織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
皇甫爺が小田井へ来てから、一年、さらに少しが過ぎた。
その間に、馬の飼い葉の試みは、派手ではないが確かに続いていた。
肉の煮汁。
煮た牛の乳。
卵。
豆。
麦。
草。
藁。
水。
休ませる時間。
歩かせる時間。
冬場の寝藁。
毛を拭く手間。
最初は、どれが効いているのか分からなかった。
いや、今でも全部が分かっているわけではない。
肉の煮汁だけで馬が大きくなった、などと言えば嘘になる。
牛の乳だけで丈夫になった、というのも違う。
卵を混ぜれば全部解決、などというほど簡単な話でもない。
馬は、そんなに都合よく変わらない。
ただ、仔馬の頃から見ていると、差は出た。
食いつきがいい。
腹を壊しにくい。
毛艶がいい。
冬に落ちにくい。
息の戻りが早い。
脚の張りが違う。
人の手を嫌がりすぎない。
そういう小さな差が、毎月、少しずつ積もった。
そして、積もった差は、ある日いきなり人の目にも分かる形になった。
「……大きいな」
馬場の端で、父上がぽつりと言った。
そこにいたのは、三頭の若馬だった。
まだ完成した馬ではない。
筋肉も、これから乗り込んで作る段階だ。
だが、明らかに背が高い。
肩までの高さが、周りの馬より頭一つとは言わないまでも、半歩分ほど違う。
前世の感覚で言えば、一五〇センチに届くか届かないか。
この時代の馬としては、かなり目立つ。
俺は黙って、その三頭を見た。
一頭は黒鹿毛で、首が太い。
気性は少し強いが、前へ出る気がある。
一頭は栗毛で、脚の運びが柔らかい。
こちらは人をよく見る。
もう一頭は青みのある鹿毛で、耳の動きが細かい。
臆病ではあるが、走らせた時の戻りがよかった。
皇甫爺は、その三頭を少し離れたところから見ていた。
嬉しそう、ではない。
誇らしげ、でもない。
ただ、目が細い。
馬を見る目だ。
「皇甫爺」
「何だ」
「どう見ます」
「まだ若い」
それはそうだ。
「ただ、大きいだけではありません」
皇甫爺は、俺の言葉をそのまま受けず、三頭の脚へ視線を落とした。
「黒いのは、力がある。だが、気が前へ出すぎる。乗る者が下手なら、口を硬くする」
「はい」
「栗毛はよい。人を見すぎるが、悪くない。教えれば、乗る者を助ける」
「はい」
「青鹿毛は、怖がる。だが、怖がった後に戻る。そこがよい」
俺は、青鹿毛を見た。
耳が忙しい。
人の足音にも、鞍を置く音にも反応する。
だが、一度驚いても、皇甫爺が声をかけると戻ってくる。
鼻先を下げ、息を吐く。
その戻り方が、俺は好きだった。
父上はしばらく黙ってから言った。
「黒鹿毛と栗毛は、上へ見せる」
「上、でございますか」
「上総介様と勘十郎様だ」
胸が少し跳ねた。
献上。
言葉にすればそれだけだが、重い。
小田井で育てた馬を、本家の中枢へ見せる。
しかも、ただ珍しい馬としてではない。
飼い葉、世話、乗り慣らしまで含めた試みの成果としてだ。
「まだ早くはありませんか」
俺が言うと、父上は俺を見た。
「今すぐ渡すとは申しておらぬ。見せる。育ちを見てもらう。のちに仕上がれば献上する」
「はい」
「大きいだけでは通らぬ。乗れること、扱えること、戦場で使えることを見せねばならぬ」
「はい」
皇甫爺が低く笑った。
「若、殿は正しい」
「分かっています」
「顔が不満だ」
「少しだけです」
父上がこちらを見た。
「又八郎」
「はい」
「不満なのか」
「いえ。黒鹿毛と栗毛なら、上総介様と勘十郎様にも見栄えがすると思います」
「では何だ」
俺は青鹿毛を見た。
皇甫爺が、そこで小さく鼻を鳴らした。
「若は、青いのが欲しい」
父上の目が青鹿毛へ動く。
「そうなのか」
俺は少し迷ってから、正直に言った。
「はい」
青鹿毛は、こちらを見ていた。
いや、見ているというより、俺の方へ耳だけを向けている。
俺が一歩動くと、耳が動く。
皇甫爺が手を上げると、目がそちらへ向く。
厩方が桶を動かすと、鼻を鳴らす。
忙しい馬だ。
でも、戻る。
怖がる。
驚く。
けれど戻る。
そこがどうにも気に入っていた。
父上はしばらく考えた。
「皇甫」
「はい」
「青鹿毛は、又八郎に扱えるか」
皇甫爺は、すぐには答えなかった。
青鹿毛を見て、俺を見て、もう一度青鹿毛を見る。
「今は無理」
ひどい。
俺が顔をしかめると、皇甫爺は続けた。
「だが、若が変な稽古をやめぬなら、いずれ合う」
「変な稽古」
父上の声が低くなる。
まずい。
皇甫爺が、わざとらしく俺を見た。
「若、言うか」
「皇甫爺」
「儂が言うか」
「言います」
逃げられない。
俺は父上へ向き直った。
「手綱に頼らず、鞍や鐙に頼りすぎずに乗る稽古をしています」
父上は黙った。
その沈黙が怖い。
「どの程度だ」
「最初は手綱を緩く」
「うむ」
「次に、鐙を外して」
「うむ」
「その後、鞍も外して」
父上の眉が動いた。
「さらに」
「さらに?」
「腕を縛って」
父上は目を閉じた。
皇甫爺が、明らかに笑いをこらえている。
父上は、しばらくしてから目を開けた。
「又八郎」
「はい」
「そなた、時々、賢いのか阿呆なのか分からぬな」
前にも聞いた気がする。
「今回は、多分理にかなっております」
「その言い方が既に怪しい」
父上の声は冷静だった。
冷静すぎて怖い。
俺は慌てて続けた。
「戦場で、鞍や鐙が壊れることもあります。手綱を持てないこともあります。弓や槍を使う時、片手、あるいは両手が馬から離れることもあります。その時に、道具がなければ落ちる、ではすぐに死にます」
父上は黙って聞いている。
皇甫爺も、今は笑っていない。
もともと、前に何かで読んだ気がしていたのだ。
水滸伝だったか。
林冲だったか、楊令だったか。
いや、そもそも楊令は別の話だった気もする。
その辺りは曖昧だ。
ただ一つだけ、妙に残っていた断片がある。
騎馬民族ではない、漢の側の人間が、騎馬隊を率いるにあたって、中途半端にならぬよう、自分の身体から作り直す、みたいな話だ。
正確にどうだったかは覚えていない。
覚えていないのだが、理屈だけは妙に腹へ残っていた。
半端では駄目だ、という理屈である。
馬に乗るだけなら、乗れる。
