織田家の嫡子~藤左衛門家の特異点   作:デトロ!開けろイト市警だ!

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009桶狭間の戦い

雨脚が強まったのは、むしろこちらにとっては追い風だった。

 

空は昼だというのに暗く、木立の影と降りしきる雨が人馬の輪郭を曖昧にしている。泥は脛にまとわりつき、草は踏み倒され、血はあっという間に水に薄められて地へ流れていく。鼻を突くのは鉄と土の匂いだ。耳に入るのは鬨の声と、怒号と、馬のいななきと、どこかで誰かが潰される鈍い音。

 

だが、その混乱のただ中にいるからこそ、逆に見えるものがある。

 

敵も、乱れている。

 

今川方は数に任せて陣を広げていた。その分、雨と急襲が重なった時の乱れは深い。伝令の流れがぶつかり、誰がどこへ押し出され、どこで踏みとどまっているかに歪みが出る。兵の厚みが均一ではない。備えがあるように見えて、実際には人の流れが淀んでいる場所と、妙に抜けた場所がある。

 

俺は泥を蹴りながら前へ出た。

 

左に慶次郎。右に助右衛門。

 

二人とも、いつの間にか本当に俺の左右へ収まっていた。こちらが頼んだわけではない。むしろ、あいつらの方が勝手に嗅ぎ付けて来たのだ。

 

慶次郎は血に濡れた頬を手の甲で拭い、獣みたいな笑みを浮かべる。

 

「やっぱりだ」

「何がだ」

「お主のそばにいると、首の匂いがする」

 

相変わらず訳の分からないことを、妙に確信めいて言う。

 

助右衛門は前だけを見たまま、短く言った。

 

「軽口に聞こえるが、こやつは本気だ」

「見りゃ分かる」

 

俺が返すと、慶次郎が肩を揺らした。

 

「分かってるなら話が早ぇ。太郎左衛門、お前、どこ見てる」

 

その問いに、俺はすぐには答えなかった。

 

前にいる敵だけを見ても駄目だ。ここは乱戦だ。正面の一人を倒したところで、次が来る。その次も来る。大将首を取る戦は、目の前の敵より、その向こうで何が動いているかを見ないといけない。

 

上総介兄上の急襲勢が、雨を衝いて前へ出ている。

 

その中でもひときわ前へ出ている影があった。

 

――毛利新介。

 

さらに、そのすぐ脇に、軸をぶらさず斬り進む男。

 

――服部小平太。

 

胸の内に、閃くものがあった。

 

この二人がいる。

 

この雨の中で、上総介兄上の近習筋がここまで前へ出ている。

 

ならば、上総介兄上ご自身も遠くはない。遠くないなら、目指している先もまた遠くはない。

 

前世の知識が、戦場の現実と重なった。

 

桶狭間。急襲。義元本陣。毛利新介、服部小平太。

 

ただ名前を知っているだけでは意味がない。だが、いま目の前で実際にその顔が泥と血の中にある以上、それは死んだ知識ではなく、生きた目印になる。

 

俺は周囲を見た。

 

槍の穂先が向いている先。旗の揺れ方。供回りの厚み。逃げる兵の方向。逆に、逃げずに踏みとどまっている足軽の位置。伝令が駆け込む流れ。その全部が、一点へ収束しきれていないようでいて、実はある場所を避けるように歪んでいる。

 

派手な大旗の下ではない。

 

一番騒がしいところでもない。

 

むしろ、守りが厚いのに、声が低いところだ。

 

大将の周りは、案外静かになる。怒鳴るより先に、死ぬ気で止める者が集まるからだ。

 

「あそこか」

 

思わず口から漏れた。

 

慶次郎が食いつく。

 

「見えたか」

「まだ断じ切れん。だが、派手な旗じゃない。人の寄り方がおかしい」

 

助右衛門が低く問う。

 

「行くか」

「行く」

 

それを言った瞬間、自分の腹が定まるのが分かった。

 

もう見誤っても後には引けない。ここで怯めば、俺はただ知っていただけの男になる。桶狭間を知っていた。義元が死ぬのを知っていた。だが、自分では何も取れなかった。そんな傍観者にだけは、なりたくなかった。

 

前で鬨が上がる。

 

毛利新介が、今川方の武者を一人、ほとんど体当たりのような間合いで斬り伏せた。服部小平太がその死体を踏み越え、別の槍先を叩き落とす。あの二人の進む筋が、今川の陣の“厚み”を割っている。

 

違う。

 

ただ斬っているだけじゃない。

 

本陣へ通じる圧の薄い筋を、身体でこじ開けている。

 

「慶次郎、助右衛門」

 

俺は声を落とした。

 

「毛利殿と服部殿の動きに乗る」

 

慶次郎が嬉しそうに笑う。

 

「いいねえ」

 

助右衛門は頷いただけだった。

 

「左右は任せよ」

 

次の瞬間、俺たちは走った。

 

泥が跳ねる。草を踏み切る。雨粒が顔を叩く。前から槍が出る。

 

慶次郎が左から飛び込み、槍を持った今川兵の懐へ滑り込んだ。刃が一閃し、相手の喉が裂ける。こいつの戦い方は荒い。だが荒いだけではない。相手がこちらへ向けるべき視線を、先に奪う。派手に動き、派手に斬る。それで戦場の目を引き受ける。

 

その隙に、右で助右衛門が一人を斬る。

 

慶次郎と違って、こちらは無駄がない。振りも、足も、呼吸も小さい。気付けば敵が倒れている。脇を抜けようとした者の肩口へ、必要なだけ刃が入る。確実に穴を広げる斬りだ。

 

二人が作った間を、俺は真ん中から抜ける。

 

前へ。

 

前へ。

 

一人、太刀を振り下ろしてきた武者がいた。受ければ止まる。俺は半身にずれてかわし、脇腹へ刃を入れる。浅い。だが十分だ。相手が膝を折ったところを蹴り飛ばして、そのまま走り抜ける。

 

「太郎左衛門!」

 

後ろから慶次郎の声。

 

振り返らずに身を沈めた。すぐ上を槍先が過ぎる。助右衛門がその柄を断ち、慶次郎が持ち主の顔面へ肘を叩き込む。

 

「前見てろ!」

「分かってる!」

 

叫び返した瞬間、視界の奥に見えた。

 

毛利新介がいた。

 

息を荒げ、血に濡れながら、それでもまだ前へ出ている。すぐ脇で服部小平太が敵の打ち込みを受け流し、さらにその奥へ押し込んでいた。

 

