織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
大坂城の大広間というのは、本来もっと厳粛な場所であるべきだった。
少なくとも、将軍家の静謐令に従って九州が落ち着き、各家の当主・重臣が召し出される場なのだから、普通はもっと張りつめた空気になる。
ところがこの日、その広間に集まった面子は、どうにも“普通”という言葉から遠かった。
上座には、織田上総介信長。大納言兼右近衛大将の官位を持つ。
その顔には、すでに半分ほど「面白いものを見に来た」色がある。
隣には勘十郎信勝。
こちらは面白がるというより、確実に胃を痛める側の顔だった。
列したのは、龍造寺山城守山城守。
大友左近衛少将宗麟。
そして島津三郎左衛門尉義久。
三人とも、普通ならその場にいるだけで周囲が息を呑む大名である。
だが、そこへ織田上総介信長まで同席していると、なぜか**濃い者同士が互いに相手の濃さを打ち消し合わず、むしろ増幅する**という妙な現象が起きる。
俺は、少し下がった位置からその絵面を見て、心の中でだけ呟いた。
――これはひどい。
上総介兄上が、最初に口を開いた。
「さて」
それだけで、広間の空気がすっと締まる。
「九州の者ども、よう参った」
山城守は黙っている。
佐近衛少将は、礼を崩さず頭を下げた。
三郎左衛門は静かに座したまま、声の出方だけを聞いているようだった。
「静謐令に逆らい、戦を広げ、家を危うくした者もおる」
上総介兄上の目が、順に三人をなぞる。
「だが」
ここで、口元が少しだけ上がった。
「その後、止まった」
佐近衛少将が、ゆっくり言う。
「止まらざるを得ぬほど、上総介殿のお力が大きかったのでしょう」
「ほう」
上総介兄上は面白そうに眉を上げる。
「普蘭師司怙殿は、やけに殊勝ではないか」
広間の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
佐近衛少将は、きちんと顔を上げて応じる。
「洗礼名にございますれば」
「ますます分からん」
と、山城守が低く言った。
佐近衛少将が、わずかに口元を緩める。
「分からずとも、差し支えはございませぬ」
「差し支え大ありじゃ」
山城守は、もう不機嫌を隠していない。
「そもそも何だ、その名は。人が名乗るものか。呪か何かか」
「信仰にございます」
「なお悪い」
俺は、少しだけ視線を逸らした。
もうこの時点で、かなり面倒だ。
そして、そこへ三郎左衛門が静かに口を挟んだ。
「山城守殿」
山城守が顔を向ける。
「何だ」
「名にいちいち噛みついておっても、話は進みますまい」
声は穏やかだ。
だが、穏やかな分だけ重い。
いかにも、島津兄弟の長兄らしい言い方だった。
「……三郎左衛門尉殿は、落ち着いておられるな」
と佐近衛少将。
三郎左衛門は小さく息を吐く。
「落ち着かねば、家が残りませぬ」
その一言に、今度は上総介兄上が笑った。
「よいな」
短いが、妙に楽しそうだった。
「三郎左衛門尉は話が通る」
山城守が、そこで鼻を鳴らす。
「貴様に“話が通る”と言われて喜ぶ者がどれほどおる」
「少なくとも、話が通らぬ者はここへは座れぬ」
ぴしゃり、と切る。
やはり魔王である。
佐近衛少将はそこで、肩をすくめるように言った。
「では、この場にいるということは、皆それなりに“通る側”にございますか」
「そうなるな」
上総介兄上は即答した。
「もっとも」
視線が今度は山城守へ落ちる。
「通るまでにだいぶ手間のかかった者もおるがの」
「……」
山城守の額に、目に見えぬ青筋が立った気がした。
俺は、もうこの辺りで十兵衛と目が合った。
十兵衛の顔は整っている。
整っているが、確実に**“治部様、これは長引きます”**という顔をしている。
そこへ、勘十郎兄上が口を開いた。
「本日は、過去の戦の蒸し返しをする場ではない」
助かった。
やはり勘十郎兄上がいると広間の温度が一段戻る。
「各家が今後、どう残り、どう役を果たすかを定める場だ」
佐近衛少将が頷く。
「その方が、よほど建設的にございます」
「普蘭師司怙殿は、そういうところは真っ当だな」
と上総介兄上。
佐近衛少将が少しだけ困ったように笑う。
「“そういうところは”を付けられると、褒められている気が致しませぬ」
「実際、半分ほどしか褒めておらぬ」
「半分でもありがたく頂戴いたします」
そこで、今度は三郎左衛門の口元がごくわずかに動いた。
たぶん笑ったのだろう。
かなり珍しい部類だ。
山城守だけが、まだ熊のままだった。
「上総介」
「何だ、山城守」
「貴様らは、こうして座に収めておいて、どこまでを赦し、どこからを縛るつもりじゃ」
その問いは、かなり本質だった。
上総介兄上は、少しも逃げずに答える。
「赦す気は、あまりない」
広間が静まる。
「だが、使う気はある」
その答えに、一番早く反応したのは三郎左衛門だった。
眉が、ほんのわずかに動く。
佐近衛少将は目を伏せる。
山城守は、むしろ納得したような顔になる。
甘い赦しより、そちらの方がまだ筋が通ると感じたのだろう。
「山城守には、山城守の役がある」
上総介兄上は指で軽く膝を打った。
「普蘭師司怙殿にも、三郎左衛門尉にも、それぞれな」
「役、ですか」
と佐近衛少将。
「そうじゃ」
「敗者の役ではなく」
「その言葉を使うなら、敗者のままでは終わらぬ役だ」
三郎左衛門が、そこで初めて真正面から上総介兄上を見た。
