織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
大友新次郎鎮鑑が、とうとう捕まったという報せは、夕方になって届いた。
臼杵から船で逃げようとしたところを、志賀だの佐伯だの、あちらの家老や国人連中に裏切られたらしい。
十重二十重に縄を打たれ、ぐるぐる巻きのまま引きずり出されたと聞いて、さすがに俺も少しだけ呆れた。
「最後まで、人望が無いな」
そう呟くと、官兵衛が静かに頷いた。
「逃がして後日また使うより、今ここで差し出した方が、己らの値段が上がると見たのでしょう」
「うん。正しい判断だよ」
「大友左近衛少将の旧臣筋も、新次郎鎮鑑一派と沈む気はなかったのでしょうな」
その新次郎鎮鑑は、戸次伯耆守と吉弘弥七郎が、捕らえた連中ごと押さえて大坂へ向かわせているはずだった。
つまり、九州の火種でまだ形を持っている連中は、だいたい一つ所へ集まりつつある。
龍造寺山城守隆信。
ほむら姫。
鍋島左衛門大夫直茂。
大友左近衛少将宗麟。
島津五兄弟からは、三郎左衛門尉義久、左衛門督歳久、右衛門佐昌久。
そして俺たち。
各地の国人領主への対処や残務処理は、刑部率いる織田軍本体がそのまま残ってやる。
俺たちは、いわば“来客”を連れて先に帰る役だった。
そのための船が、湾に浮いていた。
和風ガレオン船大和型一番艦「大和」。まあ、これは特異点たちに対する解りやすいサインともいえる。この名前の船に反応し、そして、この時代ではオーパーツとは言わないにしろ、かなり時代を先取りした和風ガレオン船に、あえて逆らう奴がいるかどうか。
もう、ここまで来たらある意味隠せないので、俺はある意味開き直ったともいえる。ほむら姫にあんなことを言っておいて、自分はどうなんだって話だが。
二番艦は「武蔵」で、三番艦は「信濃」と名付けた。
いや、尾張や美濃や近江でも良かったんだが、まあ、あれだ。日本人の魂って奴だよ。
初めて見た時も思ったが、やっぱり妙な船だ。
和の意匠と南蛮由来の腹が、一つの無理筋として成り立っている。
だが、戦場であれだけ嫌らしく効いたあとでは、もう誰もその異様さを笑えない。
乗船の場は、妙に静かだった。
負けた者。
降った者。
残った者。
使われる側へ回った者。
それぞれ立場は違うが、誰も軽口を叩ける空気ではない。
宗麟は、痩せて見えた。
幽閉されていた間の衰えもあるのだろうが、それ以上に“家がここまでねじれた”疲れが顔に出ている。
三郎左衛門尉義久は重い。
左衛門督歳久は静か。
右衛門佐昌久は、船そのものの構造と帆の取り回しを見ている。
ああいう男は、どんな時でもまず盤面を見る。
そして隆信は、いかにも隆信らしく不機嫌だった。
その理由の半分ぐらいは、たぶん戦の負けそのものではない。
「治部大輔殿」
ほむら姫が、いつのまにかまた俺のすぐ横にいた。
「何でしょう」
「この船、やはり気に入りませぬ」
「気に入らないのかよ」
「戦に使うには、あまりに嫌らしい」
「褒めてる?」
「半分ほどは」
そう言って、ほむら姫は本当に当然のような顔で俺の傍から離れない。
いや、離れないどころではない。
島津討伐が終わったあの夜に契ったあとから、もう露骨にこの距離感だ。
一線を越えて気が変わった、というより、越えたからこそ変に隠さなくなった類の厄介さだった。
直茂ですら、もう止める気が薄い。
慶誾尼に至っては、半分呆れ、半分面白がっている顔で見ている。
だが、面白がれない男が一人いた。
山城守隆信である。
最初は黙っていた。
というより、黙って耐えていた。
船へ乗る。
着座する。
宗麟や島津勢と顔を合わせる。
そこまでは一応、山城守としての面子で持たせていた。
だが、ほむら姫が俺の隣に腰を下ろし、しかも何のためらいもなく俺の腕へ身体を預けた瞬間、とうとう限界が来た。
「おい治部大輔!」
声が、もう熊だった。
ただ大きいだけではない。
あれは本気で怒っている父熊の声だ。
義久も歳久も、わずかに目を向けた。
宗麟など、驚きより先に疲れたような顔になっている。
「何でしょう、山城守殿」
俺は、わりと平然と返した。
「何でしょう、ではないわ!」
隆信が立ち上がる。
本当にヒグマみたいな迫力だった。
一歩踏み出せば、そのまま甲板ごと抜けそうな勢いがある。
「貴様、うちの姫を何だと思うておる!」