あの二人は、間違いなく上総介兄上の進む道をこじ開けている。

 

ならば――その先だ。

 

そこだ。

 

俺の視線が、その先の一点へ吸われる。

 

大旗は目立たない。むしろ目立たせぬようにしているように見える。だが、その周りの兵の動きが違う。崩れそうで崩れない。逃げているようで、そこだけは割らせまいとしている。供回りの密度。声の質。伝令の寄り方。あれは飾りの陣ではない。守るべき核だ。

 

「いた」

 

気付けば、声が出ていた。

 

助右衛門がすぐ反応する。

 

「見えたか」

「ああ。あれが本陣中枢だ」

 

慶次郎が、楽しそうに歯を見せた。

 

「やっぱりそう来た」

 

その時、前から今川方の武者が二騎、割って入ってきた。片方は槍、片方は太刀。こちらを止めるために死ぬ気で出てきた目だった。

 

慶次郎が左の騎を引き受けた。

 

「こっちは貰う!」

 

助右衛門が右へ回る。

 

「太郎左衛門、前へ」

 

俺は一瞬だけ迷った。

 

二人を置いて行く形になる。

 

だが、助右衛門がそれを読んだように言い切る。

 

「ここで止まる方が、無駄だ」

 

その一言で腹が決まった。

 

俺は前へ出る。

 

慶次郎の太刀が火花を散らし、相手の槍を弾いた。助右衛門が低く入り込み、騎馬の前脚の動きを殺す。人馬がもつれた、その刹那だけで十分だった。俺はそこを抜ける。

 

もう敵の顔は覚えていない。

 

斬った。かわした。踏み越えた。肩に何かが当たり、熱が走った。浅手だ。構わない。今は止まる方が重い。

 

前で毛利新介が振り向いた。

 

一瞬だけ、俺と目が合う。

 

驚いたような、呆れたような顔だった。上総介兄上の近習筋に混じって、十五の若武者が、しかも左右に見慣れぬ二人を従えてここまで来ているのだから当然だろう。

 

だが毛利殿は何も言わなかった。

 

言う暇もなかった。

 

ただ、俺の視線の先を見て、その意味を悟ったらしい。次の瞬間には、ほとんど吠えるように叫んだ。

 

「そこか!」

 

服部小平太も、俺の見た先を見た。

 

「ならば割るぞ!」

 

近習たちの圧が、一段強まる。

 

ああ、これだ。

 

俺が全部導くのではない。

 

毛利殿も服部殿も、自分たちで届く力がある。その上で、俺が見えた一点が、彼らの斬り込む向きを定める。だからご都合ではない。戦場の中で、それぞれが役目を果たした結果として、本陣への道が一本通る。

 

「慶次郎! 助右衛門!」

 

俺は振り返りもせず叫んだ。

 

「来い! 本物だ!」

 

後ろで、慶次郎の笑い声が上がる。

 

「言われるまでもねえ!」

 

助右衛門の声は短かった。

 

「すぐ追う!」

 

次の瞬間、今川方の最後の厚みへぶつかった。

 

ここから先は、もう兵の数ではない。意地だ。主を守ると決めた者の壁だ。槍が突き出され、太刀が振り下ろされる。誰も逃げない。逃げればその奥を抜かれると知っているからだ。

 

俺は突っ込んだ。

 

一人の槍先を外へ流す。懐に入り、肩口へ斬り上げる。返す刃で別の腕を払う。誰かの怒鳴り声。血飛沫。泥。足が滑る。踏ん張る。前へ出る。

 

左から慶次郎が追いついた。

 

「おらぁっ!」

 

吶喊というより、獣の咆哮に近い声だった。敵の視線がそちらへ引かれる。慶次郎はわざと派手に斬る。派手に動く。あいつは戦場で目立つことを恐れない。むしろ、目立つことで味方を通す。

 

右では助右衛門が、こちらへ届くはずだった一撃を二つ、三つと切り捨てた。

 

「前だけ見よ」

「助かる」

「討った後で言え」

 

短いやり取りだった。

 

その奥で、毛利殿と服部殿がさらに一枚、壁を破る。

 

そこで、見えた。

 

雨の向こう。倒れた旗本の向こう。崩れ切らずに残った中心。

 

ただ立っているだけで、そこが“核”だと分かる男がいた。

 

今川治部大輔義元。

 

その瞬間、時間が細く尖る。

 

ここだ。

 

ここまで来た。

 

歴史が脳裏を駆け抜ける。桶狭間。義元、討死。織田、飛躍。だが今は、そんなものはもう遠い。目の前にいる男を斬れるかどうか、それだけだ。

 

慶次郎が、ほとんど愉快そうに言った。

 

「ほらな、太郎左衛門。手柄首の匂いがしたろ」

 

助右衛門は静かに息を吐いた。

 

「左右は固める。行け」

 

前で毛利殿と服部殿が、今川方最後の近習を押さえている。

 

この場にいる全員の刃が、たった一つの場所へ収束していた。

 

俺は泥を踏みしめ、一歩前へ出た。

 

 

雨は、まだ完全には上がっていなかった。

 

枝から落ちる雫が、血と泥の混じった地へ細い筋を引いていく。遠くではなお鬨の声が乱れていたが、この一角だけは妙に音が薄かった。

 

今川の旗本衆が折り重なるように崩れ、その奥に、なお立っている男がいた。

 

濡れ羽色の具足は泥と血に汚れてなお、どこか威を失っていなかった。周囲を囲んでいた近習は既に斬り伏せられ、あるいは傷を負って膝をついている。それでも、その男だけは最後まで立っていた。

 

今川治部大輔義元。

 

肩で息をしている。息の浅さは隠せぬ。だが、その目だけはまだ死んでいなかった。

 

俺――太郎左衛門信繁は、ぬかるみに足を取られそうになりながら、一歩前へ出た。左には前田慶次郎利益。右には奥村助右衛門永福。少し後ろに、毛利新介と服部小平太が荒い息のまま刃を下げずに立っている。

 

ここまで来た。

 

本当に、ここまで来てしまった。

 

前世の知識の中で何度も見た名が、いま目の前に生身で立っている。今川義元。海道一の弓取りと呼ばれ、天下に号令をかけんとした大大名。その首が、手を伸ばせば届くところにある。

 

義元が、ゆっくりと俺を見た。

 

その視線はまず毛利と服部を舐め、次に慶次郎と助右衛門へ移り、最後に俺へ止まった。雨に濡れた顔で、義元はわずかに口元を動かした。

 

