織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
その頃から、俺は馬の上だけでなく、日々視界が少し広くなった気がしていた。
いや、物理的に遠くまで見えるという話ではない。
人の動きの嫌な筋が見えるのだ。
並び。
位置。
先触れの有無。
誰が何を軽く見ていて、どこで面目がこじれるか。
喜六郎殿の件も、その一つだった。
川遊びだか川狩りだか、その辺りの話が家中で出た時、俺の頭には嫌な筋がすぐ浮かんだ。
庄内川の辺り。
松川の渡し。
守山。
そして、若い身内が、供もつけずにひょいと馬で通ってしまうこと。
こういうのが危ない。
だが、ここで
「そこで誤って射殺されます」
などと口にしたら、それこそ俺が気味悪い。
だから父上には、そうは言わなかった。
「父上」
「何じゃ」
「若い方々が、一門衆の城下や渡し場を通られる折のことですが」
「うむ」
「近しい間柄ほど、先触れや供回りが緩みがちではありませぬか」
父上はそこで目を細めた。
「何ゆえそう思う」
「若い方は、悪気なく足が軽うございます」
「……」
「ですが、受ける側がどう取るかは別です」
「うむ」
「しかも近しい間柄ほど、“このくらいはよかろう”となりやすい」
「……」
「そういうところで面目違いが起きると、つまらぬことが大きくなります」
父上はしばらく黙っていたが、最後には頷いた。
「……本家へ回す」
それで十分だった。
父上から上総介兄上へ話が行き、一門の若殿衆が他領の渡し場や城下を通る折には、先触れと供回りを省かぬこと、という運用が改めて引き締められた。
別に新法というほどのものではない。
もともと当たり前の礼式だ。
ただ、有名無実になりかけていたものを、今一度締め直しただけである。
その結果、喜六郎殿が守山を通る折にも、先触れは先に入り、向こうも家中全体で承知していた。
若い方が単騎でふらりと通るのとは全然違う。
だから向こうの家臣も、無礼者と早合点して矢を放つ筋へは行かなかった。
周囲から見れば、
「やはり若い方の通行は、先触れが要るな」
で終わる話だ。
それでいい。
だが俺だけは知っている。
ここで人が死なずに済んだ。
守山の孫十郎殿もまた、甥の誤射死から逐電する轍を踏まずに済んだ。
だが、それは結果としてそうなったのであって、俺が口に出すことではない。
口に出さぬからこそ、日常の中へ埋まる。
守山から那古野に移った孫三郎殿の件も同じだった。
あれも、真正面から
「近臣が北の方と通じて、のちに主へ刃を向けます」
などとは言えない。
言えば、全部が壊れる。
だから俺は、見えている破綻の筋を、あくまで不穏として父上へ回した。
「父上」
「何じゃ」
「那古野は重い城です」
「うむ」
「それだけに、近習たちの出入りが緩むと、後で大事になりませぬか」
「……」
「近いところほど、誰も見ておらぬと思う者が出ます」
「……」
「北の方の御側へ近い筋ほど、かえって締めておいた方がよろしいかと」
父上は噂だけでは動かない。
だが、締めるべき時は締める。
その結果、坂井孫八郎の狼藉は大きくなる前に押さえられた。
姦通と反乱は、表へ出る前に潰れた。
周囲にとっては、
「近臣の不始末が大事にならずによかった」
で済む。
それでいい。
大事なのは、那古野で織田一門の血が流れなかったことだ。
そういう小さな事故や破綻の芽が、少しずつ減っていくと、一門の空気そのものが変わってきた。
まず、簡単には欠けない。
欠けないから、皆が先回りして疑い合わない。
疑い合いが薄れると、無理に牙を剥く理由も痩せる。
犬山の下野守殿も、そうだった。
あの人は、本来ならもっと荒れやすい位置にいる。
だが、一門がまず団結し、事故や急死や内紛の芽が目に見えて減ってくると、「今この家はそのうち勝手に割れる」とは読みにくくなる。
そうなると、乗る側も慎重になる。
結局、織田家中は、一門がまず団結する方へ傾いた。
大殿がまだ生きていることが重石となる。
上総介兄上が立つ。
勘十郎兄上が支える。
叔父筋も軽々しく欠けない。
その土台の上で、ようやく周りが動く。
俺はその流れを見ながら、何となく思っていた。
戦国というのは、派手な一戦で変わる前に、こういう「割れるはずのところが割れない」「事故で死ぬはずの筋が自然に消える」ところから変わるのかもしれない。
もちろん、表向きはそんな言い方はしない。
出来ない。
周囲から見えるのは、せいぜい
「若様が妙に面倒くさく口を挟む」
「父左衛門佐様が筋を通して先に締める」
「その結果、特に大事が起きぬか、あるいは大事の前の小事で済んだ」
その程度だ。
だが、その「その程度」が積もると、一門はかなり強い。
父上が、ある日ぽつりと言った。
「又八郎」
「はい」
「そなた、この頃は馬から降りても面倒くさいな」
「褒め言葉ですか」
「半分は」
「残り半分は」
「本当に面倒くさいという意味だ」
そこは否定できない。
だが、その面倒くささで人が死なずに済むなら、少しくらいは仕方ないだろうとも思う。
もっとも、家中での俺の評は別だった。
「小田井の神童、今度は馬の上から面倒ばかり見つけてくる」
