織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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064九州から帰還

大友新次郎鎮鑑が、とうとう捕まったという報せは、夕方になって届いた。

 

臼杵から船で逃げようとしたところを、志賀だの佐伯だの、あちらの家老や国人連中に裏切られたらしい。

十重二十重に縄を打たれ、ぐるぐる巻きのまま引きずり出されたと聞いて、さすがに俺も少しだけ呆れた。

 

「最後まで、人望が無いな」

 

そう呟くと、官兵衛が静かに頷いた。

 

「逃がして後日また使うより、今ここで差し出した方が、己らの値段が上がると見たのでしょう」

「うん。正しい判断だよ」

「大友左近衛少将の旧臣筋も、新次郎鎮鑑一派と沈む気はなかったのでしょうな」

 

その新次郎鎮鑑は、戸次伯耆守と吉弘弥七郎が、捕らえた連中ごと押さえて大坂へ向かわせているはずだった。

 

つまり、九州の火種でまだ形を持っている連中は、だいたい一つ所へ集まりつつある。

 

龍造寺山城守隆信。

ほむら姫。

鍋島左衛門大夫直茂。

大友左近衛少将宗麟。

島津五兄弟からは、三郎左衛門尉義久、左衛門督歳久、右衛門佐昌久。

 

そして俺たち。

 

各地の国人領主への対処や残務処理は、刑部率いる織田軍本体がそのまま残ってやる。

俺たちは、いわば“来客”を連れて先に帰る役だった。

 

そのための船が、湾に浮いていた。

 

和風ガレオン船大和型一番艦「大和」。まあ、これは特異点たちに対する解りやすいサインともいえる。この名前の船に反応し、そして、この時代ではオーパーツとは言わないにしろ、かなり時代を先取りした和風ガレオン船に、あえて逆らう奴がいるかどうか。

もう、ここまで来たらある意味隠せないので、俺はある意味開き直ったともいえる。ほむら姫にあんなことを言っておいて、自分はどうなんだって話だが。

 

二番艦は「武蔵」で、三番艦は「信濃」と名付けた。

 

いや、尾張や美濃や近江でも良かったんだが、まあ、あれだ。日本人の魂って奴だよ。

 

初めて見た時も思ったが、やっぱり妙な船だ。

和の意匠と南蛮由来の腹が、一つの無理筋として成り立っている。

だが、戦場であれだけ嫌らしく効いたあとでは、もう誰もその異様さを笑えない。

 

乗船の場は、妙に静かだった。

 

負けた者。

降った者。

残った者。

使われる側へ回った者。

それぞれ立場は違うが、誰も軽口を叩ける空気ではない。

 

宗麟は、痩せて見えた。

幽閉されていた間の衰えもあるのだろうが、それ以上に“家がここまでねじれた”疲れが顔に出ている。

三郎左衛門尉義久は重い。

左衛門督歳久は静か。

右衛門佐昌久は、船そのものの構造と帆の取り回しを見ている。

ああいう男は、どんな時でもまず盤面を見る。

 

そして隆信は、いかにも隆信らしく不機嫌だった。

 

その理由の半分ぐらいは、たぶん戦の負けそのものではない。

 

「治部大輔殿」

 

ほむら姫が、いつのまにかまた俺のすぐ横にいた。

 

「何でしょう」

「この船、やはり気に入りませぬ」

「気に入らないのかよ」

「戦に使うには、あまりに嫌らしい」

「褒めてる?」

「半分ほどは」

 

そう言って、ほむら姫は本当に当然のような顔で俺の傍から離れない。

 

いや、離れないどころではない。

島津討伐が終わったあの夜に契ったあとから、もう露骨にこの距離感だ。

一線を越えて気が変わった、というより、越えたからこそ変に隠さなくなった類の厄介さだった。

 

直茂ですら、もう止める気が薄い。

慶誾尼に至っては、半分呆れ、半分面白がっている顔で見ている。

 

だが、面白がれない男が一人いた。

 

山城守隆信である。

 

最初は黙っていた。

というより、黙って耐えていた。

船へ乗る。

着座する。

宗麟や島津勢と顔を合わせる。

そこまでは一応、山城守としての面子で持たせていた。

 

だが、ほむら姫が俺の隣に腰を下ろし、しかも何のためらいもなく俺の腕へ身体を預けた瞬間、とうとう限界が来た。

 

「おい治部大輔!」

 

声が、もう熊だった。

 

ただ大きいだけではない。

あれは本気で怒っている父熊の声だ。

義久も歳久も、わずかに目を向けた。

宗麟など、驚きより先に疲れたような顔になっている。

 

「何でしょう、山城守殿」

 

俺は、わりと平然と返した。

 

「何でしょう、ではないわ!」

 

隆信が立ち上がる。

本当にヒグマみたいな迫力だった。

一歩踏み出せば、そのまま甲板ごと抜けそうな勢いがある。

 