「……大きく出られる」
「大きいからの」
即答。
ここはもうどうしようもない。
俺は、少しだけ頭を押さえたくなった。
この場、濃すぎる。
だが問題は、ここで終わりではなかった。
広間の後ろ寄り。
奥方衆が顔を出しても不自然ではない位置に、何人かの気配がある。
お市。
真理姫。
雪姫。
鶴姫。
美景姫。
香耶姫。
義姫。
そして、ほむら姫。
俺は、それに気づいていた。
気づいていたが、見ないようにしていた。
見たら終わるからだ。
ところが、終わりは向こうから来た。
ほむら姫が、こちらへ歩いてきたのである。
「治部大輔殿」
「……はい」
その時点で、山城守の顔色が変わった。
佐近衛少将が、静かに察した顔になる。
三郎左衛門が、ほんの少しだけ視線を細める。
上総介兄上はもう面白がっている。
勘十郎兄上は、明らかに胃が痛そう。
ほむら姫は平然と俺の傍へ座った。
「何でしょう」
「何でしょう、ではありませぬ」
「じゃあ何だ」
「合掌」
「まだ何もしてないだろ!?」
それをきっかけに、奥方衆が寄ってきた。
お市は静かに微笑む。
真理姫は柔らかい顔で逃げ道を塞ぐ。
雪姫は真面目なまま厳しい。
そして、ほむら姫はもう完全に大将首を取りに来る顔だ。
俺は、そこで確信した。
――終わった。
山城守が、ついに立ち上がった。
「おい治部大輔!」
また熊である。
しかも今日は広間なので、余計に目立つ。
だが、ほむら姫が振り向いて一言。
「兄上」
山城守が止まる。
「ハウス」
広間が静まり返った。
魔王こと上総介兄上が、そこでついに吹き出した。
笑ってはいけない場なのに、声を殺しきれていない。
「く、くく……山城守、見事に躾けられておるではないか!」
「上総介! 笑うな!」
「笑うわ! これは笑う!」
三郎左衛門ですら、ついにわずかに顔を背けた。
佐近衛少将は袖で口元を隠している。
勘十郎兄上は、もう諦めたような顔だ。
そして、お市が静かに言った。
「治部殿」
「はい」
「後ほど、少しお時間を頂きます」
真理姫も続く。
「私も、お話がございます」
雪姫も真面目な顔で頷く。
「私もです」
ほむら姫が、最後に言った。
「私もです」
俺は、合掌した。
「……南無」
上総介兄上が、腹を抱える勢いで笑う。
山城守は熊の顔のまま座らされる。
三郎左衛門は“鬼島津の兄”としての威厳を保とうとしているが、もう無理だ。
佐近衛少将は普蘭師司怙のまま静かに肩を震わせている。
こうして、
**魔王 vs ヒグマ vs 鬼島津の兄 vs ドン・フランシスコ**
という本来あり得ぬ大名会談は、
最後には
**ほむら姫+奥様方 vs 俺(合掌)**
という、もっと逃げ場のない戦へと自然に接続されたのだった。
♢
「ああなったらもうどうしようもないだろ!」
俺がそう言い返した瞬間、座敷の空気は、いったん完全に止まった。
「だって女性から逆夜這いを受けたんだぞ。それで追い返したりでもしたら、それはそれでお前ら怒るんでしょ? 決意した女性の覚悟と顔を潰さないように据え膳食ったんだよ!」
半ばやけっぱち。
だが、理屈だけ拾えば、確かに一理はある。
あるのだが、だからこそ余計に面倒だった。
俺はさらに畳みかける。
「盤外戦で勝ったと思ったらひっくり返されたんだよ!」
そこで、最初に口を開いたのはお市だった。
「治部殿」
「はい」
「まず、“据え膳食った”という言い方をおやめ下さい」
「……はい」
静かだ。
だが、静かだから余計に怖い。
真理姫が、にこやかに続ける。
「治部殿のお気持ちは、少し分かります」
「おっ」
「ですが」
「はい」
「その言い方ですと、まるで災難に巻き込まれた被害者のように聞こえます」
「……あ」
雪姫が、真面目な顔のまま刺す。
「実際には、受け入れると決めたのは治部殿ご自身ではありませんか」
「いや、それはそうなんだが」
「ならば、“食った”ではなく“受けた”でしょう」
「はい……」
鶴姫が、涼しい顔で外堀を埋める。
「それに治部大輔殿」
「何でしょう」
「女性の覚悟と顔を潰さぬため、という理屈自体は結構です」
「だろ?」
「ですが、その理屈を“だから自分は悪くない”へ繋げた時点で減点です」
「減点!?」
美景姫が、面白がるのを隠しもせず言う。
「朝倉なら、そこはもう少し上手く申しますよ」
「うるさい、鬼姫」
「負けておいて口だけは達者ですね」
香耶姫が、横から淡々と入れる。
「そもそも、逆夜這いを受けた時点で盤外戦負けです」
「そこからひっくり返されたって言ってるだろ!」
「ええ。負けを認めずに言い訳へ走ったので、さらに負けたのです」
「きついな!?」
義姫が、真冬の吹雪のような冷たい視線を向ける。
「さらに、そうなれば側室を増やすことになることは明白。私たちにこうやって詰められるのも、その瞬間に覚悟なさったはずです」
「だよね」
「ですからおとなしく詰められてください」
「慈悲はないのか」
「ございませんね」
その時、最後に一番重いのが来た。
ほむら姫である。
「治部大輔殿」
「……はい」
「私は、確かに自分の覚悟で参りました」
「うん」
「追い返されれば、腹も立ったでしょう」
「だろ?」
「ですが」
ここで、ほむら姫は少しだけ目を細めた。
「それを“据え膳食った”と総括されるのは、さすがに腹が立ちます」
俺が固まる。
「それは、俺が悪かった……すみません」
「よろしい」
「よくないだろこれ」
お市が、そこで静かにまとめに入った。
「治部殿」
「はい」