「神童というより、厄介者では」
「どちらにせよ、放っておくと何か当てる」
ひどい話である。
だが、その頃の俺はもう少しだけ分かっていた。
神童だろうが、変人だろうが、厄介者だろうが、織田家中がまず割れずに済むなら、それでいい。
少なくとも、死ぬよりはずっとましだ。
♢
永禄二年の暮れが近づくにつれ、小田井城の空気は、目に見えぬまま少しずつ張っていった。
風は冷たい。
川音は遠い。
だが城の内では、それよりも、馬場から届く若い者どもの声の方が耳へ残る。
槍の柄が鳴る。
木剣が打ち合わされる。
馬の嘶きが混じる。
戦が近い。
それを、誰も口にはせぬ。
だが、誰もが知っていた。
左衛門佐は文机の前で、そうした音を聞きながら、わが子のことを考えていた。
塩水で種を選ぶ。
魚の干したものを田へ入れる。
肉を食う。卵を食う。乳はきちんと煮立ててから飲む。
口を濯ぎ、手を洗う。
夜更かしを減らし、眠れる時には少しでも寝る。
裸馬に手綱や鞍、鐙もなしで乗る。
どれも最初は、子供の妙な思いつきに見えた。
だが、その妙な思いつきが、家中の顔色を変えた。
熱を出しやすかった者が丈夫になり、痩せていた若い者が育ち、田も目に見えて実るようになった。
仔馬から育てた中には五尺にもならんとする若馬が育つようになった。
「神童、か……」
左衛門佐は、小さく独りごちた。
そう呼ばれるのも分かる。
分かるが、少し違うとも思う。
目立ちたがりな子ではない。
むしろ逆で、自分が褒められるより先に、家のどこが緩んでいるかを見つける方を好む。
子供の顔をしていても、見ている場所だけが妙に年寄りじみている。
その時、障子の外で気配が止まった。
「父上、お忙しきところ、失礼いたします」
「入れ」
障子が静かに開き、又八郎が入ってきた。
数えで十五。
来年には十六になる。
ただ歳を重ねたというだけではない。
日々の苛烈な乗馬鍛錬のせいで、肩も腰も、同じ年頃の若より明らかに締まっていた。
細いのではない。余計な肉が落ち、必要なところだけが残った身体だ。
そして目が違う。
迷いがないのではない。迷いを抱えたまま、前を見ている目だった。
「又八郎か。どうした、改まって」
左衛門佐が促すと、又八郎は座し、居住まいを正してから深く頭を下げた。
「父上」
「うむ」
「お願いがございます」
「申せ」
「折りを見て、元服の儀をお許しいただきたく、お願いに参りました」
左衛門佐は、すぐには返事をしなかった。
元服そのものは、いずれ来る話だ。
年齢的にも早すぎるとも言い切れぬ。
又八郎の働きだけ見れば、並の若武者よりよほど家の役に立っている。
だが、今か。
「元服か」
左衛門佐は低く言った。
「いささか早い気もする」
「承知しております」
「だが、そなたの働きが、並の子の域をとうに越えておるのも事実だ」
「……」
「許さぬ道理はない」
「ありがとうございます」
「ただし」
左衛門佐は少しだけ声を強めた。
「なぜ今だ」
又八郎は頭を上げた。
「今川治部大輔殿が大軍で動かれるのは、もはや避けがたく存じます」
左衛門佐は黙って聞く。
「我が織田家がそれを看過するとは思えませぬ」
「うむ」
「向こうもまた同じく、ここで一気に片を付けるおつもりにございましょう」
「……」
「ならば、戦は避けられませぬ」
左衛門佐はなおも黙っている。
「子供のままでは、戦場にも出られませぬ」
又八郎は静かに続けた。
「出られぬということは、役にも立てませぬ」
「……」
「私は、織田の藤左衛門家の嫡子として、織田のお役に立ちとうございます」
左衛門佐は、わが子の顔を見た。
ただ血気にはやっているだけなら、もっと軽い。
怖さを隠して、勇ましいことばかり言う。
だが今の又八郎は違う。
「戦場へ出れば、人が死ぬ」
と左衛門佐。
「味方も死ぬ。敵も死ぬ。そなたも死ぬやもしれぬ」
「はい」
「それでもか」
「それでもにございます」
「なぜだ」
又八郎は少しだけ息を置いた。
「今なら、まだ私は子供です」
「うむ」
「子供だから、守られもします」
「うむ」
「ですが、このまま守られる側に居ついてしまえば」
「……」
「私は、守られるのが当たり前の男になります」
左衛門佐は、そこでわずかに目を細めた。
「そこまで考えたか」
「考えました」
「誰に吹き込まれた」
「誰にも」
即答だった。
その即答が、かえって重かった。
この子は本当に一人でそこへ辿り着いたのだと分かったからだ。
「名は、決めておるのか」
その問いで、部屋の空気がわずかに変わった。
又八郎は、父をまっすぐ見た。
「畏れながら、父上」
「うむ」
「私めには、どうしてもあやかりたき御方がおわします」
左衛門佐は、そこで初めてわずかに身じろぎした。
「……申せ」
「甲斐の武田家におわす、徳栄軒殿の弟君」
「……」
「武田典厩信繁様にございます」
左衛門佐の眉が、目に見えて動いた。
「武田の……典厩信繁様だと」
「はい」
「又八郎」
左衛門佐の声が少し低くなる。
「そなた、自分が何を申しておるか、分かっておるのか」
「承知の上にございます」
「甲斐は遠い。されど他家だ」
「はい」
