織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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066九州仕置決定

大坂城大広間は、いつになく重かった。

 

戦勝の後の論功行賞である。

だが、ただの恩賞の場ではない。

九州をどう残し、誰を活かし、誰を切り、誰に次の役を背負わせるか。

天下の骨組みそのものを決める場だった。

 

上段に、上総介上総介兄上。

その一段下に勘十郎勘十郎兄上。

左右には一門・有力同盟大名・九州諸家の面々が列している。

 

竜造寺山城守隆信。

大友左近衛少将宗麟。

島津三郎左衛門尉義久。

左衛門督歳久。

右衛門佐昌久。

鍋島左衛門大夫直茂。

ほむら姫。

 

そして、俺――治部大輔信繁と、刑部大輔信成。

 

上総介兄上は、しばらく広間を見渡してから口を開いた。

 

「では、始める」

一言で、ざわめきが死ぬ。

「九州の戦は終わった。されど、勝った負けただけで済ませば、また十年も経たず火を吹く」

 

兄上は、義久、隆信、宗麟を順に見た。

 

「故に今回は、潰すべきものは潰し、残すべきものは残す」

 

そこで勘十郎兄上が文台へ手を置いた。

 

「九州仕置の大枠を申し渡す」

 

その声は、上総介兄上より静かだ。

だが、静かな分だけ逃げ道がない。

 

「島津家は、薩摩・大隅・日向南部、六十万石」

「大友家は、豊後・日向北部、五十五万石」

「龍造寺家は、肥前一国、五十六万石」

 

一拍。

 

「筑前五十二万石、筑後三十万石、肥後五十八万石、豊前三十万石は、織田家直轄予定地とする」

 

広間の空気が、そこで一度大きく沈んだ。

 

残す。

だが、取り上げるところは徹底的に取る。

九州三家を生かす代わりに、のど首へ織田の手を置く仕置だった。

 

隆信が低く息を吐く。

宗麟は目を伏せる。

義久は、表情こそ動かさぬが、その重さだけは増した。

 

「なお」

と勘十郎兄上。

「浅井家、毛利家、長曾我部家には、今回の軍功によりおおむね五万石から十万石前後の加増を内定する」

 

浅井備前守長政が静かに頭を下げる。

毛利側の列も深く礼を取った。

長曾我部も同様だ。

 

「織田刑部家」

市之助が進み出る。

「播磨五十二万石に加え、美作十九万石を加増。七十一万石とする」

 

市之助が深く頭を下げる。

 

「ははっ。ありがたき幸せ」

 

「織田治部家」

俺は進み出た。

「従来の八十三万石に加え、大和残部約三十万石を加増。百十三万石とする」

 

広間の空気が、少しだけ揺れた。

 

百十三万石。

数字そのものも重い。

だが、それ以上に、「治部家」という一門家がここまで肥えたことの意味を、全員が飲み込んだのだろう。

 

俺は儀礼通り平伏した。

 

「恐れ入ります」

 

上総介兄上が、そこで短く言う。

 

「よく働いた。故に使う」

 

褒美でありながら、同時に鎖でもある。

いかにも兄上らしい一言だった。

 

そこへ、勘十郎兄上が合図を出した。

 

奥から、縄を打たれた男が引き出されてくる。

大友新次郎鎮鑑。

十重二十重とまではいかぬが、見苦しいほど縛られ、なお目だけは妙にぎらついている。

 

「大友新次郎鎮鑑」

と勘十郎兄上。

「汝、将軍家の静謐令に逆らい、主家を乱し、九州をさらに火にくべた。その罪、軽からず」

 

鎮鑑は、それでもなお叫んだ。

 

「待て! 待て待て! 俺には知識がある! 楽市楽座も鉄砲の三段撃ちも、あのでっけえ船だって俺がいれば――」

 

広間の空気が、凍るというより冷えた。

 

恥ずかしい。

見ているこっちが少し恥ずかしい。

 

上総介兄上が、顎で俺を示した。

 

「治部」

「はい」

「どう思う」

 

俺は、ほんの少しだけ息を吐いてから答えた。

 

「上っ面だけ真似して、面倒な試行錯誤を一つも経ず、知ってるだけで人より上に立てると思い込んだ阿呆かと」

 

鎮鑑が噛みつく。

 

「何だと!」

 

「楽市楽座も、鉄砲隊も、南蛮船も、言葉だけ知ってればできるものじゃない。人も金も時間も失敗も積んで、ようやく形になるもんです」

俺は一歩だけ進んだ。

「この男は、そこを一つも歩いてない」

 

鎮鑑は何か言おうとしたが、もう遅い。ほむら姫がため息をつくように視線を下げた。

 

上総介兄上が冷たく切った。

 

「良い。もう十分じゃ」

 

その一言で、鎮鑑の首から上の価値が消えた。表情も変えず勘十郎兄上が沙汰を伝える。

 

「大友新次郎鎮鑑。主家転覆、静謐令違反、淫虐、私戦扇動、その他諸罪により――打首獄門の上、二条河原にてさらし首とする」

 

宗麟が、そこで一度だけ目を閉じた。

義久も、隆信も動かない。

当然だ。

ここで鎮鑑を生かす余地は、もう誰にもない。

 

「引け」

 

鎮鑑は叫び続けた。

だが、その声はもう誰の耳にも入らなかった。

 

引きずられていく音が消えると、広間には妙に乾いた静けさだけが残った。

 

その静けさの中で、上総介兄上が今度はほむら姫を見た。

 