「貴様、うちの姫を何だと思うておる!」

「何だと、って」

「ぬかせ!」

「いや、聞かれたから答えようとしてるんだが」

「ぬかすな!」

 

完全に熊である。

しかも、かなり面倒な時の熊だ。

 

直茂が小さく目を閉じた。

昌久は、ほんの少しだけ面白そうな顔をしている。

義久は黙っているが、目つきだけは厳しい。

歳久は、これはどこまで放置すべきか測っている。

宗麟は、逆にこの程度で済むならまだ平和だと言いたげな顔だった。

 

そして、その熊を止めたのは、案の定ほむら姫だった。

 

「兄上」

 

一言。

 

だが、その一言に隆信がまだ止まらぬうちに、ほむら姫は続ける。

 

「ハウス」

 

甲板の空気が、一瞬で止まった。

 

山城守も止まった。

本当にぴたりと止まった。

 

それがあまりにも見事で、慶次郎が吹き出しかけて口元を押さえ、直茂は遠い目をし、歳久の口元がごくわずかに動いた。

宗麟に至っては、初めて少しだけ生気のある表情になった。

 

山城守は、怒っている。

怒っているが、止まっている。

 

「……ほむら」

「座って下さい」

「だが」

「座って下さい」

 

二度目は、完全に将の声だった。

 

龍造寺軍一万五千を動かし、島津戦でも一軍を率いた女の声。

熊だろうが何だろうが、兵を従える側の声には逆らえない。

 

山城守は、ぐう、と喉の奥で鳴らした。

だが、そのまま大人しく座った。

 

本当に、座った。

 

「すごいな」

 

俺が思わずそう漏らすと、直茂が低く返した。

 

「いつものことにございます」

「そうなの?」

「はい」

「山城守殿、家ではこうなのか」

「家でも外でも、大体こうでございます」

 

それには、さすがに俺も笑った。

 

ほむら姫は、そんな周囲の反応など気にも留めず、隆信へ向き直る。

 

「兄上」

「……何だ」

「今は大坂へ向かう船上です」

「分かっておる」

「ならば、龍造寺の面子を潰すのはおやめ下さい」

「誰が潰した!」

「今まさに兄上が潰しかけました」

 

それには、義久ですらほんの少しだけ目を伏せた。

歳久は、もう笑いを堪えているのか何なのか分からない顔だ。

昌久だけは、淡々とこの兄妹を観察している。

 

「……治部大輔殿」

 

と、昌久。

 

「何でしょう、右衛門佐殿」

「お察しの通り、かのご兄妹はこういう具合です」

「見れば分かるよ」

「そうでしょうとも」

 

そこに、慶誾尼がようやく口を挟んだ。

 

「まったく、お前らは」

呆れたような、だが少し楽しそうな声だった。

「島津も大友もおる前で、家の中を丸出しにしてどうするんだい」

 

「母上」

と、ほむら姫。

「兄上が悪いのです」

 

「それはそうだね」

 

慶誾尼は、あっさり頷いた。

隆信が、少しだけ傷ついた顔をする。

 

「母上まで!」

「お前が悪いよ、山城守」

 

その一刀で、熊はさらに小さくなった。

 

俺は、そこで初めて宗麟の方を見た。

大友左近衛少将は、疲れた顔のまま、しかし少しだけ羨ましそうでもあった。

家がここまで壊れてなお、叱れる妹と叱られる兄が残っている。

それは大友には、もうかなり薄くなってしまったものだ。

 

「治部大輔殿」

 

宗麟が静かに言った。

 

「何でしょう」

「九州とは、騒がしいところでございましょう」

「まあ、否定はしません」

「ええ。某も今、改めてよく分かりました」

 

その返しには、さすがに周囲も少しだけ空気を緩めた。

 

やがて、大和は静かに岸を離れた。

 

帆が風を掴む。

櫓の音が水へ落ちる。

瀬戸内へ向けて、船体がゆっくり角度を変えていく。

 

甲板の上には、九州の敗者と生存者と、これから秩序の内側へ編み込まれる連中が揃っていた。

 

大友左近衛少将宗麟。

龍造寺山城守隆信。

ほむら姫。

鍋島左衛門大夫直茂。

島津三郎左衛門尉義久。

左衛門督歳久。

右衛門佐昌久。

 

そして俺。

 

大坂で待つのは、上総介兄上と勘十郎兄上だ。

あの兄弟が、この連中をどう見るか。

ただの敗者としてではない。

使える者、残す者、削る者、見せしめにする者。

それぞれへ、きっと違う札を切る。

 

海風が少し冷たくなった。

 

「治部大輔殿」

 

ほむら姫が、また横から声をかけてくる。

 

「何だ」

「大坂に着けば、また採点ですか」

「場合による」

「厳しい」

「優しくしてほしいのか?」

 

「いえ」

そこで彼女は、ほんの少しだけ笑った。

「優しいあなたなど、たぶん気味が悪い」

 

「ひどいな」

「本当のことでしょう」

 