「織田の、うつけ殿かと思えば」

 

息の間に、血が混じる。

 

「その傍らに、小田井の神童までおったか」

 

そこで一度、義元は深く息を吐いた。苦しげではある。だが声音そのものは、不思議なほど崩れなかった。

 

「余の敗北も、是非もなし」

 

毛利新介が一歩踏み込みかけたのを、服部小平太が肩で制した。慶次郎は口の端だけで笑っている。助右衛門は何も言わず、ただ俺の横顔を見た。

 

義元の目が、まっすぐ俺を射抜く。

 

「太郎左衛門信繁」

 

敵将に、諱を呼ばれた。

 

場の空気が、ぴたりと止まる。

 

「見事な槍働きよ」

 

義元はわずかに顎を上げた。討たれる側の男ではない。最後まで、自らを高みに置く目だった。

 

「治部大輔を名乗るに足る」

 

胸の内が、どくりと鳴った。

 

「余が首、一生の馳走と致せ」

 

それだけ言うと、義元は両膝を落とした。完全に崩れたのではない。討たれる者として、自ら姿を正したのだ。

 

慶次郎が、低く笑った。

 

「聞いたな、太郎左衛門」

 

軽い。だが、その声には妙な熱があった。

 

「これ以上の手柄首、そうそう転がっちゃいねえ」

 

助右衛門が、落ち着いた声で続ける。

 

「武士が最期に残した言葉だ。無駄にするな」

 

毛利新介が血を吐き捨てるように言った。

 

「討ち取ったなら、取った形にせねばならん。ここで躊躇うな」

 

服部小平太も、短く重ねた。

 

「首級は証だ。戦場の理に従われよ」

 

四方から促される。

 

分かっている。

 

分かっているが、首を落とすという行為の重みは、知識で理解するのと、実際に手をかけるのとではまるで違った。人を斬るのともまた違う。もう二度と戻らぬ形に、人を変える行為だ。

 

俺は一歩進み出た。

 

義元の前に膝をつく。

 

血と泥に汚れた両手を合わせた。

 

「……御免」

 

それが前世の名残なのか、この時代の武士に対するわずかな敬意なのか、自分でも分からなかった。ただ、何もせずに刃だけ振り下ろすことは、どうしても出来なかった。

 

義元はそれを見て、かすかに笑ったように見えた。

 

次の瞬間、俺は息を詰め、一気に刃を振り下ろした。

 

鈍い感触が、腕から肩へ抜ける。

 

二の太刀は要らなかった。

 

義元の首が落ちる。

 

その瞬間、周囲の空気が破れた。誰かが鬨を上げ、誰かが「今川治部大輔、討ち取ったり!」と叫んだ。慶次郎が高々と笑い、助右衛門がすぐに周囲へ目を配る。毛利と服部は、首級とその場の証人を押さえるために即座に動いた。

 

俺はその場に膝をついたまま、数息だけ動けなかった。

 

やった。

 

やってしまった。

 

だが、その迷いを引き剥がすように、慶次郎の声が降ってくる。

 

「太郎左衛門、ぼさっとするな。天下が動く首だぜ」

 

助右衛門が義元の首を確かめ、布へ包む手つきを整えながら言う。

 

「お前が取った。誰が何を言おうと、ここにいた面子が証人だ」

 

毛利新介が鼻で笑った。

 

「上総介兄上が、さてどう仰せになるやら」

 

服部小平太は目を細めた。

 

「どちらにせよ、もはや小田井の神童では済みますまい」

 

そこでようやく、俺は立ち上がった。

 

手の中の刃が、やけに重かった。

 

 

首実検の場は、雨の匂いと鉄の匂いと、人の熱で満ちていた。

 

上総介兄上は、まだ具足も解かぬまま上座にいた。濡れた髪が肩へ落ちている。戦の直後でありながら、その眼だけは異様に冴えていた。

 

今川治部大輔の首が据えられる。

 

ざわめきが、ひときわ低く沈んだ。

 

誰が取った。

 

どう取った。

 

乱戦である以上、その一点は必ず問われる。どれほど名のある首でも、証がなければ水になる。だからこそ、ここが本当の勝負でもあった。

 

上総介兄上は首を見、次に俺を見た。

 

「太郎左衛門」

 

短い呼びかけだった。

 

「その首、そなたが取ったか」

「はっ」

 

俺が頭を下げようとした、その前に、毛利新介が一歩進み出た。

 

「相違ございませぬ。某、服部小平太と共に、今川本陣中枢にてこれを見届け申した」

 

服部小平太も続く。

 

「敵中の見極めは太郎左衛門。突入の折も、最後の場も、違えようがありませぬ」

 

上総介兄上の視線がわずかに動く。

 

「ほう」

 

今度は反対側から、慶次郎がにやりと笑って進み出た。まだ誰の家の者とも定まり切らぬ風体でありながら、その立ち方だけは妙に堂々としている。

 

「某も見ておりました、上総介様。太郎左衛門殿の左におり申したゆえ、首の落ちるまで、しかと」

 

助右衛門がすぐに後を継いだ。

 

「某は右にて。太郎左衛門殿が合掌し、今川治部大輔殿が最期の言葉を遺し、そのうえで討ち果たされたこと、相違なく」

 

上総介兄上の眉がわずかに上がる。

 

「最期の言葉、とな」

 

場が静まった。

 

毛利新介が口を開く。

 

「治部大輔殿は申しました。『織田のうつけ殿に、小田井の神童までおっては、余の敗北も是非もなし』と」

 

服部小平太が継ぐ。

 

「さらに、『太郎左衛門信繁、見事な働き。治部大輔を名乗るに足る。余が首、一生の馳走と致せ』と」

 

慶次郎が肩を揺らして笑う。

 

「敵ながら、大した最期でしたぜ」

 

助右衛門は真顔のまま言った。

 

「某らも同じく耳に致しました」

 

四方から証言が重なる。

 

誇張でも脚色でもないと分かるだけの重みがあった。毛利・服部の近習たち。慶次郎・助右衛門の信繁左右。その二ヶ所から同じ言葉が出た以上、場にいた者たちも軽々しくは疑えない。

 

上総介兄上はしばし黙った。

その沈黙がやけに長く感じられた。

 

やがて、ふ、と喉で笑う。

 

「今川治部大輔め」

 

その声音には、勝者の嘲りと、好敵手へのわずかな敬意が同時に混じっていた。

 

「最期まで、大名らしく振る舞いおったわ」

 