「龍造寺ほむら姫」

「は」

「汝、神埼より後、織田方にあって龍造寺勢を率い、筑後及び肥後掃討、並びに島津討伐でも功を立てた」

「身に余るお言葉」

「また、治部との間においても、情に流されず筋を問うたと聞く」

 

そこで、広間のあちこちの空気が微妙に揺れた。

おい兄上、そこを公に拾うのか。

拾うんだろうな、この流れだと。

 

「よって」

上総介兄上は、わずかに口元を上げた。

「龍造寺家の価値を認め、治部家奥向きへの筋を通す意味でも、ほむら姫と織田治部大輔との婚姻を認める」

 

今度は、明確に空気が変わった。

 

隆信が、ぐ、と喉の奥で鳴った。

だが、今日はまだヒグマにならない。

義久は微かに目を細める。

宗麟は、少しだけ安堵したようにも見えた。

直茂は頭を下げる。

ほむら姫は、まっすぐに前を見たまま答えた。

 

「有り難き仕儀にございます」

 

俺も、深く頭を下げる。

 

「恐れ入ります」

 

その時だった。

上総介兄上が、いかにも面白そうに言った。

 

「山城守」

「……は」

「ハウスされるでないぞ」

 

広間の何人かが、咳払いで笑いを殺した。

隆信の顔が真っ赤になる。

ほむら姫が目だけで兄を見る。

熊は黙った。

 

勘十郎兄上が、そこであえて何事もなかったように次へ進める。

 

「幕府役職について申し渡す」

 

さすがだ。

ここで笑いを引きずらせない。

 

「九州再編後の秩序維持のため、既任は原則再任とする」

「加えて、九州三家には従属大名としての軍役と在国責任を明記」

「織田治部家・織田刑部家には、それぞれ方面統括・軍政実務の責任を増す」

「浅井家・毛利家・長曾我部家には加増とともに、山陰・瀬戸内・豊後水道方面での役を負わせる」

 

これは単なる論功行賞ではない。

役職の再任と軍役の割付で、九州征伐後の勝者と敗者を、まとめて天下の制度へ押し込んでいる。

 

上総介兄上が、最後に言った。

 

「戦は終わった。だが、ここから先は“残し方”の戦じゃ」

その言葉は、広間の誰にも等しく重かった。

「残れぬ者は消える。残るに足る者は使う」

 

兄上の視線が、義久、隆信、宗麟、そして俺や市之助まで含めて流れる。

 

「九州も、西国も、畿内も、これより先は皆そうじゃ」

 

長い沈黙のあと、義久がまず頭を下げた。

 

「承った」

 

隆信も、悔しさを飲み込んで頭を垂れる。

 

「……異存なし」

 

宗麟は、深く平伏した。

 

「有り難き御裁可にございます」

 

そして俺も、市之助も、浅井も、毛利も、長曾我部も、それぞれに礼を取る。

 

大坂城大広間で、その日決まったのは石高だけではない。

誰が残るか。

誰が役を負うか。

誰が家として次の時代へ繋がるか。

 

九州の仕置は、そこでようやく、ただの戦後処理から天下の制度へ変わったのだった。

 

 

「山城守義兄上!」

 

それだけ叫んで、俺は反射で走っていた。

 

いや、待て。

自分でも分かっている。

今この場でそれを言ったら駄目だ。

駄目に決まってる。

だが、口が先に出た。

そして足も先に出た。

 

「治部大輔貴様あああああああッ!!」

 

来た。

完全に来た。

熊が来た。

 

大坂城大広間である。

本来なら荘重に、九州仕置の締めとして、重臣も大名も居並ぶ場である。

そこを、龍造寺山城守隆信が本気で立ち上がり、俺を追ってきた。

 

「待てえええええええ!!」

「待たねえよ!?」

 

俺はもう全力だった。

畳の上を滑る。

脇息を避ける。

文台を飛び越える。

完全に行儀が終わっている。

 

「山城守“義兄上”って何だ治部大輔ェ!」

「いやだって婚姻認可出たし! 筋は通ったし! だから呼称も更新しないとかなって!」

「誰が今ここで更新しろと言うたああああああ!」

 

背後で、上総介兄上がとうとう声を上げて笑った。

 

「はっはっはっはっ! よい! 実によい!」

「兄上、よくないですって!」

「面白いからよいのじゃ!」

「勘十郎兄上止めて!」

 

勘十郎兄上は額を押さえたまま、しかし口元だけが完全に諦めている。

 

「……十兵衛」

「は」

「柱を守れ」

「承知」

「止めないんですか!?」

 

十兵衛は一歩下がって、冷静に障子と柱の位置だけ見ていた。

つまり、俺と熊のどちらがぶつかっても建物被害を最小化する方向へ切り替えたのである。

 

裏切りだ。

 

「ほむら様」

 

と、鍋島左衛門大夫直茂が静かに言う。

 

「はい」

「兄上様が完全に熊でございます」

「ええ」

「お止めになられますか」

 

ほむら姫は、俺を追って駆ける隆信の背を見ながら、ほんの少しだけ考えた。

 

「……もう少しだけ」

「左様で」

 

薄情だ。

 

義久は、さすがにほんの少しだけ目を伏せた。

だが、目を伏せた肩が微妙に揺れている。

笑ってやがる。

鬼島津の兄、笑ってやがる。

 

宗麟に至っては、袖で口元を隠しながら、

 

「九州再編の終着がこれとは……」

 

とか言っている。

普蘭師司怙、お前も面白がる側か。

 

俺は広間の端を回り込み、慶次郎の背後へ飛び込んだ。

 

「慶次郎、壁になれ!」

「嫌だよ」

「即答!?」

「だって面白ぇし」

 

