織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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060九州討伐開始

大阪城の評定の間には、戦の匂いと同じくらい、今後の日ノ本一統へ向かい、その重要な方向を決める時の乾いた重さが満ちていた。

 

毛利家征伐を終えた今、西国は一息ついたようにも見える。

だが、実際には違う。

大きな火が一つ片付いたことで、次に燃え上がる場所が、むしろはっきり見えるようになっただけだ。

 

九州。

 

しかも今度は、ただ一つの大名家に兵をぶつければ済む話ではない。

どこへ何人を出すか、その前に、どこへどう集め、どこからどう運び、どこで何を食わせ、誰に土地の息を継がせるか。

戦そのものより、戦へ至る道の方が、今日は重かった。

 

海を越える必要がある。

大量の兵や物資を運ぶことになる。

 

水際での上陸で手こずれば相手方の思う壺だ。また、現地の者たちにも、平穏無事には受け入れられないかもしれない。

 

上座には上総介兄上。

そのやや下手に勘十郎兄上。

俺はいつもの位置に控え、盤の上へ置かれた地図と、座中の顔を一つずつ見た。

 

そして、もう一つ。

 

市之助だ。

 

刑部大輔補任の沙汰が下ってから、あいつの座る位置に、もう誰も違和感を示さなくなった。

官途をもらったからではない。

今のあいつは、その名を背負って座していても、白けないところまで来たということだ。

 

悪ガキ同盟の片割れ。

だが、今はただの片割れじゃない。

本家軍第一陣を率いさせる話が出ても、不自然ではない男になっている。

 

そういうことをしみじみ思うのも、どうにも気色が悪い。

俺は考えるのをやめた。

 

やがて、上総介兄上が口を開いた。

 

「中国は一旦収めた」

 

静かな声だった。

だが、その先を全員が待つ。

 

「だが、西はまだ終わっておらぬ」

 

やはり、そこへ行く。

誰も動かない。

わずかに空気だけが締まる。

 

「九州を討つ」

 

思いつきではない。

怒りでもない。

盤上に置く常石として、もう決まっている言い方だった。

 

勘十郎兄上が継いだ。

 

「今回は、陸戦の強さだけで済む話ではありませぬ」

兄上の指が、大坂から西へ、さらに周防のあたりまで地図をなぞる。

「畿内や東海道の兵はまず大阪へ集める。そこから防府へ進発。防府近辺より、海路を用いて一気に各上陸地へ送る」

 

そこで、座の一角にいた面々へ視線が流れた。

 

毛利。

長曾我部。

三好。

九鬼水軍。

知多水軍。

 

それぞれが海を生業とし、海を道とし、海の上で人と物を運ぶ術を持つ者たちだ。

ただの水夫ではない。

一方面軍に匹敵するだけの仕事を、船上でこなせる連中である。

 

勘十郎兄上が続ける。

 

「毛利・長曾我部・三好・九鬼・知多、各水軍を用いる。防府近辺より兵を分乗させ、当初の目的通りの地点へ上陸させる。今度の戦は、船が遅れれば陸の軍が死ぬ。船が揃えば、陸の軍が生きる」

 

その言い方は、実に勘十郎兄上らしかった。

簡潔で、余分がない。

だが、水軍衆をただの運び屋として見ていないことは、誰にでも分かる。

 

毛利方の使者が、静かに頭を下げた。

 

「海上での乱れは起こさせませぬ」

 

長曾我部方も、九鬼も、三好も、それぞれ無言で頷く。

知多の者も、短く一礼した。

みな、自分たちが戦の土台そのものを担うと理解している顔だ。

 

上総介兄上が、そこで言った。

 

「陸で槍を振るう者は目立つ。だが、今回は海で人を運ぶ者が、戦の半ばを決める」

 

軽く聞こえそうで、実際にはかなり重い。

あの人がそう言う時は、本当にそう思っている。

 

俺はそこで、地図の九州北部へ目を落とした。

豊後、筑前、筑後川、肥前、唐津。

それぞれがバラバラのようでいて、海と川で繋がっている。

 

上総介兄上が視線を市之助へ向ける。

 

「市之助」

「は」

「本家軍第一陣を持て」

 

場が、わずかに動いた。

俺は動かなかった。

こうなると思っていたからだ。

だが、思っているのと、兄上の口からはっきり出るのとでは違う。

 

「豊後を任せる」

 

市之助は頭を下げた。

 

「承知仕りました」

 

気負いすぎず、軽くもない。

今の立場をよく分かっている返しだった。

 

勘十郎兄上が補う。

 

「豊後は、大友旧領を立て直しながら、南からの圧を受け止める地になります。ただ攻め込めば良いのではない。崩れたものを立て直し、味方にする必要がある」

 

そこへ、戸次伯耆守と吉弘弥七郎が、改めて前へ出た。

 

伯耆守。

弥七郎。

 

いずれも今は治部家の客将だ。

だが、それは仮宿の名ではない。

九州の生きた地図として、織田へ拠った客将である。

 

俺が口を開く。

 

「本家軍第一陣へは、戸次伯耆守殿と吉弘弥七郎殿を客将としてお付けするのがよろしいかと」

「理由は」

 

と、上総介兄上。

 

「豊後を知り、大友旧臣の息を知っていること。もう一つは、今の豊後では、勝つだけでは足りぬことです。誰のもとならまだ立てるのか、それを現地に見せねば、兵は寄りません」

 

伯耆守が深く頷いた。

 

