侍の顔ぶれ、そのどれもが今は使える。しかも、景紀本人もそれを分かっている。朝倉を失った男ではあるが、だからこそ金ヶ崎を“朝倉の残り香を知る織田方の城”に変えるには、この上なくちょうどよかった。

 

美景姫は、敦賀金ヶ崎城から輿入れすることとなった。

鶴姫との文の縁を持ち、朝倉家中の空気を知り、なお理で物を見る姫君。越前の終わりを見届けたうえで、金ヶ崎から治部家へ入る。その筋は、あまりにもきれいだった。

 

一方、香耶姫は稲葉山城でお濃預かりとなる。

帰蝶が見て、美濃のご隠居にも顔を通し、斎藤の血を斎藤として残しつつ、織田の奥で落ち着かせる。こちらもまた、これ以上ないほど収まりがよかった。輿入れは、稲葉山城からになる。

 

尾張。

甲斐。

伊勢。

近江。

出羽。

越前。

美濃。

 

七ヶ国の姫君。

 

やったね信繁君、とでも言うべきなのだろうが、当の俺は、そんな晴れやかな顔は少しもしていなかった。

 

「……何でこうなるかなあ」

 

瀬田城の一室で、俺は本気でそう呟いた。

 

鶴姫が、もう半分呆れた顔で返す。

 

「上総介殿にお聞きになっては」

「兄上に聞いても“今さら何を申す”で終わるんだよ」

 

真理姫が、静かに笑う。

 

「でも、治部殿は結局、お引き受けになるのでしょう」

「そりゃまあ……拾うって決まったなら、その先まで考えるのが家の務めだし」

 

雪姫が、少しだけ頬を緩める。

 

「そこが治部殿らしいところにございます」

 

お市は、からかう気満々で言った。

 

「名人芸に加えて、今度は七ヶ国の姫君とは、ずいぶん欲張りなこと」

「だから違うって!」

 

義姫が、そこで静かに言い添える。

 

「少なくとも、まだまだこれからも増えそうではありますね」

「俺は増やす気はないんだ!」

「でも、兄上に言われれば増やすのですよね?」

 

と、お市がとどめをさして来た。

 

そこへ、お濃の方から香耶姫の様子が届く。

お濃の方のもとでは、香耶は妙に落ち着いているらしい。最初こそ張り詰めていたが、乳母や侍女の手際が良く、美濃のご隠居が喜太郎へ妙に優しいせいで、むしろ少し毒気を抜かれつつある、と。

 

「ご隠居も、まだまだ隠居しきれぬな」

 

そう言ったのは上総介兄上だったかもしれない。

 

ともかく、姫たちの身の置き所は定まり、越前の戦後処理も大体目途がついた。

ならば、ようやく俺も少しは休めるか――と思った者がいたなら、甘かった。

 

上総介兄上は、そういう時に限って人を遊ばせない。稲葉山城に呼び出された途端、

 

「治部」

「はい」

「越前から帰ったばかりだが」

「嫌な予感しかしませんね」

「三河殿の侵攻準備が整った」

「でしょうね」

「駿河だ」

 

それだけで十分だった。

 

武田が川中島と上州へ意識を割くあいだに、織田家が伊勢路を安定させたこともあり、背後を気にすることなく遠江全土を呑み、駿河へ手をかける段に入っている。だが、あの家はまだ若い。譜代の家臣は多く勢いにあるが、血の気も多い。だからこそ、ここで一つ、冷たい頭が要る。

 

「ほとんど休む間もないんですが」

 

俺がそう言うと、上総介兄上は涼しい顔で返した。

 

「今さら何を申すか」

「やっぱりそれですよね」

 

勘十郎兄上が静かに補う。

 

「三河殿も、治部が入った方が戦のあとの整理まで見据えやすい」

「分かってますよ」

「ならよい」

 

そうして、俺たち治部軍はまた東へ向かうことになった。

 

