織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点 作:デトロ!開けろイト市警だ!
元服の儀が終わっても、体のどこかがまだ座の中に残っていた。
衣の重さじゃない。
名の重さでも、たぶんまだ足りない。
あの広間で、上総介兄上の口から「織田太郎左衛門信繁」と置かれた瞬間から、俺の体のどこかが少し遅れて追いかけてきている感じだ。
廊へ出ると、ようやく息がしやすくなった。
祝いの後だから、人の動きはまだ多い。
だが、さっきまでの広間ほど張り詰めてはいない。
火桶の匂い。
酒の残り香。
良い香の薄い筋。
それに、磨かれた板の冷たさ。
俺は廊の柱へ軽く背を預けて、一度だけ息を吐いた。
「重そうだな」
声がして、顔を上げる。
家中でも有名な武辺者、前田慶次郎だった。
馬の件があったので、予想していなかったわけじゃない。
むしろ、あいつならどこかで来るだろうとは思っていた。
元服の儀みたいな堅い場を、ずっとおとなしく見ていられる男じゃない。
いや、見てはいられる。
見てはいられるが、そのあと何も言わずに帰る男でもない。
その少し後ろに、奥村助右衛門もいた。
こっちはもっと予想通りだ。
慶次郎が来て、助右衛門がいない方が不自然なくらいだった。
「見りゃ分かるか」
「見りゃ分かる」
慶次郎は口元を少し上げる。
「さっきまで、家一つ分ぐらい背負わされてた顔してたぞ」
「実際、半分ぐらいはそうだろ」
「半分か?」
慶次郎は肩を竦めた。
「俺には八割ぐらいに見えた」
その言い草に、少しだけ笑った。
「残り二割は何だよ」
「若さだな」
「雑だな」
「そうか?」
「そうだよ」
助右衛門は黙っていた。
だが、黙ったまま俺の顔を見ていた。
こいつはこういうところがある。
慶次郎みたいに先に言葉を投げない。
まず見て、それから必要な時だけ短く置く。
「太郎左衛門殿」
慶次郎が、新しい呼び方を少し面白がるように使った。
まだ慣れない。
慣れないが、今日はそこをいちいち嫌がる日でもない。
「何だよ、慶次郎」
「似合わねえな」
「喧嘩売ってんのか」
「半分は褒めてる」
「どういう褒め方だ」
「まだ馴染んでねえってことだ」
慶次郎は俺の肩から腰まで一度見てから続けた。
「だが、そのうち似合う」
その言い方は、妙に慶次郎らしかった。
派手だ。
だが、ただ適当に持ち上げるわけじゃない。
今はまだ似合わない、でもそのうち似合う、と言う。
半端に慰めないぶん、あいつの言葉は時々骨へ入る。
「助右衛門もそう思うか」
振ると、助右衛門は一拍置いて頷いた。
「今は、まだ名が勝つ」
「ひでえな」
「だが」
助右衛門はそこで言葉を切る。
「すぐ追いつく」
こっちはこっちで、短いくせに余計に刺さる。
廊の端で、風が少し鳴った。
火桶の熱が届かない分だけ、夜気が冷たい。
その冷たさの中で、慶次郎が唐突に鼻を鳴らした。
「で」
「うん?」
「するな」
「何が」
「手柄首の匂いだよ」
思わず、ちょっと黙った。
やっぱりそう来るか、と思った。
来るとは思ってた。
思ってたが、こうもまっすぐ言われると笑うしかない。
「元服の晩に、いきなりそれか」
「いきなりじゃねえさ」
慶次郎は平然としている。
「さっきの座を見りゃ分かる」
「何が」
「織田の中が、今どこへ向いてるかだ」
「……」
「祝いに見せかけてたが、ありゃ半分評定だ」
「半分どころじゃなかったな」
「だろ」
慶次郎はにやりとした。
「だから匂う」
助右衛門が、そこで一つだけ言った。
「戦の前だ」
それだけだった。
だが、十分だった。
さっきの広間の空気。
上総介兄上の言葉。
勘十郎兄上の置き方。
備後守様の重さ。
一門衆も家臣衆も、ただ盃を受けに来た顔じゃなかった。
祝っていた。
だが同時に、見ていた。
