織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
叙任の沙汰が下りたあと、新築の匂い漂う大阪城の一角は、どこか妙に華やいでいた。
将軍義輝を頂点に置きつつ、織田家の骨組みが、ようやく官位のうえでも形になった。
織田上総介信長、大納言兼右近衛大将。
織田勘十郎信勝、参議。
織田治部大輔信繁、治部大輔。
織田市之助信成、刑部大輔。
それぞれに重い。
だが、こと若手二人に限れば、やはり人の目はそこへ行く。
治部大輔。
刑部大輔。
悪ガキ同盟の片割れ同士が、ついにそこまで来たのだ。
もっとも、当人たちは、そういう周囲の感慨を素直に受ける性質でもなかった。
渡り廊下の途中で、先に見つけたのは市之助の方だった。
向こうもこちらに気づき、少しだけ口元を上げる。
信繁も、同じように足を止めた。
ほんの一瞬、昔の悪ガキ同盟の空気が戻る。
次の瞬間、二人ともわざとらしく居住まいを正した。
市之助が、わずかに大仰な仕草で袖を払う。
「よう、治部大輔殿」
信繁も負けじと、妙に丁寧な顔を作る。
「よう、刑部大輔殿」
数拍の沈黙。
そして、二人同時に吹き出した。
「似合わねえ!」
「お前が言うな!」
声が重なり、また笑う。
市之助が、まだ笑いの残る顔で言う。
「いや、でも、刑部大輔かあ」
「不満か?」
「不満じゃない」
市之助は、そこで少しだけ空を見た。
「ただ、何かこう、ほんとにここまで来たんだなって」
信繁も、笑いを引っ込めて頷いた。
「まあな」
「治部」
「何だ」
「お前が治部大輔って呼ばれてるの、前から聞いてたけど」
「うん」
「今日は、何か腹に落ちた」
信繁が、少しだけ眉を上げる。
「へえ」
「先に行きやがって、って思ってたんだよ。ずっと」
その言い方は軽い。
だが、本音だった。
信繁は、そこをごまかさない。
「知ってた」
「知ってたか」
「顔に出るからな、お前」
市之助が、少しだけ苦笑する。
「嫌な話だ」
「でも、そこから腐らなかっただろ」
「腐りかけたことはある」
「それも知ってる」
市之助は、そこで一つ息を吐いた。
「けど、あれで学んだよ。嫉妬で賽を振ると、碌なことにならん」
「うん」
「だから、せめて前向きに使うことにした」
信繁は、その言葉にだけ、ほんの少し嬉しそうな顔になった。
「そっちの方が、お前らしい」
「お前に言われると、ちょっと腹立つな」
「何でだよ」
「昔から、そういう“分かってる”顔するから」
また少し笑いが落ちる。
市之助が、今度は信繁をちゃんと見た。
「でもまあ」
「うん」
「治部大輔殿に並ぶなら、刑部大輔殿ぐらいでちょうどいいか」
信繁は、そこで少しだけにやりとする。
「並んだつもりか?」
市之助は、即座に返した。
「いつまでも置いてかれるつもりもない」
その返しが、実に市之助らしかった。
明るい。
だが軽薄ではない。
悔しさも焦りも知って、そのうえで前へ出る。
信繁は、少しだけ肩を竦めた。
「なら、せいぜい頑張れよ、刑部大輔殿」
「おう。そっちもな、治部大輔殿」
そこへ、ちょうど通りかかった三左衛門が、二人を見て口元を歪めた。
「何じゃ、二人して似合わぬ呼び方をしておるの」
市之助が振り向く。
「三左衛門殿、今日はちゃんと官途で」
「似合わぬものは似合わぬ」
信繁も苦笑する。
「それは自分でも思う」
「だが」
三左衛門は、そこで少しだけ真面目な顔になった。
「ようここまで来たの」
その一言で、二人とも少しだけ黙った。
悪ガキ同盟。
同い年。
同じあたりを走り回って、同じあたりで怒鳴られていた。
そこから、治部大輔と刑部大輔。
軽口で済ませたかったが、たしかに、ここまで来たのだ。
市之助が、ぽつりと言った。
「治部」
「何だ」
「こういう時だけは、ちょっとだけ嬉しいな」
信繁も、すぐには返さなかった。
やがて、同じくらいの声で答える。
「俺もだよ、刑部」
市之助が笑う。
「お、今のはちょっと良かったぞ」
「だろ」
「でも調子に乗るな」
「お前こそ」
そう言い合いながら、二人はまた歩き出す。
治部大輔。
刑部大輔。
まだ中身は悪ガキ同盟のまま、だがもう、織田家の次代を支える柱として並び始めていた。
♢
永禄八年の末。
本拠を大阪城へ移した織田家の評定の間には、すでに畿内の城ではなく、天下を呑み込もうとする家の重さが漂っていた。
上座には権大納言兼右近衛大将、上総介信長。
そのやや下手に参議たる勘十郎信勝。
治部大輔信繁は、いつものように本家中枢へ近い場所に控えていた。
毛利との和議が成り、安芸・周防・長門の三国を残して中国西半の整理がついたばかりである。市之助が西国の柱として押し出され、治部家もまた五十万石の大身として、もはや一門の便利な家では済まぬ立場へ入っていた。
その日、そこへ通された二人は、いかにも「ただの落人ではない」という顔をしていた。
戸次伯耆守鑑連。
吉弘弥七郎鎮理。
信繁にとっては、瀬田城で迎え入れた時点で充分に異様だったが、こうして大阪城の評定の間へ並んで立たれると、改めてその重みが骨に響く。
信長が、二人をじっと見た。
「よう来た」
伯耆守と弥七郎が、深く頭を下げる。
「大友家中より離れ、今は治部大輔殿のもとへ身を寄せております」
「存じておる」と信長。
その一言で、まず「事情はすでに通っている」と示す。
そのうえで、次の一手へ移る。
「九州の話を聞こう」
評定の空気が、わずかに締まった。
信繁は、その言葉を待っていた。
瀬田で二人を迎えてから、こちらでも手持ちの情報は揃えてある。
鶴姫が浅井筋から拾った気配。
美景姫が商人筋から得たという体裁で流してきた西国の妙な名。
自分の推察。
