織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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061龍造寺ほむら

九州討伐が始まった。

 

足利将軍大樹公の静謐令に、心服しない者たちを黙らせるための戦である。

建前としては、そうなる。

 

だが実際に戦っている者の間で言えば、もっと露骨だ。

龍造寺。島津。大友新次郎鎮鑑の一派。

この三つを、別々に殴るより、ぶつけ、見極め、呑み込む方が早い。

 

織田方は、三つに割れて九州へ入った。

 

治部軍一万二千は筑前名島沖。

本家第一陣四万五千と長曾我部家八千は豊前中津沖。

毛利家一万五千と浅井家一万八千は肥前唐津沖。

 

どこも上陸そのものは乱れなかった。

さすがに、この規模まで来ると、九州側も「防げば落とせる」段を越えている。

 

そして、俺たち治部軍は、筑前へ足場を築いて早々、太刀洗方面へ目を向けていた。

 

龍造寺ほむら姫率いる龍造寺軍一万四千。

大友新次郎鎮鑑率いる大友軍二万五千。

 

こちらからすれば、どちらも今この場では敵だ。

だが、敵だから同じ重さで見るほど甘くもない。

 

高みへ陣を置き、遠眼と物見を出し、俺は馬上から平野を眺めた。

 

乾いた風が吹く。

麦の色にはまだ早い。

だが、人と馬と鉄の匂いだけで、もう十分に戦場だった。

 

十兵衛が横で言う。

 

「数だけ見れば、大友が上でございますな」

 

「上だな」

俺は頷いた。

「倍に近い」

 

半兵衛が続ける。

 

「されど、治部様の顔は、そうは見ておられませぬ」

「見てないからな」

 

俺は、遠くで布陣を整える二軍を見比べた。

 

大友側は、数を頼みに前へ厚く置いている。

兵は多い。旗も多い。

だが多い、ということは、それだけで強さにはならない。

前へ押し出す手と、押し出した後を拾う手が別に要る。

 

鎮鑑の陣は、その後ろが薄い。

 

「双方ともお手並み拝見」

俺は、誰へともなくそう言った。

「でも、ほむら姫が勝っちゃうよね、きっと。率いる将の器が違い過ぎる」

 

官兵衛が、わずかに口元を動かした。

 

「そこまで明言なさいますか」

「するよ」

「根拠は」

「戦を勝ち負けだけで見てないからだ、あの姫は」

 

俺は、龍造寺側の動きを目で追った。

 

ほむら姫は前へ出る将だ。

それは間違いない。

だが、ただ前へ出て兵を煽るだけの女傑なら、ここまで厄介ではない。

 

あれは前へ出るタイミングそのものを、盤の一手として使う。

 

「新次郎は、勝ちたがる」

 

と俺。

 

「はい」と十兵衛。

 

「ほむら姫は、崩したがる」

 

官兵衛が静かに補う。

 

「より正確には、相手を壊し、自分は壊れぬまま勝とうとする」

「そう」

 

そこが決定的に違う。

 

新次郎が望んでいるのは、戦場の上での見栄えの良い勝ちだ。

大友の威。

自分の名。

敵を正面から押し潰したという分かりやすい形。そこから得られる周囲からの尊崇と自己肯定。自己承認欲求の際たるものだ。

 

対してほむら姫は、そんなものを主食にしていない。

兵を帰す。

退き筋を残す。

押し込みすぎた敵の横腹を裂く。

そして、一度傾いた流れを二度と戻さぬようにする。

 

この手の相手は、兵数だけ見れば後手にいても、戦そのものは先に読んでいる。

 

やがて、戦端が開いた。

大友側が、勢いのまま先に前へ出た。

 

遠目にも分かる。

勢いはある。

兵数差をそのまま圧へ変えようという出方だ。

悪くない。

悪くないが、その悪くなさがもう危うい。

 

慶次郎が鼻で笑った。

 

「威勢はいい」

「うん」

「だが、刃先が揃っておらぬ」

 

助右衛門が、短く言う。

 

「前へ出る兵と、支える兵が噛み合っていない」

 

まさにそうだった。

 

厚く押し出した先陣が、龍造寺の前衛にぶつかる。

最初の衝突だけ見れば、大友が押していた。

数が物を言う。

その迫力だけなら、確かに見事だ。

 

だが、龍造寺はそこで崩れない。

 

押される分だけ、退いているように見せながら、横へずらしている。

後ろへ落ちるのでなく、圧を逃がしているのだ。

 

「上手いな」

 

と俺。

 

十兵衛が目を細めた。

 

「正面で受けきる気はございませぬな」

「最初から無いだろうな」

 

新次郎のような相手は、正面で手応えを与えれば与えるほど、勝っていると思って前へ前へと食いついてくる。

ならば、食わせる。

食わせて、腹を晒させる。

 

ほむら姫の軍は、押されながらも、妙に乱れが少なかった。

兵がただ耐えているのではない。

どこまで退き、どこで返すかを最初から飲み込んでいる退き方だ。

 

半兵衛が、珍しく感心を隠さず言う。

 

「兵に、退く理由が共有されております」

「だろうな」

「恐らく、前線だけではなく、その後ろの組も」

「うん。あの姫、兵を走らせる前に、どこまで崩れてよくて、どこから先は崩すなというのをちゃんと渡してる」

 

これができる将は、そう多くない。

 