助右衛門は、さすがに俺の逃走経路だけは見ていたが、助ける気配は一切ない。

半兵衛に至っては、小さく呟いた。

 

「義兄上、という呼称更新は、理にはかなっております」

「半兵衛まで!?」

「ですが、時宜が零点です」

「採点してる場合か!」

 

後ろから、隆信の足音が本気で重い。

熊だ。

完全にヒグマだ。

 

「治部大輔ォ! 止まれ!」

「止まったら死ぬ!」

「殺しはせぬ!」

「その保証が一番怖いんだよ!」

 

俺はとっさに方向を変えて、義久の席の後ろへ回った。

 

「三郎左衛門尉殿、助けて!」

 

義久は杯を置いて、静かに俺を見た。

 

「嫌です」

「何で!?」

「面白いので」

「お前もかよ!」

 

「それに」

義久はごく真面目な顔で続けた。

「義兄上呼びは、確かに今申すことではありませぬ」

 

「そこは正論なんだよなあ!」

 

そして、とうとう隆信の手が俺の袖を掠めた。

 

「捕まえたぞ!」

「捕まってねえ!」

「袖が入った!」

「それで勝ち判定すんな!」

 

次の瞬間。

 

「兄上」

 

空気が止まった。

 

ほむら姫だった。

 

今度は笑っていない。

少しだけ頬が引きつっている。

つまり、妹としても若干面白かったが、さすがに大広間でこれ以上はまずい、という顔だ。

 

「……何だ、ほむら」

「戻って下さい」

「だがこやつが!」

「戻って下さい」

「しかし!」

「ハウス」

 

ぴたり。

 

本当にぴたりと止まった。

 

隆信は、俺の袖を掴み損ねた姿勢のまま凍った。

広間の全員が、それを見てまた少しだけ静まる。

そしてその静まりの向こうで、上総介兄上がまた吹き出した。

 

「くくく……山城守、本当に見事なものじゃの」

「上総介、笑うな!」

「無理じゃ!」

 

直茂が、静かに一礼する。

 

「ほむら様、収拾お見事にございます」

「褒めても何も出ません」

「いえ、家の面目が少し戻りました」

「それは結構です」

 

俺は、息を切らしながら畳の上へ崩れ落ちた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

お市が、上座寄りから静かに言う。

 

「治部殿」

「はい……」

「今のは零点です」

「厳しい!」

 

真理姫が、にこやかに続ける。

 

「でも、少し可愛らしかったですね」

「それは助け船なのか?」

 

雪姫が真面目な顔で首を振る。

 

「違うと思います」

「だよな!」

 

鶴姫はむしろほむら姫を見つめていた。

義姫は目線は冷たいが口元は笑ってる。

美景姫は、お腹を抱えぬ程度に肩を揺らしている。

香耶姫でさえ、目元だけは少し緩んでいた。

 

そして、ほむら姫がようやく俺の前まで来る。

 

「治部大輔殿」

「何でしょう……」

「山城守義兄上、ですか」

「いや、あの、ちょっと口が」

「更新は正しいです」

「おっ」

「ですが」

「はい」

「広間を走るのは減点です」

「そこも採点なの!?」

「当然でしょう」

「何点だよ!」

 

ほむら姫は少しだけ考えた。

その顔が、妙に真面目なのが腹立たしい。

 

「……五十五」

「さっきより下がってるじゃねえか!」

「大広間を走ったので」

「そこがそんなに重いのか!」

「重いです」

 

隆信が、ようやく席へ戻りながらぶつぶつ言う。

 

「義兄上だと……義兄上……」

 

直茂が横で小さく呟く。

 

「兄上様、だいぶ気に入ったように見えますが」

「気に入っておらん!」

「左様で」

 

義久は、もう完全に面白がるのを隠していない。

宗麟は袖で口元を押さえたまま、深く頷いている。

 

「九州の再編、誠に奥深い」

「そこへまとめるな!」

 

上総介兄上が最後に、笑いながら手を打った。

 

「よし、仕置も済み、婚姻も認め、加増も決まった。治部も走った。もう十分じゃろう」

「最後の一つおかしいですよ兄上!」

「おかしくない。実にめでたい」

 

勘十郎兄上が、小さく息を吐く。

 

「……本日はこれにて一旦閉じる」

 

その声で、ようやく広間が評定の形へ戻り始めた。

 

俺はまだ畳の上で息を整えていたが、ほむら姫がその横で小さく言った。

 

「治部大輔殿」

「うん」

「次からは、場所を選んで下さい」

「……はい」

「ですが」

「何だ」

 

彼女は、ほんの少しだけ笑った。

 

「義兄上、は悪くありませぬ」

 

その一言で、また隆信の肩がぴくりと動いた。

俺は、心の中で合掌した。

 

――盤外戦、終わってねえなこれ。

 

そう思いながらも、九州仕置の大広間に、ようやくほんの少しだけ人間らしい温度が残ったのは、たぶん悪いことではなかった。

 

 

夜更けの廊下は、宴の熱が嘘みたいに静かだった。

 

けれど、その静けさの向こうから、少し乱れた足音が近づいてきた時点で、お市には誰だか分かった。

 

障子が細く開いて、覗いた顔は案の定だった。

 

「……治部殿」

「お市……」

 

返事の仕方でもう駄目だった。

普段なら、たとえどれだけ飲んでいても、まず一度は姿勢を整える。目元を拭って、声を作って、最低限の体裁は保つ。

それが今日は、最初から崩れている。

 

「随分飲まされましたね」

「飲まされた……」

「自分から進んで飲んだ顔ではありませんね」

「進んだのも、ある……でも後半は、絶対あれ面白がってた……」

 