「しかも、ただの武辺ではない」
「はい」
「なぜ、その御方だ」
又八郎の声は、そこでむしろ少し静かになった。
「典厩信繁様は、花も実もある名将と聞き及びます」
「……」
「武勇に優れ、政にも通じ、兄君たる徳栄軒殿をよくお支えなさる」
「うむ」
「ですが、私が真にあやかりたいのは、そこだけではありませぬ」
左衛門佐は黙って待った。
「上総介様は、常人の測りがたき高みを見ておられます」
「……」
「その高みがあるからこそ、織田は織田にございましょう」
「うむ」
「ですが、その高みは、時に周囲からは鋭すぎ、奔放すぎるものにも見える」
そこも、左衛門佐は否定しなかった。
「それゆえに」
又八郎はさらに一歩、言葉を深くした。
「その鋭さを鞘に収め、その奔放さを理で支える者が要ると存じます」
「……」
「今は勘十郎様もまた、そのお一人にございましょう」
「うむ」
「ですが、それでもなお足りぬ時はありましょう」
左衛門佐の顔が、少しずつ変わっていく。
「武田典厩信繁様は」
と又八郎。
「誰よりも優れた才を持ちながら、兄君を押しのけず、あくまで武田の家を支える影に徹しておられると聞きます」
「……」
「兄が太陽なら、自らはその影となり、土台となる」
「……」
「私めもまた、上総介様という烈火を支え、織田の家を押し上げる副将になりたいのでございます」
左衛門佐は、食い入るように又八郎を見つめた。
そこにいたのは、もう「神童」と持て囃される子供ではなかった。
自分がどこに立ち、誰の何になるのかを、自分の言葉で決めようとしている若者だった。
「知恵を絞り」
と又八郎。
「富を築き」
「……」
「時には上総介様の泥を被ってでも、この家を守り抜く」
「……」
「その決意を、私は“信繁”という名に刻みとうございます」
左衛門佐は、長く息を吐いた。
文机の上には、家中の小さな書付がいくつもある。
兵糧。馬。使者。渡し。若い者。
この子がここ数年で、一つずつ変えてきたものばかりだ。
肉、卵、加熱牛乳。
手洗い、うがい。
塩水選。
田の肥。
家中の寿命と体力。
馬。皇甫爺。
そのどれもが、自分が神童と呼ばれるためではなく、上総介を支え、織田を盤石にするための布石だったのかもしれぬ。
そう思うと、今ここで出た「信繁」という二字も、ただの憧れではなく、ずっと前から本人の中で練られてきた役の名なのだろうと分かった。
「……武田典厩信繁様は」
と左衛門佐。
「兄君を助けるためなら、自らの命を捨てることも厭わぬと聞く」
「はい」
「その名を望むということは、一生を二番手として生きる覚悟でもある」
「はい」
「それでもよいのか」
又八郎は、そこで微かに笑った。
「望むところにございます」
「お前の才なら」
左衛門佐はなおも問う。
「いずれ一国一城の主として、自立する道もあろう」
「一人の覇者の影には、必ず一人の名将がおります」
又八郎は静かに言った。
「後世の者が織田家の躍進を語る時」
「……」
「上総介様の名とともに、その傍らには常に信繁がいたと記されるような男になりとうございます」
「……」
「父上。小田井の織田として、私は本家を、そして上総介様という夢を支えたいのでございます」
部屋の中が静まり返った。
左衛門佐は、目の前の又八郎を見た。
もう、この子は自分の手の内だけで収まる器ではない。
そう思うと同時に、だからこそ今ここで、父としてではなく家の者として受け止めねばならぬとも思った。
「……よかろう」
又八郎の目が、わずかに動いた。
「ただし」
左衛門佐は続けた。
「これはわし一人で決めることではない」
「承知しております」
「上総介様、勘十郎様、大殿にもお伺いを立てる」
「はい」
「その上でなお許されるなら、そなたは又八郎ではなくなる」
「はい」
「名に負けるな」
「……はい」
その返事は短かった。
だが、そこに迷いはなかった。
左衛門佐は、改めて深く息を吐いた。
永禄二年の暮れ。
小田井城の一室で、又八郎は元服を願い出た。
それは単なる若者の通過儀礼ではない。
今川治部大輔殿の影が尾張へ伸びる中、織田の一人として前へ出る覚悟を、自らの言葉で定める申し出だった。
そして左衛門佐は、その時初めてはっきりと理解した。
この子はもう、父に甘える子供ではない。
数十年先の乱世の形を見据え、自分がどこへ立つべきかを、すでに選び終えているのだと。
♢
左衛門佐が那古野へ上がったのは、その翌朝だった。
冬の朝は白く、道は冷えて固かった。
馬の蹄が乾いた音を返すたび、左衛門佐は胸の内で又八郎の言葉を反芻していた。
元服そのものに異存はない。
年だけを見れば、やや早い。だが、あの子のやってきたことを思えば、並の若の年勘定で測る方が不自然だった。
肉を食う。
卵を食う。
牛の乳はきちんと煮立ててから飲む。
口を濯ぎ、手を洗う。
塩水で種を選び、魚の干したものや骨を田へ入れる。
馬具の締めを見、使いの口を見、渡し場の先触れを見、若い者の緩みまで拾う。
どれも地味だ。
だが、その地味な積み重ねで小田井は変わった。
家中の顔色が変わり、若い者の身体つきが変わり、田の実りが変わった。