戦場で叫ぶだけなら誰でもできる。

だが、自分の兵に「退いても負けではない」と腹へ落とさせるのは、また別の才だ。

 

大友側がさらに押す。

 

そこで、龍造寺の左が妙に薄く見えた。

 

大友が、それに噛みつく。

 

「あ」

 

と、俺は小さく言った。

 

官兵衛が横を見る。

 

「隙が見えましたか」

「見えた」

「罠でございますな」

「うん。しかも、分かりやすく置いてる」

 

ああいう餌に、新次郎は食いつく。

ほぼ確信があった。

 

果たして、大友側の一部が左へ寄って、龍造寺の綻びを広げようとした。

その瞬間だった。

 

龍造寺の後列から、温存していた兵が斜めに出る。

前へ出るのではない。

食いついて伸びた大友の側面へ、刃を差し込む角度で入った。

 

「ほら」

と俺。

「勝っちゃうだろ」

 

今度は、ほむら姫自身が前へ出たのが見えた。

 

赤い旗が、少しだけ前へ動く。

あれだけで、龍造寺兵の踏ん張りが変わる。

ただ勇ましいからではない。

“ここで前へ出れば勝ち筋が閉じない”と、将本人が分かって出ているから、兵もついていく。

 

大友軍は、数の優位を持ちながら、戦場を広く使えていなかった。

兵が多い分だけ、前へ出す。

前へ出した分だけ、後ろの呼吸が遅れる。

その遅れを、ほむら姫は見逃さない。

 

「新次郎は」

と俺。

「派手な勝ち戦の絵を描きたがる」

 

慶次郎が笑う。

 

「龍造寺の姫は、負け筋を先に潰している」

「そういうこと」

 

その差は、しばらくすると戦場全体に滲み出た。

 

大友の前はまだ強い。

だが横が乱れる。

退く兵と、まだ押す兵が食い違う。

龍造寺はそこへ、無理なく刃を入れる。

 

“無理なく”というのが一番恐ろしい。

無理な突撃なら、どこかで止まる。

だが、無理のない勝ち方は、止まらない。

 

十兵衛が言う。

 

「治部様」

「何だ」

「このまま参れば、大友側は総崩れまでは行かずとも、指揮の芯を失いましょう」

「うん」

「その後は」

 

「そこからが本番だ」

俺は、視線を戦場から外さず答えた。

「ほむら姫は、勝ったあとに余計な血を流さない相手だと思う。少なくとも新次郎よりはずっとな」

 

官兵衛が、小さく頷く。

 

「振り下ろした拳の落としどころを持つ将にございます」

「だから使える」

 

言ってから、自分で少し笑った。

 

十兵衛が横目で見る。

 

「もう使うことまでお考えで」

 

「勝つか負けるかだけなら、こんな高いところでのんびり見てないよ」

俺は手綱を軽く握り直した。

「勝ったあと、どこへ座らせるか。誰を残すか。そこまで見ないと意味がない」

 

遠く、龍造寺の旗がさらに前へ出た。

 

大友側の一角が、ついに明確に崩れる。

崩れた兵が連鎖して走るほどではない。

だが、もう流れは見えた。

 

ほむら姫が勝つ。

 

兵数差を、将の器と戦場処理で食う形で。

 

「……さて」

と俺は言った。

「戦見物はそろそろかな」

 

半兵衛が問う。

 

「動かれますか」

 

「まだだ」

俺は首を振る。

「もう少し、ほむら姫がどこまで綺麗に勝つか見たい。あれが雑に追えば、ただの強い将だ。でも、ここで締めを誤らなければ、本物だよ」

 

戦場の風が、こちらの陣まで乾いた土を運んでくる。

 

太刀洗の平野で、将の器がそのまま兵の動きへ変わっていた。

鎮鑑はまだ前しか見ていない。

ほむら姫は、すでに勝った後の形まで見ている。

 

その差が、今、九州の一戦の上ではっきりと現れ始めていた。

 

 

鉄砲隊は、もう撃てるところまで来ていた。

 

俺の手元には、五百ずつ三組に分けた治部家の鉄砲隊、一五〇〇。

左右斜めと正面寄り、少し離した三点で、龍造寺軍を十字に捉えられるよう置いてある。

足軽も、騎馬も、もう動ける。

つまり、ほむら姫の軍が勝とうが負けようが、その気になればこちらはいつでも刈り取れる位置にいた。

 

だが、まだ撃たない。

 

撃つのは簡単だ。

簡単だからこそ、今はまだ価値が薄い。

 

「整いました」

 

十兵衛が、抑えた声で言う。

 

「うん」

「左右の二組とも、龍造寺の退き筋まで射界へ入れております」

 

「そこまででいい」

俺は前を見たまま答えた。

「今日は壊すためじゃない。測るためだ」

 

慶次郎が、遠くの土煙を見て鼻を鳴らす。

 

「派手にやってるな」

「あっちはまだ、自分が押してるつもりなんだろ」

 

大友新次郎鎮鑑の旗が、まだ前へ前へと出ていた。

 

戦の流れが自分へ不利に傾いた時、まともな将なら最初に気づくのは、前線の強弱じゃない。

命令の返りが鈍る。

押した先で列が伸びる。

退く兵と押す兵の呼吸が噛み合わなくなる。

そういう綻びで読む。

 

だが新次郎は、そういう読みに向いていない。

あれは目の前の“まだ戦っている兵”だけを見て、「まだ戦えている」と思い込む男だ。

 

