織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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062神埼の包囲戦

神埼の空は、よく晴れていた。

 

晴れているからこそ、今日の戦は見えすぎる。

旗の揺れも、土煙の太さも、兵の止まりどころも、全部が目に入る。

目に入るということは、ごまかしが利きにくいということでもある。

 

「治部様」

十兵衛が静かに言った。

「助右衛門隊、配置に入りました」

 

「うん」

 

俺は頷き、遠くの先陣を見た。

 

助右衛門の率いる隊が、先頭に立っている。

 

慶次郎ではない。

慶次郎を出せば、ほむら姫も鍋島も考える。

あれだけ派手で、あれだけ前へ出る男が、妙に素直な押し負け方をするなら、誰だって一拍置く。

だから違う。

 

助右衛門だ。

 

寡黙で、重く、地に足のついた武辺。

正面から押し合って、そのまま少しずつ後ろへ下がっていく絵が、一番自然に見える。

 

「ほむら姫は食いつくと思いますか」

 

半兵衛の問いに、俺は視線を前へ置いたまま答えた。

 

「食いつくよ」

「三十五点を意識していても」

「意識してるからだ」

 

官兵衛が、小さく口元を動かした。

 

「なるほど」

「前回あいつは、“勝ちを綺麗に締める”方へ寄った。だから今回は、その逆の方へ少し踏み込みたくなる」

「勝ち切る、と」

「そう。勝ち切って、それでも崩れぬところを見せたくなる。罠だと解っていても、その瞬間が訪れる。おそらく、心の底では見下している新次郎相手に、あのように中途半端な形で勝ちきれない戦を終えたあとだからな」

 

そこが、人の癖だ。

 

同じ失点は、誰でも嫌う。

嫌うからこそ、その真逆へ一度振れやすい。

ほむら姫ほど頭のある将でも、その傾きまでは消せない。

いや、頭があるからこそ、自分で修正しているつもりで、きれいに次の罠へ入る。

 

神埼の布陣は、一見すると平凡だった。

 

中央に助右衛門の先陣。

その後ろに俺の本隊。

左右には足軽と鉄砲。

さらに遠く外へ、騎馬。

 

だが本命は、その騎馬だった。

 

左翼の鉄砲騎馬部隊。

ただの騎馬ではない。

抜けるための足と、近づきすぎずに崩す火力を両方持った、いかにも治部家らしい嫌な存在だ。

 

「始まります」

 

十兵衛の声と同時に、前線が動いた。

 

龍造寺軍は、前回より整っていた。

 

当然だ。

ほむら姫は学ぶ。

それも、かなり速い。

 

前へ出す兵の厚み。

槍先の揃った槍衾。

支える後列の距離。

左右の張り出し。

どれも太刀洗より丁寧になっている。

 

「……いいな」

 

俺は素直にそう思った。

 

敵だが、伸びている。

文一枚で腹を立て、その怒りをそのまま次の改善へ持ってくる将は強い。

 

やがて、両軍が噛んだ。

 

助右衛門隊は、正面で受けた。

 

最初の当たりは、ほぼ互角。

だが二度、三度とぶつかるうち、じわりと押され始める。

 

「上手い」

と慶次郎。

「助右衛門の野郎、ほんとに押し負けてるように見せる」

 

「見せるだけじゃない」

俺は言った。

「三分は本当に食わせてる」

 

これが大事だ。

 

全部芝居だと、兵の足が浮く。

浮いた兵は退き際で崩れる。

だから、三分は本当に苦しい。

七分は計算。

その際どいところで助右衛門は持たせている。

 

龍造寺の先鋒が、少しずつ前へ出る。

 

ほむら姫の赤い旗も、それに合わせてじりじりと寄る。

慎重だ。

だが慎重すぎはしない。

ここで慎重に過ぎれば、前回の自分へ逆戻りだと分かっているからだろう。

 

「来るな」

 

俺は小さく言った。

 

「来ますな」と十兵衛。

 

助右衛門隊が、また下がる。

本隊も、ほんの少しだけ下がる。

逃げではない。

支えきれず押されたように見える、絶妙な幅だ。

 

龍造寺から見れば、今はこう見えるはずだ。

 

治部軍中央は固い。

だが今回は押せている。

しかも相手は、前回の講評でこちらを値踏みしてきた。

ならば、その鼻を明かせる。

勝ち切れる。

そういう絵だ。

 

「……ほむら姫殿」

俺は、遠い旗へ向けて心の中で言った。

「今回は点を取りに来すぎたな」

 

龍造寺の中央が、さらに深く入る。

 

その瞬間だった。

 

左右外縁へ大きく取っていた騎馬が、一気に動いた。

 

「今だ」

 

俺の声と同時に、左翼の鉄砲騎馬が風のように走る。

右翼も呼応する。

真正面へ行かない。

斜め後ろだ。

さらにその外を巻き、龍造寺の背へ回る。

 

ほむら姫の本隊が深く食い込んだ分だけ、後背は伸びている。

そこへ鉄砲騎馬が現れた。

 

「後ろ!」

 

誰かが龍造寺側で叫んだのが、風に乗ってかすかに届いた。

 

遅い。

 

騎馬は止まらず、十分な距離で散り、向きを変え、撃つ。

一発で殲滅するためではない。

退路を“通れぬ場所”へ変えるための射だ。

 

乾いた銃声が連なる。

 

後ろが詰まる。

振り返った兵が止まる。

止まったところへ、さらに左右から足軽が寄せる。

 

「閉じました」

 

十兵衛の声は、静かだった。

 

「うん」

 

前。

助右衛門隊と本隊。

左右。

左近と伊勢守が率いる治部家の足軽と鉄砲。

後ろ。

鉄砲騎馬。

 

龍造寺軍は、そこでようやく自分たちが袋の中へ入ったことを知った。

 

完全包囲。

 

神埼の平野に、小さなカンナエが出来上がった。

 

「見事です」

官兵衛が珍しく、かなり素直に言った。

「助右衛門がよく持たせました」

 

「うん。あいつじゃないと無理だった」

 

慶次郎なら、たぶん途中で勝ちたくなる。

直線的な武辺ほど、それを抑えるのは難しい。

助右衛門は、勝ちたがる代わりに、命じられた持ち場を黙ってやる。

こういう時に一番怖いのは、そういう男だ。

 

眼下の龍造寺軍は、まだ崩れてはいなかった。

そこも、さすがほむら姫だ。

 

完全包囲を食らった軍は、普通ならどこかで潰走する。

だが、すぐには割れない。

兵がまだ、自分たちの将を信じているからだ。

 

「さて」

俺は息を吐いた。

「ここから先だな」

 

「撃ち込みますか」と半兵衛。

 

「いや」

俺は首を振った。

「ここで撃ち崩すのは簡単すぎるし犠牲も出る。それに、偉そうに採点しといて、ここで簡単すぎる手は、後で値打ちが下がる」

 

「では」

「使者だ」

 

十兵衛が即座に頷いた。

 

「承知」

 

「短くていい」

俺は言った。

「もう勝敗は見えてる。長台詞はいらない」

 

やがて、白旗を持った使者が、包囲陣の一角から龍造寺本陣へ向かった。

 

