織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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006馬奉行並の爺

皇甫爺が小田井へ来てから、一年、さらに少しが過ぎた。

 

その間に、馬の飼い葉の試みは、派手ではないが確かに続いていた。

 

肉の煮汁。

煮た牛の乳。

卵。

豆。

麦。

草。

藁。

水。

休ませる時間。

歩かせる時間。

冬場の寝藁。

毛を拭く手間。

 

最初は、どれが効いているのか分からなかった。

 

いや、今でも全部が分かっているわけではない。

肉の煮汁だけで馬が大きくなった、などと言えば嘘になる。

牛の乳だけで丈夫になった、というのも違う。

卵を混ぜれば全部解決、などというほど簡単な話でもない。

 

馬は、そんなに都合よく変わらない。

 

ただ、仔馬の頃から見ていると、差は出た。

 

食いつきがいい。

腹を壊しにくい。

毛艶がいい。

冬に落ちにくい。

息の戻りが早い。

脚の張りが違う。

人の手を嫌がりすぎない。

 

そういう小さな差が、毎月、少しずつ積もった。

 

そして、積もった差は、ある日いきなり人の目にも分かる形になった。

 

「……大きいな」

 

馬場の端で、父上がぽつりと言った。

 

そこにいたのは、三頭の若馬だった。

 

まだ完成した馬ではない。

筋肉も、これから乗り込んで作る段階だ。

だが、明らかに背が高い。

肩までの高さが、周りの馬より頭一つとは言わないまでも、半歩分ほど違う。

 

前世の感覚で言えば、一五〇センチに届くか届かないか。

この時代の馬としては、かなり目立つ。

 

俺は黙って、その三頭を見た。

 

一頭は黒鹿毛で、首が太い。

気性は少し強いが、前へ出る気がある。

一頭は栗毛で、脚の運びが柔らかい。

こちらは人をよく見る。

もう一頭は青みのある鹿毛で、耳の動きが細かい。

臆病ではあるが、走らせた時の戻りがよかった。

 

皇甫爺は、その三頭を少し離れたところから見ていた。

 

嬉しそう、ではない。

誇らしげ、でもない。

 

ただ、目が細い。

 

馬を見る目だ。

 

「皇甫爺」

「何だ」

「どう見ます」

「まだ若い」

 

それはそうだ。

 

「ただ、大きいだけではありません」

皇甫爺は、俺の言葉をそのまま受けず、三頭の脚へ視線を落とした。

「黒いのは、力がある。だが、気が前へ出すぎる。乗る者が下手なら、口を硬くする」

 

「はい」

「栗毛はよい。人を見すぎるが、悪くない。教えれば、乗る者を助ける」

「はい」

「青鹿毛は、怖がる。だが、怖がった後に戻る。そこがよい」

 

俺は、青鹿毛を見た。

 

耳が忙しい。

人の足音にも、鞍を置く音にも反応する。

だが、一度驚いても、皇甫爺が声をかけると戻ってくる。

鼻先を下げ、息を吐く。

 

その戻り方が、俺は好きだった。

 

父上はしばらく黙ってから言った。

 

「黒鹿毛と栗毛は、上へ見せる」

「上、でございますか」

「上総介様と勘十郎様だ」

 

胸が少し跳ねた。

 

献上。

 

言葉にすればそれだけだが、重い。

小田井で育てた馬を、本家の中枢へ見せる。

しかも、ただ珍しい馬としてではない。

飼い葉、世話、乗り慣らしまで含めた試みの成果としてだ。

 

「まだ早くはありませんか」

 

俺が言うと、父上は俺を見た。

 

「今すぐ渡すとは申しておらぬ。見せる。育ちを見てもらう。のちに仕上がれば献上する」

「はい」

「大きいだけでは通らぬ。乗れること、扱えること、戦場で使えることを見せねばならぬ」

「はい」

 

皇甫爺が低く笑った。

 

「若、殿は正しい」

「分かっています」

「顔が不満だ」

「少しだけです」

 

父上がこちらを見た。

 

「又八郎」

「はい」

「不満なのか」

「いえ。黒鹿毛と栗毛なら、上総介様と勘十郎様にも見栄えがすると思います」

「では何だ」

 

俺は青鹿毛を見た。

 

皇甫爺が、そこで小さく鼻を鳴らした。

 

「若は、青いのが欲しい」

 

父上の目が青鹿毛へ動く。

 

「そうなのか」

 

俺は少し迷ってから、正直に言った。

 

「はい」

 

青鹿毛は、こちらを見ていた。

いや、見ているというより、俺の方へ耳だけを向けている。

 

俺が一歩動くと、耳が動く。

皇甫爺が手を上げると、目がそちらへ向く。

厩方が桶を動かすと、鼻を鳴らす。

 

忙しい馬だ。

 

でも、戻る。

 

怖がる。

驚く。

けれど戻る。

 

そこがどうにも気に入っていた。

 

父上はしばらく考えた。

 

「皇甫」

「はい」

「青鹿毛は、又八郎に扱えるか」

 

皇甫爺は、すぐには答えなかった。

 

青鹿毛を見て、俺を見て、もう一度青鹿毛を見る。

 

「今は無理」

 

ひどい。

 

俺が顔をしかめると、皇甫爺は続けた。

 

「だが、若が変な稽古をやめぬなら、いずれ合う」

「変な稽古」

 

父上の声が低くなる。

 

まずい。

 

皇甫爺が、わざとらしく俺を見た。

 

「若、言うか」

「皇甫爺」

「儂が言うか」

「言います」

 

逃げられない。

 

俺は父上へ向き直った。

 

「手綱に頼らず、鞍や鐙に頼りすぎずに乗る稽古をしています」

 

父上は黙った。

 

その沈黙が怖い。

 

「どの程度だ」

「最初は手綱を緩く」

「うむ」

「次に、鐙を外して」

「うむ」

 

「その後、鞍も外して」

父上の眉が動いた。

「さらに」

 

「さらに?」

「腕を縛って」

 

父上は目を閉じた。

 

皇甫爺が、明らかに笑いをこらえている。

 

父上は、しばらくしてから目を開けた。

 

「又八郎」

「はい」

「そなた、時々、賢いのか阿呆なのか分からぬな」

 

前にも聞いた気がする。

 

「今回は、多分理にかなっております」

「その言い方が既に怪しい」

 

父上の声は冷静だった。

冷静すぎて怖い。

 

俺は慌てて続けた。

 

「戦場で、鞍や鐙が壊れることもあります。手綱を持てないこともあります。弓や槍を使う時、片手、あるいは両手が馬から離れることもあります。その時に、道具がなければ落ちる、ではすぐに死にます」

 

父上は黙って聞いている。

皇甫爺も、今は笑っていない。

 

もともと、前に何かで読んだ気がしていたのだ。

 

水滸伝だったか。

林冲だったか、楊令だったか。

いや、そもそも楊令は別の話だった気もする。

その辺りは曖昧だ。

 

ただ一つだけ、妙に残っていた断片がある。

 

騎馬民族ではない、漢の側の人間が、騎馬隊を率いるにあたって、中途半端にならぬよう、自分の身体から作り直す、みたいな話だ。

正確にどうだったかは覚えていない。

覚えていないのだが、理屈だけは妙に腹へ残っていた。

 

半端では駄目だ、という理屈である。

 

馬に乗るだけなら、乗れる。

手綱で曲げて、鞍に助けられ、鐙で踏ん張れば、とりあえず馬上にはいられる。

だが、それでは駄目だと思った。

 