新婚早々。

いや、正確には、輿入れの段取りが定まり、ようやく一息つけるかと思ったところで、である。

 

香耶姫は稲葉山でお濃預かり。

美景姫は金ヶ崎からの輿入れ待ち。

義姫は、出羽から来た身らしく静かな顔でこちらを見ているが、その実、こっちの手際や順序をかなり細かく見ている。

金ヶ崎城の城代として九郎左衛門尉殿は残り、北陸方面軍も動き始める。

その全部を背中へ置いたまま、俺は駿河へ向かう。

 

出立の朝、香耶姫からは短く、

 

「油断なさらぬよう」

 

とだけ届いた。

 

美景姫からは、もっと整った文面で、

 

「駿河にても、どうかご無事に。再びお会いできるのを楽しみにしております」

 

とあった。

 

俺は、それを読み比べて、少しだけ頭を抱えた。

 

「もう性格出てるなあ……」

 

鶴姫が横で言う。

 

「面白いではありませんか」

「面白いけど、こっちは休みたい」

「無理でしょうね」

「知ってる」

「みんなも無理せず、身体を厭うように」

 

そうして、馬が出る。

 

越前から戻って、ほとんど休む間もなく。

新しく背負うことになった姫たちと、処理し終えていない戦後と、さらにその先の駿河まで、全部まとめて背負ったまま。

 

だが、俺という男は、結局そういう運命なのだろう。

拾い、残し、つなぎ、そして休まず次へ行く。

 

永禄七年は、まだ終わる気配を見せていなかった。

 

 

駿河へ向かう道中は、張りつめた空気ばかりでもなかった。

 

東海道を進む治部軍の一角で、俺がふと口を開いた。

 

「東海道を十日移動」

 

官兵衛が、即座に眉をひそめる。

 

「くだらなすぎますな」

 

十兵衛が、淡々と続けた。

 

「一応、洒落にはなっております」

 

半兵衛は、もっと現実的だった。

 

「十日でどこまで移動できますかね」

 

伊勢守が、横からさらりと差す。

 

「九州弁だと遠か~になりますか」

 

俺は、すぐさま顔をしかめる。

 

「やめろお前ら、いじり倒すな」

 

官兵衛が、口元だけで笑う。

 

「ご自身から振っておいて、何を」

「一人ぐらい乗ってくれてもいいだろ」

 

「乗ったではありませぬか。全部違う方向へ」と半兵衛。

 

「最悪だ」

 

そんな軽口を挟みながらも、進軍自体は速かった。

 

徳川軍一万二千と合流すると、駿河は破竹の勢いで崩れた。

今川は、もう往時の今川ではない。家格はあれど、武田の圧と徳川の伸長に押し潰され、国人や地侍の心も散っている。そこへ、徳川の勢いと治部軍の整理が合わされば、もはや止まらなかった。

 

「速いですね」

 

官兵衛が、駿河の地図を見ながらぽつりと言う。

 

「崩れる時はこんなもんだろう」

つい最近、越前朝倉の名残を見ているかのような光景だった。

「外から押されるだけじゃなく、中がもう『今川で踏ん張る意味』を見失ってる」

 

「ええ。いまの今川は、城を守るというより、誰が次へ寄るかを量っている顔です」

「だろ」

 

徳川方の陣は、さすがに熱気が強かった。

 

家康――この場では次郎三郎殿と呼ばれる方が自然だった――は、遠江を呑み終えたばかりの勢いそのままに、駿河へ兵を流し込んでいた。だが、ただ血気盛んなわけではない。治部軍が横についているからこそ、取り散らかさずに進めているとも言えた。

 

「治部殿」

次郎三郎殿が、地図の一点を指した。

「次はここにございます」

 

「北条氏発祥の地、興国寺城か」

「はい」

 

駿河の西から東へ、一気に押し込み、相模との国境の興国寺城まで攻め上がる。

そこまで行けば、駿河はほぼ手中に入る。今川刑部大輔氏真に、もはや国持ちとしての余地はなくなる。

 

