織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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008信繁と武辺者

元服の儀が終わっても、体のどこかがまだ座の中に残っていた。

 

衣の重さじゃない。

名の重さでも、たぶんまだ足りない。

あの広間で、上総介兄上の口から「織田太郎左衛門信繁」と置かれた瞬間から、俺の体のどこかが少し遅れて追いかけてきている感じだ。

 

廊へ出ると、ようやく息がしやすくなった。

 

祝いの後だから、人の動きはまだ多い。

だが、さっきまでの広間ほど張り詰めてはいない。

火桶の匂い。

酒の残り香。

良い香の薄い筋。

それに、磨かれた板の冷たさ。

 

俺は廊の柱へ軽く背を預けて、一度だけ息を吐いた。

 

「重そうだな」

 

声がして、顔を上げる。

 

家中でも有名な武辺者、前田慶次郎だった。

 

馬の件があったので、予想していなかったわけじゃない。

むしろ、あいつならどこかで来るだろうとは思っていた。

元服の儀みたいな堅い場を、ずっとおとなしく見ていられる男じゃない。

いや、見てはいられる。

見てはいられるが、そのあと何も言わずに帰る男でもない。

 

その少し後ろに、奥村助右衛門もいた。

 

こっちはもっと予想通りだ。

慶次郎が来て、助右衛門がいない方が不自然なくらいだった。

 

「見りゃ分かるか」

 

「見りゃ分かる」

慶次郎は口元を少し上げる。

「さっきまで、家一つ分ぐらい背負わされてた顔してたぞ」

 

「実際、半分ぐらいはそうだろ」

 

「半分か?」

慶次郎は肩を竦めた。

「俺には八割ぐらいに見えた」

 

その言い草に、少しだけ笑った。

 

「残り二割は何だよ」

「若さだな」

「雑だな」

「そうか?」

「そうだよ」

 

助右衛門は黙っていた。

だが、黙ったまま俺の顔を見ていた。

 

こいつはこういうところがある。

慶次郎みたいに先に言葉を投げない。

まず見て、それから必要な時だけ短く置く。

 

「太郎左衛門殿」

 

慶次郎が、新しい呼び方を少し面白がるように使った。

 

まだ慣れない。

慣れないが、今日はそこをいちいち嫌がる日でもない。

 

「何だよ、慶次郎」

「似合わねえな」

「喧嘩売ってんのか」

「半分は褒めてる」

「どういう褒め方だ」

「まだ馴染んでねえってことだ」

 

慶次郎は俺の肩から腰まで一度見てから続けた。

「だが、そのうち似合う」

 

その言い方は、妙に慶次郎らしかった。

 

派手だ。

だが、ただ適当に持ち上げるわけじゃない。

今はまだ似合わない、でもそのうち似合う、と言う。

半端に慰めないぶん、あいつの言葉は時々骨へ入る。

 

「助右衛門もそう思うか」

 

振ると、助右衛門は一拍置いて頷いた。

 

「今は、まだ名が勝つ」

「ひでえな」

 

「だが」

助右衛門はそこで言葉を切る。

「すぐ追いつく」

 

こっちはこっちで、短いくせに余計に刺さる。

 

廊の端で、風が少し鳴った。

火桶の熱が届かない分だけ、夜気が冷たい。

 

その冷たさの中で、慶次郎が唐突に鼻を鳴らした。

 

「で」

「うん?」

「するな」

「何が」

「手柄首の匂いだよ」

 

思わず、ちょっと黙った。

 

やっぱりそう来るか、と思った。

来るとは思ってた。

思ってたが、こうもまっすぐ言われると笑うしかない。

 

「元服の晩に、いきなりそれか」

 

「いきなりじゃねえさ」

慶次郎は平然としている。

「さっきの座を見りゃ分かる」

 

「何が」

「織田の中が、今どこへ向いてるかだ」

「……」

「祝いに見せかけてたが、ありゃ半分評定だ」

「半分どころじゃなかったな」

 