手綱で曲げて、鞍に助けられ、鐙で踏ん張れば、とりあえず馬上にはいられる。
だが、それでは駄目だと思った。
何より、馬上で武器を扱うなら、危機管理が要る。
弓でも槍でも、両手のどちらか、あるいは両方が馬から離れる瞬間が出る。
そのたびに乗り方が崩れるようでは、話にならない。
だったら、まず手を使わずに馬へ乗れるようになった方がいい。
人馬一体、という言い方はよくある。
だが俺が欲しかったのは、もう少し湿っぽいものだった。
人馬同調。
馬に命じるというより、馬の揺れと、自分の身体の重心と、意図を、なるべくずらさずに揃える。
そのためには、手より先に腰と腿で馬に乗っていなければならない。
だから、手綱を嫌い始めた。
いや、手綱は便利だ。
便利だし必要だ。
だが、便利なものほど頼る。
頼ると、そこを失った時に脆い。
そう思って、まず手綱を緩くし始めた。
膝で挟む。
腿で支える。
腰で揺れを飲む。
身体の向きだけで、馬の首の向きも少しずつ変わるようにする。
止まる時は、手より先に自分の重心を沈める。
そして、案の定皇甫爺に見つかったというわけである。
「勝つためというより、死なないためです。鞍がずれても、鐙が切れても、手綱を離しても、腰と腿で戻せるようになりたいのです」
言い切ってから、俺は息を吐いた。
父上は、少しだけ皇甫爺を見た。
「皇甫、どう見る」
皇甫爺は腕を組んだ。
「理はある」
助かった。
「だが、やり方は阿呆だ」
助からなかった。
皇甫爺は、淡々と続けた。
「鞍なし、鐙なし、手綱なし、腕まで縛る。いきなり重ねれば、落ち方が悪くなる。落ち方が悪ければ、首を折る。若の理は、生きるためだ。だが、稽古で死ねば笑い話にもならぬ」
父上が頷く。
「当然だな」
「なので、分ける」
皇甫爺は、馬場の土を杖で示した。
「まず、鞍ありで手綱を緩くする。次に、鐙を軽くする。次に、鞍なしで歩く。次に、鞍なしで少し速く歩く。次に、落ちる稽古をする。落ちた後、転がる稽古もする。腕を縛るのは最後だ」
「最後ならよいのか」
父上が言うと、皇甫爺はにやりとした。
「最後でも、儂は嫌だ」
「おい」
思わず口が出た。
皇甫爺は俺を見た。
「だが、若はやる。止めても隠れてやる。ならば、見てやらせた方がまし」
父上が、今度は俺を見る。
その目が痛い。
「隠れてやるのか」
「……やりかねません」
「正直でよい」
良くはない気がする。
父上は深く息を吐いた。
「皇甫」
「はい」
「そなたが見るなら許す。ただし、又八郎が無茶を重ねれば止めよ」
「耳を引っ張ってでも止める」
「よい」
よくない。
だが、話は決まってしまった。
そこから、俺の黒歴史は、皇甫爺の手によって少しだけまともな稽古に変わった。
最初に教えられたのは、乗ることではなく、落ちることだった。
「若、落ちる」
「落ちたくありません」
「落ちる。馬に乗る者は落ちる。落ちぬと思う者から死ぬ」
正論だった。
砂の上に転がる。
肩から逃がす。
首を丸める。
手を突きすぎない。
立ち上がる前に、馬の脚を見る。
痛い。
地味に痛い。
何度もやると、身体のあちこちが重くなる。
だが、落ち方を知ると、不思議と馬の上で少し楽になった。
落ちること自体が怖くなくなるわけではない。
それでも、落ちたら終わり、という感じが薄れる。
次に、鞍ありで手綱を緩めた。
皇甫爺は、すぐ叱る。
「手で行くな」
「はい」
「腰」
「はい」
「腿」
「はい」
「肩が硬い」
「はい」
「目が前すぎる」
「前を見てはいけないのですか」
「前を見る。だが、前だけ見るな。馬の耳を見る。地も見る。風も見る」
言っていることは難しい。
だが、何となく分かる。
前だけを見ると、身体が前へ突っ込む。
耳を見ると、馬の気持ちが少し分かる。
地を見ると、馬が嫌がりそうなものが見える。
風を見る、というのはまだよく分からない。
皇甫爺は、分からなくてよいという顔をした。
「そのうち、馬が教える」
それで済ませるのはずるい。
鞍なしの稽古へ入ると、世界が変わった。
鞍は偉大だ。
本当に偉大だ。
それを外すと、馬の背は丸い。
滑る。
揺れる。
腹へ来る。
腿が痛い。
腰が逃げる。
最初の日、俺は三度落ちた。
馬場役が顔をしかめる。
「若様、やはり危のうございます」
皇甫爺は、俺を立たせながら言った。
「危うい。だから小さく落ちる。大きく落ちる前に覚える」
「皇甫爺、それは励ましですか」
「違う。事実」
ひどい。
だが、事実だった。
少しずつ、馬の背の沈む瞬間が分かるようになった。
次に浮く。
そこで自分が遅れると、ずれる。
腰を少し先に置く。
腿で締めすぎると馬が硬くなる。
抜きすぎると自分が落ちる。
そこに気づくと、急に面白くなった。
馬は、手だけで動いていない。
こちらの身体の力みも、抜きも、重さの置き方も、ちゃんと感じている。
青鹿毛は、特にそこへ敏かった。
最初は、俺の身体が硬くなるだけで耳を立てた。
腿を締めすぎると、首を上げる。
腰が遅れると、歩みが乱れる。
だが、こちらが少しうまく乗れると、すっと戻る。
やっぱり、この馬がいい。
俺はそう思った。
ある日、鞍なしで青鹿毛に乗り、ゆっくり馬場を回っていた時、ふと手を離してみた。
手綱は皇甫爺が持っている。
俺の手は何もしていない。
腰を沈める。
青鹿毛の歩みが少しゆるむ。
身体をほんの少し右へ向ける。
耳が動き、首がわずかに右を向く。
曲がった。
ほんの少しだ。
偶然かもしれない。
だが、曲がった。
俺は、馬の上で笑ってしまった。
「皇甫爺」
「笑うな。落ちる」
「でも、今」
「曲がったな」
皇甫爺も見ていた。
「はい」
「若、今のは手ではない」
「はい」
「腰と息だ」
息。
そうか。
俺はその時、止まりたい、曲がりたいと思って、息を少し変えていた。
それも伝わるのか。
青鹿毛の首を軽く叩きたいと思ったが、鞍なしで余計なことをすると落ちるので我慢した。
皇甫爺が言った。
「この馬、若を見る」
「俺を?」
「うむ。若が硬ければ硬くなる。若が慌てれば慌てる。若が戻れば戻る」
「面倒な馬ですね」
「若に似る」
「俺はこんなに臆病ではありません」
皇甫爺は笑った。
「臆病だ。だから死なぬ技を欲しがる」
言い返せなかった。
その日の夕方、父上が馬場へ来た。
