織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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058中国毛利戦線

永禄八年の初春。

豊後府内の空気は、冬の冷えを引きずりながらも、どこか浮ついていた。

 

将軍義輝よりの命である。

大友家に、防長方面への出兵が命じられた。安芸の吉田郡山城を根拠地に、大内家を内から食い破った陶家を打倒し、防長二国を支配下に置いた。

石見と出雲にも侵入し、かつての主家である尼子家も月山富田城に押し込み、備後備中もその麾下に加えた大国毛利家。

 

大樹公よりの詰問状に対し、文面だけは整ってはいるものの、静謐令を可能な限り守りますという、丁寧かつ冗長かつ無味乾燥な文書を返して来たのは、希代の策謀家毛利治部少輔元就だった。

 

中国地方の実質七か国を領有し、その石高は百二十万石を優に越える。毛利治部少輔元就がなお西国に睨みを利かせる以上、豊後の大友が動かぬ理由はない。

理だけ見れば、その通りだった。

だが、理の通りに軍が動き、理の通りに勝てるなら、世に敗軍はない。

 

その軍の総大将に選ばれたのは、塩市丸改め新次郎鎮鑑だった。

 

天文十四年産まれ。若い。

だが若いだけではない。

天文十九年の二階崩れの折に、妙に先を見たような動きで宗麟へ近づき、先代義鑑の企てを早くから知らせ、本来なら親子共々に誅殺され、死ぬはずのところを生き残った。以来、家中では「目の利く若殿」「先が見える御方」と囁かれてきた。

 

もっとも、その評価の半分は、本人の才覚より、周囲の大人たちが必死で支えてきた結果でもあった。

 

その筆頭が、戸次伯耆守鑑連。

そして、吉弘弥七郎鎮理。

 

この二人が副将として脇を固めたことで、出陣の見た目だけは、ずいぶん堂々たるものになった。

 

評定の場で、宗麟は言った。

 

「此度の軍、新次郎を総大将とする」

 

家中には、わずかなざわめきが走った。

だが、伯耆守も弥七郎も顔色一つ変えない。

 

鎮鑑は、一歩進み、膝をついて頭を下げた。

 

「御意にございます」

 

若い声だった。

だが、少し響きに自信が乗りすぎていると、伯耆守は思った。

 

宗麟は続ける。

 

「伯耆守、弥七郎」

「は」

「は」

「若きを助けよ」

 

伯耆守は、静かに答えた。

 

「仰せのままに」

 

弥七郎もまた、同じく頭を下げる。

 

だが二人とも、その一言の裏にある重さをよく知っていた。

助けよ、とはつまり、転ばせるなということだ。

そして転ぶ気配を、二人はもう薄く感じていた。

 

出兵そのものは、最初は悪くなかった。

 

新次郎鎮鑑には勢いがある。

しかも、変に物怖じしない。

最初の頃は、どこを押し、どこを揺さぶれば相手が嫌がるか、妙に勘の働くところもあった。

 

ただ、それも恐らくは当たるも八卦当たらぬも八卦という状態で、何ら戦陣で得た経験でも分別でもなかった。

 

「ここで一つ前へ出す」

 

「まだ早うございます」と伯耆守。

 

「いや、今だ」

「今は兵を崩さず」

「弥七郎、そなたもそう申すか」

「申します」

 

だが、その進み方がまるで役に立たぬわけでもない。

周囲の国衆から見れば、若い大将が思い切りよく前へ出るのは、それだけで景気がよかった。

しかも、伯耆守と弥七郎が後ろから崩れぬよう受け止める。

そのため、序盤の小競り合いでは、思いのほか勝ち戦を拾えた。

 

この「勝ててしまった」ことが、いちばん悪かった。

 

新次郎鎮鑑は、やがてそれを自分の目の良さと判断の速さの功だと思い始める。

 

ある夜の陣で、鎮鑑は地図を前に笑った。大杯に注いだ酒を、それでもあまり強くないのか、チビチビと呑んでいる。

 

「見よ、やはり動けば勝てるではないか」

伯耆守は、黙って地図を見ていた。

「伯耆守、何を浮かぬ顔をしておる」

 

「浮かぬ顔にもなります」

「なぜだ」

「一見すると、今は勝っているように見えるからにございます」

 

鎮鑑の眉がわずかに寄る。

 

「勝っておるではないか」

 

「小さく、です」

伯耆守の声は低い。

「しかも、こちらが勝っているというより、向こうがまだ本気で相手をしておらぬだけにございます」

 

鎮鑑が鼻を鳴らした。

 

「毛利治部少輔を恐れすぎだ」

 

そこへ弥七郎も静かに加わる。

 

「恐れておるのではありませぬ」

「では何だ」

「相手が、こちらの若さと勢いを見て、あえて少しずつ餌を撒いておるやもしれぬ、と申しておるのです」

 

鎮鑑は、そこで露骨に顔をしかめた。

 

「またそれか」

 

「また、にございます」と伯耆守。

「まだ片付いておらぬから、申しております」

 

鎮鑑は、しばし二人を見ていたが、やがて笑った。人を小馬鹿にするような笑顔で、だが、声にはどこか投げ遣りな自信も含まれる。

 

「古いな」

 

伯耆守も弥七郎も黙る。

 

鎮鑑は再び杯を取った。

 

「時は変わる。敵もまた、人もまた、動かして勝つものだ。怖がってばかりで何ができる」

 

その言い方に、弥七郎は小さく息を吐いた。

怖がっているのではない。

勝ち方を選べと申しているのだ。

だが、それはもう、目の前の小さな勝ちを拾って慢心したこの若い総大将には届いていないらしかった。

 

実際、老獪な毛利治部少輔元就は、その若さを見抜いていた。

 

「気だけ逸っておる」

 

と、元就は言った。

 

周囲の者が黙って聞く。

 

「若い者が少し勝って、しかも崩れぬように支える者がおる。そろそろそれを自分の才覚と思い始める頃じゃ」

老いた狐のような目が、地図の上を細くなぞった。

「少しだけ勝たせよ」

 

「少し、にございますか」

 

「少しでよい」

元就は、そこで口元をわずかに歪めた。

「腹の減る前に飛びつくよう、餌を前へ落としてやれ」

 

その通りになった。

 

鎮鑑は、次の一戦で、自ら前へ出る形を選んだ。

伯耆守は、軍議の場で強く止めた。

 

「ここは下がり、前線を整えるべきにございます」

「またそれか」

「また、です」

「勝っておる時に退くのか」

「勝っておるように見える時こそ、でございます」

 

弥七郎も言う。

 

「此度は、相手の誘いが露骨にございます」

「露骨だから何だ」

「露骨に見える罠ほど、若い大将は“自分なら越えられる”と思いがちです」

 

その言葉に、鎮鑑の顔色が変わった。

 

「弥七郎」

「は」

「それは、わしが浅いと申すか」

「申しませぬ」

「なら、何だ」

 

弥七郎は少しも目を逸らさない。

 

「勝ちを急がれすぎる、と申しております」

 

そこで、ついに鎮鑑は席を叩いた。

 

「ならば、そなたらはここで見ておれ!」

 

伯耆守の目が鋭くなる。

 

「総大将」

「わし自身が出る!」

「なりませぬ」

「なら、黙れ!」

 

それで決まってしまった。

 

若い総大将が、余りに明け透けな罠を前に、自分の勝ちを欲した。

その一瞬を、元就は逃さなかった。

 

会戦の端緒は、見た目だけは勇ましかった。

鎮鑑の先鋒は鋭く前へ出た。

最初の当たりも悪くない。

だが、悪くないのは最初だけで、奥へ入ったところで足が鈍る。

 

すぐに前線の勢いがなくなる。

横に回られた。

長く伸びた先陣は分断され、そして、退くべき時に退けぬ。

 

「伯耆守殿!」

後方から使番が駆け込む。

「前が!」

 

伯耆守は、歯を食いしばった。

 

「だから申した」

 

弥七郎は、もう怒るでもなく、淡々と立ち上がっていた。

 

「今は助けるしかありませぬ」

「分かっておる」

 

二人は兵をまとめ、崩れた前線へ入った。

だが、助けるために入るということは、こちらも傷を負うということだ。

大友軍は辛うじて総崩れを避けたものの、勝ちは完全に消えた。

 

しかも、治部少輔はここで止まらない。

崩れたところを突き、後詰めへ揺さぶりをかけ、ついには豊前のほとんどを食い破った。

 

大友軍の陣は、勝ち戦の空気を完全に失った。

 

夜、宗麟のもとへ上がった報せは重かった。

 

「……豊前を、か」

 

宗麟の顔は青かった。

 

