ハイスクール・フリート Cross World War   作:冬吉

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第88話 覚めあらぬ不安と行方

**2026年5月2日 午前5時00分**

**海上自衛隊 横須賀基地・吉倉桟橋**

 

夜明け前の東京湾は、深く冷たい群青色の霧に包まれていた。

空にはまだ薄ぼんやりと星が瞬き、海面からは真冬のような底冷えのする潮風が吹き付けてくる。しかし、横須賀基地が眠りにつくことはなかった。

 

無数のオレンジ色の投光器が、海面に浮かぶ巨大な鋼鉄の群れを不夜城のように照らし出している。

昨日、八丈島東方沖から帰投した海上自衛隊の護衛艦群、そして東京湾の入り口に睨みを効かせるアメリカ海軍第7艦隊のイージス艦たち。その圧倒的な武力の中心に、異世界からやってきた純白と漆黒の三胴船『みくら』と『べんてん』、そして小さな陽炎型駆逐艦『晴風』が、まるで巨大な檻に囚われた鳥のように係留されていた。

 

『晴風』の前甲板。

冷たい手すりを強く握りしめ、身動き一つせずに海を見つめている少女の背中があった。

副長の**宗谷ましろ**である。

 

彼女の視線の先、数本先の桟橋には、無惨にひしゃげた左舷後部を剥き出しにし、重々しい足場が組まれた護衛艦『さわぎり』の姿があった。

早朝にもかかわらず、防護服を着た自衛隊の技術者や造船所の作業員たちが群がり、金属の切断音と火花を散らしながら、徹夜でダメージコントロール(応急修理)と現場検証を続けている。

その痛々しい傷跡と、焦げた鉄の臭いが風に乗って運ばれてくるたび、ましろの胸は鋭い刃で抉られるように痛んだ。

 

「……シロちゃん。冷えるよ」

 

背後から、温かいブランケットがそっと肩に掛けられた。

振り返ると、マグカップを二つ持った艦長の岬明乃(ミケ)が、心配そうな笑顔を浮かべて立っていた。

 

「……艦長。すまない」

「ううん。私も、全然眠れなくて」

 

明乃はましろの隣に並び、手すりに寄りかかって熱いココアの入ったマグカップを渡した。受け取ったましろの手は、氷のように冷え切っていた。

 

「真冬姉さんたちは……今頃どうしているだろうか」

ましろは、マグカップの温もりを両手で包み込みながら、ぽつりと漏らした。

「冷たい独房で、自分たちの犯した罪の重さに震えているのだろうか。……私たちがもっと早く駆けつけていれば。姉さんたちに、あんな思いをさせずに済んだのに」

 

「シロちゃんのお姉さんや、ブルーマーメイドのみんなは強いよ」

明乃は、まだ薄暗い空を見上げて静かに言った。

「ちゃんと自分のやったことと向き合って、逃げずに船を降りたじゃない。それに、この世界の人たちだって、お姉さんたちをいじめるために連れて行ったわけじゃないって、私は信じてる」

 

その時、甲板に置かれたタラップ(乗降階段)の方から、コツ、コツという重い足音が響いてきた。

 

「……岬さんの言う通りよ、宗谷さん」

 

夜霧の中から現れたのは、ヨレヨレになった白衣のポケットに両手を突っ込み、ひどく充血した目を擦っている特異事象研究者の**秋波**だった。その足元には、何本もの空の缶コーヒーが転がっている。

 

「秋波さん……。徹夜、ですか」

ましろが驚いて振り返る。

 

「えぇ。次元座標の特定から通信回線の維持、さらには向こうの世界(はいふり世界)の政府連中との事前調整で、私も内閣官房の刈谷も、一睡もしてない。……ブラック企業も真っ青の労働環境よ」

秋波は首をポキポキと鳴らしながら、二人の少女の前に立った。

 

「ブルーマーメイドの人達についてだけど。……心配しないで、冷たい独房になんてぶち込んでないわ。基地内の士官用宿泊施設で、最低限のプライバシーは守られた状態で拘束(保護)している。……今は疲れ果てて、泥のように眠っているはずよ」

 

その言葉に、ましろは深く、震えるような安堵の息を吐き出した。

 

「それから、もう一つ。……気にしてるだろうから教えておくわ」

秋波は、視線を『さわぎり』の方へと向け、真剣な声音に変わった。

 

「昨日の海戦で被弾した『さわぎり』の乗員たちだけど。……重傷を負って集中治療室に入っていた隊員たちの容態が、先ほど峠を越えたわ。命に別状はないそうよ。……死者は、ゼロ。」

 