「だろ」

慶次郎はにやりとした。

「だから匂う」

 

助右衛門が、そこで一つだけ言った。

 

「戦の前だ」

 

それだけだった。

だが、十分だった。

 

さっきの広間の空気。

上総介兄上の言葉。

勘十郎兄上の置き方。

備後守様の重さ。

一門衆も家臣衆も、ただ盃を受けに来た顔じゃなかった。

 

祝っていた。

だが同時に、見ていた。

若が一人立つ、その意味を。

 

「まあ、そうだな」

 

俺がそう返すと、慶次郎は柱へ肩を預けた。

 

「だから、俺はそろそろお前の近くにいた方がいいと思ってる」

「自分で言うなよ」

「何だ、不満か」

「不満じゃねえけど、露骨すぎるだろ」

「露骨でいい」

「良くねえよ」

 

「俺は武辺だぞ」

慶次郎は少しだけ笑う。

「手柄首の匂いがする方へ寄るのは、むしろ礼儀だ」

 

そこで、助右衛門が珍しく慶次郎の言葉をすぐに継いだ。

 

「某も同じです」

 

思わず、そっちを見る。

 

「お前もか」

「はい」

「もっとこう、静かに来いよ」

「来ております」

「いや、今それ言ってる時点で静かじゃねえだろ」

 

慶次郎が吹きそうになって、口元を押さえた。

 

「太郎左衛門殿」

「何だよ」

「助右衛門は、静かに来てるつもりなんだよ」

「質が悪いな」

「俺よりずっと質が悪い」

「お前が言うな」

 

少し笑って、それから黙る。

 

慶次郎。

助右衛門。

 

この二人を並べて見ると、俺の中ではどうしたって一組になる。

 

前田慶次郎は有名だ。一夢庵風流記に花の慶次。

前の人生でだって、名前を知らない方が難しい。

だが、慶次郎だけで終わる話でもない。

あの男をちゃんと前へ出すなら、助右衛門が横にいないと座りが悪い。

 

俺の知っている慶次郎は、一人で派手に立つだけの男じゃない。

莫逆の友がいて、その横で無駄口少なく立つ男がいて、ようやくあの慶次郎になる。

 

だから、助右衛門の顔を初めて見た時から、何となく安心したところがある。

ああ、いるべき奴がいる、っていう安心だ。

 

もちろん、それをそのまま言えるわけじゃない。

言ったところで、俺の頭がおかしいと思われるだけだ。

 

「何だよ」

慶次郎が怪訝そうに言う。

「人の顔見て黙るな」

 

「いや」

「何だ」

「お前だけじゃ締まらねえなと思って」

「喧嘩か?」

「半分は褒めてる」

「おい」

 

「残り半分は」

と助右衛門が淡々と言う。

「事実だろう」

 

「お前、今さらっと乗ったな」

 

その瞬間、さすがの慶次郎も少しだけ目を見開いた。

それから、遅れて笑う。

 

「はっ、いいな」

「何が」

 

「いい」

慶次郎は助右衛門の肩を軽く叩く。

「やっぱりお前は、俺の横にいる時が一番いい」

 

助右衛門は嫌そうな顔一つしなかった。

しないで、ただ短く返す。

 

「知っている」

 

ずるいよな、こういうの。

 

派手なのは慶次郎だ。

目立つのも慶次郎だ。

だが、その横でああいう顔をされると、むしろ助右衛門の方が深く残る。

 

「太郎左衛門殿」

「今度は何だ」

「さっきの座で、俺は一つだけ分かった」

「何を」

「お前は、これから前へ出る」

「……」

「嫌でも出る」

「まあ、そうだろうな」

 

「なら、先に言っとく」

慶次郎はまっすぐ俺を見た。

「一番槍は譲らねえ」

 

「知らねえよ」

「だが、お前の横にはいる」

「両方取るな」

「武辺だからな」

 