「問題は二つです」
「二つ?」
「一つ。ほむら姫様の覚悟を受けたこと自体」
「うん」
「これは、もう起きたことです。今さら蒸し返しても仕方ありません」
「助かる」
「もう一つ」
「……はい」
「その後の言い方です」
「そこかあ……」
真理姫が、少し困ったように笑う。
「治部殿は、戦も政も上手なのに、こういう所だけ急に雑になりますよね」
「否定できない……」
雪姫が頷く。
「盤外戦で勝ったと思った、のも本音なのでしょう」
「そうだよ!」
「ですが」
「はい」
「それを口にした時点で、もうまた盤外戦です」
俺は、そこで天を仰いだ。
「無限地獄かよ」
ほむら姫が、ほんの少しだけ笑う。
「ええ」
「ひどい」
「ですが」
彼女は続けた。
「“覚悟した女性の覚悟と顔を潰さないように受けた”という部分は、私は嫌いではありません」
俺が少しだけ顔を上げる。
「ほんと?」
「ただし」
「やっぱりあるんだな、ただし」
「その後に、“だから俺は悪くない”と続けたから減点です」
「また採点か!」
「当然でしょう」
鶴姫が、そこで肩をすくめる。
「治部大輔殿は、本当に採点されるのがお好きですね」
「好きじゃねえよ!」
美景姫が続く。
「されるようなことばかりなさるからです」
「正論やめろ!」
お市が、最後に静かに言った。
「治部殿」
「はい」
「では、言い直して下さい」
「何を」
「今の件を、誤魔化さず、軽くせず、誰の顔も潰さぬように」
「……無理難題だな」
「得意分野でしょう?」
逃げ道がない。
俺は、しばらく本気で考えた。
戦場の包囲より、こっちの方がよほどきつい。
やがて、諦めたように息を吐く。
「……ほむら姫」
「はい」
「お前の覚悟を軽く言ったのは悪かった」
「はい」
「俺は、追い返すのも違うと思ったし、受けるなら受けるで軽く扱う気もなかった」
「はい」
「ただ、その後に自分の方を被害者みたいに言ったのは、完全に俺が悪い」
ほむら姫は、じっと見ていたが、やがて頷いた。
「それなら、六十点ぐらいにしておきましょう」
「何でそこでも採点なんだよ!」
「慣れて下さい」
お市が、ようやく少し笑う。
「治部殿」
「何だ」
「つまり、そういうことです」
「どういうことだよ」
真理姫が、柔らかく言った。
「治部殿が、どちらも潰さぬようにしようとして、言い方だけ失敗した、ということです」
雪姫も頷く。
「受けたこと自体より、雑に総括したことが問題でした」
鶴姫が付け加える。
「盤外戦でひっくり返されたのではなく、盤外戦の後処理を誤ったのです」
「後処理……」
美景姫が笑う。
「いかにも治部大輔殿らしい失点ですね」
香耶姫が短く締める。
「今後は、口を慎むことです」
義姫はお茶を口にした。
「判断自体を間違えた、とはこの場の誰も申しておりません」
俺は、そこでようやく深く息を吐いた。
「……分かったよ」
そして小さく、だが妙に本音っぽく付け足した。
「戦より難しいな、これ」
その瞬間、奥方衆の間に、少しだけ笑いが走った。
完全勝利ではない。
俺は負けた。
かなり負けた。
だが、全面壊滅までは行かなかった。
その意味では、確かに六十点ぐらいではあった。
♢
大広間へ戻ると、空気がまた別の意味で終わっていた。
さっきまで奥向き包囲網で六十点判定を受けていた俺からすると、むしろこっちの方がまだ“戦場”として分かりやすい。
上座寄りで、上総介兄上が腕を組んでいる。
真正面ではない。
だが、いつでも盤ごとひっくり返せる位置だ。
その向かいに、龍造寺山城守山城守。
座っているだけなのに、いつでも突進してきそうな圧がある。
さっきハウスされた熊とは思えないが、熊は熊だ。
そして、その斜めに島津三郎左衛門尉三郎左衛門。
静かだ。
静かだが、静かな分だけ一番動かしにくい。
鬼島津の“兄”という感じが、座っているだけで分かる。
三竦みだった。
誰も動いていない。
だが誰も相手を盤の外へ逃がしていない。
将棋盤の上に、王将と飛車と角を無理やり三枚だけ置いたような、妙な緊張感である。
そして、その少し外れで。
佐近衛少将――もとい、ドン・フランシスコ普蘭師司怙だけが、なぜか座禅を組んでいた。
本当に、妙に大広間へ溶け込んでいる。
さっきまであれだけ濃かった男が、今は逆に**“最初からそこにあった置物”**みたいな顔をしている。
「何なんだ、あれ」
と俺が小声で漏らすと、十兵衛が同じく小声で返した。
「現実から一歩退いたのでは」
「いや、退き方がうますぎるだろ」
「ある種の才能かと」
そこへ、ほむら姫が横から低く言う。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「今、突っ込むのは危険です」
「分かってるよ」
「いえ、分かっておられません」
「何でだよ」
「今この場で、兄上方三名と普蘭師司怙殿を、どう丸く収めるおつもりで?」
「……」
「考えておられませんね?」
「ちょっと考えてる」
「その顔は考えておりませぬ」
きつい。
だがその時、俺はふっと顔を上げた。
そして、かなり良いことを思いついた顔になった。
「もうさ」
皆が少しだけ見る。
「お酒呑んで乾杯して、ね?」
大広間の空気が一瞬止まる。
上総介兄上が、まず目を細めた。
山城守は怪訝そうな顔をする。
三郎左衛門は無言。
佐近衛少将だけは座禅のまま薄く目を開けた。
俺は、そこで一気に続けた。
「治部印の焼酎組み合わせ、お持ちしますんで」
上総介兄上の眉が上がる。
