織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
村中城で山城守が正式に降ると、九州の盤はようやく「敵を減らす段」から「残すものを選んで並べる段」へ移った。
とはいえ、移ったからといって、急に綺麗に収まるわけでもない。
本来なら、この時期の筑前・筑後・肥後北半は大友領圏として数えてよい土地だ。だが、その“大友領”が、今はもう札面ほどの値を持っていない。新次郎鎮鑑が勝ち負けの絵ばかり欲しがったせいで、国衆も商人も寺社も、どこまでが大友の命で、どこからが自分の身の処し方なのかを勝手に量り始めている。そうなると、もう「大友が持っていたから、そこはそのまま大友の地」とは言えぬ。
秋月。
蒲池。
菊池。
阿蘇。
有馬。
大村。
相良。
皆、それぞれに違う顔をしている。
城を一つ落とせば済む相手もいれば、城より先に顔を立てる相手もいる。逆に、顔を立てるふりをしてこちらの兵站だけ食う手合いもいる。
だから、村中城の広間で地図を広げた時、俺は最初にこう言った。
「手札一枚で押さえられる土地じゃない」
十兵衛が頷く。
「左様にございます」
「筑前も、筑後も、肥後北半も、今はもう“大友の地”と一言で括る方が危ない」
「はい」
「なら、軍も散らす」
「毛利、浅井、治部家+龍造寺、でございますな」
「そうだ」
山城守は、少し離れたところで腕を組んでいた。
不機嫌そうではあるが、もう昨日までのような“降ったばかりの家”の顔ではない。自分の家がどこへ使われるかを聞く側の顔に、少しずつ変わっている。
「山城守殿」
「何だ」
「龍造寺を休ませる気はない」
「……だろうな」
「神埼で止まった。それで終わりにするには、まだ使える」
「使うなら、使えるところで使え」
「そのつもりだ」
そこで、俺は地図の筑前へ指を置いた。
「毛利軍は筑前だ。秋月、遠賀川筋。そして、博多の背を安定させる。兵站を守りながら、背後の火種を消す」
毛利方の使者が静かに頭を下げる。
「承知仕りました」
吉川元春と小早川隆景が率いる軍なら、そこは安心して投げられる。海筋の理も、在地の押さえも、無理に潰さず使う加減も知っている。筑前を乱し過ぎず、しかし“誰が今の流れを握っているか”は分からせる。その匙加減では、今の西国で最も手慣れた軍の一つだ。
次に、地図の西へ指を滑らせる。
「浅井軍は有馬と大村。長崎方面へ伸びてくれ。西肥前の火種を消す。港も半島も、雑にすると後で腐る」
浅井側の者も、短く応じた。
「承知」
有馬や大村の類は、正面から押し潰せば黙る手合いばかりではない。しかも長崎方面は、港と外の風が入りやすい。戦に勝っても、後で妙なものが残れば面倒が増える。浅井は、そういう“後味の悪い勝ち”をあまり好まぬ。だから向いている。
最後に、俺は筑後から肥後北半へ指を落とした。
「治部軍は、ここだ。まずは筑後を押さえ、そしてそのまま肥後北半へ入る。蒲池、菊池、阿蘇、そのあたりまでを、龍造寺と一緒に切り分ける」
そこで、ほむら姫が一歩進み出た。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「“龍造寺と一緒に”では、曖昧です」
「どうしたい」
「主は治部家でよろしい」
「うん」
「ですが、筑後肥後の処理において、龍造寺が前へ出るべき場もございます」
「あるだろうな」
「それを、きちんと分けて頂きたい」
その言い方に、山城守が少しだけ眉を動かした。
直茂は黙っている。
だが、内心では同じことを考えていたはずだ。
神埼で龍造寺は止まった。
村中城で龍造寺家は残った。
だが、それだけでは足りない。
実際に九州の盤を動かす中で、「龍造寺を残したのは正しかった」と他家にも見せねば意味がない。
「分かった」
俺は頷いた。
「ではこうしよう」
「……」
「筑後の国衆処理は、まず治部家が表に立つ」
「はい」
「だが、龍造寺旧領やその近辺で、“龍造寺の顔でないと収まらぬ相手”は、ほむら姫殿に前へ出てもらう」
「……」
「その代わり」
「はい」
「勝手に首を刈って回るな」
「承知しています」
「顔を立てる相手は立てろ」
「はい」
「切るべき相手だけ切れ」
「それも承知しています」
その返しが、妙に早かった。
もう腹の内でかなり考えていたのだろう。
「左衛門大夫」
「は」
「姫を止めろ」
「いつも止めております」
「止め切れない時があるだろ」
「ございます」
「その時は」
「治部大輔殿が止めて下さるかと」
「嫌な役回りを投げるな」
「適材適所にございます」
そのやり取りに、広間の空気が少しだけ緩んだ。
♢
軍を散らせるのに、丸一日はかからなかった。
命が出る。
文が飛ぶ。
兵が分かれる。
それぞれの荷が分けられ、どの筋にどれだけの兵糧を通すか、馬をどこまで連れていくか、川筋をどこで使うかが決まる。
毛利は北へ寄せる。
浅井は西へ。
治部と龍造寺は、筑後へ深く入る。
その際、俺は全軍にもう一度だけ釘を刺した。
「盗むな」
「犯すな」
「殺すな」
越前朝倉戦でも徹底したことだ。
今回は、もっと要る。
「筑前も、筑後も、肥後北半も、今は“誰の地か”より“誰がまだ回せるか”の方が大事だ」
「……」
「国衆を殺しすぎれば、後で困る。蔵を荒らせば、次に困る。寺社を潰せば、国が死ぬ」
「……」
「要る相手は残せ。だが、刃を向ける相手には迷うな」
伊勢守もそこで前へ出た。
「聞いたな」
「……」
「買うものは買え。借りるものは借りろ。勝手に取った者は、敵ではなくこちらで処断する」
「……」
「戦は広い。だが、兵の手癖一つで国は死ぬ」
ああいう台詞は、伊勢守が言うとよく効く。
左近も、冷えた声で続けた。
「筑後も肥後も、見ておる」
「……」
「一人の兵が盗めば、一里先で知られ、十里先で笑われる」
「……」
「その時点で、戦は半分負けだ」
兵は、低く応じた。
それで良かった。
こういう時の返事は、大きければ良いわけではない。
♢
筑後へ入ってからのほむら姫は、思ったよりずっと静かに働いた。
それがまず、良かった。
神埼のあとだから、もっと露骨に点を取りに来るかと思っていた。
首級だ、先陣だ、勝ち名乗りだ、そういう方へ寄る危険もあると見ていた。
だが違った。
あれは、ちゃんと修正してきている。
最初に動いたのは、蒲池一門だった。
表向きは大友領。
だが、実際には新次郎のやり方に嫌気がさして、誰へどう寄るか腹を決めかねている国衆が多い。
ここを雑に踏み潰すと、その先の筑後全体が荒れる。
だから俺は、まず文を出した。
その次に、博多商人と旧龍造寺の両方から話を入れた。
そして最後に、ほむら姫を出した。
「私を?」
と、ほむらは少し意外そうにした。
「そうだ」
「斬れと?」
「違う」
「……」
「会ってこい」
「会うだけで済む相手ですか」
「済ませるんだよ」
「嫌な男」
「今さらだろう」
ほむらは、不服そうに見えて、だが理解は早かった。
「分かりました」
「一つだけ」
「何でしょう」
「龍造寺の名で脅すな」
「……」
「“今は治部の統制の下で話している”と分からせろ」
「承知」
その会談から戻ってきたほむらは、珍しく少しだけ疲れた顔をしていた。
「どうだった」
「面倒でした」
座るなり、それを言うあたり、やはり面白い。
「だろうな」
「城攻めより面倒です」
「そういう時もある」
「蒲池は、こちらが“龍造寺に押さえさせる”つもりかどうかを量っていました」
「うん」
「私は、それは違うと言いました」
「どう違うと?」
「今は、治部大輔殿、つまり公儀の戦であり、私はその中で動いているだけだと」
「……」
「そのかわり」
「うん」
「神埼以後の龍造寺が、何も出来ぬ負け犬ではないことは見せておきました」
「結構」
「褒めておられますか」
「少しは」
「少しでは困ります」
「欲張るな」
「欲張らねば、四十点の先へ行けません」
その返しに、横で直茂が小さく息を吐いた。
♢
次に火を噴いたのは、菊池だった。
こちらは蒲池より露骨だった。
顔を立てるだの、旧恩だの、そういう話を表へ出しながら、腹の底では“どちらが勝つか見てから決める”つもりの顔だ。