それらを、豊後から逃れてきた当人たちの生の情報と照らす。
そこに、今の九州の現実があるはずだった。
勘十郎兄上が静かに口を開く。
「まず、大友が細っている」
「は」と伯耆守。
「毛利討伐で協力したはずの家が、逆に痩せた。理由は新次郎鎮鑑だけではありますまい」
戸次伯耆守は、短く頷いた。
「鎮鑑殿は、きっかけにございます」
「では、根は」
と、上総介兄上。
ここで答えたのは吉弘弥七郎だった。
「宗麟様の優柔不断と、家中の古傷にございます」
「ふむ」
「新次郎殿は、女を攫い、家臣の妻にまで手をかけ、南蛮の利に眩んで人の売買にまで手を伸ばそうとしております。されど、それだけならば、宗麟様が決断さえなされば斬れた」
「だが、斬れぬ」
「はい」
吉弘弥七郎の声は静かだ。
「前線で動ける若い柱が乏しい。しかも家中の一部は、新次郎殿を旗印に我らを削る方へ動いた」
上総介兄上は、そこで信繁の方を見ずに言った。
「佐伯、志賀」
信繁は心の中で、兄上もそこまで掴んでるのか、と少しだけ苦笑した。
やはり甘くない。
戸次伯耆守が答える。
「左様にございます」
「南部の家老格が主導権を奪おうとしておる」
「はい」
「つまり、大友は外へ痩せる前に、内で食い合い始めた」
「まこと、その通りにございます」
そこへ勘十郎兄上が、一歩踏み込んだ。
「それで終わらぬのが問題だ」
戸次伯耆守と吉弘弥七郎の目が向く。
勘十郎兄上は、もともとこういう整理がうまい。
「大友が細れば、龍造寺が肥える。島津も伸びる」
「は」
「すでに、そうなり始めておりますな」
ここで、信繁が口を挟んだ。
「瀬田でも少し申し上げましたが、こちらで拾った話と、お二方の話が噛み合ってきております」
信長が顎を引く。
「申せ、治部」
「まず島津です」
信繁は、地図の南を指で押さえた。
「四兄弟で有名な家ですが、どうも五人目がおるらしい」
場が少し動いた。
「五人目?」
と勘十郎兄上。
「はい。病弱、あるいは盲目とも。表へはほとんど出ぬ。だが、帷幕で謀をめぐらすと」
上総介兄上が薄く笑う。
「面白い」
「美景姫の手元へ商人筋から入った話では、その者は姿を見せぬ代わりに、兄たちの争点を先に潰しておるそうです」
勘十郎兄上が、そこで問う。
「名は」
「まだ確証が薄い。そこは伏せておきます」
ここで名を断じるより、まず「厄介な五人目がいる」と置いた方が怖い。
戸次伯耆守が、そこで口を開いた。
「某も、似た噂は聞き及んでおります」
「ほう」と信長。
「以前の薩摩の軍とは違い、ここ数年は、ただ豪胆に突っ込むだけではありませぬ。妙に退き際と補給線の締め方が良い時がある。兄弟だけでああまで揃うものかと思っておりました」
「裏にもう一枚おる、と」
「その可能性は高いかと」
そこへ吉弘弥七郎が、別の名を出した。
「龍造寺にもおります」
信繁は、そこでわずかに目を細めた。
「……ほむら姫、ですか」
戸次伯耆守が、初めて少し驚いた顔をする。
「そこまで」
信繁は肩を竦めた。
「商人は口が軽うござる」
本当は、朝倉家が、いやかつての宗滴公が持っていた情報網を美景姫が駆使したものだった。
だが、この場ではそれで十分である。
吉弘弥七郎が言う。
「龍造寺の姫にございます。自ら戦場へ出て、味方を鼓舞する」
「九州の巴御前、とも」
と信繁。
戸次伯耆守が、静かに頷いた。
「若く女ですが、あれは、侮れませぬ」
上総介兄上が、そこで興味を深めたように身を少し乗り出す。
「伯耆守、おぬしが認めるか」
戸次伯耆守は、迷いなく答えた。
「将器がございます」
評定の空気が変わる。
この男は軽々しくそういうことを言わない。
「兵を前へ出すだけではない。こちらの陣の綻びを捉えて鋭く一刺し。さらには崩れかけた者の足を止める術を知っておる。女だから珍しいのではございませぬ。将として厄介ゆえ、名が立っておるのです」
勘十郎兄上が、そこで地図の九州を見た。
「なるほど。大友が痩せ、龍造寺がほむら姫を得て伸び、島津は表に見えぬ五人目を抱える」
「はい」と信繁。
「しかも、大友が立ち直るより先に、その二家はもっと肥えるでしょう」
上総介兄上は、それを聞き終えてから、しばらく黙っていた。
誰も急がせない。
この男が黙る時は、だいたい盤を一段上から見ている時だ。
やがて、上総介兄上が言った。
「九州はいずれ討つ」
その声は、あまりに自然だった。
決意というより、すでに盤上に置かれた石の確認に近い。
「龍造寺も、島津も、放ってはおけぬ」
「御意」と勘十郎兄上。
「ただし、今すぐではございませぬ。中国の整理をさらに固め、海と西国を押さえた上で」
「分かっておる」
信長の目が、戸次伯耆守と吉弘弥七郎へ向く。
「その時、先陣は誰が欲しがる」
戸次伯耆守も吉弘弥七郎も、一瞬だけ顔を上げた。
これは試しだ。
そして同時に、誓約でもある。
戸次伯耆守が、深く頭を下げた。
「もしその日が来るなら」
吉弘弥七郎が続ける。
「ぜひとも、先陣を賜りたく」
上総介兄上は、そこで初めてはっきり笑った。
「よい」
短い。
だが、それで十分だった。
「九州討伐となれば、先陣を任せる」
戸次伯耆守と吉弘弥七郎が、揃って頭を下げる。
「ありがたき仕合わせ」
ここで、上総介兄上はさらに一段、話を固めた。
「それまでの間」
二人は顔を上げない。
「おぬしらは、治部家の客将としてあることを、儂が認める」
信繁は、その言葉にだけ少し息を止めた。
もちろん、瀬田で迎えた時から、こういう裁定を期待していた。だが、実際に兄上の口から出ると重みが違う。
「治部」
「は」
「抱え込め」
「承知仕りました」
「ただし、飼い殺すな」
上総介兄上の目が細くなる。
「九州の生きた地図として、鍛え、使い、待たせよ」
「御意」