「左様にございます」

低く、太い声だ。

「城を取れば済む話ではありませぬ。大友旧臣のうち、まだ折れきっておらぬ者らへ、ここで踏み留まれると見せねばならぬ」

 

弥七郎が継ぐ。

 

「刑部大輔殿の軍が来る。それだけでは足りませぬ。我らが間に入り、豊後の理で兵を繋ぎ、人心を逃がさぬことが肝要にございます」

 

市之助が二人へ向き直る。

 

「頼りにしております、伯耆守殿、弥七郎殿」

 

昔なら、もう少し尖った物言いをしたかもしれない。

だが今のあいつは、本家軍を預かる男として、借りるべき力を知っている。

そのへんは、やはり成長した。

 

俺は次に筑前側へ指を伸ばした。

 

「治部家は別から入ります」

 

勘十郎兄上が、すぐに言う。

 

「名島か」

「はい。筑前名島へ上陸。その後、博多を押さえ、博多会合衆と会談します」

 

ここで、座中の何人かがわずかに顔を上げた。

戦の評定であっても、博多の名が出れば商いの匂いが混じる。

だが、その商いこそが、戦を長く続ける骨である。

 

「兵糧その他兵站は、すでに博多商人を通じて整え始めております。現地へ入ってから一から奪い、集め、怯えさせるより、最初から回る流れを作っておく方が早い」

「博多会合衆が素直に首を縦に振るか」

 

と、上総介兄上。

 

「素直ではないでしょう」

俺はそう答えた。

「ですが、商人は武士より現実的です。戦がどちらへ傾くか、誰が流れを安定させるか、それを見れば動きます。こちらも、ただ従えと命じるより、商いの利を説いて博多の町が回り続ける形を示すべきかと」

 

勘十郎兄上が頷く。

 

「潰して静かにするより、回して静かにする方が利が大きい」

 

「はい」

そこからさらに、俺は多々良川、御笠川、筑後川へ指を滑らせた。

「名島上陸後は、多々良川、御笠川、筑後川を使って内へ入ります。大野城、四王寺を抜け、太宰府を横目に筑紫平野から肥前村中城方面。陸だけで押し込むのではなく、水運で兵と物を通しながら龍造寺家本拠圏へ圧を掛けます」

 

地図の上で見れば、迂遠に見えるかもしれない。

だが、川は道だ。

しかも、道の上に兵站を載せられる。

それを握れば、ただ城下へ迫るより、よほど深く喉元へ手が届く。

 

上総介兄上の目が細くなる。

 

「龍造寺の本拠を直接脅かすわけだな」

「はい。支城を削られるだけなら耐えられても、本拠へ繋がる道を脅かされれば、兵の動かし方は一気に苦しくなります」

 

勘十郎兄上が、そこで北西側へ手をやった。

 

「ならば、唐津側も手当が必要だ」

 

「そこは浅井軍と毛利軍に」

俺が言うと、毛利方の使者が姿勢を正した。

「唐津より上陸し、龍造寺家支城群を対処いたします。北西から削り、治部家が真ん中へ入る間、敵の目と兵を散らす役目です」

 

「毛利は誰が率いる」

 

上総介兄上の問いに、使者が即座に答えた。

 

「吉川駿河守元春、小早川中務大輔隆景にございます」

 

場の気配がさらに締まる。

その二人なら、添え物では済まない。

水軍を抱え、海から入り、支城を処理し、戦線を維持する。

十分に一翼を張る重さがある。

 

俺も、そこは軽くしないよう言った。

 

「毛利軍は、ただの協力ではありません。唐津上陸から沿岸の扱い、支城処理、その後の押さえまで含めて、最も手慣れております。浅井軍を添えることで、陸側の伸びも安定します」

 

勘十郎兄上が、ここで全体をまとめた。

 

「本家軍第一陣は豊後。刑部大輔が率い、戸次伯耆守と吉弘弥七郎が客将として戦陣に入る。治部家は名島より上陸、博多を押さえ、多々良川、御笠川、筑後川経由で村中城方面へ進む。浅井軍・毛利軍は唐津より入り、龍造寺支城を処理する」

 

「うむ」

と、上総介兄上。

「これで九州北部の首を、別々の手で締める」

 

まったく、その通りだ。

一色に塗りつぶすのではなく、豊後、名島、唐津からそれぞれ喉へ手を掛ける。

そうすれば龍造寺も島津も、大友旧領も、別々に対応する余裕を失う。

 

だが、その盤を頭の中で追いながら、俺は別のことも考えていた。

 

現在計画が成就しかけている決定的なものだが、まだ、ここで明かすべきではない切り札だ。

 

村中城。

そして、さらに先、薩摩島津家の内城。

 

その攻略に用いるための隠し玉は、すでに完成を迎えている。

 

もちろん、そんなものをこの場でぺらぺら喋るわけにはいかない。

切り札は、見せる前が一番強い。

しかも、出来たと言って終わりではない。

実際にどのような癖が出るかを見なければ、実戦で使えるかは分からぬ。

 

俺は、評定の表面では平然とした顔を保ちつつ、頭の隅でその進捗をなぞっていた。

間に合うか。

どこまで秘せるか。

見せるなら、どの一撃目にするか。

 

上総介兄上が俺の方をちらりと見た気がした。

気づかれたかとも思ったが、何も言わない。

多分、あの人は、俺がまだ表へ出していない切り札があること自体は察している。

だが、今ここで座中へ広げる段ではないと分かっているのだろう。

 