こういう相手には、言葉だけでは足りない。
「行くか」
と俺が言うと、ほむらはもう馬を出していた。
「今度は斬る相手ですか」
「半分は」
「残り半分は?」
「逃がす」
「難しいですね」
「だからお前も来るんだろ」
「ええ」
菊池の小城を正面から落とすのは難しくない。
難しいのは、その後だ。
雑に皆殺しにすれば、筑後から肥後北半へ続く線の上で、あちこちが“次は自分か”と硬くなる。
それは後で困る。
だから、今回は三手でやった。
先に十兵衛が降伏勧告。
返答を曖昧にしたところへ、伊勢守が搦手へ圧を掛ける。
同時に、ほむらが正面で一歩だけ前へ出た。
城上から見えたのは、降ったはずの龍造寺の旗だ。
しかも、その旗が、治部軍の線の中にいて、こちらへ向いている。
その絵は、効いた。
「龍造寺が、あちらにいる……」
と、相手のざわめきが風に乗って聞こえた時点で、もう半分は決まっていた。
ほむらは、馬上から静かに言い放った。
「城を開けなさい」
「……」
「今ここで逆らえば、治部大輔殿及び公儀の敵です」
「……」
「そして、神埼で負けた私がなお、こちら側で馬を出している意味を考えなさい」
あれは上手かった。
脅しではない。
ただの威圧でもない。
“龍造寺ですら、今は治部の味方にいる”という事実そのものを、相手へ飲ませている。
だから効く。
結局、その城は日没前に開いた。
斬ったのは、最後まで逆らった数人だけ。
それで十分だった。
「今のは良かったな」
と、俺が言うと、ほむらは馬上で少しだけ顎を上げた。
「今の“は”ですか」
「全部とは言ってない」
「嫌な男」
「今さらだ」
「ですが」
「うん」
「今のは、かなり良かったでしょう」
「認めよう」
「結構」
直茂が、その横で本当に小さく笑っていた。
あれが笑う時は、大抵ちゃんと意味がある。
♢
阿蘇方面では、さらに面倒だった。
こちらは、国人や城主だけ見ていても済まない。
山と道と寺社と、土地そのものの理が絡んでいる。
だから、いきなり押し潰すより、まず道を押さえ、通れる荷を通し、通せぬ荷を止める方が効いた。
そこで役に立ったのが、意外にもほむらの“止まり方”だった。
「今回は前へ出ないんですかい?」
と慶次郎が言った時、ほむらは平然としていた。
「今出ても、意味が薄いので」
「おや」
「ここは、私が来たことより、私がまだ出ていないことの方が効きます」
「……」
「欲しがる相手には見せる。欲しがらぬ相手には、まだ見せぬ。その方が、値が落ちません」
神埼の三十五点が、こういうところで生きているのだろう。
腹を立てた分だけ、あれはちゃんと入っている。
そして実際、阿蘇ではその読みが効いた。
治部軍が道と蔵を押さえ、毛利から回ってきた海の荷と、博多商人の流れを繋げる。
そのうえで「龍造寺ほむらは、まだ出ていない」と噂だけを先に走らせる。
すると、向こうから先に使者が来る。
「やりづらいな」
と俺。
「褒め言葉にしておきます」
と、ほむら。
「褒めてる?」
「半分ほど」
そういう軽口が出るくらいには、筑後から肥後北半の線は、思っていたより早くこちらの手に馴染み始めていた。
♢
そして、その過程で、龍造寺家の価値や評価は少しずつ変わっていった。
神埼では、負けて止まった家。
村中城では、残して使うと決めた家。
そこから今は、筑後肥後で実際に働き、流れを変えている家。
その変化は、思った以上に大きい。
「治部大輔殿」
と、ある晩、ほむらが言った。
「何だ」
「今のところ、何点ですか」
「またそれか」
「重要です」
「そうか?」
「重要です」
俺は文机の前で少し考えた。
「五十弱」
「曖昧ですね」
「まだ途中だからな」
「では、五十ではない」
「ない」
「四十でもない」
「ない」
「……四十八」
「細かいな」
「採点好きはどちらでしょう」
「嫌な女になったな」
「学びましたので」
その返しに、思わず笑った。
神埼で、敵の採点に怒っていた女が、今は自分から点を聞いてくる。
だが、それはもう軽い意地ではない。
本当に自分の働きが、家の値へどう乗っているかを知りたがっている顔だ。
「良い伸び方だよ」
と俺。
ほむらは、少しだけ黙った。
「それは」
「うん」
「……嬉しいです」
その言い方は、妙に素直だった。
だからこそ、そのあとすぐに視線を逸らしたのだろう。
「ですが」
「何だ」
「まだ足りません」
「知ってる」
「なら」
「うん」
「次はもっと大きい戦で、点を取ります」
そこまで言うなら、もう相良か島津だ。
俺は頷いた。
「そうだな」
「はい」
「その時は、今みたいに“国衆を降ろして終わり”じゃ済まない」
「承知しています」
「相手も本気で食いに来る」
「その方が、分かりやすい」
「怖くないのか」
「怖いです」
「……」
「でも、その怖さを知ったまま前へ出る方が、たぶん神埼より良い」
その答えには、直茂も何も言わなかった。
否定できないからだろう。
筑前では毛利が秋月と遠賀川流域を掃き清め、博多の背を固めている。
西では浅井が有馬と大村を処理し、長崎方面の火種を潰している。
そして筑後肥後では、俺たちと龍造寺が、豪族単位の綻びを一つずつ閉じている。
盤面は、確かに整ってきていた。
だからこそ、次に来るのはもう、小さな顔の立て合いでは済まない。
相良万と、島津の本気を合わせた二万の大軍だ。
その前夜、俺は地図の上へ指を置いたまま思った。
龍造寺ほむらは、ここまでで確かに値を上げた。
神埼の三十五点は、もうそのままの意味では残っていない。
だが、本当に試されるのは、ここからだ。
♢
湿り気を含んだ平野は、遠目には広い。
だが、近くで見ると広いだけではなかった。低い起伏が、嫌な具合に噛んでいる。人を隠すほどではない。だが、列を少しずらし、向きを少し変え、寄せと退きを半拍だけ食い違わせるには充分だった。
俺はその地を見た瞬間、顔が少し歪んだと思う。
「右衛門佐だな」
十兵衛が、横で短く頷く。
「左様にございます」
「又四郎殿だけなら、もっと前へ出て来る」
「はい」
「だがこれは違う。押し込みながら、いつ退いても列が崩れぬ地だ」
「相良を前へ使う前提でもありますな」
「うん」
正面には相良の旗が広くある。
その後ろに、島津。
さらにその噛み合わせを、右衛門佐が気色悪いほど綺麗に整えていた。
勝つためだけの陣ではない。
勝ち損ねても、負けまで落ちぬ陣だ。
「嫌だな」
「嫌ですねえ」と慶次郎。
「お前、嫌そうに見えないぞ」
「前に出られるならだいたい楽しいです」
「そういうとこだぞ」
半兵衛が、地図の上で指を滑らせた。
「中央は助右衛門で持たせますか」
「持たせる」
「相良は食います」
「食わせる」
「右衛門佐もそこまでは読むでしょう」
「読む。だから、その一段先が要る」
ほむら姫が馬を寄せてきた。
龍造寺の旗は、今日は完全にこちらの側へ入っている。だが、ただ従っている顔ではない。自分の働きで、この戦に爪を立てる顔だ。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「相良の後背へ回ります」
「そうだろうな」
ほむら姫の目は、正面ではなく、相良の外れ、そのさらに後ろのゆるい高みに向いていた。
神埼の時より、ちゃんと戦場全体を見ている。
「右衛門佐は、私が後ろへ入ること自体は読むでしょう」
「読む」
「なら、その先で読む」
「どう読む」
「相良の後ろだけではなく、島津の前も乱します。相良が後ろを気にし、島津が前を押しながら後ろも見なければならぬ形にする」
「高い方を取れるか」
「取れます」
「深く刺さるなよ」
「分かっています」
「本当に?」
「今は分かっています」
直茂が横から入る。
「ほむら様」
「何でしょう」
「その“今は”が少々不安なのですが」
「左衛門大夫、敵の前です」
「……失礼」
俺は左近へ振り向いた。
「左近」
「は」
「治部家から二百騎抜く」
「どの型で」
「軽いのを出せ」
「承知」
さらにほむら姫へ戻す。
「二百騎、預ける」
「よろしいのですか」
「今のお前なら預ける価値がある」
「神埼の時より、ですか」
「前より見てる。投げ槍二本、馬上筒。重い槍は持たせない」
