機動戦士ガンダム ハマーン様、恋をする 14歳の少女が、愛したクズ男に捨てられて、最強の女帝に覚醒するまでの4年間。 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
アクシズを包む静寂は、明日には永遠の断絶へと変わる。
地球圏への本格的な帰還。それは私が「クワトロ・バジーナ」という名の偽りの器を完成させ、彼女が「アクシズの摂政」という呪われた偶像を完成させるための、最後の手続きに過ぎなかった。
居住区のテラス、人工的な微風が通り抜ける暗がりで、私は一人、遠い地球を想っていた。
そこに彼女が現れたのは、必然だった。
17歳のハマーン。
銀色のマニキュアを施した彼女の指先が、テラスの手すりを硬く握り締めている。その爪は、以前よりも鋭く、そしてどこか悲痛な煌めきを湛えていた。
「……最後なのね。シャア。いえ、キャスバル」
彼女の声が、静寂に波紋を広げる。
視線が、交差する。
彼女の瞳は、激しい憎悪と、剥き出しの愛着が混ざり合い、壊れそうなほどに潤んでいた。
「ああ。私は明日、この場所を去る。君が作り上げたこの『ジオン』という名の聖域を、外側から壊しに行くためにな」
「……どこまでも残酷な人。貴方は私に力を与え、玉座を与え、そして最後に、絶望という名の自由を押し付けるのね」
彼女が、一歩ずつ私に近づいてくる。
彼女が纏う香水の匂いが、アクシズの無機質な空気の中で、不自然なほど甘く、そして毒のように私の肺を焼いた。
彼女の指先が、私の胸元に触れる。
震えている。
それは模擬戦でレバーを握っていた時の殺意ではなく、ただの少女が、行かないでと縋り付くための、ひどく柔らかな震え。
「シャア。一度でいい。私を見て。……ララァでもなく、ミネバ様の母でもなく、ジオンの象徴でもない。ただの、私を」
彼女の顔が、私の至近距離に迫る。
ニュータイプとしての共鳴が、意図せず私たちの意識を、逃げ場のない「夕暮れの放課後」へと引きずり込んだ。
無人の教室。オレンジ色の西日が差し込み、埃が舞う。
そこで彼女は、私のシャツの裾を掴み、泣き出しそうな顔で私を見上げている。
だが。
私の瞳に映っているのは、目の前の少女の涙ではなかった。
彼女の背後に広がる、宇宙の深淵。
人類が真に革新し、重力から解き放たれるための、冷徹で美しい理論の極致。
「(……ああ。私は、どこまでいっても運のない男なのだよ、ハマーン)」
私は彼女の細い顎を掬い上げた。
銀色の爪が私の腕に食い込む。
私たちは、最初で最後の、嘘のない口づけを交わした。
それは愛の告白などではなく、互いの魂を噛みちぎり、二度と繋がれないことを確認するための、訣別の儀式。
彼女の唇は驚くほど温かかった。
けれど、私の心は、絶対零度の宇宙を漂う隕石のように冷え切っていた。
口づけの最中、私は目を開けていた。
彼女の瞳の奥に、私は「ララァ・スン」を探そうとしなかった。
代わりに見ていたのは、彼女の瞳が反射する、冷たく光るアクシズの灯り。
そして、その先にある、果てしない人類の業(カルマ)だけだった。
「……っ」
彼女が、弾かれたように身を引いた。
彼女は、気づいたのだ。
私の瞳の中に、彼女の居場所がミリ単位も残されていないことに。
私が彼女を抱いたのは、彼女を愛したからではなく、彼女を「完璧に突き放す」ために、彼女の熱を最後に確認しただけだということに。
「……最低だわ。貴方の瞳には、私なんて最初から映っていなかった。貴方が見ているのは、いつだって自分一人だけの『革新』……ただの、冷たい宇宙のゴミだわ!」
彼女の指先が、私の頬を打った。
銀色の爪が、私の皮膚を浅く裂く。
その痛みさえも、私はどこか遠くの出来事のように感じていた。
「さらばだ、ハマーン。君が私を憎むことで、アクシズが一つになれるなら……私の役割も、果たせたということだ」
「……地獄へ落ちなさい、シャア・アズナブル。私は絶対に、貴方を許さない。貴方が愛したこの宇宙を、私が全て、ジオンの赤で塗り潰してあげるわ!」
彼女は背を向け、暗闇の中へと消えていった。
テラスに残されたのは、彼女が残した香水の残り香と、私の頬を伝う一筋の血だけ。
宇宙世紀0087。
帰還の前夜。
私たちは、最も深い場所で触れ合い、そして永久に決別した。
私は、銀色の爪がつけた傷跡をなぞりながら、独り、暗黒の宇宙を見つめ続けた。
そこにはもう、真珠色の恋心も、銀色の執着も届かない。
ただ、冷徹な星々の瞬きだけが、私の行く先を照らしていた。