官兵衛が、小さく言った。

 

「まだ悟りませぬな」

「悟らないよ」

「ここまで来ても」

 

「ここまで来たからこそ、かもな」

俺は笑わなかった。

「負けてる奴ほど、負けの理由を受け入れたくない。現実が見えてないというか、ああいう手合いは特にそうだ」

 

眼下の平野では、戦の流れがもう決まり始めていた。

 

ほむら姫は、ただ勝ち筋を通しているのではない。

新次郎の“自分が優勢だと思い込みたい心”そのものへ餌を撒いて、そこへ食いつかせ、その分だけ陣を伸ばさせている。

食った。

伸びた。

伸びたぶんだけ横が薄くなった。

その横へ龍造寺の刃が入り続ける。

 

これを食らうと、兵数差はむしろ重荷になる。

 

助右衛門が、短く呟いた。

 

「本陣が近い」

「うん」

 

もう大友本陣の前が見えていた。

龍造寺の第一陣が、まるで蛇が獲物を丸呑みにするみたいに、じりじりではなく、あるところから急に深く入り込んでいる。

 

それを見て、ようやく新次郎が何かを理解したらしかった。

 

遠目にも、大友本陣の周囲が騒がしい。

旗が落ち着かない。

伝令が走る。

守りの騎馬が、露骨に厚く寄る。

 

「やっとか」

 

と俺。

 

半兵衛が頷く。

 

「ようやく負け戦と理解したのでしょう」

「でも、何で負けたかは分かってないだろうな」

「恐らく」

 

まさに、そこだった。

 

負けを悟ることと、負けの構造を理解することは別だ。

新次郎は前者にすら遅れた。

だから後者には、もう届かない。

 

やがて、本陣から騎馬がまとまって動いた。

 

「出ますな」と十兵衛。

「供廻り五十前騎前後というところか」

 

総大将新次郎鎮鑑を囲むようにして、騎馬武者が離脱の輪を作る。

本陣を畳むというより、そこだけ切り取って逃がす形だ。

つまり、もう戦を拾う気はない。

残りの軍全体を殿に残して、自分だけは抜ける。

 

慶次郎が低く笑う。

 

「見苦しい」

 

「でも普通だよ」

俺は視線を外さない。

「自分の器の外まで兵を使った将の末路としては、むしろ分かりやすい」

 

ここから先が、本題だった。

 

ほむら姫がどう出るか。

 

追うのか。

首を獲るのか。

あるいは、もうすぐそこにいる俺たち織田軍へ向き直るのか。

それとも勝ちを勝ちとして収め、秩序を保って退くのか。

 

戦の勝ち方は、その将の器を見せる。

だが、勝ったあとの一手は、その将が“使えるかどうか”を見せる。

 

俺は手綱を緩め、ただ見た。

 

龍造寺の前線は、なお勢いがあった。

このまま追わせれば、鎮鑑の首を取れる可能性はある。

少なくとも、鎮鑑を護る五十騎を削ることはできるだろう。

 

だが、ほむら姫はそこで一気に全軍を投げなかった。

 

「ほう」

 

官兵衛の声が少しだけ低くなる。

 

俺も、思わず口元が動いた。

 

「やっぱり、そう来るか」

 

龍造寺の先鋒が二つに割れた。

 

一つは、逃げる鎮鑑へ圧をかけ続ける。

だが本気の深追いではない。

逃げ足を乱し、守りの騎馬を焦らせる程度の追圧だ。

 

もう一つは、そこで止まった。

止まって、こちらを見る。

 

いや、正確には、こちらへ向き直れる姿を整えた。

 

「首を欲しがらなかったなようですね」

 

と十兵衛。

 

「うん」

「あるいは、欲しがっても抑えた」

 

「そこが偉い」

俺は、そこでようやく少しだけ笑った。

「新次郎の首なんか、今ここで取ったところで値が安い。ほむら姫はちゃんと分かってる」

 

鎮鑑は、自分で自分の値を下げた。

ここで龍造寺が必死に首を狩っても、せいぜい戦場の武功にしかならない。

だが織田軍を前に、“勝っても陣を乱さず、深追いせず、次の敵へ備えられる”と見せられれば、その方がずっと重い。

 

半兵衛が静かに言う。

 

「治部様」

「何だ」

「ほむら姫は、我らが見ていることまで計算に入れております」

「だろうな」

「つまり」

「“龍造寺はまだ使える”って、俺たちに見せに来てる」

 

そこへ助右衛門が、珍しく少し長く言った。

 

「よく締めた」

「うん。武辺としても綺麗だよ」

「追えば、崩れる」

「そう。追えば勝ちは増すけど、軍は雑になる。今あの姫が欲しいのは、首級じゃなくて、将としての値札だ」

 

逃げる新次郎鎮鑑の一団は、どうにか戦場から離れつつあった。

その背を龍造寺の一部が追う。

だが決して飲み込むところまでは行かない。

追っているようでいて、退路だけを細らせる。

あれなら鎮鑑は助かる可能性が高い。

 

――それでいい。

 

俺はそう思った。

 

ここで鎮鑑が死ねば、話は早い。

だが早すぎる。

生きて恥を晒し、大友新次郎鎮鑑という負債が九州の片隅にでも残る方が、まだ使い道がある。

 

そしてほむら姫は、その辺りまで読んでいるように見えた。

 

「撃ちますか」

 

十兵衛が問うた。

 

俺は首を振った。

 