それで十分だった。

 

勘十郎兄上が、さらに兵站の話へ入る。

 

「防府までは陸で押し出す。そこから船で分ける。ゆえに、大阪表へ集める段で兵を混ぜすぎぬことだ。本家、治部家、浅井、毛利、それぞれの上陸後に必要な荷を最初から分けておかねば、防府で詰まる」

「は」

 

と、各方面の奉行衆が答える。

 

「名島へ入る治部家軍は、博多商人との接続がある分、現地補給の目処がある。だが、それを当て込みすぎるな。最初の一歩は必ず自前で持て」

「承知しております」

 

と、俺。

 

「豊後方面も同様だ。刑部大輔」

「は」

「府内の商人、戸次・吉弘の両名がいるとはいえ、豊後へ入ってすぐに全てが元の我らの側で動くと思うな。足場を作り、人を繋ぎ、それから押し返せ」

「承知仕りました」

 

良い返事だった。

軽くない。

あいつも、本家軍第一陣を背負うことの重さを、きちんと腹に落としている。

 

その時、俺はふと思い出したように口を開いた。

 

「もう一つ」

 

上総介兄上が視線を寄越す。

 

「申せ」

 

「伊賀者、ならびに博多商人より、大友家と龍造寺家の合戦が近いとの話が入っております。現状想定される合戦予定地は筑前太刀洗。大友家の物見の動きが活発化しておるとか」

 

場の空気が少し変わる。

戦が近い、という言葉は、盤上の石を急に生々しくする。

 

勘十郎兄上が問う。

 

「確報か」

 

「そこまではまだ」

俺は首を振った。

「ただ、単なる風聞とも思えませぬ。龍造寺が押し込むにせよ、大友が踏み留まるにせよ、あのあたりが熱を持ち始めているのは確かかと」

 

伯耆守の目が、わずかに鋭くなる。

弥七郎も、地図の豊後北部から太刀洗あたりへ視線を落とした。

 

「……近いですな。ただ、進次郎殿は物見などは信用しておらぬゆえ、志賀などが抑えのために遣わしているかと。あれらも戦には慣れておるし、その面で進次郎殿を信用してはおらぬと思えます」

 

と、伯耆守。

 

「はい」と弥七郎。

「この戦、豊後を立て直す前に、筑紫平野太刀洗で流れが決まれば、戦後が難しくなります」

 

市之助が地図を見たまま言う。

 

「なら、豊後へ入るまでに時間を掛けすぎられねえな」

 

「そういうことです」

俺は答えた。

「もっとも、まだ急報憶測の域です。ここで戦が始まったと決め打ちはできませぬ」

 

上総介兄上が頷く。

 

「よい。戦報ではなく、不穏として置け」

「御意」

 

それでいい。

今の段階で必要なのは、慌てることではない。

だが、名島上陸後に博多で会合衆と会い、兵站を握り、そこから内へ伸びる治部家としては、太刀洗方面の熱が上がるなら、即応の腹積もりがいる。

 

九州戦は、始まってから動くのでは遅い。

始まる前から、どこへ手を伸ばせるかで半分決まる。

 

評定がひとまず区切れたあと、俺はようやく小さく息を吐いた。

 

横から、低い声がする。

 

「治部」

 

市之助だった。

 

「何だ、刑部」

 

そう呼ぶと、あいつは口元を少し歪めた。

 

「まだ慣れねえな」

「俺もだよ」

 

「だが」

あいつは地図の豊後側を見た。

「預けられた以上はやる」

 

「ああ」

「そっちは名島から敵の真ん中を食い破るんだろ」

「まあ、そんなところだ」

「伯耆守殿と弥七郎殿を借りる。負けられねえな」

 

昔のあいつなら、もっと棘のある言い方をしただろう。

だが今のそれは、ずっと静かだ。

それでも中身は同じだ。

置いていかれるつもりはない。

追いつくどころか、先も行く。

そういう顔である。

 

俺は少し笑った。

 

「そっちも重いぞ。豊後は勝つだけじゃ済まない」

 

「分かってる」

市之助も笑う。

「そっちだって、博多から村中城だろ。商人も川も城も全部抱える気か」

 

「兄上方がそう仰るからな」

「今さらだな」

 

まったく、その通りだった。

 

本家軍第一陣は豊後。

治部家は名島。

浅井軍と毛利軍は唐津。

毛利・長曾我部・三好・九鬼・知多の各水軍は、防府からそれを海で繋ぐ。

 

そして俺の胸の内には、まだ表へ出していない切り札がある。

村中城と、そのさらに先、内城で切るための手。

 

まだ誰にも広くは見せない。

だが、間に合えば、局面を一つひっくり返せる。

 

上総介兄上と勘十郎兄上は、今も向こうで兵站の細部を詰めている。

天下を呑みに行く家の顔だ。

 

俺と市之助は、その盤の上で、もう悪ガキ同盟のままではいられない。

それぞれ別の方面軍を持ち、別の重さを背負い、それでも並んで前へ出る。

 

毛利の次は、九州。

 

だが、その九州は、ただ槍を向ければ取れる土地ではない。

海があり、川があり、町があり、商いがあり、古い縁と、新しい怨みがある。

だからこそ、戦は始まる前に半ば決まる。

 

今日の評定は、そのための盤面を、ようやく形にしたのだった。

 

 

大阪城へ兵が集まり始めると、城下の空気そのものが変わった。

 