勘十郎兄上が、そこで静かに補った。
「客将とはいえ、ただの逗留では意味がありませぬ。西国の情報、海、兵站、そのすべてで話を聞きましょう」
「はい」と信繁。
戸次伯耆守が、その時初めて少しだけ顔を上げた。
「上総介様」
「何だ」
「かたじけのうございます」
上総介兄上は、ふっと鼻で笑った。
「礼はまだよい。働け」
その一言に、大友の二本柱は深く頭を垂れた。
評定がひとまず引いたあと、信繁は座を下がりながら、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
横へ来た勘十郎兄上が、小さく言う。
「治部」
「はい」
「面白い拾い物をしたな」
信繁は苦笑する。
「拾い物って規模じゃないですよ」
「だろうな」
「しかも九州の未来までまな板の上に載せられたのです」
勘十郎兄上が、ほんの少しだけ口元を上げた。
「お前向きだ」
「何がです」
「厄介ごと全部ひっくるめて、家に変えるところが」
信繁は、返す言葉に少しだけ詰まった。
厄介ごと。
たしかにそうだ。
毛利のご隠居は治部家預かりのような顔で畿内へ居残る。
そこへ今度は大友の二本柱。
しかも背後には、島津の五人目と龍造寺の巴御前までいる。
「……勘十郎兄上」
「何だ」
「ちょっと多すぎません?」
勘十郎兄上は、涼しい顔で答えた。
「今さらだろう」
それには、信繁も笑うしかなかった。
大阪城の評定は終わった。
だが、その日決まったのは単なる客将承認ではない。
大友から抜けた二本柱は、治部家へ繋がれた。
九州の生の情報が、信長・信勝・信繁の盤へ乗った。
そしていずれ来る九州討伐で、その二人に先陣を任せるという約束まで置かれた。
西国は、まだ終わっていない。
むしろ、次の戦の形が、ここでようやく見え始めたのだった。
♢
瀬田城へ入った戸次伯耆守と吉弘弥七郎は、まず座敷へ通されるまでの間に、治部家という家の異様さを嫌というほど見せつけられた。
武田典厩信繁。
明智十兵衛。
竹中半兵衛。
黒田官兵衛。
滝川伊勢守。
島左近。
前田慶次郎。
奥村助右衛門。
疋田豊五郎。
日置大膳亮。
松永弾正。
藤林長門守。
柳生義仙。
一人二人でも家の柱になりうる者たちが、まるで当たり前のように瀬田城の廊下を行き来している。
戸次伯耆守が、通された座で低く呟いた。
「……何というか、すさまじい家中にございますな」
吉弘弥七郎も、珍しくその言葉を否定しなかった。
「武だけでも重い。知だけでも重い。そのうえ、どれも余所へ貸せるような人材ではありませぬ」
「治部大輔殿一人が異様なのではない」
「はい」
吉弘弥七郎が、座敷の障子の向こうへ目をやる。
「家そのものが、異様にございます」
その時、廊の方から、柔らかな笑い声と小さな泣き声が重なって聞こえた。
次の瞬間、妻たちと乳母たちが赤子を連れて入ってくる。
お市。
真理姫。
雪姫。
鶴姫。
義姫。
美景姫。
香耶姫。
その背に乳母たち。
胸に、腕に、10人を越える赤子。
それだけでも、戸次伯耆守と吉弘弥七郎には十分に異様だった。
戦の家中である。
だが同時に、この家はそれをただの戦の家にしていない。
しかも、その後ろから、さらに二人の老人がのそりと入ってきた。
一人は美濃のご隠居。
そして、もう一人。
戸次伯耆守と吉弘弥七郎は、同時に目を剥いた。
「……え?」
「何で」
声が重なる。
「何で毛利治部少輔殿が?」
そこにいたのは、安芸のご隠居となった毛利元就だった。
しかも、戦場の古狐としてではない。
美濃のご隠居と並んで、ひ孫同然の赤子をあやしている、好々爺の顔である。
一瞬、二人は反射的に膝立てになった。
戸次伯耆守の手が刀へかかり、吉弘弥七郎も半歩だけ前へ出る。
だが、その一歩を、疋田豊五郎がすっと割って止めた。
「赤子の前でござるぞ」
低い。
だが、よく通る声だった。
その一言で、二人の動きが止まる。
元就は、赤子の小さな手を指でつつきながら、のんびり言った。
「儂は今ではただの隠居じゃて」
美濃のご隠居も、まるで他人事のように笑う。
「そう構えるな。刀を抜くなら、せめて茶を飲んでからにせい」
吉弘弥七郎が、ようやく息を吐いた。
「……いや、そういう問題では」
戸次伯耆守も、さすがに顔を引きつらせている。
信繁は、額を押さえたくなるのを堪えながら言った。
「いや、ほんとにまあ、いろいろ説明が追いつかないのですが、とりあえず今は抜かないで下さい」
「それは心得ました」と伯耆守。
「だが、心の整理が追いつきませぬ」
「それはこっちもです」
そこへお茶と菓子が運ばれた。
座敷はようやく、人が呼吸できる程度の空気へ戻る。
戸次伯耆守と吉弘弥七郎も、警戒を解いたわけではないが、少なくとも「今ここは戦場ではなく治部家の居間に近い」と理解し始めていた。
その、ちょうど一息ついたところである。
鶴姫が、何の前触れもなく口を開いた。
「治部殿」
信繁が茶碗を置く。
「ん?」
「そういえば、お市様と真理姫様と雪姫様には申されたそうですね」
「何を?」
鶴姫は、実に静かな顔で言った。
「惚れたという言葉と、その理由を、皆さんの前で」
お茶を吹いたのは、男衆の方だった。
黒田官兵衛。
明智十兵衛。
竹中半兵衛。
滝川伊勢守。
前田慶次郎。
奥村助右衛門。
島左近。
ついでに戸次伯耆守と吉弘弥七郎まで、完全に巻き込まれている。
謀略に明け暮れた毒蝮三太夫な老人二人も、これにはさすがに動きを止めた。
鶴姫は、一切表情を崩さない。
「つまり、言われておらぬ私や義姫様、美景姫様、香耶姫様には、治部殿は惚れておられぬということでよろしいのですね?」
圧倒的な無言の時間が訪れた。
剣聖の弟子疋田豊五郎も。
美濃の蝮も。