「まだいい」

「龍造寺を、ですか」

「今の龍造寺を撃つのはもったいない」

 

官兵衛が、袖の中で手を組む。

 

「では、この戦はここで見届けると」

「うん」

 

俺は、整然とこちらへ向き直りつつある龍造寺の陣を見た。

 

追うべきところだけ追い、止めるべきところで止まり、勝った勢いをそのまま織田軍への備えへ繋ぐ。

口で言えば簡単だが、勝った直後にできる将は少ない。

 

ほむら姫は、それをやった。

 

「……よし」

俺は静かに言った。

「十分見た」

 

「如何なさいます」

「まずは使者だな」

 

慶次郎が、にやりとする。

 

「褒めるのか」

「褒めるさ」

「敵を?」

 

「敵だからだよ」

俺は馬首を少し返した。

「ちゃんと勝てる。勝っても崩れない。目の前の首に飛びつかない。そういう相手なら、斬る前に話す価値がある」

 

太刀洗の風が、戦の終わりきらない血と土の匂いをこちらへ運んでくる。

 

鎮鑑は逃げた。

負け戦だと分かった時には、もう遅かった。

なぜ負けたかは、最後まで分からぬままだろう。

 

だが、ほむら姫は違う。

 

勝った理由も、勝った後どう見られるべきかも、最初から戦の中へ入れていた。

 

それを、この高みから見届けた価値は大きかった。

もう次の一手は、首級ではない。

九州の火を、どの炉へ移すか。その話になる。

 

 

龍造寺軍から、使者が来た。

 

勝った直後の陣から、こちらへ向けて一騎。

白旗を明確に掲げ、しかも妙に落ち着いている。

ただ命を惜しんで来た使者の足取りではない。

 

「……来たか」

 

俺がそう呟くと、十兵衛が静かに頷いた。

 

「誰が参るかで、向こうの値踏みも分かりますな」

 

使者は、陣前で馬を降りた。

槍働きの荒武者ではない。

痩せてもおらず、肥えてもいない。

よく整った動きで、一つひとつを雑にしない男だった。

 

「名乗れ」

 

十兵衛が前へ出て言うと、その男はきちんと一礼した。

 

「龍造寺軍副将、鍋島左衛門大夫直茂」

 

やっぱり、軽い札は切ってこなかった。

 

俺は床几に腰掛けたまま、男を見た。

鍋島。

つまり、ほむら姫は勝った勢いで酔ってはいない。

ここへ出す顔を、ちゃんと選んでいる。

 

「織田治部大輔殿に、我らが将、龍造寺ほむらより言づけあり」

「申せ」

 

直茂は、表情をほとんど動かさずに言った。

 

「後日の面倒を避けるため、視界にうろつく蠅を撃ち落としたく、今しばしの時間を頂きたい。蠅を踏みつぶしのちに改めて再戦を願う。とのことです」

 

慶次郎が、横で小さく鼻を鳴らした。

官兵衛は無言。

十兵衛も半兵衛も、顔には出さない。

 

俺は少しだけ首を傾げた。

 

「ふーん」

それから、わざと間を置いて言う。

「左衛門大夫殿がその間人質になると?」

 

「左様にございます」

 

即答だった。

 

そこはいい。

腹が据わってる。

 

「ほむら姫殿は、我らをなんと思うておられるのか?」

 

今度は、ほんの少しだけ沈黙があった。

答えを選んだのではなく、どこまで正直に言うかを測った沈黙だ。

 

「決戦すべき相手と」

 

「なるほど」

俺は頷いた。

「だが、敵陣にのこのこ股肱の臣を派遣するのは場合によるよね」

 

直茂は黙っている。

 

「我が軍には一五〇〇人も鉄砲隊がいるんだ。一人ぐらいたまたま暴発させて、使者として来ていた敵将を撃ってしまった、そういうことも戦場ではよくあることだ」

 

そこで初めて、直茂の目がほんの少しだけ細くなった。

 

「よくある、とは思いませぬが」

「そう?」

「少なくとも、私の知る限りでは」

「でも起これば、それで終わりだ」

 

風が吹いた。

 

遠くでは、まだ鎮鑑派の残兵が散り切っていない。

龍造寺がそれを追い、噛み、逃がし、選別している最中だ。

 

俺は、その音を背にしたまま続けた。

 

「そもそも我々は、大樹の発せし先の静謐令に叛きし者どもの討伐に来たわけだ」

直茂は、やはり口を挟まない。

「いわば大友新次郎も龍造寺も、古事記にいうところのまつろわぬ民、隼人や土蜘蛛、蝦夷のようなもんだろ」

 

そこで、十兵衛がわずかに視線を伏せた。

俺がわざと酷い言い方をしているのが分かっているからだ。

 

「勝手な戦いを止めろ、たったそれだけの話が通じぬからここまでおっとり刀で駆けつけたわけだ」

「…………」

「それがとりあえずの討伐軍先遣隊10万の兵が九州に上陸して、自分たちの立っている場所すら飲み込まれようとしているのに、それでも戦いを止めないとは。やれやれ。龍造寺の姫君とやらも底が知れたな」

 

ここで怒るなら、その程度。

ここで言い返しすぎるなら、それもその程度。

 

だが直茂は、表情を崩さなかった。

 

怒りはあるだろう。

あるに決まってる。

だが、その怒りを前へ出さない。

ほむら姫が切ってきた札としては、合格だ。

 