帰還した伯耆守も弥七郎も、その場では余計なことを言わない。

だが、言わぬからこそ重い。

 

鎮鑑は、なおも言い訳を探していた。

 

「敵の動きが」

 

伯耆守が、そこで初めて強く言った。

 

「敵の動きではございませぬ」

場が止まる。

「こちらが、自ら崩れたのです」

 

鎮鑑が睨みつける。

 

「伯耆守」

「申し上げます」

「控えよ」

「控えませぬ」

 

そこへ宗麟が、珍しく少し声を荒げた。

 

「やめよ!」

 

伯耆守は口を閉じた。

弥七郎もまた沈黙する。

 

だが、もう十分だった。

誰の目にも見えたのだ。

 

新次郎鎮鑑は危うい。

だが宗麟は、それを断ち切れない。

このままでは、大友家そのものが歪み、そして腐れ落ちる。

 

評定のあと、伯耆守と弥七郎は、しばし無言で並んで歩いた。

 

やがて弥七郎が低く言う。

 

「始まりましたな」

 

伯耆守も、同じくらい低い声で返す。

 

「ああ。新次郎殿への不信、宗麟様の優柔不断、そして」

 

弥七郎が、少しだけ空を見た。

 

「我らが、いずれ決めねばならぬ時」

 

伯耆守は、すぐには答えなかった。

 

やがて、重く言った。

 

「まだだ」

「はい」

「まだだが」

 

二人とも、同じことを思っていた。

 

この敗戦は、ただの一敗ではない。

大友家の中で、何かが本当にまずい方向へ動き始めた、その最初のはっきりした音だった。

 

 

永禄八年の春。

稲葉山城の評定の間には、いつもの戦支度とは少し違う重さがあった。

 

西では毛利治部少輔元就がなお健在。幕府の静謐令や仲介を嘲笑うがごとく、山陰山陽両局面で尼子氏とがっぷり四つに噛み合っている。

しかも、ただ生きているだけではない。大友を逆に削り返し、山陰にも山陽にもまだ十分な牙を残している。放っておけば、いずれ畿内の西をまた曇らせる。信長も信勝も、その点ははっきり共有していた。

 

評定の上座で、信長が地図の中国筋へ指を置く。

 

「毛利はまだ早うは崩れぬ」

誰も異を唱えない。

「だが、健在なうちに手を打たねば面倒になる」

 

信勝が静かに頷いた。

 

「はい。しかも今なら、向こうは大友、尼子、海筋への備えも要ります」

 

「そうだ」

信長は、そこで視線を少し横へ流した。

「ただし」

 

その一言で、場の空気が締まる。

 

「今回浅井は補助をお願いしたい」

 

長政が、すぐに頭を下げた。

 

「承知しております」

 

信長は、長政を見たまま続ける。

 

「そなたに不満があるのではない」

「はい」

「だが、近江、若狭、丹波、丹後、そのうえさらに中国まで、浅井を主役にしすぎれば、さすがに重みが偏る」

 

長政は、そこで少しだけ顔を上げた。

 

「もっともにございます」

 

その返しに、信長は短く頷く。

 

「感謝するぞ義弟殿」

 

信繁は、そのやり取りを少し下がった位置で聞いていた。

上総介兄上が言っているのは、要するにそういうことだ。浅井は頼れる。だが頼れるからといって、そのまま西まで一気に担わせると、版図も存在感も大きくなりすぎる。ならば、織田本家が中核になって、中国攻略そのものを組み立てるしかない。

 

信長が、そこで地図を二つに切るように指を動かした。

 

「山陰と山陽で分ける」

場にいた者たちの目が、一斉に地図へ落ちる。

「山陰は、市之助」

 

「は」

 

織田市之助信成が進み出る。織田孫次郎信光の長男で、天文十四年産まれは、幼馴染である治部大輔信繁と同い年という、一門の若き俊英である。

 

信長は、さらに名前を重ねた。

 

「佐久間右衛門尉、河尻肥前守、その他をつける」

右衛門尉信盛と河尻肥前守秀隆が、揃って頭を下げた。

「但馬、因幡、伯耆、出雲方面」

 

市之助の目が、地図の北筋を追う。

 

「尼子と連携し、山陰国衆を切り崩せ」

「は」

「毛利の北面を休ませるな」

 

市之助の返答は、若いが軽くはなかった。

 

「承知いたしました」

 

信繁は、その横顔を見て、少しだけ口元を緩めた。

こいつはもう、悪ガキ同盟の片割れというだけではない。ちゃんと一方面を預かる顔になってきている。

 

信長の視線が、今度はこちらへ向く。

 

「治部」

「は」

 

「山陽はそなたが持て」

その一言で、場の意味が決まった。

「播磨、備前、備中方面」

 

信長は、指を南筋へ滑らせる。

 

「宇喜多をどうするかも含め、そなたに任せる」

 

信繁は頭を下げた。

 

「承知仕りました」

「補給線を確保し、山陽国衆を掌握せよ」

「は」

「毛利本軍にも、本拠にも圧をかける。長曾我部家や三次本家の水軍を動員せよ」

「御意」

 

短いやり取りだった。

だが、重さは十分だった。

 

市之助信成が山陰。

治部大輔信繁が山陽。

 

同時に動けば、毛利は北も南も見ねばならぬ。しかも山陰には尼子がいる。山陽には宇喜多がいる。どちらもそのままでは済まぬ相手だ。

 

そこで、長政が改めて一礼した。

 

「浅井家は」

信長が先に答える。

「但馬方面の支援と補助を」

 

長政は黙って聞く。

 

「主役ではないが必要なら山陰戦線へ兵を進めよ」

「承知しました」

 

言葉は短い。だが、長政には十分だった。主役でなくとも、任が軽いわけではない。むしろ、必要なところへきちんと兵を入れ、全体の釣り合いを崩さぬ方が、この段では大事だった。

 

評定がひとまず引いたあと、廊へ出たところで、市之助が信繁を見つけた。

 

「よう、治部」

「何だよ」

「山陽か」

「そっちは山陰だろ」

 

市之助が、少しだけ笑う。

 

「見事に分けられたな」

「だな」

「兄上らしい」

「それはそう」

 

少し歩いてから、市之助が声を低くした。

 

「浅井を大きくしすぎないため、でもある」

 

信繁は、その言い方にだけ目を細めた。

 

「よく分かってるじゃないか」

「馬鹿じゃないからな」

「誰もそこまでは言ってない」

 

市之助は、地図のない空中に指を走らせるように言った。

 

「但馬、因幡、伯耆、出雲。山陰は長いよな」

「うん」

「兄上の指示通り、尼子とうまく噛み合えば前へ出られるが、噛み合わなければ泥沼だ」

「その辺、お前なら大丈夫だろ」

「お前に言われると、昔は腹が立ったんだけどな」

 

信繁が笑う。

 

「今は?」

「今は、ちょっとだけ聞く耳を持つことにした」

 

その返しが、市之助らしかった。

 

そこへ、佐久間右衛門尉が近づいてくる。

 

「市之助殿」

「何だ、右衛門尉」

「山陰筋、楽ではありませぬぞ」

「分かってる」

「因幡伯耆は細かい国衆が多い。尼子に義理がある者、毛利に押さえられている者、様子見の者、皆ばらばらです」

 

河尻肥前守も、そこで続けた。

 

「城だけ見て進むと足を掬われます」

 

市之助は、二人を見て頷いた。にっこりと陽性の笑顔が浮かぶ。

 

「だからお二人がついてるんだろ」

 

右衛門尉が、少しだけ目を細める。

 

「若いのに口がうまい」

「そうか?」

「治部よりは、だいぶ」

「あの!」

 

信繁がすぐに抗議するが、右衛門尉も肥前守も少しだけ笑っていた。

 

一方、信繁の方にも、官兵衛と半兵衛が寄ってくる。

 

「山陽、ですね」と官兵衛。

 

「ああ」

「宇喜多をどうするかで、だいぶ景色が変わりますな」

 

半兵衛が静かに続ける。

 

「播磨、備前、備中は、城より先に道と流れを押さえるべきかと」

「うん」

「毛利本軍をいきなり叩くより、まず息が続かぬ形を作る」

 

信繁は、少しだけ笑った。

 

「お前ら、やっぱりそう来るか」

 

官兵衛が肩を竦める。

 

「他にあまり良いやり方もございません」

「まあな」

 

そこへ市之助が、振り返って声を飛ばした。

 

「治部」

「何だ」

「山陰がやばくなったらすぐに呼ぶぞ」

 

信繁は、すぐに返した。

 

「最初からそのつもりか」

「そのために、ちゃんと兄上の許しも貰ってる」

「周到だな」

 