俺は鞍なしで青鹿毛に乗っていた。
手綱は緩い。
皇甫爺が横についている。
馬場役もいる。
父上はしばらく黙って見ていた。
俺は青鹿毛をゆっくり歩かせた。
腰で止める。
腿を緩める。
耳を見る。
右へ少し向ける。
戻す。
派手なことは何もない。
だが、父上は分かったらしい。
「……なるほどな」
「はい」
「手で引いておらぬ」
「少しは使っています。でも、前よりずっと少ないです」
「馬が嫌がっておらぬ」
「皇甫爺のおかげです」
皇甫爺は横で鼻を鳴らした。
「若が落ちたおかげでもある」
「そこは言わなくてよいです」
父上は、青鹿毛を見た。
「この馬がよいのか」
俺は即答しかけて、少しだけ止めた。
馬は物ではない。
欲しい、だけではいけない。
「この馬と、うまくなりたいです」
父上の顔が、ほんの少し変わった。
たぶん、その言い方なら通ると思ったのだろう。
皇甫爺も、少しだけ目を細めている。
父上は静かに頷いた。
「ならば、この青鹿毛はそなたの馬とする」
胸の奥が、一気に熱くなった。
俺の馬。
いや、正確には藤左衛門家の馬だ。
父上の許しがあって、俺が乗る馬だ。
それは分かっている。
それでも、俺にとっては初めての愛馬だった。
「名は」
父上が訊く。
俺は青鹿毛の耳を見た。
忙しい耳。
でも戻る耳。
怖がるが、逃げっぱなしにはならない馬。
そして、青みを帯びた黒い毛並み。
「墨磨」
言った瞬間、皇甫爺が片眉を上げた。
「若」
「何です」
「磨墨か」
「源平時代、宇治川の名馬そのままではありません。墨を磨る方です」
父上が、青鹿毛を見た。
「墨を磨る、か」
「はい。黒いだけではなく、磨けば光る馬になってほしいので」
皇甫爺は、しばらく馬を見てから、にやりと笑った。
「悪くない。名に負けぬよう磨かねばならんな」
「俺もですか」
「若もだ」
父上は、少しだけ口元を動かした。
「悪くない」
皇甫爺はまだ納得していない顔だった。
「もっと強そうな名は」
「いずれ強くなれば、名前も強く聞こえます」
「若は時々、変なところで頑固だ」
「よく言われます」
こうして、青鹿毛は墨磨になった。
黒鹿毛と栗毛は、上総介様と勘十郎様へいずれ見せる馬として、さらに仕上げることになった。
黒鹿毛は力を活かす。
栗毛は乗り手を助ける柔らかさを磨く。
墨磨は、俺と一緒に、落ちて、戻って、また乗る馬になる。
それからの稽古は、さらにおかしなことになった。
鞍なし。
鐙なし。
手綱は緩く。
腕は、最初から縛らない。
皇甫爺が許した時だけ、すぐ解ける布で軽く制限する。
「縛るのではない。手に頼らぬために、手を休ませる」
皇甫爺はそう言った。
言い方がうまい。
同じことをしているようで、危なさが少し違う。
俺は、墨磨の背で何度も揺れた。
落ちた。
転がった。
また乗った。
そのうち、鞍を戻した時に、笑うほど楽になった。
鐙がある。
鞍がある。
手綱がある。
それらは、頼りきるものではなく、助けてくれるものだった。
騎射へ入ると、もっと分かった。
馬の揺れが怖くない。
下半身が馬へ残っているので、上半身を弓へ回せる。
狙いはまだ未熟だ。
だが、揺れの中で自分がどこへ戻ればよいかは、前よりずっと分かる。
槍も同じだった。
墨磨の背で、俺はわざと少し重心を崩してみる。
墨磨が耳を動かす。
俺が腰で戻す。
馬も戻る。
そこから槍を突き出す。
馬場役が、嫌そうな顔で言った。
「若様、顔が悪うございます」
「嬉しいのだから仕方ない」
「それが困ります」
皇甫爺は横で笑っていた。
父上は、しばらく見てから言った。
「他の者なら続かぬな」
「……そうですね」
それは分かっていた。
腿は痛い。
腰も痛い。
落ちる。
砂を噛む。
家中からは、神童が馬で妙なことを始めた、と言われる。
誰でも続くわけがない。
少し残念だった。
この稽古を皆ができれば、騎馬の質は変わるかもしれない。
そう思っていたからだ。
父上は、俺の顔を見て言った。
「拗ねるな」
「拗ねてはおりません」
「顔に出ておる」
「少しだけです」
「万人に広げるものではあるまい。だが、そなたの型にはなる」
俺は墨磨の首を見た。
汗で毛が少し濡れている。
息は荒いが、乱れてはいない。
耳はこちらを向き、すぐ前へ戻る。
俺だけの型。
それでいいのかもしれない。
全軍を一度に変える必要はない。
全部の馬を一気に変える必要もない。
まず、小田井で数頭。
墨磨で一つ。
黒鹿毛と栗毛で二つ。
上総介様と勘十郎様に見せる馬で、さらに二つ。
そうやって、見える形にしていけばいい。
皇甫爺が墨磨の脚を見ながら言った。
「若」
「はい」
「この馬は、まだ強くなる」
「はい」
「だが、若が焦れば、壊れる」
「分かっています」
「本当にか」
「たぶん」
「そこは、はいと言え」
「嘘になります」
皇甫爺は、呆れたように息を吐いた。
「神童は面倒だ」
「皇甫爺まで言いますか」
「今は言う」
皇甫爺は墨磨の首を軽く叩いた。
「これを作ったのは、飼い葉だけではない。見た者、止めた者、待った者、落ちた者、戻った馬。全部だ」
俺は黙った。
その言い方は、妙に腹へ落ちた。
墨磨は、俺一人の思いつきで生まれた馬ではない。
父上が止めた。
皇甫爺が見た。
厩方が世話をした。
馬場役が嫌な顔をしながら付き合った。
そして墨磨自身が、驚いても戻ってきた。
だから、初めての愛馬なのだと思った。
俺が作った馬ではない。
俺と一緒に作ってもらった馬だ。
その夜、厩を出る前に、俺は墨磨の前に立った。
勝手に触るな、とはもう言われない。
ただし、耳と目を見る。
嫌がればやめる。
皇甫爺の教え通りだ。
墨磨は俺の手の匂いを嗅ぎ、鼻先を少し寄せた。
俺はそっと首に触れた。
「よろしくな、墨磨」
墨磨は答えない。
ただ、耳をこちらへ向けて、すぐに前へ戻した。
その仕草だけで十分だった。
小田井の神童。
馬で妙なことを始めた変人。
そのどちらでもいい。
この馬と一緒に、生きて戻るための馬術を作る。
そう決めた時、初めて、神童と変人の真ん中にいる自分を、少しだけ許せる気がした。
♢
墨磨の背は、まだ完全に俺のものではなかった。
いや、言い方が悪い。
馬は物ではない。
俺のもの、などと考えれば皇甫爺に耳を引っ張られる。