そして何より、上総介様と勘十郎様の間に、もう前のような裂け目はない。
又八郎は、そこへも確かに手を入れてきた。
だからこそ、あの子が望んだ名もまた、ただの憧れではなかった。
武田典厩次郎信繁様。
主を支え、兄を支え、家を支える。
一番前へ立つことではなく、その烈しさを押し上げる役。
その位置を、自分で選んだのだ。
ならば父一人で決める話ではない。
本家へ伺いを立てるのが筋であり、今の織田家なら、それを受けるだけの器もある。
清州へ入り、通された座には、上総介様と勘十郎様がいた。
二人が並ぶ座を見るたび、左衛門佐はやはり思う。
よくぞここまで寄ったものだ、と。
かつてなら、この二人が並ぶだけで、場の端に余計な気配が立った。
今は違う。
甘いわけではない。だが、同じ家を背負う兄弟として、少なくとも目線は同じ方を向いている。
左衛門佐は深く礼を取った。
「左衛門佐殿、よう参られた」
と上総介様。
「は」
勘十郎様が、少しだけ和らいだ顔で続ける。
「わざわざお越しとは、軽い話ではありませぬな」
「軽くはございませぬ」
その返しで、二人の顔がわずかに締まった。
「申されよ」
と上総介様。
左衛門佐は一拍置き、口を開いた。
「愚息又八郎の儀にございます」
「又八郎か」
勘十郎様が先に応じた。
「また何か妙なことでも思いついたか」
声にはわずかに笑いもあった。
だが、左衛門佐は真顔のまま続けた。
「妙なこと、と申せば妙なことかもしれませぬ」
「……」
「ですが、又八郎自ら、元服を願い出ました」
座の空気が、そこで少し変わった。
勘十郎様の眉が動く。
「又八郎が、自分から」
「はい」
上総介様はすぐには何も仰も口を開かなかった。
だが、その沈黙は、意外ではあっても退ける気ではないと知れた。
「左衛門佐殿は、どう見られる」
と上総介様。
まずこちらの見立てを問う。
そのこと自体が、左衛門佐には重く、ありがたかった。
単なる家臣の願い出としてではなく、一門の当主、縁ある年長者として聞いてくださっている。
「早い、と申せば早いにございます」
と左衛門佐。
「されど、今川治部大輔殿の動きを前に、遅いとも申せませぬ」
「……」
「子供のままでは戦場にも出られぬ」
「……」
「藤左衛門家の嫡子として、織田のお役に立ちたいと、そのように申しました」
勘十郎様が、低く息を吐いた。
「……らしいな」
「らしい、で済ませる話でもあるまい」
と上総介様。
だが、その声もどこかやわらかい。
「いえ、実際そうでしょう」
勘十郎様は続ける。
「妙に落ち着いておるくせに、要るところでは急に腹を決める」
「……」
「又八郎は、そういう若です」
左衛門佐は、そこで一歩だけ踏み込んだ。
「ただの血気ではございませぬ」
「ほう」
と上総介様。
「元服すれば、何でも叶うとは思うておりませぬ」
「……」
「それでも今この時に、守られる子供のまま居ついてはならぬと」
「……」
「そのように申しておりました」
上総介様は、しばし黙された。
やがて勘十郎様が問う。
「名は、もう考えておるのか」
左衛門佐は、そこだけ少し息を置いた。
「決めております」
「申されよ」
「甲斐の武田家、徳栄軒殿の弟君」
「……」
「武田典厩次郎信繁様の名に、あやかりたいと」
勘十郎様の顔が動いた。
驚きはある。だが、それだけではない。妙に腑に落ちる色もあった。
「そこを選んだか」
「はい」
上総介様は、なおもすぐにはお言葉を返さなかった。
その沈黙が、左衛門佐にはむしろ重かった。
「何ゆえ、その御方だと」
やがて上総介様が問う。
左衛門佐は、又八郎の言葉をなるべく崩さず差し出した。
「典厩次郎信繁様は、兄君たる法性院殿をよく支える名将にございます」
「……」
「武勇、政、智略、いずれも備えながら」
「……」
「自ら前へ出て兄君を凌がんとするのではなく、あくまで武田の家を押し支える影に徹しておられる」
「うむ」
「又八郎は、そこにあやかりたいと申しました」
勘十郎様が、少しだけ笑った。
「それもまた、いかにも又八郎らしい」
「上総介様のようにはなれぬ、とも申しておりました」
と左衛門佐。
「……」
「ならば、主を支える側へ回りたい」
「……」
「ただし、それは上総介様お一人を、ではございませぬ」
「ほう」
と勘十郎様が目を上げる。
左衛門佐は、そこで言葉を少し強くした。
「上総介様を、勘十郎様とともに、お支えしたいと」
「……」
「今の織田がここまでまとまったのは、お二方が兄弟として並んでくださったからにございます」
「……」
「又八郎は、そのお二方の間へ小さく石を置いてきたつもりでもおりましょう」
「……」
「ならばこれからは、その外から口を挟むだけではなく、一門の若として、お二方の御傍で支える役へ回りたい」
「……」
「知恵を絞り、富を築き、時には泥を被ってでも、この家を守りたい」
「……」
「その決意を、その名に刻みたい由にございます」
座の空気が、わずかに深くなった。
勘十郎様が先に笑った。
だがその笑いは、からかいではない。
「兄上」
「何だ」
「やはり、又八郎は面倒なところまで見ておりますな」
上総介様は、少しだけ口元を動かした。
「そうらしい」