実際、その通りになった。

 

治部軍と徳川軍の圧力の前に、今川方はまともな迎撃の形を作れなかった。城は落ちるというより、次々と明け渡される。強いて踏みとどまる者がいても、面で支えきれぬ。そうなると早い。

 

興国寺城まで一気に攻め上がったところで、ついに今川刑部大輔氏真は小田原へ逃れた。

 

「終わりましたな」と伊勢守。

 

「駿河については、ほぼな」

俺は、そこで地図の先を見た。

「問題はここからだ」

 

国境。

そこにはすでに、北条の軍が出て来ていた。

 

二万五千。

 

治部軍と徳川軍は、国境線近くでその北条軍と対峙した。だが、ここではすぐに刃は交わらない。むしろ双方とも、いまここで全面戦を始める理由と不利益を冷静に量っていた。

 

北条は、今川の完全消滅をそのまま眺めるわけにはいかない。

だが、武田の動きも見ねばならない。

織田・徳川がいまの勢いのまま、関東方面へ踏み込む気かどうかも測りたい。

 

こちらもまた同じだ。

 

駿河は押さえた。

だが、ここで北条とぶつかれば、駿河整理どころではなくなる。徳川にとっても治部軍にとっても、いま必要なのは、勝てるかどうかの賭けではなく、取った地をどう安定させるかだ。

 

にらみ合いは、二週間に及んだ。

 

野営地の空気は、静かなようでいて神経が削れる。

いつでもぶつかれる距離。

だが、ぶつからない方が得だと、双方とも腹のどこかで分かっている。

 

その間にも、使者は行き来した。

 

十兵衛と官兵衛が文を整え、半兵衛が言葉の裏を詰め、徳川方ともすり合わせる。

北条方もまた、露骨に腰を引くでもなく、強く出すぎるでもない。さすがに、そのあたりの勘所はある。

 

官兵衛が、陣中で小さく言った。

 

「北条は、こちらの足を試しておりますな」

 

「だろうな」

俺は頷く。

「我々が駿河を取って、そのまま食い込む気か、それとも線を引く気か」

 

「そして、こちらも北条の腹を見ている」

「うん」

「面白いですね」

「こういうにらみ合い好きだろ」

「かなり」

 

最後は、双方合意の上で撤退となった。

 

潰し合って損を出すより、ここで線を引き、次を見た方がよい。

その認識が一致したのだ。

 

徳川方にとっては、駿河の安定を急ぐ。

北条方にとっては、今川亡命者を抱えつつも、武田と織田・徳川の二面を同時に敵に回したくない。

 

だから、ここで引く。

 

「引きましたな」と伊勢守。

 

「引いたな」と俺。

 

「物足りなさそうですな」

「戦うだけが仕事じゃない」

「分かっております」

 

次郎三郎殿も、撤兵の報を聞いて深く息を吐いた。

 

「ひとまずは」

「うん」

「駿河を押さえることに集中できます」

 

「その方がいい」

俺は、そこで次郎三郎殿へ向き直る。

「ただ」

 

「はい」

「北条とは、これで終わりじゃない」

「ええ」

「向こうもそう思ってる」

 

そこへ官兵衛が、少しだけ口元を上げて言った。

 

「では、始めるべきですな」

「何を」

「対北条家外交を」

 

それは自然な流れだった。

 

国境で二週間にらみ合った末、互いに撤いた。

ならば、その“引き方”を戦の終わりではなく、交渉の入口に変えるべきだ。

 

「北条は理で動く家です」と官兵衛。

「少なくとも、感情だけで国境へ立つ家ではない」

 

「だろうな」

「なら、こちらも理で返せます」

 

十兵衛が頷く。

 

「駿河の整理、今川旧臣の扱い、武田への備え、そのあたりを含めた線引きですな」

 

半兵衛が、静かに言う。

 