ほむら姫は、その報せを受けて馬を止めた。天を仰ぐ。

戦場の変化は激烈で、一瞬のことだった。

 

赤い旗の下、彼女は包囲の形を見たはずだ。

前へ出すぎた。

支えはあった。

だが、支えごと深く入れられた。

そして後ろを断たれた。

 

自分が前回食わせた形を、今度はもっと洗練された形で返されたのだ。

 

使者は、ほどなく彼女の前へ進み出た。

頭を下げ、ただ一言だけを伝える。

 

「治部大輔様より」

 

ほむら姫が、じっと見下ろす。

 

「申せ」

 

使者は顔を上げずに言った。

 

「自分で採点してみろ。何点だ?」

 

風が吹いた。

 

その一言は、神埼の平野にあまりにも短かった。

だが短いからこそ、痛い。

 

前回、自分は三十五点をつけられた。

腹が立った。

怒った。

そして怒りのまま、罠を自覚して改善して次の戦で点を取りに来た。

 

その結果が、今、この完全包囲だった。

 

ほむら姫の顔は、遠くて細部までは見えない。

だが、馬上で微動だにしないその姿だけで十分だった。

 

「……刺さってるな」

 

慶次郎が、後ろで笑いを堪えた声を出す。

 

「かなりな」

俺はそう答えた。

「でも、あの姫ならここからまだ考える」

 

「降りますか」

 

十兵衛の問いに、俺はすぐには答えなかった。

 

神埼の包囲陣の中で、ほむら姫は止まっている。

怒るか。

笑うか。

兵を死なせぬ道へ寄るか。

それとも、あと一手だけでも返しに来るか。

 

その答えで、点は決まる。

 

「……見よう」

俺は静かに言った。

「今回は何点をつけるべきか、こっちもちゃんと見てからだ」

 

神埼の空は高い。

包囲の輪は、もう閉じている。

次に動くのは龍造寺だ。

そして、その一手で、戦の終わり方だけでなく、九州の残り方まで変わる。

 

 

神埼の平野で、最後の輪が閉じた。

 

前には助右衛門隊と治部本隊。

左右には足軽と鉄砲。

そして後ろ。

回り込んだ鉄砲騎馬が、退路を“通れぬ場所”へ変えていた。

 

龍造寺の兵は、すぐには崩れなかった。

そこは、ほむらが自ら鍛え、直茂が締めてきた軍だった。

有馬や大村、筑前や筑後の豪族、そして大友家相手に散々勝ちを重ね、精鋭と化した一軍だ。

だが、崩れぬことと、抜けられることは別だ。

 

馬上のほむらは、包囲の輪を見た。

一つひとつの動きは理解できる。

助右衛門隊の、微妙な均衡の末に押し負けたような退き。

治部本隊の微後退。

左右の締め。

後背へ回った騎馬鉄砲。

 

綺麗だった。

腹が立つほど綺麗で自然だった。

 

最初の一目で大友新次郎鎮鑑が敷いた陣などとは、比べものにならなかった。

対峙した時から、それは分かっていた。

正面の勢いに酔い、数を前へ押し出すだけの陣ではない。

軍法に則り、しかもそれが実戦で洗練された、九州ではお目に掛かれないような、精緻で、そして美しく組まれた陣形だった。

前後左右がきちんと噛み合い、どこを支えにし、どこを切り捨てずに残すかまで行き届いた堅陣だった。

 

正直に言えば、ほむらは最初に見た時から思っていた。

――あれを崩すのは、難しいかもしれない。

 

だが、それでも、ぶつからねば分からなかった。

堅そうな陣と見えるからといって、本当に堅いとは限らない。

見た目だけ整えていて、中は脆い軍もある。

逆に、ぶつかってみて初めて見える綻びもある。

 

だから踏み込んだ。

慎重に。

それでも前へ出た。

 

そして、少しの均衡ののち、相手は引いた。

 

その瞬間、ほむらは「いける」と判断した。

 

あの堅陣は確かに強い。

だが押せぬわけではない。

押しても崩れぬほどではない。堅いがゆえに、一度ベクトルを変えてしまえば、逆にそれで動きが鈍く、硬直してしまうのかもしれない。

さらに半歩、さらに一歩、勝ち切る方へ寄せられる。

そう読んだ。

 

――それ自体が、罠だったのだ。

 

「……そういうことですか」

 

誰へともなく、ほむらは呟いた。

 

直茂が馬を寄せる。

 

「ほむら様」

「分かっています」

 

声は静かだった。

静かだが、熱は深いところに沈んでいる。

 

「あの陣の完成度は、最初から見えていました」

「……」

「それでも、ぶつかれば何か見えると思った」

「はい」

「少し押せた。均衡が揺れた。相手が引いた。思っていたより我らの勢いが強く、こちらの先鋒の圧力に耐えかねた動きに見えました」

「……」

「だから、いけると判断したのです」

 

ほむらは、正面の助右衛門隊がいた位置を見た。

 

「あの堅陣が」

「……」

「あれほど短時間で、ああも綺麗に崩れるわけがなかった。勝ちを焦っていたのでしょうね」

 

そこまで言って、ほむらは小さく笑った。

 

にこり、と言ってよかった。

だが、その笑みを見た瞬間、直茂は胸の内で息を止めた。

慶誾尼もまた、同じだった。

 

――本当に怒っている。

 

ほむらが本気で怒った時にだけ見せる笑みだ。

声を荒げるより危ない。

怒りを外へ捨てず、そのまま次の一手へ変える時の笑みだった。

 

「母上」

 

ほむらが、わずかに振り向く。

 

「何だい」

「私は、昨日の手紙で腹を立てました」

「そうだろうね」

「意図も、撤退の手順も、何を見せて何を隠したつもりだったかも、まるで丸裸にされたようでした」

「……」

「しかも、大上段に三十五点です」

「そりゃ腹も立つ」

「ええ」

 

ほむらは、再び前を見た。

 

「だから今日は、罠が仕掛けられていると知りつつ冷静なつもりでいたのです」

「……」

「三十五点の逆を見せてやろうと」

「ほう」

「綺麗に締めるだけでなく、勝ち切って、それでも崩れぬところを見せてやろうと」

「うん」

 

「ですが」

そこで、ほむらの笑みが少し深くなる。

「対峙した瞬間から分かっていたあの堅陣が、ぶつかった後、少し押せたからといってそう簡単に本当に崩れるわけがなかった」

 

「……」

「なのに、崩れた。それも、こちらが“勝てる”と思うのにちょうどよい崩れ方で。まるで芸術みたいに」

 

直茂が、そこでようやく深く息を吐いた。

 

「……完全に、騙されましたな」

 

「ええ」

ほむらは頷いた。

「完成度の高い陣を前にして、こちらは慎重になっていた。それと同時に、『あの見事な陣を崩してみたい』という誘惑も湧きました。だが、ぶつかり、押せたことで、その慎重さが“いける”へ変わった。その変わる瞬間ごと、治部大輔殿に読まれていた」

 

慶誾尼は、小さくため息をついた。

 

「図星なんだろうね」

 

それだけだった。

それで十分だった。

 

ほむらは、笑みを消さぬまま答えた。

 