普段なら、商人は相場で季節を知り、職人は注文の数で景気を読む。

だが、この時ばかりは違う。

どの蔵が空き、どの馬宿が埋まり、どの鍛冶場が夜更けまで火を落とさぬか。それだけで、人々は察したのだ。

 

次は、九州だと。

 

もっとも、こちらは察されて構わぬことと、構わぬでは済まぬことを分けて動かねばならない。

兵の集結そのものは隠せない。

だが、どの軍がどこへ入り、何をもって決め手とするかまでは、ぎりぎりまで濁す必要があった。

 

織田本家軍、治部軍、浅井軍、毛利軍。

さらにその背を繋ぐ水軍。

数が大きくなればなるほど、戦は槍先より先に口から漏れる。

だからこそ、勘十郎兄上は大阪での集結段階から、荷と兵を細かく分けさせていた。

 

防府まで持っていく荷。

防府で分けて積む荷。

現地でしか明かさぬ荷。

 

その仕分けの書付を見ながら、俺は小さく息を吐いた。

 

「相変わらず細かいな」

 

横で十兵衛が答える。

 

「細かくなければ、この規模は動きませぬ」

「分かっている」

 

「それに」

十兵衛は、わずかに声を落とした。

「細かく分けるほど、見せたくないモノも埋め込みやすい」

 

さすがに、そこはよく分かっている。

 

俺は返事をしなかった。

その代わり、机の端に置いてあった別の書付へ視線を落とした。

 

村中城、そしてさらに先、薩摩島津家の内城攻略のどこかで一気にひっくり返すための札だ。

無論、そんなものをこの時点で広く話す気はない。

 

上総介兄上も、勘十郎兄上も、おおよその存在は察しているだろう。

だが察していることと、座中へ流すことは別だ。

切り札は、使う前よりも、まだ見せていない時の方が強い。

 

その進捗だけを、俺は別で確認していた。

 

「間に合いそうか」

 

と、文面へ向かって小さく呟く。

 

半兵衛が、俺の手元を見ずに言った。

 

「良くも悪くも、あれは正直です」

「そうだな」

「嘘はつきませぬ。出来ておれば使えますし、出来ておらねば使えません」

「縁起でもないことを言うな」

「無駄になるのなら、今のうちに切り捨てられます」

 

その言い草が、いかにも半兵衛だった。

嫌味ではない。

ただ、戦の道具として見た時の正しさだけを言っている。

 

「まあいい」

俺は書付を畳んだ。

「今は九州が先だ。札は多い方がよいが、目の前の一手を誤れば意味がない」

 

 

兵は、順次大阪を出た。

 

一度に全部は動かさない。

道が詰まり、宿や野営地が詰まり、何より自分たちの兵站を自分たちで潰すことになる。

 

野営地では大量の薪が焼かれ、兵が食事し、尿や便を巻き散らす。その後始末までしてこそ、公儀の派する軍と言える。

 

先に出る兵。

後から追う兵。

荷を先行させる隊。

馬を優先する隊。

軍勢を細分化し、街道のどこで分け、どこで合流させるか。

 

そういう、戦に見えぬ戦が、防府へ至るまで延々と続く。

 

大阪を離れた時点では、まだ人の目には「大軍が西へ向かう」程度にしか映らなかっただろう。

だが、防府へ近づくにつれ、その意味は急に生々しくなった。

 

船が見えるからだ。

 

毛利の船。

長曾我部の船。

三好の船。

九鬼の船。

知多の船。

 

それぞれ形が違う。

癖も違う。

乗せ方も、漕ぎ手の声も違う。

だが違うまま、よく揃っていた。

西国と畿内と四国の海が、ここだけ一時的に一つの浜へ寄せ集められたような景色だった。

 

防府近辺の浜には、船を見た兵たちの声が低くざわめいていた。

戦へ出る前の高揚ではない。

これだけの数を、これだけの船で、本当に分けて海へ出すのかという、半ば呆れに近い重さである。

 

本家第一陣は、豊後へ向かう船へ順次乗っていく。

市之助の周りには、戸次伯耆守と吉弘弥七郎の姿もあった。

二人とも、今は本家軍へ客将として加わる立場だ。

 

離れ際、市之助がこちらへ顔を向ける。

 

「治部」

「何だ」

「先に着いた方が勝ち、みたいな話ではないぞ」

 

妙な切り出しだった。

だが、言いたいことは分かる。

 

「ああ」

「分かっているだろうけど」

「分かっているよ。そちらは豊後で大友家家中を取り込むのが先だ」

「そちらは名島だろう」

「博多だ。その次が多々良川、御笠川、筑後川」

「結局、どちらも速さより段取りか」

「今さら気づいたか」

 

市之助が笑う。

 

「気づいていたよ。気づいているから言っている」

 

それで十分だった。

悪ガキ同盟の頃のように、先陣争いをして終わる戦ではない。

互いに別の方面軍を持ち、別の重みを背負っている。

そのことを、あいつも分かっている。

 

伯耆守と弥七郎が、少し離れたところで待っていた。

二人とも豊後へ向かう船列を一度見てから、俺へ一礼する。

 

「治部大輔殿」

と伯耆守。

「豊後は、お預かり致します」

 

「任せます」

俺はそう返した。

「ただし、預けたのは土地だけではない。大友の残り火もだ」

 

「心得ております」

 

弥七郎も静かに続く。

 

「刑部大輔殿は、よくやっておられます」

「そうだろう」

「はい」

「だが、あいつは妙なところで無茶をする」

「その際は、某らが支えましょう」

「お頼み申す」

 