何より、馬上で武器を扱うなら、危機管理が要る。

弓でも槍でも、両手のどちらか、あるいは両方が馬から離れる瞬間が出る。

そのたびに乗り方が崩れるようでは、話にならない。

 

だったら、まず手を使わずに馬へ乗れるようになった方がいい。

 

人馬一体、という言い方はよくある。

だが俺が欲しかったのは、もう少し湿っぽいものだった。

 

人馬同調。

 

馬に命じるというより、馬の揺れと、自分の身体の重心と、意図を、なるべくずらさずに揃える。

そのためには、手より先に腰と腿で馬に乗っていなければならない。

 

だから、手綱を嫌い始めた。

 

いや、手綱は便利だ。

便利だし必要だ。

だが、便利なものほど頼る。

頼ると、そこを失った時に脆い。

 

そう思って、まず手綱を緩くし始めた。

 

膝で挟む。

腿で支える。

腰で揺れを飲む。

身体の向きだけで、馬の首の向きも少しずつ変わるようにする。

止まる時は、手より先に自分の重心を沈める。

 

そして、案の定皇甫爺に見つかったというわけである。

 

「勝つためというより、死なないためです。鞍がずれても、鐙が切れても、手綱を離しても、腰と腿で戻せるようになりたいのです」

 

言い切ってから、俺は息を吐いた。

 

父上は、少しだけ皇甫爺を見た。

 

「皇甫、どう見る」

 

皇甫爺は腕を組んだ。

 

「理はある」

助かった。

「だが、やり方は阿呆だ」

 

助からなかった。

 

皇甫爺は、淡々と続けた。

 

「鞍なし、鐙なし、手綱なし、腕まで縛る。いきなり重ねれば、落ち方が悪くなる。落ち方が悪ければ、首を折る。若の理は、生きるためだ。だが、稽古で死ねば笑い話にもならぬ」

 

父上が頷く。

 

「当然だな」

 

「なので、分ける」

皇甫爺は、馬場の土を杖で示した。

「まず、鞍ありで手綱を緩くする。次に、鐙を軽くする。次に、鞍なしで歩く。次に、鞍なしで少し速く歩く。次に、落ちる稽古をする。落ちた後、転がる稽古もする。腕を縛るのは最後だ」

 

「最後ならよいのか」

 

父上が言うと、皇甫爺はにやりとした。

 

「最後でも、儂は嫌だ」

「おい」

 

思わず口が出た。

 

皇甫爺は俺を見た。

 

「だが、若はやる。止めても隠れてやる。ならば、見てやらせた方がまし」

 

父上が、今度は俺を見る。

 

その目が痛い。

 

「隠れてやるのか」

「……やりかねません」

「正直でよい」

 

良くはない気がする。

 

父上は深く息を吐いた。

 

「皇甫」

「はい」

「そなたが見るなら許す。ただし、又八郎が無茶を重ねれば止めよ」

「耳を引っ張ってでも止める」

「よい」

 

よくない。

 

だが、話は決まってしまった。

 

そこから、俺の黒歴史は、皇甫爺の手によって少しだけまともな稽古に変わった。

 

最初に教えられたのは、乗ることではなく、落ちることだった。

 

「若、落ちる」

「落ちたくありません」

「落ちる。馬に乗る者は落ちる。落ちぬと思う者から死ぬ」

 

正論だった。

 

砂の上に転がる。

肩から逃がす。

首を丸める。

手を突きすぎない。

立ち上がる前に、馬の脚を見る。

 

痛い。

地味に痛い。

何度もやると、身体のあちこちが重くなる。

 

だが、落ち方を知ると、不思議と馬の上で少し楽になった。

 

落ちること自体が怖くなくなるわけではない。

それでも、落ちたら終わり、という感じが薄れる。

 

次に、鞍ありで手綱を緩めた。

 

皇甫爺は、すぐ叱る。

 

「手で行くな」

「はい」

「腰」

「はい」

「腿」

「はい」

「肩が硬い」

「はい」

「目が前すぎる」

「前を見てはいけないのですか」

「前を見る。だが、前だけ見るな。馬の耳を見る。地も見る。風も見る」

 

言っていることは難しい。

だが、何となく分かる。

 

前だけを見ると、身体が前へ突っ込む。

耳を見ると、馬の気持ちが少し分かる。

地を見ると、馬が嫌がりそうなものが見える。

風を見る、というのはまだよく分からない。

 

皇甫爺は、分からなくてよいという顔をした。

 

「そのうち、馬が教える」

 

それで済ませるのはずるい。

 

鞍なしの稽古へ入ると、世界が変わった。

 

鞍は偉大だ。

本当に偉大だ。

 

それを外すと、馬の背は丸い。

滑る。

揺れる。

腹へ来る。

腿が痛い。

腰が逃げる。

 

最初の日、俺は三度落ちた。

 

馬場役が顔をしかめる。

 

「若様、やはり危のうございます」

 

皇甫爺は、俺を立たせながら言った。

 

「危うい。だから小さく落ちる。大きく落ちる前に覚える」

「皇甫爺、それは励ましですか」

「違う。事実」

 

ひどい。

 

だが、事実だった。

 

少しずつ、馬の背の沈む瞬間が分かるようになった。

次に浮く。

そこで自分が遅れると、ずれる。

腰を少し先に置く。

腿で締めすぎると馬が硬くなる。

抜きすぎると自分が落ちる。

 

そこに気づくと、急に面白くなった。

 

馬は、手だけで動いていない。

こちらの身体の力みも、抜きも、重さの置き方も、ちゃんと感じている。

 

青鹿毛は、特にそこへ敏かった。

 

最初は、俺の身体が硬くなるだけで耳を立てた。

腿を締めすぎると、首を上げる。

腰が遅れると、歩みが乱れる。

 

だが、こちらが少しうまく乗れると、すっと戻る。

 

やっぱり、この馬がいい。

 

俺はそう思った。

 

ある日、鞍なしで青鹿毛に乗り、ゆっくり馬場を回っていた時、ふと手を離してみた。

 

手綱は皇甫爺が持っている。

俺の手は何もしていない。

 

腰を沈める。

青鹿毛の歩みが少しゆるむ。

身体をほんの少し右へ向ける。

耳が動き、首がわずかに右を向く。

 

曲がった。

 

ほんの少しだ。

偶然かもしれない。

だが、曲がった。

 

俺は、馬の上で笑ってしまった。

 

「皇甫爺」

「笑うな。落ちる」

「でも、今」

「曲がったな」

 

皇甫爺も見ていた。

 

「はい」

「若、今のは手ではない」

「はい」

「腰と息だ」

 

息。

 

そうか。

俺はその時、止まりたい、曲がりたいと思って、息を少し変えていた。

それも伝わるのか。

 

青鹿毛の首を軽く叩きたいと思ったが、鞍なしで余計なことをすると落ちるので我慢した。

 

皇甫爺が言った。

 

「この馬、若を見る」

「俺を?」

「うむ。若が硬ければ硬くなる。若が慌てれば慌てる。若が戻れば戻る」

「面倒な馬ですね」

「若に似る」

「俺はこんなに臆病ではありません」

 

皇甫爺は笑った。

 

「臆病だ。だから死なぬ技を欲しがる」

 

言い返せなかった。

 

その日の夕方、父上が馬場へ来た。

 

俺は鞍なしで青鹿毛に乗っていた。

手綱は緩い。

皇甫爺が横についている。

馬場役もいる。

 