だが、乗り手としての俺の身体が、墨磨の背へまだ馴染みきっていない、という意味なら間違っていない。
鞍なし。
鐙なし。
手綱はあるが、握り込まない。
皇甫爺が横で見ている。
馬場役もいる。
それでも、少し油断すると腰が遅れる。
墨磨の背が沈む。
次に浮く。
そこで俺の腰が半拍遅れると、腿が余計に締まる。
墨磨の耳がぴくりと動く。
「若、硬い」
皇甫爺の声が飛ぶ。
「分かってます」
「分かって硬いなら、もっと悪い」
ひどい。
俺は息を吐いた。
肩を落とす。
腹の奥を緩める。
腿で挟むのではなく、馬の動きに脚を沿わせる。
墨磨の耳が少し戻った。
「そうだ。手で乗るな」
「手は使っていません」
「使わぬ手を意識しておる。邪魔だ」
分かるような、分からないようなことを言う。
だが、何となく分かる。
手を使わないように、と思った時点で、意識が手に行っている。
そうではなく、最初から腰と腿と息で乗らなければいけない。
難しい。
面白い。
そして、かなり痛い。
「墨磨、行くぞ」
小さく声をかける。
墨磨の耳がこちらへ向き、すぐ前へ戻る。
俺は腰を少しだけ前へ送った。
墨磨が歩き出す。
馬場を半周。
少し速める。
身体の重さを落とす。
墨磨の歩みが緩む。
いい。
今日は悪くない。
そう思った瞬間だった。
馬場の外が、妙に静かになった。
厩方の声が止まる。
馬場役の背筋が固くなる。
皇甫爺が、ほんのわずかに横を見た。
俺は気づくのが遅れた。
墨磨の耳が、馬場の外へ向く。
俺の意識もそちらへ引かれる。
その瞬間、腰が遅れた。
「あ」
身体が左へずれる。
鞍がない。
鐙もない。
頼るものがない。
だが、落ちる稽古は散々やった。
腿を締めすぎない。
腰を戻す。
肩で釣り合いを取らない。
墨磨の背の動きへ先に戻る。
ずるりと半分落ちかけた身体を、俺はどうにか戻した。
墨磨が二歩、乱れる。
すぐに止まる。
俺は墨磨の首にしがみつきたい気持ちをこらえ、息を吐いた。
「……危なかった」
「危なかった、ではない。若、外を見るな」
皇甫爺の声は低かった。
「はい」
そこで、馬場の外から笑い声が爆発した。
「ははははははははは! 何をしておる、又八郎!」
俺は固まった。
この声は、聞き間違えようがない。
上総介様だ。
恐る恐る馬場の外を見ると、そこには上総介様、勘十郎様、お市殿、お犬殿がいた。
父上もいる。
なぜ先に声をかけてくれなかったのか、と言いたいが、たぶん俺が集中して気づかなかっただけだ。
上総介様は、本当に腹を抱えて笑っていた。
「鞍も鐙もなしで、落ちかけて戻りおった! 何だそれは! 馬鹿か、いや、馬鹿ではないな。だが馬鹿のように見えるぞ!」
ひどい。
勘十郎様は口元を押さえていた。
興味深そうに見ているのに、笑いが隠しきれていない。
「兄上、笑いすぎです。いや、しかし、これは……たしかに妙ですな」
お市殿とお犬殿は、完全に唖然としていた。
お市殿は俺と墨磨を見比べている。
お犬殿は、鞍のない馬の背と、俺の脚を見て、何をどう理解すればいいのか分からない顔をしている。
「又八郎」
父上の声が飛んだ。
「はい」
「降りよ」
「はい」
俺は墨磨の首を軽く叩き、皇甫爺に目で確認してから、ゆっくり降りた。
鞍なしで降りるのも、案外難しい。
変に飛び降りると馬が嫌がる。
墨磨の耳を見て、足元を見て、静かに地面へ降りる。
上総介様がまた笑った。
「降りるのだけは妙に慎重だな」
「落ちると痛いので」
「そこは利口だ」
褒められた気がしない。
俺は頭を下げた。
「上総介様、勘十郎様、お市殿、お犬殿。お見苦しいところを」
「いや、面白いものを見た」
上総介様はまだ笑っている。
勘十郎様は、笑いを抑えながら墨磨を見た。
「又八郎、今のは何だ。鞍も鐙も使わず、手綱もほとんど引いておらぬように見えたが」
「道具が壊れた時に落ちないための稽古です」
「道具が壊れた時」
「はい。戦場では、鞍がずれることも、鐙が切れることも、手綱を持てないこともあると思います。その時に、道具がなければ落ちる、では死にますので」
勘十郎様の笑いが少しだけ引いた。
興味の方が前に出た顔になる。
「勝つためではなく、死なんためか」
「はい」
上総介様が、笑いながらも目だけは鋭くした。
「左衛門佐」
「は」
父上が前へ出る。
「止めなんだのか」
「止めました」
「止まらなんだか」
「隠れてやりかねませぬゆえ、皇甫に見させております」
皇甫爺が頭を下げた。
上総介様は皇甫爺を見た。
「そなたが、津島で拾われた馬を見る爺か」
「拾われたかは知りませぬが、馬は見まする」
上総介様はにやりとした。
「口も悪いな」
「馬ほどではございませぬ」
勘十郎様が、とうとう声を漏らして笑った。
お市殿とお犬殿は、まだついていけていない。
お市殿が、ようやく口を開いた。
「又八郎殿、それは危のうないのですか」
「危ないです」
「危ないのですか」
「はい。だから小さく落ちる稽古から始めています」
お市殿は完全に言葉を失った。
お犬殿が、小さく言う。
「落ちる稽古……」
それはそういう反応になる。
皇甫爺が、少しだけ助け舟を出した。
「若の思いつきは危うい。されど、戦場で馬具が壊れれば、落ちる者は死ぬ。ならば、落ち方、戻り方、手に頼らぬ乗り方を少しずつ覚えるのは無駄ではございませぬ。ただし、若のやり方をそのまま他の者にさせれば、怪我人が増えまする」
「そこは言わなくても」
「言う」
皇甫爺は容赦がない。
上総介様は満足そうに笑った。
「面白い。神童が変人になったと聞いておったが、変人にも理はあるか」
「変人は余計にございます」
「だが事実だろう」
否定できない。
父上が咳払いをした。
「上総介様、勘十郎様。本日お見せしたきものは、又八郎の奇行だけではございませぬ」
「奇行とはっきり言いましたね、父上」
「事実だ」
親子揃ってひどい。
父上は厩方へ合図をした。
馬房の奥から、二頭の若馬が引き出される。
黒鹿毛と栗毛。
黒鹿毛は、首が太く、肩が強い。
まだ若いが、前へ出る気がある。
栗毛は、黒鹿毛ほど押しは強くないが、背の線が柔らかく、人の手をよく見る。
二頭とも、この時代の馬としては明らかに大きい。
上総介様の笑いが止まった。
勘十郎様も、すぐに顔つきが変わる。
二人とも背が高い。