若が一人立つ、その意味を。
「まあ、そうだな」
俺がそう返すと、慶次郎は柱へ肩を預けた。
「だから、俺はそろそろお前の近くにいた方がいいと思ってる」
「自分で言うなよ」
「何だ、不満か」
「不満じゃねえけど、露骨すぎるだろ」
「露骨でいい」
「良くねえよ」
「俺は武辺だぞ」
慶次郎は少しだけ笑う。
「手柄首の匂いがする方へ寄るのは、むしろ礼儀だ」
そこで、助右衛門が珍しく慶次郎の言葉をすぐに継いだ。
「某も同じです」
思わず、そっちを見る。
「お前もか」
「はい」
「もっとこう、静かに来いよ」
「来ております」
「いや、今それ言ってる時点で静かじゃねえだろ」
慶次郎が吹きそうになって、口元を押さえた。
「太郎左衛門殿」
「何だよ」
「助右衛門は、静かに来てるつもりなんだよ」
「質が悪いな」
「俺よりずっと質が悪い」
「お前が言うな」
少し笑って、それから黙る。
慶次郎。
助右衛門。
この二人を並べて見ると、俺の中ではどうしたって一組になる。
前田慶次郎は有名だ。一夢庵風流記に花の慶次。
前の人生でだって、名前を知らない方が難しい。
だが、慶次郎だけで終わる話でもない。
あの男をちゃんと前へ出すなら、助右衛門が横にいないと座りが悪い。
俺の知っている慶次郎は、一人で派手に立つだけの男じゃない。
莫逆の友がいて、その横で無駄口少なく立つ男がいて、ようやくあの慶次郎になる。
だから、助右衛門の顔を初めて見た時から、何となく安心したところがある。
ああ、いるべき奴がいる、っていう安心だ。
もちろん、それをそのまま言えるわけじゃない。
言ったところで、俺の頭がおかしいと思われるだけだ。
「何だよ」
慶次郎が怪訝そうに言う。
「人の顔見て黙るな」
「いや」
「何だ」
「お前だけじゃ締まらねえなと思って」
「喧嘩か?」
「半分は褒めてる」
「おい」
「残り半分は」
と助右衛門が淡々と言う。
「事実だろう」
「お前、今さらっと乗ったな」
その瞬間、さすがの慶次郎も少しだけ目を見開いた。
それから、遅れて笑う。
「はっ、いいな」
「何が」
「いい」
慶次郎は助右衛門の肩を軽く叩く。
「やっぱりお前は、俺の横にいる時が一番いい」
助右衛門は嫌そうな顔一つしなかった。
しないで、ただ短く返す。
「知っている」
ずるいよな、こういうの。
派手なのは慶次郎だ。
目立つのも慶次郎だ。
だが、その横でああいう顔をされると、むしろ助右衛門の方が深く残る。
「太郎左衛門殿」
「今度は何だ」
「さっきの座で、俺は一つだけ分かった」
「何を」
「お前は、これから前へ出る」
「……」
「嫌でも出る」
「まあ、そうだろうな」
「なら、先に言っとく」
慶次郎はまっすぐ俺を見た。
「一番槍は譲らねえ」
「知らねえよ」
「だが、お前の横にはいる」
「両方取るな」
「武辺だからな」
助右衛門も、そこで静かに言った。
「某も」
「お前まで欲張るなよ」
「欲張ってはおりませぬ」
「じゃあ何だ」
「当然の位置です」
思わず、息で笑った。
元服のあとで。
名前の重さがまだ肩に馴染んでなくて。
家の都合も、戦の気配も、全部ひっくるめて少し重たい。
その夜に、こういう馬鹿みたいな話が出来るのは、たぶんありがたいことなんだろう。
「分かったよ」
俺は柱から背を離した。
「ただし」
「何だ」
「まだ何も始まってない」
「知ってる」
と慶次郎。
「だが匂う」
「お前はそればっかりだな」
「鼻が利くんだよ」
「犬かよ」
「花だ」
「何言ってんだ」
慶次郎が笑う。
助右衛門は笑わない。
笑わないが、口元だけほんの少し緩んだ。
それを見て、俺は心の中で少しだけ頷いた。
ああ、やっぱりそうだ。
慶次郎だけじゃ足りない。
助右衛門がいて、初めてちゃんと形になる。
「じゃあ、太郎左衛門殿」
「何だよ」
「次に匂ったら呼べ」