それから、あらためて俺を見た。

 

目が合う。

 

そこにはもう、ただの早熟な小倅を見る色はなかった。試しに前へ出してみた若者でもない。戦で使い、その結果を見た者の目だった。

 

「太郎左衛門信繁」

 

上総介兄上は、ゆっくりと告げた。

 

「そなた、桶狭間にて名を立てた」

 

ざわ、と場が動く。

 

「今川治部大輔が最期に何を言おうと、それだけで官途が定まるわけではない」

 

一度、釘を刺す。そこが上総介兄上らしかった。

 

「されど、敵将今川治部大輔の首を取り、その場にいた者どもが等しく証するならば、その働き、ただの太郎左衛門では収まるまい」

 

俺は膝を正し、深く頭を垂れた。

 

「ありがたき幸せにございます」

 

上総介兄上は薄く笑った。

 

「以後、公には治部大輔信繁と名乗るがよい」

 

場が、どよめいた。

 

「元服したばかりであるし、太郎左衛門の通称はそのまま残せ。家中の呼び慣れもあろう。されど今日この時より、そなたは小田井の神童ではない」

 

上総介兄上の声が、はっきりと場を切る。

 

「桶狭間で今川治部大輔を討ち取った、治部大輔信繁だ」

 

その瞬間だった。

 

空気が変わった。

 

誰かが息を呑み、誰かが低く感嘆の声を漏らす。名が変わったのではない。格が変わったのだ。戦場で命を賭けて取った首が、俺という一人の人間を押し上げた。その事実が、この場の全員へ一斉に染み渡っていく。

 

上総介兄上はさらに、慶次郎と助右衛門へ目を向けた。

 

「そこの二人」

 

慶次郎が笑ったまま頭を下げ、助右衛門が静かに膝を折る。

 

「名を申せ」

「前田慶次郎利益」

「奥村助右衛門永福」

 

上総介兄上は面白そうに目を細めた。

 

「ふむ。治部大輔の左右におって、その首を見届けたか」

 

慶次郎が口角を上げる。

 

「ええ。こいつのそばにいると、どうにも手柄首の匂いが致しまして」

 

場に小さく笑いが走る。

 

だが上総介兄上は、むしろその言葉を気に入ったようだった。

 

「よい鼻だ」

 

助右衛門は簡潔に言う。

 

「この者は、前へ出るべき時を知っております」

 

上総介兄上は頷く。

 

「ならば、今後も見ておれ。治部大輔がどこまで伸びるか」

 

慶次郎と助右衛門は、そこで視線を交わした。

言葉はない。

 

だが、その一瞬で充分だった。二人の腹の内に、既にひとつの決まりが落ちているのが分かった。今日限りの乱戦仲間では終わらぬ。いずれ正式に、こちらへ来る。そんな予感ではない。もっと、武辺者らしい即断だった。

 

毛利新介が横目で俺を見る。

 

「治部大輔、か」

 

服部小平太も、かすかに口元を緩めた。

 

「出世の仕方が、いささか派手に過ぎましょう」

 

俺はようやく顔を上げた。

上総介兄上の前に、義元の首がある。

 

俺の手で落とした首だ。

そして今、俺の名は変わった。

 

太郎左衛門は消えない。元服の名であり、ここまで俺を連れてきた通称だ。だが、それだけではもう足りない。

 

治部大輔信繁。

 

その名を胸の内で一度だけ転がす。

 

重い。

だが、悪くない。

 

上総介兄上が最後に笑った。

 

「よいか、治部大輔。首一つで満足するな」

 

その眼は、もう次を見ていた。

 

「そなたの働きで、織田の家はまだまだ大きくなる」

 

俺は深く平伏した。

 

「はっ」

 

雨の匂いは、まだ残っていた。

 

だがもう、桶狭間の泥の中にいた十五の若武者ではない。

その日から俺は、治部大輔信繁となった。

 

 

首実検の後、人が引いた一角で、父上――左兵衛佐信張はしばらく何も言わなかった。

 

勝った戦の後だというのに、浮き立つような気配はない。むしろ、ようやく肩から力が抜けた者のように見えた。具足には泥がこびりつき、袖口には乾きかけた血が黒く残っている。戦場で父上を見ること自体は初めてではなかった。だが、こうして同じ首級を挟んで向き合うのは初めてだった。

 

俺は少し離れて膝をついた。

 

上総介兄上から治部大輔信繁の名乗りを許された。だが、父上の前に出ると、その名の重みとは別のところで、どうにも背筋が伸びる。

 

父上は俺を見た。

 

その視線は、戦の前と同じようでいて、どこか決定的に違っていた。

 

「……生きておったな」

 

最初の一言が、それだった。

 

叱責でもない。賞賛でもない。ただ、腹の底から出た声だった。

 

俺は頭を下げた。

 

「はっ」

 

父上は短く息を吐いた。

 

「お前が前へ出ることは、分かっておった」

 

その声音に、責める色はない。だが、軽く許しているわけでもない。

 

「賢い子は、引き際を覚える前に、踏み込むべき時を覚えてしまう。太郎左衛門、お前はそういう子だ」

 

俺は黙って聞いた。

 

父上は続ける。

 

「幼い頃からそうであったな。人の見ぬところを見、皆が言葉にせぬことを口にする。家のためになることも多かった。助けられたことも、一度や二度ではない」

 

そこで、父上は一度言葉を切った。

 

「だが同じだけ、危うかった」

 

静かな声だった。

 

「賢いことは刃にもなる。家を助ける刃にもなるし、家の外へ向いてしまえば、余人に恐れられる刃にもなる。親としては、せめて鞘に納めておきたかった。だが当主として見れば、お前をただ隠しておくわけにもいかなかった」

 

俺は顔を上げずにいた。

 

それは、父上がずっと抱えていた二重の目線そのものだったのだろう。

 

息子として守りたい。

 

家の札としては前へ出したい。

 

その二つが、今日までずっとせめぎ合っていた。

 

「桶狭間へ出すと決めた時、わしは半分、後悔しておった」

 

父上はそう言って、かすかに口元を歪めた。

 

「いや、半分どころではないな。大半だ」

 

その方が父上らしかった。

 

「上総介様は面白がっておられた。お前のような者を、危地でこそ使ってみたくなるお方だ。分かっておった。分かっておったが、親は、分かった上で腹を括れぬ時がある」

 

そこでようやく、父上は俺の顔を正面から見た。

 

「治部大輔」

 