「一撃離脱で使えと:
「うん」
「当てて、流れます。島津が向きを変えたら、その前にもう位置を変える」
「深入りするな」
「はい」
「右衛門佐が手ぐすね引いて待つところへ、自分から入る必要はない」
「承知しました」
ほむら姫は一瞬だけ黙って、それから小さく笑った。
「今度は、ちゃんと私の戦をします」
「やれ」
「六十五点ぐらいは欲しいところですね」
「先に言うな」
「言っておかぬと、あなたは平気で四十九点とか言いそうなので」
「前科があるからな」
「あります」
「じゃあ行ってこい」
「はい」
♢
ほむら姫は、最初の当て方から前と違った。
龍造寺の旗が、低く、速く、相良の外れへ流れる。
高みを舐めるように斜めへ入り、そこで初めて馬上筒が鳴った。
走る勢いに乗った短い音が裂け、続けて投げ槍が飛ぶ。
一本は相良後方の旗持ちへ、もう一本は島津前方へつながる伝令へ。
殺し切るためではない。向きを狂わせるための鉄と木だ。
相良の後ろが、一度ざわついた。
「良い」
「前より綺麗ですね」と十兵衛。
「うん。首しか見てない走りじゃない」
島津が向きを変えかける。
だが、ほむら姫はそこで深く入らない。
撃って流れる。投げて散る。島津が向いた時には、もう少し外の高い方へ逃げている。
二度目は、相良の後背と島津の前方の噛み合わせ、その間へ入った。
相良は後ろを気にする。
島津は前を押しながら、後ろのざわつきも見る。
その半拍の食い違いが、中央へ返ってくる。
「食うしかない形だ」
「ええ」と半兵衛。
「右衛門佐は嫌だろうな」
「ですが、もう相良の足は止まりません」
三度目で、ほむら姫はほんの少しだけ深く入った。
だが、それでも“深く入ったように見える”ところで止めている。
そこが前より良い。神埼なら、そのままもう半町は行っていた。
旗色が変わる。
相良が勝てる匂いに寄りすぎた。
島津は救援へ寄る。
その寄り方が、突撃ではない。拾いだ。
「見たな」
「見ました」と十兵衛。
「ほむら姫、まだ行けると思っている顔です」
「うん」
そこまで言ったところで、龍造寺の旗が返った。
「……引いた」
「はい」
「自分で切ったな」
「左様にございます」
向こうから向きを変えて寄ってくる島津本隊の圧が、一段違う。
又四郎殿が前へ出る。しかも、ただ怒って出るのではない。こぼれた相良を拾うために出る形だ。
ほむら姫はそこを見て、もう一度噛む欲を切った。
「良い」
「前なら、もう一度行ったかと」
「うん。今は潮目を見てる」
「はい」
又四郎殿の本隊が到着する寸前、ほむら姫はその場を離脱した。
勝ち欲で踏み残らない。
あの一拍が、前より明らかに伸びている。
そのまま島津本隊は、相良を拾いに来る。
だが、相良はもう、治部家の前で食いすぎていた。
投槍器部隊が、鈍い重みのある一撃を入れる。
鉄砲が、連続して鳴る。
相良の列は、崩壊寸前まで行く。
又四郎殿の本隊が寄る。
だが、寄せ方が違った。
怒りのままに前へ食い込む寄せではない。
崩れかけた相良を拾い、こちらの前へ余計な熱を残さず、列だけを通していく寄せ方だった。
「左近」
「は」
「出すな。当てるだけでいい」
「承知」
「伊勢守」
「は」
「真正面で止めるな。斜めへ逃がせ」
「よろしい」
「助右衛門」
「は」
「半身で噛め」
「承知」
三つが動く。
左近が外から締める。
伊勢守が、相良と島津の継ぎ目へ薄く圧を掛ける。
助右衛門隊は、真正面から受け切るのでなく、少しだけ肩をずらす。
重いものは、真正面から押し返すより、向きを変えた方が崩しやすい。
特に、又四郎殿みたいに前へ出る圧そのものが強い将ほど、半歩ぶん向きを逸らされると、その重さがわずかに列の外へ漏れる。
その先を、十兵衛が待っていた。
正面ではない。
少し斜め前。
そこへ、鉄砲の火線を二枚、さらに短い射角でもう一枚重ねている。
入れば痛い。
しかも、相良を拾いながら入れば、前後が詰まってなお悪い。
「入るか」
「……」と十兵衛は目を細める。
「いや」
「はい」
又四郎殿の先頭は、そこでわずかに膨らんだ。
ほんの少しだけ、前へ出る角度が変わる。
それだけで充分だった。あの人は、あそこが殺し間だと嗅いだ。
「見抜いたか」
「嗅いだのでしょう」
「嫌な将だな」
「はい。とても嫌です」
又四郎殿は、相良の取り残しを拾う。
拾うだけ拾い、だがこちらへ余計な怒りを残さないまま、悠々と退き始めた。
敗走ではない。
救援して、仕事を済ませ、その上で本隊の値を落とさずに下がる退きだ。
武勇の人間がやる退きではなく、将がやる退き方だった。
「追うな」
「は」
「ここで追えば、今度は右衛門佐の地だ」
「承知」
「相良の取り残しだけ拾え」
「その程度に留めます」
助右衛門隊が、ようやく一息つける位置まで戻ってくる。
泥と汗と血で、みんなひどい顔をしていた。だが、列は生きている。
「持ったな」
「は」
「本当に苦しかったろ」
「苦しゅうございました」
「だろうな」
「ですが、持たせろと仰せでしたので」
「持たせた」
「はい」
慶次郎が横で笑う。
「お前、今日はやたら良い崩れ方してたぞ」
「嬉しくありませぬ」
「褒めてるんだよ」
「褒め言葉が嫌です」
「でも勝つための苦しみ方ではあった」
「……それなら、まだ良い」
左近が、戦場の奥を見ながら言う。
「相良は、もう終わりですな」
「うん」
「千に届くか」
「届くだろうな」
鉄砲の煙が、まだ薄く残っていた。
投槍器部隊が叩いた前列も、助右衛門隊が持たせた綻びも、全部が相良へ返っている。
島津は拾った。
だが、拾ったのは相良そのものではなく、島津本隊の傷の浅さだ。
そこへ、ほむら姫が戻ってくる。
馬を降りる動きは速い。
速いが、神埼の時みたいな、悔しさに任せた荒さはない。
顔に熱は残っている。
だが、その熱の下に、ちゃんと冷えた部分がある。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「あれが島津又四郎殿ですか」
「そうだ」
「大友の戸次伯耆守と同じぐらいやっかいで、圧が強い敵ですね」
俺は少しだけ笑った。
「まあ、そうだな」
沖田畷で龍造寺がぼっこぼこにやられてるからなあ、とは口に出さない。
出せるわけがない。
ほむら姫は、まだ戦場を見ていた。
もう終わった場面ではなく、自分がどこまで通りかけて、どこで殺されたかを、頭の中でもう一度並べている顔だ。
「あと一度は行ける気がしました」
「うん」
「ですが、あそこで行けば、又四郎殿の圧に飲まれるか、右衛門佐の待つところへ入るか、そのどちらかでした」
「そうだな」
「ですので見切りました」
「見てたよ」
「前よりは」
「前よりずっと良い」
直茂が、横で静かに頷いた。
「神埼なら、もう一度噛みに行かれていたかと」
「分かっています」とほむら姫。
「分かっていて、今日は見切れました」
「はい」
「なら、それでよろしい」
「左衛門大夫」
「は」
「褒める時は、もう少し素直に褒めてください」
「申し訳ありませぬ」
「本当にそう思ってます?」
「今は思っております」
誾慶尼殿がいれば、たぶん大笑いしただろう。
だが今は、戦のあとだ。笑うより先に、みんな自分の損耗を数えている。
ほむら姫が、そこで俺を見る。
「島津は五男の中務大輔も切れのある戦いをします」
「うん」
「島津家の次男と五男とは、あまり戦いたくないですね」
「同感だ」
「珍しく、即答ですね」
「嫌な相手には、嫌と言うよ」
「それは結構」
そこで、ほむら姫は少しだけ口元を上げた。
「では」
「何だ」
「今日の私は、何点ですか」
「自分では」
「六十五」
「じゃあ六十五でいい」
「甘い」
「ちゃんと欲を切った」
「……」
「そこが前と違う」
「……それだけですか」
「戦場においては、それ"だけ"が一番難しい」
「……」
ほむら姫は、その返しを少しだけ噛んだ。
嬉しいのか、まだ足りないのか、その両方なのか、自分でも分かっていない顔だ。
「七十は近いですか」
「近くはなった」
「嫌な男」
「今さらだろ」
「そうでした」
最後に、もう一度だけ戦場を見る。
こちらの損害は、二百ほど。
島津は三百五十ほど。