「当たり前だろ」

市之助は、少しだけ口元を上げた。

「だから、お前ものんびりしてんじゃないぞ」

 

それを聞いていた右衛門尉と肥前守は、顔を見合わせる。

なるほど、この二人はこういう距離なのか、という顔だった。

 

信繁は、少しだけ昔を思い出すように笑った。

 

「分かったよ。呼ばれたら行く」

「呼ばせるな、じゃないんだな」

「お前がそこまで段取ってるなら、もう止めても無駄だろ」

 

市之助は、その返しにだけ、ほんの少し安堵したようだった。

 

「うん。そういうことだ」

 

春の風が、評定のあとの城を抜ける。

 

織田家は、中国進出を決めた。

だが、それはただ一つの大軍を西へ押し出すという話ではない。

 

浅井を補助へ置き、

市之助に山陰を持たせ、

治部に山陽を持たせる。

 

そうやって、毛利を北と南から挟み、同時に若い柱も育てる。

それが、この春の決定だった。

 

 

永禄八年の春から夏にかけて、山陽筋では、まだ大きな合戦の音よりも、人の腹の音の方がものを言っていた。

 

播磨の先、備前。

そこは城の高低や兵の多少だけで決まる土地ではない。国衆の面子、土豪の損得、誰がどこで裏返るか。その見えにくいところが、戦の形をいくらでも変える。

 

治部大輔は、その本丸に宇喜多和泉守がいることをよく知っていた。

毒だ。

しかも、分かりやすい毒である。

だが、分かりやすいからこそ、使いようもある。

 

「俺が行くより、あの二人の方が早いな」

 

瀬田でそう言った時、官兵衛が少しだけ目を細めた。

 

「あの二人、にございますか」

「うん」

「ご隠居と弾正」

 

それで十分だった。

 

美濃のご隠居。

斎藤山城守道三。

そして、松永弾正忠久秀。

 

毒を見抜くどころか、毒の匂いに寄っていって、手のひらの上で転がすことを面白がるような二人である。宇喜多和泉守のような男を相手にするには、これ以上ない人選だった。

 

備前の一角。

宇喜多方の館へ、その二人は本当にふらりと現れた。

 

軍勢を引き連れるでもない。

大仰な使者列でもない。

それが、かえって和泉守には不気味だった。

 

「……これはまた」

出迎えた直家が、座へ案内しながら笑う。

「思わぬお客様にございます」

 

道三は、相手の笑いを笑いで返した。

 

「何、散歩じゃよ」

 

弾正が、横で鼻を鳴らす。

 

「備前まで来る散歩がありますか」

「お主も来ておるではないか」

「面白そうだったので」

 

そのやり取りだけで、直家は分かった。

ああ、この二人は最初から腹を割ってなど来ていない。こちらの腹を覗きに来たのだ、と。

 

「で」

と弾正が言った。

「和泉守。回りくどいのは無しだ」

 

直家が、少しだけ目を伏せる。

 

「何のことでございましょう」

 

道三が笑う。

 

「その言い回しがもう回りくどい」

 

そこから先は、本当に明快だった。

 

道三がまず言う。

 

「備前内の領地は安堵する」

 

直家の目が、ぴくりと動く。

 

「ほう」

 

「ただし」

今度は弾正。

「その代わり、織田家の傘下に入り、きっちり働け」

 

「……」

「備前をそのまま食い潰す気は、今のところ無い」

 

道三が杯を持ち上げる。

 

「毒は毒として使った方が面白いからの」

 

直家が、そこで初めてほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「それは、ありがたきお言葉」

 

弾正が、そこで低く差し込む。

 

「まだ続きがある」

直家が視線を向ける。

「裏切るなら、今ここで斬る」

 

言い方があまりに平らで、逆にぞっとした。

 

館の中は静かだった。

護衛の気配はある。

だが、表には出ていない。

つまりこの二人は、本当に“今ここで”を現実の選択肢として持っている。

 

直家は、そのことも理解した。

 

道三が、さらに一枚足した。

 

「功があれば」

「……」

「備前一国支配を認めるよう、内々に話を通してやってもよい」

 

これは甘言であり、同時に試しでもあった。

 

備前内の領地安堵だけなら、和泉守としては飛びついて当然。

だが一国支配となれば、それは欲の深さをどう使うかという話になる。

 

直家は、少し黙った。

 

そして、すぐに答えた。

 

「承知仕りました」

 

弾正が、わずかに目を細める。

 

「早いな」

「早い方がよろしいかと」

「なぜだ」

 

直家は、そこでようやく本音を混ぜた。

 

「織田家は、すでに勝ち筋を複数お持ちだ」

「ほう」

「山陽だけではない。山陰も、海も、外もある」

 

道三が、にやりとする。

 

「分かっておるではないか」

「分からぬ者から死んでいくのでしょう」

 

弾正が笑った。

 

「違いない」

 

直家は、さらに少しだけ頭を下げた。

 

「そのうえで申します」

「何だ」

「備前内の領地安堵、ありがたく」

「うむ」

「そして、功あれば備前一国支配」

「うむ」

「それだけの餌を頂けるなら、こちらも働かねば損にございます」

 

道三は、その言い回しが気に入ったらしい。

 

「よい」

弾正は、なお釘を刺す。

「損得で来るのは結構。だが、損得で裏返るなら、その前に斬る」

 

直家は、そこで少しだけ真顔になった。

 

「そこまで分かって頂けるなら、むしろやりやすい」

 

それが、宇喜多和泉守直家という男だった。

 

義理で動かぬ。

忠節で泣かぬ。

だが、利と恐れがきれいに並べば、驚くほど素直になる。

しかも、その素直さは嘘ではない。

本当に、その瞬間の最適へ乗るのだ。

 

だからこそ危ない。

だからこそ使える。

 

帰り道、道三が笑った。

 

「即座じゃったな」

 

弾正も珍しく機嫌がよい。

 

「よほど餌がよく見えたのでしょうか」

 

「いや」

道三は首を振る。

「餌だけではあるまい」

 

「ほう」

「あやつは、こちらが自分をどういう男と見ておるか、それを喜んでおった」

 

弾正が、少しだけ鼻を鳴らした。

 

「確かに、ああいう手合いは“分かってもらえる”のを好みますな」

「うむ。正しき人に拾われるより、悪さを知る者に笑われながら拾われる方が、むしろ落ち着くのじゃろうて」

「難儀な男でございます」

「だからこそ、使いようがある」

 

そうして、宇喜多直家は織田方へ寄った。

 

その毒は、山陽でよく効いた。

 

備前の国衆へ、誰を脅し、誰に餌を与えればよいか。

備中の土豪がどこまで耐え、どこで寝返るか。

表で通じぬ相手へ、どの夜にどの言葉を入れればひっくり返るか。

 

直家は、そのあたりを楽しむように働いた。

 

「和泉守、早いな」

 

と信繁がのちに文を見ながら呟いた時、官兵衛が頷いた。

 

「ええ。山陽の国衆掌握、調略、裏工作。その手際は、やはりこの男ならではです」

「毒はよく回るな」

「ただし、器を選びます」

「今回は器がでかいからな」

 

その結果、備前・備中の崩れは目に見えて早まった。

 

正面から城を攻める前に、後ろの道が細る。

兵糧の流れが鈍る。

味方と思っていた国衆が、いつの間にか様子見に変わる。

そして、もう一押しでそちらへ寄る。

 

山陽の崩れは、刀や槍の一撃ではなく、こういうふうに静かに進んだ。

 

そのたびに、信繁は思った。

 

――ご隠居と弾正、やっぱり嫌な仕事させると最高だな。

 

そして同時に、宇喜多和泉守直家という毒を、最初にきちんと“毒として扱った”ことが、ここで効いているのだとも分かっていた。

 

 

永禄八年の夏。

 

治部大輔が山陽で毒を毒で制していた頃、山陰路では市之助の率いる軍勢およそ二万と、それを補助する浅井勢の進撃が止まらずにいた。

 

但馬。

因幡。

そして美作。

 

応仁の乱では主役の一つであった山名氏も、今やその面影は薄い。名ばかりは残れど、実は細り、かつてその旗の下にいた国人たちも、それぞれが小さな利にしがみついているだけだった。

 

市之助は、そこをよく見ていた。

 

肥前守秀隆を前へ出せば、相手はまず構える。

だが、その構えのままでは兵糧も道も尽きる。

そこで右から右衛門尉信盛が押し、左からは浅井勢の影をちらつかせる。

 

柔と剛。

脅しと安堵。

正面から噛み砕くところと、噛まずに飲み込むところを、市之助は思った以上にきれいに使い分けていた。

 

「若いのに、妙に急がぬな」

 

と、右衛門尉が一度言った。

 