「ええ」

「……」

「昨日の手紙は、講評ではなかった」

「……」

「ただの侮辱でもない」

「……」

「それ自体が罠であることを教えながら、それでも私の思考を制限し、誘導する。大友新次郎を相手に首を獲れなかったことを、私は心のどこかで恥じていたのかもしれません。そのための罠そのものだったのです」

 

風が吹く。

包囲の輪は、もう閉じている。

 

前。

助右衛門隊と治部本隊。

左右。

足軽と鉄砲。

後ろ。

鉄砲騎馬。

 

一つひとつを見れば、まだ崩れてはいない。

兵も立っている。

旗も倒れていない。

だが、立っていることと、勝てることは別だった。

 

囲まれている。

 

その事実だけは、どれだけ目を逸らしても消えない。

 

「左衛門大夫」

「は」

「兵の顔は」

「まだ折れてはおりませぬ」

「退き筋は」

「正面は無理。左右は詰まりつつあり、後背は騎馬鉄砲で押さえられております」

「一点突破は」

「出来ても、その先で潰されましょう」

 

十分だった。

 

ほむらは、そこでようやく完全に理解した。

 

この包囲は、単に戦術で勝ったのではない。

自分が“次はこうする”と考えた、その考え方ごと含めて追い込まれている。

神埼での完全包囲は、兵の包囲であると同時に、思考の包囲でもあった。

 

「……完敗ですね」

 

その声は小さかった。

だが、直茂にも慶誾尼にも、はっきり聞こえた。

 

「ほむら様」と直茂。

「まだ兵は立っております」

「ええ」

「まだ旗もございます」

「ええ」

「ですが」

「ええ。勝てません」

 

言い切った。

そこに逃げはなかった。

 

ほむらは、使者の方を見た。

白旗を持つ織田の使者は、頭を下げたまま待っている。

 

「そなた」

「は」

「治部大輔殿は、何と申されたのです」

 

使者は顔を上げずに答えた。

 

「自分で採点してみろ。何点だ、と」

 

その一言が、今度は前より深く刺さった。

 

神埼で完全包囲されて、ようやく分かったのだ。

あの手紙は、ここへ至らせるためのものだったのだと。

三十五点という大上段の点数そのものが罠だった。

腹を立てさせるための。

修正したくさせるための。

堅陣を前にして、ほむらがむしろ慎重になっていると思いながら、どこか高揚していた心理も。

その修正の向きを、信繁の望む形へ引っ張るための。

 

「……なるほど」

ほむらは、そこで本当に静かに笑った。

「そこまでですか」

 

「……」

 

「ですが、敵将に点を付けるとは、随分と嫌な趣味ですね」

ほむらは、笑みを消さぬまま続けた。

「分かっているのではありません」

 

「……」

「分からせに来ているのです」

「……」

「こう考えろ、と。こう修正しろ、と。その先で、お前はこう動く、と」

 

直茂が、そこでようやく深く息を吐いた。

 

「では」

 

「ええ。この降伏そのものが最後の確認でしょう」

ほむらは使者を見た。

「自分で採点してみろ、でしたね」

 

「は」

「では答えます」

 

一度、言葉を切る。

その間が、かえって痛かった。

 

「三十五点より上を取るつもりでした」

「……」

「ですが、実際にはその“上を取りに行く心”ごと使われた」

「……」

「ならば今回は、三十五点にも届きません」

 

直茂も、慶誾尼も、何も言わない。

言えない。

正しいからだ。

 

「三十点」

「……」

「それで十分でしょう」

 

使者は、わずかに目を上げた。

今度の点は、筋が通っていた。

 

「左衛門大夫」

「は」

「降ります」

「……」

「兵を無駄死にさせるのは、将の恥です」

「御意」

「旗を下げぬまま、武器を伏せる合図を。列を崩さず止まりなさい」

「承知しました」

「誰か一人でも、ここで無意味な突破を試みたなら」

「……」

「私が斬ります」

 

直茂は深く頭を下げた。

 

慶誾尼は、静かに頷いた。

 

「それでいい」

「母上」

「怒るのは後にしな」

「……ええ」

「今は家を残す時だ」

 

ほむらは、正面高みを見た。

その向こうに、治部大輔信繁がいる。

 

「使者」

「は」

「治部大輔殿へ」

「はい」

「三十点、と伝えなさい」

「……左様に」

 

「そして」

ほむらは、一度だけ目を閉じてから、開いた。

「昨日の手紙こそが、思考誘導のための罠だったと知っていましたと。ですが、神埼で、ようやく本当の意味が分かったとも伝えなさい」

 

「承りました」

「さらに」

「はい」

「今回は、私の負けです」

「……」

「ですが、次はこの罠ごと噛み砕きます」

 

使者は、そこで初めてほんの少しだけ口元を動かした。

 

「それも、そのまま」

「そのまま伝えなさい」

 

白旗の使者が去っていく。

 

直茂は、合図の伝令へ走った。

龍造寺の列が、崩れぬまま止まり始める。

それを見届けながら、ほむらは胸の内で静かに認めた。

 

負けた。

完全に負けた。

兵だけではない。

自分の思考の運び方まで含めて、神埼で信繁に負けた。

 

だが、それでも兵は残る。

家も残る。

そして、この腹立たしさも残る。

 

「母上」

「何だい」

「私、あの男が本当に嫌いです」

「知ってるよ」

「ですが」

「うん」

「次は、この罠ごと噛み砕きます」

 

慶誾尼は、静かに笑った。

 

「そういう顔をしてる時のお前は、だいたい伸びるよ」

 

ほむらは答えなかった。

 

ただ、完全包囲の中で降伏を決めたその瞬間、自分の中に残ったものが、敗北だけではないことを知っていた。

三十五点の手紙は、ここでようやく本当の意味を見せた。

あれは講評ではなかった。

神埼へ自分を導くための、罠そのものだったのだ。

相手が神埼へ来ると確信しているなら、それを逆手にとることもできた。

神埼で正面から戦う姿勢を決めてしまった、それがすでに相手の手の内だったということだ。

 

そして、その罠に乗せられたことを認めた上でなお、次を考えてしまう自分がいる。

そこまで含めて、治部大輔信繁は見ていたのだろう。

 

それが、心底腹立たしかった。

 

 

使者が戻ってきた時、神埼の風はまだ乾いていた。

 

高みの陣から見下ろす平野には、龍造寺の列がまだ残っている。

崩れてはいない。

だが、もう戦うための列ではない。

止まるための列だ。

 

使者は俺の前で膝をついた。

 

「治部大輔様」

「うん」

「龍造寺ほむら姫より」

「申せ」

 

使者は、顔を上げずに言った。

 

「三十点、と」

「……そうか」

 

短く答えたが、胸の内では少しだけ息を吐いた。

 

そこへ、さらに続ける。

 

「また、思考誘導のための罠だったと知っていましたと。ですが、神埼で、ようやく本当の意味が分かった、と」

「うん」

「加えて、今回は自らの負けを認める。されど、次はこの罠ごと噛み砕く、と」

 

後ろで慶次郎が低く笑った。

 

「食ったな」

「うん」

「しかも、ちゃんと食ったと認めやがった」

「そこがいい」

 

十兵衛は、静かに包囲の輪を見たままだった。

 