相良は、千に届く。
数字だけ見れば、相良が大部分を負った形だ。
こちらは一歩取った。
だが、島津本隊を噛み切ったわけでもない。
なら、そこで切る。
「八代方面へいったん下がる」
「は」と十兵衛。
「相良は壊れた。島津は拾って退いた。なら、こっちもここで終える」
「右衛門佐殿が手ぐすね引いて待つところへ行く必要はない、ですな」
「そういうこと」
「承知」
部隊が、ゆっくりと転じる。
湿り気の残る地を離れ、八代方面へ退き、そのまま転進する。
勝ちを拾いすぎない。
負けを抱え込まない。
相手がそう出るなら、こちらもそう切る。
その見切りまで含めて、今日は悪くなかった。
何より、ほむら姫が神埼の続きを、ようやく自分の足で踏み始めた。
そこが、一番大きかった。
♢
湿り気を含んだ地であった。
ただ広いだけの平野ではない。低い起伏が、まるで人の悪意みたいに噛んでいる。列を一つずらし、寄せを半拍遅らせ、退きを一拍だけ早める。その程度の細工を、地の方が勝手に助けてくれる。私は、そういう土地を好む。武の勢いだけで押し切る者には嫌われるが、本隊の値を減らさず勝ちを拾うには、こういう地が良い。
輿は最初から後方の見晴らしへ据えさせた。
下半身は、とうに私のものではない。ならば意地を張っても仕方がない。見えるところへ座り、見えるものを読む。読めるだけ読んで、又四郎兄上が斬るべきところと、斬ってはならぬところを分ける。それが今の私の戦だ。
正面では、相良勢がよく進んでいた。
数の厚みが出ている。治部軍中央も、見た目には苦しい。槍が噛み、鉄砲の煙が低く走り、列の綻びまで見える。局所だけ見れば、あと一押しで割れそうだった。
だが、局所だけ見れば、だ。
私は、正面の少し外を見る。
相良の外れ、そのさらに向こう。ゆるい高みを舐めるように、龍造寺の旗が流れている。あれを見た瞬間、私は相良の前進より先に、そちらを嫌だと思った。
「龍造寺の姫か」
近くに控える士へ、そう漏らす。返事は要らない。旗を見れば分かる。
ほむら姫は、神埼の時より目が良くなっているようだ。
あの時は、自分の勝ちだけを見ていた。勝てる匂いに噛みつき、そのまま深く入った。だからこちらも食えた。だが今の動きは違う。正面の勝ち負けでなく、相良の後ろと島津の前、その噛み合わせを見ている。
さらに嫌なのは、治部大輔がそういう伸びを見逃さぬ男だということだった。
あの男は、人を見て札を切る。しかも、使えると思えば惜しまぬ。ほむら姫単独の迂回行動ならまだよい。だが、治部大輔はきっと何か足してくる。軽い騎馬か、鉄砲の工夫か、投射の手か。こちらが嫌がるものを、相手に合う形へ削って渡してくる。
そこまでは、読める。
読めるが、細部までは見えぬ。だから余計に嫌だ。
正面の又四郎兄上は、相良の押しへ厚みを乗せつつある。兄上の寄せは重い。重いが、武勇だけで前へ出る寄せではない。拾う時は拾う。切る時は切る。そのあたりの見切りがあるから、私は正面を任せられる。
ただ、相良は違う。
勝てる匂いに、一度食われる。
そこが怖い。
最初の火が鳴った。
足軽隊の鉄砲とは違う、短く裂ける音だった。やはりそう来たか、と思う。龍造寺の旗が高みから斜めに入って、相良後方を撃つ。しかも、それだけではない。島津前方へつながる伝令筋へも、投げ槍が飛ぶ。
一本は相良の旗持ち。
一本は島津の前へ走る伝令。
殺し切るための当て方ではない。向きを狂わせるための当て方だ。
「……上手い」
私は、思わずそう言った。
ほむら姫が上手いのか、治部大輔が上手いのか。その両方かもしれぬ。だが、少なくともこれは神埼の時の龍造寺ではない。相良の後ろだけを掻き回して満足するのでなく、相良と島津の継ぎ目を見ている。そこが前よりずっと嫌だった。
島津の前が、わずかに向きを変える。
だが、その前に龍造寺はもう外へ流れている。
追えば正面が薄くなる。
追わねば相良の後ろがざわつく。
どちらでも嫌だ。
私は、脇へ立てた旗へ目をやる。
まだ振らせない。
ここで本隊が大きく向きを変えれば、相手の思うつぼだ。まだ相良を進ませる。だが、進ませるのと食わせるのは違う。その境目だけは見ておかねばならぬ。
二度目が来る。
今度はもっと嫌らしい。
相良の後背と島津の前、その間へ入った。
馬上筒が鳴り、投げ槍が飛ぶ。
相良は後ろを気にする。
島津は前を押しながら、後ろのざわつきも見ねばならぬ。
ほんの半拍。
たったそれだけ、噛み合わせがずれる。
その半拍が、正面へ返ってくる。
治部軍中央が、また半歩だけ下がる。
あれは本当に苦しいのだろう。苦しいからこそ、嘘に見えぬ。奥村助右衛門という男は、そういう持たせ方をする。踏み込みたくなる綻びを見せて、しかしまだ割れ切らぬ。
相良の旗が、一段前へ出た。
私は、そこで小さく息を吐く。
「食われたか」
勝ちに、である。
相良から見れば、今が押し時に見えるだろう。実際、押せている。だから余計に止まれぬ。勝てると思って踏み込んだ兵は、自分でその匂いを濃くしてしまう。
私は、ようやく旗を一つ振らせた。
本隊へ向けた、「深く入るな」の合図だ。
長い言葉はいらぬ。又四郎兄上は、これで足りる。
ややあって、正面の島津勢の進み方がほんの少しだけ変わる。
良い。兄上は見ている。
だが、相良はもう止まらぬ。
三度目で、龍造寺の旗がまた現れた。
今度だけは、私も少しだけ身を乗り出した。輿の肘掛けへ手を置き、目を細める。ここでもう一度深く噛まれれば、相良はさらに乱れる。島津本隊まで拾いに出る価値が悪くなる。
来るか。
来た。
だが、ほんの少しだけだ。深く入ったように見えるところで止めている。そこが良い。神埼の時なら、あの姫はそのままもう半町は入った。
そして、切った。
ここでもう一度来たい顔はしていた。していたが、切った。
正面へ寄る本隊の圧を見て、自分の勝ち欲を切ったのだ。
私は、そこでようやく認める。
「……変わったな」
装備そのものより、そこが大きい。二百騎だの、馬上筒だの、投げ槍二本だの、そういう工夫は治部大輔らしい。方向だけなら、こちらも読んでいる。だが、渡された手を、ほむら姫自身が欲に食われず使い切って、しかも引き際まで守った。そこは、あの姫自身の伸びだ。
ならばこちらも、切る。
私は二つ目の旗を上げさせる。
「相良を拾う」
「本隊は深追いせず」
それだけで良い。
正面の又四郎兄上は、すぐに応じた。
本隊の寄せ方が変わる。突撃ではない。救援の形だ。崩れかけた相良の前を拾い、本隊の列を乱さぬ。兄上の寄せは、こういう時に本当に美しい。
そこで、治部側も動いた。
真正面で受けるのでなく、斜めへ逃がす。島左近が締め、滝川伊勢守が薄く圧を掛け、奥村助右衛門隊が半身で噛む。重いものを真っ直ぐ受けず、少しだけ向きを逸らすやり方だ。
その先に、火線がある。
正面ではない。
少し斜め前。
鉄砲の射角が重なっている。深くは見えぬが、入れば痛い。相良を拾いながら入ればなお悪い。
私は、三つ目の旗を振らせた。
「それ以上入るな」
兄上はそこで止まり、本隊の前をわずかに振った。
それだけで列が生きる。
相良の取り残しを拾い、殺し間へ半身も入らず、そのまま退きへ入る。
敗走ではない。
仕事を済ませて、値が悪くなる前に切る退きだ。
「よし」
私は、そこでようやく背を預けた。
下半身は何も感じぬ。だが、肩と指だけが固くなっていたのは分かる。
相良の損害は重い。
千に届く。
島津も三百五十ほどは落とした。
だが、本隊は残った。
それで充分だった。
正面の旗が、ゆっくり退く。
又四郎兄上は、欲を出さずに勝ちを切った。
こちらがそう切れば、向こうも深追いはせぬ。治部大輔もまた、右衛門佐が手ぐすね引いて待つところへ自分から入る必要はない、と分かる男だからだ。
最後にもう一度だけ、龍造寺の旗を見る。
「あの姫は、覚えておくべきですな」
傍らの士へ向けた言葉だったが、半分は自分へ言っていた。
治部大輔は厄介だ。
それは最初から分かっている。
だが今日、そこへもう一人、別種の嫌さが加わった。
ほむら姫は、もうただ勢いだけの敵ではない。
前の負けを、自分の中で戦へ変え始めている。
ならば次は、もっと嫌な相手になる。