新しい名で呼ばれた。

 

胸の奥が、わずかに熱を持つ。

 

「はっ」

「……見事であった」

 

それだけ言うのに、父上は少し間を置いた。

 

「戦の働きもな。だが、それだけではない」

 

俺は黙ったまま待った。

 

「首を取り、証を残し、名乗りを得た。そこまでを一つの働きとして成したのだ。人を討つだけなら、できる者は他にもおる。だが、討った首を家の益へ、己の格へ、そして先々の道へ変えるのは、誰にでもできることではない」

 

それは父上らしい評価だった。

 

血の熱だけではなく、その先を見ている。

 

「今日で、お前は家の中の利口な倅ではなくなった。外へ向けて立つ札になった」

 

その言葉は、褒め言葉であると同時に、宣告でもあった。

 

もう後戻りはしない。

 

小田井の内で収まる子ではない。

 

織田の家の中で、そしてその外に対しても、名が立ってしまったのだ。

 

父上は、ほんのわずかに目を細めた。

 

「誇らしいよ」

 

その一言は、何より重かった。

 

「……だが、怖くもある」

 

俺は初めて顔を上げた。

 

父上は笑っていなかった。

 

「今日、お前は一つ上がった。ならば次は、さらに上へ行けと周りが言う。戦で名を立てれば、次の戦でも立てと求められる。名乗りを得れば、その名に見合う働きをせよと迫られる。婚姻も、家中の扱いも、人の寄り方も変わる」

 

口にこそ出さぬが、その先にお市殿のような相手筋まで見えているのだと分かった。

 

「才のある子を守るのは難しい。才が本物であればなおさらだ」

 

そして最後に、父上はいつもの左兵衛佐信張の顔へ戻った。

 

「ゆえに言う。驕るな。今日の首で天下を取った気になるな。されど、縮こまるな。今日の首を怖れて、自ら小さくもなるな」

 

まっすぐな声だった。

 

「治部大輔信繁として立つなら、立ち切れ。半端に賢いふりをするな。お前はもう、そういうところへ出てしまった」

 

俺は深く頭を下げた。

 

「肝に銘じます」

 

父上は頷いた。

 

それから、ごく小さな声で付け足した。

 

「……生きて戻って、良かった」

 

その一言で、ようやく分かった。

 

父上はさっきからずっと、当主としてではなく、父としてもこの場にいたのだと。

 

俺はあらためて額を地へつけた。

 

「ご心配を、おかけ致しました」

 

父上はそれには答えず、ただ一つ鼻を鳴らしただけだった。

 

だが、それで十分だった。

 

 

清洲城が見えた時、俺はようやく本当に勝ったのだと知った。

 

戦場で首を取り、首実検で名を改められ、父上からも言葉を受けた。そこまで来てもなお、どこか現実が薄かった。雨と血と泥の中で動いていた時間は、あまりに濃く、逆に現か夢か分からぬようなところがあったのだ。

 

だが、城が見えた。

 

見慣れた石垣。櫓。門。そこに集う人影。

 

その瞬間、ようやく戦が「帰る場所のある出来事」になった。

 

城中には既に勝報が届いていたのだろう。門前から人の気配がいつもと違う。慌ただしさの中に、張りつめた明るさが混じっている。

 

俺たちが近づくと、出迎えの列の中から、ひときわ目を引く二つの影が前へ出た。

 

お犬殿。

そして、お市殿。

 

まだ年若い姫君たちだ。だが、清洲の空気の中では、その年若さそのものが華やぎになる。ことにこの日は、勝報を受けて城門へ立つという場のせいか、ただ若いだけではない、家の中心に連なる者としての気配があった。

 

お市殿の目が、俺の顔に止まった。

 

その視線の中にあるのは、織田家一門同士面識はあった。

お市殿が見せたのはただの親族への安堵ではなかった。驚きと、安堵と、そしてどこか測りかねるような熱が混じっている。戦へ出る前とは、明らかに見方が違っていた。

 

俺は馬を下り、深く頭を垂れた。

 

「此度、無事に戻り申した」

 

お市殿はすぐには言葉を返されなかった。

 

代わりに、お犬殿が先に口を開いた。

 

「……本当に、生きて戻られたのですね、治部大輔殿」

 

その声は、わずかに震えていた。

 

今川治部大輔の首を取っただの、治部大輔の名を許されたなどということ以前に、まず生きて帰ったことそのものに胸を衝かれているのだと分かった。

 

俺は顔を上げた。

 

「はっ。どうにか」

 

お犬殿はそれ以上の言葉を飲み込み、お市殿の方を見た。

 

お市殿はそこでようやく一つ息をつき、静かに言われた。

 

「見事なお働きにございました、治部大輔殿」

 

新しい名で、呼ばれた。

 

胸の奥で、また何かが動いた。

 

もう城にまで、その名で届いている。

 

「過分のお言葉にございます」

 

そう返すと、お市殿はほんのわずかに首を振られた。

 

「過分ではありませぬ。今川治部大輔殿の首を挙げられたのでしょう、治部大輔殿」

 

まっすぐだった。

 

柔らかい声音ではあったが、そこにあるのは曖昧な慰めではない。戦の働きを、きちんと戦の働きとして見ている声だった。

 

お犬殿も、そこでようやく嬉しさを抑えきれなくなったように続けた。

 

「城中、皆その話で持ちきりです。小田井の神童、などと申していた者まで、今は皆、桶狭間の若武者だと」

 

その言葉に、戦場で浴びた血とは別の熱が顔へ上がりかけた。

 

勘弁してほしい。

 

首を落とす時より、こういう時の方が妙に面映ゆい。

 

お市殿は、そのわずかな戸惑いまで見て取られたらしく、口元を少しだけ緩められた。

 

「されど、まずはご無事で何よりでした、治部大輔殿」

 

その一言は、先ほどの格式を崩さぬまま、それでも確かな温かさを持っていた。

 

そして、そこでようやく気付いた。

 

お市殿とお犬殿の後ろに、さらに見慣れた顔がある。

 

又六郎。

そして、母上。

 

弟は、こちらを見たまま目を丸くしていた。まだ幼名のままの又六郎が、兄を見ている。出陣前と同じ兄ではないのだと、たぶん直感しているのだろう。驚き、誇らしさ、少しの戸惑い。その全部が顔に出ていた。

 

母上は、そんな又六郎の肩へそっと手を置いていた。

だが、母上ご自身の目も、少し赤い。

 

その姿を見た瞬間、胸の奥に何かがこみ上げるのを止められなかった。

 