父上はしばらく黙って見ていた。

 

俺は青鹿毛をゆっくり歩かせた。

腰で止める。

腿を緩める。

耳を見る。

右へ少し向ける。

戻す。

 

派手なことは何もない。

 

だが、父上は分かったらしい。

 

「……なるほどな」

「はい」

「手で引いておらぬ」

「少しは使っています。でも、前よりずっと少ないです」

「馬が嫌がっておらぬ」

「皇甫爺のおかげです」

 

皇甫爺は横で鼻を鳴らした。

 

「若が落ちたおかげでもある」

「そこは言わなくてよいです」

 

父上は、青鹿毛を見た。

 

「この馬がよいのか」

 

俺は即答しかけて、少しだけ止めた。

 

馬は物ではない。

欲しい、だけではいけない。

 

「この馬と、うまくなりたいです」

 

父上の顔が、ほんの少し変わった。

 

たぶん、その言い方なら通ると思ったのだろう。

 

皇甫爺も、少しだけ目を細めている。

 

父上は静かに頷いた。

 

「ならば、この青鹿毛はそなたの馬とする」

 

胸の奥が、一気に熱くなった。

 

俺の馬。

 

いや、正確には藤左衛門家の馬だ。

父上の許しがあって、俺が乗る馬だ。

それは分かっている。

 

それでも、俺にとっては初めての愛馬だった。

 

「名は」

 

父上が訊く。

 

俺は青鹿毛の耳を見た。

忙しい耳。

でも戻る耳。

怖がるが、逃げっぱなしにはならない馬。

そして、青みを帯びた黒い毛並み。

 

「墨磨」

 

言った瞬間、皇甫爺が片眉を上げた。

 

「若」

「何です」

「磨墨か」

「源平時代、宇治川の名馬そのままではありません。墨を磨る方です」

 

父上が、青鹿毛を見た。

 

「墨を磨る、か」

「はい。黒いだけではなく、磨けば光る馬になってほしいので」

 

皇甫爺は、しばらく馬を見てから、にやりと笑った。

 

「悪くない。名に負けぬよう磨かねばならんな」

「俺もですか」

「若もだ」

 

父上は、少しだけ口元を動かした。

 

「悪くない」

 

皇甫爺はまだ納得していない顔だった。

 

「もっと強そうな名は」

「いずれ強くなれば、名前も強く聞こえます」

「若は時々、変なところで頑固だ」

「よく言われます」

 

こうして、青鹿毛は墨磨になった。

 

黒鹿毛と栗毛は、上総介様と勘十郎様へいずれ見せる馬として、さらに仕上げることになった。

黒鹿毛は力を活かす。

栗毛は乗り手を助ける柔らかさを磨く。

墨磨は、俺と一緒に、落ちて、戻って、また乗る馬になる。

 

それからの稽古は、さらにおかしなことになった。

 

鞍なし。

鐙なし。

手綱は緩く。

腕は、最初から縛らない。

皇甫爺が許した時だけ、すぐ解ける布で軽く制限する。

 

「縛るのではない。手に頼らぬために、手を休ませる」

 

皇甫爺はそう言った。

 

言い方がうまい。

同じことをしているようで、危なさが少し違う。

 

俺は、墨磨の背で何度も揺れた。

落ちた。

転がった。

また乗った。

 

そのうち、鞍を戻した時に、笑うほど楽になった。

 

鐙がある。

鞍がある。

手綱がある。

 

それらは、頼りきるものではなく、助けてくれるものだった。

 

騎射へ入ると、もっと分かった。

 

馬の揺れが怖くない。

下半身が馬へ残っているので、上半身を弓へ回せる。

狙いはまだ未熟だ。

だが、揺れの中で自分がどこへ戻ればよいかは、前よりずっと分かる。

 

槍も同じだった。

 

墨磨の背で、俺はわざと少し重心を崩してみる。

墨磨が耳を動かす。

俺が腰で戻す。

馬も戻る。

そこから槍を突き出す。

 

馬場役が、嫌そうな顔で言った。

 

「若様、顔が悪うございます」

「嬉しいのだから仕方ない」

「それが困ります」

 

皇甫爺は横で笑っていた。

 

父上は、しばらく見てから言った。

 

「他の者なら続かぬな」

「……そうですね」

 

それは分かっていた。

 

腿は痛い。

腰も痛い。

落ちる。

砂を噛む。

家中からは、神童が馬で妙なことを始めた、と言われる。

誰でも続くわけがない。

 

少し残念だった。

 

この稽古を皆ができれば、騎馬の質は変わるかもしれない。

そう思っていたからだ。

 

父上は、俺の顔を見て言った。

 

「拗ねるな」

「拗ねてはおりません」

「顔に出ておる」

「少しだけです」

「万人に広げるものではあるまい。だが、そなたの型にはなる」

 

俺は墨磨の首を見た。

 

汗で毛が少し濡れている。

息は荒いが、乱れてはいない。

耳はこちらを向き、すぐ前へ戻る。

 

俺だけの型。

 

それでいいのかもしれない。

 

全軍を一度に変える必要はない。

全部の馬を一気に変える必要もない。

まず、小田井で数頭。

墨磨で一つ。

黒鹿毛と栗毛で二つ。

上総介様と勘十郎様に見せる馬で、さらに二つ。

 

そうやって、見える形にしていけばいい。

 

皇甫爺が墨磨の脚を見ながら言った。

 

「若」

「はい」

「この馬は、まだ強くなる」

「はい」

「だが、若が焦れば、壊れる」

「分かっています」

「本当にか」

「たぶん」

「そこは、はいと言え」

「嘘になります」

 

皇甫爺は、呆れたように息を吐いた。

 

「神童は面倒だ」

「皇甫爺まで言いますか」

 

「今は言う」

皇甫爺は墨磨の首を軽く叩いた。

「これを作ったのは、飼い葉だけではない。見た者、止めた者、待った者、落ちた者、戻った馬。全部だ」

 

俺は黙った。

 

その言い方は、妙に腹へ落ちた。

 

墨磨は、俺一人の思いつきで生まれた馬ではない。

父上が止めた。

皇甫爺が見た。

厩方が世話をした。

馬場役が嫌な顔をしながら付き合った。

そして墨磨自身が、驚いても戻ってきた。

 

だから、初めての愛馬なのだと思った。

 

俺が作った馬ではない。

俺と一緒に作ってもらった馬だ。

 

その夜、厩を出る前に、俺は墨磨の前に立った。

 

勝手に触るな、とはもう言われない。

ただし、耳と目を見る。

嫌がればやめる。

皇甫爺の教え通りだ。

 

墨磨は俺の手の匂いを嗅ぎ、鼻先を少し寄せた。

 

俺はそっと首に触れた。

 

「よろしくな、墨磨」

 

墨磨は答えない。

 

ただ、耳をこちらへ向けて、すぐに前へ戻した。

 

その仕草だけで十分だった。

 

小田井の神童。

馬で妙なことを始めた変人。

そのどちらでもいい。

 

この馬と一緒に、生きて戻るための馬術を作る。

 

そう決めた時、初めて、神童と変人の真ん中にいる自分を、少しだけ許せる気がした。

 

 

墨磨の背は、まだ完全に俺のものではなかった。

 

いや、言い方が悪い。

馬は物ではない。

俺のもの、などと考えれば皇甫爺に耳を引っ張られる。

 

だが、乗り手としての俺の身体が、墨磨の背へまだ馴染みきっていない、という意味なら間違っていない。

 