それでも今日は、まだこちらの負けではない。
負けぬために勝ちを拾う。
この地でやるべきことは、そこまでだった。
♢
戦の熱が、ようやく地から離れ始めていた。
とはいえ、夕刻の風に混じるのは、まだ血と火薬の匂いだ。相良勢の潰れた前線を拾い、本隊の列を崩さずに退いたとはいえ、戦場そのものが静かになるには、もうしばらく掛かる。右衛門佐の輿は、少し高みに据え直されていた。見晴らしは先ほどより良い。退いていく兵の筋も、置いてきた死傷の濃さも、どちらもよく見える。
又四郎兄上が馬を寄せて来る。
馬から降りた気配だけで分かった。あの人は、勝っても負けても、戦の直後ほど歩みが静かになる。
「嫌な戦い方をする。巧妙に相良を誘い出した。右衛門佐が相良へ始まる前に忠告しておいてもあれだ」
右衛門佐は、少しだけ口元を緩めた。
「負けかけてる演技ばかりうまくなる、治部大輔はそうぼやいているかもしれません」
又四郎兄上の喉が、低く鳴る。笑いとも、呆れともつかぬ音だった。
「違いない。捨て肝を使っている我らだから、あの殺し間は予測できるが、他家の将ならば誘い込まれよう」
右衛門佐は、そこで初めて兄の顔を見た。
「やはり巧妙でしたか」
「巧妙じゃ。儂でも血が踊るほどには巧妙じゃったわ」
その一言で充分だった。
武辺の誉れだけで前へ出る人ではない。又四郎兄上は、危ないと分かれば切る。値が悪ければ引く。だが、その又四郎兄上に「血が踊る」とまで言わせたなら、治部大輔の仕掛けは本物だ。助右衛門が中央で持たせ、左近と伊勢守で斜めにずらし、その先に十兵衛の火線を重ねる。図として聞けば単純だが、戦場で実際にそれを“食わせる”のは別だ。
「相良は、勝てる匂いに食われました」
右衛門佐がそう言うと、又四郎兄上は短く頷く。
「うむ。あれは相良だけの愚かさではない。治部大輔殿の崩れ方が、うますぎた」
「本当に苦しいように見せておりました」
「見せていた、ではなく、半分は本当に苦しかったのだろう。だからこそ嘘に見えぬ」
「助右衛門という男は、そういう持たせ方をします」
「嫌な武辺じゃ」
そこまで言ってから、又四郎兄上は少し視線を外した。
地の向こう、もう遠くなりつつある龍造寺の旗を見ている。右衛門佐も、同じ方を見る。
「あと、龍造寺のほむら姫殿」
兄の返しは早かった。
「うむ、聞いていた話より二段は判断力を上げておる。あれは勘所と理屈とが同居し始めたようじゃ。我らが罠を用意しても、あれではもう食いついて来ぬ」
右衛門佐は、その言葉をゆっくり反芻した。
「勘と理が同居、ですか」
「そうじゃ。前は勘だけで飛びついておった。今は、勘で掴み、理で切る。あれは厄介じゃ」
右衛門佐は、静かに頷いた。
「治部大輔殿の影響もあるのでしょうが、戦場を俯瞰してみることが、より鮮明になっておるように感じました」
「同感だ」
しばし、二人とも黙る。
ほむら姫の動きそのものより、最後に引いたことが大きかった。龍造寺の姫は、もう一度噛みに来たい顔をしていた。していたのに、切った。あれが神埼の時とは違う。渡された手をそのまま振り回すのでなく、自分の点で止めた。そこまで来ると、治部大輔の付属物ではない。あの姫自身が、敵として質を変え始めている。
又四郎兄上が、低く言う。
「治部大輔殿も、まったく本気ではなかった。お互い本気でぶつかり合えば、この程度では済まん」
右衛門佐はすぐには返さなかった。
それは、まったくその通りだったからだ。今日ぶつかったのは、戦場の一角に過ぎぬ。こちらは相良を前へ使い、治部大輔は龍造寺へ二百騎を預けて外から乱した。どちらも、ここで家の根まで賭けるつもりはない。だが、それでもあれだけ嫌な噛み合いになる。もし本当に、双方が全てを注ぎ込んで正面から潰し合えば、被害はこんなものでは済まない。
「彼の軍の後方に、浅井と毛利も迫っております」
右衛門佐が言うと、又四郎兄上は空を見た。もう赤みは薄い。
「合計五万弱か。豊後方面も加えれば十万を越えよう」
「はい」
「そして、織田はまだ追加で兵力を派遣する余裕も持っておる」
「持っております」
「忌々しいことよ」
その言葉には、怒りだけではなく、冷えた認識があった。
島津は強い。
又四郎兄上も強い。
右衛門佐自身、自分たちの戦い方が通じぬとは思わぬ。だが、織田という相手は、ただ一つの軍で殴ってくる家ではない。治部大輔の一軍があり、別方向から浅井が来る。海と兵站で毛利が噛む。豊後方面を見れば、また別の軍がある。そのうえで中央には、なお余力がある。そこが、本当に嫌だった。
「数が多いだけではあるまい」と又四郎兄上。
「はい」
「数が多く、しかも手が違う。武辺だけでもなければ、小細工だけでもない」
「はい」
「治部大輔殿のような将が、その接ぎ木をしておる」
「まことに」
右衛門佐は、そこで少しだけ疲れを感じた。
足は動かぬ。だが、疲れるのは足ではない。こういう相手と戦う時は、頭の奥から削られる。見て、読んで、切って、まだ足りぬ。そういう戦だ。
又四郎兄上が最後に言う。
「今日のところは、こちらも悪くなかった。相良の損は重いが、本隊の値は落としておらぬ」
「はい」
「だが、次はもっと嫌になるぞ」
「ええ。ほむら姫がもう一段伸びる前提で考えます」
「治部大輔殿も、次は今日の上で来る」
「そうでしょう」
「面倒だな」
「面倒です」
二人とも、それには少しだけ笑った。
勝った負けたの話ではない。
今日のぶつかり合いで見えたのは、相手がこちらの嫌がることを、ちゃんと嫌な形でやってくるという確認だった。しかも、それを一度きりの奇手で終わらせず、次へ積み上げてくる。
風が少し強くなる。
退いていく兵の列が、遠くで揺れる。
右衛門佐は、輿の肘掛けへ手を置いたまま、静かに言った。
「今日のところは、こちらも相手も、引き際を知っておりました」
「うむ」
「だから、この程度で済みました」
「違いない」
「次もそうならば良いのですが」
「そうならぬから、戦は面倒なのだ」
又四郎兄上はそう言って、再び馬へ手を掛けた。
右衛門佐は、その背を見送りながら思う。
今日は、まだ総括で済む。
だが次は、総括などと言っていられぬほど深く噛み合うかもしれぬ。
織田治部大輔。
龍造寺ほむら。
どちらも、覚えておくべき敵だった。
♢
有明海沿岸から南へ流れてきた諸軍は、八代でようやく一つの塊になった。
毛利軍。
浅井軍。
治部軍。
そして龍造寺軍。
途中の掃討と今回の小競り合いで多少の損耗は出ている。
それでも、合わせて四万八千。
五万を少し切るとはいえ、九州の一国を押すには十分すぎる厚みだった。
しかも、ただ数があるだけではない。
毛利がいる。
浅井がいる。
龍造寺もいる。
織田が単独で押しているのではなく、九州そのものを呑み込む側の秩序として立っている。
そこが大きい。
八代の陣所で地図を広げると、十兵衛が静かに言った。
「ここまで来れば、もう兵の多少だけで見る段ではありませぬな」
「うん」
「島津から見れば、西から四万八千」
「そうだ」
「しかも、筑前も筑後も肥後北半も、もう以前のままではない」
「それが一番嫌だろうな」
官兵衛が頷く。
「戦の勝ち負け以前に、盤そのものの色が変わったと見えるはずにございます」
「うん」
「問題は、どこでそれを飲み込ませるか」
「そこだよ」
俺の視線は、さらに南へ落ちた。
鹿児島湾。
陸から詰めるだけなら、島津はまだ耐える。
距離を使う。
地形を使う。
時間を使う。
右衛門佐昌久がいる以上、その手の戦いでは何度か嫌な小勝ちを拾ってくるだろう。
だから、そこでは終わらせない。
「船は」
と俺。
官兵衛がすぐ答える。
「三隻、準備済み」
「補助の艀は」
「四」
「湾内での位置調整は」
「問題ございませぬ」
慶次郎が、横でにやりとした。
「また嫌なことをする」
「褒めるなよ」
「褒めてる」
伊勢守が腕を組む。
「陸からの圧で心を削り、海から別の理屈を見せるわけですな」
「そういうこと」
「島津の武威ではどうにもならぬ一手を、ここで初めて突きつける」
「うん」
そこへ、少し離れていたほむら姫と直茂が、自然とこちらへ寄ってきた。
龍造寺軍五千は、もう敵ではない。