「では、降伏にございますな」

「そうだ」

「兵を無駄死にさせぬ方を選ばれましたか」

「選んだ」

 

官兵衛が、袖の中で手を組んだ。

 

「三十点、ですか」

「妥当だろ」

「はい」

「でも、そこまで自分で言えるなら、昨日よりは伸びてる」

「……それを、どう返されます」

 

俺は少し考えた。

 

包囲は閉じた。

撃てば壊せる。

ここで龍造寺を徹底して削るのは簡単だ。

簡単だからこそ、値が安い。

 

今欲しいのは死骸ではない。

残る骨だ。

九州をこれ以上腐らせぬための、使える骨。

 

「使者」

 

と俺。

 

「は」

「ご苦労だが、ほむら姫殿へ再度伝えろ」

「はい」

「三十点は自己採点としては上出来だ」

「……」

「だが、それも少し甘い」

「左様に」

「犠牲が少なく済んだ。だから今回は四十点だ、と」

「承りました」

「さらに、兵を殺して満足する将でないことは、もうよく分かった、とも言え」

「は」

「そして」

 

そこで一度、戦場の中央を見た。

龍造寺の旗はまだ立っている。

それでいい。

 

「降るなら、列を崩さず来い」

「……」

「旗は持て」

「……」

「武器は伏せろ」

「……」

「家を残したいなら、家の形で降れ、と」

「そのまま、お伝えいたします」

 

使者が去ると、半兵衛が静かに言った。

 

「四十でよろしいので」

「三十では低すぎる」

「ほう」

「罠を食った」

「はい」

「でも、食ったあとに兵の命を無駄に散らさない」

「……」

「そこで止まれるなら、昨日の三十五よりは上だよ」

「なるほど」

 

慶次郎が、肩を竦めた。

 

「ずいぶんと甘やかすんだな」

「甘やかしてはない」

「四十なら十分甘い」

「だったらお前が五十つけるか?」

「いや、三十七」

「半端だな」

「そこが愛だろ」

「知らん」

 

そのやり取りに、さすがに助右衛門ですら少しだけ口元を動かした。

 

 

龍造寺の列が、崩れぬまま静まり始める。

 

やがて、包囲の輪の向こうで、白旗のもとに動きが見えた。

ほむら姫だ。

その半歩後ろに、鍋島左衛門大夫直茂。

さらに少し離れて、慶誾尼。

 

互いに十分な距離で馬を止める。

 

「治部大輔殿」

 

ほむらが先に口を開いた。

 

「ほむら姫殿」

「四十点、とのこと」

「届いたか」

「ええ」

「不服か?」

「半分は」

「残り半分は?」

「次はもっと高く取ります」

 

その返しに、俺は少しだけ笑った。

 

「そうか」

「はい」

「なら、今日はこれでいい」

 

直茂が静かに一礼する。

 

「治部大輔殿」

「何だ、左衛門大夫」

「龍造寺、ここに負けを認めます」

「うん」

「兵を止め、列を保ち、家を残す方を取ります」

「それでいい」

「寛恕を賜れますか」

「やる」

 

その言い方に、向こうの兵が少しだけ息を動かしたのが分かった。

「助ける」と言うより、「残す」と言う方が、この場には合っている。

 

俺は、ほむらへ向けて続けた。

 

「条件は後で詰める」

「はい」

「だが勝者として、公儀よりの使者として今ここで言っておく」

「何でしょう」

「龍造寺を、ここで潰し切る気はない」

「……」

「その代わり、勝手は止める」

「当然です」

「海も道も、もう好きにはさせん」

「承知の上です」

「そして、使えるなら使う」

「そのつもりで降ります」

 

そこまで言い切るなら、十分だった。

 

慶誾尼が、そこでようやく口を開いた。

 

「治部大輔殿」

「何でしょう」

「うちの娘を、よく怒らせたものだね」

「それは、どうも」

「だが、怒らせたままで終わる気はないんだろう?」

「終わらせるのは惜しいですから。鉄は熱いうちに打て、と」

 

「ほう」

母尼の目が、少しだけ細くなる。

「嫌な男だ」

 

「よく言われます。私は女性には出来る限り優しくしたいのですが」

 

その返しに、ほむらが本当に少しだけ笑った。

怒りの笑みではない。

まだ悔しさは残っているが、それでも戦が別の段へ移ったことを受け入れた笑みだった。

 

「ほむら姫殿」

「はい」

「今回は、兵を無為に散らさなかった」

「……」

「そこは見事だった」

「四十点の中身、ですか」

「そういうこと」

「なら」

「うん」

「次は、その先まで取りに参ります」

 

その言葉に、直茂がほんのわずかに視線を落とした。

止めない。

だが、どこまで本気なのかを横で量っている顔だった。

 

俺は頷く。

 

「楽しみにしている」

「嫌な男」

「今さらだろう」

「ええ」

 

 

神埼の平野から兵を引く作業は、戦より静かで、戦より難しかった。

 

勝った側は、緩めば奪いに走る。

負けた側は、気を抜けば崩れて走る。

そのどちらも起こさせぬために、十兵衛と伊勢守があちこちへ目を配り、左近が道を切り、半兵衛と官兵衛が受け皿の順を決めた。

 

その間、俺はほむらと直茂と短く話を詰めた。

 

村中城へ入る。

龍造寺山城守隆信へ話を通す。

家の処し方は、大坂で上総介兄上と勘十郎兄上が決める。

だがここで、龍造寺が「戦って負けて終わる家」ではなく、「残して使う家」として線の内へ入ることだけは、すでに決まっていた。

 

「兄上は、不機嫌でしょう」

 

と、ほむら。

 

「山城守殿か」

「はい」

「だろうな」

「怒鳴ります」

「分かる」

「ですが」

「うん」

「話は通じます」

「なら十分だ」

 

そこへ直茂が、わずかに口元を動かした。

 

「治部大輔殿」

「何だ」

「神埼の罠、見事にございました」

「褒めてる?」

「敵としては」

「それはどうも」

「ですが」

「うん」

「次は、そう都合よくは参りませぬ」

「だろうな」

「それでも仕掛けられますか」

「仕掛けるよ。毎日毎日墓穴にならない程度の穴を掘るって訳さ」

「ほむら様」

 

「分かっています」

ほむらは、馬上で静かに言った。

「だからこそ、次は噛み砕くのです」

 

その言い方に、やはり火が残っていると分かった。

折れてはいない。

折れていないから、残す価値がある。

 

 

龍造寺の兵が整然と引いていくのを見届けたあと、慶次郎が俺の横へ来た。

 

「なあ」

「何だ」

「結局、あの姫気に入ったんだろ」

「何の話だ」

「軍才の話だよ」

「……まあな」

「まあな、じゃねえよ」

「ちゃんと勝てる。勝っても崩れない。負けても兵を無駄死にさせない。そういう将は好きだよ」

「好きだってよ」

「変な方に取るな」

 

後ろで官兵衛が、袖の中で手を組んだまま言う。

 

「ですが、治部様」

「何だ」

「四十点は、確かに少し甘いかもしれませぬ」

「お前も言うか」

「罠を食ったのは事実にございます」

「うん」

「ただ」

「ただ?」

「食ったあとに、自分でそれを認め、兵を残す方へ即座に切り替えられる将は少ない」

「そうだな」

「その分を足した、と」

「そういうこと」

 