「ほう」
「米、麦、蕎麦、芋」
山城守の顔が少しだけ動いた。
佐近衛少将は、ついに座禅を解いてこちらを見る。
三郎左衛門はまだ無言だが、三郎左衛門にしてはかなり興味を示している顔だ。
「……焼酎、だと」
と山城守。
「はい山城守殿。九州の今後を決めるのに、酒も無しでは角が立つでしょう」
「貴様、何でも酒で誤魔化せると思うなよ」
「誤魔化すんじゃない。滑らかにするんだよ」
佐近衛少将が、そこで少し笑った。
「それはなかなか、司祭には申せぬ理屈にございますな」
「普蘭師司怙殿は呑めるでしょ」
「ええ、嗜む程度には」
「嗜む程度で済んでる顔じゃないんだよなあ」
それには、さすがに上総介兄上が吹き出した。
「治部、面白いではないか」
「兄上、ここはもうそれしかないです」
「確かにのう」
上総介兄上は、三人を順に見た。
「山城守」
「何だ」
「三郎左衛門尉」
「……は」
「普蘭師司怙殿」
「はい」
「せっかく治部がそこまで申す。呑んでから殺し合うでも遅くはあるまい」
「殺し合う前提なの!?」
と俺。
三郎左衛門が、ここで初めてはっきり言った。
「上総介殿」
「何だ」
「呑んだ後も、殺し合わずに済むなら、その方が良い」
その一言には、重みがあった。
静かなのに、場が少し整う。
山城守が鼻を鳴らす。
「……酒でどうにかなるような場とも思えぬが」
「山城守殿」
と俺。
「何だ」
「焼酎ですよ」
「だから何だ」
「米、麦、蕎麦、芋、全部揃えます」
山城守が、露骨に迷った顔をした。
「……芋もあるのか」
「あります」
「麦もか」
「あります」
「蕎麦まで」
「あります」
ここで、ほむら姫が横から冷たく刺した。
「兄上」
「何だ」
「呑みたいのでしょう」
「誰がそんなことを言うた!」
「顔に書いてあります」
「書いておらん!」
「書いております」
また熊が騒ぎ出しかけたが、今度はハウスまで行かずに止まった。
だいぶ学習している。
佐近衛少将が、妙に穏やかな顔で言う。
「それは興味がございますな」
「普蘭師司怙殿も?」
「九州の酒を、九州の勝者と敗者とで飲む。なかなか得難い席です」
三郎左衛門が、静かに続ける。
「……悪くありませぬ」
決まった。
俺は、すぐに振り返る。
「十兵衛」
「は」
「出せる?」
「すでに半兵衛と伊勢守が動いております」
「仕事早いな!?」
半兵衛が少し下がった位置で答える。
「こうなる気がしておりましたので」
伊勢守まで、どこからともなく現れた。
「杯の数も足ります」
「急に現れるな」
「すんません」
慶次郎が、にやにやしながら言う。
「治部印の焼酎取り合わせ、天下の濃いおっさん選手権に投入か」
「選手権にした覚えはない」
「もうなってる」
その通りだった。
やがて酒が運ばれてくる。
米。
麦。
蕎麦。
芋。
器もちゃんとしている。
そこだけは治部家らしく抜かりがない。
大広間の中央に、妙に立派な“酒の講評会”みたいな空気が生まれた。
俺が、仕切るしかないと腹を括って前へ出る。
「えー……」
「何だその“えー”は」
と上総介兄上。
「いや、だってこの面子で乾杯の音頭取るの怖いでしょ」
「取れ」
「はい」
逃げ道なし。
俺は、杯を持った。
上総介兄上。
山城守。
三郎左衛門。
佐近衛少将。
その後ろに、ほむら姫、直茂、歳久、昌久、お市たちまでいる。
「では」
全員が見る。
「九州静謐と、家々がちゃんと残る形になったことに」
一拍。
「……乾杯」
「乾杯」
「乾杯にございます」
「……乾杯」
声が重なる。
最初の一口は、奇妙なくらい静かだった。
上総介兄上が最初に言う。
「芋、よいな」
山城守がすぐに反応する。
「ほう。貴様、分かるではないか」
「当たり前じゃ」
三郎左衛門は麦を見ている。
佐近衛少将は米を口にして、少しだけ目を細めた。
「これは、良い」
「でしょう」と俺。
「蕎麦は?」
と右衛門佐昌久。
「そっちはあとで右衛門佐殿に解説してもらおうか」
「解説が要る酒というのも妙ですな」
「でもお前、そういうの好きだろ」
ほむら姫は芋を一口含んで、そこで小さく言った。
「……嫌いではありませぬ」
「また半分か」
「今は七割ほど」
「点数上がったな」
そのやり取りに、ついにお市が小さく笑った。
大広間の空気が、少しだけ、人間のものへ戻る。
魔王。
ヒグマ。
鬼島津の兄。
ドン・フランシスコ。
その四者が、同じ座で焼酎の味を見ている。
しかも、ちゃんと会話になっている。
これはもう、戦よりも珍しい光景かもしれなかった。
俺は、ようやく少し肩の力を抜いた。
「……いけるな」
十兵衛が小声で言う。
「何とか、でございますな」
「酒って偉大だな」
「治部様」
「何だ」
「後でまた奥向きの場がございます」
「……忘れてた」
その瞬間、ほむら姫が横で言った。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「盤外戦第二回戦です」
「まだあんの!?」
「当然でしょう」
そうして、大広間では濃いおっさんたちの酒宴が始まり、
その横で俺だけは、次の戦場の気配にそっと合掌した。
♢
大広間の酒宴をどうにか切り上げて、俺が奥向きへ戻った時には、もう嫌な予感しかしなかった。
襖の向こうの気配が、多い。
一人二人ではない。
それも、ただ人がいるというだけではない。
**待っている** 気配だ。
「……逃げていいかな」
と小さく漏らしたが、後ろの十兵衛が即答した。