安芸の古狐も。
戦場の武辺者も曲者軍師も。
鬼道雪めいた覇気を漂わせる伯耆守ですら。
誰一人、そこで口を挟めなかった。
信繁が、ようやく口を開く。
「いや、そなたらは上総介兄上に命じられてここに嫁いできたのだろうが。他所の家中の姫君に惚れたのなんだの、あるわけないだろう」
それを聞いた瞬間、鶴姫の口元が、得たりというふうにわずかに動いた。
「であれば」
静かに、だが容赦なく続ける。
「お市様や真理姫様もそうでは?」
信繁の顔が固まる。
「この中では、客将として田代城においでになって、想いを通わせになった雪姫様以外、皆さま上総介様のご命令で娶られたのでしょう?」
さらに室内の気圧が下がった。
今度こそ誰も逃げられない。
元就の智謀も。
道三の毒も。
戸次伯耆守の覇気も。
全部無意味だった。
藤林長門守ら伊賀忍者は持ち場を放棄し、柳生の剣士は見えない殺気に反応して戸惑っていた。
言われた雪姫は顔を真っ赤にして俯く。
お市は静かに微笑み、真理姫は茶碗を持つ手を止めている。義姫は表情には出さず、羽州探題の重みを見せている。
美景姫と香耶姫は、息を潜めたまま信繁を見ていた。
仕方がない、とでも言うように、信繁は肩をすくめた。
そして、まず鶴姫を見た。
「……ん。鶴」
鶴姫の睫毛が、わずかに震える。
「俺はお前に惚れてる」
座敷の空気が、今度は別の意味で止まる。
「初めて会ったのは浅井家との同盟締結の話し合いの時だったが、その分析力と物の見方、それが俺と似てて、まずは相棒という形で欲しいと思った」
鶴姫は、俯きもせず、ただじっと聞いている。
「だが、妻となってくれたのは、とてもありがたい」
「っ……」
それ以上、鶴姫は何も言えなかった。
信繁が義姫に目を向けた。
「義姫」
「はい」
「俺はそなたに惚れておる」
義姫の頬にさっと朱が差した。
「父出羽守殿と兄源五郎殿、いや今は出羽介殿か。その二人について出羽から畿内まで自らやって来たそなたは、奥に迎える価値を自ら証明した。その勁さに惚れた。今も奥でお市やみなを支えてくれていること、感謝している」
義姫は静かに頭を下げた。
信繁は、次に美景姫へ向く。
「美景姫」
「は」
「俺はそなたに惚れておる」
美景姫の喉が、小さく動く。
「斜陽の大身朝倉家で、姫とはいえ本家とは違う分家の姫。それでも朝倉家を残そうと必死で考え、それで織田へ身を投じたその覚悟、俺は尊敬している」
美景姫の目が揺れる。
「それに、そなたなら、もし俺に何かあったり、この城が落ちたとしても、他の奥や子供らも、諦めずに救ってくれると信じている」
美景姫は、そこでようやく小さく息を漏らした。
「あ……」
信繁は、今度は香耶姫を見た。
「香耶姫も」
香耶姫は、少しだけ肩を強張らせた。
「ちゃんと俺は惚れている」
「……」
「自分で滅ぼしておいて何だが、越前に落ち延びて、暮らし向きも辛かったろうに、斎藤家の品位を失わず、喜太郎殿を良く育て、出会ったあのときは、俺のことを刺す勢いで見つめて来た瞳には炎すら宿っていた」
香耶姫の頬が、少し赤くなる。
「だが、それでも今はちゃんと俺の妻を務めてくれている。感謝している」
「ん……」
香耶姫は、それだけしか返せなかった。
信繁は、そこで座を改めた。
「みな、順番はあっても、ちゃんと惚れているし、それは今でも変わらない」
一度、全員を見渡す。
「どうか、これからもよろしく頼む」
そして深く頭を下げた。
長い沈黙のあと、お市がふっと微笑んだ。
「だから申したでしょう?」
信繁が顔を上げる。
「何を」
「治部殿は、ちゃんと想いを口にして下さると」
信繁は、少し眉を寄せた。
「……賭け事でもしてたのか?」
「ではございませんが」
お市は、穏やかな顔のまま続ける。
「本当は、治部殿から言葉にすべきことですよ?」
信繁は、少しだけ気まずそうに咳払いした。
「それは済まなかった。睦言でちゃんと伝えているものだと思っていた」
すると、お市はぴしゃりと言った。
「赤子の前ですよ」
一瞬、座敷がまた静まり、次の瞬間、あちこちで堪えきれなかった笑いが漏れた。
慶次郎が肩を震わせ、官兵衛が袖で口元を隠し、十兵衛ですら目を伏せて笑いを逃がしている。
元就は「これは強い」とでも言いたげに茶を啜り、道三は「見事に詰められたの」と面白がっている。
戸次伯耆守と吉弘弥七郎は、あまりの展開にまだ半ば呆然としていた。
伯耆守が、ぽつりと漏らした。
「……治部家というのは」
弥七郎が受ける。
「戦場より恐ろしい座敷にございますな」
それには、信繁が即座に返した。
「俺も今そう思ってる」
その答えに、座敷の笑いはさらに大きくなった。
瀬田城の冬は近い。
だがその座敷だけは、湯気と菓子の甘さと、赤子のぬくもりと、言葉にされた想いで、妙にあたたかかった。
♢
毛利征伐を終えてから、ようやく信楽の牧が本格的に動き出した。
奥州馬十頭が瀬田へ届いたのは、もっと前のことだ。
島左近が治部家へ加わった後、越後の弾正少弼殿を通じて得た大柄な馬たち。あの時点では、ただ「よい馬が来た」で済ませてよい話ではなかった。
数頭は、慶次郎、助右衛門、左近、滝川伊勢守らへ預けた。
ただ乗せるためではない。大柄な武者を支えられるか。長い移動に耐えられるか。戦場の音で崩れぬか。押す戦に向くのか、追う戦に向くのか。そういうことは、厩に置いて眺めているだけでは分からない。
残りは、瀬田と小田井で見た。
食い、毛艶、糞、息の戻り、冬の痩せ方、脚の腫れ。大きい馬は、それだけで目を引く。だが、大きいだけの馬なら、戦場ではかえって壊れる。治部家が欲しいのは、見栄えのする馬ではない。人を乗せ、坂を越え、泥を踏み、音に耐え、そして戻ってくる馬だった。