二人は深く頭を下げ、それきり余計なことは言わず、本家軍の方へ戻った。

 

見送ったあと、慶次郎が言う。

 

「いい面子だな」

「そうだな」

「羨ましいか」

「別に。こちらはこっちで濃いだろう」

「違いない」

 

そう言って笑うと、海風が妙に塩辛く感じた。

 

 

治部軍の乗船は、見た目ほど乱れなかった。

 

一万二千。

数だけ聞けば、浜が一つ兵で埋まってもおかしくない。

だが、そのために防府までの道で兵と荷を細かく分けてきた。

乗る順、積む順、降ろす順。

その全部を半兵衛と官兵衛が前もって潰し、十兵衛が組に直し、慶次郎と助右衛門が「兵がぐずらぬ形」へ落としてある。

そこへ滝川伊勢守が実戦差配の目で全体の詰まりを見、島左近が浜の動きそのものを読み、物見と伝令の行き違いを事前に消していた。

 

その甲斐はあった。

 

「乗るだけなら、どうにでもなりますな」

と伊勢守。

「問題は降りてからです」

 

そこは本当にそうだった。

海の上で綺麗でも、上陸後に崩れたら意味がない。

まして俺たちの上陸地は名島だ。

博多を押さえ、会合衆と会い、商人から兵站を流し、そこから筑後川へ手を掛ける。

足場を築きながら次の手を伸ばす必要がある。

 

ただ浜へ上がって勝鬨を上げるだけなら、もっと気楽だっただろう。

 

船へ移る前、俺は一度だけ全体を見た。

 

毛利の大船が沖へ並び、長曾我部や三好の船がその間を縫う。

九鬼の船は、いかにも海の匂いが強い。

知多の船は派手さはないが、細かい融通が利きそうだった。

 

「海の上というのは、こうして見ると妙に頼もしいな」

 

と俺。

 

官兵衛が静かに答える。

 

「陸の者は、海を広いと思いがちにございます」

「違うのか」

「海も道にございます。使える者にとっては」

「なるほど」

「そして、使えぬ者には、ただの深い穴でございます」

 

それもまた、正しい。

 

ここで滝川伊勢守が、沖合の船団を見たまま言った。

 

「毛利の船は、やはり海の道を知っておりますな」

「そうだな」

「長曾我部と九鬼が入ると、さらに締まる。これなら防府から先も、乱れは少ないでしょう」

「だからこそ、こちらも海の上で手間取れぬ」

「左様。上陸の乱れは、そのまま敵への贈り物になります」

 

一方、島左近は浜の端へ目をやっていた。

 

「治部様」

「何だ」

「名島へ着く前から、降りた後の伝令順を再確認しておいた方がよろしい」

「そこまで要るか」

 

「要ります」

左近は短く答えた。

「浜へ足を着けた瞬間、人は安堵して気が緩みます。戦はその時に乱れます」

 

「……もっともだ」

「城攻めの一番槍より、上陸の二刻の方がよほど軍を壊すことがあります」

 

そういうところが、やはり左近だった。

戦の華ではなく、戦の崩れ方を先に見ている。

 

治部軍の船列が動き始める。

櫓の音、帆の鳴り、船頭の声、荷の軋み。

兵たちの喉も自然と低くなる。

陸での進軍とは違う。

一度乗れば、逃げ場は狭い。

揺れもする。

海が荒れれば、人の気分も腹も荒れる。

 

だが、この日は天が味方した。

海は暴れず、風も悪くない。

船列は崩れず、治部軍は当初の見込み通り筑前名島を目指して進んだ。

 

その最中、俺は甲板の隅で別の報せを受け取った。

 

試験航行中の和風ガレオン船についての短い報告だ。

 

「どうでした」

 

と、半兵衛。

 

「まだ荒い」

俺は紙を見たまま答えた。

「だが、浮いている。走れている。風も拾えている。問題は砲座と甲板の癖だな」

 

「使えますか」

「使えるようにはなる」

「それで十分です」

「そうだな」

 

十兵衛が、少しだけ声を落とす。

 

「この船のことは」

 

「まだ伏せる」

即答だった。

「村中城と、その先で使うにせよ、今はまだ表へ出す時ではない」

 

「御意」

「龍造寺にも島津にも、こちらがどこまで海で無茶をするつもりか、まだ悟らせたくない」

「承知しました」

 

紙はその場で畳み、手元の箱へしまわせた。

今は九州上陸が先だ。

切り札に意識を持っていかれすぎると、足元を掬われる。

 

 

筑前名島沖が見えた時、船上の空気は少しだけ変わった。

 

陸が近い。

それだけで、人は喉の奥が少し熱くなる。

兵たちも、今までは船酔いや手持ち無沙汰に耐えていた顔が、ようやく戦の顔へ戻り始める。

 

だが、ここで浮つかせてはいけない。

 

「いいか」

と、俺は前へ出た。

「上陸そのものは戦ではない。戦の前の段取りだ。浜へ足を着けた瞬間に勝った気になるな」

 

声は大きくしすぎない。

怒鳴る必要はない。

こういう時は、落ち着いた声の方がよく通る。

 

「名島を押さえる。博多を押さえる。会合衆と話をつける。兵糧と荷を町の流れへ乗せる。そこまでやって、ようやく次へ行ける。分かったな」

 

あちこちから、抑えた応の声が返る。

 

「騒ぐな」

「慌てるな」

「勝手に抜けるな」

「城攻めのつもりで浜へ飛び込むな」

 