「何だと、って」
「ぬかせ!」
「いや、聞かれたから答えようとしてるんだが」
「ぬかすな!」
完全に熊である。
しかも、かなり面倒な時の熊だ。
直茂が小さく目を閉じた。
昌久は、ほんの少しだけ面白そうな顔をしている。
義久は黙っているが、目つきだけは厳しい。
歳久は、これはどこまで放置すべきか測っている。
宗麟は、逆にこの程度で済むならまだ平和だと言いたげな顔だった。
そして、その熊を止めたのは、案の定ほむら姫だった。
「兄上」
一言。
だが、その一言に隆信がまだ止まらぬうちに、ほむら姫は続ける。
「ハウス」
甲板の空気が、一瞬で止まった。
山城守も止まった。
本当にぴたりと止まった。
それがあまりにも見事で、慶次郎が吹き出しかけて口元を押さえ、直茂は遠い目をし、歳久の口元がごくわずかに動いた。
宗麟に至っては、初めて少しだけ生気のある表情になった。
山城守は、怒っている。
怒っているが、止まっている。
「……ほむら」
「座って下さい」
「だが」
「座って下さい」
二度目は、完全に将の声だった。
龍造寺軍一万五千を動かし、島津戦でも一軍を率いた女の声。
熊だろうが何だろうが、兵を従える側の声には逆らえない。
山城守は、ぐう、と喉の奥で鳴らした。
だが、そのまま大人しく座った。
本当に、座った。
「すごいな」
俺が思わずそう漏らすと、直茂が低く返した。
「いつものことにございます」
「そうなの?」
「はい」
「山城守殿、家ではこうなのか」
「家でも外でも、大体こうでございます」
それには、さすがに俺も笑った。
ほむら姫は、そんな周囲の反応など気にも留めず、隆信へ向き直る。
「兄上」
「……何だ」
「今は大坂へ向かう船上です」
「分かっておる」
「ならば、龍造寺の面子を潰すのはおやめ下さい」
「誰が潰した!」
「今まさに兄上が潰しかけました」
それには、義久ですらほんの少しだけ目を伏せた。
歳久は、もう笑いを堪えているのか何なのか分からない顔だ。
昌久だけは、淡々とこの兄妹を観察している。
「……治部大輔殿」
と、昌久。
「何でしょう、右衛門佐殿」
「お察しの通り、かのご兄妹はこういう具合です」
「見れば分かるよ」
「そうでしょうとも」
そこに、慶誾尼がようやく口を挟んだ。
「まったく、お前らは」
呆れたような、だが少し楽しそうな声だった。
「島津も大友もおる前で、家の中を丸出しにしてどうするんだい」
「母上」
と、ほむら姫。
「兄上が悪いのです」
「それはそうだね」
慶誾尼は、あっさり頷いた。
隆信が、少しだけ傷ついた顔をする。
「母上まで!」
「お前が悪いよ、山城守」
その一刀で、熊はさらに小さくなった。
俺は、そこで初めて宗麟の方を見た。
大友左近衛少将は、疲れた顔のまま、しかし少しだけ羨ましそうでもあった。
家がここまで壊れてなお、叱れる妹と叱られる兄が残っている。
それは大友には、もうかなり薄くなってしまったものだ。
「治部大輔殿」
宗麟が静かに言った。
「何でしょう」
「九州とは、騒がしいところでございましょう」
「まあ、否定はしません」
「ええ。某も今、改めてよく分かりました」
その返しには、さすがに周囲も少しだけ空気を緩めた。
やがて、大和は静かに岸を離れた。
帆が風を掴む。
櫓の音が水へ落ちる。
瀬戸内へ向けて、船体がゆっくり角度を変えていく。
甲板の上には、九州の敗者と生存者と、これから秩序の内側へ編み込まれる連中が揃っていた。
大友左近衛少将宗麟。
龍造寺山城守隆信。
ほむら姫。
鍋島左衛門大夫直茂。
島津三郎左衛門尉義久。
左衛門督歳久。
右衛門佐昌久。
そして俺。
大坂で待つのは、上総介兄上と勘十郎兄上だ。
あの兄弟が、この連中をどう見るか。
ただの敗者としてではない。
使える者、残す者、削る者、見せしめにする者。
それぞれへ、きっと違う札を切る。
海風が少し冷たくなった。
「治部大輔殿」
ほむら姫が、また横から声をかけてくる。
「何だ」
「大坂に着けば、また採点ですか」
「場合による」
「厳しい」
「優しくしてほしいのか?」
「いえ」
そこで彼女は、ほんの少しだけ笑った。
「優しいあなたなど、たぶん気味が悪い」
「ひどいな」
「本当のことでしょう」
そこへ、隆信がまた何か言いかけた。
だが、ほむら姫が横目で一度見るだけで、熊は大人しくなった。
「すげえな、本当に」