信楽の構想自体は、その頃からあった。
坂路を整える。
谷ごとに区画を分ける。
木曾駒の脚と、奥州馬の馬体と、小田井で育った墨磨の戻りのよさを、どう組み合わせるかを見る。
そのための牧を作る。
だが、思いついたからといって、すぐに馬を放り込めばよいわけではない。
信楽は山の土地だ。水を見なければならない。草を見なければならない。坂は、ただ急ならよいのではない。上らせる場所、休ませる場所、下らせる場所、仔馬を入れてよい場所、まだ入れてはならぬ場所を分ける必要があった。
何より、皇甫爺を小田井から動かすには、小田井を空にしないだけの人を育てておかなければならなかった。
その時間が要った。
毛利征伐は、治部家にとって遠征の戦だった。
兵を運び、馬を運び、米を運び、鉄砲を運び、船と陸路を噛み合わせる戦だった。そこで分かったことは多い。遠くへ出る家にとって、馬は戦場の飾りではない。伝令であり、荷であり、指揮であり、撤退路であり、時には命そのものだった。
だから、帰ってきてからの信楽は、以前の構想とは少し違っていた。
趣味ではない。
試しでもない。
治部家がこれから先も遠くへ兵を動かすための、家の事業である。
小田井には、皇甫爺が育てた後継者が残った。
織田本家にも、上総介兄上と勘十郎兄上へ渡した馬を通じて、飼い葉や馬体を見る者が育ち始めている。瀬田では、奥州馬を預けた家臣たちから、乗り味や癖の報告が上がってくるようになった。
ようやく、信楽へ集められる条件が整った。
皇甫爺が来る。
典厩様も、折々に信楽へ入る。
墨磨も、小田井で生まれ育った第一世代として、種馬の一頭に加える。
木曾の馬、奥州の馬、小田井の馬。それぞれの良さを、ただ混ぜるのではなく、役に分けて残す。
毛利征伐の後、信楽の坂路に杭が打たれた。
厩が建ち、柵が張られ、水場が分けられ、馬帳が新たに切られた。
ここからが、治部家の馬作りの本番だった。
♢
信楽の山気は、瀬田とは違っていた。
湖の湿りを含む風ではない。
谷から吹き上げる風と、木立の間を抜ける乾いた匂い。
土は黒く、ところどころ赤みを帯びる。
雨が降ればぬかるむが、晴れが続けば表面だけが締まり、下に湿りを残す。
皇甫爺は、そこを気に入ったらしい。
「悪くない」
最初の一言が、それだった。
褒めたのか、ただ見たままを言ったのか。
そこは相変わらず分からない。
だが、皇甫爺が本当に駄目だと思った時は黙る。
だから、悪くない、はたぶんかなり良い方なのだろう。
隣に立つ典厩様も、山の斜面を見上げていた。
「水はどう見る」
皇甫爺は、足元の土を少し掘り、指で揉んだ。
「多すぎれば脚を腐らせる。少なすぎれば腹を荒らす。ここは、谷ごとに違う。全部を一つの牧にせぬ方がよい」
「ほう」
典厩様が、少し楽しそうに目を細める。
「谷ごとに分けるか」
「分ける。若い馬を上へやりすぎても壊す。腹を作る馬、脚を作る馬、子を取る馬、休ませる馬、同じ場に置くな」
俺は、そこで小さく息を吐いた。
「やっぱり、全部一緒は駄目か」
「駄目だ」
皇甫爺の返事は早い。
「人でも同じだろう。子に大人の飯を食わせれば腹を壊す。走れぬ者に坂を走らせれば膝を壊す。馬も同じだ」
十兵衛が、後ろで筆を取る音がした。
半兵衛はもう帳の項目を考えている顔をしている。
俺は、斜面を見た。
信楽に作るべきものは、ただ広い牧場ではない。
広いだけなら、各務原の方が向く。
ここに置きたいのは、選別と育成の場だ。
平地で数を増やす前に、どの馬を残し、どの馬をどの用途に回すかを見る場所。
そして何より、坂を使う場所。
「坂路を整える」
俺が言うと、典厩様がこちらを見た。
「坂路?」
「馬を坂で鍛える道です。急すぎる坂ではなく、長く、ゆるく、足を無理に痛めぬ坂。上りで腹と尻を作り、下りで脚を壊さぬよう慣らす。走らせるだけではなく、歩かせる日、ゆるく登らせる日、荷を軽く付ける日を分けます」
皇甫爺が、少しだけ眉を動かした。
「ほう」
その顔は、たぶん面白がっている。
「速く走らせるためか」
「それだけではありません。むしろ最初は、息の戻りと、尻の力と、脚の運びを見たい。戦場で欲しいのは、一町だけ派手に飛ぶ馬ではなく、坂を越えて、泥を踏んで、また戻れる馬です」
典厩様が、そこで深く頷いた。
「木曾の馬も、山で使うからこそ腹が違う。平地の馬場で見栄えだけ良くしても、山へ入ればすぐ分かる」
「はい。だから、木曾駒の血は欲しい」
俺は紙を広げた。
信楽の大まかな谷筋。
水場。
厩。
坂路候補。
放牧地。
種馬を置く区画。
雌馬を休ませる区画。
仔馬を人に慣らす小さな囲い。
その端に、墨磨の名がある。
皇甫爺の目が、そこへ止まった。
「墨磨を入れるか」
「入れる。ただし、信楽で生まれた馬としてではない。小田井で始めたことの第一世代として入れる」
自分で言って、少し胸が熱くなった。
小田井で父上に「馬の飼い葉で試せませんか」と言った日。
津島で皇甫爺を見つけた日。
仔馬の腹を見て、糞を見て、毛艶を見て、食いつきが悪いだの、乳を嫌がるだの、卵を混ぜすぎるなだの、少しずつ試した日々。
墨磨の背で落ちた日。
手綱を緩め、鞍を外し、鐙を外し、馬場役に本気で嫌な顔をされた日。
あれは、馬鹿な稽古でもあった。
だが、全部無駄ではなかった。
「墨磨は、体だけで見れば奥州の馬に劣るかもしれない。山の脚だけで見れば木曾の馬に劣るかもしれない。だが、あいつは人を見る。重心の変化を拾う。戻りが早い。驚いても、戻って来る」
典厩様が、静かに聞いていた。
「戦場では大事だな」
「はい。驚かぬ馬はいない。けれど、驚いたあと戻れる馬はいる。そこを残したい」
皇甫爺が低く笑った。
「若は、馬に己の癖を求める」
「悪いか」