慶次郎や助右衛門が、それぞれ兵へ短く言葉を飛ばす。

武辺の声は、こういう時よく効く。

十兵衛はその横で、受け皿となる組頭たちへ順番の再確認をしていた。

 

滝川伊勢守は、上陸の列を見ながら低く言う。

 

「前へ出す組と、荷を降ろす組を混ぜるな」

「はい」

「浜へ着いた嬉しさで馬へ寄るな。馬は逃げるぞ」

「承知」

「名島は博多の鼻先だ。敵にも博多の衆にも見られていると思え」

 

伊勢守の声に、兵たちの背が少し伸びる。

威圧ではない。

だが、こういう実戦場数を踏んだ男の言葉は、妙によく通る。

 

一方、島左近は浜の先の高みと道を見ていた。

 

「治部様」

「何だ」

「上がってからすぐに物見を二段出します」

「博多か」

「博多方面と太刀洗方面です」

「早いな」

「早い方がよろしい。龍造寺も大友も、こちらが名島へ着くのを指をくわえて見ている相手ではありませぬ」

 

その通りだ。

 

そして上陸は、ほとんど乱れなく済んだ。

 

浜に足を着け、順次兵を広げ、荷を降ろし、馬を渡し、仮の足場を整える。

戦らしい戦はない。

だが、これだけでも十分に大仕事だ。

上陸は成功した、というより、成功させた、の方が正しい。

 

名島の空気は、戦場の気配と都市の匂いが混ざっていた。

博多が近い。

人と物の流れが死んでいない。

そこが、ただの地方の浜とは違う。

 

「治部様」

 

と久助。津島の商人のくせに、こうやって軍船に同行するのは、肝が太いとしか言いようがない。が、しかし、この時代の商人は大なり小なりこういうものなのだろう。

 

「博多会合衆の方へは、もう声を掛けてあります」

「早いな」

「こちらも商人は商人ですから」

「違いない」

 

名島へ上がった時点で、兵糧の一部はすでに博多商人の蔵へ預けられる段取りが出来ていた。

この辺りは、戦の前に種を蒔いておいた甲斐がある。

いきなり大軍を見せつけて「出せ」と言えば、町は表向き従っても裏で逃げる。

だが、最初から流通の利を残し、「回る戦」に見せれば、商人は案外冷静だ。

 

会合衆との初手の会談は、名島からほどなく設けられた。

 

相手も、こちらが何も考えず力で呑みに来たわけではないと分かっている顔だった。

怖れてはいる。

だが怖れ一辺倒ではない。

この戦がどちらへ傾くか、その後も町が回るか、誰が博多を「死なせずに使う」のか、そこを見ている。

 

俺は、そこを外さぬように話した。

 

「博多を荒らすつもりはない。兵糧は買う。借りるものは借りる。だが商売の流れは止めぬ。町が回る方が、こちらにも利がある。こちらが欲しいのは、町の死骸ではなく、動き続ける町だ」

 

会合衆の何人かは、その言い方にわずかに目を動かした。

武士がそう言うのは珍しいのだろう。

だが、珍しかろうが何だろうが、戦を長くやるならそうするしかない。

 

やがて、話は兵糧の置き方、運び方、川との接続へ移った。

博多商人の顔つきが変わるのは、やはりその辺りだ。

金と荷と道の話になれば、武家相手でも反応が速い。

 

「筑後川までをどう繋ぐおつもりで」

 

と、ひとりが問う。

 

「そこは、こちらで足を出す」

と俺。

「ただし、道中で全部抱え込む気はない。博多から流せるもの、川で運べるもの、現地で拾うものを分ける」

 

「拾う、とは」

「奪うという意味ではない。売らせる、借りる、残して使う、だ」

「……なるほど」

 

その「なるほど」には、半分は納得、半分は値踏みが混じっていた。

構わない。

商人に完全な心服など求めていない。

利が通ると分からせれば十分だ。

 

会談が一段落した頃には、治部軍の初動兵站は、思ったよりずっと滑らかに回り始めていた。

 

 

そして、情報が入ったのはその日のうちだった。

 

伊賀。

博多商人。

両方から、ほぼ同じ匂いの情報が上がってきた。

 

太刀洗付近で、大友と龍造寺がぶつかる。

あるいは、もうぶつかりかけている。

 

俺はその報せを受け、すぐに十兵衛、半兵衛、官兵衛、滝川伊勢守、島左近、慶次郎、助右衛門を呼んだ。

 

名島の仮陣の中、灯りの下へ地図が広げられる。

 

「早いな」

 

と俺。

 

官兵衛が短く答える。

 

「早い、では済みませぬな」

「うん。こちらが名島へ足を着けて、向こうももう待ってはくれないということだ」

 

十兵衛が報せを読み上げる。

 

「大友方の大将は、新次郎鎮鑑」

「龍造寺方は、ほむら姫」

 

そこは想定の内だ。

だが、想定と確報では重みが違う。

 

半兵衛が別の紙へ目を落とした。

 

「兵力概算も入っております」

「申せ」

 

「大友方二万五千前後」

「龍造寺方一万四千前後」

 

慶次郎が鼻を鳴らす。

 

「数だけ見れば、大友が食うな」

 

「そうだな」

と俺は答えた。

「数だけ見れば、な」

 

伊勢守が腕を組んだまま言う。

 