「嫌だね」
「何でだ」
「自分で嗅ぎつけて来い」
「言うじゃねえか」
「お前ら、そういうところだけは信用してる」
その返しに、慶次郎は嬉しそうに笑った。
助右衛門は深く一つ頷いた。
それで十分だった。
元服の儀は終わった。
又八郎は終わって、太郎左衛門信繁になった。
だが、名が変わっただけで急に何かが完成するわけじゃない。
むしろ逆で、ここから先、何に誰が寄ってくるかで形が決まる。
その最初に寄ってきたのが、手柄首の匂いを嗅いだこの二人だった。
悪くない。
いや、かなり悪くない。
そう思った時点で、俺もだいぶ戦国に染まってきたのかもしれなかった。
♢
夜のうちから、空気が嫌だった。
静かすぎる、というより、遠くで巨大なものが動いている時の静けさだ。
人の声はある。
足音もある。
馬も鳴く。
だが、その全部の下に、まだ見えない大軍の重みが沈んでいる。
今川義元は五月十二日に駿府を出て、十八日に沓掛へ入った。松平元康の三河勢がその夜のうちに大高へ兵糧を運び込んだ、という報はもう入っている。
家中ではいろいろ言った。籠もるだの、迎え撃つだの、皆もっともらしい顔で申したが、上総介兄上は前日までは雑談ばかりで、これといった腹を見せなかったらしい。
そういう時の兄上は、だいたいもう腹が決まっている。
俺は眠れなかった。
怖いからじゃない。
いや、怖くないわけじゃない。
だが、怖さで眠れないのとは少し違う。
今日、何かが決まる。
織田が尾張一国の家で終わるか、もっと先へ行く家になるか、その分かれ目の一つが来る。
歴史では織田家が勝つ。ただ、俺の存在が北京の蝶の羽ばたきになっていないとは断言できない。
そう考える時の体は、妙に冴える。
夜の深いうち、丸根と鷲津へ今川方がかかったという報が入った。明け方には、佐久間盛重らから危急の知らせが届く。
急報が入った時、空気が変わる音を、俺はたしかに聞いた気がした。
実際に音がしたわけじゃない。
だが、さっきまで夜の底で重たく沈んでいた清洲の空気が、一瞬で刃物みたいに薄くなる。
人が走る。
足音が変わる。
声が低くなる。
その全部がまとめて、ああ、もう来たな、と分からせる。
丸根。
鷲津。
今川方がかかった。
報を持ってきた使いの顔は、もうそれだけで十分だった。
余計な説明はいらない。
眠気も迷いも吹き飛ぶ種類の顔だ。
俺は半ば走るようにして、上総介兄上の居所の方へ向かった。
途中で勘十郎兄上がいた。
もう着替えは半分終えている。
目だけがやけに冴えていた。
「来たな」
と勘十郎兄上。
「はい」
「兄上は」
「起きられた」
勘十郎兄上は短く答える。
「いや、起きたというより、ああいう時の兄上は元から起きておるようなものだ」
それは、妙に分かる言い方だった。
上総介兄上は、普段から寝ていてもどこか半分は起きているような人だ。
ましてこういう時はなおさらだ。
居所の奥へ通されると、いた。
上総介兄上。
お濃の方。
備後守様。
土田御前。
そして勘十郎兄上。
本当に、身内だけだった。
家臣衆のざわめきは外にある。
ここだけが妙に静かだ。
静かで、その静けさがかえって怖い。
上総介兄上は、すでに支度の途中だった。
だが、鎧を急いで着込むでもなく、いきなり怒鳴るでもない。
報を受けた、その次の瞬間には、もう別の段へ入っている顔だった。
「丸根、鷲津か」
と備後守様。
「そのようです」
と勘十郎兄上。
「そうか」
備後守様はそれだけ言って、深く息を吐いた。
老いてなお、声の芯は太い。
病を経た身だというのに、こういう時だけはかえって昔より重く聞こえる。
お濃の方は、何も言わなかった。
ただ上総介兄上を見ている。
その目は、不安を隠している目ではない。
この人が、こういう時にどういう人になるかを、もうとうに知っている女の目だった。