「北条にとっても、今ここで全面衝突は利が薄い。そこを突く」

 

次郎三郎殿は、治部軍の顔ぶれを見回して、小さく笑った。

 

「やはり、治部殿が来ると、戦のあとまで一緒に動くことになる」

 

俺は肩を竦める。

 

「嫌でしたか」

 

「まさか」

次郎三郎は、きちんと頭を下げた。

「頼もしい限りにございます」

 

こうして、駿河は破竹の勢いで押さえられ、興国寺城まで攻め上がり、今川刑部大輔氏真は小田原へ逃れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。

そして国境では、北条軍二万五千と二週間にらみ合った末、双方合意の上で撤退。

 

刃を交えなかったこと自体が、この段階では一つの成果だった。

 

戦の次は、外交。

 

俺は、東の空気を吸い込みながら思った。

 

越前が終わりきる前に、もう駿河。

そしてその先は、北条との言葉の戦になる。

 

休む間など、やはりなかった。

 

 

駿河から戻った俺たち治部軍を迎えた瀬田城は、もう城というより、一つの大きな家になっていた。

 

兵が戻る。

馬が戻る。

荷が戻る。

そして、その流れとは別に、今度は輿入れの支度が整えられていく。

 

稲葉山城からは香耶姫。

金ヶ崎城からは美景姫。

 

どちらも、戦の後始末として拾われた存在でありながら、ただの保護では終わらぬ位置へ進むことになった姫君たちだった。

 

だが、いざ瀬田へ入ってみると、二人が最初に圧倒されたのは、政でも軍でもなかった。

 

人の多さ。

いや、もっと正確には、赤ん坊と妊婦の多さである。

 

お市の腹は、もうかなり目立つ。

真理姫も、雪姫も、鶴姫も、義姫も、みな腹が大きく、歩くにも周囲が自然と気を遣うようになっている。

そこへ、乳母が抱える赤子、侍女があやす子、時には座敷の隅で寝息を立てる子までいる。

 

香耶姫は、最初にその光景を見た時、さすがに一歩引いた。

 

「……多い」

 

思わず、そう漏らした声を、お市が聞きつける。

 

「でしょう?」

 

香耶姫は、少しだけ気まずそうに頭を下げた。

 

「申し訳ございません」

「謝ることではありません。私も少しそう思っていますから」

 

そう言ってお市は笑う。

真理姫も、穏やかに口元を緩めた。

 

「瀬田は、今ちょっとした育児屋敷になっておりますね」

 

雪姫が、静かに続ける。

 

「賑やかなのは、悪いことではありませぬ」

 

鶴姫は、香耶姫を見てほんの少しだけ目を細めた。

 

「ですが、香耶姫様なら案外すぐ馴染まれるのでは」

 

義姫も、腹へそっと手を添えたまま、静かに言う。

 

「赤子のいる場は、思うておるより人の気をほぐします。最初の息苦しささえ越えてしまえば、案外居やすいものにございますよ」

 

その見立ては当たった。

 

香耶姫は、最初こそ引いたものの、赤子を前にすると妙に手が迷わない。

抱き上げる角度。

泣いた時の揺らし方。

乳母へ渡す時の腕の抜き方。

喜太郎をずっと見てきただけあって、体が先に覚えているのだ。

 

「香耶姫様、こちらを少し」

 

と乳母が声をかけると、香耶姫はすぐに受けて、赤子の背を軽く叩き、あっという間に泣き止ませた。

 

乳母が思わず目を見張る。

 

「お上手でございます」

 

香耶姫は、きょとんとした。

 

「そうでしょうか」

「ええ。慣れておられますな」

「喜太郎を見ておりましたから」

 

その一言で、場の女たちの目つきが変わる。

同情ではない。

ああ、この子はただの箱入りではないのだ、と分かる目だ。

 

お市が、少しだけ優しく言う。

 

「では、ここでも頼りにしてよろしいのですね」

 