「不可にございます」
「だよな」
「ご武運を」
「他人事みたいに言うなよ」
そう言っても、十兵衛は襖の前で一礼すると、そのまま静かに下がった。
つまり、完全に見捨てられた。
俺は、腹を括って襖を開けた。
「ただいま」
座敷の空気は、思ったより静かだった。
上座寄りにお市。
その少し横に真理姫。
雪姫と鶴姫。
ほむら姫。
そして、やや奥まったところに、美景姫と香耶姫、あと義姫も。
三人とも腹はかなり大きい。
特に美影姫と香耶姫は臨月が近い。
年が改まれば産まれてもおかしくない時期だ。
そのためか、さすがに前へ出て詰める役ではなく、今日は“見届ける側”に回っている。
だが、それがかえって怖い。
後ろから静かに見ている者ほど、最後の一言が重いからだ。
「治部殿」
お市が静かに言う。
「はい」
「第二回戦です」
「やっぱりか……」
俺は、素直に座った。
ここで無駄に抗うと失点が増える。
それぐらいの学習は、もうしている。
真理姫が、柔らかく言う。
「先ほどの第一回戦で、治部殿が少しは言い直して下さったことは分かりました」
「ありがとう」
「ですが」
「うん」
「盤外戦は、言葉だけで済むものではありませんよね」
「……そうだな」
雪姫が、真面目な顔のまま続ける。
「ほむら姫様を、今後どう扱うのか」
そこだ。
結局、問題の芯はそこにある。
一夜のことだけではない。
その後をどうするか。
治部家の奥として、家として、どう受けるか。
俺は、そこで少しだけ姿勢を正した。
「軽く扱う気はない」
ほむら姫が、黙ってこちらを見る。
「それは、前にも言った」
「はい」
「今後も言う。あの夜のことを、勢いとか、旅先での気の迷いとか、そういう雑な箱へ入れるつもりはない」
お市が問う。
「では、どうなさるのです」
「家の中で筋を通す」
「具体的には」
「まず、奥向きへちゃんと通す」
「今、通しておられますが」
「だから今ここにいるんだろ……」
そこへ、美景姫が奥から口を開いた。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「私どもは今、あまり前へ出て長く責める気はありません」
「助かる」
「ですが」
やはり来た。
「助かった、で済ませるなら減点です」
「厳しいな、臨月近いのに切れ味落ちないな」
「ええ。落ちるようでは朝倉で生きておりません」
そこへ香耶姫も、腹へ手を添えたまま静かに言う。
「私も、細かくは申しません」
「うん」
「ただ」
「ただ?」
「刺す気で見ていた、と前に仰いましたよね」
「……言ったな」
「今後、ほむら姫様にも同じような軽口を叩かぬことです」
「叩いてないだろ!?」
香耶姫は、少しも表情を変えない。
「先に釘を刺しておくのです」
「予防線だった」
「左様にございます」
ほむら姫が、そこで初めて小さく笑った。
少しだけだが、ちゃんと笑った。
「香耶姫様」
「何でしょう」
「そのお気遣い、嫌いではありませぬ」
「嫌いでないなら結構です」
美景姫が、そこで少しだけ肩を揺らした。
「香耶姫様、今のはほぼ受け入れでしょう」
「違います。予防です」
「朝倉より厳しい」
「斎藤ですので」
俺は、そこでほんの少しだけ空気が緩んだのを感じた。
助かった、とまでは言わない。
だが、**断罪一色ではない**。
義姫が、その緩んだところで本題を置いた。
「治部殿」
「はい」
「私は、ほむら姫様を否定する気はありません」
俺が少し顔を上げる。
「本当?」
「本当です」
「助かる」
「ですが」
「やっぱりあるんだな」
「あります」
そこでお市が、静かだがはっきりと言った。
「治部家の奥へ入るなら、筋が必要です」
「うん」
「治部殿一人が“軽くしない”と思うだけでは足りません」
「……」
「外に向けてどう置くか。家の中でどう扱うか。既にいる私たちと、どう並べるか。それを治部殿が逃げずに考えること」
真理姫も頷く。
「私も同じです」
雪姫も続く。
「私も」
ほむら姫は、その三人を見てから、最後に言った。
「私も、それを求めます」
俺は、そこで少し驚いた顔になった。
「お前も?」
「当然でしょう」
「いや、てっきり“そんなものは後でよい”って来るのかと」
「私は龍造寺の姫です」
その言葉は重かった。
「一夜の熱で、家の中へ曖昧に入る趣味はありませぬ」
「……」
「治部大輔殿が、私を軽くせぬというなら、軽くせぬ形を出して頂かねば困ります」
これは、かなり本質だった。
恋だの興味だの覚悟だの、それらはもうある。
だが、それを家の中でどう置くかは別問題だ。
そこを曖昧にすれば、ほむら姫自身の値も、治部家奥向きの秩序も両方傷む。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「分かった」
「本当に?」
と雪姫。
「本当に」
「逃げませんか」
「逃げたいけど逃げない」
真理姫が少し笑う。
「それなら結構です」
お市が、そこでまとめに入る。
「では、今日のところは二つです」
「二つ?」
「一つ。治部殿は、ほむら姫様を軽く扱わぬこと」
「うん」
「二つ。軽く扱わぬ、を、後でちゃんと形へすること」
「……」
「返事は」
「はい」
「よろしい」
俺は、そこでようやく少しだけ肩の力を抜いた。
だが、完全には抜けない。
なぜなら、まだ一番厄介な確認が残っていたからだ。
ほむら姫が、真っ直ぐこちらを見る。
「治部大輔殿」
「何でしょう」
「今の二つ、守れますか」