そして上総介兄上は、ふいに立った。
その瞬間、俺は少しだけ背筋が粟立った。
ああ、舞うな、と思った。
分かっていたわけじゃない。
だが、そう思った。
報を聞いた上総介兄上が、そのまま鎧へ飛びつくより先に、何か一つ、己の芯をまっすぐ通す動きをするだろうと、体が先に理解していた。
兄上は、声を張らない。
けれど、その場の全員が自然と口を閉じた。
衣の裾が静かに動く。
足が運ばれる。
袖が返る。
敦盛。
あの幸若舞を、上総介兄上は、身内の前で舞った。
派手ではない。
いや、たぶん、外で見れば十分に派手なんだろう。
だが、今この場で見ていると、派手さより別のものが先に立つ。
腹だ。
この人の中で、もう出ることは決まっている。
迎え撃つことも決まっている。
勝つか負けるかじゃない。
ここで出なければ、織田が織田でなくなる。
そこまでをまとめて、兄上はもう飲み込んでいる。
だから舞う。
迷いを切るためじゃない。
すでに切れている迷いを、形にして周りへ見せるためだ。
敦盛の一節が、低く、しかし妙によく通る声で落ちる。
人間五十年。
下天の内をくらぶれば。
夢幻の如くなり。
あの文句は有名だ。
有名すぎて、前の人生ではどこか記号みたいに聞こえるところもあった。
だが、今ここで聞くと違う。
夢幻みたいなものだからこそ、今ここで命を使う。
そういう開き直りじゃない。
もっと厄介だ。
どうせ夢幻なら、せめて夢幻の中で一番でかい火を焚いてやる。
兄上の舞から見えるのは、そういう種類の人間の怖さだった。
足の運びが止まる。
袖が落ちる。
わずかな間ができる。
その間に、誰も声を出さなかった。
備後守様も。
土田御前も。
勘十郎兄上も。
お濃の方も。
もちろん俺も。
沈黙の長さは、たぶんほんの息ひとつ分だ。
だが、その一息が異様に長く感じられた。
上総介兄上は、舞い終わって、そこでようやく俺たちのいる現実へ戻ってきたみたいに見えた。
いや、違うな。
戻ってきたんじゃない。
あの舞で、自分の現実をこっちへ引き寄せたんだ。
「勘十郎」
「は」
「兵を起こせ」
「すでに」
「よい」
短い。
だが、それで足りる。
勘十郎兄上の返しもまた短い。
兄上たちの間では、もう長い説明はいらない。
備後守様が、そこで低く言った。
「三郎」
上総介兄上は、わずかにそちらへ顔を向けた。
「今日を越えれば、織田は変わる」
「……」
「越えられねば、ここで終わる」
「承知しております」
やっぱり、親子だと思った。
言葉の置き方が似ている。
重いことを、重いまま短く置く。
お濃の方は、なおも黙っていた。
ただ、上総介兄上がこちらへ向き直るほんの前に、一つだけ言った。
「ご武運を」
それだけだった。
女が泣く場ではない。
引き留める場でもない。
あの人はちゃんと分かっている。
だから、その一言だけで十分だった。
そこで、俺はつい口を開いた。
「上総介兄上」
上総介兄上の目が、すっとこちらへ来る。
備後守様も、土田御前も、勘十郎兄上も、お濃の方も、わずかに俺を見た。
今さら引っ込めるには遅い。
「某が元服までしてお支えしようと思ったのです」
「……」
「五十年と言わず、百年は働いてもらわねば困ります」
一瞬だけ、場が止まった。
それから先に、勘十郎兄上が吹いた。
「こ奴め」
お濃の方と土田御前が袖口で口元を隠す。
備後守様も、深く息を吐くように笑った。
上総介兄上は、ほんの少しだけ目を細め、それから鼻で笑う。
「百年か」
「は」
「欲張るな」
「欲張らねば足りませぬ」
「言うようになったな」
勘十郎兄上が、まだ笑いを残した声で言う。
「さっきまで初陣の重みで潰れそうな顔をしておったくせに」
「潰れそうだからこそ、そのようなときは引っ張り上げていただかねば困るのです」
「まだ言うか」
と備後守様。