鞍なし。

鐙なし。

手綱はあるが、握り込まない。

皇甫爺が横で見ている。

馬場役もいる。

それでも、少し油断すると腰が遅れる。

 

墨磨の背が沈む。

次に浮く。

そこで俺の腰が半拍遅れると、腿が余計に締まる。

墨磨の耳がぴくりと動く。

 

「若、硬い」

 

皇甫爺の声が飛ぶ。

 

「分かってます」

「分かって硬いなら、もっと悪い」

 

ひどい。

 

俺は息を吐いた。

肩を落とす。

腹の奥を緩める。

腿で挟むのではなく、馬の動きに脚を沿わせる。

 

墨磨の耳が少し戻った。

 

「そうだ。手で乗るな」

「手は使っていません」

「使わぬ手を意識しておる。邪魔だ」

 

分かるような、分からないようなことを言う。

 

だが、何となく分かる。

手を使わないように、と思った時点で、意識が手に行っている。

そうではなく、最初から腰と腿と息で乗らなければいけない。

 

難しい。

 

面白い。

 

そして、かなり痛い。

 

「墨磨、行くぞ」

 

小さく声をかける。

墨磨の耳がこちらへ向き、すぐ前へ戻る。

 

俺は腰を少しだけ前へ送った。

墨磨が歩き出す。

馬場を半周。

少し速める。

身体の重さを落とす。

墨磨の歩みが緩む。

 

いい。

 

今日は悪くない。

そう思った瞬間だった。

 

馬場の外が、妙に静かになった。

 

厩方の声が止まる。

馬場役の背筋が固くなる。

皇甫爺が、ほんのわずかに横を見た。

 

俺は気づくのが遅れた。

 

墨磨の耳が、馬場の外へ向く。

俺の意識もそちらへ引かれる。

その瞬間、腰が遅れた。

 

「あ」

 

身体が左へずれる。

 

鞍がない。

鐙もない。

頼るものがない。

 

だが、落ちる稽古は散々やった。

 

腿を締めすぎない。

腰を戻す。

肩で釣り合いを取らない。

墨磨の背の動きへ先に戻る。

 

ずるりと半分落ちかけた身体を、俺はどうにか戻した。

 

墨磨が二歩、乱れる。

すぐに止まる。

俺は墨磨の首にしがみつきたい気持ちをこらえ、息を吐いた。

 

「……危なかった」

「危なかった、ではない。若、外を見るな」

 

皇甫爺の声は低かった。

 

「はい」

 

そこで、馬場の外から笑い声が爆発した。

 

「ははははははははは! 何をしておる、又八郎!」

 

俺は固まった。

この声は、聞き間違えようがない。

上総介様だ。

 

恐る恐る馬場の外を見ると、そこには上総介様、勘十郎様、お市殿、お犬殿がいた。

 

父上もいる。

なぜ先に声をかけてくれなかったのか、と言いたいが、たぶん俺が集中して気づかなかっただけだ。

 

上総介様は、本当に腹を抱えて笑っていた。

 

「鞍も鐙もなしで、落ちかけて戻りおった! 何だそれは! 馬鹿か、いや、馬鹿ではないな。だが馬鹿のように見えるぞ!」

 

ひどい。

 

勘十郎様は口元を押さえていた。

興味深そうに見ているのに、笑いが隠しきれていない。

 

「兄上、笑いすぎです。いや、しかし、これは……たしかに妙ですな」

 

お市殿とお犬殿は、完全に唖然としていた。

 

お市殿は俺と墨磨を見比べている。

お犬殿は、鞍のない馬の背と、俺の脚を見て、何をどう理解すればいいのか分からない顔をしている。

 

「又八郎」

父上の声が飛んだ。

「はい」

 

「降りよ」

「はい」

 

俺は墨磨の首を軽く叩き、皇甫爺に目で確認してから、ゆっくり降りた。

 

鞍なしで降りるのも、案外難しい。

変に飛び降りると馬が嫌がる。

墨磨の耳を見て、足元を見て、静かに地面へ降りる。

 

上総介様がまた笑った。

 

「降りるのだけは妙に慎重だな」

「落ちると痛いので」

「そこは利口だ」

 

褒められた気がしない。

 

俺は頭を下げた。

 

「上総介様、勘十郎様、お市殿、お犬殿。お見苦しいところを」

「いや、面白いものを見た」

 

上総介様はまだ笑っている。

 

勘十郎様は、笑いを抑えながら墨磨を見た。

 

「又八郎、今のは何だ。鞍も鐙も使わず、手綱もほとんど引いておらぬように見えたが」

「道具が壊れた時に落ちないための稽古です」

「道具が壊れた時」

「はい。戦場では、鞍がずれることも、鐙が切れることも、手綱を持てないこともあると思います。その時に、道具がなければ落ちる、では死にますので」

 

勘十郎様の笑いが少しだけ引いた。

 

興味の方が前に出た顔になる。

 

「勝つためではなく、死なんためか」

「はい」

 

上総介様が、笑いながらも目だけは鋭くした。

 

「左衛門佐」

「は」

 

父上が前へ出る。

 

「止めなんだのか」

「止めました」

「止まらなんだか」

「隠れてやりかねませぬゆえ、皇甫に見させております」

 

皇甫爺が頭を下げた。

 

上総介様は皇甫爺を見た。

 

「そなたが、津島で拾われた馬を見る爺か」

「拾われたかは知りませぬが、馬は見まする」

 

上総介様はにやりとした。

 

「口も悪いな」

「馬ほどではございませぬ」

 

勘十郎様が、とうとう声を漏らして笑った。

お市殿とお犬殿は、まだついていけていない。

 

お市殿が、ようやく口を開いた。

 

「又八郎殿、それは危のうないのですか」

「危ないです」

「危ないのですか」

「はい。だから小さく落ちる稽古から始めています」

 

お市殿は完全に言葉を失った。

お犬殿が、小さく言う。

 

「落ちる稽古……」

 

それはそういう反応になる。

 

皇甫爺が、少しだけ助け舟を出した。

 

「若の思いつきは危うい。されど、戦場で馬具が壊れれば、落ちる者は死ぬ。ならば、落ち方、戻り方、手に頼らぬ乗り方を少しずつ覚えるのは無駄ではございませぬ。ただし、若のやり方をそのまま他の者にさせれば、怪我人が増えまする」

「そこは言わなくても」

「言う」

 

皇甫爺は容赦がない。

 

上総介様は満足そうに笑った。

 

「面白い。神童が変人になったと聞いておったが、変人にも理はあるか」

「変人は余計にございます」

「だが事実だろう」

 

否定できない。

 

父上が咳払いをした。

 

「上総介様、勘十郎様。本日お見せしたきものは、又八郎の奇行だけではございませぬ」

「奇行とはっきり言いましたね、父上」

「事実だ」

 

親子揃ってひどい。

 

父上は厩方へ合図をした。

 

馬房の奥から、二頭の若馬が引き出される。

 

黒鹿毛と栗毛。

 

黒鹿毛は、首が太く、肩が強い。

まだ若いが、前へ出る気がある。

栗毛は、黒鹿毛ほど押しは強くないが、背の線が柔らかく、人の手をよく見る。

 

二頭とも、この時代の馬としては明らかに大きい。

 

上総介様の笑いが止まった。

 

勘十郎様も、すぐに顔つきが変わる。

 