俺がそう言うと、直茂が肩を竦める。
「ですから、いつものことでございます」
大和は、そのまま瀬戸内へ入っていく。
九州の戦は終わった。
だが、九州の後始末はまだ終わらない。
それでも今は、とりあえず一つの大きな火を消し、その火の主たちごと船へ積んで、大坂へ運んでいる。
その絵面だけでも、十分に時代が変わったことを示していた。
♢
夜の海は、昼より静かだった。
大和は、見た目こそ異様だが、走り出してしまえば案外落ち着いている。
腹が深いぶん揺れも殺す。
帆と櫓の噛み合いも悪くない。
何より、船そのものがまだ新しい。木の匂いと油の匂いが、海風に混ざって甲板へ流れてくる。
来客たちは、それぞれ別の静けさを纏っていた。
宗麟は、ようやく少しだけ眠れたらしい。
隆信は、不機嫌を引きずったままでも、船酔いまではしていない。
直茂は、最初から最後まで同じ顔で船内の出入りを見ている。
義久と歳久は話す量が少ない。
昌久だけは、相変わらず船そのものに興味があるのか、帆柱や綱の取り回しへ時折視線をやっていた。
俺は夜の甲板へ出て、海を見ていた。
そこへ、案の定というべきか、ほむら姫が来た。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「一人で黄昏れても絵にならぬ顔です」
「喧嘩売ってる?」
「半分ほど」
そう言って、ほむら姫は俺の隣へ来る。
もうそこに遠慮はない。
遠慮はないが、馴れ馴れしいとも少し違う。
敵でなくなった代わりに、距離の測り方が露骨になった、という方が近い。
「船、お気に召しましたか」
と俺。
「嫌いではありませぬ」
「褒めてる?」
「半分ほど」
「さっきから半分ばっかりだな」
「全部認めるのは癪ですので」
その返しに、俺は少し笑った。
しばらく、二人で海を見る。
九州はもう見えない。
闇の向こうだ。
あれだけ騒がしかった土地も、船に乗ってしまえば急に遠い。
「治部大輔殿」
「うん」
「島津の右衛門佐殿は、あなたをかなり高く見ました」
「だろうな。俺もあいつはかなり高く見てる」
「……そういうところです」
「何が」
「敵だった相手を、すぐ値踏みして棚へ並べる」
「だって並べるだろ、実際」
「腹が立ちます」
「でも否定はしないんだな」
「ええ」
ほむら姫は、そこで少しだけ口元を緩めた。
「否定できぬから腹が立つのです」
甲板の向こうで、誰かの足音がした。
見ると、昌久だった。
右衛門佐は、歩けぬ代わりに船内では介助を受けて移動する。
だがその顔には、負けた者特有の濁りが少ない。
悔しさはある。
だが悔しさより先に、もう次の展開を考えている顔だ。
「治部大輔殿」
「右衛門佐殿」
「ほむら姫」
ほむら姫も軽く会釈する。
「起きておられたか」
と俺。
「ええ。船の造りが、どうにも気になりまして」
「好きそうだもんな」
「嫌いではありませぬ」
「お前も半分かよ」
昌久の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑った、と言っていいかは怪しいが、少なくとも不機嫌ではない。
「一つ、伺っても」
「何を」
「鹿児島湾の砲撃。あれは最初から、城を落とすためではなかったのでしょう」
「うん」
「やはり」
「落とすだけなら、もっと別のやり方がある。あれは“続けられる”と見せるためだよ」
昌久は頷いた。
「ええ。だからこそ、折れました」
その言い方に、ほむら姫が横目を向ける。
「ご自分で折れた、と仰るのですね」
「そうです」
「もっと言いようがあるのでは」
「無駄です」
昌久は静かに言った。
「戦場での小さな勝ちは拾えました。あるいは今後も拾えたでしょう。ですが、盤自体の前提が変われば、それはもう勝ちではありませぬ」
「……」
「私はあの時、ようやく理解しました。自分が見ていたのは盤の中の安全筋であって、盤そのものを変える手までは、まだ想定の外に置いていたのだと」
そこまで言えるあたり、この男はやはり強い。
ほむら姫は少しだけ目を細めた。
「悔しくはありませぬか」
「悔しいですよ」
昌久は即答した。
「ですが、悔しさに意味を持たせるには、生き残らねばなりませぬ」
その返しに、今度はほむら姫も何も言えなかった。というより、確認の意味もあったのだろう。
俺は、二人を見た。
龍造寺の火。
島津の刃。