香耶姫は、そこで初めて少しだけ肩の力を抜いた。

 

「できることなら」

「十分です」

 

こうして香耶姫は、乳母並みに赤子へ馴染み、同時に奥方衆の輪へも入っていった。

 

一方、美景姫の方は、もう別の意味で話が早かった。

 

もともと鶴姫との文の縁がある。

そのため、奥へ入った時点で、

 

「ああ、鶴姫様がお書きになっていた」

「なるほど、こういう方でしたか」

 

という空気がすでにできていた。

 

美景姫も、その空気を読む。

 

お市へは礼を崩さず。

真理姫へは静かに気を配り。

雪姫へは言葉を整え。

義姫へは、北から来た者同士の距離感を誤らぬよう慎み深く。

鶴姫へは、ようやく直に会えた相手として少しだけ表情を和らげる。

 

「ようこそ」

「ありがとうございます」

「瀬田はいかがです」

「文で読んでいたより、ずっと賑やかで、ずっと落ち着いております」

 

鶴姫は、その返しにだけ少し笑った。

 

「俺が必死でそう見せているのかもしれません」

「そこも、手紙通りですね」

 

美景姫はそう返し、奥の面々にすぐ馴染んだ。

 

義姫は、そんな美景姫を一度静かに見てから、やわらかく言った。

 

「治部殿の周りは、賑やかなようでいて、案外ひとりひとりの息が乱れぬよう整えられております。そこは、ご安心なさってよろしいかと」

 

美景姫は、わずかに目を伏せた。

 

「ありがとうございます」

「私も最初は、遠き地から参った身にございますから」

 

その一言は、淡いが確かな受け入れの言葉だった。

 

そうして二人の姫が瀬田へ入り、城の空気が少し落ち着いた頃。

ある夜、俺は香耶姫のもとを訪ねた。

 

部屋は静かだった。

昼の賑わいとは違い、夜は夜で、ようやく人が自分のことを考えられる時間になる。

 

香耶姫は、俺が来るとすぐに立ち上がった。

 

「治部殿」

「座ってくれ」

 

俺も向かいに座る。

少し間が空く。

 

「……前から、一度ちゃんと話しておいた方がいいと思ってた」

香耶姫は、黙って聞く姿勢を取った。

「お前の父……一色左京大夫殿を討った時のこと」

 

香耶姫の目が、わずかに動く。

だが逃げない。

 

「西美濃三人衆と、鵜沼の虎を寝返らせた」

「……はい」

「墨俣に砦を造った」

「はい」

 

「その結果、出兵してきた左京大夫殿を討った」

俺は、そこで一度だけ息を置いた。

「そして、その足で稲葉山城を落とした」

 

静かな夜だった。

その静けさが、かえって言葉を重くした。

 

香耶姫は、しばらく黙っていた。

やがて、後ろを向き帯を緩めると、自分の着物の背を、そっと見せる。

 

俺は、香耶姫の背中にある傷を目の当たりにした。鞭か革紐か何かで執拗に叩いた跡だった。

 

「……父は」

香耶姫の声は、細いが震えていなかった。

「気に入らぬことがあると、私へ当たりました」

 

俺は何も言わない。

 

「まだ小さい頃から」

「……」

「理由もなく叩かれることもありましたし、背に傷が残ったのも、その時からのことです」

 

俺の顔が、静かに固くなったのがわかった。

 

香耶姫は続けた。

 

「兄上が助けてくれました」

「うん」

 

「落城と同時に越前へ逃れました。ですが」

少しだけ苦い笑みが混じる。

「兄上は世間知に乏しく、私も箱入りで、暮らし向きは楽ではありませんでした」

 

「そうだろうな」

 

「武門の習いとは申しましたが」

香耶姫は、そこで初めて俺を見た。

「正直に申せば、治部殿が父を討ったことを、強く恨んではおりません」

 

俺は、静かに頷いた。

 

「……そうか」

 