半兵衛が、そこで静かに続けた。

 

「神埼で終わりではありませぬ」

「うん」

「この先、龍造寺をどう使うかまで入って、初めて採点が完成する」

「その通りだ」

 

俺は、遠くへ消えつつある龍造寺の旗を見た。

負けた旗だ。

だが、死んだ旗ではない。

 

「九州は、まだ終わってない」

 

そう言うと、十兵衛が頷く。

 

「はい」

「龍造寺も、大友も、島津も、もうただ斬れば済む相手ではない」

「左様にございます」

「残して、並べて、使って、それでも噛まぬように手綱を持つ」

「面倒にございますな」

「今さらだろ」

 

そう返すと、珍しく十兵衛も少しだけ笑った。

 

 

村中城へ入る前に、俺は馬を止めた。

 

神埼でほむら姫の本隊は降りた。

だが、それで龍造寺家そのものが降ったわけではない。

家として止まるか、軍だけ止まってまだ足掻くか、その分かれ目はここからだ。

 

「十兵衛」

「は」

「唐津へ第一の追報を出せ」

「第一、にございますか」

 

俺は頷いた。

 

「神埼にて、ほむら姫率いる本隊降伏の意を示す。だが正式には、これより村中城にて山城守と会談のうえで確定とする」

「……なるほど」

「だから浅井軍・毛利軍には、包囲は保て、だが無用な攻めは控えろ、だ」

「は」

「ここで文が遅れれば、落とさずに済む城まで落ちる」

 

十兵衛は、その場で一礼し、すぐ伊勢守へ目をやった。

伊勢守が文案の骨を拾い、左近が道筋と使者の筋を割る。

半兵衛と官兵衛は、誤読されぬ言葉へ直し始めていた。

 

こういう時、治部家は本当に早い。

 

「第二報は」

 

と、半兵衛。

 

「山城守が正式に降った後だ」

「その時点で、包囲中の支城には降伏勧告」

「うん」

「従う城は解放」

「そう」

「浅井軍・毛利軍は村中城へ順次合流」

「それでいい」

 

伊勢守が腕を組んだまま言う。

 

「唐津方面の兵が“戦は終わった”と緩むのはまだ早い」

「だから第一報と第二報を分ける」

「左様」

 

慶次郎が小さく鼻を鳴らした。

 

「勝った後の方が細けえな」

「細かくしないと、人が死ぬ」

「違いない」

 

俺はあらためて、村中城を見た。

ここから先は、神埼の続きではない。

龍造寺家という札を、敵札のまま捨てるか、こちらの線の内へ入れるか、その話だ。

 

「行くか」

「村中城、ですか」

 

と十兵衛。

 

「そうだ。山城守に会う。神埼で軍は止まった。だが、家をどう残すかは、まだ別の話だ」

「はい」

「神埼での四十点を、家として何点まで伸ばせるかは、あっち次第だ」

 

 

村中城の空気は、思っていたより静かだった。

 

悲鳴もなければ、浮つきもない。

もう勝ち負けの熱が抜け、代わりに「これからどう裁かれるか」を待つ空気へ変わっている。

 

案内されて入った広間には、龍造寺山城守隆信がいた。大兵肥満とは後の世のイメージなのだろう。大柄で筋肉質、関取というより重量級の柔道選手のような男だ。

 

その左右に、ほむら姫、鍋島左衛門大夫直茂。

少し離れて慶誾尼。

さらに家中の重みある顔が幾つか並ぶ。

 

誰も軽口を叩ける空気ではない。

それでいい。

 

「治部大輔殿」

 

山城守が先に言った。

 

「山城守殿」

 

互いに一礼する。

戦場の礼ではなく、家同士の礼だ。

 

俺は座ると、回りくどい言い方は避けた。

 

「神埼で、ほむら姫殿の本隊は止まった」

「……うむ」

「だが、俺が欲しいのは軍の停止だけじゃない」

「家、か」

「そうだ」

 

山城守の目が、少しだけ細くなる。

 

「龍造寺をここで潰し切る気はない」

「……」

「その代わり、勝手戦は終わりだ」

「……」

「海も、道も、港も、もう好きにはさせん」

「ふん」

 

不機嫌そうではあったが、否定はしない。

そこが大事だ。

 

「神埼で軍は負けた。それは認めよう」

「だが、ここで家としても降るなら、話は別になる」

「別とは」

「生かす」

 

広間の空気が、わずかに動いた。

 

「ただ生かすのではない」

「……」

「残して、使う」

「……ほう」

 

ここで初めて、山城守の目に少し別の色が入る。

負けた家へ「助命」を言うのは簡単だ。

だが「使う」と言われると、それは屈辱でもあり、同時に値でもある。

 

直茂が、静かに口を挟んだ。

 

「条件を伺えますか、治部大輔殿」

 

「いいだろう」

俺は指を折るように言った。

「龍造寺家、正式降伏」

「将軍の静謐令に服する」

「海と港は織田の監督下」

「独断の対外戦停止」

「包囲中の支城は、山城守名で降伏勧告」

「従う城は、そのまま解放させる」

「従わぬ城は、今後は龍造寺の責ではなく、独立の敵として扱う」

 

そこまで言うと、山城守が低く唸った。

 

「厳しいな」

「甘くはない」

「だが、家は残る」

「残す」

「……」

 

その沈黙に、今度はほむら姫が言った。

 

「兄上」

山城守が、わずかにそちらを見る。

「私は、神埼で負けを認めました」

 

「うむ」

「軍として止まりました」

「……」

「ならば、家としてもここで止まるべきです」

「お前はそう申すか」

「はい」

「悔しくはないのか」

「悔しいです」

「では」

「悔しいからこそ、残すのです」

 

その言葉は、広間の空気をきちんと切った。

負けたから屈する、ではない。

次を残すために止まる。

その言い方なら、龍造寺家中もまだ飲み込みやすい。

 

慶誾尼もそこで口を開く。

 

「山城守」

「何だ、母上」

「ここで家まで折るのは、将の意地じゃなくて阿呆だよ」

「……」

「神埼でほむらは負けた。なら次は、家を残して負けを使う番さ」

「使う、か」

「そうだよ」

 

山城守は、そこで長く息を吐いた。

不機嫌はまだある。

屈辱も飲み込めてはいない。

だが、それでも理は見えている顔だった。

 

「治部大輔殿」

「何だ」

「一つ問う」

「いい」

「龍造寺を残して、本当に使う気があるのか」

「ある」

「口先ではなく」

 

「口先でここまで来ない」

そこで、俺はあえて山城守をまっすぐ見た。

「神埼で兵を散らさず止まった」

 

「……」

「その一点で、龍造寺はただの敗残ではなくなった」

「……」

「そこに、貴殿とほむら姫と左衛門大夫がいる」

「うむ」

「なら、まだ使い道がある」

「……嫌な男だな」

「大変不本意だが、よく言われる」

 

その返しに、広間の空気がほんの少しだけ緩んだ。

 

やがて山城守は、膝の上で握っていた手をほどいた。

 

「分かった」

「うん」

「龍造寺山城守隆信、この場にて正式に降る」

 