どっちも残った。
残ったから、こうして同じ甲板へいる。
「治部大輔殿」
と昌久。
「何だ」
「大坂へ着けば、我らは裁かれましょう」
「まあな」
「その時、私はどう扱われるとお思いです」
「正直に言っていい?」
「構いませぬ」
「上総介兄上は、お前を嫌う」
「でしょうね」
「でも、欲しがる」
昌久は黙った。
「嫌な頭脳だからな。しかも、自分で止まれる。そういうのは潰すより、鞘に入れて使った方がいい」
「なるほど」
「ただし」
俺は少しだけ肩を竦める。
「自由にはしてもらえないだろうな」
「それも当然です」
ほむら姫が、そこで口を挟む。
「私も同じですか」
「お前はもっと面倒だ」
「なぜ」
「前へ出るからだよ」
「褒めておられますか」
「褒めてる」
「珍しい」
「でもお前は、前へ出て兵を立てられる。しかも止める言葉も持ってる。そういう将は便利だけど、便利すぎて勝手にしてると怖い」
「……」
「だから欲しがるし、でも放しすぎない」
ほむら姫は少し黙ってから、ふっと笑った。
「なるほど。嫌な男です」
「まだ言うか」
「何度でも申します」
そこへ、また新しい足音が来た。
今度は宗麟だった。
大友左近衛少将は、昼より顔色が少し良い。
だが目の奥の疲れは消えていない。
消えるわけがない。
自分の家が、自分の弟に半ば食い潰され、その弟は今、大坂へ別送されている。
その現実は、ちょっと寝た程度で薄まるものではなかった。
「皆、夜に集まるものですな」
「左近衛少将殿」
「失礼でなければ、少し」
「どうぞ」
宗麟は、手すり近くへ立った。
しばらく海を見てから、静かに言う。
「私は、何を言えばよいのやら分からぬのです」
誰も急かさない。
「礼を言うべきか。詫びるべきか。弟を処断できなかった非を認めるべきか。家を壊した者として、ただ黙るべきか」
そのどれも、本心なのだろう。
だからこそまとまらない。
「全部でいいんじゃないですか」
俺がそう言うと、宗麟は少し目を瞬いた。
「全部、ですか」
「うん。礼も、詫びも、非も、黙るのも。全部本当なら、無理に一つへ絞らなくていい」
宗麟は、しばらくしてから苦く笑った。
「治部大輔殿は、妙な慰め方をなさる」
「慰めてるつもりはないですよ」
「でしょうな」
「でも、大坂で全部しゃべる気なら、その方が上総介兄上も勘十郎兄上も話を聞きやすい」
「……左様でしょうか」
「たぶん。変に立派ぶるより、よっぽど」
宗麟は、そこでようやく深く息を吐いた。
その息が、少し軽くなったように見えた。
翌朝。
甲板へ出ると、海はもう穏やかな青に変わっていた。
大和は、瀬戸内の流れへうまく乗っている。
船足も悪くない。
来客たちの距離も、少しずつ形になり始めていた。
義久と歳久は、直茂と短い言葉を交わしている。
昌久は船の話から、いつの間にか半兵衛と兵站の話へ移っていた。
宗麟は宗麟で、十兵衛に大坂での作法めいたことを確認している。
隆信だけは、まだ少し不機嫌だ。
そして、ほむら姫は相変わらず俺の近くにいる。
それを見た隆信が、また何か言い出しそうな顔をしたので、俺は先に言った。
「山城守殿」
「何だ」
「今日はまだハウスされたくないだろ」
隆信の顔が一瞬で険しくなる。
なるが、横からほむら姫が見る。
それだけで熊は黙る。
「……貴様な」
「ほら」
「何だその“ほら”は!」
「もう一回言われたい?」
「言われたくないわ!」
そのやり取りに、とうとう直茂が少しだけ笑った。
昌久まで口元をわずかに動かした。
歳久は完全に面白がっている。
義久だけが、あくまで重みを崩さぬまま、しかし微妙に肩の力を抜いた。
九州の火種たちを乗せた船は、そうして少しずつ、大坂へ向かう空気へ馴染み始めていた。
もちろん、本当の勝負はまだ先だ。
上総介兄上と勘十郎兄上の前で、誰がどこまで残され、どこまで使われ、どこを削られるか。
そこまでは決まっていない。
だが少なくとも、九州でただ切り捨てられる段は終わった。
俺は海の先を見ながら思う。
ここから先は、戦ではない。
もっと面倒で、もっと値踏みの多い“生き残り方”の段だ。
そしてその段こそ、たぶんこいつら全員、本番に近い。
「治部大輔殿」
と、ほむら姫。
「何かな」
「大坂へ着いたら」
「うん」
「私、七十点を目指します」
「いきなり?」
「五十では足りぬのでしょう」
「足りないな」