五尺六寸ほど、前世の感覚で言えば一七〇センチほどはある。
この時代ではかなりの長身だ。
だからこそ、普通の馬では、どうしても釣り合いが悪く見えることがある。
小さい馬が悪いわけではない。
山道や悪路では、小回りの利く馬の価値もある。
だが、長身の武将が鎧を着て乗るなら、馬体に余裕がある方がいい。
上総介様は黒鹿毛の前に立った。
「……これは大きいな」
勘十郎様は栗毛の背と脚を見ていた。
「兄上、こちらも悪くありませぬ。大きいが、重すぎぬように見えます」
「うむ」
お市殿とお犬殿も、今度は先ほどとは違う意味で目を丸くしていた。
お犬殿が小さく言う。
「馬も、育て方で変わるものなのですか」
父上はすぐには答えず、皇甫爺を見た。
皇甫爺が一歩出る。
「血もありましょう。親の形もありましょう。されど、仔の頃から食わせ方、休ませ方、動かし方、人の手への慣らし方で、変わるものはございます」
上総介様が俺を見る。
「又八郎、肉か」
またそれか。
「肉だけではございません。肉の煮汁、煮た牛の乳、卵、豆、麦、草、水、寝藁、冬場の落ち方、歩かせ方、全部です。何がどこまで効いたかは、まだ分かりませぬ」
「分からぬと言うか」
「はい。肉だけで大きくなったと言うのは、危ういと思います」
勘十郎様が頷いた。
「一部ずつ試して、比べておるのか」
「はい。腹を壊せば止めます。嫌がれば薄めます。食った後の糞も見ます。毛艶と息の戻りも見ます」
「糞まで見るのか」
上総介様がまた笑いそうになった。
皇甫爺が平然と言う。
「腹を見ずに馬は分かりませぬ」
上総介様は今度こそ笑った。
「よい。そなた、面白いな」
「馬の方が面白うございます」
「ますますよい」
父上が黒鹿毛と栗毛の横に立った。
「この二頭は、さらに仕上げたうえで、いずれ上総介様と勘十郎様へ献上いたしたく存じます」
空気が少し締まった。
献上、という言葉は軽くない。
上総介様は黒鹿毛から目を離さなかった。
「今すぐではないのだな」
「はい。まだ若く、乗り込みも足りませぬ。大きいだけではお渡しできませぬ」
「当然だ」
勘十郎様は栗毛へ手を伸ばしかけ、皇甫爺を見た。
皇甫爺が小さく頷く。
勘十郎様は、馬の鼻先へいきなり触らず、手の甲を見せた。
栗毛が匂いを嗅ぐ。
勘十郎様の目が細くなる。
「人を見るな」
「はい。その馬は、乗り手をよく見ます」
俺が答えると、勘十郎様は少し笑った。
「俺向きか」
上総介様が横から言う。
「お前は見られるくらいでちょうどよい」
「兄上」
二人のやり取りに、お市殿が少しだけ表情を緩めた。
お犬殿も、ようやく息を吐いたようだった。
上総介様は黒鹿毛の首を眺めながら言った。
「この育て方、本家でも一部取り入れる価値がある」
父上が頭を下げる。
「ただ、急ぎ広げますと事故が出ます」
「分かっておる。腹を壊す馬も出よう。食わせ方を間違えれば、良いものも毒になる」
皇甫爺が、そこで初めて少し感心したように上総介様を見た。
上総介様は気づいたのか、にやりとする。
「何だ、爺。俺が何も分からぬと思うたか」
「大きな人は、時に大きく間違えまする」
「ははは! 言うな!」
勘十郎様が笑いをこらえながら皇甫爺を見た。
「だが、兄上の申される通りだ。小さく試し、腹と脚と気性を見る。それなら本家でもできる」
父上が頷く。
「津島の伝手は使えましょう。加えて、堺、博多の商人にも声をかければ、大陸の馬に通じた者、あるいは馬体の大きい馬の話が拾えるやもしれませぬ」
上総介様の目が光った。
「汗血馬か」
俺は一瞬、息を止めた。
その名前は、この時代でも伝説として通る。
西域の名馬。
血の汗を流すと言われる馬。
本当に手に入るかは別だ。
たぶん、とんでもなく難しい。
話だけで終わる可能性も高い。
だが、上総介様はもう、その方向を見ている。
勘十郎様が現実へ戻す。
「兄上、いきなり汗血馬そのものを求めても、まず掴まされましょう」
「分かっておる。だが、話を集める価値はある」
「はい。大陸の馬そのものより、馬を見る者、育てる者、扱う者を探す方が先かと」
皇甫爺が頷いた。
「馬だけ買うても、育てる者が悪ければ痩せまする。見る者、食わせる者、休ませる者が要りまする」
上総介様は、そこで父上を見た。
「左衛門佐」
「は」
「津島へ声をかけよ。堺にも伝手を伸ばす。博多へも、商いの筋で探らせる。馬そのもの、人、飼い方、何でもよい。大陸の馬に関わる話を拾え」
「承知仕りました」
勘十郎様も続けた。
「ただし、すぐ買うのではなく、まず見分ける者を得ることが肝要です。皇甫のような者がもう一人二人いれば、本家で試す時にも事故が減りましょう」
皇甫爺が眉を上げる。
「儂のような者は、そう多くございませぬ」
「だろうな」
勘十郎様は笑った。
「だから探す価値がある」
お市殿が、静かに黒鹿毛を見ていた。
「兄上方が乗られるなら、たしかにこのような馬の方が見栄えもいたしますね」
お犬殿も頷く。
「普通の馬より、ずっと大きく見えます」
上総介様は黒鹿毛の背を見ながら言った。
「見栄えだけではない。鎧を着て、長く動き、戦場で戻るなら、馬体に余裕がある方がよい。もっとも、大きければよいという話でもあるまいが」
「はい」
俺は頷いた。
「山道や泥道では、小さい馬の方がよいこともあると思います。大きい馬は、食う量も増えます。脚を痛めれば損も大きいです」
「分かっておる」
上総介様は俺を見る。
「だが、選べるなら強い。小さい馬しかおらぬのと、大きい馬も使えるのとでは違う」
それはその通りだった。
勘十郎様が栗毛を見ながら言う。
「本家で一部試す。全部ではない。まずは仔馬を選び、飼い葉を変え、腹と脚を見る。よいな、又八郎」
「はい」
「その折は、そなたにも聞く」
「俺に、ですか」
「言い出したのはそなたであろう」
上総介様が笑う。
「神童の責任だな」
また来た。
「その呼び名は、あまり」
「嫌か」
「はい」
「なら、余計に使いたくなる」
皇甫爺と同じことを言う。
この人たちは、なぜ嫌だと言うと使いたがるのか。
お市殿が少し笑った。
お犬殿も、ようやく唖然から戻って、小さく口元を押さえている。
父上だけが、いつもの顔で言った。
「上総介様、あまり調子に乗らせますと、次は何を始めるか分かりませぬ」