ああ、勝ったのだ。

 

本当に、勝って帰ってきたのだ。

 

今川治部大輔の首を取ったこと。名を改められたこと。父上に言葉を貰ったこと。どれも大きい。だが、それらはどこかまだ戦の中にあった。

 

けれど今、城門の前にお市殿とお犬殿がいて、又六郎がいて、母上がいる。

その顔を見ていると、初めて実感として胸へ落ちてくる。

 

死なずに戻った。

負けずに戻った。

 

そして俺は、ただの又八郎でも、ただの太郎左衛門でもなくなって帰ってきた。

 

又六郎が、とうとう堪えきれずに前へ出た。

 

「兄上……いや、治部大輔殿、でござるか」

 

その言い直しが可笑しくて、少しだけ笑いそうになる。

 

「好きに呼べ。急に変えろと言われても、そちらの方が困ろう」

 

そう言うと、又六郎はぱっと顔を明るくした。

 

「では、兄上で」

 

母上がそこでようやく口を開いた。

 

「まことに……まことに、ご無事で」

 

たったそれだけだった。

 

だが、その一言に、どれだけの夜が詰まっているか分かった。

 

戦の報が届くまで、どれだけ案じていたか。

 

帰還の報が届いてなお、姿を見るまで信じ切れなかったのだろう。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「ご心配をおかけ致しました」

 

母上は涙をこらえるように微笑み、首を振った。

 

「よいのです。戻ってきて下されば、それで」

 

お市殿も、お犬殿も、又六郎も、母上もいる。

 

城がある。

 

帰る場所がある。

 

その前に立って、ようやく俺は、戦場の興奮とも、首実検の緊張とも違うところで、深く息を吐いた。

 

勝ったのだ。

 

俺は桶狭間を、生きて勝って越えたのだ。

 

しかも一人ではない。上総介兄上がいて、父上がいて、毛利殿や服部殿がいて、慶次郎と助右衛門がいて、その先にこうして迎える人たちがいる。

 

戦は終わった。

 

だが同時に、ここから始まるのだとも分かった。

 

お市殿の視線が、もう一度こちらへ向く。

 

お犬殿は、安堵を押さえきれぬように小さく息をついている。

 

又六郎は露骨に誇らしげだ。

 

母上は安堵しきったように細く息をついた。

 

清洲城の門は、いつもと同じようにそこにあった。

 

なのに、その日だけはまるで違って見えた。

 

俺はあらためて、城門の内へ足を踏み入れた。

 

桶狭間で首を取り、治部大輔の名を得て、家族の待つ城へ帰る。

 

その一歩の重さを、たぶん俺は生涯忘れない。

 

 

その夜、俺はほとんど眠れなかった。

 

疲れていないわけではない。むしろ身体は重かった。桶狭間からの帰還、首実検、上総介兄上の前での名乗り、父上との言葉、清洲での出迎え。どれを取っても、普通ならそのまま泥のように眠りへ落ちておかしくない一日だった。

 

実際、床に入った直後は、意識が沈みかけた。

 

だが沈み切る前に、来た。

 

あの感触が。

 

今川治部大輔殿の首を落とした時の、刃が骨と肉を断つ鈍い手応え。腕から肩へ抜けた重さ。血の匂い。雨に薄まった泥の匂い。その全部が、眠りの手前で急に鮮やかさを取り戻して、喉元へせり上がってくる。

 

目を開いた。

 

暗い。

 

小田井の夜だ。聞こえるのは遠い見回りの足音と、どこかで鳴る虫の声だけ。もう戦場ではない。雨も降っていない。ここは城の中で、俺は生きて帰ってきた。そう分かっているのに、身体の方が納得しない。

 

息が浅い。

 

胸の奥がざわつく。

 

まぶたを閉じると、義元の顔が出る。

 

討たれる直前の、あの透き通った目。

 

恨みでも、恐怖でもなかった。少なくとも、それだけではなかった。敗北を呑み込み、最後まで自分を高みに置こうとする目だった。その目を見たまま、俺は手を合わせて、「御免」と言って、首を落とした。

 

人を斬るのと、首を落とすのは違う。

 

戦場では、そこまで考えなかった。考えれば止まるからだ。止まれば死ぬし、周りも死ぬ。だから、やった。

 

やったのだ。

 

俺は寝返りを打った。

 

喉が渇く。だが水を飲みに起きる気にもなれない。身体の芯に、妙な冷えが残っている。熱があるわけではない。ただ、内側だけが冷えているような感じだった。

 

十五年。

 

この世界で十五年生きた。

 

こちらでは幼い頃から刀も槍も見てきた。人が斬られる話も、討死の話も、首級の話も聞いてきた。織田藤左衛門家の武士の子として育った以上、それが遠い世界のことではないのも知っていた。

 

けれど、それでもなお、どこかで線を引いていたのだと思う。

 

人が死ぬのを見ること。

 

人を殺したと語られる人を見ること。

 

その向こうに、自分が立つこと。

 

その線を、今日、自分で越えた。

 

俺は人を殺した。

 

それも一人や二人ではない。乱戦の中で斬った者たちの顔は、もう曖昧だ。だが、今川治部大輔の顔だけははっきり残っている。東海一の弓取り今川治部大輔義元。天下を狙った大大名。その首を、自分の手で落とした。

 

吐き気とまではいかない。そこまで身体は拒んでいない。だが、胸の奥がぐちゃぐちゃに掻き回されるような気持ち悪さがある。

 

これが武功だ。

 

これが名を立てるということだ。

 

これが、戦国を生きるということだ。

 

理屈は分かる。

 

分かるが、納得はまだ追いつかない。

 

「……太郎左衛門」

 

不意に、声がした。

 

跳ねるように半身を起こすと、障子の向こうに灯りがあった。いつの間にか、部屋の前に人が来ていたらしい。

 

「母上……?」

「入ってもよろしいですか」

「はい」

 

声が少し掠れた。

 

障子が静かに開き、母上が小さな灯明を手に入って来た。寝間着の上に薄い羽織を重ねている。こんな夜更けに寝所を離れるつもりはなかったのだろう。だが、起きてしまったのか、あるいは最初から眠れていなかったのかもしれない。

 

母上は俺の顔を見るなり、何も言わずに少し眉を寄せた。

 

「お休みになれていなかったのですね」

 

俺は返事に詰まった。

 

「……少し」

 

少し、ではない。だがそう言うしかなかった。

 