けれど、その声ももう堅くはない。
張り詰めていた空気が、そこでようやく少しだけ緩んだ。
上総介兄上は、そこで初めて俺をまっすぐ見た。
舞の最中は、誰も見ていなかったようでいて、たぶん全部見ていたんだろう。
俺がいつ着いたか。
どこで息を止めたか。
何を考えていたかまでは知らないにせよ、少なくとも「そこにいる」ことは、最初から勘定に入っていた顔だった。
「太郎左衛門」
呼ばれて、背中が勝手に伸びた。
「は」
その一声で、さっきまで舞を見ていた側から、呼ばれる側へ変わる。
空気が変わる。
身内の場は終わり、ここから先は出陣の場だ。
上総介兄上は、まっすぐ俺を見たまま、次の言葉を置こうとしていた。
♢
「太郎左衛門」
呼ばれて、背中が勝手に伸びた。
「は」
その一声で、さっきまで舞を見ていた側から、呼ばれる側へ変わる。
空気が変わる。
身内の場は終わり、ここから先は出陣の場だ。
上総介兄上は、まっすぐ俺を見たまま言った。
「今日は手柄首の数を競う戦ではない」
「……」
「義元を討てば勝ちだ」
「はい」
「逆に申せば、義元へ届かねば、いくら雑兵を斬っても足りぬ」
俺は深く頭を下げた。
「狙うは、ここまでの勝利に油断し、あの場で陣を薄く展開する義元が首一つ、にございます」
その瞬間、上総介兄上の口元が、わずかに吊り上がった。
やはりこ奴は読んでおる――そんな笑みだった。
「分かっておるではないか」
「は」
「ならばよい」
上総介兄上は静かに続ける。
「先へ出ろ」
「はい」
「だが、逸るな」
「は」
「義元の首だけを見て、義元へ届く道を見失うな」
「承知仕りました」
勘十郎兄上が、その横で低く言葉を添えた。
「太郎左衛門」
「は」
「兄上の槍になるな」
「……」
「兄上の目になれ」
「……」
「どこが厚く、どこが薄いか」
「はい」
「どこで敵が勝ちに酔い、どこで陣が緩むか」
「はい」
「それを拾え」
「……」
「槍は替えが利く。だが、目はそうはいかぬ」
その一言が、骨へ入った。
「はっ」
俺が前へ出るのは当然だ。
だが、ただ一番に斬り込むだけなら、武辺はいくらでもいる。
今日、俺に求められているのは、それだけじゃない。
上総介兄上が頷く。
「そういうことだ」
「は」
「お前は、わしのすぐ前に出るな」
「……」
「半歩、ずれていろ」
「は」
「見えるものがある」
「はい」
「拾える崩れがある」
「はい」
「そして、要る時だけ噛みつけ」
「承知仕りました」
備後守様が、そこで低く笑った。
「難しい役を振るのう」
「こやつなら言わずとも出来ます」
と上総介兄上は即答した。
その即答が、妙に重かった。
信じる、ではない。
使えるから使う、でも足りない。
出来る奴へ、出来る役を置く。
兄上はそういう人だ。
お濃の方は黙っていた。
だが、俺を見る目が少しだけ変わっていた。
若を見ている目から、役を負う者を見る目へ。
勘十郎兄上が、最後に言う。
「慶次郎と助右衛門が寄るぞ」
「……」
「分かっております」
「ならよい」
兄上は口元を少しだけ上げる。
「あの二人は、手柄首の匂いがするところへ来る」
「はい」
「つまり、お前の近くが一番危ないということだ」
「ありがたくない話ですね」
「だが、悪い話でもない」
上総介兄上が踵を返した。
「参るぞ」
その言葉で、場が完全に切り替わる。
備後守様と土田御前の前で舞った敦盛も。
お濃の方の一言も。
勘十郎兄上の笑いも。
そこまでだ。
ここからは、全部戦だ。
俺は、兄上たちの背を追った。
元服したばかりの名が、まだ肩に馴染んでいない。
だが、もう馴染むのを待つ時間はない。
半歩ずれて、見る。
薄いところを拾う。
要る時だけ噛みつく。
上総介兄上が俺へ置いた役は、そういう役だった。