「守る」
「言わされてではなく?」
「俺がそうしたいからだよ」
ほむら姫は、しばらくその顔を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「なら、今夜はそれで結構です」
その返しに、お市も真理姫も雪姫も、鶴姫も美景姫も香耶姫も、そして義姫もはっきりとは言わぬまま空気を少しだけ緩めた。
完全和解ではない。
当然だ。
だが第二回戦としては、十分に前へ進んだ。
俺が、心の中でようやく合掌を解いた時だった。
美景姫が奥から静かに言う。
「では、採点ですね」
「まだあるの!?」
香耶姫も続く。
「当然です」
「えぇ……」
義姫がため息をついた。
「ここに来て採点されないとお思いですか」
「思ってません」
お市が微笑む。
「今回は」
真理姫が引き継ぐ。
「言い直しだけの時よりは」
雪姫が真面目に締める。
「少し上がります」
ほむら姫が、最後に言った。
「六十五点」
「細かいな!」
「七十には届きませんでした」
「厳しい!」
「ですが」
彼女は少しだけ口元を緩めた。
「前回よりは、かなり良い」
その言い方は、たぶん本音だった。
俺は、そこでようやく本当に笑った。
「……分かったよ」
「何がです」
「まだ勝ってないけど、全面壊滅でもないってことが」
美景姫が頷く。
「そういう理解で結構です」
香耶姫も静かに添える。
「もっとも再起不能に近いですが」
「無慈悲すぎる」
義姫が総括した。
「次で七十を目指して下さい」
「お前ら、俺の人生ずっと採点してない?」
「してます」
と、ほむら姫が即答した。
そのあまりの速さに、さすがに全員が少しだけ笑った。
夜は更けている。
大坂城の外は静かだ。
だが治部家の奥向きでは、戦より面倒で、政より逃げ場のない話が、ようやく一段だけ前へ進んだ。
そして俺は思う。
九州静謐も、島津討伐も、大名会談も確かに大仕事だった。
だが今この時点では、
**六十五点を七十へ上げる盤外戦** の方が、たぶん一番難しい。
♢
大広間へ戻った時、俺は一瞬、本気で自分の目を疑った。
「……何でこうなった」
それは、かなり素直な感想だった。
さっきまで、魔王とヒグマと鬼島津の兄とドン・フランシスコが、互いに濃さで殴り合うような空気だったはずである。
少なくとも、もう少し張り詰めていてしかるべきだった。
ところが今、広間の中央寄りでは――
龍造寺山城守山城守と、島津三郎左衛門尉が、何故か肩を組んでいた。
しかも、焼酎をほぼ水のように呷っている。
「おう三郎左衛門尉!」
「何です山城守」
「芋はやはりこう、喉へ焼きつけるように入るのがよいな!」
「……分からぬでもありませぬ」
「分かるか!」
「ですが、呑みすぎると判断が鈍ります」
「今さら俺たちの判断も何もあるか!」
「それもそうですな」
何だこれ。
さっきまで鬼島津の兄として静かに重かった男が、今はヒグマの肩を受け止めながら淡々と杯を干している。
そしてその絵面が、妙に似合うのが腹立たしい。
「似た者同士だな……」
と俺が呟くと、横でほむら姫が即答した。
「兄上の方がうるさいです」
「そこは否定しないんだな」
「ええ」
一方、その少し向こうでは、もっとひどいものが展開されていた。
上総介兄上と佐近衛少将――もといドン・フランシスコ普蘭師司怙が、腕相撲をしていた。
「待て待て待て待て」
と俺。
「何でそうなる」
上総介兄上は、片肘をついたまま笑っている。
「治部」
「何です兄上」
「こやつ、見た目より腕力があるぞ」
「だから何で腕相撲してるんですか」
佐近衛少将も、やたら真面目な顔で応じる。
「勝負事となれば、受けねばなりますまい」
「洗礼名の人が言うことじゃないんだよなあ」
「信仰と腕力は両立します」
「初めて聞いたわ」
しかもこの二人、ただの酔興でやっているように見えて、妙に本気だ。
上総介兄上は面白がっているが、面白がっているだけに地味に強い。
佐近衛少将は佐近衛少将で、南蛮教養人めいた顔をしておきながら、握りがしっかりしている。
「上総介様、そこで返されると手首が」
「普蘭師司怙殿、わしを誰だと思うておる」
「魔王かと」
「よろしい」
「よくないですよ!?」
そこへ、勘十郎兄上だけがまだ人間側にいた。
いや、人間側というより、**まともそうに見える側**だ。
勘十郎兄上は、鍋島左衛門大夫直茂と島津左衛門督歳久と一緒に、少し離れたところで車座になって話し込んでいる。
この三人だけ、まだ会話の内容に理がある。
「なるほど」
と勘十郎兄上。
「九州では、そこで兵を切るのか」
左衛門大夫直茂が頷く。
「はい。こちらは城の堅さより、どこまで兵を残せるかを先に見ます」
左衛門督歳久が続ける。
「薩摩も似たようなものです。勝っても骨が痩せれば、次が続きませぬ」
「うちの治部もそういうところがある」
「ええ」と左衛門大夫。
「かなり厄介にございます」
「それは知ってる」
この三人の話は、ちゃんと怖い。
戦の後の家の残し方、兵の戻し方、どこで面子を切ってどこで残すか。
つまり本当に大事な話をしている。
なのに、絵面だけ見ると、
**胃痛担当勘十郎兄上 with 九州現実派二名**
である。
「あそこだけ空気違うな……」
と俺。
ほむら姫が頷く。
「左衛門大夫と左衛門督ですので」
「左衛門だらけだな」
「ややこしいですね」
さらに、その奥では、右衛門佐昌久が何か始めていた。
これもまた、嫌な意味で静かに盛り上がっている。