助右衛門も、そこで静かに言った。

 

「某も」

「お前まで欲張るなよ」

「欲張ってはおりませぬ」

「じゃあ何だ」

「当然の位置です」

 

思わず、息で笑った。

 

元服のあとで。

名前の重さがまだ肩に馴染んでなくて。

家の都合も、戦の気配も、全部ひっくるめて少し重たい。

 

その夜に、こういう馬鹿みたいな話が出来るのは、たぶんありがたいことなんだろう。

 

「分かったよ」

 

俺は柱から背を離した。

 

「ただし」

「何だ」

「まだ何も始まってない」

 

「知ってる」

と慶次郎。

「だが匂う」

 

「お前はそればっかりだな」

「鼻が利くんだよ」

「犬かよ」

「花だ」

「何言ってんだ」

 

慶次郎が笑う。

助右衛門は笑わない。

笑わないが、口元だけほんの少し緩んだ。

 

それを見て、俺は心の中で少しだけ頷いた。

 

ああ、やっぱりそうだ。

慶次郎だけじゃ足りない。

助右衛門がいて、初めてちゃんと形になる。

 

「じゃあ、太郎左衛門殿」

「何だよ」

「次に匂ったら呼べ」

「嫌だね」

「何でだ」

「自分で嗅ぎつけて来い」

「言うじゃねえか」

「お前ら、そういうところだけは信用してる」

 

その返しに、慶次郎は嬉しそうに笑った。

助右衛門は深く一つ頷いた。

 

それで十分だった。

 

元服の儀は終わった。

又八郎は終わって、太郎左衛門信繁になった。

 

だが、名が変わっただけで急に何かが完成するわけじゃない。

むしろ逆で、ここから先、何に誰が寄ってくるかで形が決まる。

 

その最初に寄ってきたのが、手柄首の匂いを嗅いだこの二人だった。

 

悪くない。

いや、かなり悪くない。

 

そう思った時点で、俺もだいぶ戦国に染まってきたのかもしれなかった。

 

 

夜のうちから、空気が嫌だった。

 

静かすぎる、というより、遠くで巨大なものが動いている時の静けさだ。

人の声はある。

足音もある。

馬も鳴く。

だが、その全部の下に、まだ見えない大軍の重みが沈んでいる。

 

今川義元は五月十二日に駿府を出て、十八日に沓掛へ入った。松平元康の三河勢がその夜のうちに大高へ兵糧を運び込んだ、という報はもう入っている。

家中ではいろいろ言った。籠もるだの、迎え撃つだの、皆もっともらしい顔で申したが、上総介兄上は前日までは雑談ばかりで、これといった腹を見せなかったらしい。

そういう時の兄上は、だいたいもう腹が決まっている。

 

俺は眠れなかった。

 

怖いからじゃない。

いや、怖くないわけじゃない。

だが、怖さで眠れないのとは少し違う。

 

今日、何かが決まる。

織田が尾張一国の家で終わるか、もっと先へ行く家になるか、その分かれ目の一つが来る。

歴史では織田家が勝つ。ただ、俺の存在が北京の蝶の羽ばたきになっていないとは断言できない。

そう考える時の体は、妙に冴える。

 

夜の深いうち、丸根と鷲津へ今川方がかかったという報が入った。明け方には、佐久間盛重らから危急の知らせが届く。

急報が入った時、空気が変わる音を、俺はたしかに聞いた気がした。

 

実際に音がしたわけじゃない。

だが、さっきまで夜の底で重たく沈んでいた清洲の空気が、一瞬で刃物みたいに薄くなる。

人が走る。

足音が変わる。

声が低くなる。

その全部がまとめて、ああ、もう来たな、と分からせる。

 

丸根。

鷲津。

今川方がかかった。

 

報を持ってきた使いの顔は、もうそれだけで十分だった。

余計な説明はいらない。

眠気も迷いも吹き飛ぶ種類の顔だ。

 