「左衛門佐、そなたの子だろう」
「だから困っております」
ひどい。
勘十郎様が笑いをこらえきれず、肩を揺らした。
「又八郎」
「はい」
「今日見たものは、たしかに妙だった」
「はい」
「だが、妙なだけではない。死なぬために鞍と鐙を疑い、馬の腹を見るために飼い葉を疑い、馬の目に入るものまで疑う。そこまで行けば、ただの悪戯ではない」
俺は黙った。
褒められているのだろう。
たぶん。
勘十郎様は続けた。
「ただし、皇甫の申す通り、やり方を間違えれば馬も人も壊す。そこは忘れるな」
「はい」
上総介様が黒鹿毛の首を軽く叩いた。
「仕上げよ。俺はこの黒いのを楽しみにしておく」
勘十郎様は栗毛を見た。
「では、私はこちらを」
お市殿が驚いた顔をする。
「もうお決めになるのですか」
勘十郎様は笑った。
「今すぐ貰うわけではない。だが、楽しみにするくらいはよかろう」
お犬殿が栗毛を見て、小さく言った。
「この子、勘十郎兄上を見ています」
「そうだな」
勘十郎様は少し嬉しそうだった。
黒鹿毛は上総介様を見ているというより、前へ出たがっている。
栗毛は勘十郎様をよく見ている。
そして墨磨は、俺の後ろで耳を忙しく動かしている。
三頭とも違う。
そこがいい。
上総介様たちが厩から離れた後、俺は墨磨の前に戻った。
「墨磨」
耳がこちらへ向く。
「見られたな」
墨磨は当然、答えない。
ただ、鼻を鳴らした。
皇甫爺が横に来る。
「若」
「はい」
「今日で、馬の話は小田井だけでは済まぬ」
「そうですね」
「本家が動けば、人も銭も入る。だが、急ぐ者も出る」
「はい」
「大きい馬を欲しがる。珍しい馬を欲しがる。名馬の名だけを欲しがる。そこで失敗する者も出る」
「……はい」
皇甫爺は墨磨の耳を見た。
「だから、若はよく見よ。馬を見る。人も見る」
「はい」
「神童なら、なおさらだ」
「皇甫爺まで」
「儂は認め始めたのでな」
その言い方は、少しずるい。
俺は墨磨の首にそっと触れた。
黒鹿毛は上総介様へ。
栗毛は勘十郎様へ。
墨磨は俺の初めての愛馬として。
そして、その先に、津島、堺、博多、大陸の馬と人。
話が急に広がった気がした。
だが、やることは同じだ。
小さく試す。
腹を見る。
脚を見る。
耳を見る。
目を見る。
駄目なら戻す。
俺は墨磨の耳を見た。
墨磨は、少しだけこちらへ耳を向けて、すぐ前へ戻した。
その仕草を見て、俺は息を吐いた。
まずは、この馬を壊さないこと。
大きな話は、その次でいい。
♢
黒鹿毛と栗毛が上総介様と勘十郎殿のもとへ渡ってから、半年ほどが過ぎた。
正確に言えば、渡ったのは馬だけではない。
小田井の噂も、一緒に渡った。
小田井では馬まで妙に育つ。
藤左衛門家の若は、田だけでなく馬にも変なことをする。
肉の煮汁だ、煮た牛の乳だ、卵だ、豆だと、馬にまで食わせている。
津島から拾った唐爺が馬を見ている。
しかも、その馬を上総介様と勘十郎殿が実際に召された。
噂というものは、尾ひれが付く。
小田井では馬が人の言葉を解すらしい。
又八郎様が耳元で囁くと、馬が膝を折るらしい。
唐爺は唐土の仙人で、馬の前世まで見えるらしい。
そこまで行くと、さすがに嘘である。
だが、全部を否定するのも難しい。
黒鹿毛は、上総介様を乗せても馬体が負けなかった。
栗毛は、勘十郎殿の手をよく見て、すぐに口を硬くしなかった。
二人ともこの時代ではかなり背が高い。
五尺六寸どころではなく、上背も肩幅もある。
その二人が乗って、馬が小さく見えなかった。
それだけで、噂は十分に強くなった。
「若」
皇甫爺が、馬房の前で俺を呼んだ。
「何です」
「また見物が来る」
「見物ですか」
「馬を見に来る者は、たいてい馬だけを見に来ぬ」
「人も見る?」
「自分の欲も見せる」
相変わらず、嫌な言い方をする。
皇甫爺は、今では単なる馬係ではなくなっていた。
もちろん、正式に奉行などという役が与えられたわけではない。
だが、実態としては馬育成奉行並だ。
飼い葉の配合を見る。
仔馬の腹を見る。
冬に痩せる馬を分ける。
坂道を歩かせる時期を決める。
鼻上の布、横を遮る革、額の覆い、耳袋付きの覆面を、どの馬に使うか見る。
使わない方がいい馬には、絶対に使わせない。
馬場役が手綱を引きすぎれば叱る。
厩方が糞を見落とせば、黙って桶の横へ置く。
黙って置かれる方が、怒鳴られるより怖いらしい。
厩方たちは、最初こそ異国の爺に仕事を見られるのを嫌がっていたが、今ではだいぶ変わった。
皇甫爺が「右後ろ」と言えば、本当に右後ろの蹄に熱がある。
「今日は食わせるな」と言えば、その馬は翌日に腹を崩しかける。
「この仔は人を見すぎる」と言えば、乗り手が変わるたびに癖が出る。
当たる。
だから、聞く。
結局、家中の空気を変えるのは、理屈より結果だった。
それは田でも、馬でも同じらしい。
「誰が来るんです」
「大きいのが二人」
「大きい?」
「一人は派手。もう一人は静か」
それだけでは分からない。
だが、皇甫爺が「大きい」と言うなら、相当に大きいのだろう。
皇甫爺は馬を見る。
人も、身体の釣り合いくらいはかなり見る。
その日の昼過ぎ、二人は本当に来た。
最初に目に入ったのは、背の高さだった。
一人は、明るい。
立っているだけで、場の空気を少し乱す。
悪い意味ではない。
風が入る、という方が近い。
肩幅があり、腕が長く、腰が高い。
前世の感覚で言えば、一八〇センチを越えている。
この時代なら、ほとんど大男だ。
前田慶次郎。
もう一人は、もっと静かだった。
同じくらい大きい。
だが、派手さがない。
立っているだけなら、むしろ目立とうとしない。
ただ、身体の芯が太い。
足の置き方が変に浮かない。
馬場の土を見て、馬房の入口を見て、それからこちらを見る。
奥村助右衛門。
この二人が並ぶと、普通の馬房の前が狭く見えた。
父上が迎え、二人が礼をする。
慶次郎殿は、礼の形こそ崩さないが、目がもう馬房の奥へ行っている。
「左衛門佐殿、噂の馬を見せていただけると聞き、我慢できず参りました」
声も大きい。
だが、ただ騒がしいだけではない。
よく通る声だ。
助右衛門殿は一歩引いて、短く言った。
「某も、同じく」
こちらは言葉が少ない。
父上は二人を見て、すぐに理由を察したらしい。