「承知した」

ほむら姫も、直茂も、慶誾尼も、そこで初めてわずかに肩の力を落とした。

「十兵衛」

 

「は」

「第二報だ」

「はい」

「山城守殿正式降伏」

「……」

「包囲中の支城へは、山城守殿の名で降伏勧告」

「従う城は解放」

「浅井軍・毛利軍は村中城へ順次合流」

「承知しました」

 

左近がすぐに動き、伊勢守が文案を整え、十兵衛が押印の順を決める。

官兵衛は一読して無駄を削り、半兵衛が誤読の余地を潰す。

第二報は、すぐに唐津へ向けて飛んだ。

 

 

山城守との会談が一段落しても、九州の戦はまだ止まらない。

 

むしろ、ここからが面倒だった。

 

「十兵衛」

「は」

「豊後方面の報せは」

「まだ最新が揃いませぬ」

「詰めろ」

「はい」

 

俺は広げられた地図へ目を落とした。

 

豊後。

本家第一陣。

市之助。

戸次伯耆守。

吉弘弥七郎。

あちらがどこまで押し、どこまで立て直し、島津の圧をどこで受けているか。

それを見ずに、このまま島津へ直圧するか、あるいは豊後筋と呼応するかは決められない。

 

官兵衛が静かに言った。

 

「治部様」

「何だ」

「今の兵の勢いだけを見れば、そのまま南へ圧する手もございます」

「うん」

「龍造寺も止まり、唐津の浅井・毛利もやがて寄る」

「そうだな」

「勢いで言えば、今が最も島津へ圧を掛けやすい時期です」

 

半兵衛は、そこで別の指を置いた。

 

「ただし」

「うん」

「豊後の線を見ぬまま南へ寄りすぎれば、本家第一陣との噛み合わせが悪くなります」

「そこだよな」

「はい」

「刑部大輔様がどこまで押さえ、伯耆守殿・弥七郎殿がどこまで旧大友筋を立てているかで、こちらの最適線は変わります」

 

伊勢守が腕を組む。

 

「現地の治部様に、どこまで委ねられているかにもよる」

「そうだな」

「龍造寺を止めた以上、次に島津を直に圧する判断は、一軍の進発では済みませぬ」

「本家第一陣、浅井、毛利、龍造寺新編制まで絡む」

「ならば、独断は危うい」

 

そこへ直茂が、少し離れた位置から言った。

 

「治部大輔殿」

「何だ、左衛門大夫」

「豊後方面と噛み合わせるなら、島津にとっては二正面の圧となりましょう」

「うん」

「ですが、時間を与えることにもなります」

「その通りだ」

「逆に、直圧は早い。だが、全軍の呼吸を揃えきれぬ危険がある」

「お前もそう見るか」

「はい」

 

ほむら姫も口を開いた。

 

「島津は、時間を有効に使う家です」

「……」

「時間を与えれば、負け戦でも形を整えます」

「うん」

「ですが、雑に踏み込めば、こちらが形を乱します」

「分かってる」

 

そう。

どちらにも理がある。

だからこそ、この段は気分で決めてはいけない。

 

「十兵衛」

「は」

「豊後方面、最速の報せを寄せろ」

「刑部本隊、伯耆守、弥七郎筋、別々に」

「そうだ」

「現時点の位置、損耗、旧大友筋の立ち具合、島津側の圧、その全部だ」

「承知しました」

 

俺は一拍置いてから、続けた。

 

「それと」

「は」

「上総介兄上と勘十郎兄上へも使者を立てる」

「……」

「龍造寺正式降伏

唐津筋停止と合流の件

豊後方面確認中

島津へ直圧か、豊後呼応か、現地では両論あり、と」

「左様にございますか」

「そうだ」

 

半兵衛が、わずかに頷いた。

 

「やはり、そこは伺われますか」

「九州全体の方面転換だぞ」

「はい」

「治部家だけの話じゃない」

 

「その通りです」

官兵衛が静かに足す。

「現地の裁量で押し切れぬこともあります」

 

「うん」

「逆に、裁可を仰ぐべき筋で仰がぬと、後で全部が歪みます」

「だから先に打つ」

「はい」

 

慶次郎が肩を竦めた。

 

「勝ったあとも、結局文だらけだな」

「文で済むなら安い」

「済まなかったら?」

「人が死ぬ」

「……違いない」

 

 

その日のうちに、三本の流れが動き始めた。

 

一つ。

唐津の浅井軍・毛利軍へ第二報。

龍造寺山城守正式降伏。

包囲中の支城へは降伏勧告。

従う城は解放。

両軍は村中城へ順次合流。

 

二つ。

豊後方面への急使。

織田刑部本隊、戸次伯耆守、吉弘弥七郎筋へ、それぞれ別立て。

現時点の位置、損耗、島津方の圧、大友旧臣の収まり、その全てを問い返す。

 

三つ。

大坂への上申。

上総介兄上と勘十郎兄上へ。

龍造寺正式降伏の報。

唐津方面軍停止の報。

豊後方面状況確認中の報。

そして、島津へ直圧か、豊後と呼応して線を合わせるか、現地にて両論ある旨。

 

十兵衛が文箱を閉じると、ようやく小さく息を吐いた。

 

「飛びました」

「早いな」

「遅らせる理由がありませぬ」

 

「結構」

俺は頷いた。

「返答が来るまでの間は

村中城周辺整理

龍造寺支城の降伏受け入れ

名島と博多の兵站維持」

 

「そのあたりにございますな」

「そうだ」

 

伊勢守が低く言う。

 

「勝ったからこそ、浮つけば終わる」

「うん」

「今はまだ、勝ちを形にする段です」

「その通り」

 

ほむら姫が、そこで少しだけこちらを見た。

 

「治部大輔殿」

「何でしょう」

「もし、大坂より“直に島津を圧せよ”との裁可が来たなら」

「うん」

「龍造寺も兵を出します」

「いくら」

「五千」

「副将は左衛門大夫で?」

「当然にございます」と直茂。

「結構」

 

そこで山城守が、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「勝手にうちの兵数を決めるな」

「兄上」

「何だ」

「五千は出します」

「……」

「ここで惜しんでも、値は上がりません」

「分かっておるわ」

 

だが、その言い返し方には、さっきまでの棘が少し減っていた。

家として降ると決めた以上、その後の値の立て方へもう頭が移っているのだろう。

それなら十分だ。

 

 

夜、村中城の一室で、俺はもう一度地図を広げた。

 

豊後へ寄るか。

そのまま島津へ行くか。

 

どちらにも理がある。

だからこそ、今夜は決めない。

決められない、ではない。

ここで勝手に決めてよい筋かどうかを、切り分ける必要がある。

 

「治部様」

 

十兵衛が障子の向こうから声をかけた。

 

「何だ」

「大坂行きの使者、夜半前には筑前を抜けます」

「そうか」

「唐津筋への第二報も、同じ頃には届くでしょう」

「うん」

「豊後の急報は、最速でも明日」

「だろうな」

 

俺は地図から目を離さずに言った。

 

「結局、次を決めるのは」

「豊後の実情と、大坂の裁可」

「その二つにございます」

「そうだ」

 

障子の向こうで、十兵衛が一礼した気配がした。

 