「けっこう」

俺は、ようやく少しだけ口元を緩めた。

「左衛門大夫殿はゆっくりして行かれよ」

 

そこで、直茂の眉がほんのわずかに動く。

 

「……と、申されますと」

「まあ、特等席でこの茶番を一緒に観覧することとしようか」

「人質として、ですか」

 

「そう取るならそうだし、客として遇してやると言うならそれもそうだ」

俺は立ち上がり、陣の外れに置かせた床几の方を顎で示した。

「座れよ。お前んとこの姫君が、どこまで綺麗に蠅を踏み潰せるか、俺も見たい」

 

直茂は、その言葉を受けてもしばらく動かなかった。

 

恐らく、考えている。

ここで座れば、まさしく人質だ。

だが、引けば“使者を出しておいて腹を括れぬ家”になる。

 

数拍の後、直茂は静かに言った。

 

「では、お言葉に甘えます」

「殊勝で何より」

 

十兵衛が部下へ目配せすると、床几と水、それに最低限の茶が運ばれる。

あくまで客扱いだ。

だが周囲は、助けようと思っても助けられぬ位置で固めてある。

 

直茂はそこへ座った。

その背筋は、妙に真っ直ぐだった。

 

俺はその隣へ腰を下ろし、再び平野を見た。

 

「左衛門大夫殿」

「は」

「一つ聞こうか」

「何なりと」

「ほむら姫殿は、新次郎の首を取れると思う?」

 

直茂は、視線を前へ向けたまま答えた。

 

「取ろうと思えば」

「取らぬかもしれぬ?」

「その可能性もございます」

「何故」

「首より、今後の流れを重く見る御方にございますれば」

 

いい答えだ。

 

そして、言い方がいい。

主君を持ち上げるだけでなく、こちらへ“そういう相手だ”と正しく伝えてくる。

 

「なるほど」

俺は頷いた。

「お前、ちゃんと副将だな」

 

「恐れ入ります」

「褒めてる」

「それも恐れ入ります」

 

慶次郎が、後ろで小さく笑った。

半兵衛も、微かに口元を動かす。

 

直茂は、そういう反応にもいちいち揺れない。

こういう男が脇にいるから、龍造寺はただの豪族で終わらずに済んでいるのだろう。

 

しばらくして、平野の向こうでまた土煙が上がった。

 

鎮鑑の離脱路だ。

 

龍造寺の前衛は、なお噛みついている。

だが飲み込み切るほどには行っていない。

逃がす気ではないが、潰し切ることだけにも固執していない。

その匙加減が、ひどく嫌らしく、そして賢い。

 

俺は隣の直茂へ、視線を向けずに言った。

 

「左衛門大夫殿」

「は」

「お前んとこの姫君、やっぱり使えるな」

 

今度は、直茂も少しだけ間を置いた。

 

「敵にそう評されるのは、誉れにございます」

 

「敵、ね」

俺は少し笑った。

「今はな」

 

その言葉の意味を、直茂は当然聞き返さなかった。

 

聞き返さないところまで含めて、よく出来ている。

 

俺たちは、そのまま並んで戦場を見た。

人質と監視役。

敵将と使者。

だがその実、互いに互いの主の値を測り合うための、一番見晴らしの良い席だった。

 

やがて決まる。

 

ほむら姫が、鎮鑑の首へ行くのか。

それともそれ以上に高いものを取りに来るのか。

 

その答えを、俺は隣に鍋島左衛門大夫直茂を座らせたまま、静かに待った。

 

 

俺は、床几の脇に置かせていた文箱から紙を一枚引き抜いた。

 

墨を含ませた筆が、すらすらと走る。

戦場の最中に文を書くこと自体は珍しくない。

だが、こういう時に書く文は、大抵ろくでもない内容だと相場が決まっている。

 

隣で、鍋島左衛門大夫直茂がそれを横目に見ていた。

見てはいるが、覗き込まない。

その辺りの加減も、やはりよく分かっている男だ。

 

「左衛門大夫殿とほむら姫殿は、確か義理の兄妹になられるのかな?」

 

筆を止めぬまま俺が問うと、直茂はすぐに答えた。

 

「は。某の父と、主君山城守の母君が再婚し、ほむら様とも義兄妹になりもうした」

 

「そうか」

俺は頷いた。

「馬場はよく頑張ったな。一族根絶やしまであともう一歩だった」

 

その名を出した瞬間、直茂の沈黙が少しだけ重くなった。かつて少弐氏家臣の馬場頼周により、龍造寺家の主だったものたちが騙し討ちにあった。

 

怒ったわけではない。

だが、軽々しく返せる話でもない。

龍造寺の家が今もここにあるのは、偶然ではなく、何人もの血と意地と計算がつながった結果だ。

そこへ、俺はわざと土足で踏み込んだ。

 

「…………」

 

「いや、褒めてるんだよ」

俺は筆を置かずに続けた。

「普通なら、あそこまでやられりゃ消える。消えなかったってことは、誰かがちゃんと繋いだってことだろ」

 

直茂は、しばらくしてようやく言った。

 

「そのように見て頂けるなら、亡き者どもも少しは浮かばれましょう」

「亡き者、ね」

 

俺はそこで初めて筆を止め、乾きかけた戦場へ目を向けた。

 

遠く、土煙はまだ完全には収まっていない。

龍造寺の先鋒が鎮鑑派を噛み続けている。

だが、もう戦の骨は決まっていた。

 