母上は寝所の端へ座り、灯明を脇へ置いた。部屋の中に、柔らかい光が広がる。昼間の勝報や歓声とは違う、ごく小さな世界だった。

 

「夢を見ましたか」

「夢、というより……」

 

言いかけて、やめた。

 

どう言えばいいのか分からない。

 

首を落とした感触が消えない。義元の顔が残る。自分が人を殺したという事実が、夜になって急に重くなる。そんなことを、母上にどう説明すればよいのか、一瞬迷った。

 

だが、母上は黙って待っていた。

 

俺は息を吐いた。

 

「……人を斬ったことは、頭では分かっておりました」

 

母上は何も言わない。

 

「武士の家に生まれた以上、そういう日が来ることも」

 

そこで喉が詰まった。

 

「ですが、今日、初めて……自分の手で、武器を振るい、人を殺しました」

 

言ってしまうと、妙に乾いた響きがあった。

 

人を殺しました。

 

それは事実だ。だが、口にすると、事実である分だけ余計に重かった。

 

「戦の最中は止まれませぬ。止まればこちらが死にます。周りも死にます。だから……やれました」

 

母上の目が少しだけ細くなる。責めているのではない。続きを聞こうとしているだけだ。

 

「けれど、いざ床に入ると、手の感触が戻って参ります。死に臨み、それでも泰然とした義元公の顔も。自分でかのお方の首を落としたことも。……あれだけのことをしておきながら、今更このように思うのは、武士として情けないのではないかと」

 

言い切って、視線を落とした。

しばし沈黙があった。

 

母上は、すぐには答えなかった。

急いで慰めるのではなく、俺の言葉が部屋に落ち切るのを待っているようだった。

やがて、静かに口を開く。

 

「情けなくはありませぬ」

 

思いのほか、きっぱりした声だった。

俺は顔を上げた。

 

母上は灯りの向こうで、まっすぐこちらを見ていた。

 

「太郎左衛門。そなたは今日、武士として正しいことをしました」

 

その言葉に、胸のどこかが少しだけ強張る。

母上は続けた。

 

「戦の場において、躊躇って味方を危うくする方が、よほど大きな誤りです。討つべき時に討ち、首級を取り、証を立て、家のためにも己のためにも働いた。それは紛れもなく、武士としての務めでした」

 

そこまでは、父上でも言うだろう。

だが母上は、そこで終わらなかった。

 

「けれど」

 

その一言で、声の温度が変わった。

 

「だからといって、人を殺めたことを何とも思わぬ方がよい、ということにはなりませぬ」

 

俺は黙った。

 

「胸がざわつくのでしょう。眠りに落ちかけると、感触が戻るのでしょう。自分のしたことの重さに、心が追いつかぬのでしょう」

 

一つ一つ、言い当てられる。

 

「それは、人としては正しいことです」

 

人としては正しい。

その言い方が、胸の奥へすとんと落ちた。

 

母上は言う。

 

「武士は、人を斬ることを務めの一つとして負います。ですが、人を斬ることに慣れ切り、何も感じぬようになれば、それは強いのではなく、どこかが欠けたのでしょう」

 

灯明の火が小さく揺れた。

 

「暴力も、殺しも、この世には確かにございます。武家に生まれれば、それを避けきれぬこともある。ですが、それでも人の世です。人が人を傷つけることに、何の境目もなくなってよいはずがありませぬ」

 

その言葉は、優しいだけではなかった。

柔らかいが、芯があった。

 

俺は、ゆっくり息を吐いた。

 

「……ですが、母上。そう思い続けていては、次の戦で鈍るのでは」

「鈍ってよいところと、鈍ってはならぬところがございます」

 

母上は即座に返した。

 

「戦場では、鈍ってはなりませぬ。ためらえば死にます。ですから、その時は武士として立ちなさい」

 

それから、ほんの少しだけ目を和らげた。

 

「けれど、戦場を離れた後まで、何も感じぬふりをする必要はありませぬ」

 

その区切り方は、父上とは違う強さだった。

 

「そなたが今、眠れぬのは、弱いからではありませぬ。自分が人を殺めたことを、自分の中で誤魔化しておらぬからです」

 

俺は、膝の上の手を見た。

昼のうちに洗い流したはずなのに、まだ血の感触が残っている気がした。

 

「……誤魔化さぬまま、生きていけますか」

 

自分でも、妙なことを聞いたと思った。

だが母上は笑わなかった。

 

「生きていかねばなりませぬ」

 

静かな答えだった。

 

「そなたはもう、今日のことをなかったことには出来ませぬ。ならば、忘れたふりをするのではなく、抱えて進むのです」

 

抱えて進む。

簡単ではない。だが、捨てて進むよりは、たしかにましに思えた。

 

「人を斬ったことを何とも思わぬ者になるより、人を斬ったことの重さを知りながら、それでも必要な時には立てる者になりなさい」

 

母上はそう言って、そっと俺の頭へ手を置いた。

子供扱いするような手つきではなかった。

今日、戦から戻った息子に触れる手だった。

 

「それが、武士としても、人としても、よい在り方ではありませぬか」

 

気付けば、肩の力が少し抜けていた。

 

完全に楽にはならない。今夜がこれで安らかになるとも限らない。義元の顔も、首を落とした感触も、簡単には消えないだろう。

 

だが、それでもいいのかもしれないと思えた。

消えぬなら、消えぬまま持っていけばいい。

感じることまで捨てる必要はない。

 

「……母上」

「はい」

「ありがとうございます」

 

それしか言えなかった。

 

母上は小さく微笑んだ。

 

「明日になってもまだ胸がざわつくようなら、朝餉の前に湯を持たせましょう。少し温まれば、気も違います」

 

そこだけ急に、いつもの母親だった。

俺は、ほんの少しだけ笑った。

 

「はっ」

 

母上はそれを見て、ようやく安心したように頷いた。

立ち上がり、障子の前で一度だけ振り返る。

 

「太郎左衛門」

「はい」

「人を斬ったことを、軽く思わぬでよいのです」

 

その声は、夜の静けさの中でやけにはっきり響いた。

 

「軽く思わぬまま、それでも立つのです」

 

障子が静かに閉まる。

部屋に残ったのは、小さな灯りと、虫の声と、自分の呼吸だけだった。

 

俺は再び横になった。

目を閉じれば、まだ雨の匂いも、血の匂いも戻ってくる。義元の顔も消えない。

けれどさっきまでとは少しだけ違った。

 