「では七十です」
その言い方が、妙に真っ直ぐで、俺は思わず笑った。
「分かったよ」
「何が」
「採点表、ちゃんと持ってく」
ほむら姫は、少しだけ目を細めた。
「……本当に嫌な男」
「今さらだろ」
大和は、そのまま東へ進む。
九州を後ろへ置き、大坂へ。
敗者も、勝者も、客将も、従属大名も、まだ名前の定まらぬ者たちも、全部まとめて運ぶ船だった。
♢
朝靄の向こうに、最初に見えたのは帆柱だった。
一本や二本じゃない。
港へ林立するそれは、漁や渡海のための船溜まりというより、海そのものを織田が手元へ引き寄せたみたいな景色だった。
大和の船首がゆっくり角度を変え、港へ向かっていく。
潮の匂いに混じって、煙と鉄の匂いが乗ってきた。
俺は、手すりへ肘を置いたまま、その先を見た。
来たな、と思う。
大坂港。
ただ船を着けるだけの浜じゃない。
かつて石山本願寺があったこの地を、上総介兄上と勘十郎兄上は、海と陸と戦と商いの結び目へ変えようとしている。
「……何だ、あれは」
最初に低く漏らしたのは、山城守だった。
三郎左衛門尉殿は、驚いても声を荒げない。
むしろ、抑えた声になる。
その方が、かえって重い。
左衛門督歳久も何も言わない。
だが目が止まっていた。
直茂も、いつもの無表情に近い顔のまま、港の並びと船渠の深さと、岸壁の人の動き方を見ている。
宗麟は、疲れた顔のままでも分かった。
あれは、呆れている。
「これが港、でございますか」
と宗麟が言った。
「港です」
「いや……」
左近衛少将殿は、そこでようやく言葉を探した。
「某の知る港とは、だいぶ違う」
違うだろうな、と思う。
岸には大規模な船着場が何本も突き出し、荷の積み下ろしはもう人足の腕力だけで回している規模じゃない。
滑車。
木組み。
倉。
荷駄。
人夫。
そして、その向こう。
工廠。
火縄銃の工房。
鍛冶屋。
材木置き場。
鉄の音と、槌の音と、焼けた匂い。
その間を、商人たちの店が縫うように並び、さらにその奥に、織田家臣団の屋敷が続く。
港。
工業地。
商人町。
武家地。
それがごちゃついているのではなく、一つの意志で並べられている。
山城守殿が、珍しく何も言わない。
いや、言えないと言った方が正しいか。
「……寺の跡地、だったな」
と、ようやく隆信が唸るように言った。
「ええ」
と俺は答えた。
「石山本願寺の跡です」
「坊主を追い払って、出来たのがこれか」
「追い払った、は少し雑ですが」
「雑で足りるか!」
そこは声が大きくなった。
だが怒鳴っているというより、規模に呑まれて出た音に近かった。
そして、そのさらに奥。
港の向こう、町並みの向こうに、それは立っていた。
最初に見えるのは、石垣だ。
高い。
しかも、ただ高いだけじゃない。
下から積み上がる圧がある。
さらに、その外を囲うように、広い総構えの堀が幾重にも走る。
「おい……」
と、今度は左衛門督歳久が言った。
「まだあるのか」
「ありますよ」
と俺は言う。
「港だけで終わると思いました?」
「思いたかった」
その返しに、俺は少し笑った。
だが、まだ本番はその先だった。
堀の向こうに、城郭が立ち上がっている。
白壁。
黒い瓦屋根。
金。
重なり合う出丸の屋根。
だが、その姿は、ただ巨大なだけの実用城ではない。
どこか天へ伸びる見せ方を知っている。
壮麗さがある。
それでいて、周りの総構えまで含めて見ると、ただの見世物でもない。
安土の華やかさと、大坂の総構え。
夢みたいな悪趣味を、力技で現実にしてしまったような城だった。
「……何だ、あれは」
と、今度は右衛門佐殿が言った。
昌久は、ここまでずっと盤面を見る顔を崩していなかった。
その男が、そこで初めて本当に言葉を失っていた。
「城です」
と俺。
「見れば分かる」
「では、何と呼べばいいのです」
「大坂城ですよ」
右衛門佐殿は、しばらく黙ったまま、その城を見ていた。
たぶん、脳のどこかで計算している。
石。
堀。
木。
人。
金。
工期。
そして、それを支える後背地。
その全部を回した時、どれだけの国力と意志が要るかを。
「……馬鹿げている」
と、ようやく昌久が言った。
「褒めてます?」
「半分ほどは」
「お前もか」
ほむら姫は、その横で本当に言葉を失っていた。
いや、驚いているだけじゃない。
あれはもっと別の沈黙だ。