お市は思わず笑ってしまった。

 

「入ってください」

「いいの?」

「ここまで来ておいて、今さら外へ返しません」

 

そう言うと、信繁は安心したみたいにふっと肩の力を抜いた。

そのまま畳へ膝をついたかと思うと、ほとんど転がるようにお市の布団の脇へ崩れ込む。

 

「ちょ、治部殿」

「ん……」

「そんなところで寝たら、風邪を引きます」

「引かない」

「言い切るのですか」

「お市の部屋だから……」

 

その返し方が、もういつもの治部大輔信繁ではない。

お市は呆れ半分、心配半分で、そっと上着を脱がせ、肩へ薄い夜着を掛けた。

 

すると信繁が、顔だけ少し上げた。

 

「お市」

「はい」

「髪の匂い、好き」

「……は?」

 

唐突すぎて、お市は一瞬、本当に固まった。

 

「布団の匂いも、好き」

「ちょ、治部殿」

「落ち着く……」

「そうですか……」

「うん……すごい落ち着く」

 

そこで終われば、単に酔って甘えているだけだった。

けれど、信繁はそこで止まらなかった。

 

「でも」

「……」

「落ち着くのに、ずっと、心臓どきどきする」

 

お市の手が止まる。

信繁は半分閉じた目のまま、ぽつりぽつりと続けた。

 

「出会ってから、ずっと」

「……」

「今でも、毎日惚れ直してる」

「……」

「何なんだろうな、あれ」

「何、とは」

「子供の頃、初めて見た時」

「はい」

「同じ人間だと思えなかった」

「……」

「綺麗とか、そういう言葉より、可憐すぎて」

「……」

「天女様かと思った」

 

お市は、耳まで熱くなるのが自分でも分かった。

何を言い出すのだ、この人は。

 

しかも、あまりに真面目な声で言うから困る。

酔っているのに、ただの軽口にも、色事の勢いにも聞こえない。

本当に、胸の奥に沈めていたものが、酒で浮いてきてしまったみたいな声だった。

 

「治部殿」

「うん」

「それは、さすがに酔い過ぎです」

「酔ってる」

「自覚はあるのですね」

「ある」

「なら、明日には忘れてください」

「忘れたくない」

「……」

 

ずるい。

本当にずるい。

 

お市が何も返せずにいると、信繁は布団へ頬を寄せたまま、また少し声を落とした。

 

「奥も、人数増えて」

「……」

「側室も、赤ん坊も、女官も、どんどん増えて」

「はい」

「管理すること、いっぱい増えたのに」

「……」

「お市に負担ばっかり掛けてる」

 

お市は、胸の奥が少しきゅっとした。

 

そこは、普段から分かっているつもりだった。

分かっていて、お互いあえて言葉にしすぎないようにしてきた部分でもある。

 

信繁は、家を広げる。

人を抱える。

政も戦も婚姻も、止まらず動かす。

そのたびに、奥のまとめ役としてお市の両肩に乗るものは増える。

それを承知で、お市もここにいる。

 

けれど、承知していることと、改めて礼を言われることは別だった。

 

「でも」

「……」

「全然、感謝できてなかった」

「治部殿」

「ありがとう」

「……」

「お市がいてくれるから、中国だって九州だって、安心して遠征できる」

 

お市は、とうとう視線を逸らした。

そんなふうに真正面から言われたら、たまらない。

しかも、この人はいつも肝心なことほど言わないくせに、こういう時だけ妙にまっすぐ刺してくる。

 

「でも、本当は」

信繁が、少しだけ笑った気配がした。

「お市一人が良かった」

 

「え……」

「お市一人だけを、とことん愛したかった」

「……」

「だから、上総介兄上から、お市をやるって言われた時は」

「……」

 

「人生で一番、幸せの絶頂だった」

そこまで言ってから、少し間を置いて、

「……まあ、真理姫を見た時は、それもしょうがないって思ってしまったけど」

と続けた。

 

お市は、思わず吹き出した。

 

「治部殿」

「うん」

「そこは正直なのですね」

「意思弱いな俺……」

「ふふ」

「でも」

「はい」

「お市が特別なのは、本当にずっと変わってない」

 

その一言で、笑った顔のまま、また胸をやられる。

本当に、この人はずるい。

 

信繁はさらに、布団へ額を押しつけるようにして言った。

 

「墨俣のときも」

「……」

「本当に申し訳なかった」

「……治部殿」

「せっかくの婚姻の儀だったのに」

「……」

「台無しにした」

「武人としては正しかったのでしょう」

「武人としてはね」

「はい」

「でも、夫としては」

「……」

 

「今でも後悔してる」

その声は、さっきまでよりずっと低かった。

「たとえお市が許してくれても」

 

「……」

「やってしまったことは、取り返しがつかない」

「……」

「今でも、あれは罪の意識として残ってる」

 

お市は、膝の上へそっと手を重ねた。

 

そこまでだったのか。

そこまで真面目に抱えていたのか。

 

あの時、信繁は確かに家のために正しかった。

それはお市にも分かっていた。

だから受け入れた。

受け入れたし、言葉ほど責めるつもりもなかった。

 

でも、この人は、責められていないからこそ、自分で責め続けていたのだ。

 

「治部殿」

「うん」

「私は、あれを恨んではいません」

「知ってる」

「なら」

「知ってても、消えないのはある。やってしまったっていう事実は消えない」

 

お市は黙った。

その言い方が、あまりに信繁らしかったからだ。

 