勘十郎様が続ける。
「私を無いものにして“上総介様を支えたい”なら、さすがに少し腹も立ちますが」
「……」
「ちゃんと、二人で支えたいと考えておるなら」
「……」
「それは悪くありませぬ」
左衛門佐は、その言葉に胸の内で深く頷いた。
ここを落とせば、又八郎の見立てそのものが薄くなるところだった。
上総介様が、静かに言う。
「又八郎は、そこまで申したのだな」
「申しました」
「勘十郎をも、か」
「はい」
勘十郎様が、そこで少し肩を竦めた。
「可愛いことを申すではありませぬか」
「軽く言うな」
と上総介様。
だが、その声もどこかやわらかい。
「いえ」
勘十郎様は笑いを引いて言った。
「ですが、あれは実の弟たちより手がかかるくせに、妙なところで可愛いですよ」
「……」
「しかも、こちらが忘れかけておることを、時々勝手に拾ってくる」
「……」
「兄上も、そうでしょう」
上総介様は、その問いにはすぐに答えなかった。
だが、否定もしなかった。
「元服そのものも、よろしいでしょう」
と勘十郎様。
「それに」
「何だ」
「今の時期に、あの又八郎が“子供のままではおれぬ”と自ら願い出た」
「……」
「それだけでも、一門にも家中にも効きます」
「うむ」
「小田井の神童だの、変な馬乗りだのと、皆好き放題申しておった若です」
「……」
「その若が、この戦前に腹を決めたとなれば、若い衆も“まだ先でよい”とは言いにくくなりましょう」
上総介様は、その意見を聞き終えてから静かに言った。
「元服は許す」
左衛門佐は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
「ただし」
と上総介様。
「藤左衛門家一つの祝いでは済ませぬ」
「は」
「今川治部大輔殿を前にして、一門の若が自ら立つことを望んだ」
「……」
「その意味は、家中にも知ってもらう」
「は」
勘十郎様が、そこで少しだけ口元を和らげた。
「又八郎は、あまり好まぬでしょうな」
「構わぬ」
と上総介様。
「どうせ自分で願い出たのだ」
「違いない」
と勘十郎様。
「その面倒ごとまで含めて、あれの役でしょう」
左衛門佐は、その二人のやり取りを聞きながら、やはり今の織田家は強いと思った。
片方だけなら鋭すぎる。
片方だけなら柔らかすぎる。
だが、この二人が並ぶと、家の中にちょうどよい張りが出る。
上総介様が、改めて左衛門佐を見た。
「烏帽子親は、私が務める」
左衛門佐は、思わず顔を上げかけた。
だが、すぐに押さえた。
「……ありがたきことにございます」
「又八郎の望みは、ただの思いつきではない」
「は」
「名もまた、その覚悟に見合う」
「……」
「ならば、こちらもそれに応ずる」
勘十郎様が、そこで言葉を添えた。
「左衛門佐殿」
「は」
「又八郎には、よくお伝えくだされ」
「何を、にございますか」
「元服して終わりではない、ということを」
「……」
「上総介兄上が烏帽子親を務める以上」
「はい」
「もう“藤左衛門家の出来のよい若”では済みませぬ」
「承知仕りました」
それから少しだけ笑う。
「それと」
「は」
「その日からは、こちらも又八郎を又八郎のままには扱わぬ」
「……」
「弟分ではあるが、ただの可愛い若でもなくなる」
「はい」
「そこも、あれにはきちんと伝えておいた方がよろしいでしょう」
上総介様は、その言葉にわずかに頷いた。
「そうだな」
そこで話は定まった。
元服は許される。
烏帽子親は上総介様。
そして又八郎は、織田太郎左衛門信繁として立つ。
左衛門佐は深く礼を取り、退出した。
廊へ出ると、冷たい空気が少しだけ心地よかった。
又八郎は、確かに小田井の若だ。
だがもう、それだけではない。
あの子が自分で選んだ名は、父の胸先三寸で軽く扱えるものではなくなった。
帰路につきながら、左衛門佐は思う。
きっと又八郎は、上総介様が烏帽子親を務めると聞いて、少し顔を強張らせるだろう。
そして家中引き締めにも使われると知れば、あまり嬉しそうな顔はすまい。
だが、勘十郎様や上総介様が、すでにあの子を年下の弟分として可愛がり、しかも役を負う若として見始めていると知れば、その重さも少しは受けやすくなるかもしれぬ。
それでよい。
そういう面倒くささごと抱えて立つのが、これからのあの子の役なのだから。
♢
奥では、土田御前が先にお市とお犬を呼んでいた。
「お市、お犬」
二人が揃って入ってくると、土田御前はまず座らせた。
声は静かだったが、ただの世間話ではないとすぐ分かる調子だった。
「又八郎が、元服を望んだそうです」
先に目を丸くしたのはお犬の方だった。
「えっ、又八郎様が?」
「ええ」
土田御前は、二人の顔を見ながら続けた。
「今川治部大輔殿が動くのはもはや避けようがない、と」
「……」
「子供のままでは戦場にも出られぬ」
「……」
「藤左衛門家の嫡子として、織田のお役に立ちたい。そのように申したそうです」
お犬は素直に驚いていた。
「又八郎様って」
「うむ」
「田んぼを見ておられたり」
「うむ」
「椎茸をいじっておられたり」
「そうですね」
「あと、変な馬の乗り方をしておられたり」