二人とも背が高い。

五尺六寸ほど、前世の感覚で言えば一七〇センチほどはある。

この時代ではかなりの長身だ。

 

だからこそ、普通の馬では、どうしても釣り合いが悪く見えることがある。

小さい馬が悪いわけではない。

山道や悪路では、小回りの利く馬の価値もある。

 

だが、長身の武将が鎧を着て乗るなら、馬体に余裕がある方がいい。

 

上総介様は黒鹿毛の前に立った。

 

「……これは大きいな」

 

勘十郎様は栗毛の背と脚を見ていた。

 

「兄上、こちらも悪くありませぬ。大きいが、重すぎぬように見えます」

「うむ」

 

お市殿とお犬殿も、今度は先ほどとは違う意味で目を丸くしていた。

お犬殿が小さく言う。

 

「馬も、育て方で変わるものなのですか」

 

父上はすぐには答えず、皇甫爺を見た。

 

皇甫爺が一歩出る。

 

「血もありましょう。親の形もありましょう。されど、仔の頃から食わせ方、休ませ方、動かし方、人の手への慣らし方で、変わるものはございます」

 

上総介様が俺を見る。

 

「又八郎、肉か」

 

またそれか。

 

「肉だけではございません。肉の煮汁、煮た牛の乳、卵、豆、麦、草、水、寝藁、冬場の落ち方、歩かせ方、全部です。何がどこまで効いたかは、まだ分かりませぬ」

「分からぬと言うか」

「はい。肉だけで大きくなったと言うのは、危ういと思います」

 

勘十郎様が頷いた。

 

「一部ずつ試して、比べておるのか」

「はい。腹を壊せば止めます。嫌がれば薄めます。食った後の糞も見ます。毛艶と息の戻りも見ます」

「糞まで見るのか」

 

上総介様がまた笑いそうになった。

 

皇甫爺が平然と言う。

 

「腹を見ずに馬は分かりませぬ」

 

上総介様は今度こそ笑った。

 

「よい。そなた、面白いな」

「馬の方が面白うございます」

「ますますよい」

 

父上が黒鹿毛と栗毛の横に立った。

 

「この二頭は、さらに仕上げたうえで、いずれ上総介様と勘十郎様へ献上いたしたく存じます」

 

空気が少し締まった。

 

献上、という言葉は軽くない。

 

上総介様は黒鹿毛から目を離さなかった。

 

「今すぐではないのだな」

「はい。まだ若く、乗り込みも足りませぬ。大きいだけではお渡しできませぬ」

「当然だ」

 

勘十郎様は栗毛へ手を伸ばしかけ、皇甫爺を見た。

 

皇甫爺が小さく頷く。

勘十郎様は、馬の鼻先へいきなり触らず、手の甲を見せた。

 

栗毛が匂いを嗅ぐ。

 

勘十郎様の目が細くなる。

 

「人を見るな」

「はい。その馬は、乗り手をよく見ます」

 

俺が答えると、勘十郎様は少し笑った。

 

「俺向きか」

 

上総介様が横から言う。

 

「お前は見られるくらいでちょうどよい」

「兄上」

 

二人のやり取りに、お市殿が少しだけ表情を緩めた。

お犬殿も、ようやく息を吐いたようだった。

 

上総介様は黒鹿毛の首を眺めながら言った。

 

「この育て方、本家でも一部取り入れる価値がある」

 

父上が頭を下げる。

 

「ただ、急ぎ広げますと事故が出ます」

「分かっておる。腹を壊す馬も出よう。食わせ方を間違えれば、良いものも毒になる」

 

皇甫爺が、そこで初めて少し感心したように上総介様を見た。

 

上総介様は気づいたのか、にやりとする。

 

「何だ、爺。俺が何も分からぬと思うたか」

「大きな人は、時に大きく間違えまする」

「ははは! 言うな!」

 

勘十郎様が笑いをこらえながら皇甫爺を見た。

 

「だが、兄上の申される通りだ。小さく試し、腹と脚と気性を見る。それなら本家でもできる」

 

父上が頷く。

 

「津島の伝手は使えましょう。加えて、堺、博多の商人にも声をかければ、大陸の馬に通じた者、あるいは馬体の大きい馬の話が拾えるやもしれませぬ」

 

上総介様の目が光った。

 

「汗血馬か」

 

俺は一瞬、息を止めた。

 

その名前は、この時代でも伝説として通る。

西域の名馬。

血の汗を流すと言われる馬。

 

本当に手に入るかは別だ。

たぶん、とんでもなく難しい。

話だけで終わる可能性も高い。

 

だが、上総介様はもう、その方向を見ている。

 

勘十郎様が現実へ戻す。

 

「兄上、いきなり汗血馬そのものを求めても、まず掴まされましょう」

「分かっておる。だが、話を集める価値はある」

「はい。大陸の馬そのものより、馬を見る者、育てる者、扱う者を探す方が先かと」

 

皇甫爺が頷いた。

 

「馬だけ買うても、育てる者が悪ければ痩せまする。見る者、食わせる者、休ませる者が要りまする」

 

上総介様は、そこで父上を見た。

 

「左衛門佐」

「は」

「津島へ声をかけよ。堺にも伝手を伸ばす。博多へも、商いの筋で探らせる。馬そのもの、人、飼い方、何でもよい。大陸の馬に関わる話を拾え」

「承知仕りました」

 

勘十郎様も続けた。

 

「ただし、すぐ買うのではなく、まず見分ける者を得ることが肝要です。皇甫のような者がもう一人二人いれば、本家で試す時にも事故が減りましょう」

 

皇甫爺が眉を上げる。

 

「儂のような者は、そう多くございませぬ」

 

「だろうな」

勘十郎様は笑った。

「だから探す価値がある」

 

お市殿が、静かに黒鹿毛を見ていた。

 

「兄上方が乗られるなら、たしかにこのような馬の方が見栄えもいたしますね」

 

お犬殿も頷く。

 

「普通の馬より、ずっと大きく見えます」

 

上総介様は黒鹿毛の背を見ながら言った。

 

「見栄えだけではない。鎧を着て、長く動き、戦場で戻るなら、馬体に余裕がある方がよい。もっとも、大きければよいという話でもあるまいが」

「はい」

 

俺は頷いた。

 

「山道や泥道では、小さい馬の方がよいこともあると思います。大きい馬は、食う量も増えます。脚を痛めれば損も大きいです」

 

「分かっておる」

上総介様は俺を見る。

「だが、選べるなら強い。小さい馬しかおらぬのと、大きい馬も使えるのとでは違う」

 

それはその通りだった。

 

勘十郎様が栗毛を見ながら言う。

 

「本家で一部試す。全部ではない。まずは仔馬を選び、飼い葉を変え、腹と脚を見る。よいな、又八郎」

「はい」

「その折は、そなたにも聞く」

「俺に、ですか」

 

「言い出したのはそなたであろう」

上総介様が笑う。

「神童の責任だな」

 

また来た。

 

「その呼び名は、あまり」

「嫌か」

「はい」

「なら、余計に使いたくなる」

 

皇甫爺と同じことを言う。

この人たちは、なぜ嫌だと言うと使いたがるのか。

 

お市殿が少し笑った。

お犬殿も、ようやく唖然から戻って、小さく口元を押さえている。

 

父上だけが、いつもの顔で言った。

 

「上総介様、あまり調子に乗らせますと、次は何を始めるか分かりませぬ」

「左衛門佐、そなたの子だろう」

「だから困っております」

 

ひどい。

 