「あと」

「まだあるのですか」

「ある」

「……聞きましょう」

「頑張って、子供産んでくれてありがと」

「……」

「出産って命がけなのに」

「……」

「俺が何か、無駄に子供出来ちゃうんで」

「ちょ、治部殿」

「けっこう期間あけずに子供作っちゃって」

「治部殿!?」

「大変だと思う」

「そ、その言い方はやめてください!」

「いつも感謝してるけど」

「……」

「伝えられてなくて、ごめん」

 

お市はもう、顔を上げられなかった。

 

真っ赤になっている自覚がある。

耳も熱い。首まで熱い。

たぶん今、見られたらまともに立っていられない。

 

でも、こんな顔になるのも仕方ないではないか。

 

あ、又八郎、いや太郎左衛門、いや治部殿って、ここまで真面目だったんだ。

 

知っていたつもりだった。

子供のころからずっと見てきた。

この人が食べ物や田んぼのことで変なことを言い出して、その内に上総介兄上と勘十郎兄上の間を取り持って、林佐渡守や平手中務丞との間を取り持ち、馬に変な乗り方をしていたと思ったら津島で皇甫爺を見つけて。桶狭間を前に元服を願い、家を背負って、義元を討って名を上げて。

それからずっと皆を抱えて、無茶なほどちゃんと考えている人だということは、誰より分かっていたつもりだった。

 

でも、こういうふうに、自分に向けた後悔や感謝まで、こんなに抱え込んでいたとは知らなかった。

 

やっぱりずるい。

惚れているのは、こっちの方なのに。

 

本当、奥様はみんな、この人に惚れて、感謝して、頼って、尽くしたいし助けたいのに。

変な人。

好きだけど。

 

しばらくして、信繁の呼吸が少しゆっくりになる。

寝入ったようにも見えた。

 

お市はそっと息を吐いて、小さな声で呟いた。

 

「……私だって、初めて出会ったときからずっと好きでしたよ」

「……」

「素直になれなくて、ごめんなさい」

 

次の瞬間だった。

 

「え、ほんと!?」

 

信繁が、がばっと起きた。

 

お市は本気で飛び上がりそうになった。

 

「やだ、起きてたんですか!?」

「いや、途中でちょっと寝かけてたけど、今のは聞く」

「聞かないでください!」

「無理だろ!」

「寝た振りしてたんですか!?」

「寝入ってしまった振りで反応見ようかなって途中で思った!」

「最悪です!」

「ごめん! でも今のは本当に!?」

「もう知りません!」

 

お市が枕を掴んで信繁の肩を叩くと、信繁は笑いながらそれを受け止めた。

酔いはまだ残っているくせに、こういう時だけ妙に目が冴えているのが腹立たしい。

 

「本当にずるい」

「俺?」

「治部殿です」

「え、でも今のは嬉しかった」

「言わなければよかったです」

「いやそれは困る」

「困ってください」

「困るけど嬉しい」

「……」

「お市」

「……何ですか」

「もう一回言って」

「嫌です」

「一生のお願い」

「軽いです」

「軽くない」

「酔ってます」

「酔ってるけど、本気」

 

お市は、はあと大きくため息をついた。

ため息をついたのに、口元が少し緩んでしまう。

 

本当に、しょうがない人だ。

 

「……好きですよ」

 

今度は、さっきより小さくはっきり言った。

 

信繁が、目を見開いたあと、妙に真面目な顔になった。

 

「俺も」

「さっき散々聞きました」

「まだ足りない」

「足りませんか」

「毎日惚れ直してるって言っただろ」

「……」

「だから毎日言っても足りない」

「ずるい」

「今さらだろ」

 

それは、ついさっきまで自分が内心で言っていたことだった。

余計に可笑しくなって、お市はとうとう笑ってしまう。

 

信繁はその笑った顔を見て、少し安心したように肩を落とした。

それから、おそるおそるみたいな手つきで、お市の袖をつまむ。

 

「もう少し、ここにいていい?」

「自分の足で来ておいて、今さら許可を取るのですか」

「取る」

「……いいですよ」

「ありがとう」

「その代わり」

「うん」

「明日、今夜のことを全部忘れたふりをしたら怒ります」

「それはしない」

「本当ですか」

「今夜のは、忘れたくない」

 

お市はそのまま、少しだけ信繁の肩へ寄った。

信繁も、躊躇いがちに寄ってくる。

戦場では迷いなく動くくせに、こういう時だけ妙に慎重なのがまた可笑しい。

 

「治部殿」

「うん」

「もっと早く言ってくださればよかったのに」

「言ったら、止まらなくなる気がしてた」

「何がですか」

「好きが」

「……」

「家のこともあるし、奥のこともあるし、だから理屈で押さえてた」

「押さえ切れていませんでしたね」

「酒が悪い」

「人のせいにしました」

「酒のせい半分、俺のせい半分」

「全部治部殿のせいです」

「それは認める」

 

お市は小さく笑って、信繁の髪をそっと撫でた。

 

さっきまであれだけ真っ赤になっていたのに、不思議と今はもう少し落ち着いている。

たぶん、言ってしまったからだ。

この人が思っていたことも、自分が思っていたことも。

 

信繁は撫でられたまま、心底安心したみたいな顔をした。

 

「お市」

「はい」

「やっぱり、落ち着く」

「知っています」

「でも、どきどきもする」

「それも、もう知っています」

「天女様」

「それはもうやめてください」

「綺麗」

「もう寝てください」

「好き」

「……私もです」

 

そう返すと、信繁は満足したみたいに目を閉じた。

今度こそ、本当に眠るのだろう。

 

お市はその寝顔を見下ろして、そっと笑った。

 

変な人。

好きだけど。

 

その言葉を、今夜は胸の中だけではなく、ちゃんと口に出来たことが少し嬉しかった。

 

 

朝の膳が並び始めた頃から、空気が少し妙だった。

 

妙、というより――甘い。

 

お市はいつも通り落ち着いている。

治部殿も、表向きは普段通りだ。

だが、普段通りの顔をしているからこそ、分かる人には分かる。

 

近い。

 

言葉の距離ではない。

視線の向け方だとか、声をかける間だとか、そういう細いところが、妙に新婚の頃めいている。

 

真理姫が最初に首を傾げた。

 

(……あれ?)