そこへ、隆信がまた何か言いかけた。

だが、ほむら姫が横目で一度見るだけで、熊は大人しくなった。

 

「すげえな、本当に」

 

俺がそう言うと、直茂が肩を竦める。

 

「ですから、いつものことでございます」

 

大和は、そのまま瀬戸内へ入っていく。

 

九州の戦は終わった。

だが、九州の後始末はまだ終わらない。

それでも今は、とりあえず一つの大きな火を消し、その火の主たちごと船へ積んで、大坂へ運んでいる。

 

その絵面だけでも、十分に時代が変わったことを示していた。

 

 

夜の海は、昼より静かだった。

 

大和は、見た目こそ異様だが、走り出してしまえば案外落ち着いている。

腹が深いぶん揺れも殺す。

帆と櫓の噛み合いも悪くない。

何より、船そのものがまだ新しい。木の匂いと油の匂いが、海風に混ざって甲板へ流れてくる。

 

来客たちは、それぞれ別の静けさを纏っていた。

 

宗麟は、ようやく少しだけ眠れたらしい。

隆信は、不機嫌を引きずったままでも、船酔いまではしていない。

直茂は、最初から最後まで同じ顔で船内の出入りを見ている。

義久と歳久は話す量が少ない。

昌久だけは、相変わらず船そのものに興味があるのか、帆柱や綱の取り回しへ時折視線をやっていた。

 

俺は夜の甲板へ出て、海を見ていた。

 

そこへ、案の定というべきか、ほむら姫が来た。

 

「治部大輔殿」

「何でしょう」

「一人で黄昏れても絵にならぬ顔です」

「喧嘩売ってる?」

「半分ほど」

 

そう言って、ほむら姫は俺の隣へ来る。

もうそこに遠慮はない。

遠慮はないが、馴れ馴れしいとも少し違う。

敵でなくなった代わりに、距離の測り方が露骨になった、という方が近い。

 

「船、お気に召しましたか」

 

と俺。

 

「嫌いではありませぬ」

「褒めてる?」

「半分ほど」

「さっきから半分ばっかりだな」

「全部認めるのは癪ですので」

 

その返しに、俺は少し笑った。

 

しばらく、二人で海を見る。

九州はもう見えない。

闇の向こうだ。

あれだけ騒がしかった土地も、船に乗ってしまえば急に遠い。

 

「治部大輔殿」

「うん」

「島津の右衛門佐殿は、あなたをかなり高く見ました」

「だろうな。俺もあいつはかなり高く見てる」

「……そういうところです」

「何が」

「敵だった相手を、すぐ値踏みして棚へ並べる」

「だって並べるだろ、実際」

「腹が立ちます」

「でも否定はしないんだな」

「ええ」

 

ほむら姫は、そこで少しだけ口元を緩めた。

 

「否定できぬから腹が立つのです」

 

甲板の向こうで、誰かの足音がした。

見ると、昌久だった。

 

右衛門佐は、歩けぬ代わりに船内では介助を受けて移動する。

だがその顔には、負けた者特有の濁りが少ない。

悔しさはある。

だが悔しさより先に、もう次の展開を考えている顔だ。

 

「治部大輔殿」

「右衛門佐殿」

「ほむら姫」

 

ほむら姫も軽く会釈する。

 

「起きておられたか」

 

と俺。

 

「ええ。船の造りが、どうにも気になりまして」

「好きそうだもんな」

「嫌いではありませぬ」

「お前も半分かよ」

 

昌久の口元が、ほんの少しだけ動いた。

笑った、と言っていいかは怪しいが、少なくとも不機嫌ではない。

 

「一つ、伺っても」

「何を」

「鹿児島湾の砲撃。あれは最初から、城を落とすためではなかったのでしょう」

「うん」

「やはり」

「落とすだけなら、もっと別のやり方がある。あれは“続けられる”と見せるためだよ」

 

昌久は頷いた。

 

「ええ。だからこそ、折れました」

 

その言い方に、ほむら姫が横目を向ける。

 

「ご自分で折れた、と仰るのですね」

「そうです」

「もっと言いようがあるのでは」

 

「無駄です」

昌久は静かに言った。

「戦場での小さな勝ちは拾えました。あるいは今後も拾えたでしょう。ですが、盤自体の前提が変われば、それはもう勝ちではありませぬ」

 

「……」

「私はあの時、ようやく理解しました。自分が見ていたのは盤の中の安全筋であって、盤そのものを変える手までは、まだ想定の外に置いていたのだと」

 

そこまで言えるあたり、この男はやはり強い。

 

ほむら姫は少しだけ目を細めた。

 

「悔しくはありませぬか」

 

「悔しいですよ」

昌久は即答した。

「ですが、悔しさに意味を持たせるには、生き残らねばなりませぬ」

 

その返しに、今度はほむら姫も何も言えなかった。というより、確認の意味もあったのだろう。

 

俺は、二人を見た。

 

龍造寺の火。

島津の刃。

どっちも残った。

残ったから、こうして同じ甲板へいる。

 