こちらの線の内にいる。
だが、それでもこの二人が、まだ見ぬ手を前にしてどういう顔をするかは、少し興味があった。
「治部大輔殿」
と、ほむら。
「何だ」
「今度は、島津の点を取りに行かれるのですか」
その言い方に、少し笑った。
「いや」
「では?」
「点じゃない」
「……」
「心を折りに行く」
直茂が、小さく息を吐いた。
「左様で」
「お前らの時も、結局はそこだったろ」
「否定は致しませぬ」
八代の浜から少し下ったところに、その船団はいた。
和風ガレオン船三隻。
この時代の九州の海へ、そのまま置いてよい姿ではない。
南蛮船のようでいて違う。
和船の理で組まれながら、竜骨などの新機軸にそった技術を取り入れ、今までの海戦の常識からは半歩も一歩も外れている。
腹は深く、砲門は異様に低く重く、近づく者へ「これは見慣れた船ではない」と分からせるだけの異物感があった。
治部軍の兵たちですら、最初は言葉を失っていた。
毛利の兵も、浅井の兵も同じだった。
まして龍造寺軍はなおさらだ。
「……これを」
と、左近が珍しく感想めいた声を漏らす。
「今まで隠しておられたのですか」
「隠してたよ」
「嫌な主だ」
「知ってる」
兵たちのざわめきが広がる。
ただ大きいだけではない。
ただ珍しいだけでもない。
**これがどこで使われるか**まで考えた者から順に、顔色が変わっていく。
ほむら姫は、しばらく何も言わずに三隻を見ていた。
視線が、砲門の高さをなぞり、船腹を見て、さらに湾へ回す時の軌道まで考えている顔だった。
その横で、直茂もまた黙っている。
やがて、ほむらが小さく言った。
「……そういうことでしたか」
俺は何も返さなかった。
あの手の沈黙は、相手に最後まで考えさせる方がいい。
ほむらは、船から目を離さぬまま続けた。
「私たちが、村中城で籠城を選んでいたなら」
「……」
「これが、あそこで使われていた」
直茂が、そこでようやく低く言う。
「左様でしょうな」
ほむらは、ほんの少しだけ笑った。
神埼で見せた怒りの笑みとは違う。
もっと乾いた、納得の笑みだった。
「そしたら」
一拍置く。
「きっと、心ごと折られていましたね」
その言葉は、軽くなかった。
神埼の包囲。
村中城での正式降伏。
筑後肥後での働き。
そうやってこちらの味方へ降ったから、今この船を“味方の手”として見ていられる。
もしあの時、籠っていたなら。
もしあの時、村中城で最後まで足掻いていたなら。
この異様な三隻は、龍造寺の城下へ「戦の理そのものが変わった」と分からせるために使われていただろう。
直茂が言った。
「姫」
「何でしょう」
「神埼の三十五点も、今なら少し意味が違って見えます」
「ええ」
「止まって正解だった」
「……そうですね」
そこで俺はようやく口を開いた。
「お前らの時は、まだ選べたんだよ」
「……」
「神埼で止まり、村中城で降ったから、まだ家の価値を残せた」
「はい」
「島津は、ここまで来るとそうはいかない」
「だから、心を折るのですか」
と、ほむら。
「そう。城を一つ落とすためではなく、戦場の勝ち負けを一つ増やすためでもない」
「……」
「もう勝ち目のある盤ではない、と理解させるためだ。島津右衛門佐昌久に、な」
その名を出した時、ほむらの目が少しだけ鋭くなった。
神埼のあと、そして第一回会戦のあとで、彼女はもう右衛門佐昌久を軽く見ていない。
「右衛門佐は、戦場で勝ちを拾えても」
「うん」
「戦略で覆らぬなら意味がないと分かる男」
「その通り」
「だから、この船なのですね」
「そういうこと」
半兵衛が地図を指で押さえた。
「八代で四万八千」
「うん」
「西からの圧だけでも嫌です」
「そうだな」
「そこへ、海から常識の外を見せる」
「うん」
「右衛門佐殿なら、そこで“まだ戦えるか”ではなく、“どこで止まるか”を考え始めましょう」
「だから、そこを折る」
毛利の兵が、船腹を見上げて低く呟く。
「これが湾へ入れば……」
「城はまだ残っても」
「心が先に残らぬ」
誰の声か分からなかったが、良い言い方だった。
俺は三隻を見上げた。
ここまで長く仕込んできた札だ。
村中城でも使えた。
だが使わなかった。
あの時は、龍造寺を残して使う方が値が高かったからだ。
今度は違う。
島津を残すにしても、まず一度、
**“ここから先は、昔の戦の理屈だけでは生き延びられない”**
と分からせる必要がある。
「十兵衛」
「は」
「艀の順を確認しろ」
「承知しました」
「毛利筋にも、湾内誘導の誤差を詰めさせる」
「はい」
「浅井にも、上陸後の揺さぶり文を先に作らせろ」
「左様に」
「龍造寺は」
「五千、即応できます。負傷兵の補充も済みました」
と、ほむらが即答した。
「砲撃後に陸側で何が起きても、穴を埋められます」
「結構」
「点になりますか」
「欲張るな」
「欲張らねば、五十の先へ行けません」
「そうだったな」
その返しに、周囲の何人かが少しだけ笑った。
もうほむらは、神埼の時の“見透かされた女”ではない。
こちらの軍中で、ちゃんと戦の話を出来る将になっている。
八代の空は高かった。
兵は四万八千。
西の諸軍は再集結を終えた。
東筋とも呼応の目は立っている。
そこへ、和風ガレオン船三隻。
戦の勝ち負け以前に、時代そのものを押し込むための札が、ようやく表へ出た。
「行くぞ」
と俺。
「今度は、島津の番だ」
誰も軽く返さなかった。
この三隻を見たあとでは、もう誰も、次の一手をただの延長戦とは思えなかったからだ。
ほむら姫は、最後にもう一度だけ船団を見た。
そして小さく、だがはっきりと呟いた。
「……村中城で籠っていたなら、私たちはこれで折られていた」
「……」
「止まって正解だったのですね」
直茂が答える。
「はい」
「ですが今は」
「今は?」
「味方として、あれを見ていられます」
ほむらは、そこでようやく本当に少しだけ笑った。
「嫌な男」
「今さらだろう」
「ええ」
「ですが」
彼女は海の向こうを見た。
「あの島津が、どういう顔をするのかは、少し見てみたいですね」
その言い方は、もう敗者のものではなかった。
♢
海風が、少し強くなってきた。
鹿児島湾に、異様な船影が現れたのは、その翌々日だった。
内城では、すでに籠城支度が進んでいた。
義久、義弘、歳久、家久。
四兄弟はいずれも、表情にこそ出さぬが、この戦の重さは十分に飲み込んでいる。
とりわけ昌久は、最初から盤面を冷たく見ていた。
西から約五万。
東から五万超。
海も押さえられ始めている。
正面の一戦で勝つ負けるではなく、どこで止まるかの段だ、と。
だがそれでも、まだ“籠る”という選択には理があった。
城。
地形。
時間。
そして、相手が陸戦の常識で攻めてくる限りは。
「右衛門佐」
義久が問う。
「は」
「まだ保つか」
昌久は、少しだけ目を閉じてから答えた。
「陸からのみならば」
その時、物見が駆け込んできた。
「申し上げます! 湾内に……湾内に、奇怪なる大船が!」
家久が眉を吊り上げる。
「何だと」
昌久の顔色は、その瞬間だけほんの少し変わった。
湾内。
そこがまず嫌だ。
鹿児島湾の奥まで“平気で入ってくる”という時点で、今までの前提がずれている。
物見の声は震えていた。
「南蛮船のようでもあり、しかし違いまする! 黒き腹に、鉄の口をいくつも……!」
義弘が立ち上がる。
「海から撃つ気か」
昌久は、そこでようやく低く言った。
「……来たか」
誰へともなく漏れたその一言に、歳久が横目を向けた。
「知っていたのか」
「いいえ」
「では」
「だが、治部大輔殿なら、やるとは思っていました」
その断定は、奇妙な重さを持っていた。
内城近辺の高みから見れば、湾内の船は異物そのものだった。
この時代の戦の景色に、本来あるはずのない影だ。
やがて、鉄の口がこちらへ向く。
昌久は、その角度を見た瞬間に理解した。
狙える。
しかも、見せつけるための角度で。
轟音。
一発目で、城近くの外構が砕けた。
木片と土煙が上がる。
兵がざわめく。
馬が暴れる。
二発目は、少しずらして櫓近く。
三発目で、もう偶然ではないと誰もが知る。
「……なるほど」
と昌久。
義久が問う。
「何がだ」