「悪くない。落ちても戻る馬。崩れても戻る人。似たものだ」
半兵衛が、そこで何か言いたげな顔をした。
だが、さすがに黙っていた。
たぶん、治部様そのものですな、と言いかけたのだろう。
俺は聞かなかったことにして続けた。
「木曾駒からは、足腰と山での粘りを取る。奥州馬からは、馬体と牽引力を取る。墨磨からは、人への戻り、気性、扱いやすさを取りたい」
十兵衛が、筆を止める。
「つまり、三つを一度に混ぜるのではなく、組み合わせを分けて見るのですね」
「そうだ。一度に全部混ぜれば、何が効いたか分からない。まずは木曾牝馬に墨磨。奥州牝馬に墨磨。木曾牡馬に小田井牝馬。奥州牡馬に木曾牝馬。いくつか分ける」
半兵衛が、軽く目を伏せた。
「帳が増えますな」
「増える」
「馬ごとの親、母、飼い葉、坂路、病、気性、乗り手、全部分ける必要がございます」
「頼む」
「当然のようにこちらへ来ましたね」
「半兵衛が一番向いてる」
「褒めても帳は減りませぬ」
「減らなくていい。むしろ増やしてくれ」
半兵衛は小さく息を吐いた。
だが、嫌な顔ではない。
「では、馬帳を切り分けます。種馬帳、牝馬帳、仔馬帳、坂路帳、病帳、飼い葉帳。これを一つにすると、後で必ず濁ります」
「それでいい」
典厩様が、そこで紙の上へ身を乗り出した。
「木曾から入れるなら、まず大きさだけで選ぶな。山で踏める馬を選ぶ。胸が深すぎて脚がついてこぬ馬もある。反対に、小さく見えても踏み替えの早い馬がいる」
皇甫爺が、その言葉へ頷いた。
「脚を見る。蹄を見る。腰を見る。腹を見る。目も見る」
「目?」
俺が聞くと、皇甫爺はこちらを見た。
「怖がる馬は悪くない。怖がったまま戻らぬ馬が悪い。怒る馬も悪くない。怒ったあと人を忘れる馬が悪い」
典厩様が笑った。
「武者と同じだな」
「同じだ」
皇甫爺は即答した。
「臆病で生きる馬もいる。勇みすぎて死ぬ馬もいる。戦に向くのは、強い馬だけではない。戻れる馬だ」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
戻れる馬。
やはり、そこだ。
遠くへ走れる。
速く走れる。
大きい。
強い。
それは欲しい。
だが、それだけでは戦の馬にならない。
音で狂わず、人を振り落とさず、泥で足を取られても立て直し、火縄の煙と大声の中で、乗り手の腿や腰の合図へ戻ってこられる馬。
そこまで行って、初めて治部家の馬になる。
「火縄の音にも慣らしたい」
俺が言うと、典厩様が少し顔をしかめた。
「早くやりすぎるな。仔にいきなり音を食わせれば壊すぞ」
「はい。最初は遠くから。太鼓、木を打つ音、旗、布、鈴。そこから少しずつです。火縄は最後でいい」
皇甫爺が頷いた。
「耳を塞ぐ具も使える。前に若が言った耳覆い。馬によって使う。全部に同じものを被せるな」
「メンコか」
「その名は知らぬ」
「いや、こっちの話だ」
十兵衛が一瞬だけこちらを見た。
余計な言葉を出した自覚はある。
俺は咳払いして戻した。
「覆面と耳覆いだ。横を見せぬもの、上を見せぬもの、足元を気にしすぎぬもの。あれも信楽で試す。ただし、道具で誤魔化すのではなく、馬ごとに合うものを探す」
典厩様が、今度ははっきり笑った。
「馬ごとに違うか。面倒なことを言う」
「馬ですから」
「違いない」
そこへ、厩方の一人が墨磨を引いてきた。
青鹿毛の身体が、夕方の光を受けて黒く沈む。
小田井で見ていた頃より、さらに首が太くなった。
背も張っている。
だが目は変わらない。
こちらを見る時、驚くでもなく、媚びるでもなく、ただ確かめるように見る。
俺が近づくと、墨磨は鼻先を少し寄せた。
「久しぶりだな」
当然、返事はない。
だが、耳がわずかに動いた。
皇甫爺が横から言う。
「信楽へ連れて来るなら、しばらく種には使うな」
「なぜ」
「土地に慣らす。水に慣らす。草に慣らす。坂にも慣らす。すぐ牝へ当てれば、馬も場も見えぬ」
典厩様も頷いた。
「種馬にする前に、この坂を歩かせろ。走らせるな。まず歩きでよい」
「分かりました」
俺は墨磨の首を撫でた。
「お前、また面倒なことに付き合わされるぞ」
墨磨は、首を少し振った。
嫌がったのか、虫を払ったのかは分からない。
半兵衛が、そこで冷静に言った。
「治部様」
「何だ」
「墨磨を種馬にするなら、治部様が乗り潰す頻度は下げてください」
「……」
「黙らないでください」
十兵衛までこちらを見ている。
「種馬として使う馬を、当主が黒歴史稽古の延長で無茶に使うのは困ります」
「今はもう黒歴史稽古してないだろ」
皇甫爺が鼻で笑った。
「若は、油断するとまた外す」
「何を」
「鞍を」
典厩様が吹き出した。
「聞いておったが、本当にやったのか」
「昔の話です」
「腕も縛ったと聞いたぞ」
「昔の話です」
「治部殿、そなた、賢いのか阿呆なのか分からぬな」
「父上にも同じことを言われました」
典厩様は本気で笑った。
皇甫爺も、口元だけで笑っている。
十兵衛と半兵衛は、笑いを堪える側ではなく、完全に記録する側の顔だった。
俺は墨磨の首に手を置いたまま、少しだけ空を仰いだ。
「とにかく、今度は俺の稽古じゃない。治部家の馬を作る」
そこで、場の笑いが少し収まった。
信楽の斜面。
谷の水。
小田井から来た墨磨。
木曾から来る馬。
奥州から来る大きな馬。
皇甫爺の目。
典厩様の経験。
十兵衛の筋。
半兵衛の帳。
それらが、ここで一つずつ結び始めている。
典厩様が、静かに言った。
「よい。儂も折々に来よう」
「助かります」
「ただし、武田の馬をそのまま真似るな。木曾の馬は木曾で強い。ここでは、ここで強い馬を作れ」
皇甫爺が、それに続ける。