勘十郎様が笑いをこらえきれず、肩を揺らした。

 

「又八郎」

「はい」

「今日見たものは、たしかに妙だった」

「はい」

「だが、妙なだけではない。死なぬために鞍と鐙を疑い、馬の腹を見るために飼い葉を疑い、馬の目に入るものまで疑う。そこまで行けば、ただの悪戯ではない」

 

俺は黙った。

 

褒められているのだろう。

たぶん。

 

勘十郎様は続けた。

 

「ただし、皇甫の申す通り、やり方を間違えれば馬も人も壊す。そこは忘れるな」

「はい」

 

上総介様が黒鹿毛の首を軽く叩いた。

 

「仕上げよ。俺はこの黒いのを楽しみにしておく」

 

勘十郎様は栗毛を見た。

 

「では、私はこちらを」

 

お市殿が驚いた顔をする。

 

「もうお決めになるのですか」

 

勘十郎様は笑った。

 

「今すぐ貰うわけではない。だが、楽しみにするくらいはよかろう」

 

お犬殿が栗毛を見て、小さく言った。

 

「この子、勘十郎兄上を見ています」

「そうだな」

 

勘十郎様は少し嬉しそうだった。

 

黒鹿毛は上総介様を見ているというより、前へ出たがっている。

栗毛は勘十郎様をよく見ている。

そして墨磨は、俺の後ろで耳を忙しく動かしている。

 

三頭とも違う。

 

そこがいい。

 

上総介様たちが厩から離れた後、俺は墨磨の前に戻った。

 

「墨磨」

耳がこちらへ向く。

「見られたな」

 

墨磨は当然、答えない。

 

ただ、鼻を鳴らした。

 

皇甫爺が横に来る。

 

「若」

「はい」

「今日で、馬の話は小田井だけでは済まぬ」

「そうですね」

「本家が動けば、人も銭も入る。だが、急ぐ者も出る」

「はい」

「大きい馬を欲しがる。珍しい馬を欲しがる。名馬の名だけを欲しがる。そこで失敗する者も出る」

「……はい」

 

皇甫爺は墨磨の耳を見た。

 

「だから、若はよく見よ。馬を見る。人も見る」

「はい」

「神童なら、なおさらだ」

「皇甫爺まで」

「儂は認め始めたのでな」

 

その言い方は、少しずるい。

 

俺は墨磨の首にそっと触れた。

 

黒鹿毛は上総介様へ。

栗毛は勘十郎様へ。

墨磨は俺の初めての愛馬として。

 

そして、その先に、津島、堺、博多、大陸の馬と人。

 

話が急に広がった気がした。

 

だが、やることは同じだ。

 

小さく試す。

腹を見る。

脚を見る。

耳を見る。

目を見る。

駄目なら戻す。

 

俺は墨磨の耳を見た。

 

墨磨は、少しだけこちらへ耳を向けて、すぐ前へ戻した。

 

その仕草を見て、俺は息を吐いた。

 

まずは、この馬を壊さないこと。

 

大きな話は、その次でいい。

 

 

黒鹿毛と栗毛が上総介様と勘十郎殿のもとへ渡ってから、半年ほどが過ぎた。

 

正確に言えば、渡ったのは馬だけではない。

 

小田井の噂も、一緒に渡った。

 

小田井では馬まで妙に育つ。

藤左衛門家の若は、田だけでなく馬にも変なことをする。

肉の煮汁だ、煮た牛の乳だ、卵だ、豆だと、馬にまで食わせている。

津島から拾った唐爺が馬を見ている。

しかも、その馬を上総介様と勘十郎殿が実際に召された。

 

噂というものは、尾ひれが付く。

 

小田井では馬が人の言葉を解すらしい。

又八郎様が耳元で囁くと、馬が膝を折るらしい。

唐爺は唐土の仙人で、馬の前世まで見えるらしい。

 

そこまで行くと、さすがに嘘である。

 

だが、全部を否定するのも難しい。

 

黒鹿毛は、上総介様を乗せても馬体が負けなかった。

栗毛は、勘十郎殿の手をよく見て、すぐに口を硬くしなかった。

二人ともこの時代ではかなり背が高い。

五尺六寸どころではなく、上背も肩幅もある。

 

その二人が乗って、馬が小さく見えなかった。

 

それだけで、噂は十分に強くなった。

 

「若」

 

皇甫爺が、馬房の前で俺を呼んだ。

 

「何です」

「また見物が来る」

「見物ですか」

「馬を見に来る者は、たいてい馬だけを見に来ぬ」

「人も見る?」

「自分の欲も見せる」

 

相変わらず、嫌な言い方をする。

 

皇甫爺は、今では単なる馬係ではなくなっていた。

 

もちろん、正式に奉行などという役が与えられたわけではない。

だが、実態としては馬育成奉行並だ。

 

飼い葉の配合を見る。

仔馬の腹を見る。

冬に痩せる馬を分ける。

坂道を歩かせる時期を決める。

鼻上の布、横を遮る革、額の覆い、耳袋付きの覆面を、どの馬に使うか見る。

使わない方がいい馬には、絶対に使わせない。

馬場役が手綱を引きすぎれば叱る。

厩方が糞を見落とせば、黙って桶の横へ置く。

 

黙って置かれる方が、怒鳴られるより怖いらしい。

 

厩方たちは、最初こそ異国の爺に仕事を見られるのを嫌がっていたが、今ではだいぶ変わった。

 

皇甫爺が「右後ろ」と言えば、本当に右後ろの蹄に熱がある。

「今日は食わせるな」と言えば、その馬は翌日に腹を崩しかける。

「この仔は人を見すぎる」と言えば、乗り手が変わるたびに癖が出る。

 

当たる。

だから、聞く。

 

結局、家中の空気を変えるのは、理屈より結果だった。

 

それは田でも、馬でも同じらしい。

 

「誰が来るんです」

「大きいのが二人」

「大きい?」

「一人は派手。もう一人は静か」

 

それだけでは分からない。

 

だが、皇甫爺が「大きい」と言うなら、相当に大きいのだろう。

皇甫爺は馬を見る。

人も、身体の釣り合いくらいはかなり見る。

 

その日の昼過ぎ、二人は本当に来た。

 

最初に目に入ったのは、背の高さだった。

 

一人は、明るい。

立っているだけで、場の空気を少し乱す。

悪い意味ではない。

風が入る、という方が近い。

肩幅があり、腕が長く、腰が高い。

前世の感覚で言えば、一八〇センチを越えている。

この時代なら、ほとんど大男だ。

 

前田慶次郎。

 

もう一人は、もっと静かだった。

同じくらい大きい。

だが、派手さがない。

立っているだけなら、むしろ目立とうとしない。

ただ、身体の芯が太い。

足の置き方が変に浮かない。

馬場の土を見て、馬房の入口を見て、それからこちらを見る。

 

奥村助右衛門。

 

この二人が並ぶと、普通の馬房の前が狭く見えた。

 

父上が迎え、二人が礼をする。

 

慶次郎殿は、礼の形こそ崩さないが、目がもう馬房の奥へ行っている。

 

「左衛門佐殿、噂の馬を見せていただけると聞き、我慢できず参りました」

 

声も大きい。

だが、ただ騒がしいだけではない。

よく通る声だ。

 

助右衛門殿は一歩引いて、短く言った。

 

「某も、同じく」

 

こちらは言葉が少ない。

 

父上は二人を見て、すぐに理由を察したらしい。

 

「そなたらほどの体なら、馬が難しかろう」

 