「我らの盤そのものをひっくり返されました」
そこへ、家久が吐き捨てるように言う。
「まだだ。船など沈めれば」
「無理だ中書」
昌久の声は静かだったが、断定的だった。
「届かない」
「なら、夜襲で」
「その前に位置を変える。あるいは艀を引く。撃つためだけに来て、撃ったら去る」
又四郎義弘が、歯を食いしばる。
「嫌な戦だな」
「はい」
「だが、それだけで折れるか」
その問いに、昌久はすぐには答えなかった。
四発目。
五発目。
今度は城下寄りの施設が弾ける。
人が死んだかどうかは、ここではまだ問題ではない。
問題なのは、“殺せる”と知らせ続けられていることだ。
昌久は、そこでゆっくりと答えた。
「折れるのではありませぬ」
「では」
「折られるのです」
その一言が、場を冷やした。
戦場で何度か勝つ。
地形で拾う。
退路を切らぬ。
損耗を抑える。
それら全部は、戦場が陸の理屈で動いているから意味を持つ。
だが海から、しかもこの湾内で、こんな砲を差し込まれたら話が違う。
城も、港も、暮らしも、兵站も、まとめて射程へ入る。
そして何より痛いのは、これが“続けられる”と分かることだった。
一発で城が落ちるわけではない。
だからこそ痛い。
十発。
二十発。
三十発。
明日も来るかもしれない。
次の潮でも来るかもしれない。
それはもう、武勇でどうにかなる相手ではない。
義久が、低く問う。
「右衛門佐」
「は」
「もう、良いのか」
昌久は、しばらく答えなかった。
また一発、どこかで何かが砕ける音がした。
家久は拳を握っている。
義弘は怒りを押し込めている。
歳久は、もうほとんど答えを理解している顔だった。
「……はい」
昌久は、ようやく言った。
「薩摩大隅、そして家を残す方へ、切り替えるべきです」
誰もすぐには口を開かなかった。
その沈黙自体が、島津の重さだった。
そして、義久が頷いた。
「分かった」
家久が何か言いかけたが、昌久が先に言う。
「中書、いや又八郎」
家久が睨む。
「何だ兄上」
「ここから先は、一戦の勝ち負けではなく、家が何年持つかの話だ」
「……」
「それを捨ててまで、今の一太刀にこだわるのは、島津ではない」
その言葉は、痛い。
だが正しい。
痛いからこそ、効いた。
鹿児島湾沖の船上で、俺は砲撃の余韻がまだ残る空気の中、海を見ていた。
「そろそろだな」
官兵衛が頷く。
「右衛門佐殿は止まるはずにございます」
「うん」
「義久殿も」
「止まる」
「義弘殿、家久殿は」
「感情では止まりたくない。でも、右衛門佐が理で止める」
ほむら姫が、隣で海の向こうを見ていた。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「今の一手、採点不能です」
「そう?」
「戦ではなく、時代を持ち込んでおります」
俺は少し笑った。
「それが必要な相手だったんだよ」
直茂が、小さく言う。
「島津右衛門佐殿には、とりわけ効きましょう」
「そう思う」
「地形と損耗で戦を組む御方です。戦場で勝ちを拾えても、戦略で覆らぬと分かれば、止まりましょう」
「だから撃った」
ほむら姫は、そこでほんの少しだけ苦笑した。
「嫌な男」
「またそれか」
「ですが」
彼女は、海風の中で言う。
「よく分かります。あの右衛門佐殿に、これ以上は無意味だと知らせるには、あれしかない」
その時、岸の方から早馬が見えた。
「治部大輔様!」
「うん」
「島津方、使者を!」
来た。
俺は、そこでようやく大きく息を吐いた。
「……よし」
島津も、ここで止まる。
龍造寺はすでに降った。
毛利も浅井も合流済み。
九州の征伐は、ほぼ終わった。
そして、龍造寺軍五千を率いるのは、ほむら姫だ。
副将は鍋島左衛門大夫直茂。
島津討伐で、今度は織田方として前へ出る。
俺はその横顔を見た。
敵から味方へ移ったばかりの姫将。
まだ全部がこっちを向いているわけではない。
だが興味はある。
理を認めてもいる。
それで十分だ。
「再試験の採点、いつになるんだろうな」
そう呟くと、ほむら姫がこちらを見た。
「関東や東北での戦でございましょう」
「自信ある?」
「少なくとも」
彼女は少しだけ笑った。
「五十点で止まる気はありませぬ」
その返しに、俺も笑った。
「そりゃ楽しみだ」
鹿児島湾の波は静かだった。
だがその静けさの下で、九州の時代そのものが、もうひっくり返っていた。
♢
九州の火は、ようやく炉へ移された。
龍造寺も、島津も、削り合う側から止まる側へ回った。
その結果だけ見れば大きな勝ちだが、俺は、ようやく終わった仕事の重みで少し気が抜けていた。
本陣として使用している寺の客間に戻り、文机の前へ座る。
まだ片付けきれていない九州の文書がいくつもある。
だが、さすがに今夜ぐらいは頭を空にしても罰は当たるまい。そう思った時、障子の向こうでかすかな気配が止まった。
遅い時刻だった。
「……誰だ」
しばしの間。
やがて、落ち着いた女の声が返る。
「ほむらにございます」
俺は、一瞬だけ本気で固まった。
――何で?
心の中ではそうなった。
だが、口に出したのは別だった。
「……入ってくれ」
障子が開く。
そこにいたのは、昼の戦装束でも、評定の場の張った姿でもない、少しだけ肩の力を抜いたほむら姫だった。
それでも、ただの姫君の夜着姿には見えない。
前へ出て兵を立ててきた女の芯は、そのまま立ち姿に残っている。
俺は、畳に座り直した。
「こんな時分に、どうした」
ほむら姫は、すぐには近寄らない。
まず障子を静かに閉め、それから改めてこちらを見た。
「無礼は承知のうえで参りました」
「それは、まあ」
俺は軽く息を吐く。
「分かってる」
「お怒りになりますか」
「まだ内容を聞いてない」
それを聞いて、ほむら姫はほんの少しだけ口元を緩めた。
「やはり、嫌な男です」
「その評価、固定だな」
「ええ」
そのまま、彼女は一歩、二歩と近づいてきた。
「鍋島左衛門大夫と、黒田官兵衛殿が申されました」
俺は思わず両名の顔を思い浮かべた。
「……あの二人が?」
「はい」
「何と」
ほむら姫は、そこで少しだけ視線を落とした。
「家を残すとは、時に兵を出すことでも、頭を下げることでもなく、“誰へ身を預けるかを決めること”でもある、と」
俺は、思わず額を押さえたくなった。
――左衛門大夫。
――官兵衛。
――お前ら、何を焚き付けた。
だが、そんな内心を見せるわけにもいかない。
「それで?」
「私は」
ほむら姫は、ようやくまっすぐ俺の目を見た。
「あなたに興味を持ちました」
その言葉は、以前にも聞いた。
だが今夜のそれは、戦場や評定の延長にあるものではない。
「嫌な男だとも思っています」
「それも聞いた」
「ですが、嫌なだけではない」
彼女は続ける。
「家を残すと申して、実際に残す。人を守ると申して、恐ろしい手を使う。恐ろしい手を使っても、そこで終わらず、相手が納得して止まる線を引く。私は、そういう男を知らぬのです」
俺は、その言葉に少しだけ目を細めた。
「買いかぶりだよ」
「そうかもしれませぬ」
「実際は、もっと面倒で、もっと打算的だ」
「それでも構いませぬ」
その返しが、妙に真っ直ぐだった。
俺は、そこで初めて、この夜がただの感情の高ぶりではないことを悟った。
勢いではない。
この姫は、考えたうえで来ている。
「……左衛門大夫と官兵衛は、何と?」
「女として行け、と」
「そこまで言ったのか、あいつら」
「もっと穏やかな言い方ではありましたが、意味は同じです」
「ひどいな」
「ひどいのは、私も承知です」
ほむら姫は、そう言ってから、さらに一歩近づいた。
「ですが、私は龍造寺の姫です。ただ従っただけの家にはしたくない。従属同盟と申しても、どうせ人の心まで紙に書けるわけではない」
その通りだった。
停戦。
禁制。
安堵。
従属。
どれも文字にはなる。
だが最後に残るのは、人がどこまで本気で相手を信じるかだ。
「だから、私は自分で見定めたい」
俺は、ようやくその意味を正面から受けた。
「俺を?」
「はい」
「男として?」
ほむら姫は、そこで頬をわずかに赤くした。
だが逃げなかった。
「……はい」
沈黙が落ちた。