 

治部殿が、お市へ湯気の立つ汁椀を静かに寄せる。

それ自体は珍しくない。

だが、その時の目が、少し柔らかすぎた。

 

お市も、お市でそれを当たり前のように受ける。

受けるが、頬のあたりに微かな熱が残っている。

 

雪姫も気づいたらしく、箸を持つ手が少しだけ止まった。

ほむら姫は、露骨には見ない。

だが見ている。

義姫は一瞬だけ目線に感情を乗せた。

美景姫と香耶姫は、さすがに臨月が近いぶん大きく動かないが、視線だけで会話していた。

 

そんな中で、治部殿が魚の身をほぐした。

 

焼き加減のよい白身だ。

小骨をきちんと除いて、一口分だけ箸先で持ち上げる。

 

そして。

 

「お市」

「はい?」

「はい、あーん」

 

座敷が止まった。

 

真理姫の箸先も止まった。

義姫は今度こそ目を見開いた。

ほむら姫ですら、さすがに一瞬だけ真正面から見た。

 

お市は、そこで驚いた顔をした。

したが、ほんの一瞬の後には、困ったように、でもまんざらでもなさそうに笑った。

 

「……朝から、そのようなことを」

「嫌か?」

「嫌ではございませんが」

「じゃあ、あーん」

 

治部殿は、妙に自然だった。

照れがないわけではない。

だが、それ以上に、**昨夜の延長として筋が通っている**顔だった。

 

お市は少しだけ周囲を見て、でも結局、静かに口を開けた。

 

「……あーん」

 

魚を受ける。

 

その所作が、無理に初々しいのではなく、むしろ二人の間に昔からあった何かが、今さら表へ出てきたような自然さで、余計に強かった。

 

真理姫の中で、そこで何かがぴんと繋がった。

 

(あっ)

 

分かってしまった。

 

昨夜、何かあったのだ。

しかも、ただの睦言ではない。

治部殿が、お市へきちんと言葉を渡したのだ。

 

新婚の頃みたいな、でもあの頃よりずっと重い甘さ。

それが今、朝餉の席へまで滲んでいる。

 

(正室、強い……)

 

そう思った瞬間、真理姫は自分で少し笑いそうになった。

 

強い。

確かに強い。

でも、それでしょんぼりしている場合でもない。

 

(でも、負けてられない)

 

そう思った途端、胸の中で別の火がついた。

 

治部殿は、お市が食べたのを見て、少しだけ満足そうに笑った。

それを見たお市が、今度は自分の箸で卵焼きを少し切る。

 

「治部殿」

「うん?」

「お返しです」

「え」

「はい、あーん」

 

今度は治部殿の方が一瞬止まった。

 

さすがに予想していなかったらしい。

けれど、逃げなかった。

 

「……朝から強いな」

「どなたかが先に始められたのでしょう」

 

「はいはい」

そう言いながら、治部殿も素直に口を開ける。

「……あーん」

 

お市は、その顔を見て少しだけ無邪気に笑い、卵焼きを食べさせた。

 

座敷の空気が、今度は完全に変わった。

 

気まずいのではない。

甘い。

だが、見せつけられた感じとも少し違う。

 

ああ、この二人、ちゃんと夫婦なのだ。

しかも、年月の分だけ根が深いのだ。

 

それを、朝から真正面で見せられてしまった感じだった。

 

真理姫が最初に立ち直った。

 

「……治部殿」

「何だ」

「今日は、ずいぶんとお優しいのですね」

「今日は、って何だ」

「いえ、普段からお優しくはありますけれど」

「けれど?」

「分かりやすいのは珍しいかと」

 

治部殿は、そこでさすがに少し咳払いした。

だが、お市は横でまだ少し頬が赤い。

 

雪姫も、静かに続ける。

 

「その……良いことだとは思います」

「何だその“その”は」

「朝から少し心臓に悪いだけで」

 

ほむら姫が、そこでふっと息を吐いた。

 

「なるほど」

「何がだ」

 

と治部殿。

 

「正室、強しということです」

 

お市が少し困ったように笑う。

 

「ほむら姫様」

「事実でしょう」

 

美景姫が奥から、腹へ手を添えたまま小さく言う。

 

「でも、よく分かります」

 

香耶姫も短く続けた。

 

「ええ。あれを見せられると」

 

真理姫は、その時にはもう切り替えていた。

 

(そういうことなら、こちらもちゃんと応じないと)

 

嫉妬がないわけではない。

でもそれ以上に、良いものを見た、という気持ちが勝つ。

 

それに、治部殿はこういう時、誰か一人だけを雑に優先して、他を捨てるような人ではない。

ならばこちらも、拗ねるより、ちゃんと受け取って前へ出た方がいい。

 

「治部殿」

「うん?」

 

真理姫は、にこやかに微笑んだ。

 

「後で私にも、今日は少しだけお優しくして頂けますか?」

 

治部殿が、そこで目を瞬いた。

そして、奥向きの空気がもう一段変わったことに気づいた顔をする。

 