「――っ!」

明乃とましろは、同時に弾かれたように顔を上げた。ましろの大きな瞳から、せき止めていた涙がボロボロと溢れ出した。

 

「本当……ですか。誰も……死なずに……」

「えぇ。自衛隊の衛生部隊と、アメリカ第7艦隊の医療チームが、文字通り死に物狂いで命を繋ぎ止めたのよ。……貴方たちの仲間は、殺人者にならずに済んだわ」

 

ましろは、その場にへたり込みそうになるのを必死に堪え、顔を覆って声を殺して泣いた。明乃もまた、涙ぐみながらましろの背中を何度も、何度も撫でた。

最悪の事態は免れた。その事実だけで、彼女たちの背負っていた重圧の半分が救われたような気がした。

 

「……だけど、喜んでばかりもいられないわ」

秋波は、海風に白衣をなびかせながら、東の空を指差した。

 

「太陽が昇れば、いよいよ『本番』。……私達の世界の政府(高瀬総理たち)と、貴方達の世界の政府。そして、ブルーマーメイドの中央機構による、前代未聞の『次元間・外交協議』が始まるわ」

 

空の端が、微かに白み始めていた。

群青色だった世界が、徐々に紫色から薄紅色へと染まり、海面の波頭が光を反射してキラキラと輝き出す。

 

「向こう(はいふり世界)の人達は、自分たちの部下がやらかした大不祥事と、こちらの世界の『武力の現実』を突きつけられて、大パニックに陥りながらも必死に交渉のテーブルを組み立ててきているわ。」

 

秋波は、明乃とましろの顔を真っ直ぐに見据えた。

 

「これから始まるのは、ミサイルや魚雷を使ったドンパチじゃない。言葉と法律、そして互いの『歴史の重み』をぶつけ合う、責任を負う者同士の果てしない戦争(外交)よ。」

 

明乃は、ココアのマグカップを両手でしっかりと握り直し、ましろと顔を見合わせた。

ましろの瞳には、まだ涙の跡が残っていたが、その表情にはかつてのブルーマーメイドを目指す者としての、そして晴風の副長としての強い意志が戻っていた。

 

三浦半島の稜線の向こうから、眩い朝陽がゆっくりと顔を出した。

黄金色の光が、無骨な灰色のイージス艦たちを、そして傷ついた『さわぎり』と、異世界の船たちを平等に照らし出していく。

 

**2026年5月2日 午前6時00分**

**海上自衛隊 横須賀基地・幹部用宿泊棟(一時拘束施設)**

 

冷たいコンクリートの独房ではなく、最低限の家具が揃えられた清潔な宿泊室。

しかし、ドアの外には24時間体制で警務官(MP)が立哨しており、窓ガラスには頑丈な鉄格子が嵌められていた。そこが彼女たちにとっての「檻」であることを、静かに、しかし冷酷に物語っている。

 

東の空から差し込む朝陽が、部屋の中を薄明るく照らし出し始めていた。

 

「……夜が、明けたな」

 

漆黒のマントを外し、椅子に深く腰掛けていた『べんてん』艦長・**宗谷真冬**は、充血した目で鉄格子の向こうの空を見つめていた。

一睡もできなかった。まぶたを閉じれば、自らが放った噴進魚雷が、無抵抗の灰色の艦(さわぎり)の装甲を吹き飛ばし、黒煙を上げる映像がフラッシュバックして、呼吸が浅くなるからだ。

 

「ええ……。長い、長すぎる一日だったわ」

 

向かいのベッドの縁に座っていた『みくら』の**福内艦長**が、重い溜息をつきながら前髪を掻き上げた。彼女の制服もシワだらけで、かつての優雅なブルーマーメイド幹部としての面影はない。

 

別室に収容されている平賀、寒川、志度たち他の乗員たちも、今は極度の精神的疲労から泥のように眠っているか、あるいは真冬たちと同じように、暗い部屋で自責の念に押し潰されながら朝を迎えているはずだった。

 

「……情けない話だ」

真冬は、自嘲気味に笑い、両手で顔を覆った。

 

「私たちを捕らえたこの世界の大人たちは、私たちが想像していたような『野蛮な軍隊』じゃなかった。……昨夜、取調べの後に温かい食事(海自のカレー)と、毛布まで支給された。傷ついた相手に、どうしてあんなに優しくできるんだ。……いっそ、銃で殴りつけられ、罵倒された方が、どれほど心が救われたか」

 

「真冬さん……」

 

「相手は、本物の戦争を知っている『防人』だった。それに比べて私たちは……未知の恐怖に耐えきれず、パニックを起こして引き金を引いた、ただの臆病者だ。……ブルーマーメイドの誇りなんて、最初から私たちには無かったのかもしれない」