市之助は地図を見たまま答える。

 

「急いでますよ」

「そうは見えぬ」

「急ぐのと、慌てるのは違うでしょう」

 

その返しに、右衛門尉は少しだけ口元を歪めた。

 

「治部とは、また違うな」

「何だそれは」

「治部は、急ぐ時にもっと露骨だ」

「ひどいな」

 

河尻肥前守が横で静かに言う。

 

「だが、似ておる」

 

市之助が振り向く。

 

「どこがです」

「行く時の腹の括り方が」

 

その言葉に、市之助は少しだけ黙った。

治部が先へ行っている。そう感じることは、今でもある。だが、こうして別の戦線を任され、別のやり方で前へ出ている時、自分にも自分の勝ち筋があるのだとは、ようやく少しずつ腹へ落ちてきていた。

 

その軍勢は、今や伯耆国まで届かんとしていた。

 

そして、そこへ加わったのが、調略担当として送られてきた宇喜多和泉守である。

 

毒だった。

だが今は、綺麗な毒になっていた。

 

道三と弾正に首輪と手綱をつけられ、治部に行く先を決められたその男は、以前のように“好き勝手に噛む毒”ではなく、“向けられた方角にだけ深く食い込む毒”へ変わりつつあった。

 

「和泉守」

 

市之助が呼ぶ。

 

「は」

「尼子との話はどうだ」

 

直家は、いつものように少しだけ笑みを含んで答える。

 

「悪くありませぬ。あちらは毛利を憎んでおる。こちらは毛利を削りたい。話は早うございます」

「裏は」

「警戒はされております」

「当然だな」

「ですが、それもまた当然にございます。信用されぬことを怒るほど、某も若くはありませぬ」

 

その言い方が、少し前までの直家ならもっと刺々しかっただろう。

だが今は違う。毒気はある。だが、その毒を無駄に撒かない。

 

山陰方面軍と山陽方面軍は、まるで呼吸を合わせるように進んだ。

 

市之助が伯耆へ圧をかける。

尼子がその陰で出雲や備中と備後を固める。

そこへ宇喜多が、山陽側から抜けるべき道、崩せる顔、落とせる利を持ち込む。

 

そうして、織田方は石見と備後、毛利家の本丸に近い土地へと、静かに足を踏み入れていった。

 

その夜だった。

 

前線の陣は、表向き静かだった。

だが、静かな夜ほど、裏では人が動く。

 

市之助の幕へ、宇喜多和泉守直家が一人で来た。

護衛を連れぬわけではない。だが、見せる気配は薄い。つまり、これは話をしに来たのだ。

 

「夜分にございます」

 

「入れ」

市之助は、文を畳んで顔を上げた。

「和泉守か」

 

「はい」

「何かあったか」

「いえ。今日のうちに、一つ申し上げておきたいことが」

 

その声色が、少し違った。

いつもの利を数える時の声ではない。

 

市之助は、座るよう目で促した。

 

直家は座る。

少し間があった。

 

「和泉守」

「は」

「珍しいな。お前が言い淀むのは」

 

直家が、わずかに笑う。

 

「某とて、人並みに迷うことはございます」

「へえ」

「ただ、たいていは申す前に算段が済んでおるだけで」

「それは迷ってるって言わないだろ」

 

その返しに、直家の肩から少しだけ力が抜けた。

 

「……市之助殿」

「何だ」

 

「某は、これまでずっと」

直家は、視線を落としたまま言う。

「下から上ることしか考えておりませなんだ」

 

市之助は黙って聞く。

 

「上るためなら、噛みつく。裏切る。笑う。頭を下げる。誰を使ってもよい。そう思うておりました」

「そうだろうな」

「はい」

 

否定しない。

むしろそうだったと分かっている相手の返しに、直家は少しだけ安心したようだった。

 

「ですが」

「うん」

「治部大輔殿は、某を毒と知りながら生かした」

「そうだな」

「ご隠居殿も、弾正殿も、某の値打ちも汚さも分かった上で、こちらへ寄れと申した」

「うん」

「正直、あれだけでも、だいぶ変な話にございます」

 

市之助が、そこで少しだけ笑った。

 

「変な大人に拾われたな」

 

「まことに」

そこから、直家は一度だけ息を置いた。

「だが、あなたは違った」

 

市之助の目が、わずかに細くなる。

 

「どう違う」

 

直家は、そこで初めて市之助をまっすぐ見た。

 

「某を、怖がらぬ」

「怖がってはいるぞ」

 

「いえ」

直家は首を振る。

「怖がる方は、もっと露骨に囲い、もっと露骨に疑います」

 

「……」

「だが、あなたは、最初から某を“毒として使う”と決めておられた」

 

市之助は、少しだけ肩を竦めた。

 

「だって毒だろ、お前」

「はい」

「でも、毒だから切る、ではない」

 

「そうです」

直家の声が、少しだけ低くなる。

「そこに、某は驚きました」

 

市之助は、しばらく答えなかった。

やがて、静かに言う。

 

「和泉守」

「は」

「俺は、お前を善い奴だと思ったことは一度もない」

 

直家が、口元だけで笑う。

 

「ありがたきお言葉にございます」

 

「でも」

市之助は続けた。

「悪い奴だからって、使い道が無いとも思わない」

 

直家の目が、ほんの少しだけ揺れる。

 

「お前みたいな男は、ただ追い詰めると裏へ回る」

「はい」

「でも、前へ出して、“ここで噛め”って場所をやると、妙にいい働きをする」

「……」

「だったら、その方がいい」

 

直家は、その言葉をしばらく黙って受けていた。

下剋上だけを考えてきた男にとって、それは奇妙な扱いだった。

 

疑われるのではない。

信用されるのでもない。

**役目を与えられる**。

 

それが、妙に胸へ刺さった。

 

「市之助殿」

「何だ」

「某は、これまで“上へ行く”ことしか考えておりませなんだ」

「うん」

 

「だが、初めて思いました」

市之助は黙って待った。

「……この方の下で、働くのも悪くない、と」

 

市之助は、その言い方にだけ少し目を丸くした。

 

「珍しいこと言うな、お前」

「自分でもそう思います」

「何だそれ」

 

直家は、そこでようやく深く頭を下げた。

 

「織田家の傘下に入った、というだけでなく」

「……」

「某、以後は市之助殿の家臣として、お仕えしたく存じます」

 

夜の陣が、少しだけ静かになる。

 

市之助は、すぐには返さなかった。

安く受ければ軽くなる。

はねつければ、この男の折れ目を無駄にする。

 

だから、少し考えたあとで言った。

 

「和泉守」

「は」

「その言葉、本気か」

 

直家は顔を上げないまま答えた。

 

「本気でございます」

「理由は」

「使い道を与えられたからにございます」

「……」

「某を理解した上で、切るでもなく、甘やかすでもなく、働かせる方は、初めてでした」

 

市之助は、その言葉にだけ、昔の自分を少し思い出した。

 

治部は先へ行った。

嫉妬した。

だが、嫉妬をそのまま振れば、自分が崩れると分かった。

だから、上を向く方へ変えた。

 

直家も今、たぶん似たところへ来ている。

下剋上だけで生きてきた男が、初めて“誰かの下で働く”ことを、自分から選ぼうとしている。

 

「分かった」

市之助は、ようやくそう言った。

「受ける」

 

直家の肩が、ほんの少しだけ落ちた。

 

「ただし」

「は」

「裏切るなら斬る」

 

直家は、顔を上げた。

そして、初めて少しだけ穏やかに笑った。

 

「はい」

「あと、お前は今日からうちの家臣ではあるけど、うちではまず働きで見る」

「それで結構にございます」

「言っとくが、治部ほど甘くないぞ」

「市之助殿」

「何だ」

「それは、たぶん逆です」

「は?」

「治部大輔殿の方が、はるかに怖うございます」

 

それには、市之助も堪えきれず笑った。

 

「違いない」

 

その夜のうちに、直家は形式だけでなく、腹の内でも市之助の配下に入った。

 

翌朝、その報を受けた信繁は、文を読みながら小さく笑った。

 

「落としたか」

 

官兵衛が横で言う。

 

「完全に」

「へえ」

「某も、ここまで綺麗に折れるとは思いませんでした」

 

信繁は、少しだけ昔のことを思い出すような顔になった。

 

「市之助、やっぱり人たらしだな」

「治部大輔殿とは、また違う形で」

 

「だろうな」

そして、少しだけ満足そうに続ける。

「まあ、あいつのところなら、和泉守も変な方へだけは走らないだろ」

 

こうして、宇喜多和泉守直家は、織田家の傘下に入った毒であるだけでなく、

**市之助の家臣**として、初めて明確にその立ち位置を定めた。

 