「では」

「うん」

「今夜は、まだ盤面を閉じぬまま待つしかありませぬな」

「勝った夜ってのは、そういうもんだ」

 

そう返して、ようやく少しだけ息を吐いた。

 

神埼で龍造寺は止まった。

村中城で山城守は正式に降った。

唐津へは第二報を飛ばした。

浅井軍と毛利軍は、やがて無駄な支城攻めを止めて寄ってくる。

豊後へも急使を立てた。

大坂へも上申を出した。

 

ここまでやって、ようやく次を決める段へ入れる。

 

九州の盤は、まだ動いている。

だが、その動きはもう、昨日までとは違う。

斬って減らす段から、残して並べる段へ移った。

 

その流れの中で、次にどの線を取るか。

豊後か。

島津直圧か。

 

答えは、明日以降に来る。

 

 

夜明け前、最初に戻ってきたのは豊後からの急報だった。

 

まだ空は白みきっていない。

村中城の一室で、俺は文机の前にいた。

灯りは落としていないが、外の薄明かりの方がもう強くなり始めている。

 

障子の向こうで、十兵衛の気配が止まった。

 

「治部様」

「入れ」

 

十兵衛が入ってくる。

手には細長く畳まれた文が二つ、別々にある。

その持ち方だけで、筋が違うのが分かった。

 

「先に、豊後より」

「誰から」

「伯耆守殿と、刑部大輔様」

「弥七郎は」

「伯耆守殿側へ合わさっております」

 

俺は頷いて、一つ目を受け取った。

 

戸次伯耆守の文は、いかにもあの男らしく、要点が太かった。

 

豊後の立て直しは、まだ途中。

府内・臼杵近辺までは抑えが利き始めている。

だが大友旧臣のうち、旗を明確に織田へ寄せる者と、まだ様子を見る者で割れている。

押さえは効く。

だが、背を向けて西へ大きく寄りすぎれば、またぞろ足元が揺れる。

 

「……そうだろうな」

 

と、俺は小さく言った。

 

十兵衛は黙っている。

次を待っているのだ。

 

二つ目。

こちらは市之助の文だった。

 

文面そのものは短い。

だが、あいつにしては妙に整っていた。

 

豊後は押さえつつある。

しかし「勝った」とまでは言えない。

戸次伯耆守と吉弘弥七郎の働きで、旧大友筋へ立つべき柱は立ち始めた。

ただし、今の時点で本家第一陣が大きく南西へ転じると、せっかく立てた足場まで“通った後の道”になるおそれがある。

島津を叩くこと自体に異論はない。

だが、豊後の地をきちんと本家の色へ染める時間も欲しい。

 

その末尾に、あいつらしい一文があった。

 

**「治部がそっちで勝ってるのは聞いた。腹は立つが助かる。だが、こっちもまだ終わってねえ」**

 

思わず少し笑った。

 

「刑部らしいな」

 

十兵衛が口元をわずかに緩める。

 

「ええ」

「で、要するに」

「豊後を離して完全に次へ移るには、まだ少し早い」

「そういうことだ」

 

半兵衛と官兵衛も、呼ばずとも起きていた。

広間へ入ってくる足音が静かに重なる。

 

「届きましたか」

 

と半兵衛。

 

「うん。伯耆守も刑部も、言い方は違うが中身は同じだ」

「豊後の地固めが、まだ終わっていない」

「そう」

 

官兵衛が、俺の手元の文を見ずに言う。

 

「つまり、島津へ直圧するにしても」

「豊後方面の足場を無視した形では駄目」

「はい」

「西から押すだけでは足りない」

「東も、立てたうえで寄せる必要がある」

 

そこへ、さらに伊勢守が入ってきた。

 

「大坂表からも戻り始めております」

「早いな」

「急ぎでございますので」

 

十兵衛がその文を受け取り、俺へ差し出す。

 

「上総介様と勘十郎様、連署です」

「……そうか」

 

それは重い。

どちらか片方だけの返しではなく、二人で揃えてきたということだ。

 

封を切る。

 

文面は、想像以上に明快だった。

 

龍造寺正式降伏、結構。

唐津方面停止および村中城合流、可。

豊後からの急報は、そちらの報と概ね符合している。

ゆえに、**九州の主戦軸は島津に移す。**

ただし、**豊後筋を置き去りにはしない。**

本家第一陣は現地整理を続けつつ、南進可能な形へ兵を整える。

治部軍・浅井軍・毛利軍・龍造寺新編制は、西より圧を掛ける。

本家第一陣は東より寄せ、二正面の圧で島津を止める。

現地の細部運用は治部に委ねる。

ただし、大きな方面変更は逐一報せよ。

 

そこまで読んで、俺は文を置いた。

 

「どうでした」

 

と官兵衛。

 

「欲張りだな、兄上方は」

「……」

「島津を止める

豊後も捨てない

西は俺がまとめろ

東は刑部にそのまま立てさせる

そういう話だ」

 

半兵衛が静かに頷いた。

 

「最も大きく、最も崩れにくい形です」

「うん」

「時間は掛かる」

「でも、島津から見れば一番嫌だ」

「左様」

 

十兵衛が文を受け取り、改めて確認した。

 

「現地の細部運用は治部様に委ねる、とございますな」

「そうだ」

「では、主戦軸そのものは定まった」

「うん」

「その上で、どの順で、どこへ、何を寄せるかは、こちらで決めてよい」

「そういうことだ」

 

伊勢守が、そこでようやく声を出した。

 

「分かりやすい」

「好きだろ」

「好きですな。上の意が見える」

 

「俺もそう思う」

ここまで腹を括って委ねるなら、現地で迷っている場合ではない。

「十兵衛」

 

「は」

「唐津筋へ第三報」

「第三、にございますか」

 

「そうだ」

俺は指を折るように言った。

「第一で停止準備」

 

「第二で龍造寺正式降伏と包囲解除」

「第三で、合流後の主戦軸が定まったと伝える」

「……島津」

「そうだ」

 

半兵衛がすぐに継いだ。

 

「浅井軍・毛利軍は村中城合流後、兵站整理を挟みつつ南西へ」

「うん」

「龍造寺軍五千を組み込む」

「そう」

「村中城を、ただの降伏の場で終わらせず、再編の場に変える」

「それだ」

 

官兵衛も、そこで言葉を添える。

 

「豊後へも返さねばなりませぬ」

「刑部にか」

「はい」

「主戦軸は島津

ただし、豊後方面はそのまま対応を続け

南進可能な形まで整えろ、でいいな」

「それが最も自然です」

 

俺は頷いた。

 

「伯耆守と弥七郎にも別便だ

旧大友家臣への投げかけを、今ここで崩すな

島津へ目を向けるのはよいが、足場を空にするな

そう伝えろ」

 

十兵衛がその場で書付の骨をまとめ始める。

伊勢守が文言へ落とし、半兵衛が順を整え、官兵衛が無駄を削る。

もう何度目か分からないが、こういう時の流れは本当に速い。

 

 

日が上がる頃には、村中城の空気も変わっていた。

 

昨夜までは「どう裁かれるか」を待つ城だった。

今朝は違う。

この城から、どの順で何を切り替えるかを待つ城へ変わっている。

 