四つ時頃には清洲を発し、八時頃には熱田へ着いたと後で言えばただの時刻だが、実際にその中へいると、えらく短い。ものを考える隙がない。
俺は馬上で、何度も手の中を開いたり閉じたりした。
元服したばかりの名が、まだ身体へ馴染んでいない。
だが、名に慣れるのを待ってくれるほど合戦は優しくない。
太郎左衛門だろうが又八郎だろうが、矢は刺さるし、槍は腹を裂く。
なら、名前の方を戦に馴染ませるしかない。
熱田へ着いた時、黒煙が見えた。
丸根か、鷲津か。
たぶん両方だ。
上総介兄上は、その黒煙を見ても顔色一つ変えなかった。
変えなかったが、あれは平静じゃない。
切っ先が鞘に入ったまま、すでに人を斬る時の顔だ。
善照寺砦へ入って、ようやくこちらの形が少し見えた。二千か三千。数だけ言えば、今川の総勢二万五千と比べて笑える。だが、あの二万五千は全部が一塊で押し寄せてくるわけじゃない。兵站もあれば、分進もある。義元の周りに常に張り付いて動ける兵は、その数字ほど厚くない。俺はそこだけを頭の中で何度もなぞっていた。
それでも、でかいものはでかい。
敵の旗の数。
道の先まで伸びる気配。
地そのものが今川方の荷と足で踏み固められていく感触。
あれを前にすると、理屈の分かる奴ほど一度は喉が渇く。
俺も渇いた。
けど、その渇きが逆によかった。
自分が何でも出来ると思ってる時の方が危ない。
今日の相手は、真正面からぶつかって勝てる程度の敵じゃない。
だからこそ、地形と時間と人の心理を全部まとめて使う必要がある。
丸根は外へ打って出て、盛重が討死。
鷲津でも飯尾定宗や織田秀敏が討たれた。
時間は稼いでくれた。
あの人たちの血が、今こうして俺たちの手元へ時を寄せている。
善照寺の中で、慶次郎が妙に静かだった。
元服の夜にはあれだけ鼻を鳴らしていたくせに、今日は無駄口が少ない。
助右衛門は最初から少ない。
だから、二人揃って静かだと、かえって気配が濃くなる。
「どう見える」
と慶次郎。
「でかいよ」
と俺。
「そりゃそうだ」
「でかいが」
俺は東の方を見た。
「全部が一枚じゃない」
「うむ」
助右衛門が短く応じる。
「義元の周りは薄い」
と言うと、慶次郎の口元がわずかに動いた。
「食えるか」
「食える形にする」
「いい」
慶次郎はそこで初めて少し笑った。
「やっぱり手柄首の匂いがする」
こんな時までそれか、と思った。
だが、救われもした。
人は怖い時、妙に立派なことを言い始めるか、逆に黙りこくる。
慶次郎はそのどっちでもない。
怖さを知った上で、なお首の匂いを嗅ぐ。
ああいう武辺は、側にいると助かる。
十一時か十二時か、その辺りだったと思う。
上総介兄上は五百を善照寺へ残し、二千ほどを率いて東へ回した。鳴海から東南、桶狭間の方へ敵の存在を察して進む、という形だ。奇襲か正面からか、後で外の人間が好きに言えばいい。中にいるこっちからすれば、重要なのは「どう見せるか」より「どう届くか」だった。敵へ先に届けば勝ちだ。届かなければ、でかい方が勝つ。それだけだ。
田の間の細道は、思っていたより足を取られた。
馬で行けるところと、降りた方が早いところがある。
泥はまだ浅い。
だが空が嫌だった。
雲が低くて、妙に光が鈍い。
こういう日は、何か一つきっかけがあれば一気に崩れる。
中嶋砦の前の方では、佐々政次や千秋四郎らが上総介兄上の出陣を聞いて、単独で前へ噛みついた。意気が上がるのは分かる。分かるが、あれはあれで武辺の病だ。先に死ねば褒美より先に終わる。案の定、今川方に反撃を食らって、そのまま討たれた。戦の前半は、どうしてもこういう血が出る。
それでも上総介兄上は、そこで慌てなかった。
この人の凄いところは、目の前で味方が崩れても、全体の形を捨てないところだ。
優しくない。
だが、優しさで総崩れするよりよほどいい。
正午を回った頃、向こうは勝ちすぎていた。