「そなたらほどの体なら、馬が難しかろう」
慶次郎殿が、ぱっと笑った。
「まさにそれにございます。小さな馬では、すぐ潰してしまう。いや、馬が悪いわけではござらん。こちらが重い。鎧を着ればなおさらです」
助右衛門殿が続ける。
「足も、地に近うございます」
それは少し笑いそうになった。
だが、本人たちにとってはかなり切実なのだろう。
馬上で足が下へ余りすぎる。
馬体が小さければ、重心も上がりにくい。
鎧を着て長物を持てば、馬の負担も増える。
見栄えだけではない。
戦場で本当に困る。
慶次郎殿は馬房の方を見た。
「上総介様の黒鹿毛、勘十郎殿の栗毛を見ました。あれはよい。大きいだけではなく、馬が潰れて見えぬ。あれなら、我らでも馬に申し訳なくない」
馬に申し訳なくない。
その言い方に、少し好感を持った。
ただ大きい馬が欲しい、ではない。
自分の身体で小さな馬へ負担をかけることを、ちゃんと気にしている。
皇甫爺も同じところを見たのか、二人への目が少し変わった。
「若」
皇甫爺が俺を呼ぶ。
「はい」
「墨磨を出せ」
「墨磨を?」
「大きい二人には、若の奇行から見せる方が早い」
「奇行と言わないでください」
「では黒歴史」
「もっと悪い」
慶次郎殿が、もう笑っている。
「奇行ですと?」
父上がため息をついた。
「又八郎が、死なぬための馬術と称して、妙な稽古をしておる」
「それはぜひ見たい」
「見世物ではございませぬ」
俺が言うと、慶次郎殿はますます笑った。
「そう言われると、なお見たくなりますな」
この人、上総介様と同じ種類かもしれない。
墨磨が馬場へ出された。
青みを帯びた黒い毛並み。
まだ若いが、背も伸び、胸も少しずつ深くなってきた。
黒鹿毛や栗毛ほど押し出しは強くないが、戻る力がある。
怖がる。
でも戻る。
俺は墨磨の耳を見た。
こちらへ向き、すぐ前へ戻る。
「行けるか」
墨磨は答えない。
だが、鼻を鳴らした。
今日は鞍なし。
鐙なし。
手綱はあるが、握り込まない。
直線だけなら、かなり速い駆けにも耐えられるようになっていた。
全力の長い駆けではない。
だが、前世の感覚で言うギャロップに近い速さでも、短い直線なら落ちずに戻せる。
皇甫爺が横で言う。
「若、見せようとするな」
「分かっています」
「分かっておる顔ではない」
「少しだけです」
「少しが一番危ない」
その通りだ。
俺は息を吐き、墨磨の背へ乗った。
鞍がないと、馬の背の熱が直接来る。
動きもそのまま来る。
墨磨が一歩動くたびに、こちらの腰へ波が来る。
馬場の端へ向かう。
直線を取る。
まず歩く。
次に速歩。
墨磨の耳を見る。
肩の力を抜く。
腿で締めすぎない。
「行く」
声をかけ、腰を前へ送った。
墨磨が駆け出す。
風が顔へ来る。
背が沈む。
浮く。
沈む。
浮く。
手は添えるだけだ。
握ると、墨磨の口が硬くなる。
腰を遅らせない。
腹を固めすぎない。
腿で追わない。
墨磨の背の上に、自分の芯を置く。
直線の半ばで、少しだけ速度が上がる。
馬場役が息を飲むのが分かった。
だが、今日は崩れない。
最後で腰を沈める。
息を吐く。
墨磨が少しずつ緩む。
速歩へ戻し、歩く。
止まった。
俺は墨磨の首を軽く叩いた。
馬場の外から、慶次郎殿の声が飛んだ。
「ははっ、何だそれは! 鞍なしであの速さに耐えるか!」
助右衛門殿は笑わなかった。
だが、目がかなり鋭くなっている。
「手綱を引いておらぬ」
短い一言だった。
見ているところが違う。
慶次郎殿は面白がっている。
助右衛門殿は、使えるかどうかを見ている。
皇甫爺が小さく頷いた。
「もう一つ、弓」
「今日はやるんですか」
「緩くならよい」
俺は短弓を受け取った。
馬上で長弓は扱いにくい。
今使っているのは短い弓だ。
威力は限られる。
だが、馬上で身体を崩さずに射る稽古にはなる。
墨磨をゆっくり歩かせる。
速歩にはしない。
まずは緩く。
馬場の端に置いた藁束を前に見て、一度通り過ぎる。
そこから身体をひねる。
後ろへ射返す。
パルティアンショット、という言葉が頭の中にはある。
だが、ここでは言わない。
言っても意味がないし、出どころを聞かれると困る。
大事なのは、後ろへ射ることではない。
馬の上で身体をひねっても、下半身が残ることだ。
一射。
矢は藁束の端に刺さった。
真ん中ではない。
だが、外してはいない。
墨磨は少し耳を動かしたが、乱れなかった。
俺は息を吐いた。
「まだ遅いです」
皇甫爺が言う。
「速くすれば、若が落ちる」
「分かっています」
「分かっているならよい」
馬場の外では、慶次郎殿が完全に目を輝かせていた。
「後ろへ射るか。しかも鞍なしの稽古からそこへつなぐ。面白い。これは面白いぞ」
助右衛門殿は、静かに言った。
「馬が乱れておらぬ」
そこだ。
助右衛門殿は、やはりそこを見る。
俺は墨磨から降りた。
慶次郎殿が近づいてくる。
大きい。
近くで見ると、本当に大きい。
腕も長いし、足も長い。
これで普通の小さな馬に乗れば、たしかに馬がかわいそうだ。
「又八郎殿」
「はい」
「今のは、誰に教わった」
「半分は皇甫爺に。半分は、自分で落ちながらです」
慶次郎殿は笑った。
「落ちながら覚えるか」
皇甫爺がすかさず言う。
「真似すると怪我をしまする」
「だろうな」
慶次郎殿は、あっさり頷いた。
「だが、理は分かる。鞍や鐙に頼りきれば、それを失った時に死ぬ。馬上で槍を振るなら、手綱を握りしめている暇もない」
助右衛門殿も、静かに頷いた。
「某も、そう思う」
その言い方は短い。
だが、重かった。
慶次郎殿が馬房の方を見た。
「それで、大きい馬はまだいるのですか」
父上が答える。
「上総介様と勘十郎殿へ献上した二頭ほど仕上がったものは、今は少ない」
「やはり、そう簡単には増えませぬか」
「増えぬ。仔馬の頃から見て、食わせ、休ませ、動かし、腹と脚を見ねばならぬ」
皇甫爺が続ける。
「大きくするだけなら、壊すのは早い」
慶次郎殿は真顔になった。
「壊したくはありません」
その一言で、皇甫爺の目が少しだけ柔らかくなった。
助右衛門殿も言う。
「小さな馬に無理をさせるのも、好みませぬ」
この二人は、馬を道具とは見るが、雑な道具とは見ていない。
そこは大きい。
皇甫爺は二人の身体をじっと見た。