下剋上だけを見ていた男の琴線に触れたのは、

若く、明るく、だが人の使い道を見抜く、あの悪ガキ同盟の片割れだった。

 

 

永禄八年の晩夏。

 

毛利を取り巻く包囲網は、もはや一方から締まるものではなくなっていた。

西、海、山陰、山陽。

四方から、じわじわと、だが確実に喉へ手が掛かっていく。

 

まず西。

大友家である。

 

もっとも、大友はすでに万全の矢ではなかった。

新次郎鎮鑑の失策で豊前方面で恥をかき、攻勢の勢いそのものは弱まっている。だが、それでもなお、毛利にとって「西を無視できぬ」だけの重みはある。だから元就も、右馬頭輝元も、決して背を向けられない。

 

そして、その大友家の内では、敗戦で体面を潰された新次郎鎮鑑が、さらに悪い方へ転がり始めていた。

 

若い。

勝ち切れなかった。

だが、自分の才覚そのものが否定されたとは認めたくない。

そういう時、人は外へ向かず、もっと手近なところで権威を振り回し始める。

 

鎮鑑は、領内で女狩りを始めた。

 

美しいと聞けば屋敷へ呼ぶ。

いや、呼ぶどころではない。半ば奪うように連れて行く。町娘や農民問わず、また家臣の妻であろうが、美貌と評判が立てば、一夜の伽を命じる。気に入ればしばらく囲う。しかも、それを諫める声へは、「家のために戦う者が、女一人で何を言う」と鼻で笑う。

 

さらに悪いことに、南蛮との交易へ手を伸ばし、その先にある奴隷売買の匂いまで嗅ぎ始めていた。

 

「銭になる」

「どうせ遠国の話だ」

「反抗的な者を斬るより高く売れる」

 

そんな理屈を、平然と口にするようになったのである。

 

戸次伯耆守や吉弘弥七郎が目を見張ったのは、もはや軍の拙さではなかった。

人として、武門として、越えてはならぬ線を、この若い男が平気で踏み越えていくことの方だった。

 

その腐臭は、西の圧として毛利へ向くどころか、大友家そのものを内から傷め始める。

だが、毛利にとっては、それでもなお「西に大友あり」という事実だけで十分に面倒だった。

 

海では、長曾我部と三好が動いていた。

 

伊予を足場にする長曾我部。

讃岐、阿波、淡路を背景に持つ三好。

この二つが、瀬戸内海で毛利水軍の自由な往来を抑え始める。

 

完全に海を閉じるわけではない。

だが、自由に動けぬ。

好きな時に兵も兵糧も船で運べぬ。

それだけで、毛利のような家には痛い。

 

「長曾我部が海を覚えたか」

 

小早川又四郎隆景がそう苦く言った。

そこへ三好の船手まで絡む。海の上で、毛利はこれまでのように好き放題には振る舞えなくなる。

 

山陰では、市之助信成が進んでいた。

 

悪ガキ同盟の片割れ。

明るく、人を巻き込み、だが軽くはない若い総大将。

 

その背後には、佐久間右衛門尉や河尻肥前守のような、柔と剛を使い分ける与力がいる。

さらに、ここでは宇喜多和泉守直家が、市之助のもとで綺麗な毒として働いていた。

 

宇喜多はもう、ただ噛みつくだけの毒ではない。

どの国衆が利で動き、どの土豪が怨みで動き、どこへどう囁けば毛利の北面が崩れるか。そういう見えにくいところで、恐ろしくよく働いた。

 

そこへ尼子氏がある。

月山富田城は、なお尼子の旗を掲げたまま持ちこたえている。

毛利はそれを無視できない。

山陰を完全に飲み込めぬまま、市之助と宇喜多と尼子が、じわじわと首を絞める。

 

そしてついに、石見銀山へ圧が届く。

 

銀。

財。

西国を回す血筋のようなものだ。

そこへ織田方の影が落ちる意味は、単なる一城一地以上に大きい。毛利にとっては、金と面子の両方を掴まれるに等しかった。

 

山陽では、治部大輔信繁が静かに、だが確実に前へ出ていた。

 

備前。

備中。

正面と裏道、双方から毛利本軍を圧迫し、道と補給を押さえ、国衆をひっくり返す。戦そのものより先に、戦が成り立つ土台を削る。信繁のやり方はいつもそこが厄介だった。

 

「城を落とすより、先に息を止める」

 

そういう手を、平然とやる。

 

宇喜多を市之助へ渡しても、治部軍そのものの圧が弱まるわけではない。むしろ、毒の仕事を一部預けたぶん、本隊はもっと重い仕事に集中できる。

 

備前と備中から毛利本軍へ圧をかけ、さらに備後へ手を伸ばす。

備後は、安芸を守る外郭だ。そこを削られれば、毛利家本拠の安芸はもう遠い後ろではなくなる。

 

実際、信繁は備後を攻略し、そのまま安芸へ迫る構えを見せた。

 

「本気か」

 

と、毛利方の誰かが思わず漏らしたほどだった。

本気だった。

 

山陰では市之助が押す。

山陽では信繁が締める。

海では長曾我部と三好。

西では、大友が腐りながらもなお重石として残る。

 

こうして、毛利包囲網は形だけでなく、実際の圧として完成した。

 

元就が老獪に支えようと、毛利両川が軍をまとめようと、右馬頭が前へ出ようと、もはや一方向だけを見て戦える相手ではない。

どこかを守れば、別のどこかが薄くなる。

どこかへ兵を送れば、違うところで道が切れる。

 

永禄八年の晩夏、毛利家はついに、

「織田が来た」

ではなく、

**「織田を中心に、周囲すべてがこちらへ向き始めた」**

という現実を突きつけられることになったのである。

 

 

永禄八年の夏から秋にかけて、毛利を取り巻く輪は、ついに形だけの包囲ではなくなった。

 

海では長曾我部と三好が舟を出し、瀬戸内を好き放題に走ってきた毛利水軍の足を鈍らせる。

西では大友がなお圧力源として残る。もっとも、その内実は見るに堪えぬものだった。新次郎鎮鑑は、豊前方面で体面を潰されたのち、いよいよ人としての線まで踏み越え始めていた。

 

美しいと聞けば女を攫う。

家臣の妻であろうと、美貌であれば一夜の伽を命じるし、気に入れば数日囲う。

そのうえ南蛮の利に目が眩み、人の売買にまで手を伸ばそうとしている。

 

大友家の内は腐り始めていた。

だが、毛利から見れば「西に大友あり」という事実だけで、まだ十分に鬱陶しい。元就はその腐敗を侮らぬ。腐っておればこそ、いつどこへ倒れるか分からぬからだ。

 

そこへ、織田家の二面進撃が重なった。

 

山陰では、市之助信成が宇喜多和泉守、尼子の旗と呼応しつつ前へ出る。

月山富田城を核とする尼子の抵抗は、毛利にとって喉へ刺さった骨のように抜けぬ。そこへ市之助が因幡、伯耆、出雲を荒らし、石見へ乗り込み、宇喜多が国衆の裏をひっくり返す。

 

山陽では、治部大輔信繁が備前・備中から圧をかけ続けた。

道を押さえ、補給を絞り、従う者は生かし、逆らう者は見せしめに沈める。備後へも手を伸ばし、ついには毛利の本拠たる安芸の鼻先にまで迫る構えを見せる。

 

こうなると、毛利はもう「どこを守るか」ではなく、「何を捨てて家を残すか」を考えざるを得なかった。

 

吉田郡山城の一室で、元就は黙って地図を眺めていた。

年老いた指が、石見のあたりで止まり、次に備後へ滑り、やがて安芸、周防、長門の三国だけを静かになぞる。

 

右馬頭輝元が、唇を噛んだまま問う。

 

「……まだ戦えましょう」

 

元就は、すぐには返さなかった。

 

「戦えぬとは申さぬ」

低い声だった。

「されど、勝てぬ」

 

右馬頭の顔が歪む。

若い。血気がある。ここまで削られてなお、なお前を向こうとする。それ自体は悪いことではない。だが、家を継ぐ者が最後に選ばねばならぬのは、気概ではなく残し方だ。

 

「石見を守り、備後を支え、山陰へ兵を割き、海まで見よと申すか」

元就が、そこでようやく顔を上げた。

「無理よ」

 

その一言が、重かった。

 

「海は長曾我部と三好。西には大友。北には尼子と市之助。南からは治部大輔」

元就は、そこでわずかに目を細めた。

「……それにつけても面白い若造どもよ」

 

敵を褒めているのではない。

褒めるしかないほど、盤面が精緻に組まれていると言っている。

 

「右馬頭」

「は」

「ここで家を保つことが最善じゃ」

 