「治部大輔殿」

 

と昌久。

 

「何だ」

「大坂へ着けば、我らは裁かれましょう」

「まあな」

「その時、私はどう扱われるとお思いです」

「正直に言っていい?」

「構いませぬ」

「上総介兄上は、お前を嫌う」

「でしょうね」

「でも、欲しがる」

 

昌久は黙った。

 

「嫌な頭脳だからな。しかも、自分で止まれる。そういうのは潰すより、鞘に入れて使った方がいい」

「なるほど」

 

「ただし」

俺は少しだけ肩を竦める。

「自由にはしてもらえないだろうな」

 

「それも当然です」

 

ほむら姫が、そこで口を挟む。

 

「私も同じですか」

「お前はもっと面倒だ」

「なぜ」

「前へ出るからだよ」

「褒めておられますか」

「褒めてる」

「珍しい」

「でもお前は、前へ出て兵を立てられる。しかも止める言葉も持ってる。そういう将は便利だけど、便利すぎて勝手にしてると怖い」

「……」

「だから欲しがるし、でも放しすぎない」

 

ほむら姫は少し黙ってから、ふっと笑った。

 

「なるほど。嫌な男です」

「まだ言うか」

「何度でも申します」

 

そこへ、また新しい足音が来た。

 

今度は宗麟だった。

 

大友左近衛少将は、昼より顔色が少し良い。

だが目の奥の疲れは消えていない。

消えるわけがない。

自分の家が、自分の弟に半ば食い潰され、その弟は今、大坂へ別送されている。

その現実は、ちょっと寝た程度で薄まるものではなかった。

 

「皆、夜に集まるものですな」

「左近衛少将殿」

「失礼でなければ、少し」

「どうぞ」

 

宗麟は、手すり近くへ立った。

 

しばらく海を見てから、静かに言う。

 

「私は、何を言えばよいのやら分からぬのです」

 

誰も急かさない。

 

「礼を言うべきか。詫びるべきか。弟を処断できなかった非を認めるべきか。家を壊した者として、ただ黙るべきか」

 

そのどれも、本心なのだろう。

だからこそまとまらない。

 

「全部でいいんじゃないですか」

 

俺がそう言うと、宗麟は少し目を瞬いた。

 

「全部、ですか」

「うん。礼も、詫びも、非も、黙るのも。全部本当なら、無理に一つへ絞らなくていい」

 

宗麟は、しばらくしてから苦く笑った。

 

「治部大輔殿は、妙な慰め方をなさる」

「慰めてるつもりはないですよ」

「でしょうな」

「でも、大坂で全部しゃべる気なら、その方が上総介兄上も勘十郎兄上も話を聞きやすい」

「……左様でしょうか」

「たぶん。変に立派ぶるより、よっぽど」

 

宗麟は、そこでようやく深く息を吐いた。

 

その息が、少し軽くなったように見えた。

 

翌朝。

 

甲板へ出ると、海はもう穏やかな青に変わっていた。

大和は、瀬戸内の流れへうまく乗っている。

船足も悪くない。

 

来客たちの距離も、少しずつ形になり始めていた。

 

義久と歳久は、直茂と短い言葉を交わしている。

昌久は船の話から、いつの間にか半兵衛と兵站の話へ移っていた。

宗麟は宗麟で、十兵衛に大坂での作法めいたことを確認している。

隆信だけは、まだ少し不機嫌だ。

 

そして、ほむら姫は相変わらず俺の近くにいる。

 

それを見た隆信が、また何か言い出しそうな顔をしたので、俺は先に言った。

 

「山城守殿」

「何だ」

「今日はまだハウスされたくないだろ」

 

隆信の顔が一瞬で険しくなる。

なるが、横からほむら姫が見る。

それだけで熊は黙る。

 

「……貴様な」

「ほら」

「何だその“ほら”は!」

「もう一回言われたい?」

「言われたくないわ!」

 

そのやり取りに、とうとう直茂が少しだけ笑った。

昌久まで口元をわずかに動かした。

歳久は完全に面白がっている。

義久だけが、あくまで重みを崩さぬまま、しかし微妙に肩の力を抜いた。

 

九州の火種たちを乗せた船は、そうして少しずつ、大坂へ向かう空気へ馴染み始めていた。

 

もちろん、本当の勝負はまだ先だ。

上総介兄上と勘十郎兄上の前で、誰がどこまで残され、どこまで使われ、どこを削られるか。

そこまでは決まっていない。

 

だが少なくとも、九州でただ切り捨てられる段は終わった。

 

俺は海の先を見ながら思う。

 

ここから先は、戦ではない。

もっと面倒で、もっと値踏みの多い“生き残り方”の段だ。

 

そしてその段こそ、たぶんこいつら全員、本番に近い。

 

「治部大輔殿」

 

と、ほむら姫。

 

「何かな」

「大坂へ着いたら」

「うん」

「私、七十点を目指します」

「いきなり?」

「五十では足りぬのでしょう」

「足りないな」

「では七十です」

 