俺は半ば走るようにして、上総介兄上の居所の方へ向かった。

 

途中で勘十郎兄上がいた。

もう着替えは半分終えている。

目だけがやけに冴えていた。

 

「来たな」

と勘十郎兄上。

 

「はい」

「兄上は」

 

「起きられた」

勘十郎兄上は短く答える。

「いや、起きたというより、ああいう時の兄上は元から起きておるようなものだ」

 

それは、妙に分かる言い方だった。

 

上総介兄上は、普段から寝ていてもどこか半分は起きているような人だ。

ましてこういう時はなおさらだ。

 

居所の奥へ通されると、いた。

 

上総介兄上。

お濃の方。

備後守様。

土田御前。

そして勘十郎兄上。

 

本当に、身内だけだった。

 

家臣衆のざわめきは外にある。

ここだけが妙に静かだ。

静かで、その静けさがかえって怖い。

 

上総介兄上は、すでに支度の途中だった。

だが、鎧を急いで着込むでもなく、いきなり怒鳴るでもない。

報を受けた、その次の瞬間には、もう別の段へ入っている顔だった。

 

「丸根、鷲津か」

と備後守様。

 

「そのようです」

と勘十郎兄上。

 

「そうか」

 

備後守様はそれだけ言って、深く息を吐いた。

老いてなお、声の芯は太い。

病を経た身だというのに、こういう時だけはかえって昔より重く聞こえる。

 

お濃の方は、何も言わなかった。

ただ上総介兄上を見ている。

その目は、不安を隠している目ではない。

この人が、こういう時にどういう人になるかを、もうとうに知っている女の目だった。

 

そして上総介兄上は、ふいに立った。

その瞬間、俺は少しだけ背筋が粟立った。

 

ああ、舞うな、と思った。

 

分かっていたわけじゃない。

だが、そう思った。

報を聞いた上総介兄上が、そのまま鎧へ飛びつくより先に、何か一つ、己の芯をまっすぐ通す動きをするだろうと、体が先に理解していた。

 

兄上は、声を張らない。

 

けれど、その場の全員が自然と口を閉じた。

 

衣の裾が静かに動く。

足が運ばれる。

袖が返る。

 

敦盛。

 

あの幸若舞を、上総介兄上は、身内の前で舞った。

 

派手ではない。

 

いや、たぶん、外で見れば十分に派手なんだろう。

だが、今この場で見ていると、派手さより別のものが先に立つ。

 

腹だ。

 

この人の中で、もう出ることは決まっている。

迎え撃つことも決まっている。

勝つか負けるかじゃない。

ここで出なければ、織田が織田でなくなる。

そこまでをまとめて、兄上はもう飲み込んでいる。

 

だから舞う。

 

迷いを切るためじゃない。

すでに切れている迷いを、形にして周りへ見せるためだ。

 

敦盛の一節が、低く、しかし妙によく通る声で落ちる。

 

人間五十年。

下天の内をくらぶれば。

夢幻の如くなり。

 

あの文句は有名だ。

有名すぎて、前の人生ではどこか記号みたいに聞こえるところもあった。

だが、今ここで聞くと違う。

 

夢幻みたいなものだからこそ、今ここで命を使う。

そういう開き直りじゃない。

もっと厄介だ。

 

どうせ夢幻なら、せめて夢幻の中で一番でかい火を焚いてやる。

兄上の舞から見えるのは、そういう種類の人間の怖さだった。

 

足の運びが止まる。

袖が落ちる。

わずかな間ができる。

 

その間に、誰も声を出さなかった。

 

備後守様も。

土田御前も。

勘十郎兄上も。

お濃の方も。

もちろん俺も。

 

沈黙の長さは、たぶんほんの息ひとつ分だ。

だが、その一息が異様に長く感じられた。

 

上総介兄上は、舞い終わって、そこでようやく俺たちのいる現実へ戻ってきたみたいに見えた。

 