若い当主は、拳を握りしめたまま黙った。

 

元就は続ける。

 

「安芸」

「周防」

「長門」

 

一つずつ、切るように言う。

 

「この三国を安堵させる。そこまでを条件に和睦を申し入れる」

「……備後も、でございますか」

「備後はもう、守るより奪われる時を遅らせる土地になっておる」

「石見も」

「銀が惜しかろうと、家が消えては何にもならぬ」

 

右馬頭は、長く息を吐いた。

悔しさは消えない。だが、祖父の言葉が正しいことも分かる。分かるからこそ苦い。

 

「承知……いたしました」

 

元就は、そこでようやく頷いた。

 

「よい。抗うべき時に抗い、退くべき時に退く。家を継ぐとは、そういうことよ」

 

和睦の申し入れは、織田方にとっても悪い話ではなかった。

 

信長は、安芸・周防・長門の三国のみを毛利に残すという条件を聞き、しばし黙っていた。

その横で信勝が地図を見つめ、治部大輔は腕を組んでいる。

 

「三国か」と信長。

 

「はい」と信勝。

 

「石見、備後、山陰への影響力、山陽の主導権は失わせる」

「ふむ」

「家は残るが、もはや中国の覇者ではありませぬ」

 

信長は、そこで薄く笑った。

 

「ちょうどよい」

 

信繁も頷いた。

 

「食い切るより、残して痩せさせる方が面倒が少ないでしょう」

 

「そうだ」

信長は、次に別の一手を置くように言った。

「婚姻も結ぶ」

 

それで場の空気が変わる。

 

「毛利治部少輔の娘、彩乃」

 

信勝がすぐに意を汲む。

 

「市之助に」

「うむ」

 

信勝は、そこで少しだけ眉を上げた。

なるほど、そう来るか。毛利を削るだけでなく、一門の若手柱へ毛利の血を繋ぐ。兄信長らしい。家を残すかわりに、縁で縛る。

 

「市之助なら」と信勝。

「受けるでしょう」

 

「受けさせる」と信長は即答した。

 

その言い方に、信繁は思わず笑った。

まあ、そうなる。

 

毛利家では、和睦が整うと同時に、もう一つの決断も下された。

 

元就の隠居である。

 

もともと、右馬頭へ家督を渡して久しい。だが、誰の目にも、実権はまだ老いた治部少輔の手にあった。

その男が、ここでようやく前へ出ることをやめる。

 

ただし、それは単なる世代交代ではない。

 

元就は、和睦ののち、安芸のご隠居として名を置きながら、表向きは政務から退く。そして、その身を畿内へ寄せることになった。

 

「信長のところではなく、治部家ですか」

 

と、右馬頭は驚きを隠せなかった。

 

元就は、そこで初めて少し笑った。

 

「わしが、あの上総介の傍で大人しくしておれると思うか」

それには、誰も返せない。

「治部大輔のところなら、まだ面白い」

 

「……面白い、でございますか」

「若いくせに、妙に古狐の匂いがする」

 

その評は、半ば嫌味で、半ば本気だった。

 

さらにもう一つ。

美濃のご隠居――斎藤道三が、元就のことをいたく気に入ったのである。

 

敵でありながら盤面を読み解き、負けるべき時に家を残し、なお笑える男。

道三から見れば、酒の相手にも碁の相手にも不足はない。

 

「肝胆相照らす、か」

信繁は、その話を聞いた時、頭を抱えた。

「厄介な爺様が二人になるな」

 

官兵衛が横で静かに言う。

 

「治部大輔殿にとっては、でしょうな」

「絶対そうだろ」

「ですが、面白くはあります」

「他人事だと思ってるだろ」

「少しだけ」

 

その頃、市之助の方では、彩乃との婚姻の話が進んでいた。

 

側室として迎える。

毛利治部少輔の娘。つまり、元就の娘にあたる娘だ。老いてますます盛んな爺さんである。そしてそれが、若手の柱として西を預かる男にとっては、これ以上ないほど重い縁になる。

 

市之助は、その話を聞いた時、しばらく無言だった。

やがて、信繁の方を見て言う。

 

「……治部」

「何だ」

「何か、もう西国の重さが全部こっちに来てないか」

 

信繁は、即座に笑った。

 

「いいことじゃないか」

「良くねえよ」

「毛利の姫だぞ」

「分かってる」

「名誉だな」

「重いんだよ!」

 

その返しに、周囲が少し笑う。

 

だが、本当に重いのだ。

毛利を削り、縁で結び、若い柱へ預ける。信長はそうやって、ただ勝つだけではなく、勝った後の形まで一気に作っていく。

 

永禄八年の夏から秋。

海では長曾我部と三好。

西ではなお大友。

北では尼子と市之助と宇喜多。

南では治部大輔。

 

毛利はついに、安芸・周防・長門の三国を残して和睦へ傾いた。

 

そして、毛利治部少輔元就は隠居した。

ただの敗北ではない。

家を消さずに残すための、老獪な引き際だった。

 

だがその引き際の果てに、まさか治部家へ転がり込むとは、当の信繁すら思っていなかった。

 

 

永禄八年の晩秋。

 

織田と毛利との和議が成り、毛利治部少輔元就が、美濃のご隠居へ「いっそ義兄弟になりませぬか」と持ち掛けようとしていた頃。

西国のもう一つの大勢力、大友家では、二本の柱が根元から抜けかけていた。

 

新次郎鎮鑑の悪逆非道は、もはや噂では済まなかった。

 

女を攫う。

家臣の妻を召し上げる。

南蛮の利に眩み、人まで売ろうとして、これはさすがに戸次伯耆守や他の家老たちも止めた。

しかも、それを恥とも思わぬ。

 

戸次伯耆守鑑連も、吉弘弥七郎鎮理も、最初は諫めた。

強く、何度も、主君の前で、家中の評定の場で、あるいは二人きりでも。

 

だが宗麟は決断できなかった。

 

できぬのは、情だけではない。

大友家には、一門のうち前線で戦える太い柱が多くはない。その現実も、宗麟自身は痛いほど分かっていた。もともと優柔不断な己を自覚している男である。だからこそ、豊後三家老や加判衆の声を聞き、迷いながらもここまで家を運んできた。

 

だが、その家そのものが今や揺れている。

 

戸次伯耆守も吉弘弥七郎も、ついに言った。

 

「新次郎様の存在そのものが、大友家の存続を危うくしております」

 

だが新次郎は、そのたびに宗麟の前へ出た。

 

理があるわけではない。

筋が通っているわけでもない。

爽やかでもない。

 

ただ、自信だけはある。

押し出しの強い声で、言い切る。

断じる。

相手に考える暇を与えぬ勢いで、こちらが正しいと繰り返す。

 

「今は大きく動く時にございます」

「古い者どもは、ただ恐れておるだけ」

「毛利相手に勝ちを拾ったのは誰にございます」

「家中を一つにするには、逆らう者を黙らせねばなりませぬ」

 

宗麟は、その言葉に押される。

 

分かっている。毛利相手に大友は勝ってはおらぬ。

織田が勝ったのだ。

 

こやつは危うい。

だが、では今切れるか。

切ったあと、誰が西の備えを支える。

誰が若い勢いを見せる。

 

そう迷った時点で、もう負けていた。

 

豊後だけではない。

大友の領土そのものが、内から割れ始めていた。

 

とくに豊後南部。

佐伯氏、志賀氏ら、家老格の家々が色めき立つ。

 

彼らは新次郎そのものを信じたわけではない。

だが、新次郎を旗印にすれば、戸次伯耆守と吉弘弥七郎を削れる。そう読んだ。

 

「伯耆守は古い」

「弥七郎は融通が利かぬ」

「新次郎様の大きな戦略を、狭い了見で妨げている」

 

そういう声が、ついに公然と評定の場へ出るようになった。

 

戸次伯耆守鑑連も、吉弘弥七郎鎮理も、今や家中で孤立しかけていた。

 

武勇も。

忠節も。

家名も。

それらがあるから守られるのではなく、それらがあるからこそ邪魔だと見なされる。そんな段階へ入っていた。

 

巨大な大友という家は、今や外へ牙を向ける怪物ではなく、己の手足を喰らい始めた怪物になりつつあった。

 

その夜、戸次伯耆守の屋敷は静かだった。

 

静かすぎるのが、かえって嫌な夜だった。

 

弥七郎が通されると、伯耆守はすでに座していた。

灯は低い。

人払いも済んでいる。

 

「遅うなりました」

 

「いや」

伯耆守は、短く答えた。

「そちらはどうだ」

 

弥七郎は、少しだけ苦い顔をした。

 