「左衛門大夫殿は、どう考えてる?」

「どう、とは?」

 

「この戦全体」

俺は書きかけの紙を指で軽く叩いた。

「龍造寺の姫君は、今までもこれからも、敵味方どれだけの兵を殺せば満足するのかね」

 

直茂の目が、ほんのわずかに細くなった。

 

「満足とは」

 

「言葉通りだよ」

俺は肩を竦めた。

「もう将棋で言えば詰みの状態だ。そこで足掻いても見苦しいだけなのに」

 

直茂は黙っている。

俺はさらに続けた。

 

「龍造寺家も、哀れ朝倉家や斎藤家の例にならうってことか」

 

この言い方は、かなり悪い。

分かっていてやっている。

朝倉も斎藤も、ただ負けたのではない。

負けるべくして負け、残すものを誤り、気づいた時には手遅れだった家だ。

 

そこへ龍造寺を並べる。

それは、今この場で直茂が最も聞きたくない類の言葉のはずだった。

 

だが、直茂はすぐには言い返さなかった。

返したのは、ほんの少し間を置いてからだ。

 

「まだ一戦にも及んでおりませぬ」

 

俺は、そこでようやく口の端を少しだけ上げた。

 

「あ、そう」

そして紙へ視線を落とす。

「そう思うんなら、そうかもな。お前らの中では」

 

直茂は、それでも崩れない。

崩れないが、完全に揺れていないわけでもない。

そこは分かった。

 

こいつは、ほむら姫が兵を無駄に死なせる将ではないことを知っている。

だが同時に、ここで龍造寺が“まだ一戦にも及んでいない”と言い張らねば、家中の気骨も立場も崩れることも分かっている。

 

つまり、今の返しは本音ではなく、必要な返しだ。

 

俺はそこで紙を一度裏返し、改めて書き付けた。

 

「……治部大輔殿」

 

直茂が初めて、少しだけこちらの手元を見た。

 

「何だ」

「何を書いておられるのです」

「講評だよ」

「どなたへの」

 

「さてね」

俺は笑わなかった。

「賢けりゃ褒め言葉になる。愚かなら弔辞だ」

 

直茂の沈黙が、今度はさすがに深くなった。

 

こいつは分かっている。

今ここで俺が文を認めているということは、戦の次がもう始まっているということだ。

首級の後。

講和の前。

あるいは降伏の前。

そのどこへでも差し込める札を、俺は今のうちに切っている。

 

「左衛門大夫殿」

「は」

「お前、俺を嫌いだろ」

「はい」

 

即答だった。

 

思わず、俺は小さく笑った。

 

「素直でよろしい」

「好く要素がございませぬ」

「だろうな」

 

「ですが」

そこで、直茂は初めて少しだけこちらへ顔を向けた。

「甘いお方とも思っておりませぬ」

 

その言葉は、想像以上にまっすぐだった。

 

俺は紙を畳み、墨が乾いたのを確かめると、十兵衛へ渡した。

 

「封をしろ」

「は」

 

十兵衛は一礼して受け取る。

中を見ない。

見ないまま、紙の端を揃え、封をし、簡素な留めで閉じた。

 

直茂は、そのやり取りを静かに見ていた。

 

俺は、もう一度あいつへ顔を向ける。

 

「左衛門大夫殿」

「は」

「これは、お前に読ませるためのものじゃない」

「……」

「ほむら姫殿へ、そのまま渡せ」

「中を改めずに、ですか」

「そうだ」

「某が持ち帰る文を、某に見せぬと」

「不満か?」

 

「いえ」

直茂は、ほんのわずかに口元を動かした。

「むしろ、その方が治部大輔殿らしい」

 

いい返しだ。

 

俺は頷いた。

 

「削るなよ」

「無論」

「伝えるなよ」

「紙の外で申すつもりもございませぬ」

 

「結構」

そこで、俺は少しだけ言葉を足した。

「ついでに言っておけ。今日のほむら姫殿は、見た」

 

「……はい」

「よく勝った。だが、それで終わりじゃない」

 

「承ります」

直茂は深く頭を下げた。

「治部大輔殿」

 

「何だ」

「ほむら様は、恐らく怒ります」

「だろうな」

「ですが」

「うん」

「だからこそ、読む価値がおありでしょう」

 

俺は少しだけ笑った。

 

「お前、ちゃんと副将だな」

「恐れ入ります」

「褒めてる」

「それも恐れ入ります」

 

その返しに、慶次郎が後ろで小さく笑った。

半兵衛は無言。

官兵衛は表情を動かさない。

 

戦場の風が少し変わる。

眼下では、龍造寺軍が本当に三段へ分かれて引き始めていた。

見事というほどではない。

だが乱れない。

勝って、崩れず、次へ備える軍の退き方だ。

 

「持って行け」

俺は顎で封書を示した。

「主君に最初に読ませろ」

 

「承知しました」

「お前はその後で聞け」

「はい」

 

直茂は、もう一度深く頭を下げた。

敵将の前で取り乱しもせず、媚びもせず、だが無駄な虚勢も張らない。

鍋島左衛門大夫直茂。

あれを副将に置くなら、龍造寺もまだ雑には潰れない。

 

使者が下がったあと、慶次郎が笑いを噛み殺しきれずに言った。

 

「わざわざ読ませるのか」

「その方が刺さるだろ」

「悪いなあ」

「敵だからだよ」

 

半兵衛が静かに続ける。

 