雪姫も、頬を染めつつ小さく言う。

 

「私も、その……負けてはいられません」

 

ほむら姫は腕を組んだまま、少しだけ目を細めた。

 

「では私も、七十点を目指します」

「何でそこ採点なんだよ」

 

思わずそう返した治部殿へ、周囲の女たちの空気が一斉に柔らかくなった。

 

朝の光の中で、奥向きの空気はたしかに変わっていた。

 

正室が強い。

それは間違いない。

だが、それを見て萎れる奥ではない。

 

むしろ、

 

**でも、負けてられない。**

**good choice。**

 

そんな前向きな火が、静かに灯った朝だった。

 

 

夕刻、座敷には珍しく肩の力が抜けた空気が流れていた。

 

九州仕置の大筋は片づき、大坂での面倒な評定や召致も一段落した。

とはいえ、暇になったわけではない。

むしろ次は東だ、内政だ、海運だと、考えることは増える一方である。

 

ただ、そういう時ほど、頭の使い方を少し変える雑談めいた時間が役に立つこともある。

 

信繁は湯呑を手にしたまま、向かいに座る鶴姫、美景姫、ほむら姫を見た。この面子だけだと、話せることは決まっている。

 

「戦国時代に現代知識持って転生とか、なろう系であるじゃない?」

 

鶴姫が即座に眉を上げた。

 

「あなた今さら何を言ってるんだか」

 

「いや」

信繁は少し笑う。

「色々考えるにさ、そういう主人公ってすごいなーって」

 

美景姫が、やや困ったような顔で首を傾げる。

 

「えっと、治部殿も割とやらかしてる方だと思うんですけど」

 

「いやいや、俺の場合は違うんだよ」

信繁は、そこで指を折るみたいに言葉を並べ始めた。

「信定公からの織田弾正忠家の蓄積と、初期の経済的な側面における資本の集中投下と、それによる利益回収、そしてそれを基幹にした資金担保があったからで」

 

ほむら姫が、その言葉を一度飲み込んでから要約する。

 

「つまり、幼少期の時点で、お金をたくさん稼げる仕組みを構築できたから今がある、と?」

 

「そうそう」

信繁は頷いた。

「元手ほとんどいらない椎茸養殖とか、ニーズも豊富で割と原価も安いし、あれは当たりだった」

 

鶴姫が、そこで感心半分、呆れ半分の顔になる。

 

「まあ、あれは確かに強かったですねぇ。地味ですけど」

 

「地味なのがいいんだよ」

信繁は言う。

「派手な一発より、回る仕組みの方が大事だから」

 

それから少し身を乗り出した。

 

「で、なろう系の主人公ってさ、何でもかんでも一人でちゃっちゃとやっちゃうじゃん?」

 

鶴姫が、苦笑混じりに頷く。

 

「ああ、昔はそういう傾向ありましたねぇ。さすがに後の時期になると、色々現地の人材と噛み合わせてやったりして」

そのまま、少し面白そうに続ける。

「しかも、『この時期こいつは浪人してたから雇うぜ!』みたいな、アリバイ工作しつつ人材コレクション要素も打ち出したりしてましたけど」

 

「そうそう」

 

「でも」

鶴姫はそこで現実へ戻すように肩をすくめた。

「大名家だって要は命を預ける雇用先ですからね。浅井家とか割と初期の頃だと、なかなか浪人してるっていっても来てくれない人材多いですよ。こっちに信用とかないですし」

 

信繁が深く頷く。

 

「そこなんだよな。大大名じゃない限り、人材は基本紹介ベースじゃないとなかなか雇えない」

「はい」

「で、色々やるのはいいんだけどさ。失敗するリスクってどうしてるんだろって思うんだよね」

 

美景姫が、その問いにはすぐ反応した。

 

「あー、わかります」

声は柔らかいが、言っていることはかなり重い。六角のバカ殿のことが思い浮かんだのかもしれないな。

「ただでさえカツカツな戦国時代の生活で、余剰資金を新規分野に投入する場合、歩留まりというか、成功前提じゃないととても投資できませんもんね」

 

「そう」

信繁は美景姫を見て頷く。

「そこなんだよ。今ある米、今ある金、今いる人手を、まだ儲かるかも分からんものに突っ込むって、この時代の現場感覚だと相当怖い」

 

ほむら姫が、その先を引き取った。

 

「失敗して、下手すれば無駄な金を遣ったって責任追及されますし」

「うん」

「家中から批難を浴びて、追放や斬首一直線もありえます」

 

「そうなんだよ」

信繁は思わず膝を打った。

「成功した後だけ見れば“やればよかったじゃん”ってなるんだけど、その前には失敗する可能性が普通にあるからな」

 

鶴姫が、少しだけ目を細める。

 

「しかも、戦国の失敗って、家中そのものの浮沈がかかっている分、現代の失敗より重いですからねぇ。事業が飛ぶだけじゃなく、家中の信任も、命も飛ぶ」

「その通り」

 

座敷に一瞬だけ静けさが落ちる。

 

成功談だけ見れば華やかだ。

だが、その下には、金と人と命の薄い時代に、薄氷を踏むような判断がある。

 

信繁はそこで少し笑った。

 

「あと、割と大名家の財政規模とか戦争技術を革命的に変えるようなことしちゃってるのに、身の安全に無頓着だったりね」

 

ほむら姫が横を見る。

 

「と、申しますと」

「俺なんか、いつ武田家や三好家辺りから暗殺忍者派遣されるか、ビビりまくってたし」

 

美景姫が吹きそうになるのを堪えた。

 