「二万五千を前へ押し出して勝てる将なら、話は早い」

「だが進次郎殿は、そういう手合いではない」

「左様。数を多く持つほど、後ろの薄さが目立つ男に見えます」

 

そこへ左近が、地図の太刀洗周辺を指でなぞる。

 

「龍造寺一万四千は軽くない。地の利もある。しかも、ほむら姫殿は兵を無駄に走らせる将ではありますまい」

「うん」

「ならば数差そのものより、どこで噛み合わせるかの方が効きます」

 

官兵衛がこちらを見る。

その顔には、例の、面白い盤が見えた時の静かな気配があった。

 

「治部様も、そうご覧で」

「うん。新次郎は、勝ちたがる。ほむら姫は、崩したがる」

「左様にございますな」

 

そこで助右衛門が短く言う。

 

「どちらも敵だ」

 

「そうだよ」

俺は頷いた。

「敵だ。だが同じ敵ではない」

 

そこが大きい。

 

大友新次郎鎮鑑。

あれは、勝ち戦の絵だけを欲しがる男だ。

数の多さ、前へ出る勢い、押し潰す形。

戦場で「勝って見える」ことへ寄りすぎる。

 

一方で龍造寺ほむら。

あの姫は違う。

前へ出る将ではある。

だが、ただ出るだけなら厄介さはここまでではない。

どこで押し、どこで退き、どこで崩して戻さぬか。

その処理そのものが、将の器として見えている。

 

「太刀洗、か」

 

と十兵衛。

 

「筑前から見れば近すぎず、遠すぎず」

俺は地図へ指を置いた。

「名島を押さえて、博多を回し始めた直後にこの情報が来るのは、むしろこちらにとっては見やすい状況だ」

 

「申されますと」

 

と半兵衛。

 

「どちらが勝つにせよ、勝った側も傷は負う」

「はい」

「その傷の負い方で、使えるかどうかが見える」

「……なるほど」

 

左近が低く言う。

 

「物見はもう出しております」

「さすがだな」

「高みも押さえられます。明朝には、こちらから戦場全体を見下ろせる位置へ出られるかと」

「よし」

 

伊勢守も続ける。

 

「もし戦の最中にどちらかが崩れても、こちらはまだ手を出さずに済みます」

「そこも大事だ」

「見てから食う。九州はその方が旨い」

 

伊勢守らしい、少し荒いが芯を食った言い方だった。

 

俺は立ち上がった。

 

「高みを取る。遠眼を持たせる。物見を増やす」

「ご自身でご覧に?」

「見るさ」

 

ここは、人づてだけで済ませる盤ではない。

龍造寺ほむらと大友新次郎鎮鑑。

それぞれがどう兵を動かし、どこで欲を出し、どこで耐えるか。

それを、自分の目で見ておく価値がある。

 

「治部様」

と十兵衛。

「もし、戦の最中にどちらかが大きく崩れた場合は」

 

「その時は、その時だ」

俺は答えた。

「ただし、今のところ、まずは見る」

 

「御意」

「兵はすぐ動けるようにしておけ。でも、こちらから先に食いには行くな」

「承知しました」

 

名島へ上がったばかりだというのに、九州の状況はもう勝手に動き始めている。

嫌になるほど早い。

だが、早いからこそ面白い。

 

大友軍二万五千。

龍造寺軍一万四千。

大将はそれぞれ、新次郎鎮鑑と龍造寺ほむら。

 

数だけなら大友。

将の器まで入れるなら、話は別だ。

 

俺は外へ出た。

夜の博多の方角には、まだ町の灯りが生きている。

兵糧は回る。

商人も動く。

名島は押さえた。

なら次は、太刀洗だ。

 

風が乾いていた。

 

「九州討伐が始まったな」

 

誰へともなくそう呟くと、遠くで慶次郎が笑った気配がした。

 

翌朝には、高みへ陣を置き、太刀洗方面を望むことになるだろう。

そこで、龍造寺ほむら姫率いる龍造寺軍一万四千と、大友新次郎鎮鑑率いる大友軍二万五千が、どうぶつかるかを見る。

 

そして、その勝ち方で、次の手を決める。

 

そこまで腹へ落ちた時、ようやく俺の中で、九州の戦が本当に始まった。

 

 

名島へ足場を築き、博多会合衆との話が一段落すると、陣の空気は少しだけ変わった。

 

上陸そのものの慌ただしさが抜け、ようやく「次にどこへ目を向けるか」を考えられる段に入ったのだ。

 

兵糧の流れは、まずは想定通りに乗った。

博多商人は、こちらが町を荒らさず、流通を殺さぬ方で動いていると見るや、露骨な媚びこそ見せぬものの、荷の通し方や蔵の融通では現実的な協力を惜しまなかった。

 

それも当然ではある。

上総介兄上が越前朝倉戦でも徹底した「奪うな・盗むな・殺すな」は、今回もあらためて全軍へ厳命されている。

町を使うなら、生きたまま使う。

兵糧を流させるなら、明日も流せる形で残す。

そこを違えれば、博多のような土地はすぐに死ぬ。

 

そして、死んだ町からは、長い戦を支えるものは何一つ取れない。

 

「やはり、あれが効いておりますな」

 

と、十兵衛が言った。

 

「何がだ」

「盗むな、犯すな、殺すな、にございます」

「そうだな」

「商人らは、我らの兵力そのものより、その一点を見ております」

 

俺は頷いた。

 

「力で黙らせるだけなら早い。だが、それでは次が続かない」

「はい」

「博多は、黙らせるより回させる方がいい」

「その通りにございます」

 