相手は半兵衛、十兵衛、官兵衛。
図面を広げ、駒だの小石だのを置いて、どう見ても**演習**をしていた。
「おい」
と俺。
「何やってんだそれ」
半兵衛が顔を上げずに答える。
「図面演習です」
「見れば分かる」
「では問題ありません」
「どこの盤だよ」
そこで、右衛門佐が淡々と言った。
「関東」
「関東かよ」
十兵衛が補足する。
「北条、佐竹、里見が絡む場合の水陸複合運用を」
「何で九州終わったばっかでそこ行くんだよ」
官兵衛が、当たり前のように言う。
「終わったからにございます」
「嫌な当たり前だな」
右衛門佐は、紙の上に指を置いた。
「治部大輔殿」
「何だ」
「仮にこの海域で、相手が海上機動を過信するなら」
「うん」
「和風ガレオン船を数隻回し」
「うん」
「刹那五月雨撃(切なさ乱れ撃ち)で砲をばら撒けば、大抵の海城は嫌がります」
「その単語をもう使うな。お前、絶対気に入ってるだろ」
「嫌いではありませぬ」
「お前も半分かよ!」
ほむら姫が、横で少しだけ吹きそうになっていた。
「右衛門佐殿」
「何でしょう」
「それ、嫌がるどころでは済まぬ相手も多いかと」
「はい。ですので有効です」
「……嫌な頭脳」
「ほむら姫ほどではございませぬ」
「今、喧嘩を売りましたか買いますよ」
「事実を申したまでです」
そのやり取りの間も、半兵衛は図面に何か書き込み、十兵衛は兵の線を整え、官兵衛は「その場合、兵糧船はこう切れますな」とか何とか言っている。
完全に次の戦の仕込みである。
「お前ら」
と俺。
「酒宴の場だぞ」
十兵衛がようやく顔を上げた。
「治部様」
「何だ」
「酒を呑んで肩を組む方々と、腕相撲なさる方々と、我らと、どれが最も健全にございますか」
俺は少し考えた。
広間の中央では、ヒグマと鬼島津の兄がもう二巡目へ入っている。
向こうでは魔王とドン・フランシスコがまだ勝負中だ。
勘十郎兄上だけが現実を繋いでいる。
そしてこっちは、北条・佐竹・里見相手の砲撃演習。
「……消去法でお前らかな」
「左様で」
「納得いかねえ」
そこへ、上総介兄上が腕相撲の決着をつけたらしく、大きく笑った。
「わしの勝ちじゃ!」
佐近衛少将が、やや悔しそうにしながらも礼を崩さない。
「お見事にございます」
「普蘭師司怙殿、もう一度やるか」
「次は酒を一杯挟ませて頂きたく」
「よかろう」
その会話を聞いた山城守が、三郎左衛門の肩を叩く。
「見たか三郎左衛門尉! あれが天下人じゃ!」
三郎左衛門が杯を傾けたまま答える。
「ただの酔客にも見えます」
「違いない!」
「いや違くないんだよなあ……」
俺は、とうとう額を押さえた。
九州静謐の後。
敗者も勝者も、従属する者もされる者も、こうして同じ広間へ集められている。
本来なら、もっと血なまぐさく、重く、刺々しくなっていてもおかしくない。
なのに現実には、
* ヒグマと鬼島津の兄が肩を組み、
* 魔王とドン・フランシスコが腕相撲し、
* 勘十郎兄上が左衛門二名と現実会議をし、
* 右衛門佐が半兵衛・十兵衛・官兵衛と次の戦争の図面を引いている。
「……時代が変わった、ってこういうことなのか?」
俺が半ば本気で呟くと、ほむら姫が横で言った。
「いいえ」
「違うのか」
「治部大輔殿が妙なものばかり残した結果です」
「ひどい言い方だな」
「ですが」
ほむら姫は、広間全体を見回した。
「嫌いではありませぬ」
俺は、それを聞いて少しだけ笑った。
嫌な連中ばかりだ。
濃い。
面倒だ。
だが、死んでいない。
残っている。
そして、こうして同じ座で酒を呑み、次の話までしている。
それは確かに、悪くない景色だった。
「よし」
俺は手を叩いた。
「右衛門佐」
「は」
「刹那五月雨撃は採用するにしても、名前はもうちょっとどうにかしろ」
「では、何と」
「そこはお前らで考えろ」
「承知しました」
「上総介兄上!」
「何だ治部!」
「腕相撲はもうその辺で!」
「次は山城守とやる!」
「何でだよ!」
「望むところじゃ!」
「三郎左衛門尉殿は止めて下さい!」
「……私は見ておきます」
「止めろよ!」
広間は、また少しだけ騒がしくなる。
戦は終わった。
だが、この面々が生き残っている限り、静かにだけは終わらない。
俺は、その事実に半ば呆れながら、でも少しだけ満足して杯を取った。
♢
地下牢は、酒宴の熱から切り離されたように冷えていた。
大広間では、魔王とヒグマと鬼島津の兄と普蘭師司怙が、わけのわからん方向で融け始めている。
それはそれで放っておくとして、本来なら、先に片付けないといけない奴がいる。
大友新次郎鎮鑑。
本当は、こいつの裁きもしないといけない。
なのに、なぜか酒宴になってしまった。
誰だそんなことした奴。
――俺だ。
「……はぁ」
自分で自分に溜息をつきながら、俺は地下へ降りた。
石の階段を下りるごとに、空気が湿る。
酒の匂いも、海の匂いも消える。
残るのは、汗と血と、閉じ込められた人間の澱んだ臭いだけだ。
見張りの足軽が、俺に気づいて姿勢を正した。
「治部様」
「うん。どうだ」
足軽は、露骨に嫌そうな顔をした。
「元気だけはございます」
「最悪だな」
「はい」
牢の奥から、ちょうどその元気な声が響いた。
「おい! おい治部大輔! 来たか! お前、分かってねえんだよ!」
俺は、牢の前で立ち止まった。
縄を打たれ、汚れ、引っ立てられてきたはずなのに、新次郎鎮鑑の目にはまだ妙な光が残っていた。
反省ではない。
後悔でもない。