その言い方が、妙に真っ直ぐで、俺は思わず笑った。

 

「分かったよ」

「何が」

「採点表、ちゃんと持ってく」

 

ほむら姫は、少しだけ目を細めた。

 

「……本当に嫌な男」

「今さらだろ」

 

大和は、そのまま東へ進む。

 

九州を後ろへ置き、大坂へ。

敗者も、勝者も、客将も、従属大名も、まだ名前の定まらぬ者たちも、全部まとめて運ぶ船だった。

 

 

朝靄の向こうに、最初に見えたのは帆柱だった。

 

一本や二本じゃない。

港へ林立するそれは、漁や渡海のための船溜まりというより、海そのものを織田が手元へ引き寄せたみたいな景色だった。

 

大和の船首がゆっくり角度を変え、港へ向かっていく。

潮の匂いに混じって、煙と鉄の匂いが乗ってきた。

 

俺は、手すりへ肘を置いたまま、その先を見た。

来たな、と思う。

 

大坂港。

ただ船を着けるだけの浜じゃない。

かつて石山本願寺があったこの地を、上総介兄上と勘十郎兄上は、海と陸と戦と商いの結び目へ変えようとしている。

 

「……何だ、あれは」

 

最初に低く漏らしたのは、山城守だった。

 

三郎左衛門尉殿は、驚いても声を荒げない。

むしろ、抑えた声になる。

その方が、かえって重い。

 

左衛門督歳久も何も言わない。

だが目が止まっていた。

直茂も、いつもの無表情に近い顔のまま、港の並びと船渠の深さと、岸壁の人の動き方を見ている。

 

宗麟は、疲れた顔のままでも分かった。

あれは、呆れている。

 

「これが港、でございますか」

と宗麟が言った。

 

「港です」

 

「いや……」

左近衛少将殿は、そこでようやく言葉を探した。

「某の知る港とは、だいぶ違う」

 

違うだろうな、と思う。

 

岸には大規模な船着場が何本も突き出し、荷の積み下ろしはもう人足の腕力だけで回している規模じゃない。

滑車。

木組み。

倉。

荷駄。

人夫。

そして、その向こう。

 

工廠。

火縄銃の工房。

鍛冶屋。

材木置き場。

鉄の音と、槌の音と、焼けた匂い。

その間を、商人たちの店が縫うように並び、さらにその奥に、織田家臣団の屋敷が続く。

 

港。

工業地。

商人町。

武家地。

それがごちゃついているのではなく、一つの意志で並べられている。

 

山城守殿が、珍しく何も言わない。

いや、言えないと言った方が正しいか。

 

「……寺の跡地、だったな」

と、ようやく隆信が唸るように言った。

 

「ええ」

と俺は答えた。

「石山本願寺の跡です」

 

「坊主を追い払って、出来たのがこれか」

「追い払った、は少し雑ですが」

「雑で足りるか!」

 

そこは声が大きくなった。

だが怒鳴っているというより、規模に呑まれて出た音に近かった。

 

そして、そのさらに奥。

港の向こう、町並みの向こうに、それは立っていた。

 

最初に見えるのは、石垣だ。

高い。

しかも、ただ高いだけじゃない。

下から積み上がる圧がある。

さらに、その外を囲うように、広い総構えの堀が幾重にも走る。

 

「おい……」

と、今度は左衛門督歳久が言った。

「まだあるのか」

 

「ありますよ」

と俺は言う。

「港だけで終わると思いました?」

 

「思いたかった」

 

その返しに、俺は少し笑った。

 

だが、まだ本番はその先だった。

 

堀の向こうに、城郭が立ち上がっている。

白壁。

黒い瓦屋根。

金。

重なり合う出丸の屋根。

だが、その姿は、ただ巨大なだけの実用城ではない。

どこか天へ伸びる見せ方を知っている。

壮麗さがある。

それでいて、周りの総構えまで含めて見ると、ただの見世物でもない。

 

安土の華やかさと、大坂の総構え。

夢みたいな悪趣味を、力技で現実にしてしまったような城だった。

 

「……何だ、あれは」

と、今度は右衛門佐殿が言った。

 

昌久は、ここまでずっと盤面を見る顔を崩していなかった。

その男が、そこで初めて本当に言葉を失っていた。

 

「城です」

と俺。

 

「見れば分かる」

「では、何と呼べばいいのです」

「大坂城ですよ」

 

右衛門佐殿は、しばらく黙ったまま、その城を見ていた。

たぶん、脳のどこかで計算している。

石。

堀。

木。

人。

金。

工期。

そして、それを支える後背地。

 

その全部を回した時、どれだけの国力と意志が要るかを。

 

「……馬鹿げている」

と、ようやく昌久が言った。

 

「褒めてます?」

「半分ほどは」

「お前もか」

 

ほむら姫は、その横で本当に言葉を失っていた。

 