「ここへ来て」

香耶姫の声が、少しだけ柔らかくなる。

「たくさんの赤ん坊に囲まれて、お市様や真理姫様、雪姫様、鶴姫様、義姫様にも優しくされて」

 

ほんの少し、目が潤む。

 

「やっと、人として生きられると思いました」

 

その一言は、重かった。

 

ただ救われたとか、助かったとかではない。

人として生きられる。

それだけのことが、今まで許されていなかったということだ。

 

俺は、しばらく何も言えなかった。

やがて、ぽつりと答える。

 

「ここでは、そうしてくれ」

 

香耶姫は小さく頷く。

 

「はい」

「父のことも、兄のことも、無理に忘れなくていい」

「……」

「でも、お前自身は、お前のままで生きてほしい」

 

香耶姫は、その言葉を静かに受け取った。

 

「はい」

 

翌日の夜、美景姫の方では、また別の話が進んでいた。

 

相手は鶴姫である。

 

二人きりに近い部屋で、鶴姫は珍しく、少し外の顔を外していた。

文では書ききれなかったこと、あるいは文に書くべきではなかったことまで、今なら話せると思ったのだろう。

 

「津野弥九郎親盛殿のことは、以前少しだけ書きましたが」

「はい」

「実際は、もう少し妙でございます」

 

美景姫が、静かに首を傾げる。

 

「妙」

「四国の動きが、やけに早いのです」

「……」

「そして、六角のあの若君の件も」

 

美景姫の口元が、ほんの少しだけ動く。

 

「あれは、もう思い出したくもありませんが」

「でしょうね」

「ですが、あの方もまた、妙な方向へ物事をかき回しておりました」

 

鶴姫は、そこで言葉を選びながら話した。

 

歴史、とは言わない。

本来、とは言わない。

だが、普通ならばこうは進まぬ。

妙に噛み合いすぎる。

あるいは、妙に外れたところから別の火がつく。

そういう“説明しにくい変さ”が、この世にはすでにいくつもあるのだと。

 

美景姫は、最後まで遮らずに聞いていた。

 

やがて、静かに言う。

 

「つまり、治部大輔殿は」

「はい」

 

「ただ戦と政を回しておられるだけではなく、もっと見えにくい“変さ”にも、手を入れておられる」

美景姫は、そこでようやく目を細めた。

「……難儀な御方ですね」

 

鶴姫が、少しだけ笑う。

 

「本当に」

 

「ですが」

美景姫の声が、そこで少しだけ強くなる。

「その面でも、以後はお助けしたいと思います」

 

鶴姫は、その言葉に静かに頷いた。

 

「ありがとうございます」

「いえ」

「治部殿は、つい目の前のことを抱え込みすぎますので」

「それも、手紙通りですね」

 

そこへ、義姫が顔を出した。

腹の大きな身ゆえ、夜更けまで無理はできないが、それでも話の気配を感じて来たのだろう。

 

「お邪魔でしたか」

「いえ」と鶴姫。

「ちょうどよいところでした」

 

「では、少しだけ」

義姫は静かに座ると、美景姫へ向き直った。

「治部殿は、抱え込むと申しましたが、あの方は抱え込んだまま次へ行ってしまうのです」

 

「……それは」

「厄介でしょう?」

「はい」

 

美景姫が素直に頷くと、義姫はかすかに笑った。

 

「ですから、周りが先に気づいて、先に手を出すくらいでちょうどよろしいのです」

「出羽よりお見えの姫君まで、そう申されますか」

「私も、もう他人事ではございませぬので」

 

そう言って、義姫は腹へそっと手を添えた。

 

その仕草は静かで、だが強かった。

輿入れからしばらく経ち、すでに子を宿している。

その現実が、言葉より先にそこにあった。

 

美景姫は、その手元を一度見てから、ゆっくり頷いた。

 

「……よく分かりました」

「ならよろしゅうございました」

 

鶴姫が、そこでようやく肩の力を抜く。

 