「似たようなものです」

「そうか」

「南の連中は、こちらを外した後のことばかり考えております」

 

伯耆守は鼻で息を吐いた。

 

「家の行く末ではなく、席の行く末か」

「今は、どちらが先か分からぬほどにございます」

 

少し、沈黙が落ちた。

 

やがて伯耆守が言う。

 

「残る意味があるなら、残る」

 

弥七郎は頷いた。

 

「はい」

「大友家が家として立ち直るなら、それに賭ける価値はまだある」

「はい」

「だが」

 

伯耆守の声は、いつもよりさらに低かった。

 

「龍造寺も島津も、待ってはくれぬ」

 

弥七郎の顔からも、わずかに余裕が消える。

 

「西でこうして内を削っておれば、いずれ」

「食われる」

 

短い一言だった。

 

「……はい」

 

「新次郎様一人なら、まだ斬れば済む」

伯耆守は、そこで初めて少しだけ苦い笑みを見せた。

「だが、今やあれを旗にして群がる者が増えすぎた」

 

弥七郎が静かに言う。

 

「宗麟様も、もう切れますまい」

 

伯耆守は即答しなかった。

だが、答えないことが答えだった。

 

しばらくして、弥七郎が口を開く。

 

「治部大輔殿」

 

伯耆守の目が動く。

 

「うむ」

「頼れましょうか」

「頼るしかあるまい」

 

その答えに、弥七郎は少しだけ目を伏せた。

 

「豊後を捨てるようで」

 

「違う」

伯耆守が切った。

「大友家を見限ったのではない」

 

「……」

「残って死ぬより、生きて立て直しの目を残す」

 

弥七郎は、ゆっくり頷く。

 

「はい」

 

「それに」

伯耆守の声が少しだけ和らいだ。

「治部大輔殿なら、我らをただの敗残とは扱うまい」

 

弥七郎は、その言葉にだけ小さく息を吐いた。

 

「若いのに、妙な男ですな」

 

「妙、では済まぬ」

伯耆守は言う。

「若いくせに、家の残し方を知っておる」

 

「ええ」

「ならば、あれを頼る」

 

これで決まった。

 

戸次伯耆守鑑連。

吉弘弥七郎鎮理。

二人は一族を率い、生き残るために豊後を離れることを決めた。

 

未練がないわけではない。

怒りだけでもない。

むしろ逆だ。

大友家という家を、まだ捨て切れぬからこそ、ここで死ぬわけにはいかなかった。

 

もし家が残るなら、戻る意味もある。

だが今、家中の主導権争いと外圧とが重なり、このままでは全てが空しくなる。

それが分かったからこその離脱だった。

 

瀬田城に、その報せが届いたのは冷え込みの強い朝だった。

 

信繁は、ちょうど城下の流れと兵糧の差配について十兵衛と話していた。

 

使番が駆け込み、膝をつく。

 

「治部大輔様」

「何だ」

「西より」

「西?」

「戸次伯耆守殿と、吉弘弥七郎殿が」

 

信繁の手が止まる。

 

「……誰が?」

「戸次伯耆守殿と、吉弘弥七郎殿にございます」

 

一拍。

 

そして、信繁は思わず素で言った。

 

「え、なんで瀬田城にその二人が?」

 

十兵衛が、珍しくすぐには言葉を継げなかった。

半兵衛も、さすがに目を細める。

伊勢守が、遅れて口を開く。

 

「……それ、笑っていい話じゃなさそうですね」

 

「だろうな」

信繁は、もう立ち上がっていた。

「どこまで来てる」

 

「すでに城下へ」

「早いな……いや、そりゃそうか」

 

信繁は、額をひとつ押さえる。

 

豊後で何かが起きた。

しかも、ただの内輪揉めではない。あの二人が一族を率いて瀬田まで来るなど、よほどだ。

 

十兵衛が静かに問う。

 

「お会いになりますか」

 

「会うに決まってる」

信繁は即答した。

「逃がしたら一生後悔するどころの話じゃない」

 

そう言って歩き出してから、信繁は少しだけ顔をしかめた。

 

「いや待て、戸次伯耆守と吉弘弥七郎が、揃って瀬田に来るって」

そしてもう一度、半ば呆れ、半ば本気で言った。

「……本当に、なんで瀬田城にその二人が?」

 

 

永禄八年の晩秋、瀬田城は季節を先取りしたかのように底冷えのする空気に包まれていた。

織田と毛利との和議が成り、毛利治部少輔元就が隠居に入る。

 

その老獪なご隠居が、美濃のご隠居へ「いっそ義兄弟に」と持ち掛けようとしている、などという話まで流れてくる時分である。

 

信繁は、そういう西国の大ごとを頭の隅で噛みしめながら、十兵衛と半兵衛を相手に瀬田城の普請と兵糧の話をしていた。

 

そこへ、使番が駆け込んだ。

 

「治部大輔様」

「何だ」

「西より、客人にございます」

「誰だ」

 

使番は、一瞬だけ言い淀んだ。

 

「……戸次伯耆守殿、吉弘弥七郎殿」

 

信繁の手が止まった。

十兵衛も半兵衛も、さすがに顔を上げる。

 

「誰が?」

「戸次伯耆守殿、吉弘弥七郎殿にございます」

 

一拍。

信繁は、素で言った。

 

「え、なんで瀬田城にその二人が?」

 

十兵衛が、珍しくすぐには言葉を返せなかった。

半兵衛は目を細めたまま、小さく息を吐く。

 

「これは」と十兵衛。

「ただ事ではございませぬな」

 

「そりゃそうだろ……」

 

信繁は立ち上がった。

内心ではもっと騒いでいる。

 

――うわぁ、ほんとに来た。

――立花道雪と高橋紹運やんけ。

――いや待て待て、どういう流れだこれ。

――鶴姫。美景姫。助けてカムヒアナウ。

 

だが顔には出さない。

出せるわけがない。

 

「通せ。いや、待て。座敷を整えろ。湯も出せ。旅の埃があるはずだ」

「はっ」

 

使番が飛んでいく。

信繁は一つ深く息を吐いた。

 

「十兵衛」

「は」

「これは、迎え方を間違えると一生響く」

「承知しております」

「半兵衛」

「はい」

「変に構えすぎるなよ。こっちが怯むと向こうも話しづらい」

 

半兵衛は、わずかに口元を動かした。

 

「一番怯んでおられるのは、治部様では」

「うるさい」

 

やがて、二人は通された。

 

戸次伯耆守鑑連。

吉弘弥七郎鎮理。

 

旅の疲れを帯びてなお、立っているだけで座敷の形が変わる。

武辺の重みとは、こういうものかと改めて思わせる類の男たちだった。

 

信繁は正座を正し、深く一礼した。

 

「よう参られた」

 

戸次伯耆守が頭を下げる。

「急な参上、平にご容赦を」

 

吉弘弥七郎も続く。

「まずはご無礼をお詫び致します」

 

「いや」

信繁は顔を上げた。

「お二方がここまでお越しになるには、それだけの理由がございましょう。まずは、よう無事に参られました」

 

その一言で、場の最初の張りがわずかにほどけた。

信繁が座を勧める。

 

「どうぞ、お座り下さい」

 

二人は静かに座した。

十兵衛と半兵衛も一歩下がって控える。

だがただ控えるのではない。

 

治部家として、この場を丸ごと受ける構えを見せていた。

最初に口を開いたのは戸次伯耆守だった。

 

「治部大輔殿」

「は」

「此度は、貴殿を頼って参りました」

 

短い。

だが、あまりに重い一言だった。

信繁は、すぐには軽々しく返さなかった。

 

「……お二方がそう申されるまでに至ったこと、ただ事ではありますまい」

 

「ございませぬ」と戸次伯耆守。

 

吉弘弥七郎が続ける。

 

「新次郎殿の振る舞いは、もはや諫言で収まる段を越えました」

 

「女を攫い、家臣の妻に手をかけ、南蛮の利にかこつけて人まで売ろうとする」

戸次伯耆守の声は、怒気よりも疲れが勝っていた。

「宗麟様も、知らぬわけではありませぬ」

 

信繁は黙って聞く。

 

「だが、決めきれぬ」

 

「若い将が少ないこともありましょう」と弥七郎。

「宗麟様ご自身、御自身の優柔不断を弁えておられる。ゆえに、豊後三家老や加判衆の言葉に迷いながらも、ここまで家を運んでこられた」

 

「ですが」

戸次伯耆守が低く継いだ。

「今やその家そのものが、内から割れ始めております」

 

信繁は、そこでようやく短く問う。

 

「佐伯、志賀……そのあたりですか」

 

伯耆守と弥七郎の目がわずかに動く。

 