いや、驚いているだけじゃない。

あれはもっと別の沈黙だ。

目の前のものが、ただ巨大だとか豪華だとかいうだけでなく、**時代の速度そのものが違う**と察した時の顔だった。

 

「ほむら姫」

と俺が言う。

 

彼女はすぐには答えない。

ようやく、少し遅れて口を開いた。

 

「……やっぱり嫌な男です」

「俺?」

「あなた方、です」

「主語が大きいな」

 

「大きくもなります」

ほむら姫は、城から目を逸らさずに言った。

「港の規模だけでも十分に嫌らしい。工廠と工房と商人町と家臣屋敷が、あれほど自然に一つへ繋がっている。それだけで、戦をする国の作りではありませぬ」

「……」

「そのうえで、あの城。見せるための美と、守るための実が、両方ある」

「……」

「勝てる気が致しませぬ」

 

そこまで言わせると、さすがにかなり効いている。

 

右衛門佐殿も、そこで低く言った。

 

「勝てぬ、というより、もう」

彼は少しだけ首を振る。

「盤の前提が違う」

 

「そうだろうな」

と俺。

 

「薩摩や肥前で、必死に一国二国を鍛えている間に、こちらは海ごと呑んでいたわけか」

「ひどい言い方だな」

「ひどいのは、そちらです」

 

その返しに、直茂が初めて口を開いた。

 

「大坂は」

左衛門大夫は、港と城と町を順に見ながら言った。

「ただの本拠ではありませぬな」

 

「ああ」

「西国の入口であり、海の押さえであり、物の集まる腹でもある」

「……」

「ここを見せられて、なお“従属しただけ”と思う者はおるまい」

 

「いないでしょうね」

と俺は答えた。

「ここは、そういう場所です」

 

宗麟が、そこで本当に疲れたように笑った。

 

「大友が博多で見ていた夢を、もっと嫌らしく、もっと大きく、もっと容赦なく形にしたようなものですな」

 

その言葉は、重かった。

 

博多を知る男が言うからこそ重い。

商い。

港。

南蛮。

流れ。

それを知る大友家の当主が、「夢をもっと大きく、もっと嫌らしく」と認める。

 

それだけで、この場の大半は説明が済む。

 

山城守殿が、ようやく熊みたいな息を吐いた。

 

「……こんなもん見せられて、どうしろというのだ」

 

「腹を決めればいいんですよ」

と俺。

 

「簡単に言うな!」

「簡単じゃないから見せてるんです」

 

そこは、誰も笑わなかった。

笑えない類の本音だったからだ。

 

この城。

この港。

この町。

単なる威圧ではない。

これから先、織田公儀の下で世を回す時、何が中枢になるのか。

その答えの一つを、丸ごと目の前へ出している。

 

ほむら姫が、小さく言った。

 

「……時代の方が、先に来てしまったみたいです」

 

「そうかもな」

と俺は答える。

 

「本来なら、まだこうではなかったのでしょう」

「たぶん」

 

「それを」

ほむら姫は、そこで初めて俺を見た。

「あなた方は、無理やり今へ持ってきた」

 

「主語がまた大きいな」

 

「大きくなります」

と、今度の彼女は少し笑った。

「少なくとも、これは一人では出来ませぬ」

 

「ええ」

「上総介様も」

「勘十郎様も」

「そして、あなたも」

「……」

「嫌になるほど、噛み合っておられる」

 

右衛門佐殿が、その横で静かに頷いた。

 

「なるほど。薩摩で火を囲っておったつもりが、こちらではもう炉も鍛冶場も船渠も城も出来ていたわけだ」

 

「そういうことだ」

と俺。

 

大和は、ゆっくりと港へ入っていく。

岸ではすでに、人足も役人も兵も、こちらを迎える準備に入っている。

この一行が誰であるか、知らぬ者はいないだろう。

 

九州の火種。

敗者。

従属大名。

使われる者。

残される者。

そういう連中をまとめて、大坂へ運んできた。

 

その最初に見せる景色としては、たぶんこれ以上ない。

 

「治部大輔殿」

と、三郎左衛門尉義久が静かに言った。

 

「何でしょう」

 

「これは」

三郎左衛門尉殿は、城から目を離さずに続けた。

「城を見せておるのではありませぬな」

 

「……」

「国を見せておる」

 

そこは、さすがに少し感心した。

 

「そうかもしれません」

と俺は言う。

「少なくとも、ただの城ではないです」

 

義久は、それ以上何も言わなかった。

だが、その沈黙は重かった。

 

城。

港。

工廠。

工房。

鍛冶屋。

商人町。

家臣屋敷。

それら全部が、城下ではなく、一つの機構として動いている。

 

宗麟は羨みを。

直茂は機能を。

義久は国を。

歳久は異様さを。

山城守殿は圧を。

そして、ほむら姫と右衛門佐殿は、時代の前倒しそのものを見た。

 

それだけ見え方が違うのに、全員が同じように言葉を失っている。

そこが、むしろ面白かった。

 