目の前のものが、ただ巨大だとか豪華だとかいうだけでなく、**時代の速度そのものが違う**と察した時の顔だった。
「ほむら姫」
と俺が言う。
彼女はすぐには答えない。
ようやく、少し遅れて口を開いた。
「……やっぱり嫌な男です」
「俺?」
「あなた方、です」
「主語が大きいな」
「大きくもなります」
ほむら姫は、城から目を逸らさずに言った。
「港の規模だけでも十分に嫌らしい。工廠と工房と商人町と家臣屋敷が、あれほど自然に一つへ繋がっている。それだけで、戦をする国の作りではありませぬ」
「……」
「そのうえで、あの城。見せるための美と、守るための実が、両方ある」
「……」
「勝てる気が致しませぬ」
そこまで言わせると、さすがにかなり効いている。
右衛門佐殿も、そこで低く言った。
「勝てぬ、というより、もう」
彼は少しだけ首を振る。
「盤の前提が違う」
「そうだろうな」
と俺。
「薩摩や肥前で、必死に一国二国を鍛えている間に、こちらは海ごと呑んでいたわけか」
「ひどい言い方だな」
「ひどいのは、そちらです」
その返しに、直茂が初めて口を開いた。
「大坂は」
左衛門大夫は、港と城と町を順に見ながら言った。
「ただの本拠ではありませぬな」
「ああ」
「西国の入口であり、海の押さえであり、物の集まる腹でもある」
「……」
「ここを見せられて、なお“従属しただけ”と思う者はおるまい」
「いないでしょうね」
と俺は答えた。
「ここは、そういう場所です」
宗麟が、そこで本当に疲れたように笑った。
「大友が博多で見ていた夢を、もっと嫌らしく、もっと大きく、もっと容赦なく形にしたようなものですな」
その言葉は、重かった。
博多を知る男が言うからこそ重い。
商い。
港。
南蛮。
流れ。
それを知る大友家の当主が、「夢をもっと大きく、もっと嫌らしく」と認める。
それだけで、この場の大半は説明が済む。
山城守殿が、ようやく熊みたいな息を吐いた。
「……こんなもん見せられて、どうしろというのだ」
「腹を決めればいいんですよ」
と俺。
「簡単に言うな!」
「簡単じゃないから見せてるんです」
そこは、誰も笑わなかった。
笑えない類の本音だったからだ。
この城。
この港。
この町。
単なる威圧ではない。
これから先、織田公儀の下で世を回す時、何が中枢になるのか。
その答えの一つを、丸ごと目の前へ出している。
ほむら姫が、小さく言った。
「……時代の方が、先に来てしまったみたいです」
「そうかもな」
と俺は答える。
「本来なら、まだこうではなかったのでしょう」
「たぶん」
「それを」
ほむら姫は、そこで初めて俺を見た。
「あなた方は、無理やり今へ持ってきた」
「主語がまた大きいな」
「大きくなります」
と、今度の彼女は少し笑った。
「少なくとも、これは一人では出来ませぬ」
「ええ」
「上総介様も」
「勘十郎様も」
「そして、あなたも」
「……」
「嫌になるほど、噛み合っておられる」
右衛門佐殿が、その横で静かに頷いた。
「なるほど。薩摩で火を囲っておったつもりが、こちらではもう炉も鍛冶場も船渠も城も出来ていたわけだ」
「そういうことだ」
と俺。
大和は、ゆっくりと港へ入っていく。
岸ではすでに、人足も役人も兵も、こちらを迎える準備に入っている。
この一行が誰であるか、知らぬ者はいないだろう。
九州の火種。
敗者。
従属大名。
使われる者。
残される者。
そういう連中をまとめて、大坂へ運んできた。
その最初に見せる景色としては、たぶんこれ以上ない。
「治部大輔殿」
と、三郎左衛門尉義久が静かに言った。
「何でしょう」
「これは」
三郎左衛門尉殿は、城から目を離さずに続けた。
「城を見せておるのではありませぬな」
「……」
「国を見せておる」
そこは、さすがに少し感心した。
「そうかもしれません」
と俺は言う。
「少なくとも、ただの城ではないです」
義久は、それ以上何も言わなかった。
だが、その沈黙は重かった。
城。
港。
工廠。
工房。
鍛冶屋。
商人町。
家臣屋敷。
それら全部が、城下ではなく、一つの機構として動いている。
宗麟は羨みを。
直茂は機能を。
義久は国を。
歳久は異様さを。
山城守殿は圧を。
そして、ほむら姫と右衛門佐殿は、時代の前倒しそのものを見た。
それだけ見え方が違うのに、全員が同じように言葉を失っている。