そこは土田御前も少しだけ口元を緩めた。
「ええ」
「神童と申されるより、変人というか、そちらの方がしっくり来る時もあります」
お市が、そこでようやく小さく言った。
「分かります」
土田御前が視線を向ける。
「お市もそう思いますか」
「はい」
お市は少しだけ目を伏せた。
「妙に勘働きの当たるお方ではありますが」
「うむ」
「それより先に、普段の又八郎様は、何を見ておられるのか分からぬ方、という気も致します」
お犬が頷く。
「そうです、そうです。神童、と言われると少し大層すぎます。でも」
そこでお犬は言葉を切った。
「その又八郎様まで、覚悟を決められたのですね」
その一言で、座の空気が少し変わった。
土田御前は、そこで初めて強く頷いた。
「そこです」
「……」
「神童だの変人だの、周りは勝手に申します」
「はい」
「ですが、本人が今この時に、子供のままではおれぬと望んだ」
「……」
「そのことは、軽くありません」
お市は静かに聞いていた。
お犬も、さっきまでの素直な驚きから少しだけ神妙な顔になっている。
「又八郎様は」
とお市。
「戦になると、そう見ておられるのですね」
「そうでしょう」
と土田御前。
「しかも、自分は外から見ているだけでは済まぬ、とも」
しばらくの沈黙が落ちる。
お犬が、少しだけ不安そうに言った。
「母上」
「何です」
「又八郎様は怖くはないのでしょうか」
「怖いでしょうね」
「……」
「怖くないまま、あのようなことは言えません」
「そうですか」
土田御前は、そこで二人へ少し身を寄せるようにして言った。
「覚えておきなさい」
「はい」
「はい」
「今川が動くということは、男たちだけの話ではありません」
「……」
「家の空気も、奥の支度も、皆その方へ寄る」
「はい」
「又八郎の元服も、その流れの中にあります」
お市は、その言葉を静かに受け止めていた。
それから少しだけ、ためらうように言う。
「又八郎様は」
「うむ」
「お若いのに、いつも少し離れたところから物を見ておられるようでした」
「……」
「ですが、今回は、その方ご自身が前へ出ようとしておられるのですね」
「そういうことです」
土田御前の返事は短かった。
お犬は、少しだけ声を明るくする。
「では、元服の儀には私たちも」
「列するでしょう」
「祝いでございますね」
「祝いではあります」
と土田御前。
「ただ、それだけではありません」
「……はい」
お犬は素直に頷いた。
土田御前は、そこで二人を見比べながら言った。
「上総介殿も、勘十郎殿も、この元服をただの家の祝いでは終わらせぬはずです」
「……」
「小田井の神童と囃された若者ですら、今は子供のままではおれぬと願い出た」
「……」
「そう家中が受け取れば、一門も若い者どもも、少しは腹を決めます」
お市が、そこでふと母を見た。
「母上」
「何です」
「少し、おそろしい言い方です」
土田御前は、それにすぐ答えた。
「そうかもしれません」
「……」
「ですが、家を保つとは、そういうことでもあります」
お市は、その返しにはすぐ言葉を返さなかった。
ただ黙って頷いた。
そして、その沈黙のあとで、やや小さく言う。
「でも」
「何です」
「又八郎様ご自身は、そういう使われ方を、あまりお好きではなさそうです」
土田御前は、そこで初めて少しだけはっきり笑った。
「ええ」
「……」
「そこも、又八郎らしいところでしょう」
お犬もつられて笑う。
「たしかに、嫌そうなお顔をなさりそうです」
「ですが」
と土田御前。
「嫌でも名を負う時があります」
「……」
「今が、その時なのでしょう」
奥ではそうして、又八郎の元服が、単なる若者の成長ではなく、戦を前にした家の動きの一つとして受け止められ始めていた。
お市もお犬も、ただ「又八郎様が大人になる」というだけではなく、
あの又八郎までもが腹を決めた
ということの重みを、それぞれに感じ取っていた。
♢
左衛門佐は、那古野へ上がった瞬間に、やはりこれはもう藤左衛門家一つの祝いではないと知った。
表門から内へ入るまでのあいだだけでも、目に入る人の顔ぶれが違う。
一門の近習だけではない。馬廻り、旗奉行、弓衆の頭、台所を預かる者、奥向きの采配に通じた女房衆まで、皆がそれぞれに持ち場を与えられ、ひどく手際よく動いている。
豪華だ。
だが、ただ華やかなのではない。
どこを見ても、無駄な贅沢で膨らませた豪華さではなく、織田家はここまで人を動かせるのだと見せつけるための豪華さだった。
座敷へ近づくにつれ、その意図はいよいよ明らかになった。
広間の柱には新しく打たせた布が掛けられ、正面には金具のよく磨かれた飾り具足が二領、左右へずらして置かれている。中央を空けているのは、あくまで今日は主役が具足ではなく、人であると示すためだろう。香は強すぎず、だが確かに良いものを使っていた。畳も新しい。寒気を押さえるため、座の外では火桶が幾つも回されている。
そして何より、人だ。
上座には備後守信秀。
その少し下手に土田御前。
さらにその前へ、上総介信長と勘十郎信勝が並ぶ。
左衛門佐は、その並びを見ただけで胸の奥が少し熱くなった。
岳父備後守信秀が死病の床から持ち直し、なおも矍鑠と生きている。