慶次郎殿が、ぱっと笑った。

 

「まさにそれにございます。小さな馬では、すぐ潰してしまう。いや、馬が悪いわけではござらん。こちらが重い。鎧を着ればなおさらです」

 

助右衛門殿が続ける。

 

「足も、地に近うございます」

 

それは少し笑いそうになった。

 

だが、本人たちにとってはかなり切実なのだろう。

 

馬上で足が下へ余りすぎる。

馬体が小さければ、重心も上がりにくい。

鎧を着て長物を持てば、馬の負担も増える。

見栄えだけではない。

戦場で本当に困る。

 

慶次郎殿は馬房の方を見た。

 

「上総介様の黒鹿毛、勘十郎殿の栗毛を見ました。あれはよい。大きいだけではなく、馬が潰れて見えぬ。あれなら、我らでも馬に申し訳なくない」

 

馬に申し訳なくない。

 

その言い方に、少し好感を持った。

 

ただ大きい馬が欲しい、ではない。

自分の身体で小さな馬へ負担をかけることを、ちゃんと気にしている。

 

皇甫爺も同じところを見たのか、二人への目が少し変わった。

 

「若」

 

皇甫爺が俺を呼ぶ。

 

「はい」

「墨磨を出せ」

「墨磨を?」

「大きい二人には、若の奇行から見せる方が早い」

「奇行と言わないでください」

「では黒歴史」

「もっと悪い」

 

慶次郎殿が、もう笑っている。

 

「奇行ですと?」

 

父上がため息をついた。

 

「又八郎が、死なぬための馬術と称して、妙な稽古をしておる」

「それはぜひ見たい」

「見世物ではございませぬ」

 

俺が言うと、慶次郎殿はますます笑った。

 

「そう言われると、なお見たくなりますな」

 

この人、上総介様と同じ種類かもしれない。

 

墨磨が馬場へ出された。

 

青みを帯びた黒い毛並み。

まだ若いが、背も伸び、胸も少しずつ深くなってきた。

黒鹿毛や栗毛ほど押し出しは強くないが、戻る力がある。

怖がる。

でも戻る。

 

俺は墨磨の耳を見た。

 

こちらへ向き、すぐ前へ戻る。

 

「行けるか」

 

墨磨は答えない。

だが、鼻を鳴らした。

 

今日は鞍なし。

鐙なし。

手綱はあるが、握り込まない。

直線だけなら、かなり速い駆けにも耐えられるようになっていた。

全力の長い駆けではない。

だが、前世の感覚で言うギャロップに近い速さでも、短い直線なら落ちずに戻せる。

 

皇甫爺が横で言う。

 

「若、見せようとするな」

「分かっています」

「分かっておる顔ではない」

「少しだけです」

「少しが一番危ない」

 

その通りだ。

 

俺は息を吐き、墨磨の背へ乗った。

 

鞍がないと、馬の背の熱が直接来る。

動きもそのまま来る。

墨磨が一歩動くたびに、こちらの腰へ波が来る。

 

馬場の端へ向かう。

直線を取る。

まず歩く。

次に速歩。

墨磨の耳を見る。

肩の力を抜く。

腿で締めすぎない。

 

「行く」

 

声をかけ、腰を前へ送った。

 

墨磨が駆け出す。

 

風が顔へ来る。

背が沈む。

浮く。

沈む。

浮く。

 

手は添えるだけだ。

握ると、墨磨の口が硬くなる。

腰を遅らせない。

腹を固めすぎない。

腿で追わない。

墨磨の背の上に、自分の芯を置く。

 

直線の半ばで、少しだけ速度が上がる。

 

馬場役が息を飲むのが分かった。

 

だが、今日は崩れない。

 

最後で腰を沈める。

息を吐く。

墨磨が少しずつ緩む。

速歩へ戻し、歩く。

 

止まった。

 

俺は墨磨の首を軽く叩いた。

 

馬場の外から、慶次郎殿の声が飛んだ。

 

「ははっ、何だそれは! 鞍なしであの速さに耐えるか!」

 

助右衛門殿は笑わなかった。

だが、目がかなり鋭くなっている。

 

「手綱を引いておらぬ」

 

短い一言だった。

 

見ているところが違う。

 

慶次郎殿は面白がっている。

助右衛門殿は、使えるかどうかを見ている。

 

皇甫爺が小さく頷いた。

 

「もう一つ、弓」

「今日はやるんですか」

「緩くならよい」

 

俺は短弓を受け取った。

 

馬上で長弓は扱いにくい。

今使っているのは短い弓だ。

威力は限られる。

だが、馬上で身体を崩さずに射る稽古にはなる。

 

墨磨をゆっくり歩かせる。

速歩にはしない。

まずは緩く。

馬場の端に置いた藁束を前に見て、一度通り過ぎる。

 

そこから身体をひねる。

 

後ろへ射返す。

 

パルティアンショット、という言葉が頭の中にはある。

だが、ここでは言わない。

言っても意味がないし、出どころを聞かれると困る。

 

大事なのは、後ろへ射ることではない。

馬の上で身体をひねっても、下半身が残ることだ。

 

一射。

 

矢は藁束の端に刺さった。

 

真ん中ではない。

だが、外してはいない。

 

墨磨は少し耳を動かしたが、乱れなかった。

 

俺は息を吐いた。

 

「まだ遅いです」

 

皇甫爺が言う。

 

「速くすれば、若が落ちる」

「分かっています」

「分かっているならよい」

 

馬場の外では、慶次郎殿が完全に目を輝かせていた。

 

「後ろへ射るか。しかも鞍なしの稽古からそこへつなぐ。面白い。これは面白いぞ」

 

助右衛門殿は、静かに言った。

 

「馬が乱れておらぬ」

 

そこだ。

 

助右衛門殿は、やはりそこを見る。

 

俺は墨磨から降りた。

 

慶次郎殿が近づいてくる。

大きい。

近くで見ると、本当に大きい。

腕も長いし、足も長い。

これで普通の小さな馬に乗れば、たしかに馬がかわいそうだ。

 

「又八郎殿」

「はい」

「今のは、誰に教わった」

「半分は皇甫爺に。半分は、自分で落ちながらです」

 

慶次郎殿は笑った。

 

「落ちながら覚えるか」

 

皇甫爺がすかさず言う。

 

「真似すると怪我をしまする」

 

「だろうな」

慶次郎殿は、あっさり頷いた。

「だが、理は分かる。鞍や鐙に頼りきれば、それを失った時に死ぬ。馬上で槍を振るなら、手綱を握りしめている暇もない」

 

助右衛門殿も、静かに頷いた。

 

「某も、そう思う」

 

その言い方は短い。

だが、重かった。

 

慶次郎殿が馬房の方を見た。

 

「それで、大きい馬はまだいるのですか」

 

父上が答える。

 

「上総介様と勘十郎殿へ献上した二頭ほど仕上がったものは、今は少ない」

「やはり、そう簡単には増えませぬか」

 

「増えぬ。仔馬の頃から見て、食わせ、休ませ、動かし、腹と脚を見ねばならぬ」

皇甫爺が続ける。

「大きくするだけなら、壊すのは早い」

 

慶次郎殿は真顔になった。

 

「壊したくはありません」

 

その一言で、皇甫爺の目が少しだけ柔らかくなった。

 

助右衛門殿も言う。

 

「小さな馬に無理をさせるのも、好みませぬ」

 

この二人は、馬を道具とは見るが、雑な道具とは見ていない。

そこは大きい。

 