そこが、むしろ面白かった。
やがて、大和の腹が岸へ寄る。
綱が投げられ、人足が駆け、港の音が一気に近づいた。
大坂に着いた。
ただそれだけのはずなのに、九州勢にとっては、たぶんここで二度目の敗北を喫したようなものだった。
戦で負けた。
そして今、国力の形でも負けを見せつけられた。
「さて」
と俺は言った。
「降りましょうか」
誰もすぐには動かなかった。
それほどまでに、目の前の景色が重かったのだ。
♢
大坂へ着いてから、俺はすぐ城へは入れなかった。
いや、正確には入れた。
入れたが、あえてそうしなかった。
宗麟も、山城守殿も、左衛門大夫も、三郎左衛門尉義久も左衛門督歳久も右衛門佐殿も、海から上がっていきなり上総介兄上と勘十郎兄上の前へ出すには、さすがに塩と潮風と九州の疲れをまといすぎている。
ほむら姫と慶誾尼様も同じだ。
だからまず、港から少し奥へ入ったところに用意してある迎賓館へ通した。
迎賓館といっても、ただの客館じゃない。
木と石と白壁で整えた、半ば離宮めいた造りだ。
海からの客を受けるための屋敷らしく、玄関は広く、奥は静かで、部屋ごとに風の抜け方が違う。
庭もある。
湯殿もある。
台所は別に切ってあって、客の数が増えても匂いが奥へこもらない。
宗麟が、部屋へ通されて最初に呟いた。
「……まだあるのですか」
「何がです」
と俺。
「大坂港と、あの城を見せられたあとで、まだ客を休ませる余裕まであるのかと」
「ありますよ。織田を何だと思っておられるのです」
それには、宗麟は疲れた顔のまま少しだけ笑った。
「恐ろしい家だと、改めて思っております」
「それはどうも」
山城守殿は、そういう軽口を言う余裕すらない顔で、部屋の柱や天井や庭先の灯りまで見ていた。
左衛門大夫は、最初から最後まで無表情に近いが、ああいう男が無言になる時は、だいたい見積もりが忙しい時だ。
三郎左衛門尉義久と左衛門督歳久は、あくまで崩れない。
だが崩れないまま、屋敷そのものの作りと、出入りする人間の数と、無駄の無さを見ていた。
右衛門佐昌久は、湯殿への動線を見た時点で、たぶんもう半分察していたらしい。
「治部大輔殿」
と、右衛門佐殿。
「何でしょう」
「まだ何かありますな」
「勘がいいな」
「嫌になります」
俺は少し笑ってから、言った。
「まずは風呂です」
そこは、さすがに全員少し止まった。
「風呂」
と三郎左衛門尉義久。
「ええ」
「しかも、ちょっとした湯殿ではありません。大坂の客を受けるなら、それなりのものが要るので」
「それなり」
と左衛門督歳久が低く言う。
「その言い方で済む気が致しませぬな」
「まあ、見て下さい」
通した先は、迎賓館のさらに奥だった。
最初は石垣が見える。
次に、湯気。
その向こうに、岩。
木。
そして、音。
湯が落ちる音だ。
天然の湯脈を引いた露天風呂は、もはや「風呂」というより、一つの池だった。
広い。
しかもただ広いだけじゃない。
岩組みが何段かに切ってあって、浸かる場所、座る場所、半身だけ入る場所まで自然に分かれている。
湯気の向こうには庭木と石灯籠。
さらにその向こうには、塀の上から空が抜ける。
山城守殿が、とうとう本音で言った。
「……敗軍の将に、ここまでしていいのか」
その問いは、珍しく素直だった。
怒鳴りでも、虚勢でもない。
本当にそう思った声だ。
俺は、湯へ足を入れながら答える。
「まあ、次がある方も、難波の露と消えてしまうかもしれない方も、今は同じく九州から初めてこちらにいらしたわけですし」
「それに」
「上総介兄上、勘十郎兄上にお会い頂くのですから、身を清めて頂くのは当然です。それとまあ、ついでに風呂入っちゃおうってわけでして」
「ついで、で済むものか」
と山城守殿。
「済まないですかね」
「済まぬわ!」
そこは熊みたいな声だったが、前ほど荒れてはいない。
湯気のせいか、大坂の圧に少し削がれたのか、その両方か。
宗麟は、湯へ肩まで浸かって、ようやく人心地ついた顔をしている。
左衛門大夫は、隅の方で無言。
だが、こういう男が静かな時は、だいたい気に入っている。
三郎左衛門尉義久は湯へ入っても姿勢がいい。
左衛門督歳久は岩へ背を預け、目だけで周囲を見ている。
右衛門佐昌久は、足のこともあるから浅い側へ案内してあるが、それでも目が明らかに楽になっていた。
「ほむらはどこだ、治部大輔」