「これでまた、治部殿の周りが一段と賑やかになりますね」

「賑やか、で済めば良いのですが」と義姫。

「たぶん済まぬのでしょうね」

「でしょうね」

「でしょうね」

 

三人は、そこでようやく同じように笑った。

 

 

そうして月日は過ぎた。

 

越前の戦後処理。

北陸方面軍の整え。

駿河の安定。

対北条家外交。

城も家も、ずっと忙しかった。

 

その合間に、香耶姫も美景姫も、瀬田の空気へ完全に馴染んでいった。

 

香耶姫は、赤子の側にいると落ち着くようになった。

美景姫は、鶴姫と並んで文や人の気配を拾うことが増えた。

どちらも、ただ「救われた姫」では終わらない形で、治部家の中へ根を下ろし始めていた。

 

今や瀬田の奥は、もうすっかり賑やかな家だった。

 

お市。

真理姫。

雪姫。

鶴姫。

義姫。

 

みな、すでにそれぞれの場所で落ち着いている。

その中へ、香耶姫と美景姫が新しく入り、ようやく息を継ぎ始めた。

そんな折だった。

 

やはり、というべきか。

いや、もうこの場合は、やはりどころではない。

 

香耶姫と美景姫が、ほぼ同時に懐妊した。

 

その報せが出た瞬間、瀬田城の空気は一拍止まり、次の瞬間、完全に崩壊した。

 

「やっぱり治部殿は命中率高いのう!」

 

と、誰が最初に叫んだのかは、もう分からない。

 

「また名人芸ですな!」

「いや、もはや名人を越えております」

「治部様、戦だけでなくそちらも破竹の勢いにございますな」

「やめろ!」

 

俺の抗議は、いつものごとくまるで効かない。

 

お市は、臨月に近い腹をさすりながら笑う。

 

「これはもう、偶然ではありませんね」

 

真理姫も同様に、大きくなった腹を愛おしげになでながら穏やかに続ける。

 

「ええ。統計的にも」

「何でそこを理詰めするんだ!」

 

雪姫は袖口で口元を隠しながら、目だけで笑っている。

鶴姫に至っては、もう完全に面白がっていた。

 

香耶姫は、さすがに頬を染めていたが、すぐに言う。

 

「武門の習いですので」

「それ万能だなあ!」

 

美景姫は、やはり少し落ち着いていたが、それでも耳は赤い。

 

「鶴姫様の文に、ここまでは名人だとは書いてありませんでした」

「書けるかそんなこと!」

 

また笑いが起こる。

 

誰かが叫んだ。

 

「治部様、これはもう武功では?」

「何の武功だ!」

「奥向き方面にて大勝利にございますな」

「やめろと言ってるだろ!」

 

俺が叫んでも、誰も止まらない。

 

香耶姫と美景姫の時点で、すでに十分ひどかった。

そこへ周囲まで面白がって乗ってくるものだから、もう完全に収拾がつかない。

 

お市は、さすがに笑いすぎないようにしていたが、肩が小さく震えている。

 

「治部殿」

「何だ」

「これはもう、偶然というには少々苦しいかと」

「お市まで!」

 

真理姫は真面目な顔で言う。

 

「母数が増えましたから、傾向としては明らかです」

「だから理詰めにしないでください!」

 

雪姫は、ついに袖で口元を隠したまま小さく笑い声を漏らした。

 

「治部様、御子の多きことは家の慶事にございます」

「それはそうだけど、言い方!」

 

鶴姫は、完全に楽しんでいた。

 

「瀬田城は、南近江の押さえであると同時に、治部家の血筋を増やす城にもなりそうですね」

「やめろ。瀬田城の戦略的位置をそんな方向へ曲げるな」

 

美景姫が、耳を赤くしながらも静かに言った。

 

「ですが、治部家の安定という意味では、あながち間違いではないのでは」

「美景姫まで乗らないでくれ」

 

香耶姫は、少しだけ得意そうに胸を張った。

 