上総介が当主として前にいる。
勘十郎がその脇にいる。
その二人が同じ座で、今日この儀を一つの家の儀式として取り仕切る。
それだけで、かつての織田を知る者には十分すぎるほどの意味があった。
「左衛門佐、こちらへ」
上総介が目ざとく気づいて、手で招いた。
「は」
左衛門佐が進み出ると、勘十郎が口元を少し緩める。
「今日はそなたの家の祝いでもあるが」
「……」
「半分は、こちらの見世物だと思ってもらってよいぞ」
「半分どころではありますまい」
と左衛門佐は返した。
勘十郎が笑う。
「分かるか」
「この顔ぶれを見れば」
上総介は、そのやり取りを聞きながら、わずかに鼻を鳴らした。
「隠す気もない」
「は」
「今川治部大輔が動く」
「……」
「その前に、織田の中がどう立っているかは、身内にこそ見せねばならぬ」
左衛門佐は深く頭を下げた。
「ありがたきことにございます」
「又八郎はどこだ」
と信秀が問うた。
その声には、病を経た老いはある。
だが、弱ってはいない。長く家を見てきた者だけが持つ重みが、まだそのまま残っている。
「支度中にございます」
「そうか」
信秀は小さく頷いた。
「まあ、固くなっておろうな」
それを聞いて、お犬が少しだけ笑いを堪えるような顔をした。
「又八郎殿でも、さすがに今日は緊張なさるのでしょうか」
お市が、その隣で静かに言う。
「なさるでしょう」
「……」
「なさらなかったら、逆に困ります」
土田御前が、そこでふっと目を細めた。
「幼い頃から妙に落ち着いた子ではあったけれど」
「……」
「こういう日は、ちゃんと若くあってよいのですよ」
その言い方は、柔らかい。
だが左衛門佐には、土田御前もまたこの儀の意味をよく分かっておられるのだと伝わった。
そこへ、一門衆が続々と入ってくる。
孫三郎信光。
四郎次郎信実。
孫十郎信次。
三郎五郎信広。
孫三郎信光の嫡男市之助。
他にも、家格と役目に応じて座が埋まっていく。
さらに林佐渡守秀貞、平手中務丞政秀、柴田権六勝家、森三左衛門可成、丹羽五郎左衛門長秀、池田勝三郎恒興、佐々内蔵助成政、木下藤吉郎ら、有力家臣から足軽大将などの士分でも身分低き者も列していた。
誰が見ても、これはただの元服ではない。
織田家の今を丸ごと一つの広間に詰め込んだような座だった。
「派手ですな」
と信光が小さく言った。
「派手だ」
と信秀。
「だが、三郎なら、弟のためならこういうことはやる」
その「弟」が誰を指すか、この座で分からぬ者はいない。
信秀の口からそう出たことで、広間の空気が少しだけ和んだ。
やがて、静かに合図が入る。
広間の空気が、一段締まった。
又八郎が入ってきた。
髪は整えられ、衣も今日のためのものだ。
まだ若い。だが、五尺六寸二分の威風堂々たる体躯だ。
だが、若いからこそ今日ここで立たせる意味がある、と座の全員へ伝わる姿だった。
左衛門佐は、その一歩目を見た瞬間に、胸の奥で妙な感覚を覚えた。
ついこの前まで、妙なことばかり言う子供だった。
肉を食いたい、卵を食いたい、乳は煮立てろ、手を洗え、口を濯げ、田へ魚を入れろ。
手綱なしで、鞍なしで、鐙なしで馬に乗る。
周りが首を傾げることばかり言っていた。
だが今、あの若者は、それら全部を背負ったまま人前へ出てきている。
ただの神童ではない。
あの妙さごと、家の役へ変えてここへ来たのだ。
又八郎は、まず信秀へ、次いで土田御前へ、そして上総介と勘十郎へ順に礼を取った。
その所作を見て、広間の端の方で、誰かが小さく息を飲んだ。
きれいだ。
派手ではない。
だが、筋を違えない。古式ゆかしい、それでいて長身と端整な面立ち、しなやかな体躯が武士としての面目をほどこしていた。
「又八郎」
と上総介が呼ぶ。
「は」
「今日の意味は、分かっておるな」
「はい」
「申してみよ」
広間が、しんと静まる。
又八郎は一瞬だけ顔を上げ、正面から上総介を見た。
「我が織田家が、今川治部大輔殿を前にしてもなお、一門も家中も割れず、前へ進むと示す日にございます」
左衛門佐は、そこで胸の奥にぐっと力が入った。
言えた。
しかも、余計な飾りなく、まっすぐに。
上総介の口元が、わずかに動く。
「よい」
勘十郎が、その横でさらに問う。
「そなた一人の祝いではない、とも分かっておるか」
「はい」
又八郎は即答した。
「藤左衛門家の名だけでなく、一門の若として立たせていただく儀にございます」
「うむ」
勘十郎は頷く。
「それでよい」
そこから、元服の儀は正式に進んだ。
上総介が烏帽子親として前へ出る。
それだけで、座の空気がまた一段変わる。
ただ名を与えるのではない。
当主自らが、戦前のこの時期に、一門の若を公に立たせる。
それが何を意味するか、誰もが分かっていた。
烏帽子が整えられ、言上が進み、座の全員がその一つ一つを見守る。
勝家のような武辺の重鎮ですら、この時ばかりは一言も無駄口を挟まない。
藤吉郎でさえ、背筋をまっすぐにしていた。
上総介が、静かに、しかし広間の隅まで届く声で告げる。
「又八郎」
「は」
「今日よりそなたは、織田太郎左衛門信繁と名乗れ」
広間の空気が止まった。