丸根、鷲津。
数々の小さな勝ち。
義元は気を良くして謡をうたわせたともいう。
たぶん本当だろう。
勝ってる側は、勝ってることに酔う。
特に、大軍で押している時ほど「このまま行ける」と思い込む。
俺はそこへ賭けた。
いや、賭けたというより、そこしかなかった。
勝っている側の緩み。
分進した兵力。
義元本隊の周辺の薄さ。
そして、空。
十三時頃だったか、雨が来た。
豪雨、という言葉で後から括るのは簡単だ。
実際は、来たと思った瞬間に景色が消えた。
前の男の背が、急に水の向こうへ半分沈む。
土が跳ねる。
草が寝る。
雹まじりだったのか、頬へ当たる粒が少し痛い。
視界を奪うには十分すぎた。
「今だ」
上総介兄上が言ったか、誰かが叫んだか、もう覚えていない。
たぶん両方だ。
だが、全員が同じことを思ったのは確かだ。
俺たちは兵を進めた。
雨の中で進むと、音が変わる。
鎧の擦れる音。
馬の鼻息。
ぬかるみを蹴る足。
全部が水を噛んで低くなる。
その低い音のまま、俺たちは義元本隊の方へ食い込んだ。
敵前衛が接敵した瞬間、あまりにもあっさり崩れたのを、俺は今でも少し気味悪く思い出す。
強くないわけじゃない。
疲れていたわけでもない。
だが、急に来た。
それも、勝っている最中に。
しかも豪雨の中から。
人は、理に合わない強襲を受けると、強さ以前に形が崩れる。
向こうはまさにそれだった。
「抜ける!」
慶次郎の声がした。
あいつの声は、こういう時だけやたらよく通る。
「行け!」
と俺は返した。
助右衛門は返事をしない。
しないで、ただ一番重い方向へ身体をねじ込む。
あれがあいつの怖いところだ。
言葉より先に、もう刃の間へ入っている。
前衛が崩れた。
本陣が見える。
いや、見えたと思った瞬間にはもう消える。
雨と泥と旗の乱れで、景色がまともな形を保たない。
だが、狙うものは一つだ。
義元。
あの大軍そのものを斬る必要はない。
頭だけを落とせばいい。
戦国は、その残酷な単純さがある。
義元は、突然の強襲に輿を捨て、三百ほどの旗本で固めて逃げたという。
その時点で、もう向こうは守りの戦になっていた。
逃げる敵の旗本は、厚いようでいて厚くない。
前から押すだけじゃない。
横からずらし、泥へ踏ませ、下げたところをまた噛む。
一度で潰せる相手じゃないから、少しずつ削る。
そういう追撃になる。
俺は、自分でも驚くほど冷えていた。
熱くなっていない、とは言わない。
だが、頭の芯だけが妙に静かだった。
誰がどこへ食いついたか。
前衛がどこで割れたか。
泥が深いところはどこか。
旗本の厚みが薄くなる瞬間はいつか。
その全部が、豪雨の向こうで一瞬ずつ見える。
これだ、と思った。
前の人生で知っていた桶狭間は、名前のついた歴史の一事件だった。
こっちの桶狭間は違う。
泥の匂いがして、血がぬるくて、雹が頬へ当たる。
そして人間が、勝っていたはずなのに、急に死ぬ。
その現実の中で、俺は初めてはっきり分かった。
歴史を知っているだけじゃ足りない。
その場で、届くところまで手を伸ばせなければ何の意味もない。
だから俺は、さらに前へ出た。
義元を追い詰める。
その一点だけを見て。
後に誰が一番槍だとか、誰が組み伏せたとか、首を誰が上げたとか、そういう話はいくらでも並ぶだろう。
だが、その直前までの戦場で、俺がやっていたことは単純だった。
逃げる頭を、逃がさない。
そのために、崩れた前衛の隙間へ人を通し、旗本の厚みを削り、ぬかるみへ足を取らせる。
大軍をそのまま相手にするんじゃない。
大軍が大軍でいられなくなる瞬間だけを狙う。
それが、あの日の俺の桶狭間だった。
雨は、まだ降っていた。
世界は泥と旗と叫び声で出来ていた。
そしてその真ん中で、俺はようやく、自分がこの時代へ来た意味の一つに手をかけていた。