皇甫爺は二人の身体をじっと見た。

 

「六尺近い」

「近いというか、だいたいそのあたりですな」

 

慶次郎殿が笑う。

 

「重い」

「それは申し訳ない」

「謝ることではない。だが、馬を選ぶ。鞍も選ぶ。腹帯も、鐙の長さも、普通では合わぬ」

 

助右衛門殿が頷いた。

 

「そこも、見ていただきたい」

 

皇甫爺は父上を見た。

 

父上は少し考えた後、俺を見た。

 

「又八郎」

「はい」

「この二人の馬を、すぐに出せるとは限らぬ」

「はい」

「だが、見立てと稽古はできるか」

「皇甫爺がいれば」

 

「若」

皇甫爺が低く言う。

「儂に投げるな」

 

「では、俺も見ます」

「見るだけならよい。決めるのはまだ早い」

 

慶次郎殿が、楽しそうに言った。

 

「では、まずは見ていただこう。こちらも、小さな馬を潰すのはもう御免です」

「何頭潰したのですか」

 

俺が訊くと、慶次郎殿は少し困った顔をした。

 

「潰した、というほどではないのですが、疲れ方が早い。こちらが乗ると、翌日には脚が重そうになる。あれを見ると、どうにも気分が悪い」

 

助右衛門殿も言う。

 

「某も似たようなものにございます」

 

なるほど。

 

この二人が大きい馬を欲しがる理由は、見栄ではない。

自分の身体が馬にかける負担を、実感として知っている。

 

俺は墨磨の首を撫でた。

 

「大きい馬がすぐに用意できるわけではありません。でも、馬を潰さない乗り方と、合う馬を探すことはできます」

 

慶次郎殿がにやりとした。

 

「それを聞きに来た」

 

助右衛門殿は短く言う。

 

「お願いいたす」

 

その礼は、思ったより丁寧だった。

 

俺は少し背筋を伸ばした。

 

この二人は、ただの見物ではない。

ただの噂好きでもない。

大きい馬が欲しい。

自分の身体に合う馬が欲しい。

馬を潰さず、戦場で使えるようにしたい。

 

その欲は、かなり本物だ。

 

皇甫爺もそれを感じたのだろう。

 

「まず、乗り方を見る」

「今からですか」

 

慶次郎殿が笑う。

 

「見られるなら、今からでも」

 

「鞍あり。鐙あり。手綱あり」

皇甫爺が釘を刺す。

「若の真似は、させぬ」

 

「残念ですな」

「残念と思う者ほど、首を折る」

 

慶次郎殿が吹き出した。

 

助右衛門殿は少しだけ口元を動かした。

笑ったのかもしれない。

 

その後、二人はそれぞれ馬へ乗った。

 

慶次郎殿は、やはり派手だった。

身体が大きいのに、馬上で固まりすぎない。

ただ、勢いが前へ出る。

馬がそれに引っ張られる。

 

皇甫爺が言う。

 

「前へ行きすぎる」

「性分で」

「馬には迷惑」

「手厳しい」

 

助右衛門殿は逆だった。

静かだ。

乗り方も荒くない。

だが、大きな身体を遠慮しすぎて、かえって腰が浮く。

 

「遠慮が馬に乗る」

 

皇甫爺が言う。

 

助右衛門殿は首を傾げた。

 

「某が遠慮していると」

「うむ。馬は背に乗せる。遠慮して浮くと、馬の背を叩く」

 

助右衛門殿は、少し考えてから頷いた。

 

「承知」

 

この人は、言葉が少ない分、飲み込み方が真面目だ。

 

俺は二人を見ながら、変な気持ちになっていた。

 

まだ、家臣ではない。

俺の配下でもない。

そもそも俺はまだ、そんなものを持つ立場ではない。

 

だが、どこかで分かっていた。

 

この二人とは、たぶん先でつながる。

 

慶次郎殿の前へ出る力。

助右衛門殿の地に足の着いた強さ。

どちらも、今の小田井には大きすぎる。

けれど、いつか俺がもっと大きな家を持つなら、この二人のような武辺が必要になる。

 

もちろん、そんなことを口には出さない。

 

今ここで言えるのは、馬の話だけだ。

 

夕方になり、二人が馬を降りた。

慶次郎殿は額の汗を拭いながら言った。

 

「小田井の馬、噂以上ですな」

 

助右衛門殿も頷く。

 

「人も、噂以上にございます」

 

俺は少し困った。

 

「馬を見に来たのでは」

 

慶次郎殿が笑った。

 

「だから、人も見えたのです」

 

皇甫爺が横でぼそりと言った。

 

「馬を見る者は、人も見る」

 

またそれだ。

 

父上は、二人へ向き直った。

 

「すぐに渡せる馬はない。だが、そなたらほどの体に合う馬を育てる価値はある。今後、折を見て小田井へ来るがよい」

 

慶次郎殿の顔が明るくなる。

 

「よろしいのですか」

「ただし、皇甫の指示には従え」

「もちろん」

 

皇甫爺が低く言う。

 

「返事が軽い」

「では、重く。承知仕りました」

「まだ軽い」

 

慶次郎殿は楽しそうだった。

 

助右衛門殿は深く頭を下げた。

 

「よろしくお願いいたす」

 

その礼は、やはり静かで重い。

 

二人が帰った後、馬場には夕方の湿った風が残った。

 

俺は墨磨の横に立っていた。

 

皇甫爺が来る。

 

「若」

「はい」

「あの二人、大きい」

「見れば分かります」

「身体だけではない」

 

俺は皇甫爺を見た。

 

皇甫爺は、二人が去った門の方を見ている。

 

「派手な方は、馬を前へ出す。静かな方は、馬を潰さぬようにしすぎる。だが、どちらも馬を道具としてだけ見ておらぬ」

「はい」

「いずれ、若の近くへ来るかもしれぬ」

 

心臓が、少しだけ跳ねた。

 

「なぜ、そう思うのです」

「馬を求めに来た者が、馬だけ見て帰る顔ではなかった」

 

それは、俺も少し思っていた。

 

でも、皇甫爺に言われると、妙に重い。

 

「まだ先です」

 

「うむ。まだ先だ」

皇甫爺は、墨磨の耳を見る。

「だから今は、馬を見る」

 

「はい」

「若も、あの二人も、まだ育つ。馬も育つ」

 

俺は墨磨の首に触れた。

 

黒鹿毛と栗毛が上へ渡り、小田井の噂が広がった。

その噂を聞いて、慶次郎殿と助右衛門殿が来た。

馬を求めて来た二人は、たぶん馬だけを見て帰ったわけではない。

 

そして俺も、馬だけを見たわけではない。

 

のちに治部家の武辺を司る二人。

今はまだ、そんな言葉はどこにもない。

だが、夕暮れの馬場で、二人の背中を見送った時、俺は何となく思った。

 

いつか、あの二人と一緒に戦う日が来るかもしれない。

その時、二人を乗せる馬も、二人を支える馬術も、小田井から始まっていたなら。

それは、悪くない。

 

墨磨が鼻を鳴らした。

俺はその耳を見て、ゆっくり息を吐いた。

 

まずは、この馬を壊さない。

次に、人を壊さない。

その先でようやく、戦場の話だ。

 

小田井の神童という噂は、また少し広がるのだろう。

でも、その噂の先から、こうして必要な人が来るなら。

面倒な名にも、少しだけ使い道があるのかもしれなかった。

 

 

 

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