「小田井の真似でもない。小田井は小田井。信楽は信楽。墨磨は種になる。だが、墨磨を増やすのではない」
俺は頷いた。
「墨磨そのものを増やすのではなく、墨磨で分かった良さを残す」
「そうだ」
皇甫爺は、初めて少し満足そうに言った。
「若、少しは馬の言葉が分かるようになったな」
「まだまだだろ」
「まだまだだ」
即答だった。
典厩様が、また笑った。
「厳しい師だな」
「師は厳しい方がいいです」
「それもそうか」
夕方の信楽に、馬の鼻息が混じる。
遠くで人足が杭を打つ音がする。
坂路にする予定の道には、もう縄が張られ、土を均す者たちが入っていた。
半兵衛が、その音を聞きながら言う。
「まずは銭が飛びますね」
「知ってる」
「人も要ります」
「それも知ってる」
「馬丁、飼い葉方、鍛冶、革、柵、厩、坂路、水場、帳、見回り、夜番」
「分かってる」
「では、これは趣味ではなく事業ですね」
俺は少し笑った。
「好きで始める事業だ」
典厩様が頷く。
「それでよい。好きでなければ、馬の世話など続かぬ」
皇甫爺も、珍しく否定しなかった。
墨磨が、俺の袖を軽く噛んだ。
昔と同じ癖だ。
「お前もそう思うか」
もちろん返事はない。
だが、信楽の坂を見上げる墨磨の横顔を見ていると、小田井で始まった馬の話が、ようやく次の形を持ち始めた気がした。
ここは、墨磨の生まれた場所ではない。
けれど、墨磨の血と、小田井で積んだ試みが、次の馬へ渡っていく場所になる。
信楽の坂路。
皇甫爺の目。
典厩様の木曾の知恵。
奥州の大きな馬。
そして、墨磨。
治部家の馬作りは、この日からようやく、家の事業になった。
♢
木曾から馬が届いたのは、それからしばらくしてのことだった。
典厩様の手配は早かった。
もちろん、武田家の良馬を根こそぎ持ってくるような話ではない。
そんなことをすれば、甲斐の馬方が怒る。
そもそも、信楽で試すのは、今すぐ戦へ出す馬ではなく、次の世代を作るための馬だ。
だから届いたのは、派手に大きい馬ではなかった。
むしろ、一見すると地味だ。
背はそこまで高くない。
首も長すぎない。
胸も極端に深くはない。
だが、坂を歩かせると違った。
「止まらぬな」
俺が言うと、典厩様は満足そうに頷いた。
「木曾では、見栄えだけの馬はあまり要らぬ。坂を踏み、荷を背負い、足を滑らせず、翌日も歩ける馬がよい」
皇甫爺は、馬の後ろ脚をじっと見ていた。
「腰が強い。だが、重い男を乗せて戦場を走らせるには小さい」
「だから混ぜる」
典厩様が言う。
「山の脚は欲しい。だが、治部が欲しいのはそれだけではあるまい」
「はい」
俺は、反対側の囲いを見た。
そこには、奥州から仕入れた馬がいた。
こちらは明らかに大きい。
背が高く、胸も広い。
小田井で育った馬たちを見慣れていても、やはり目を引く馬体だった。
ただし、動きは重い。
平地では見栄えがする。
だが、信楽の坂に入れると、踏み替えが遅れる。
上りでは力で押すが、下りで迷う。
脚の置き場を探して、首が少し上がる。
皇甫爺が、低く言った。
「大きいだけでは駄目だ」
「でしょうね」
「だが、要る」
「ええ。大きさは、大きさで力ですから」
典厩様も、そこは否定しない。
「戦場で大柄な武者を乗せるなら、馬体は要る。荷を引くにも、長い道を行くにもな。だが、山で使うなら、脚を作らねばならぬ」
「そこで坂路か」
「そうです」
俺は、整え始めた坂路を見た。
急な坂ではない。
わざと、ゆるく長く取った。
途中に平らな息入れの場所を置く。
雨のあとに水が溜まる場所には砂利を入れる。
滑りすぎるところには土を替える。
下りで脚を痛めやすい場所には、柵を少し内へ寄せ、速度を落とさせる。
馬を鍛える道であり、同時に壊さないための道でもあった。
最初、人足たちは不思議そうな顔をしていた。
「馬のために道を作るのでございますか」
そう聞かれた時、俺は少し考えてから答えた。
「人が通る道も、馬が崩れれば荷が止まる。馬のための道は、結局、人の道でもある」
半兵衛が横で、また帳に何か書き込んでいた。
たぶん、俺の言葉ではなく、道の維持費を書いていたのだろう。
あいつはそういう男だ。
♢
信楽での試みは、すぐに結果が出るものではなかった。
まず、木曾の牝馬へ墨磨を当てる。
次に、奥州の牝馬へ墨磨を当てる。
それとは別に、木曾の牡馬と小田井育ちの牝馬。
奥州の牡馬と木曾の牝馬。
その組み合わせを分ける。
同じ日に同じ飼い葉をやって、同じ坂を登らせるわけではない。
馬ごとに腹が違う。
食いつきも違う。
乳を好むものもいれば、嫌がるものもいる。
卵を混ぜると毛艶がよくなる馬もいれば、腹を緩くする馬もいる。
肉を煮て細かく混ぜたものを食う馬もいれば、匂いだけで首を背ける馬もいる。
皇甫爺は、そこを一つずつ見た。
「増やすな」
ある日、飼い葉方へそう言った。
「昨日より食うからといって、今日増やすな。腹が驚く」
「ですが、よく食べますので」
「よく食べる馬ほど壊すな。食える時に食わせすぎると、次に食わぬ時が来る」
典厩様も、そこへ口を添えた。
「山の馬は、腹が強くなければ使えぬ。だが、強い腹は一日で作れぬ」
俺は、二人の言葉を聞きながら、改めて思った。
馬は、面倒だ。
人間よりも面倒かもしれない。
言葉が通じない。
不調を訴えない。
こちらが見逃せば、そのまま脚を痛める。
腹を壊す。
気性が荒れる。
人を嫌う。
だが、だからこそ面白い。
ある日、墨磨を坂路へ入れた。
種馬にする前に、土地へ慣らす。
皇甫爺の言った通り、最初は歩きだけだ。
走らせない。
登らせるだけ。
下りはさらにゆっくり。
墨磨は、最初だけ少し耳を動かした。
信楽の土と、風と、水の匂いを確かめているのだろう。
俺は手綱を短く持たなかった。