やがて、大和の腹が岸へ寄る。

綱が投げられ、人足が駆け、港の音が一気に近づいた。

 

大坂に着いた。

ただそれだけのはずなのに、九州勢にとっては、たぶんここで二度目の敗北を喫したようなものだった。

戦で負けた。

そして今、国力の形でも負けを見せつけられた。

 

「さて」

と俺は言った。

「降りましょうか」

 

誰もすぐには動かなかった。

それほどまでに、目の前の景色が重かったのだ。

 

 

大坂へ着いてから、俺はすぐ城へは入れなかった。

 

いや、正確には入れた。

入れたが、あえてそうしなかった。

 

宗麟も、山城守殿も、左衛門大夫も、三郎左衛門尉義久も左衛門督歳久も右衛門佐殿も、海から上がっていきなり上総介兄上と勘十郎兄上の前へ出すには、さすがに塩と潮風と九州の疲れをまといすぎている。

ほむら姫と慶誾尼様も同じだ。

 

だからまず、港から少し奥へ入ったところに用意してある迎賓館へ通した。

 

迎賓館といっても、ただの客館じゃない。

木と石と白壁で整えた、半ば離宮めいた造りだ。

海からの客を受けるための屋敷らしく、玄関は広く、奥は静かで、部屋ごとに風の抜け方が違う。

庭もある。

湯殿もある。

台所は別に切ってあって、客の数が増えても匂いが奥へこもらない。

 

宗麟が、部屋へ通されて最初に呟いた。

 

「……まだあるのですか」

 

「何がです」

と俺。

 

「大坂港と、あの城を見せられたあとで、まだ客を休ませる余裕まであるのかと」

 

「ありますよ。織田を何だと思っておられるのです」

 

それには、宗麟は疲れた顔のまま少しだけ笑った。

 

「恐ろしい家だと、改めて思っております」

「それはどうも」

 

山城守殿は、そういう軽口を言う余裕すらない顔で、部屋の柱や天井や庭先の灯りまで見ていた。

左衛門大夫は、最初から最後まで無表情に近いが、ああいう男が無言になる時は、だいたい見積もりが忙しい時だ。

三郎左衛門尉義久と左衛門督歳久は、あくまで崩れない。

だが崩れないまま、屋敷そのものの作りと、出入りする人間の数と、無駄の無さを見ていた。

右衛門佐昌久は、湯殿への動線を見た時点で、たぶんもう半分察していたらしい。

 

「治部大輔殿」

と、右衛門佐殿。

 

「何でしょう」

「まだ何かありますな」

「勘がいいな」

「嫌になります」

 

俺は少し笑ってから、言った。

 

「まずは風呂です」

 

そこは、さすがに全員少し止まった。

 

「風呂」

と三郎左衛門尉義久。

 

「ええ」

「しかも、ちょっとした湯殿ではありません。大坂の客を受けるなら、それなりのものが要るので」

 

「それなり」

と左衛門督歳久が低く言う。

「その言い方で済む気が致しませぬな」

 

「まあ、見て下さい」

 

通した先は、迎賓館のさらに奥だった。

 

最初は石垣が見える。

次に、湯気。

その向こうに、岩。

木。

そして、音。

 

湯が落ちる音だ。

 

天然の湯脈を引いた露天風呂は、もはや「風呂」というより、一つの池だった。

広い。

しかもただ広いだけじゃない。

岩組みが何段かに切ってあって、浸かる場所、座る場所、半身だけ入る場所まで自然に分かれている。

湯気の向こうには庭木と石灯籠。

さらにその向こうには、塀の上から空が抜ける。

 

山城守殿が、とうとう本音で言った。

 

「……敗軍の将に、ここまでしていいのか」

 

その問いは、珍しく素直だった。

怒鳴りでも、虚勢でもない。

本当にそう思った声だ。

 

俺は、湯へ足を入れながら答える。

 

「まあ、次がある方も、難波の露と消えてしまうかもしれない方も、今は同じく九州から初めてこちらにいらしたわけですし」

「それに」

「上総介兄上、勘十郎兄上にお会い頂くのですから、身を清めて頂くのは当然です。それとまあ、ついでに風呂入っちゃおうってわけでして」

 

「ついで、で済むものか」

と山城守殿。

 

「済まないですかね」

「済まぬわ!」

 

そこは熊みたいな声だったが、前ほど荒れてはいない。

湯気のせいか、大坂の圧に少し削がれたのか、その両方か。

 

宗麟は、湯へ肩まで浸かって、ようやく人心地ついた顔をしている。

左衛門大夫は、隅の方で無言。

だが、こういう男が静かな時は、だいたい気に入っている。

三郎左衛門尉義久は湯へ入っても姿勢がいい。

左衛門督歳久は岩へ背を預け、目だけで周囲を見ている。

右衛門佐昌久は、足のこともあるから浅い側へ案内してあるが、それでも目が明らかに楽になっていた。

 

「ほむらはどこだ、治部大輔」

 