あれはたぶん、**まだ自分は切り札を持っていると思い込んでいる目**だ。
「分かってねえ、ねえ」
俺は、静かに言った。なんでこいつはことここに至って、こんなにも上から目線で横柄な口を利くんだろう。
「何がだ」
「俺には色々知識がある!」
来たよ、と思った。
「楽市楽座とか!」
「はい」
「鉄砲の三段撃ちとか!」
「はいはい」
「あのでっけー船だって、俺がいればもっと強くなるぞ!」
その瞬間、見張りの足軽が本当に心底うんざりした顔で、
「うるせーぞ馬鹿!」
と怒鳴り、槍の石突で牢越しに鎮鑑を突いた。
「いでっ!」
「治部様の前で何べらべら抜かしてやがる! てめえはもう黙って縛られてろ!」
「何だ貴様! 俺を誰だと」
「知らねえよ馬鹿!」
俺は、思わず片手で顔を覆った。
「……お前じゃ無理だ、阿呆め」
「何だと!?」
鎮鑑が噛みつく。
だが、その噛みつき方すら、もう軽い。
「六角のバカ殿といい、お前といい」
俺は、牢の前にしゃがみ込んだ。
「歴史知識が生でどこまで役に立つのか、ほんと最期まで理解せずに、上っ面だけ真似しようとしてやがる」
「上っ面だと!?」
「そうだよ」
俺の声は、低かった。
「楽市楽座って言葉だけ知ってりゃ、市が回ると思ってる。三段撃ちって言葉だけ知ってりゃ、鉄砲隊が育つと思ってる。でっけえ船って形だけ真似りゃ、海が従うと思ってる」
鎮鑑は、まだ言い返そうとした。
だが俺は、その前に切った。
「面倒な試行錯誤とか、一切なしかよ」
地下牢の冷気が、一瞬だけさらに冷えた気がした。
「人を集める」
「金を回す」
「砲の反動に耐える船体を作る」
「火薬を安定させる」
「撃って、外して、壊れて、直して、また撃つ」
「兵に覚えさせる」
「失敗しても潰れないよう、後ろを組む」
一つずつ、俺は指を折る。
「そういう、死ぬほどつまらなくて、死ぬほど面倒で、しかも誰も褒めてくれない試行錯誤の山を越えた先にしか、物は成り立たねえんだよ」
鎮鑑の目が、そこでようやく少しだけ揺れた。
「お前はそこを一歩も歩いてない」
「……俺は、知ってる」
「知ってるだけだ」
俺は、静かに言った。
「知ってることと、実際にできることは違う。知ってることと、人を動かせることも違う。知ってることと、失敗しながら形にできることなんて、もっと違う」
見張りの足軽が、横で腕を組んでうんうんと頷いている。
お前は頷くな、と思ったが、わりと正しいので何も言えなかった。
鎮鑑は、なおも食い下がろうとした。
「だが、俺には……!」
「ないよ」
俺は、あっさり言った。
「少なくとも、お前に今さら差し出せる札は、もう何もない」
それは残酷だが、事実だった。
鎮鑑が本当に何かを作り上げてきたなら、周りに人が残る。
敵になっても惜しまれる。
あるいは、こいつだけは生かして使うか、と言わせる。
だが、現実には臼杵で逃げようとしたところを、志賀や佐伯に売られ、十重二十重に縄で巻かれてここへ来た。
それが答えだ。
「お前の知識は、お前を助けない」
鎮鑑は、そこで初めて本当に黙った。
俺は、その顔を見ながら、胸の内で少しだけ嫌なものが動くのを感じた。
こいつは、愚かだ。
上っ面だけだ。
面倒な試行錯誤を嫌い、分かった気になって真似だけして、結局全部を壊した。
転生して、自分は特別だと信じている。いや、そもそもそれが自然なんだ。こいつや六角四郎にとっては、現実の方が自分を裏切っているに過ぎない。
まるでなろう系の出来損ない踏み台主人公のように、『創造神が定めた法則』であるかのように、自分が“特別”であることが“絶対”なのだ。
でも、だからこそ怖い。
――俺も、気を抜けばこっち側だ。
俺は、そこで立ち上がった。
「治部様?」
見張りが声をかける。
「いや」
俺は、短く答えた。
「身を慎まないとならんな、と思ってな」
「は?」
「なんか分かった気になってるけど、俺は結局どこまで行っても凡人だし」
見張りの足軽は、ぽかんとしている。
鎮鑑も、さすがに意味が分からない顔だ。
「でも、俺の場合は鼻が高くなった途端、上総介兄上や勘十郎兄上、お市たちに折られるからな!」
見張りが、思わず真顔で頷いた。
「それは……そうかもしれませぬ」
「だろ?」
「はい」
「調子に乗ってる暇なんてないんだよ」
「はい」
「ホントだよ!」
なぜか最後だけ力が入った。
地下牢の空気に、その言葉が少しだけ乾いて響く。
鎮鑑は呆然としていた。
見張りは、妙に納得した顔をしている。
俺は、そこで踵を返した。
もう十分だ。
こいつから学ぶことは、才能でも策でもない。
**こうはなるな**という、最悪にありがたい反面教師だけだ。
階段へ向かいながら、俺は肩越しに一度だけ言った。
「新次郎」
「……何だ」
「お前の一番駄目なところ、分かるか」
鎮鑑は答えない。
答えられない。
「知識があると思ってたところじゃない」
俺は振り返らなかった。
「知識があるだけで、自分が人より上だと思い込んだところだ」
それだけ言って、地下牢を後にした。
上へ戻れば、また酒の匂いと、人の声と、濃すぎる大名どもの気配がある。
面倒だ。
だが、あっちの面倒はまだ生きた面倒だ。
俺は、ひとつ息を吐いた。
「……よし」
調子に乗るな。
分かった気になるな。
面倒な試行錯誤を省くな。
それを、まさか地下牢で再確認する羽目になるとは思わなかったが、必要な確認ではあった。
「ホントだよ」
今度は小さくそう呟いて、俺はまた地上の喧騒へ戻っていった。