「中を知らぬまま持ち帰る直茂殿も、落ち着いたものです」

「そこが重い」

「はい」

「鍋島も、ちゃんと使える」

 

十兵衛が、去っていく直茂の背を見ながら言う。

 

「それでも、あの男は折れておりませぬな」

「うん」

「折れておらぬから、価値がある」

「左様にございます」

 

俺は平野を見下ろしながら、小さく呟いた。

 

「さて、何点まで伸びるかな」

 

 

龍造寺の陣へ戻った鍋島左衛門大夫直茂は、馬を降りてもすぐには口を開かなかった。

 

ほむら姫は、退きの三段を見届け、本陣を少し後ろへずらした上で、ようやく兜を外していた。

勝った。

だが、胸を張って笑えるほど軽い勝ちではない。

相手はまだそこにいる。

しかも、こちらの勝ち方ごと見られていた。

 

「左衛門大夫」

「は」

「どうでした」

 

直茂は、一度だけ慶誾尼の方も見た。

 

母尼もまた、この場にいた。

戦場から少し離れた後陣で、龍造寺の残り方を見届けるためである。

年老いてなお、その目だけは鈍らない。

 

「治部大輔殿より、文を預かって参りました」

 

そう言って差し出された封書を、ほむら姫はその場で受け取った。

 

封は簡素。

だが、妙に腹の立つ丁寧さがある。

開く前から、送り主の顔が透けて見えるようだった。

 

「左衛門大夫」

「は」

「これは、いつの時点で治部大輔殿は書いたのですか」

 

直茂は、まっすぐに答えた。

 

「新次郎殿が離脱し、ほむら様が大友軍の前衛を崩された前後にございます」

 

その返答に、ほむら姫の目が、ほんの少しだけ細くなった。

 

「そう」

 

紙を開く。

だが、すぐには読み下さず、直茂へ差し出した。

 

「読んで」

 

直茂は一瞬だけ目を伏せた。

自分は先に見ていない。

ここで初めて読む。

その意味も分かったうえで、両手で受け取る。

 

「は」

 

そして、読み上げた。

 

「三段程度に分けて悠々と撤退。再戦とはここではなく、神埼辺りを予定」

「……」

「こちらが左衛門大夫を害さないことを見抜いたうえでの瀬踏みも兼ねた深追い手前の行動」

「……」

「戦に己の美学を持ち込むは愚か也。参拾伍点/壱百点」

 

読み終わったあと、直茂は黙った。

ほむら姫も、すぐには何も言わない。

 

やがて、ほむら姫が小さく息を吐く。

 

「これは……」

 

その声は低かった。

怒っている。

だがそれだけではない。

 

「全部を見透かされてる」

「……」

「そして私の今日の戦は、三十五点だそうよ」

 

直茂は、紙を戻しながら言った。

 

「厳しい評価ですな」

 

ほむら姫は、すぐには返さなかった。

 

目はまだ紙の上にある。

だが見ているのは、文字そのものではない。

文字の向こうにいる相手の思考だ。

 

三段で引くこと。

ここで無理に新次郎を食い切らなかったこと。

直茂を使者として出したこと。

織田方がそれを害さぬと踏んだこと。

神埼で次があると、ほとんど確信していること。

 

一つ二つではない。

戦の勝ち方だけではない。

**こちらが秘していたつもりの意図の置き方そのもの**まで、丸ごと読まれている。

 

そこが、腹立たしかった。

 

ほむら姫は、ここまで見抜かれているとは思っていなかった。

少なくとも、龍造寺側の「見せ方」と「隠し方」は、まだ通じているつもりだった。

直茂を送ることも、深追いを抑えることも、勝ちの整え方も、すべては龍造寺側で握れているはずだった。

 

それを、紙一枚で逆に講評される。

しかも、上から。

大上段から。

**三十五点**などという、あまりに具体的で、あまりに癪に障る点まで付けて。

 

「……なるほど」

 

ようやく、ほむら姫が言った。

 

「こちらは、かなり上手く隠していたつもりでした」

「……」

「少なくとも、ここまで露骨に言い当てられるとは思っていなかった」

 

直茂は黙ったままだった。

それを否定できないからだ。

 

慶誾尼が、小さくため息をつく。

 

「会ったこともない男が、あんたのことを一番良く分かってるじゃないか」

 

その言葉に、ほむら姫は笑った。

 

にこり、と言ってよかった。

 

だが、その笑みを見た瞬間、直茂は胸の内で息を止めた。

慶誾尼もまた、同じだった。

 

――ああ、これは本当に怒っている。

 

ほむら姫が本気で怒った時にだけ見せる笑みだ。

声を荒げるより危ない。

物を投げるより深い。

怒りを、感情のまま外へ捨てず、そのまま次の一手へ変える時の笑みだった。

 

「母上」

「何だい」

「褒めているのか、貶しているのか、どちらでしょうね」

 

「両方だろうね」

慶誾尼はあっさり言った。

「だが、それより厄介なのは、お前が腹の底で気づいてることさ」

 

「……」

「言いがかりじゃない。図星なんだろう?」

 

ほむら姫は答えなかった。

答えないことが答えだった。

 

腹が立つ。

それは事実だ。

だが、ただの侮辱であれば、ここまで腹は立たない。

この文は、こちらの今日の勝ち方、その癖、その欲、その止め方を、ほとんど正確に言い当てている。

だから痛い。

 