「六尺近い」
「近いというか、だいたいそのあたりですな」
慶次郎殿が笑う。
「重い」
「それは申し訳ない」
「謝ることではない。だが、馬を選ぶ。鞍も選ぶ。腹帯も、鐙の長さも、普通では合わぬ」
助右衛門殿が頷いた。
「そこも、見ていただきたい」
皇甫爺は父上を見た。
父上は少し考えた後、俺を見た。
「又八郎」
「はい」
「この二人の馬を、すぐに出せるとは限らぬ」
「はい」
「だが、見立てと稽古はできるか」
「皇甫爺がいれば」
「若」
皇甫爺が低く言う。
「儂に投げるな」
「では、俺も見ます」
「見るだけならよい。決めるのはまだ早い」
慶次郎殿が、楽しそうに言った。
「では、まずは見ていただこう。こちらも、小さな馬を潰すのはもう御免です」
「何頭潰したのですか」
俺が訊くと、慶次郎殿は少し困った顔をした。
「潰した、というほどではないのですが、疲れ方が早い。こちらが乗ると、翌日には脚が重そうになる。あれを見ると、どうにも気分が悪い」
助右衛門殿も言う。
「某も似たようなものにございます」
なるほど。
この二人が大きい馬を欲しがる理由は、見栄ではない。
自分の身体が馬にかける負担を、実感として知っている。
俺は墨磨の首を撫でた。
「大きい馬がすぐに用意できるわけではありません。でも、馬を潰さない乗り方と、合う馬を探すことはできます」
慶次郎殿がにやりとした。
「それを聞きに来た」
助右衛門殿は短く言う。
「お願いいたす」
その礼は、思ったより丁寧だった。
俺は少し背筋を伸ばした。
この二人は、ただの見物ではない。
ただの噂好きでもない。
大きい馬が欲しい。
自分の身体に合う馬が欲しい。
馬を潰さず、戦場で使えるようにしたい。
その欲は、かなり本物だ。
皇甫爺もそれを感じたのだろう。
「まず、乗り方を見る」
「今からですか」
慶次郎殿が笑う。
「見られるなら、今からでも」
「鞍あり。鐙あり。手綱あり」
皇甫爺が釘を刺す。
「若の真似は、させぬ」
「残念ですな」
「残念と思う者ほど、首を折る」
慶次郎殿が吹き出した。
助右衛門殿は少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
その後、二人はそれぞれ馬へ乗った。
慶次郎殿は、やはり派手だった。
身体が大きいのに、馬上で固まりすぎない。
ただ、勢いが前へ出る。
馬がそれに引っ張られる。
皇甫爺が言う。
「前へ行きすぎる」
「性分で」
「馬には迷惑」
「手厳しい」
助右衛門殿は逆だった。
静かだ。
乗り方も荒くない。
だが、大きな身体を遠慮しすぎて、かえって腰が浮く。
「遠慮が馬に乗る」
皇甫爺が言う。
助右衛門殿は首を傾げた。
「某が遠慮していると」
「うむ。馬は背に乗せる。遠慮して浮くと、馬の背を叩く」
助右衛門殿は、少し考えてから頷いた。
「承知」
この人は、言葉が少ない分、飲み込み方が真面目だ。
俺は二人を見ながら、変な気持ちになっていた。
まだ、家臣ではない。
俺の配下でもない。
そもそも俺はまだ、そんなものを持つ立場ではない。
だが、どこかで分かっていた。
この二人とは、たぶん先でつながる。
慶次郎殿の前へ出る力。
助右衛門殿の地に足の着いた強さ。
どちらも、今の小田井には大きすぎる。
けれど、いつか俺がもっと大きな家を持つなら、この二人のような武辺が必要になる。
もちろん、そんなことを口には出さない。
今ここで言えるのは、馬の話だけだ。
夕方になり、二人が馬を降りた。
慶次郎殿は額の汗を拭いながら言った。
「小田井の馬、噂以上ですな」
助右衛門殿も頷く。
「人も、噂以上にございます」
俺は少し困った。
「馬を見に来たのでは」
慶次郎殿が笑った。
「だから、人も見えたのです」
皇甫爺が横でぼそりと言った。
「馬を見る者は、人も見る」
またそれだ。
父上は、二人へ向き直った。
「すぐに渡せる馬はない。だが、そなたらほどの体に合う馬を育てる価値はある。今後、折を見て小田井へ来るがよい」
慶次郎殿の顔が明るくなる。
「よろしいのですか」
「ただし、皇甫の指示には従え」
「もちろん」
皇甫爺が低く言う。
「返事が軽い」
「では、重く。承知仕りました」
「まだ軽い」
慶次郎殿は楽しそうだった。
助右衛門殿は深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたす」
その礼は、やはり静かで重い。
二人が帰った後、馬場には夕方の湿った風が残った。
俺は墨磨の横に立っていた。
皇甫爺が来る。
「若」
「はい」
「あの二人、大きい」
「見れば分かります」
「身体だけではない」
俺は皇甫爺を見た。
皇甫爺は、二人が去った門の方を見ている。
「派手な方は、馬を前へ出す。静かな方は、馬を潰さぬようにしすぎる。だが、どちらも馬を道具としてだけ見ておらぬ」
「はい」
「いずれ、若の近くへ来るかもしれぬ」
心臓が、少しだけ跳ねた。
「なぜ、そう思うのです」
「馬を求めに来た者が、馬だけ見て帰る顔ではなかった」
それは、俺も少し思っていた。
でも、皇甫爺に言われると、妙に重い。
「まだ先です」
「うむ。まだ先だ」
皇甫爺は、墨磨の耳を見る。
「だから今は、馬を見る」
「はい」
「若も、あの二人も、まだ育つ。馬も育つ」
俺は墨磨の首に触れた。
黒鹿毛と栗毛が上へ渡り、小田井の噂が広がった。
その噂を聞いて、慶次郎殿と助右衛門殿が来た。
馬を求めて来た二人は、たぶん馬だけを見て帰ったわけではない。
そして俺も、馬だけを見たわけではない。
のちに治部家の武辺を司る二人。
今はまだ、そんな言葉はどこにもない。
だが、夕暮れの馬場で、二人の背中を見送った時、俺は何となく思った。
いつか、あの二人と一緒に戦う日が来るかもしれない。
その時、二人を乗せる馬も、二人を支える馬術も、小田井から始まっていたなら。
それは、悪くない。
墨磨が鼻を鳴らした。
俺はその耳を見て、ゆっくり息を吐いた。
まずは、この馬を壊さない。
次に、人を壊さない。
その先でようやく、戦場の話だ。
小田井の神童という噂は、また少し広がるのだろう。
でも、その噂の先から、こうして必要な人が来るなら。
面倒な名にも、少しだけ使い道があるのかもしれなかった。