山城守殿が、急に思い出したように聞いてくる。

 

「ほむら姫と慶誾尼様なら、女房つきで反対側にある岩風呂へ入ってもらってますよ。本当は家族で入るのにちょうどいい規模です」

 

そこまで言ってから、俺は少しだけ肩を竦めた。

 

「家族」

と左衛門大夫が、珍しくその一語だけ口にする。

 

「ええ。家族正室一名、側室六名、子供十人以上でも何とかなるくらいの広さです。将来を見据えてますんで」

 

宗麟が吹いた。

三郎左衛門尉義久もさすがに目を伏せた。

左衛門督歳久は、湯気の向こうで肩を震わせている。

右衛門佐昌久に至っては、とうとう口元を隠した。

 

「おい」

と山城守殿。

「何だ、その将来を見据えた規模というのは」

 

「いや、家って人が増えるでしょう」

「増えるが!」

「増えるなら、最初から大きい方が後で楽なんですよ。治部家は、風呂一つでも実務で考える家なので」

 

「嫌な実務ですな」

と左衛門督歳久。

 

「褒めてます?」

「半分ほどは」

 

そこは、ようやく少し笑いが出た。

 

湯というのは不思議なもので、さっきまで大坂港と大坂城に圧されて言葉を失っていた連中が、こうして同じ湯へ浸かると、少しだけ人間に戻る。

敗者だとか、従属だとか、そういう札が一瞬だけ薄くなる。

薄くなったところで、かえって本音が出る。

 

「……しかし」

と、宗麟が言った。

「ここまでされると、もはや大友も龍造寺も島津も、ただ捕らわれて運ばれてきたとは申せませぬな」

 

「でしょうね」

と俺。

「捕らえてはいますが、雑に扱う気はない。残すなら、使える形で残したい。その前に、まずは汚れを落としてもらう。それだけです」

 

「それだけ、か」

と三郎左衛門尉義久。少しだけ考えてから続けた。

「戦に勝つだけでなく、敗れた側へ、どこまでの器を見せるか」

 

「……」

「それもまた、勝ち方ということでしょうな」

「そう思って頂けるなら何よりです」

 

山城守殿は、まだ少し不満そうだった。

だが、その不満ももう怒りではなく、居心地の悪さに近い。

 

「治部大輔」

「何でしょう」

「こんな風にされると、怒るにも怒れぬ」

「怒らなくていいんですよ」

「それが嫌なのだ!」

 

そこは、さすがに全員が少し笑った。

 

左衛門大夫が、低く言う。

 

「山城守殿」

「何だ」

「怒っても、たぶんこの男は困りませぬ」

「分かっておる!」

「分かっておるが、腹が立つのだ!」

 

「素直でよろしい」

と俺が言うと、山城守殿が湯を飛ばしそうな勢いで睨んできた。

 

「貴様、本当に嫌な男だな!」

「よく言われます」

 

右衛門佐殿が、そこでようやく口を開いた。

 

「治部大輔殿」

「何でしょう」

「この風呂も、港や城と同じですな」

「と、言いますと」

「戦のためのものに見えて、そうではない」

「客を休ませる、降った者の気を解く、織田の器を見せる」

「……」

「そして、結局は相手の腹を削る」

 

「ひどい言い方だな」

と俺は笑った。

「でも、だいたい合ってます」

 

「でしょうとも」

 

右衛門佐殿はそう言って、湯へ肩まで沈んだ。

 

湯気の向こう、塀の向こうでは、たぶん反対側の岩風呂で、ほむら姫と慶誾尼様が同じように大坂の湯へ浸かっている。

女房つきで、家族で入るのにちょうどいい規模の方へ通してある。

あっちもあっちで、たぶん感想は色々あるだろう。

 

「……貴様は」

と、山城守殿が不意に呟いた。

「絶対に、勝手に覗きへ行くなよ」

 

「行きませんよ」

と俺。

 

「本当か」

「本当です」

「今の間は何だ」

「いや、山城守殿、あなた本当に妹のことになると」

「何だ!」

「面白いなって」

「面白くないわ!」

 

また少し笑いが出た。

 

大坂港での二度目の敗北。

大坂城を見た時の沈黙。

それに比べれば、この迎賓館の大露天風呂は、少しだけ優しい。

だが、優しいからこそ効く。

 

織田は、ただ斬るだけではない。

ただ圧すだけでもない。

こうして湯まで用意して、負けた側へ「まだ居場所はあるかもしれぬ」と思わせてくる。

 

それが、たぶん一番厄介なのだ。

 

俺は湯の中で足を伸ばしながら、小さく息を吐いた。

 

「さて、身も清まりましたし、次はいよいよ、お待ちかねの織田上総介兄上ですよ」

 

その一言で、湯の空気がまた少しだけ締まった。

どれだけ寛いでも、そこだけは別だ。

 

けれど、その前に少しでも身体を緩められたのなら、この風呂の意味はあったと思う。

 

 

 

 

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