「それは、まあ……」

 

「だから早めに柳生の剣士欲しかったんだよな」

信繁は、かなり真面目な顔で言う。

「忍者働きも出来る凄腕剣士、最強」

 

ほむら姫が、そこで口元を少しだけ緩めた。

 

「実にあなたらしい発想です」

「褒めてる?」

「半分ほど」

 

鶴姫が、横から挟む。

 

「でも実際、そこを考えない主人公多いんですよねぇ。知識がある、作る、広める、はい大成功、で飛びすぎる」

 

「そう」

信繁は頷く。

「それでいて、敵対勢力から命狙われるとか、既得権益に潰されるとか、そこが妙に薄い」

 

ほむら姫は、少しだけ真顔に戻った。

 

「それでも、大友新次郎鎮鑑みたいに、現代的な倫理観でもアウトなことをやらかすのもどうかと思うんですけど」

 

「そうなんだよなぁ」

信繁は、天井を見上げるみたいにして息を吐いた。

「戦国時代だから周囲の人間が自分より遅れてるとか、変な風にスイッチ入っちゃうと、好き勝手やり始めるんだろうなぁ」

 

そこで声が少し冷える。

 

「六角のバカ殿みたいに、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して勝手に死んでく奴とかいるし」

 

鶴姫が、やや肩をすくめた。

 

「東北方面にはそういう変な意味での特異点さん、いないと良いですね」

 

美景姫も、慎重に言葉を継ぐ。

 

「情勢が見られるなら、むしろ現状だと積極的に中央と繋がろうとするはずですし。そういう家中での判断に噛めない立場なら、元から権力も地位もないので、そこまで過剰な警戒は不要でしょう。そもそも、東北だともう現時点では大体盤面的に詰みでしょうしね」

 

「うん」

信繁は頷く。

「佐竹や蘆名、南部に安東、里見、それぐらいだともう逆転は難しいよな」

 

ほむら姫が即座に返した。

 

「今だと精々北条家ぐらいですかね、目があるとしたら。それでもけっこう分の悪い賭けになるでしょうが」

「やっぱそうか」

 

「ええ」

彼女は、淡々としたまま続ける。

「私なら北条家でも、家名存続と生存一択ですけど」

 

「まあ、織田家とその友好大名が、幕府と朝廷を背景にしてる時点で、もう遅いでしょう」

 

美影姫の言い方は冷たいが、現実的だった。

 

鶴姫も頷く。

 

「北条って、甲駿相三国同盟が機能している内に、関東方面を手早く攻略する、そして武田信玄や今川義元、上杉謙信相手に上手く立ち回って正面対決を避ける必要があります。あまり上手に関東を攻略しても、特に武田家なんかの同盟相手が足を引っ張るのは目に見えてますし、周囲の状況から、延命や条件闘争はできても、“ひっくり返す”は無理ですよねぇ」

 

「そうそう」

信繁は言う。

「だから困るんだよ。自分を過信できちゃう六角家や大友の奴らみたいなのがいたならば……」

 

そこから少しだけ考え込むように間を置いて、

 

「でも、島津家の右衛門佐みたいな智謀系とか、もしも松永弾正みたいな毒物系だと、またそれはそれで対処が大変だ」

 

ほむら姫が、小さく息を吐いた。

 

「毒は、使える毒ほど処理に困りますからね。自覚がある場合はなおさらです」

「そうなんだよな」

「右衛門佐殿も、あれで止まる理があるからまだいいんです。宇喜多直家や松永ボンバーマンみたいに、分かっていてなお毒であり続ける手合いは、別の意味で厄介です」

 

美景姫が、その比較には苦笑した。

 

「そこを同列に置くの、ちょっと右衛門佐殿が可哀そうな気もしますけど」

「可哀そうだけど、警戒は必要」

 

信繁がそう言うと、鶴姫が少し笑った。

 

「まあ、もう少し頑張って下さいよ、旦那様」

 

信繁が顔をしかめる。

 

「他人事みたいに言うな」

「半分は他人事です」

「半分かよ」

 

「でも半分は当事者です」

鶴姫は、妙に涼しい顔で湯呑を置いた。

「東国だろうが東北だろうが、結局またあなたが面倒な相手を拾ってきて、家の中にまで持ち込むのでしょうから」

 

美景姫が、そこで少しだけ笑う。

 

「それは、ありそうですね」

 

ほむら姫も、否定しなかった。

 

「ええ。かなり」

 

信繁はしばらく黙った後、肩を落とした。

 

「……否定できねえ」

 

それには、三人とも少しだけ笑った。

 

九州が片づいても、平和になったわけではない。

むしろ、残った者が増え、使える者も厄介な者も広がった分だけ、天下の盤はさらに複雑になっていく。

 

だがだからこそ、こうして一歩引いて見直す時間は必要だった。

 

知識だけでは足りない。

資本だけでも足りない。

人材だけでも、安全保障だけでも足りない。

全部いる。

そして、そのどれも失敗しうる。

 

その現実を知っている者同士の会話は、妙な安心感があった。

 

信繁は最後に湯呑を傾けて言った。

 

「よし。じゃあ東国も、まずは地味に行くか」

 

鶴姫が即座に返す。

 

「その“地味”が大体地味じゃないんですよ、あなたの場合」

「ひどいな」

「事実です」

 

美景姫が苦笑し、ほむら姫は小さく頷いた。

 

「その点については、私も異論ありませぬ」

「お前ら、味方だよな?」

「ええ」

「ええ」

「ええ」

 

即答だった。

 

それが余計にひどかった。ご都合主義万歳だって?

 

 

 

 

 

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