いや、違うな。

戻ってきたんじゃない。

あの舞で、自分の現実をこっちへ引き寄せたんだ。

 

「勘十郎」

「は」

「兵を起こせ」

「すでに」

「よい」

 

短い。

 

だが、それで足りる。

勘十郎兄上の返しもまた短い。

兄上たちの間では、もう長い説明はいらない。

 

備後守様が、そこで低く言った。

 

「三郎」

 

上総介兄上は、わずかにそちらへ顔を向けた。

 

「今日を越えれば、織田は変わる」

「……」

「越えられねば、ここで終わる」

「承知しております」

 

やっぱり、親子だと思った。

 

言葉の置き方が似ている。

重いことを、重いまま短く置く。

 

お濃の方は、なおも黙っていた。

ただ、上総介兄上がこちらへ向き直るほんの前に、一つだけ言った。

 

「ご武運を」

 

それだけだった。

 

女が泣く場ではない。

引き留める場でもない。

あの人はちゃんと分かっている。

だから、その一言だけで十分だった。

 

そこで、俺はつい口を開いた。

 

「上総介兄上」

 

上総介兄上の目が、すっとこちらへ来る。

備後守様も、土田御前も、勘十郎兄上も、お濃の方も、わずかに俺を見た。

 

今さら引っ込めるには遅い。

 

「某が元服までしてお支えしようと思ったのです」

「……」

「五十年と言わず、百年は働いてもらわねば困ります」

 

一瞬だけ、場が止まった。

 

それから先に、勘十郎兄上が吹いた。

 

「こ奴め」

 

お濃の方と土田御前が袖口で口元を隠す。

備後守様も、深く息を吐くように笑った。

 

上総介兄上は、ほんの少しだけ目を細め、それから鼻で笑う。

 

「百年か」

「は」

「欲張るな」

「欲張らねば足りませぬ」

 

「言うようになったな」

勘十郎兄上が、まだ笑いを残した声で言う。

「さっきまで初陣の重みで潰れそうな顔をしておったくせに」

 

「潰れそうだからこそ、そのようなときは引っ張り上げていただかねば困るのです」

 

「まだ言うか」

と備後守様。

 

けれど、その声ももう堅くはない。

張り詰めていた空気が、そこでようやく少しだけ緩んだ。

 

上総介兄上は、そこで初めて俺をまっすぐ見た。

 

舞の最中は、誰も見ていなかったようでいて、たぶん全部見ていたんだろう。

俺がいつ着いたか。

どこで息を止めたか。

何を考えていたかまでは知らないにせよ、少なくとも「そこにいる」ことは、最初から勘定に入っていた顔だった。

 

「太郎左衛門」

 

呼ばれて、背中が勝手に伸びた。

 

「は」

 

その一声で、さっきまで舞を見ていた側から、呼ばれる側へ変わる。

空気が変わる。

身内の場は終わり、ここから先は出陣の場だ。

 

上総介兄上は、まっすぐ俺を見たまま、次の言葉を置こうとしていた。

 

 

「太郎左衛門」

 

呼ばれて、背中が勝手に伸びた。

 

「は」

 

その一声で、さっきまで舞を見ていた側から、呼ばれる側へ変わる。

空気が変わる。

身内の場は終わり、ここから先は出陣の場だ。

 

上総介兄上は、まっすぐ俺を見たまま言った。

 

「今日は手柄首の数を競う戦ではない」

「……」

「義元を討てば勝ちだ」

「はい」

「逆に申せば、義元へ届かねば、いくら雑兵を斬っても足りぬ」

 

俺は深く頭を下げた。

 

「狙うは、ここまでの勝利に油断し、あの場で陣を薄く展開する義元が首一つ、にございます」

 

その瞬間、上総介兄上の口元が、わずかに吊り上がった。

 

やはりこ奴は読んでおる――そんな笑みだった。

 

「分かっておるではないか」

「は」

 