薩摩の夜は静かだ。
遠くで見張りの足音がする。
だがこの部屋の中だけ、妙に音が薄い。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「姫」
「はい」
「分かって来てるのか」
「何をでしょう」
「俺には、もう妻たちがいる」
「存じております」
「それでも来たのか」
今度は、ほむら姫が目を逸らさなかった。
「それでもです」
「後で悔やむかもしれないぞ」
「悔やむ時は、自分で悔やみます」
その返しが、いかにも彼女らしかった。
誰かに押しつけられた覚悟ではない。
自分で前へ出る女の覚悟だ。
俺は、思わず少しだけ苦く笑った。
「……本当に厄介だな」
ほむら姫の口元が、わずかに動く。
「嫌な男に、厄介と言われました」
「褒めてないぞ」
「ですが、拒んでもおられませぬ」
そこは痛かった。
俺はそれ以上、何も言い返せなかった。
彼女のことを、ただの政略札とは見ていない。
戦場で見た。
評定で見た。
理で揺れる火だと知った。
その火が、今こうして一人の女としてここへ来ている。
それを、まるごと無かったことにするほど、自分は綺麗には出来ていなかった。
だが、ほむら姫がここで来た本題は、どうやらそれだけではないらしかった。
彼女は、俺が沈黙したのを見て、ほんの少しだけ表情を改めた。
羞じらいを引っ込め、別の鋭さを前へ出す。
「治部殿」
「ん?」
「もう一つ、確かめたいことがございます」
その声音が変わったのを、俺は聞き逃さなかった。
「何だ」
ほむら姫は、まっすぐに言った。
「あなたは、私と同じ側の人ですね」
俺の顔から、わずかに熱が引いた。
同じ側。
露骨な言い方はしていない。
していないが、十分すぎるほど踏み込んでいる。
「何の話だ」
「そこを惚けるのも、やはり嫌な男らしい」
ほむら姫は、もう少し近づいた。
今度は女としてではない。
盤面を横から読む者として、相手の温度を確かめに来る距離だった。
「最初は、ただ異様だと思っておりました。九州へ来てからは、なおさらです。あなたは、この時代の武家が思いつくには少し早すぎることを、ためらいなく積んでおられる」
「……」
「兵の回し方。停戦の落としどころ。相手の家を潰し切らず、だが二度と刃を向けられぬ位置へ置くやり方。あれは、ただ賢ければ届きましょうが、囲碁で戦っていたはずの盤面自体をひっくり返して、盤外から将棋にしてしまうようなやり方は、この時代の人間には思いつかない方法です」
俺は黙っていた。
ほむら姫は続ける。
「私は、私の中に、ここではない時代の景色を持っています」
「……」
「名も、国も、暦も、ところどころ曖昧です。ですが、今よりもっと大きく、もっと広く、もっと人が溢れた時代の気配だけは残っている」
「……」
「あなたも、そうでしょう」
俺は、すぐには答えなかった。
障子の外で、風が一度だけ鳴った。
「言い切るなよ」
と、やがて俺はそれだけを口にした。
「人違いかもしれないぞ」
「人違いなら、そこまでの惚け方にはなりませぬ」
「ひどい理屈だな」
「理屈ではなく、感触です」
ほむら姫は一息置いた。
「それに、私だけではない気がしております」
「……」
「派手に馬鹿をやらかした六角の四郎義高。豊後の大友新次郎鎮鑑。そして、薩摩の島津右衛門佐殿も」
「……」
「皆どこか、普通ではない。治部殿も、気づいておられるのでしょう?」
六角四郎義高と大友新次郎鎮鑑。
そして島津右衛門佐。
見立てとしては、かなり鋭い。
少なくとも、ただの勘ではここまで並ばない。
俺は、そこでようやく少しだけ肩を抜いた。
完全に否定するのは、もう無理だった。
無理にしらを切っても、この姫は引かない。
それなら、認め切らずに受ける方がいい。
「世の中には、妙に先を読む奴が何人かいる」
「ええ」
「その中には、たぶん同じ匂いのする連中もいる」
「……」
「俺は、そう思ってる」
ほむら姫の睫毛が、わずかに震えた。
確定の言葉ではない。
だが、否定でもない。
それで十分だった。
「では」
とほむら姫。
「私は、人違いではなかったのですね」
俺は、そこでようやく口元を歪めた。
「さあな」
「その答え方が、もう答えです」
そこは、少し可笑しかった。
俺は小さく息を吐いた。
「姫」
「はい」
「その手の話は、軽々しく他所へ出すな」
「もちろんです」
「確信した顔もするな」
「難しいことを仰います」
「やれ」
「善処いたします」
そう言いながら、ほむら姫の顔には、どこか安堵があった。
同じだった。
少なくとも、自分一人ではなかった。
その確認は、政略以上に彼女を前へ押したのかもしれない。
「……不思議なものです」
とほむら姫が言った。
「何が」
「戦の話をしていたはずなのに、今はもっと別のところで、ようやく腹へ落ちるものがある」
「俺は逆だな」
「はい?」
「女として来た姫が、途中から急に時代を観測するようなの話へ飛んだから、どっちを相手にしてるのか分からなくなった」
「どちらも私です」
「欲張りだな」
「治部殿にだけは言われたくありませぬ」
その返しに、俺は少しだけ笑った。
ほむら姫も、そこで初めて張り詰めたものを少し緩める。
「ですが、これでようやく分かりました」
「何が」
「私が今夜ここへ来たのは、女としてだけでは足りなかったのです」
「……」
「同じものを抱えた者かもしれぬ相手に、自分の目で触れたかった。孤独を癒されたかった」
「そうか」
「はい」
その「はい」は、さっきまでよりずっと静かだった。
俺は、その答えをしばらく胸の内で転がした。
厄介だと思う。
だが、嫌ではない。
むしろ、ここまで来てなお、この姫が勢いだけでないことに、少し救われてもいた。
「……来い」
ほむら姫の喉が、小さく動いた。
その一言で、彼女はようやく肩の力を抜いた。
すぐには触れない。
まず一度だけ、深く頭を下げる。
「ご無礼、どうかお許し下さい」
「今さらだ」
俺は、そこでようやく少し笑った。
「そこまで来て、まだ武家の姫らしく筋を通すのか」
「通したい筋は、ございます」
「律儀だな」
「相手が、あなただからです」
「それに」
ほむら姫は少しだけ間を置いた。
「たぶん、同じ景色の欠片を知る方だからです」
その言い方に、俺は少しだけ参ったと思った。
ほむら姫はそっと顔を上げる。
その目には、戦場の火とは違う熱が宿っていた。
怖れもある。
羞じらいもある。
だが、それでも前へ出ると決めた者の目だ。
俺は、その手を取った。女性でも武人であると感じさせる胼胝があるが、それでもシラウオのように細く、白い指先だった。
「今夜のことは」
「はい」
「軽く扱わない」
「私もです」
「それと」
「はい」
「さっきの話も、軽く扱うな」
「無論」
「疑うなら静かに疑え。見るなら、黙って見ろ。その上で、必要な時だけ確かめろ」
「承知しました」
それ以上の言葉は、もう要らなかった。
夜は静かに更けていく。
陣の外では、冬の風が石垣を撫でる。
九州を止めたあとに残ったのは、勝者と敗者の理屈だけではない。
その理屈の先で、なお人が人として踏み込む、もっと厄介で、もっと柔らかなものでもあった。
翌朝。
黒田官兵衛は、陣幕の手前で鍋島左衛門大夫直茂と鉢合わせると、互いの顔を見てほんの少しだけ笑った。
「……やはり」
と官兵衛。
直茂も、静かに返す。
「ええ」
「姫は前へ出られましたか」
「うちの姫ですので」
官兵衛は袖の中で手を組む。
「それは何より」
直茂は、そこで一度だけ真顔になった。
「ですが、黒田殿」
「何でしょう」
「これで、龍造寺はもう、ただの従属家では済まなくなります」
官兵衛は頷いた。
「それで良いのです」
「良い、と」
「紙の同盟より、人の縁の方が深いこともございます。それに」
官兵衛は、わずかに目を細めた。
「姫様は、ただ縁を結ばれたのではありますまい」
「……。ええ」
と直茂。
「たぶん、もっと別のところでも、腹を決められた」
その返しに、官兵衛は小さく笑った。
「やはり、あなた方は厄介だ」
「お互い様でしょう」
朝の空気は冷たい。
だが、織田治部家の陣一角では、また一つ、戦ではない形の結びつきが生まれていた。