山城守殿が、急に思い出したように聞いてくる。
「ほむら姫と慶誾尼様なら、女房つきで反対側にある岩風呂へ入ってもらってますよ。本当は家族で入るのにちょうどいい規模です」
そこまで言ってから、俺は少しだけ肩を竦めた。
「家族」
と左衛門大夫が、珍しくその一語だけ口にする。
「ええ。家族正室一名、側室六名、子供十人以上でも何とかなるくらいの広さです。将来を見据えてますんで」
宗麟が吹いた。
三郎左衛門尉義久もさすがに目を伏せた。
左衛門督歳久は、湯気の向こうで肩を震わせている。
右衛門佐昌久に至っては、とうとう口元を隠した。
「おい」
と山城守殿。
「何だ、その将来を見据えた規模というのは」
「いや、家って人が増えるでしょう」
「増えるが!」
「増えるなら、最初から大きい方が後で楽なんですよ。治部家は、風呂一つでも実務で考える家なので」
「嫌な実務ですな」
と左衛門督歳久。
「褒めてます?」
「半分ほどは」
そこは、ようやく少し笑いが出た。
湯というのは不思議なもので、さっきまで大坂港と大坂城に圧されて言葉を失っていた連中が、こうして同じ湯へ浸かると、少しだけ人間に戻る。
敗者だとか、従属だとか、そういう札が一瞬だけ薄くなる。
薄くなったところで、かえって本音が出る。
「……しかし」
と、宗麟が言った。
「ここまでされると、もはや大友も龍造寺も島津も、ただ捕らわれて運ばれてきたとは申せませぬな」
「でしょうね」
と俺。
「捕らえてはいますが、雑に扱う気はない。残すなら、使える形で残したい。その前に、まずは汚れを落としてもらう。それだけです」
「それだけ、か」
と三郎左衛門尉義久。少しだけ考えてから続けた。
「戦に勝つだけでなく、敗れた側へ、どこまでの器を見せるか」
「……」
「それもまた、勝ち方ということでしょうな」
「そう思って頂けるなら何よりです」
山城守殿は、まだ少し不満そうだった。
だが、その不満ももう怒りではなく、居心地の悪さに近い。
「治部大輔」
「何でしょう」
「こんな風にされると、怒るにも怒れぬ」
「怒らなくていいんですよ」
「それが嫌なのだ!」
そこは、さすがに全員が少し笑った。
左衛門大夫が、低く言う。
「山城守殿」
「何だ」
「怒っても、たぶんこの男は困りませぬ」
「分かっておる!」
「分かっておるが、腹が立つのだ!」
「素直でよろしい」
と俺が言うと、山城守殿が湯を飛ばしそうな勢いで睨んできた。
「貴様、本当に嫌な男だな!」
「よく言われます」
右衛門佐殿が、そこでようやく口を開いた。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「この風呂も、港や城と同じですな」
「と、言いますと」
「戦のためのものに見えて、そうではない」
「客を休ませる、降った者の気を解く、織田の器を見せる」
「……」
「そして、結局は相手の腹を削る」
「ひどい言い方だな」
と俺は笑った。
「でも、だいたい合ってます」
「でしょうとも」
右衛門佐殿はそう言って、湯へ肩まで沈んだ。
湯気の向こう、塀の向こうでは、たぶん反対側の岩風呂で、ほむら姫と慶誾尼様が同じように大坂の湯へ浸かっている。
女房つきで、家族で入るのにちょうどいい規模の方へ通してある。
あっちもあっちで、たぶん感想は色々あるだろう。
「……貴様は」
と、山城守殿が不意に呟いた。
「絶対に、勝手に覗きへ行くなよ」
「行きませんよ」
と俺。
「本当か」
「本当です」
「今の間は何だ」
「いや、山城守殿、あなた本当に妹のことになると」
「何だ!」
「面白いなって」
「面白くないわ!」
また少し笑いが出た。
大坂港での二度目の敗北。
大坂城を見た時の沈黙。
それに比べれば、この迎賓館の大露天風呂は、少しだけ優しい。
だが、優しいからこそ効く。
織田は、ただ斬るだけではない。
ただ圧すだけでもない。
こうして湯まで用意して、負けた側へ「まだ居場所はあるかもしれぬ」と思わせてくる。
それが、たぶん一番厄介なのだ。
俺は湯の中で足を伸ばしながら、小さく息を吐いた。
「さて、身も清まりましたし、次はいよいよ、お待ちかねの織田上総介兄上ですよ」
その一言で、湯の空気がまた少しだけ締まった。
どれだけ寛いでも、そこだけは別だ。
けれど、その前に少しでも身体を緩められたのなら、この風呂の意味はあったと思う。