「ならばよい」

上総介兄上は静かに続ける。

「先へ出ろ」

 

「はい」

「だが、逸るな」

「は」

「義元の首だけを見て、義元へ届く道を見失うな」

「承知仕りました」

 

勘十郎兄上が、その横で低く言葉を添えた。

 

「太郎左衛門」

「は」

「兄上の槍になるな」

「……」

「兄上の目になれ」

「……」

「どこが厚く、どこが薄いか」

「はい」

「どこで敵が勝ちに酔い、どこで陣が緩むか」

「はい」

「それを拾え」

「……」

「槍は替えが利く。だが、目はそうはいかぬ」

 

その一言が、骨へ入った。

「はっ」

 

俺が前へ出るのは当然だ。

だが、ただ一番に斬り込むだけなら、武辺はいくらでもいる。

今日、俺に求められているのは、それだけじゃない。

 

上総介兄上が頷く。

 

「そういうことだ」

「は」

「お前は、わしのすぐ前に出るな」

「……」

「半歩、ずれていろ」

「は」

 

「見えるものがある」

「はい」

「拾える崩れがある」

「はい」

「そして、要る時だけ噛みつけ」

「承知仕りました」

 

備後守様が、そこで低く笑った。

 

「難しい役を振るのう」

 

「こやつなら言わずとも出来ます」

と上総介兄上は即答した。

 

その即答が、妙に重かった。

 

信じる、ではない。

使えるから使う、でも足りない。

出来る奴へ、出来る役を置く。

兄上はそういう人だ。

 

お濃の方は黙っていた。

だが、俺を見る目が少しだけ変わっていた。

若を見ている目から、役を負う者を見る目へ。

 

勘十郎兄上が、最後に言う。

 

「慶次郎と助右衛門が寄るぞ」

「……」

「分かっております」

「ならよい」

 

兄上は口元を少しだけ上げる。

「あの二人は、手柄首の匂いがするところへ来る」

「はい」

「つまり、お前の近くが一番危ないということだ」

「ありがたくない話ですね」

「だが、悪い話でもない」

 

上総介兄上が踵を返した。

 

「参るぞ」

 

その言葉で、場が完全に切り替わる。

 

備後守様と土田御前の前で舞った敦盛も。

お濃の方の一言も。

勘十郎兄上の笑いも。

そこまでだ。

 

ここからは、全部戦だ。

 

俺は、兄上たちの背を追った。

 

元服したばかりの名が、まだ肩に馴染んでいない。

だが、もう馴染むのを待つ時間はない。

 

半歩ずれて、見る。

薄いところを拾う。

要る時だけ噛みつく。

 

上総介兄上が俺へ置いた役は、そういう役だった。

 

 

四つ時頃には清洲を発し、八時頃には熱田へ着いたと後で言えばただの時刻だが、実際にその中へいると、えらく短い。ものを考える隙がない。

 

俺は馬上で、何度も手の中を開いたり閉じたりした。

 

元服したばかりの名が、まだ身体へ馴染んでいない。

だが、名に慣れるのを待ってくれるほど合戦は優しくない。

太郎左衛門だろうが又八郎だろうが、矢は刺さるし、槍は腹を裂く。

なら、名前の方を戦に馴染ませるしかない。

 

熱田へ着いた時、黒煙が見えた。

 

丸根か、鷲津か。

たぶん両方だ。

 

上総介兄上は、その黒煙を見ても顔色一つ変えなかった。

変えなかったが、あれは平静じゃない。

切っ先が鞘に入ったまま、すでに人を斬る時の顔だ。

 

善照寺砦へ入って、ようやくこちらの形が少し見えた。二千か三千。数だけ言えば、今川の総勢二万五千と比べて笑える。だが、あの二万五千は全部が一塊で押し寄せてくるわけじゃない。兵站もあれば、分進もある。義元の周りに常に張り付いて動ける兵は、その数字ほど厚くない。俺はそこだけを頭の中で何度もなぞっていた。