 

海を護るプロフェッショナルとしての強烈な自負。それが、自分たちの浅はかな行動によって完全に打ち砕かれた喪失感は、真冬たちの心を深く抉っていた。

 

その時、コンコン、と重いノックの音が響き、ガチャリとドアが開いた。

 

入ってきたのは、昨夜から彼女たちの監視と世話を担当している、女性の海上自衛隊警務官だった。その手には、温かいお茶と、簡単な朝食が乗ったトレイが握られている。

 

真冬と福内は、反射的に立ち上がり、背筋を伸ばして緊張の面持ちを浮かべた。

 

「……おはようございます。食事をお持ちしました。……それと、お二人に、お伝えしておくべき報告があります」

 

女性警務官はトレイを机の上に置くと、真冬たちの目を真っ直ぐに見据えた。

その表情は硬く、公務員としての厳格さを保っていたが、声のトーンは昨夜の厳しい取調べの時よりは、ほんの少しだけ柔らかかった。

 

「昨日の海戦で被弾した、護衛艦『さわぎり』の負傷者についてです。……重傷を負い、集中治療室で治療を続けていた隊員たちですが……先ほど、全員が峠を越えました」

 

真冬の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。

 

「命に別状はありません。……死者は、ゼロです」

 

「――っ!!」

 

その瞬間。

真冬と福内の両目から、せき止めていたものが一気に決壊し、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 

「ああっ……! よかった……本当によかった……っ!!」

福内は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら嗚咽を漏らした。

 

「死者は、ゼロ……誰も、死ななかった……」

真冬は、震える両手で机の角を強く握りしめ、ポタポタと涙をこぼしながら、深く、深く頭を下げた。

 

自分たちは、殺人者にならずに済んだ。

異世界の同胞から命を奪い、取り返しのつかない戦争の火種を作るという、最悪の罪だけは免れたのだ。

それは彼女たち自身の力ではなく、被弾しながらも反撃の刃を収め、必死に命を繋ぎ止めてくれた、この世界の自衛隊員たちと医療チームの血のにじむような努力のおかげだった。

 

「……感謝します。私たちを、私たちらの愚かな過ちを……最悪の結末から救ってくださって、本当に、本当にありがとうございます……ッ!」

 

真冬は、警務官に向かって、海に生きる者としての最上級の敬意と、深い贖罪の念を込めて、深く頭を下げ続けた。福内もそれに続く。

 

警務官は、大人の女性たちが声を殺して泣き崩れる姿を静かに見つめた後、小さく息を吐いた。

 

「……自衛隊の医療部隊と、アメリカ軍の支援の賜物です。……しかし、死者が出なかったからといって、貴女たちが犯した『先制攻撃』という重大な国際的違反行為が帳消しになるわけではありません。そのことは、プロである貴女たちが一番よく分かっているはずです」

 

「……はい。分かっています」

真冬は、涙を袖で乱暴に拭い、顔を上げた。

その瞳には、昨夜の絶望に沈んでいた色とは違う、確かな「覚悟」の光が宿っていた。

 

「ブルーマーメイドの全乗員は、いかなる処罰も受け入れます。この世界の法律で裁かれることも、相手国への賠償も……私たちが背負うべき責任の全てから、もう絶対に逃げません」

 

「……その覚悟があるなら、結構です」

警務官は頷き、ドアの方へ振り返りざまに告げた。

 

「間もなく、日米の政府高官と、貴女たちの世界の『中央機構』による、異例の外交協議が始まります。……貴女たち二人には、当事者として、そして向こうの世界の大人として、その協議の場に同席してもらいます。……身支度を整えておいてください」

 

ドアが閉まり、再び部屋に二人きりになる。

 

真冬は、鉄格子の向こう、完全に夜が明け、眩しい朝陽に照らされた2026年の横須賀の海を見つめた。

そこに並ぶのは、自分たちを力でねじ伏せた巨大な灰色の艦隊たち。しかし今、真冬の目に映るその姿は、恐怖の象徴ではなく、過酷な世界で平和を護り抜こうとする「鋼鉄の理性」の象徴に見えた。

 

「……福内艦長。他の皆にも伝えてくれ」

真冬は、漆黒のマントを再び肩に羽織り、前を向いた。

 

「私たちはここで、この世界の人達から『本当の強さ』と『責任』を学ぶんだ。……ブルーマーメイドの誇りを、一から取り戻すために」

 

過ちを悔い、涙を流した大人の女性たちは、二つの世界の命運を決める「外交の戦場」へと赴くため、静かに、しかし確かな足取りで立ち上がった。

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