「そこまでお分かりか」

「西国の話は、こちらにも多少は流れて参ります」

 

本当は多少ではない。

だが、今はそれで十分だった。

 

吉弘弥七郎が言う。

 

「豊後南部の家老格どもは、新次郎殿を旗印に、戸次と吉弘を削る方へ動いております」

「今や、我らは家中で孤立しかけております」

 

戸次伯耆守の声音は静かだ。

だが、静かだからこそ深い。

 

「残る意味があるなら、残りました。大友家が家として立ち直るなら、骨を埋めるも本望。しかし、龍造寺と島津の圧が高まり、家中は自ら手足を食い始めている」

 

吉弘弥七郎が息を吐いた。

 

「このまま残れば、家とともに死ねるのではなく、ただ無為に削られるだけにございます」

 

信繁は、二人の顔を順に見た。

逃げてきた顔ではない。

生き残り、あとに何かを繋ぐために来た顔だった。

 

「……分かりました」

信繁は、座を正した。

「治部家として、お二方をお迎え致します」

 

伯耆守は、そこでようやく深く頭を下げた。

 

「かたじけない」

 

「ただし」

信繁は続ける。

「こちらも筋は通します。織田本家にはすぐ話を通す。お二方を隠して抱えるつもりはありませぬ」

 

「それで結構」と伯耆守。

「むしろ、そうでなければ困る」

 

「でしょうな」

 

ここでようやく、場にほんの少し人の息が戻った。

しばしの沈黙ののち、信繁が静かに口を開いた。

 

「朝倉を滅ぼした際にも思ったのですが」

 

戸次伯耆守が顔を上げる。

 

「は」

「武家のいうところの『家』とは、究極的には何なのか、と」

 

吉弘弥七郎が、わずかに眉を動かした。

 

「ふむ」

 

信繁は、自分でも少し言葉を探しながら続けた。

 

「今、私のもとにおる美景姫、かの者は朝倉の名将宗滴公の跡を継ぎし九郎左衛門尉殿の娘でござる」

 

戸次伯耆守も吉弘弥七郎も黙って聞いている。

 

「朝倉家におりし頃は、親子で朝倉の生き残りをかけて、姫は私に手紙を送り、あるいは九郎左衛門尉殿は何度も評定や折に触れ、左衛門督殿に越前の理ではなく、家を取り巻く時代の理を説いたそうです」

信繁は、そこで少し目を伏せた。

「それでも決断はなされず、挙句の果てに左衛門督殿は、最期に家中を壟断していた式部大輔に叛かれました」

 

十兵衛が無言のまま、少しだけ視線を落とす。

あの越前の終わり方を思い出しているのだろう。

 

「その式部大輔本人にも聞いてみたのですが」

信繁の声がわずかに苦くなる。

「何故に平家物語や三国志にあるような、まさに自分こそが奸臣となっていることに気づかぬのか。何故に斜陽となった家中の永続を『名家』の看板でもって信じられるのか。そこまで堕ちた『家』とは何か。ついぞ答えが得られぬままでして」

 

戸次伯耆守は、じっと聞いていた。

信繁は続ける。

 

「同時に越前におられた美濃斎藤家の右兵衛大夫殿は、稲葉山城から落ち延びる際に連れ出した我が妻香耶姫と、越前で産まれし長子喜太郎殿を遺し、某の目の前で腹を切りました」

 

吉弘弥七郎の視線がわずかに動く。

 

「結果、斎藤家は命脈を繋ぎ、織田の判断によっては武門として再興の芽もございます」

そこで一度、信繁は言葉を切った。

「名を遺すのが『家』なのか、人を遺すのが『家』なのか。遺すべきは『家』なのか『名』なのか『人』なのか。ついぞわからずにおります」

 

戸次伯耆守は、しばらく答えなかった。

軽々しく返せる問いではない。

 

それが、沈黙だけで伝わる。

やがて、戸次伯耆守が低く口を開いた。

 

「……難しき問いにございますな」

 

「ええ」

吉弘弥七郎が続ける。

「されど、今の治部大輔殿のお話を聞くに、少なくとも“名”だけではございますまい」

 

信繁は黙って聞く。

 

「朝倉が朝倉たりえたのは、左衛門督殿の名のみであったからではなく、朝倉11代、初代孫右衛門尉広景公の代より積み重ねた人と働きがあったからにございましょう」

「はい」

「それが痩せ、判断が鈍り、ついには家中の理より面子を優先した時、名だけでは支えきれなんだ」

 

戸次伯耆守が、そこで静かに言った。

 

「某は、家とは預かり物かと思うております」

「預かり物、ですか」

 

「は」

戸次伯耆守の声は硬い。

「先祖より受け取り、子孫へ渡すまでの間、当主や家臣が預かっておるもの」

 

信繁は、その言葉を噛むように聞く。

 

「ゆえに、名も要る。人も要る。土地も要る。どれか一つだけでは足りませぬ」

 

吉弘弥七郎が続く。

 

「名ばかりあって、人が死ねば空ろです」

「はい」

「人ばかり生き延びても、何の筋も無く散れば、ただの流民にございます」

「……」

「ゆえに、名を遺すか、人を遺すか、と二つに分けてしまうと、答えが逃げるのではありませぬか」

 

信繁は、少しだけ顔を上げた。

戸次伯耆守は続ける。

 

「家とは、名と人をつなぐ器にございます」

一拍。

「器が割れたなら、まず人を救わねばならぬ。だが、人だけ救って終われば、それは家ではなくなる」

 

その言葉は、今のこの場そのものだった。

吉弘弥七郎が、静かに別の角度から言う。

 

「右兵衛大夫殿は、御自身は腹を切り、姫と御子を遺された」

「はい」

 

「それは、斎藤の“名”を捨てて“人”を残したのではございませぬ」

信繁の目が細くなる。

「人を遺し、その人に名を背負わせる芽を遺した、ということでしょう」

 

「……なるほど」

信繁は、少し息を吐いた。

「人を遺して、名の芽を遺す、ですか」

 

「左様にございます」

戸次伯耆守は、そこでさらに言葉を重ねた。

「されど、某らが今、豊後を離れたことを、そう美しくばかりも申せませぬ」

 

「……」

「家を守ると言いながら、主君のもとを去った。そう言われれば、その通りでもある」

「ですが」と吉弘。

「今や残っても、新次郎殿の引き立て役として食い潰されるだけにございます」

「その先に残るのは“大友”の名ではなく、“大友”を食い物にする者どもの席次だけ」

 

信繁は、小さく頷いた。

 

「分かります」

 

戸次伯耆守が、そこで言い切った。

 

「ゆえに、滅びの際には人を先に遺すべきかと」

 

信繁が問う。

 

「なぜ」

 

「死ねば、それで終わるからにございます」

あまりに簡潔で、重い言葉だった。

「名は後で戻せまする。土地も、機を見て取り返せるやもしれぬ」

 

戸次伯耆守の目は揺れない。

 

「されど、人は一度絶えれば終わる。とくに、筋を知る者、家の理を知る者、戦と政の両方を分かる者は、そうそう生えませぬ」

 

信繁は、深く息を吐いた。

 

「……ありがとうございます」

 

それは、問いが解けた礼ではない。

それでも、足場を貰った礼だった。

戸次伯耆守は、そこでわずかに口元を和らげた。

 

「治部大輔殿」

「は」

「若いな」

「よく言われます」

「だが、若いのに、家の残し方を知ろうとしておる」

 

信繁は少し苦く笑った。

 

「全部分かっておるなら、もっと楽なのですが」

 

吉弘弥七郎が、珍しく柔らかく言う。

 

「全部分かる者などおりませぬ」

「……」

「ただ、分からぬからこそ軽々しく切らぬ者はおります」

 

信繁は、その言葉を黙って受けた。

そして思った。

この二人は、ただ強いだけではない。

家が崩れる音を聞いた上で、それでもなお、何を遺せるかを考えている。

だからこそ、ここまで来たのだ。

 

信繁は、改めて深く一礼した。

 

「治部家として、お二方をお預かり致します」

 

戸次伯耆守が頷く。

 

「かたじけない」

 

吉弘弥七郎も頭を下げた。

 

「まずは、生き延びさせて頂きたく」

 

「ええ」

信繁は、ようやく少しだけ表情を緩めた。

「そのうえで、いずれ何を遺すか、考えて参りましょう」

 

その夜、二人が下がったあと、信繁はひとりになってから額を押さえた。

 

「……いや、ほんとに瀬田城にこの二人がおるの、まだ意味が分からんな」

 

だが、分からぬままでも、一つだけははっきりしていた。

大友の柱が二本、ここへ来た。

それは、西国の盤がまた一段、大きく動いたということだった。

 

 

 

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