 

それでも、でかいものはでかい。

 

敵の旗の数。

道の先まで伸びる気配。

地そのものが今川方の荷と足で踏み固められていく感触。

 

あれを前にすると、理屈の分かる奴ほど一度は喉が渇く。

 

俺も渇いた。

 

けど、その渇きが逆によかった。

自分が何でも出来ると思ってる時の方が危ない。

今日の相手は、真正面からぶつかって勝てる程度の敵じゃない。

だからこそ、地形と時間と人の心理を全部まとめて使う必要がある。

 

丸根は外へ打って出て、盛重が討死。

鷲津でも飯尾定宗や織田秀敏が討たれた。

時間は稼いでくれた。

あの人たちの血が、今こうして俺たちの手元へ時を寄せている。

 

善照寺の中で、慶次郎が妙に静かだった。

 

元服の夜にはあれだけ鼻を鳴らしていたくせに、今日は無駄口が少ない。

助右衛門は最初から少ない。

だから、二人揃って静かだと、かえって気配が濃くなる。

 

「どう見える」

と慶次郎。

 

「でかいよ」

と俺。

 

「そりゃそうだ」

 

「でかいが」

俺は東の方を見た。

「全部が一枚じゃない」

 

「うむ」

助右衛門が短く応じる。

 

「義元の周りは薄い」

と言うと、慶次郎の口元がわずかに動いた。

 

「食えるか」

「食える形にする」

 

「いい」

慶次郎はそこで初めて少し笑った。

「やっぱり手柄首の匂いがする」

 

こんな時までそれか、と思った。

だが、救われもした。

 

人は怖い時、妙に立派なことを言い始めるか、逆に黙りこくる。

慶次郎はそのどっちでもない。

怖さを知った上で、なお首の匂いを嗅ぐ。

ああいう武辺は、側にいると助かる。

 

十一時か十二時か、その辺りだったと思う。

 

上総介兄上は五百を善照寺へ残し、二千ほどを率いて東へ回した。鳴海から東南、桶狭間の方へ敵の存在を察して進む、という形だ。奇襲か正面からか、後で外の人間が好きに言えばいい。中にいるこっちからすれば、重要なのは「どう見せるか」より「どう届くか」だった。敵へ先に届けば勝ちだ。届かなければ、でかい方が勝つ。それだけだ。

 

田の間の細道は、思っていたより足を取られた。

 

馬で行けるところと、降りた方が早いところがある。

泥はまだ浅い。

だが空が嫌だった。

雲が低くて、妙に光が鈍い。

こういう日は、何か一つきっかけがあれば一気に崩れる。

 

中嶋砦の前の方では、佐々政次や千秋四郎らが上総介兄上の出陣を聞いて、単独で前へ噛みついた。意気が上がるのは分かる。分かるが、あれはあれで武辺の病だ。先に死ねば褒美より先に終わる。案の定、今川方に反撃を食らって、そのまま討たれた。戦の前半は、どうしてもこういう血が出る。

 

それでも上総介兄上は、そこで慌てなかった。

 

この人の凄いところは、目の前で味方が崩れても、全体の形を捨てないところだ。

優しくない。

だが、優しさで総崩れするよりよほどいい。

 

正午を回った頃、向こうは勝ちすぎていた。

 

丸根、鷲津。

数々の小さな勝ち。

義元は気を良くして謡をうたわせたともいう。

たぶん本当だろう。

勝ってる側は、勝ってることに酔う。

特に、大軍で押している時ほど「このまま行ける」と思い込む。

 

俺はそこへ賭けた。

いや、賭けたというより、そこしかなかった。

 

勝っている側の緩み。

分進した兵力。

義元本隊の周辺の薄さ。

そして、空。

 

十三時頃だったか、雨が来た。

 