そこへ、滝川伊勢守が入ってくる。

 

「兵の方も、今のところ余計な真似はしておりませぬ」

「結構」

「厳しく締めておいた甲斐がありましたな」

「締めるべきところだからな」

 

伊勢守は、そこで少しだけ口元を歪めた。

 

「兵は、勝ち戦に入る前が一番緩みます」

「分かる」

「上陸して、町が近くて、蔵も見える。そういう時に手が伸びる」

「だから先に折っておく」

「左様」

 

この男は、そういう「兵の崩れ方」をよく知っている。

だから言葉が軽くない。

 

一方、島左近は博多から戻ったばかりだった。

あいつは、名島へ上がってからずっと、道と高みと人の流れを見ている。

 

「左近」

と俺が呼ぶと、左近は一礼してその場に座った。

「どうだ」

 

「町は死んでおりませぬ」

「それは見れば分かる」

 

「見ただけでは足りませぬ」

左近は短く答える。

「生きておる町は、こちらへ寄るのも速いが、逃げるのも速い。今のところは、逃げる気配は薄い」

 

「博多会合衆との話が効いてるか」

「それもありましょう。加えて」

「加えて?」

「こちらが本当に『奪わぬ』か、まだ見ております」

 

それももっともだった。

一度言っただけで信用されるほど、世の中は甘くない。

武士は往々にして言うこととやることが違う。

だから商人は、まず見る。

 

「なら、見せてやればいい」

と俺。

「数日でも、徹底して守る」

 

「はい」

「そうすれば、向こうも本気で荷を流し始める」

「左様にございます」

 

 

情報が集まり始めたのは、その頃だった。

 

まず、大友新次郎鎮鑑については、戸次伯耆守と吉弘弥七郎の話が重い。

あの二人は、大友家中の内実を知りすぎるほど知っている。

その二人が口を揃えて、鎮鑑を「使いづらい柱」と見ている時点で、だいたい見当はつく。大阪での評定や瀬田城で、その話は何度も聞いた。

 

「前へは出ます」

と伯耆守は言った。

「臆した男ではありませぬ」

 

「だが、か」

「はい。勝ち方に癖がございます」

 

弥七郎は、もっと冷えていた。

 

「勝つことそのものより、“奇麗に勝って見えること”に寄るきらいがある」

「……なるほど」

「兵が多ければ多いほど、その癖は悪く出ます」

 

俺は、その話を聞きながら地図へ目を落とした。

 

大友新次郎鎮鑑。

六角のバカ殿ほどの無能ではない。

だが、戦の読みより、戦場の絵を欲しがる。

そういう手合いは面倒だ。

正面からの勢いはある。

しかし、崩れ方も派手になる。

 

伯耆守がさらに言う。

 

「宗麟様の揺れた家中では、ああいう“分かりやすく強そうに見える柱”は、一時の受けが良い」

「だが長くは持たぬ」

「左様にございます」

 

弥七郎も頷いた。

 

「しかも、自分が前へ出た時、後ろがどう息をしているかを見る方ではありませぬ」

「数を預けるには怖いな」

「はい」

 

一方、龍造寺家については、現地商人たちの口が早かった。

 

ほむら姫の名は、単なる女武者の珍しさで出る名ではない。

恐れてはいる。だが軽んじてはいない。

むしろ、「戦の後まで見ている姫」という言い方が混じる。

 

「町を焼いて終わる手ではない」

「兵を前へ出すだけではない」

「ただし、怒らせると面倒」

「勝ち方を分かっている」

 

そういう言葉が、商人の口から自然と出る。

 

商人というのは案外正直だ。

ただ強いだけの武辺者なら、もっと別の怖がり方をする。

だが、ほむらについては違った。

勝った後、負けた後、その両方でどう振る舞うかまで見ている将だと捉えている。

 

「面白いな」

 

と俺が言うと、官兵衛が小さく頷いた。

 

「商人にそこまで言わせる将は、そう多くありませぬ」

「そうだな」

「兵だけではなく、町も見ているのでしょう」

「あるいは、町にそう思わせるだけの副将がおるかだ」

 

そこで出てきた名が、鍋島左衛門大夫直茂だった。

 

龍造寺山城守隆信と義理の兄弟。

家の骨を支える男。

ほむら姫の副将として、戦陣でも脇を固めている。

そういう話が、博多商人からも出る。

 

「鍋島、か」

と伊勢守。

「重い名ですな」

 

「知っているか」

「九州であの名を軽く見る者はおりませぬ。今はまだ若くとも、器量で見られている」

「商人まで言うなら本物だな」

 

「左様」

半兵衛も続ける。

「姫が前へ出る軍なら、その後ろを締める男が要ります」

 

「左衛門大夫か」

「恐らく」

 

左近が、そこで珍しくはっきり言った。

 

「ほむら姫一人を見ておれば、見誤ります」

「というと」

「龍造寺は、姫が華で、鍋島が背骨なのでしょう」

「……分かりやすい」

「分かりやすい軍ほど、崩しにくい」

 

そこへ官兵衛が静かに足した。

 

「しかも、その背骨が有能なら、華を折っただけでは終わりませぬ」

「そうだな」

 

ほむら姫だけを見ていると、分かった気になる。

だが実際には、その脇で鍋島直茂が戦列を締め、退きを残し、勝ちを細くしないよう繋いでいるのだろう。

それなら、龍造寺一万四千は、兵数以上に面倒だ。

 

 

 

 

 

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