その瞬間だけは、誰も息をしなかったのではないかと左衛門佐は思った。
織田太郎左衛門信繁。
その名が、初めて本家の広間で、信長の口から公に置かれた。
又八郎――いや、太郎左衛門信繁は、深く頭を下げた。
「ありがたき仕合わせにございます」
そこへ、上総介が続けた。
「そなたが望んだのは、ただ前へ出るための名ではない」
「……」
「主を支え、家を支え、時に泥を被ってでも織田を押し上げる者の名だ」
「はい」
「ならば、その名に恥じるな」
「はっ」
その返事は、若い。
だが、若いままでよかった。
老成しすぎていれば、かえってこの場の熱が死ぬ。
若い者が、若いまま、しかし腹だけは決めている。
それを見せるのが今日の半分の意味だった。
勘十郎が、そこで口を開いた。
「太郎左衛門」
新しい名を、あえてすぐ使う。
そのこと自体が、座にいる者どもへ一つの合図になった。
「は」
「元服して終わりだと思うな」
「……」
「今日からは、そなたの言葉も、働きも、今までより重く見られる」
「はい」
「妙なことを言えば、“神童の戯れ言”では済まぬ」
「はい」
「だが」
勘十郎は、そこでわずかに笑った。
「それでも妙なことを言う時は、多分役に立つのだろうと、皆が構えて聞くようにもなる」
広間のあちこちで、かすかな笑いが落ちた。
堅すぎぬ。
だが軽くもない。
実に勘十郎らしい話の置き方だった。
信秀が、そこで低く言う。
「太郎左衛門信繁」
新しい名を、長老が受ける。
その重さは、また別だった。
「は」
「もう、子ではない」
「……」
「されど、いきなり老人になる必要もない」
「はい」
「若きままに働け」
「……」
「ただし、家を背負う若としてな」
信繁は、もう一度深く頭を下げた。
土田御前は、黙ってその姿を見ていた。
そして、お市とお犬も。
お市の目は静かだった。
だが、その静けさの中に、はっきりとした熱がある。
お犬は、どこか新鮮な驚きを残した顔のまま、しかし一瞬も視線を逸らしていなかった。
この若者が、こういうふうに家の中心へ立つのだ。
そのことを、姫たちもまた胸へ入れているのだろうと左衛門佐は思った。
そこからは、祝いでありながら、半ば評定に近い空気が続いた。
酒肴は豪華だ。
だが、乱れない。
料理も、ただ派手なだけでなく、織田の力を示すために整えられていた。
肉も魚も卵も惜しまず使われ、しかも台所の腕を見せるように出される。
「派手ですな」
と成政が低く言う。
「派手でよい」
と勝家。
「今日はそういう日だ」
そのやり取りを、上総介は聞こえていて聞こえぬような顔で受け流していた。
だが、明らかに気分は悪くない。
やがて盃が一巡したところで、上総介が座を見渡した。
「皆、よく見よ」
声は大きくない。
だが、それだけで広間がすっと静まった。
「今日、藤左衛門家の嫡男が一人の武士として立った」
「……」
「それは、藤左衛門家一つの祝いではない」
「……」
「織田が今川治部大輔を前にしてもなお、人が育ち、一門が立ち、家が厚くなっておると示す日だ」
誰も、口を挟まなかった。
「小田井の神童と好きに呼んだであろう」
上総介は続ける。
「ならば、今日からは、それをただの面白半分で呼ぶな」
「……」
「そやつは今日より、織田太郎左衛門信繁として、織田の内で役を負う」
勝家が、そこで深く頷いた。
信光も。
信広も。
家臣たちだけではなく、一門の重鎮たちがその言葉を受けているのが見えた。
左衛門佐は、その光景を見ながら思う。
ああ、上総介はやはりこう使うのだ、と。
又八郎の元服を、家一つの内輪事で終わらせない。
この時期に、これだけの顔ぶれを揃え、このだけの座を設け、信秀と土田御前と姫たち、一門衆、有力家臣の前で名乗らせる。
そしてそれを「家の厚み」の可視化へ変える。
戦が近いからこそ、祝いを祝宴だけで終わらせず、家中統制の形へ変える。
それが上総介のやり方だった。
その夜、儀が終わって人が少し引いたあと、勘十郎が信繁へ近づいた。
「太郎左衛門」
「は」
「今日の気分はどうだ」
信繁は、ほんの少しだけ間を置いてから答えた。
「重いです」
「だろうな」
勘十郎は笑う。
「だが、似合っていたぞ」
その一言で、信繁の顔が一瞬だけ若くなった。
若くなって、それからすぐにまた引き締まる。
上総介も、その横で短く言った。
「逃げるなよ」
「逃げませぬ」
「よし」
それだけだった。
だが、その短さで十分だった。
左衛門佐は、そのやり取りを離れたところから見ていた。
又八郎はもう、確かに又八郎のままではない。
今日この座で、織田太郎左衛門信繁となった。
それは単に名を変えたという話ではない。
信秀が生き、信長が立ち、信勝が次席として並び、一門と家臣が一つの広間に揃うその真ん中で、若者が「織田の次の厚み」として立たされたのだ。
豪華であった。
華やかであった。
そして何より、冷えるほど政治的であった。
だが、それでよい。
今川治部大輔が迫るこの時期に、祝いがただの祝いで終わるほど、上総介も勘十郎も甘くはない。
そして、その甘くなさごと抱えて立つのが、これからの信繁の役なのだと、左衛門佐はようやく腹の底から理解した。