あれは消すべきものではなく、抱えるべきものなのだと、そう思えるだけの言葉を貰ったからだ。

武士として、討つべき時には討つ。

だが、人として、その重さまで捨てない。

 

この世は、暴力や殺しへの境界が低い。低いまま、皆がそれを当たり前として生きている。だが、それでもなお、人の世なのだ。

 

そのことを忘れぬまま、この先を行けるか。

それがきっと、治部大輔信繁として試されることの一つなのだろう。

 

今度こそ、少しだけゆっくりと息を吐いた。

眠りはまだ浅いだろう。

それでも、さっきよりはましだった。

 

 

翌朝、目が覚めた時、眠った気はあまりしなかった。

 

まるで一晩中、浅瀬を漂っていただけのような心地だった。夢を見たのかどうかも曖昧だ。ただ、身体の芯に残る重さと、目の奥にこびりついた鈍い疲れだけが、きちんと夜を越えた証になっている。

 

それでも起きねばならない。

 

戦の翌日であろうと、首級を挙げた翌日であろうと、朝は来る。城の中では人が動き、飯は炊かれ、報せは飛び、家中の目もまたこちらへ向く。

 

俺は顔を洗い、身支度を整えた。

 

鏡代わりの水面に映る自分の顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。いや、そう見えるだけかもしれない。眠れていないせいで、頬の線が落ちているだけとも言える。

 

ともあれ、治部大輔信繁として見られる以上、いつまでも寝所に籠もっているわけにはいかなかった。

 

廊へ出ると、朝の空気は思いのほか澄んでいた。

 

昨日の雨が嘘のように空が高い。庭の葉先に残った雫だけが、桶狭間からの続きのように見える。

 

そのまま角を曲がったところで、父上――左兵衛佐信張がいた。

 

まるで待っていたわけではない、という顔で立っている。だが、ああいうところに居られる時点で、半分は待っていたようなものだ。

 

俺はすぐに一礼した。

 

「父上」

 

父上は短く頷いた。

 

「起きたか」

「はっ」

 

それだけのやり取りの後、父上は俺の顔をじっと見た。

 

長くはない。

だが、ひと目で十分なのだろう。

 

「眠れなんだか」

 

問いの形はしていたが、半分は確認だった。

 

俺は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく頭を下げた。

 

「……あまり」

 

父上は鼻を鳴らした。

 

予想通りだ、とでも言いたげな気配だった。

 

「母上が行かれたな」

「はい」

「そうであろうと思った」

 

父上はそこで、それ以上は聞かなかった。

 

何を見たのか。何を思ったのか。今川治部大輔の顔が残るのか。首を落とした感触が戻るのか。そういうことを、父上は一つも問わない。

 

だが問わぬからこそ、分かっているのだと知れた。

 

父上は、廊の外の庭を見たまま言う。

 

「初陣で人を斬り、大将首まで取れば、まあそうなる」

 

あまりにあっさりしていて、かえって返す言葉がなかった。

 

父上は続ける。

 

「わしも初めから平然としておったわけではない。人を斬れば、手に残る。首を取れば、なお残る」

 

その言葉には、妙な飾りがなかった。

 

慰めでも、説教でもない。ただ事実として言っているだけだ。

 

「慣れよ、とは言わぬ」

 

俺は少しだけ目を上げた。

 

父上は、まだ庭を見ている。

 

「何とも思わぬようになれ、とはなおさら言わぬ。だが」

 

そこで、ようやくこちらへ顔を向けた。

 

「それで次に立てぬようでは困る」

 

まっすぐだった。

 

厳しい。だが、父上らしい。

 

「戦の外で重く思うのはよい。夜、眠れぬのもよい。胸がざわつくのも、まあ仕方あるまい」

 

父上はそこで一拍置いた。

 

「されど、次に槍が向いてきた時、そこで手が鈍れば、お前が死ぬ。隣の者も死ぬ。家も損をする」

 

それは母上とは違う言い方だった。

 

母上は、人として正しいと支えた。

父上は、その上で、それでも立てと言う。

 

どちらが正しい、ではない。両方必要なのだと分かる。

 

「太郎左衛門、いや、治部大輔」

「はっ」

「昨日、お前は一つ越えた。ならば、次に越える時も来る」

 

朝の光の下で見る父上の顔は、昨夜よりもずっと当主のものに近かった。

 

「そのたび揺れるであろう。怖じることもあろう。だが、その都度、越えねばならぬ」

 

そして、ほんのわずかに目を細めた。

 

「越えるたびに、少しずつお前の中に残るものもあろう。残れ。残ったままでよい」

 

意外だった。

 

父上はもっと、削ぎ落とせと言うかと思っていた。

 

「残ったままでも、前へ出られる者になれ」

 

その言葉は、母上のそれと不思議なほど遠くなかった。

ただ、置いている力点が違うだけだ。

 

俺は深く頭を下げた。

 

「肝に銘じます」

 

父上は頷いた。

 

それから、いかにも今思い出したような顔で言う。

 

「顔色は悪いが、背は曲がっておらぬな」

 

少しだけ、口元が緩む。

 

「ならば、まだ大丈夫だ」

 

思わず、息が抜けた。

笑うほどではない。だが、肩の奥に入っていた余計な力が少し落ちる。

 

父上はそれを見て、わずかに鼻を鳴らした。

 

「朝餉は食え。食わねば身体が持たぬ」

「はい」

 

「治部大輔だ何だと、周りは今日から騒ぐであろう。だが、お前自身は浮かれるな。昨日眠れなんだ顔でちょうどよい。首一つで終わりではないと、身に染みておる証だからな」

 

そこまで言ってから、父上は最後に短く言い切った。

 

「よいか。重いと思うなとは言わぬ。だが、その重さごと持って、次で立て」

 

俺は、もう一度だけ深く頭を下げた。

 

「はっ」

 

父上はそれ以上何も言わず、廊を歩いて行った。

残された朝の空気は冷たかったが、不思議と昨夜ほど息苦しくはなかった。

 

母上は、軽く思わぬでよいと言った。

父上は、その重さごと立てと言った。

どちらも、俺を甘やかしているわけではない。どちらも、この先も生きろと言っている。

 

俺は庭へ目をやった。

雨の名残は、もう葉の先に少し残るばかりだった。

 

それでも桶狭間はまだ、自分の中にある。

あるならあるまま、持って行くしかない。

 

俺は一つ息を吐き、朝餉の間へ向かって歩き出した。

治部大輔信繁としての朝が、そこでようやく本当に始まった。

 

 

 

 

 

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