山城守も、その変化を感じていたのだろう。

広間へ入ると、昨日より顔つきが少しだけ実務に寄っていた。

 

「治部大輔殿」

「山城守殿」

「返答は来たか」

「来た」

「……どう出た」

 

俺は、無駄に引っ張らなかった。

 

「主戦軸は島津に移る」

「そうか」

「ただし豊後を捨てはしない」

「ほう」

「本家第一陣は東から、俺たちは西から、二正面で攻める」

「……」

 

山城守は、そこで一度だけ目を伏せた。

島津にとって嫌な形だと、すぐ分かったのだろう。

 

ほむら姫が問う。

 

「治部大輔殿」

「何でしょう」

「龍造寺は」

「五千」

「……」

「出してもらう」

「副将は左衛門大夫で」

「当然にございます」と直茂。

「兄上」

 

と、ほむら。

 

「何だ」

「五千は出ます」

「分かっておる」

「ここで惜しんでも、値は上がりません」

「……分かっておると言うておる」

 

その返しに、俺は少しだけ笑った。

 

山城守ももう、そこは飲み込んでいる。

飲み込みたくはないが、飲み込むべきだとは分かっている顔だ。

 

「山城守殿」

「何だ」

「支城筋への降伏勧告は、今朝から順次走る」

「うむ」

「従う城は解放」

「従わぬ城は」

「今後は龍造寺の責ではない」

「……よかろう」

 

直茂が、そこで文机の方へ目をやった。

 

「では、村中城は」

「再編の場だ」

「……」

「唐津から浅井と毛利が寄る。龍造寺軍五千もここで整える。豊後筋からの報せを踏まえ、島津へどう圧を掛けるか、ここで詰める」

「なるほど」

 

ほむら姫の目が、そこで少しだけ鋭くなった。

 

「つまり」

「うん」

「村中城は、落ちた城ではなく、島津戦の出立の城になる」

「……」

 

その言い方が気に入ったのか、慶誾尼が少しだけ笑った。

 

「悪くないじゃないか」

「母上」

「降った城の面を、その日のうちに貼り替えるのは大事だよ」

「そうだな」

 

俺も頷いた。

 

「どうせ残すなら、負けた顔のまま残しても仕方ない」

「……嫌な男だ」

「今さらだろう」

 

その返しに、ほむらも今度は否定しなかった。

 

 

昼には、第一の戻りがあった。

 

唐津の浅井軍からだ。

 

支城包囲は、第二報をもって順次停止。

山城守名の勧告に従う城は解放。

なお、従わぬ一部支城については、もはや龍造寺の統制外とみなし処理中。

浅井軍本隊は整理のうえ、村中城方面へ南下開始。

 

「早いな」

 

と俺。

 

十兵衛が文を受け取って言う。

 

「向こうも、止める理由が明快なら早うございます」

「無駄な城攻めは、誰だって嫌だよな」

「左様にございます」

 

夕刻には毛利からも返った。

 

唐津口と海筋の押さえは保ったまま、不要な攻城は止める。

港と兵站の確認を済ませ次第、吉川元春・小早川隆景率いる主力は村中城へ寄せる。

残置兵は最小限。

 

「これで西は揃うな」

 

官兵衛が頷く。

 

「はい」

「浅井一万八千」

「毛利一万五千」

「治部一万二千」

「龍造寺五千」

「……」

「西だけで五万」

「十分嫌ですな」

「島津から見たらな」

 

半兵衛が、地図の西側へ指を置く。

 

「問題は、これをどう南へ流すか」

「うん」

「村中城で全軍を膨らませれば重い」

「そう」

「軽すぎれば、せっかくの圧が薄い」

「そこをこれから詰める」

 

夜には、ようやく豊後から続報が入った。

 

市之助は、こちらの方針に異はないと返してきた。

ただし、豊後はまだ「勝って終わり」ではない。

旧大友家臣団を生かしつつ南進可能な形へ兵を絞り直すのに、わずかな間が要る。

伯耆守も同意。

弥七郎も同じ。

つまり、東はすぐには走れぬ。

だが、走る形へは移れる。

 

「これで決まったな」

 

と俺。

 

「はい」と十兵衛。

 

「西は先に圧を掛ける」

「うん」

「東は整い次第、豊後より押し寄せる」

「そう」

「島津は、その間に時間を使いたがる」

「だから、時間をやりすぎない」

 

ほむら姫が、少し離れたところから口を開いた。

 

「治部大輔殿」

「何でしょう」

「西は、いつ動きます」

「早ければ二日」

「……」

「遅くとも三日」

「随分と速いですね」

「遅らせる理由がない」

 

直茂も言う。

 

「東が整う前に、西だけが深く入りすぎる危険は」

「ある」

「ならば」

「だから、最初の西軍は“切る”より“見せる”だ」

「……」

「五万が動く。降ったはずの龍造寺もその中にいる。それを島津へ見せる。東が整うまでに、向こうの腹を削る」

「なるほど」

 

山城守が、そこで低く唸った。

 

「見せて削る、か」

「嫌だろ」

「嫌だな」

「でも効く」

「分かっておる」

 

ほむらは、その会話を聞きながら、わずかに笑った。

 

「四十点の先を、見せて頂けそうですね」

「お前も来るんだろう」

「当然です」

「なら採点される側の覚悟もしておけ」

「嫌な男」

「今さらだろう」

「ええ」

 

 

その夜、村中城の広間には、もう負け城の空気はなかった。

 

まだ全部が整ったわけではない。

だが、何を待っていて、何が来て、どこへ向かうのかが見えている。

それだけで、城の空気は変わる。

 

十兵衛が、最後の文を整えて言った。

 

「明朝、浅井軍先着見込み」

「うん」

「毛利軍は半日遅れ」

「海筋整理もあるからな」

「龍造寺軍五千は、ほむら姫・左衛門大夫のもとで編成済み」

「結構」

「西軍の先行隊は、助右衛門、伊勢守、左近を主に置く形でよろしいか」

「いい」

「本隊は」

「俺が見る」

「承知しました」

 

官兵衛が、そこで最後に言った。

 

「治部様」

「何だ」

「ここでようやく、九州の戦が一段進みましたな」

「うん」

「神埼で龍造寺を止め、村中城で家を止め、唐津を止め、豊後と繋いだ」

「そう」

「ここまでやって、初めて島津へ行ける」

「その通りだ」

 

俺は、広間の外の闇を見た。

 

九州の盤は、まだ終わらない。

だがもう、ただ敵を減らすための戦ではなくなっている。

残すものを残し、並べるものを並べたうえで、それでも最後に止めねばならぬ相手へ向かう段だ。

 

その段を、明日から始める。

 

「みなも寝ろ」

と、俺は言った。

「明日から忙しい」

 

「今までも忙しかったですが」

 

と慶次郎。

 

「明日からは、もっと嫌な忙しさだよ」

「違いない」

「島津戦は、点取りじゃ済まない」

「では何です」

「心を折る戦だ」

「……」

「そのための準備を、ここまでやってきたんだろ」

 

誰も否定しなかった。

 

村中城の夜は静かだった。

だがその静けさは、終わった城の静けさではない。

五万の西軍と、やがて噛み合う東軍、その両方を背に、次の一手を待つ城の静けさだった。

 

 

 

 

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