「武門の習いです」

「二回目!」

 

義姫は、その騒ぎを少し離れたところから静かに見ていたが、特に茶化しには加わらなかった。

ただ、わずかに目を細めただけだった。

 

俺だけが、妙に置いていかれた気分だった。

 

「いや、うん。めでたい。めでたいんだけど」

「何ですか、治部殿」

 

お市が言う。

 

「俺、そろそろ家中で何言われるか怖い」

「今さらでは?」

「今さらですね」

 

真理姫が即座に頷いた。

 

「治部様は、すでに多方面で噂の中心にございますし」

「多方面って何だ」

 

鶴姫が指を折るように言う。

 

「戦。城。婚姻。奥向き。御子」

「やめろ。列挙するな」

 

雪姫が、静かに追い打ちをかける。

 

「それに、台所でも」

「台所?」

 

美景姫が少し笑う。

 

「甲斐、近江、越前の味が少しずつ混じり始めていますので」

「そこへ出羽も、ですね」と真理姫。

「そして伊勢も」と雪姫。

「尾張はもともとだろ」と俺。

 

鶴姫が、いかにも楽しそうに続けた。

 

「こうして見ると、治部家の台所もずいぶん広がりましたね」

「そこを勢力図みたいに言うな」

 

本当に、城なのか産屋なのか、台所なのか、評定所なのか分からなくなってきた。

 

だが、それでよかった。

 

戦のあと、人が死に、家が滅び、国が組み替わる。

越前でも、駿河でも、同じことが起きている。

 

そのただ中で、赤子が生まれる。

女たちが笑う。

新しく来た姫が根を下ろす。

故郷の味が台所へ加わる。

奥向きの序列は整いながらも、ただ冷たい序列ではなく、少しずつ家の温度になっていく。

 

香耶姫。

美景姫。

 

来た場所も、背負う家も、傷も、誇りも違う。

だが今は、二人とも瀬田の奥で懐妊を告げられ、周囲にからかわれ、笑われ、照れ、少し誇らしげにしている。

 

それを見ていると、俺はようやく少しだけ息を吐けた。

 

俺のまわりは、相変わらず騒がしく、忙しく、時々ひどく居心地が悪い。

 

だが。

 

「まあ……悪くないか」

 

小さく漏らすと、お市がすぐ拾った。

 

「何がです?」

「いや、何でもない」

「治部殿」

「はい」

「こういう時は、素直に喜べばよろしいのです」

 

お市の声は、いつもより少し柔らかかった。

 

真理姫も頷く。

 

「ええ。これは慶事です」

 

雪姫が続ける。

 

「家の慶びにございます」

 

鶴姫が少し笑う。

 

「そして、また評定で考えることが増えます」

「そこで現実に戻すな」

 

美景姫が静かに言う。

 

「ですが、御子が増えれば、家も変わります」

 

香耶姫が明るく続ける。

 

「自分の子供って、何だか不思議です」

「それ男はもっと不思議だから」

 

そこで義姫が、穏やかに一言だけ言った。

 

「賑やかな家にございますね」

 

その一言で、少しだけ場が静かになった。

 

賑やかな家。

 

そうだ。

それでいいのかもしれない。

 

戦で勝つ家。

城を築く家。

国を治める家。

そういう言い方はいくらでもある。

 

だが、今この瀬田城は、少なくとも賑やかな家だった。

 

赤子が生まれ、姫たちが笑い、台所が忙しくなり、評定の紙が増え、俺がからかわれる。

 

それでいい。

いや、それがいい。

 

瀬田城は、もう本当に、城なのか産屋なのか分からなくなっていた。

 

だが、それでよかった。

戦の後始末のただ中で、治部家はまた一つ、家として太くなっていく。

 

香耶姫と美景姫の懐妊。

その報せは、瀬田の空気を騒がしく、温かく、どうしようもなく治部家らしいものに変えていた。

 

 

 

 

 

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