軽く添えるだけにする。
すると、墨磨は一度だけこちらの膝へ意識を向けた。
「覚えてるな」
声に出すと、皇甫爺が横から言った。
「馬は忘れぬ。嫌なことも、良いことも、人の重さも」
「それ、怖いな」
「怖いと思うなら、雑に乗るな」
「はい」
素直に返すしかなかった。
坂の半ばで、墨磨は一度だけ足を止めた。
止まったというより、土を確かめた。
俺は急かさない。
皇甫爺も何も言わない。
典厩様も黙っていた。
やがて、墨磨は自分で一歩を出した。
その踏み出しを見て、典厩様が小さく言った。
「よい馬だな」
俺は少しだけ笑った。
「でしょう」
「自慢するな」
「自慢くらいさせてください」
「種馬にするなら、なおさら大事にせよ」
「分かっております」
「本当に分かっておるか」
典厩様にまで疑われた。
皇甫爺が、そこで淡々と言った。
「若は、分かっていても乗る」
「皇甫爺」
「違うか」
「……頻度は下げる」
「下げる、では足りぬ」
半兵衛が、後ろからすぐ足した。
「墨磨の騎乗日は、こちらで帳に入れます」
「俺の馬なのに?」
「種馬でもあります」
「……はい」
十兵衛が、なぜか満足そうに頷いていた。
こうして、墨磨は俺の愛馬でありながら、少しずつ俺だけの馬ではなくなっていった。
それは寂しくもあった。
だが、悪い寂しさではない。
小田井で俺と一緒に転び、走り、戻ることを覚えた馬が、今度は治部家の馬作りの中心になる。
それなら、俺が独り占めしている場合ではなかった。
♢
初めての選別評定は、信楽の厩脇で行われた。
机の上には、半兵衛の作った馬帳が並ぶ。
種馬帳。
牝馬帳。
仔馬帳。
坂路帳。
病帳。
飼い葉帳。
気性帳。
さすがに多い。
「多すぎないか」
俺が言うと、半兵衛は涼しい顔で返した。
「治部様が分けろと仰いました」
「言ったけど」
「ならば増えます」
「そうだけど」
十兵衛が一冊を開く。
「こちらの木曾牝馬は、坂での戻りがよい。ただし、食いが細い」
皇甫爺が頷く。
「無理に増やすな。乳と麦を少し。卵はまだ要らぬ」
典厩様が別の帳を見た。
「この奥州牝馬は、体はよいが、下りで首が上がる」
「怖がっておりますか」
十兵衛が問うと、皇甫爺は首を振った。
「怖いのではない。脚の置き場が分からぬ。坂へ入れる前に、短い下りを歩かせる」
「坂路へ出す前の坂路か」
俺が言うと、半兵衛が筆を止めた。
「それは別に作る、という意味ですか」
「いや、今のは言葉の綾で」
「ですが必要ですな」
「必要なのか」
典厩様が頷いた。
「必要だ。いきなり長い坂へ入れる前に、短い坂で癖を見る場が要る」
半兵衛が、すぐ帳に足した。
「小坂場」
「名前がそのままだな」
「分かりやすい方が事故が減ります」
それはそうだった。
こうして、信楽には次々と場所が増えていった。
大坂路。
小坂場。
仔馬囲い。
種馬厩。
牝馬休め。
水見場。
飼い葉小屋。
病馬小屋。
最初は牧場と言っていたものが、気づけばかなり本格的な施設になり始めている。
銭が飛ぶ音がした。
実際に聞こえたわけではないが、半兵衛の目を見ればだいたい分かる。
♢
それでも、最初の仔が生まれた時、誰も銭の話をしなかった。
木曾の牝馬に墨磨を当てた仔だった。
まだ脚は頼りない。
立ち上がるだけで精一杯。
毛色は母に近いが、背の線に墨磨の気配がある。
耳がよく動く。
人が近づくと逃げるのではなく、まず母の腹へ寄り、それからこちらを見る。
皇甫爺は、しばらく黙って見ていた。
典厩様も何も言わない。
俺も、言葉が出なかった。
やがて、皇甫爺がぼそりと言った。
「目は悪くない」
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
典厩様が続ける。
「脚はこれからだな」
「はい」
「急ぐな」
「分かっています」
「今の返事は、少し信用できる」
「少しですか」
「少しだ」
俺は笑った。
仔馬は、まだ世界の意味も分からず、母の腹へ顔を押しつけている。
その姿を見ていると、戦のための馬を作っているという感覚が、少しだけ遠のいた。
だが、それも一瞬だ。
この仔が育てば、いつか誰かを乗せる。
伝令を運ぶかもしれない。
戦場で槍を避けるかもしれない。
逃げる味方を生かすかもしれない。
あるいは、次の仔を残すだけで終わるかもしれない。
それでもいい。
馬作りは、一代で終わらない。
俺がそう思っていると、典厩様が静かに言った。
「治部」
「はい」
「馬は、家に似るぞ」
「家に?」
「焦る家の馬は、焦る。荒い家の馬は、荒くなる。雑な家の馬は、人を嫌う」
皇甫爺も頷いた。
「馬は、人を映す」
俺は、仔馬を見た。
「では、治部家の馬はどうなりますか」
典厩様は少し笑った。
「面倒な馬になるだろうな」
「それは褒めていますか」
「半分は」
皇甫爺が続けた。
「よく見る馬になる。人を見る。道を見る。戻る。だが、楽な馬にはならぬ」
「上等です」
俺は、ようやくそう言えた。
楽な馬を作るつもりはない。
強すぎて扱えない馬でも困る。
ただ大きいだけでも足りない。
速いだけでも駄目だ。
人を見て、地を見て、戻れる馬。
治部家が戦場で欲しいのは、そういう馬だ。
信楽の坂の下で、仔馬がようやく四本の脚で立った。
ふらつきながらも、倒れない。
一歩出して、また止まる。
母馬が鼻で押す。
仔馬はもう一歩出る。
皇甫爺が、小さく頷いた。
「まずは、一歩だ」
その一言に、なぜか皆が黙った。
坂路も。
牧も。
血の組み合わせも。
墨磨を種にした試みも。
木曾駒と奥州馬の掛け合わせも。
全部、まだ一歩目にすぎない。
だが、一歩目がなければ二歩目はない。
信楽の山気の中で、治部家の馬作りは、ようやく血として始まった。