直茂が、慎重に口を開いた。

 

「ほむら様」

「何でしょう」

「中身は、ほぼ全て見抜かれております」

「ええ。見れば分かります」

「しかも」

 

「しかも、点まで付けてくれた」

ほむら姫の笑みは消えない。

「腹の立つ男」

 

「はい」

「けれど」

「……」

「こちらが思っていた以上に、こちらの“隠し方”まで見ている」

 

直茂は、そこでようやく一つ頷いた。

 

「左様にございます」

「つまり、今日のこの文は、講評であると同時に」

「……」

「こちらへ向けた、次の一手でもある」

 

慶誾尼の目が細くなる。

 

「おや」

「母上」

「その顔だと、そこまで見えたかい」

 

「ええ」

ほむら姫は、紙を見つめたまま続けた。

「これは、ただの悪口ではありません」

 

「……」

「ただの挑発でもない」

「ほう」

「こちらが、この三十五点に腹を立てることまで織り込んでいる」

「……」

 

直茂は、その言葉に何も返せなかった。

返せない。

それは、彼自身も薄々感じ始めていたことだからだ。

 

この手紙は、ほむらを評価しているようでいて、実際にはもっと深い。

怒らせる。

腹を立てさせる。

「見返してやる」と思わせる。

その思考の向きそのものを、信繁が先に置いている。

 

「左衛門大夫」

「は」

「治部大輔殿は、文を渡した時、どのような顔をしておりました」

 

直茂は少しだけ考えてから答えた。

 

「楽しんでおられました」

「でしょうね」

「ですが、嘲ってはおりませなんだ」

「そう」

「見たうえで、書いておられた」

 

ほむら姫は、そこで紙をそっと畳んだ。

 

丁寧に。

破かない。

丸めない。

捨てもしない。

 

「母上」

「何だい」

「この文、腹立たしいです」

「だろうね」

「ですが、それだけではありません」

「うん」

「これは、罠です」

 

慶誾尼が、少しだけ眉を上げた。

 

「罠?」

「ええ」

「どういう」

「今日の私の勝ち方を採点しているようで、実際には違う」

 

ほむら姫の笑みが、さらに深くなる。

直茂には、それが怒りだけでなく、思考が一段先へ入った合図だと分かった。

 

「こちらが“では次は何点だ”と考えるよう仕向けている」

「……」

「どこを減点されたか、どこを見抜かれたか、どう返すか」

「……」

「そうやって、次の神埼での私の組み方に、あの男の視点を混ぜ込ませるための罠」

 

直茂が、そこで初めてはっきり息を吐いた。

 

「……なるほど」

「そういうことです」

「では、この文は」

 

「今はまだ、ただ腹の立つ採点です」

ほむら姫は、静かに言った。

「でも、明日になれば分かる」

 

「何がでございます」

「これを読んだ私が、どこへ意識を引かれるかまで、治部大輔殿は計算している」

 

慶誾尼が、そこで小さく笑った。

 

「お前、本当に怒ってるね」

「ええ」

「だけど逃げない」

「逃げたら、三十伍点のままですから」

 

「なるほどね」

母尼は頷いた。

「じゃあ、翌日の神埼で、その罠かどうかが分かるわけだ」

 

「はい」

「面白いじゃないか」

 

ほむら姫は、紙を胸元へ差し入れた。

 

「左衛門大夫」

「は」

「軍へ伝えて下さい。撤退の三段を崩さぬこと。神埼までの筋を、今夜のうちに詰めます」

「承知しました」

「あと」

「何なりと」

「この文のことは、口の軽い者には見せぬように」

「……はい」

 

理由は分かっている。

家中へ広まれば、“ほむら姫が敵将に採点された”となる。

それは面目に関わる。

だが、ほむら姫自身にとっては、その紙は面目より重い。

 

慶誾尼は、去ろうとする直茂の背へ言った。

 

「左衛門大夫」

「はっ」

「お前も分かったろう」

「……何をにございます」

「この文が、ただの講評じゃないってことさ」

「否めませぬ」

 

「ならそれでいい」

母尼は、娘の方を見た。

「翌日の神埼で、嫌でも分かる」

 

「はい」

「それが思考誘導の罠かどうか」

「ええ」

「そして、お前がその罠に乗るのか、噛み砕くのかもね」

 

ほむら姫は、にこりと笑った。

やはり、本当に怒っている時の笑みだった。

 

「乗るつもりはありません」

「でも、影響は受けるだろう?」

「……」

「そういう手紙なんだろう?」

 

「ええ」

ほむら姫は、ようやく認めた。

「だからこそ腹が立つのです」

 

「だろうね」

「こちらの思考へ、あの男の目線を混ぜられる」

「うん」

 

「しかも、それを承知でなお、私はこの紙を捨てられない」

慶誾尼は静かに笑った。

「会ったこともない男に、そこまでやられるとはねえ」

 

「本当に」

「でもまあ」

「何でしょう」

「そういう相手が現れる時ってのは、大抵こっちも伸びる時だよ」

 

ほむら姫は答えなかった。

 

ただ、胸元に入れた薄い紙の感触だけを確かめた。

腹は立つ。

心底、腹が立つ。

だが、その怒りはもう、次の戦の中へ入り始めている。

 

そして、その怒りごと神埼へ持ち込ませることこそが、治部大輔信繁の罠なのだと。

そのことが本当に明らかになるのは、翌日の神埼の戦場でだった。

 

 

 

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