豪雨、という言葉で後から括るのは簡単だ。

実際は、来たと思った瞬間に景色が消えた。

前の男の背が、急に水の向こうへ半分沈む。

土が跳ねる。

草が寝る。

雹まじりだったのか、頬へ当たる粒が少し痛い。

視界を奪うには十分すぎた。

 

「今だ」

 

上総介兄上が言ったか、誰かが叫んだか、もう覚えていない。

たぶん両方だ。

だが、全員が同じことを思ったのは確かだ。

 

俺たちは兵を進めた。

 

雨の中で進むと、音が変わる。

鎧の擦れる音。

馬の鼻息。

ぬかるみを蹴る足。

全部が水を噛んで低くなる。

 

その低い音のまま、俺たちは義元本隊の方へ食い込んだ。

 

敵前衛が接敵した瞬間、あまりにもあっさり崩れたのを、俺は今でも少し気味悪く思い出す。

 

強くないわけじゃない。

疲れていたわけでもない。

だが、急に来た。

それも、勝っている最中に。

しかも豪雨の中から。

 

人は、理に合わない強襲を受けると、強さ以前に形が崩れる。

向こうはまさにそれだった。

 

「抜ける!」

 

慶次郎の声がした。

 

あいつの声は、こういう時だけやたらよく通る。

 

「行け!」

と俺は返した。

 

助右衛門は返事をしない。

しないで、ただ一番重い方向へ身体をねじ込む。

あれがあいつの怖いところだ。

言葉より先に、もう刃の間へ入っている。

 

前衛が崩れた。

本陣が見える。

いや、見えたと思った瞬間にはもう消える。

雨と泥と旗の乱れで、景色がまともな形を保たない。

 

だが、狙うものは一つだ。

 

義元。

 

あの大軍そのものを斬る必要はない。

頭だけを落とせばいい。

戦国は、その残酷な単純さがある。

 

義元は、突然の強襲に輿を捨て、三百ほどの旗本で固めて逃げたという。

その時点で、もう向こうは守りの戦になっていた。

逃げる敵の旗本は、厚いようでいて厚くない。

前から押すだけじゃない。

横からずらし、泥へ踏ませ、下げたところをまた噛む。

一度で潰せる相手じゃないから、少しずつ削る。

そういう追撃になる。

 

俺は、自分でも驚くほど冷えていた。

 

熱くなっていない、とは言わない。

だが、頭の芯だけが妙に静かだった。

 

誰がどこへ食いついたか。

前衛がどこで割れたか。

泥が深いところはどこか。

旗本の厚みが薄くなる瞬間はいつか。

 

その全部が、豪雨の向こうで一瞬ずつ見える。

 

これだ、と思った。

 

前の人生で知っていた桶狭間は、名前のついた歴史の一事件だった。

こっちの桶狭間は違う。

泥の匂いがして、血がぬるくて、雹が頬へ当たる。

そして人間が、勝っていたはずなのに、急に死ぬ。

 

その現実の中で、俺は初めてはっきり分かった。

 

歴史を知っているだけじゃ足りない。

その場で、届くところまで手を伸ばせなければ何の意味もない。

 

だから俺は、さらに前へ出た。

 

義元を追い詰める。

その一点だけを見て。

 

後に誰が一番槍だとか、誰が組み伏せたとか、首を誰が上げたとか、そういう話はいくらでも並ぶだろう。

だが、その直前までの戦場で、俺がやっていたことは単純だった。

 

逃げる頭を、逃がさない。

そのために、崩れた前衛の隙間へ人を通し、旗本の厚みを削り、ぬかるみへ足を取らせる。

大軍をそのまま相手にするんじゃない。

大軍が大軍でいられなくなる瞬間だけを狙う。

 

それが、あの日の俺の桶狭間だった。

 

雨は、まだ降っていた。

世界は泥と旗と叫び声で出来ていた。

そしてその真ん中で、俺はようやく、自分がこの時代へ来た意味の一つに手をかけていた。

 

 

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